したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

少林寺拳法or丸廉への批難・文句受容スレ

892ビスキュイ:2004/03/08(月) 12:08
土日は風邪で寝こんだり治ってからは練習行っちゃったりで書き込み出来なかった
のでちょっとカキコ。

>技術を身に付けるためには、ビスキュイさんは「法形たくさん、残りは乱捕」と
>お考えで、私は「法形少し、残りは乱捕」と考えております。明らかに私の方が
>乱捕重視です。ではなぜ、私は乱捕重視なのでしょうか?

ここ少し違うのですよ。見た目はそう見えるかもしれませんがやっぱり違うのですよ。
私は「法形たくさん、残りは乱捕」ではなくて「たくさんの法形を自分の中で整理して
少数のグループに纏め上げろ,そして乱捕りをたくさんして練り上げろ」です。んでこ
の「たくさんの法形を自分の中で整理して少数のグループに纏め上げろ」は実際に法形
の数を減らすことは意味しません。数は多いですけど認識としては少数なんです。柔法
で言えば大体5個(種類)かな?このことに関しては私も学生時代からもやもやと考え
てはいたのですが,卒業後とある先生の御教示により劇的に(まさに劇的に!)思考転
換がなされてようやく明確に意識された考え方なのですが。この「数多い技を自分の意
識の中で少数の技法として認識する」この作業が現在私の考える練習体系においてまさ
に最重要とでも言うべき部分です。んで,この作業は法形練習だけでやるものではない
です。って言うか法形も基本も筋トレも乱捕りも…およそ全ての技術練習はこの作業を
成すためにあると考えます。んで再度繰り返しますが…

「極論を言ってしまえば「形はどーでもいい」のです。って言うか無数に生み出せる
のです。原理・原則さえ把握していれば。」

これ。全ての技術練習はこの境地に至るための手段だと思うのです。無形に至るために
有形を追求するのです。形に追求した結果「あ〜,結局は形じゃないじゃん」って状態
になるんだと思うのです。んでこれも繰り返しになるのですが…

「技は「結果」なのです。しかしこの「原理・原則」は目に見えません。現れてくるのは
「原理・原則」に基づいて行った「動きの結果」だけです。」

この部分。今考えると当たり前の内容なのですが,理解する前にはなかなか分かり難い
内容でした。学生の頃に武専にて
ビス「先生,この技を教えてください!」
先生「(実際に掛けながら)こうこうこうですよ」
ビス「えっ?先生,さっきと掛け方と違いませんか?」
先生「いや,同じですよ」
ビス「いえ,手の捌き方とか足の位置が…」
先生「ああ,そういうことね。それは違うよ。でも同じ掛け方ですよ」
ビス「はあ…?(違うんじゃーん!同じって何よ!!)」
って思ってたりしたものですが。今なら当時先生の言わんとしてたことが少しは理解できる
ような気がします。「見た目の形は相手の体勢によって変わりますが,同じ原理を使って掛
けてますよ」ってことっだったのだと思うのです。だから

「極論を言ってしまえば「形はどーでもいい」のです。って言うか無数に生み出せる
のです。原理・原則さえ把握していれば。」

なんですけど,そのために

「数多い技を自分の意識の中で少数の技法として認識する」作業

が必要で,

法形も基本も筋トレも乱捕りも…およそ全ての技術練習はこの作業を成すためにあ


というのが私の現在の考えです。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板