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H.ビックス『昭和天皇』 レジュメ

1カマヤン:2003/05/14(水) 23:42
H.ビックス『昭和天皇』(講談社)
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の、ゼミ発表レジュメ。

24・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/14(水) 23:52
【補足説明15】穂積八束 1860-1912
明治時代の憲法学者。万延元年宇和島藩国学者の三男に生まれる。明治十六年(1883)東大文学部政治学科卒。学生時代より井上毅に嘱望される。明治十七〜二十二年ドイツに留学。ベルリンにてグナイスト、シュトラスブルクにおいてパウル=ラーバントおよびルドルフ=ゾームの指導を受けた。同二十二年早々に帰国。東大教授に任ぜられて憲法を担当。同三十年より四十四年まで法科大学長。民法典論争に際し小論「民法出テテ忠孝亡フ」(『法学新法』五、同二十四年)を著して施行に反対した。それによれば、日本は祖先崇拝の家族国家で、家は家長の権力のもとに、国は天皇の権力のもとに団結し、それによって国際的な生存競争に勝ち残ることができる、民法草案の個人主義はこの団体を解体させるという。主著『憲法提要』(同四十三年)などに見られる憲法理論は、(一)主権の所在を意味する「国体」とその行使の様態を意味する「政体」を区別し、(二)帝国憲法下の日本を「君主国体立憲政体」と特色づけ、「政体可変国体不変」を唱え、(三)国家主権説と君主主権説を折衷して「天皇即国家」という説を唱えて天皇機関説を批判し、(四)立憲政体の本質を権力分立であるとして政党内閣制を否定した。
しかしその学説が権力的かつ反政党的であったため、世論から反動とみられ、また委任立法違憲論など解釈態度が形式的であったため、学界や官界から概念法学者とみられて、その学説は学界で主流とならなかった。明治二十二年留学より帰国早々の有賀長雄は「穂積八束君帝国憲法の法理を誤る」(『憲法雑誌』六−八)において、彼の主権無制限説などを批判し、帝国大学の同僚(国法学教授)一木喜徳郎は一種の天皇機関説を唱え、やがて次の世代の美濃部達吉は、上記の穂積学説のすべてについて全面的な批判を加えるに至る。穂積の後継者上杉慎吉と美濃部の間で行われた「天皇機関説論争」(明治四十四−四十五年)は、一般に美濃部の理論的勝利とみられ、穂積は小論「国体の異説と人心の動向」(同四十五年)を著して、激越な言葉で天皇機関説を疑問なく受け入れる世論を攻撃し、上杉を支援した。その直後、明治天皇の大葬に参列してひいた風邪がもとで大正元年(1912)没。
出典:『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館、2001年)940頁。

25・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/14(水) 23:52
【補足説明16】上杉慎吉 1878-1929
明治後期から大正時代の憲法学者。学生のころ、教授穂積八束から目をかけられたが、上杉は当時キリスト教に心を寄せており、穂積に対しては反感をいだき、ヨーロッパ留学までは、その学説の欠陥を指摘することに努力してきたとみずから語っている。この間、三十八年に『帝国憲法』を、三十九年には『比較各国憲法論』をそれぞれ公刊しているが、この両書では国家を法人とし、天皇を国家の機関とするいわゆる天皇機関説をとっていた。ところが、ヨーロッパに留学して、国家法人説の大家イェリネックに接触して帰りながら、帰国後は、穂積八束の唱える天皇主権説に転向し、一木を経て、先輩教授美濃部達吉らの主張する国家法人説に立つ憲法学者と鋭く対立した。美濃部が四十四年に文部省主催夏季講習会で憲法の講義を行うと、上杉は、穂積とともに、美濃部の憲法論に攻撃を加え、上杉・美濃部を中心に、天皇主権説対天皇機関説のはげしい論争が展開された。穂積が大正元年病のために退官すると、その後をついで東大憲法講座を担任し、同三年には『帝国憲法述義』、十三年には『新稿憲法述義』などを公刊し、美濃部や京都帝国大学佐々木惣一らの唱える立憲主義天皇機関説憲法学と正面から対立する君権主義天皇主権説憲法学を講じ続けた。東大では進歩派の学生の組織する新人会に対抗する七生社を育成したばかりでなく、晩年には軍部と結び、右翼団体の有力な保護者となった。しかしながら、学界では美濃部らの機関説憲法学が優勢で、上杉の学説は重んじられなかったために、うつうつとしてたのしまなかったという。昭和四年五十二歳で死んだが、学説をつぐものは出なかった。
 出典:『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館、2001年)133頁。


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