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少林寺拳法or丸廉への批難・文句受容スレ

869通りすがりの休眠拳士:2004/03/06(土) 02:44
つづき

法形が多いことの障害は、もう1つあると考えています。より正確に言うならば、
法形が多いことよりも、むしろ法形で変化例・応用例を例示してしまっていること
による障害です。

つまり、法形で技の変化の仕方や応用の仕方を細かく例示してしまっていることに
より、「この動き以外のものは間違っている」といった認識を招く危険性が高いと
いうことです。(あくまで危険性が高いという言い方をしたことにご注意下さい)

具体的に言えば、法形は「攻者がaという攻撃を仕掛けてきた場合のAという技は、
攻者がbという逃げ方をしてきた場合はA−1という技に変化させよ。攻者がcという
逃げ方をしてきた場合はA−2という技に変化させよ。攻者と守者の間合いがdと
なった場合はA−3という応用技を行え。守者の体勢がeとなった場合はA−4
という応用技を行え。もし攻者が、最初にa'という攻撃できたならば、Bという技に
変化させよ。その際、攻者がb'という逃げ方をしてきた場合はB−1という技に変化
させよ・・・・・・エトセトラエトセトラ」という例を示してしまっています。

それ故、まず拳士はそれを覚えることに尽力しなければなりません。その変化技を
何度も練習し、技名を覚え、「こう来たらこう返す」という「意図・理由」や、
「その裏に潜む意味」を考えます。そして、守者の体勢がeとなった場合は、
A−1でもA−3でもなく、A−4を用いなければならない理由を考え、その理由
に納得し、いずれは、少林寺拳法の法形の合理性に感激すら覚えることになります。
そして、このような傾向は、高い段位を持ち、少林寺拳法を深く研究している方に
特に見られるように思えます。

しかし、その行為が、法形の変化の可能性を狭めてしまっているのではないかと
思うのです。つまり、法形を研究すればするほど、「これがコレコレなのは、
こういう理由からなのだ」→「こういう理由で、これはコレコレする必然性が
あったのだ」という考えに陥りやすくなっていると思います。
それが転じて、「こう来たらこう返すべきだ」との固まった理屈となり、最終的には
「それは少林寺ではない」などのことを仰る高段の先生方が増えてしまうことにも
繋がってしまうと思います。

ビスキュイさんには大変失礼な事を申し上げますが、ビスキュイさんですら、
上記のような傾向が全くないと断言できますでしょうか?(もし完全に断言できる
のであれば、ご遠慮なく仰って下さい。私の無礼を謝ります。)

この投稿をご覧の方の中でも、「俺はそんなことはない」「ウチの道院は大丈夫だ」
という方はいるかも知れませんが、少なくとも少林寺拳法に内在する特徴として、
上記のような「危険性」が挙げられるのではないかと思います。もともと、丸廉の
HP上で、「法形は応用・変化させてもよい!むしろさせるべきだ!!」などという
主張が声高に叫ばれていること自体が、他武道の人間から見れば、甚だオカシナこと
なのです。
 「なんでこんな当然のことが、敢えて提言されているのだろう…」
その理由は、一般的な少林寺拳法家が、よほど法形の応用・変化に不寛容だから
なのではないでしょうか?


考えを整理しますと、法形が(重複がある故に)多いことは、
 ・過多な要素であり、それゆえ有限な時間の中では、習得・実践・応用が阻害される。
  (もし時間が無限であれば、上記は問題ではありません)
 ・具体的且つ詳細な例を示してしまっているため、例以外の変化に対する寛容性が薄れる。
  (実際、非常に多くの拳士・先生方が陥っております)
というような弊害があるというのが、私の考えです。

ビスキュイさん&皆様、いかがでしょうか?

つづく


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