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尚六SS「永遠の行方」

1名無しさん:2007/09/22(土) 09:45:00
シリアス尚六ものです。オムニバス形式。

21:2007/09/22(土) 09:49:39
夏の間、書き逃げスレでいろいろ投下させていただいた尚六ものは、
3Pのエロネタ以外、すべて同じ設定を背景に持つ話です。
最初は何作もこちらに上げるつもりはなかったのと (せいぜい三作くらいのつもりだった)、
My設定の説明をされてもうざいだけだろうと思って、これまで言及しませんでした。
何かとワケワカメで申し訳ない。

でもこのままではさすがに中途半端ですし、他にもエピソードはあるため、
この際なので書き逃げスレの邪魔にならないよう専用にスレを立てて、
片隅でひっそりやらせていただくことにしました。

もっとも最後まで書ききれるかどうかわかりませんし、
各話で主人公が一定していない上に時間軸も過去と未来を行ったりしますが、
それぞれの話でいちおうのオチはついているのでご容赦ください。
イメージとしては雁主従の想いが通じ合う「永遠の行方」という話を基軸に、
その前後を含めて描くという感じです。
「永遠の行方」本編を書き上げていないため、まだ「前後」のほうしかありませんが。

参考までに、今まで書き逃げスレに上げていた話は、
時系列順だと以下の通りになります。

 ・後朝
 ・続・後朝
 ・腐的酒場
 ・腐的酒場2
 ・体の相性

もしかしたらたまにコメディ的なものもあるかもしれませんが、基本は超シリアス。
投下ペースはかなりゆっくりめのつもりですが、年内にかぎり月一本は投下します。

3たゆたう岸辺(1):2007/09/22(土) 09:52:37
 路寝にある広大な園林のはずれ。雲海を臨むわびしい岸辺で数日ぶりに主の
姿を見かけた六太は、いったんはそのまま見なかったふりを決め込もうとした
ものの、立ち止まってもう一度主の遠い後ろ姿に目をやった。
 あんなふうに王宮で物思いにふける尚隆は珍しい。そんなときは大抵、市井
に降りて、名もない大勢の民に紛れることが常だと今の六太は知っている。
 ひとりになりたいのだ。しかし誰かにそばにいてもらいたいのだ。
 そんなことまで何となく感じ取れるようになってしまったのは肉体関係がで
きたからだろうか。わからない。これまで知らなかった彼のいろいろな顔を見
るようになったのは確かだけれど。

 しばらく雲海を眺めていた尚隆は、やがてその場に腰をおろすと、ついでご
ろりと仰向けに寝転がった。
 潮の香り、寄せては返す波の音。目を閉じれば、今でも遠い記憶がおぼろに
蘇ってくる。遮るものもなく降りそそぐ太陽の光を忌むかのように、閉じた目
の上に腕を置く。
 どのくらいそうしていただろう。草を踏み分けて近づく足音に気づいたが、
身じろぎもしなかった。
 ゆっくりとした足音は尚隆の頭のあたりで止まり、そのまま座りこむ気配が
した。腕をずらしてちらりと見やると、視界の端で金色の光が揺れた。別に尚
隆を見てはいない。両膝をかかえて静かに雲海を眺めている。
 尚隆はそのまま腕を投げだし、ふたたび目を閉じて潮騒の中に身をゆだねた。
 静かな時間が、ただ過ぎていく。
 ふと相手の気配が動いて、尚隆の閉じた目を温かな掌が優しく覆った。
「尚隆。悲しいときは泣いていいんだ。人は悲しいときに泣くことで慰められ
る」
 静かな言葉。見かけは年端もいかぬ少年のくせに、こいつはときどき誰より
も包容力があるところを見せる、と少しおかしく思う。
「王は人ではなかろう」
「人だとも。笑いも怒りもする、飲食できなければ飢えもする。王も人だ。た
だちょっと丈夫で長生きするだけで、心のありようは只人と何も変わらない」
 淡々と綴られる言葉は、不思議と心に染みいっていく。岸辺に寄せる波のよ
うに。
 それとも目を閉じているせいだろうか。闇は人を素直にする。互いの顔が見
えないときのほうが、思いを言葉に乗せやすく、受け入れやすいのは確かだ。
暗い閨での睦言のように。

4たゆたう岸辺(2):2007/09/24(月) 21:12:50
「泣けぬのだ。俺は」
 つぶやくように答えた声が、思いがけずかすれた。
 そうだ、俺は蓬莱にいた頃から、長らく泣いた記憶はない。こちらの世界に
来てからも五百年以上経つというのに、泣いたのはただ一度。
 俺の身代わりになって謀反人の呪を受け、永遠に意識を封じられたままで終
わると思われた六太が、長い眠りのあとで思いがけず目覚めた――それを目の
当たりにしたときだけ。
 お笑いぐさなことにあの事件が起きるまで俺は、自分が六太から離れること
はあっても、その逆の可能性を考えたことは一度もなかったのだ。こいつが殺
されるのでも幽閉されるのでもなく、肉体は側にありながら、心が永劫の彼方
に行ってしまうなどとは。
 この世界に来てからあれほど孤独を感じた時間はなかった。なのに自分は誰
の支えもなくひとりで立っているつもりだったのだ。
 六太こそは、遠い蓬莱での自分を知る唯一の存在だった。俺の根を知ってい
る唯一の。ひとりで蓬莱の亡き民を懐かしむよりも、ほんの一部とはいえ思い
出を共有する者がいると無意識に考えられることが、何よりの慰めだったこと
にやっと気づいた……。
 そんな彼の物思いをよそに、何を考えているのかしばらく沈黙していた六太
は、やがて言葉をつなげた。
「尚隆。人と人は支え合うことができる。助け合うことができる。ただしお互
いの距離は手を伸ばさなければ届かない程度には離れている。片方だけではだ
めなんだ。双方が手を伸ばさないと届かない。しかし手を伸ばしさえすれば何
かが触れる」
「……」
「后妃を娶ってもいいんだぞ」
「莫迦を言うな」
 尚隆は即座に言い返した。――こいつは包容力があるどころか、時折とんで
もないことを言い出すから困る。
「好いた女はいないのか? 偽名ではなく真の名前で呼ばれたいと思う女は?」
「後宮に女人を入れたらどうすると言ったら泣いたおまえがそれを言うか」
 沈黙がおりた。やりこめたと思った尚隆がほくそ笑む。しかしすぐに、絶句
したのではなく、溜息をついていたのだと悟る。まさか俺がこいつに憐れまれ
るとはな……。
「六太としての俺の気持ちは、麒麟としての俺が抑える。おまえが俺を気にす
る必要はない」

5たゆたう岸辺(3/E):2007/09/28(金) 00:25:23
 六太は静かに答えた。淡々と、それでいて優しく。
「俺はおまえが大事だ。麒麟として王が大事、六太として尚隆が大事。その前
には俺のことなどどうでもいい。俺ではおまえの悩みの役に立てないなら、役
に立てる人間をいくらでも側に置いていい」
「……」
「俺は想いを遂げた。僥倖みたいなもんだと思っている。おまえとこうなると
きが来るなんて思わなかった。これ以上は望めない」
「おまえは何も言わなかったな……。長い間、何も気取らせなかった」
 くすりと笑う気配がした。
「宴席で話の種にでもされたらたまらないと思ったからな」
「そこまで主を信用しないか」
「あいにく誰かさんは日頃の行ないが悪いから」
 おどけた調子が声音に混じる。こればかりは分が悪いので、尚隆は黙ってい
る。六太の反応がおもしろくてからかったことが多いのは事実だったから。
「なあ、尚隆。麒麟は王のもので、俺は尚隆のものだ。でも王は麒麟のものじ
ゃない。尚隆も俺のものじゃない。おまえは俺から自由でいていいんだ」
 ある意味では、恋人と距離を置け、と言ったも同然の残酷な言葉。淡々と告
げる六太は慈悲深いようでいて冷たい。冷たいようでいて優しい。
 なぜなら彼は知っているのだ、良きにつけ悪しきにつけ、人というものが変
わることを。変わるなと枷をつけて相手を縛るのではなく、変わってもいいの
だと許す。そうして自分は変わらずにそばにいると無言で慰める。そんな彼を
見る相手がどれほど切なくなるか知らぬげに。
 尚隆が沈黙していると六太も、もはや何も言わなかった。永遠に続く潮騒に
包まれて、時間だけがゆっくりと過ぎていく。
 やがてうとうとし始めた尚隆の耳に、六太の声がひそやかに届いた。
「少し眠れ。眠って夢の中だけでも泣いて人に還るといい」
 尚隆の意識の中で、夢幻と現実の境目がにじんでいく。沈みゆく意識の中で
彼は、六太の掌がそっと離れるのを感じた。足音だけを残して、気配が遠ざか
る。
 まったく主を見捨てて行くとは薄情なやつだ……。
 完全に眠りに落ちる前の一瞬でぼやく。そうして苦さと切なさがないまぜに
なった思いをいだいたまま、二度とくだらぬことを言い出さぬよう今夜は仕置
きをしなければな、と意地悪に考えた。

6たゆたう岸辺(後書き):2007/09/29(土) 12:40:20
「体の相性」の少し前の話になります。
書き逃げスレ300-303の「王后」はこの話から派生した没ネタでした。

「後朝」あたりの六太と同一人物には見えませんが、
あの話の前後は一時的にかなり情緒不安定になっていましたので。
またあれからけっこう時間が経っているため、初々しさも失せています。

最初のイメージでは六太が尚隆を膝枕してあげていたのですが、
そんな甘々はさすがにあんまりだろうということで変更しました。
とはいえ、いつかどこかで膝枕もしてあげていると素で思っています。

7贈る想い(1):2007/10/22(月) 19:31:49
雁主従の想いが通じあったあとの「後朝」などのラブラブ話より数年ほど前の話です。
表面上の主役は鳴賢で、主題は彼のノーマルな失恋を慰める六太の図ですが、
副題は、長いこと片思いをしている六太の心中です。オリキャラあり (名前だけですが)。
-----


「まー、なんだな、女なんて星の数ほどいるさぁ。それに俺たちゃ、卒業して
高級官吏になりゃあ、色街でもモテモテだぞぉ」
「そーそー。そんなあばずれ、縁が切れて正解だぜぇ」
「どうせ最初から間男とよろしくやっていたに違いないって」
 深更の大学寮。すっかりできあがって、それでもいちおう慰めてくれていた
つもりなのだろう、失恋した鳴賢に何かとからんでいた悪友たちは、楽俊と六
太に引っ張られて千鳥足でそれぞれの房間に引き上げていった。
 そんなあばずれ。
 最初から間男とよろしく。
 幼なじみの娘の地味でおとなしい面影がよぎり、わずかに心が痛んだが、鳴
賢はそんな思い出を振り払うように頭を振った。誰もいなくなって静かになっ
た自分の房間で、ささやかな酒肴を載せていた懐紙や酒杯が散乱しているのを
片づける。さんざん飲んだはずなのに、まったく酔った気がしなかった。
 ふと扉が開く音がしたので振り返ると、そこに六太が立っていた。さっきま
で彼が使っていたものだろう酒杯を差し出し、「水だ。飲めよ」と言った。鳴
賢は「ああ……」と頷いて受け取り、書卓の椅子に腰をおろすと酒でひりつい
た喉を潤した。
「楽俊も自分の房間に戻ったぜ」
「ああ」
 六太はさっさと奥の臥牀に座りこんだ。組んだ足の一方の膝に頬杖をついて
鳴賢を眺める。悪友たちに劣らず、この少年も相当飲んでいたはずだが、酔っ
ているようにはまったく見えなかった。
 子供と言っても差し支えない年頃なのに、座りこんでいるその仕草自体が妙
に大人びているのを、鳴賢はあらためて不思議に思った。よほど家庭が荒れて
いて、すれてしまったのか――いや、六太からそんな無秩序でささくれ立った
気配を感じたことは一度もない。口は悪いし、この少年は一見、ただの悪ガキ
のように思える。しかし普段はふざけているようでも実際には真面目な気質だ
し、意外にも繊細で気配り上手でもあった。

8贈る想い(2):2007/10/22(月) 19:33:53
「あんまり気にすんなよな」
「え?」
「玉麗のことをあばずれだとか何だとか――あいつらはそれでおまえを慰めて
いるつもりだったんだよ。気にするな」
 鳴賢は絶句した。自分でさんざん玉麗を悪く言ったくせに、いざ悪友たちに
彼女を罵られてみれば不快だったことを悟られているとは思わなかったからだ。
動揺を隠すために、既に水を飲みほして空になっていた杯に誤魔化すように再
び口をつけ、そして言った。
「別に、つきあっていたわけじゃないんだ。単に幼なじみだったってだけで何
か約束をしていたわけでもないし、それが休暇でたまたま帰省したら結婚して
他の里に移っていて、それをあいつらが勝手に誤解して――」
 言い訳が勝手に口をついて出る。実際、それは本当のことだった。鳴賢は玉
麗と何の約束もしていなかった。内心でずっと、彼女が自分の卒業を待ってい
ると思っていたとか、向こうの態度の端々からもそれを感じ取れたとか、里で
の周囲もそういう目でふたりを見ていたというのは、鳴賢が知らないうちに玉
麗が他の里に移って結婚してしまった今となっては無意味だ。
 もっとも酔いに任せたとはいえ、さっきの飲み会でさんざん、彼女とは目と
目で通じ合う仲だったというようなことを言ってしまっていたので、相手が六
太でなくても誤魔化しにしか聞こえなかったろう。
 だんだん支離滅裂になっていく鳴賢の言い訳が、やがて尻すぼみになってお
さまったところへ、一言も口を挟まずに黙って聞いていた六太が言った。
「年末年始ってのは農閑期でもあるから帰省者も多いはずだけど、その娘は親
元に帰ってこなかったのか。普通、年始の祭りって親戚が集まるから賑やかだ
ろ」
「さあな。亭主のほうの親元にでも行ったんじゃないか」
 鳴賢は投げやりな態度で首をすくめた。六太は「そっか」とつぶやいて目を
伏せた。
「鳴賢は去年は帰省しなかったわけだから、それじゃあ今年はきっと帰ってく
るとわかるよなあ。とてもじゃないが顔を合わせられねえか」
 その言葉に、鳴賢は胸をえぐられたような気がした。実際、故意に避けられ
たと思っていたからだ。六太は目を伏せたまま淡々と続けた。

9贈る想い(3):2007/10/22(月) 19:36:05
「好きな相手を諦めて結婚してさ、でもその相手に会っちまったら、自分が惨
めだもんな……」
「そんなことあるもんか……」鳴賢は顔を背けた。「単に比べただけだろ。比
べて、将来性のあるほうを取っただけだ。俺は卒業も危ういし」
 脳裏に浮かんだ娘のはかなげな顔に、そんな計算高さはまったく似合わなか
ったが、鳴賢は吐き捨てるように言ってのけた。六太は目を上げて静かに彼を
見た。無言のままの様子に、何だか鳴賢は自分が責められているような気分に
なった。
「そりゃ、手紙も書かなかったけど。毎年帰省して会っていたわけでもないけ
ど。でもこっちは允許を取るのに忙しいし、大学に入ったからには卒業しない
と意味ないだろ」
「手紙、一度も書かなかったのか?」
 鳴賢は言葉に詰まった。
「その、つい面倒で――さ。どうせ帰省すれば会うし。でも会っても別に変わ
りはないようだったし」
「恨み言も何も言われなかったのか」
 鳴賢はうろたえて目を泳がせた。手紙のことにしろ、痛いところを突かれて
しまったからだ。
「最初の二年くらいは遠回しに言われたかな……。でも、何て言うか、そうい
うのうるさく感じてさ、適当に受け流して……。大学に入ったばかりの頃は関
弓での生活が楽しかったし。そしたらいつのまにか何も言われなくなってさ。
そうなるとそっちのほうが面倒がなくて」書卓に肘をついて、片手で目を覆う。
「―― 自業自得、か……」
 六太は黙っていたが、やがてつぶやくように言った。
「その子、鳴賢のことがとっても好きだったんだろうな」
「……」
「でも人の心なんて弱いもんだ。鳴賢のことが好きで好きで。鳴賢に会えない
のが寂しくて。それで耐えられなくなっちゃったのかな」
「……」
「それとも自分よりもっとふさわしい女性がいるって思ったのかな。首尾良く
卒業して官吏になったら、鳴賢は高級官吏だ。最低でも下士にはなれて仙籍に
載る。年も取らなくなるし、普通の民にとっては雲の上の存在になってしまう」

10贈る想い(4):2007/10/22(月) 19:38:12
 鳴賢は考え込んだ。はたしてそうだろうか。いや、玉麗はおとなしくて控え
めだが、芯の強い娘だった。自分が高級官吏になったからといって、それだけ
で尻込みするとも思えない。そもそも大学に入った以上、卒業して官吏を目指
すのは当たり前のことだ。単に身を引くなら自分が大学に入ったときにそうし
ただろう。
「幼なじみだったんだ。官吏になろうがなるまいが関係ない」
「それでも、さ。鳴賢が長いこと苦労しながら頑張っているってことは知って
いたわけだ。便りもない、帰省もしない。自分は寂しいけれど、そんなふうに
思うのは鳴賢のためにならないんじゃないだろうか、むしろこのままでいては
いけないんじゃないだろうかって――考えたことがあったのかもな、と思って。
ま、勝手な想像だけど」
「……」
「好きだから……寂しさに耐えられなくて。でも相手には幸せになってほしく
て、だからこそわがままをぶつけられなくて。そして他の男を選んで結婚して、
鳴賢に会わせる顔がなくて。悩んだのかな。鳴賢のことが好きだから。でもそ
のままじゃ鳴賢にも亭主になった人に申し訳がないから。だから故郷を去って
踏ん切りをつけようとしたのかな」
 鳴賢は黙り込んだ。あばずれだの何だのという悪友たちの罵りに比べれば、
はるかに玉麗に似つかわしい想像ではあったが、それが事実かどうかは別の問
題だ。それでも長年彼女を放っておいたという自覚はある鳴賢に、六太の言葉
はちくちくとした痛みをもたらした。
「まあ――何も約束してなかったしな……。別につきあってたわけでもないし」
「それでも八年待ったわけだろ」
「八年か。長いよなぁ……。さすがに卒業も危ういし、見捨てられても仕方が
ないよな……」
「正直に言ってりゃ良かったかもな。允許を取るのに苦労して、先行きどうな
るかわからない。手紙を書く暇もない。でもとにかく死にものぐるいでやって
いるから待っててくれって」
「そんなこと言えるか」
 鳴賢は力なく笑った。こんなことを言われたら普段なら腹が立ったに違いな
いが、今はその気力もなかった。むろん相手が年端もいかない子供にすぎない
せいもあったろう。ここで怒っては年長者の立場がない。

11贈る想い(5):2007/10/22(月) 19:40:14
「自尊心が許さなかった?」
 あっさりと尋ねた六太に、鳴賢は溜息をついた。いくら六太がませていると
はいえ、たった十三歳の少年に男の矜持を説いても無駄だろう。
「おまえにはまだわからないだろうが、男にはいろいろあるんだ。そう簡単に
弱音を吐くわけにはいかない」
「好きあった娘にも言えないのか?」
「だからこそ、だ。通りすがりの見知らぬ人間になら何でも言えるかもしれな
いけどな。知り合いだからこそ言えないってことがあるんだ」
 六太はまた目を伏せた。こういう仕草が妙に大人びている少年だった。
「そうだな。そうして人はすれ違っていくんだ……。身近にいても気持ちを通
じ合えるとは限らない。離れていればなおさらかもな」
 そのつぶやきの切々とした響きに、鳴賢は妙に胸を突かれて相手を見つめた。
ほのかな初恋くらいは経験しているかもしれないとしても、色恋沙汰と形容で
きるほどの経験は積んでいない年頃だろうに、なぜだかひどく心に迫るものが
あった。
「おまえ……。恋したことあるのか?」
「あるよ」
「ふーん……。いつ?」
「今」
「へえ?」鳴賢は途端に興味をそそられた。このこまっしゃくれた子供にも、
そんな相手がいたのだ。「どんな娘だ?」
「言えない」
「俺にばかり喋らせておいてそれはないだろ。内緒にしといてやるから教えろ
よ。何なら助言してやる。少なくともおまえよりは経験があるはずだからな」
 からかったつもりだったが、六太の目は穏やかで、それでいてひどく真摯だ
った。
「悪いけど言えない」さざ波ひとつない水面を思わせる静かな声。「これはお
まえだけじゃない、誰にも言えないことだし、実際、誰にも言ったことはない
から。そもそも片思いだし」
「餓鬼が、もったいぶりやがって」
「そのとおり。大の大人がこんないたいけな子供をいじめるものじゃない」
 六太がやっといつものようににやりと笑ったので、なぜか鳴賢はほっとした。

12贈る想い(6):2007/10/22(月) 19:42:26
「どこがいたいけだ。言っとくが、おまえは子供じゃないぞ」
「今さっき、俺を餓鬼だって言ったくせに」
「ああ、餓鬼だ。餓鬼のふりをしている、こまっしゃくれた餓鬼だ」椅子の上
で、六太のほうに身を乗り出す。「なあ、片思いって言ったよな。もしかして
相手の娘に言ってもいないのか? 言ってみれば案外、向こうもおまえに気が
あるかもしれないぞ?」
「それはありえない」
「へえ? 言い切ったな。もしかしてあれか? 同じ年頃ってわけじゃなく、
近所の姉さんとかか? まさか人妻ってことはないよな? おまえくらいの年
だと、年上の綺麗な女性に妙に惹かれることはあるが……」
「言わない」
「頑固だな」
「俺が死ぬ直前なら、教えてやってもいい」
 不意にほほえんで答えた六太があまりにもはかなく、そして遠く見えたので、
告げられた言葉の重さと併せて鳴賢はぎょっとなった。
「もしそのときおまえが生きていたら教えてやるよ。それで我慢しろ」
 まるで日々、生死を見つめているかのような物言いだった。からかわれてい
るわけではないのは明らかだったので、鳴賢は動揺した。まさか余命いくばく
もないというわけでもあるまいに。
「おまえ……。そのう、何か悪い病気にかかっているってわけじゃないよな」
「ああ。ぴんぴんしてる。普通に考えれば長生きするだろうな。実際にはどう
だか知らないけど」
「ふうん……」
 鳴賢は何とか相づちを打ったが、相手の突き放したような言い方に妙に心が
騒いだ。思春期にはやたらと自分の死について考える時期もあるが、六太の年
頃はまだちょっと早い。それとも以前、身内に不幸でもあったのだろうか。
「そのう――ずっと相手を思い続ける自信があるってことか。まあ、餓鬼の頃
は、そのときの自分の気持ちが一生続くような錯覚をするもんだからな……」
「うん、だからそう思ってろよ」
 六太は諦めたような優しい微笑を浮かべて鳴賢を見た。まるで聞き分けのな
い幼子に対し、あなたにはまだわからないことなのよ、と母親がほほえんでい
るような、やわらかい表情と声音だった。

13贈る想い(7):2007/10/22(月) 19:46:04
 はるか年上の相手に対するとは思えない言いように、鳴賢は「おまえさあ」
と呆れ顔で言いかけた。しかしすぐに「いや、いい」と手を振って口をつぐん
だ。確かに相手は自分の半分以下の年齢だったが、今までそんな年齢差を考え
ずに対等に話していたことに気づいたからだ。それを言えば楽俊の房間で出会
った当初はともかく、もはや日頃から特に年齢差を意識せずに話すようになっ
てしまっていたから、今さらとも言える。
 そもそも六太は子供らしくないのだ。いや、故意に子供っぽく振る舞うとき
もあるが、何しろ語彙と言い知識と言い、大学の悪友たち顔負けなので、普段
は年齢などまったく意識しないで話せてしまう。場合によっては六太のほうが
ずっと年上であるかのような錯覚を起こすくらいだ。そういえば外見に似合わ
ず、この少年は非常に達筆でもあった……。
 六太は淡々として続けた。
「おまえを信頼して言った。だからこのことは誰にも漏らすなよ。楽俊にもだ」
「このことって……。おまえに好きな娘がいるってことか? たったそれだけ
の話なのに?」
「それだけのことでも、今まで誰にも言ったことはないんだ」
「へえ……。そりゃ、六太の頼みなら言わないけど」
「ああ。何があっても、誰にも言わないでくれ。たとえ相手が天帝でも」
「天帝か。大きく出たな。もし言ったらどうする?」
「どうもしない。俺が壊れるだけだ」
「壊れるって……」あっさりと答えた六太に、鳴賢は言葉を失った。
「まあ、そうなっても気にするな。そのときはそのときだ。別に鳴賢を恨んだ
りはしない」
「おまえ……」鳴賢の背筋がぞくりとなった。穏やかな声音とは裏腹に、六太
の恐いほど真剣な心持ちが伝わったからだ。子供の戯れ言と笑い飛ばすには、
あまりにも重たい手触りだった。「言わない」必死に声を押しだす。「絶対に、
誰にも言わない」
「うん。ありがとな」
 六太はほのかに笑った。まるですべてを諦めているかのような……。焦った
鳴賢は必死に考えを巡らせた。

14贈る想い(8/E):2007/10/22(月) 19:49:17
 表沙汰になれば相手に迷惑がかかるというたぐいの話ではなかったため、人
妻やはるかに年上の女性といった、倫理的に問題のある相手に恋しているので
はないだろうか、と考える。もしかしたらこのませた子供は、妓女にでも想い
を寄せているのかもしれない。それなら相手は六太のような子供など歯牙にも
かけないだろうし、知られて恥ずかしい思いをするのは六太のほうだけだ。
 ただ、そこまで真剣な想いをいだいている六太の心情を汲み、せめてその恋
が良い思い出になればいいと鳴賢は願った。もっと成長して相応の相手に出会
ったとき、新しい恋が古い傷を癒すはずだから。六太はまだ幼いから、ある意
味で一途なだけだろう。
 ――そう、いずれ恋は終わるのだ。そして自分の恋も終わったのだ。
「つまんない話をした。そろそろ帰る。まあ、元気出せよな」六太はそう言っ
て立ち上がると、通りすがりざまに、座っている鳴賢の肩を軽くぽんぽんと叩
いた。「玉麗はおまえが幸せになることを望んでいたんだろうから」
 言葉もなく見送る鳴賢を残して、六太は房間から出ていった。楽俊のところ
に戻るのだろう。
 今度こそ誰もいなくなった房間で、やがて鳴賢は「手紙くらい、一度でも書
いてやれば良かったな……」とつぶやいた。相手をつなぎとめるためではなく。
結果は同じだったかもしれないが、少なくともいくらかは寂しさを紛らわせて
やれたかもしれないから。
 自分が本当に玉麗を想っていたかといえば、そうではなかったかもしれない、
と今にして思う。黙って結婚した話を伝え聞いたときは衝撃を受けたが、大学
にいて彼女が気になるというほどではなかったし、允許の問題を除けば、大学
生活を謳歌していたと言っていい。少なくとも賑やかな関弓での生活は楽しか
った。おそらく玉麗ほどには寂しくなかったのは確かだ。
 ――そう。きっと自分はそこまで彼女を想ってはいなかったのだ。
 もしかして黙って結婚したことで、妙な罪悪感を抱いているということはな
いだろうか。それで自分に会うことになるのが後ろめたく、新年だというのに
親元にも帰ってこられなかったということは。
 そうかもしれない。そうでないかもしれない。もはや鳴賢にそれを知る手だ
てはない。でももしそうだとしたら、もういいんだ、と言ってやりたいと彼は
初めて思った。
 玉麗はきっと、自分の幸せを願ってくれただろう。昔からそういう娘だった。
控えめで優しくて、常に他人を気遣っていて。
 だから今度は自分が願おう。どうか幸せになってくれ、と。

15幕間(1):2007/12/02(日) 00:06:47
「後朝」と「続・後朝」の間の尚隆の様子です。
-----


 重要な書類のすべてに目を通して差し戻すべきは差し戻すと、認可を下すぶ
んの書類に署名をし、玉璽を押印する。決裁できる書類は既に幾度も官の吟味
を経て練り込まれ、あるいはいったん差し戻されてのち内容をあらためて奏上
されたものばかりだから、ここまでくればほとんど流れ作業となり造作もない。
おまけにしばらく王宮を抜け出すこともなかったとあって書類もたまっておら
ず、尚隆は午後の早いうちに面倒な作業から解放された。
 冢宰の白沢が、決裁済みの書類を所轄の官府に渡すべく指示を与える。その
様子を眺めながら尚隆はふと、今朝、腕の中の六太が、目覚めるなりおびえた
表情を見せたことを思い出していた。まるで――そう、まるで夢が覚めるのを
恐れるような。あるいは今にも尚隆が「実は冗談だった。からかってすまなか
ったな」とでも言い出すとでも思っているかのような。
 昨夜、想いを告げたときに見せた妙な恐慌と言い、五百年も連れ添ったとい
うのに、あそこまで動揺している六太を見るのは初めてだった。幼い外見に似
合わず、普段はふてぶてしいほど落ち着いている彼が、今朝はまともに尚隆を
見ようとしない。それどころか近づこうともしない。無理に顔を上げさせよう
とすれば、耳まで赤くして金色のまつげにふちどられた目を伏せる。
 むろん恥ずかしがっているのだろうが、その暁色の瞳に時折よぎるおびえの
表情を思い出すたび、尚隆は妙に切ない気分になるのだった。それほど不安な
のか、と。
 だいたい六太はいつも何かと考えすぎるのだ。それにもはや彼らは愛人同士。
好きなら好きで相手に甘えればいいし、人目を気にする必要もない。何と言っ
ても五百年の長きに渡って大国雁を支えた王と麒麟ではないか。それだけの確
固たる実績を築いた彼らに、国政を疎かにしないかぎり禁忌のあろうはずはな
い。

16幕間(2):2007/12/02(日) 00:08:55
 先ほど人払いしたときに六太に仕掛けた戯れを思いだした尚隆は、書卓に頬
杖をついて窓の外を眺めた。さすがの六太も理性が飛んでしまえば快楽に身を
委ねるということか。今夜はどんなふうに抱いてやろうかと考え、自然と好色
な笑みが口元に浮かぶ。むろんまだ無理をさせるわけにはいかないだろうが、
それでも……。
「主上?」
 白沢の怪訝そうな声が耳に届いたが、尚隆は頬杖をついたまま目も向けなか
った。透明な玻璃を通して窓の外を眺めていた彼は、やがて「宰輔の御座所を、
仁重殿から正式に正寝に移す」言った。白沢は一瞬だけ黙り込んだものの、す
ぐに何ら動揺の窺えない声でおっとりと尋ねた。
「正寝とおっしゃいますと……。もし長楽殿の近くということでございますれ
ば、太和殿か玉華殿となりますが。台輔のご身分ですと、規模を考えれば他の
建物というわけにはまいりませんでしょう」
「そうだな、玉華殿でいいだろう。どうせ普段は今のまま長楽殿で寝起きする
のだ。しかし万が一、俺が怪我でもすれば、血の穢れの苦手な六太は近づけん
わけだからな。御座所としては、形式だけでも長楽殿とは異なる建物を用意す
る必要がある」
「仁重殿はどうなさいますか?」
「広徳殿と同じく、靖州府の一部として扱えばよかろう。その辺は任せる」
「すぐに検討を始めますが、そうなりますと侍官や女官の異動も正式に必要と
なりますな。書類の準備に、二、三日、お時間をいただいてもよろしゅうござ
いますか」
「ああ、別にかまわん。どうせ俺と六太の生活は変わらんからな」
「ではすぐさま太宰に諮って詳細を煮詰めることにいたします。警護の問題も
ありますから、とりあえず大司馬には今日のうちに簡単な話を通しておきまし
ょう」

17幕間(3/E):2007/12/02(日) 00:19:39
「任せる」尚隆はそう言ってから、思いだしたように言葉をつなげた。「――
ああ、長楽殿と玉華殿の周囲の園林も整えさせろ。あの辺は仁重殿と違って大
きな花木が少ないから、今のままでは華やぎがなくて六太がつまらんだろう。
どの季節でもいろいろな花を見られたほうがいい。それも桃とか梅とか、あり
ふれたものがよかろうな。気取ったものはいらん」
「かしこまりまして」
「もっともさすがに冬に花は無理だろうが……。そうだな、長楽殿のそばに小
さな温室を作らせるか」
「温室……でございますか?」
「ああ、以前戴で見た。玻璃で作った建物の中で草木を育てるから、戴の厳し
い冬でも花が咲くのだ。慶の玻璃宮も似たようなものだが、あれほど豪勢なも
のになると逆に六太の好みではないだろう。それから後宮の梅林にあるような
小川と池も周囲に作ってくれ。そこに魚でも放して泳がせれば六太が喜ぶだろ
う。この季節は水遊びもできるしな」
「なかなか大がかりでございますな」
 さすがに呆れたのかと思って、ようやく尚隆が白沢の顔を見やると、白沢は
穏やかな微笑を浮かべていた。尚隆も笑って返す。
「なに、これまでほとんど手を入れてこなかったのだ、園丁たちも張り合いが
出よう」
「ではさっそく」
 白沢は丁寧に頭を下げると、こちらは状況がよくわからずに目を白黒させて
いた何人かの官を引き連れて、執務室を出ていった。そして一息いれるべく女
官に茶の用意をさせた尚隆は顎に手をやって、はてさて何か六太がほしがって
いる物があったかどうか、あれこれと記憶を探りはじめた。

18続・たゆたう岸辺(1/4):2008/01/20(日) 01:52:49
「たゆたう岸辺」の直後の話。
書き逃げスレ305に書いた台詞の話がこれです。牀榻編ですが、エロはありません。

王后ネタで投下したいとおっしゃってくださったかたがいらしたので控えていたのですが、
あれから半年経ったことでもあるし、そろそろいいかな、と。
(もしこれから投下する予定だったらすみません)
-----


 その夜、六太はわざと遅くに王の臥室に戻った。主と同じ臥牀を使うように
なってからしばらく経つ。燭台のひそやかな灯りがだけが揺れる中、被衫姿の
六太は、精緻な透かし彫りの折り戸が半分ほど閉じられた牀榻の帳の奥の気配
を窺った。
「お休みのようです」
 六太の影に潜んでいる沃飛が、やっと聞こえる程度の小さな声で答えた。六
太は足音を殺して牀榻に入りこむと、静かに折り戸を閉めた。奥で寝ている主
を起こさぬように注意して衾の手前を持ち上げ、そっと中に潜り込む。
 だが枕に頭をつけるや否や、強い力で手首をつかまれて奥に引っ張られ、狸
寝入りをしていた尚隆に乱暴に組み敷かれていた。呆気にとられて主を見上げ
る。
「二度とくだらぬことを言わぬように、仕置きをしてやろう」
 暗がりの中で主の顔はよく見えないが、意地悪な笑いが彩っているのは六太
にもわかった。
「何のことだよ?」
「后妃を娶っていいだと? そうしてまたおまえは誰もいない場所で泣くのか」
「尚隆……」六太は茫然とつぶやいた。
「おまえは何もわかっておらぬ」
 押し殺したような声。六太はむっとして答えた。
「ああ、わからない。言葉に出してくれないと、誰にも何もわからない。俺を
大事だと言ってくれないと、俺にはわからない」
 乱暴な物言いのようでも、昔と違って尚隆に返す言葉の扱いを決定的に間違
えることはない。それだけの長い歳月をこの主と過ごしてきたのだ。

19続・たゆたう岸辺(2/4):2008/01/20(日) 01:55:07
 尚隆は黙り込んだ。六太がそのままじっとしていると、やがてかすかな吐息
が聞こえて、主を包んでいた張りつめた気配が消えた。手首を痛いほどつかん
でいた手が離れ、片方の掌がそっと六太の頬に添えられる。
「……おまえが大事だ」
「うん……」
 優しく自分を覗きこむ顔を見つめる。六太は頬をなでる尚隆の温かい掌の感
触にぞくぞくするほどの歓喜を覚えたが、その反応の大半を反射的に押さえ込
んだ。これはもう習い性のようなものだ。何しろ想いを秘めていた時間が長す
ぎた。
 そんな彼の心中を知らぬげに、尚隆が諦めたように笑った。
「后妃を娶れ、か。寵姫に見捨てられるとは、俺も長くはないかな」
「誰が寵姫だ。俺は男だって言ってんだろ」
「何なら王后の称号をやろうか」
「阿呆。俺を十二国中の笑い者にする気か」
「なに、ふたり一緒に笑い者になれば良かろう」
「おまえなー……」
 六太は呆れて溜息をついた。しかしこんな冗談を言うくらいだ、とりあえず
はもう心配することもないのかもしれない。
 もっとも別の意味で油断は禁物。冗談だと思って放っておくと、この王は本
当に莫迦な勅命を出すことがあるからだ。おまけにその騒動から六太が無縁で
いられることはほとんど期待できない。
 六太は「この莫迦王」とつぶやいたが、そのままのしかかってくる尚隆に素
直に身をゆだね、深い接吻に応えつつ彼の首に腕を回した。そうしてとっくに
馴染んだ愛撫に溺れながら、いつものように頭の片隅で、泣きそうなほど深い
想いを自覚する。
 本当は后妃なんか娶ってほしくない。いつまでも自分だけを見ていてほしい。
でも。
 この尚隆の情熱が恐い。とことんまで彼を恋うる自分の弱さが恐い。そんな
自分がいつか尚隆の重荷になってしまうのではと考えてしまうことが恐い。
 尚隆と結ばれて以来、六太はいつか訪れるだろう破局を恐れずにはいられな
い。あまりにも深く激しい想いゆえに。

「大したことではないのだ」

20続・たゆたう岸辺(3/4):2008/01/20(日) 01:57:44
 仰向けになって牀榻の天井を眺めていた尚隆が、不意に低くつぶやいた。彼
の片腕に抱かれて寄り添い、頭をその広い胸に押しつけていた六太はわずかに
顔を上げ、尚隆の愁いを含んだ横顔を見やった。
「貞州の沿岸でな――」
 尚隆は上を向いたまま淡々と語った。青海沿いの里で漁師たちの手伝いをし
て漁に出たのだという。そうして彼らとともに数日を過ごして王宮に戻り、雲
海の波を見ていたら急に、いったいここで何をしているのだろうと自分がわか
らなくなった。故国と同じようにここにも波は打ち寄せるのに、何だかずいぶ
んと遠くに来てしまった、と。
 ――そういうことか。
 六太は目を伏せると、苦い思いを飲み込んでほのかに笑った。
「おまえは向こうで育ったんだから、ふとした拍子に思い出すのは当然だ。蓬
莱じゃ、三つ子の魂百までって言うくらいだろ。四つまでしかいなかった俺だ
って、いまだに向こうのことは忘れられない。両親のことも兄弟のことも、い
つだって俺の根っこにある。それに人間ってのは意外と、ちょっとしたことで
もすごく落ちこむもんだ。逆にちょっとしたことでめちゃくちゃ慰められたり
もする。おまえが惑っても不思議はない」
「そうだな……」
「とりあえず進歩だ」尚隆の顔を直視して、わざと明るく言う。
「うん?」
「以前のおまえなら、俺にだって何も話さなかった」
 尚隆はちらりと目だけを六太にやり、口の端に苦笑を浮かべた。
「その頃は別におまえは恋人ではなかったろうが」
「そりゃそうだ」
 六太も笑いを含んだ声で同意してから、すぐに「今は?」とからかうように
問うた。
 尚隆はやれやれといった態で体を傾けて向き直るなり、「俺の大事な伴侶だ」
と答えた。六太はにやりとして、彼の裸の胸に人差し指を突きつけた。
「王后の称号なんて俺に下すなよ。そんなことをしたらおまえを捨ててやる。
捨てられたくなかったら、俺と同衾するだけで我慢しとけ」
 尚隆は大仰に溜息をついて言った。
「つくづく思うのだが」
「何?」
「俺は恐妻家かも知れん。どうもおまえには頭があがらぬようだ」

21続・たゆたう岸辺(4/E):2008/01/20(日) 01:59:48
「へえ、それで? 何でも好き勝手やってるくせに?」
 上体を軽く起こして六太の顔を覗きこんだ尚隆は、困ったような微笑を浮か
べた。
「好き勝手やっているように見えるか?」
「見える」
「錯覚だ」
 そう言うと尚隆はふたたび六太の体を抱き寄せた。六太はわざと唇を尖らせ
て「そろそろ寝ろよ」と言ったが、抵抗はしなかった。

 尚隆が寝入ったのを見計らって、六太はそろりと体を起こした。傍らの主の
寝顔をそっと見つめる。声は出さない。先刻のように、眠っているように見え
てその実起きていることもあるから、こいつは油断がならないのだ。だから心
中で独白するに留める。
 后妃云々に対する尚隆の過剰な反応は、理無い仲になってからあまり経って
いないためもあろう。よく行為の最中に、何やら核心を突いた言葉を自分から
引き出そうともするが、そのときに自分が何を言っているのか、ほとんど覚え
てはいない。嘘をつく余裕も考える余裕もないから、きっと正直な心情を吐露
してしまっているとは思うけれど――とはいえ悦楽のさなかに発する言葉など、
その場の勢いのようなものだ。あまり深刻に受け取めても仕方がないとわかっ
ているだろうに、こいつは何を考えているのやら。
 六太は吐息を漏らして、衾ごと自分の膝をかかえた。そのまま頭を膝に押し
つけ、しばらく夜の静寂に身をゆだねる。
 いつまでもこの仲が続くとは限らない。というより寿命のない神仙において、
恋愛関係が長持ちすると楽観するほうがどうかしている、そう現実的に考える。
だから覚悟だけはしておく。誰のためでもなく、尚隆のために。決めるのは自
分ではなく尚隆だから。
 既に想いを遂げたというのに、なんて贅沢な物思いなのだろう。昼間、尚隆
を惑わせた潮騒が、六太にもひそやかに押し寄せる。幻の波の音に包まれて、
自分はいったいどこへ行くのだろうとぼんやり考える。
 ――あさましい。
 いつかの呪者の嘲りが、六太の脳裏を離れることは永遠にないだろう。民の
安寧を願うべき麒麟が、それこそが存在意義である麒麟が、第一にみずからの
幸福を願うなんて。永遠に王に愛されることを願うなんて。
 朝は、まだまだ遠い。

22永遠の行方:前書き:2008/01/26(土) 14:19:51
雁主従の想いが通じあうまでを描くシリアス長編です。
ある程度きりの良いところまで書き上げたら、
それごとにたまに投下させていただきます。

[時系列]
 ・贈る想い
 ★永遠の行方(時期的には「後朝」〜「続・後朝」も含む)
 ・後朝
 ・幕間
 ・続・後朝
 ・腐的酒場
 ・腐的酒場2
 ・たゆたう岸辺
 ・続・たゆたう岸辺
 ・体の相性

なるべくオリキャラを出さず、名無しのモブキャラで構わないところは
代名詞や役職名などでぼかしていくつもりです。
それでも長編とあって、全編をそれで乗り切るのは無理なので、
名前のあるオリキャラがけっこう出ばってくることになるかと思います。

それからこの話では、雁の三官吏は、とっくに三官吏ではなくなっています。
そのため三官吏好きには、ちょっとした表現でも抵抗があるかもしれません。
これまたはっきりとは書かず、ぼかすつもりではいるのですが、
人によってはそこから連想してしまうだけできついと思われるため、
ご覧いただける場合は充分にご注意ください。

23永遠の行方「序(1/10)」:2008/01/26(土) 14:25:16
ああ、間違ってageてしまった……すみませんorz
---

 彼は待っていた。決して来るはずのない者を。
 この郷に潜んで、はや八日。女を買うことも博打を打つこともなく、宿を点
々としながら、ただひそやかに逗留している。
 そんなふうに身を潜めていても、首都である関弓でならばとうに居所が知れ、
しびれを切らせた官たちが迎えを差し向ける頃合いだろう。しかしここは関弓
からは遠い。普段の彼が好むような、華やかな歓楽街もない。彼を捜そうとす
る官たちが捜索網から簡単に除外するようなありふれた町のひとつでしかなく、
彼を見つけるにはよほどの強運と機転が必要だろう――彼の第一の臣以外には。
 本当に火急の用件があるとき、官たちは第一の臣に頼みこんで彼を捜させる。
そうして彼は、臣の「毎度毎度、面倒をかけやがって」というぼやきとともに
宮城に戻ることとなる。
 「毎度毎度」というが、実際には長い治世の間にほんの数度のことでしかな
かった。それでも臣はぶつぶつと文句を言うのだ、「この昏君」だの「馬鹿殿」
だのという修飾をつけて。呆れ果てたように。今はもう、聞けなくなった懐か
しい声で。

 騎獣に乗った尚隆が禁門に降り立ったとき、官たちは十日に及ぶ不在に何も
言及せず、うやうやしく出迎えただけだった。
 最前にいた朱衡が、拱手して「お帰りなさいませ」と応ずる。尚隆は彼にち
らりと目を向けたのみで、足早に宮城内に入った。いつも通りの、何も変わら
ない情景。
 何の躊躇も見せずに正面を見据えて歩きながら、尚隆は低く「六太は」とだ
け問うた。彼の斜め後ろに従っていた朱衡が「お変わりございません」と答え
る。あるかなしかの空白ののち、尚隆は乾いた声で「そうか」と返した。その
空白の意味を汲みとれる者は、ここでは朱衡だけだったろう。
「主上に決裁を仰ぐ書類がたまっていると冢宰が。それから台輔のことで謁見
を求めている者が数名おります」
 事務的に淡々と報告する朱衡に、尚隆は短く「わかった」と答えた。
 着替えのため正寝に戻る前に、尚隆はひとり仁重殿に向かった。十日ぶりに
王を目にした仁重殿の女官たちだったが、いつものように静かに主君を迎えた。
尚隆が宰輔の臥室に向かうと、既に心得ている彼女たちは潮が引くように御前
から下がり、すぐに臥室には誰もいなくなった。

24永遠の行方「序(2/10)」:2008/01/26(土) 14:30:22
 目の前の牀榻の扉は広く開けはなたれ、帳は巻き上げられて、臥牀の様子が
よく見える。その奥に六太の小柄な体が横たわっていた。それはこの一年、ま
ったく変わらない光景だった。
 時折、ぼんやりと目を開きはするが、焦点は結ばず何も見てはいない。放心
しているだけとも思えるが、実際のところ六太の意識はなかった。肉体はここ
にあるのに、心が空っぽの状態。人形と何も変わらない。
 呪者が死に、蓬山からも芳しい返答がない以上、六太にかけられたこの呪が
解ける見込みはなかった。一年の間、玄英宮は手を尽くしてきたが、もはや万
策は尽きたと言える。
 だが、これこそが六太の意思なのだ。王の身代わりとなって呪を受け、死ぬ
まで眠り続けることが。
 天地の気脈から力を得る麒麟は、このような姿になっても生命に別状はない。
だから災いは尚隆には及ばない。それを確認した上で、六太はみずから呪を受
け入れた。呪者の術中に陥った尚隆を助けるため、その身代わりとして自分自
身を差し出したのだ。
 意識もなく横たわる六太を見つめる尚隆の目には、悲しみでも苦しみでもな
く憤りが宿っていた。うかうかと敵の術中にはまったおのれへの。そしてみず
からを贄として差し出した六太への。
「……阿呆めが」
 幾度つぶやいたか知れぬ言葉を、今度も無意識のうちに口にのぼせる。
 六太としては仕方のない選択だったのかもしれない。しかしそれはある意味
では、術中の尚隆を看過すること以上に、彼を見捨てることだった。
「長い生を、ひとりで生きろと抜かすか……」
 怒りに震えた低い声は、他に聞く者もなく、ただ房室の壁に吸い込まれて消
えていった。

 宰輔の実質的な不在は、それ自体は確かに大事件であったが、国家の安泰の
前には些末なことにすぎなかった。

25永遠の行方「序(3/10)」:2008/01/26(土) 14:36:08
 呪をかけられた六太が意識不明のまま国府に運びこまれたのが一年前。当初
こそ官の間に激しい動揺が見られたものの、六太の生命に別状がなく、従って
王にも王朝にも本質的な害を及ぼさないとわかると、彼らは一様に安堵した。
何しろ王も宰輔も呪に囚われ、すわ王朝の瓦解かと激震が走った直後だったの
だ。六太が意識不明に陥ると同時に尚隆の呪が解け、この事態が王の身にまっ
たく害をなさないとわかった以上、官が思わず胸をなでおろしたのは無理から
ぬことだったと朱衡も考えていた。
「確かに台輔はお気の毒だが、主上のため、ひいては国家のために台輔ご自身
が主上のお身代わりになると決意されたとのこと。われらとしては、そのお気
持ちにただ感謝を捧げるしかあるまい」
「国の安寧こそ台輔の最大の願いであられるはずだからな。ここは台輔のご厚
情に甘えても良いだろう」
 かなりの官が密かにそんなささやきをかわし、王朝にも、従って自身の身分
や生活にも支障がないことに安堵した。
 今回の一連の事件については玄英宮に箝口令が敷かれ、決して雲海の下に漏
れることのないよう細心の注意が払われていたこともあり、宮城内においてさ
え、表立って宰輔のことを口にすることは憚られた。噂をする者もなく、あえ
て話をそらして仁重殿のほうを見ないように過ごせば、だんだんそれが当たり
前になってくる。また一般の官に漏れ聞こえてくる王や側近の様子も以前と変
わりなく思えたため、それで安心してしまったということもあるだろう。
 それどころか朱衡の耳には、呪者も死んで回復の見込みがない以上、王は宰
輔を捨て置きたいのだが、外聞を考えてなかなかそれができずに困っているの
だというまことしやかな噂さえ聞こえていた。今は数日に一度程度、仁重殿に
見舞いに赴いている王だが、いずれ時期を見て取りやめるつもりだろうとも。
実際、当初は毎日のように宰輔を見舞っていた王なのだから、そのように受け
とめられても仕方がない面はあった。
 もともと雁の王と麒麟は、むろんこれだけの大王朝である以上、決して仲が
悪いはずもないが、かと言って私的な意味で仲が良いと思われていたわけでも
ない。むしろどちらも出奔好きで、ひとりで好き勝手に姿をくらますことが多
かったせいで、つかず離れず、それぞれがわが道を往く独立独歩の主従だと受
けとめられていた。そのため王には第一の臣下に対する通り一遍の感情しかな
く、それも使令さえ封じられて木偶同然となった今、ただそこにいて王の生命
を担保しているだけの存在でしかないと思われたのだ。

26永遠の行方「序(4/10)」:2008/01/26(土) 14:44:35
 下官ならまだしも、王と直に接する機会のある高官にもそう考える者が少な
くなかったから、真に王や宰輔と近しい側近たちは、怒りよりも脱力感に囚わ
れた。
 もともと延王は、くだけているようでいても実際は内心を容易く臣下に見せ
るたちではない。だからこそ事件の前後も様子が変わったようには思われず、
そのことが官たちに安心感をもたらした面はあるのだが、逆に宰輔を見捨てる
つもりなのだという噂にも一定の信憑性を与えたのだった。
 しかし日常的に王と身近に接する側近たちは、一般の官が安堵してすっかり
落ち着いてしまった今になって、むしろ焦燥に駆られることが多くなった。王
の人となりをよくわかっている彼らの目には、最近の王がどう見ても尋常では
ないように映ったからだ。
 誰の目にもわかるほどの明らかな変化ではなかった。しかし放心したように
座りこんでいたり、玻璃の窓の傍らに立ち、静かに遠くを眺めていることが多
くなった。何よりも自然な笑みを浮かべることがなくなり、めっきり口数が減
った。
 それだけに事件以来、短時間の外出以外は珍しく王宮に留まっていた王が初
めて行方をくらませたとわかったときは、冢宰の白沢以下、六官の長が雁首を
揃えてどうすべきかを内密で協議した。とはいえ結局、彼らにできることは何
もない。精力的に執務を行なって国家の安泰を保つことで影ながら王を助け、
これ以上主君の心にさざなみが立たないよう、気を配るのがせいぜいだった。
そのため、いつも通り王の還御を待つこと、ただし火急の用件がある場合には
鸞を飛ばすことを申し合わせただけで終わった。
 王と直接、声の親書をやりとりできる貴重な鸞は、むろん臣下が勝手に使っ
て良いものではない。しかし王が不意に姿を消すことの多い雁では、昔から時
折使われてきた。鸞は名宛人がどこにいても一直線に飛んでいく生き物だから、
行き先も告げずにふらふらと出歩く主君を持った彼らには、同時に宰輔も姿を
くらませていたりして当てにできないときは最後の手段になりうるのだった。
 それに王の心中がどうあれ、帰る場所はここしかないのだということもわか
っていた。

27永遠の行方「序(5/10)」:2008/01/26(土) 14:51:06
 王が姿を消して七日を過ぎる頃になると、朱衡はそろそろ戻ってくる頃合い
だと感じた。そして翌日から日に何度か、さりげなく禁門の様子を見に行くよ
うになった。だからそれから二日後に、何の連絡もなしに戻ってきた王を彼が
出迎えられたのは、決して偶然というわけではない。
 厳しい表情で足早に歩く王のあとに従いながら、朱衡は最低限伝えねばなら
ない事項のみを簡潔に奏上した。冢宰を始め六官の長を歴任してきたとはいえ
現在は秋官長にすぎない彼が、まるで冢宰のような振る舞いではある。しかし
この程度のごく簡単な奏上なら、むしろ数日ぶりに主君を迎えた側近として当
然の務めと言えるだろう。
 やがて衣服を整えた尚隆が、謁見を求めていた地官府の高官を引見したとき、
その場にいた白沢にも朱衡にも、一見しただけでは王の様子に変わりがないよ
うに思えた。尚隆が妙に静かな雰囲気さえまとっていなければ、彼らも特には
何も思わなかっただろう。
 しかしいつもの主君に不似合いな空気は、側近らの心に警戒心を呼び起こし
た。非常事態が続いていると言える今、できれば官からの雑音を主君の耳に入
れたくはなかったのだが、何しろ今回は小司徒以下、地官府の相応に有能な高
官たちが正式に謁見を求めていた。王自身が会うことを拒んだのならまだしも、
宮廷内の秩序を保つ意味でも、冢宰らの一存で簡単に握りつぶすわけにはいか
ない。
 普段なら王は「面倒だ」と言って、すぐ面を上げさせるのだが、今日は叩頭
した地官たちに何ら声をかけず、冢宰を通じて謁見の趣旨を述べるよう指示を
出すに留めた。小司徒たちは叩頭したまま、くぐもった声で奏上した。
「おそれながら、主上はもう充分に手をお尽くしなされました」
 開口一番、小司徒はそう言った。朱衡は思わず凍りついたが、玉座を見やっ
た限りでは、王は何の反応も見せなかった。

28永遠の行方「序(6/10)」:2008/01/26(土) 14:53:20
「こたびの台輔のご不幸、主上のお苦しみは臣めも重々承知してございます。
しかしながら台輔のお命さえご無事なら、王朝には大事ございません。何より
ここまで手をお尽くしなされたのですから、たとえ蓬山の尊き方々といえど、
主上をお責めになることなどできますまい。いえ、むしろこうなっては台輔の
ことは早々に諦めたほうがよろしいでしょう。国家のことを思えば、お目覚め
になる見込みのない台輔に、いつまでも主上がお心を砕いていてはなりません。
このようなことを申しあげる臣の不忠を、どうぞお咎めあそばして、首を切る
なり何なりお好きになされませ。しかしながら主上のため、ひいては国家のた
めにご自身を犠牲にされた台輔のお心を今一度お汲みあそばして、ここは心を
鬼にして、台輔はお捨て置きください。それこそが主上の王としての責務にご
ざいます」
 正論ではあった。国家のために苦渋の決断をし、自身の生命を顧みずに王に
諫言する忠臣の姿がそこにあった。小司徒たちに最近、汚職の疑いがかかって
いること、そして影で「王は宰輔を見捨てたいのだが、外聞が悪くてそれがで
きずにいる。適当な口実が必要だ」と言っていたことを朱衡が知らなければ、
この諫言には一理も二理もあると考えただろう。
 小司徒たちは、これで王におもねったつもりなのだった。おそらくこの諫言
を、宰輔を見捨てるための口実として王が飛びつくと思っているのだ。むろん
王が彼らに罰を与えるとは考えていないに違いない。
 玉座の上の尚隆は、相変わらず静かに座していた。もしや憤るのではと思っ
た朱衡だったが、むしろ逆に気力を萎えさせてしまったように見えた。
 しばらく不自然に沈黙していた王は、やがて大きく息を吐くと、力のない声
で「さがってくれ」と言った。叩頭したままの小司徒たちは、覇気のない王の
声調子に何を思ったのか逆に勢いづいた。
「蓬山でさえ手の施しようがないとのご回答なのですから、主上がお気に病ま
れる必要はございません。また台輔のお命に別状がない以上、王国の安泰は変
わらず。どうぞお心を安んじられて、国家のためにお尽くしくださいますよう。
それが台輔の最大の願いでもあらせられると存じますゆえ」
 最大の願い。それこそが鍵であることを知っていた朱衡らは、何も知らずに
不用意にその言葉を持ちだした小司徒に、今度こそ慄然となった。

29永遠の行方「序(7/10)」:2008/01/26(土) 15:00:04
 とはいえ王はまったく顔色を変えなかった。それどころか、やがて気力を取
り戻したようににこやかな声で言った。
「おまえたちの言い分はわかった。考慮しておこう。ご苦労だった」
 それを聞いた小司徒たちは「ははーっ」といっそう床に額をこすりつけた。
内心で「やった」と思っているだろうことが朱衡には容易にわかり、反吐が出
そうだった。王の苦しみを察しながらも真に国家を憂えて、断腸の思いで同種
の諫言をなそうかと思い悩んでいる官もいることを知っているからなおさらだ。
 王は鋭く目を細めて、壇上の玉座から彼らを睨みつけている。その有様に朱
衡は背筋が寒くなったほどだが、叩頭している地官たちは気づかない。
「すまないが、政務があるのでこれで失礼する」
 そう言ってさっさと退出した王のあとを、白沢と朱衡があわてて追う。その
彼らを振り返ることなく、尚隆は静かに、だが鋭利な刃物のような趣で冷たく
「あやつらを城から放り出せ。二度と俺の前に出すな」と命じた。
「それは」
 驚いた朱衡は反射的に言葉を返したが、それ以上は言えなかった。白沢に目
で制され、執務のため内殿に向かう王を黙って見送る。
 普段の王なら、自分の感情と官の任命や罷免の問題を完全に切り離す。少な
くとも冢宰や六官の長の任命はそれとして、それより下位の官については実績
のある長たちに任せてきた。しかし今の王には、それだけの精神的余裕がなく
なってしまったとしか思えない。余裕がないならまだましなほうで、万が一に
でも国の先行きを気にしなくなってしまったのであれば、遅かれ早かれ王朝自
体が傾いてしまう。
「確か小司徒には汚職の疑いがあるという話でしたな。その件はどうなりまし
たか?」
 内密に話を詰めるために引きこもった房室で小卓を挟み、白沢が朱衡に尋ね
た。朱衡はうなずいた。
「内偵を進めた結果、証拠固めはほぼ終わりました。それで視察に出ておいで
の大司徒が関弓に戻られ次第、処遇を諮る予定でした」
「なるほど。ではそれを根拠に、自然な形での罷免は可能ですな」
「しかし先ほどの謁見があった以上、今すぐというわけにはまいりませんよ。
あの諫言が原因だと考えて王を逆恨みしかねないのはもちろん、正論を述べた
忠義の官を私情で切る王に悪評がついてしまいます。いくらこれまで主上が好
き勝手やってこられたかただとはいえ、今回の件とは性質がまったく違います」

30永遠の行方「序(8/10)」:2008/01/26(土) 15:04:12
 白沢もうなずいた。
「決して王の威信に傷をつけてはなりませんぞ。大王朝も傾くときは一瞬です
からな。それでは何のために台輔がご自分を犠牲にされたのかわからなくなっ
てしまう」
「はい……」朱衡は唇をかんだ。「二ヶ月ほど様子を見て……。その間は大司
徒に、何とか彼らを王の目に触れさせないようにしていただいてしのぐしかな
いでしょう。それから内偵の情報を小出しにし、まずは汚職に関わった末端の
官を捕らえて小司徒を焦らせます。最終的には正当な諫言をした忠臣に対し個
人的に至極残念だという扱いで、拙官が小司徒らを捕らえさせるつもりです。
この際です、冢宰も何かあれば、拙官を盾に。宮城内が落ち着かない今、小司
徒に限らず、これから不心得者がはびこる恐れがあります。しかしこれでも六
官の長を歴任してきたのですから、大抵のことは拙で何とかなりましょう」
 すると白沢は眉をひそめた。
「大司寇。主上の登極当時からの側近中の側近が、いくらこのような内々の場
とはいえ、簡単に矢面に立たれるようなことを口になさるものではない」
「ですが」
「諸官の大半は王の健在が揺るがないことを知って安堵しているが、御身は違
う。元州を皮切りに、擁州、光州と、州規模の謀反は幾度もありましたが、首
謀者の人数は小規模ながら、ある意味ではこたびの事件はそれらとは比べもの
にならない。おそらくこれは王朝が始まって以来、最大の危機なのです。主上
のためには、そう過たず理解している者が常におそばにいて、お支え申しあげ
る必要がありますぞ」
「その役目は冢宰が」
 そう抗弁しようとした朱衡を、白沢はいつになく強い調子で遮った。
「元逆臣の拙と御身とでは、重きがまったく違いましょう」
「古い話を……」
 朱衡は困惑した。見た目も実年齢も白沢のほうが上なのに、この真面目な冢
宰は、何百年経っても朱衡に丁寧な態度をくずさない。朱衡の視線に気づいた
白沢は苦く笑った。
「何も拙は、不必要に自分を卑下しているわけではありません。ただ、主上の
お心に添おうと心がけると、自然とそういう結論になるのです。それにこうい
うときだからこそ、少しの傷でも命取りとなりかねません。どうぞ御身を大切
に。不心得者になど決して足をすくわれませんよう。王を支える重臣がひとり
たりとも欠けないことが重要です。何かあれば、必ず拙めにご相談ください」

31永遠の行方「序(9/10)」:2008/01/26(土) 15:09:28
 不承不承うなずいた朱衡は、少し考えこんだあとでこう言った。
「これは大司寇としてではなく、あくまで個人として行ないたいのですが……。
景王にご助力をいただき、今しばらく主上の気を紛らわせていただけるようお
願いするわけにはいかないでしょうか」
「それはどういうことで? 確かに景王は、他国で今回の事件のあらましを知
る数少ないひとりとして、定期的に台輔のご容態を問い合わせてくださってい
ますが」
「はい。景王はもともと台輔とかなり親しくしておいででしたし、主上のこと
も尊敬しておられるかたです。なかなか事態が進展しないことで、あのかたも
焦れておいでということもあり、しばらく玄英宮にご滞在いただき、主上の話
相手なりとしていただければと。少なくとも官の変わりばえのしない顔を見る
より、多少は主上の気が紛れるのではないでしょうか。むろん慶には迷惑なこ
とでしょうから、あくまで拙官が私人として景王に打診することとして、お礼
も拙の私財からということで。こう申しては何ですが、慶の財政状況はいまだ
に厳しい様子。大国である雁との結びつき自体は歓迎されるはずですし、何ら
かの見返りがあれば、景王の金波宮でのお立場もそう悪くなることもないので
はと。それに今、雁に斃れてほしくはないはずですから、景王もいろいろと考
慮してくださるはずです。むろん勝手な言い草ですが、今はとにかく少しでも
時間を稼ぎたいのです」
「なるほど……」
「それから光州候に、現在の状況を伝える書簡を送りたいのですが。こちらも
私信扱いで」
「光州候に、ですか」
 白沢の含みのある相槌に、朱衡は力なく笑った。
「おそらく州城でやきもきしているでしょうし……。何しろ今回の事件が光州
で起きたため、決してあからさまに疎まれているわけではないにしろ、王宮で
の光州候の評判は芳しくありません。もとともと光州は二百年前の謀反の件も
ありますから、州候が変わっても、何かあった折には思い出されるのでしょう」

32永遠の行方「序(10/E)」:2008/01/26(土) 15:13:28
 そこまで言って朱衡は言葉を切ったが、白沢は何も気にするふうはなかった。
 確かに白沢の言い分は正しい。いったんついてしまった汚点は、当時を覚え
ている者がいるかぎり、なかなか拭いされるものではないのだ。普段は忘れさ
られているようでも、きっかけさえあれば容易に人々の口にのぼる。
「それに当初は主上ではなく光州候が狙われたと思われていたわけですし、候
がきちんと事態を収めなかったのが原因と思っている官も少なくないようです。
そのこともあって、下手に事態を混乱させないためにも彼がこちらに赴くこと
はできませんが、少なくとも現状を伝える書簡くらいは定期的に送ってやりた
いのです。かつての朋輩への情けと思っていただいてもかまいません」
「ああ、いや」白沢は両手を上げて、朱衡を押しとどめた。「何も拙は、大司
寇を責めているわけではありません。むろん光州候に責があると思っているわ
けでもありません。ただ、どうでしょうな。そのような書簡を受け取って、却
って候がますます自責の念に駆られるというようなことは」
「それはあるかもしれませんが、関弓から遠く離れた光州城で実質的に謹慎し
ている身では、何も知らされないままというのが一番つらいでしょう。それに
事件のお膝元の州を束ねている以上、何らかの情報なり打開策なりをもたらし
てくれないともかぎりません」
「ふうむ」白沢は顎をなでさすった。「確かにわれらとしては、こうなっては
藁をもつかみたいわけですが」
「景王にも光州候にも、公人として、大司寇として書簡を送るつもりはありま
せん。この事件はあくまで内々に収めなければならないのですから」
 白沢は朱衡をじっと見たまましばらく考えこんでいたが、やがて「わかりま
した。くれぐれも内密にお願いしますぞ。事は国家の一大事ですからな」とだ
け答えたのだった。

- 「序」章・終わり -

33永遠の行方「予兆(前書き)」:2008/02/11(月) 13:34:57
これからは時間を少し遡って、事件そのものを描いていきます。
「予兆」章は、まだ平穏な時期の六太やその周辺の様子を描きます。
登場人物は、鳴賢(主役)、六太、風漢、楽俊あたり。

ただしこの章は、主役が鳴賢というせいもあって、
冒頭からオリキャラてんこ盛りの捏造注意報が大々的に発令です。
もしかしなくても物語全体の中で、一番オリキャラ度が高いかも。
そもそも鳴賢自体、原作でほとんど描かれていないとあって、
実質的にオリキャラみたいなものだし。

物語の進行につれて、捏造度はさておきオリキャラ度は減っていくのですが、
苦手なかたはご注意ください。

34永遠の行方「予兆(1)」:2008/02/11(月) 13:38:03
 始まりはひそやかだった。
 その年の十二月、光州城から見て真北にある辺境の里で、一人暮らしの老人
が死んだ。症状から悪性の流行病(はやりやまい)の恐れもあったが、他に罹
患する者がなかったため重要な病気とは思われず、したがって官府に届けられ
ることもなく、近所の人々によって丁重に葬られた。
 年があらたまった一月、今度は北北東にある里で、若い夫婦と幼い娘が病に
かかって死んだ。発症してからわずか十日あまりの悲劇だった。里宰は不気味
な斑紋が皮膚に生じて高熱を出すという症状に警戒心を抱き、党に届け出た。
そこからさらに上に届け出が行き、しばらく経って県から念のためにと調査の
者が送られてきた。しかし他に患者が出たわけでもなく、特に変わったことは
何も起きていなかったとあって、付近で簡単な聞き取りをしただけで早々に引
き上げていった。

「ったく、男だろ、敬之(けいし)! 押せ! 押しておしまくれ!」
 物陰から様子を窺っていた鳴賢たちは、先ほどからやきもきし通しだった。
玄度(げんたく)は拳を握りしめては意味もなく振りまわし、傍らの六太も
「ああ、もう!」と頭巾をかきむしりながら、共通の友人のふがいなさに頭を
かかえている。もっとも鼠姿の楽俊だけは、そんな彼らと途の向こうとに交互
に視線を向けながら、困ったように髭をさわさわさせ、ひっきりなしにしっぽ
を上下させているだけだ。
 目の前の途を挟んだ向こうには、立派なたたずまいの小間物屋があった。一
口に小間物屋と言っても、ここは装身具を中心に女性が使う身の回りの種々雑
多な品を手広く扱っている店である。そのため華やかな雰囲気で、当然ながら
客層は女ばかりだ。
 その店先で学生らしい痩身の青年が、売り子である十五、六の娘に懸命に話
しかけていた。客足が途切れた合間を狙ったため、目当ての娘にすんなり応対
してもらえたところまではいいが、目的は恋文を渡すことだったはず。しかし
ながら様子を窺っているかぎりでは、妹に似合う手頃な簪を探しにきたという
口実から脱せられていないようだ。娘が幾度か品物を見せては青年が迷い、や
がて首を振るのを繰り返している。

35永遠の行方「予兆(2)」:2008/02/11(月) 13:40:06
「だめだ、このままだといつもの流れだ……」
 鳴賢ががっくり肩を落とすと、玄度が「仕方がない、加勢に行くか」と言っ
た。六太がやけに気合いの入った声で拳を突きあげ、「おーっ」と応じる。
「えっと。そのう、おいらも……?」
 無理やり連れてこられた楽俊が、おずおずと三人を見回すと、鳴賢が「当然
だろ」と言った。玄度がうんうんとうなずく。
「おまえや六太がいると、男嫌いの阿紫(あし)でも受けが良くなるんだよ。
ま、倩霞(せんか)もだけどな。ほら、女ってのは子供や動物が好きだから」
 大学一の俊才をつかまえて、傲然と「動物」と言いはなつ玄度。悪気がまっ
たくないのだけが救いだ。六太は腕を組んで唸ったが、別に玄度の言葉に不快
になったわけではなく、まったく別のことを考えていた。
「やっぱりあれかなあ。阿紫くらいの年頃だと、男嫌いなのはけっこういるっ
て聞くし、単にそれじゃねえか? あの娘の場合は他に好いた相手がいるわけ
じゃなさそうだから、ここは紳士的に楽しくおしゃべりしながら徐々にうちと
けてって、男は恐くないんだってわかってもらえれば何とかなりそうな気がす
る。敬之は穏やかなたちだし、顔も悪くない。成績だってそれなりなんだろ?
年頃の娘に対する訴えかけとしちゃ、そこそこ行きそうな感じだしさ」
 十三歳の少年とは思えないほどませた口調だが、鳴賢たちはとうにそんな六
太に慣れてしまっているから、普段は何とも思わない。しかしこのような恋愛
沙汰についてとなると、さすがに苦笑せざるを得なかった。
 やがて彼らは一団となって途を横切ると、偶然を装って友人に声をかけた。
「敬之じゃないか。こんなとこでどうしたんだ?」
「よ、よう、鳴賢」
 普段は落ち着いている友人が、このときばかりはうろたえているのをおかし
く思う。売り子の娘を見た鳴賢は、わざとらしく驚いた顔をしてから、ぽんと
手をたたいた。
「あー、そうか。おまえ、阿紫のことを気に入ってたんだよな。それでかぁ」
「え……」
 今度は娘が目を白黒させた。しかし華奢で可愛らしい感じの娘が、頬を染め
るのならまだしも嫌そうに眉をひそめたので、鳴賢たちもさすがに「あ、まず
い」と焦った。ここで強引に話を進めると、却って拒まれてしまいかねない。

36永遠の行方「予兆(3)」:2008/02/11(月) 13:43:47
「ええと……。あ、そうだ。倩霞さん、いる?」
「いらっしゃいますけど。何かご用でも?」
 冷たい声に硬い表情。うちの美人のご主人に何の用よ、とでも言いたげな目
つきである。鳴賢は話をそらそうと懸命になった。
「前に話してもらった匂い袋、うちの大学の女学生もけっこう興味を引かれた
らしくてさ。手持ちの佩玉と一緒に帯につけられるような、洒落た匂い袋をい
くつかほしいって言ってた。この店を紹介しておいたから、もし来たらいろい
ろ便宜を図ってくれると嬉しいな、なんて」
 口からでまかせというわけではない。しかしそもそもここにいる面々で女学
生と親しく話した者はいないから、かなり誇張した内容ではあった。良家出身
の女学生が洒落た匂い袋を欲しがっていたのは本当だが、鳴賢が教えるまでも
なく彼女らはこの店のことを知っていたし、鳴賢は通りすがりに、そんな女同
士のにぎやかな雑談を小耳に挟んだだけだったのだから。
「そうですか……」
「それはどうもありがとうございます」
 おざなりに応えた阿紫の声にかぶさるようにして、凛として華やいだ声があ
たりに響いた。驚いた彼らが声の出所である店の奥に目を向けると、そこから
この店の若い女主人である倩霞が、別の娘をしたがえて出てくるところだった。
 豊かな髪を高々と結いあげて花を飾り、裾も袖もたっぷりとした美麗な衣装
に身を包んでいる。首元を飾る見事な連珠も、美しい倩霞によく似合っていた。
せいぜい二十二、三にしか見えないのに押し出しは立派で、見事な女主人ぶり
だった。そもそも大学で女学生たちがこの店のことを噂していたのは、むろん
扱っている品の趣味の良さもあるが、何よりも女主人の美貌が話題になってい
たのだ。どうも同じ買うのでも、小綺麗で小洒落た店で美しい女主人や可愛い
売り子ににこにこと応対されながら、気持ちよく買いたいということらしい。
「せっかくですから、奥でお茶でもいかが? 阿紫、皆さまをご案内して。ち
ょうどお客さまも途切れたようだし、おまえも疲れたでしょう。一緒に少し休
みなさい。そうね、蔡士堂(さいしどう)のお菓子をお出しして。郁芳(いく
ほう)、しばらく阿紫と代わっておあげ」
 何となくどぎまぎしてしまった鳴賢たちを尻目に、倩霞は娘たちにてきぱき
と命じた。

37永遠の行方「予兆(4)」:2008/02/11(月) 13:46:07
「はい、倩霞さま」
 先ほどまでの不快な表情はどこへやら、阿紫はにこやかに主人に応えた。美
しく優しい女主人に、すっかり心酔しているふうである。
 年頃の娘が美貌で凛とした年上の女性に憧れること自体はめずらしくはない
が、阿紫の場合は少々事情が違うことを鳴賢たちは知っている。まだ幼い頃、
浮民だった両親を亡くして乞食のような生活を送っていたところを倩霞に引き
取られたので、彼女にとっての倩霞は大げさでも何でもなく命の恩人なのだ。
男が苦手なのも、むろん六太が言ったような原因も考えられるが、もしかした
ら浮民暮らしの中で両親ともども荒くれ男たちに嫌な思いをさせられた経験で
もあるのかもしれない。そこまでいかずとも、たとえば汚い格好で商店の前で
たむろしていたところを店主にどやされたということならありうる話だ。
 豊かな雁に生まれ、実家も富裕な鳴賢にはどうしても実感できないことでは
あるが、浮民たちの厳しい生活についての漠然とした知識ならある。王が道を
失ったり失政をして荒れた国から流れてきた荒民を見たこともあるから、「大
変そうだな」と感じたこともある。
 もっとも彼らのせいで雁の治安が脅かされている面があるため、真剣に同情
したわけではない。むしろ鳴賢の大ざっぱな認識の中ではあくまで他人事であ
り、別の世界の厄介な連中というくくりでしかなかった。阿紫のように働き者
で可愛い娘に成長したというのでもなければ、本当の意味で興味をいだくこと
もないだろう。
「とにかくここは少しでも親しくなっておくことだ。顔なじみ以上になっちま
えば、何とでも理由をつけて会いに来られるからな」鳴賢は敬之に耳打ちして
から、他の面々にもささやいた。「みんな、今日は大人しく、あくまでも紳士
的に振る舞うんだぞ」
「よし。わかった」
 玄度もしっかりとうなずく。彼のほうは倩霞狙いだったから、似たような下
心を持っている鳴賢とは相容れない部分はあるものの、何しろ今のところはど
ちらも、異性としてはまったく相手にされていない。ここは足を引っ張りあう
より、協力して顔を売っておくほうが得策だった。

38永遠の行方「予兆(5)」:2008/02/11(月) 13:48:12
 店の奥の居室に案内された彼らは、勧められるままに榻に身を落ち着けた。
倩霞が手ずから茶を入れて客たちに振る舞う。高価そうな菓子も出されたが、
六太や楽俊はともかく、下心満載の他の三人に美味を味わう余裕があったかど
うか。
 倩霞は綺麗な端切れを見せた上で、これなら女学生たちが欲しがるだろうか
ら、いろいろな香を調合して匂い袋を作ってみるつもりだと言った。むろん先
ほどの鳴賢の方便を信じているのだ。とはいえ女学生がこの店の噂をしていた
のは事実だし、いずれ本当に匂い袋を買いに来る者もいると思われるから、あ
あ言ったことで彼女に迷惑がかかることはないだろう。
「そういうのもどっかから仕入れてるわけじゃなくて、全部ここで作ってんだ?
もしかして巾着や扇子なんかも、倩霞たちで作ってんのか?」
 六太が感心したように言った。鳴賢たちが緊張と下心とで固くなっている中、
六太については口調も態度もいつも通りだ。茶と美味な菓子のおかげでくつろ
いだというわけでもなかろうし、もっと小さな子供と違って粗雑な態度を大目
に見られるはずもないが、その意味ではこの少年はいつも堂々として強心臓だ
った。
 しかし倩霞は不快になる様子はなく、楽しそうにころころと笑った。六太の
反応に作為がなく、素直な感想を口にした以上のことは感じられなかったから
かもしれない。
「扇子はさすがに無理よ。簪や佩玉などもね。ああいうのはきちんと工房や職
人から仕入れます。でも郁芳はお針子だし、わたしも香の調合くらいはできる
し、巾着や匂い袋くらいなら自分たちで作れるわ」
「へえー。倩霞ってあんまりそういう感じはしないのにな。いいとこのお嬢さ
んって雰囲気だし、手を使う仕事はしないのかと思ってた」
「あらあら。喜んでいいのかしら、悲しんでいいのかしら」
 楽しそうに会話するふたりを前に、うまく話に加わるきっかけをつかめない
鳴賢と玄度は内心で歯がみするばかりだ。
 もともと倩霞は、言い寄ってくる男たちにはつれない女性だった。それに卒
業して官吏になれたのならまだしも、鳴賢たちはまだ将来がどう転ぶかわから
ない学生の身。それでも大学生であるというだけで、普通はそこそこの目を向
けてもらえるものだが、これだけ立派な店を構えている妙齢の美女を口説くに
は、充分な条件とは言えない。

39永遠の行方「予兆(6)」:2008/02/11(月) 13:50:16
 そもそもこうして話しかけてもらえるようになったのは、六太と楽俊のおか
げだった。あるとき、たまたま鳴賢がふたりを伴って店に行ったとき、倩霞は
まず半獣と実際に話すのは初めてだと言って楽俊を物珍しがり、ついでこまっ
しゃくれた感じの六太に興味を引かれたらしく自分からいろいろ話しかけてき
たからだ。鳴賢や玄度が、倩霞とまともに言葉を交わしたのはそのときが初め
てだったが、一筋の光明が見えた気がしたものだ。
 とはいえそれから何度かこの店を訪れたものの、倩霞はあまり体が丈夫では
ないらしく滅多に姿を見せなかった。だからこうして店の奥に通されてお茶を
ふるまわれるなど奇跡も同然で、いよいよ希望が見えたかと思ったものだが、
そううまくことは運ばないらしい。
 もっとも玄度はともかく鳴賢は、本当に倩霞を好きかと問われれば答えられ
なかっただろう。恋人だと思っていた幼なじみの娘が、さっさと結婚してしま
ってからずいぶん経つ。いいかげんで次の恋に踏み出さなければと自分を叱咤
していたところに、大学の悪友が何人も倩霞に懸想していると知って、自分ま
で何となくその雰囲気に影響されてしまったというのが本当のところかもしれ
ない。
 それに鳴賢がこの店を知ったのは以前、たまには幼なじみの娘に何か贈って
やろうかと思いたち、あちこちの店で品物を見繕っていたときだった。結局、
そのまま何も贈ることはなかったのだが、この店にはそういう記憶が付随して
いるだけに、手放しで倩霞への恋にのめり込める気はしなかった。もっともそ
のことも、女々しい自分を叱咤する原因のひとつではあったのだが……。
 六太は倩霞と楽しそうに喋っている。いくらなんでもこの年の差で恋だの何
だのという方向に発展することはなかろうが、六太としても綺麗な女性に親切
にされること自体は嫌ではないはずだ。そう考えると、少し複雑な気分になる
鳴賢だった。
 ふと、失恋して思いがけずこの少年に慰められたときのことが脳裏に蘇る。
そういえば六太も以前、苦しい恋をしていたのだっけ。
 あのときの恋は吹っ切れたのだろうかと何となく考えた鳴賢は同時に、その
恋が年上の女性に向けたものかもしれないと想像したことも思い出していた。

40永遠の行方「予兆(7)」:2008/02/11(月) 13:52:28
万が一その想像が当たっていたら、六太が今度は倩霞に懸想することもありう
る。しかしさすがに相手にはされないだろうと考えると、普段は元気な少年で
あるだけに、六太がしおれてしまうさまを想像して心が痛んだ。どうせなら自
分の年齢に近しい相手を好きになってくれればいいのに。
 そこまで考えたところで、鳴賢は初めて少し引っかかりを覚えた。
 ――六太は十三歳。
 年齢を知ったのは、確か出会ってまもなくの頃だった。十三歳にしては少し
小さい感じだが、体格などは個人差が大きいし、男というものは十代も後半に
なってからぐんと背が伸びたりもするものだ。今、小柄であること自体はおか
しくもなんともない。
 だが。
 玉麗が結婚したのは何年前だ? 楽俊が入学したのは? 大学寮の楽俊の房
間で、鳴賢が初めて六太に会ったのは何年前だった?
 ――あまりにも変わらなさすぎないか……?
 大学という環境は成人ばかりだし、ある意味で隔絶された社会だから、鳴賢
の日常は六太のような年頃の少年や少女とあまり接する機会はない。だから気
にならなかったし、気づかなかった。しかし少し考えてみれば、六太が今でも
十三歳のままであるはずはないのに、多少なりとも成長したようには見えなか
った。
 それで言えば倩霞も数年前から変わらないように見えるが、実のところ鳴賢
に異性の年齢はよくわからない。それに女性は髪型や化粧でがらりと印象が変
わるものだ。何しろ花娘などは夜と昼でさえ見目が変わるのだから、男にとっ
て女は可愛い化け物だ。また、美しいともてはやされる女性はその美貌を保つ
ために影ながら努力しているだろうから、そんな倩霞と六太を比べても意味は
ない。
 しかしたとえば、倩霞に引き取られた頃の阿紫は六太より幼かったはずだ。
その彼女が年頃になったというのに、六太だけは出会った頃とまったく変わら
ないように見える。変わらないというより――。
 ――時が止まっている。
 まさか、と思った鳴賢の鼓動が早くなった。

- 続く -

41永遠の行方「予兆(8)」:2008/02/16(土) 20:59:07
 そんな彼の心中をよそに、六太は倩霞とにこやかに談笑を続けている。いつ
の間にか話に加わったらしい楽俊も耳の後ろをかきながら、「おいらは別に信
じちゃいねえけど、そういう遊びがあるってのは知ってるから――」などと、
のんびりした様子で倩霞と話していた。
 そういえばもともと六太は楽俊の知り合いだ。ということは楽俊なら本当の
ところを知っているのではないだろうか。
「そう、ただのお遊び。でもこういうのって何となく楽しいものよ。だから、
せっかく来てくれたことだし、坊やには特別に」
 倩霞は六太にそう言うなり、傍らに控えていた阿紫に何やら手真似で指示し
た。阿紫は房室の隅の小卓の上にあった小物入れから、封をした薄い書簡のよ
うなものを取り出して主人に渡し、倩霞はそれをさらに六太に渡した。
「今、開いてはだめよ。これは時機が大切なの。いずれ坊やが本当に困ったと
きに開ければ、きっと助けになる言葉が紙片に浮き出ることでしょう。ただし
時機を失すると効力がなくなるから注意してね」
 すっかり自分の物思いに没頭していた鳴賢は、話の流れがまったくわからず
にぽかんとした。それに気づいたのだろう、倩霞は苦笑いのような表情になっ
た。
「そんなに呆れた顔で見ないでちょうだいな。そりゃあ、お偉い仙人が施すよ
うな呪とは違うけれど、こういう庶民的なまじないも、時にはほのぼのとした
感じになれていいものよ」
「ああ。せっかくだからもらっておくよ」
 六太は嬉しそうに答えると、その薄っぺらいものを懐にしまった。うまい食
べ物でもないし、綺麗な装飾品でもない。小さくて薄い、ただの封書。しかし
六太は他人から何か贈られると、気遣いからなのか、傍目にはどんなにつまら
ないものに見えても、必ず嬉しそうな顔をした。
 鳴賢の隣から、玄度が慌てて口を出した。
「お、俺は呆れてなんかないです。開いたときに浮き出てくる文言って、きっ
と倩霞さんの手跡なんでしょう? なら、ぜひ俺もほしいです」
 しかし倩霞は笑って首を振った。

42永遠の行方「予兆(9)」:2008/02/16(土) 21:02:40
「あなたは大人でしょう。これはいわば女子供のお遊びなの。子供の頃は、ど
んなつまらないことでも誰かに助言してもらえると心強いものよ。だからさっ
きの紙片はその代わり。困ったときにあれを見たこちらの坊やが、少しでも勇
気づけられるように。でも大人になったら何事も自分で解決しなければね」
 がっくりとうなだれた玄度は放っておき、鳴賢はずっと大人しく座っている
敬之の腕をこっそりつついた。また楽しそうに談笑を始めた倩霞たちをよそに、
小声で問う。
「六太がもらったあれ、何だ?」
「まじないだって。本当に困ったときに開くと、その苦境を脱する方法を暗示
する言葉が浮き出るんだとか。もっとも、どうせあらかじめ適当なことが書い
てあるんじゃないかとは思うけど」
「へえ。それじゃ確かにお遊びだな」
「でもきっと倩霞の手跡に決まってる。だったら俺もほしいのに。くそう」
 玄度がくやしそうに言った。隙を見て、六太がもらった封書を奪い取りそう
な雰囲気である。
 それに気づいていたのだろう、やがて阿紫が体の弱い女主人を気遣って「そ
ろそろお休みなさいませんと」と言ったのをきっかけに鳴賢たちがその場を辞
した際、倩霞は結局、六太に渡したのと同じような封書を玄度にもくれた。
「坊やにあげたものを、大の大人が取りあげてはだめよ」と笑いながら。
 しかし辛抱のできない玄度は、店の前から離れるなり封を開いてしまった。
もっとも香を焚きしめた上質の料紙には、いくら目を皿のようにして見ても何
も書かれていなかったので、玄度はまたうなだれてしまった。
「倩霞は時機が大事だとか言ってたよな。困ったときに開けなかったからじゃ
ないか?」
「本当にお遊びなら、もともと何も書かれていないってこともあるしな。ある
いは護符として持っているだけで、実際は開けることを前提としていないもの
なのかも」
 鳴賢と敬之はそう言って慰めたが、懲りない玄度は物欲しそうな顔で六太を
見た。六太はにやりと笑った。
「せっかくくれたんだから、お遊びにしろ相手に調子を合わせてやらなきゃ悪
いってもんだろう。俺はちゃんとこのまま取っておくことにする」

43永遠の行方「予兆(10)」:2008/02/16(土) 21:06:40
「そんなあ」
「次に来たときに、それをネタにでもしろよ。そうやってまた話のきっかけを
つかんで親しくなればいいだろ。倩霞みたいなのは、言い寄ってくる男をのら
りくらりとかわして手強そうだし、長期戦を覚悟して真面目に口説くんだな。
何でもそうだが、急いては事をし損じるぞ」
「ほう。おまえがそこまで女の扱いに詳しいとは知らなかった」
 年上に偉そうに助言した六太に、聞き覚えのある笑い含みの声がかけられた。
振り向いた鳴賢たちの前に、彼らと同年輩の男がひとり立っていた。
「風漢……」
「おう。なんだ、おまえたち、あそこの主人だか使用人だかに懸想しているの
か? 確かにさっき出てきたのはなかなかの美人だったが」
 顎をしゃくって、先ほど彼らが辞去してきた小間物屋を示す。
 鳴賢たちは風漢が六太の身内らしいこと以外は、何を生業にしているのかも
知らなかった。だが色街でよく見かけるから女遊びが盛んな男であることだけ
は確かだ。しかも遊び上手でそこそこ見栄えがするとあって、女たちの受けも
良い。その彼に倩霞に興味を持たれてはたまらないと思ったのだろう、玄度は
あからさまに警戒の目を向けて「おまえには関係ないだろうが」と言った。
 だが風漢は気にする素振りもなく、おもしろそうに笑っただけだ。今もそう
だが、割合に高価そうな装束を身につけていることも多いから、そこそこの家
の出なのだろう。その割にはざっくばらんで親しみやすいし、かと思えば妙に
飄々としてつかみどころのない男ではあった。
「そうつんけんするな、玄度。少なくとも女の前では余裕のあるところを見せ
ろ。さもないと、器の小さい男だと思われて損をするぞ。大抵の女は懐の大き
な男が好きだからな」
「で、おまえはそれを実践して女を口説いてきたのか? それともこれから口
説きに行くところか?」
 腕組みをした六太が、呆れたように口を挟む。風漢は片眉を上げるとにやり
とした。
「これからだ。何しろおまえがおらんと、小言が全部こちらに来てうるさくて
かなわん。それで抜け出してきたばかりなものでな」

44永遠の行方「予兆(11)」:2008/02/16(土) 21:09:25
「ったく、またかよ」
「そういうわけでおまえはそろそろ帰れ。少なくともどちらかひとりいれば、
あいつらも大目に見てくれる」
 六太は処置なしといったふうに天を振り仰いだ。そうしてから鳴賢たちに、
「なんか家の連中がうるさく言っているみたいだし、仕方ねえから帰るわ。ま
たな、敬之。次に会うときは阿紫とどうなったか、戦果を報告してくれよな」
と言って、途の向こうにすたすたと歩き去っていった。それを見た風漢も「で
はな」と言うなり、さっさと別の方向に歩み去る。おそらくまた色街にでも行
くのだろう。
「俺たちも寮に帰るか。何だか飲みたい気分だが、明日の藩老師の講義のこと
もあるし」
「そうだね。老師の一問一答はいつも厳しいから」
 そんな言葉を交わして歩き出した玄度と敬之に、楽俊もほたほたとついて行
こうとした。しかし鳴賢は後ろから彼の首根っこをつかんで乱暴に引き留めた。
「あわっ、わっ、鳴賢……?」
「俺、ちょっと文張と話があるからさ、おまえら先に帰っててくれよ」
 そう言って怪訝そうな玄度たちを先に帰し、途の隅に楽俊を強引に引っ張っ
て連れていく。そうして往来を行く人々の誰からも話を聞かれないと思える場
所まで行くと、単刀直入に「六太のことで聞きたいことがあるんだけど」と話
を切りだした。今の彼には倩霞のことより、六太に関する疑問を解くことが先
決だった。
「たい――六太、さんのことで?」
 楽俊はひっきりなしにひげをぴょこぴょこ動かした。今さっき後ろからいき
なり首根っこを掴まれたせいかもしれないが、かなり動揺している証拠だ。
「そういえばおまえ、いつも六太や風漢をさんづけで呼ぶよな」
「だからおいらはあのおふたりには恩があるんだって。前にも言ったろ」
「ああ。何の恩かは教えてもらえなかったけどな」
「それを言うわけにはいかねえんだ。いつもよくしてくれる鳴賢にはすまねえ
が……」

45永遠の行方「予兆(12)」:2008/02/16(土) 21:12:37
「いや、今はそんなことを聞きたいんじゃないんだ。今まで気づかなかった俺
も迂闊だったが、六太は会ったときから全然変わってないなと思って。逆算す
ると、どう考えても十六、七にはなってるはずなのにさ」
 楽俊がぎくりとなった。人型であれば誤魔化せたかもしれないが、ひげやし
っぽの動きで心中が丸わかりの今は、いくら鳴賢が注意力散漫だったとしても、
相手の動揺に気づかずにいることは不可能だったろう。
 鳴賢が黙って見ていると、楽俊はしきりにひげをそよがせて耳をぴくぴく動
かしている。長いしっぽも動揺を暗示して、左右に激しく振れている。
 やはりこいつは何か知っているんだ、そう思った鳴賢は思い切って口に出し
てみた。
「まさか……六太は仙か?」
 すると予想外なことに、楽俊は思い切りよく、対等の友人であるはずの鳴賢
にがばっと頭を下げた。
「鳴賢、すまねえ。おいらには何も言えねえ」
「あ……。いや……」
 深々と頭を下げられて、さすがに鳴賢もあわてた。だがその反面、自分の推
測が正しかったことを確信して愕然となった。
 頭を下げたままの楽俊を前にしばらく立ちつくしていた鳴賢は、必死に考え
を巡らせた。
「……官吏の子弟なら、身内が昇仙すると一緒に仙になることがあるよな」
 楽俊が何も答えないので、鳴賢は考えをまとめるために、推測を口に出して
ぶつぶつつぶやいた。足元の地面を意味もなく沓の先でつつき、いたずらに弧
を描く。
「普通はある程度の年齢に達するまで、親は子供を仙籍には入れないものだよ
な。でもそうではない親もいて、幼くても仙籍に入れられる子供もまれにいる
って聞くから、もしかして六太もそれか? でも前に六太は、自分を孤児みた
いなものだと言っていたことがあったんだよな……」
 とはいえ本当の肉親というのではなく、単に身よりのない六太を引き取った
のが高官という可能性もあった。先ほどの六太と風漢の話を考え合わせると、
風漢はその高官にでも仕えていて、だから六太と親しいのかもしれない。

46永遠の行方「予兆(13)」:2008/02/16(土) 21:15:43
 いずれにしろ六太が仙籍に入っているなら見かけ通りの年齢ではない。なら
ばあの知識量や見事な筆跡にも納得できるというものだが、それなら実際の年
齢はいくつなのだろうと疑問に思う鳴賢だった。
「なあ……。まさか六太が俺より年上ってことはないよな?」
 楽俊は相変わらず頭を下げたまま答えない。それはいっさい言うつもりはな
いとの無言の訴えに他ならない。鳴賢は楽俊を困らせるのは本意ではなかった
し、六太のことも好きだったから、今この場で追求するのはやめようと思った。
 神仙は雲の上の人々だから、普段は一般の民が明確に意識することはない。
そもそも自分たちとは住む世界が違うと思っているからだ。しかし目の前に年
端もいかない少年がいて、実際に彼が不老不死の仙だと知れば妬みもそねみも
するだろう。六太が滅多に自分のことを語らないのはそのせいかもしれない。
 だがもし鳴賢が以前と変わらずに普通に接するとわかれば、六太も素性を明
らかにしてくれるのではないだろうか。それに成績で苦労しているとはいえ、
大学生の鳴賢は官位に実際に手が届くところまで来ている。高級官吏になれば
昇仙し、神仙の仲間入りを果たすことになるのだから、それを目指している学
生が相手なら、一般の民よりは六太も気兼ねしなくてすむはずだ。
「何にしても深い事情がありそうだな。六太だって大人になりたいだろうに」
 そう、何か事情がある。鳴賢は確信した。なぜならしばらく仙籍から抜いて
もらえれば順当に成長するのだし、そうすれば六太も年頃になり、年上の女性
との恋に悩むこともなくなると思われるからだ。普段は悪戯めいた悪ガキの表
情だからそうは思わないが、よく見ると六太は綺麗な顔立ちをしている。あと
何歳かでも年を取れば、おそらく若い娘が放っておかないだろう。なのに相変
わらず幼いまま仙籍にあるのは、深い事情があるとしか思えない。
 それとも一時的に仙籍を抜けるのは、官吏の子弟であってもそう簡単ではな
いのだろうか。
「――ああ、そうか。仙籍に入ったり抜けたりするのも主上の裁可次第だから、
御璽が必要なんだよな。一官吏の子弟で、そんなことに主上のお手を煩わせる
のは不敬ってことなのかもしれないな。でもそれはそれで可哀想な話だよなあ
……」
 鳴賢はそうひとりごちたが、楽俊は相変わらず無言のままだった。

- 続く -

47永遠の行方「予兆(14)」:2008/03/23(日) 21:58:41

 毎月一回、光州の里や廬で原因不明の病による死者が出る。それは北の廬に
始まり、ちょうど州都を中心に右回りに少しずつ移動しながら発生していたが、
そんな事態に気づいた者は少なかった。
 ただし府第では、むろん届け出のあった場合に限られたが、点々と罹患地が
移動していっているように見えたため警戒はしていた。何百年もの間安定して
いた雁は、そういった官の仕組み自体は整っている。
 これが春や秋などの、人々が里や廬を移動する時期のことであれば、民とと
もに罹患地が移動しても不思議はない。しかしこの病についてはそういうわけ
でもないようだった。不審を覚えた官吏が簡単に調査したこともあったが、特
に人の出入りのない廬でも発生していることがわかり、いっそう困惑を深めた
だけだった。
 王が健在であっても流行病は起きるものだ。ただ自然災害が少ない上にしも
じもまで生活が安定し、社会の基盤も整っているから、乱れた国より予防も対
処もしやすく、結果的に大事に至らないにすぎない。したがって今回の病が真
に流行病かどうかはさておき、不気味な症状と相まって警戒をいだかせたのは
当然だった。
 担当の官吏はここ数ヶ月間の報告書に新たな付記をつけ、引き続き警戒の要
ありとして注意を喚起した。

 あれから何度か六太と会う機会はあったが、何も気づいていない他の友人た
ちと一緒だったこともあり、鳴賢は何となく、当人に仙かどうかを尋ねるきっ
かけをつかめないままだった。あらためて考えるまでもなく、尋ねてどうする
のだ、という根本的な疑問もある。
 第一、官吏を目指している鳴賢にすれば、一般の民と異なり、仙であること
自体は既にそう特別なものではない。それゆえ六太自身が積極的に自分のこと
を明らかにしようとしていないのに、あえて問うこともなかろうという気持ち
もあった。何より気づいた当初はともかく、しばらく六太と顔を合わせない日
々が続いたあとは、既に他人の私事に首を突っ込むのは面倒くさいという気持
ちになっていたことも大きい。もともとそういう細かいことに長く気を取られ
るたちではないのだ。

48永遠の行方「予兆(15)」:2008/03/23(日) 22:01:04
 ただ、仙になるとどうなるのかという感覚的なものについてはいくら考えて
もわからないので、以前からそういうことを親しい相手に聞きたいとは思って
いた。友達同士の雑談のような内容で、老師に根ほり葉ほり尋ねるわけにはい
かないからだ。なので機会さえあれば、それとなく六太に話を向けて聞き出し
たいものではあった。
 もし六太が官吏だったら、官吏生活についても尋ねて参考にしたいところだ。
しかし身内の昇仙によって仙になったのだろう六太の場合、鳴賢の興味を引く
話題を持ってはいないだろう。むろん六太の身内が高位の官なら、今のうちに
理由をつけて家に遊びにでも行って、顔をつないでおきたいところではあるが
……。
「えっ、今日は花巻(はなまき)残ってないの」
 夕刻近くという半端な時間とあって、大学寮の飯堂は人もまばらだ。そんな
中、久しぶりに楽俊を訪ねて来ていた六太は、好物の蒸し饅頭がなくなってし
まったことに至極残念そうな顔をした。仙ということはもしかしたら二十歳を
超えているかもしれないのに、こういうときの六太は仕草といい表情といい、
やはり子供にしか見えない。
「すまないねえ。ぼうやが来るってわかっていたら、ひとつくらい取っておい
たんだけど」賄い婦として働いている楽俊の母が、困ったように、だがにこや
かに答えた。「夜まで待てるんなら作ってあげたいところだけど、何しろもう
粉がほとんどなくなっちまったんで、これから買い出しに行くところなんだよ。
いつもみたいに届けてもらうまでもたないし、ちょうど夕餉の仕込みも終わっ
たからね。でもおやつにするんなら、糕(こう)ならまだあるから、蒸しなお
してあげようか?」
「ううん、俺、おばちゃんの花巻が好きなんだ。見た目も綺麗だし、ふわふわ
しててほんのり甘くて、あれだけ食ってもすごくうまいし。でもちょうどいい
や。買い出しに行くんなら付きあうよ。荷物持ちに」
 すると傍で聞いていた楽俊のひげが、あわてたようにぴんと立った。
「母ちゃんの買い出しにはおいらが付き添いますんで、その」

49永遠の行方「予兆(16)」:2008/03/23(日) 22:04:58
「いいじゃねーか、荷物持ちが多いぶんには」
 六太はそう言って、楽俊を気安くどついた。母親のほうは六太と気安くお喋
りしても、六太に恩があるという楽俊のほうは常に丁寧語で話す。いつもなが
らその落差が鳴賢にはおかしくもあった。
「おばちゃん、すぐ出る? 俺、外で待ってようか? あ、鳴賢も来る? 荷
物持ちに」
「ああ、いいぜ。ちょうど散歩がてら、その辺を歩いて来ようかと思ってたと
ころだ。少なくともおまえらよりは戦力になるだろうしな」
 鳴賢がにやりとして答えると、六太も笑いながら「あー、言ったな」と、手
を伸ばして彼の胸を軽く叩いた。
「あら、みんなすまないわね。これじゃあ粉を買ってきたら、さっそく花巻を
作ってふるまわないと」
「やった! おばちゃん、話せるぅ!」
 六太は手を叩いて喜び、鳴賢たちを急かして外に出たのだった。

 鳴賢には逆立ちしても真似できないことだが、ある種の女たちは新しくやっ
てきた街にすぐ溶けこんでしまうものだ。しかもどこそこの店の醤(ひしお)
は安くておいしいとか、あの舎館の女将は親切で頼りになるがいったん機嫌を
損ねると大変だとか、どうやって情報を収集するのだろうと思うくらい、妙に
細かいところに詳しい。
 楽俊の母もこの手合いのようで、決して無駄話をべらべらと喋る女人ではな
いために長らく気づかなかったものの、やがてふとした拍子に「あの界隈に行
くなら、春香楼の妓女にはたちが悪いのがいるらしいから気をおつけよ」だの、
「外に食べに出るんなら、昇陽亭の割包がおいしいらしいね」といったことを
さりげなく教えてくれるようになった。楽俊はもちろん関弓での暮らしが長い
鳴賢よりも、既にいろいろなことを知っているように思われた。
 もっとも大学寮の飯堂にはさまざまな店が品物を納めにくるから、その関係
であちこちの噂が耳に入りやすいだけかもしれない。

- 続く -

50永遠の行方「予兆(17)」:2008/04/27(日) 12:03:18
 いずれにせよ、一同が最初に粉屋に行って小麦粉の小袋を買い、残りは届け
てもらうよう算段していたところに、隣の豆腐屋やら薬問屋やらの奉公人から
親しげな声がいくつもかかったところを見ると、少なくとも楽俊の母が円満な
人間関係をそこそこ広く築いているのは確かだった。
 以前ちらっと聞いたところによると、楽俊を少学に入れるために田畑を売り
払ってしまったという話だから、息子ともどもこのまま雁で、もしかしたらず
っと関弓で暮らすつもりなのかもしれない。
 巧は半獣に冷たい国だし、これほど気だての良い働き者の女人が好んでひと
りで苦労することもないだろうから、雁で暮らすことは良いというよりも当然
の考えだと鳴賢などは思うのだった。彼がそんなふうに簡単に考えてしまえる
のはおそらく、豊かな雁の民にとって、故国を捨てる悩みも葛藤も無縁のもの
だからだろう。
「花椒(かしょう)のいいのが入ったんだよ。それと粗塩も仕入れてね。安く
しとくからどうだい?」
「せっかくだけど、花椒も塩もまだあるから。――ああ、それより学生さんた
ちの健康を考えて、たまには本格的に薬膳でも作ってみようかと思うんだけど、
いい献立を知ってる?」
「ほ、薬膳とね? そうだなあ。だがあまりきっちりと作るより、まずは何か
一品、汁とかあえ物を、さりげなく添えるところから始めてみたらどうだね?
 そのほうが気軽で食べやすいし、天候に合わせて献立を調整するのも楽だよ」
「ああ、それもそうね。豆鼓(とうち)がまだたくさんあるから、今度あれを
使って――」そう言いかけて待っている息子たちの顔に気づき、話を切り上げ
にかかる。「――でもまあ今日は、粉屋さんのところに、切らした粉を買いに
きただけだから。その話はまた今度伺うことにするわ」
 すると六太が、「おばちゃん、俺たちのことなら気にしなくていいぜ」と口
を挟んだ。
「何なら荷物を持って、先に寮に戻ってるし」
「あらやだ。ぼうやたちにそんなことはさせられませんよ。それに早く帰って
花巻を作らなきゃ」

51永遠の行方「予兆(18)」:2008/04/27(日) 12:05:38
「いいって、いいって。だいたい俺たち、最初から荷物持ちに来たんだぜ? 
それにおばちゃんがいい献立を教えてもらえたら、俺もまたご馳走になるつも
りだし。鳴賢もいいよな?」
「ああ、別に構わないぜ。どうせ散歩がてらつきあっただけだ」
「そうしたほうがよさそうだな。母ちゃん、店先で立ち話を始めるといつも長
いから」
「なんだい、おまえまで」
 困惑顔の母親をよそに、三人は顔を見合わせてくすくす笑うと、店で小分け
にしてもらっていた小麦粉の小袋をてんでに小脇に抱えた。楽俊の母親と話し
ていた薬問屋の主人のほうも、その様子を見て苦笑した。
「いい子たちじゃないか。せっかくだからお言葉に甘えたらどうだね。奥で簡
単な献立を手早く書いてみよう。滋養強壮に効く根菜を使う汁物と、胃腸に優
しい粥と。それなら明日にでも作って学生さんに出せる。そうそう、花椒を使
った炒めものもね。こいつは食欲がないときにいいんだよ」
 戸惑っているような楽俊の母親の背を、六太が笑いながら軽く押した。薬問
屋の主人はその彼女の前に立って歩き、「本当は山芋を使うといい献立がある
んだが、今は旬じゃないからねえ」などと言いながら店の中に入っていった。
 ふたりが店の中に姿を消すと、楽俊が溜息をついて言った。
「すまねえです、六太さん。母ちゃん、この界隈に知り合いが多くできたから、
いつも立ち話が長いんだ」
「いいって、いいって。それよりこれを持って、とっとと寮に戻ろうぜ」
 そうやって粉の小袋を軽く掲げた六太に、背後から「……六太?」という遠
慮がちな声がかけられた。彼らが何気なく振り返ると、往来に女連れの青年が
立っていた。三十歳近い鳴賢よりも、さらにいくつか年上のようだった。
「ああ、やっぱり六太だ」
「恂生(じゅんせい)じゃねえか。揺峰(ようほう)も」
 ほっとした様子の青年に、六太が笑顔で返した。その青年の印象は悪くない
のだが、話しかたに何となく奇妙なところがあったため、鳴賢は違和感を覚え
た。
「ええと……。六太にはどこで会っても驚かないけど、こんなところで何を?」

52永遠の行方「予兆(19)」:2008/04/27(日) 12:07:38
「ん? ああ、買い物の荷物持ち」
 そう言って、また小麦粉の袋を掲げて見せてから「あ、こいつら、俺のダチ」
と鳴賢たちに顎をしゃくった。すると恂生と呼ばれた青年は、一同を軽く見回
してから、また六太に目を戻して言った。
「もし時間があるなら、うちに寄ってお茶でも飲んでいかないか? そっちの
ふたりも一緒に。おかみさんと揺峰が胡麻団子と蒸し菓子を作ったんだ」
「蒸し菓子?」
「うん、黒糖の。好きだろう? それでちょうど、六太の噂話をしていたとこ
ろだったから、ここで会ってちょっと驚いた」
「うーん、心が揺れるけどなあ……」
 小脇に抱えた小袋にちらりと目を落として、六太は唸った。その小袋を受け
取ろうと手を伸ばした楽俊が、「どうぞ、おいらたちのことは気にしないで行
ってきてください」と丁寧に言った。しかし六太は軽く身をひねって、あっさ
りと楽俊の手をかわした。
「そういうわけにはいかねえだろ。俺は荷物持ちに来たんだぞ」
「まあ、六太じゃ、大して足しにならないけどな」
 鳴賢がからかうと、それまで黙って様子を見ていた恂生の連れの二十歳ほど
の娘が、にこやかに口を挟んだ。こちらは青年と違って、話しかたにどこも奇
妙なところはない。
「それならおみやげにすればいいわ。ここには三人いるけど、三人ぶんあれば
いいのかしら? でもきっと多めがいいわよね。他のお友達にもわけてあげら
れるし。胡麻団子の他にもいろいろ作ったから、一緒に来て、適当に好きなの
を持ってって」
 そう言って強引に六太の腕を引っ張ると、あれよあれよと言う間にふたりし
て往来の向こうに消えていった。鳴賢たちは、六太が持っていた袋を彼女に否
応なく渡された恂生とともに、ぽかんとしてその場に取り残された。鳴賢の顔
を見た恂生は、苦笑いしながらすまなさそうに言った。
「邪魔してごめん。でもすぐ戻ってくると思うから」
 ついで、楽俊に目を向けて「やあ」と挨拶をする。楽俊のほうも「どうも」
と軽く会釈をした。楽俊は大学以外の知り合いは少ないほうだと思っていたか
ら、初対面ではなさそうな様子に鳴賢は驚いた。
「あれ? 文張、おまえとも知り合いか?」

53永遠の行方「予兆(20)」:2008/04/27(日) 12:09:52
「知り合いってほどじゃねえ。前にいっぺん、国府にある海客の団欒所で会っ
たことがあるってだけだ」
「海……客?」仰天した鳴賢はあらためて恂生を見た。「あんた……。海客な
のか?」
「そうだよ」
 青年はあっさりと答えた。大学も大学寮も国府の中にあるが、鳴賢は似たよ
うな場所に海客の団欒所などというものがあることなど知らなかったし、楽俊
がそんなところに行っていたことも知らなかった。しかし今はそんなことより、
目の前に海客の実物がいることのほうがはるかに衝撃だった。
 それでか、と鳴賢は納得した。流暢に喋ってはいるものの、恂生の言葉にど
こか違和感を覚えたのはそのせいだったのだ。発音や言い回しが微妙におかし
いのだ。
 蓬莱も崑崙も、こちらの世界とは言葉がまったく違うらしい。だから海客や
山客は、運良く人里にたどりついても、まず言葉が通じなくて難儀するのだと
いう。
 こちらの世界では、北の果ての戴であれ、南国の漣であれ、言葉が違うとい
うことはない。だから鳴賢も、異なる言語という概念からして理解するのは難
しかった。犬や猫に言葉が通じないというのならわかるが、同じ人間同士で、
どうして言葉が違うのか。子供の頃にやった暗号遊びのように、ある語が別の
語に置き換わっているのだろうか。
「まあ、そりゃ……。大変だったな」
 何と言っていいのかわからずに、当たり障りのない言葉を返す。だが恂生の
ほうは屈託なく「そんなことはないよ」と明るく返した。
「俺は雁に流されたってだけで幸運だったんだから。何しろ海客というだけで、
殺される国もあるんだからね」
「ええ?」
 驚いた鳴賢が思わず聞き返すと、傍らの楽俊がうなずいた。
「それは本当だ。おいらも巧にいた頃、役人に追われて行き倒れてた海客の女
の子を拾ったことがあるからな。仮朝が仕切ってる今の巧の方針はわからねえ
けど、当時の主上は海客がひどくお嫌いだったんだ」
 それを聞いた恂生は、初めて表情を曇らせた。
「その女の子、今は……?」
「今は慶にいる。ときどき便りをくれるが、何とか元気にやってるらしい」
 楽俊が安心させるように言うと、恂生はほっとした顔になった。

54永遠の行方「予兆(21)」:2008/04/27(日) 12:12:23
「その子も幸運だったな。大抵の海客は虚海で溺れてしまうって聞くし、何と
か生きて流れ着いても国によっちゃ殺される。俺からも礼を言うよ。その子を
助けてくれてありがとう」
「そんな大層なことじゃねえ」楽俊は照れて、耳の後ろをぽりぽりとかいた。
「雁は海客に寛大だって聞いてたし、それでおいら、そいつを連れて雁に来て、
おかげで縁あって大学に入れたんだ。言うなれば持ちつ持たれつってとこだ」
「それで雁に? 呆れたお人好しだな」
 鳴賢は心底から呆れて言った。楽俊が雁に来たのは単に、巧と違って雁は豊
かで半獣も差別しないし、大学の質も高いからだと思っていた。だからこれま
で理由を聞いたことがなかったのだ。まさか行き倒れていたところを助けた海
客のために、遠路はるばるやってきたとは思いもよらないことだった。
「巧から雁へなんて、場合によっちゃ何ヶ月もかかるだろうし、向こうには妖
魔も出たって言ってたじゃないか。命だって危なかったろうに……」
 すると恂生がくすりと笑った。
「海客なんて厄介者を助けてくれる人はみんなそうなんだろうな。六太だって
相当なお人好しだし。俺なんか最初の数年は、言葉もわからないし世をすねて
ばかりでさ。六太が仕事先を世話してくれて、言葉も少しずつ教えてくれて、
何とかなじむのに十年以上かかったけど、すべては見捨てないでくれた六太の
おかげだ」
「十年……」
 鳴賢が繰り返すと、恂生はうなずいた。十年以上も前にこの男を助けたのな
ら、いったい六太は今、何歳なのだ?
「六太があんたを……?」
「ああ。流されたのが二十一で、今、三十六だから、正確に言うともう十五年
だな。早いものだ」
 どこか淋しそうに笑った恂生は、しみじみとつぶやいた。
 海客も山客も、ある日突然、蝕に巻き込まれてこっちの世界に流されてくる
だけだ。何の心の準備もなく着の身着のままで、しかもいったん来てしまった
ら二度と帰ることはできない。虚海を越えられるのは神仙と妖魔だけだからだ。
「あんた、恂生って言ったっけ? 俺は赤烏だ。通ってる大学じゃ、鳴賢って
呼ばれてるけどな」
「よろしくな。大学生なのか。楽俊と同じだな、すごいな」
「はは、こいつと違って落ちこぼれかけてるけどな。それにしても海客の名前
は珍しいって聞いたことがあるけど、あんたの名前は普通だ」

55永遠の行方「予兆(22)」:2008/04/27(日) 12:15:25
「ああ――そりゃ、蓬莱での名前は違うけど、もう意味のないことだから」
 恂生はわずかに言いよどみ、にこやかな顔から一瞬だけ笑みを引いて答えた。
その空白に、鳴賢もさすがに悪いことを聞いたなと思った。
「最初は六太が別の字(あざな)をつけてくれたんだけど、今は世話になって
る店の主人がつけてくれた字を名乗ってる。そこの娘さんと――さっきの彼女
だけど、今度結婚するんで」
 鳴賢は虚を突かれて、一瞬ぽかんとした。こんなところで引き比べるもので
はないのに、結婚どころか、もう何年も恋人もいないという現実が胸に重かっ
た。自分が大学を落ちこぼれかけている以上、色恋沙汰にうつつを抜かす暇な
どあるわけがないし、当然と言えば当然なのだが……。
 そんな身勝手な思いを振り切って、何とか言葉を続ける。
「そ、そりゃ、良かったな。きっと六太も喜んだろう」
「ああ、自分のことのように喜んでくれたよ。あんなふうに喜んでもらえて、
そういう人がいて、俺も嬉しかった。今じゃほとんど言葉に不自由しないけど、
六太が親身に世話をしてくれなかったら、これまで生きていられたかどうか
もわからないからな」
 そう言って、ふと鳴賢の肩越しに途の向こうに視線を投げる。鳴賢が振り返
ると、遠目に六太と揺峰が戻ってくるのが見えた。
「いろいろなことがあったけど、言葉が通じないってのが一番つらいよ。字体
がけっこう違うから、筆談もなかなか難しかったな。でも少なくとも六太は俺
の言葉をわかってくれたから心強かった。今から思うと八つ当たりばかりして
たけど、そうやって発散して、だから何とかやってこれたのかもしれない。下
位の役人は仙じゃないから、海客とは言葉が通じないんだ。その点、六太なら、
蓬莱の言葉を使おうが使うまいが、冗談も八つ当たりも普通に通じるもんな」
 その途端、楽俊のひげがぴんと立ち、しっぽがあわただしく左右に振れた。
だが恂生は何も気づかなかったらしく、そのまま話を続けた。
「仙ってのは便利だよな。蓬莱がある世界には何千もの種類の言語があるんだ。
でも俺がもし仙だったら、世界中の人と普通に会話ができるってことだもんな。
今じゃ、そんな空想をする余裕もできてきた。もっともこっちの世界じゃ言葉
はひとつだから、なかなか感覚をわかってもらえないみたいだけど――」
「やっぱり……六太は仙だったんだな」

56永遠の行方「予兆(23)」:2008/04/27(日) 12:18:29
「え?」
 きょとんとした恂生は、真剣な顔をしている鳴賢を見て、失言にやっと気づ
いたらしい。うろたえたように咳払いをすると、目を泳がせて六太たちのほう
に視線を投げた。
「楽俊、鳴賢! 餅もいっぱいもらっちまったぜ」
 大きな包みを抱えてぱたぱたと走ってきた六太は、周囲の微妙な空気に気づ
かず嬉しそうに言った。はしゃぐ六太に、恂生がしょげた顔で謝った。
「六太、ごめん……」
「え、何?」
「友達だって言ってたから、てっきり知っているのかと……。で、ばらしちま
った」
「え?」
「六太が仙だってこと」
 激しくまばたいた六太は、押し黙っている鳴賢を見たが、すぐに破顔した。
「ああ、そんなことか。気にするな。別に隠してたわけじゃねえ。何となく鳴
賢には話す機会がなかったってだけだから。楽俊のほうは最初から知ってるし」
「ごめん……」
 恂生はすっかり気落ちしてしまったが、六太のほうは本当に気にしていない
ようだった。鳴賢はあわてて口を挟んだ。
「いや、その、本当のことを言うと、何となくそうかなとは思ってはいたんだ。
でも面と向かって言われたものだから、少し驚いたっていうか。やっぱりそう
なんだって」
「あー、ばれてたかぁ」六太はぺろりと舌を出した。「ま、そろそろやばいか
とは思ってたからなあ。気ぃ悪くしたんならごめんな。でも別にわざわざ言う
ことじゃないと思って。鳴賢だって楽俊だって、官吏になったら仙になるんだ
しさ。それより栃餅に豆餅に、揚げ餅も薬味つきでもらってきたから、さっそ
く帰って分けようぜ。でも今からだと夕餉に障るから夜食か朝餉だな。どうせ
おまえたち、今夜も遅くまで勉強するんだろ?」そう言って恂生に、「こいつ
ら大学生なんだ。いずれお偉い官吏さまになって、雁をしょって立つってわけ。
頼りなさそうで、とてもそうは見えないだろうけどさぁ」

57永遠の行方「予兆(24)」:2008/04/27(日) 12:21:33
「あー、ひどいな」
 おどける六太に抗弁した鳴賢は、この少年が本当に、意図して仙であること
を隠していたのではなく、説明が面倒だとか、単に言う機会がなかったという
だけに思えてきた。いっとき真剣に考え込んでしまったことが馬鹿馬鹿しくな
ってしまったほどだが、それにしては楽俊がかたくなにそれについて話すのを
拒んだことが不思議ではあった。
「俺もこれで相当苦労してんだぜ」
「ああ、わかってる、わかってる」
「どうだか。そんなに言うなら、六太のほうは学校じゃどうなんだよ?」
「へ、俺?」一瞬、意外そうな顔をした六太だったが、すぐにまた笑顔になっ
た。「実は俺、そういうのに通ったことがないんだよなあ。だからちょっと憧
れてる。似たような年頃の連中とわいわいやったり、褒められたり叱られたり
とかさ。ま、実際に行ったからって、悪戯して老師たちを困らせるだけだろう
けど」
 こともなげに言った六太に、鳴賢はまたまた驚いた。
「学校に行ったことがないって……。まさか小学にも?」
 毎日を生きるのがやっとという傾いた国ならまだしも、雁にいてそんなこと
があるのだろうか。だが六太があっさり「まあな」と答えたので、鳴賢は仰天
した。
「でも勉強を教えてくれる人はたくさんいたから」
「それにしたって……」
 途中まで言いかけて、何かの拍子に六太が自分を孤児のようなものだと漏ら
したことがあるのを思い出してやめた。きっと幼い頃に親が亡くなり、勉強ど
ころではなかったのだろう。海客に知り合いがいることと言い、謎が多い少年
なのは確かだが。
 もっとも鳴賢の場合は他人の詮索より、何とか卒業できるよう頑張るほうが
先決ではあった。

 真北、すなわち子(ね)の廬に始まって、丑、寅、卯。点々と移動する罹患
地。光州の官吏にとって不運だったのは、そのすべてが府第に報告されていた
わけではないということだった。

58永遠の行方「予兆(25)」:2008/04/27(日) 12:23:35
 近隣の廬や里で起こったことならまだしも、問題の集落はそれぞれ、旅行す
ら滅多にしないこの世界の民の意識からすれば離れすぎていた。だから一般の
民でこの奇妙な事態に気づいた者は皆無だった。
 もっとも官も、罹患したすべての集落の情報が、少なくとも郡にまで報告が
上がってこなければ気づきようがなかっただろう。したがって誰もまさか、州
都から見て北を起点に、右回りに弧が描かれる形で病が移動しているなどとは
思いもしなかったのだ。
 地に描かれた弧は、このとき既に明確に環を形成しようとしていた。だが病
そのものの症状に警戒をいだきこそすれ、環がもうすぐ閉じられることに気づ
いた者はいなかった。

 その日の夕食後、鳴賢は楽俊に付きあって敬之の房間にいた。敬之が図書府
から借りている本を、何年経ってもこの面では相変わらず不遇を強いられてい
る楽俊に見せる約束をしていたからだ。又貸しは禁じられているが、楽俊の周
囲では必要に迫られて、こうしてちょくちょく行なわれている。
「そう、これ、これが読みたかったんだ。こないだ郭老師が言ってた解釈は、
ちょっと違うんじゃねえかと思っていたし」
 小さな床几にちょこんと腰掛けてあわただしく頁を繰る楽俊に、敬之は笑っ
た。
「だから貸すって。自分の房間に帰ってゆっくり読みなよ」
「でも、おいら、今晩は母ちゃんのところに泊まるから、ちゃんと見られるの
は明日以降になっちまうぞ」
「かまわないよ、その本の貸出期限はあと五日もあるんだから」
 そう言って敬之は別の書籍も一冊、押しつけるように楽俊に渡した。鳴賢自
身が小脇に抱えている数冊の本も、楽俊に貸すためのものだ。楽俊は「いつも
すまねえ」と言って、ぺこりと頭を下げた。
 これでも入学当初に比べれば、便宜を図ってくれるようになった司書もいる
から環境は格段に良くなったのだ。以前、延台輔が大学の視察に訪れた際、半
獣ながら成績優秀な楽俊に直々に声をかけたという椿事のおかげだろうが、こ
こ数日のように、相変わらず半獣に冷たい司書に当たってしまった場合は別だ。

59永遠の行方「予兆(26)」:2008/04/27(日) 12:26:49
「それにほら、こっちは献章(けんしょう)が持ってた本。これも楽俊に貸し
ていいってさ。その代わり、例の比較判例集のまとめを手伝ってほしいって」
「ああ、かまわねえ」
 そんな言葉を交わしながら、三人とも廊下に出て楽俊の房間に向かう。司書
に又貸しを告げ口する輩がいるので、本は袋に入れて見えないようにして、そ
れぞれが小脇に抱えている。
 楽俊が取るべき允許はあと三つ。卒業が具体的に見えてきたのも、こうして
日頃から本を融通してくれる相手が何人もいたことが大きいだろう。
「そういや、阿興(あこう)から手紙が来たんだって?」
「うん、結局里に帰るってさ。みんなによろしくって書いてあった」
「だから最近は献章も焦ってんだな。周りがこうぽろぽろ欠けてっちゃ。あい
つの同期は半分も残ってないんじゃないか?」
「それ言ったら、玄度も他人事じゃねえぞ。今日も外出してたようだが、大丈
夫なのか、あいつ」
「うーん。さすがにそろそろ色恋にうつつを抜かしている場合じゃないんだが
な……」
 そんなことをとりとめもなく話しながら、楽俊が自分の房間の扉を開ける。
すると、夕食前に確かに消したはずの灯りがぼんやりとともって室内を照らし
ており、閉めたはずの書卓の側の窓も大きく開いているのが見えた。
 一瞬警戒した三人だが、奥の臥牀にいた人影がむくりと起きあがったのを見
て、彼らは一様に安堵した。
「毎度毎度のことながら、びっくりさせないでくださいよぉ」
 がっくりと肩を落としてぼやく楽俊に、六太は「わりぃ」と力なく笑った。
こうしてよく訪ねてくるようだから、楽俊は頻繁に会っていたのかもしれない
が、鳴賢や敬之が六太の姿を見るのは久しぶりだった。
「気分が悪くてさ、ちょっと休ませてもらってた。それで空気を入れ換えよう
と思って窓も開けてたんだ」
 そう答える六太の声には、確かに張りがなかった。
「なんだ、てっきりおまえが窓から入ってきたのかと思ったぜ」

60永遠の行方「予兆(27)」:2008/04/27(日) 12:30:05
 拍子抜けした鳴賢がそう言うと、六太は「まさかぁ。ここ、何階だと思って
んだよ」と笑った。
「それと、ほい、これ。鳥の餌」
 懐をまさぐった六太が、取り出した小袋を楽俊に差し出した。
「ああ……いつもすんません」
「鳥?」
 話が見えずに、敬之がぽかんとしたので、鳴賢が言った。
「もしかしてあれか? 文張のところで何度か、綺麗な大きな鳥が窓枠に止ま
っているのを見たことがあるけど。餌づけでもしてるのか?」
 すると楽俊は、なぜか口ごもった。
「そのう。別に餌づけをしてるわけじゃねえ。もちろん飼ってるわけでもねえ。
勝手に飛んでくるんだ。おいら、大抵は今みたいに鼠の姿だから、人間と違っ
て鳥も警戒心が薄れるのかもな」
「へえ。で、その鳥の餌を六太が?」
「まあな。いつも楽俊には泊めてもらったりして世話になってるし、お礼とい
うか賄賂というか」
 六太がぺろりと舌を出して悪戯っぽく言ったので、鳴賢は敬之と顔を見合わ
せて「随分ささやかな賄賂だな」と苦笑した。
「で、こうして賄賂も渡したことだし、今晩泊めてくれねえ?」
 拝むような仕草をした六太に、楽俊は呆れたように言った。
「ご気分が悪いんでしょう? こんなとこで油を売ってないで、早くお帰りに
なったほうが」
「わかってねーな、楽俊」六太は唇を尖らせた。「気分が悪いから、まっすぐ
帰りづらいんじゃねーか。だいたい十日ぶりに帰ったら、連中の嫌味攻撃が待
ってるに決まってる。近場で休んで心構えをしとかないと」
「十日……またですか」
 ふたたび肩を落とした楽俊の横で、鳴賢も呆れて「それだけ遊び歩いていて、
よく小言で済むな」と言った。すると六太は不満げに頬をふくらませて抗弁し
た。
「俺なんか、しょ――風漢に比べりゃ可愛いもんさ。あいつと一緒なら俺も二、
三ヶ月行方をくらませたことはあるけど、あいつはひとりでも平気でそれくら
いいなくなることがあるんだから」

61永遠の行方「予兆(28)」:2008/04/27(日) 12:33:04
 だが鳴賢は肩をすくめると、そんな六太の抗弁をあっさり退けた。
「そりゃ、風漢はどう見ても遊び人だし、比べる対象が悪すぎるだろ」
「あれでどうやら官吏に仕えているようだから、よく仕事を首にならないもの
だとは思うけどね」
 敬之がそう続けて苦笑する。
 脱力して溜息をついた楽俊は、本を入れた袋をやっと書卓の上に置いた。鳴
賢たちもそれに倣う。
「――で、ご気分が悪いのは大丈夫なんですか?」
 向き直った楽俊が諦めたように問うと、六太は力ないながらも、いつものよ
うににんまりと笑った。
「うん、もうへーき。ちょこっと気分が悪かっただけだし、勝手に休ませても
らってそれもだいたい良くなったし。町中で騒動に行き合っちゃってさあ」
 そう言って六太はごろりと臥牀に寝転がった。そして少しだけ沈んだ声で
「物乞いをしていた浮民の親子が関弓の民に追い立てられて、子供のほうがち
ょっと怪我をしたんだ」と続けた。
「ああ、それでか。おまえ、血を見るの苦手だもんな」
 手近の床几を引き寄せて勝手に座りながら、鳴賢は納得した。六太はその手
のものが大の苦手で、こういう面に限っては、子供の外見通り繊細なたちだっ
た。何しろ途の片隅にたまに転がっている犬や猫の死骸を見てさえ気分が悪く
なるのだから、深窓の令嬢のごとき繊細さだと言える。
 楽俊はそんな六太の傍らで、乱れた衾褥をせっせと整えた。敬之もそれを手
伝う。
「なら臥牀をこのまま使ってください。もともとおいらは母ちゃんのところへ
泊まりに行くつもりで、今晩は房間を留守にするところだったんで」
「うん、わりぃな。わりぃついでに何だけど」
「は?」
 体を起こした六太は、情けない顔ですまなさそうに「何か食うもん、ねえ?」
と言った。その途端に六太の腹が、きゅう、と鳴ったので、一同は思わず失笑
してしまった。

- 続く -

62名無しさん:2008/05/02(金) 20:47:36
大量投下キテタ━━(゚∀゚)━━!!
姐さんありがとう!

続きに期待age

63名無しさん:2008/05/02(金) 23:06:17
ああぁぁぁあぁあああ姐さー――――ん!!!
乙、乙!!!

64永遠の行方「予兆(29)」:2008/05/06(火) 10:20:53

 母親に何か残り物をもらってくると言って楽俊が房間を出ていったあと、自
分の房間にとって返した敬之が持ってきた小さな団子を、六太はぺろりと食べ
てしまった。
「仙でも腹は減るんだね」
 敬之がからかうと、六太はびっくりした顔をしてから、「あー。おまえにも
ばれたかぁ」と頭を掻いた。
「てことは、いつもおまえらとつるんでる玄度あたりにもばれてるってことか?
そういえば玄度の姿がねえな」
「ああ、あいつは……」
 敬之は口ごもり、ちらりと鳴賢を見た。鳴賢が引き取って続ける。
「先月だったか、倩霞が店をたたむことになって、郊外に引っ越していっちま
ったんだ。で、こないだ倩霞の使いで阿紫が挨拶に来たんだが、『長いことご
贔屓をいただきありがとうございました。何かの折には遊びに来てください』
って言われたもんで、それで玄度のやつ、さっそく訪ねていったらしい」
「そんなの、よくある通り一遍の挨拶だと思うんだけどね」敬之が口を挟んだ。
「特に商売をしていた人間なら、あちこちに同じ口上を伝えて回っているだろ
う。もちろん倩霞のことだから、何から何までってわけじゃないだろうけど、
もともと体が弱い上に、引っ越ししてそんなに経ってないんだから、まだ生活
は落ち着いていないと思う。だから少なくともしばらくは遠慮したほうがいい
と言ったんだけど、あいつ、挨拶の口上を真に受けて行っちまったんだ」
「女受けする文張とか六太とかが一緒だったんならまだしも、ひとりでな。で、
案の定、理由をつけて追い返されたらしい。今は夕餉も食わずに自分の房間で
不貞寝だ」
「へえ……。でも倩霞、とうとう店を閉めたのか。確かに体が弱いとは聞いて
たけど、あれだけ立派な店だったのに、何だかもったいねえな」
「あ、まだ閉めたわけじゃないよ」敬之が言った。「倩霞自身は郊外に引きこ
もっちゃったけど、いちおう阿紫や郁芳なんかが、通いで店をやってる。もっ
ともあくまで品物の在庫がはけるまでの間らしい」
「ああ、なるほどな。じゃあ、今のうちに阿紫とつなぎをつけておかねえとな」

65永遠の行方「予兆(30)」:2008/05/06(火) 10:24:01
 六太がからかうように言ったが、敬之は浮かない顔だった。商売を辞めた相
手に個人的に尋ねていくのは難しいから、確かに六太の言うとおりではある。
しかしいまだに阿紫に色よい反応をもらったことがないだけに、これ以上どう
すれば良いのかわからないのだろう。
「それはそれとして、玄度のやつはそろそろやばいんだ」と鳴賢。「あいつ、
去年は允許を一個も取れなかったんだからな。それでいて允許が必要な残りは
十はあるはずだ」
「そりゃ、確かにやばそうだ」
「やっぱり学生の本分は勉強だよ。それに玄度はほら、前に倩霞の店の奥でお
茶を飲んだとき、出してもらった綺麗な花茶にもろに苦手な顔をしたろう。女
ってそういう反応には敏感なものだし、倩霞に気づかれてたら大減点もいいと
こだ。なのに下手に押しかけてもまた減点になるだけだと思うんだけどね」
 そこへ房間の外から「誰か、開けてくれ」という楽俊の声がしたので、敬之
が立って扉を開けに行った。楽俊は蓋のついた器をいくつか並べた大きな盆を
持っていた。大荷物にふらつきもせず、思いの外、力持ちであるところを見せ
て、六太が胡座をかいていた臥牀の上に載せる。次々に蓋を開けるとそれは、
香菜入りの粥に煮豆、漬け物がいくつかと、そしてお茶だった。粥からはおい
しそうな湯気が立っている。茶杯だけは人数ぶんあり、茶器にはたっぷりと茶
が入っていた。
「遅くなってすいません。すぐ食えるような物がなかったんで、ちょいと母ち
ゃんに粥を作ってもらってたんです」
「面倒かけてごめんな。でもすごくうまそうだ」
 そんなことを言いながら、やはり小さな団子だけでは到底腹がふくれなかっ
たのだろう、六太は嬉しそうに粥の匙を取った。肉や魚が一切苦手という結構
な偏食である彼の好みどおり、盆に肉のたぐいはない。
 熱い粥をはふはふ言いながら食べる様子があまりにも子供っぽく無邪気で、
付き合いで茶を飲んでいた面々もつい笑ってしまった。
「十日も遊び歩くのに、飯を食う程度の小銭も持ってなかったのかよ? それ
とも使い果たしたのか?」
 鳴賢が突っ込むと、六太は粥を口に入れたまま行儀悪く答えた。

66永遠の行方「予兆(31)」:2008/05/06(火) 10:28:08
「あー、もともと金はあまり持って出なかったし、すっかり使い果たしたなあ。
実を言うと餅を買ってあったんだけど、怪我をした浮民の子に全部やっちまっ
たし」
 六太がすぐ他人に同情するたちなのは鳴賢も知っていたが、それを聞いた敬
之は眉をひそめた。
「六太のことだから大丈夫だと思うけど……。こっそりやったろうね?」
「ん?」
「食い詰めている他の浮民に知れたら、その子は無理やり餅を取りあげられる
だろうし、六太だって大いにたかられるよ。それどころかたとえ仙でも六太の
ように非力な子供の外見なら、やつらは餅一個奪うために殺そうとすることだ
ってあるんだ。いくら関弓が主上のお膝元でも、にぎやかなぶん場所によっち
ゃかなり物騒だし、気をつけなくちゃ」
 すると六太は粥を食べる手を止めてうつむいた。そして「他の連中に知れな
いように、こっそりやったから大丈夫だ」と静かに答えた。
「それにその親子に会ったのは初めてだし……。こっちの名前も言わなかった
から、俺がどこの誰かなんてわからないさ。だからあとで押しかけられること
もない」
 そうつなげたので、六太は敬之が言わなかったこともすべてわかっているよ
うだった。やっと顔を上げた六太は、ちょっと首をすくめて力なく笑った。
「俺もさ、見かけ通りの子供だった頃はたくさん失敗したよ。昔、似たような
ことを風漢に言われたこともあって、そのときはいちいち反発したけど、さす
がに今は学んだ。だから今回のことはあくまで、目の前で怪我をして、しかも
腹を空かせている痩せた子供を放っておけなかっただけだ。騒ぎを聞きつけて
やってきた役人も親子に冷たかったしな。ただ、どんなに浮民を可哀想に思っ
ても、浮民すべてに食べ物を施すことは不可能だし、仮にできたとしても彼ら
の依存心を高めてしまうだけってことはわかってる。そうなれば自立できなく
なり、一方的に国の負担が増してしまう。そしてそれを良く思わない民といっ
そうの軋轢が起きて、事態は悪くなるだけだ。――うん、わかってる」
 思いの外、六太がしょげてしまったので、敬之は少しあわてたようだった。
急いで言葉を取り繕う。

67永遠の行方「予兆(32)」:2008/05/06(火) 10:31:34
「別に六太が悪いことをしたと言ってるわけじゃないよ。きっとその親子は感
謝したろうし、たかるとかそういうんじゃなく、いつかお礼をしたいと思って
名前を聞くぐらいはするだろう。ただ民に追い立てられて騒ぎになってたなら、
はずみで六太も怪我なり何なりする危険もあるわけだから、それで単に気をつ
けたほうがいいと思っただけなんだ。変なことを言ってごめんな。でもいいこ
とをしたと思うよ」
「浮民と言ってもいろいろだしな。六太の助けたその子が阿紫みたいな働き者
に育てば、誰も文句はないさ」
 そんな言い方で慰めになるかどうかわからないながら、鳴賢も口を添える。
 やがて綺麗に皿を空にした六太が、手を合わせて拝むような仕草で「ごちそ
うさまでした」と言った。六太の育った里では食後にそうする習慣だったのだ
ろうが、この世界では一般的な作法ではない。鳴賢もとうに慣れたとはいえ、
それでも奇妙な習慣だと思う意識は今も変わらなかった。
「じゃあ、おいら、これを片づけついでに母ちゃんとこに行きますんで、あと
は房間を好きに使ってください。鳴賢たちも残りの茶を飲んでってくれ」
 楽俊はそう言うと、ふたたび盆を持って房間を出ていった。
 熱い粥と茶のおかげで、六太はすっかり人心地を取り戻したようだった。先
ほどよりずっと灯りを多くして房間を明るくしているせいもあるかもしれない
が、もう気分が悪いようには見えなかった。
「そういえば楽俊は来年あたり卒業できそうなんだってな。鳴賢と敬之は、あ
といくつ允許を取ればいいんだっけ?」
 ふと無邪気に問われ、鳴賢は危うく茶でむせそうになった。
「……俺はあと四つだ」
「ああ、そんなら楽俊と一緒に卒業できそうだな」
 簡単に言われたものの、当の鳴賢は渋い顔をしたままだった。敬之が言う。
「鳴賢はもう十年目だし、残った科目の内容から言うと微妙なとこなんだよね。
これからが正念場ってとこ。僕はあと六つだ。僕も正念場だな……」
 だが六太は明るく笑った。
「おまえらなら大丈夫だよ。それにここまで来りゃ、卒業できなくても府第に
勤めるかぎりは昇仙できる。そういえば風漢が、何なら自分のところでこき使
ってやるって言ってたぜ」

68永遠の行方「予兆(33)」:2008/05/06(火) 10:34:49
「それはごめんこうむりたいな。だいたい大学まで行けば、中退でもかなりの
箔がつくんだぞ。それを何が悲しゅうて遊び人の使用人にならなきゃならない
んだ。優秀な連中がひしめいているだろう国府で割りこむのは無理かもしれな
いとしても、地方ならけっこうな官位をもらえるはずなのに」
「地方か……。うん、そういうのもいいかもな」何を思ったか、不意に六太は
遠くを見るような目になった。「それも州府とかの凌雲山の中じゃなくて……。
町中の小さな府第がいいな。建物を出れば、民がたくさん行き来しているよう
な」
「そうかなぁ」
 敬之が首を傾げると、六太は軽く笑った。
「だって神仙の世界は本来、雲海の上だろ? 下界とはすっかり隔てられてい
るじゃねえか。でも町中の府第なら民のそばにいられる。俺は何となく――は
るか雲海の上から見おろしてばかりいると、民のことがすっかりわかんなくな
っちまうんじゃないかと、それが心配なんだ」
「ふうん。そういう心配もわからないでもないけど、一口に官と言ってもピン
キリだろう? それに雲海の上まで行ける官位となると相当なものだ。僕たち
が首尾良く卒業できたとしてもしばらくは下積みだろうし、そもそも大多数の
官にとっては雲海の上なんて一生縁がないだろうから、心配するだけ無駄だと
思うけど」
 敬之はそう言ったが、六太はからかうように「先のことはどう転ぶかわから
ねえぞ。初年度から本人もびっくりするくらい大出世したりしてな」と返した。
「ただ……。そうだな。鳴賢たちがどこに行くにしても、民のことを考えられ
る官になってほしい。今日行き合った浮民の親子を冷たくあしらった官のよう
にはなってほしくない。そりゃ、状況次第で厳しい態度を取ることは仕方がな
いかもしれない。でもそれは、怪我をした子供を抱えた親を単に追い返すよう
なのとは違うと思うんだ」
「言いたいことはわからないでもないんだけどなあ」
 鳴賢は腕組みをして天井を睨んだ。やはり何だかんだ言っても六太は考えが
甘いのだ。これだけ雁に浮民が増えた以上、ひとりひとりにじっくり対応して
いられるわけもない。役人にしてみれば騒ぎを鎮めるのが先決だろうし、結局
はそのおかげで件の浮民もそれ以上の難を逃れたことになるのに。

69永遠の行方「予兆(34)」:2008/05/06(火) 10:40:05
「それにだいたい関弓には主上も台輔もおられるじゃないか。俺たちがなるだ
ろう末端の官が何をどうしようと、別に大勢に影響はなかろうが」
「そんなことはない」なぜだか六太はむきになった。「国を切り回すのは結局
は官だ。それは末端の官に至るまで高い志を持ち、かつきちんと統制が取れて
初めて機能するものだ。王がひとりいても国は回らない。王なんか――結局は
玉座を埋めていればいいだけなんだから」
「おまえもたいがい不遜なやつだな」
 鳴賢は顔をしかめた。六太もさすがに言いすぎたと思ったのだろう、うつむ
くと、小さな声で「ごめん」と謝った。
 五百年の大王朝をうち立てた延王は、その王を選んだ宰輔とともに雁の民に
とってはまさしく神だ。その神を貶められて良い気持ちになる国民はまずいな
い。
 六太は持っていた空の茶杯を置くと、臥牀の上で膝を抱いて顔を伏せた。
「でも――でも、俺、さ。自分がやらなくても、とか、誰かがやってくれる、
とか、少なくとも官になるからにはそういうふうに考えてほしくないんだ。自
分も国を支えているってことをちゃんと自覚してほしい。だって、さ。だって
……」幾度も口ごもり、顔を伏せたまま、やっと言葉を押しだす。「だって、
雁も永遠じゃないんだから」
「おまえ……。杞憂って言葉を知ってるか?」
 さすがに呆れ果てた鳴賢が問う。以前、彼が失恋したときにした話といい、
どうも六太は物事をすべからく深刻に考えてしまう癖があるようだった。
 しかも一介の少年の口から「雁も永遠じゃない」という言葉が飛び出すとは。
国府の役人が聞いたら誰も彼も大笑いするだろう。敬之も鳴賢と視線を交わし
て肩をすくめた。だが六太が真剣なことだけはわかったので、鳴賢はやれやれ
と思いながらも言葉を続けた。こういう手合いは思い詰めやすいだけに、扱い
を間違えるとあとが面倒なのだ。
「――で? もしものときに備えて今から心構えをしていろと? それともそ
うならないように主上を支えろってことか?」
 わずかな空白ののち、六太は力なく答えた。
「どっちも、かな……。どっちにしても王を頼らないでほしいんだ……。そり
ゃ、もともと雁は官吏が強いって言われているし、実際、官が勝手にやるけど、
でもそのことじゃなくて――」

70永遠の行方「予兆(35)」:2008/05/06(火) 10:44:56
「そうか? そんな話、俺は初めて聞いたぞ。なあ?」
 鳴賢が眉根を寄せて敬之を見やると、敬之は彼にうなずいてから六太に言っ
た。
「どこで聞いたか知らないけど、雁は主上のおかげでここまで栄えた国だよ。
多くの反乱を鎮め、さまざまな改革を勅令で断行した。官はそんな主上の手足
となって働くだけだ。六太が主上のもとに官が団結しているって言ったなら話
は別だけど、官が強いだの勝手にやるだの、そんなのはありえないよ」
 彼の言うとおりだった。六太は知らないだろうが、鳴賢たちは現王がこれま
で発布したすべての勅令を学んだのだ。そこから王の見識の深さや大胆さ、慈
悲深さとを感じとった彼らにすれば当然の結論だった。官吏はあくまで執政機
構の歯車にすぎない。
 すると六太は、いっそう強く膝を抱きかかえて体を丸めると、あるかなしか
の声で途切れ途切れにつぶやいた。
「……そうだな。すべては王のおかげだ。――は何の役にも立たなかった。い
つもいつも……」
「おい?」顔を伏せたままの六太がすっかりおとなしくなってしまったので、
鳴賢は心配になって声をかけた。「もしかしてまた気分でも悪くなったのか?
横になったほうが良くはないか?」
 だが六太は顔を上げると、弱々しいながらも笑って「別に平気だってば」と
答えた。そして「なんでこんな話になっちゃったんだっけ? 変なこと言って
ごめんな」と、いったんは話を切りあげようとした。しかし何やら考え直した
のだろう、暫時口をつぐんでうつむいたあと、顔を上げて表情をひきしめると
今度ははっきりとした声で言った。
「もうこういう機会もないかもしれないしな。そもそも鳴賢たちが本当に官吏
になっちまったら、こんな話はできねえだろうし」
「うん?」
「怒らないで聞いてほしいんだけどさ。ずっと考えていたことがあるんだ」
 六太は反応を伺うようにいったん言葉を切ったが、ふたりが黙っているとふ
たたび口を開いた。
「王は――人柱、みたいなものじゃないかって。だから雁が安泰でいられるの
は、王が人柱であることに甘んじている間だけだって」

- 続く -

71名無しさん:2008/06/20(金) 21:19:34
只今はじめて拝見しました(*´Д`)
とても深いお話で先が全然読めない…延主従切ない…

更新楽しみにしています!

72永遠の行方「予兆(36/47)」:2008/06/30(月) 21:35:10
「あのなあ」
 今度こそ本当に憤りを覚えた鳴賢は、強い調子で咎める声を出した。しかし
六太の言葉があまりにも予想外だったため、却って何をどう返して良いものや
らわからずに口をつぐんでしまった。
 六太と話していてこれほど不愉快になったのは初めての経験だった。よりに
もよって王を人柱とは。嫌そうな表情を隠そうともしないまま、顔をそむける。
敬之も眉をひそめていたが、こちらは何も言わず、目顔で先をうながした。
 険悪で重苦しい空気になったことで、六太はひるんだ様子を見せた。だが鳴
賢たちが硬い表情で押し黙っていると、不意に疲れたような目をして淡々と続
けた。
「……王は王になった瞬間に不老不死になる。そして至高の位に就いて、官や
民に敬われ、かしずかれながら国を治める。だから最初は王自身も気づかない。
王の体や心はすべては国のためのもので、それ以外に存在意義などないことを。
いわば国に捧げられた人柱であることを」
「それは違うだろうが」たまりかねた鳴賢は、思わず口を挟んでいた。「農民
には農民の、商人には商人の役目があるように、要は王には王の役目があるっ
てだけの話じゃないか。存在意義だの何だの、そういう考えかたは見当違いだ」
 だが六太は彼をじっと見つめたあと、ゆっくり首を振ると続けた。
「確かにな。だが決定的なことがひとつある。それは王が玉座を埋めていれば
妖魔は現われず、天災もほとんど起きないという理(ことわり)だ。こればか
りは絶対に、余人にどうこうできる問題じゃない。それだけに王のいない国や、
王が天命を失った国は悲惨だ。だから空位の国では、誰もが一日千秋の思いで
新王の登極を待ち望む。そしてそれは往々にして、王自身の思いはどうあれ、
そして王が誰であれ、大抵の者はそんなことを忖度しないということに通じて
しまう。天に選ばれた人間が玉座に就くのは当然のことだし、もし拒否しよう
ものなら非難囂々だろう。大事なのはとにかく、天に認められた正当な王が玉
座にいることなんだ。すべてはそれからだ」
「それは要するに俺たち民が、玉座にいる人間が誰だろうと、自分たちの生活
さえ平穏ならそれでいいと思っているって言っているのか」
 鳴賢は吐き捨てるように言ったが、六太は今度も首を振って続けた。

73永遠の行方「予兆(37/47)」:2008/06/30(月) 21:37:49
「別に俺は民を責めているんじゃない。王と民のどちらにつくかと問われたら、
俺は絶対に民の側につくからな。もちろん鳴賢や敬之に含みがあるわけでもな
い。単に事実を言っているだけだ。王のことを口にすれば不敬だと言い、国政
とは王がなすものだと思っている。そうして雲海の上のことは、自分たちとは
別の世界の話だと思っている」
「だって実際そうじゃないか」敬之が呆れた口調で言った。「王は国を治める
べく麒麟に選ばれた神なんだよ? 天に許された王以外の者が国政をどうこう
言うなんて許されることじゃない。六太に悪気はないだろうけど、簡単にこう
いう話をするのは褒められたことじゃないな。そもそも官吏は仙籍に入るけど
王は違う。王が入るのは人の手の届かない神籍だ。僕たちがどうこう言えるお
かたじゃない」
「でも王も人間だ。麒麟に選ばれたというだけの人間だ。不敬だと言い、神だ
と言い、そうやって崇めたてまつってありがたがって、でもそのことが逆に王
を孤独にし、追いつめることもあるんだ。人間なのに、王としての振る舞いし
か許されないんだから。確かにその身はすべて国に捧げられるべきものだけど、
だからと言って人間としての悩みや苦しみと無縁でいられるわけじゃない」
「あのなあ、六太……」
 不穏な考えがあっての話ではなく、妙な思いこみからとはいえ王を憂えての
ことだとわかって少し安堵したものの、鳴賢は脱力せざるを得なかった。だが
六太は、そんな彼の反応を意に介さずに続けた。
「そりゃ、まあ、昇山した者ははなから王を目指していたわけだから別かもし
れない。それに官吏や飛仙など、ある程度の知識や心構えのあるやつに天啓が
降りたならまだいい。でもたとえば奏の王はもともとは舎館の亭主だった。慶
の前王、つまり予王は、商家出身のおとなしい娘だったと聞いている」
「へ? そうなのか?」
 初耳の事柄を、当たり前のようにぽんぽんと口に出され、鳴賢は面食らった。
 自国の王のことでさえ、一般の民に漏れ聞こえてくる内容はささやかなもの
だ。だから他国の王に至っては、姓名はもちろん出自などを民が知る機会はな
いに等しい。
 ただし大学生である鳴賢たちの場合はむろん事情が異なる。彼らがその気に
なれば、多少の手間はあるとしてもそこそこの知識は得られるだろう。しかし
各国の民は他国のことに興味を示さない傾向がある。入学前から他国の法にも
興味を持っていた楽俊のような人間は珍しいのだ。

74永遠の行方「予兆(38/47)」:2008/06/30(月) 21:40:23
 だから鳴賢たちも、勅令の内容や業績といった公のことならまだしも、他国
の王の個人的な事柄についてはまったく興味を持っておらず、したがって何も
知らないと言って良かった。それだけに六太が当たり前のように他国の王の出
自を口にするのは驚き以外の何物でもなかった。そもそも官吏でも学生でもな
いのに、いったいどこで知識を仕入れたのだろうと疑念をいだいても無理もな
い。
「予王については、慶にいる知り合いがそう言ってた」
「知り合い、ねえ……」
 鳴賢は、六太にこんな妙な話を吹きこむくらいだから、その知り合いとやら
はろくな人間ではないだろうと思った。
「予王は、当人に昇山する気もなければ、そういう意味での期待を周囲から受
けていたわけでもなかったそうだ。当然ながら施政に関する知識も心構えもな
かったが、優しくておとなしくて綺麗で、普通に嫁げばきっと幸せに暮らせた
ろう。だがある日突然現われた麒麟に選ばれてしまった」
 六太の口調には遠慮がないものの、表現には情緒的な彩りが濃かった。もし
や六太は小説のたぐいで知識を得たのではないのか、そういった庶民向けの娯
楽に真実が含まれているとは限らないことを知らないのではないかと鳴賢は疑
った。彼は敬之とちらちらと視線を交わしたが、六太はそんなふたりの様子を
気にするふうもなく、淡々と言葉を連ねた。既に口調すら、普段とは異なって
いる。
「王は一度にひとりしかあらわれない。玉座が埋まらねば国が荒れる。周囲か
らの有形無形の圧力もあるだろうし、選ばれた人間に選択の余地はない。そも
そも王位を拒むような無責任な人間に天啓は降りないとも言われているしな。
だが奏国のようにうまく転べばいいが、予王のように悲惨な方向に振れる場合
も少なくない」
「そりゃまあ、予王はねえ……。確か在位六年だっけ? 極めつけに短かった
んだよね。なのに女人追放例なんて悪法を作るものだから、おかげで雁にも荒
民が多く押し寄せたんだ」
 溜息混じりの敬之の言葉に、六太は苦い顔でうなずいた。

75永遠の行方「予兆(39/47)」:2008/06/30(月) 21:43:01
「小説や講談で、予王の話をおもしろおかしく仕立てているのは知っているよ。
麒麟に恋着して国を傾けた愚王、女官に悋気を起こすだけでなく、慶の全土か
ら女人を追放した無能者ってね。そもそも民は失政で斃れた王には容赦がない
ものだし、ただでさえ他国の出来事だ。でもこの際だから知っておいてほしい
んだが、慶国は長年の官吏の専横で政治は腐敗しており、ただでさえ年若い無
知な女王が施政に携わるには敷居が高かった。予王には知識も手段も人脈もな
く、王を無条件で慕うとされている麒麟以外には真実ひとりの味方もいなかっ
た。むろん高い志を持った人間はどこかにいたろう。だが政権を牛耳って予王
を囲いこんでいたのは、私利私欲をむさぼる連中ばかりだったんだ。
 そんな状況で、何の心の準備もなく、ある日突然王にされてしまった若い女
に何ができる? 予王は麒麟への恋着で国を傾けたと言われているし、確かに
それも事実のひとつではあるが、それでは王を疎んじた官吏には非がないこと
になってしまう。予王だって最初は厳粛に天命を受け入れ、彼女なりに真剣に
国政に携わろうとしたと聞いている。しかし官吏の専横、そして世知に疎い麒
麟など、予王の気構えに報いるような仕組みや人材がなかった。たったひとり
では王と言えども何できない。俺にはその孤独が、麒麟への恋着という歪んだ
形となってあらわれたように思う」
「……まあ……それも解釈のひとつだろうけどなあ……」鳴賢はつぶやくよう
に言った。
「だが予王は最後に禅譲を選んだ。みずからの生命と引き替えに、麒麟を、ひ
いては国を救ったんだ。治世の評価はどうあれ、玉座に値しない人間だったは
ずはない。そもそも天命を受け入れて玉座に就くこと自体、平凡な娘にとって
は相当な決断だったはずだ。でもそんな彼女の心情を思いやる者はいない」
 神妙な面持ちの六太とは裏腹に、鳴賢は肩をすくめた。
「でもそれは仕方ないんじゃないか? 天啓がおりたってことは、確かに王と
しての資質はあったってことだろう。でも結局予王はその資質を生かさなかっ
たわけだ。慶の現王なんか予王より年下の娘だって話だけど、単身地方に赴い
て反乱を鎮めてしまったって聞いたぞ。そもそも登極のいきさつ自体、あちこ
ちで小説の演目としてもてはやされているように、かなり劇的だしな。この際
だから俺も六太に言うが、王には王の責務がある。それを果たしてくれないな
ら、俺たちも辛辣になるしかないと思うぜ」

76永遠の行方「予兆(40/47)」:2008/06/30(月) 21:45:48
「わかってるさ、それは。ただ――そうだな、こう考えてくれないか? 仮に
雁が空位の時代で、玉麗とか阿紫に天意が下ったとしたら? 彼女の元にいき
なり現われた麒麟が即位を求めたら?」
 鳴賢たちは呆れた。たとえ話にもほどがあると思ったからだ。
「そんなのありえないだろうが……」
「阿紫はまだ十六だよ?」
「現景王は登極時十六歳だった。現供王に至っては十二歳で登極した」六太は
きっぱりとした口調で返した。「もっとも供王のほうは昇山組だが。俺は玉麗
って娘に会ったことはないが、鳴賢の話を聞いたかぎりでは予王と似ていると
思う。おとなしくて気だてが良くて、市井で平凡な暮らしを営むぶんには幸せ
になれるだろう娘だ」
「まあ、そりゃ……。でも仮に玉麗のところに麒麟が現われたら、俺は断るよ
うに忠告するけどな」
「鳴賢、さっき言ったろ? 王位を拒むような無責任な人間に天啓は降りない
と言われているって。それに玉座が埋まらねば国が荒れる。王位に就けという
周囲からの圧力も相当なものだろうって」
 面倒になった鳴賢は大きく息を吐くと、「ああ、ああ、わかったよ」と投げ
やりな口調で返した。なんでこんな話になったのかわからなかったし、やたら
と不愉快だった。
「もし麒麟が彼女のもとに現われたら、なのに宮城に味方がただのひとりもい
なかったら、まともに政治を行なえるとは思えない。本人が自分を捨ててよほ
ど辛抱強く血のにじむような努力をするか幸運に恵まれないかぎり、間違いな
く国は荒れ、十年ともたないだろう」
 六太は厳粛な面持ちでうなずいた。
「俺もそう思う。そして民衆は彼女の辛苦に思いを馳せることなく、ただ責め
るだろう」
 それに、と六太は続けた。

77永遠の行方「予兆(41/47)」:2008/06/30(月) 21:49:07
「いったん王になったら辞めることは許されない。王としてあり続けるか禅譲
によって――単なる自殺は禁忌だからな――死ぬだけ。終わりがない重圧に、
どれだけの人が耐えられるのだろう。もちろん、だからこそ禅譲という手続き
が用意されているのかもしれないが。以前ちょっと調べたことがあるんだが、
大半の王朝は五十年以上もつものの、その反面、十年から二十年で沈む短命な
王朝も決して少なくはないんだ」
「調べた、って。どうやって」
 驚いた敬之に、六太はこともなげに「史書で」と答えた。
「史書って……。そりゃあ図書府のようなところなら、雁の史書を含めて貴重
な書はたくさんあるけど、六太は大学生じゃないし」
「ああ、うちにも本だの何だのはたくさんあるんだ。それに」
「おまえ、何だかんだ言って、実は良いところのおぼっちゃんじゃないのか?」
 すかさず鳴賢が突っ込むと、六太は口ごもった。王についてなら、あれだけ
ぽんぽんと言葉が飛び出したくせに、自分のことを語るのは相変わらず苦手ら
しい。
「まあ、その……。そうだな……。ありがたいことに今は大事にしてもらって
る。でも前に捨て子のようなものって言ったのも嘘じゃないんだ。実際、俺、
四つのときに山ん中に捨てられたんだ……」
「え」
 六太はうつむくと、声を落とした。
「そのときは浮民みたいなものだったんだ。なのに兄弟が多くて満足に食べ物
もなくて。それで末っ子の俺が捨てられた」
 声もない鳴賢をちらりと見やってから、敬之は遠慮がちに六太に聞いた。
「その家族は、今は?」
「うん、どうなったかな……。結局、それから会えなかったんだ」
「そうか……。ってことは、六太は運良く誰かに拾われたってことだよね。良
かったな。でも六太はもともとは雁の民じゃなかったんだ?」
「確かに俺は雁の生まれじゃない。敬之の言うとおり、山ん中で運良く拾われ
て、それで今ここにいる」

78永遠の行方「予兆(42/47)」:2008/06/30(月) 21:51:53
「そうか」
 敬之は簡単に相槌を打ったが、鳴賢のほうは心底から驚いていた。六太が雁
の生まれでないなど考えたことはなかったからだ。それと同時に、六太に対す
るわけのわからない怒りがわきあがってきた。
 生粋の雁国民だと思えばこそ、先ほどの話も何とか聞けたのだ。なのにそう
でないことを知った今、不快の度合いはさらに増した。彼らの誇りである延王
についてとやかく言われた上、世の中の条理をわかっていない流れ者が偉そう
に講釈を垂れたという印象をぬぐえなかったからだ。
 そんな鳴賢の心中をよそに、六太は淡々と続けた。敬之も鳴賢ほどには不愉
快でないらしく、先ほどよりは真剣な面持ちで話を聞いている。
「それで、さ。昔は王とかが嫌いだったんだ。王のせいで俺たち民は苦しむっ
て。でもよくよく考えてみたら、王も苦しむんだよな。王だって人間なんだか
ら。長いことかかったけど、最近はやっとそんなことも考えられるようになっ
てきた」
「なるほどね……」
「たとえば、そうだな。先代の采王も不幸な例だったと思う。当人がどんなに
一生懸命でも能力が追いつかずに国が沈むことがあるという好例だったからな。
先々代の劉王の場合はもっと悲惨だ。その前の荒廃が激しくて国土を整えるの
が追いつかず、おまけに州候たちの支援を得られずについに斃れた」
「采王のことはよく知らないけど、劉王は僕も不運だったかもとは思うな。前
王に重用された州候の六人までが新王に反抗して、反旗を揚げたりもしたしね。
講義でもけっこう掘りさげてたけど、あれは国府対地方という構図で斃れた好
例だった」
「うん。それで結局は政権抗争を収めることができず、なかなか国を整えるこ
とができなかったんだ。失道した麒麟を、ひいては国を憂えた王は、自分では
州候たちを抑えられないとして、仮朝の準備も整えてから禅譲した。諦めが早
すぎるというのが後世の評価だと思うけど、俺はそんな王を誰も責められない
と思う。既に麒麟は失道していたわけだしな。それに何か不幸が起きたとき、
それを一方的に誰かのせいにして断罪するだけでは何にもならない。それじゃ
あ誰も何も学んだことにはならないし、また同じことが繰り返されてしまうよ
うに思う。

79永遠の行方「予兆(43/47)」:2008/06/30(月) 21:54:05
 それからこれは風漢も言ってたんだけど、三百年ほど居座った王が斃れると
きは悲惨な斃れかたをすることが多い。それも晩年の一、二年で、それまで豊
かだった国土のすべてを荒廃させるような極端な圧政を敷いたりする。それま
での善政と比べると、その豹変ぶりははなはだしい。でも三百年もの長い間国
を繁栄させてきた王が愚かなわけがない。それは終わりのない重圧に耐えかね
て何かが歪んでしまったからじゃないだろうか。そうとでも考えないと説明が
つかないと思うんだ」
 鳴賢は不愉快な表情を隠そうともしないまま、黙って聞いていた。憤りは憤
りとして、確かに六太の言い分もわからないでもない。だがそれは彼らが官吏
になったあとならともかく、市井の一庶民が考えるべきことではないというの
が正直な気持ちだった。第一、六太がなぜ、他国のことまでこれほど詳細に語
れるのかがわからなかった。さも真実であるかのように語っているが、本当に
何らかの根拠に裏づけられた言葉なのだろうか?
 そんな彼の様子に気づいていたのだろう、六太はまた「ごめんな」と謝って
からこう続けた。
「さっきは王を頼らないでほしいって言ったけど、それもちょっと違うかもし
れない。俺が言いたかったのは――そうだな、王をやたらと神聖視しないでほ
しいんだ。悩みも何もなく、人を超越しているなんて思わないでほしい。王だ
って人間なんだ。時には弱音を吐きたいときもあるだろうし、泣きたいときも
あるだろう。そういうのを全部ひっくるめて王を認めてほしいんだ。善政を享
受し、失政を責めるだけにはなってほしくない。言うなれば雁のひとりひとり
に王と一緒に国を支えてほしい。民も官も王も一緒に協力して国を治めて、互
いを思いやってみんなで幸せになれる。俺、そうだったらどんなにいいだろう
と思うんだ。
 それにそうすればきっと、何かあったときも王が立ち直るよすがになると思
う。そりゃあ、至高の存在である王の気持ちは、同じ王にしかわからないかも
しれない。たとえば宰輔と言えど、あくまで臣下であり次点。国の頂点に立つ
者の気持ちはわからないだろう。でもだからって、相手を慮らないというのと
は違うと思うんだ。何て言えばいいのか――その、うまく説明できないけど」

80永遠の行方「予兆(44/47)」:2008/06/30(月) 21:58:01
「いや、言いたいことはわかるよ」
 敬之が静かに答えた。そうしてから居住まいをただし、ほんの数瞬だけ沈黙
する。その反応に目をしばたたいた六太が見つめる中、再び口を開いた敬之は
こう諭した。
「ただね、六太。六太が真剣なのはわかるし、一介の民でしかない僕たちが王
のことを身近に感じて心配するのも悪いことじゃないとは思う。でもそれは本
来、僕たちの役目じゃない。六太の話を聞いていると、さっきからどうも自分
を高みに置いているように感じる。主上と言わずに王と言ったり、台輔と言わ
ずに宰輔と言ったり。確かに国政を憂えるのは悪いことじゃないけど、そうい
う役目にない者がそんなことを言ったりやったりするのは、大げさでも何でも
なく国が乱れる元だ。きついことを言うようだけど、思い上がっているように
聞こえるよ。たとえば王位を簒奪したり、偽って王を名乗る輩に通じるものが
あるとすら思える。歴史の中にはそういう例が多いからね。僕は六太を友達だ
と思うから忠告するけど、もうそんな話はしないほうがいい。六太は善意でも、
悪意を持って国政を牛耳ろうとするような輩の言に、何かの根拠を与えないと
も限らないんだから」
 敬之の反応から、てっきり彼が六太に言いくるめられたのかと思っていた鳴
賢は、その言葉を聞いて安堵した。おかげで少しだけ不愉快の度合いがやわら
いで、「確かにな」と相槌を打った。
「ごめん……」
 また顔を伏せて消え入るような声で謝った六太に、鳴賢は自分の気分を切り
替えるためもあって、わざと明るく声をかけた。不愉快な思いをしたのは事実
だったが、長いつきあいでもあることだし、できればこのまま六太と気まずく
なることは避けたかったからだ。
「気分が悪いから、妙なことも考えるんだろうさ。もう横になって寝たほうが
いい。明日になれば気分も良くなって、妙な考えも全部忘れてるさ」
 すると六太はもう何も抗弁しようとせず、素直に「うん」と答えた。鳴賢は
横になった彼の体に衾をかけてやった。

81永遠の行方「予兆(45/47)」:2008/06/30(月) 22:00:35
「帯を解いたほうが楽なんじゃないか? その頭巾も取ったほうがいい」
「いや……このままでいい」
「まあ、おまえがいいならいいけどさ」
「六太は仙なんだよね。仙もけっこう繊細なんだな」
 立ち上がった敬之が床几をしまいながらからかうと、弱々しいながらも六太
はやっと笑った。
「気分はとっくに良くなったって言ったろ。こういう考え方をするのは――何
ていうか俺の性分みたいなもん」
「物騒な性分だなあ」
「物騒……。やっぱりおまえらからするとそうなのかな」
「そうだよ。さっきも言ったけど、もうあの話はするなよ。特に滅多な相手に
は喋るものじゃない」
「……うん。わかった」敬之の言葉に、今度も六太は素直にうなずいた。
「それさえなければ、勉強して大学まで来いと誘うところだ。このままじゃ六
太はもったいない。知識と言い、官吏になればいいと思うけどね」
 敬之が言ったのはお世辞でも何でもなかったろうが、六太は真顔で首を振っ
た。
「俺、働いてるからそんなの無理だし……。それに官吏には絶対になれないよ」
「働いてるのか? もう?」
 言いかけた鳴賢はすぐ、まぬけな物言いであることに気づいて言葉を切った。
幼さの残る六太の外見を見ていると、ついうっかり彼が仙であることを忘れて
しまうのだ。特に今のように意気消沈してはかない様子をしていると、どうし
たって大人たちに庇護されるべき子供にしか見えない。
「――あ、仙なら早いこともないのか。六太、おまえ本当はいくつだ?」
 すると六太は、ようやく普段の彼らしい表情を見せていたずらっぽく笑った。
「実を言うと、俺、とっくに三十を越えてる」
「げっ、俺より年上かよ?」
 仰天した鳴賢は思わず叫んでいた。敬之も目をみはり、やがて脱力したよう
に大きく息を吐いた。

82永遠の行方「予兆(46/47)」:2008/06/30(月) 22:03:53
「道理で……。でも官吏じゃないってことは、身内が官になるのと一緒に昇仙
したってことだよね。今は店か何かで働いてるのかな?」
「いや、風漢と同じとこ、なんだけど」
「へえ? どこだ? 良かったら今度遊びに行くよ」
 何気なく言った鳴賢に、なぜだか六太はぎくりとなった。
「いや、その、府第(やくしょ)、みたいなとこなんで、それは無理だと思う
けど」
「府第ぉ!?」
「風漢がそこで、その、小間使いというか下働きしてるんで、その手伝いとい
うか」
「そうだったのか……」
 鳴賢はやっと得心がいったと思った。同僚のようなものなら、六太と風漢が
親しいのも当たり前だ。出会った頃、幼い外見の六太と二十代も半ばの遊び人
の風漢とでは接点がないように思えて不思議がったものだが、同じ職場で働く
ことで知り合ったなら合点がいくというものだ。今は同じ家に住んでいるらし
いが、下働きというなら、単に同じ府邸に住みこんでいるというだけの話だろ
う。
 ただ、どちらもあまり型にはまっているとは言いがたいだけに、府第のよう
な堅い印象の場所には不似合いで、意外な印象はぬぐえなかった。そうしてふ
たりをかかえている主人の苦労を思い、それでも首にしない度量の大きさに感
服しながらも内心で苦笑した。
 あるいはもしかしたらその官吏は、六太を本当の子供のように可愛がって、
正式に養子にでもしているのかもしれない。それで六太は昇仙できたのかもし
れない。それなら六太が遊び歩けるのも、教育を受けていないと言いながらも
しっかりした知識を持っているのも納得だ。
「風漢はやっぱり官吏に仕えていたんだね。でもまあ、それをはっきり聞いた
からには雁の民としては、六太ともども怠けないでしっかり働いてほしいもの
だと思うよ」
 敬之がそう言うと六太は困ったように笑い、「心がけておく」と答えた。

83永遠の行方「予兆(47/E)」:2008/06/30(月) 22:06:33
 やがて灯りをすべて消した鳴賢たちが房間を出ようとすると、ふと六太の声
が追いかけてきた。
「永遠ってさ、綺麗な言葉だよな」
「あ? ああ……」
「でもさ、永遠を得てしまった人間はどうすればいいんだろうな。要するに終
わりが見えないってことだろ。永遠という言葉が綺麗だと思えるのは、それを
得ていない間だけだ。永遠という名の停滞から自由でいられる間だけだ」
 鳴賢は敬之とまた顔を見合わせた。だが敬之が溜息をついて首を振ったので、
鳴賢も何も言わず、そのまま房間の扉を閉めたのだった。

 光州で大事件が起きたのはその年の十二月だった。最初の病から既に一年が
経過していた。
 一年前に死者を出した廬から二十里ほど離れた集落で、住民がことごとく死
病に冒され、たった数日でひとつの里が全滅した。その里に属する三つの廬す
べてが同じ有様だった。
 隣の里には何の異状もなかったものの、流行病を思わせる不気味な症状のせ
いもあって、近隣の住民は恐慌に陥った。ただでさえ人々が里に閉じこもる冬
場のことでもあり、運が悪ければ春まで誰もその里の惨状を知ることはなかっ
たもしれない。しかしたまたま訪れた行商人による報せを受けた住民は即座に
府第に駆けこみ、病の感染と拡大を防ぐよう強く訴えた。

- 「予兆」章・終わり -



-----
次章開始までに、またしばらく投下の間隔が開きます。

84名無しさん:2008/07/21(月) 22:10:04
素晴らしい…!
ぐいぐいと引き込まれて一気読みしました
やっぱり延主従は良いなあ、醍醐味が格別に違うなあ〜
続きをとにかく楽しみに待っております
がんばってくださいませv

85名無しさん:2008/08/06(水) 14:22:36
続きが気になる…
ワクテカで待っております(・∀・)

86永遠の行方「呪(前書き)」:2008/09/10(水) 00:09:18
ご無沙汰してます。
本格的な投下はもう少し経ってからになると思いますが、
とりあえず先に注意書きを含めた前書きを置かせてください。

登場人物は、尚隆、六太、朱衡、帷湍、鳴賢あたり。
あとは前章で出たオリキャラ陣。

六太が尚隆の身代わりに呪をかけられ、
「序」章に出てきた状態になるまでの話になります。

この物語で801的展開になるのは尚六のみで、
そもそも男×男は常世でもマイノリティの日陰者という前提です。
それもあって鳴賢のように、原作キャラでも勝手にオリキャラの異性に懸想するなど、
あくまで物語の雰囲気作りのレベルに留まるものの、
これからもそういう非801的&捏造の描写が出てくるかもしれません。
したがってその辺が苦手な場合はご注意くださるようお願いします。

87永遠の行方「呪(1)」:2008/09/10(水) 19:08:32
 関弓への第一報は一羽の青鳥だった。人目に立つ急使をあえて立てなかった
ところに、不可解で深刻な事件に対する光州候の配慮があったのだが、これも
のちのち口さがない輩が陰口をたたく一因となった。北方の里の全滅事件のあ
と、いや最初の変死事件が起こった段階で、即座に使者を立てて奏上すべき一
大事件だったと見なされたのだ。
 しかし後知恵なら、誰でも何とでも言える。
 いずれにせよ、青鳥につけられていた親書は、特定の者しか開けられぬよう
厳重に封がなされており、光州候の懸念の大きさと事態の深刻さを表わしてい
た。
 ちょうど新年を迎えるに当たって式典の準備などであわただしい時期で、青
鳥に限らず、内外とのばたばたとしたやりとり自体はどこの官府でも行なわれ
ていた。拝賀の儀式のため、州候以下、地方の高官が関弓に上る打ち合わせを
兼ねたやりとりも多く、したがって問題の親書は一般の官の注意をまったく引
くことなく名宛人に届けられた。
 その内容は表向きは光州からの慶賀の献上品の先触れとされ、実際、数日後
に使者とともに高価な品々が到着した。新年の儀式に間に合うよう旧年中に送
られるのが常とはいえ、例年より少々早かったが、むろん遅れるよりは良いこ
とであった。予定が多少前後するのもよくあることだったし、受け入れ担当の
官が急な多忙にぼやく程度のことでしかなく、使者を待って行なわれた緊急の
内議に気づいた者はいなかった。

88名無しさん:2008/09/15(月) 09:13:15
キタ―-(・∀・)-―!!!!

早く続きが読みたい!

89永遠の行方「呪(2)」:2008/09/16(火) 00:32:03
相変わらず天帝をも恐れぬ捏造てんこ盛りでお送りします。
しかも延々と会議で喋ってるだけで、萌えそうな展開は当分ありません……。
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 その日の午後、許可を得て路門に降りたった光州候一行を出迎えたのは朱衡
だった。
 年賀に備えるためとはいえ、必ずしも各州の州候が馳せ参ずるわけではない。
むしろ普通は州六官級の官吏を遣わして済ませ、州候自身が参ずるのは、せい
ぜい数年に一度といったところだろう。実際、光州候も上関するのは数年ぶり
のことだった。
 いずれにせよ普通は年末も押し迫ってから上関するものだから、献上品の件
といい、光州にかぎっては今年は少々早いのは確かだったが。
 とはいえむろん不自然な点は何もない。もともと王の側近のひとりであった
光州候ゆえ、出迎えたのが彼と親しい朱衡であったことと併せ、誰もが「つい
でに旧交を温めるのだろう」と解釈した。実際、光州候が家庭を持つまでは、
何度も朱衡と私的に行き来をしていたのだ、そう受けとめるのが自然だった。
「お久しゅうございます。候にはお変わりなくご健勝のご様子、何よりでござ
います」
「やめてくれ」光州候こと帷湍は、とたんに悲鳴じみた抗議の声を上げた。
「五年ぶりに会ったと思ったら、さっそくこれか。おまえに礼を尽くされると、
全身に蕁麻疹ができるわ」
「しかし、あなたのほうが位は上なのですから……」
「温州候の内示を蹴ったおまえに言われたくはないわ。それに今は公式行事で
も何でもないだろうが!」
 本気で嫌がっている帷湍を見て、朱衡は軽く笑うと「こちらへ」と手で先を
示して案内した。州候の随行にしては少ない光州の官らについては部下に任せ、
彼は帷湍をまず自分の私邸に連れていった。
「結局、娘さんは連れてこなかったのですね」
 道々、のんびりとした体で世間話のように朱衡が問うと、帷湍はうなずいた。
「ああ。来たがってはいたのだがな、遠慮させた」まだ周囲に人目があるため、
ぼかして答える。「まあ、光州の新米の官吏がうろちょろしても、宮城では邪
魔になるだけだしな」

90永遠の行方「呪(3)」:2008/09/16(火) 00:35:02
「台輔が残念がるでしょうね。昔、あれだけ可愛がっておられたのですから」
「そうだったな。だが文はときどきやりとりしていたようだが、もう十五年は
会っとらんだろう。神仙の常で十年も一年程度に思ってしまいがちだが、あれ
も、もう二十五だ」
「また見おろされる相手ができて、台輔はくやしがるでしょうねえ」
 朱衡はそう言って笑った。
 ふたりは一刻ほど語らって光州候が昔の朋輩を訪ねたという体裁を取りつく
ろったところで、今日は早々に政務を終えて内殿から下がっているはずの王に
拝謁すべく、正寝へ向かった。政務を執るための内殿どころか、王の私室であ
る正寝の宮殿への昇殿を許されている彼らは、こういうとき煩雑な手続きで無
駄な時間を費やさずにすむ。
 正寝のその一室には、冢宰や三公、六官の長、彼らの補佐のみならず、王お
よび宰輔の姿もあった。ここにいる十数人はまさしく雁の政権の中枢を担う面
々であり、これは先日と同様、内密の内議なのだった。
「久しいな、帷湍。元気だったか」
 以前と変わらず鷹揚に声をかけてきた王に臣下の礼を取ったあと、一同は王
と宰輔が座る椅子の前に置かれていた細長い大卓を囲み、冢宰や六官の長らは
椅子に座り、彼らの補佐役らは上司の後ろに立った。
 まず冢宰の白沢が会議の開催を宣言し、趣旨を説明する。そして光州候に対
し、今回の事件に対する迅速な対応と報告に感謝するとともに、御前でのあら
ためての報告を求めた。ここにいる面々は既に光州からの報せのあらましを知
ってはいたが、それらをさらう意味もあった。
「先日の使者が持ってきた報告によれば、問題の病は誰かがはかりごとをめぐ
らせた結果である可能性が高いということだったな」尚隆が口を挟む。「はっ
きり言えば、ひそかに大がかりな反乱の企てがなされており、その布石、また
は一環である可能性があると」
「にわかには信じがたいことですが」
 王に応えた白沢の言葉に帷湍はうなずき、無造作に立ちあがると一同を見回
した。

91永遠の行方「呪(4)」:2008/09/16(火) 00:37:08
 内議、それも御前会議なのだから、他国であればもっと重々しい雰囲気があ
ったろう。むろん雁のそれにも形式張ったところはあるし、特に型破りな王に
対して、臣下は昔から、威厳だの節度だのをしつけるべく体面や体裁を重んじ
てきたものだ。しかしこうしてひとたび事件が起こると、ある程度の礼儀と形
式さえ踏まえていれば、何よりもてきぱきとした実際的な対応が求められる傾
向があった。何だかんだと言いながら、結局は王の破天荒な言動に影響されて
きた結果だろう。
「正直なところ、謀反かどうかはわからん。他の州に飛び火するものかどうか
も見当がつかん。しかし少なくとも光州に対する反乱である可能性は高いと思
う。その可能性に気づいたのはうちの地官だが、最初に報告を聞いたときは俺
も信じられなかった。深刻な事態ではあるが、ただの流行病(はやりやまい)
としか思えなかったのでな。だが調べれば調べるほど、それを画策した輩がい
るとしか思えんのだ。最初から説明する」
 帷湍は部下に用意させてあった光州の地図をみずから大卓に広げた。他国の
地図よりずっと詳細な雁のそれを、王をはじめとして皆で覗きこむ。帷湍は立
ったまま、地図上の北方の一点を指し示した。
「われわれが事件の存在を知ったのは今月の十日だった。つまり州府に届けが
あったのがその日だったということだが」そう言って筆を持ち、示した先に印
をつける。「ここに葉莱(ようらい)という里があり、そこの住民が病に倒れ、
わずか数日のうちに全員が死んだというのだ。家畜に害はなかったため、人間
だけがかかる流行病と思われたが、いずれにしろ何の前触れもなく、老若男女
も問わず、一度に何十人もの人間がばたばたと倒れたというのは異常だ。隣の
里の民があわてて通報してきたのだが、原因はいまだにわからんし、病の特定
もできておらん。新しい病気かもしれんが、その後の調査で判明したところで
は、初期症状として局部麻痺が訪れ、しばらくすると斑紋が皮膚に生じてそこ
から身体がどんどん腐っていき、高熱に苦しみながら、子供なら二、三日、体
力のある若者でも五日から十日ほどで命を落としてしまうらしい」
 酷い症状の説明に、延麒六太が青ざめた顔で唇を噛んだ。症状自体は報告に
記載されていたため、彼も既に病の詳細を知っていたはずだが、あらためて聞
かされると衝撃の度合いが違うのだろう。

92永遠の行方「呪(5)」:2008/09/16(火) 00:39:25
「とりあえず流行病が発生した際の手順どおり、問題の里を隔離したり遺体を
荼毘に付したりし、近隣の里で似たような病が起きていないかどうか、家畜の
様子や井戸の水はどうかといった調査など、できることはすべて行なった。今
のところ新たな発病者もおらず、とりあえず民の様子は落ち着いている。ただ
し調べれば調べるほど、講じた手立てが功を奏したのかどうかは、はなはだ疑
問に思えるのだが、この理由は後ほど説明する。
 いずれにしろ感染源を特定する必要があったため、さらに調査し、特に病の
種類については瘍医も困惑していたため、州全土に渡って深刻な病の届け出が
なかったかどうかを調べさせた。その結果、州のあちこちで似たような病が発
生していたことがわかった。葉莱のように里が全滅したわけではないが、何ヶ
所かで一家が全滅していたのだ」
 帷湍はそう言って地図上に新たに印を八ヶ所つけ、病の発生場所を示した。
それは特にどこかの地方に偏っているということもなく、州全土に渡って点々
と散らばっており、普通の流行病の発生傾向とは明らかに異なっていた。
「取り急ぎ、最初の調査は県までとしたが、いちおう党への届け出までは調べ
るよう指示は出してある。もっともさすがに時間がかかるだろうが――おそら
くあまり意味はないだろう。というのも、ここで担当の官吏のひとりがおかし
なことに気づいてな。単に病の発生場所の地名を眺めているだけではわからな
かったんだが、こうして地図に書きこんで俯瞰すると、何となく円を描いてい
るように見えたのだ。それも州都を中心にして」
「ほう……」
 帷湍が示した指の先を追って印をたどった面々は、そこに現われた環を確か
に目にした。
「この九ヶ所だけでは少しいびつな感じだが、もしこことここ」と言いながら、
帷湍は円弧の空白部分を示し、「そしてもしここでも病が発生していたとした
ら、州都を十二方位から囲む円を描くことになる。しかも病の発生順は、州都
から見て丑の方角にあるこの里を起点とし、それも丑が象徴する一月に起きて
いる。次の発生は右回りに進んで寅の方角、時期は二月。同様にして、卯の三
月、辰の四月と進み、巳の五月と午の六月に当たる病はなかったものの、未の
方角では七月に起きている。あとは戌の十月が抜けているが、最後の子の十二
月に相当するのは葉莱だ。偶然にしては、あまりにも規則的すぎる」
「確かに……。しかし抜けている三地方では、本当に病はなかったのですかな?」
 太師が問うと、帷湍は首を振った。

93永遠の行方「呪(6)」:2008/09/16(火) 00:41:30
「この規則性を見つけた官らが『ここでも病が発生したはず』と当たりをつけ
て、その近辺の里を調査した。先日の使者を立てた時点ではわからなかったの
だが、俺が出立する直前に報告が上がってきた。府第への届け出がなかっただ
けで、確かに同じ症状の病による死者が出ていたということだった」
「では本当に十二方位で……」
「ああ、州都を囲む形で不気味な病が起きていた。それも実は丑の一月が起点
ではなかったようで、昨年の十二月、葉莱より少し北の姑陵(こりょう)とい
う里でも、一人暮らしの老人が同じような病で死んでいたことがわかった。ど
うやらそこが起点だったらしい。それも病の状況や州都からの距離を考慮する
と、姑陵のほうが地に描かれた円の一環と考えられるようだ。つまり姑陵が子
の十二月に相当すると考えられ、そこから始まって亥の十一月で終わる円がひ
とつ。全滅した葉莱は、その円より少し内側にあるということになる」
「環が閉じたというわけか。その直後に葉莱が全滅したと」
 顎をなでながら尚隆がつぶやくと、青ざめた春官長大宗伯が「まさか、この
まま次々と廬や里が全滅していくのでは」と、この場の誰もが頭に浮かべた懸
念を口にした。夏官長大司馬が顔をしかめて「莫迦な」と一蹴する。帷湍は話
を続けた。
「とにかくこれで、人為的な影のちらつく、奇妙な事件だということだけはわ
かったわけだ。これに気づいた官たちが葉莱以外で発生した病にも何か規則性
がないかとあわてて調べたところ、これまた奇妙な法則を見つけた」
 そう言って、彼はふたたび地図上の一点を指し示した。
「起点と思われるこの姑陵では、死んだ老人の家は北にあった。次の明澤(め
いたく)で死んだ一家の住まいは里の東。その次は南、さらに次は西。一巡し
て、次の臨青(りんせい)ではふたたび北。州都を中心に描かれた円も右回り
だったが、それぞれ被害に遭った里や廬の中でも、病人が出た場所は、右回り
に変化していたことになる。
 いずれにしろここまで来たら、狙いはわからんが誰かの企みによるものと捉
えるのが妥当だ。俺がさっき、葉莱の近辺に病が広がっていないのは、講じた
手立てが功を奏したためかどうかは疑問と言ったのはこのためだ。あまりにも
不自然で作為が匂う病だし、これまで特に対応策を取らなかった他の里や廬で
も、特定の場所に住んでいた者以外は罹患していない。ということはもともと
何もせずとも、病は広がらなかったように思えるのだ。要するにそれは首謀者
の予定にはなかったのだと」

- 続く -

94永遠の行方「呪(7)」:2008/09/20(土) 20:22:46
 帷湍が明確に発した「首謀者」という言葉に一同は慄然となったが、確かに
反乱の企てと考えるのが自然だった。それも非常に大がかりな。さらにここま
で明白な徴(しるし)が現われていながらも相手の影がまったく見えないとな
れば、光州からの報告が、迅速でありながら慎重に慎重を期したものだったの
も当然だった。
「おそらく呪でしょうなあ」
 冬官長大司空が重々しく、溜息まじりの言葉を吐いた。六太がなかば身を乗
りだして叫んだ。
「莫迦な。他人を害し、あまつさえ命まで奪う呪は、城の通路や階段などの無
生物に呪言を刻んで用いる呪とはわけがちがう。呪を組んだ当人もただではす
まないぞ!」
「存じておりますが、かといって他に考えようがありますまい」
「それは――そうだが……」
「むろん冬官府としてもこのような呪に心当たりはありませんが、まず間違い
ないでしょう。あまりにも常軌を逸しているものの、実際に大きな被害が出て
いるわけですし、もともと光州は、少なくとも昔は他州より呪が重んじられて
いたはず。また今回の件が葉莱で終わりとも思えません。北の小さな里ひとつ
を全滅させるだけなら、動機が何であれ数人の手練れがいれば事足りるでしょ
うからな。なのにそれだけのために、これだけ時間をかけた大がかりな呪を組
むはずがない」
「しかし、誰が、なぜ。何のために」
 慄然としながらも困惑した体の大宗伯に、他の者も困惑して顔を見合わせる
ばかりだった。やがて大司馬が口を開いた。
「まず。当たり前のことをいうようだが、覿面の罪があるから、他国の、少な
くとも王のたくらみではないということは確かだ。王以外の者の暴走という可
能性もないわけではないし、景王を亡き者にしようとした前塙王の例もあり、
完全に念頭から除外するわけにもいくまいが、実際問題としてその可能性は限
りなく無に近い」

95永遠の行方「呪(8)」:2008/09/20(土) 20:24:54
「他国からそのような敵意を向けられるいわれもありませんしな」冢宰が大き
くうなずいて応える。「雁そのものに対する企ての布石かもしれないにせよ、
とりあえず事件が起きているのは光州。そうすると光州内に原因があると考え
るのが、現段階では妥当でしょう。光候に心当たりは?」
 冢宰に問われた帷湍は苦々しい顔で首を振った。
「まったくない。ただし罷免されたり何らかのたくらみをくじかれるなどして、
俺個人なり州府なりが逆恨みされている可能性を言うなら、逆に心当たりは山
ほどある」
「しかし為政者である以上、そんなことは当たり前でしょう」太保が気遣うよ
うに口を添えた。
「いずれにしろ、俺個人に対する恨みを持っている連中が起こしている騒ぎだ
というなら、まだわかりやすいし、足跡もたどりやすいのだがな……。しかし
これではあまりにも仕掛けが大がかりすぎる。また一連の事件が光州一州にと
どまるものなら、事態の大きさはそれとしてまだいい。だが問題は、首謀者の
動機がわからないだけに、他州に飛び火する危険もあるということだ。そうで
なくともこれから先、葉莱のようなことが他の里でも起きつづけたなら、遅か
れ早かれ光州は大混乱に陥る。そうなれば首都州であるこの靖州に直に災いが
及ばずとも、対応次第で国がひっくり返りかねん」
「確かに……」
「今、俺の前の光候の時代まで遡って、関連しそうな事件がないか記録を調べ
させているところだ。しかし何か出てくるかはわからんし、それで対応が間に
合うかどうかもわからん。念のためにもっと前まで遡るべきかもしれんが、そ
うなると二百年前に謀反を起こした梁興(りょう・こう)の時代となって遡り
すぎるしな」
「そうともかぎらないのでは? 大がかりな呪を準備するのに、それだけ時間
がかかったということなのかも」
 首を傾げた朱衡が考えこみながら口を挟むと、帷湍はうろんな目を返した。
「しかし二百年だぞ。いくら何でも時間がかかりすぎだろう」

96永遠の行方「呪(9)」:2008/09/20(土) 20:27:03
「単に可能性ということでしたら、いくらでも考えられます。そもそもあの謀
反のあと、さしたる事件は光州では起きていないのですから、真っ先に連想し
ても不思議はないかと。四百年以上前の元州の謀反となると、さすがに除外で
きましょうが、先ほど光候ご自身が雑談で拙におっしゃっていたように、寿命
のない神仙は十年も一年程度に感じてしまう嫌いがあります。したがってもし
首謀者が仙なら、二百年も数十年程度の感覚ということも考えられます。むろ
ん何十年も恨みをかかえたままという人間は少ないでしょうが、只人でもまれ
に昔の恨みをしつこく覚えていて事件を起こす輩はいますからね」
 朱衡の意見に、大司馬が「確かに考えられないことではないな」と腕組みを
して唸った。
「特に不遇をかこっているとか、不如意だとか、そういう輩はちょっとした恨
みでもあとを引きやすい。地位や生活に恵まれた者がそれに満足し、過去の遺
恨があったとしても水に流したり克服したりしやすいのとちょうど反対だ」
「光州の謀反の残党ですか」地官長大司徒が口を挟んだが、納得できないとい
う顔だった。「拙官は当時、官の末席を汚していたに過ぎなかったため、あの
乱には不案内ですが、それでもいまだに梁興に忠節を誓い、そのために危険を
犯してまで大がかりな呪を企む輩がいるというのは信じられません。王位の簒
奪に失敗した梁興は最後に籠城し、仙だった官吏はともかく、下仙にもならな
い、大勢の奄(げなん)奚(げじょ)がことごとく餓死したというではありま
せんか。ついに意を決した寵姫のひとりが閨で梁興を討って開城したときには、
州城中に遺体が散乱していたと聞きますが」
 すると、当時を思いだしたのだろう、六太が痛々しく顔をゆがめながら大司
徒に答えた。
「そうだ。あそこに充満していた死の匂いと深い怨嗟の痕跡に、俺は州城に近
づけなかった。何しろ籠城は半年にも渡ったからな。只人ならひとたまりもな
いし、たとえ仙でも食べものがなければ飢餓に苦しむ。奸計を用いて人質にし
た尚隆に脱出されたあとは、梁興には打つ手などなかった。なのに降伏を進言
した臣下をことごとく手打ちにし、現実から目を背けてひたすら城の奥にこも
っていた。確かに梁興に忠誠を誓う連中の仕業とは思えない。よしんば今回の
事件がかつての謀反の残党によるものだとしても、動機は別のところにあるは
ずだ」

- 続く -

97永遠の行方「呪(10)」:2008/09/22(月) 00:05:41
「何にせよ普通に考えれば、先ほどの冢宰のお言葉どおり、光州で起きたこと
は光州に原因があると考えるのが自然ですが」
 太師の言葉に天官長太宰もうなずき、「不気味な事件ではあるが、だからと
言って物事を複雑に取らないほうがいいかもしれない」と言った。大司馬も同
意する。
「単純に考えてみよう。今回の事件は州都を狙っているように見える。そして
この二百年、光州が平穏だったことを考慮すれば、やはり梁興の謀反の残党が
いて、かつての主人と同じ位にある現州候を逆恨みしていると考えるのが、も
っとも無理のない解釈だと思う。それでその位を奪うか州都を荒らすかするた
めに呪を企んでいるのだとな。大司寇がおっしゃったように、大がかりになれ
ばなるほど、呪をかけるには準備がいるだろうから、それでこれまで時間がか
かったのではないだろうか」
「光州候に恨みを持つ者の仕業と言うことですか? あれから州候は二度も代
替わりしているのに?」
 大司徒は相変わらず納得できないようだった。太保も考えこみながら、「そ
れもそうですねえ」と首を傾げる。大司徒は続けた。
「逆恨みで謀反の残党が何か企んでいるとしても、それなら狙いは主上に向か
うのが自然ではないでしょうか。なのに主上ではなく州都、すなわち州候を狙
っているかのように見えるのは、ちょっとおかしいように思えます」
「なるほど。確かにそうかもしれませんな。まあ、最終的には主上を狙った謀
反であるものの、外堀を埋めるためにまず州候を狙っている可能性もあるわけ
で。特に帷湍どのはもともと、主上の古くからの側近でもありますからな」
 大司空がそう言うと、他の面々も考えこんだ。朱衡が言った。
「拙官も、別に謀反の残党による仕業と確信しているわけではありません。た
だ可能性としては十二分に考えられるため、判断材料の少ない現段階で除外す
るのは不適当ではないかと申しあげただけです。この事件は光候を狙ったもの
かもしれない。そう思わせておいて、実は主上が狙いかも知れない。あるいは
まったく別の意図があるのかもしれない。いずれにせよ、もっと情報を集めた
上で、さまざまな角度から分析する必要があるでしょう」

98永遠の行方「呪(11)」:2008/09/22(月) 00:07:50

 さらにいろいろな可能性を検討したのち、いったん休憩となったため、重臣
たちは座を移した。光州候と冢宰だけは、王および宰輔とともに別室にこもっ
たが、別の者たちは茶を飲んでくつろぎ、まだしばらく時間がかかりそうとあ
って、部下に担当の官府への指示を出したりして過ごした。
 それでもひとしきり茶を飲み、出された軽食で腹を満たしたあとは、今回の
事件に自然と言及してしまうのは仕方のないことだった。
「大司寇、大変なことになりましたなあ」
 その割にはのんびりとした口調で太師に声をかけられ、朱衡はうなずいた。
「すべてが終わってから、実は大したことのない事件だったと笑い話にできれ
ば良いのですがね。残念ながら、そういうわけにはいかないでしょう」
 何しろ現実に大勢の死者が出ているのだ。もし謀反の残党による逆恨みとい
う、動機からすれば安っぽい感情が原因だったとしても、今回の事件は相当の
重みを持ったものになるだろう。
 太師は、少し離れたところで茶杯を持ったままぼうっと座っていた大司徒に
も声をかけた。
「大司徒、お疲れになりましたかな?」
「あ、いいえ」大司徒はあわてて首を振った。「ちょっと考え事をしていまし
て。何しろあまりにも不可解な事件ですから」
「わかります。光候が困惑しておられたのも無理はない」
「皆さまは、本当に二百年前の残党の仕業だと……?」
 朱衡は首を振った。
「どうでしょうね。ただ、今のところ他に心当たりがないだけに、そういう可
能性を考えておいて損はないだろうということです。先ほどお話ししたとおり
ですよ」
「はあ……。そうですね」
 大司徒は相変わらず納得できない様子だったが、やがて思い切ったように尋
ねた。
「梁興という者は臣下には慕われていたのでしょうか? というのも、もしこ
れだけ長いこと恨みをかかえていた残党がいた場合、彼らが単に利をむさぼる
ために州候の周囲に群がっていた輩だとは思えませんから」

99永遠の行方「呪(12)」:2008/09/22(月) 00:09:57
 朱衡はしばし考えこんだあとで、こう答えた。
「そうですね。平穏なときにはそれなりに慕われていたと思いますよ」
「それなり……」
「州を治める手腕には相当なものがあり、腰も低く、礼儀正しい男でした。し
かし今となっては卑屈だったと申しあげたほうが正確でしょう。ひたすら主上
に礼を尽くしていましたが、後から思えばこちらを油断させるためにおのれの
本性を偽っていたのでしょうね。長いこと各地の州城への行幸を仰ぎ、念願が
かなった際はその誉れある一番手に光州がなるべく、熱心に主上に働きかけて
いましたが、それまでの彼の態度から推して、誰もそれを不自然だとは思いま
せんでした。当時は主上も少しお疲れだったようで、ご政務どころか、それま
でひんぱんだった下界への外出にも大して興味をお持ちにならず、万事になげ
やりだった頃でしたから、拙どもはむしろ主上の気晴らしになればと、喜んで
送りだしたものです。
 あとで聞いたところ、梁興は自分の選りすぐりの寵姫を何人も主上の臥室に
はべらそうとしたらしいのですが、さすがにそれは主上がお断りになったそう
です」
 大司徒が目を丸くしたので、太師が笑った。
「これこれ、大司徒。いくら主上でも、無条件で女性(にょしょう)を歓迎す
るわけではありませんぞ。少なくともご自分で美女を開拓されるならまだしも、
勝手に選別された女性をあてがわれるのは不本意なのではないですかな」
「あ、はい、それは想像ができますが……。その寵姫たちは喜んで王に侍ろう
としたのでしょうか。それとも梁興に命じられて仕方なく従ったのでしょうか。
聞いただけではかなり酷いことのように思えます」
「どうでしょうなあ。事件が解決したあと、彼女らを憐れんだ台輔の嘆願もあ
って後宮の者は全員許され、仙籍からも削除されませんでしたが、ま、いろい
ろだったのではないですかな。仕方なく従った者もいれば、あわよくば主上に
乗りかえられるかもと期待した者もいたでしょう。いずれにしろ梁興は結局、
そのうちのひとりに首を斬られたわけです」
「とはいえ主上が彼女らの奉仕を断ったのは幸いでした。主上には台輔がひそ
かに使令を一体つけていましたが、それでも閨で寝首をかかれないとも限らな
かったのですから。もっとも梁興は当初、そこまでは目論んでいなかったと思
われますが、少なくとも身動きできないような毒を盛られたり軟禁されたり、
といった危険はありましたからね。

100永遠の行方「呪(13)」:2008/09/22(月) 00:12:02
 実際、そのあとで企てがことごとく失敗した梁興は結局、直接主上を襲わせ
るような暴挙に出ました。随員のひとりだった当時の禁軍将軍が落命したのは
その際です。主上をかばって襲撃者の攻撃を受け、彼の部下たちが脱出路を死
守していた間に、主上は使令で州城から脱出なさいました。長年の側近であっ
た将軍が一命をもって主上を守ったことが堪えたようで、さすがに元州でのと
きのように謀反人との一騎打ちを目論むことはありませんでしたね」
 遠い目をして淡々と語る朱衡に、大司徒は感じ入ったように言った。
「元州に囚われた台輔を単身救出に赴いたというあれですね」
 すると朱衡は太師と顔を見合わせて笑ったので、大司徒は不思議そうな顔に
なった。
「なにか?」
「あ、これは失礼。あれはですね、市井の小説などではそういうことになって
いるようですが、主上の目的は、本当に謀反人との一騎打ちだったのですよ。
こう申しては何ですが、台輔を救出なさったのはそのついでです。実際、台輔
ご自身もあとでそうおっしゃっていました。それに元州の乱のときは主上もお
若かった。むろん身体的なことではなく、精神が、という意味ですが。当時は
何かと無茶をなさったものです。あれでも今は随分とおとなしくなったのです
よ」
「そうだったんですか……」
「いずれにせよ、梁興は州候としては優秀な男でしたが、主上を軟禁して自分
が取って代わろうと考えた時点で、それだけの器量でしかなかったということ
だと思います。自分の寵姫たちを物のように扱って主上に侍らせようとしたり、
投降するよりは奄奚を餓死させるほうを選んだ。たとえば仮に、梁興に個人的
に恩のある者がいたとして、そういった者は結果的に主上を恨んだかもしれま
せん。しかし大抵の者は、半年の籠城のあとでも梁興に良い心証をいだいたま
まということはなかったでしょう。救援の当てのない籠城ほど、悲惨なものは
ありませんからね」
「実際、開城後は地獄絵図が展開されていたわけですしね……」
 大司徒はそう言って恐ろしそうに身を震わせ、気を落ち着かせるためか茶杯
を口に運んだ。

- 続く -




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