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【議論】武士道

1naribanana:2002/08/26(月) 11:22
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
          (山本常朝『葉隠』より)

23オトコ命:2002/09/03(火) 23:23
>>21
おいどんも、かーなーり津々♪

24名無しさんは権之助坂がお好き:2002/09/04(水) 08:35
突然ですが>>21です。
私の家庭に興味をもってしまたようなので言いますと、
私は養子ではないのですが「マスオさん」なのですよ。
妻の両親とは同居はしておりませんが、いわゆる「スープの冷めない距離」に
実家がありまして(私の実家は本州の北の方、しかも貧乏農家)今、住んでいる
家も妻の実家にかなり援助していただき(私の両親はなにもしてない)
必然的に私は妻の両親に頭が上がらず、今では妻にもはむかえず、
ただジーと時が来るのを待っているのです。
妻の両親はまだまだ元気なんだよな〜
このままだと私の方が先に逝くかも…

25ぱかせ:2002/09/05(木) 09:11
狂言師、和泉元●の母親が、
「わたくしもあと20,30年で逝くと思われます」
と言ってました。
羽野なんたらでなくとも「オイオイ」と言いたい気分であります。

26名無しさんは権之助坂がお好き:2002/09/06(金) 18:15
このスレ ちょっと変

27ぱかせ:2002/09/10(火) 22:05
どうぞもとの「武士道」にもどしてください。
失礼しました。
→24,25がらみは「命日」スレにでも移行ということでいかがでしょう。
 チーン!

28名無しさんは権之助坂がお好き:2002/09/11(水) 23:38
今日の買い物
『武士道』新渡戸稲造 岩波文庫 200円
読んでないけど、ザーと見た印象。
適切な引用が多いみたい
頁は薄いわりに内容は濃いのかな

29名無しさんは権之助坂がお好き:2002/10/04(金) 13:50
昨日ブックオフで
『士(サムライ)の思想』笠谷和比古 日本経済新聞社
を100円で買った。

マダ読んでない

30naribanana:2002/10/04(金) 20:59
笠谷和比古 っていつもどこかで見かける人だ。
武士系の。
(ここ議論スレにする?)

この間東武スパリゾートの憩い室で、「人間交差点」という漫画を読む。
裏にはブックオフの100円のシール。
しかし それにひとり涙する我。

31名無しさんは権之助坂がお好き:2002/10/04(金) 22:45
笠谷和比古プロフィール
http://www.nichibun.ac.jp/research/staff1/kasaya_kazuhiko.html
講演も聴けるみたい
http://www.nichibun.ac.jp/event/library.html

100円のシールの話可笑しいかった。
東武スパリゾートは高い所だよね。
はがし忘れたのかな

32名無しさんは権之助坂がお好き:2002/10/07(月) 23:34
一年まえに『弘道館述義』買ったまま読んでいない。
naribananaさんの祖先は読まれていたのでしょうね。

33naribanana:2002/10/08(火) 22:35
>>31
このページ良い!!
とっても勉強になります。
でも、ズーとしゃべってるんだったら、動画じゃなくて、音声と静止画だけでもいいんだけどな。

>>32
う〜んどだろ。
でも、藤田東湖と同じ時期の水戸藩なのでとっても可能性は高いと思います。
お墓も同じだし。
この間、たまたまバイトで水戸に行ったことがあって、生まれて初めて単独でうちのお墓に行きました。
墓参り自体子供のとき以来だったし、いつもは親に連れられていたけれども、
一人で行くととても精神的なものを感じました。
自分のルーツを実際に感じ取れるというか。
特に、今後の将来について悩んでいた時期でもあったので、なんかこの秋の墓参りって、ナイスエキスだったかもしれない。
水戸歴史博物館もまた然り。

34ぱかせ:2002/10/16(水) 19:33
ふえ〜、うちもばーちゃん系が水戸藩らしいです。
桜田門外の変に名前を残すほどではないでしょうが。
いまだに町名としてばーちゃん系の苗字があるです。
それで、その苗字ばかりのすごーく広い墓場にぽつねんとみすぼらしい墓石があって、戒名が「楽飲居士」と刻まれているそうな。
私はその方の直径かもネギ。

ぜひ一度、お酒を供えにうかがいたいです。
naribananaさん、ごいっしょします?

35名無しさんは権之助坂がお好き:2002/10/18(金) 04:25
先祖の足跡を辿りながら
自分を再発見するっていいですね。


武士道は個の完成を目指す思想だけど
江戸期の少なからずの武士や庶民が個の完成、
つまり個人の自立が出来ていた。
水戸藩や薩摩藩には多くの人材がいたけど、
やはり個人の自立が完成していたように見える。

だからこそ、維新という国の個の完成、
つまり国の自立も成功したといえるのではないだろうかモシカ

36名無しさんは権之助坂がお好き:2002/10/20(日) 04:00
クルト・ジンガー(Kult Shinger)著 鯖田豊之訳
『三種の神器』(原題 Mirror,Sword,and Jewel)
という日本文化を論じた本を読んでいたら武士道がでていた。
面白かったので今日から武士道について論じた章を転載する。
転載が終わるのはしばらく後と思う。

37貴族の型:2002/10/20(日) 04:05
成熟した文明社会では、どこでも、理想の人物像が
存在するようである。「理想像」は個々の階級やカス
ト、職業や信条に関係なく、民族全体にもっとも特徴
的で、もっとも尊敬に値する品格やたしなみをそなえ
る。この理想の胚珠は文化の春や初夏にあたる局面
に生まれる。秋の段階の間に理想像は意識され、輪
郭のはっきりした存在になり、最後に因習化されて硬
直する。この型の理想像に属するのはイギリスの「ジェ
ントルマン」、イタリアの「コルテジャーノ」、フランスの
「ジャンティヨーム」、古代ギリシャの「カロカガトス」、
古代ローマの「ヴィル・ホネストゥス」、中国の「君子」、
だった。日本では「サムライ」がこれに相当する。

これらの概念はいずれも、規則正しくはいえないが、
文明が部族生活段階から出発して約千年ほどもたった
ころに出現する。出現の時期は、文明が、古代王国、
聖職政治、都市の分立の諸局面を通過して、非宗教
的な世俗領土国家の段階に突入しようとするところに
あたる。それまでに、先祖の共同体の乏しく単純な階
級構成から、支配者像、戦士像、僧侶像、農民像、
職人像がつぎつぎと分化してきた。いずれの人物にも
一定の職能と特権、しきたりと決まりが付属した。ただし、
あくまで、すべてのひとに共通する広汎な社会道徳と
制度宗教の枠内においてだった。

新しい型の理想の人物像が出現するのは、この記念
碑的な社会構造が分解溶解し始めたときである。この
時代には、宗教と政治、芸術と文学、科学と経済とが
「信仰」ぞ時代には否定されていた自立を獲得しつつ
あった。そのかわり、相争う勢力の渦巻きにまきこま
れて、人間生活の統一は危機に瀕し、ばらばらな衝動
や向上心の欲求に抵抗できないほど弱くなっていた。

かつては騎士、僧侶、職人は、ひとつの職能を果たしさ
えすれば、社会有機体のなかで独自性を発揮できた。
ひとつの仕事に全人格をもってあたることが、要請され、
個人のすべての活動と態度は仕事によって規制されて
いた。新しい情勢下では、職能はもはや社会的宇宙の
なかでの位置づけを決める統合力を失ってしまった。
職能の地盤沈下の実例は、ドイツの場合がもっともあき
らかである。ドイツには厳密な意味での国民は存在しな
かった。人民は、実際には高度に専門化した個人の集
団によって代表され、専門家集団は独自の仕事の遂行
によって義務を果たしたが、専門家個人は、規制となる
中心像、意味深い姿勢、自己充足的な生活方法をもた
なかった。プロシアの軍人や役人は、はじめこうした中心
人物像の代用と思われたようだが、かれらの職能には
限界があり、階級による制約をうけた。とうていドイツ一
国内においてさえ普遍的な人物像になることはできなかっ
た。

しかし、イギリスのジェントルマン、中国の君子、古代ロー
マのヴィル・ホネストゥス、その他の成熟文明における
理想的人物像はまったく別の物だった。この型の理想
像のすべては、もともと、貴族の観念や態度から生まれ
はしたが、それを規範的存在にまでおしあげたのは、
貴族出身だとか、特別の職業だとかの事実ではなく、
個人としての性格や態度のすばらしさに基づいての
ものだった。

これらの人格規範を騎士的起源を認めるのは、中国
の場合でさえさして困難ではないがうまく混合したとき
に生まれる。あるいはまた、はっきりと規定はできない
が、古い時代の倫理的宗教的教えが、世俗的でもっと
も身近な規準に昇華したと思われる。「中庸」「親切」
「相手の身になる」などの特性があまねくいきわたると
きにも、騎士的起源の規範は国民的理想像になりうる。

こうして基準を体現する男(女)たちにたいしてこそ、シラー
「通常の資質は何を行いうるかによって評価されるが、高
貴なる資質は生まれつきそなわったものである」との言葉
があてはまる。善を構成するのは、仕事の遂行でも道徳
律の実現でもない。善は「あるがままの姿」でしか存在しえ
ない。

38貴族の型:2002/10/20(日) 04:06
別のひとは、ギリシャ神話の半神半人や巨人を思い起こし
ながら、原始的な生の統一を高次元の世界に実現し、より
広汎な範囲にわたって完成に到達するかもしれない。詩人
や予言者、哲学者、聖人、偉大な支配者は、自己のなかに
新しい生命の法則を見出し、新しい価値の尺を確立して、
最初の追随者の魂や、さらには範囲を広げて、民族の魂に、
神と人間についての新しい概念を吹き込むかもしれない。
かれらは民族精神の横糸ともいえる。

これらにたいして、イギリスのジェントルマン、中国の君子、
古代ローマのヴィル・ホネストゥス、イタリアのコルテジャー
ノは、縦糸を構成する。かれらは創造者でも、先達でも、革
命家でもない。国民は、かれらを通じて、社会の枠内で存
在すべき、優れた規範的基準として、役立つにふさわしい
と考えるものを表現する。社会の枠内におけるかれらの役
割、かれらの創造力ある天才との関係、共同体内によって
異なるであろう。多芸な趣味をもつイタリアのコルテジャーノ
と無頓着なイギリスのジェントルマンは、別の世界の住人で
ある。ジェントルマンは何事にも控え目で、遠慮しがちであること
を美徳や好みとする。しかし、これらの個々の特質は、共通
の背景と対比したときに鮮やかに映し出される。

こうしたやり方を、日本の騎士であるサムライと、武士道と
呼ばれるその掟に適用すれば、主題が長いので曖昧だった
議論の雲をきっと吹き払うことができると思う。しかし、まず
は、西洋人が、サムライと武士道の存在に接した奇妙な
方法についてふれておくことも無駄ではあるまい。

39武士道の発見:2002/10/22(火) 03:09
外国と国交を回復してから半世紀たっても、日本は、依然として、
西洋人には閉ざされた、窺い知ることのできない国だった。なかば
伝説のヴェールをまとい、近づきがたく、、異国風の芸術、古風な
慣習、商業的利益に惹かれた少数の外国人をまねきよせるだけ
だった。日本が第一級の政治的存在と認められるようになったの
は、一九〇四(明治三七)年から一九〇五年にかけて帝政ロシア
と戦い、決定的な勝利をおさめてからである。日本が西欧諸国の
運命を左右する力があることがわかると、あちらこちらでこの国の
真価を見定めようとする知的な努力がなされるようになった。この
苦い経験と反発の感情から、西洋の哲学者たちは日本を現実的、
客観的に見つめ出した。日露戦争に派遣されたある従軍記者は
つぎのように書いている。
「わたくしたちは、いやおうなしに、すべての国民のあらゆる行動を、
支配し操縦する精神力の存在を認めざるをえなかった。ひとつの
階級でなく、上層から下層にいたるまでの全国民が、世界の歴史
と伝説のなかでももっとも有名なものに列する、価値ある行為に
駆り立てられた。この力はいったい何なのか、どこからきたもの
なのか、何を意味するのか、わたくしたちは知りたい。この力の
存在はわたくしたちを羨望させ、熱狂させ、ほとんど当惑させる」。

この疑問にたいし、東西の文化に深い知識をもつ優れた文学者
新渡戸稲造博士が解答をあたえた。かれはサムライの出で、クェ
イカー教徒であり、のち国際連盟の重要な役員となった。数ある
著作や評論のうち、一八九九(明治三二)年に出版された最初の
著述のなかで、日本の武士の道徳的原理の掟たる「武士道」につ
いて、西洋人の注意を喚起した。新渡戸博士はこのなかで、武士
道を「日本の国を支配する道徳的な力」であるばかりでなく「日本
民族の道徳的本能の総合であり・・・・民族の血とともに、したがっ
て神道とともに育ってきた」とものべてる。この大袈裟なきめつけ方
はなかなか見事で、博士の説得力は非常に効を奏し、西洋の識者
はこぞってこの「武士道」を、かれらの礼賛する(あるいは軽蔑する)
日本人の生活や政治の共通の分母と信じるにいたった。

40武士道の発見:2002/10/22(火) 03:09
日英同盟の結ばれていた間、武士道の称賛すべき面が西洋人の
心に深く印象づけられたようである。しかし、第一次世界大戦後、
日本が極東で覇権を確立しようとする意図があきらかになり始め
ると、「武士道」を口にすることに気おくれを感じるようになり、嘲笑
を買うこともまれではなくなった。新渡戸博士のサムライ日本の美
徳の説明は、夢物語としてすてられてしまった。にもかかわらず、か
れの武士道論は、日本国民のあらゆる才能と欲望を説明するものと
して存在した。以後、日本人の行動や発見のすべてー天皇崇拝、領
土拡張政策、神道、「大和魂」その他一切をふくむーに武士道のラベ
ルがはられた。そのなかには、新渡戸博士が激しく忌み嫌い、敢然と
して反対した事柄さえ存在していた。

新渡戸博士は熱心な平和主義者、不屈の自由主義者で、かれが、陸
軍将校の国粋主義者たちと争ったことは広く知られている。ある種の
日本の国粋主義的な著作物や団体が、新渡戸の武士道を多少利用
したのはたしかである。この事実はフランスの社会思想家で、ドレフュー
ズを弁護した、ジョルジュ・ソレル(一八四七−一九二二)の『暴力論』
の運命を連想させる。ソレルの『暴力論』は、かれのつもりでは、プロ
レタリアート解放には武力が不可欠という点であった。しかし、かれの、
『暴力論』は、結果的には、プロレタリアートの祖国ソビエト連邦の公然
の敵であった、イタリアやドイツにおいて利用された。新渡戸博士は、
超愛国主義者たちの大袈裟な主張にたいしては何ら責任はない。かれ
の唯一の欠点は、正確な定義と歴史的感覚を必要とする問題を、奔放
な熱狂的態度のままで扱ったことだった。

41武士道の起源:2002/10/22(火) 03:15
せまい意味での辞書編集の場合をのぞけば、二〇世紀初頭以前に、
「武士道」なる用語はなかったというのは誤りである。「武士(もののふ)
の道」に関する権威ある書物は、徳川幕府が成立して数代をへた、今
から二百年まえの元禄時代に出現した。山鹿素行はきわめて影響力
の強い兵学学派の始祖だったが、赤穂の浪人の「四十七士」が生命を
投げ出して主君の仇を討ったとき、かれらの精神を鼓舞したのは、素
行の教えだったといわれている。また明治維新の指導者たちに感化を
あたえた吉田松陰は、素行の精神を受け継いでいた。山鹿素行は講
義録たる『士道』という著述を遺した。「士」は封建制下の家臣、「道」は
「踏むべき道」の意味で、規範、義務、または法(のり)〔中国の道と同義
で、ギリシャ神話のゼウスとその妻テミス(掟)の間に生まれた女神ディケ
(正義)のことを考えればよい〕を表す。

同じ著者による小論文に『武教小学』がありー題名は「サムライ」の「教え」
の「簡潔な」「学問」を意味する。「士道」「武教」「武道」(山鹿素行の弟子
大道寺友山の『武士道初心集』は権威あるまじめな著書である)と表現は
違っても武士道精神に変わりはない。

イギリスのジョージ・サムスン卿(一八八三ー一九六五)は武士道を
「実りのない議論に終わる難解な問題」といった。しかし、わたくしは、
あえて、他の道徳・政治思想史の主要問題以上にむづかしくはない
と考えたい。混乱が起こるのは用語が不注意に使用されたり、説明
や論議が感情に流れるからである。真相と書かれた言葉、歴史的事
実と宣伝家のつくりごとをはっきり識別すれば、武士道論はけっして
実りのないものでも、不可能なものでもない。

ところが、不幸なことに、ヨーロッパにおける日本学の創始者である
ホール・チェンバレン教授(一八五〇−一九三五)は、かれの注意
深い著作にはありえないような、軽率な記事を書いて、のちの研究者
たちを誤らせたように思われる。かれの著書『新しい宗教の発明』の
初版は一九二七(昭和二)年以降は『日本辞典』の付録になったが
(最後の版はかれの編ではない)、そこでかれはつぎのようにのべ
る。
「武士道は制度としても掟としてもいちども存在しなかった。武士道
に関する話は主として外国人向けのまったくのつくりごとだった。・・・
武士道という言葉は、一九〇〇年以前には、日本の辞書にも外国の
辞書にもでてこない・・・ケムプフェル、シーボルト、アーネスト・サトウ
などは、みなすばらしい日本通だったが、かれらのおびただしい著作
には、一度でさえ武士道に言及することはない。かれらが武士道に
ふれない理由はあれこれせんさくするまでもない。武士道は十年ほど
まえにはまだ知られていなかった」。

42武士道の起源:2002/10/22(火) 03:15
しかし、この記事はあまりにも舌足らずで、あまりにも余計すぎる。
武士道なる用語や存在が一九〇〇年まで知られていなかったとす
れば、武士道神話が明治の天皇制を支えるためにわざわざ新たに
でっちあげられ、利用されるはずはない。明治後期には、こうした技
巧的な支えはもはや必要でなかった。新渡戸博士に関していえば、
かれの自由な信念と交友関係はあまりに有名で、博士の名で書か
れた『武士道』の刊行を、政府や超愛国者にそそのかされた策謀と
みることはできない。

さらに、明治時代およびそれ以後の時代における愛国主義的文献
が、手にあまるサムライの道徳的遺産である武士道よりも、むしろ
別の倫理的原則に訴えがちだったことも十分に証明できる。国粋
主義団体の綱領がサムライ道徳にしばしば言及するようになったの
は、ずっと後のことである。けれども、海外向けの場合をのぞけば、
さして目立つほどでもなかった。逆説的ではあるが、日本の国粋主義
者の間では珍しくない、外国風の思考様式にたいする一種の反動に
すぎない。

姉崎正治教授のように、宣伝傾向のない日本の学者たちは、武士道
の起源を鎌倉時代およびひきつづく北条執権と足利将軍下の「動乱
の時代」にもとめる。このときに新しい武士階級が勃興して権力を握り、
長い努力ののち、軍事的領地を統一的封建国家の行政的、経済的な
単位とした。政治の中心地は、鎌倉におかれ、のち京都の室町にうつ
された。この新興階級は典型的な日本方式で、保守的でありながら革
命的、忠誠心とうらはらに謀反心をもつ二面性をそなえていた。かれら
を統率したのは天皇の血をひくと称するいくつかの名門で、それまでに、
これらの名門は中央からほど遠い地方で、一種の荘園経済に基礎を
おく半自治的組織をつくって、一門一家の堂々たる実力を蓄えていた。

新興の武士階級の起源は、中国から移入された中央集権的君主制が
衰えたときにさかのぼる。当時、荘園(不輸不入の半私有地)が各地に
出現しだしていたが、不安と不信に満ちた時代のこととて、荘園財産を
すすんでまもってくれる勇猛果敢な男たちが必要であった。こうして農民
階級、かつての地方名家、いかなる社会にもつきものの不平不満の向
こうみずの分子が、新興の武士の補給源となっていった。

これらの雑多な連中を、首都の名門の地方における分家の支配下に
統合するのは、容易なことではなかった、鎌倉幕府が問題解決の精神
的基礎を中国から日本仏教に移入された、新しい禅宗にもとめたには
大きな功績とすべきであろう。禅の極到は落ち着き、簡素、死をも恐れ
ない固い決意、全人的統一の神秘的実現にあり、幕府の選択はぴった
りだった。

新しい精神をはじめて成文化したものは、「遺誡」(精神的遺産)および
「家訓」(家法)とよばれた。これらの道徳的指示は藩主から子孫にあた
えられ、藩主の一族や家臣たちはそれを恭しく取り扱った。武士の信仰
は仏教で生活、思想、行動のすべては、秩序正しく相互依存の関係に
あるとの確信に満ち満ちていた。けれども、武士階級は他方で神道の
神々と祖先の霊に祈りをかけ、その加護をもとめつづけていた。姉崎教
授によれば、遺誡・家訓では「君主に忠誠を尽くし、家の掟に従う」ことが
極度に強調され、「慈愛、正義、誠実、謙遜、勇気の諸徳もふくまれてい
た」ということである。さらにつづけて姉崎教授はのべる。

「藩主の後継者にたいしてあたえれる指示は、封建領地の管理、藩士の取り
扱い、兵糧の保管、平和時・戦時における論功行賞の行い方に関するもので
ある。要するに宗教的信念と処世訓、精神的修養、士気の維持、道徳的理想
実際的な助言が、武士の名誉というひとつの原則のなかに織りこまれる。武士
道の実際はこうしてはっきりと体系づけられ、これらの教えは以後数世紀にわた
り支配者階級を拘束する結果になった。これらの文章のあるものは藩や一族の
範囲をこえた影響をもち、ある意味での国民的な遺産となった」。

43武士道の起源:2002/10/22(火) 03:15

諸藩の家法は、諸藩を支配する徳川家のものをふくめて、これらの初期の精神
的遺産を直接受け継いだ。それらの家法は、法典や法令の名に値しないといえ
るのは、これらの用語の使用を不当に厳しくして、旧約聖書の「申命記」(モーゼ
の律法)、「ユスティニアヌス法典」、「ナポレオン法典」のような、精密な規則に
限定したときにかぎられる。

ところが、サムライ法典の内容はある程度流動的で柔軟だった。そのために激変
と大動乱の時代にも通用し、生きつづけることができた。家法が日本人の性格、
日本人の思想と社会の形成に決定的な影響をあたえた事実を否定することは、
懐疑主義が昂じて何も理解できなくなることに等しい。ホール・チェンバレンやサ
ムソムが、武士道にたいする大袈裟な賛美を、そのまま信じようとはしなかった
のは悪くないが、日本人に本来、優れた道徳的品性があるはずがないと疑って
かかり、サムライの倫理はたんなる伝説で、明治時代に政治的目的から故意にでっ
ちあげられたと断定するところまでつきすすんだ。武士道は、さまざまな思想、
さまざまな類型にまとめたもので、はじめは藩主や支配者、のちには軍事的
専門家や愛国主義の指導者によって権威づけられた。これを一片のでっちあ
げとして排斥するまえに、わたくしたちは、ドイツやイタリアの全体主義のにせ
神話を模倣した最近の日本の風潮から、サムライの純正な倫理を切りはなさ
なければならない。

44宗教的背景:2002/10/23(水) 02:52
大日本帝国の膨張を剣によって実現し、「太陽の子たち」の
子孫と家臣によって外国を征服しようとする要求は、武士道
信条からはおよそ遠い。サムライの倫理は、もともと仏教的
感情と儒教的感情によってつくられた「静」の世界に属する。

キリスト教の騎士は武勇を試すために「冒険」をもとめた。
婦人や貧しい人びとを助けて奇怪な悪党ども、巨人、邪悪な化け物
たちと戦おうとした。教会のためにつくし、キリスト教の福音を
広めようとした。「シャルルマーニュ(カール大帝)の十二勇
士」や「アーサー王の円卓の騎士団」から「十字軍士」や、「メキシコ・
ペルーの征服者(スペイン人)」にいたるまで、一本の線に
つらぬかれている。かれらはすべて征服されていない地域に
惹かれ、あらゆる冒険をともなう使命感にもえたった。ヨー
ロッパの騎士たちがつぎつぎと未知の暗黒界に突入し、デュー
ラーが「キリスト教兵士」で描いた、「死神」と「魔神」に満ちた
恐ろしい森を馬で駆けぬける衝動は、およそサムライには
無縁だった。

45宗教的背景:2002/10/23(水) 02:52
禅の瞑想は本当のサムライに内省の道を教えた。サムライ
は死の恐怖もなければ、後生を願うこともない世界に入って
いこうとした。生と死の境目は幻想にすぎないと達観した。
この内なる世界においては、善と悪が子どもじみた単純さで
区別されることはなく、ことさらに褒められる行為をしなくて
よい。あたかも運命の絶壁に大波のうねりが激突するがごと
く、熱狂心や闘争欲にかられることは、サムライの望むところ
ではない。むしろ、生命の波がいくら打ちよせても砕けちる、
岩のような存在でなければならない。悟りに達したものは、
寺院、仏典、仏像、教義書のことはどこかへおき忘れてしま
う。サムライは霊魂が「絶対」と一体になる素朴な状態に回帰
し、計り知れない深淵から湧きあがる新しい決意を自己のもの
とする。

仏教倫理は少なくとも西洋人の眼には規範的・創造的では
なく。否定的・諦観的にみえる。禅宗の主眼は、解脱を妨げる
ものから解放されることで、いかなる形にせよ、「煩悩」のと
りこにならないことである。また、「我」と「汝」、「善」と「悪」、
「個人」と「全体」、「生」と「死」の差別を取りのぞくのが狙いで、
神の映像ごときをもちだし人生を規制したりはしない。サムライ
の倫理はいかにして死に、いかにして落胆、不安、動揺を超越
し、あらゆる世俗の利害抗争から解放されるかの教えに集約
される。道徳には関係ない(かならずしも反道徳的でない)この
神秘主義の絶頂から、けわしい近道が虚無主義(ニヒリズム)
または静寂主義(クワイエテイズム)の世界に通じる。しかし、
鈍感で放縦な人びとの間に、ときとして好ましくないことが発生
しても、禅の黙想の責任にするのは正しくない。同じ危険は
いかなる宗教の前途にも存在し、教養を理解しない批評家の
注目をひきやすい。

46宗教的背景:2002/10/23(水) 02:53
わたくしは平均的サムライのすべてが最高の悟りに達したと
主張するつもりはない。しかし、サムライの思想を吸引する
精神的磁場における磁極は、外界での活動にはなく、外的
なものの否定、積極的な犠牲と完全な自己放棄ないある。
徳川時代前半に書かれた武士道論には、なるほど、武術
鍛錬を怠らず、戦争はめったに起こらないと考えるな、との
さまざまな訓戒がふくまれているが、これにはもっともな理由
がある。というのは当時、武士は一種の役人となり、鎖国制
度、完全な平和、政治的沈滞になれて、増大するはなやかな
都会的娯楽の誘惑にさらされていたからである。

しかしながら、ここでもまた、強調されるのは、個人的な快楽や
利得、怠惰や放恣にたいする欲望をおさえ、いつでも任務を
自覚する精神だった。サムライが楽しんでもよいどの活動
様式も、茶の湯、「謡」の稽古、弓術、切腹様式の練習と、
すべてが僧侶の衣の色が僧侶の精神を反映するような関係
である。本能的な欲望をおさえ、いかなる逆境でもどっしりと
落ち着き、勝利に驕らず悲しみに負けないことがサムライの
行儀作法の主要目標だった。「能」はこのような禁欲的生活
をどんな論集や逸話よりもはるかに正しくつたえる。「能」は、
いまのべていることを、空理空論に走らず、いたずらに陶酔
もせずに、サムライの生きてきた生活の姿に即して表現するい。
正確さや活気の程度はさまざまにしても、偉大な威厳と簡素な
美しさをそなえた、まぎれもなく真実の生活が舞台で展開され
る。

47理想と現実:2002/10/24(木) 02:38
礼式や作法は、どこでもたんなる形式主義に退化しやすい。勇気は喧嘩騒
ぎに、忠義はへつらいに、沈着は無感覚になる。後世の作者はサムライを
賞揚するあまり、しばしば好戦的な勇猛心と一方的な忠誠心を、あたかも
サムライ倫理の支柱と考えた。

しかし、勇気はありふれたことで武士道によって鼓吹されたのではない。
平安朝末期以来、武士たちは新しい封建領主の旗印のもとに集まったが、
武士たちにわざわざ勇敢な行動を教えこむ必要はなかった。かれらは喜ん
で戦場におもむき、恵まれてもいない人生をすてさることを少しも恐れな
かった。臨終の床の藩主や幕府の要職にあたる法令担当者が、たくましく
も粗野な家臣たちの心に注入せざるをえないと感じたのは、家臣の義務の
精神的な側面についてだった。武士の生活万般にわたる規律、誠実に生き
ればこそ、武士の他の階級にたいする支配権が合法化される、との「正しき
生活」の映像が注入の対象だった。サムライはより多くの権利ではなく、よ
ち多くの義務の持ち主でなければならなかった。

これらの義務は一方的ではなかった。十五世紀末、南九州のある主君と
家臣の間に取り交わされた典型的な誓約は、家臣が主君にたいして、「誠
心誠意、ふた心なしに」仕えると誓うと主君は忠誠の約束を承認し、「予は
汝の重大事を予の重大事とみなす。われらはもちつもたれつでいく。にもか
かわらず、不幸にして誹謗・中傷があれば、われらは親しく率直に話し合おう」
と答えた。主君の製詞は、もしそれを破れば中世でもっとも恐れられていた
神々、伊勢の太陽女神、八幡神(弓矢の神)、熊野や諏訪の神々などからい
かなる制裁をうけてもよいとの趣意で書かれた。こうした神々によって保障さ
れた主君の義務は、当時にあたっては、たんなる形式扱いにされるはずは
なかった。

48理想と現実:2002/10/24(木) 02:39
にもかかわらず、権力、富、地位が平等でないもの同士のいかなる関係とも
同じく、主君と家臣の権利の厳密なバランスが、実際には、かならずしも維持
できないと考えるのが合理的である。家父長的構造論があらゆる社会的思想
を支配してきた東洋では、家臣の義務が親孝行の義務に同化されるのはほと
んど避けられなかった。この考えは中国古典思想のなかで生まれ、山鹿素行
や大道寺友山のような日本人の武士道論のなかにも生きつづけた。主君が
父親に類した権威をもてばもつほど、主君の権威はますます絶対的なもの
になった。東洋的観念では、息子は父親にたいして何の権利ももたなかった
からである。
しかし、日本では、中国や中世ヨーロッパと同じく、家臣が主君の行動を不正
で、適当でないと判断した場合は、いつでも主君に諫言(勧告)する権利を
もっていた。サムライが良心の声に反して主君の気儘に盲従したときには、
その家臣は「佞臣」(媚びへつらう幇間)、あるいは「寵臣」(卑屈なる追従に
よりて主君の愛を盗む嬖臣―― 新渡戸)とよばれた。あらゆる諫言も効を
奏さない場合には、家臣は自殺(切腹)の形で抗議しなければならなかった。

戦国時代には、不忠なサムライが主君をかえた例は日本の記録に頻繁に
みられる。だからといって、規範どおりの忠誠行為よりも不忠のほうが多かっ
た、考えるのはかたよった見方である。節操の問題は、不思議かもしれな
いが、統計的処理には適しない。わたくしたちは、大多数のサムライ ――   
このことについては、どの国のどの階級についても同じだが ―― が法典や
論集で定められた規準以下だったどうかを知る方法をもたない。成文化した
訓戒の存在自体が、サムライの身につけるべき徳目は、自発的に生まれは
しなかったことを物語る。徳川じだいにの武士道の最高権威大道寺友山は、
多くのサムライの品性が高尚でなかったと明言する。武士道を日本民族に
内在する先天的な素質だったと考えるのは、安易な人間生物論にまどわさ
れた、後世の著作家の誤解にすぎない。一九世紀末葉になるまで日本人
にとってすら、武士道論の実践の困難なことを否定する試みは存在しなかっ
た。といって、武士道の実践は不可能と考えられもしなかった。高級な武士
道の教えは紙上の産物で、意志の強弱にかかわらず、現実の人間におけ
る活力になりえなかったとするのは、根拠のない仮定である。

いつの時代でも、またどんな集団においても、高度の倫理体系の諸要求に
十分に応じたのは、一部の道徳的エリートだけだった、かれらは一般民衆
が達しえない道徳規準をつくりあげたが、一般大衆といえども、その道徳規
準の正しさを否定することはできなかった。

49理想と現実:2002/10/24(木) 02:39
しかし、キリスト教徒が、根拠のない要求ではないにしても、逆説的なイエス
の「山上の垂訓」の従って生活するよりも、サムライが武士道の規範を実践
する方がはるかに容易である。ものごとに寛容で本分をまもり、なにごとに
も慎重で、父祖や権威に服従し、質素、謹直、勤勉で、死や悲運に沈着で
あることは、すべて、だれにでもできることではないかもしれない。けれども、
敵を愛し、左の頬を打たれたなら、右の頬をさしださなければならないキリ
スト教道徳に比べれば、ふつうのひとにとっての心理的負担ははるかに少
ない。

日本社会のなかで、サムライ精神の浸透する範囲をたえず広げるのが、
徳川時代の歴史的使命だった。そのことによって、サムライ精神は多少
活力と正確さを弱めはしたが、必ずしも品位は低下しなかった。この運動
は、本来は貴族用に作られた理想が完全に一般化された、歴史上数少な
い例のひとつである。主婦、学生、店員、高級売春婦でさえ、程度の差は
あっても、封建家臣の主君にたいする態度を手本にするようになった。

「四十七人の浪人」の英雄的な仇討ちが、都市の一般庶民に熱狂的な
感動をよび起こしたことは、十八世紀初期にはサムライ精神がすでに階
級道徳でなくなったことを物語る。町の商人や職人たちは、サムライが
国民道徳の中心的な存在として生きたり、死んでいくことの価値を承認し
た。こうした庶民の間のサムライ精神にたいする共感は、五世代後にす
べての階級を最終的にひとつの近代的国民にまとめるにあったって、
「古学」や原始「神道」の復興にけっして負けない効果を発揮したにちがい
ない。

西洋では、シェークスピアの史劇やセルバンテスの『ドン・キホーテ』で、
封建時代の精神に別れをつげたが、日本では、逆に、封建時代の精神
が、適当にうすめられながら、当時の大都市江戸、のちの東京の米商
人や運送業者の心のなかに広がっていた。街路や商店にたむろする
流儀で、人生をおくることに誇りにした。

50理想と現実:2002/10/24(木) 02:39
しかし、極度の緊張を必要とする道徳観念のこうした全面的俗化は、
危険がともなうのをどうしようもない。大都会の市民やその妻妾が武士
道に惹きつけられたのは、主として感傷のせいだったり、しばしば珍し
く、はなやかで、好奇心をそそるものをもとめたからであった。こうした
要求に答えてつくられたもののひとつが、徳川時代のドラマ「歌舞伎」
である。歌舞伎の舞台では、溢れるような感動、度肝を抜く所作、強烈
な色彩、ほとんどグロテスクに近いせりふが展開される。これらはすべ
て本当のサムライ精神には異質な存在である。サムライの規範に合致
するのは、厳しく、穏やかで、感情をおさえた、簡素な「能」の表現だけ
であった。ところが、今や、サムライの生活が、一般庶民のまえに極端
な形で提示されることになった。扱われるテーマは、犯罪と狂気の一歩
手前で、芝居好きな人びとの感受性と人間性を緊張させた。平土間の
観客はしばしば涙を流し、天井桟敷は興奮して、喝采の金切り声を夢
中であげる始末だった。

さまざな理由から能を鑑賞できない外国人は、「歌舞伎」やかつて西洋
人向きに書かれた、読みやすく粗雑な挿絵入りの物語に夢中になりが
ちであった。そのうえ大衆芸術家たる浮世絵師の木版画である超現実
的な役者絵により、かれらの感動はさらにましたであろう。こうした外国
人はこれらの変形されたサムライ物語を武士道の本質と見誤った。サ
ムライというものは、グロテスクな行動をする半野蛮人で、いつでも「主
君」のためにわが子を殺し、駿馬を買うために妻を女郎屋に売りとばし、
わざわざ死の苦痛を長びかせる方法で自殺すると考える、ヨーロッパ
人の根強い観念は、あきらかにここからくる。

これらは、日本文学のすばらしいテーマではあるが、「武士道」の典型と
みなしてはならない。ちょうど癩病患者の皿でものを食べたり、柱のてっ
ぺんで幾日もすごすのは、一部の修道士のことで、ふつうのキリスト教
徒の生活でないのと同じである。これらはすべて「言語道断な例」で、う
まく説明がつかない、限界状況に属する事柄とみるほかはない。

51理想と現実:2002/10/24(木) 02:39
山鹿素行や大道寺友山による徳川時代の優れた武士道は、もちろんこ
うした極端な例を扱ってない。かれらの論旨は穏健で、教えには分別が
ある。かれらはただひとつの美徳だけを誇張しないし、かれらの価値の
尺度には、自己賛美に専念する武士を評価する痕跡すら存在しない。
かれらの教えは、おおむね地味で、かたよらず、宋の朱子学(禅僧によっ
て日本に紹介され、のち徳川幕府の官学として採用された)に影響され
たり、逆に、独裁政治に都合のよい、朱子学派の静的で型にはまった倫
理を熱心に克服しようとする、勇敢な思想家の感化をもうけた。後者のひ
とたちは、大胆にも初期儒学のまじりけのない源泉に立ち返ろうとした。
まえの時代の禅宗武士に比較すると、たしかに精神的緊張には欠ける
が、最後まで精神的自由の達成が徳の中心であった。

近代日本人の行動がどの程度まで武士道の教訓に基づくかを見極める
のは、キリスト教の倫理が、どこまで今日のヨーロッパ人の態度や行動
を規制するか、を評価するのと同じくらい困難である。明治維新は、強い
経済的不満と熱烈な愛国心をもつ、主として下級のサムライの仕事だっ
た。ところが、最後にはサムライ階級が廃止され、新しい「国家」が誕生
した。サムライとしての大きな特権を失い、経済的窮乏あい変わらずか、
しばしば悪化した。とりわけ新しい社会組織のなかで、将校、役人、事業
家、警察官や農民のような自己に適した地位につけなかったサムライは、
はなはだしい苦境におちいった。慎重な明治天皇と首席顧問は、達成の
見こみのない、はなはだしい軍事的冒険のことは考えもしなかった。これ
らのすべてが元サムライの間に不満をかきたて、かれらは、反乱、たえ間
ない騒動、ときおりの暗殺によって憂さばらしをはかった。これらの有名な
事件をよく知れば、当時の政府当局者が武士道 ―― 国内でもっとも手に
負えない階級の指導原理 ―― を新しい国家倫理の基礎にすえる計画は、
とうていありえないのがわかるにちがいない。

52理想と現実:2002/10/24(木) 02:39
こうして明治時代には武士道は国内倫理の基礎とはならずに、忠誠の観
念はあらためて定義しなおされ、新しい内容と方向づけがあたえられた。
少なくともそれまでの五百年間は、実際の政治のうえで、武士道は、皇室
にたいする奉仕とは関係がなかった。サムライの忠誠は主として封建主
君たる大名にむけられ、サムライが大名をまもるために、最後まで官軍
に抵抗して戦った偉業がいくらも存在する。しかし、戊申の役の上野の戦
いや会津若松で死んだ「忠臣」は、天皇からすれば、天皇親政に反抗した
謀反人だった。真の忠誠は天皇にたいするものだけだったとの公式の政
治上の指導原理となったのは、明治時代を通じてだった。武士道神話は
つくらはしなかったが、過去七〇〇年の武家政治によっておおい隠され
ていた、神話的伝統に基づく感情と姿勢が、封建時代の努力と忠誠の
混乱を否定するために再建された。この事実は、ローマ帝国初代のアウ
グストゥスが、共和政よりもまだ古いローマの神話と信仰を復活させた
ときのことを想起させる。

日本の過去の状態と将来の可能性を正確に見定めるようにもっとも重要
なのは、以上のような経過と、二十世紀初期に行われた政治的・宣伝的
虚構を区別することである。天皇の神話とサムライの伝統の存在はどち
らも正しい。しかし、過去数十年間、これらは国粋主義者や帝国主義者
の宣伝の道具として利用され、信用を失墜した。とはいえ、この天皇神
話とサムライの伝統が、ナチスの意図的な紙上神話たる「白人の負担に
おいてのみ文明は進歩する」、「ゼネストの伝統による政治闘争」、「北方
民族は最優秀」との主張と同じく根拠薄弱な現象と考えるならば、歴史
事実に反するだけでなく、正しい政治的判断を誤るであろう。

53理想と現実:2002/10/24(木) 02:39
サムライの伝統の存続は、文筆のうえでの現象をはるかにこえたことで
ある。サムライ階級が廃止されても、サムライの理想は力強く疑われる
ことはなく生きつづけた。今日ですら、日本人の態度と行動から、しばしば
サムライの家系の出身者と平民を見分けることができる。日本の戸籍簿
から士族と平民の区別が消えたのは、日中事変が始まってからである。

戦前の公立学校の教科課程は、少なくとも第二次世界大戦のすこしまえ
までは、意図的に軍事にたいする関心を刺激もしなかったし、大学学部
の軍事教練も義務化されていなかった。明治時代の学校制度は自由な
視野をもち、倫理教育の題材もさまざまな分野から広く採用されたので、
サムライの伝統の入る余地はあまりなかった。近代の日本人がすすん
で生命を投げ出し、耐えがたい苦痛をも我慢したのは、政府の宣伝のせ
いだとするのは重大な誤りだろう。

国家全体の利益のために個人の生活と幸福とを顧みず、自己を犠牲に
しようとする熱狂のすべてが、サムライの伝統によるもではない。日本人
の心の両極には、個人よりも人間巣箱の欲求を優先させる部族精神と、
自己放棄のなかに「宇宙の魂」あるいは「仏陀」との一体感にひたる最高
法悦をみる、神秘的な魂とのふたつが存在する。人間道徳の限界の間で、
騎士道倫理に類する「サムライの道」が中心的な地位を占め、両極から
推進力を吸収する。

54理想と現実:2002/10/24(木) 02:40
日本人はサムライの真価を桜花にたとえる。朝日をうけて突然に開花し、
春風にゆすられて不意に散っていく。第二次大戦中の日本軍人の頑固
な鈍感さや、とめどもない暴行を見たり読んだりした外国人のなかには、
日本人と桜花の映像を結びつけるのに困難を感じるひともあろう。それら
のひとに、歴史をさかのぼって平敦盛の故事を引用し、このたとえが、昔、
何を意味し、どうして伝統的な観念になったかを説明したい。平氏が一ノ
谷で頼朝の軍勢に大敗し、本土から海上に逃げ出したとき、清盛公の甥
はしんがりをつとめて最後に岸辺をはなれようとしていた。そのとき、敵軍
中もっとも豪勇なひとりの武将から、敵にうしろをみせて逃げるのかとの
挑戦をうけ、敦盛は勝つみこみのないのに、馬をひき返して結局討死した。
敵将が相手がだれかたしかめようと兜を取りのぞくと、現れたのは十五歳
の少年の微笑をうかべた死顔だった。そして、鎧のひだには、高価そうな
錦織りの袋がくくりつけられており、あけてみると中国産の竹でつくられた
有名な横笛がでてきた。一ノ谷の戦いの前夜、平家の一族郎党は、せま
りくる災厄をまえに饗宴を催し、敗北と死がかれらに襲いかかるまえに、
最後のひとときを楽を奏でてすごした。敦盛も積極的な参加者のひとりだっ
た。

55理想と現実:2002/10/24(木) 02:40
世にいうものは、このような英雄的な沈着と洗練された情熱、雄々しい
剛勇と超越の持ち主を軽視できるほど、夢のように美しい騎士道精神に
恵まれていない。日本民族の闘争本能と美的感覚は、インドの神秘思
想と中国の宇宙を象る礼式によって調節されてきた。わたくしたちが日本
人の心の規範と考えることのできるものは、戦争と平和にかかわりなく、
生活のすみづみ、詩歌と弓術、行事と余暇をつらぬく以上のような精神
のなかに存在する。抽象的観念、制度、芸術作品、慣例などはもとむべ
きもない。日本人の映像と精神は「ギリシャ神話」の美しさにも、「キリスト
教徒の受難」にくだされる超越的な神の恩寵にもおよばない。しかし、日
本人は、優雅ととけあった勇気、陽気さと結びついた頑固不動、風流と
一緒となった無我の境地の実例を供給してきた。この見事な偉業の記
憶は、全面的に無秩序で混乱の増大する時代によって汚されてはなら
ない。

ある国民が固有の偉大さの中心から逸脱したとき、重要なのは過去を
忘れさせることではなく、過去におけるもっとも深い霊感と最高の夢の
真意を思い出させることである。こうして、広汎で全面的な罪ほろぼしが
すめば、荒廃した土地は新しい出発への準備をすすめることができる。
アジアの一角の国民は、老子が語る「道」への回帰とみなされるものに
とりかかれよう。
 
 この道においてするどさは打ちくだかれ、
 縺(もつ)れた状態はときほぐされ、
 きらびやかな光はぼかされ 
 塵ともとけ合っていくだろう。

56名無しさんは権之助坂がお好き:2002/10/24(木) 03:06
>>37-55
以上がジンカーの『三種の神器』の中にある
第九章「サムライ ―― 伝説と現実」の全文です。

筆者はユダヤ系ドイツ人で経済学者でした。
昭和6(1931)年から昭和14(1939)年まで
日本で教鞭をとっていました。
この本は終戦直後のシドニーで書き上げた物です。

今日から見ると明らかな間違い、
疑わしい点、また古くなってしまった点が
ないわけではありません。

しかし主題に影響がない範囲ですし、
何より観察眼が非常に鋭いと思ったので紹介しました。

57名無しさんは権之助坂がお好き:2002/11/05(火) 10:31
何か武道をはじめて
心と身を鍛えようかなと
近頃考えてます

58naribanana:2002/11/23(土) 18:48
うちの道場くれば?

59メモ:2006/04/16(日) 18:45:29
開講年度 2006年度
科目名 日本近世思想概論

学期曜日時限 後期 01:金6時限
担当教員 矢崎 浩之
開講箇所 第二文学部 配当年次 1年以上
科目区分 広域科目I 単位数 2
使用教室 01:32−324 キャンパス 戸山
備考 オープン科目
科目キー 1400005117

シラバス情報
最終更新日時:2006/03/10 23:54
副題 武士道の思想
講義概要  武士道の思想
 武士道という言葉を最初に用いたのは、江戸初期に編まれた『甲陽軍鑑』だといわれています。武士道とは、当初「もののふの道」とか、「武者のならひ」などと言われ、主従間の武勇や忠義などの規範のようなものを漠然と指していましたが、徳川の平和が訪れると、この言葉は、二つの内容をもつようになっていきました。ひとつは、社会の指導者として不可欠な武士の精神や教養という面、もう一つは、戦国武士の気風を失わないための武勇や死生観を説く教えという面です。前者は主に儒者たち、後者は現実の武士たちが、担い手となりました。吉良邸討ち入りで有名な赤穂浪士たちが、身につけていたのは江戸前期の儒者山鹿素行に始まる山鹿流兵法ですが、彼の説いた武士道は前者の代表と言えます。一方「武士道と云は死ぬ事と見付たり」というフレーズで有名な『葉隠』は、後者の代表になります。これら以外にも、実にさまざまな武士道関連の作品が、江戸時代、さらには明治期にかけて書かれています。この授業では、これら武士道作品の、主なものを紹介しながら、武士たちの思想的営みの一端をみていきたいと思います。
シラバス  具体的に取り上げる武士道作品としては、以下のようなものを予定しています。
 武士道の二つの流れでいえば、儒者的立場からのものとしては、山鹿素行の「士道篇」「上談篇」『山鹿語類』(巻21-31から数編)、大道寺友山『武道初心集』、斎藤拙堂『士道要論』などです。そして武士側のものとしては、大久保忠教『三河物語』、山本常朝口述『葉隠』などです。講義の切り口としては、作者像や成立の背景、さらにその所説といった、基本的な事柄はもちろんですが、たとえば、個と集団、文治と武断、日本的儒学との思想的な関係などといった、より一般化された視点からも、武士道の言説を捉えてみたいと思います。但し毎回の講義では、代表的な人物とその作品、しかもその要点だけを一、二取り上げるだけになると思いますので、講義全体の流れとしては、かなり歩幅の広い点描という体にならざるを得ません。そこで、なるべく参考文献を提示して、その欠を補いたいと考えています。
教科書  プリントを教室で配布。
参考文献  第一回目の講義に、全般に関する参考文献一覧を配布します。毎回参考文献を多めに提示したいと思います。
評価方法  レポート 特に出席を重視
備考  当初は、なかなか聞き慣れない固有名詞等が出て来ますので、講義の内容も理解しずらいと思いますが、なるべく一回の講義では、思い切って焦点を絞って解説していくつもりです。またどうしても講義の性格上、食い足りないところもありますので、ぜひ各自参考書で補ってください。

60メモ:2006/04/16(日) 18:50:21
開講年度 2006年度
科目名 武道文化論

学期曜日時限
担当教員 志々田 文明
開講箇所 人間科学部 配当年次 1年以上
科目区分 T-VIII 文化と歴史 単位数 2
使用教室 01:100−111 キャンパス 所沢
備考
科目キー 1900004880

シラバス情報
最終更新日時:2006/03/09 20:06
講義概要  明治維新から現代まで130余年が経過し、日本社会はすっかり近代化=西欧化しました。しかし、維新に先立つ約700年は武家政権の時期であり、その間に形成された武士をめぐるさまざまな思想は、武道論あるいは武士道論として、今日なお日本人の生き方や考え方に影響を残しています。この講義では、武道をめぐる思想について、次の課題を学習します。  まず、現代教育の立場から見た日本武道の独自性について考察します。その上で、柔道、剣道、弓道、合気道などの代表的な武道についてその概要を学びます。  次に、現代の武道に残存する伝統的な要素として、流派性、家元制、宗教的思想性などについて学びます。  第三は、競技スポーツと異なる武道の稽古法である形(かた)について、形(かた)と競技をめぐる論争を題材に学びます。  最後は、社会の国際化にともなう武道の文化変容の問題を考えます。その一端として、武士道の美点とその問題点を見て、これからの現代武道の在り方などについても考えていきます。

シラバス  以下の内容を順不同で扱う予定です。 ・武道の字義、名辞・武道について ・現代教育の立場から見た日本武道の独自性 ・各種武道(剣道・柔道・弓道・合気道・空手)の概要 ・流派性・家元制・秘密主義 ・宗教性:禅(不動智神妙録)、老荘思想、密教) ・形(かた)と競技:近世と現代の事例を中心に ・武士道の倫理と現代 ・国際化と武道の変容

教科書  特になし
参考文献  富木謙治著『武道論』(大修館書店)
評価方法  試験、リポート、授業への取り組み態度により総合的に評価します。
備考  志々田研究室ホームページ:http://www.f.waseda.jp/shishida/index.html

61メモ:2006/04/16(日) 18:52:18
授業情報
開講年度 2006年度
科目名 武道論

学期曜日時限
担当教員 志々田 文明
開講箇所 人間科学部 配当年次 1年以上
科目区分 T-IX 身体と表現 単位数 2
使用教室 01:100−S101 キャンパス 所沢
備考
科目キー 1900004945

シラバス情報
最終更新日時:2006/03/09 20:06

講義概要  武道はスポーツとどこがどのように異なるのか。日本文化としての武道とは何か。異文化の人々と接する機会が日常化した今日、こうした問題の理解が基礎的教養として求められています。この授業では、武士が台頭し鎌倉幕府を創立する頃の武士の行動様式を規制する気質(エートス)について学習します。次に、今日の武道教育(剣道、柔道、弓道、合気道など)の中心を貫く二つの精神性?芸道的精神性と武士道的精神性?を思想史的に考えます。芸道的精神性については、宮本武蔵の『五輪書』の技法論・心法論、人生論などを題材に考え、武士道的精神性については、葉隠的武士道論と儒教的士道論の系譜を概観します。最後に福沢諭吉の武士論と強い主体形成の問題、日本人として強くなるとはどういうことなのか、という問題を考えます。

シラバス  以下の内容を順不同で講義します。 ・日本文化としての武道とは何か:武道とスポーツの異同 ・武士のエートス ・武道における二つの精神性 ・芸道的精神性 ・武士道論 ・士道論 ・福沢諭吉の武士論 ・近代の武道論:嘉納治五郎と柔道論 ・山岡鉄舟と剣道論 ・弓道論:阿波研造と稲垣源四郎 ・富木謙治の武道論 ・国際化と武道の変容

教科書  特になし
参考文献  富木謙治『武道論』、相良亮『武士の思想』、福沢諭吉『文明論之概略』、オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』。
評価方法  試験、リポート、授業への取り組み態度により総合的に評価します。
備考  志々田研究室ホームページ:http://www.f.waseda.jp/shishida/index.html

62兵法の教え:2006/04/19(水) 04:16:13
◇兵法書の成立

「武士道」という言葉は、江戸時代になってできたものですが、
武士に特有な生活樣式や倫理は、古くからありました。

それは、武士が発生した平安時代から武士の政権が出来た鎌倉時代に
至る過程で、「弓矢取る身の習い」や「兵(つはもの)の道」などという
言葉で表現されました。

江戸時代に入ると、そのような武士特有の倫理が、「武士道」という言葉で
表されるようになります。しかし、「武士道」という言葉がそれほど
一般的でなかったことは、第一章で述べた通りです。

江戸時代の初期、武士が身につけるべき技能を解説した書物として、
兵法書(ひょうほうしょ)が現れます。
「兵法(ひょうほう)」とは、現在で言えば劍を中心とした
武術のことです。

二代将軍秀忠、三代将軍家光の兵法指南となった柳生宗矩は、
『兵法家伝書』という書物を著します。完成したのは寛永九年(1632)
9月、宗矩62歳のことでした。


欄外

兵法 柳生宗矩の兵法家伝書には、「弓矢、太刀、長刀、是を兵とふ」
と書かれている。兵法とは、このような武器の使い方という意味。

63兵法の教え:2006/04/19(水) 04:34:21
この『兵法家伝書』は、「進履橋(しんりきょう)」
「殺人刀(せつにんとう)」「活人剣(かつにんけん)」の三部から
なります。

「進履橋」は、上泉伊勢守信綱が宗矩の父、宗厳に直伝した
新陰流の極意を書いたものです。この中で最も印象に残る言葉は、

 太刀さきの勝負は心にあり。心から手足をもはらかしたる物也。

です。つまり、太刀というものの本当の勝負は、技術よりも心に
あるというのです。心が手足を動かしているのであり、ひいては
兵法の勝敗を決めるのも心にあるというのです。

そして、序、破、急のそれぞれについて九通り、合計二十七通りの
斬り合いがあるます。
ただしそれは、師弟が立ち會って身につけるものだとして、
詳しくは解説されていません。



『兵法家伝書』の構成

進履橋  兵法家伝書の入門編
     張良は石公に履を拾って履かせたことが契機となって
     漢の高祖を助け、天下を平定した。その故事にちなんで
     名づけた。この卷を橋として兵法の道を渡るという意味。

殺人刀  兵法家伝書の上卷
     「気」と「志」、「表裏(はかりごと)」、打たれまいとせず、
     「打たれて打つ」技法など、剣術の様々な心構えを解説する。

活人剣   兵法家伝書の下卷
      相手に斬られない場所に身を置くという「水月」の技法、
      相手の刀を取る「無刀」の技法などを解説する。

64兵法の教え:2006/04/19(水) 04:54:45
「殺人剣」の理念

宗矩は、弓矢・太刀・長刀などの「兵(ひょう)」を良くないもの
と捉えています。天道は万物を生かすものであるのに、
「兵」は人を殺すものだからです。しかし、やむを得ず「兵」を
用いることはあります。一人を殺して万人を生かすためです。

悪を殺そうとするとき、兵法を知らなければ、かえって殺されてし
まいます。だから、兵法が必要なのです。

「殺人刀」そいいう前提で、刀の使い方や軍勢の動かし方の
心構えを述べています。

将軍家の兵法指南だけあって、一対一の對決は、勝つのも
負けるのも一人ずつなので、「いとちひさき(大変小さい)兵法」
といい、一人が勝って、天下を取り、負けて天下を失うような
戦いを「大なる兵法」としています。

しかし、宗矩の考え方ではどちらの兵法にしても、心構えが最も
重視されています。

これは、将軍家光に教えるものだったからでしょう。
家光のような立場の人には、あまり技術的なことを教えて剣の道
に入りこむよりも、剣の道を通して政治の心構えを身につけるのが
必要だと考えたからです。

だから宗矩は、次ぎのようにもいいます。

 治まれる時、乱を忘れざる、是兵法也。

宗矩にとって、諸国が治まっているときにも乱を忘れないという
政治の心構えは、「兵法」なのでした。従って、どこの國にどの
大名を置くかといったことも、領主や代官の不正を糺すことも、
すべて「ひょうほう」の中に含まれます。

宗矩によれば、「兵法」は人を斬るものと思うのは間違いで、
人を斬るのではなく、悪を殺して万人を生かすものなのです。

「兵法」の心構えの中心は、次のようなものです。

 打にうたれよ。うたれて勝つ心持ちの事。

人を斬るのは簡単ですが、人に斬られないことは難しいことです。

相手は、こちらを斬ろうと思ってかかってきます。そのとき、
間合いを測っていれば、相手の刀は当たりません。

当たらない太刀は「死に太刀」となります。そして、相手の刀が
「死に太刀」となったときに、ことらから越して打って勝てという
ものです。

そして、自分が打ってからは相手の反撃を許さず、二重にも3重にも
なお、四重にも五重にも打てといいます。そこで躊躇すると、
二の太刀で相手に斬られるからです。

これば宗矩の極意でした。

65兵法の教え:2006/04/19(水) 05:08:12
「活人剣」の理念

「活人剣」にも「殺人刀」に続けて兵法の極意を伝えています。
重視するのは、「水月」です。これは立会いの場における座取り、
即ち身を置く位置のことです。

「水月」とは、水に映った月の影のことです。それに斬りかかっても
決して月は斬れません。そのような場に身を置くことを「水月」
というのです。

また、「是極(ぜこごく)一刀」を重視します。

「是極」というのは究極というような意味で、究極の一刀というのは
刀を振るうことではなく、相手の動きを見極めることだというのです。

敵の機を見るのが第一刀と心得、その機を見て打ちかける太刀を
第二刀と心がけるようにせよ、と述べています。

66兵法の教え:2006/04/19(水) 05:15:28
そして、そのような極意を述べた後に、「無刀の巻」で、
自分が刀を持たないときでも相手に勝つ方法を述べています。

相手の刀を奪って打ちこむのは、宗矩の父宗厳の師である
上泉伊勢守が得意としたものです。「無刀」は、人の刀を取ること
が目的ではありません。

もし敵が刀を取られまいとするときには、敵はそれで頭が一杯に
なりますから、こちらに斬りかかることはできません。その場合は
こちらの勝ちです。

敵がこちらを何とか斬ろうとしたとき、無刀の極意が必要となります。

67兵法の教え:2006/04/19(水) 05:20:26
間合いがあれば敵の刀は当たりませんから斬られる心配はありま
せんが、相手の刀は取れません。相手の刀を恐れず、相手の刀が
自分に当たる位置で取らなければなりません。

すなわち、「斬られて取る」心構えが必要なのです。

無刀は、新陰流の極意でした。したがって、身構えや場の位、
敵との遠近、身のこなしなど、学ぶことはたくさんあります。

これらは「無刀の巻」で解説さてますが、その実際の技法は、
やはり、師弟の立会いの中で学ばれることになります。

68兵法の教え:2006/04/19(水) 05:28:49
◇柳生新陰流の影響

宗矩は、大坂夏の陣で木村重成の兵に襲われたとき、殺人刀を
振るって敵七人を斬り、武名を高めます。それにより諸大名や
その子弟、家臣など、宗矩に入門する者は次第に増えていきました。

そのような中で、宗矩は父宗厳や父の師上泉伊勢守の伝えた技法を
体系化します。

しかし、そのような技法が『兵法家伝書』になっていく過程で、
能の伝書や禅の思想などが加味されます。

宗矩は、家光が帰依した沢庵和尚とも親交を持っています。
また、能は江戸時代初期の大名、旗本の教養として必須のもので、
多くの大名はその所作を学びました。

69兵法の教え:2006/04/19(水) 05:34:55
こうして『兵法家伝書』は、單なる剣術の技術書ではなく、
深い教養に裏付けられた思索の書となったのです。

宗矩は将軍家兵法指南であり、自身も大名に取り立てられ
大目付も務めますから、諸大名に大きな影響力を持っていました。

『兵法家伝書』は、佐賀藩の支藩である小城藩主鍋島元茂や
熊本藩主細川忠利にも与えられました。これらの大名は、
宗矩と親交を結び、また剣術を好んだ大名ですので、彼らや
その家臣にも影響があったとみていいでしょう。

70nanashibanana:2007/09/01(土) 10:09:58
日本近世思想概論
江戸思想入門―儒教と国学を中心に―
矢崎 浩之

 この授業では、江戸時代の儒教と国学の展開を、
代表的な人物数人を取り上げて考えていきたいと思います。
江戸時代は非常に豊かな思想分化を育んだ時代で、
なかでも長きにわたり、さまざまな分野にまたがって影響を残したのが、
儒教と国学でした。中国の哲学と日本の古典研究、
外見的には対照的な相いれないものと見做されがちですが。
この二つの学問は非常に近しい関係でもありました。
 江戸の思想をどのように論ずるにせよ、
この二つの学問は決して避けてとおることはできません。
よって、本講義では、この二つの学問の展開のなかで、
見過ごすことのできない人物を中心に解説していくことで、
儒教と国学の基礎的な知識を獲得していきたいと思います。
扱う人物については、儒教では林羅山、山崎闇斎、中江藤樹、
熊沢蕃山、伊藤仁斎、荻生徂徠らを、
国学では、本居宣長と平田篤胤らを予定しています。
 時間的な制約もあり、なかなか江戸時代全体にわたって
詳細に語ることはできませんので、
どうしてもかなり取り上げる人数を絞り、
しかもその特徴的な思想だけを天描していく形にならざるをえません。
そこで毎回の講義では、参考文献を多めにあげて、
点と点の間を埋められるように工夫していきたいと思います。

71AKBメンバーの丸刈り謝罪は「武士道」の精神?:2013/02/12(火) 00:26:58
2013.02.05 Tue posted at 16:00 JST

(CNN) アイドルグループ「AKB48」のメンバー、峯岸みなみさん(20)が男性との交際を報道され、丸刈りになって涙ながらに謝罪する姿は、体面を失って名誉を回復しようとする武士のようにも見えた。その理由は、AKB48の軍隊のような組織にあるのかもしれない。

AKB48はチームA、K、B、研究生の主要4チームから構成され、いくつもの姉妹グループも持ち、厳格な秩序と行動規範が定められている。海外進出の意欲も旺盛で、シンガポールに拠点を設けるほか、インドネシアと台湾、中国に姉妹グループが存在する。

峯岸さんは1日、「恋愛禁止」のご法度を破ったことを涙ながらに告白した。これは組織の体面が傷ついたことを意味する。

頭を丸刈りにする行為は、日本では悔い改めの儀式とみなされる。峯岸さんは動画投稿サイト「ユーチューブ」に投稿した映像で「とても軽率で、自覚のない行動」だったと振り返り、この動画は300万回以上も再生された。きっかけは、峯岸さんがダンス・ボーカルユニットの男性メンバー宅に泊まったと週刊文春に報じられたことだった。

AKB48のブログによると、峯岸さんは「研究生」に降格された。日本の芸能メディアはスキャンダル報道でもちきりになった。ある業界関係者は「完璧な話題だ。紙面を埋めるためのネタを尽きることなく提供してくれる」と解説する。

72AKBメンバーの丸刈り謝罪は「武士道」の精神?:2013/02/12(火) 00:27:39
AKB48は10代の若者を対象にしていると思われがちだが、観客はサラリーマンで構成されることも多い。総合プロデューサーの秋元康さんには、若い女性の性を売り物にしているとの批判もある。ビデオクリップなどの映像ではメンバーたちが露出度の高いミニスカート姿で登場し、食べ物を口移ししたり、一緒に入浴する場面もある。

秋元さんはCNNの取材に対し、これは芸術かわいせつかの問題と同じであり、どう見るかは個人の判断に委ねるべきだと語った。

AKBの曲『制服が邪魔をする』で秋元さんが作詞した「制服を脱ぎ捨てて もっと 不埒(ふらち)な遊びをしたいの 何をされてもいいわ 大人の愉(たの)しみ  知りたい」という一節に対しては批判もある。秋元さんは、メンバーは自分の体験を語っているのではなく「演じているのだ」と語る。

『軽蔑していた愛情』という曲では、中学生がなぜ自殺をするのか取り上げたと語る秋元さん。作詞家として少女たちが直面している問題を取り上げなければ、そうした問題への対応もできないと反論する。

制服を脱いで悪いことをしたいと思っている子どもたちは存在しており、自分が描写しているのはそうした現実だと秋元さんは言う。「想像したり、新聞記事やテレビのニュースなどを見て、いじめや自殺など、この世代が抱える問題に目を向けている」と語った。


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