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尚六SS「永遠の行方」

1名無しさん:2007/09/22(土) 09:45:00
シリアス尚六ものです。オムニバス形式。

21:2007/09/22(土) 09:49:39
夏の間、書き逃げスレでいろいろ投下させていただいた尚六ものは、
3Pのエロネタ以外、すべて同じ設定を背景に持つ話です。
最初は何作もこちらに上げるつもりはなかったのと (せいぜい三作くらいのつもりだった)、
My設定の説明をされてもうざいだけだろうと思って、これまで言及しませんでした。
何かとワケワカメで申し訳ない。

でもこのままではさすがに中途半端ですし、他にもエピソードはあるため、
この際なので書き逃げスレの邪魔にならないよう専用にスレを立てて、
片隅でひっそりやらせていただくことにしました。

もっとも最後まで書ききれるかどうかわかりませんし、
各話で主人公が一定していない上に時間軸も過去と未来を行ったりしますが、
それぞれの話でいちおうのオチはついているのでご容赦ください。
イメージとしては雁主従の想いが通じ合う「永遠の行方」という話を基軸に、
その前後を含めて描くという感じです。
「永遠の行方」本編を書き上げていないため、まだ「前後」のほうしかありませんが。

参考までに、今まで書き逃げスレに上げていた話は、
時系列順だと以下の通りになります。

 ・後朝
 ・続・後朝
 ・腐的酒場
 ・腐的酒場2
 ・体の相性

もしかしたらたまにコメディ的なものもあるかもしれませんが、基本は超シリアス。
投下ペースはかなりゆっくりめのつもりですが、年内にかぎり月一本は投下します。

3たゆたう岸辺(1):2007/09/22(土) 09:52:37
 路寝にある広大な園林のはずれ。雲海を臨むわびしい岸辺で数日ぶりに主の
姿を見かけた六太は、いったんはそのまま見なかったふりを決め込もうとした
ものの、立ち止まってもう一度主の遠い後ろ姿に目をやった。
 あんなふうに王宮で物思いにふける尚隆は珍しい。そんなときは大抵、市井
に降りて、名もない大勢の民に紛れることが常だと今の六太は知っている。
 ひとりになりたいのだ。しかし誰かにそばにいてもらいたいのだ。
 そんなことまで何となく感じ取れるようになってしまったのは肉体関係がで
きたからだろうか。わからない。これまで知らなかった彼のいろいろな顔を見
るようになったのは確かだけれど。

 しばらく雲海を眺めていた尚隆は、やがてその場に腰をおろすと、ついでご
ろりと仰向けに寝転がった。
 潮の香り、寄せては返す波の音。目を閉じれば、今でも遠い記憶がおぼろに
蘇ってくる。遮るものもなく降りそそぐ太陽の光を忌むかのように、閉じた目
の上に腕を置く。
 どのくらいそうしていただろう。草を踏み分けて近づく足音に気づいたが、
身じろぎもしなかった。
 ゆっくりとした足音は尚隆の頭のあたりで止まり、そのまま座りこむ気配が
した。腕をずらしてちらりと見やると、視界の端で金色の光が揺れた。別に尚
隆を見てはいない。両膝をかかえて静かに雲海を眺めている。
 尚隆はそのまま腕を投げだし、ふたたび目を閉じて潮騒の中に身をゆだねた。
 静かな時間が、ただ過ぎていく。
 ふと相手の気配が動いて、尚隆の閉じた目を温かな掌が優しく覆った。
「尚隆。悲しいときは泣いていいんだ。人は悲しいときに泣くことで慰められ
る」
 静かな言葉。見かけは年端もいかぬ少年のくせに、こいつはときどき誰より
も包容力があるところを見せる、と少しおかしく思う。
「王は人ではなかろう」
「人だとも。笑いも怒りもする、飲食できなければ飢えもする。王も人だ。た
だちょっと丈夫で長生きするだけで、心のありようは只人と何も変わらない」
 淡々と綴られる言葉は、不思議と心に染みいっていく。岸辺に寄せる波のよ
うに。
 それとも目を閉じているせいだろうか。闇は人を素直にする。互いの顔が見
えないときのほうが、思いを言葉に乗せやすく、受け入れやすいのは確かだ。
暗い閨での睦言のように。

4たゆたう岸辺(2):2007/09/24(月) 21:12:50
「泣けぬのだ。俺は」
 つぶやくように答えた声が、思いがけずかすれた。
 そうだ、俺は蓬莱にいた頃から、長らく泣いた記憶はない。こちらの世界に
来てからも五百年以上経つというのに、泣いたのはただ一度。
 俺の身代わりになって謀反人の呪を受け、永遠に意識を封じられたままで終
わると思われた六太が、長い眠りのあとで思いがけず目覚めた――それを目の
当たりにしたときだけ。
 お笑いぐさなことにあの事件が起きるまで俺は、自分が六太から離れること
はあっても、その逆の可能性を考えたことは一度もなかったのだ。こいつが殺
されるのでも幽閉されるのでもなく、肉体は側にありながら、心が永劫の彼方
に行ってしまうなどとは。
 この世界に来てからあれほど孤独を感じた時間はなかった。なのに自分は誰
の支えもなくひとりで立っているつもりだったのだ。
 六太こそは、遠い蓬莱での自分を知る唯一の存在だった。俺の根を知ってい
る唯一の。ひとりで蓬莱の亡き民を懐かしむよりも、ほんの一部とはいえ思い
出を共有する者がいると無意識に考えられることが、何よりの慰めだったこと
にやっと気づいた……。
 そんな彼の物思いをよそに、何を考えているのかしばらく沈黙していた六太
は、やがて言葉をつなげた。
「尚隆。人と人は支え合うことができる。助け合うことができる。ただしお互
いの距離は手を伸ばさなければ届かない程度には離れている。片方だけではだ
めなんだ。双方が手を伸ばさないと届かない。しかし手を伸ばしさえすれば何
かが触れる」
「……」
「后妃を娶ってもいいんだぞ」
「莫迦を言うな」
 尚隆は即座に言い返した。――こいつは包容力があるどころか、時折とんで
もないことを言い出すから困る。
「好いた女はいないのか? 偽名ではなく真の名前で呼ばれたいと思う女は?」
「後宮に女人を入れたらどうすると言ったら泣いたおまえがそれを言うか」
 沈黙がおりた。やりこめたと思った尚隆がほくそ笑む。しかしすぐに、絶句
したのではなく、溜息をついていたのだと悟る。まさか俺がこいつに憐れまれ
るとはな……。
「六太としての俺の気持ちは、麒麟としての俺が抑える。おまえが俺を気にす
る必要はない」

5たゆたう岸辺(3/E):2007/09/28(金) 00:25:23
 六太は静かに答えた。淡々と、それでいて優しく。
「俺はおまえが大事だ。麒麟として王が大事、六太として尚隆が大事。その前
には俺のことなどどうでもいい。俺ではおまえの悩みの役に立てないなら、役
に立てる人間をいくらでも側に置いていい」
「……」
「俺は想いを遂げた。僥倖みたいなもんだと思っている。おまえとこうなると
きが来るなんて思わなかった。これ以上は望めない」
「おまえは何も言わなかったな……。長い間、何も気取らせなかった」
 くすりと笑う気配がした。
「宴席で話の種にでもされたらたまらないと思ったからな」
「そこまで主を信用しないか」
「あいにく誰かさんは日頃の行ないが悪いから」
 おどけた調子が声音に混じる。こればかりは分が悪いので、尚隆は黙ってい
る。六太の反応がおもしろくてからかったことが多いのは事実だったから。
「なあ、尚隆。麒麟は王のもので、俺は尚隆のものだ。でも王は麒麟のものじ
ゃない。尚隆も俺のものじゃない。おまえは俺から自由でいていいんだ」
 ある意味では、恋人と距離を置け、と言ったも同然の残酷な言葉。淡々と告
げる六太は慈悲深いようでいて冷たい。冷たいようでいて優しい。
 なぜなら彼は知っているのだ、良きにつけ悪しきにつけ、人というものが変
わることを。変わるなと枷をつけて相手を縛るのではなく、変わってもいいの
だと許す。そうして自分は変わらずにそばにいると無言で慰める。そんな彼を
見る相手がどれほど切なくなるか知らぬげに。
 尚隆が沈黙していると六太も、もはや何も言わなかった。永遠に続く潮騒に
包まれて、時間だけがゆっくりと過ぎていく。
 やがてうとうとし始めた尚隆の耳に、六太の声がひそやかに届いた。
「少し眠れ。眠って夢の中だけでも泣いて人に還るといい」
 尚隆の意識の中で、夢幻と現実の境目がにじんでいく。沈みゆく意識の中で
彼は、六太の掌がそっと離れるのを感じた。足音だけを残して、気配が遠ざか
る。
 まったく主を見捨てて行くとは薄情なやつだ……。
 完全に眠りに落ちる前の一瞬でぼやく。そうして苦さと切なさがないまぜに
なった思いをいだいたまま、二度とくだらぬことを言い出さぬよう今夜は仕置
きをしなければな、と意地悪に考えた。

6たゆたう岸辺(後書き):2007/09/29(土) 12:40:20
「体の相性」の少し前の話になります。
書き逃げスレ300-303の「王后」はこの話から派生した没ネタでした。

「後朝」あたりの六太と同一人物には見えませんが、
あの話の前後は一時的にかなり情緒不安定になっていましたので。
またあれからけっこう時間が経っているため、初々しさも失せています。

最初のイメージでは六太が尚隆を膝枕してあげていたのですが、
そんな甘々はさすがにあんまりだろうということで変更しました。
とはいえ、いつかどこかで膝枕もしてあげていると素で思っています。

7贈る想い(1):2007/10/22(月) 19:31:49
雁主従の想いが通じあったあとの「後朝」などのラブラブ話より数年ほど前の話です。
表面上の主役は鳴賢で、主題は彼のノーマルな失恋を慰める六太の図ですが、
副題は、長いこと片思いをしている六太の心中です。オリキャラあり (名前だけですが)。
-----


「まー、なんだな、女なんて星の数ほどいるさぁ。それに俺たちゃ、卒業して
高級官吏になりゃあ、色街でもモテモテだぞぉ」
「そーそー。そんなあばずれ、縁が切れて正解だぜぇ」
「どうせ最初から間男とよろしくやっていたに違いないって」
 深更の大学寮。すっかりできあがって、それでもいちおう慰めてくれていた
つもりなのだろう、失恋した鳴賢に何かとからんでいた悪友たちは、楽俊と六
太に引っ張られて千鳥足でそれぞれの房間に引き上げていった。
 そんなあばずれ。
 最初から間男とよろしく。
 幼なじみの娘の地味でおとなしい面影がよぎり、わずかに心が痛んだが、鳴
賢はそんな思い出を振り払うように頭を振った。誰もいなくなって静かになっ
た自分の房間で、ささやかな酒肴を載せていた懐紙や酒杯が散乱しているのを
片づける。さんざん飲んだはずなのに、まったく酔った気がしなかった。
 ふと扉が開く音がしたので振り返ると、そこに六太が立っていた。さっきま
で彼が使っていたものだろう酒杯を差し出し、「水だ。飲めよ」と言った。鳴
賢は「ああ……」と頷いて受け取り、書卓の椅子に腰をおろすと酒でひりつい
た喉を潤した。
「楽俊も自分の房間に戻ったぜ」
「ああ」
 六太はさっさと奥の臥牀に座りこんだ。組んだ足の一方の膝に頬杖をついて
鳴賢を眺める。悪友たちに劣らず、この少年も相当飲んでいたはずだが、酔っ
ているようにはまったく見えなかった。
 子供と言っても差し支えない年頃なのに、座りこんでいるその仕草自体が妙
に大人びているのを、鳴賢はあらためて不思議に思った。よほど家庭が荒れて
いて、すれてしまったのか――いや、六太からそんな無秩序でささくれ立った
気配を感じたことは一度もない。口は悪いし、この少年は一見、ただの悪ガキ
のように思える。しかし普段はふざけているようでも実際には真面目な気質だ
し、意外にも繊細で気配り上手でもあった。

8贈る想い(2):2007/10/22(月) 19:33:53
「あんまり気にすんなよな」
「え?」
「玉麗のことをあばずれだとか何だとか――あいつらはそれでおまえを慰めて
いるつもりだったんだよ。気にするな」
 鳴賢は絶句した。自分でさんざん玉麗を悪く言ったくせに、いざ悪友たちに
彼女を罵られてみれば不快だったことを悟られているとは思わなかったからだ。
動揺を隠すために、既に水を飲みほして空になっていた杯に誤魔化すように再
び口をつけ、そして言った。
「別に、つきあっていたわけじゃないんだ。単に幼なじみだったってだけで何
か約束をしていたわけでもないし、それが休暇でたまたま帰省したら結婚して
他の里に移っていて、それをあいつらが勝手に誤解して――」
 言い訳が勝手に口をついて出る。実際、それは本当のことだった。鳴賢は玉
麗と何の約束もしていなかった。内心でずっと、彼女が自分の卒業を待ってい
ると思っていたとか、向こうの態度の端々からもそれを感じ取れたとか、里で
の周囲もそういう目でふたりを見ていたというのは、鳴賢が知らないうちに玉
麗が他の里に移って結婚してしまった今となっては無意味だ。
 もっとも酔いに任せたとはいえ、さっきの飲み会でさんざん、彼女とは目と
目で通じ合う仲だったというようなことを言ってしまっていたので、相手が六
太でなくても誤魔化しにしか聞こえなかったろう。
 だんだん支離滅裂になっていく鳴賢の言い訳が、やがて尻すぼみになってお
さまったところへ、一言も口を挟まずに黙って聞いていた六太が言った。
「年末年始ってのは農閑期でもあるから帰省者も多いはずだけど、その娘は親
元に帰ってこなかったのか。普通、年始の祭りって親戚が集まるから賑やかだ
ろ」
「さあな。亭主のほうの親元にでも行ったんじゃないか」
 鳴賢は投げやりな態度で首をすくめた。六太は「そっか」とつぶやいて目を
伏せた。
「鳴賢は去年は帰省しなかったわけだから、それじゃあ今年はきっと帰ってく
るとわかるよなあ。とてもじゃないが顔を合わせられねえか」
 その言葉に、鳴賢は胸をえぐられたような気がした。実際、故意に避けられ
たと思っていたからだ。六太は目を伏せたまま淡々と続けた。

9贈る想い(3):2007/10/22(月) 19:36:05
「好きな相手を諦めて結婚してさ、でもその相手に会っちまったら、自分が惨
めだもんな……」
「そんなことあるもんか……」鳴賢は顔を背けた。「単に比べただけだろ。比
べて、将来性のあるほうを取っただけだ。俺は卒業も危ういし」
 脳裏に浮かんだ娘のはかなげな顔に、そんな計算高さはまったく似合わなか
ったが、鳴賢は吐き捨てるように言ってのけた。六太は目を上げて静かに彼を
見た。無言のままの様子に、何だか鳴賢は自分が責められているような気分に
なった。
「そりゃ、手紙も書かなかったけど。毎年帰省して会っていたわけでもないけ
ど。でもこっちは允許を取るのに忙しいし、大学に入ったからには卒業しない
と意味ないだろ」
「手紙、一度も書かなかったのか?」
 鳴賢は言葉に詰まった。
「その、つい面倒で――さ。どうせ帰省すれば会うし。でも会っても別に変わ
りはないようだったし」
「恨み言も何も言われなかったのか」
 鳴賢はうろたえて目を泳がせた。手紙のことにしろ、痛いところを突かれて
しまったからだ。
「最初の二年くらいは遠回しに言われたかな……。でも、何て言うか、そうい
うのうるさく感じてさ、適当に受け流して……。大学に入ったばかりの頃は関
弓での生活が楽しかったし。そしたらいつのまにか何も言われなくなってさ。
そうなるとそっちのほうが面倒がなくて」書卓に肘をついて、片手で目を覆う。
「―― 自業自得、か……」
 六太は黙っていたが、やがてつぶやくように言った。
「その子、鳴賢のことがとっても好きだったんだろうな」
「……」
「でも人の心なんて弱いもんだ。鳴賢のことが好きで好きで。鳴賢に会えない
のが寂しくて。それで耐えられなくなっちゃったのかな」
「……」
「それとも自分よりもっとふさわしい女性がいるって思ったのかな。首尾良く
卒業して官吏になったら、鳴賢は高級官吏だ。最低でも下士にはなれて仙籍に
載る。年も取らなくなるし、普通の民にとっては雲の上の存在になってしまう」

10贈る想い(4):2007/10/22(月) 19:38:12
 鳴賢は考え込んだ。はたしてそうだろうか。いや、玉麗はおとなしくて控え
めだが、芯の強い娘だった。自分が高級官吏になったからといって、それだけ
で尻込みするとも思えない。そもそも大学に入った以上、卒業して官吏を目指
すのは当たり前のことだ。単に身を引くなら自分が大学に入ったときにそうし
ただろう。
「幼なじみだったんだ。官吏になろうがなるまいが関係ない」
「それでも、さ。鳴賢が長いこと苦労しながら頑張っているってことは知って
いたわけだ。便りもない、帰省もしない。自分は寂しいけれど、そんなふうに
思うのは鳴賢のためにならないんじゃないだろうか、むしろこのままでいては
いけないんじゃないだろうかって――考えたことがあったのかもな、と思って。
ま、勝手な想像だけど」
「……」
「好きだから……寂しさに耐えられなくて。でも相手には幸せになってほしく
て、だからこそわがままをぶつけられなくて。そして他の男を選んで結婚して、
鳴賢に会わせる顔がなくて。悩んだのかな。鳴賢のことが好きだから。でもそ
のままじゃ鳴賢にも亭主になった人に申し訳がないから。だから故郷を去って
踏ん切りをつけようとしたのかな」
 鳴賢は黙り込んだ。あばずれだの何だのという悪友たちの罵りに比べれば、
はるかに玉麗に似つかわしい想像ではあったが、それが事実かどうかは別の問
題だ。それでも長年彼女を放っておいたという自覚はある鳴賢に、六太の言葉
はちくちくとした痛みをもたらした。
「まあ――何も約束してなかったしな……。別につきあってたわけでもないし」
「それでも八年待ったわけだろ」
「八年か。長いよなぁ……。さすがに卒業も危ういし、見捨てられても仕方が
ないよな……」
「正直に言ってりゃ良かったかもな。允許を取るのに苦労して、先行きどうな
るかわからない。手紙を書く暇もない。でもとにかく死にものぐるいでやって
いるから待っててくれって」
「そんなこと言えるか」
 鳴賢は力なく笑った。こんなことを言われたら普段なら腹が立ったに違いな
いが、今はその気力もなかった。むろん相手が年端もいかない子供にすぎない
せいもあったろう。ここで怒っては年長者の立場がない。

11贈る想い(5):2007/10/22(月) 19:40:14
「自尊心が許さなかった?」
 あっさりと尋ねた六太に、鳴賢は溜息をついた。いくら六太がませていると
はいえ、たった十三歳の少年に男の矜持を説いても無駄だろう。
「おまえにはまだわからないだろうが、男にはいろいろあるんだ。そう簡単に
弱音を吐くわけにはいかない」
「好きあった娘にも言えないのか?」
「だからこそ、だ。通りすがりの見知らぬ人間になら何でも言えるかもしれな
いけどな。知り合いだからこそ言えないってことがあるんだ」
 六太はまた目を伏せた。こういう仕草が妙に大人びている少年だった。
「そうだな。そうして人はすれ違っていくんだ……。身近にいても気持ちを通
じ合えるとは限らない。離れていればなおさらかもな」
 そのつぶやきの切々とした響きに、鳴賢は妙に胸を突かれて相手を見つめた。
ほのかな初恋くらいは経験しているかもしれないとしても、色恋沙汰と形容で
きるほどの経験は積んでいない年頃だろうに、なぜだかひどく心に迫るものが
あった。
「おまえ……。恋したことあるのか?」
「あるよ」
「ふーん……。いつ?」
「今」
「へえ?」鳴賢は途端に興味をそそられた。このこまっしゃくれた子供にも、
そんな相手がいたのだ。「どんな娘だ?」
「言えない」
「俺にばかり喋らせておいてそれはないだろ。内緒にしといてやるから教えろ
よ。何なら助言してやる。少なくともおまえよりは経験があるはずだからな」
 からかったつもりだったが、六太の目は穏やかで、それでいてひどく真摯だ
った。
「悪いけど言えない」さざ波ひとつない水面を思わせる静かな声。「これはお
まえだけじゃない、誰にも言えないことだし、実際、誰にも言ったことはない
から。そもそも片思いだし」
「餓鬼が、もったいぶりやがって」
「そのとおり。大の大人がこんないたいけな子供をいじめるものじゃない」
 六太がやっといつものようににやりと笑ったので、なぜか鳴賢はほっとした。

12贈る想い(6):2007/10/22(月) 19:42:26
「どこがいたいけだ。言っとくが、おまえは子供じゃないぞ」
「今さっき、俺を餓鬼だって言ったくせに」
「ああ、餓鬼だ。餓鬼のふりをしている、こまっしゃくれた餓鬼だ」椅子の上
で、六太のほうに身を乗り出す。「なあ、片思いって言ったよな。もしかして
相手の娘に言ってもいないのか? 言ってみれば案外、向こうもおまえに気が
あるかもしれないぞ?」
「それはありえない」
「へえ? 言い切ったな。もしかしてあれか? 同じ年頃ってわけじゃなく、
近所の姉さんとかか? まさか人妻ってことはないよな? おまえくらいの年
だと、年上の綺麗な女性に妙に惹かれることはあるが……」
「言わない」
「頑固だな」
「俺が死ぬ直前なら、教えてやってもいい」
 不意にほほえんで答えた六太があまりにもはかなく、そして遠く見えたので、
告げられた言葉の重さと併せて鳴賢はぎょっとなった。
「もしそのときおまえが生きていたら教えてやるよ。それで我慢しろ」
 まるで日々、生死を見つめているかのような物言いだった。からかわれてい
るわけではないのは明らかだったので、鳴賢は動揺した。まさか余命いくばく
もないというわけでもあるまいに。
「おまえ……。そのう、何か悪い病気にかかっているってわけじゃないよな」
「ああ。ぴんぴんしてる。普通に考えれば長生きするだろうな。実際にはどう
だか知らないけど」
「ふうん……」
 鳴賢は何とか相づちを打ったが、相手の突き放したような言い方に妙に心が
騒いだ。思春期にはやたらと自分の死について考える時期もあるが、六太の年
頃はまだちょっと早い。それとも以前、身内に不幸でもあったのだろうか。
「そのう――ずっと相手を思い続ける自信があるってことか。まあ、餓鬼の頃
は、そのときの自分の気持ちが一生続くような錯覚をするもんだからな……」
「うん、だからそう思ってろよ」
 六太は諦めたような優しい微笑を浮かべて鳴賢を見た。まるで聞き分けのな
い幼子に対し、あなたにはまだわからないことなのよ、と母親がほほえんでい
るような、やわらかい表情と声音だった。

13贈る想い(7):2007/10/22(月) 19:46:04
 はるか年上の相手に対するとは思えない言いように、鳴賢は「おまえさあ」
と呆れ顔で言いかけた。しかしすぐに「いや、いい」と手を振って口をつぐん
だ。確かに相手は自分の半分以下の年齢だったが、今までそんな年齢差を考え
ずに対等に話していたことに気づいたからだ。それを言えば楽俊の房間で出会
った当初はともかく、もはや日頃から特に年齢差を意識せずに話すようになっ
てしまっていたから、今さらとも言える。
 そもそも六太は子供らしくないのだ。いや、故意に子供っぽく振る舞うとき
もあるが、何しろ語彙と言い知識と言い、大学の悪友たち顔負けなので、普段
は年齢などまったく意識しないで話せてしまう。場合によっては六太のほうが
ずっと年上であるかのような錯覚を起こすくらいだ。そういえば外見に似合わ
ず、この少年は非常に達筆でもあった……。
 六太は淡々として続けた。
「おまえを信頼して言った。だからこのことは誰にも漏らすなよ。楽俊にもだ」
「このことって……。おまえに好きな娘がいるってことか? たったそれだけ
の話なのに?」
「それだけのことでも、今まで誰にも言ったことはないんだ」
「へえ……。そりゃ、六太の頼みなら言わないけど」
「ああ。何があっても、誰にも言わないでくれ。たとえ相手が天帝でも」
「天帝か。大きく出たな。もし言ったらどうする?」
「どうもしない。俺が壊れるだけだ」
「壊れるって……」あっさりと答えた六太に、鳴賢は言葉を失った。
「まあ、そうなっても気にするな。そのときはそのときだ。別に鳴賢を恨んだ
りはしない」
「おまえ……」鳴賢の背筋がぞくりとなった。穏やかな声音とは裏腹に、六太
の恐いほど真剣な心持ちが伝わったからだ。子供の戯れ言と笑い飛ばすには、
あまりにも重たい手触りだった。「言わない」必死に声を押しだす。「絶対に、
誰にも言わない」
「うん。ありがとな」
 六太はほのかに笑った。まるですべてを諦めているかのような……。焦った
鳴賢は必死に考えを巡らせた。

14贈る想い(8/E):2007/10/22(月) 19:49:17
 表沙汰になれば相手に迷惑がかかるというたぐいの話ではなかったため、人
妻やはるかに年上の女性といった、倫理的に問題のある相手に恋しているので
はないだろうか、と考える。もしかしたらこのませた子供は、妓女にでも想い
を寄せているのかもしれない。それなら相手は六太のような子供など歯牙にも
かけないだろうし、知られて恥ずかしい思いをするのは六太のほうだけだ。
 ただ、そこまで真剣な想いをいだいている六太の心情を汲み、せめてその恋
が良い思い出になればいいと鳴賢は願った。もっと成長して相応の相手に出会
ったとき、新しい恋が古い傷を癒すはずだから。六太はまだ幼いから、ある意
味で一途なだけだろう。
 ――そう、いずれ恋は終わるのだ。そして自分の恋も終わったのだ。
「つまんない話をした。そろそろ帰る。まあ、元気出せよな」六太はそう言っ
て立ち上がると、通りすがりざまに、座っている鳴賢の肩を軽くぽんぽんと叩
いた。「玉麗はおまえが幸せになることを望んでいたんだろうから」
 言葉もなく見送る鳴賢を残して、六太は房間から出ていった。楽俊のところ
に戻るのだろう。
 今度こそ誰もいなくなった房間で、やがて鳴賢は「手紙くらい、一度でも書
いてやれば良かったな……」とつぶやいた。相手をつなぎとめるためではなく。
結果は同じだったかもしれないが、少なくともいくらかは寂しさを紛らわせて
やれたかもしれないから。
 自分が本当に玉麗を想っていたかといえば、そうではなかったかもしれない、
と今にして思う。黙って結婚した話を伝え聞いたときは衝撃を受けたが、大学
にいて彼女が気になるというほどではなかったし、允許の問題を除けば、大学
生活を謳歌していたと言っていい。少なくとも賑やかな関弓での生活は楽しか
った。おそらく玉麗ほどには寂しくなかったのは確かだ。
 ――そう。きっと自分はそこまで彼女を想ってはいなかったのだ。
 もしかして黙って結婚したことで、妙な罪悪感を抱いているということはな
いだろうか。それで自分に会うことになるのが後ろめたく、新年だというのに
親元にも帰ってこられなかったということは。
 そうかもしれない。そうでないかもしれない。もはや鳴賢にそれを知る手だ
てはない。でももしそうだとしたら、もういいんだ、と言ってやりたいと彼は
初めて思った。
 玉麗はきっと、自分の幸せを願ってくれただろう。昔からそういう娘だった。
控えめで優しくて、常に他人を気遣っていて。
 だから今度は自分が願おう。どうか幸せになってくれ、と。

15幕間(1):2007/12/02(日) 00:06:47
「後朝」と「続・後朝」の間の尚隆の様子です。
-----


 重要な書類のすべてに目を通して差し戻すべきは差し戻すと、認可を下すぶ
んの書類に署名をし、玉璽を押印する。決裁できる書類は既に幾度も官の吟味
を経て練り込まれ、あるいはいったん差し戻されてのち内容をあらためて奏上
されたものばかりだから、ここまでくればほとんど流れ作業となり造作もない。
おまけにしばらく王宮を抜け出すこともなかったとあって書類もたまっておら
ず、尚隆は午後の早いうちに面倒な作業から解放された。
 冢宰の白沢が、決裁済みの書類を所轄の官府に渡すべく指示を与える。その
様子を眺めながら尚隆はふと、今朝、腕の中の六太が、目覚めるなりおびえた
表情を見せたことを思い出していた。まるで――そう、まるで夢が覚めるのを
恐れるような。あるいは今にも尚隆が「実は冗談だった。からかってすまなか
ったな」とでも言い出すとでも思っているかのような。
 昨夜、想いを告げたときに見せた妙な恐慌と言い、五百年も連れ添ったとい
うのに、あそこまで動揺している六太を見るのは初めてだった。幼い外見に似
合わず、普段はふてぶてしいほど落ち着いている彼が、今朝はまともに尚隆を
見ようとしない。それどころか近づこうともしない。無理に顔を上げさせよう
とすれば、耳まで赤くして金色のまつげにふちどられた目を伏せる。
 むろん恥ずかしがっているのだろうが、その暁色の瞳に時折よぎるおびえの
表情を思い出すたび、尚隆は妙に切ない気分になるのだった。それほど不安な
のか、と。
 だいたい六太はいつも何かと考えすぎるのだ。それにもはや彼らは愛人同士。
好きなら好きで相手に甘えればいいし、人目を気にする必要もない。何と言っ
ても五百年の長きに渡って大国雁を支えた王と麒麟ではないか。それだけの確
固たる実績を築いた彼らに、国政を疎かにしないかぎり禁忌のあろうはずはな
い。

16幕間(2):2007/12/02(日) 00:08:55
 先ほど人払いしたときに六太に仕掛けた戯れを思いだした尚隆は、書卓に頬
杖をついて窓の外を眺めた。さすがの六太も理性が飛んでしまえば快楽に身を
委ねるということか。今夜はどんなふうに抱いてやろうかと考え、自然と好色
な笑みが口元に浮かぶ。むろんまだ無理をさせるわけにはいかないだろうが、
それでも……。
「主上?」
 白沢の怪訝そうな声が耳に届いたが、尚隆は頬杖をついたまま目も向けなか
った。透明な玻璃を通して窓の外を眺めていた彼は、やがて「宰輔の御座所を、
仁重殿から正式に正寝に移す」言った。白沢は一瞬だけ黙り込んだものの、す
ぐに何ら動揺の窺えない声でおっとりと尋ねた。
「正寝とおっしゃいますと……。もし長楽殿の近くということでございますれ
ば、太和殿か玉華殿となりますが。台輔のご身分ですと、規模を考えれば他の
建物というわけにはまいりませんでしょう」
「そうだな、玉華殿でいいだろう。どうせ普段は今のまま長楽殿で寝起きする
のだ。しかし万が一、俺が怪我でもすれば、血の穢れの苦手な六太は近づけん
わけだからな。御座所としては、形式だけでも長楽殿とは異なる建物を用意す
る必要がある」
「仁重殿はどうなさいますか?」
「広徳殿と同じく、靖州府の一部として扱えばよかろう。その辺は任せる」
「すぐに検討を始めますが、そうなりますと侍官や女官の異動も正式に必要と
なりますな。書類の準備に、二、三日、お時間をいただいてもよろしゅうござ
いますか」
「ああ、別にかまわん。どうせ俺と六太の生活は変わらんからな」
「ではすぐさま太宰に諮って詳細を煮詰めることにいたします。警護の問題も
ありますから、とりあえず大司馬には今日のうちに簡単な話を通しておきまし
ょう」

17幕間(3/E):2007/12/02(日) 00:19:39
「任せる」尚隆はそう言ってから、思いだしたように言葉をつなげた。「――
ああ、長楽殿と玉華殿の周囲の園林も整えさせろ。あの辺は仁重殿と違って大
きな花木が少ないから、今のままでは華やぎがなくて六太がつまらんだろう。
どの季節でもいろいろな花を見られたほうがいい。それも桃とか梅とか、あり
ふれたものがよかろうな。気取ったものはいらん」
「かしこまりまして」
「もっともさすがに冬に花は無理だろうが……。そうだな、長楽殿のそばに小
さな温室を作らせるか」
「温室……でございますか?」
「ああ、以前戴で見た。玻璃で作った建物の中で草木を育てるから、戴の厳し
い冬でも花が咲くのだ。慶の玻璃宮も似たようなものだが、あれほど豪勢なも
のになると逆に六太の好みではないだろう。それから後宮の梅林にあるような
小川と池も周囲に作ってくれ。そこに魚でも放して泳がせれば六太が喜ぶだろ
う。この季節は水遊びもできるしな」
「なかなか大がかりでございますな」
 さすがに呆れたのかと思って、ようやく尚隆が白沢の顔を見やると、白沢は
穏やかな微笑を浮かべていた。尚隆も笑って返す。
「なに、これまでほとんど手を入れてこなかったのだ、園丁たちも張り合いが
出よう」
「ではさっそく」
 白沢は丁寧に頭を下げると、こちらは状況がよくわからずに目を白黒させて
いた何人かの官を引き連れて、執務室を出ていった。そして一息いれるべく女
官に茶の用意をさせた尚隆は顎に手をやって、はてさて何か六太がほしがって
いる物があったかどうか、あれこれと記憶を探りはじめた。

18続・たゆたう岸辺(1/4):2008/01/20(日) 01:52:49
「たゆたう岸辺」の直後の話。
書き逃げスレ305に書いた台詞の話がこれです。牀榻編ですが、エロはありません。

王后ネタで投下したいとおっしゃってくださったかたがいらしたので控えていたのですが、
あれから半年経ったことでもあるし、そろそろいいかな、と。
(もしこれから投下する予定だったらすみません)
-----


 その夜、六太はわざと遅くに王の臥室に戻った。主と同じ臥牀を使うように
なってからしばらく経つ。燭台のひそやかな灯りがだけが揺れる中、被衫姿の
六太は、精緻な透かし彫りの折り戸が半分ほど閉じられた牀榻の帳の奥の気配
を窺った。
「お休みのようです」
 六太の影に潜んでいる沃飛が、やっと聞こえる程度の小さな声で答えた。六
太は足音を殺して牀榻に入りこむと、静かに折り戸を閉めた。奥で寝ている主
を起こさぬように注意して衾の手前を持ち上げ、そっと中に潜り込む。
 だが枕に頭をつけるや否や、強い力で手首をつかまれて奥に引っ張られ、狸
寝入りをしていた尚隆に乱暴に組み敷かれていた。呆気にとられて主を見上げ
る。
「二度とくだらぬことを言わぬように、仕置きをしてやろう」
 暗がりの中で主の顔はよく見えないが、意地悪な笑いが彩っているのは六太
にもわかった。
「何のことだよ?」
「后妃を娶っていいだと? そうしてまたおまえは誰もいない場所で泣くのか」
「尚隆……」六太は茫然とつぶやいた。
「おまえは何もわかっておらぬ」
 押し殺したような声。六太はむっとして答えた。
「ああ、わからない。言葉に出してくれないと、誰にも何もわからない。俺を
大事だと言ってくれないと、俺にはわからない」
 乱暴な物言いのようでも、昔と違って尚隆に返す言葉の扱いを決定的に間違
えることはない。それだけの長い歳月をこの主と過ごしてきたのだ。

19続・たゆたう岸辺(2/4):2008/01/20(日) 01:55:07
 尚隆は黙り込んだ。六太がそのままじっとしていると、やがてかすかな吐息
が聞こえて、主を包んでいた張りつめた気配が消えた。手首を痛いほどつかん
でいた手が離れ、片方の掌がそっと六太の頬に添えられる。
「……おまえが大事だ」
「うん……」
 優しく自分を覗きこむ顔を見つめる。六太は頬をなでる尚隆の温かい掌の感
触にぞくぞくするほどの歓喜を覚えたが、その反応の大半を反射的に押さえ込
んだ。これはもう習い性のようなものだ。何しろ想いを秘めていた時間が長す
ぎた。
 そんな彼の心中を知らぬげに、尚隆が諦めたように笑った。
「后妃を娶れ、か。寵姫に見捨てられるとは、俺も長くはないかな」
「誰が寵姫だ。俺は男だって言ってんだろ」
「何なら王后の称号をやろうか」
「阿呆。俺を十二国中の笑い者にする気か」
「なに、ふたり一緒に笑い者になれば良かろう」
「おまえなー……」
 六太は呆れて溜息をついた。しかしこんな冗談を言うくらいだ、とりあえず
はもう心配することもないのかもしれない。
 もっとも別の意味で油断は禁物。冗談だと思って放っておくと、この王は本
当に莫迦な勅命を出すことがあるからだ。おまけにその騒動から六太が無縁で
いられることはほとんど期待できない。
 六太は「この莫迦王」とつぶやいたが、そのままのしかかってくる尚隆に素
直に身をゆだね、深い接吻に応えつつ彼の首に腕を回した。そうしてとっくに
馴染んだ愛撫に溺れながら、いつものように頭の片隅で、泣きそうなほど深い
想いを自覚する。
 本当は后妃なんか娶ってほしくない。いつまでも自分だけを見ていてほしい。
でも。
 この尚隆の情熱が恐い。とことんまで彼を恋うる自分の弱さが恐い。そんな
自分がいつか尚隆の重荷になってしまうのではと考えてしまうことが恐い。
 尚隆と結ばれて以来、六太はいつか訪れるだろう破局を恐れずにはいられな
い。あまりにも深く激しい想いゆえに。

「大したことではないのだ」

20続・たゆたう岸辺(3/4):2008/01/20(日) 01:57:44
 仰向けになって牀榻の天井を眺めていた尚隆が、不意に低くつぶやいた。彼
の片腕に抱かれて寄り添い、頭をその広い胸に押しつけていた六太はわずかに
顔を上げ、尚隆の愁いを含んだ横顔を見やった。
「貞州の沿岸でな――」
 尚隆は上を向いたまま淡々と語った。青海沿いの里で漁師たちの手伝いをし
て漁に出たのだという。そうして彼らとともに数日を過ごして王宮に戻り、雲
海の波を見ていたら急に、いったいここで何をしているのだろうと自分がわか
らなくなった。故国と同じようにここにも波は打ち寄せるのに、何だかずいぶ
んと遠くに来てしまった、と。
 ――そういうことか。
 六太は目を伏せると、苦い思いを飲み込んでほのかに笑った。
「おまえは向こうで育ったんだから、ふとした拍子に思い出すのは当然だ。蓬
莱じゃ、三つ子の魂百までって言うくらいだろ。四つまでしかいなかった俺だ
って、いまだに向こうのことは忘れられない。両親のことも兄弟のことも、い
つだって俺の根っこにある。それに人間ってのは意外と、ちょっとしたことで
もすごく落ちこむもんだ。逆にちょっとしたことでめちゃくちゃ慰められたり
もする。おまえが惑っても不思議はない」
「そうだな……」
「とりあえず進歩だ」尚隆の顔を直視して、わざと明るく言う。
「うん?」
「以前のおまえなら、俺にだって何も話さなかった」
 尚隆はちらりと目だけを六太にやり、口の端に苦笑を浮かべた。
「その頃は別におまえは恋人ではなかったろうが」
「そりゃそうだ」
 六太も笑いを含んだ声で同意してから、すぐに「今は?」とからかうように
問うた。
 尚隆はやれやれといった態で体を傾けて向き直るなり、「俺の大事な伴侶だ」
と答えた。六太はにやりとして、彼の裸の胸に人差し指を突きつけた。
「王后の称号なんて俺に下すなよ。そんなことをしたらおまえを捨ててやる。
捨てられたくなかったら、俺と同衾するだけで我慢しとけ」
 尚隆は大仰に溜息をついて言った。
「つくづく思うのだが」
「何?」
「俺は恐妻家かも知れん。どうもおまえには頭があがらぬようだ」

21続・たゆたう岸辺(4/E):2008/01/20(日) 01:59:48
「へえ、それで? 何でも好き勝手やってるくせに?」
 上体を軽く起こして六太の顔を覗きこんだ尚隆は、困ったような微笑を浮か
べた。
「好き勝手やっているように見えるか?」
「見える」
「錯覚だ」
 そう言うと尚隆はふたたび六太の体を抱き寄せた。六太はわざと唇を尖らせ
て「そろそろ寝ろよ」と言ったが、抵抗はしなかった。

 尚隆が寝入ったのを見計らって、六太はそろりと体を起こした。傍らの主の
寝顔をそっと見つめる。声は出さない。先刻のように、眠っているように見え
てその実起きていることもあるから、こいつは油断がならないのだ。だから心
中で独白するに留める。
 后妃云々に対する尚隆の過剰な反応は、理無い仲になってからあまり経って
いないためもあろう。よく行為の最中に、何やら核心を突いた言葉を自分から
引き出そうともするが、そのときに自分が何を言っているのか、ほとんど覚え
てはいない。嘘をつく余裕も考える余裕もないから、きっと正直な心情を吐露
してしまっているとは思うけれど――とはいえ悦楽のさなかに発する言葉など、
その場の勢いのようなものだ。あまり深刻に受け取めても仕方がないとわかっ
ているだろうに、こいつは何を考えているのやら。
 六太は吐息を漏らして、衾ごと自分の膝をかかえた。そのまま頭を膝に押し
つけ、しばらく夜の静寂に身をゆだねる。
 いつまでもこの仲が続くとは限らない。というより寿命のない神仙において、
恋愛関係が長持ちすると楽観するほうがどうかしている、そう現実的に考える。
だから覚悟だけはしておく。誰のためでもなく、尚隆のために。決めるのは自
分ではなく尚隆だから。
 既に想いを遂げたというのに、なんて贅沢な物思いなのだろう。昼間、尚隆
を惑わせた潮騒が、六太にもひそやかに押し寄せる。幻の波の音に包まれて、
自分はいったいどこへ行くのだろうとぼんやり考える。
 ――あさましい。
 いつかの呪者の嘲りが、六太の脳裏を離れることは永遠にないだろう。民の
安寧を願うべき麒麟が、それこそが存在意義である麒麟が、第一にみずからの
幸福を願うなんて。永遠に王に愛されることを願うなんて。
 朝は、まだまだ遠い。

22永遠の行方:前書き:2008/01/26(土) 14:19:51
雁主従の想いが通じあうまでを描くシリアス長編です。
ある程度きりの良いところまで書き上げたら、
それごとにたまに投下させていただきます。

[時系列]
 ・贈る想い
 ★永遠の行方(時期的には「後朝」〜「続・後朝」も含む)
 ・後朝
 ・幕間
 ・続・後朝
 ・腐的酒場
 ・腐的酒場2
 ・たゆたう岸辺
 ・続・たゆたう岸辺
 ・体の相性

なるべくオリキャラを出さず、名無しのモブキャラで構わないところは
代名詞や役職名などでぼかしていくつもりです。
それでも長編とあって、全編をそれで乗り切るのは無理なので、
名前のあるオリキャラがけっこう出ばってくることになるかと思います。

それからこの話では、雁の三官吏は、とっくに三官吏ではなくなっています。
そのため三官吏好きには、ちょっとした表現でも抵抗があるかもしれません。
これまたはっきりとは書かず、ぼかすつもりではいるのですが、
人によってはそこから連想してしまうだけできついと思われるため、
ご覧いただける場合は充分にご注意ください。

23永遠の行方「序(1/10)」:2008/01/26(土) 14:25:16
ああ、間違ってageてしまった……すみませんorz
---

 彼は待っていた。決して来るはずのない者を。
 この郷に潜んで、はや八日。女を買うことも博打を打つこともなく、宿を点
々としながら、ただひそやかに逗留している。
 そんなふうに身を潜めていても、首都である関弓でならばとうに居所が知れ、
しびれを切らせた官たちが迎えを差し向ける頃合いだろう。しかしここは関弓
からは遠い。普段の彼が好むような、華やかな歓楽街もない。彼を捜そうとす
る官たちが捜索網から簡単に除外するようなありふれた町のひとつでしかなく、
彼を見つけるにはよほどの強運と機転が必要だろう――彼の第一の臣以外には。
 本当に火急の用件があるとき、官たちは第一の臣に頼みこんで彼を捜させる。
そうして彼は、臣の「毎度毎度、面倒をかけやがって」というぼやきとともに
宮城に戻ることとなる。
 「毎度毎度」というが、実際には長い治世の間にほんの数度のことでしかな
かった。それでも臣はぶつぶつと文句を言うのだ、「この昏君」だの「馬鹿殿」
だのという修飾をつけて。呆れ果てたように。今はもう、聞けなくなった懐か
しい声で。

 騎獣に乗った尚隆が禁門に降り立ったとき、官たちは十日に及ぶ不在に何も
言及せず、うやうやしく出迎えただけだった。
 最前にいた朱衡が、拱手して「お帰りなさいませ」と応ずる。尚隆は彼にち
らりと目を向けたのみで、足早に宮城内に入った。いつも通りの、何も変わら
ない情景。
 何の躊躇も見せずに正面を見据えて歩きながら、尚隆は低く「六太は」とだ
け問うた。彼の斜め後ろに従っていた朱衡が「お変わりございません」と答え
る。あるかなしかの空白ののち、尚隆は乾いた声で「そうか」と返した。その
空白の意味を汲みとれる者は、ここでは朱衡だけだったろう。
「主上に決裁を仰ぐ書類がたまっていると冢宰が。それから台輔のことで謁見
を求めている者が数名おります」
 事務的に淡々と報告する朱衡に、尚隆は短く「わかった」と答えた。
 着替えのため正寝に戻る前に、尚隆はひとり仁重殿に向かった。十日ぶりに
王を目にした仁重殿の女官たちだったが、いつものように静かに主君を迎えた。
尚隆が宰輔の臥室に向かうと、既に心得ている彼女たちは潮が引くように御前
から下がり、すぐに臥室には誰もいなくなった。

24永遠の行方「序(2/10)」:2008/01/26(土) 14:30:22
 目の前の牀榻の扉は広く開けはなたれ、帳は巻き上げられて、臥牀の様子が
よく見える。その奥に六太の小柄な体が横たわっていた。それはこの一年、ま
ったく変わらない光景だった。
 時折、ぼんやりと目を開きはするが、焦点は結ばず何も見てはいない。放心
しているだけとも思えるが、実際のところ六太の意識はなかった。肉体はここ
にあるのに、心が空っぽの状態。人形と何も変わらない。
 呪者が死に、蓬山からも芳しい返答がない以上、六太にかけられたこの呪が
解ける見込みはなかった。一年の間、玄英宮は手を尽くしてきたが、もはや万
策は尽きたと言える。
 だが、これこそが六太の意思なのだ。王の身代わりとなって呪を受け、死ぬ
まで眠り続けることが。
 天地の気脈から力を得る麒麟は、このような姿になっても生命に別状はない。
だから災いは尚隆には及ばない。それを確認した上で、六太はみずから呪を受
け入れた。呪者の術中に陥った尚隆を助けるため、その身代わりとして自分自
身を差し出したのだ。
 意識もなく横たわる六太を見つめる尚隆の目には、悲しみでも苦しみでもな
く憤りが宿っていた。うかうかと敵の術中にはまったおのれへの。そしてみず
からを贄として差し出した六太への。
「……阿呆めが」
 幾度つぶやいたか知れぬ言葉を、今度も無意識のうちに口にのぼせる。
 六太としては仕方のない選択だったのかもしれない。しかしそれはある意味
では、術中の尚隆を看過すること以上に、彼を見捨てることだった。
「長い生を、ひとりで生きろと抜かすか……」
 怒りに震えた低い声は、他に聞く者もなく、ただ房室の壁に吸い込まれて消
えていった。

 宰輔の実質的な不在は、それ自体は確かに大事件であったが、国家の安泰の
前には些末なことにすぎなかった。

25永遠の行方「序(3/10)」:2008/01/26(土) 14:36:08
 呪をかけられた六太が意識不明のまま国府に運びこまれたのが一年前。当初
こそ官の間に激しい動揺が見られたものの、六太の生命に別状がなく、従って
王にも王朝にも本質的な害を及ぼさないとわかると、彼らは一様に安堵した。
何しろ王も宰輔も呪に囚われ、すわ王朝の瓦解かと激震が走った直後だったの
だ。六太が意識不明に陥ると同時に尚隆の呪が解け、この事態が王の身にまっ
たく害をなさないとわかった以上、官が思わず胸をなでおろしたのは無理から
ぬことだったと朱衡も考えていた。
「確かに台輔はお気の毒だが、主上のため、ひいては国家のために台輔ご自身
が主上のお身代わりになると決意されたとのこと。われらとしては、そのお気
持ちにただ感謝を捧げるしかあるまい」
「国の安寧こそ台輔の最大の願いであられるはずだからな。ここは台輔のご厚
情に甘えても良いだろう」
 かなりの官が密かにそんなささやきをかわし、王朝にも、従って自身の身分
や生活にも支障がないことに安堵した。
 今回の一連の事件については玄英宮に箝口令が敷かれ、決して雲海の下に漏
れることのないよう細心の注意が払われていたこともあり、宮城内においてさ
え、表立って宰輔のことを口にすることは憚られた。噂をする者もなく、あえ
て話をそらして仁重殿のほうを見ないように過ごせば、だんだんそれが当たり
前になってくる。また一般の官に漏れ聞こえてくる王や側近の様子も以前と変
わりなく思えたため、それで安心してしまったということもあるだろう。
 それどころか朱衡の耳には、呪者も死んで回復の見込みがない以上、王は宰
輔を捨て置きたいのだが、外聞を考えてなかなかそれができずに困っているの
だというまことしやかな噂さえ聞こえていた。今は数日に一度程度、仁重殿に
見舞いに赴いている王だが、いずれ時期を見て取りやめるつもりだろうとも。
実際、当初は毎日のように宰輔を見舞っていた王なのだから、そのように受け
とめられても仕方がない面はあった。
 もともと雁の王と麒麟は、むろんこれだけの大王朝である以上、決して仲が
悪いはずもないが、かと言って私的な意味で仲が良いと思われていたわけでも
ない。むしろどちらも出奔好きで、ひとりで好き勝手に姿をくらますことが多
かったせいで、つかず離れず、それぞれがわが道を往く独立独歩の主従だと受
けとめられていた。そのため王には第一の臣下に対する通り一遍の感情しかな
く、それも使令さえ封じられて木偶同然となった今、ただそこにいて王の生命
を担保しているだけの存在でしかないと思われたのだ。

26永遠の行方「序(4/10)」:2008/01/26(土) 14:44:35
 下官ならまだしも、王と直に接する機会のある高官にもそう考える者が少な
くなかったから、真に王や宰輔と近しい側近たちは、怒りよりも脱力感に囚わ
れた。
 もともと延王は、くだけているようでいても実際は内心を容易く臣下に見せ
るたちではない。だからこそ事件の前後も様子が変わったようには思われず、
そのことが官たちに安心感をもたらした面はあるのだが、逆に宰輔を見捨てる
つもりなのだという噂にも一定の信憑性を与えたのだった。
 しかし日常的に王と身近に接する側近たちは、一般の官が安堵してすっかり
落ち着いてしまった今になって、むしろ焦燥に駆られることが多くなった。王
の人となりをよくわかっている彼らの目には、最近の王がどう見ても尋常では
ないように映ったからだ。
 誰の目にもわかるほどの明らかな変化ではなかった。しかし放心したように
座りこんでいたり、玻璃の窓の傍らに立ち、静かに遠くを眺めていることが多
くなった。何よりも自然な笑みを浮かべることがなくなり、めっきり口数が減
った。
 それだけに事件以来、短時間の外出以外は珍しく王宮に留まっていた王が初
めて行方をくらませたとわかったときは、冢宰の白沢以下、六官の長が雁首を
揃えてどうすべきかを内密で協議した。とはいえ結局、彼らにできることは何
もない。精力的に執務を行なって国家の安泰を保つことで影ながら王を助け、
これ以上主君の心にさざなみが立たないよう、気を配るのがせいぜいだった。
そのため、いつも通り王の還御を待つこと、ただし火急の用件がある場合には
鸞を飛ばすことを申し合わせただけで終わった。
 王と直接、声の親書をやりとりできる貴重な鸞は、むろん臣下が勝手に使っ
て良いものではない。しかし王が不意に姿を消すことの多い雁では、昔から時
折使われてきた。鸞は名宛人がどこにいても一直線に飛んでいく生き物だから、
行き先も告げずにふらふらと出歩く主君を持った彼らには、同時に宰輔も姿を
くらませていたりして当てにできないときは最後の手段になりうるのだった。
 それに王の心中がどうあれ、帰る場所はここしかないのだということもわか
っていた。

27永遠の行方「序(5/10)」:2008/01/26(土) 14:51:06
 王が姿を消して七日を過ぎる頃になると、朱衡はそろそろ戻ってくる頃合い
だと感じた。そして翌日から日に何度か、さりげなく禁門の様子を見に行くよ
うになった。だからそれから二日後に、何の連絡もなしに戻ってきた王を彼が
出迎えられたのは、決して偶然というわけではない。
 厳しい表情で足早に歩く王のあとに従いながら、朱衡は最低限伝えねばなら
ない事項のみを簡潔に奏上した。冢宰を始め六官の長を歴任してきたとはいえ
現在は秋官長にすぎない彼が、まるで冢宰のような振る舞いではある。しかし
この程度のごく簡単な奏上なら、むしろ数日ぶりに主君を迎えた側近として当
然の務めと言えるだろう。
 やがて衣服を整えた尚隆が、謁見を求めていた地官府の高官を引見したとき、
その場にいた白沢にも朱衡にも、一見しただけでは王の様子に変わりがないよ
うに思えた。尚隆が妙に静かな雰囲気さえまとっていなければ、彼らも特には
何も思わなかっただろう。
 しかしいつもの主君に不似合いな空気は、側近らの心に警戒心を呼び起こし
た。非常事態が続いていると言える今、できれば官からの雑音を主君の耳に入
れたくはなかったのだが、何しろ今回は小司徒以下、地官府の相応に有能な高
官たちが正式に謁見を求めていた。王自身が会うことを拒んだのならまだしも、
宮廷内の秩序を保つ意味でも、冢宰らの一存で簡単に握りつぶすわけにはいか
ない。
 普段なら王は「面倒だ」と言って、すぐ面を上げさせるのだが、今日は叩頭
した地官たちに何ら声をかけず、冢宰を通じて謁見の趣旨を述べるよう指示を
出すに留めた。小司徒たちは叩頭したまま、くぐもった声で奏上した。
「おそれながら、主上はもう充分に手をお尽くしなされました」
 開口一番、小司徒はそう言った。朱衡は思わず凍りついたが、玉座を見やっ
た限りでは、王は何の反応も見せなかった。

28永遠の行方「序(6/10)」:2008/01/26(土) 14:53:20
「こたびの台輔のご不幸、主上のお苦しみは臣めも重々承知してございます。
しかしながら台輔のお命さえご無事なら、王朝には大事ございません。何より
ここまで手をお尽くしなされたのですから、たとえ蓬山の尊き方々といえど、
主上をお責めになることなどできますまい。いえ、むしろこうなっては台輔の
ことは早々に諦めたほうがよろしいでしょう。国家のことを思えば、お目覚め
になる見込みのない台輔に、いつまでも主上がお心を砕いていてはなりません。
このようなことを申しあげる臣の不忠を、どうぞお咎めあそばして、首を切る
なり何なりお好きになされませ。しかしながら主上のため、ひいては国家のた
めにご自身を犠牲にされた台輔のお心を今一度お汲みあそばして、ここは心を
鬼にして、台輔はお捨て置きください。それこそが主上の王としての責務にご
ざいます」
 正論ではあった。国家のために苦渋の決断をし、自身の生命を顧みずに王に
諫言する忠臣の姿がそこにあった。小司徒たちに最近、汚職の疑いがかかって
いること、そして影で「王は宰輔を見捨てたいのだが、外聞が悪くてそれがで
きずにいる。適当な口実が必要だ」と言っていたことを朱衡が知らなければ、
この諫言には一理も二理もあると考えただろう。
 小司徒たちは、これで王におもねったつもりなのだった。おそらくこの諫言
を、宰輔を見捨てるための口実として王が飛びつくと思っているのだ。むろん
王が彼らに罰を与えるとは考えていないに違いない。
 玉座の上の尚隆は、相変わらず静かに座していた。もしや憤るのではと思っ
た朱衡だったが、むしろ逆に気力を萎えさせてしまったように見えた。
 しばらく不自然に沈黙していた王は、やがて大きく息を吐くと、力のない声
で「さがってくれ」と言った。叩頭したままの小司徒たちは、覇気のない王の
声調子に何を思ったのか逆に勢いづいた。
「蓬山でさえ手の施しようがないとのご回答なのですから、主上がお気に病ま
れる必要はございません。また台輔のお命に別状がない以上、王国の安泰は変
わらず。どうぞお心を安んじられて、国家のためにお尽くしくださいますよう。
それが台輔の最大の願いでもあらせられると存じますゆえ」
 最大の願い。それこそが鍵であることを知っていた朱衡らは、何も知らずに
不用意にその言葉を持ちだした小司徒に、今度こそ慄然となった。

29永遠の行方「序(7/10)」:2008/01/26(土) 15:00:04
 とはいえ王はまったく顔色を変えなかった。それどころか、やがて気力を取
り戻したようににこやかな声で言った。
「おまえたちの言い分はわかった。考慮しておこう。ご苦労だった」
 それを聞いた小司徒たちは「ははーっ」といっそう床に額をこすりつけた。
内心で「やった」と思っているだろうことが朱衡には容易にわかり、反吐が出
そうだった。王の苦しみを察しながらも真に国家を憂えて、断腸の思いで同種
の諫言をなそうかと思い悩んでいる官もいることを知っているからなおさらだ。
 王は鋭く目を細めて、壇上の玉座から彼らを睨みつけている。その有様に朱
衡は背筋が寒くなったほどだが、叩頭している地官たちは気づかない。
「すまないが、政務があるのでこれで失礼する」
 そう言ってさっさと退出した王のあとを、白沢と朱衡があわてて追う。その
彼らを振り返ることなく、尚隆は静かに、だが鋭利な刃物のような趣で冷たく
「あやつらを城から放り出せ。二度と俺の前に出すな」と命じた。
「それは」
 驚いた朱衡は反射的に言葉を返したが、それ以上は言えなかった。白沢に目
で制され、執務のため内殿に向かう王を黙って見送る。
 普段の王なら、自分の感情と官の任命や罷免の問題を完全に切り離す。少な
くとも冢宰や六官の長の任命はそれとして、それより下位の官については実績
のある長たちに任せてきた。しかし今の王には、それだけの精神的余裕がなく
なってしまったとしか思えない。余裕がないならまだましなほうで、万が一に
でも国の先行きを気にしなくなってしまったのであれば、遅かれ早かれ王朝自
体が傾いてしまう。
「確か小司徒には汚職の疑いがあるという話でしたな。その件はどうなりまし
たか?」
 内密に話を詰めるために引きこもった房室で小卓を挟み、白沢が朱衡に尋ね
た。朱衡はうなずいた。
「内偵を進めた結果、証拠固めはほぼ終わりました。それで視察に出ておいで
の大司徒が関弓に戻られ次第、処遇を諮る予定でした」
「なるほど。ではそれを根拠に、自然な形での罷免は可能ですな」
「しかし先ほどの謁見があった以上、今すぐというわけにはまいりませんよ。
あの諫言が原因だと考えて王を逆恨みしかねないのはもちろん、正論を述べた
忠義の官を私情で切る王に悪評がついてしまいます。いくらこれまで主上が好
き勝手やってこられたかただとはいえ、今回の件とは性質がまったく違います」

30永遠の行方「序(8/10)」:2008/01/26(土) 15:04:12
 白沢もうなずいた。
「決して王の威信に傷をつけてはなりませんぞ。大王朝も傾くときは一瞬です
からな。それでは何のために台輔がご自分を犠牲にされたのかわからなくなっ
てしまう」
「はい……」朱衡は唇をかんだ。「二ヶ月ほど様子を見て……。その間は大司
徒に、何とか彼らを王の目に触れさせないようにしていただいてしのぐしかな
いでしょう。それから内偵の情報を小出しにし、まずは汚職に関わった末端の
官を捕らえて小司徒を焦らせます。最終的には正当な諫言をした忠臣に対し個
人的に至極残念だという扱いで、拙官が小司徒らを捕らえさせるつもりです。
この際です、冢宰も何かあれば、拙官を盾に。宮城内が落ち着かない今、小司
徒に限らず、これから不心得者がはびこる恐れがあります。しかしこれでも六
官の長を歴任してきたのですから、大抵のことは拙で何とかなりましょう」
 すると白沢は眉をひそめた。
「大司寇。主上の登極当時からの側近中の側近が、いくらこのような内々の場
とはいえ、簡単に矢面に立たれるようなことを口になさるものではない」
「ですが」
「諸官の大半は王の健在が揺るがないことを知って安堵しているが、御身は違
う。元州を皮切りに、擁州、光州と、州規模の謀反は幾度もありましたが、首
謀者の人数は小規模ながら、ある意味ではこたびの事件はそれらとは比べもの
にならない。おそらくこれは王朝が始まって以来、最大の危機なのです。主上
のためには、そう過たず理解している者が常におそばにいて、お支え申しあげ
る必要がありますぞ」
「その役目は冢宰が」
 そう抗弁しようとした朱衡を、白沢はいつになく強い調子で遮った。
「元逆臣の拙と御身とでは、重きがまったく違いましょう」
「古い話を……」
 朱衡は困惑した。見た目も実年齢も白沢のほうが上なのに、この真面目な冢
宰は、何百年経っても朱衡に丁寧な態度をくずさない。朱衡の視線に気づいた
白沢は苦く笑った。
「何も拙は、不必要に自分を卑下しているわけではありません。ただ、主上の
お心に添おうと心がけると、自然とそういう結論になるのです。それにこうい
うときだからこそ、少しの傷でも命取りとなりかねません。どうぞ御身を大切
に。不心得者になど決して足をすくわれませんよう。王を支える重臣がひとり
たりとも欠けないことが重要です。何かあれば、必ず拙めにご相談ください」

31永遠の行方「序(9/10)」:2008/01/26(土) 15:09:28
 不承不承うなずいた朱衡は、少し考えこんだあとでこう言った。
「これは大司寇としてではなく、あくまで個人として行ないたいのですが……。
景王にご助力をいただき、今しばらく主上の気を紛らわせていただけるようお
願いするわけにはいかないでしょうか」
「それはどういうことで? 確かに景王は、他国で今回の事件のあらましを知
る数少ないひとりとして、定期的に台輔のご容態を問い合わせてくださってい
ますが」
「はい。景王はもともと台輔とかなり親しくしておいででしたし、主上のこと
も尊敬しておられるかたです。なかなか事態が進展しないことで、あのかたも
焦れておいでということもあり、しばらく玄英宮にご滞在いただき、主上の話
相手なりとしていただければと。少なくとも官の変わりばえのしない顔を見る
より、多少は主上の気が紛れるのではないでしょうか。むろん慶には迷惑なこ
とでしょうから、あくまで拙官が私人として景王に打診することとして、お礼
も拙の私財からということで。こう申しては何ですが、慶の財政状況はいまだ
に厳しい様子。大国である雁との結びつき自体は歓迎されるはずですし、何ら
かの見返りがあれば、景王の金波宮でのお立場もそう悪くなることもないので
はと。それに今、雁に斃れてほしくはないはずですから、景王もいろいろと考
慮してくださるはずです。むろん勝手な言い草ですが、今はとにかく少しでも
時間を稼ぎたいのです」
「なるほど……」
「それから光州候に、現在の状況を伝える書簡を送りたいのですが。こちらも
私信扱いで」
「光州候に、ですか」
 白沢の含みのある相槌に、朱衡は力なく笑った。
「おそらく州城でやきもきしているでしょうし……。何しろ今回の事件が光州
で起きたため、決してあからさまに疎まれているわけではないにしろ、王宮で
の光州候の評判は芳しくありません。もとともと光州は二百年前の謀反の件も
ありますから、州候が変わっても、何かあった折には思い出されるのでしょう」

32永遠の行方「序(10/E)」:2008/01/26(土) 15:13:28
 そこまで言って朱衡は言葉を切ったが、白沢は何も気にするふうはなかった。
 確かに白沢の言い分は正しい。いったんついてしまった汚点は、当時を覚え
ている者がいるかぎり、なかなか拭いされるものではないのだ。普段は忘れさ
られているようでも、きっかけさえあれば容易に人々の口にのぼる。
「それに当初は主上ではなく光州候が狙われたと思われていたわけですし、候
がきちんと事態を収めなかったのが原因と思っている官も少なくないようです。
そのこともあって、下手に事態を混乱させないためにも彼がこちらに赴くこと
はできませんが、少なくとも現状を伝える書簡くらいは定期的に送ってやりた
いのです。かつての朋輩への情けと思っていただいてもかまいません」
「ああ、いや」白沢は両手を上げて、朱衡を押しとどめた。「何も拙は、大司
寇を責めているわけではありません。むろん光州候に責があると思っているわ
けでもありません。ただ、どうでしょうな。そのような書簡を受け取って、却
って候がますます自責の念に駆られるというようなことは」
「それはあるかもしれませんが、関弓から遠く離れた光州城で実質的に謹慎し
ている身では、何も知らされないままというのが一番つらいでしょう。それに
事件のお膝元の州を束ねている以上、何らかの情報なり打開策なりをもたらし
てくれないともかぎりません」
「ふうむ」白沢は顎をなでさすった。「確かにわれらとしては、こうなっては
藁をもつかみたいわけですが」
「景王にも光州候にも、公人として、大司寇として書簡を送るつもりはありま
せん。この事件はあくまで内々に収めなければならないのですから」
 白沢は朱衡をじっと見たまましばらく考えこんでいたが、やがて「わかりま
した。くれぐれも内密にお願いしますぞ。事は国家の一大事ですからな」とだ
け答えたのだった。

- 「序」章・終わり -

33永遠の行方「予兆(前書き)」:2008/02/11(月) 13:34:57
これからは時間を少し遡って、事件そのものを描いていきます。
「予兆」章は、まだ平穏な時期の六太やその周辺の様子を描きます。
登場人物は、鳴賢(主役)、六太、風漢、楽俊あたり。

ただしこの章は、主役が鳴賢というせいもあって、
冒頭からオリキャラてんこ盛りの捏造注意報が大々的に発令です。
もしかしなくても物語全体の中で、一番オリキャラ度が高いかも。
そもそも鳴賢自体、原作でほとんど描かれていないとあって、
実質的にオリキャラみたいなものだし。

物語の進行につれて、捏造度はさておきオリキャラ度は減っていくのですが、
苦手なかたはご注意ください。

34永遠の行方「予兆(1)」:2008/02/11(月) 13:38:03
 始まりはひそやかだった。
 その年の十二月、光州城から見て真北にある辺境の里で、一人暮らしの老人
が死んだ。症状から悪性の流行病(はやりやまい)の恐れもあったが、他に罹
患する者がなかったため重要な病気とは思われず、したがって官府に届けられ
ることもなく、近所の人々によって丁重に葬られた。
 年があらたまった一月、今度は北北東にある里で、若い夫婦と幼い娘が病に
かかって死んだ。発症してからわずか十日あまりの悲劇だった。里宰は不気味
な斑紋が皮膚に生じて高熱を出すという症状に警戒心を抱き、党に届け出た。
そこからさらに上に届け出が行き、しばらく経って県から念のためにと調査の
者が送られてきた。しかし他に患者が出たわけでもなく、特に変わったことは
何も起きていなかったとあって、付近で簡単な聞き取りをしただけで早々に引
き上げていった。

「ったく、男だろ、敬之(けいし)! 押せ! 押しておしまくれ!」
 物陰から様子を窺っていた鳴賢たちは、先ほどからやきもきし通しだった。
玄度(げんたく)は拳を握りしめては意味もなく振りまわし、傍らの六太も
「ああ、もう!」と頭巾をかきむしりながら、共通の友人のふがいなさに頭を
かかえている。もっとも鼠姿の楽俊だけは、そんな彼らと途の向こうとに交互
に視線を向けながら、困ったように髭をさわさわさせ、ひっきりなしにしっぽ
を上下させているだけだ。
 目の前の途を挟んだ向こうには、立派なたたずまいの小間物屋があった。一
口に小間物屋と言っても、ここは装身具を中心に女性が使う身の回りの種々雑
多な品を手広く扱っている店である。そのため華やかな雰囲気で、当然ながら
客層は女ばかりだ。
 その店先で学生らしい痩身の青年が、売り子である十五、六の娘に懸命に話
しかけていた。客足が途切れた合間を狙ったため、目当ての娘にすんなり応対
してもらえたところまではいいが、目的は恋文を渡すことだったはず。しかし
ながら様子を窺っているかぎりでは、妹に似合う手頃な簪を探しにきたという
口実から脱せられていないようだ。娘が幾度か品物を見せては青年が迷い、や
がて首を振るのを繰り返している。

35永遠の行方「予兆(2)」:2008/02/11(月) 13:40:06
「だめだ、このままだといつもの流れだ……」
 鳴賢ががっくり肩を落とすと、玄度が「仕方がない、加勢に行くか」と言っ
た。六太がやけに気合いの入った声で拳を突きあげ、「おーっ」と応じる。
「えっと。そのう、おいらも……?」
 無理やり連れてこられた楽俊が、おずおずと三人を見回すと、鳴賢が「当然
だろ」と言った。玄度がうんうんとうなずく。
「おまえや六太がいると、男嫌いの阿紫(あし)でも受けが良くなるんだよ。
ま、倩霞(せんか)もだけどな。ほら、女ってのは子供や動物が好きだから」
 大学一の俊才をつかまえて、傲然と「動物」と言いはなつ玄度。悪気がまっ
たくないのだけが救いだ。六太は腕を組んで唸ったが、別に玄度の言葉に不快
になったわけではなく、まったく別のことを考えていた。
「やっぱりあれかなあ。阿紫くらいの年頃だと、男嫌いなのはけっこういるっ
て聞くし、単にそれじゃねえか? あの娘の場合は他に好いた相手がいるわけ
じゃなさそうだから、ここは紳士的に楽しくおしゃべりしながら徐々にうちと
けてって、男は恐くないんだってわかってもらえれば何とかなりそうな気がす
る。敬之は穏やかなたちだし、顔も悪くない。成績だってそれなりなんだろ?
年頃の娘に対する訴えかけとしちゃ、そこそこ行きそうな感じだしさ」
 十三歳の少年とは思えないほどませた口調だが、鳴賢たちはとうにそんな六
太に慣れてしまっているから、普段は何とも思わない。しかしこのような恋愛
沙汰についてとなると、さすがに苦笑せざるを得なかった。
 やがて彼らは一団となって途を横切ると、偶然を装って友人に声をかけた。
「敬之じゃないか。こんなとこでどうしたんだ?」
「よ、よう、鳴賢」
 普段は落ち着いている友人が、このときばかりはうろたえているのをおかし
く思う。売り子の娘を見た鳴賢は、わざとらしく驚いた顔をしてから、ぽんと
手をたたいた。
「あー、そうか。おまえ、阿紫のことを気に入ってたんだよな。それでかぁ」
「え……」
 今度は娘が目を白黒させた。しかし華奢で可愛らしい感じの娘が、頬を染め
るのならまだしも嫌そうに眉をひそめたので、鳴賢たちもさすがに「あ、まず
い」と焦った。ここで強引に話を進めると、却って拒まれてしまいかねない。

36永遠の行方「予兆(3)」:2008/02/11(月) 13:43:47
「ええと……。あ、そうだ。倩霞さん、いる?」
「いらっしゃいますけど。何かご用でも?」
 冷たい声に硬い表情。うちの美人のご主人に何の用よ、とでも言いたげな目
つきである。鳴賢は話をそらそうと懸命になった。
「前に話してもらった匂い袋、うちの大学の女学生もけっこう興味を引かれた
らしくてさ。手持ちの佩玉と一緒に帯につけられるような、洒落た匂い袋をい
くつかほしいって言ってた。この店を紹介しておいたから、もし来たらいろい
ろ便宜を図ってくれると嬉しいな、なんて」
 口からでまかせというわけではない。しかしそもそもここにいる面々で女学
生と親しく話した者はいないから、かなり誇張した内容ではあった。良家出身
の女学生が洒落た匂い袋を欲しがっていたのは本当だが、鳴賢が教えるまでも
なく彼女らはこの店のことを知っていたし、鳴賢は通りすがりに、そんな女同
士のにぎやかな雑談を小耳に挟んだだけだったのだから。
「そうですか……」
「それはどうもありがとうございます」
 おざなりに応えた阿紫の声にかぶさるようにして、凛として華やいだ声があ
たりに響いた。驚いた彼らが声の出所である店の奥に目を向けると、そこから
この店の若い女主人である倩霞が、別の娘をしたがえて出てくるところだった。
 豊かな髪を高々と結いあげて花を飾り、裾も袖もたっぷりとした美麗な衣装
に身を包んでいる。首元を飾る見事な連珠も、美しい倩霞によく似合っていた。
せいぜい二十二、三にしか見えないのに押し出しは立派で、見事な女主人ぶり
だった。そもそも大学で女学生たちがこの店のことを噂していたのは、むろん
扱っている品の趣味の良さもあるが、何よりも女主人の美貌が話題になってい
たのだ。どうも同じ買うのでも、小綺麗で小洒落た店で美しい女主人や可愛い
売り子ににこにこと応対されながら、気持ちよく買いたいということらしい。
「せっかくですから、奥でお茶でもいかが? 阿紫、皆さまをご案内して。ち
ょうどお客さまも途切れたようだし、おまえも疲れたでしょう。一緒に少し休
みなさい。そうね、蔡士堂(さいしどう)のお菓子をお出しして。郁芳(いく
ほう)、しばらく阿紫と代わっておあげ」
 何となくどぎまぎしてしまった鳴賢たちを尻目に、倩霞は娘たちにてきぱき
と命じた。

37永遠の行方「予兆(4)」:2008/02/11(月) 13:46:07
「はい、倩霞さま」
 先ほどまでの不快な表情はどこへやら、阿紫はにこやかに主人に応えた。美
しく優しい女主人に、すっかり心酔しているふうである。
 年頃の娘が美貌で凛とした年上の女性に憧れること自体はめずらしくはない
が、阿紫の場合は少々事情が違うことを鳴賢たちは知っている。まだ幼い頃、
浮民だった両親を亡くして乞食のような生活を送っていたところを倩霞に引き
取られたので、彼女にとっての倩霞は大げさでも何でもなく命の恩人なのだ。
男が苦手なのも、むろん六太が言ったような原因も考えられるが、もしかした
ら浮民暮らしの中で両親ともども荒くれ男たちに嫌な思いをさせられた経験で
もあるのかもしれない。そこまでいかずとも、たとえば汚い格好で商店の前で
たむろしていたところを店主にどやされたということならありうる話だ。
 豊かな雁に生まれ、実家も富裕な鳴賢にはどうしても実感できないことでは
あるが、浮民たちの厳しい生活についての漠然とした知識ならある。王が道を
失ったり失政をして荒れた国から流れてきた荒民を見たこともあるから、「大
変そうだな」と感じたこともある。
 もっとも彼らのせいで雁の治安が脅かされている面があるため、真剣に同情
したわけではない。むしろ鳴賢の大ざっぱな認識の中ではあくまで他人事であ
り、別の世界の厄介な連中というくくりでしかなかった。阿紫のように働き者
で可愛い娘に成長したというのでもなければ、本当の意味で興味をいだくこと
もないだろう。
「とにかくここは少しでも親しくなっておくことだ。顔なじみ以上になっちま
えば、何とでも理由をつけて会いに来られるからな」鳴賢は敬之に耳打ちして
から、他の面々にもささやいた。「みんな、今日は大人しく、あくまでも紳士
的に振る舞うんだぞ」
「よし。わかった」
 玄度もしっかりとうなずく。彼のほうは倩霞狙いだったから、似たような下
心を持っている鳴賢とは相容れない部分はあるものの、何しろ今のところはど
ちらも、異性としてはまったく相手にされていない。ここは足を引っ張りあう
より、協力して顔を売っておくほうが得策だった。

38永遠の行方「予兆(5)」:2008/02/11(月) 13:48:12
 店の奥の居室に案内された彼らは、勧められるままに榻に身を落ち着けた。
倩霞が手ずから茶を入れて客たちに振る舞う。高価そうな菓子も出されたが、
六太や楽俊はともかく、下心満載の他の三人に美味を味わう余裕があったかど
うか。
 倩霞は綺麗な端切れを見せた上で、これなら女学生たちが欲しがるだろうか
ら、いろいろな香を調合して匂い袋を作ってみるつもりだと言った。むろん先
ほどの鳴賢の方便を信じているのだ。とはいえ女学生がこの店の噂をしていた
のは事実だし、いずれ本当に匂い袋を買いに来る者もいると思われるから、あ
あ言ったことで彼女に迷惑がかかることはないだろう。
「そういうのもどっかから仕入れてるわけじゃなくて、全部ここで作ってんだ?
もしかして巾着や扇子なんかも、倩霞たちで作ってんのか?」
 六太が感心したように言った。鳴賢たちが緊張と下心とで固くなっている中、
六太については口調も態度もいつも通りだ。茶と美味な菓子のおかげでくつろ
いだというわけでもなかろうし、もっと小さな子供と違って粗雑な態度を大目
に見られるはずもないが、その意味ではこの少年はいつも堂々として強心臓だ
った。
 しかし倩霞は不快になる様子はなく、楽しそうにころころと笑った。六太の
反応に作為がなく、素直な感想を口にした以上のことは感じられなかったから
かもしれない。
「扇子はさすがに無理よ。簪や佩玉などもね。ああいうのはきちんと工房や職
人から仕入れます。でも郁芳はお針子だし、わたしも香の調合くらいはできる
し、巾着や匂い袋くらいなら自分たちで作れるわ」
「へえー。倩霞ってあんまりそういう感じはしないのにな。いいとこのお嬢さ
んって雰囲気だし、手を使う仕事はしないのかと思ってた」
「あらあら。喜んでいいのかしら、悲しんでいいのかしら」
 楽しそうに会話するふたりを前に、うまく話に加わるきっかけをつかめない
鳴賢と玄度は内心で歯がみするばかりだ。
 もともと倩霞は、言い寄ってくる男たちにはつれない女性だった。それに卒
業して官吏になれたのならまだしも、鳴賢たちはまだ将来がどう転ぶかわから
ない学生の身。それでも大学生であるというだけで、普通はそこそこの目を向
けてもらえるものだが、これだけ立派な店を構えている妙齢の美女を口説くに
は、充分な条件とは言えない。

39永遠の行方「予兆(6)」:2008/02/11(月) 13:50:16
 そもそもこうして話しかけてもらえるようになったのは、六太と楽俊のおか
げだった。あるとき、たまたま鳴賢がふたりを伴って店に行ったとき、倩霞は
まず半獣と実際に話すのは初めてだと言って楽俊を物珍しがり、ついでこまっ
しゃくれた感じの六太に興味を引かれたらしく自分からいろいろ話しかけてき
たからだ。鳴賢や玄度が、倩霞とまともに言葉を交わしたのはそのときが初め
てだったが、一筋の光明が見えた気がしたものだ。
 とはいえそれから何度かこの店を訪れたものの、倩霞はあまり体が丈夫では
ないらしく滅多に姿を見せなかった。だからこうして店の奥に通されてお茶を
ふるまわれるなど奇跡も同然で、いよいよ希望が見えたかと思ったものだが、
そううまくことは運ばないらしい。
 もっとも玄度はともかく鳴賢は、本当に倩霞を好きかと問われれば答えられ
なかっただろう。恋人だと思っていた幼なじみの娘が、さっさと結婚してしま
ってからずいぶん経つ。いいかげんで次の恋に踏み出さなければと自分を叱咤
していたところに、大学の悪友が何人も倩霞に懸想していると知って、自分ま
で何となくその雰囲気に影響されてしまったというのが本当のところかもしれ
ない。
 それに鳴賢がこの店を知ったのは以前、たまには幼なじみの娘に何か贈って
やろうかと思いたち、あちこちの店で品物を見繕っていたときだった。結局、
そのまま何も贈ることはなかったのだが、この店にはそういう記憶が付随して
いるだけに、手放しで倩霞への恋にのめり込める気はしなかった。もっともそ
のことも、女々しい自分を叱咤する原因のひとつではあったのだが……。
 六太は倩霞と楽しそうに喋っている。いくらなんでもこの年の差で恋だの何
だのという方向に発展することはなかろうが、六太としても綺麗な女性に親切
にされること自体は嫌ではないはずだ。そう考えると、少し複雑な気分になる
鳴賢だった。
 ふと、失恋して思いがけずこの少年に慰められたときのことが脳裏に蘇る。
そういえば六太も以前、苦しい恋をしていたのだっけ。
 あのときの恋は吹っ切れたのだろうかと何となく考えた鳴賢は同時に、その
恋が年上の女性に向けたものかもしれないと想像したことも思い出していた。

40永遠の行方「予兆(7)」:2008/02/11(月) 13:52:28
万が一その想像が当たっていたら、六太が今度は倩霞に懸想することもありう
る。しかしさすがに相手にはされないだろうと考えると、普段は元気な少年で
あるだけに、六太がしおれてしまうさまを想像して心が痛んだ。どうせなら自
分の年齢に近しい相手を好きになってくれればいいのに。
 そこまで考えたところで、鳴賢は初めて少し引っかかりを覚えた。
 ――六太は十三歳。
 年齢を知ったのは、確か出会ってまもなくの頃だった。十三歳にしては少し
小さい感じだが、体格などは個人差が大きいし、男というものは十代も後半に
なってからぐんと背が伸びたりもするものだ。今、小柄であること自体はおか
しくもなんともない。
 だが。
 玉麗が結婚したのは何年前だ? 楽俊が入学したのは? 大学寮の楽俊の房
間で、鳴賢が初めて六太に会ったのは何年前だった?
 ――あまりにも変わらなさすぎないか……?
 大学という環境は成人ばかりだし、ある意味で隔絶された社会だから、鳴賢
の日常は六太のような年頃の少年や少女とあまり接する機会はない。だから気
にならなかったし、気づかなかった。しかし少し考えてみれば、六太が今でも
十三歳のままであるはずはないのに、多少なりとも成長したようには見えなか
った。
 それで言えば倩霞も数年前から変わらないように見えるが、実のところ鳴賢
に異性の年齢はよくわからない。それに女性は髪型や化粧でがらりと印象が変
わるものだ。何しろ花娘などは夜と昼でさえ見目が変わるのだから、男にとっ
て女は可愛い化け物だ。また、美しいともてはやされる女性はその美貌を保つ
ために影ながら努力しているだろうから、そんな倩霞と六太を比べても意味は
ない。
 しかしたとえば、倩霞に引き取られた頃の阿紫は六太より幼かったはずだ。
その彼女が年頃になったというのに、六太だけは出会った頃とまったく変わら
ないように見える。変わらないというより――。
 ――時が止まっている。
 まさか、と思った鳴賢の鼓動が早くなった。

- 続く -

41永遠の行方「予兆(8)」:2008/02/16(土) 20:59:07
 そんな彼の心中をよそに、六太は倩霞とにこやかに談笑を続けている。いつ
の間にか話に加わったらしい楽俊も耳の後ろをかきながら、「おいらは別に信
じちゃいねえけど、そういう遊びがあるってのは知ってるから――」などと、
のんびりした様子で倩霞と話していた。
 そういえばもともと六太は楽俊の知り合いだ。ということは楽俊なら本当の
ところを知っているのではないだろうか。
「そう、ただのお遊び。でもこういうのって何となく楽しいものよ。だから、
せっかく来てくれたことだし、坊やには特別に」
 倩霞は六太にそう言うなり、傍らに控えていた阿紫に何やら手真似で指示し
た。阿紫は房室の隅の小卓の上にあった小物入れから、封をした薄い書簡のよ
うなものを取り出して主人に渡し、倩霞はそれをさらに六太に渡した。
「今、開いてはだめよ。これは時機が大切なの。いずれ坊やが本当に困ったと
きに開ければ、きっと助けになる言葉が紙片に浮き出ることでしょう。ただし
時機を失すると効力がなくなるから注意してね」
 すっかり自分の物思いに没頭していた鳴賢は、話の流れがまったくわからず
にぽかんとした。それに気づいたのだろう、倩霞は苦笑いのような表情になっ
た。
「そんなに呆れた顔で見ないでちょうだいな。そりゃあ、お偉い仙人が施すよ
うな呪とは違うけれど、こういう庶民的なまじないも、時にはほのぼのとした
感じになれていいものよ」
「ああ。せっかくだからもらっておくよ」
 六太は嬉しそうに答えると、その薄っぺらいものを懐にしまった。うまい食
べ物でもないし、綺麗な装飾品でもない。小さくて薄い、ただの封書。しかし
六太は他人から何か贈られると、気遣いからなのか、傍目にはどんなにつまら
ないものに見えても、必ず嬉しそうな顔をした。
 鳴賢の隣から、玄度が慌てて口を出した。
「お、俺は呆れてなんかないです。開いたときに浮き出てくる文言って、きっ
と倩霞さんの手跡なんでしょう? なら、ぜひ俺もほしいです」
 しかし倩霞は笑って首を振った。

42永遠の行方「予兆(9)」:2008/02/16(土) 21:02:40
「あなたは大人でしょう。これはいわば女子供のお遊びなの。子供の頃は、ど
んなつまらないことでも誰かに助言してもらえると心強いものよ。だからさっ
きの紙片はその代わり。困ったときにあれを見たこちらの坊やが、少しでも勇
気づけられるように。でも大人になったら何事も自分で解決しなければね」
 がっくりとうなだれた玄度は放っておき、鳴賢はずっと大人しく座っている
敬之の腕をこっそりつついた。また楽しそうに談笑を始めた倩霞たちをよそに、
小声で問う。
「六太がもらったあれ、何だ?」
「まじないだって。本当に困ったときに開くと、その苦境を脱する方法を暗示
する言葉が浮き出るんだとか。もっとも、どうせあらかじめ適当なことが書い
てあるんじゃないかとは思うけど」
「へえ。それじゃ確かにお遊びだな」
「でもきっと倩霞の手跡に決まってる。だったら俺もほしいのに。くそう」
 玄度がくやしそうに言った。隙を見て、六太がもらった封書を奪い取りそう
な雰囲気である。
 それに気づいていたのだろう、やがて阿紫が体の弱い女主人を気遣って「そ
ろそろお休みなさいませんと」と言ったのをきっかけに鳴賢たちがその場を辞
した際、倩霞は結局、六太に渡したのと同じような封書を玄度にもくれた。
「坊やにあげたものを、大の大人が取りあげてはだめよ」と笑いながら。
 しかし辛抱のできない玄度は、店の前から離れるなり封を開いてしまった。
もっとも香を焚きしめた上質の料紙には、いくら目を皿のようにして見ても何
も書かれていなかったので、玄度はまたうなだれてしまった。
「倩霞は時機が大事だとか言ってたよな。困ったときに開けなかったからじゃ
ないか?」
「本当にお遊びなら、もともと何も書かれていないってこともあるしな。ある
いは護符として持っているだけで、実際は開けることを前提としていないもの
なのかも」
 鳴賢と敬之はそう言って慰めたが、懲りない玄度は物欲しそうな顔で六太を
見た。六太はにやりと笑った。
「せっかくくれたんだから、お遊びにしろ相手に調子を合わせてやらなきゃ悪
いってもんだろう。俺はちゃんとこのまま取っておくことにする」

43永遠の行方「予兆(10)」:2008/02/16(土) 21:06:40
「そんなあ」
「次に来たときに、それをネタにでもしろよ。そうやってまた話のきっかけを
つかんで親しくなればいいだろ。倩霞みたいなのは、言い寄ってくる男をのら
りくらりとかわして手強そうだし、長期戦を覚悟して真面目に口説くんだな。
何でもそうだが、急いては事をし損じるぞ」
「ほう。おまえがそこまで女の扱いに詳しいとは知らなかった」
 年上に偉そうに助言した六太に、聞き覚えのある笑い含みの声がかけられた。
振り向いた鳴賢たちの前に、彼らと同年輩の男がひとり立っていた。
「風漢……」
「おう。なんだ、おまえたち、あそこの主人だか使用人だかに懸想しているの
か? 確かにさっき出てきたのはなかなかの美人だったが」
 顎をしゃくって、先ほど彼らが辞去してきた小間物屋を示す。
 鳴賢たちは風漢が六太の身内らしいこと以外は、何を生業にしているのかも
知らなかった。だが色街でよく見かけるから女遊びが盛んな男であることだけ
は確かだ。しかも遊び上手でそこそこ見栄えがするとあって、女たちの受けも
良い。その彼に倩霞に興味を持たれてはたまらないと思ったのだろう、玄度は
あからさまに警戒の目を向けて「おまえには関係ないだろうが」と言った。
 だが風漢は気にする素振りもなく、おもしろそうに笑っただけだ。今もそう
だが、割合に高価そうな装束を身につけていることも多いから、そこそこの家
の出なのだろう。その割にはざっくばらんで親しみやすいし、かと思えば妙に
飄々としてつかみどころのない男ではあった。
「そうつんけんするな、玄度。少なくとも女の前では余裕のあるところを見せ
ろ。さもないと、器の小さい男だと思われて損をするぞ。大抵の女は懐の大き
な男が好きだからな」
「で、おまえはそれを実践して女を口説いてきたのか? それともこれから口
説きに行くところか?」
 腕組みをした六太が、呆れたように口を挟む。風漢は片眉を上げるとにやり
とした。
「これからだ。何しろおまえがおらんと、小言が全部こちらに来てうるさくて
かなわん。それで抜け出してきたばかりなものでな」

44永遠の行方「予兆(11)」:2008/02/16(土) 21:09:25
「ったく、またかよ」
「そういうわけでおまえはそろそろ帰れ。少なくともどちらかひとりいれば、
あいつらも大目に見てくれる」
 六太は処置なしといったふうに天を振り仰いだ。そうしてから鳴賢たちに、
「なんか家の連中がうるさく言っているみたいだし、仕方ねえから帰るわ。ま
たな、敬之。次に会うときは阿紫とどうなったか、戦果を報告してくれよな」
と言って、途の向こうにすたすたと歩き去っていった。それを見た風漢も「で
はな」と言うなり、さっさと別の方向に歩み去る。おそらくまた色街にでも行
くのだろう。
「俺たちも寮に帰るか。何だか飲みたい気分だが、明日の藩老師の講義のこと
もあるし」
「そうだね。老師の一問一答はいつも厳しいから」
 そんな言葉を交わして歩き出した玄度と敬之に、楽俊もほたほたとついて行
こうとした。しかし鳴賢は後ろから彼の首根っこをつかんで乱暴に引き留めた。
「あわっ、わっ、鳴賢……?」
「俺、ちょっと文張と話があるからさ、おまえら先に帰っててくれよ」
 そう言って怪訝そうな玄度たちを先に帰し、途の隅に楽俊を強引に引っ張っ
て連れていく。そうして往来を行く人々の誰からも話を聞かれないと思える場
所まで行くと、単刀直入に「六太のことで聞きたいことがあるんだけど」と話
を切りだした。今の彼には倩霞のことより、六太に関する疑問を解くことが先
決だった。
「たい――六太、さんのことで?」
 楽俊はひっきりなしにひげをぴょこぴょこ動かした。今さっき後ろからいき
なり首根っこを掴まれたせいかもしれないが、かなり動揺している証拠だ。
「そういえばおまえ、いつも六太や風漢をさんづけで呼ぶよな」
「だからおいらはあのおふたりには恩があるんだって。前にも言ったろ」
「ああ。何の恩かは教えてもらえなかったけどな」
「それを言うわけにはいかねえんだ。いつもよくしてくれる鳴賢にはすまねえ
が……」

45永遠の行方「予兆(12)」:2008/02/16(土) 21:12:37
「いや、今はそんなことを聞きたいんじゃないんだ。今まで気づかなかった俺
も迂闊だったが、六太は会ったときから全然変わってないなと思って。逆算す
ると、どう考えても十六、七にはなってるはずなのにさ」
 楽俊がぎくりとなった。人型であれば誤魔化せたかもしれないが、ひげやし
っぽの動きで心中が丸わかりの今は、いくら鳴賢が注意力散漫だったとしても、
相手の動揺に気づかずにいることは不可能だったろう。
 鳴賢が黙って見ていると、楽俊はしきりにひげをそよがせて耳をぴくぴく動
かしている。長いしっぽも動揺を暗示して、左右に激しく振れている。
 やはりこいつは何か知っているんだ、そう思った鳴賢は思い切って口に出し
てみた。
「まさか……六太は仙か?」
 すると予想外なことに、楽俊は思い切りよく、対等の友人であるはずの鳴賢
にがばっと頭を下げた。
「鳴賢、すまねえ。おいらには何も言えねえ」
「あ……。いや……」
 深々と頭を下げられて、さすがに鳴賢もあわてた。だがその反面、自分の推
測が正しかったことを確信して愕然となった。
 頭を下げたままの楽俊を前にしばらく立ちつくしていた鳴賢は、必死に考え
を巡らせた。
「……官吏の子弟なら、身内が昇仙すると一緒に仙になることがあるよな」
 楽俊が何も答えないので、鳴賢は考えをまとめるために、推測を口に出して
ぶつぶつつぶやいた。足元の地面を意味もなく沓の先でつつき、いたずらに弧
を描く。
「普通はある程度の年齢に達するまで、親は子供を仙籍には入れないものだよ
な。でもそうではない親もいて、幼くても仙籍に入れられる子供もまれにいる
って聞くから、もしかして六太もそれか? でも前に六太は、自分を孤児みた
いなものだと言っていたことがあったんだよな……」
 とはいえ本当の肉親というのではなく、単に身よりのない六太を引き取った
のが高官という可能性もあった。先ほどの六太と風漢の話を考え合わせると、
風漢はその高官にでも仕えていて、だから六太と親しいのかもしれない。

46永遠の行方「予兆(13)」:2008/02/16(土) 21:15:43
 いずれにしろ六太が仙籍に入っているなら見かけ通りの年齢ではない。なら
ばあの知識量や見事な筆跡にも納得できるというものだが、それなら実際の年
齢はいくつなのだろうと疑問に思う鳴賢だった。
「なあ……。まさか六太が俺より年上ってことはないよな?」
 楽俊は相変わらず頭を下げたまま答えない。それはいっさい言うつもりはな
いとの無言の訴えに他ならない。鳴賢は楽俊を困らせるのは本意ではなかった
し、六太のことも好きだったから、今この場で追求するのはやめようと思った。
 神仙は雲の上の人々だから、普段は一般の民が明確に意識することはない。
そもそも自分たちとは住む世界が違うと思っているからだ。しかし目の前に年
端もいかない少年がいて、実際に彼が不老不死の仙だと知れば妬みもそねみも
するだろう。六太が滅多に自分のことを語らないのはそのせいかもしれない。
 だがもし鳴賢が以前と変わらずに普通に接するとわかれば、六太も素性を明
らかにしてくれるのではないだろうか。それに成績で苦労しているとはいえ、
大学生の鳴賢は官位に実際に手が届くところまで来ている。高級官吏になれば
昇仙し、神仙の仲間入りを果たすことになるのだから、それを目指している学
生が相手なら、一般の民よりは六太も気兼ねしなくてすむはずだ。
「何にしても深い事情がありそうだな。六太だって大人になりたいだろうに」
 そう、何か事情がある。鳴賢は確信した。なぜならしばらく仙籍から抜いて
もらえれば順当に成長するのだし、そうすれば六太も年頃になり、年上の女性
との恋に悩むこともなくなると思われるからだ。普段は悪戯めいた悪ガキの表
情だからそうは思わないが、よく見ると六太は綺麗な顔立ちをしている。あと
何歳かでも年を取れば、おそらく若い娘が放っておかないだろう。なのに相変
わらず幼いまま仙籍にあるのは、深い事情があるとしか思えない。
 それとも一時的に仙籍を抜けるのは、官吏の子弟であってもそう簡単ではな
いのだろうか。
「――ああ、そうか。仙籍に入ったり抜けたりするのも主上の裁可次第だから、
御璽が必要なんだよな。一官吏の子弟で、そんなことに主上のお手を煩わせる
のは不敬ってことなのかもしれないな。でもそれはそれで可哀想な話だよなあ
……」
 鳴賢はそうひとりごちたが、楽俊は相変わらず無言のままだった。

- 続く -

47永遠の行方「予兆(14)」:2008/03/23(日) 21:58:41

 毎月一回、光州の里や廬で原因不明の病による死者が出る。それは北の廬に
始まり、ちょうど州都を中心に右回りに少しずつ移動しながら発生していたが、
そんな事態に気づいた者は少なかった。
 ただし府第では、むろん届け出のあった場合に限られたが、点々と罹患地が
移動していっているように見えたため警戒はしていた。何百年もの間安定して
いた雁は、そういった官の仕組み自体は整っている。
 これが春や秋などの、人々が里や廬を移動する時期のことであれば、民とと
もに罹患地が移動しても不思議はない。しかしこの病についてはそういうわけ
でもないようだった。不審を覚えた官吏が簡単に調査したこともあったが、特
に人の出入りのない廬でも発生していることがわかり、いっそう困惑を深めた
だけだった。
 王が健在であっても流行病は起きるものだ。ただ自然災害が少ない上にしも
じもまで生活が安定し、社会の基盤も整っているから、乱れた国より予防も対
処もしやすく、結果的に大事に至らないにすぎない。したがって今回の病が真
に流行病かどうかはさておき、不気味な症状と相まって警戒をいだかせたのは
当然だった。
 担当の官吏はここ数ヶ月間の報告書に新たな付記をつけ、引き続き警戒の要
ありとして注意を喚起した。

 あれから何度か六太と会う機会はあったが、何も気づいていない他の友人た
ちと一緒だったこともあり、鳴賢は何となく、当人に仙かどうかを尋ねるきっ
かけをつかめないままだった。あらためて考えるまでもなく、尋ねてどうする
のだ、という根本的な疑問もある。
 第一、官吏を目指している鳴賢にすれば、一般の民と異なり、仙であること
自体は既にそう特別なものではない。それゆえ六太自身が積極的に自分のこと
を明らかにしようとしていないのに、あえて問うこともなかろうという気持ち
もあった。何より気づいた当初はともかく、しばらく六太と顔を合わせない日
々が続いたあとは、既に他人の私事に首を突っ込むのは面倒くさいという気持
ちになっていたことも大きい。もともとそういう細かいことに長く気を取られ
るたちではないのだ。

48永遠の行方「予兆(15)」:2008/03/23(日) 22:01:04
 ただ、仙になるとどうなるのかという感覚的なものについてはいくら考えて
もわからないので、以前からそういうことを親しい相手に聞きたいとは思って
いた。友達同士の雑談のような内容で、老師に根ほり葉ほり尋ねるわけにはい
かないからだ。なので機会さえあれば、それとなく六太に話を向けて聞き出し
たいものではあった。
 もし六太が官吏だったら、官吏生活についても尋ねて参考にしたいところだ。
しかし身内の昇仙によって仙になったのだろう六太の場合、鳴賢の興味を引く
話題を持ってはいないだろう。むろん六太の身内が高位の官なら、今のうちに
理由をつけて家に遊びにでも行って、顔をつないでおきたいところではあるが
……。
「えっ、今日は花巻(はなまき)残ってないの」
 夕刻近くという半端な時間とあって、大学寮の飯堂は人もまばらだ。そんな
中、久しぶりに楽俊を訪ねて来ていた六太は、好物の蒸し饅頭がなくなってし
まったことに至極残念そうな顔をした。仙ということはもしかしたら二十歳を
超えているかもしれないのに、こういうときの六太は仕草といい表情といい、
やはり子供にしか見えない。
「すまないねえ。ぼうやが来るってわかっていたら、ひとつくらい取っておい
たんだけど」賄い婦として働いている楽俊の母が、困ったように、だがにこや
かに答えた。「夜まで待てるんなら作ってあげたいところだけど、何しろもう
粉がほとんどなくなっちまったんで、これから買い出しに行くところなんだよ。
いつもみたいに届けてもらうまでもたないし、ちょうど夕餉の仕込みも終わっ
たからね。でもおやつにするんなら、糕(こう)ならまだあるから、蒸しなお
してあげようか?」
「ううん、俺、おばちゃんの花巻が好きなんだ。見た目も綺麗だし、ふわふわ
しててほんのり甘くて、あれだけ食ってもすごくうまいし。でもちょうどいい
や。買い出しに行くんなら付きあうよ。荷物持ちに」
 すると傍で聞いていた楽俊のひげが、あわてたようにぴんと立った。
「母ちゃんの買い出しにはおいらが付き添いますんで、その」

49永遠の行方「予兆(16)」:2008/03/23(日) 22:04:58
「いいじゃねーか、荷物持ちが多いぶんには」
 六太はそう言って、楽俊を気安くどついた。母親のほうは六太と気安くお喋
りしても、六太に恩があるという楽俊のほうは常に丁寧語で話す。いつもなが
らその落差が鳴賢にはおかしくもあった。
「おばちゃん、すぐ出る? 俺、外で待ってようか? あ、鳴賢も来る? 荷
物持ちに」
「ああ、いいぜ。ちょうど散歩がてら、その辺を歩いて来ようかと思ってたと
ころだ。少なくともおまえらよりは戦力になるだろうしな」
 鳴賢がにやりとして答えると、六太も笑いながら「あー、言ったな」と、手
を伸ばして彼の胸を軽く叩いた。
「あら、みんなすまないわね。これじゃあ粉を買ってきたら、さっそく花巻を
作ってふるまわないと」
「やった! おばちゃん、話せるぅ!」
 六太は手を叩いて喜び、鳴賢たちを急かして外に出たのだった。

 鳴賢には逆立ちしても真似できないことだが、ある種の女たちは新しくやっ
てきた街にすぐ溶けこんでしまうものだ。しかもどこそこの店の醤(ひしお)
は安くておいしいとか、あの舎館の女将は親切で頼りになるがいったん機嫌を
損ねると大変だとか、どうやって情報を収集するのだろうと思うくらい、妙に
細かいところに詳しい。
 楽俊の母もこの手合いのようで、決して無駄話をべらべらと喋る女人ではな
いために長らく気づかなかったものの、やがてふとした拍子に「あの界隈に行
くなら、春香楼の妓女にはたちが悪いのがいるらしいから気をおつけよ」だの、
「外に食べに出るんなら、昇陽亭の割包がおいしいらしいね」といったことを
さりげなく教えてくれるようになった。楽俊はもちろん関弓での暮らしが長い
鳴賢よりも、既にいろいろなことを知っているように思われた。
 もっとも大学寮の飯堂にはさまざまな店が品物を納めにくるから、その関係
であちこちの噂が耳に入りやすいだけかもしれない。

- 続く -

50永遠の行方「予兆(17)」:2008/04/27(日) 12:03:18
 いずれにせよ、一同が最初に粉屋に行って小麦粉の小袋を買い、残りは届け
てもらうよう算段していたところに、隣の豆腐屋やら薬問屋やらの奉公人から
親しげな声がいくつもかかったところを見ると、少なくとも楽俊の母が円満な
人間関係をそこそこ広く築いているのは確かだった。
 以前ちらっと聞いたところによると、楽俊を少学に入れるために田畑を売り
払ってしまったという話だから、息子ともどもこのまま雁で、もしかしたらず
っと関弓で暮らすつもりなのかもしれない。
 巧は半獣に冷たい国だし、これほど気だての良い働き者の女人が好んでひと
りで苦労することもないだろうから、雁で暮らすことは良いというよりも当然
の考えだと鳴賢などは思うのだった。彼がそんなふうに簡単に考えてしまえる
のはおそらく、豊かな雁の民にとって、故国を捨てる悩みも葛藤も無縁のもの
だからだろう。
「花椒(かしょう)のいいのが入ったんだよ。それと粗塩も仕入れてね。安く
しとくからどうだい?」
「せっかくだけど、花椒も塩もまだあるから。――ああ、それより学生さんた
ちの健康を考えて、たまには本格的に薬膳でも作ってみようかと思うんだけど、
いい献立を知ってる?」
「ほ、薬膳とね? そうだなあ。だがあまりきっちりと作るより、まずは何か
一品、汁とかあえ物を、さりげなく添えるところから始めてみたらどうだね?
 そのほうが気軽で食べやすいし、天候に合わせて献立を調整するのも楽だよ」
「ああ、それもそうね。豆鼓(とうち)がまだたくさんあるから、今度あれを
使って――」そう言いかけて待っている息子たちの顔に気づき、話を切り上げ
にかかる。「――でもまあ今日は、粉屋さんのところに、切らした粉を買いに
きただけだから。その話はまた今度伺うことにするわ」
 すると六太が、「おばちゃん、俺たちのことなら気にしなくていいぜ」と口
を挟んだ。
「何なら荷物を持って、先に寮に戻ってるし」
「あらやだ。ぼうやたちにそんなことはさせられませんよ。それに早く帰って
花巻を作らなきゃ」

51永遠の行方「予兆(18)」:2008/04/27(日) 12:05:38
「いいって、いいって。だいたい俺たち、最初から荷物持ちに来たんだぜ? 
それにおばちゃんがいい献立を教えてもらえたら、俺もまたご馳走になるつも
りだし。鳴賢もいいよな?」
「ああ、別に構わないぜ。どうせ散歩がてらつきあっただけだ」
「そうしたほうがよさそうだな。母ちゃん、店先で立ち話を始めるといつも長
いから」
「なんだい、おまえまで」
 困惑顔の母親をよそに、三人は顔を見合わせてくすくす笑うと、店で小分け
にしてもらっていた小麦粉の小袋をてんでに小脇に抱えた。楽俊の母親と話し
ていた薬問屋の主人のほうも、その様子を見て苦笑した。
「いい子たちじゃないか。せっかくだからお言葉に甘えたらどうだね。奥で簡
単な献立を手早く書いてみよう。滋養強壮に効く根菜を使う汁物と、胃腸に優
しい粥と。それなら明日にでも作って学生さんに出せる。そうそう、花椒を使
った炒めものもね。こいつは食欲がないときにいいんだよ」
 戸惑っているような楽俊の母親の背を、六太が笑いながら軽く押した。薬問
屋の主人はその彼女の前に立って歩き、「本当は山芋を使うといい献立がある
んだが、今は旬じゃないからねえ」などと言いながら店の中に入っていった。
 ふたりが店の中に姿を消すと、楽俊が溜息をついて言った。
「すまねえです、六太さん。母ちゃん、この界隈に知り合いが多くできたから、
いつも立ち話が長いんだ」
「いいって、いいって。それよりこれを持って、とっとと寮に戻ろうぜ」
 そうやって粉の小袋を軽く掲げた六太に、背後から「……六太?」という遠
慮がちな声がかけられた。彼らが何気なく振り返ると、往来に女連れの青年が
立っていた。三十歳近い鳴賢よりも、さらにいくつか年上のようだった。
「ああ、やっぱり六太だ」
「恂生(じゅんせい)じゃねえか。揺峰(ようほう)も」
 ほっとした様子の青年に、六太が笑顔で返した。その青年の印象は悪くない
のだが、話しかたに何となく奇妙なところがあったため、鳴賢は違和感を覚え
た。
「ええと……。六太にはどこで会っても驚かないけど、こんなところで何を?」

52永遠の行方「予兆(19)」:2008/04/27(日) 12:07:38
「ん? ああ、買い物の荷物持ち」
 そう言って、また小麦粉の袋を掲げて見せてから「あ、こいつら、俺のダチ」
と鳴賢たちに顎をしゃくった。すると恂生と呼ばれた青年は、一同を軽く見回
してから、また六太に目を戻して言った。
「もし時間があるなら、うちに寄ってお茶でも飲んでいかないか? そっちの
ふたりも一緒に。おかみさんと揺峰が胡麻団子と蒸し菓子を作ったんだ」
「蒸し菓子?」
「うん、黒糖の。好きだろう? それでちょうど、六太の噂話をしていたとこ
ろだったから、ここで会ってちょっと驚いた」
「うーん、心が揺れるけどなあ……」
 小脇に抱えた小袋にちらりと目を落として、六太は唸った。その小袋を受け
取ろうと手を伸ばした楽俊が、「どうぞ、おいらたちのことは気にしないで行
ってきてください」と丁寧に言った。しかし六太は軽く身をひねって、あっさ
りと楽俊の手をかわした。
「そういうわけにはいかねえだろ。俺は荷物持ちに来たんだぞ」
「まあ、六太じゃ、大して足しにならないけどな」
 鳴賢がからかうと、それまで黙って様子を見ていた恂生の連れの二十歳ほど
の娘が、にこやかに口を挟んだ。こちらは青年と違って、話しかたにどこも奇
妙なところはない。
「それならおみやげにすればいいわ。ここには三人いるけど、三人ぶんあれば
いいのかしら? でもきっと多めがいいわよね。他のお友達にもわけてあげら
れるし。胡麻団子の他にもいろいろ作ったから、一緒に来て、適当に好きなの
を持ってって」
 そう言って強引に六太の腕を引っ張ると、あれよあれよと言う間にふたりし
て往来の向こうに消えていった。鳴賢たちは、六太が持っていた袋を彼女に否
応なく渡された恂生とともに、ぽかんとしてその場に取り残された。鳴賢の顔
を見た恂生は、苦笑いしながらすまなさそうに言った。
「邪魔してごめん。でもすぐ戻ってくると思うから」
 ついで、楽俊に目を向けて「やあ」と挨拶をする。楽俊のほうも「どうも」
と軽く会釈をした。楽俊は大学以外の知り合いは少ないほうだと思っていたか
ら、初対面ではなさそうな様子に鳴賢は驚いた。
「あれ? 文張、おまえとも知り合いか?」

53永遠の行方「予兆(20)」:2008/04/27(日) 12:09:52
「知り合いってほどじゃねえ。前にいっぺん、国府にある海客の団欒所で会っ
たことがあるってだけだ」
「海……客?」仰天した鳴賢はあらためて恂生を見た。「あんた……。海客な
のか?」
「そうだよ」
 青年はあっさりと答えた。大学も大学寮も国府の中にあるが、鳴賢は似たよ
うな場所に海客の団欒所などというものがあることなど知らなかったし、楽俊
がそんなところに行っていたことも知らなかった。しかし今はそんなことより、
目の前に海客の実物がいることのほうがはるかに衝撃だった。
 それでか、と鳴賢は納得した。流暢に喋ってはいるものの、恂生の言葉にど
こか違和感を覚えたのはそのせいだったのだ。発音や言い回しが微妙におかし
いのだ。
 蓬莱も崑崙も、こちらの世界とは言葉がまったく違うらしい。だから海客や
山客は、運良く人里にたどりついても、まず言葉が通じなくて難儀するのだと
いう。
 こちらの世界では、北の果ての戴であれ、南国の漣であれ、言葉が違うとい
うことはない。だから鳴賢も、異なる言語という概念からして理解するのは難
しかった。犬や猫に言葉が通じないというのならわかるが、同じ人間同士で、
どうして言葉が違うのか。子供の頃にやった暗号遊びのように、ある語が別の
語に置き換わっているのだろうか。
「まあ、そりゃ……。大変だったな」
 何と言っていいのかわからずに、当たり障りのない言葉を返す。だが恂生の
ほうは屈託なく「そんなことはないよ」と明るく返した。
「俺は雁に流されたってだけで幸運だったんだから。何しろ海客というだけで、
殺される国もあるんだからね」
「ええ?」
 驚いた鳴賢が思わず聞き返すと、傍らの楽俊がうなずいた。
「それは本当だ。おいらも巧にいた頃、役人に追われて行き倒れてた海客の女
の子を拾ったことがあるからな。仮朝が仕切ってる今の巧の方針はわからねえ
けど、当時の主上は海客がひどくお嫌いだったんだ」
 それを聞いた恂生は、初めて表情を曇らせた。
「その女の子、今は……?」
「今は慶にいる。ときどき便りをくれるが、何とか元気にやってるらしい」
 楽俊が安心させるように言うと、恂生はほっとした顔になった。

54永遠の行方「予兆(21)」:2008/04/27(日) 12:12:23
「その子も幸運だったな。大抵の海客は虚海で溺れてしまうって聞くし、何と
か生きて流れ着いても国によっちゃ殺される。俺からも礼を言うよ。その子を
助けてくれてありがとう」
「そんな大層なことじゃねえ」楽俊は照れて、耳の後ろをぽりぽりとかいた。
「雁は海客に寛大だって聞いてたし、それでおいら、そいつを連れて雁に来て、
おかげで縁あって大学に入れたんだ。言うなれば持ちつ持たれつってとこだ」
「それで雁に? 呆れたお人好しだな」
 鳴賢は心底から呆れて言った。楽俊が雁に来たのは単に、巧と違って雁は豊
かで半獣も差別しないし、大学の質も高いからだと思っていた。だからこれま
で理由を聞いたことがなかったのだ。まさか行き倒れていたところを助けた海
客のために、遠路はるばるやってきたとは思いもよらないことだった。
「巧から雁へなんて、場合によっちゃ何ヶ月もかかるだろうし、向こうには妖
魔も出たって言ってたじゃないか。命だって危なかったろうに……」
 すると恂生がくすりと笑った。
「海客なんて厄介者を助けてくれる人はみんなそうなんだろうな。六太だって
相当なお人好しだし。俺なんか最初の数年は、言葉もわからないし世をすねて
ばかりでさ。六太が仕事先を世話してくれて、言葉も少しずつ教えてくれて、
何とかなじむのに十年以上かかったけど、すべては見捨てないでくれた六太の
おかげだ」
「十年……」
 鳴賢が繰り返すと、恂生はうなずいた。十年以上も前にこの男を助けたのな
ら、いったい六太は今、何歳なのだ?
「六太があんたを……?」
「ああ。流されたのが二十一で、今、三十六だから、正確に言うともう十五年
だな。早いものだ」
 どこか淋しそうに笑った恂生は、しみじみとつぶやいた。
 海客も山客も、ある日突然、蝕に巻き込まれてこっちの世界に流されてくる
だけだ。何の心の準備もなく着の身着のままで、しかもいったん来てしまった
ら二度と帰ることはできない。虚海を越えられるのは神仙と妖魔だけだからだ。
「あんた、恂生って言ったっけ? 俺は赤烏だ。通ってる大学じゃ、鳴賢って
呼ばれてるけどな」
「よろしくな。大学生なのか。楽俊と同じだな、すごいな」
「はは、こいつと違って落ちこぼれかけてるけどな。それにしても海客の名前
は珍しいって聞いたことがあるけど、あんたの名前は普通だ」

55永遠の行方「予兆(22)」:2008/04/27(日) 12:15:25
「ああ――そりゃ、蓬莱での名前は違うけど、もう意味のないことだから」
 恂生はわずかに言いよどみ、にこやかな顔から一瞬だけ笑みを引いて答えた。
その空白に、鳴賢もさすがに悪いことを聞いたなと思った。
「最初は六太が別の字(あざな)をつけてくれたんだけど、今は世話になって
る店の主人がつけてくれた字を名乗ってる。そこの娘さんと――さっきの彼女
だけど、今度結婚するんで」
 鳴賢は虚を突かれて、一瞬ぽかんとした。こんなところで引き比べるもので
はないのに、結婚どころか、もう何年も恋人もいないという現実が胸に重かっ
た。自分が大学を落ちこぼれかけている以上、色恋沙汰にうつつを抜かす暇な
どあるわけがないし、当然と言えば当然なのだが……。
 そんな身勝手な思いを振り切って、何とか言葉を続ける。
「そ、そりゃ、良かったな。きっと六太も喜んだろう」
「ああ、自分のことのように喜んでくれたよ。あんなふうに喜んでもらえて、
そういう人がいて、俺も嬉しかった。今じゃほとんど言葉に不自由しないけど、
六太が親身に世話をしてくれなかったら、これまで生きていられたかどうか
もわからないからな」
 そう言って、ふと鳴賢の肩越しに途の向こうに視線を投げる。鳴賢が振り返
ると、遠目に六太と揺峰が戻ってくるのが見えた。
「いろいろなことがあったけど、言葉が通じないってのが一番つらいよ。字体
がけっこう違うから、筆談もなかなか難しかったな。でも少なくとも六太は俺
の言葉をわかってくれたから心強かった。今から思うと八つ当たりばかりして
たけど、そうやって発散して、だから何とかやってこれたのかもしれない。下
位の役人は仙じゃないから、海客とは言葉が通じないんだ。その点、六太なら、
蓬莱の言葉を使おうが使うまいが、冗談も八つ当たりも普通に通じるもんな」
 その途端、楽俊のひげがぴんと立ち、しっぽがあわただしく左右に振れた。
だが恂生は何も気づかなかったらしく、そのまま話を続けた。
「仙ってのは便利だよな。蓬莱がある世界には何千もの種類の言語があるんだ。
でも俺がもし仙だったら、世界中の人と普通に会話ができるってことだもんな。
今じゃ、そんな空想をする余裕もできてきた。もっともこっちの世界じゃ言葉
はひとつだから、なかなか感覚をわかってもらえないみたいだけど――」
「やっぱり……六太は仙だったんだな」

56永遠の行方「予兆(23)」:2008/04/27(日) 12:18:29
「え?」
 きょとんとした恂生は、真剣な顔をしている鳴賢を見て、失言にやっと気づ
いたらしい。うろたえたように咳払いをすると、目を泳がせて六太たちのほう
に視線を投げた。
「楽俊、鳴賢! 餅もいっぱいもらっちまったぜ」
 大きな包みを抱えてぱたぱたと走ってきた六太は、周囲の微妙な空気に気づ
かず嬉しそうに言った。はしゃぐ六太に、恂生がしょげた顔で謝った。
「六太、ごめん……」
「え、何?」
「友達だって言ってたから、てっきり知っているのかと……。で、ばらしちま
った」
「え?」
「六太が仙だってこと」
 激しくまばたいた六太は、押し黙っている鳴賢を見たが、すぐに破顔した。
「ああ、そんなことか。気にするな。別に隠してたわけじゃねえ。何となく鳴
賢には話す機会がなかったってだけだから。楽俊のほうは最初から知ってるし」
「ごめん……」
 恂生はすっかり気落ちしてしまったが、六太のほうは本当に気にしていない
ようだった。鳴賢はあわてて口を挟んだ。
「いや、その、本当のことを言うと、何となくそうかなとは思ってはいたんだ。
でも面と向かって言われたものだから、少し驚いたっていうか。やっぱりそう
なんだって」
「あー、ばれてたかぁ」六太はぺろりと舌を出した。「ま、そろそろやばいか
とは思ってたからなあ。気ぃ悪くしたんならごめんな。でも別にわざわざ言う
ことじゃないと思って。鳴賢だって楽俊だって、官吏になったら仙になるんだ
しさ。それより栃餅に豆餅に、揚げ餅も薬味つきでもらってきたから、さっそ
く帰って分けようぜ。でも今からだと夕餉に障るから夜食か朝餉だな。どうせ
おまえたち、今夜も遅くまで勉強するんだろ?」そう言って恂生に、「こいつ
ら大学生なんだ。いずれお偉い官吏さまになって、雁をしょって立つってわけ。
頼りなさそうで、とてもそうは見えないだろうけどさぁ」

57永遠の行方「予兆(24)」:2008/04/27(日) 12:21:33
「あー、ひどいな」
 おどける六太に抗弁した鳴賢は、この少年が本当に、意図して仙であること
を隠していたのではなく、説明が面倒だとか、単に言う機会がなかったという
だけに思えてきた。いっとき真剣に考え込んでしまったことが馬鹿馬鹿しくな
ってしまったほどだが、それにしては楽俊がかたくなにそれについて話すのを
拒んだことが不思議ではあった。
「俺もこれで相当苦労してんだぜ」
「ああ、わかってる、わかってる」
「どうだか。そんなに言うなら、六太のほうは学校じゃどうなんだよ?」
「へ、俺?」一瞬、意外そうな顔をした六太だったが、すぐにまた笑顔になっ
た。「実は俺、そういうのに通ったことがないんだよなあ。だからちょっと憧
れてる。似たような年頃の連中とわいわいやったり、褒められたり叱られたり
とかさ。ま、実際に行ったからって、悪戯して老師たちを困らせるだけだろう
けど」
 こともなげに言った六太に、鳴賢はまたまた驚いた。
「学校に行ったことがないって……。まさか小学にも?」
 毎日を生きるのがやっとという傾いた国ならまだしも、雁にいてそんなこと
があるのだろうか。だが六太があっさり「まあな」と答えたので、鳴賢は仰天
した。
「でも勉強を教えてくれる人はたくさんいたから」
「それにしたって……」
 途中まで言いかけて、何かの拍子に六太が自分を孤児のようなものだと漏ら
したことがあるのを思い出してやめた。きっと幼い頃に親が亡くなり、勉強ど
ころではなかったのだろう。海客に知り合いがいることと言い、謎が多い少年
なのは確かだが。
 もっとも鳴賢の場合は他人の詮索より、何とか卒業できるよう頑張るほうが
先決ではあった。

 真北、すなわち子(ね)の廬に始まって、丑、寅、卯。点々と移動する罹患
地。光州の官吏にとって不運だったのは、そのすべてが府第に報告されていた
わけではないということだった。

58永遠の行方「予兆(25)」:2008/04/27(日) 12:23:35
 近隣の廬や里で起こったことならまだしも、問題の集落はそれぞれ、旅行す
ら滅多にしないこの世界の民の意識からすれば離れすぎていた。だから一般の
民でこの奇妙な事態に気づいた者は皆無だった。
 もっとも官も、罹患したすべての集落の情報が、少なくとも郡にまで報告が
上がってこなければ気づきようがなかっただろう。したがって誰もまさか、州
都から見て北を起点に、右回りに弧が描かれる形で病が移動しているなどとは
思いもしなかったのだ。
 地に描かれた弧は、このとき既に明確に環を形成しようとしていた。だが病
そのものの症状に警戒をいだきこそすれ、環がもうすぐ閉じられることに気づ
いた者はいなかった。

 その日の夕食後、鳴賢は楽俊に付きあって敬之の房間にいた。敬之が図書府
から借りている本を、何年経ってもこの面では相変わらず不遇を強いられてい
る楽俊に見せる約束をしていたからだ。又貸しは禁じられているが、楽俊の周
囲では必要に迫られて、こうしてちょくちょく行なわれている。
「そう、これ、これが読みたかったんだ。こないだ郭老師が言ってた解釈は、
ちょっと違うんじゃねえかと思っていたし」
 小さな床几にちょこんと腰掛けてあわただしく頁を繰る楽俊に、敬之は笑っ
た。
「だから貸すって。自分の房間に帰ってゆっくり読みなよ」
「でも、おいら、今晩は母ちゃんのところに泊まるから、ちゃんと見られるの
は明日以降になっちまうぞ」
「かまわないよ、その本の貸出期限はあと五日もあるんだから」
 そう言って敬之は別の書籍も一冊、押しつけるように楽俊に渡した。鳴賢自
身が小脇に抱えている数冊の本も、楽俊に貸すためのものだ。楽俊は「いつも
すまねえ」と言って、ぺこりと頭を下げた。
 これでも入学当初に比べれば、便宜を図ってくれるようになった司書もいる
から環境は格段に良くなったのだ。以前、延台輔が大学の視察に訪れた際、半
獣ながら成績優秀な楽俊に直々に声をかけたという椿事のおかげだろうが、こ
こ数日のように、相変わらず半獣に冷たい司書に当たってしまった場合は別だ。

59永遠の行方「予兆(26)」:2008/04/27(日) 12:26:49
「それにほら、こっちは献章(けんしょう)が持ってた本。これも楽俊に貸し
ていいってさ。その代わり、例の比較判例集のまとめを手伝ってほしいって」
「ああ、かまわねえ」
 そんな言葉を交わしながら、三人とも廊下に出て楽俊の房間に向かう。司書
に又貸しを告げ口する輩がいるので、本は袋に入れて見えないようにして、そ
れぞれが小脇に抱えている。
 楽俊が取るべき允許はあと三つ。卒業が具体的に見えてきたのも、こうして
日頃から本を融通してくれる相手が何人もいたことが大きいだろう。
「そういや、阿興(あこう)から手紙が来たんだって?」
「うん、結局里に帰るってさ。みんなによろしくって書いてあった」
「だから最近は献章も焦ってんだな。周りがこうぽろぽろ欠けてっちゃ。あい
つの同期は半分も残ってないんじゃないか?」
「それ言ったら、玄度も他人事じゃねえぞ。今日も外出してたようだが、大丈
夫なのか、あいつ」
「うーん。さすがにそろそろ色恋にうつつを抜かしている場合じゃないんだが
な……」
 そんなことをとりとめもなく話しながら、楽俊が自分の房間の扉を開ける。
すると、夕食前に確かに消したはずの灯りがぼんやりとともって室内を照らし
ており、閉めたはずの書卓の側の窓も大きく開いているのが見えた。
 一瞬警戒した三人だが、奥の臥牀にいた人影がむくりと起きあがったのを見
て、彼らは一様に安堵した。
「毎度毎度のことながら、びっくりさせないでくださいよぉ」
 がっくりと肩を落としてぼやく楽俊に、六太は「わりぃ」と力なく笑った。
こうしてよく訪ねてくるようだから、楽俊は頻繁に会っていたのかもしれない
が、鳴賢や敬之が六太の姿を見るのは久しぶりだった。
「気分が悪くてさ、ちょっと休ませてもらってた。それで空気を入れ換えよう
と思って窓も開けてたんだ」
 そう答える六太の声には、確かに張りがなかった。
「なんだ、てっきりおまえが窓から入ってきたのかと思ったぜ」

60永遠の行方「予兆(27)」:2008/04/27(日) 12:30:05
 拍子抜けした鳴賢がそう言うと、六太は「まさかぁ。ここ、何階だと思って
んだよ」と笑った。
「それと、ほい、これ。鳥の餌」
 懐をまさぐった六太が、取り出した小袋を楽俊に差し出した。
「ああ……いつもすんません」
「鳥?」
 話が見えずに、敬之がぽかんとしたので、鳴賢が言った。
「もしかしてあれか? 文張のところで何度か、綺麗な大きな鳥が窓枠に止ま
っているのを見たことがあるけど。餌づけでもしてるのか?」
 すると楽俊は、なぜか口ごもった。
「そのう。別に餌づけをしてるわけじゃねえ。もちろん飼ってるわけでもねえ。
勝手に飛んでくるんだ。おいら、大抵は今みたいに鼠の姿だから、人間と違っ
て鳥も警戒心が薄れるのかもな」
「へえ。で、その鳥の餌を六太が?」
「まあな。いつも楽俊には泊めてもらったりして世話になってるし、お礼とい
うか賄賂というか」
 六太がぺろりと舌を出して悪戯っぽく言ったので、鳴賢は敬之と顔を見合わ
せて「随分ささやかな賄賂だな」と苦笑した。
「で、こうして賄賂も渡したことだし、今晩泊めてくれねえ?」
 拝むような仕草をした六太に、楽俊は呆れたように言った。
「ご気分が悪いんでしょう? こんなとこで油を売ってないで、早くお帰りに
なったほうが」
「わかってねーな、楽俊」六太は唇を尖らせた。「気分が悪いから、まっすぐ
帰りづらいんじゃねーか。だいたい十日ぶりに帰ったら、連中の嫌味攻撃が待
ってるに決まってる。近場で休んで心構えをしとかないと」
「十日……またですか」
 ふたたび肩を落とした楽俊の横で、鳴賢も呆れて「それだけ遊び歩いていて、
よく小言で済むな」と言った。すると六太は不満げに頬をふくらませて抗弁し
た。
「俺なんか、しょ――風漢に比べりゃ可愛いもんさ。あいつと一緒なら俺も二、
三ヶ月行方をくらませたことはあるけど、あいつはひとりでも平気でそれくら
いいなくなることがあるんだから」

61永遠の行方「予兆(28)」:2008/04/27(日) 12:33:04
 だが鳴賢は肩をすくめると、そんな六太の抗弁をあっさり退けた。
「そりゃ、風漢はどう見ても遊び人だし、比べる対象が悪すぎるだろ」
「あれでどうやら官吏に仕えているようだから、よく仕事を首にならないもの
だとは思うけどね」
 敬之がそう続けて苦笑する。
 脱力して溜息をついた楽俊は、本を入れた袋をやっと書卓の上に置いた。鳴
賢たちもそれに倣う。
「――で、ご気分が悪いのは大丈夫なんですか?」
 向き直った楽俊が諦めたように問うと、六太は力ないながらも、いつものよ
うににんまりと笑った。
「うん、もうへーき。ちょこっと気分が悪かっただけだし、勝手に休ませても
らってそれもだいたい良くなったし。町中で騒動に行き合っちゃってさあ」
 そう言って六太はごろりと臥牀に寝転がった。そして少しだけ沈んだ声で
「物乞いをしていた浮民の親子が関弓の民に追い立てられて、子供のほうがち
ょっと怪我をしたんだ」と続けた。
「ああ、それでか。おまえ、血を見るの苦手だもんな」
 手近の床几を引き寄せて勝手に座りながら、鳴賢は納得した。六太はその手
のものが大の苦手で、こういう面に限っては、子供の外見通り繊細なたちだっ
た。何しろ途の片隅にたまに転がっている犬や猫の死骸を見てさえ気分が悪く
なるのだから、深窓の令嬢のごとき繊細さだと言える。
 楽俊はそんな六太の傍らで、乱れた衾褥をせっせと整えた。敬之もそれを手
伝う。
「なら臥牀をこのまま使ってください。もともとおいらは母ちゃんのところへ
泊まりに行くつもりで、今晩は房間を留守にするところだったんで」
「うん、わりぃな。わりぃついでに何だけど」
「は?」
 体を起こした六太は、情けない顔ですまなさそうに「何か食うもん、ねえ?」
と言った。その途端に六太の腹が、きゅう、と鳴ったので、一同は思わず失笑
してしまった。

- 続く -

62名無しさん:2008/05/02(金) 20:47:36
大量投下キテタ━━(゚∀゚)━━!!
姐さんありがとう!

続きに期待age

63名無しさん:2008/05/02(金) 23:06:17
ああぁぁぁあぁあああ姐さー――――ん!!!
乙、乙!!!

64永遠の行方「予兆(29)」:2008/05/06(火) 10:20:53

 母親に何か残り物をもらってくると言って楽俊が房間を出ていったあと、自
分の房間にとって返した敬之が持ってきた小さな団子を、六太はぺろりと食べ
てしまった。
「仙でも腹は減るんだね」
 敬之がからかうと、六太はびっくりした顔をしてから、「あー。おまえにも
ばれたかぁ」と頭を掻いた。
「てことは、いつもおまえらとつるんでる玄度あたりにもばれてるってことか?
そういえば玄度の姿がねえな」
「ああ、あいつは……」
 敬之は口ごもり、ちらりと鳴賢を見た。鳴賢が引き取って続ける。
「先月だったか、倩霞が店をたたむことになって、郊外に引っ越していっちま
ったんだ。で、こないだ倩霞の使いで阿紫が挨拶に来たんだが、『長いことご
贔屓をいただきありがとうございました。何かの折には遊びに来てください』
って言われたもんで、それで玄度のやつ、さっそく訪ねていったらしい」
「そんなの、よくある通り一遍の挨拶だと思うんだけどね」敬之が口を挟んだ。
「特に商売をしていた人間なら、あちこちに同じ口上を伝えて回っているだろ
う。もちろん倩霞のことだから、何から何までってわけじゃないだろうけど、
もともと体が弱い上に、引っ越ししてそんなに経ってないんだから、まだ生活
は落ち着いていないと思う。だから少なくともしばらくは遠慮したほうがいい
と言ったんだけど、あいつ、挨拶の口上を真に受けて行っちまったんだ」
「女受けする文張とか六太とかが一緒だったんならまだしも、ひとりでな。で、
案の定、理由をつけて追い返されたらしい。今は夕餉も食わずに自分の房間で
不貞寝だ」
「へえ……。でも倩霞、とうとう店を閉めたのか。確かに体が弱いとは聞いて
たけど、あれだけ立派な店だったのに、何だかもったいねえな」
「あ、まだ閉めたわけじゃないよ」敬之が言った。「倩霞自身は郊外に引きこ
もっちゃったけど、いちおう阿紫や郁芳なんかが、通いで店をやってる。もっ
ともあくまで品物の在庫がはけるまでの間らしい」
「ああ、なるほどな。じゃあ、今のうちに阿紫とつなぎをつけておかねえとな」

65永遠の行方「予兆(30)」:2008/05/06(火) 10:24:01
 六太がからかうように言ったが、敬之は浮かない顔だった。商売を辞めた相
手に個人的に尋ねていくのは難しいから、確かに六太の言うとおりではある。
しかしいまだに阿紫に色よい反応をもらったことがないだけに、これ以上どう
すれば良いのかわからないのだろう。
「それはそれとして、玄度のやつはそろそろやばいんだ」と鳴賢。「あいつ、
去年は允許を一個も取れなかったんだからな。それでいて允許が必要な残りは
十はあるはずだ」
「そりゃ、確かにやばそうだ」
「やっぱり学生の本分は勉強だよ。それに玄度はほら、前に倩霞の店の奥でお
茶を飲んだとき、出してもらった綺麗な花茶にもろに苦手な顔をしたろう。女
ってそういう反応には敏感なものだし、倩霞に気づかれてたら大減点もいいと
こだ。なのに下手に押しかけてもまた減点になるだけだと思うんだけどね」
 そこへ房間の外から「誰か、開けてくれ」という楽俊の声がしたので、敬之
が立って扉を開けに行った。楽俊は蓋のついた器をいくつか並べた大きな盆を
持っていた。大荷物にふらつきもせず、思いの外、力持ちであるところを見せ
て、六太が胡座をかいていた臥牀の上に載せる。次々に蓋を開けるとそれは、
香菜入りの粥に煮豆、漬け物がいくつかと、そしてお茶だった。粥からはおい
しそうな湯気が立っている。茶杯だけは人数ぶんあり、茶器にはたっぷりと茶
が入っていた。
「遅くなってすいません。すぐ食えるような物がなかったんで、ちょいと母ち
ゃんに粥を作ってもらってたんです」
「面倒かけてごめんな。でもすごくうまそうだ」
 そんなことを言いながら、やはり小さな団子だけでは到底腹がふくれなかっ
たのだろう、六太は嬉しそうに粥の匙を取った。肉や魚が一切苦手という結構
な偏食である彼の好みどおり、盆に肉のたぐいはない。
 熱い粥をはふはふ言いながら食べる様子があまりにも子供っぽく無邪気で、
付き合いで茶を飲んでいた面々もつい笑ってしまった。
「十日も遊び歩くのに、飯を食う程度の小銭も持ってなかったのかよ? それ
とも使い果たしたのか?」
 鳴賢が突っ込むと、六太は粥を口に入れたまま行儀悪く答えた。

66永遠の行方「予兆(31)」:2008/05/06(火) 10:28:08
「あー、もともと金はあまり持って出なかったし、すっかり使い果たしたなあ。
実を言うと餅を買ってあったんだけど、怪我をした浮民の子に全部やっちまっ
たし」
 六太がすぐ他人に同情するたちなのは鳴賢も知っていたが、それを聞いた敬
之は眉をひそめた。
「六太のことだから大丈夫だと思うけど……。こっそりやったろうね?」
「ん?」
「食い詰めている他の浮民に知れたら、その子は無理やり餅を取りあげられる
だろうし、六太だって大いにたかられるよ。それどころかたとえ仙でも六太の
ように非力な子供の外見なら、やつらは餅一個奪うために殺そうとすることだ
ってあるんだ。いくら関弓が主上のお膝元でも、にぎやかなぶん場所によっち
ゃかなり物騒だし、気をつけなくちゃ」
 すると六太は粥を食べる手を止めてうつむいた。そして「他の連中に知れな
いように、こっそりやったから大丈夫だ」と静かに答えた。
「それにその親子に会ったのは初めてだし……。こっちの名前も言わなかった
から、俺がどこの誰かなんてわからないさ。だからあとで押しかけられること
もない」
 そうつなげたので、六太は敬之が言わなかったこともすべてわかっているよ
うだった。やっと顔を上げた六太は、ちょっと首をすくめて力なく笑った。
「俺もさ、見かけ通りの子供だった頃はたくさん失敗したよ。昔、似たような
ことを風漢に言われたこともあって、そのときはいちいち反発したけど、さす
がに今は学んだ。だから今回のことはあくまで、目の前で怪我をして、しかも
腹を空かせている痩せた子供を放っておけなかっただけだ。騒ぎを聞きつけて
やってきた役人も親子に冷たかったしな。ただ、どんなに浮民を可哀想に思っ
ても、浮民すべてに食べ物を施すことは不可能だし、仮にできたとしても彼ら
の依存心を高めてしまうだけってことはわかってる。そうなれば自立できなく
なり、一方的に国の負担が増してしまう。そしてそれを良く思わない民といっ
そうの軋轢が起きて、事態は悪くなるだけだ。――うん、わかってる」
 思いの外、六太がしょげてしまったので、敬之は少しあわてたようだった。
急いで言葉を取り繕う。

67永遠の行方「予兆(32)」:2008/05/06(火) 10:31:34
「別に六太が悪いことをしたと言ってるわけじゃないよ。きっとその親子は感
謝したろうし、たかるとかそういうんじゃなく、いつかお礼をしたいと思って
名前を聞くぐらいはするだろう。ただ民に追い立てられて騒ぎになってたなら、
はずみで六太も怪我なり何なりする危険もあるわけだから、それで単に気をつ
けたほうがいいと思っただけなんだ。変なことを言ってごめんな。でもいいこ
とをしたと思うよ」
「浮民と言ってもいろいろだしな。六太の助けたその子が阿紫みたいな働き者
に育てば、誰も文句はないさ」
 そんな言い方で慰めになるかどうかわからないながら、鳴賢も口を添える。
 やがて綺麗に皿を空にした六太が、手を合わせて拝むような仕草で「ごちそ
うさまでした」と言った。六太の育った里では食後にそうする習慣だったのだ
ろうが、この世界では一般的な作法ではない。鳴賢もとうに慣れたとはいえ、
それでも奇妙な習慣だと思う意識は今も変わらなかった。
「じゃあ、おいら、これを片づけついでに母ちゃんとこに行きますんで、あと
は房間を好きに使ってください。鳴賢たちも残りの茶を飲んでってくれ」
 楽俊はそう言うと、ふたたび盆を持って房間を出ていった。
 熱い粥と茶のおかげで、六太はすっかり人心地を取り戻したようだった。先
ほどよりずっと灯りを多くして房間を明るくしているせいもあるかもしれない
が、もう気分が悪いようには見えなかった。
「そういえば楽俊は来年あたり卒業できそうなんだってな。鳴賢と敬之は、あ
といくつ允許を取ればいいんだっけ?」
 ふと無邪気に問われ、鳴賢は危うく茶でむせそうになった。
「……俺はあと四つだ」
「ああ、そんなら楽俊と一緒に卒業できそうだな」
 簡単に言われたものの、当の鳴賢は渋い顔をしたままだった。敬之が言う。
「鳴賢はもう十年目だし、残った科目の内容から言うと微妙なとこなんだよね。
これからが正念場ってとこ。僕はあと六つだ。僕も正念場だな……」
 だが六太は明るく笑った。
「おまえらなら大丈夫だよ。それにここまで来りゃ、卒業できなくても府第に
勤めるかぎりは昇仙できる。そういえば風漢が、何なら自分のところでこき使
ってやるって言ってたぜ」

68永遠の行方「予兆(33)」:2008/05/06(火) 10:34:49
「それはごめんこうむりたいな。だいたい大学まで行けば、中退でもかなりの
箔がつくんだぞ。それを何が悲しゅうて遊び人の使用人にならなきゃならない
んだ。優秀な連中がひしめいているだろう国府で割りこむのは無理かもしれな
いとしても、地方ならけっこうな官位をもらえるはずなのに」
「地方か……。うん、そういうのもいいかもな」何を思ったか、不意に六太は
遠くを見るような目になった。「それも州府とかの凌雲山の中じゃなくて……。
町中の小さな府第がいいな。建物を出れば、民がたくさん行き来しているよう
な」
「そうかなぁ」
 敬之が首を傾げると、六太は軽く笑った。
「だって神仙の世界は本来、雲海の上だろ? 下界とはすっかり隔てられてい
るじゃねえか。でも町中の府第なら民のそばにいられる。俺は何となく――は
るか雲海の上から見おろしてばかりいると、民のことがすっかりわかんなくな
っちまうんじゃないかと、それが心配なんだ」
「ふうん。そういう心配もわからないでもないけど、一口に官と言ってもピン
キリだろう? それに雲海の上まで行ける官位となると相当なものだ。僕たち
が首尾良く卒業できたとしてもしばらくは下積みだろうし、そもそも大多数の
官にとっては雲海の上なんて一生縁がないだろうから、心配するだけ無駄だと
思うけど」
 敬之はそう言ったが、六太はからかうように「先のことはどう転ぶかわから
ねえぞ。初年度から本人もびっくりするくらい大出世したりしてな」と返した。
「ただ……。そうだな。鳴賢たちがどこに行くにしても、民のことを考えられ
る官になってほしい。今日行き合った浮民の親子を冷たくあしらった官のよう
にはなってほしくない。そりゃ、状況次第で厳しい態度を取ることは仕方がな
いかもしれない。でもそれは、怪我をした子供を抱えた親を単に追い返すよう
なのとは違うと思うんだ」
「言いたいことはわからないでもないんだけどなあ」
 鳴賢は腕組みをして天井を睨んだ。やはり何だかんだ言っても六太は考えが
甘いのだ。これだけ雁に浮民が増えた以上、ひとりひとりにじっくり対応して
いられるわけもない。役人にしてみれば騒ぎを鎮めるのが先決だろうし、結局
はそのおかげで件の浮民もそれ以上の難を逃れたことになるのに。

69永遠の行方「予兆(34)」:2008/05/06(火) 10:40:05
「それにだいたい関弓には主上も台輔もおられるじゃないか。俺たちがなるだ
ろう末端の官が何をどうしようと、別に大勢に影響はなかろうが」
「そんなことはない」なぜだか六太はむきになった。「国を切り回すのは結局
は官だ。それは末端の官に至るまで高い志を持ち、かつきちんと統制が取れて
初めて機能するものだ。王がひとりいても国は回らない。王なんか――結局は
玉座を埋めていればいいだけなんだから」
「おまえもたいがい不遜なやつだな」
 鳴賢は顔をしかめた。六太もさすがに言いすぎたと思ったのだろう、うつむ
くと、小さな声で「ごめん」と謝った。
 五百年の大王朝をうち立てた延王は、その王を選んだ宰輔とともに雁の民に
とってはまさしく神だ。その神を貶められて良い気持ちになる国民はまずいな
い。
 六太は持っていた空の茶杯を置くと、臥牀の上で膝を抱いて顔を伏せた。
「でも――でも、俺、さ。自分がやらなくても、とか、誰かがやってくれる、
とか、少なくとも官になるからにはそういうふうに考えてほしくないんだ。自
分も国を支えているってことをちゃんと自覚してほしい。だって、さ。だって
……」幾度も口ごもり、顔を伏せたまま、やっと言葉を押しだす。「だって、
雁も永遠じゃないんだから」
「おまえ……。杞憂って言葉を知ってるか?」
 さすがに呆れ果てた鳴賢が問う。以前、彼が失恋したときにした話といい、
どうも六太は物事をすべからく深刻に考えてしまう癖があるようだった。
 しかも一介の少年の口から「雁も永遠じゃない」という言葉が飛び出すとは。
国府の役人が聞いたら誰も彼も大笑いするだろう。敬之も鳴賢と視線を交わし
て肩をすくめた。だが六太が真剣なことだけはわかったので、鳴賢はやれやれ
と思いながらも言葉を続けた。こういう手合いは思い詰めやすいだけに、扱い
を間違えるとあとが面倒なのだ。
「――で? もしものときに備えて今から心構えをしていろと? それともそ
うならないように主上を支えろってことか?」
 わずかな空白ののち、六太は力なく答えた。
「どっちも、かな……。どっちにしても王を頼らないでほしいんだ……。そり
ゃ、もともと雁は官吏が強いって言われているし、実際、官が勝手にやるけど、
でもそのことじゃなくて――」

70永遠の行方「予兆(35)」:2008/05/06(火) 10:44:56
「そうか? そんな話、俺は初めて聞いたぞ。なあ?」
 鳴賢が眉根を寄せて敬之を見やると、敬之は彼にうなずいてから六太に言っ
た。
「どこで聞いたか知らないけど、雁は主上のおかげでここまで栄えた国だよ。
多くの反乱を鎮め、さまざまな改革を勅令で断行した。官はそんな主上の手足
となって働くだけだ。六太が主上のもとに官が団結しているって言ったなら話
は別だけど、官が強いだの勝手にやるだの、そんなのはありえないよ」
 彼の言うとおりだった。六太は知らないだろうが、鳴賢たちは現王がこれま
で発布したすべての勅令を学んだのだ。そこから王の見識の深さや大胆さ、慈
悲深さとを感じとった彼らにすれば当然の結論だった。官吏はあくまで執政機
構の歯車にすぎない。
 すると六太は、いっそう強く膝を抱きかかえて体を丸めると、あるかなしか
の声で途切れ途切れにつぶやいた。
「……そうだな。すべては王のおかげだ。――は何の役にも立たなかった。い
つもいつも……」
「おい?」顔を伏せたままの六太がすっかりおとなしくなってしまったので、
鳴賢は心配になって声をかけた。「もしかしてまた気分でも悪くなったのか?
横になったほうが良くはないか?」
 だが六太は顔を上げると、弱々しいながらも笑って「別に平気だってば」と
答えた。そして「なんでこんな話になっちゃったんだっけ? 変なこと言って
ごめんな」と、いったんは話を切りあげようとした。しかし何やら考え直した
のだろう、暫時口をつぐんでうつむいたあと、顔を上げて表情をひきしめると
今度ははっきりとした声で言った。
「もうこういう機会もないかもしれないしな。そもそも鳴賢たちが本当に官吏
になっちまったら、こんな話はできねえだろうし」
「うん?」
「怒らないで聞いてほしいんだけどさ。ずっと考えていたことがあるんだ」
 六太は反応を伺うようにいったん言葉を切ったが、ふたりが黙っているとふ
たたび口を開いた。
「王は――人柱、みたいなものじゃないかって。だから雁が安泰でいられるの
は、王が人柱であることに甘んじている間だけだって」

- 続く -

71名無しさん:2008/06/20(金) 21:19:34
只今はじめて拝見しました(*´Д`)
とても深いお話で先が全然読めない…延主従切ない…

更新楽しみにしています!

72永遠の行方「予兆(36/47)」:2008/06/30(月) 21:35:10
「あのなあ」
 今度こそ本当に憤りを覚えた鳴賢は、強い調子で咎める声を出した。しかし
六太の言葉があまりにも予想外だったため、却って何をどう返して良いものや
らわからずに口をつぐんでしまった。
 六太と話していてこれほど不愉快になったのは初めての経験だった。よりに
もよって王を人柱とは。嫌そうな表情を隠そうともしないまま、顔をそむける。
敬之も眉をひそめていたが、こちらは何も言わず、目顔で先をうながした。
 険悪で重苦しい空気になったことで、六太はひるんだ様子を見せた。だが鳴
賢たちが硬い表情で押し黙っていると、不意に疲れたような目をして淡々と続
けた。
「……王は王になった瞬間に不老不死になる。そして至高の位に就いて、官や
民に敬われ、かしずかれながら国を治める。だから最初は王自身も気づかない。
王の体や心はすべては国のためのもので、それ以外に存在意義などないことを。
いわば国に捧げられた人柱であることを」
「それは違うだろうが」たまりかねた鳴賢は、思わず口を挟んでいた。「農民
には農民の、商人には商人の役目があるように、要は王には王の役目があるっ
てだけの話じゃないか。存在意義だの何だの、そういう考えかたは見当違いだ」
 だが六太は彼をじっと見つめたあと、ゆっくり首を振ると続けた。
「確かにな。だが決定的なことがひとつある。それは王が玉座を埋めていれば
妖魔は現われず、天災もほとんど起きないという理(ことわり)だ。こればか
りは絶対に、余人にどうこうできる問題じゃない。それだけに王のいない国や、
王が天命を失った国は悲惨だ。だから空位の国では、誰もが一日千秋の思いで
新王の登極を待ち望む。そしてそれは往々にして、王自身の思いはどうあれ、
そして王が誰であれ、大抵の者はそんなことを忖度しないということに通じて
しまう。天に選ばれた人間が玉座に就くのは当然のことだし、もし拒否しよう
ものなら非難囂々だろう。大事なのはとにかく、天に認められた正当な王が玉
座にいることなんだ。すべてはそれからだ」
「それは要するに俺たち民が、玉座にいる人間が誰だろうと、自分たちの生活
さえ平穏ならそれでいいと思っているって言っているのか」
 鳴賢は吐き捨てるように言ったが、六太は今度も首を振って続けた。

73永遠の行方「予兆(37/47)」:2008/06/30(月) 21:37:49
「別に俺は民を責めているんじゃない。王と民のどちらにつくかと問われたら、
俺は絶対に民の側につくからな。もちろん鳴賢や敬之に含みがあるわけでもな
い。単に事実を言っているだけだ。王のことを口にすれば不敬だと言い、国政
とは王がなすものだと思っている。そうして雲海の上のことは、自分たちとは
別の世界の話だと思っている」
「だって実際そうじゃないか」敬之が呆れた口調で言った。「王は国を治める
べく麒麟に選ばれた神なんだよ? 天に許された王以外の者が国政をどうこう
言うなんて許されることじゃない。六太に悪気はないだろうけど、簡単にこう
いう話をするのは褒められたことじゃないな。そもそも官吏は仙籍に入るけど
王は違う。王が入るのは人の手の届かない神籍だ。僕たちがどうこう言えるお
かたじゃない」
「でも王も人間だ。麒麟に選ばれたというだけの人間だ。不敬だと言い、神だ
と言い、そうやって崇めたてまつってありがたがって、でもそのことが逆に王
を孤独にし、追いつめることもあるんだ。人間なのに、王としての振る舞いし
か許されないんだから。確かにその身はすべて国に捧げられるべきものだけど、
だからと言って人間としての悩みや苦しみと無縁でいられるわけじゃない」
「あのなあ、六太……」
 不穏な考えがあっての話ではなく、妙な思いこみからとはいえ王を憂えての
ことだとわかって少し安堵したものの、鳴賢は脱力せざるを得なかった。だが
六太は、そんな彼の反応を意に介さずに続けた。
「そりゃ、まあ、昇山した者ははなから王を目指していたわけだから別かもし
れない。それに官吏や飛仙など、ある程度の知識や心構えのあるやつに天啓が
降りたならまだいい。でもたとえば奏の王はもともとは舎館の亭主だった。慶
の前王、つまり予王は、商家出身のおとなしい娘だったと聞いている」
「へ? そうなのか?」
 初耳の事柄を、当たり前のようにぽんぽんと口に出され、鳴賢は面食らった。
 自国の王のことでさえ、一般の民に漏れ聞こえてくる内容はささやかなもの
だ。だから他国の王に至っては、姓名はもちろん出自などを民が知る機会はな
いに等しい。
 ただし大学生である鳴賢たちの場合はむろん事情が異なる。彼らがその気に
なれば、多少の手間はあるとしてもそこそこの知識は得られるだろう。しかし
各国の民は他国のことに興味を示さない傾向がある。入学前から他国の法にも
興味を持っていた楽俊のような人間は珍しいのだ。

74永遠の行方「予兆(38/47)」:2008/06/30(月) 21:40:23
 だから鳴賢たちも、勅令の内容や業績といった公のことならまだしも、他国
の王の個人的な事柄についてはまったく興味を持っておらず、したがって何も
知らないと言って良かった。それだけに六太が当たり前のように他国の王の出
自を口にするのは驚き以外の何物でもなかった。そもそも官吏でも学生でもな
いのに、いったいどこで知識を仕入れたのだろうと疑念をいだいても無理もな
い。
「予王については、慶にいる知り合いがそう言ってた」
「知り合い、ねえ……」
 鳴賢は、六太にこんな妙な話を吹きこむくらいだから、その知り合いとやら
はろくな人間ではないだろうと思った。
「予王は、当人に昇山する気もなければ、そういう意味での期待を周囲から受
けていたわけでもなかったそうだ。当然ながら施政に関する知識も心構えもな
かったが、優しくておとなしくて綺麗で、普通に嫁げばきっと幸せに暮らせた
ろう。だがある日突然現われた麒麟に選ばれてしまった」
 六太の口調には遠慮がないものの、表現には情緒的な彩りが濃かった。もし
や六太は小説のたぐいで知識を得たのではないのか、そういった庶民向けの娯
楽に真実が含まれているとは限らないことを知らないのではないかと鳴賢は疑
った。彼は敬之とちらちらと視線を交わしたが、六太はそんなふたりの様子を
気にするふうもなく、淡々と言葉を連ねた。既に口調すら、普段とは異なって
いる。
「王は一度にひとりしかあらわれない。玉座が埋まらねば国が荒れる。周囲か
らの有形無形の圧力もあるだろうし、選ばれた人間に選択の余地はない。そも
そも王位を拒むような無責任な人間に天啓は降りないとも言われているしな。
だが奏国のようにうまく転べばいいが、予王のように悲惨な方向に振れる場合
も少なくない」
「そりゃまあ、予王はねえ……。確か在位六年だっけ? 極めつけに短かった
んだよね。なのに女人追放例なんて悪法を作るものだから、おかげで雁にも荒
民が多く押し寄せたんだ」
 溜息混じりの敬之の言葉に、六太は苦い顔でうなずいた。

75永遠の行方「予兆(39/47)」:2008/06/30(月) 21:43:01
「小説や講談で、予王の話をおもしろおかしく仕立てているのは知っているよ。
麒麟に恋着して国を傾けた愚王、女官に悋気を起こすだけでなく、慶の全土か
ら女人を追放した無能者ってね。そもそも民は失政で斃れた王には容赦がない
ものだし、ただでさえ他国の出来事だ。でもこの際だから知っておいてほしい
んだが、慶国は長年の官吏の専横で政治は腐敗しており、ただでさえ年若い無
知な女王が施政に携わるには敷居が高かった。予王には知識も手段も人脈もな
く、王を無条件で慕うとされている麒麟以外には真実ひとりの味方もいなかっ
た。むろん高い志を持った人間はどこかにいたろう。だが政権を牛耳って予王
を囲いこんでいたのは、私利私欲をむさぼる連中ばかりだったんだ。
 そんな状況で、何の心の準備もなく、ある日突然王にされてしまった若い女
に何ができる? 予王は麒麟への恋着で国を傾けたと言われているし、確かに
それも事実のひとつではあるが、それでは王を疎んじた官吏には非がないこと
になってしまう。予王だって最初は厳粛に天命を受け入れ、彼女なりに真剣に
国政に携わろうとしたと聞いている。しかし官吏の専横、そして世知に疎い麒
麟など、予王の気構えに報いるような仕組みや人材がなかった。たったひとり
では王と言えども何できない。俺にはその孤独が、麒麟への恋着という歪んだ
形となってあらわれたように思う」
「……まあ……それも解釈のひとつだろうけどなあ……」鳴賢はつぶやくよう
に言った。
「だが予王は最後に禅譲を選んだ。みずからの生命と引き替えに、麒麟を、ひ
いては国を救ったんだ。治世の評価はどうあれ、玉座に値しない人間だったは
ずはない。そもそも天命を受け入れて玉座に就くこと自体、平凡な娘にとって
は相当な決断だったはずだ。でもそんな彼女の心情を思いやる者はいない」
 神妙な面持ちの六太とは裏腹に、鳴賢は肩をすくめた。
「でもそれは仕方ないんじゃないか? 天啓がおりたってことは、確かに王と
しての資質はあったってことだろう。でも結局予王はその資質を生かさなかっ
たわけだ。慶の現王なんか予王より年下の娘だって話だけど、単身地方に赴い
て反乱を鎮めてしまったって聞いたぞ。そもそも登極のいきさつ自体、あちこ
ちで小説の演目としてもてはやされているように、かなり劇的だしな。この際
だから俺も六太に言うが、王には王の責務がある。それを果たしてくれないな
ら、俺たちも辛辣になるしかないと思うぜ」

76永遠の行方「予兆(40/47)」:2008/06/30(月) 21:45:48
「わかってるさ、それは。ただ――そうだな、こう考えてくれないか? 仮に
雁が空位の時代で、玉麗とか阿紫に天意が下ったとしたら? 彼女の元にいき
なり現われた麒麟が即位を求めたら?」
 鳴賢たちは呆れた。たとえ話にもほどがあると思ったからだ。
「そんなのありえないだろうが……」
「阿紫はまだ十六だよ?」
「現景王は登極時十六歳だった。現供王に至っては十二歳で登極した」六太は
きっぱりとした口調で返した。「もっとも供王のほうは昇山組だが。俺は玉麗
って娘に会ったことはないが、鳴賢の話を聞いたかぎりでは予王と似ていると
思う。おとなしくて気だてが良くて、市井で平凡な暮らしを営むぶんには幸せ
になれるだろう娘だ」
「まあ、そりゃ……。でも仮に玉麗のところに麒麟が現われたら、俺は断るよ
うに忠告するけどな」
「鳴賢、さっき言ったろ? 王位を拒むような無責任な人間に天啓は降りない
と言われているって。それに玉座が埋まらねば国が荒れる。王位に就けという
周囲からの圧力も相当なものだろうって」
 面倒になった鳴賢は大きく息を吐くと、「ああ、ああ、わかったよ」と投げ
やりな口調で返した。なんでこんな話になったのかわからなかったし、やたら
と不愉快だった。
「もし麒麟が彼女のもとに現われたら、なのに宮城に味方がただのひとりもい
なかったら、まともに政治を行なえるとは思えない。本人が自分を捨ててよほ
ど辛抱強く血のにじむような努力をするか幸運に恵まれないかぎり、間違いな
く国は荒れ、十年ともたないだろう」
 六太は厳粛な面持ちでうなずいた。
「俺もそう思う。そして民衆は彼女の辛苦に思いを馳せることなく、ただ責め
るだろう」
 それに、と六太は続けた。

77永遠の行方「予兆(41/47)」:2008/06/30(月) 21:49:07
「いったん王になったら辞めることは許されない。王としてあり続けるか禅譲
によって――単なる自殺は禁忌だからな――死ぬだけ。終わりがない重圧に、
どれだけの人が耐えられるのだろう。もちろん、だからこそ禅譲という手続き
が用意されているのかもしれないが。以前ちょっと調べたことがあるんだが、
大半の王朝は五十年以上もつものの、その反面、十年から二十年で沈む短命な
王朝も決して少なくはないんだ」
「調べた、って。どうやって」
 驚いた敬之に、六太はこともなげに「史書で」と答えた。
「史書って……。そりゃあ図書府のようなところなら、雁の史書を含めて貴重
な書はたくさんあるけど、六太は大学生じゃないし」
「ああ、うちにも本だの何だのはたくさんあるんだ。それに」
「おまえ、何だかんだ言って、実は良いところのおぼっちゃんじゃないのか?」
 すかさず鳴賢が突っ込むと、六太は口ごもった。王についてなら、あれだけ
ぽんぽんと言葉が飛び出したくせに、自分のことを語るのは相変わらず苦手ら
しい。
「まあ、その……。そうだな……。ありがたいことに今は大事にしてもらって
る。でも前に捨て子のようなものって言ったのも嘘じゃないんだ。実際、俺、
四つのときに山ん中に捨てられたんだ……」
「え」
 六太はうつむくと、声を落とした。
「そのときは浮民みたいなものだったんだ。なのに兄弟が多くて満足に食べ物
もなくて。それで末っ子の俺が捨てられた」
 声もない鳴賢をちらりと見やってから、敬之は遠慮がちに六太に聞いた。
「その家族は、今は?」
「うん、どうなったかな……。結局、それから会えなかったんだ」
「そうか……。ってことは、六太は運良く誰かに拾われたってことだよね。良
かったな。でも六太はもともとは雁の民じゃなかったんだ?」
「確かに俺は雁の生まれじゃない。敬之の言うとおり、山ん中で運良く拾われ
て、それで今ここにいる」

78永遠の行方「予兆(42/47)」:2008/06/30(月) 21:51:53
「そうか」
 敬之は簡単に相槌を打ったが、鳴賢のほうは心底から驚いていた。六太が雁
の生まれでないなど考えたことはなかったからだ。それと同時に、六太に対す
るわけのわからない怒りがわきあがってきた。
 生粋の雁国民だと思えばこそ、先ほどの話も何とか聞けたのだ。なのにそう
でないことを知った今、不快の度合いはさらに増した。彼らの誇りである延王
についてとやかく言われた上、世の中の条理をわかっていない流れ者が偉そう
に講釈を垂れたという印象をぬぐえなかったからだ。
 そんな鳴賢の心中をよそに、六太は淡々と続けた。敬之も鳴賢ほどには不愉
快でないらしく、先ほどよりは真剣な面持ちで話を聞いている。
「それで、さ。昔は王とかが嫌いだったんだ。王のせいで俺たち民は苦しむっ
て。でもよくよく考えてみたら、王も苦しむんだよな。王だって人間なんだか
ら。長いことかかったけど、最近はやっとそんなことも考えられるようになっ
てきた」
「なるほどね……」
「たとえば、そうだな。先代の采王も不幸な例だったと思う。当人がどんなに
一生懸命でも能力が追いつかずに国が沈むことがあるという好例だったからな。
先々代の劉王の場合はもっと悲惨だ。その前の荒廃が激しくて国土を整えるの
が追いつかず、おまけに州候たちの支援を得られずについに斃れた」
「采王のことはよく知らないけど、劉王は僕も不運だったかもとは思うな。前
王に重用された州候の六人までが新王に反抗して、反旗を揚げたりもしたしね。
講義でもけっこう掘りさげてたけど、あれは国府対地方という構図で斃れた好
例だった」
「うん。それで結局は政権抗争を収めることができず、なかなか国を整えるこ
とができなかったんだ。失道した麒麟を、ひいては国を憂えた王は、自分では
州候たちを抑えられないとして、仮朝の準備も整えてから禅譲した。諦めが早
すぎるというのが後世の評価だと思うけど、俺はそんな王を誰も責められない
と思う。既に麒麟は失道していたわけだしな。それに何か不幸が起きたとき、
それを一方的に誰かのせいにして断罪するだけでは何にもならない。それじゃ
あ誰も何も学んだことにはならないし、また同じことが繰り返されてしまうよ
うに思う。

79永遠の行方「予兆(43/47)」:2008/06/30(月) 21:54:05
 それからこれは風漢も言ってたんだけど、三百年ほど居座った王が斃れると
きは悲惨な斃れかたをすることが多い。それも晩年の一、二年で、それまで豊
かだった国土のすべてを荒廃させるような極端な圧政を敷いたりする。それま
での善政と比べると、その豹変ぶりははなはだしい。でも三百年もの長い間国
を繁栄させてきた王が愚かなわけがない。それは終わりのない重圧に耐えかね
て何かが歪んでしまったからじゃないだろうか。そうとでも考えないと説明が
つかないと思うんだ」
 鳴賢は不愉快な表情を隠そうともしないまま、黙って聞いていた。憤りは憤
りとして、確かに六太の言い分もわからないでもない。だがそれは彼らが官吏
になったあとならともかく、市井の一庶民が考えるべきことではないというの
が正直な気持ちだった。第一、六太がなぜ、他国のことまでこれほど詳細に語
れるのかがわからなかった。さも真実であるかのように語っているが、本当に
何らかの根拠に裏づけられた言葉なのだろうか?
 そんな彼の様子に気づいていたのだろう、六太はまた「ごめんな」と謝って
からこう続けた。
「さっきは王を頼らないでほしいって言ったけど、それもちょっと違うかもし
れない。俺が言いたかったのは――そうだな、王をやたらと神聖視しないでほ
しいんだ。悩みも何もなく、人を超越しているなんて思わないでほしい。王だ
って人間なんだ。時には弱音を吐きたいときもあるだろうし、泣きたいときも
あるだろう。そういうのを全部ひっくるめて王を認めてほしいんだ。善政を享
受し、失政を責めるだけにはなってほしくない。言うなれば雁のひとりひとり
に王と一緒に国を支えてほしい。民も官も王も一緒に協力して国を治めて、互
いを思いやってみんなで幸せになれる。俺、そうだったらどんなにいいだろう
と思うんだ。
 それにそうすればきっと、何かあったときも王が立ち直るよすがになると思
う。そりゃあ、至高の存在である王の気持ちは、同じ王にしかわからないかも
しれない。たとえば宰輔と言えど、あくまで臣下であり次点。国の頂点に立つ
者の気持ちはわからないだろう。でもだからって、相手を慮らないというのと
は違うと思うんだ。何て言えばいいのか――その、うまく説明できないけど」

80永遠の行方「予兆(44/47)」:2008/06/30(月) 21:58:01
「いや、言いたいことはわかるよ」
 敬之が静かに答えた。そうしてから居住まいをただし、ほんの数瞬だけ沈黙
する。その反応に目をしばたたいた六太が見つめる中、再び口を開いた敬之は
こう諭した。
「ただね、六太。六太が真剣なのはわかるし、一介の民でしかない僕たちが王
のことを身近に感じて心配するのも悪いことじゃないとは思う。でもそれは本
来、僕たちの役目じゃない。六太の話を聞いていると、さっきからどうも自分
を高みに置いているように感じる。主上と言わずに王と言ったり、台輔と言わ
ずに宰輔と言ったり。確かに国政を憂えるのは悪いことじゃないけど、そうい
う役目にない者がそんなことを言ったりやったりするのは、大げさでも何でも
なく国が乱れる元だ。きついことを言うようだけど、思い上がっているように
聞こえるよ。たとえば王位を簒奪したり、偽って王を名乗る輩に通じるものが
あるとすら思える。歴史の中にはそういう例が多いからね。僕は六太を友達だ
と思うから忠告するけど、もうそんな話はしないほうがいい。六太は善意でも、
悪意を持って国政を牛耳ろうとするような輩の言に、何かの根拠を与えないと
も限らないんだから」
 敬之の反応から、てっきり彼が六太に言いくるめられたのかと思っていた鳴
賢は、その言葉を聞いて安堵した。おかげで少しだけ不愉快の度合いがやわら
いで、「確かにな」と相槌を打った。
「ごめん……」
 また顔を伏せて消え入るような声で謝った六太に、鳴賢は自分の気分を切り
替えるためもあって、わざと明るく声をかけた。不愉快な思いをしたのは事実
だったが、長いつきあいでもあることだし、できればこのまま六太と気まずく
なることは避けたかったからだ。
「気分が悪いから、妙なことも考えるんだろうさ。もう横になって寝たほうが
いい。明日になれば気分も良くなって、妙な考えも全部忘れてるさ」
 すると六太はもう何も抗弁しようとせず、素直に「うん」と答えた。鳴賢は
横になった彼の体に衾をかけてやった。

81永遠の行方「予兆(45/47)」:2008/06/30(月) 22:00:35
「帯を解いたほうが楽なんじゃないか? その頭巾も取ったほうがいい」
「いや……このままでいい」
「まあ、おまえがいいならいいけどさ」
「六太は仙なんだよね。仙もけっこう繊細なんだな」
 立ち上がった敬之が床几をしまいながらからかうと、弱々しいながらも六太
はやっと笑った。
「気分はとっくに良くなったって言ったろ。こういう考え方をするのは――何
ていうか俺の性分みたいなもん」
「物騒な性分だなあ」
「物騒……。やっぱりおまえらからするとそうなのかな」
「そうだよ。さっきも言ったけど、もうあの話はするなよ。特に滅多な相手に
は喋るものじゃない」
「……うん。わかった」敬之の言葉に、今度も六太は素直にうなずいた。
「それさえなければ、勉強して大学まで来いと誘うところだ。このままじゃ六
太はもったいない。知識と言い、官吏になればいいと思うけどね」
 敬之が言ったのはお世辞でも何でもなかったろうが、六太は真顔で首を振っ
た。
「俺、働いてるからそんなの無理だし……。それに官吏には絶対になれないよ」
「働いてるのか? もう?」
 言いかけた鳴賢はすぐ、まぬけな物言いであることに気づいて言葉を切った。
幼さの残る六太の外見を見ていると、ついうっかり彼が仙であることを忘れて
しまうのだ。特に今のように意気消沈してはかない様子をしていると、どうし
たって大人たちに庇護されるべき子供にしか見えない。
「――あ、仙なら早いこともないのか。六太、おまえ本当はいくつだ?」
 すると六太は、ようやく普段の彼らしい表情を見せていたずらっぽく笑った。
「実を言うと、俺、とっくに三十を越えてる」
「げっ、俺より年上かよ?」
 仰天した鳴賢は思わず叫んでいた。敬之も目をみはり、やがて脱力したよう
に大きく息を吐いた。

82永遠の行方「予兆(46/47)」:2008/06/30(月) 22:03:53
「道理で……。でも官吏じゃないってことは、身内が官になるのと一緒に昇仙
したってことだよね。今は店か何かで働いてるのかな?」
「いや、風漢と同じとこ、なんだけど」
「へえ? どこだ? 良かったら今度遊びに行くよ」
 何気なく言った鳴賢に、なぜだか六太はぎくりとなった。
「いや、その、府第(やくしょ)、みたいなとこなんで、それは無理だと思う
けど」
「府第ぉ!?」
「風漢がそこで、その、小間使いというか下働きしてるんで、その手伝いとい
うか」
「そうだったのか……」
 鳴賢はやっと得心がいったと思った。同僚のようなものなら、六太と風漢が
親しいのも当たり前だ。出会った頃、幼い外見の六太と二十代も半ばの遊び人
の風漢とでは接点がないように思えて不思議がったものだが、同じ職場で働く
ことで知り合ったなら合点がいくというものだ。今は同じ家に住んでいるらし
いが、下働きというなら、単に同じ府邸に住みこんでいるというだけの話だろ
う。
 ただ、どちらもあまり型にはまっているとは言いがたいだけに、府第のよう
な堅い印象の場所には不似合いで、意外な印象はぬぐえなかった。そうしてふ
たりをかかえている主人の苦労を思い、それでも首にしない度量の大きさに感
服しながらも内心で苦笑した。
 あるいはもしかしたらその官吏は、六太を本当の子供のように可愛がって、
正式に養子にでもしているのかもしれない。それで六太は昇仙できたのかもし
れない。それなら六太が遊び歩けるのも、教育を受けていないと言いながらも
しっかりした知識を持っているのも納得だ。
「風漢はやっぱり官吏に仕えていたんだね。でもまあ、それをはっきり聞いた
からには雁の民としては、六太ともども怠けないでしっかり働いてほしいもの
だと思うよ」
 敬之がそう言うと六太は困ったように笑い、「心がけておく」と答えた。

83永遠の行方「予兆(47/E)」:2008/06/30(月) 22:06:33
 やがて灯りをすべて消した鳴賢たちが房間を出ようとすると、ふと六太の声
が追いかけてきた。
「永遠ってさ、綺麗な言葉だよな」
「あ? ああ……」
「でもさ、永遠を得てしまった人間はどうすればいいんだろうな。要するに終
わりが見えないってことだろ。永遠という言葉が綺麗だと思えるのは、それを
得ていない間だけだ。永遠という名の停滞から自由でいられる間だけだ」
 鳴賢は敬之とまた顔を見合わせた。だが敬之が溜息をついて首を振ったので、
鳴賢も何も言わず、そのまま房間の扉を閉めたのだった。

 光州で大事件が起きたのはその年の十二月だった。最初の病から既に一年が
経過していた。
 一年前に死者を出した廬から二十里ほど離れた集落で、住民がことごとく死
病に冒され、たった数日でひとつの里が全滅した。その里に属する三つの廬す
べてが同じ有様だった。
 隣の里には何の異状もなかったものの、流行病を思わせる不気味な症状のせ
いもあって、近隣の住民は恐慌に陥った。ただでさえ人々が里に閉じこもる冬
場のことでもあり、運が悪ければ春まで誰もその里の惨状を知ることはなかっ
たもしれない。しかしたまたま訪れた行商人による報せを受けた住民は即座に
府第に駆けこみ、病の感染と拡大を防ぐよう強く訴えた。

- 「予兆」章・終わり -



-----
次章開始までに、またしばらく投下の間隔が開きます。

84名無しさん:2008/07/21(月) 22:10:04
素晴らしい…!
ぐいぐいと引き込まれて一気読みしました
やっぱり延主従は良いなあ、醍醐味が格別に違うなあ〜
続きをとにかく楽しみに待っております
がんばってくださいませv

85名無しさん:2008/08/06(水) 14:22:36
続きが気になる…
ワクテカで待っております(・∀・)

86永遠の行方「呪(前書き)」:2008/09/10(水) 00:09:18
ご無沙汰してます。
本格的な投下はもう少し経ってからになると思いますが、
とりあえず先に注意書きを含めた前書きを置かせてください。

登場人物は、尚隆、六太、朱衡、帷湍、鳴賢あたり。
あとは前章で出たオリキャラ陣。

六太が尚隆の身代わりに呪をかけられ、
「序」章に出てきた状態になるまでの話になります。

この物語で801的展開になるのは尚六のみで、
そもそも男×男は常世でもマイノリティの日陰者という前提です。
それもあって鳴賢のように、原作キャラでも勝手にオリキャラの異性に懸想するなど、
あくまで物語の雰囲気作りのレベルに留まるものの、
これからもそういう非801的&捏造の描写が出てくるかもしれません。
したがってその辺が苦手な場合はご注意くださるようお願いします。

87永遠の行方「呪(1)」:2008/09/10(水) 19:08:32
 関弓への第一報は一羽の青鳥だった。人目に立つ急使をあえて立てなかった
ところに、不可解で深刻な事件に対する光州候の配慮があったのだが、これも
のちのち口さがない輩が陰口をたたく一因となった。北方の里の全滅事件のあ
と、いや最初の変死事件が起こった段階で、即座に使者を立てて奏上すべき一
大事件だったと見なされたのだ。
 しかし後知恵なら、誰でも何とでも言える。
 いずれにせよ、青鳥につけられていた親書は、特定の者しか開けられぬよう
厳重に封がなされており、光州候の懸念の大きさと事態の深刻さを表わしてい
た。
 ちょうど新年を迎えるに当たって式典の準備などであわただしい時期で、青
鳥に限らず、内外とのばたばたとしたやりとり自体はどこの官府でも行なわれ
ていた。拝賀の儀式のため、州候以下、地方の高官が関弓に上る打ち合わせを
兼ねたやりとりも多く、したがって問題の親書は一般の官の注意をまったく引
くことなく名宛人に届けられた。
 その内容は表向きは光州からの慶賀の献上品の先触れとされ、実際、数日後
に使者とともに高価な品々が到着した。新年の儀式に間に合うよう旧年中に送
られるのが常とはいえ、例年より少々早かったが、むろん遅れるよりは良いこ
とであった。予定が多少前後するのもよくあることだったし、受け入れ担当の
官が急な多忙にぼやく程度のことでしかなく、使者を待って行なわれた緊急の
内議に気づいた者はいなかった。

88名無しさん:2008/09/15(月) 09:13:15
キタ―-(・∀・)-―!!!!

早く続きが読みたい!

89永遠の行方「呪(2)」:2008/09/16(火) 00:32:03
相変わらず天帝をも恐れぬ捏造てんこ盛りでお送りします。
しかも延々と会議で喋ってるだけで、萌えそうな展開は当分ありません……。
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 その日の午後、許可を得て路門に降りたった光州候一行を出迎えたのは朱衡
だった。
 年賀に備えるためとはいえ、必ずしも各州の州候が馳せ参ずるわけではない。
むしろ普通は州六官級の官吏を遣わして済ませ、州候自身が参ずるのは、せい
ぜい数年に一度といったところだろう。実際、光州候も上関するのは数年ぶり
のことだった。
 いずれにせよ普通は年末も押し迫ってから上関するものだから、献上品の件
といい、光州にかぎっては今年は少々早いのは確かだったが。
 とはいえむろん不自然な点は何もない。もともと王の側近のひとりであった
光州候ゆえ、出迎えたのが彼と親しい朱衡であったことと併せ、誰もが「つい
でに旧交を温めるのだろう」と解釈した。実際、光州候が家庭を持つまでは、
何度も朱衡と私的に行き来をしていたのだ、そう受けとめるのが自然だった。
「お久しゅうございます。候にはお変わりなくご健勝のご様子、何よりでござ
います」
「やめてくれ」光州候こと帷湍は、とたんに悲鳴じみた抗議の声を上げた。
「五年ぶりに会ったと思ったら、さっそくこれか。おまえに礼を尽くされると、
全身に蕁麻疹ができるわ」
「しかし、あなたのほうが位は上なのですから……」
「温州候の内示を蹴ったおまえに言われたくはないわ。それに今は公式行事で
も何でもないだろうが!」
 本気で嫌がっている帷湍を見て、朱衡は軽く笑うと「こちらへ」と手で先を
示して案内した。州候の随行にしては少ない光州の官らについては部下に任せ、
彼は帷湍をまず自分の私邸に連れていった。
「結局、娘さんは連れてこなかったのですね」
 道々、のんびりとした体で世間話のように朱衡が問うと、帷湍はうなずいた。
「ああ。来たがってはいたのだがな、遠慮させた」まだ周囲に人目があるため、
ぼかして答える。「まあ、光州の新米の官吏がうろちょろしても、宮城では邪
魔になるだけだしな」

90永遠の行方「呪(3)」:2008/09/16(火) 00:35:02
「台輔が残念がるでしょうね。昔、あれだけ可愛がっておられたのですから」
「そうだったな。だが文はときどきやりとりしていたようだが、もう十五年は
会っとらんだろう。神仙の常で十年も一年程度に思ってしまいがちだが、あれ
も、もう二十五だ」
「また見おろされる相手ができて、台輔はくやしがるでしょうねえ」
 朱衡はそう言って笑った。
 ふたりは一刻ほど語らって光州候が昔の朋輩を訪ねたという体裁を取りつく
ろったところで、今日は早々に政務を終えて内殿から下がっているはずの王に
拝謁すべく、正寝へ向かった。政務を執るための内殿どころか、王の私室であ
る正寝の宮殿への昇殿を許されている彼らは、こういうとき煩雑な手続きで無
駄な時間を費やさずにすむ。
 正寝のその一室には、冢宰や三公、六官の長、彼らの補佐のみならず、王お
よび宰輔の姿もあった。ここにいる十数人はまさしく雁の政権の中枢を担う面
々であり、これは先日と同様、内密の内議なのだった。
「久しいな、帷湍。元気だったか」
 以前と変わらず鷹揚に声をかけてきた王に臣下の礼を取ったあと、一同は王
と宰輔が座る椅子の前に置かれていた細長い大卓を囲み、冢宰や六官の長らは
椅子に座り、彼らの補佐役らは上司の後ろに立った。
 まず冢宰の白沢が会議の開催を宣言し、趣旨を説明する。そして光州候に対
し、今回の事件に対する迅速な対応と報告に感謝するとともに、御前でのあら
ためての報告を求めた。ここにいる面々は既に光州からの報せのあらましを知
ってはいたが、それらをさらう意味もあった。
「先日の使者が持ってきた報告によれば、問題の病は誰かがはかりごとをめぐ
らせた結果である可能性が高いということだったな」尚隆が口を挟む。「はっ
きり言えば、ひそかに大がかりな反乱の企てがなされており、その布石、また
は一環である可能性があると」
「にわかには信じがたいことですが」
 王に応えた白沢の言葉に帷湍はうなずき、無造作に立ちあがると一同を見回
した。

91永遠の行方「呪(4)」:2008/09/16(火) 00:37:08
 内議、それも御前会議なのだから、他国であればもっと重々しい雰囲気があ
ったろう。むろん雁のそれにも形式張ったところはあるし、特に型破りな王に
対して、臣下は昔から、威厳だの節度だのをしつけるべく体面や体裁を重んじ
てきたものだ。しかしこうしてひとたび事件が起こると、ある程度の礼儀と形
式さえ踏まえていれば、何よりもてきぱきとした実際的な対応が求められる傾
向があった。何だかんだと言いながら、結局は王の破天荒な言動に影響されて
きた結果だろう。
「正直なところ、謀反かどうかはわからん。他の州に飛び火するものかどうか
も見当がつかん。しかし少なくとも光州に対する反乱である可能性は高いと思
う。その可能性に気づいたのはうちの地官だが、最初に報告を聞いたときは俺
も信じられなかった。深刻な事態ではあるが、ただの流行病(はやりやまい)
としか思えなかったのでな。だが調べれば調べるほど、それを画策した輩がい
るとしか思えんのだ。最初から説明する」
 帷湍は部下に用意させてあった光州の地図をみずから大卓に広げた。他国の
地図よりずっと詳細な雁のそれを、王をはじめとして皆で覗きこむ。帷湍は立
ったまま、地図上の北方の一点を指し示した。
「われわれが事件の存在を知ったのは今月の十日だった。つまり州府に届けが
あったのがその日だったということだが」そう言って筆を持ち、示した先に印
をつける。「ここに葉莱(ようらい)という里があり、そこの住民が病に倒れ、
わずか数日のうちに全員が死んだというのだ。家畜に害はなかったため、人間
だけがかかる流行病と思われたが、いずれにしろ何の前触れもなく、老若男女
も問わず、一度に何十人もの人間がばたばたと倒れたというのは異常だ。隣の
里の民があわてて通報してきたのだが、原因はいまだにわからんし、病の特定
もできておらん。新しい病気かもしれんが、その後の調査で判明したところで
は、初期症状として局部麻痺が訪れ、しばらくすると斑紋が皮膚に生じてそこ
から身体がどんどん腐っていき、高熱に苦しみながら、子供なら二、三日、体
力のある若者でも五日から十日ほどで命を落としてしまうらしい」
 酷い症状の説明に、延麒六太が青ざめた顔で唇を噛んだ。症状自体は報告に
記載されていたため、彼も既に病の詳細を知っていたはずだが、あらためて聞
かされると衝撃の度合いが違うのだろう。

92永遠の行方「呪(5)」:2008/09/16(火) 00:39:25
「とりあえず流行病が発生した際の手順どおり、問題の里を隔離したり遺体を
荼毘に付したりし、近隣の里で似たような病が起きていないかどうか、家畜の
様子や井戸の水はどうかといった調査など、できることはすべて行なった。今
のところ新たな発病者もおらず、とりあえず民の様子は落ち着いている。ただ
し調べれば調べるほど、講じた手立てが功を奏したのかどうかは、はなはだ疑
問に思えるのだが、この理由は後ほど説明する。
 いずれにしろ感染源を特定する必要があったため、さらに調査し、特に病の
種類については瘍医も困惑していたため、州全土に渡って深刻な病の届け出が
なかったかどうかを調べさせた。その結果、州のあちこちで似たような病が発
生していたことがわかった。葉莱のように里が全滅したわけではないが、何ヶ
所かで一家が全滅していたのだ」
 帷湍はそう言って地図上に新たに印を八ヶ所つけ、病の発生場所を示した。
それは特にどこかの地方に偏っているということもなく、州全土に渡って点々
と散らばっており、普通の流行病の発生傾向とは明らかに異なっていた。
「取り急ぎ、最初の調査は県までとしたが、いちおう党への届け出までは調べ
るよう指示は出してある。もっともさすがに時間がかかるだろうが――おそら
くあまり意味はないだろう。というのも、ここで担当の官吏のひとりがおかし
なことに気づいてな。単に病の発生場所の地名を眺めているだけではわからな
かったんだが、こうして地図に書きこんで俯瞰すると、何となく円を描いてい
るように見えたのだ。それも州都を中心にして」
「ほう……」
 帷湍が示した指の先を追って印をたどった面々は、そこに現われた環を確か
に目にした。
「この九ヶ所だけでは少しいびつな感じだが、もしこことここ」と言いながら、
帷湍は円弧の空白部分を示し、「そしてもしここでも病が発生していたとした
ら、州都を十二方位から囲む円を描くことになる。しかも病の発生順は、州都
から見て丑の方角にあるこの里を起点とし、それも丑が象徴する一月に起きて
いる。次の発生は右回りに進んで寅の方角、時期は二月。同様にして、卯の三
月、辰の四月と進み、巳の五月と午の六月に当たる病はなかったものの、未の
方角では七月に起きている。あとは戌の十月が抜けているが、最後の子の十二
月に相当するのは葉莱だ。偶然にしては、あまりにも規則的すぎる」
「確かに……。しかし抜けている三地方では、本当に病はなかったのですかな?」
 太師が問うと、帷湍は首を振った。

93永遠の行方「呪(6)」:2008/09/16(火) 00:41:30
「この規則性を見つけた官らが『ここでも病が発生したはず』と当たりをつけ
て、その近辺の里を調査した。先日の使者を立てた時点ではわからなかったの
だが、俺が出立する直前に報告が上がってきた。府第への届け出がなかっただ
けで、確かに同じ症状の病による死者が出ていたということだった」
「では本当に十二方位で……」
「ああ、州都を囲む形で不気味な病が起きていた。それも実は丑の一月が起点
ではなかったようで、昨年の十二月、葉莱より少し北の姑陵(こりょう)とい
う里でも、一人暮らしの老人が同じような病で死んでいたことがわかった。ど
うやらそこが起点だったらしい。それも病の状況や州都からの距離を考慮する
と、姑陵のほうが地に描かれた円の一環と考えられるようだ。つまり姑陵が子
の十二月に相当すると考えられ、そこから始まって亥の十一月で終わる円がひ
とつ。全滅した葉莱は、その円より少し内側にあるということになる」
「環が閉じたというわけか。その直後に葉莱が全滅したと」
 顎をなでながら尚隆がつぶやくと、青ざめた春官長大宗伯が「まさか、この
まま次々と廬や里が全滅していくのでは」と、この場の誰もが頭に浮かべた懸
念を口にした。夏官長大司馬が顔をしかめて「莫迦な」と一蹴する。帷湍は話
を続けた。
「とにかくこれで、人為的な影のちらつく、奇妙な事件だということだけはわ
かったわけだ。これに気づいた官たちが葉莱以外で発生した病にも何か規則性
がないかとあわてて調べたところ、これまた奇妙な法則を見つけた」
 そう言って、彼はふたたび地図上の一点を指し示した。
「起点と思われるこの姑陵では、死んだ老人の家は北にあった。次の明澤(め
いたく)で死んだ一家の住まいは里の東。その次は南、さらに次は西。一巡し
て、次の臨青(りんせい)ではふたたび北。州都を中心に描かれた円も右回り
だったが、それぞれ被害に遭った里や廬の中でも、病人が出た場所は、右回り
に変化していたことになる。
 いずれにしろここまで来たら、狙いはわからんが誰かの企みによるものと捉
えるのが妥当だ。俺がさっき、葉莱の近辺に病が広がっていないのは、講じた
手立てが功を奏したためかどうかは疑問と言ったのはこのためだ。あまりにも
不自然で作為が匂う病だし、これまで特に対応策を取らなかった他の里や廬で
も、特定の場所に住んでいた者以外は罹患していない。ということはもともと
何もせずとも、病は広がらなかったように思えるのだ。要するにそれは首謀者
の予定にはなかったのだと」

- 続く -

94永遠の行方「呪(7)」:2008/09/20(土) 20:22:46
 帷湍が明確に発した「首謀者」という言葉に一同は慄然となったが、確かに
反乱の企てと考えるのが自然だった。それも非常に大がかりな。さらにここま
で明白な徴(しるし)が現われていながらも相手の影がまったく見えないとな
れば、光州からの報告が、迅速でありながら慎重に慎重を期したものだったの
も当然だった。
「おそらく呪でしょうなあ」
 冬官長大司空が重々しく、溜息まじりの言葉を吐いた。六太がなかば身を乗
りだして叫んだ。
「莫迦な。他人を害し、あまつさえ命まで奪う呪は、城の通路や階段などの無
生物に呪言を刻んで用いる呪とはわけがちがう。呪を組んだ当人もただではす
まないぞ!」
「存じておりますが、かといって他に考えようがありますまい」
「それは――そうだが……」
「むろん冬官府としてもこのような呪に心当たりはありませんが、まず間違い
ないでしょう。あまりにも常軌を逸しているものの、実際に大きな被害が出て
いるわけですし、もともと光州は、少なくとも昔は他州より呪が重んじられて
いたはず。また今回の件が葉莱で終わりとも思えません。北の小さな里ひとつ
を全滅させるだけなら、動機が何であれ数人の手練れがいれば事足りるでしょ
うからな。なのにそれだけのために、これだけ時間をかけた大がかりな呪を組
むはずがない」
「しかし、誰が、なぜ。何のために」
 慄然としながらも困惑した体の大宗伯に、他の者も困惑して顔を見合わせる
ばかりだった。やがて大司馬が口を開いた。
「まず。当たり前のことをいうようだが、覿面の罪があるから、他国の、少な
くとも王のたくらみではないということは確かだ。王以外の者の暴走という可
能性もないわけではないし、景王を亡き者にしようとした前塙王の例もあり、
完全に念頭から除外するわけにもいくまいが、実際問題としてその可能性は限
りなく無に近い」

95永遠の行方「呪(8)」:2008/09/20(土) 20:24:54
「他国からそのような敵意を向けられるいわれもありませんしな」冢宰が大き
くうなずいて応える。「雁そのものに対する企ての布石かもしれないにせよ、
とりあえず事件が起きているのは光州。そうすると光州内に原因があると考え
るのが、現段階では妥当でしょう。光候に心当たりは?」
 冢宰に問われた帷湍は苦々しい顔で首を振った。
「まったくない。ただし罷免されたり何らかのたくらみをくじかれるなどして、
俺個人なり州府なりが逆恨みされている可能性を言うなら、逆に心当たりは山
ほどある」
「しかし為政者である以上、そんなことは当たり前でしょう」太保が気遣うよ
うに口を添えた。
「いずれにしろ、俺個人に対する恨みを持っている連中が起こしている騒ぎだ
というなら、まだわかりやすいし、足跡もたどりやすいのだがな……。しかし
これではあまりにも仕掛けが大がかりすぎる。また一連の事件が光州一州にと
どまるものなら、事態の大きさはそれとしてまだいい。だが問題は、首謀者の
動機がわからないだけに、他州に飛び火する危険もあるということだ。そうで
なくともこれから先、葉莱のようなことが他の里でも起きつづけたなら、遅か
れ早かれ光州は大混乱に陥る。そうなれば首都州であるこの靖州に直に災いが
及ばずとも、対応次第で国がひっくり返りかねん」
「確かに……」
「今、俺の前の光候の時代まで遡って、関連しそうな事件がないか記録を調べ
させているところだ。しかし何か出てくるかはわからんし、それで対応が間に
合うかどうかもわからん。念のためにもっと前まで遡るべきかもしれんが、そ
うなると二百年前に謀反を起こした梁興(りょう・こう)の時代となって遡り
すぎるしな」
「そうともかぎらないのでは? 大がかりな呪を準備するのに、それだけ時間
がかかったということなのかも」
 首を傾げた朱衡が考えこみながら口を挟むと、帷湍はうろんな目を返した。
「しかし二百年だぞ。いくら何でも時間がかかりすぎだろう」

96永遠の行方「呪(9)」:2008/09/20(土) 20:27:03
「単に可能性ということでしたら、いくらでも考えられます。そもそもあの謀
反のあと、さしたる事件は光州では起きていないのですから、真っ先に連想し
ても不思議はないかと。四百年以上前の元州の謀反となると、さすがに除外で
きましょうが、先ほど光候ご自身が雑談で拙におっしゃっていたように、寿命
のない神仙は十年も一年程度に感じてしまう嫌いがあります。したがってもし
首謀者が仙なら、二百年も数十年程度の感覚ということも考えられます。むろ
ん何十年も恨みをかかえたままという人間は少ないでしょうが、只人でもまれ
に昔の恨みをしつこく覚えていて事件を起こす輩はいますからね」
 朱衡の意見に、大司馬が「確かに考えられないことではないな」と腕組みを
して唸った。
「特に不遇をかこっているとか、不如意だとか、そういう輩はちょっとした恨
みでもあとを引きやすい。地位や生活に恵まれた者がそれに満足し、過去の遺
恨があったとしても水に流したり克服したりしやすいのとちょうど反対だ」
「光州の謀反の残党ですか」地官長大司徒が口を挟んだが、納得できないとい
う顔だった。「拙官は当時、官の末席を汚していたに過ぎなかったため、あの
乱には不案内ですが、それでもいまだに梁興に忠節を誓い、そのために危険を
犯してまで大がかりな呪を企む輩がいるというのは信じられません。王位の簒
奪に失敗した梁興は最後に籠城し、仙だった官吏はともかく、下仙にもならな
い、大勢の奄(げなん)奚(げじょ)がことごとく餓死したというではありま
せんか。ついに意を決した寵姫のひとりが閨で梁興を討って開城したときには、
州城中に遺体が散乱していたと聞きますが」
 すると、当時を思いだしたのだろう、六太が痛々しく顔をゆがめながら大司
徒に答えた。
「そうだ。あそこに充満していた死の匂いと深い怨嗟の痕跡に、俺は州城に近
づけなかった。何しろ籠城は半年にも渡ったからな。只人ならひとたまりもな
いし、たとえ仙でも食べものがなければ飢餓に苦しむ。奸計を用いて人質にし
た尚隆に脱出されたあとは、梁興には打つ手などなかった。なのに降伏を進言
した臣下をことごとく手打ちにし、現実から目を背けてひたすら城の奥にこも
っていた。確かに梁興に忠誠を誓う連中の仕業とは思えない。よしんば今回の
事件がかつての謀反の残党によるものだとしても、動機は別のところにあるは
ずだ」

- 続く -

97永遠の行方「呪(10)」:2008/09/22(月) 00:05:41
「何にせよ普通に考えれば、先ほどの冢宰のお言葉どおり、光州で起きたこと
は光州に原因があると考えるのが自然ですが」
 太師の言葉に天官長太宰もうなずき、「不気味な事件ではあるが、だからと
言って物事を複雑に取らないほうがいいかもしれない」と言った。大司馬も同
意する。
「単純に考えてみよう。今回の事件は州都を狙っているように見える。そして
この二百年、光州が平穏だったことを考慮すれば、やはり梁興の謀反の残党が
いて、かつての主人と同じ位にある現州候を逆恨みしていると考えるのが、も
っとも無理のない解釈だと思う。それでその位を奪うか州都を荒らすかするた
めに呪を企んでいるのだとな。大司寇がおっしゃったように、大がかりになれ
ばなるほど、呪をかけるには準備がいるだろうから、それでこれまで時間がか
かったのではないだろうか」
「光州候に恨みを持つ者の仕業と言うことですか? あれから州候は二度も代
替わりしているのに?」
 大司徒は相変わらず納得できないようだった。太保も考えこみながら、「そ
れもそうですねえ」と首を傾げる。大司徒は続けた。
「逆恨みで謀反の残党が何か企んでいるとしても、それなら狙いは主上に向か
うのが自然ではないでしょうか。なのに主上ではなく州都、すなわち州候を狙
っているかのように見えるのは、ちょっとおかしいように思えます」
「なるほど。確かにそうかもしれませんな。まあ、最終的には主上を狙った謀
反であるものの、外堀を埋めるためにまず州候を狙っている可能性もあるわけ
で。特に帷湍どのはもともと、主上の古くからの側近でもありますからな」
 大司空がそう言うと、他の面々も考えこんだ。朱衡が言った。
「拙官も、別に謀反の残党による仕業と確信しているわけではありません。た
だ可能性としては十二分に考えられるため、判断材料の少ない現段階で除外す
るのは不適当ではないかと申しあげただけです。この事件は光候を狙ったもの
かもしれない。そう思わせておいて、実は主上が狙いかも知れない。あるいは
まったく別の意図があるのかもしれない。いずれにせよ、もっと情報を集めた
上で、さまざまな角度から分析する必要があるでしょう」

98永遠の行方「呪(11)」:2008/09/22(月) 00:07:50

 さらにいろいろな可能性を検討したのち、いったん休憩となったため、重臣
たちは座を移した。光州候と冢宰だけは、王および宰輔とともに別室にこもっ
たが、別の者たちは茶を飲んでくつろぎ、まだしばらく時間がかかりそうとあ
って、部下に担当の官府への指示を出したりして過ごした。
 それでもひとしきり茶を飲み、出された軽食で腹を満たしたあとは、今回の
事件に自然と言及してしまうのは仕方のないことだった。
「大司寇、大変なことになりましたなあ」
 その割にはのんびりとした口調で太師に声をかけられ、朱衡はうなずいた。
「すべてが終わってから、実は大したことのない事件だったと笑い話にできれ
ば良いのですがね。残念ながら、そういうわけにはいかないでしょう」
 何しろ現実に大勢の死者が出ているのだ。もし謀反の残党による逆恨みとい
う、動機からすれば安っぽい感情が原因だったとしても、今回の事件は相当の
重みを持ったものになるだろう。
 太師は、少し離れたところで茶杯を持ったままぼうっと座っていた大司徒に
も声をかけた。
「大司徒、お疲れになりましたかな?」
「あ、いいえ」大司徒はあわてて首を振った。「ちょっと考え事をしていまし
て。何しろあまりにも不可解な事件ですから」
「わかります。光候が困惑しておられたのも無理はない」
「皆さまは、本当に二百年前の残党の仕業だと……?」
 朱衡は首を振った。
「どうでしょうね。ただ、今のところ他に心当たりがないだけに、そういう可
能性を考えておいて損はないだろうということです。先ほどお話ししたとおり
ですよ」
「はあ……。そうですね」
 大司徒は相変わらず納得できない様子だったが、やがて思い切ったように尋
ねた。
「梁興という者は臣下には慕われていたのでしょうか? というのも、もしこ
れだけ長いこと恨みをかかえていた残党がいた場合、彼らが単に利をむさぼる
ために州候の周囲に群がっていた輩だとは思えませんから」

99永遠の行方「呪(12)」:2008/09/22(月) 00:09:57
 朱衡はしばし考えこんだあとで、こう答えた。
「そうですね。平穏なときにはそれなりに慕われていたと思いますよ」
「それなり……」
「州を治める手腕には相当なものがあり、腰も低く、礼儀正しい男でした。し
かし今となっては卑屈だったと申しあげたほうが正確でしょう。ひたすら主上
に礼を尽くしていましたが、後から思えばこちらを油断させるためにおのれの
本性を偽っていたのでしょうね。長いこと各地の州城への行幸を仰ぎ、念願が
かなった際はその誉れある一番手に光州がなるべく、熱心に主上に働きかけて
いましたが、それまでの彼の態度から推して、誰もそれを不自然だとは思いま
せんでした。当時は主上も少しお疲れだったようで、ご政務どころか、それま
でひんぱんだった下界への外出にも大して興味をお持ちにならず、万事になげ
やりだった頃でしたから、拙どもはむしろ主上の気晴らしになればと、喜んで
送りだしたものです。
 あとで聞いたところ、梁興は自分の選りすぐりの寵姫を何人も主上の臥室に
はべらそうとしたらしいのですが、さすがにそれは主上がお断りになったそう
です」
 大司徒が目を丸くしたので、太師が笑った。
「これこれ、大司徒。いくら主上でも、無条件で女性(にょしょう)を歓迎す
るわけではありませんぞ。少なくともご自分で美女を開拓されるならまだしも、
勝手に選別された女性をあてがわれるのは不本意なのではないですかな」
「あ、はい、それは想像ができますが……。その寵姫たちは喜んで王に侍ろう
としたのでしょうか。それとも梁興に命じられて仕方なく従ったのでしょうか。
聞いただけではかなり酷いことのように思えます」
「どうでしょうなあ。事件が解決したあと、彼女らを憐れんだ台輔の嘆願もあ
って後宮の者は全員許され、仙籍からも削除されませんでしたが、ま、いろい
ろだったのではないですかな。仕方なく従った者もいれば、あわよくば主上に
乗りかえられるかもと期待した者もいたでしょう。いずれにしろ梁興は結局、
そのうちのひとりに首を斬られたわけです」
「とはいえ主上が彼女らの奉仕を断ったのは幸いでした。主上には台輔がひそ
かに使令を一体つけていましたが、それでも閨で寝首をかかれないとも限らな
かったのですから。もっとも梁興は当初、そこまでは目論んでいなかったと思
われますが、少なくとも身動きできないような毒を盛られたり軟禁されたり、
といった危険はありましたからね。

100永遠の行方「呪(13)」:2008/09/22(月) 00:12:02
 実際、そのあとで企てがことごとく失敗した梁興は結局、直接主上を襲わせ
るような暴挙に出ました。随員のひとりだった当時の禁軍将軍が落命したのは
その際です。主上をかばって襲撃者の攻撃を受け、彼の部下たちが脱出路を死
守していた間に、主上は使令で州城から脱出なさいました。長年の側近であっ
た将軍が一命をもって主上を守ったことが堪えたようで、さすがに元州でのと
きのように謀反人との一騎打ちを目論むことはありませんでしたね」
 遠い目をして淡々と語る朱衡に、大司徒は感じ入ったように言った。
「元州に囚われた台輔を単身救出に赴いたというあれですね」
 すると朱衡は太師と顔を見合わせて笑ったので、大司徒は不思議そうな顔に
なった。
「なにか?」
「あ、これは失礼。あれはですね、市井の小説などではそういうことになって
いるようですが、主上の目的は、本当に謀反人との一騎打ちだったのですよ。
こう申しては何ですが、台輔を救出なさったのはそのついでです。実際、台輔
ご自身もあとでそうおっしゃっていました。それに元州の乱のときは主上もお
若かった。むろん身体的なことではなく、精神が、という意味ですが。当時は
何かと無茶をなさったものです。あれでも今は随分とおとなしくなったのです
よ」
「そうだったんですか……」
「いずれにせよ、梁興は州候としては優秀な男でしたが、主上を軟禁して自分
が取って代わろうと考えた時点で、それだけの器量でしかなかったということ
だと思います。自分の寵姫たちを物のように扱って主上に侍らせようとしたり、
投降するよりは奄奚を餓死させるほうを選んだ。たとえば仮に、梁興に個人的
に恩のある者がいたとして、そういった者は結果的に主上を恨んだかもしれま
せん。しかし大抵の者は、半年の籠城のあとでも梁興に良い心証をいだいたま
まということはなかったでしょう。救援の当てのない籠城ほど、悲惨なものは
ありませんからね」
「実際、開城後は地獄絵図が展開されていたわけですしね……」
 大司徒はそう言って恐ろしそうに身を震わせ、気を落ち着かせるためか茶杯
を口に運んだ。

- 続く -

1011:2008/09/23(火) 12:12:28
見てくださるかたもおられるようなので、こっそり注意書き。
(シリアス長編で、途中で舞台裏を書くとか書き手が出てくるのは
いくら二次創作でも興ざめだと思うので、これで最後にします)

何となくそれっぽい感じで書いてはいますが、捏造てんこ盛りで、
原作に明記してあることも勝手に改編してあったりするので、
軽く読み流してくださるのが精神衛生的にもよろしいかと。

実はこれ、女好きの尚隆が自然に六太ラブになるとは思えなかったため、
「どうして尚隆が六太に執着するようになったか」という
理由づけのためだけに考えた話です。
したがって事件そのものは大したことありません。
期待してると肩すかしを食らうと思うので……。
そんなに深い話が書けるほどの力量はないです。すいません。
そもそも本当に書きたい部分はずっとずっと後の、六太の呪が解けてからだし。
(つまりそれまでは、いくら長くてもただの前書き)
こういう妄想なんだなと適当に受け流していただけると幸いです。

またここまで長編だと、そろそろ引っ込んで
自分のサイトでやるのがマナーのような気がしますが、
始めてしまった以上はそれは無責任だと思うので、
この別館がある限りは続けさせてください。

102永遠の行方「呪(14)」:2008/09/23(火) 21:00:35
 その後、しばらく太宰やら太師やらを相手に、光州候の近況などを穏やかに
語っていた朱衡だったが、やがて後ろから「あのう、大司寇」と声をかけられ
て振り返った。そこにいた大司徒が相変わらず緊張した面持ちで言った。
「わたし、いえ、拙官は呪には不案内ですし、心配性なだけかもしれませんが、
何かおかしいとは思われませんか?」
「何か、とは?」
「まるで円を描くかのように病が移動していって、それが呪によるものと思わ
れるというお話でしたが。何だか随分まだるっこしいような気がして。それに
あんなふうにしたら、遅かれ早かれ誰かに気づかれるでしょうに。実際、光州
の官が気づいたわけですし、何というか――もうちょっと意図を隠すとか何と
か、首謀者はそういうことを考えなかったのかと思って。北の里を滅ぼすだけ
が目的ではないのだったらなおさら、真の目的を果たすために、行動を邪魔さ
れないように隠れるのではないでしょうか」
「なるほど。その意味では、確かに目立ちすぎますね」
 朱衡は同意したが、そこへ大司空が言葉を挟んできた。
「意図を隠すとは言っても、呪には普通、定まった手順や形式というものがあ
って、それを踏襲しないと効果がないものですからな。これを目論んだ者にし
てみれば、どうしてもああいうふうにしなければならなかったのでしょう。そ
れに光候の関弓への報告自体は迅速で慎重でしたが、既に最初の事件と思われ
る罹患から一年が経過している以上、結果的に長期間事態を放置していたこと
になります。今さら警戒されるとは思っていないか、あるいは既にそれを気に
しなくても良い段階に入っているのかもしれません。あ、いや、これはあくま
で首謀者がそう捉えているということですが」
「それはそれで物騒きわまりないが」
 渋面を作った太宰に、太保が取りなすように言った。
「おそらくその呪とやらは完成していないのですよ。わたしも何となく、首謀
者――謀反人は意図をあえて隠していないように感じました。それでもこのま
まわれわれが気づけばよし、気づかなくてもかまわない程度の投げやりな関心
しか向けていないような不可解な印象を感じて不思議でしたが、呪が完成して
いないのであれば納得できます。大がかりな呪をしかけているだけに、準備に
も発動にも時間がかかるのではないですか。そして途中である現段階の状態し
か見ていないわれわれは、何であれ中途半端に感じるのでしょう。本当は謀反
人も、われわれに気づいてはほしくないはずです。そう願ったまま、目論見を
続けているのでしょうよ」

103永遠の行方「呪(15)」:2008/10/04(土) 19:09:25
「途中……。確かにそうですな。実際、葉莱の件は中間地点に過ぎないのでし
ょうから」
 太師が応えると、大司徒が青ざめた。
「姑陵から始まった環は閉じたのですよね。もしや葉莱が、第一の環と同心円
を描く第二の環の始まりということはないでしょうか。また一巡して第二の環
が閉じたとき、さらに恐ろしい何かが起きるのかも」
「莫迦な」ずっと黙って聞いていた大司馬がいらいらした口調で言った。「大
司徒、憶測で最悪の事態ばかり想像して恐れても何にもならないだろうが」
「いや、為政者たるもの、常に最悪の事態を想定して心構えをなすことは必要
でしょう」
「しかし大司寇」
「いずれにせよ、もうこの場で話すことではないでしょうね。気になることが
あれば休憩が終わってから、主上や台輔が臨席なさる場で正式に意見として申
しあげるべきでしょう」
 朱衡がそう言ったので、さすがに大司徒も大司馬も黙りこんだ。そうしてし
ばらく居心地の悪い沈黙が流れたのち、ひとしきり咳払いだの、ひとりごとめ
いたつぶやきだのがもれ、その場にいた者たちは席を立ったり、隣の者と無関
係な雑談を始めたりしたのだった。

 内議が再開されると、最初に冢宰がこう告げた。
「先ほど光州候から、状況次第で他の者に州候位をお任せしても良いとのお申
し出がありました。もし帷湍どの個人が狙いだった場合、それで事件が収束す
る可能性もありますからな」
 ざわめきが起き、とたんに眉をひそめた太宰が言った。
「それは……こう申しあげては僭越ながら、少々無責任に過ぎるのでは?」
 他の者もうなずく中、冢宰は答えた。
「むろんそれは重々ご承知の上でのお申し出でしたが、いずれにせよ主上がお
認めになりませんでしたので」
「当たり前だろう」尚隆は肩をすくめた。「ここまで事態が進めば、万が一、
帷湍が狙いだったとしても容易に事が収まるとは思えん。となれば、他に落ち
度のない州候の首を今の時期にすげかえると、いざというときに光州側の指揮
系統が混乱して使い物にならず、却って事態を悪化させる恐れがある。頭が変
われば、全体の勢力図も否応なく変わるものだからな」

104永遠の行方「呪(16)」:2008/10/04(土) 19:11:29
「承りましてございます」
 冢宰は王に対し丁寧に頭を下げ、帷湍も神妙な顔でそれにならった。尚隆は
続けた。
「とはいえ光州城内では既に動揺が広がっているとのことなので、王師から兵
を割いて、州師とともに調査に当たらせることにした。これは事が起こった場
合に備えるのと同時に、敵方に揺さぶりをかける意味もある。相手が隠れてい
るなら、こちらが動くまでだ。とはいえ州師の数は十分だし、とりあえずは王
が背後に控えていることを示せば良いから、まずは一卒、そのあとは状況次第
だな。もっとも州候が不在の折りに王師だけを派遣するわけにもいかんだろう
から、年明け早々、帷湍の帰城につきそわせる形で州城に向かわせる」
 大司馬は「けっこうですな」とうなずいた。
「それ相応の規模の謀反なら、動向というものは多少なりともどこからか漏れ
るものです。しかし今回は、少なくとも現時点ではそれがない。このまま座し
て手をこまねいているわけにはいかない以上、さらなる人命が失われる前にこ
ちらから動くべきです」
「そういうことだ。ここ百五十年ほどは雁全体もまあ平穏だったが、そうそう
平和ぼけもしていられんだろう」
「五百年を越える治世となれば落ち着いて当然です。むしろ何百年も謀反だの
反乱だのが絶えなかったほうがおかしいのです」
 朱衡がすまして答えると、尚隆は大仰に嘆息を漏らした。
「こうしてちくちく嫌味を言われ続けて五百年。よくぞ失道しなかったものだ
と、俺は自分を褒めたくなるぞ」
 そう言って一同の笑いを誘ったあと、彼は「いずれにしろ、いつもとは勝手
が違うので要注意ではあるな」と続けた。
「武力がどうの、ということならいくらでも計れるが、呪が相手ではさすがの
俺も手も足も出ん。こういうことはむしろおまえのほうが得意だろう」
 尚隆が傍らの半身に声をかけると、六太は肩をすくめた。
「そりゃまあ、ある程度の経験を積んだ麒麟は呪の専門家みたいなもんだから
な。だがこういう、人に害をなす呪は専門外だ。冬官府のほうがはるかに詳し
いだろう」

105永遠の行方「呪(17)」:2008/10/04(土) 19:14:03
 しかし大司空は困惑したように首を振った。
「我々とて、確かにたとえば冬器は作っておりますが、あくまで武具の威力や
耐久性を増すというだけで、直接人に危害を加える呪というのは……。むろん
門外不出の危険な禁呪はありますし、書庫を調べさせれば、あるいは昔の記録
などに今回の事件に関係のありそうな内容が書かれている可能性もありますが、
今の段階では何とも申しあげられません。
 何にしてもこれほど規模の大きな呪を仕掛けるには、準備だけでも相当かか
るでしょう。そして先ほど台輔がおっしゃったように、他人に害をなす呪は当
人にも災いをもたらすはず。その割には一向に相手の姿が見えず、見当もつか
ない、そもそも目的がわからないというのは解せませんな」
 朱衡も「脅しにしては接触がありませんしね」と同意した。そして王に向か
ってこう言った。
「先ほどの休憩時にもこの話題が出たのですが、大がかりな呪ということで、
目的に必要なすべての用意が終わっていない可能性があります。そのため少な
くとも何らかの区切りがつくまでは、謀反人は身を潜めているつもりなのかも
しれません」
「確かに大層な仕掛けなら時間もかかろうし、その作業を終えるまで疑いの目
を向けられたくはないだろうな」
「はい。しかし毒殺魔のたぐいもそうですが、知識なり技術なりを駆使して悪
事をたくらむ者は、一般的にうぬぼれが強い傾向にあります。そのため無意識
に自分の知性を誇示しようとして、つい墓穴を掘ったりもするのですが、残念
ながら今のところそのような気配はありませんね」
「だがひとつの里が全滅したというのは大事件だ。ということはこれまではそ
れとして、こちらが陰謀の存在に気づいたという前提で行動してくる可能性も
高い。それに騒ぎが大きくなれば、よしんば呪者が民の間に紛れて潜んでいた
としても、いつまでも身を隠し通せるものではない。したがってそろそろ動向
が漏れてくるか、何らかの接触があると考えていいだろうな。とりあえずは年
明け、一月に丑の方角で何かが起きるかどうかだが……」
 考えこんだ尚隆に、帷湍が反射的に「頼むから宮城でじっとしていてくれ」
と声を上げた。尚隆はにやりとしたが、彼の口から出たのはもっと堅実な言葉
だった。

106永遠の行方「呪(18)」:2008/10/05(日) 20:04:02
「そんなことより、もっと先に心配することがあるだろうが」尚隆は言い、目
の前の卓の地図を指し示した。「姑陵から始まった環と同じように、もし葉莱
の件が、そこから始まる第二の環の起点だとしたらどうする。さらに一年後に
何が起きるかはさておき、年明け早々、一年前の一月に死者が出た明澤の近く
の里が全滅する恐れがある。姑陵と葉莱の位置関係から推して、目標となる里
はだいたいしぼりこめるだろう。この際、多少の誤差はかまわん。むしろ念の
ために近隣の里も含めたほうがいい。とにかく早急に特定し、そこの住民を一
ヶ月間別の場所に避難させろ。新たな死者が出てからでは遅い」
「そ、それはそうだが……」
 帷湍が口ごもったのをよそに、先刻の休憩で同じ話題に接した重臣たちは顔
を見合わせた。彼らの懸念など王はとうに見通しており、単にその懸念の是非
を論じていた彼らとは違って既にその先を考えていたのだ。
「報告によれば病の発生日は固定ではないが、だいたい月中あたりが多いとの
ことだったな。それを考えれば数日の猶予はあるかもしれんが、万が一という
こともある、年が明ける前に避難させろ。呪だの何だのと言われてもわけがわ
からんだろうし、新年の祝い事は特別だから民は嫌がるだろうが、もっともら
しい理由をでっちあげるんだな。とはいえ田畑のことを考えずにすむ冬だった
のが不幸中の幸いだ。それなりの理由を挙げた上で住処を用意し、生活費の支
給なり補償なりを持ちだせば避難してくれるだろう。ただし病の原因がわから
んだけに、避難先でも他の里の住民とは接触させるな」
「しかし……」
「なんだ、帷湍」
「第二の環という懸念はうちの官も指摘していたのだが、何にしろ葉莱の場合
はそれまでの規則性が当てはまらんわけだ。ということはそこが新たな起点だ
ったとしても、たとえば今度の環は前回と逆に左回りに描かれるのではないか
とか、いろいろな推測が――」
 すると尚隆は呆れたように言った。

107永遠の行方「呪(19)」:2008/10/05(日) 20:06:38
「新たな法則性が現われるかどうかもわからんではないか。しかもその法則性
とやらがわかるとしたら、葉莱の次の里で被害が起き、民が死んでからだ。だ
がそんなことは許さん。ならば単なる心配や憶測は除外し、これまで明らかに
なった材料からのみ推測を導くしかなかろう。姑陵から始まった環が閉じたな
ら、その少し内側にある葉莱も、それを起点として同じように一年を費やして
環を描くことは十分に考えられる。となれば次は、州都から見て明澤の少し手
前、姑陵に対する葉莱と同程度の距離関係にある里が狙いと考えるのが順当だ
ろう。環が逆順に描かれることを懸念するなら、十一月に被害のあった亥の伯
昌(はくしょう)についても、その近隣の里を警戒すれば良い。何なら十二方
位すべてにおいて、第二の環の上にあると懸念される里の民を避難させること
だ。民には迷惑だろうが命には代えられんし、それで少なくとも一ヶ月は時間
を稼げる。その間に敵のあたりをつけ、打開策を練ることだ」
 被害が懸念されるすべての里の民を避難させるという考えに、六太がほっと
した様子を見せた。帷湍のほうは難しそうな顔で考えこんでいだが、やがて
「何とかしてみよう。あとで令尹に緊急の青鳥を飛ばしてみる」と答えた。尚
隆はうなずいた。
「優先順位としては、まず丑、次に亥、他の十方位の里はそのあとだな。特に
一月が懸念される丑は、年明けまであまり日数もないだけに早急に避難させる
必要がある」
「わかった」
 次に尚隆は冢宰に向かい、「他の州でも既に同様の事件が起きていないかど
うか、これも早急に確認する必要があるな」と言った。
「光州と違い、事件が起きていても単に気づいていないだけという可能性もあ
る」
「ではこれから朝議を招集いたしますか」
 冢宰が問うた。

108永遠の行方「呪(20)」:2008/10/05(日) 20:08:52
 朝議はもともと毎朝の定例だけに、何よりも官に対する王の謁見という意味
合いが大きい。むろん討議も行なわれるが、前日に官府で行なわれた各種業務
に関する奏上や、当日以降の王の政務予定の発表など、通常は事件性のない内
容が扱われる。特に雁では、大抵の国より朝議に参加できる官位は低めに設定
されていて朝官の数自体が多く、今回のように不可解で影響の大きな事件の対
応をいきなり諮るには不向きだった。だからこそこうしてまず内議で煮詰め、
それなりの方向性や基本的な対応を模索することになるわけだが、ある程度の
段階になれば朝議で公にするのが筋だった。
 ちなみに朝議は午前中に行なわれることが多いが、だから「朝」議というわ
けではない。朝廷会議という意味だからだ。したがってたとえ夕刻や深夜に行
なったとしても「朝議」と称されるし、緊急時は一日に複数回招集されること
もある。
 冢宰の問いに、尚隆は「いや」と答えた。
「朝議は明日で良い。それより各州に確認の青鳥を飛ばせるのが先だ。とりあ
えずはこういう流行病が発生しているからと、各州においても現状を確認して
早急に報告を求める旨の青鳥を今日中に送れ。その後、上関の予定のない州候
には使者を立てて今回の件の詳細を報せる。まあ、州候がぼんくらでなければ、
そして今回の企てと無関係なら、最初の青鳥で迅速に対応するだろう。仮に州
候もしくは側近が首謀者と関係があったとしても、彼らを通じて揺さぶりをか
けることができるはずだ」
「ではさっそく」
 冢宰は頭を下げると、控えていた自分の部下に指示を与えて下がらせた。
 その後、重臣たちはそれぞれが懸念している事柄を王に伝えた。そして差し
あたって疑いから除外する理由もない上、考えようによっては首謀者との関連
が最も疑われる二百年前の謀反について、光州と関弓の両方で記録を当たった
り当時の関係者に聞き取りをすることになった。特に聞き取りに関しては、呪
に詳しいと思われる冬官や、梁興の日常を知っていた元寵姫を重点的に当たる
ことになった。

109永遠の行方「呪(21)」:2008/10/25(土) 17:58:46
 先の休憩時、既に尚隆が指示を出して仙籍を調べさせていたため、人数の多
い冬官はともかく、寵姫が二人しか残っていないことはすぐわかった。謀反の
あと、尚隆は彼女らを許して仙籍もそのままにしたが、みずから仙籍削除を願
いでた者も多く、ほとんどは数十年後に只人として没したと思われたからだ。
とはいえ生きている二人も光州を出ているため、すぐには居場所をつかめず、
かなりの時間がかかるように思われた。
「それでももし今回の件があの謀反と関係があるなら、何か呪者なりに心当た
りがないとも限りませんしな、早急に手配いたしましょう」
 そう言うと冢宰は、内議の場に届けられた報告の書面を確認しながら続けた。
「ふむ、冬官は十名近くいるが、仙籍に残っている寵姫は確かにふたりだけ。
この晏暁紅(あん・ぎょうこう)という女が梁興を討った者ですが、謀反のあ
と、親類である当時の貞州候を頼って光州を出たことはわかっております。さ
っそく貞州に問い合わせてみましょう。もうひとりの武蘭珠(ぶ・らんじゅ)
という女の行方はどうでしょうな。こちらは光州で調べたほうが早いかもしれ
ません」
 冢宰が書面を王に手渡すと、その傍らで六太が「可哀想にな」とぽつりとつ
ぶやいた。怪訝な目を向けてきた冢宰に、六太は沈んだ声でこう答えた。
「あの籠城は悲惨だった。開城したあと、生きのこった官はほとんど腑抜けの
ようになっちまってて……。俺は州城に近づけなかったから、離宮に引きたて
られてきた彼らを見ただけだけど、みんな心身ともに疲れきって座りこんでい
た。そう、後宮の女たちが、よれよれになった装束をまとい、他の者と肩を寄
せあったり泣いたりしていたのを覚えている。官と同じように、ひたすら茫然
と座りこんでいたのもいたっけな。今どこでどうやって暮らしているのかは知
らないが、あんな事件は忘れたいと思い、実際に忘れて暮らしているんじゃな
いだろうか。なのに当時のことを聞かれたらつらいだろうな」

110永遠の行方「呪(22)」:2008/10/25(土) 18:00:56
「あれから既に二百年経っております、台輔」太師が穏やかに口を挟んだ。「
それだけの時間があれば、すべては思い出になったはず。今さらいろいろ聞い
ても、つらい思いをさせることにはなりますまい」
「ああ……。そうだな。そうだといいが。何しろ生きのこっているひとりは、
実際に梁興を討った者だという。武人ではなく、暴力とは無縁の後宮のなよや
かな女が、籠城をやめさせるためとはいえ慣れない剣をふるって主人を手にか
けたんだ。つらかったろうな……」
 六太は苦しそうな表情でつぶやいた。しかしそれは彼が慈悲の本性を持つ麒
麟だからで、他の者はむしろ梁興の側仕えが生き残っていたことに安堵する思
いだった。何しろ謀反に荷担したと見なされた者は、罪が最も軽い者でも仙籍
を削除され、したがって既に没している。他の主だった臣下も、かなりの者が
梁興の怒りを買って籠城中に殺されていたから、日常的に梁興に接して彼をよ
く知っていた者はあまり残っていなかったのだ。
 しかし正式な妻ではなかったにせよ、梁興のすぐ側で仕えていた寵姫なら何
か知っているかもしれない。重臣たちはそう期待した。

111永遠の行方「呪(23)」:2008/11/01(土) 18:45:53

 年末年始は帰省する学生も多く、例年この時期になると、街だけでなく大学
の中も何となくあわただしい雰囲気になる。何しろ二ヶ月もの長期休暇となる
と、特に遠方から来ている学生の場合、年に一度の帰省の機会だからだ。
 もっとも鳴賢は帰らずに勉強するつもりだった。同じような理由で寮にとど
まっている学生も少なくない。
 楽俊もいつものように大学寮にとどまっているが、むろん彼の場合は事情が
異なる。唯一の家族である母親も今や寮の飯堂で働いているし、そもそも母親
は故国の家を引き払ってやってきたので、楽俊が帰省する先など既にないのだ。
 しかしそのことをどう思っているのか、当人はのほほんとしており、すっか
り人気のなくなった飯堂の席で無駄話をしている鳴賢と敬之とよそに、今も母
親を手伝ってせっせと卓の上を布巾で拭いてまわっていた。椅子の上に乗って
小さな鼠の体を懸命にのばし、均衡を取るようにしっぽをゆらゆらとさせなが
ら大卓を拭く姿はなかなかほのぼのとしているが、奄のようだと相変わらず陰
で笑い者にもなっている。そのことを知らない楽俊でもないのだが、当人は
「体を動かしたほうが気分転換になって調子も上がるからな」とあっさりした
ものだ。
 もし六太あたりがこの場にいたなら、おそらく彼も気軽に楽俊を手伝ってま
わっただろう。「早く片づけちまって、街に遊びに行こうぜ」と明るく誘いな
がら。だが鳴賢たちはのんびりと椅子に座り、働き者の友人をぼけっと眺めて
いるだけだ。
「そういえば、あれから六太を見ないね」
 敬之が言った。「あれ」というのは、王が人柱だという不穏な話をしたとき
のことだ。確かにあれから鳴賢も六太の姿を見かけていなかった。
「そうだな。でもまあ、年末は誰も彼も忙しいから」鳴賢はそう答え、なまっ
た体をほぐすように首をゆっくりと回した。これから自室に戻ってまた勉強三
昧だ。「それに考えてみれば、あんな話をしたあとで少し気まずいのかもしれ
ない」
 すると敬之は少し黙りこんだあとでこう言った。
「実はあれからちょっと考えてみたんだけど」

112永遠の行方「呪(24)」:2008/11/01(土) 18:48:10
「うん?」
「六太の話。あのときは最初は民の話、次に官、そして王と焦点がぶれていた
からわかりにくかったけど、よくよく思い返してみると、六太の言いたかった
ことはたったひとつなんだなあって思ったんだ」
「へえ?」
「民であれ官であれ、はたまた王であれ、それぞれが最大限に他者を思いやり
ながら、懸命に本分をまっとうすること。そういうことなんじゃないかな。要
するにさ、それに尽きるんだ」
「なるほどな。まあ、そう言われればそんな気もするが」あまり楽しい話題で
はなかったので、鳴賢はおざなりにつぶやいた。そして面倒くさそうにこう続
ける。「というかさ、やっぱり六太は育ちが良いんだよ。三十を過ぎても、本
気でそんな理想を夢見ていられるほど苦労していないんだろう。確かに捨て子
で死にかけたことがあるのかもしれないが、良い人に助けられて、今は富裕な
官吏の養子にでもなっているんじゃないか」
「そうだね。僕もそう思う。まあ何にしても、僕が帰省している間に六太に会
ったら、よろしく言っておいてくれ」
「ああ」
「おーい、ふたりとも茶ぁ飲むかぁ?」
 卓を拭きおえて奥の厨房に引っこんでいた楽俊が、陰からぴょこんと顔だけ
出して大声で尋ねてきた。敬之は、これまた大声で「いや、僕はそろそろ房間
に戻って荷造りをしなけりゃ。またな」と返した。
 いったん厨房に引っこんだ楽俊は、ほどなく茶杯をふたつ盆に載せてやって
きた。そしてひとつを鳴賢の目の前に置き、向かいの、さっきまで敬之が座っ
ていた席に落ち着くと、のどかにずずっと茶をすすった。
「やっぱり鳴賢は家に帰らねえのか?」
 何気なく問われ、鳴賢も茶をすすりながら答えた。
「ここまで来ると、さすがにそれどころじゃないからな。何が何でも今度こそ
卒業しないと。それより文張はどうするんだ?」

113永遠の行方「呪(25)」:2008/11/01(土) 18:50:57
「おいらも今回は寮で缶詰になってようかと思ってる。自信はあるっていやあ、
あるんだが、もしもってこともあるしな。万全を期さねえと。早く卒業して官
吏になって、できるだけ早く一人前になって、母ちゃんに楽をさせてやりたい
んだ」
 ちらりと厨房のほうを見やった楽俊に、鳴賢は身を乗りだして「雁の官吏に
なるんだよな?」と念を押した。すると楽俊は耳の後ろをかきながら、困った
ようにこう答えた。
「といっても、ここじゃ結局おいらはよそ者だからなあ。本当は巧に帰ってみ
たいんだが、巧じゃいまだに半獣の登用はないらしい。それでも経験を積んで
使える人材だとわかってもらえれば、もしかしたら使ってもらえるかもしれね
え。今はそれを励みに頑張るしかねえなあ」
「雁の民になればいいじゃないか」
「土地を買う金がねえもん」
 しょんぼりとした様子の楽俊に、鳴賢は「雁で官吏になれば、雁の民になれ
るだろうが」と呆れた。楽俊は「うーん」と唸ると、「実を言うと、自分がど
うしたいのか、よくわからねえんだ」と意外な答えを返した。
「よくわからないって……」
「そうだなあ、巧にいた頃は、自分を生かせるところならどこでもいいと思っ
てた。何しろ選択の自由もなかったからな。だけども実際に雁で暮らすように
なると、そう簡単に割り切れるもんじゃねえってことに気づいたんだ。むろん
最初は無我夢中だったけど、最近じゃ余裕も出てきて、そうすると父ちゃんが
死んでからは巧にいい思い出なんかねえのに、やたらとあっちが気になるよう
になってなあ。何を言っても、結局は生まれ育った故国だ。雁で官吏になって、
もし重要な仕事でも任せてもらえたら、そりゃあ嬉しいしやりがいもあるだろ
う。でも巧に帰って巧が良くなるために尽くせるんなら、それもまたやりがい
だろうと思ってな。もうちっと半獣が暮らしやすい国にできたらとも思うし」
「まっとうに正丁扱いもしてくれず、土地もくれなかった国にそこまで未練を
残すこともないだろうが」
 鳴賢が溜息をついて言うと、楽俊はこんなことを言いだした。
「なあ、鳴賢。これはあくまでたとえ話だから、怒らないで聞いてほしいんだ
けど」

114永遠の行方「呪(26)」:2008/11/01(土) 18:53:05
「なんだ?」
「もし、もしも、だ。今の主上が乱心なさって雁を荒らし、台輔を道連れに崩
御されたとする。そうすると少なくとも何年かは新王の登極はありえないし、
国は荒れる一方だ。鳴賢も他国に逃げて、幸いにもそこで重用されたとして―
―すぐその国の民になる決心がつくか?」
 仮定とはいえ、いきなり王の崩御の話を持ちだされて驚いた鳴賢は、まじま
じと目の前の友人を見つめた。だが以前六太が言った「王は人柱」という話の
ときと違い、あくまで鳴賢が楽俊の気持ちを推し量るためのたとえでしかない
とわかったから、かすかな不快感こそ覚えたものの憤りまでは感じなかった。
それにもともと楽俊は、鳴賢の感覚からすれば突拍子もないことを言いだすこ
とがあった。
「――急に、そんなことを言われてもなあ……」ようやくそれだけ答える。
「それに俺はおまえと違って土地ももらえたし、国から理不尽な扱いを受けた
こともない。条件はかなり違うと思うぞ」
 だが楽俊が黙ったまま彼の反応を見ていたので、鳴賢はさらに考えて言葉を
つなげた。
「正直なところ、よくわからないな。そんなことは想像すらしたことないし―
―雁は俺が生まれるずっと前から大国で繁栄を続けていた。今だって主上の治
世に陰りはまったく見えないし、何となく、このまま俺が死ぬまでずっと平穏
に続いていくような気がしているからな」
「だけど歴史には、ほんの数年で国を荒らして崩御しちまう元名君もめずらし
くねえぞ」
「わかってるさ、それは。確かに可能性としてなら、雁だってそうなることも
ありうるだろうさ。でも俺にはどうしても、自分の国のこととして想像するこ
とはできない」
「そうか」
 楽俊はうなずくと、ふたたび茶杯に口をつけて、のんびりとすすった。そし
て「そうかもしれねえな。何たって奏と雁は別格だからな。変なたとえをして
悪かったな」と詫びた。

115永遠の行方「呪(27)」:2008/11/02(日) 22:52:35
 その様子に、鳴賢はふと、楽俊が大学に入ったばかりの頃のことを思いだし
て言った。
「そういえば前、頼まれ物を届けるとか何とかで、柳のほうへ旅に出たことが
あったよな。入学して最初の新年だったか。俺は帰省していたから後で知った
けど、かなり長い間いなかったんだってな。今じゃ文張がお人好しなのはよく
知っているが、当時は随分のんきな奴だと呆れたものだ。でもさ、もしかして
そうやって他国に行ったり、海客と会ったりしているのも、将来どうするかを
考えてのことだったのか? いろいろな場所を見たり、変わった奴と会ったり
して、何かを目標のようなものを見つけようとしているとか?」
「そんなんじゃねえ」楽俊は笑った。そして苦笑まじりにこう答えた。「柳に
行ったのは本当に頼まれたからだ。前にも言ったと思うけど、大学の入試を受
けるのに便宜を図ってくれた人がいて、その恩人に頼まれただけだ。引き受け
れば、母ちゃんを巧から呼ぶのにも力になると言ってもらったしな。おまけに
旅の費用は持ってもらったし、もともとおいらは雁以外の国にも興味があった
から、お互いの利害が一致したってとこだ」
「それにしたって……」
「海客のことは、入学したばかりの頃、道に迷って海客の団欒所に偶然行った
のがきっかけだ」
「道に迷ったぁ?」
 鳴賢は素っ頓狂な叫びを上げた。楽俊は照れたように、耳の後ろをぽりぽり
と掻いた。
「迷ったってのは正確じゃねえな。うん――何かと物珍しくて、こっちには何
があるんだろうとふらふら歩きまわっていたら、変わった音楽が聞こえてきて
な。何だろうと思ってずんずん歩いていったら、そこが団欒所だった。聞こえ
てきていたのは海客の音楽だったんだな。まあ、帰りは本当に迷ったというか、
帰り道がわからなくて、通りがかった官吏に途中まで送ってもらったんだけど」
「おまえ……」
 普段はしっかりしているのに、たまに抜けているところがある楽俊だから、
鳴賢は呆れながらもおもしろく思った。当人にその気がなくとも、遠慮のない
物言いのせいで、楽俊は優秀な成績を鼻にかけているかのように誤解されるこ
とが多々ある。それでもこうしてひょんなところで抜けているところを見せる
から、嫌味にならないのだろう。

116永遠の行方「呪(28)」:2008/11/02(日) 22:54:39
「鳴賢も、聞いてみりゃあ、すぐわかる。海客の音楽ってのは、それぐらい奇
妙な曲だから。そうじゃねえのもあるけど」
「へえー……」
「何なら行ってみるか?」
「え?」
「団欒所っては月に数回しか開かないんだが、確か明後日か明々後日がその日
じゃなかったかな。その日は海客だろうとなかろうと、誰でも自由に行ってい
いんだと。もっとも昔は何の制限もなかったのに、仲間内で閉じこもって問題
を起こした海客がいて、それから回数制限をするようになったらしいけどな」
 問題を起こした輩がいると聞いて、鳴賢は眉をひそめた。なぜだかとっさに
浮民や荒民を連想したのは、この国の民でもないのに助けてもらっていながら
問題を起こすという構図が似ていたせいかもしれない。
 そんな鳴賢の心中をよそに、楽俊はのんきに話を続けた。
「房間に閉じこもって勉強ばかりしてても能率は上がらねえから、気分転換に
いいと思うぞ。ええと、大学寮からだと、どう行くのが一番わかりやすいかな」
「えっ、おまえも行くって話じゃないのか?」
 ひとりで訪ねるほどの興味は覚えなかったものの、楽俊が行くなら付きそっ
てもいい程度に考えていた鳴賢はびっくりした。すると楽俊は事もなげに、そ
もそも団欒所に行ったのは数えるほどしかないこと、最後に行ったのは二年ぐ
らい前だということを説明した。ひんぱんとは言わないまでも、普通に訪問し
ているのかと思いこんでいた鳴賢はますます驚いた。
「海客の女の子がいて、おいら、その子に気味悪がられてるから。仲間内のた
まの団欒を邪魔したら悪いだろ」
「気味悪がられてる? 蔑むとか莫迦にするのではなく?」
 半獣は劣った存在として、昔から各国で蔑まれてきた。むろん雁では制度上
の差別はないし、なんら負の感情を持たない者も多いだろう。しかしながらそ
んな雁でさえ半獣を蔑む者は普通にいるから、そういう相手として軽んじられ
るというのなら想像はできた。実際、大学で楽俊が他の学生からやっかみを受
けたり、教官から冷たい仕打ちをされていたのは、「半獣のくせに」という蔑
視のせいもあるのだ。しかし気味悪がられるというのは初耳だった。

117永遠の行方「呪(29)」:2008/11/21(金) 18:06:53
「そもそも蓬莱には半獣ってもんがいねえんだと。だから不気味に思うんだろ
うな。それに鳴賢も知っているかも知れねえけど、海客はみんな黒い髪に黒い
目だ。おいらたちと違って、いろんな色があるってこともねえから、何かと感
覚が違うんだろう」
「そういえば前に会った海客も、確か黒髪に黒い目だったな……」鳴賢は女連
れの海客のことを思いだして相槌を打った。「蓬莱じゃ、みんなそうなのか。
俺にはそっちのほうが気味が悪いように思えるぞ」
「こことはまるっきり違う世界の話だからな。そこの民なら、それが普通なん
だろう」
 楽俊はあっさりそう言って片づけてしまった。そして「もし団欒所に行くん
なら、途中までで良ければ案内するぞ」と言った。
「いや、いい。別に興味ないし」
 鳴賢は答えた。それは嘘ではなかったが、むしろ得体の知れない連中と関わ
り合いになりたくないという、無意識による自衛の心理のほうが強く働いてい
た。
 だから「海客が恐いのか?」と事もなげに問われたとき、図星を指された鳴
賢はとっさに言葉が出てこなかった。
「本当に興味がねえならそれでもいいけどな。でも違う世界の話はおもしろい
し、海客が持っている知識には役立つものも多い。気分転換じゃなくても、行
って損はねえと思うぞ。それに雁は海客を優遇しているだろ。雁で官吏になる
なら海客の扱いぐらいは知っておいたほうが、何かと役に立つんじゃねえか?」
 それはその通りだったので、なるほどと思った鳴賢は少し迷った。その様子
を見て楽俊はさらに続けた。
「鳴賢は単に官吏になるのが目標じゃねえんだろう? 官吏になるのはむしろ
出発点で、それからずっと国を支えるための仕事を一生涯続けるんだろう?」
 そう問われて、鳴賢はこれまで官吏登用をひとつの終着点として見、それ以
降はほとんど具体的な想像をしてこなかったことに気づいた。せいぜい重用さ
れて出世して――と、おぼろな期待をいだいていただけだ。本当は官吏になっ
てからが大変なのだろうに。

118永遠の行方「呪(30)」:2008/11/21(金) 18:09:04
「そりゃ――まあ――」
 言いかけて、結局何も言葉が出てこずに口をつぐむ。そんな鳴賢に楽俊は言
った。
「ま、無理にとは言わねえけどな。もし気が向いたら、母ちゃんに聞いてくれ
れば、団欒所の開放日はわかるはずだ。母ちゃん、海客のとりまとめ役をして
る人とも話したことがあるらしいから。雁に来たばかりのとき、母ちゃんもあ
ちこち出歩いて団欒所に迷いこんだんだと」
 そう言って笑った楽俊は、鳴賢の茶杯が空になっているのに気づき、「もっ
と茶、飲むか?」と問うた。

 とはいえ鳴賢自身に、海客にほとんど関心がないのは確かだった。そもそも
大学を落ちこぼれかけている今の彼はそれどころではない。だから翌々日に団
欒所なる場所に出向いたのも、当人にしてみれば、友人たちが帰省してしまっ
て閑散とした寮の中で、ふと気まぐれを起こした以上の意味はなかった。
 もっとも楽俊にも彼の母親にも開放日を確認せず、こっそり出向いたことを
思えば、無意識に気になっていたということなのかもしれない。あるいは楽俊
に「行ってみたけど、別にどうってことなかったな」と事もなげに言い、以後
の勧めを封じるためのものだったのか。
 いずれにしろ鳴賢は、久しぶりに街で食事でもしようと思って小銭を持って
出、そのついでという感じで国府の役人に海客の団欒所について尋ねてみた。
するとかなり奥まった場所にある堂室がそれだと教えられた。
 一口に国府と言っても文脈によって意味はいろいろで、広義では王宮を含め
た凌雲山全体を指すし、狭義では凌雲山の入口である皋門から雉門付近にある
官府のこととなる。役人が言った場所は皋門と雉門の中ほどにあり、広途から
はずれた建物のさらに奥だった。鳴賢はぶらぶらと歩きながら、確かに目的を
持って歩かないかぎりはわかりにくい場所かもな、と思った。
 だが件の建物に入っても別に音楽らしきものが聞こえてくる気配はなかった。
すれ違う官吏たちの雑談めいた声が耳を通りすぎる程度で、むしろ静まりかえ
っていると言ってもいいくらいだ。先ほどの役人は確かに今日が開放日だと言
っていたのに、と鳴賢は訝しんだ。

119永遠の行方「呪(31)」:2008/11/21(金) 18:11:19
「あの、海客の団欒所って……」
 向こうからやってきたふたり連れの女性官吏に声をかけると、ひとりが自分
がやってきた方向を指し示して「そこを右に曲がって突き当たりね」と答えた。
そうしてすぐ連れと「だから今日中に書類を出してもらわないと困るのよ。年
明けまでいくらもないのに」と会話の続きに戻り、忙しそうに去っていった。
 鳴賢が教えられたとおりに歩いていくと、大きく開けはなたれた扉の向こう
に堂室があったが、人気は感じられなかった。扉のあたりで立ち止まり、躊躇
しながらも覗いてみる。物置のように雑多なものが置かれてはいるものの、天
井が高いせいもあって全体としてがらんとした印象のある広い堂室の奥で、そ
れでも三人が座って話していた。
 若い娘と青年、中年の女。娘は緑色の髪だったから関弓の民だろう。阿紫と
同じ歳か少し下くらいか。残りのふたりが海客なのだろうかと思ったところへ、
こちらに向いて座っていた中年女が顔をあげて鳴賢に気づき、人の好さそうな
笑みとともに「あら、いらっしゃい」と声を投げてきた。おかしいところは
何もなく、普通の言葉遣いだった。
「ええと……」
 とっさに、もしかして場所を間違えたのだろうか、そもそも誰かと間違えて
声をかけられたのではないだろうかと焦った鳴賢だったが、迷いながらも手招
きされるままに彼らに近づいた。すると女は「今、お茶を煎れるわね。そこに
座って」と青年の隣を指した。
 彼らはそれぞれ、木箱に厚い敷布を敷いて椅子代わりにしていた。鳴賢が勧
められたのもそれで、目の前の大卓は、ところどころ塗りの剥げた古いものだ
った。
 鳴賢が腰をおろしながら青年に会釈をすると、相手は中年女と同じようにに
こやかに「やあ、こんにちは」と返してきた。それだけでなく「大学はもう休
みなのかい?」と尋ねてきたので、鳴賢は仰天した。その様子に、相手の青年
は目をしばたたいた。
「あ、ごめん。六太の友達じゃなかったっけ? 間違えちまったかな。人の顔
を覚えるのは得意なほうなんだけど」

120永遠の行方「呪(32)」:2008/11/21(金) 18:13:28
「そういえば、あんた……」
 以前一度だけ会った海客だと、鳴賢はやっと気づいた。あのとき、ものめず
らしさもあって顔をじろじろ見たはずなのに、大して記憶に残っていなかった
のだ。
 そのとき緑の髪の娘が無表情のまま黙って立ちあがり、自分の茶杯を手に、
堂室のさらに奥の隅に座を移して背を向けた。何だろうと目で追った鳴賢の前
に、新しく茶を煎れた杯と、菓子らしいものが載った小皿が置かれた。
「どうぞ、召し上がれ。甘いものが嫌いじゃなかったら、だけど」
 中年女が言い、奥に引っこんだ娘をちらりと見やって、今度は小声で「あの
子のことは気にしないで。まだこっちの世界に慣れていないのよ」と言った。
「彼女も海客? 黒髪じゃないのに?」
 海客はみんな黒髪に黒い目だと楽俊は言ったのに、と鳴賢が戸惑って聞くと、
女はこう答えた。
「胎果なの。海客の中にたまにいるらしいわね。こっちでは本来の姿に戻るか
ら、蓬莱にいるときとは顔かたちも髪や目の色も変わってしまって、他の人以
上に現実を受け入れられないの。まあ、気にしないでやって」
 それだけ説明すると彼女は普通の声に戻り、「わたしは守真(しゅしん)よ」
と自己紹介した。
「恂生とは会ったことがあるのね」
「前に一度だけ。六太と一緒にいたとき、往来で少し」
「鳴賢、だっけ? 彼は大学生なんだよ、守真」
 やはり別字の「鳴賢」のほうが印象深かったのだろう、恂生は守真にそう紹
介した。
「まあ……。それはすごいわ。蓬莱にも大学はあるけど、たくさんありすぎて
大学生は山のようにいるしねえ」
「大学生が山のようにいる?」
 鳴賢が面食らって問うと、恂生が笑ってうなずいた。

121永遠の行方「呪(33)」:2008/11/21(金) 18:15:44
「国公立――つまり官が作る大学もあれば、私学もあるから。実を言うと、俺
も大学生だったんだ。でも三流の私立だったし、鳴賢とはまったく違うな。こ
っちじゃ基本的に大学は一国にひとつだろ。学生だって百人か二百人かそこら。
国中から選りすぐりの人材が集まってくる中にいるわけだからなあ」
 よく聞いてみると、蓬莱には義務教育という制度があり、国や保護者は、子
供に一定の教育を受けさせねばならないと定められているという。しかも義務
教育自体は無償で受けられるらしい。さらにその上の高校は上庠か少学に当た
るのだろうが、進学する割合が多すぎて、蓬莱人の意識では半ば義務教育化し
ているとのことだった。
「だから大学生も多いんだ。そりゃ、ここの大学に相当するような難関校もあ
るけど、大学の数自体が多いだけに、大した成績じゃなくても進めるところは
あるから。それだけに蓬莱では、大学を出たからといって即優秀だとは思って
もらえない。どの大学を出たのか、まで言わないと」
「へえー……」
「でもまあ、おかげで国民全体の教育水準は高いけどね。教育ってのは無形の
財産だと思うし、金や物がない国こそ、民の教育に力を入れるといいんだろう
な。たとえ家を失っても国を追われても、それだけは当人の教養として残るか
ら、身を立てる役にも立つと思う。俺も身ひとつでこっちに流されてそれを痛
感した。俺がいた頃の蓬莱はかなり豊かだったけど、貧しい時代もあったんだ
よ。豊かになったのは国や国民自身が教育に力を入れたおかげもあったんじゃ
ないかな」
 こちらの世界では、蓬莱すなわち理想郷という意識がある。なのに貧しい時
代もあっただの、普通の国のように語られるのは不思議なことだった。それに
どう見ても守真も恂生も普通の民だ。離れたところに座っている緑の髪の娘も、
背を向けたままで鳴賢を見ようともせず不機嫌なのは明らかで、いろいろ苦労
してきたのかもしれないにせよ、子供が八つ当たりをしているようにしか見え
ない。
 実際に海客が流されてきている以上、鳴賢も蓬莱が伝説の理想郷であるなど
とは信じていなかった。したがって一般に流布されているように蓬莱人に神通
力があるとは決して思っていなかったが、あまりにも普通で少しがっかりした
のは事実だった。

122永遠の行方「呪(34)」:2008/11/21(金) 22:00:39
 そもそも尋常ではない能力を持っていたら、こちらに来たからといって言葉
に難儀することもないわけで……。
「ところで蓬莱じゃ、ここと言葉が違うって言ってたよな」
 鳴賢は恂生に聞いてみた。すると恂生は口を開いたが、そこから発せられた
言葉らしきものを鳴賢が理解することはできなかった。
「今の……言葉か?」
 名詞ひとつさえ聞き取れず、一言も理解できず、抑揚も何もまったく異なる
「言葉」。からかわれたのだろうかと思いつつも尋ねてみると、恂生はうなず
いた。
「今のが蓬莱で使われている『日本語』。そうだ、いいものがある」
 恂生はそう言うと立ちあがり、いったん奥に引っこんだと思うと、簡単に綴
じた冊子のようなものを持って戻ってきた。茶杯を脇にのけて大卓の上で広げ
て見せる。ここを訪れたことのある海客たちが、書き散らした文章だというこ
とだった。
「言葉が通じないぶん、自分の気持ちを書いて気を紛らわせたりする人もいる
んでね、こういうのが自然とたまっていくんだ。これも日本語で書かれている」
 それは筆の手跡もあったが、何で書かれたのかわからない不思議なものもあ
った。いずれにせよ鳴賢にはまったく読めなかった。ところどころ何となくわ
かる字もあったが、文章どころか単語すら読みとることができない。おまけに
横方向に書かれているものもあり、文章は縦に書くものと思ってそれ以外の形
態を想像すらしたことのない鳴賢は大きな衝撃を受けた。むろん扁額などで街
の名前を横書きにすることもあるが、それにしたって右から左に書かれていて、
この海客の文章のように左から右へ書かれたものはないはずだ。
「蓬莱のある世界には言葉がたくさんある。日本語は蓬莱人しか使わないけど、
世界的に使われているのは『英語』。これが英語だな」
 そう言って恂生は冊子をめくり、奇妙な「文字」が書かれた別の頁を示した。
そこにはうねうねとねじ曲がった文様のようなものが書かれていた。
「これ……。これも言葉なのか?」
「そうだよ」

123永遠の行方「呪(35)」:2008/11/21(金) 22:02:43
「本当に言葉が違うんだ……」
 鳴賢は心の底から衝撃を受けてつぶやいた。そうしてやっと、こちらに流さ
れた海客が言葉に苦労するという意味を理解したのだった。
「もし俺が蓬莱に流されたら、絶対に言葉はわからないな。おまけに字も読め
ないんじゃ何もできないな……」
 そうして恂生を見、「あんたも相当苦労していろいろ覚えたんだろうな」と
心からの言葉を口にした。すると恂生は礼を言った上で、確かに苦労はしたが、
今ではむしろ蓬莱のことを忘れないようにするのが大変かもしれないと答えた。
「何しろ俺はこっちにきてもう十五年だろ。言葉であれ何であれ、使っていな
いと忘れるものだからな。むろん戻れないとなれば、故郷での記憶は持ってい
ても苦しいだけだ。でもだからといって忘れてしまったら、海客としての価値
もなくなる。雁が海客を保護してくれるのは、主上や台輔が胎果だというのも
あるかもしれないけど、海客が進んだ技術や知識を伝えることがあるという実
利的なものも大きいんだ。実際、海客仲間にもいるからな、能力を買われて国
府に勤めている人が。それを考えると未練かもしれないけど、自分のためにも
他の海客のためにも、蓬莱でのことは忘れちゃいけないと思ってる。それが雁
のためにもなれば、利害の一致ってことで、どちらにとっても良い目が出るだ
ろうし」
「なるほどな」鳴賢は相槌を打ったが、いろいろ蓬莱の噂は聞いていたのでこ
う尋ねてみた。「でも蓬莱には、ここにはない便利な技術がいろいろあるって
聞いたぜ。そういうのを小出しにしていけばいいんじゃないか?」
 すると恂生は渋い顔になった。
「三流大学の学生だった俺に、そんな技術も知識もあるもんか。数学は比較的
得意だったけど、今じゃ公式のいくつかを覚えている程度だし何にもならない。
もっと体系だてて覚えていたら、建築とか土木とか、そういう方向に生かせる
ものがあったかもしれないけど」
「ふうん。よくわからないが、そういうものなのか」
「それに知識があったって、ここで受け入れてもらえる内容かどうかというの
も重要よ。文化の違いもあるし」

124永遠の行方「呪(36)」:2008/11/21(金) 22:05:19
 それまで黙って聞いていた守真が口を挟んだ。先ほどの冊子をもう一度開い
て、海客たちが書き散らした文章のひとつを鳴賢に示す。
「たとえばこれ。これは筆じゃなく、鳥の羽根の根元を削って作った『ペン』
で書いたものなの。たとえるなら――細い棒の先に墨をつけて書いたもの、と
いう感じね」
「鳥の羽根? 棒の先? 何だってそんな変なもので」
 鳴賢は戸惑った。すると守真は、今の蓬莱では筆はあまり使われないため、
筆の扱いに慣れている海客がいないのだと説明した。だから彼らにとってはペ
ンのほうがはるかに書きやすいのだと。
「実際、昔は羽根ペンを日常的に使っていた国もあったから、少なくともその
国のその時代の人々にとっては、羽根ペンがここでの筆に相当するくらい普通
の筆記具ということになるわね。でもだからと言って、こちらの世界の人たち
が羽根ペンを使いたいと思うかしら? 優劣とか善し悪しじゃなく、文化の違
いというのはそういう意味」
「そりゃ――確かに使いたいとは思わないだろうなあ」鳴賢自身もそういう欲
求は覚えなかったから、素直にそう答えた。それでも何となく彼らが言いたい
ことの想像はできるような気がした。「それに官吏になるには筆跡も大事だか
ら、学生にとって筆の扱いは基本中の基本だ。『ペン』で書かれた書類なんて、
それだけで読むのに値しないと思われるだろうな。公的な文書ならなおさら。
意識もそうだし、しきたりもそうだ」
 長期間保存する書類の中には、保存性を考えてあえて木簡や竹簡を使う場合
があるとも聞いているが、それにしたって書くのは筆だ。もしかしたら小刀で
刻むようなこともするのかもしれないが、少なくとも官府で日々処理される膨
大な書類のほとんどは、普通に紙に筆で書かれたものだろう。
 実は蓬莱にはいろいろな種類の筆記具があるのだと恂生は言った。
「いったん書いた文字を消すこともできるペンもあれば、金属にも書けてなか
なか字が消えないペンもある。簡単なものなら、材料さえあれば再現すること
はできるだろう。でもこっちの世界で受け入れてもらえないんじゃ、自己満足
にしかならない」

125永遠の行方「呪(37)」:2008/11/21(金) 22:07:47
「書いた文字を消すことができるってのは便利そうだけどな」
 驚いた鳴賢がそう答えると、恂生は「でも筆跡が筆とはまったく違うよ」と
答えた。
「そういえば蓬莱では本は安価なんだ。紙も墨も安く大量に作れるから。それ
もあって印刷技術は発達しているけど、そんな世界でも大量印刷の本が出た当
時は、『こんなものは本じゃない』という富裕層の反発もあったと聞く。『本
というものは見事な手跡の者が豪華な書体で丁寧に書き、上等な革の表紙をつ
けた手作りでないと』とね。こっちの世界でも、もし蓬莱と同じように安価に
印刷できたら本を大量生産できるけど、やっぱり同じ反発を感じる人はいるん
じゃないかな。むろんこれくらいの話なら頑固者の笑い話程度だけど、人間っ
て基本的に保守的なものなんだよ。だから変化も普通はゆっくりだ。そして進
歩も変化の一種だから、急激な進歩は同じくらい反発も生むだろうし、反発は
それをもたらした者に向かうかもしれない。そのために混乱も起きるかも知れ
ない。俺たちは俺たちで一生懸命やっているつもりだけど、管理する政府の側
から見るといろいろと難しい問題もあるんだろうな」
 そう言って彼は溜息をついたが、すぐ気を取り直したように鳴賢に向けて笑
って見せた。
 雁では、各地の府第に配布される共通の資料の中に木版で印刷されたものも
あるから、鳴賢も印刷技術の重要性はわかる気がした。しかしだからといって
すぐに高度な技術を取り入れたいという欲求はなかった。実際に官吏になって
その種の技術の有用性を実感したならまだしも、少なくとも今は何も切羽詰ま
っていないからだ。
 恂生は「でも乱れた国ではそもそもそれどころじゃないだろうけど、雁にい
れば少なくとも蓬莱の技術に興味は持ってもらえる」と続けた。
「安定した豊かな国なら、官も民も便利さや進歩に目を向けて受け入れる余地
があるから。それに雁は主上が胎果だけあって、建物も食べ物も、蓬莱風のも
のが入り交じって融和しているだろ。俺は雁以外の国は知らないが、他の国に
流された海客が雁にやってくると、特に関弓では風景とか食べ物に少しほっと
するらしいな。おまけにこうやって国府に団欒所もあるし、最初の三年は無料
で公共施設を使えるなどの優遇もされてる。かなり条件はいいんだから、何と
かやっていくさ」

126永遠の行方「呪(38)」:2008/11/22(土) 12:45:39
 そう言って彼は冊子を片づけ、守真は冷めてしまった茶を煎れなおしてくれ
た。勧められるままに守真の手作りだという菓子を鳴賢が口にすると、それは
香ばしくて、そっけない外観に反してなかなか美味だった。
「今日はあまり人が来ないようね」守真は残念そうに言って、ちらりと入口の
ほうを見た。「この焼き菓子、まだたくさんあるのよ。作りすぎちゃったみた
い。もし邪魔でなければ、少し持って帰らない? 日持ちするから、勉強の合
間の休憩にでもどうぞ。良かったらお友達のぶんも」
「じゃあ、いただきます」
「助かるわ」
 にっこりとした彼女に、鳴賢は「普段はもっと人がいるんですか?」と尋ね
た。
「そうねえ……」守真は少し考えこんでから答えた。「多いときは三十人くら
いかしら? 海客はあともうひとりくらいだけど、関弓の人たちが来てくれる
から。みんなで歌ったりおしゃべりしたり、大勢いるときはけっこうにぎやか
よ。でもまあ、年末はこんなものかもね。何かとばたばたするし」
「もしかして六太に会えるかな、とも、ちょっと思ったんだけど」
 最初に話したときの感触から、守真も六太の知り合いらしいと踏んだ鳴賢が
言ってみると、守真は「そうねえ、来ないかもねえ」と残念そうに答えた。
「彼も普段はわりと顔を出してくれるほうだけど、年末年始に見かけたことは
ないから。この時期は誰も彼も何かとあわただしいことだし」
「新年の拝賀の儀式のときも、六太は見かけないからね」
 そう恂生が口を添えたので鳴賢は仰天した。元日に行なわれる王の拝賀は雲
海上での儀式だから、鳴賢だって行ったことはないのだ。首尾良く官吏になれ
たとしても、せいぜい、顔かたちがわかるどころか、人が豆粒のようにしか見
えない場所からの遙拝がかなう程度だろう。
「あんた……。主上に拝謁したことがあるのか?」
 驚愕の面持ちのまま、やっと、といったふうに問う。恂生は一瞬、きょとん
としたかと思うと、すぐにあわてて首を振った。

127永遠の行方「呪(39)」:2008/11/22(土) 12:47:50
「ち、違う、違う。ほら、拝賀に合わせて、新年のご祝儀として広途の辻々で
菓子やら酒やらがふるまわれるだろう。この国府でもそうだから、けっこうな
人出になって知り合いと出くわすこともあるけど、そういうときでも六太を見
かけたことはないなってこと」
「ああ……そういう意味か。びっくりした」
 鳴賢が胸をなでおろすと、恂生も「こっちこそびっくりだよ」と笑った。
「一介の海客が主上にお目通りできるはずないじゃないか。なあ、守真」
「わたしも仙になって長いけど、残念ながら主上にお目にかかったことはない
わねえ」
「えっ」鳴賢は驚いた。「あんた、いや、守真さんは仙なんですか?」
「守真、でいいわ。そう、昇仙して、もう三十年になるかしら」
 彼女の外見は、せいぜい四十代半ば。大目に見積もっても五十歳ほどと思わ
れた。しかし昇仙して三十年ということは、実年齢は八十歳ほどということに
なる。
 道理で、と鳴賢は思った。だから発音や言いまわしが不自然なところのある
恂生と違い、彼女の喋る言葉に不自然さを感じなかったのだ。
 よくよく話を聞いてみると、面倒見の良い彼女が新参の海客の世話をしてい
るうちにそれが認められ、海客のまとめ役のようなものとして官吏になったら
しい。だから海客と一般の民との通訳もするし、仕事の相談にも乗ったりして
いるのだとか。この場に恂生しかいなかったせいか、問われるままに守真はさ
らに詳しい話を語ってくれた。
 彼女は蓬莱では平凡な主婦で、近所に買い物に出かけようとしたところで蝕
に巻きこまれたらしい。幼い子供がふたり一緒にいたそうだが、彼らがどうな
ったのかはわからない。一緒に蝕に巻きこまれて虚海で溺れたか、それとも蓬
莱で無事でいて、迷子として保護されたか。何十年経っても当時のことを思い
だすと苦しい。きっと自分は死ぬまで子供たちのことを案じつづけるだろうと
守真は言った。
 だが彼女は、我が身の不幸を嘆いたり自分の殻に閉じこもるのではなく、同
じ境遇である海客の面倒を見ることで気を紛らわせることを選んだ。それは彼
女の性格もあろうし、子供らに伝えられない情愛を他に向けることで、代償行
為の一種としている面もあろう。

128永遠の行方「呪(40)」:2008/11/22(土) 12:50:00
 こんなふうにして、いったい何人の海客――山客も――が、この、彼らにと
っての異世界で生きているのだろうと思うと、さすがに鳴賢もある種の感慨を
覚えざるを得なかった。
 守真は言った。こうやってがんばって他人のために尽くしていれば、もしか
したらいつか褒美として蓬莱の様子を教えてもらえるかもしれない。むろん無
理かもしれないが、そうやって希望を持つことで生きる気力が出てくるのだと。
「昇仙させてもらえるって聞いたとき、最初は喜んだの。だって神仙は虚海を
越えられるって聞いていたから、これで蓬莱に戻れるんじゃないかって」
「でも違った?」
 鳴賢が尋ねると、守真はうなずいた。
「神仙が虚海を越えられるというのは、蝕のような空間のひずみを通り抜けら
れる体になるというだけで、ふたつの世界の間に自分で道を開けるわけではな
いんですって。それも高位の神仙でなければ自分の命さえ危ういし、おまけに
位が低ければ低いほど周囲に甚大な被害をもたらすそうよ。聞くところによる
と神である王でさえ、もし蓬莱と行き来したなら大災害を引き起こすとか。ふ
たつの世界は本来交わってはならないものだから、どうしても無理が生じるん
ですって。いつの時代の話かは知らないけど、やむにやまれぬ理由があってあ
る王が向こうに渡られたときは、蓬莱で二百人もの人が亡くなったそうよ」
「そんなに……」
「それでももしかしたら官府で一生懸命頼めば、あちらに渡してくれるのかも
しれない。でも万が一それで発生した災害のせいで家族が死んだら? 自分は
どうなってもいいけど、そう思うととても踏ん切りなんかつかない」
 でも、と彼女は続けた。人ではない麒麟なら、災害を起こさずに蓬莱と行き
来できるのだと。
「なぜなのかはわからないらしいけど、王を見つけなければならない役目と関
係しているのかもしれないわね。何にしても麒麟なら自分で道も開けるし、蓬
莱へも渡れるんだとか。だから一生懸命がんばって、何とか台輔の目にとまっ
て、台輔がわたしの家族の消息を尋ねてきてもいいと思えるような人になれた
ら……」

129永遠の行方「呪(41)」:2008/11/22(土) 12:52:37
 そんな守真を、鳴賢は複雑な思いで見やった。確かに気持ちはわからないで
もないが、何しろ延台輔にもしものことがあれば雁が滅ぶのだ。たとえ災害を
起こさずに蓬莱と行き来できるのだとしても、異世界に行くこと自体に危険が
ないとも限らない。守真は少なくとも仙になれて、一般の民より特権を与えら
れている。こちらに流されてしまったこと自体は気の毒に思うが、諦めてほし
いというのが正直な気持ちだった。
 もっともさすがに口には出さなかった。そもそも言っても仕方のないことだ。
いずれにせよこんな場所に台輔が注意を向けることなどありえないから、実際
問題として心配はないだろうが。
 微妙な表情の鳴賢に気づいたのだろう、守真は無理に笑って「つまらない話
をしてごめんなさいね」と詫びた。
「鳴賢は関弓の人? 帰省は?」
 話題を変えるためだろう、恂生が尋ねてきたので、鳴賢は勉強のために残る
ことにしたことを説明した。
「ああ、そうなんだ。でも元日くらいは息抜きしてもいいんだろ? もし特に
約束がないんなら、ここに来ないか? 元日は特別開放日で、一日中開いてい
るから。今は模様替えの最中でここはかなり雑然としているけど、それまでに
は綺麗になっているだろうし、元日は何かとにぎやかだよ。さっきも言ったよ
うに国府でもご祝儀がふるまわれるから、そのついでに顔を見せてくれる人も
いる」
「そうだな、考えておくよ」
 寮に帰ったら、ここで聞いた話をもう少しよく考えてみようと思いながら、
鳴賢は当たり障りのない応えを返した。そして奥に座ったまま相変わらずこち
らを無視している緑の髪の少女を見、おそらく楽俊を気味悪がったのはこの子
だろうなと見当をつけた。


 開けて新年。
 華やかな鉦(かね)や太鼓が鳴り響く中、関弓中が慶賀の空気に包まれた。
広途では辻々で祝儀がふるまわれ、このときばかりは浮民や荒民も明るい顔を
して新しい年を祝った。王の治世には何の陰りもなく、今年も来年も同じよう
に平和な日々が続いていくのだと、誰もが無邪気に信じこんでいた。

130永遠の行方「呪(42)」:2008/11/22(土) 17:29:27

「叩頭拝礼!」
 冢宰の号令は、要所要所に配置されていた儀仗兵によって高らかに復唱され、
広場を埋めつくした数多の臣下の間を荘厳に駆けぬけていく。それと同時に臣
下らは、はるか高殿から見おろしている王の前に叩頭し、忠誠と敬意とを示し
た。
 王の傍らに控える宰輔はもちろん、広場の最前にいる州候やその使者、三公
や六卿といった高官から、遠く最後列でかすんでいる府吏まで、国府に仕える
者たちが順に膝を折り頭を地につけていく様子は、さながら王の御座(ぎょざ)
を起点に広がる波紋のようで、重々しくも見事な眺めだった。新春のぴりりと
した冷気も心地よく、日頃、自国の王を「昏君」呼ばわりしている側近らです
ら、厳かな感動に打ち震える瞬間である。
 この拝賀の儀式が終わっても、王の長寿を言祝(ことほ)ぐ賀詞の奏上やそ
れに対する王からの返礼、各地に現われた瑞祥の奏上、酒礼を始めとする典礼
としての祝宴等々があり、しばらくは祝賀続きとなる。節目の年には下界でも
拝賀の儀式が行われるから、さらに大がかりになるが、それがなくとも忙しい
日々には違いない。
「とはいえこういう忙しさなら、拙官は大歓迎ですよ」
 王から幾度目かの酒杯の返礼を賜り、高官らは上機嫌だった。いくら典礼で
も、銘酒に親しみ佳饌(かせん)にあずかれば、誰しも舌がなめらかになるも
のだ。特に新年三日目ともなれば、宮城での形式張った祝宴もただの大がかり
な宴会と化してしまい、特に元日の元会儀礼からこちら、「あれだけ威儀を見
せたのだから、もういいだろう」とばかりに王がくだけた様を見せてしまうと、
あとはもうなし崩しだった。
 もっとも要所さえ押さえていれば重臣たちも大目に見ている。何しろ新年の
慶賀は特別だし、重要な儀礼や祭祀を済ませてしまえば、好きなようにくつろ
いで騒ぎたくなる気持ちもわかる。そもそもこの大らかな気風も既に雁の国風
であった。
 その祝賀気分に水を差すどころか、人々を慄然とさせるような事件が起こっ
たのは、新年五日目のことだった。

131永遠の行方「呪(43)」:2008/11/24(月) 20:43:51

「どういうことだ?」
 内議に臨席した王の声は穏やかだったが、臣下たちは緊張した。主君はくつ
ろいで椅子に座っているように見えるが、こういうとき逆に頭の中では目まぐ
るしく思考が回転していることを、長年の経験で彼らは知っている。
 光州候帷湍は悲愴な面持ちで主の前に頭を垂れた。
「俺の落ち度だ」
「今度はどこの里だ」
「幇周(ほうしゅう)という。州都から見て明澤(めいたく)の手前、明澤か
らは距離にして二、三十里離れているそうだ。位置関係から推して、姑陵(こ
りょう)に対する葉莱(ようらい)と同じと考えていいだろう」
 光州で発生した不気味な病については、既に朝議を通じて朝官に周知されて
おり、それが謀反を企んだ輩による陰謀である可能性も伝えられていた。その
ため今回の内議は極秘ではなく、既に公のものだった。
 周知以後、宮城で特に混乱は生じていない。当事者である光州の者と違って
実感に欠けるせいもあるだろうが、王の失道による災害のたぐいとは異なるこ
とが示されたため、むしろよくあることとして済ませられた感がある。現王朝
のもとで確かに反乱のたぐいは多かったが、麒麟が王を選ぶこの世界でさえ、
そもそも偽王だの謀反だのはどの時代でも尽きない話からだ。他州で同種の病
が発生していないことが確認されたことも大きいだろう。
 何しろ元州の乱の頃の、足元が不安定だった時代とは状況がまったく違う。
今や押しも押されもせぬ大王朝なのだ。こうして謀反を起こす不心得者がたま
に現われたとしても、迎合して国家の転覆を目論む輩が多いはずはない。とな
れば、遠からず事件は収束すると思われた。そうである以上、一般の官の関心
は、どのように事態を収束させるか、それに当たって予想される被害はどれく
らいかということだけであり、あとはせいぜい首謀者は誰か、敵方に与(くみ)
している者は誰かということくらいだった。

132永遠の行方「呪(44)」:2008/11/24(月) 20:46:04
 光州の令尹は州候の指示どおり、被害が懸念されるいくつかの里の民を他に
移す命を下した。しかし問題の深刻さが、命令を遂行する末端の夏官にまで徹
底されていなかったことが悪い目を出した。
 もともと新年の祝いの時期ということで、事情を飲みこめない民は仮住まい
への移動を嫌がっていた。それでも半数以上の民は、しぶしぶながらも指示さ
れた場所に移動したのだが、特に幇周では今月末に赤子が生まれる予定があっ
たため、両親が里木のそばを離れることを拒んだ。そういった民の心情を汲ん
だ夏官が「温情」を示し、新年の祝いが一段落つくまでという条件で見逃した
のだという。
 幇周でも年末までに三戸ほどは避難していたが、五日目に移動の勧告に訪れ
た夏官らは、残っていた家の者がことごとく病に冒されているのを発見した。
その夏官らも感染を恐れて一時恐慌に陥ったものの、他の里の者には感染しな
いらしいと瘍医が保証して何とか混乱は収まった。罹患した民を他に移して隔
離し、手当を施しているものの、回復の見込みはないという。まだ死者が出て
いないことが救いだが、はたして助かるものかどうか。
「あらかじめ避難していた者たちに別状はないそうだ」
 帷湍の報告に、重臣たちは「やはり第二の環だったか……」とざわめいた。
また一巡したとき、今度は何が起こるのだろう。まさか環の内側すべてが滅す
るのでは。それも光州は始まりに過ぎず、他州にも飛び火し、ついには雁が滅
びるのでは。そんな不安が座に満ちた。
「どうやって病を発生させていると思う?」
 尚隆の隣で蒼白な顔をして座っていた六太が、冬官長大司空に問うた。大司
空は少し考えてから答えた。
「どんな呪かはさておき、遠方から呪をかけることはできないはずですから、
普通に考えれば里の中か周囲のどこかに、呪言を刻んだ呪具でもあるのではな
いでしょうか」
 六太はうなずき、今度は帷湍に「そういった物を発見したという報告は?」
と問うた。

133永遠の行方「呪(45)」:2008/11/24(月) 21:02:20
「いや……ない。そもそもそういう観点からの調査はしていないはずだ。何を
見つけたらいいのかもわからんし」
「ほう。呪具で病にかからせることができるのか?」
 肘掛けに頬杖をついた尚隆が、傍らの六太に興味深げな視線を投げた。六太
は力なく首を振った。
「そういう話はついぞ聞かないし、俺にはそうは思えない。だがこれが本当に
呪のせいなら、それぐらいしか考えられないからな。だが他人に害をなす呪は
普通、術をかけた本人にも跳ね返るものだ。他人をひとりふたり呪ってさえ、
能力の低い呪者だった場合は命に関わるとされているのに、ここまで無謀なこ
とをする輩がいるとはとても……」
「ならば、ある程度の能力がある呪者なら?」
「それでも、おのずと限界というものがある。ひとつの国、いや、ひとつの州
を滅ぼせる呪など絶対にかけられない。かけられるはずがないんだ」
「台輔。これはあくまで素人の私見ですが」
 冢宰がそう前置きした上で、「呪者が既に没している可能性はありますか?」
と問うた。
「没している?」
「そうです。たとえば呪者が例の光州の謀反の一派で、罰されて既に死んでい
るものの、密かに組まれた呪だけは発見されずに見逃されていて、何かのきっ
かけで発動してしまったというような可能性ですが」
 六太はまた首を振った。そしてこう答えた。
「何でもそうだが、物事をあるべき姿からねじ曲げようとするほど大変なんだ。
たとえば動いている舟を止めるのには力が必要。日々生長している生物の成長
を止めたり枯れさせるにも力が必要。そして命あるものに害をなすことで生じ
た反発は、かならず原因である呪者へ向かう。呪者がそれを受け止めて無効化
しなければ、術も完全には効力を発揮しない。だから死者による、他者に害を
なす呪は、大がかりなことはできない――そうだな?」
 六太が大司空に確認すると、大司空はうなずいた。

134永遠の行方「呪(46)」:2008/11/24(月) 21:05:20
「確かにそのように言われております。呪というものは施しただけでは効果が
発生しない場合もあります。また一定の時間を経過したあとに効果を発揮する
よう計らうこともできます。発動までに時間差を施した呪なら、すぐ影響があ
るわけではないでしょうが、術の対象となった相手から生じた反発に抗しきれ
なくなった段階で呪者は死ぬでしょう。他者に害をなす呪とはそれほど恐ろし
く、かつ相当の力と覚悟がないと組めないものなのです。そして呪者が死んだ
場合、既に呪に冒されてしまった者は無理としても、反発がある程度たまった
ところで事態は止まり、新たな被害者は出ずに落ち着くと思われます。翻って
光州の事件では現在進行形で大勢の民が死傷し続けているわけですから、呪者
はどこかで生きていると考えるのが妥当でしょうな。これが反発の少ない方向
に効果のある呪を利用して、結果的に害をなすというなら、まだわからないで
もないのですが」
「反発の少ない方向とは?」
 冢宰の問いに、大司空はこう説明した。
「たとえば作物を枯らすより生長を促進させるほうが、相手の反発が少ないぶ
ん術的には簡単なのです。負の方向に作用させるより害が少ないから抵抗も少
ないのでしょう。むろんそれにも限界はあり、生物本来の能力より早く生長さ
せることは不可能ですし、下手をしたら無理をさせて枯らしてしまう危険はあ
りますが。しかし逆に枯らすことが目的だった場合、無理に生長させることで
結果的に目的を達せられることになります。そういうことです」
 冢宰が「なるほど」とうなずいたところで、朱衡が思いだしたように言った。
「そういえば昔、冬官府でそのような生長の呪具を研究をしていたことがあり
ましたね。収穫量を増やすために」
「失敗に終わりましたがね。まあ、人が手を出してはならない天帝の領域だっ
たということなのでしょう」
 大司空は苦い笑いを返した。
 いずれにしろ里を出ていた民に被害がないのなら、今後は避難命令を徹底さ
せれば、とりあえずの被害は防げると思われた。しかしいまだ呪者の姿が見え
ないだけに、いったいどこで事態が収まるのか見当をつけることは困難だった。

135永遠の行方「呪(47)」:2008/11/24(月) 21:10:04
それに民をよそに避難させて一人の罹患者も出さなければ環が途切れることに
なるのかもわからない。もし環が途切れ、そこで呪が不完全なまま立ち消えに
なるならよし、だがそうでないならば。
「何にしても呪者は複数いるのではないですか?」
 大司徒が言った。それならひとりより大がかりな呪を施せるだろうし、ひと
りが斃れても他者が引き継げるのだから。だが大司馬は疑わしそうな顔を向け
た。
「それなら彼らが命を投げうつだけの動機はどこに。それにひとりふたりの呪
者ならひっそり潜伏もできようが、大勢になればなるほど動向はもれやすくな
るものだ。大がかりな呪は長期に渡る準備も必要だということだし、呪者にと
って動向が漏れる危険がさらに増す。なのにいまだにこれだけ姿の見えない相
手だ、それほどの集団とは思えんのだが」
 そう言うと彼は王に向きなおり、こう奏上した。
「おそらく敵は少数精鋭かと。たとえば呪者がひとりだけなら、逆恨みでも何
でもいい、標的となる人物を強く激しく恨んでいれば、その恨みから、自分の
生命すら頓着せず何でもする可能性はあるでしょう。その者に忠実な部下がい
れば、数人程度なら徒党を組めるかも知れない。しかしそれが四十人、五十人
となったらどうか。それだけの人数がみずからの生命を捨てて呪を行なうには、
逆恨みなどではない相応の強い動機が必要になります」
「なるほど」
 尚隆はあごをなでて、何やら考えこんだ。そのまま一同が王の反応を待って
いると、やがて尚隆は冢宰に命じた。
「白沢、朝議を招集せよ」
「かしこまりました」
「大司馬、禁軍左軍から少し出せ。そうだな、一師でいい」
「はっ――は? 禁軍左軍、でございますか?」
 いったん頭を垂れた大司馬は、ぽかんとして主君を見あげた。すると尚隆は
「王の護衛にはそれなりの数はいるだろうからな、仕方がない」と事もなげに
笑ったので、臣下らはあわてた。

136永遠の行方「呪(48)」:2008/11/24(月) 21:15:13
「なりません! なりませんぞ!」
「主上は宮城にお留まりを。呪者の狙いが主上である可能性もあるのですぞ!
あるいは国を傾けること自体が目的ということも……」
「当初は光州候が狙いだったとしても、敵の真の目的がわからない以上、標的
を主上に変えてくることも十分考えられます」
 だが尚隆のほうは「それならそれで、標的が出向けば相手も動くだろう」と
平然としていた。
「こういうときはおとりを使って揺さぶりをかけるものだろうが。それもどう
せなら、おとりは大きければ大きいほどいい。そのぶん効果が高いからな」
「そんな無茶な……」
 絶句する重臣らを前に尚隆は笑った。
「なに、俺もそう無茶はせん。おまえたちは俺に単身ふらふらと出歩かれては
困ると思っているのだろうが、この事態ではひとりで出歩かせてなどもらえま
いよ」
「それは、むろん」
 帷湍が、やっと、と言ったふうに答える。尚隆はにやりとした。
「むしろおとりはおまえだ、帷湍」
「えっ?」
 虚を衝(つ)かれた帷湍を前に、尚隆は表情を引き締めた。
「民を心配した王が光州に行くのだと触れを出せ。さらに勅命を受けて光州候
みずからが指揮を執り、謀反の調査のため、今回被害に遭った幇周に赴くとも
な。これでふたつの里が被害に遭ったのだ、何が起きているのか事件が伝われ
ば、他の地域の民も動揺する。少なくとも葉莱や幇周の近辺は既に動揺が広が
っているだろう。そういった民衆の恐慌を防ぐのがひとつ。何しろ一般の民に
とって、王の威光というものは絶大だからな。それにそれだけ触れまわれば、
出てくるものなら出てくる」
「出てくる……」
「謀反人とやらがな」
 ふたたびにやりとした尚隆に、重臣らは顔を見合わせた。

137永遠の行方「呪(49)」:2008/11/29(土) 12:41:55

 急遽、招集された朝議で、幇周で起きた出来事の詳細が報告され、光州での
事件のあらましがあらためて告げられた。葉莱に続く第二の里であるだけに、
結果的に大した事件にはならないだろうと高をくくっていた官も、さすがに気
を引き締めた。
 それと同時に光州への行幸が発表された。被害にあった民の慰問と州官の叱
咤激励が名目だが、王がみずから事件解決に乗りだしたと見ない者はいないだ
ろう。それでも反乱の鎮圧に赴くわけではないから、随行の禁軍はあくまで護
衛。親征ではなく行幸である。日頃は不行状を側近になじられている王とはい
え、その慧眼といざというときの決断力を疑う者はおらず、これで事態は一気
に解決への流れに向かうものと諸官は確信した。
 なお、この頃までに謀反当時の光州冬官の聞き取りはほぼ終わっていたが、
特に注意を引く点はないように思われた。梁興の寵姫のひとりだった武蘭珠の
行方も早々に知れ、さっそく調査の官が差し向けられたが、こちらもさしたる
成果はなかった。
 蘭珠は二十数年前に他州から光州に戻ってきており、州境の庠学で主に礼儀
作法を教えていた。しかし当初は何を尋ねても黙して語らなかったという。物
腰の柔らかな女性だったが、何か勘違いしたのか、はたまた担当の官が無礼だ
ったのか、梁興のことを尋ねにきたと知ったとたん態度を硬化させたのだ。あ
るいは官位の低い者を差し向けられたため、元寵姫としては誇りを傷つけられ
たのか。おまけにそれを件の官が、もしや何か心当たりがあるのではと疑って
さらに強く追求したため、相手は完全に機嫌を損ねてしまった。
 いずれにせよ、さんざんもめたあとで別の、もっと高位の官が赴き、礼を尽
くした上で、あくまで内密の話だと念を押して光州に不穏な動きがあることを
説明し、理解を求めた。すると蘭珠はそんな事態だとは想像もしていなかった
らしく、本当に驚いた様子だった。そして物事を飲みこんだあとは拍子抜けす
るくらい素直に、問われるがまま当時の様子を答えたという。
 しかし大した収穫がなかったのは前述のとおり。そもそも彼女は関係者の顔
も名前もほとんど忘れてしまっており、梁興が冬官を重用していたことはおぼ
ろに覚えていたものの、そんなことは当時の記録や家臣の証言からとうにわか
っていたからだ。
 最後に蘭珠は、どうか主上によろしく伝えてくれと言ったという。当時の寛
大な処置には今でも感謝している、何より雁は主上あってのもの、今回の事件
が丸く収まり人心が安らぐことを心から願っている、と。

138永遠の行方「呪(50)」:2008/11/29(土) 12:45:15

 行幸が発表された翌日、早くも禁軍左軍の一師二千五百兵が、王および光州
候とともに光州城に向けて出発した。
 ただし基本的に全行程を地上から行く通常の行幸とは異なり、五百騎が王や
光州候と雲海上を先行、残り二千が雲海の下から追う。行幸にしろ巡幸にしろ、
普通なら往路や復路で壮麗な行列を民に見せるのも行事のうちだが、今回は何
よりも当地に赴くことが急務と判断されたからだ。
 また平和な雁国内で、それも雲海上の行程で護衛はほとんど必要ない。だか
ら二手に分かれても何の問題もないし、王を守る五百騎とて、実際は州城に着
いたときの効果を考えてのもの。いくら現人神である君主でも、たとえば単騎
や数騎でのお忍びでは無理だが、それなりの威容を見せれば、不安に駆られて
いるという州官も落ち着くだろうからだ。後続の二千の兵も同様。
 それだけに出立に際して行事のたぐいはなかった。冢宰ら高官の見送りを受
けて、兵らが次々と路門から飛び立っていっただけ。
 その見送りのどこにも宰輔六太の姿はなかったが、誰も気にしなかった。首
都州候でもある六太だが、あくまで名目上の話。おまけに禁軍であれ州師であ
れ、具体的に兵をどこにどのくらい派遣するといった話になると彼の領分では
ないから、口も出さない代わりに姿も見せずにすべてを任せるのが常だった。
 何にせよ路門から飛び立った一行が宮城の上空で旋回し、光州城の方向に騎
獣の首をめぐらせたとき、尚隆は園林の一画で陽光をきらりとはじく黄金のき
らめきを視界の隅に捉えた。それが控えめな見送りにせよ屋外でのうたた寝に
せよ、この距離から見定めることはできない。尚隆は口の端にほのかな笑みを
浮かべて一瞥を与えただけで、あっさり光州に向けて飛び去った。
 互いの半身と言われる王と麒麟だが、この五百年、彼らはこうしてつかず離
れずといったふうにやってきた。たまに共謀して仲良く宮城を脱走することも
あるが、それぞれ勝手に出歩くことのほうが多い主従である。昔からのその流
儀のまま今回も、別れの挨拶も激励も何もない。
 まさかそれが互いの元気な姿の見納めになるとは、そのときはどちらも夢に
も思っていなかったのだから。

139永遠の行方「呪(51)」:2008/11/29(土) 13:04:21

 幇周の里の病人は、数里離れた場所に建てられた三棟の仮小屋に運びこまれ、
手当を受けていた。しかしいずれも症状は重く、日を追うごとに容態は悪化し
た。
 隣の里に住んでいた珱娟(ようけん)という三十がらみの女が、避難先で報
を聞いて幇周の父親の元に駆けつけたのは昨夕のこと。一人暮らしだった老い
た父親は力なく仮小屋の臥牀に横たわっていた。
「父さん」高熱にあえぐ父親の枕元で、珱娟は必死に励ました。「主上が光州
に来てくださるんだって。主上ならきっと助けてくださるわ。それまでがんば
って」
 みずからの命の短いのを悟ったその父親は、住み慣れた家に帰るためにこっ
そり仮小屋を抜けだした。護衛と監視のために仮小屋に留まっている兵士らが
捜索し、すぐに近くの草地で倒れているのを発見したが、無理をしたせいか老
人の容態は急激に悪化した。珱娟が仮小屋に着いたのはその頃で、元気だった
頃の面影のない父親の姿を見た彼女は兵士に食ってかかった。
「どうして! どうして無理にでも避難させてくれなかったの! 聞いた話じ
ゃ、この病は神をも恐れぬ謀反人の企みのせいだっていうじゃない。お上はそ
れで避難させようとしたっていうじゃない。なのになんで父さんがこんな目に
遭うの!」
 兵士にしてみれば、正月の祭りがあるから、子供が生まれる予定があるから
待ってくれと頼まれたのはこちらのほうだとなる。どうしてもと頼みこまれて
温情を示した結果の悲劇。むろん兵士らが命令にそむいたことになるのは明ら
かで、当の判断を下した両長は処分を待つ身だ。その点での非は疑いないし、
部下たちも起きた事態の深刻さに愕然としたが、こんなふうに一方的に責めら
れてはいい気分はしなかった。
 だが既に他の病人とも険悪な雰囲気になっていたため、彼らは民の相手をす
るなと厳命されており、珱娟になじられた者も黙殺を通した。
 珱娟の父親の隣の臥牀で、同じように横たわっていた閭胥(ちょうろう)が
弱々しい声をかけた。

140永遠の行方「呪(52)」:2008/11/29(土) 13:06:45
「すまんな、珱娟。すべてはわしと里宰の責任じゃ。わしらの判断が甘かった。
恨むならわしを恨んでくれ」
「閭胥、そんな……」珱娟は顔をゆがめて涙を流した。
「里は、卵果はどうなっとる……?」
 閭胥の問いに、珱娟は首を振った。
「わかりません。来る途中で里門が半分閉じているのは見たけど、衛士が中に
入れてくれなくて。でも卵果が病にかかったなんて話、聞いたことはないし、
無事だと思います」
「そうか」
 だが産み月である卵果の両親も、別の棟で伏せっている。実の親以外に卵果
をもげる者がいない以上、もし両親とも死んだら赤子はこの世に生を受けるこ
とはないだろう。
 診察をする瘍医と違い、兵士らは仮小屋の内外で病人から離れて見守ってい
るだけだ。それも珱娟には不愉快だった。もっとも病人の身内や、避難してい
て無事だった同じ里の住民でさえ、怖がってここに近寄らない者が多いのだか
ら無理もないのだが。
「州師なら仙なんだろうに。仙は病にかからないってのに、うつるんじゃない
かってびくびくしてばかり。こんなに腰抜けぞろいで、お役目が果たせるのか
しらね」
 これ見よがしに嫌味を言うが、返ってくるのは黙殺だけだ。末端の兵士は只
人にすぎないという事実など、今の珱娟には何の意味もないだろう。
 彼女の父親はもう手が麻痺してしまって器も杯も持てないので、珱娟が口に
吸い飲みをあてがって白湯を飲ませてやる。父親は娘の顔をじっと見、「里に
帰りたいんだ」とつぶやいた。
「父さん。主上が助けてくださるから……」
「頼む、珱娟」
 父親の手や顔には不気味な斑紋が浮かんでいる。被衫に隠れている部分はも
っと深刻で、斑紋はただれてあちこちが腐りはじめていた。それの意味すると
ころを悟りながらも、珱娟は必死に父親を励ましたが、内心では既に覚悟して
いた。

141永遠の行方「呪(53)」:2008/11/29(土) 13:09:04
 正月のめでたい飾りつけをしたままの里で、住み慣れたわが家で命を終えた
いのだと、父親はつぶやいた。そんな彼のすがるような視線に、ゆがて珱娟は
座っていた床几から立ちあがった。病み衰えた老人ひとりとはいえ、彼女ひと
りで抱えることはできない。
「父さんを里へ連れていって」
 仮小屋の隅で見張っていた兵士らに頼む。だが彼らは無言でかぶりを振った。
何度頼んでも同じだった。
「人でなし!」
 珱娟は金切り声でわめいたが相手にされず、つかみかかろうとして取り押さ
えられた。
 その騒ぎの中、別の兵が仮小屋に入ってきて同僚に告げた。
「おい、病人がひとりいなくなったそうだ。捜索隊を組むぞ」
「またか」
 応えた兵は、溜息とともに珱娟の父親が横たわる臥牀をちらりと見た。あの
老人がこっそり仮小屋を抜けだしたときも捜索隊を組んだからだ。おそらくま
た里に戻ろうとして抜けだしたのだろう。
 無人となった幇周の里は別の兵士らが警備しているが、正直なところ近づき
たくはなかったから誰もが舌打ちをした。それにもう日暮れだ。病人の足では
さほど遠くへはいけないだろうが、探すのに難儀するかも知れないと思うと億
劫だった。
「昨日、子供を亡くした女がいたろう。その女が子供の亡骸ともども消えたら
しい」
「ああ、あの女か」
 子供の死を信じず、半狂乱になって騒ぎを引き起こしたから、話を聞かされ
たほうもうなずいた。自暴自棄になって当てもなくさまよい出たか、里へ戻っ
たか。
 いずれにしろその女も病が重いから、里にたどりつくことはできないかもし
れないが、病に感染した者を放置するわけにはいかない。いくら他の里の者に
はうつらないようだと瘍医が言ったとて、万が一ということもある。
 兵たちは舌打ちとぼやきとともに、当番をひとり残して仮小屋を出ていった。

142永遠の行方「呪(54)」:2008/12/07(日) 12:38:07

 雲海上の一画にぽつんと浮かんだおぼろなしみは、見る見るうちに大きくな
り、ほどなく騎兵の一団であることが誰の目にも明らかになった。
 光州の令尹は、同じように主君の到着を待つ官らとともに安堵の思いをかみ
しめながら、王旗を翻す数百の騎兵を見守っていた。無能者の烙印を押されて
更迭されることを恐れる気持ちはあるが、今は王がじきじきに乗りだしてきた
ことに対する安堵のほうがはるかに大きい。何しろ幇周の件もあり、事態はも
はや自分たちの手に負えないと感じていたからだ。
 州城の高官ですらこのありさまだから、市井の民に至ってはかなりの不安を
覚えていただろう。しかし謀反人のたくらみによる病の発生という不気味な触
れは、行幸の触れと対になっていたためか、一般の民衆に混乱は生じていない。
もともとそんな事件があったことを知らなかった大多数の者は「主上がおいで
になるなら大丈夫だろう」とあっさり受けとめていたし、恐慌に駆られかけて
いた葉莱や幇周の近隣住民も、被害に心を痛めた王が人心を慰撫するために行
幸を決意したと聞き、とたんに落ち着きを取り戻したからだ。
 五百年の治世を誇る延王は、民衆にとって神そのもの。限りない尊崇の対象
であると同時に、雁の民としての誇りの源だ。主上がおでましになるのならも
う大丈夫、すべてお任せしておけば良いと、皆信頼しきっていた。
 むろんもし期待を裏切られた場合、それが大きかったぶん失望も大きく、事
と次第によっては国を揺るがす自体に発展するかもしれない。だがそんな結末
は誰も想定していなかった。そもそもこの事態を収められなければ国家の土台
が危ういとさえ思える深刻な事件なのだ。
 光州城の路門に次々と降り立った騎兵は、すぐに駆け寄った大勢の州夏官に
騎獣を任せ、王および州候に付きしたがって整列した。礼装でこそないが、形
や色調が統一された重厚な鎧をまとった禁軍五百兵の堂々たる威容はいかにも
頼もしく、統制の取れたきびきびとした振る舞いは、威圧感よりも州城の者に
対する礼節を感じさせた。先頭に立つ王自身は儀礼軍装である。もともと武断
の王という印象の強い延王だから、その軍装は彼によく似合っていた。
「このたびの不始末、申し開きのしようもございません。主上におかれまして
は――」

143永遠の行方「呪(55)」:2008/12/14(日) 23:16:00
「面(おもて)を上げよ、士銓(しせん)。そのようなやりとりで無駄にする
時はないぞ」
 平伏して王に詫びを述べようとした令尹に大股で歩み寄り、そのまま前を通
り過ぎた王が鷹揚に言った。新年の慶賀に州候の名代で関弓に出向いたことは
あるし、お忍びで帷湍の元にやってきた王に会ったことも一度あるものの、別
に親しく口を利いたわけではない。なのにまさか字を覚えられているとは思わ
ず、驚いた士銓は反射的に顔を上げていた。
 主君に従って目の前を通り過ぎた州候帷湍が「言い訳はあとだ。まずは現状
の報告を」と声を投げたため、士銓はあわてて立ちあがった。随行の禁軍兵士
のうち数名の護衛のみを従えて州城に入る王の後を追いながら、名目は行幸だ
が、確かに王自身が事件解決に乗りだしたのだと改めて実感する。
「触れを出したあと、民の様子は」
「大事ございません。何しろ謀反人が流行病を引き起こしているという信じが
たい出来事ですから、多少の混乱はあったようですが、主上のおでましを知っ
て皆安堵したようです。葉莱や幇周の近辺も落ち着いております」
「なるほど。幇周の病人は」
「隔離して手当てしておりますが、薬石のたぐいも効かず、残念ながら手の施
しようがない状態です。今朝までに死者が四名出ております」
 内宮に向かいながら、王から矢継ぎ早に投げられる質問に答える。王のきび
きびとした所作は、かつてお忍びでやってきたときののんびりした風情とはま
ったく異なっていたものの、鷹揚な雰囲気はそのままだった。もし王が焦燥を
見せていたのなら士銓も不安に駆られたろうが、どこか余裕のあるさまに彼は
力づけられた。
 かと言って王が事態の深刻さを理解していないわけではないだろう。そもそ
もそれなら、新年早々二千五百もの兵を従えてやってきたりはしない。むろん
公式の訪問ではあり、それなりの規模の護衛を揃えるのは権威を示すためのみ
ならず光州に対する礼儀としても当然で、派手好きな王ならもっと人員を割く
だろう。しかし普段は体面を気にしない主君がこれだけの兵とともに軍装でや
ってきたという事実は、事態を公にしたことと併せ、絶対に解決するという意
気を示すものと受けとめられ、令尹以下、州官は強く勇気づけられた。

144永遠の行方「呪(56)」:2008/12/23(火) 12:38:30
 とりあえず内宮の一室に落ち着いて軍装を解き、装束をあらためた王に、士
銓はさらに詳細な報告をした。
「まず青鳥でご指示いただいた呪具の探索についてですが、今のところ里の内
外からは何も見つかっておりません。しかしいざとなれば家屋をすべて取り壊
して調査することも考えております」
「くれぐれも慎重にな。呪具というものは、素人が下手に動かすとまずいもの
もあると聞くからな」
 横から口を挟んだ帷湍に、士銓はうやうやしく頭を下げて「心得てございま
す」と応えた。
「それからご承知のように冬官の聞き取り自体はさほどの成果はありませんで
したが、あらためて記録を整理させたところ、こんなものが出てまいりました」
 控えていた自分の府吏に数枚の書面を出させた士銓は、それを王と州候の前
の卓に広げてみせた。体裁が整っていないため正式の文書でないのは明らかで、
非公式の書類か、もしくは個人的な書き付けといったところである。
「これは写しでございますが、どうも梁興が重用していた冬官の助手の覚え書
きのようでして」
「ほう」
 王は興味深げな視線を投げるなり、士銓が捧げるようにして眼前に示した書
類の一枚を無造作に手に取った。別の一枚を帷湍も手に取る。
「原文も保存状態は悪くないのですが、散逸しているのと、自己流に省略して
いるらしい表現や専門用語がちりばめられているのとで、これだけでは詳細は
わかりかねます。しかしどうも梁興は呪詛系統の呪を作らせていたようでござ
います」
「呪詛だと?」
 はじかれたように書面から顔を上げた帷湍に、士銓は緊張を覚えながら説明
を続けた。
「今、原文を冬官に調査させております。それと同時に他に書き付けが残って
いないかどうか、冬官府の隅々まで調べさせております」
「やはり二百年前の謀反に原因があったのか……。俺にはどうも信じられんの
だが」

145永遠の行方「呪(57)」:2008/12/26(金) 19:02:27
 茫然としたような表情の帷湍に、王は大らかな口調で応じた。
「そうとも限らんぞ。今回の件とは無関係かもしれんし、関係があったとして
も、たまたま梁興の負の遺産を手に入れたまったくの第三者が、腹黒いことを
企んでいるという可能性もある」
「ああ――なるほど。それもそうだな」
 帷湍はうなずいたが、「しかし呪詛というのは気になる」と唸った。
 他の書類も手に取って順に目を通す帷湍の傍ら、王は士銓に、離宮のある崆 
峒山(こうどうざん)に立ち寄ってきたことを告げた。崆峒山は光州南部の凌
雲山で、梁興の乱のあと光州城の者が引き立てられてきた場所であり、比較的
罪は軽いとして、仙籍を削除されたものの斬首は免れた者の牢があった場所で
もある。
「州城に入る前に、地方の様子を見たかったのもあってな。それに崆峒山の獄
舎に二十年以上入っていた者も数名いたはずだ。その間に何か書き付けを残し
ていないとも限らん。もしくは牢番の中に、興味深い話を聞いた者がいたやも
しれん」
「は……。確かに」
 士銓は冷や汗を流しながら応えた。言われてみれば確かに何か手がかりが残
っている可能性はあるのに、崆峒山に調査の官を差し向けようとは思わなかっ
たからだ。書き付けを検分していた帷湍も暗い顔でうなだれたが、深刻な顔の
両名を前に王は笑った。
「そう固くなるな、士銓。おまえは州候も時折やりこめられる、やり手の令尹
ではなかったのか。まあ崆峒山の者には指示を出してきたゆえ、何かわかれば
早々に青鳥が来よう」
「は……」
「それより民の様子だが」
 そのとき房室の扉が開き、屏風の陰から小臣が顔を出した。
「失礼いたします。ただいま、幇周から急ぎの伝令が」
 帷湍は即座に「通せ」と命じた。件の小臣が後方に顔を向けてうなずくと同
時に、伝令の徽章をつけた兵士がひとり駆け込んできた。屏風の前で片膝をつ
いて頭を下げる。

146永遠の行方「呪(58)」:2008/12/26(金) 19:04:30
「幇周よりの伝令でございます。先ほど、病人を収容した仮小屋から抜けだし
た女を捜索したところ、幇周の里に戻っていることがわかりました。それもど
うやらその女は、病を引き起こした呪者から伝言を託されたようでございます」
「なに?」
「面を上げよ。詳しく話せ」
 帷湍と士銓からたたみかけられるように言われ、顔を上げたその兵士は、奥
で椅子に座っている貴人を見て一瞬わけがわからないような顔をした。ついで
装束から延王その人であると悟って驚愕に目を見開き、がばっと叩頭する。
「も、申し訳ございません! ご無礼を! しゅ、主上がおいでとは――」
 扉の外には州候や令尹の護衛のほか、州兵と異なる色の鎧をまとった禁軍兵
士もいたはずだが、それが目に入らないほどあわてていたらしい。
 緊張のあまり、平伏したまま可哀想なくらい震えているその兵士を前に、王
は椅子から立ちあがった。そのまま芝居がかった仕草で歩いていき、件の兵士
の側に膝をつく。その気配を感じたのだろう、何が起きるのかと緊張でこわば
っている兵士の肩に、王はそっと手を置くと声をかけた。
「面を上げるがよい。雁の民はすべて余が愛し子。子が父に話すのに、何の遠
慮があろう」
 促され、おずおずと顔を上げた兵士は、神に等しい貴人の尊顔を間近に見、
今にも気絶せんばかりであった。
「こたびの事件には、関弓の宰輔もたいそう心を痛めておる。だが余が参った
からには、これ以上の非道は許さぬ。安堵せよ」
 慈愛と威厳に満ちたそのさまは、まさしく民の間に流布しているとおりの賢
帝の姿に他ならない。今回のような非常時においてはさておき、日頃は朝議や
政務を怠けて官に小言を言われたり、市井で女遊びや賭博に興じている王だと
は誰も思わないだろう。
 感極まった兵士は、「ははーっ」とふたたび叩頭した。その傍ら、王は士銓
を振り返り、にやりとして片目をつむって見せた。
 ――相変わらず、芝居っ気も茶目っ気もあるかただ。
 士銓の顔に自然と笑みが浮かび、ようやく緊張がほどけた。逆に帷湍のほう
は天井を振り仰いで、「何を遊んでいるんだ」とでも言いたげな風情である。

147永遠の行方「呪(59)」:2008/12/26(金) 19:07:17
実際、玄英宮ではこんな茶番につきあってくれる近臣はさすがにもういないの
で、こうして地方に赴いたときくらいしか、王の遊び心を満たす機会はないだ
ろう。
「して、幇周よりの急使の内容だが。もっと詳しく話してはくれぬか」
 王は兵士の肩に手を置いたまま、慈愛のまなざしで先を促した。兵士は感激
にむせび泣きそうになりながらも、そこは訓練された州兵のこと、順を追って
要点を話しはじめた。
 いわく、病人を収容していた仮小屋から、病状の篤い女が姿を消したこと。
その前にも里に帰りたがった老人が脱走したこともあり、幇周に至る道を捜索
したところ、警備の目をかいくぐった女が里閭から中に入りこんだのがわかっ
たこと。
 さらに捜索したところ、女は里祠の門を閉めてそこに閉じこもっていた。里
木を擁する里祠は神聖な場所だ。万が一にも乱暴をしたくないと考えて自主的
に出てくるよう説得すると、女は自分の子供を助けてくれと、そうすれば呪者
に託された伝言を渡すと言いだしたのだという。
「子供?」
 眉根を寄せて問うた王に、伝令は説明した。
「騎獣に乗って、塀の上から中の様子を窺ったところ、里木の下で幼い子供を
抱いた女が座りこんでいたそうです。そもそも里祠に入りこんだのも、子の病
が治るよう、里木に祈るためではないかと。しかし実際には、子供は既に死ん
でおるのです」
 さらに仮小屋で前日に起こった騒ぎを説明する。自分の子供の死を信じず、
半狂乱になった女。埋葬を拒んだ彼女は、兵が目を離した隙に姿を消したが、
同時に子供の遺体も消えていたこと。おそらく子を恵んでくれた里木の慈悲に
すがるため、病の体に鞭打って遺体を運んだのだろう。
「哀れだな……」
 帷湍がぽつりとつぶやいた。伝令は続けた。
「呪者の伝言がどういったもので、誰に宛てた内容なのかはわかりませんが、
書状のようなものだとすると、下手に女を刺激して逆上された場合は処分され
てしまう危険があります。何しろ既に正気を失っているようでして、こちらが
何を言っても子供を助けてくれの一点張りで、まったく話が通じんのです。そ
れで早急にお知らせして、ご指示をあおごうと」

148永遠の行方「呪(60)」:2008/12/27(土) 16:10:39
 王は重々しくうなずいて、ねぎらうように彼の肩を叩いた。
「ご苦労であった。幇周の駐屯部隊の長に、懸命な判断であったと伝えよ。こ
の事件の調査は州候みずからが指揮を執ることになったゆえ、さっそく幇周に
向かうことになるであろう」
 そう言って座に戻り、あとは州候と令尹に任せる。帷湍はさらにいくつか問
いただし、呪者が女とどこで接触したのか不明ながら、少なくとも現在は里の
内外に怪しい者が潜んでいる様子はないことを確認した。その上で、自分が赴
くまで女を刺激しないよう指示を与えて伝令を帰した。
「出てきたな」
 王がにやりとする。考えこむ風情で「ああ」とだけ応えた帷湍に、王は軽く
笑った。
「なに、おまえの妻子が嘆くような目には遭わせんよ。禁軍の選りすぐりの兵
を十名つけよう。うち一名は相当な使い手をな。おまえの護衛もつわものぞろ
いと聞くし、何かたくらみがあったとしても、それで充分対応できるだろう」
「別に自分の命が惜しいわけじゃない」帷湍はむっとしたように答えた。「そ
れより呪者の意図が解せんのだ。気の触れた女に伝言を託すとは、いったい何
を考えている? 誰に宛てたものにせよ、伝言が伝わらずとも別に構わないと
いうような投げやりな感じじゃないか」
「ふむ。光州の地に描かれた環と同じだな」王は顎をなでながら答えた。「あ
れも考えようによっては、ここで何か不可解な事件が起きているぞと、わざわ
ざ知らしめる意図があるとも解釈できる。だからあのような、明らかに人為的
なものだとわかるお膳立てをしたのだと。しかしながらそう断じるには弱い部
分もある。誰かの注意を引く意図を持っているように見えながら、葉莱より前
の事件は辺境の里で病による死者が月にひとり出るだけだった。あまり派手で
はない。あれもまた、気づく者がいればよし、いなくても別にかまわないとい
うような投げやりな感じを受ける」
「いったい何が目的なのだろう?」
 帷湍は困惑のままに疑問を口にしたが、王は肩をすくめただけだった。

149永遠の行方「呪(61)」:2008/12/27(土) 16:12:44
「呪者の伝言の内容がわかれば、見当もつくかもしれん」
「ああ……そうだな」
 ふたたび考えこむように視線を床に落とした帷湍だったが、すぐに令尹に命
じた。
「幇周に行く。用意を」
「ただいま」
 その傍らで、王も「士銓。すまんが州兵の軍装を貸してくれ」と言った。先
ほどの話で出た、帷湍の護衛につける禁軍兵士に貸与するのだと受けとめて頭
を下げた士銓だったが、意味深な王の表情から真意をくみ取って驚愕に目を見
開いた。
「それは――危険では――」
「相当な使い手をつけてやると言ったろう。禁軍の兵にも州兵の鎧をまとわせ、
ともに帷湍の護衛に紛れこむ」
 事もなげに言ってのけた主君に、だが帷湍は一瞥を投げただけだった。そし
てしばらく沈黙したのち、しんみりとした調子でこう言った。
「俺が保証して済むことなら、里祠に立てこもっているという女の気の済むよ
うにしてやろう。残念ながら治療法がわからない以上、その女も長くはないだ
ろうからな。ならばせめて子供の遺体を引き取って、手厚く看病した結果、快
方に向かっていると言ってやろう。だが再感染を防ぐために会わせてはやれな
いと。子供のためにそこまでしたのだ、女は納得してくれるだろう。そして少
なくとも安らかな気持ちで最期を迎えられるだろう」
 いつになく同情するふうなのは、彼自身も人の子の親だからだろう。王もそ
んな帷湍の心中を思いやるように、「そうだな。そうしてやれ」と静かに応じ
た。

150永遠の行方「呪(62)」:2009/01/24(土) 21:01:33

 慶と接する南部の地域は温暖だが、雁は基本的に北国だ。その北方の里とも
なれば、冬の日はより短く、雪に埋もれる生活が待っている。
 しかし五百年の長きに渡る大王朝の存在は、そんな北国にも安楽な暮らしを
もたらした。どんな小さな里に向かう街道であってもきちんと整備されている
し、蝕でもない限りは天候もまず荒れないから、冬場の交通に多少難儀するこ
とを除けば、気候的には恵まれているはずの巧などよりはるかに住みやすい。
地域によっては石造りより木造の家屋のほうが多いが、建物がつぶれるほどの
大雪も降らない。静かにしんしんと雪が降り積もっていくだけの穏やかな情景
があるだけだ。
 州候を擁した騎獣の一団は、とっぷりと日の暮れた冷気の中を、滑るように
幇周へと向かった。月明かりの中、遠目に里が見える頃には夜も深まっており、
駐屯部隊がしつらえたとおぼしき篝火が、そこここに赤々と燃えているのがわ
かった。暖と明かりを取るためのものだろう。避難や発病騒ぎのせいもあって
か、幇周へと至る細い街道が綺麗に除雪されているのも見て取れた。
 今夜はここで泊まりだろうな、と州候帷湍は思った。病人を収容した仮小屋
には瘍医と疾医が派遣されているはずだから、ついでに彼らから状況を聞いて
おこうと考える。その内容次第では帰城が遅れるかもしれないが、出がけに令
尹にいろいろ指示を出しておいたこともあり、州城の者も多少の猶予がほしい
だろうから都合が良いかもしれない。いずれにせよ明日戻る頃までには、例の
書き付けに関する冬官府の報告もできあがっているだろう……。
 そんなふうに頭の中で段取りをつけながら、すぐ横で騎獣を並べ、何食わぬ
顔をしている主君をちらりと見やる。
 こうして州兵を装ってしまえば、尚隆はたちまちそれに馴染んでしまう。同
道の州兵らは、軍装を貸与された禁軍兵のひとりであることを疑ってもいない。
むしろ王の護衛として国軍の中でも高い地位にある軍人にしては、妙に気安く、
くだけた奴だと、親しみを覚えたり逆にあきれたりするだけだ。
 これでも昔に比べればおとなしくなったと朱衡などは言うが、はたしてそう
だろうか。頼るべき官が増え、少々のことでは政務が滞らなくなった。だから
王がふらふらと出歩いても支障は少なく、結果的に王の無軌道ぶりが目立たな
くなっただけだろうと帷湍は意地悪に考えている。

151永遠の行方「呪(63)」:2009/01/25(日) 15:06:16
 もっとも尚隆には底が知れないところがあった。これだけ長く仕えていると
すべてをわかった気になるが、実のところは臣下に心の内を容易く見せるたち
ではない。あけっぴろげに見えて、その実、本心では何を考えているのかわか
らない男だった。
 今は飄々として見えるこの男も、二百年前には闇の深淵を覗いたことがある
のだと、帷湍は信じている。
 混乱を招くだけの無謀な人事、意味もなく役夫を増やして民を酷使する勅令
の連発。光州の謀反が悪いほうへ転んでいたら、間違いなく王朝は終わってい
ただろう。
 帷湍の視線に気づいた尚隆が片眉を上げ、おどけた笑みを返してきたので、
顔をしかめて前を向く。そうして呆れた体を装いながら、果たして彼はさびし
くないのだろうかとふと思った。
 妻と娘を得、家庭団欒の温かさを知った身では、いかに王が気ままな生活を
送ろうと、どこかさびしいと思う気持ちはぬぐえない。だが尚隆は、市井で女
遊びはしても、宮城に后妃を迎える気はまったくないらしい。そういえば相変
わらず城下をふらふらと遊び歩いて官に小言を言われていると聞くが、それで
いて女官には一度も手を出したことはない。登極したばかりのころと同じく、
後宮は寵臣の私室として使われているが、彼ら彼女らとの関係はあくまで主従
にとどまっている。帷湍にはそれが、尚隆があえて自分の心に踏み込ませる相
手を作るまいとしているように思えてならなかった。
 もっとも王は子を持てないし、どう見ても家庭的とは言えない尚隆のような
男にとっては、妻もわずらわしいものなのかもしれないが……。
 幇周の里は周囲に街もなくこぢんまりとしていて、本当に廬人たちの冬の住
処といった風情だった。冬場の家は売ってしまうことが多いから、年ごとに異
なる家に住む場合もめずらしくないが、おそらくここはどの家も冬になるたび
に同じ民が住むのだろう。脱走したという老人も呪者の伝言を受けとった女も、
だから必死にここに帰ろうとしたのか。
 そういえば被害に遭った他の里の規模はどのくらいだったのだろうと、騎獣
を降下させながら帷湍は思った。郡や郷といった大きな府第のある場所でない
のは確かだが、ここと同じように小さな里だったのか、あるいは周囲に街が広
がり、そこそこ賑やかな地域だったのか。

152永遠の行方「呪(64)」:2009/01/31(土) 12:27:52
 雁は安定しているから、荒れた国と違って里の位置が数十年で変わるような
ことはまずない。むろん新しく里ができることはあるが、蝕の害に遭うといっ
た災難でもないかぎり、その逆は滅多にないだろう。おそらく光州の謀反のと
きにあった里は、今でも同じ場所にあるはずだ。里木がある以上、簡単に移動
するわけにはいかないのだから。
 ただし一般の家屋は木造も多く、従ってある程度の周期で立て直されること
になる。もし何らかの呪具が家の特定の場所に埋められている、または家自体
に仕込まれているなら、つい最近――とまではいかずとも、数十年以内に仕組
まれたことではないだろうか。少なくとも二百年前も昔に企てられた陰謀では
あるまい。
 里閭の前、篝火で赤々と照らされた空き地に、一行は次々と舞い降りた。既
に兵らが待ち受けており、騎獣から降りた帷湍を、数人の兵がうやうやしく迎
えた。
「女はどんな様子なのだ?」
 最前にいた卒長の徽章をつけた男に、同道の将兵を介さずに帷湍が直接問う。
卒長は「相変わらず里祠に立てこもっております」と緊張気味に答えた。彼に
導かれるまま、里の中に足を踏み入れる。護衛らもあとに続いたが、幇周側の
兵は帷湍のみに気を取られており、当然ながら誰ひとりとして尚隆に注意を払
う者はいなかった。
 里祠の前にたどりつくと、十数人の兵が建物を取り巻いていた。州候を認め
て一様に礼をした彼らの前で、帷湍は足を止めて里祠を見あげた。卒長が説明
する。
「日が落ちて急激に気温が下がりましたので、女が凍死してはいけないと、八
方で篝火を焚かせて何とか暖めようとしております。食料と一緒に衾を投げ入
れてやりまして、今はそれにくるまっているようです。お知らせしたように、
子供を助けるのと引き替えに呪者からの伝言を渡すと言っておりましたが、今
は里木の下でうずくまっているだけです。健康な者でもこの寒さはこたえます
し、もうあまり時間はないかと」
 帷湍はうなずくと、周囲に視線をめぐらせてから、あらためて里祠に目を戻
した。

153永遠の行方「呪(65)」:2009/01/31(土) 12:34:09
「伝言か。『教える』のではなく『渡す』というからには、口伝えではなくや
はり書状のたぐいか……」
「おそらく」
「では、おまえの望みをかなえるために州候がみずから足を運んだと、その女
に伝えてやれ。実際、そのつもりでやって来たのだ。少なくとも子供が助かる
と錯誤させて安らかに逝けるようにしてやろうと。しかしとにかく里祠から出
てきてもらわんとな」
 だが卒長は困惑の体で答えた。
「はあ。しかし、どうにもこちらの言うことに耳を貸してはくれませんので」
「そのようだな」帷湍は溜息をついた。「既に心を病んでいるようだから、こ
ちらが伝言を欲しがっていることには触れず、まずは子供を助けてやると言っ
て注意を引くのだ。早くしないと手遅れになるともな。女が出てきたら何とか
なだめて、子供の亡骸ともども州城に連れていく。なだめるのに時間がかかり
そうなら、伝言の内容だけでも聞きだす。もし本当に書状のたぐいとわかれば、
何としても渡してもらわねばならん。素直に州城に行ってくれれば一番面倒が
ないのだが」
 うなずいた卒長は里祠の門に歩みよった。大声を張りあげて、中にいる女に
呼びかける。
「聞こえるか? さっきも言ったとおり、州候おんみずから出向いてくださっ
たぞ。このたびの病に大変心を痛めておられ、おまえのことも憐れんでおられ
る。おまえの子供も州城に運んで手厚く看護をしてくださるそうだ。この寒さ
だ、子供にはつらかろう。体にも悪い。そこから出て、早急に医師に子供を診
せてくれ。早くしないと手遅れになってしまう」
 彼はいったん言葉を切って様子を窺った。しばらく待ってからふたたび呼び
かけを繰り返すと、一同が見守る中、里祠の門がわずかに開いた。それへ向け
て帷湍が軽く手を挙げ、声を投げる。
「州候はここだ。早く子供を医師に診せるがいい。むろんおまえのことも面倒
を見よう。もともとこたびの病を治すために奔走していたのだが、やっと治療
法がわかった。特殊な薬草を煎じて病人に与えたところ効果があったのだ。仮
小屋の者たちは病状が篤かったため予断を許さないが、少なくとも症状は落ち
着いているそうだ。じきに快方に向かうだろうと疾医は言っている。おまえや
おまえの子にも効くはずだ」

154永遠の行方「呪(66)」:2009/01/31(土) 18:43:20
 良心にちくりと痛みを感じながら、もっともらしい顔で嘘を口にする。
 警戒させないために兵らに手真似で指示をして後方に下がらせると、ほどな
く門の内から若い女がおずおずと姿を現わした。伝令から聞いて想像していた
より、ずっとおとなしそうな印象の女だった。しかし病のせいだろう、顔や手
は不気味な斑紋に冒されており、周囲を篝火が明るく照らしているせいで、広
範囲に渡って皮膚がただれているのがよく見えた。あるいは美しい女だったの
かもしれないが、今となっては容貌もよくわからないほどだ。若い女であるだ
けに痛ましさもいっそうで、明らかに事切れている二歳ほどの幼児をしっかり
抱きかかえたさまは、哀れ以外の何物でもなかった。
「俺が光州侯だ。帷湍という」
 努めてやわらかい声音で語りかける。女は茫然とした様子で立ちすくみ、帷
湍を凝視していたが、やがてその場にぺたんと座りこんだ。そして腕の中の小
さな亡骸をいっそう強く抱きしめながら、恨み言をつぶやいた。
「ひどいのよ。みんな、この子が死んだって言うの。死んだから埋めろってい
うの。あいつら、この子を殺す気だわ。そしてあたしのことも殺すのよ」
 気弱にすすり泣くならまだしも、憎々しげに吐き捨てる。姿を現わしたとき
は、さほど常軌を逸しているようには見えなかったが、精神の安定を欠いてい
るのは確かなようだった。
「それはすまなかった」
 帷湍は神妙に謝った。とにかく女の警戒心を解いて伝言を渡してもらわねば
ならない。
「何か行き違いがあったのかもしれん。だがもう大丈夫だ。おまえもおまえの
子も、州城に連れていって手厚く看護しよう。望みのものがあれば、何なりと
言うがいい。できるだけのことはする」
 女はじっと帷湍を凝視した。だがやがてその顔に浮かんだのは嘲りの表情だ
った。
「嘘つき」
 とっさに何を言われたのかわからずに、帷湍が戸惑っていると、女はさらに
言葉を投げつけてきた。
「知ってるわよ。あんたはあれが欲しいんでしょう。あの人が言ったとおりだ。
あれを渡したら、あたしもこの子も殺すんでしょう。知ってるんだから」

155永遠の行方「呪(67)」:2009/01/31(土) 18:46:20
 『あれ』とは呪者からの伝言のことだろうか。少なくとも他に思い当たるも
のはない。勝手に思い詰めているらしい女の様子に、帷湍は困惑した。この哀
れな女の頭の中では、何やら一方的な理由づけがなされてしまっているらしい。
「でもこの子は生きてるの。あたしも生きてるの。残念ね。ざまあみろ、だわ」
 女は勝ち誇ったように「ほら」と言うと、抱きかかえていた亡骸のぐにゃり
とした体を、目の前の石畳に横たえた。すると見守る兵らの、憐れみと嫌悪と
が複雑に混ざりあったまなざしの中、亡骸は幼児特有の大きな頭を不気味にぐ
らぐらさせながら、それでもしっかりと立ちあがった。瞬時に凍りついた空気
の中、州兵の何人かが、ひい、と息を吸いこんで後ずさった。
 帷湍の傍らにいた尚隆が一歩踏み出し、とっさに武器を構えた兵士らに「待
て」と鋭く声を投げて手で制した。州侯の護衛の言葉だから幇周側の兵も従っ
たものの、誰もが青ざめていた。
 子供は相変わらず頭をぐらぐらさせながら立っていたが、目を閉ざしたまま、
やがて口だけを開いた。
「今……ここに……王朝の……終わ……り……を……告げる……。雁は……滅
び……る……。救いは……他に……手立てはない……」
 途切れ途切れに発せられた、抑揚のない不気味な言葉。帷湍は微動だにせず、
子供の亡骸を凝視していた。その場でひとり女のみが、狂気をはらんだ目をき
らきらと輝かせた。
「ほら――ほら! 息子は生きているでしょう? 生きているわ!」
 母親と同じく病で黒ずんだ亡骸の小さな手が、差しだすように掲げられた。
そこに握られた、折りたたまれた紙片らしきもの。だが誰が動くより先に、女
がそれを横からかすめ取った。
「あげないわよ!」金切り声で叫ぶ。「誰にもあげない! これは主上に渡す
んだから! だってあの人にそう命令されたんだから! ほしかったらちゃん
と息子を治して!」
 彼女の傍ら、子供は操り手の糸が切れたかのように、どさりと地面に倒れ伏
した。それきり、ぴくりとも動かない。ようやく我に返った兵のひとりが女に
駆け寄り、紙片を取りあげようとしたが、女はその場にうずくまり、悲鳴を上
げて頑強に抵抗した。

156永遠の行方「呪(68)」:2009/01/31(土) 18:48:31
「いやよ、いや! あげないんだからぁ!」
 別の兵も駆け寄り、両側から女の二の腕をつかんで立たせようとしたが、女
は泣きわめきながら激しく上体を左右に揺すり、必死に彼らを振りほどこうと
した。
「おい、あまり乱暴をするな」
 あわてて声を投げた帷湍の肩に手が置かれた。はっとして傍らの主君を見や
ると、尚隆は黙ってうなずき、足を踏み出した。
「皆の者、控えよ! 主上の御前である」
 女のほうに歩みよる尚隆を見守りながら、姿勢を正した帷湍が鋭い声で周囲
を圧した。その威厳に、騒ぎにざわめいていた兵らもはっとなって州侯を注視
した。
 両側から女をつかんでいたふたりの兵も振り返ったが、彼らのほうは何が起
きたのかわかっていないようだった。州兵の軍装をまとってゆっくりと歩み寄
ってくる尚隆と、背後の州侯とを、惑うように交互に見やる。帷湍の後方にい
る禁軍兵らも、既に州侯と同じく姿勢を正して尚隆を見守っている。彼らをす
べて州侯の護衛としか認識していなかった幇周側が茫然となったのはもちろん、
州城から同道した州兵らも呆気にとられて尚隆を見つめた。
 帷湍は威厳を保ったまま、さすがにぽかんとしている女に重々しく言葉をか
けた。
「おまえを憐れんでおられるのは主上である。われらはお止めしたのだが、お
まえのため、州兵に身をやつしてまでおでましになられた。主上の慈悲におす
がりするがよいぞ」
 女の傍らにいた兵士は、ここに至ってあわててその場で叩頭した。彼らの数
歩前で立ち止まった尚隆は、安心させるように女にうなずいてから静かに言っ
た。
「俺が延王だ。おまえの子は、俺が責任を持って預かろう。おまえが望むなら
玄英宮に連れていこう。そこでゆっくり養生するがいい。おまえとおまえの子
をこんな目に遭わせた呪者には、必ず罪を償わせる。伝言とやらを俺に渡して
この悪夢のことは忘れ、玄英宮でもどこかの静かな離宮でも、望みのままに心
静かに過ごすがいい」

157永遠の行方「呪(69)」:2009/01/31(土) 18:53:45
 座りこんでいた女は、ぽかんとした表情のまま、尚隆を見あげた。
「主上……? 本当に……?」
「そうだ」
 女は迷うように周囲を見た。幇周側の州兵らはいまだ茫然としていたが、姿
勢を正して見守っている禁軍兵の何人かが真剣な顔でうなずくのを見て、尚隆
に目を戻した。
「あの……。じゃあ、息子を助けてくれる……?」
「俺の力の及ぶかぎり、何とかしよう。だからその紙をくれんか」
 やさしげな声に、女はまた周囲を見回した上で、ようやくおずおずと紙片を
差しだす仕草をした。だが尚隆が足を踏み出そうとすると、不安そうな顔で、
びくりとして手を引っ込めてしまった。
「大丈夫だ」
 励ますような声に、女はやっと腕を伸ばして紙片を差しだした。尚隆はゆっ
くりと歩み寄り、間近で片膝をついて女と目の高さを合わせてから、そっと紙
片に手を伸ばした。女の顔に緊張が走ったが、それでも先ほどのように手を引
っ込めることはなく、紙片は無事に尚隆の手に渡った。
 尚隆は折りたたまれた紙片をその場で開きながら相手にうなずいた。
「大変な目に遭ったな。だがもうこれがおまえを悩ませることはないだろう」
 そうして紙片に目を落とし、何やら眉根を寄せる。
「あ、あの……」
「俺が力になる。約束する」
 真剣な表情で身を乗りだした女に、顔を上げた尚隆が笑って答えた。女は目
を輝かせ、さらに何事かを口にした。叩頭していた兵士の耳に届いた、拍子の
良い五音の言葉。
 その途端。
 尚隆は苦しそうなうめき声を上げると、その場に昏倒した。予想外の光景に
周囲がとっさに動けず立ちすくむ中、女はすっくと立ちあがり、冷ややかな目
で王を見おろした。ついで正面を見据え、壮絶な笑顔を浮かべる。
「わが主よりの伝言、確かに伝えた」
 そう言うなりよろめいて膝をつき、それから石畳に倒れこむ。

158永遠の行方「呪(70)」:2009/01/31(土) 22:33:29
「主上!」
 血相を変えた禁軍兵がようやく王に駆けよった。そのうちのひとりが倒れた
女の上にかがみこみ、首に手を当てるとすぐ帷湍を振り返った。
「女は死んでおります」
 愕然として立ちつくす帷湍に、尚隆の様子を見ていた兵が血の気の失せた顔
で続けた。
「主上はご無事ですが、意識がありません……」
 それを聞いた帷湍は、主君によろよろと歩みよった。冷たい石畳の上で倒れ
ている尚隆の傍らに両膝をつき、何かの間違いであってくれと祈りながら顔を
のぞきこむ。かすかに眉根を寄せてはいるが、呼吸は正常。肩に手を置いて揺
すってみたが何の反応もなく、王の腕は力なくだらりと垂れたままだった。そ
の手の中にある紙片を認め、受けた衝撃のまま、何の躊躇もなくもぎとって紙
面に目を走らせる。
 香でも焚きしめられているのだろう、良い香りのする厚手の料紙だった。そ
こに書かれた文字はただ「暁紅」の二文字のみ。
「侯……」
「州城にお運びせよ。決して騒ぎたてず、人目につかぬように」
 蒼白な顔ですがるように声をかけてきた禁軍兵に、帷湍は厳しい顔で命令す
ると立ちあがった。茫然と立ちすくんだままの幇周側の兵を見回す。
 何が起こったのかはわからないが、尋常の出来事でないことは確かだった。
いずれにせよ、王の身に異状が起こったことを他の者に知られるわけにはいか
ない。事態が明らかになるまで、ここにいるすべての者に禁足を課すことにな
るだろう。

159永遠の行方「呪(71)」:2009/03/14(土) 16:10:51

 光州からの内密の報せを受けた高官らはまず茫然とした。そして次には騒然
となった。
 何しろ主君が禁軍を従えて出立してから何日も経っていないのだ。それなの
に今や王は意識不明の状態で、光州城の内宮の奥深く伏せっているのだという。
それも呪のせいで。
「帷湍どのはいったい何をしておられたのだ」
「まさか主上をおひとりでお出ししたのではあるまいな!」
 朝議の場は紛糾し、諸官は口々に光州侯を責めたてた。その急先鋒は夏官長
大司馬だった。次には光州侯による陰謀の可能性すら論じられるようになるだ
ろう。
 政治とはそういうものだと断じるのはたやすい。しかしもともと光州の地に
描かれた不気味な環のこともあり、王に万が一のことがあったらとの仮定も、
もはや恐ろしいほどに現実味を帯びてしまった。それゆえにさすがの官僚らも
内心でおののいてしまったと言ったほうが良いだろう。
 なぜならこの世界において、国というものは王がすべてだからだ。隆盛を極
めた大国が、失道や不慮の事故による崩御によって、ほんの十数年で荒れ果て
てしまうことなどめずらしくもない。何百年も続いた大王朝でさえ、国家の屋
台骨はそれほどまでにもろいのだ。
 光州からの報せは、緊急性と内容ゆえに青鳥ではなく密使が立てられていた。
休みもなしに騎獣を飛ばして数刻で玄英宮にたどりついた使者は、そのまま緊
急の朝議の場で引見され、冢宰を始めとする高官らに事件の顛末を語った。王
のためにすべての典医が呼ばれたが、通常の病や怪我ではないために対処のし
ようがなかったこと。とはいえ現在のところは、王はただ昏々と眠っているだ
けのように見え、脈も呼吸も正常であり、苦痛に類する兆候も窺えないこと。
 当初、州侯は幇周の里を封鎖することで、事件を知る幇周側の関係者を一時
的に里に軟禁しようとした。とにかく起きたことを余人に知られるわけにはい
かないからだ。

160永遠の行方「呪(72)」:2009/03/14(土) 19:34:10
 事態が事態の上に皆が愕然としていたこともあって、厳しい声で告げられた
州侯の沙汰に誰もが粛々と従った。幇周側の兵の一部は事情聴取のため、州侯
の帰城の際に伴われた。しかし結局のところ、それから半日も経たないうちに
幇周の封鎖は解かれることとなった。
 州城に伴われた兵のほうはまだ留め置かれているものの、あくまで事情聴取
のためであって、それが終わればふたたび幇周での任に戻ることになっている。
「特に令尹が、事件をとことん秘することに反対なさいまして」
 幾多の鋭い視線にさらされながら、急使は緊張の面持ちでそう説明した。い
くら流行病の問題があるとはいえ、州侯の訪問直後にあわてて幇周を封鎖、州
侯は即刻帰城したものの兵を里に軟禁して、外部とは書簡を含めていっさいの
やりとりをさせない。そんなことをしてしまえば、却って「何か重大な事件が
あった」との憶測を呼びかねないというのが理由だった。
「むしろ事件そのものは隠さず、大した事態にはならなかったふうを装ったほ
うが民も疑わないだろう、さらには呪者への憤りから、関心を主上から反らす
こともできると」
 州城内部ならいざ知らず、どう転ぶともわからないのに、この段階で王の健
康上の噂が市井に広まるのは好ましくない。むしろそのせいで事態が悪化する
恐れさえある。しかしそれを防ぐには幇周にいた兵のように、日頃から民と接
している市井の駐留軍の者からして自然に「大したことはなかったのだ」と納
得できなければならない。それでこそ「一時はどうなることかと思ったが、大
事に至らなくて本当に良かった」という安堵につながる。
 だがそんな演出は、まださほどの時間が経たず、当事者もよく事態を飲みこ
めずに茫然としている段階、余人にはまったく事件が知られていない段階でな
ければならない。状況が深刻であればあるほど、時間の経過とともに、秘匿の
ために州府が誤魔化しをするのではという疑念が生じてしまうからだ。そうな
ってからでは何を発表しても、一定の層は「実際には事態は好転していないの
ではないか」と疑心暗鬼に陥ってしまう。そしていったん疑いをいだいた当事
者の兵を解放することなどできないから、そのことがまた新たな疑念を呼ぶと
いう悪循環に陥りかねない。

161永遠の行方「呪(73)」:2009/03/15(日) 11:03:38
 かくして真相を知る者は州城でもごく一部に留めておき、よく似た背格好の
者を王の影武者に仕立てあげた。その上で外殿において壇上の玉座から冕服
(べんぷく)に冕冠(べんかん)を被った姿で幇周側の兵に謁見させ、神籍に
ある王に呪はまともに働かなかったこと、一時的に意識不明に陥ったものの、
典医の手当により何の問題もなく回復したことを伝えたのだった。
 身分の低い者に対しては王は珠簾を挟み、直答もしないものだが、尚隆はあ
まりそんな面倒なことはしない。それもあって玉座を囲む珠簾は上げさせたが、
確かにしきたり通りの礼冠礼服ではあったものの、五色の珠玉を連ねた長い飾
りを十二本も顔に垂らす冕冠を被っていては、よほど間近でない限り容貌は見
定めがたい。しかも典医と芝居を打って「まだ安静に」「この五百年の間、似
たようなことはあったが、その都度精神力で勝ってきた」等と言わせ、信憑性
があるように装わせたという。
「主上の影武者を……」
「何と勝手な」
 呆気にとられた諸官はざわめいた。だが少なくともそれで謁見した者たちは、
何の疑いもなく王の回復を信じたという。
「むろん侯も令尹も、主上がお目覚めになった暁には処罰を受ける覚悟はある
というわけだな?」
 大司馬の鋭い問いに、使者は冷や汗を流しながらも肯定した。それを冢宰が
取りなす。
「主上がこのままお目覚めにならないという事態などありえない以上、混乱を
防ぐためには有用な措置であったとは言えますぞ」
「確かにこういった非常時には即断即決が重要ですが……」
 別の官が、惑うように口ごもる。登極の当初から王に仕えている帷湍の忠信
を疑うわけではないが、王が宮城ではなく州城の内宮で伏せり、光州側の独断
で影武者を立てるという異常な事態に、不安定で危険な匂いを感じてしまうの
は仕方がない。これが州侯が宮城にいるというならともかく、彼は自分の城で
ある光州城で采配をふるっているのだから、その気になればいくらでも謀叛を
起こせてしまう。

162永遠の行方「呪(74)」:2009/03/15(日) 19:08:52
 いや、既にこれは謀反なのではないか、例の呪の環は王を光州に誘うための、
光州侯による巧みな演出だったのではないか。そんな疑念が諸官の脳裏に生じ
たのは当然だった。むしろ光州側の言い分を丸飲みするほうが、国府高官にあ
るまじきおめでたい思考と言えるだろう。危機意識のかけらもないことになる
からだ。そもそも王は意識もなく伏せっているというが、実際に呪によるもの
なのかどうかすら怪しい。
「とにかくこうなった以上、一刻も早く、主上に宮城にお戻りいただきません
と」
 蒼白な顔で言った大宗伯に諸官はうなずいた。
 使者および使者が持参した光州侯からの書状によれば、王に呪をかけた者は
死んだものの、誰かに命じられてやったことらしい。従ってこれで事態が収束
とは思えず、さらなる事件が起こると考えるのが自然だった。そのため影武者
に、王に危害を加えようとして果たせなかったという体を装わせただけでなく、
これで国に刃を向けても何にもならないことを知ったろうが、往生際悪くさら
に陰謀を続けてくる可能性が高い、まったくもって予断を許さない状況である
ことを強調させたという。王に呪が通じなかったことで皆が安心してしまい、
備えを怠ったり、別の里でまた病が発生したときに「すべて終わったのではな
かったのか」と王への信頼が揺らぐことを怖れたからだ。
 今頃は光州城は行幸の後続の部隊を迎えている時分で、それと同時に王の影
武者が謁見を開き、城の者を激励しているはずだった。その間、裏方では王を
宮城に運ぶべく、ひそかに準備を整えているという。玄英宮に密使を送ったの
は、その受け入れ体制を整えてもらうためでもあり、王を人質のような形で州
城に留めるつもりはないことを使者は暗に示した。
 ただし何も知らない大半の者の不審を招かないよう、州侯自身は州城に留ま
るとのことで、今さら玄英宮に来る気はないらしい。これはこれで当然とは言
えたが、またもや諸官の胸のうちにもやもやとしたわだかまりをためることと
なった。表向きは王も州侯も光州城にいることになるのは変わらないからだ。
しかもこちらは、王の状態を公にすることもできない。
 静かにざわめく官を前に冢宰が言った。
「光侯によれば、主上をこちらにお送りする際に、光州側のこれまでの調査結
果もすべて運ばせるとのことです。梁興の時代の官が遺した書きつけについて、
新たにわかったこともあるとか」

163永遠の行方「呪(75)」:2009/03/20(金) 19:06:39
「それどころではない!」大司馬が激昂のままに叫んだ。「そんなものはあと
で別途送ってくれば良い話だろう。今は何よりも主上をお迎えするのが先だ。
光侯は優先度を勘違いなさっているのではないか」
 他にもうなずく顔を見て、白沢は「そうとは思いませんな」と穏やかになだ
めた。
「調査結果をまとめるのに時間がかかるというならいざ知らず、既にできてい
るものをそのまま運ぶだけということですから。すべてがつながっている以上、
今はむしろ、主上のためにもどんな些細な情報でも重要かと」
「それは――」
「主上が光州に伴われた禁軍兵については、大半を州に留め置くそうです。主
上を雲海上からお運びするため、精鋭の空行師のみ、護衛として返すとか。内
々に事を運ぶためには、これも致し方ありません」
 大司馬が目を見開き、ふたたび諸官がざわめいた。それを抑えた白沢は、壇
上の空の玉座の傍らでたたずむ六太を見あげた。
 今回の朝議において六太は、最初に使者から状況を細かく聞き出したのちは、
硬い表情で黙りこんだままだった。もともと朝議の場で宰輔が率先して発言
することはあまりないのだが、今日はいつになく静かだった。
「台輔。光州城に差し向けるため、使令を十ばかりお貸しいただけないでしょ
うか。屈強である必要はありません」
 白沢の呼びかけに六太は、ぴく、と身じろぎして目を向けた。
「……間諜か。光州の動向を探らせるわけか」
 淡々とした声。白沢はうなずいた。
「使者や青鳥による通常のやりとりでは遅すぎます。しかし遁甲できる使令な
ら、大した時間をかけずに行き来できる上、州城内での行動範囲も制限されま
せん。これにより帷湍どのの身の潔白の証明も容易になります」
「なるほど」
「これから先、状況によっては光州侯の反意を疑う者も出てくるでしょうが、
主上が采配をふるえない今、疑心暗鬼によって臣下が分裂する事態は避けねば
なりません。帷湍どのにも使令を差し向けることは内々に伝えますが、侯のご
気性から考えて歓迎されることでしょう。裏表のないかたですし、今回のこと
で疑いを向けられても仕方のない状況であることは、ご本人が重々承知してお
られるはずですから。むしろ台輔の使令をおつけして疑いの余地をなくすこと
で、こちらが侯の潔白を信じていることの証になると考えてくださるでしょう」

164永遠の行方「呪(76)」:2009/03/21(土) 21:26:12
 六太は白沢をじっと見つめていたが、やがて足元に向けて何やらつぶやいて
から言った。
「今、向こうに使令を送った。尚隆の居場所を特定して二体で護衛し、他の八
体で州城を内偵するようにと。帷湍には使令から事情を伝えさせる」
「おそれいります」
 白沢はうやうやしく頭を下げ、諸官はこのやりとりでほっとした表情になっ
た。昏睡状態にあるというのはともかく、これで王にさらなる危害を加えるこ
とはほぼ不可能になったからだ。それに使令なら壁も通り抜けられるから、確
かに行動は制限されない。謀反人にとってこれほど厄介な相手はなく、逆に潔
白な者にとっては心強い味方となろう。
「良い考えですな」大司馬も感心したようにうなずいた。「台輔には多くの使
令がおありだから、小物を十ばかりあちらにやっても支障はない。おまけに本
質は妖魔だから、小物でも下手な者には手出しできない……。うむ、良い考え
だ」
 うんうんとうなずいた大司馬だったが、それでも禁軍兵を多く州城に残すこ
とには懸念を示した。何しろ徴用された民で構成されることも多い一般の兵と
異なり、禁軍ともなればすべてが職業軍人。それも王の護衛が任務とあって精
鋭が集まっている。中でも空行師は精鋭中の精鋭であり、むろん飛行する騎獣
を持った兵がすべてそうだというわけではないが、行幸で雲海上を王と先行し
た部隊のうち半数近くは空行師に当たる。指揮は同道の禁軍左将軍の采配にな
るから、直接的に光州の指揮下に置かれて自由に使われるはずもないが、それ
だけの戦闘力を持つ大軍がすべて光州城にあること自体が気がかりではあった。
「空行師のみ、主上とともに帰還させましょう」これまで意見を差し控えてい
た朱衡が口を開いた。「一刻も早く還御いただくためには、足の速い騎獣を持
つ空行師を使うのが一番です。同じ理由で、あまり全体の人数を多くして行程
の時間がかかりかねないようなことは避けたほうが良いのではないでしょうか」
 そう言って、意見を諮るように大司馬に目を向ける。大司馬はううむと唸っ
た。
「また禁軍と言えど現時点では、少なくとも州城にいる間は、主上のご様子を
知られるのは最小限に留めたほうがよろしいかと。その必要もないでしょうし」

165永遠の行方「呪(77)」:2009/03/22(日) 23:51:36
 考えこんだ大司馬は、やがて諦めたように溜息をつき、「致し方ない」と言
った。
「台輔が使令をお送りになった以上、向こうも勝手はできんだろう。それに主
上が禁軍をお連れになったのは、人心を慰撫し志気を鼓舞すると同時に、人数
面で州側の調査を助けるためでもある。ここですべての兵を呼び戻してしまえ
ば、何日あとかはわからないにせよ主上が気がつかれたとき、ご自分の意図が
台なしになったとぼやかれるだろうしな」
 その物言いに普段の尚隆の様子が浮かび、諸官は力なく笑った。
「こちらも迎えの空行師を出し、どこかの凌雲山の離宮ででも合流させるとし
よう」
「では一足先に俺が光州に行って、尚隆に付きそっている」
 静かに声をかけられ、一同はぎょっとなって壇上を見あげた。六太は相変わ
らず硬い表情をしていたが、内心の感情は窺えなかった。
「俺は遁甲はできないが、転変すれば光州城までいくらも経たないで着ける。
使令から帷湍に訪問を伝えて密かに入れてもらえば人目にもつかない」
 白沢は溜息をついた。
「お気持ちはわかりますが、台輔は宮城にお留まりください。この非常時に、
台輔まで宮城を空けることはお控えください」
「なぜ?」六太はおどけた顔になった。「危険なことは何もない。行くのは雲
海の上、着くのは帷湍が主を務める光州城だ。仮に光州に謀反の意図があった
としても、既に使令を送って見張っている以上、向こうは身動きが取れない。
それについさっきおまえ自身が、尚隆がこのまま目覚めないなどありえないと
言ったばかりだろう。俺が着く頃には、もう目覚めているかも知れないぞ?」
「万が一ということもございます。ご自分のお立場をお考えください」
「それは、このまま王が目覚めずに崩御した場合のことを言っているのか?」
 普通の官であれば憚って口にしない単語を、六太は何の躊躇もなく口にのぼ
せた。
 王に何らかの異状があれば、それが可能性としてどれほど低くても、崩御に
つながることへの危惧が頭の片隅に浮かぶものだ。そういった危機意識は、国
政に関わりが深い官ほど持っていなければならないのだから。

166永遠の行方「呪(78)」:2009/03/29(日) 13:28:01
 それだけに、実際に内心でその危惧をいだいていた諸官はぎくりとなったが、
白沢は動じたそぶりを見せず、まさか、と一笑に付した。そして「万が一と申
しております」と重ねて言った。
「では迎えの空行師に同道するというのは? 転変せずとも、騶虞を使えば空
行師についていくのは造作もない」
「台輔」白沢はやわらかく笑んだ。「主上をお連れするのは禁軍精鋭の空行騎
兵です。非常時ですから、行きと異なり少人数でいっさい休憩せずに騎獣を飛
ばせば、光州城から半日ほどで主上は還御なさいます。それをお待ちください」
 黙りこんだ六太に、白沢は続けて言った。
「むろん台輔がこうとお決めになったら、実際には拙どもにお止めするすべは
ありません。ですからお願いいたします。このまま宮城にお留まりください。
少なくとも関弓からお出になることのないように」
 六太は居並ぶ高官をじっと見据えていたが、不意に泣きそうな表情になるな
り顔を伏せ、「わかった」とつぶやくように答えた。
 麒麟は王を慕う生きものとされ、王の側を離れることが苦痛ですらあるとも
聞くが、普段の六太からはそんな性質はまったく窺えない。尚隆と示し合わせ
て仲良く城を抜け出すことはあるにしても、それ以上に単独行動のほうが多く、
王と離れることを何ら気にしないように見えるからだ。それどころか国政で厳
しい処断を下すことのある尚隆ときつい言葉で言い争うこともめずらしくない。
 しかし王が国の柱であり、失道や崩御が国土の荒廃に直結することもあろう
が、やはりいざというときには心配なのだ、非常時に駆けつけたくてたまらな
いのだと、その場の誰もが深く感じた。
 そんな六太からあえて視線をそらした朱衡は、つとめて冷静に「この上はと
にかく光州と連絡を密にせねば」と言った。光州侯にはどんな些細なことでも
報告してもらわねば、と。何があったにしろ、この場にいる者はまだ、何らか
の判断を下せるだけの詳細を得ていないのだ。

 むろん実際には、どれほど迅速に事を運んでも王の帰還まで半日とはいかな
かった。宮城で打ち合わせをし、その結果を使者が持ち帰るまで一日。それを
待ちかまえていた光州側が準備を整え、禁軍空行師を護衛に王を送り出すまで
さらに一日。途上の凌雲山で宮城からの迎えと合流、迎えに同道していた医師
団による王の診察を経てふたたび空路を辿り、一行が玄英宮に着いたときには
既に三日が経過していた。

167永遠の行方「呪(79)」:2009/04/12(日) 00:45:45
 王は昏睡状態のまま、数騎の騎獣に支えられた空行用の特別な輿に乗せられ
て到着した。普段の王ならせいぜい祭礼のときしか輿に乗ることはない。四方
の窓と帳がぴたりと閉ざされた陰鬱な輿は、騎獣を乗りこなし剣を振るう主君
の常の姿とはまったく結びつかず、見守る官は誰もがどこか茫然としていた。
 もともと正寝への昇殿の許しを得ている重臣らは、正寝は王の居宮・長楽殿
の正殿で言葉少なに主君の到着を待った。
 ほどなく王は殿舎内で使われる小型の輿に移され、錦の帳でうやうやしく玉
体を隠すようにして臥室に運ばれてきた。その光景を王を目の当たりにした高
官らは、今さらのように激しく動揺した。
「本当にこんなことが……」
 朱衡の傍ら、大司徒が震える声でつぶやいた。やはり実際に自分の目で見る
までは「まさか」という気持ちがあったのだろう。他の者も大なり小なりうろ
たえているのは変わらず、それは朱衡自身も同じだった。
 彼らの前で女官がかいがいしく働き、意識のない王の体を臥牀に横たえ、褥
を整える。重臣らは黙ってその様子を見守った。
「まあ、そう深刻になるな」黙りこんでしまった彼らを前に、腕組みをした六
太が肩をすくめた。「そのうち目覚めるだろう。尚隆のことだから、どうせ
『よく寝た』なんて言いながらのんきに起きてくるだろうよ。心配するだけ損
だぞ」
 一同は無理に愛想笑いを浮かべたが、いずれも力のない笑みにしかならなか
った。そもそも六太自身がこわばった顔をしているのだ。
 やがて付きそってきた典医のひとりが、王の診察を終えて牀榻から姿を現わ
した。
「お脈も正常、お体のどこにも異状はなく、ご不快のご様子もございません。
お目覚めにならないことを除けば、すこぶる健康体であらせられます」
「典医の意見は? 呪の仕業との話があるが、毒を盛られたとか、そういった
可能性は?」
 大司馬の問いに、典医は力なく首を振った。
「医師団内でも相談いたしましたが、神仙をこのような状態にする呪や毒に心
当たりはございません。いずれにしましてもご様子を拝見したかぎりでは、容
態が急変することはないかと存じますが、逆に処置の手立てもございません」

168永遠の行方「呪(80)」:2009/04/26(日) 13:11:00
 典医を無能呼ばわりすることは簡単だが、かと言って他の者に何か手立てが
あるわけでもない。官らは黙りこむしかなかった。白沢が言った。
「とはいえ、こうして無事に還御なされたわけで、その意味では一息つきまし
たな。早急にどうこういうものではないでしょうから、台輔は仁重殿でお休み
になられては。そのご様子では昨晩もよくお休みになっておられないようです
し」
 六太はちょっと苦笑するように口元を歪めたが、すぐにかぶりを振った。
「これから六官三公で内議を開くんだろ? 俺も出る。これでもいちおう宰輔
だからな。光州から運ばれた書類の吟味もあるし、尚隆がこうなった現場に居
合わせた禁軍兵からの聴取もある。王に罠をしかけた以上、謀反は確定だが、
こんなことをたくらむ輩だ。これに勢いを得て、次に何をしかけてくるかわか
ったもんじゃない」
 黙って視線を向けた白沢に、六太は疲れたように続けた。「何が起こったの
か知りたいんだ」と。

 空行師に託して王を送りだしてしまうと、光州城側はとりあえず一息ついた
格好になった。それでもこれからどうなるのかという不安はぬぐえない。今回
の咎に対する国からの直接的な処断を怖れるのはもちろんだが、何よりも雁が
どうなってしまうのかという、根本的な不安が彼らの頭を離れなかった。州侯
に対し、監視役として宰輔の使令が送られてきているとあってはなおさらだ。
「冢宰の要請により、台輔がわれらを派遣なさいました。これよりわれらが主
上をお守りいたしますので、ご安心を。何かあれば、関弓との取り次ぎもいた
します」
 何体もの使令が現われてそう告げたとき、州侯帷湍は重臣を集めて対応を錬
っていたところだった。唐突な出現のせいもあったろうが、滅多に妖魔を目に
することのない諸臣は文字通り震えあがった。何も言われずとも、監視役であ
ることは知れたろう。もとより今回の事件が光州側の企みであると疑われかね
ないことは承知していたものの、こうして使令が監視として派遣されるほどの
疑いを実際に抱かれていると知り、令尹も蒼白な顔で主を見やった。
「侯……」

169永遠の行方「呪(81)」:2009/04/26(日) 18:54:12
「うろたえるな」
 帷湍は顔をしかめて臣下を叱責し、おそろしげな外見ながら、おとなしく控
えている使令の群に向きなおってうなずいた。
「承った。台輔の命に従い、自由に行動してもらってかまわん。ただ、ここに
いる者以外には極力姿を見せんでもらいたい。内宮で主上に付きそっている典
医と女官にはおまえたちのことは伝えるが、州城内でもほとんどの者は事件を
知らんのだ。こんなことになっていると知れたら、却って事態を悪化させてし
まう」
「承知」
 使令はそれだけ答えると、床に沈むように溶けて消えた。臣下らはざわめい
て主君を見やったが、帷湍は意に介さなかった。
「うろたえるなと言ったろう」
「しかし……」
「むしろ使令を派遣してもらって幸いだ。いくら探られてもこちらに痛い腹は
ないし、使令の守る王に手を出せる無謀な輩もおるまい。おまけに青鳥より使
者より、はるかに早く関弓と連絡を取りあえる。良いことずくめだ」
 諸臣はあいかわらずざわめいていたが、帷湍のそれは虚勢でも何でもなかっ
た。正直、「疑われているのか」と気落ちする気持ちはあったものの、事件の
解決の前にはそんな個人的な矜持などどうでも良かった。ある意味で、帷湍は
それほど打ちのめされていた。
 登極当初からだから、尚隆とは長いつきあいだった。でたらめな王のやりか
たに呆れ果てたことは数え切れないし、王と宰輔の行状を改めるべく奔走した
ことも一度や二度ではない。
 それでも五百年という破格の治世は、尚隆が王たる器量を持ち、それを申し
分なく発揮したことの証左だった。主君の前で帷湍が認めることは絶対にない
だろうが、王者というものは凡夫の基準では計れないところがあるのだろうと
思うこともある。尚隆には欠点も多いが、臣下がそれを補える限り、それは大
した欠点ではない。
 王は国の舵取りができればいいのだ。方針が決まったあとの実務は、それこ
そ官吏の得意とするところであり、王の役目ではない。むしろ細かいことにま
で口を出されては、逆にうまくいくものもいかなくなってしまう。

170永遠の行方「呪(82)」:2009/04/26(日) 23:08:57
 未来を、国土を見据えて舵を取り、あとは臣下を信頼して任せること。その
意味では尚隆は申し分のない王だった。
 だが、その王を実質的に失ってしまっては。
 かつて、そんな尚隆もいずれは失道し、国を荒らすのかとぼんやり考えたこ
ともあった。だが、自分がまんまと謀反人に謀られ、国家を転覆させようとす
る企てに荷担した格好になるとは、夢にも思ってはいなかった。令尹の士銓な
どは、抗議するように「荷担とは違うでしょう」と言ったが、いくら尚隆自身
の望みだったとはいえ身分を伏せて彼を幇周に伴い、結果的に謀反人の一味と
相対させてしまったことは、痛恨の極み以外の何物でもなかった。

「呆けている暇はないぞ」
 王と空行師を送り出したあと、数日来の緊張が一気にほどけて腑抜け顔にな
った諸臣に、帷湍は叱責の声を投げた。中には、これ以上自分たちに何ができ
るのかと最初から諦めてしまっているような者もいて、戸惑うように主君に言
った。
「関弓ならば、主上の昏睡の原因もすぐにわかるのではないでしょうか。優秀
な典医も大勢いるでしょうし……」
「それならばそれでいい。だが最初から関弓を当てにしてどうする。事件はこ
の光州で起きたのだぞ。関弓は遠い。ここでしかわからないこともあろう。何
より謀反人のことが何ひとつわかっておらんではないか」
 そう言ってから、傍らの令尹に「例の女の身元はまだわからんのか」と鋭く
問う。
「益のある情報はまだ何も」
 令尹は頭を下げたまま、苦しそうに答えた。
 例の女とは、幇周で尚隆を罠にかけた若い母親のことだ。当初は誰もが子を
亡くして気が触れた幇周の民だと思い込んでいた。しかし実際のところは幇周
どころか近隣の里の者ですらなかったのだ。
 女がいつ呪者と接触したかを調べるため、里の者に聞き取りをしたところ、
明らかに女の容姿に食い違いがあった。渋る里人を説得して遺体と面通しさせ
てみると、果たして別人。そうこうしているうちに道端の、雪かきされた雪が
積み上げられていた中から本物の母親の遺体が見つかった。どうやら病人を収
容した仮小屋から抜けだしたあと、呪者に殺されたらしい。呪者は子の遺体を
奪い、さも自分が母親のような振りをして兵らを油断させ、王を罠にかけたと
いうわけだ。

171永遠の行方「呪(83)」:2009/05/02(土) 20:14:09
 夜だったこと、幇周には他に里人がいなかったこと、そして病で本物の母親
の容貌も多少変わっていたこと、呪者が気の触れた振りをしたこと。それらが
相まって誰も女に疑いを抱くことはなかった。まさか子を亡くして狂乱し、自
らの死も近い若い女が、謀反人の手先であるなどとは考えなかったのだ。
 これは逆に言えば、呪者が――少なくとも謀反を企んでいる者が――周到に
準備していたことを示していた。
 事件が起こったのちも帷湍らは当初、病に冒され子を失った女が、精神の安
定を欠いたところを呪者の一味に言葉巧みに取りこまれ、謀反人の手先となっ
て王に術をかけたのだと考えていた。しかしその推測は見事に外れたというわ
けだ。
「もう少し用心していれば……くそう」
 くやしそうに唇をかんだ帷湍に、令尹が言った。
「侯。こう申しては何ですが、今回の事件は普通の謀反のやり口ではありませ
ん。少なくとも我々が想定するたぐいのやり口では。たとえば年端もいかない
子供に無邪気に菓子を差しだされれば、誰もが疑わずに受けとってしまうよう
に、つい警戒を解いてしまうやり方はいくらでもあります。今回はまさにそれ
と同じたぐいの、我々の盲点を突いた計略だったと言えるのではないでしょう
か。むろん二度とこのような事態を引き起こさぬよう、反省は必要ですが」
「それはそうだが」
「強いて申しあげれば、何よりも主上を幇周にお連れしたことが過ちだったの
でしょう。しかし重大な事件に際してご自分の目でお確かめになる主上のご気
性のおかげで、五百年も王朝が続いてきたとも言えます。いずれにしろ通常の
謀反は、剣にしろ毒にしろ、直接的に主上のお命を狙うものです。しかし今回
はそうではない。それも力任せに押すのではなく、むしろこちらを罠に誘うよ
うな真似をした。そして昏睡しておられるとはいえ、主上のお命は無事です。
いったい何が狙いなのか、そちらのほうが気になります」
 すると他の官が口を挟んだ。
「呪者は、主上がおでましになることを予想していたのでしょうか。王という
ものは普通は宮城でさえ、外殿より先にお出になるものではありません。まし
てや余州の小さな里に出向くなど、通常は絶対に想定できないはずですが」

172永遠の行方「呪(84)」:2009/05/03(日) 10:50:46
 もっともな疑問に他の者も首を傾げる。帷湍は「ふむ」と考えこんだ。
「それはそうだが、今回は光州への行幸の触れを大々的に回していたし、地に
描かれた環や、全滅した葉莱のことがある。そろそろ本格的に国が乗り出して
くることくらいは普通に予想できたろう。ということは幇周で病が起きること
を知っていた呪者は、王はともかく、少なくとも州侯である俺が直々にそこに
出向く可能性ぐらいは念頭に置いていても不思議はない。そして州侯が来るな
ら、もしや王も……と考えることはできたかもしれん。そういえばあの女は、
呪者からの伝言を『主上に渡す』と口にしていたな。それが呪者の命令だとも
言っていたし、気が触れていると思えばこそ、さほどおかしいとも思わなかっ
たが」
「とはいえ、普通ならば突拍子もない望みです」
 しかしそこで別の官が、「雁では元州の謀反を題材にした、主上が単身州城
に赴いて台輔を救出なさるという活劇風の小説が広く知られています」と言い
だしたため、そのことを失念していた諸官をがっかりさせた。
「あれは小説なんだから」
 ひとりが呆れたように言えば、別の官が「いやいや、確かにあれは史実です
からな」とうなずく。帷湍は頭をかかえながらも、「なるほど」と答えた。
「謀反人は、みずから解決に乗りだそうとする尚隆の性格を知って罠を張った
のかもしれんし、逆に小説だの講談だので勝手に想像しているだけかもしれん
わけだ……」
「しかし侯。実際に大勢の民が死に、向こうの手の者もひとり死んでいるわけ
です。民が娯楽として小説を楽しむならまだしも、謀反の企てを起こそうとす
るような輩が、さすがにそんな不確かな根拠で計画を立てたりはしないでしょ
う。つまり敵が実際に主上のご気性を知っている可能性はあります。言い換え
れば官吏か、飛仙が関わっている可能性も高いということです」
「ふうむ」
 考えこんだ帷湍は、やがて令尹に命じて、使令に持たせる書簡を用意させる
ことにした。例の女が身元不明であることは、空行師に託した書類の中で報告
していたが、念のために仙籍を当たり、急に名前の消えた女がいないかどうか
調査することを関弓に進言しようというのだ。

173永遠の行方「呪(85)」:2009/05/03(日) 20:19:14
 官吏の場合は仮に行方不明にでもなればすぐわかるだろうが、何しろ雁にも
飛仙は多くいる。昔の時代からの累積の上に寿命が長いから、増えることはあ
っても基本的に減ることはないからだ。飛仙に仕える下僕も、国府が詳細を心
得ているわけではないという意味で飛仙のようなものだから、まだ仙籍にある
かどうか、つまり存命かどうかを頻繁に照合するわけではない。もしそういっ
た飛仙や下僕の中に今回の女らしき者がいれば、初めて首謀者につながる重要
な情報になる可能性があった。
 もっともこれまでその種の情報がまったくなかったわけではない。何しろ女
が尚隆に渡した紙片のことがある。「暁紅」とのみ書かれていたあれだ。
 心当たりと言えば梁興の寵姫だった女の名しかないし、それゆえ当初は誰も
が謀反人につながる重大な情報と考えていた。だがその後、こちらの推測を誤
った方向に導こうとする意図があるのではとの解釈が大勢となり、したがって
もはや重要な情報とは見なされていなかった。
 何しろ幇周の民と思っていた女が敵方であり、最初から罠だったという事実
はかなりの衝撃を官に与えた。そのため、その時点で諸官の意見の趨勢が変わ
ってしまったのだ。そして今や、これだけ準備していた呪者が不用意に自分た
ちにつながる情報を漏らすはずがない、あれはむしろ攪乱の意図があってのこ
とだという解釈が大勢になっていた。
 何が信頼できる情報か判断できなくなり、疑心暗鬼に陥って慎重になりすぎ
た結果とも言えるが、先ほどまでの臣下らとのやりとりで、帷湍はふと引っか
かるものを覚えた。
「今回の事件は、普通の謀反のやり口ではないと言ったな」
「は? はい」
 唐突な質問に怪訝な顔をした令尹に、帷湍は続けて言った。
「兵を挙げて攻めるわけでもない、武器を使って力ずくで押すわけでもない。
むしろ病を起こすことで相手の注意を引いて誘いこみ、実際に標的と対峙した
際も巧みに心理を突いて、誰もがうっかり油断するようなやりかたで罠にかけ
た。ただし命を奪うような乱暴な方法ではなく、昏睡状態に陥れただけ。これ
はどちらかと言えば男ではなく、腕力も度胸もない女のやり口だとは思わんか?」

174永遠の行方「呪(86)」:2009/05/04(月) 17:26:30
 だが令尹は首を傾げた。
「命を奪うような乱暴な方法ではないと言いましても、それは主上に限った話
で、この一年、光州の里や廬では大勢の民が病に斃れたわけですし……」
「それでも刃をふるったわけではない。奇妙な流行病のことは、おそらくどこ
かに呪具か何かを設置したのだろうが、呪を発動させたあとはいわば自動で病
にさせるだけだからな。呪者自身が近くにいる必要もないだろうし、罪悪感と
してはみずから他人に剣を突きたてるよりはるかに軽いだろう」
「それはそうですが」
「そもそも俺たちとしても、女の発想には慣れていない。特に謀反の場合、こ
れまでの首謀者はすべて男だったし、もともと武官に女は少ない。つまり男が
めぐらせた謀(はかりごと)に比べ、女の謀に対する経験が少ないからどうし
ても疎くなりがちだ。概論としては対応できても心の機微には疎いから、万全
の体制で臨んだつもりでも、おそらくは気づかないところで漏れが出る」
「はあ」
 今ひとつ納得できないような令尹をよそに、帷湍は使令に持たせる書簡に追
記させた。梁興の寵姫だった晏暁紅について、早急に調べを進めるよう進言す
る内容だ。
「俺自身はその女に会ったことはないが、例の謀反のあと、確か台輔は離宮で
光州城の者を引見したはずだ。籠城で心身ともにぼろぼろになった彼らを憐れ
んで助命嘆願をしたからな。ということは台輔にも、当時のことを何か覚えて
いないか確認したほうが良かろうな。謀反は計画しただけでも絞首、実行に移
せば斬首が慣例だが、結局寵姫らは事が起きるまで何も知らされていなかった
とわかり、助命は受け容れられた。台輔はその際、後宮の者と会うだけでなく
実際に言葉を交わしたかもしれん。それから武蘭珠と言ったか、所在がわかっ
たもうひとりの元寵姫のところへ、もう一度官を聴取に行かせろ。今度は晏暁
紅のことで覚えていることがないか尋ねるのだ。もちろん蘭珠自身についても、
何か怪しいそぶりがないか気をつけて観察し、少なくとも所在は常時把握して
おくように」
 そうこうしているうちに今度は冬官府から、例の書きつけや、それを残した
冬官の助手に関する新しい報告が上がってきて、どこか気が抜けたふうだった
官も、先の帷湍の叱責もあってきびきびと働きだした。通常の政務もこなしな
がらだから誰もが過負荷気味だったが、何しろ非常事態だ。それに関弓から疑
いをもたれているなら、その汚名を晴らすためにも懸命に働かねばなるまい。

175永遠の行方「呪(87)」:2009/05/04(月) 17:28:42
「ようやく書きつけの全容がわかりました」
 州司空は疲れた様子を見せながらも、報せに応じて内々に執務室を訪れた州
侯を笑顔で出迎えた。彼は奥の房室に主君を案内しながら説明した。
「散逸した書面をすべて回収できたわけではありませんし、そもそも紙の劣化
によって判読不能になっている箇所もありましたが、大勢には影響ありません。
いずれにせよ調査の初期段階でお知らせしたように、梁興が呪詛系統の呪を作
らせていたことは間違いなく、実際の担当者であった冬官は注意深く関連書類
を破棄して証拠隠滅を図ったと思われます。しかしせっかく開発した呪の喪失
を惜しんだ助手が、自分が覚えている事柄をこっそり書き残したということの
ようです」
「惜しむ?」帷湍は眉をひそめた。「呪と言っても今回のは呪詛なのだろう。
それを惜しむという感覚がわからんな」
 すると州司空は困ったように笑った。
「確かにそうですが、良くも悪くもそれが技官の性というものなのです。彼ら
が寝食を忘れて技術を追求するさまは、もともと文官だった拙官の理解も超え
ております。むろん俗物もおりますが、新しい技術を発見したり既存の技術の
改良法を見つけるということは、真に職人気質の冬官にとってはそれ自体が報
酬となるようです」
「まあ……気持ちはわからんでもないが」
「いずれにしろ今回は、件の助手のおかげで我々が情報を得られたことになり
ますし、助手自身はとうに故人ですので、ご寛恕をたまわりたく」
 帷湍が案内された先は、内密に調査を行なうために設けられた房室で、そこ
では選りすぐりの冬官が数名待ちかまえていた。州侯に礼をした彼らは、州司
空と州侯自身にうながされ、卓上に並べられていた書きつけを示しながら説明
を始めた。
「概略は既にご存じと伺っておりますが、これは呪詛系列の呪に関する覚え書
きです。書き手自身にとって自明のことは書かれていませんので、その辺はか
なり想像で補うしかありませんが、謀反の失敗を悟った梁興が籠城を始めてす
ぐ、冬官に命じて開発させたようです。つまり自分が処罰されるのは避けられ
ないとわかり、主上に復讐するために、ということです」
「なんと」帷湍は絶句した。

176永遠の行方「呪(88)」:2009/05/04(月) 17:30:56
「もっとも半年という短期間でそれほど大層な呪を開発できるとは思えません
から、おそらく基礎技術の開発はもっと前から内々に進めていたのでしょう。
幸か不幸か、呪本体の詳細な記録はほとんど遺っておらず、したがって再現は
できません。ただ、どのような意図を持って作られたものかということは、こ
の書きつけからわかりました。すなわち光州全体に呪の網を張り巡らせ、作物
が育たない不毛の地とする呪です」
 呆気にとられた帷湍はしばらく沈黙してから、やっとのことで問いを発した。
「……そんなことが可能なのか?」
「それはわかりません。ただ、梁興は可能だと思っていたのでしょう。それに
書きつけの内容から想像するかぎり、光州全体とは言わずとも、ごく狭い範囲
でなら不可能ではないと思われます。何よりも興味深いのは、国府の冬官府に
おける生長の呪の開発失敗例との相似です」
 怪訝な顔をした帷湍に、その冬官は説明した。
「かつて収穫量を上げるため、呪を使って植物の生長を促進できないものかと、
長期に渡って実験が行なわれたことがあります。残念ながら失敗に終わりまし
たが」
「ああ、そのことか。確かに聞いたことはあるな」
「北の地方である光州は雁で一番気候が厳しいですから、当時の光州冬官も興
味を持って実験のなりゆきを見守り、一部協力もさせていただいたようです。
今回の調査の一環で既存の呪に関する書類を確認した際、そのときの記録も調
べたのですが、失敗の型には二通りありました。ひとつは生長の速度を調整で
きず、植物本来の限界を超えて無理に生長させて枯らす結果となったもの。ひ
とつは生長の制御自体がうまくいかず、部位によって生長速度が異なった結果
枯れてしまったというもの。問題の書きつけを調べたかぎり梁興の呪は、国府
と意図するところは違えど、生長の呪の失敗型の後者と酷似しているように思
えるのです」
「なるほど。どちらにしても結果的に枯らすことは可能なわけだ。そういえば
確かに大司空がそんな話をしていたことがある」
「はい。そしてもし植物ではなく人間に対して同じことを行なった場合、体の
部位によって生長や老化の速度が異なるということですから、一部が壊死した
り麻痺したりする結果になるのではないかと。つまり昨年から発生している奇
妙な流行病と同じ症状を起こせるのではと」
「なに……」

177永遠の行方「呪(89)」:2009/05/04(月) 17:33:32
 帷湍は今度こそ仰天して目を見開いた。まさか例の流行病にまで発展する内
容の報告とは思っていなかったからだ。
 彼の驚きをよそに、冬官のほうは淡々と説明を続けた。
「呪具としては、いろいろな記載を鑑みると文珠が使われたと推定されます。
正式な記録と同様、呪具自体も残ってはおりませんが。またどうやら件の助手
は覚え書きを残すに当たり、自分でもこっそり実験してみたようです。呪に関
する記載の肝心要のところで、紙面が尽きたわけではないのに唐突に終わって
いること、落城の際の存命者一覧の中に助手の名がなかったこと、そして何よ
りも呪自体の危険性を併せますと、興味本位の実験に失敗して命を落としたと
解釈するのがもっとも自然ですから」
 帷湍はふたたび言葉を失い、ややあって「なんと、愚かな」とつぶやいた。
それには州司空も冬官らも無言で頭を下げただけだった。
 さらに彼らから詳細な説明を受けた帷湍は、国府に報告するために早急に書
類を作成するよう命じるとともに、助手の個人的な覚え書き以外に残っている
ものが本当になかったのか、書類はともかく、呪を施すために用意されたであ
ろう文珠も残っていないのかと質問したが、いずれもはかばかしい答えは得ら
れなかった。単に呪の開発が間に合わず、呪具の制作にまで至らなかったので
あればともかく、そうでないなら由々しいことだった。危険な呪言を刻んだ文
珠が、今もどこかに存在しているかもしれないからだ。
「そもそも梁興が王に復讐するというなら、その意を汲んだ家臣が遺っておら
ねばならん。当然ながらその者は、謀反とは無関係だったと見なされる人物で
なければなかろう。謀反は計画しただけでも死罪が慣例だからな。つまり呪の
開発が中断されたのではなく、万が一成功していたとしたら、関連する書類も
呪具もその者が所持している可能性がある。今回の病はそれが使われた結果だ
と。こうなるとやはり、暁紅という女が怪しいな」
「梁興の寵姫だった女のことですか。しかし閨で梁興を討ち、悲惨な籠城を終
わらせた女でしょう。主人に恨みはあっても、討った時点でもはや恩も情もな
かったのでは」
「そうかもしれん。だが王に渡した紙片に名前が書かれていたこと、今回の謀
反が男ではなく、むしろ女のやり口と思えることが気になる。むろん二百年も
の間、潜伏していたことは解せんが、それはこの際どうでもいい。とにかく呪
具を見つけることだ。それで可能性がさらに絞りこめるようになる」
 帷湍は険しい顔でそう言うと州司空に調査を命じた。いわく幇周の里を隅々
まで掘り返してでも、呪具を見つけだすようにと。

178名無しさん:2009/05/08(金) 23:19:57
連投キタ( ゚∀゚ )・∵.
姐さん待ってた!

179永遠の行方「呪(90)」:2009/06/13(土) 20:00:00

 とはいえ皮肉なことに光州側の発憤は、関弓における帷湍の評判をさらに落
とす結果となった。
 王を関弓に運ぶ際に託した種々の書類により、王を罠にかけた女が最初から
謀反人の一味だったこと。そして二百年前の謀反の際、冬官助手が書きつけを
遺していたことを知った諸臣は、里に紛れこんでいた敵方の女を見逃していた
ことに唖然としたのはもちろん、書きつけに関しても「どうして主上がお倒れ
になった今になって」という思いを強くした。特に後者は、要するに二百年も
の間、危険な呪に言及した書類が放置されていたことになるからだ。本来なら
ばとっくに回収され、今回の件とはまったく関係なく、とうの昔に調べがつい
ているべき事柄ではないのか、と。
 それから三日を経ずして、解読され丁寧に注釈がつけられた書きつけの詳細
が届けられ、さらにその翌日、幇周の里から呪具である文珠が発見されたとい
う急報を受けるに至っては、王の還御から間もないうちの出来事だっただけに、
多くの重臣が「今になって」「遅すぎる」という印象を憤慨とともにいだいた。
「確かに行幸の触れは大々的に回していたろうが、王たる者が御自ら辺境の小
さな里に赴くなど、そうそう予想できるものではない。これはやはり、どう考
えても州侯を狙った企みだったと見るのが自然だ」
「たまたま主上が幇周に出向かれ、ご身分を明かされたことで急遽狙いを変え
たのだろう。最初から光侯がきちんと処置をしていれば防げたはずだ」
「こうなるとやはり光州側に何らかの意図があるのでは」
 諸臣は憤慨とともにそんな言葉を口にした。
 もっとも声高々に帷湍を糾弾したわけではない。六太の使令は一部がまだ光
州城に残って監視役として働いているから心配はないし、何よりも今は誰に責
任があるかを問うのではなく、王を目覚めさせることが最優先かつ最大の課題
だったからだ。こんな状態のときに光州侯叩きに精を出すようでは、いくら思
いを同じくしていたと言っても、他の臣は咎めただろう。
 それでも臣下の間に、光州侯やその麾下に対する不審不満がたまっていくの
は避けられなかった。

180永遠の行方「呪(91)」:2009/06/14(日) 12:15:43

 宮城は静かだった。むろんもとから市井の喧噪とは無縁の場所だが、奄奚に
も禁足を課し、当分は下界と行き来できないようにすることで不用意に噂が漏
れないよう計らっている今、静寂の中にも張りつめた空気が漂っていると感じ
るのは諸官の気のせいではあるまい。
 当初、心のどこかで「この事件もすぐに解決するだろう。いや、解決してく
れ」と願っていた諸官も、いっこうに王が目覚める気配のないまま日数ばかり
が過ぎていくと本格的に焦燥に駆られざるを得なかった。表面上は以前と大差
ない生活が続いていたものの、互いに見交わす視線の中にある緊張が解けるこ
とはない。
 起きるだろう混乱を考えれば、とにかく事態を公にするわけにはいかなかっ
た。国内にかぎった話なら、自分たちが沈黙を守ってさえいれば、雲海の下に
は漏れないだろう。問題は他国の鳳だが、かつて泰王泰麒が行方知れずになっ
た際も鳴かなかったのだから、普通に考えれば他国にこの変事が漏れる心配は
ないと思われた。
 つまり王のことで鳳が鳴くとしたら次は崩御しかない。そして実際に事態が
そこまで進んでしまえば雁の官も諦めがつくから、そのことは考えなくて良い。
 現在のところ、昏睡状態にあるとはいえ王に健康上の問題はなく、神仙は飲
まず食わずでも、安静状態ならかなりの長期に渡って永らえることができるか
ら、とりあえずは事態を伏せておけるはずだった――謀反人たちが触れまわら
ないかぎりは。
 諸官の当座の心配はそこだった。謀反人が何を意図しているにせよ、国家を
脅かすことが目的なら触れまわらないはずはないからだ。
 そのことに懸念を覚えながらも、朱衡はひとり、正寝の王の元に見舞いに赴
いた。
 見舞いと言っても、つきっきりで詰めている女官らに異状はないかと尋ねる
くらいが関の山だったが、今日は先客がいた。延麒六太と地官長大司徒だ。
 何しろ正寝でのことだから、本来なら臣下が軽々しく王の臥室に入るもので
はない。だが今日は、以前から正寝も我が物顔で闊歩していた六太がいるせい
だろう、大司徒は彼とともに尚隆の臥室におり、女官にそれを伝えられた朱衡
もその場に赴いた。

181永遠の行方「呪(92)」:2009/06/20(土) 10:27:24
 沈黙だけが支配している王の臥室に入ると、そこにも重苦しい空気は漂って
おり、大司徒は折り戸が閉ざされた牀榻の前でぼんやりと立っていた。何か話
でもしているのかと思った朱衡だがそうではなく、六太のほうは、窓際の榻に
だらしなく座って窓の外を眺めているところだった。大司徒は朱衡を見て軽く
会釈をし、六太はちらと一瞥を投げて「よう」とだけ言った。
「何か変わったことは?」
 朱衡の問いに、六太は肩をすくめて「別に」と答えた。
「相変わらず、ぐーすか寝てやがる」
 にやりとしてそう言うと、六太は榻から飛び降りるようにして立ちあがった。
そうして手を無造作にひらひらさせながら、「またな」と言って去っていった。
どうしたものやらわからずに朱衡が大司徒を見ると、大司徒は曖昧な微笑を浮
かべ、おずおずとした調子で「そちらは何か変わったことでも……?」と逆に
尋ねてきた。
「いえ、何もないですね。少なくとも今日は、光州からも何も来ていませんし」
「そうですか……」
 いったん言葉を切った大司徒は、遠慮がちに牀榻をちらりと見てからこう言
った。
「あのう、大司寇」
「なんでしょう」
「もし――もし、ですが。このまま主上がお目覚めにならなかったとしたら、
雁はどのくらいもつのでしょう?」
 眉をひそめた朱衡が黙っていると、大司徒は放心したように続けた。
「主上以外に国の舵取りをできるおかたはおられません。わたくしども官は、
どのほど高位の者であろうとただの歯車です。方針が示され、進むべき道が示
され、それに基づいて執政を行なうだけ。今のままでも、しばらくは何とかな
るでしょう。でも舵を取り、国を適切な方向に導く主上がおられなければ、い
ずれ座礁するか転覆するか……。いったいわたくしどもはどうすれば良いので
しょう?」

182永遠の行方「呪(93)」:2009/06/21(日) 11:05:19
 この問いかけに対する答えはいくらでも考えられたが、朱衡はあえて答えな
かった。大司徒がただ動揺し、途方に暮れ、何か手堅い答えが示されるのにす
がろうとしているだけだとわかったからだ。それに王が関弓に戻って何日も経
たないというのにこれほど動揺してしまうのは、六官として褒められたもので
はない。先を見越して備えるのは当然としても、浮き足立つべきではなかった。
もともとこの大司徒は心配性なところがあったが、長たるもの、こういうとき
こそ泰然と構えねばならない。
「不測の事態に備えることと、いたずらに不安がることは違います。今の我々
が取るべき道は、一刻も早く謀反人を捕らえ、それによって主上にお目覚めい
ただくことです」
 きっぱりと言い放った朱衡に、大司徒は驚きの目を向けた。
「国の舵取りはむろん王の役目ですが、われら官吏はいわば実務の専門家です。
特に雁は、主上の長(なが)のご不在にも慣れています。一月や二月、主上の
お目が届かなかろうが、さしたる影響はありません。主上が新たな道を示され
るまで、われらは今まで通りに働けば良いのです」
「ええ――はい、もちろん、そうです」
 確信をこめた朱衡の言葉に、大司徒は慌てたように答えた。そして自分が長
たる者にふさわしくない言動を取っていたことにやっと気づいたのだろう、数
瞬の間、惑うそぶりはあったものの、すぐに苦笑してこう言った。
「莫迦なことを申しました。もちろんわたくしどもはいつもと同じように、い
え、それ以上に、せっせと働けば良いのですよね。つい不安になってしまって
……。ええ、もちろん働きますとも」
 大司徒は一気にそう言うと、朱衡に拱手してから慌ただしく退出していった。
 しかし見送る朱衡の心中は複雑だった。実際、大司徒に言った言葉に偽りは
ない。というより他に手立てがないのだ。
 誰もいなくなった臥室で、朱衡は長く息を吐くと、暗い目を牀榻に向けた。
「帷湍が何か有力な情報をもたらしてくれればいいのだが……」
 口の中でそうつぶやいた彼はしばらくそのまま立ちつくしていたが、やがて
牀榻に向かってうやうやしく一礼すると、静かに臥室から出ていった。

183永遠の行方「呪(94)」:2009/06/22(月) 19:48:42

「光州侯の進言にしたがって確認したところ、晏暁紅の下僕に梁興時代からの
側仕えである浣蓮(かんれん)という女がおり、先ごろ、その者の名が仙籍か
ら消えていることがわかりました」
 その日、朝議の冒頭で冢宰が行なった報告に諸官はざわめいたが、前日まで
と異なり、そのざわめきには力強さがあった。謀反人に繋がる有力な情報にた
どりついたと受けとめたからだ。仙籍を削除されたわけでもない者の名前が消
えたということは、すなわちその者の死を意味する。
「幇周で主上を罠にかけた女と同一人物ですかな」
「その可能性は高いのでは」
「するとやはり暁紅という女が怪しいな」
 官らは笑顔で見交わしてはうなずきあった。
「して、暁紅の行方は」
 この問いには大司馬が答えた。
「例の謀反以降、八十年ほどは貞州の州城で不遇をかこっていたそうだが、州
侯の代替わりと同時に、州城を辞して野に下っている。それから十年ほどして
行方もわからなくなったが、それは普通、飛仙の行方など捜さないからだ。し
かし今回は事情が違う。貞州侯に捜索を依頼するとともに、こちらも人員を割
いて潜伏先を突きとめる。暁紅は官吏でも何でもなく、単に梁興の寵を受けて
いただけの女だ。そんな女にこんな大それた企みを思いつけるとは思えん。お
そらく後ろ盾となる男がいるのだろう。暁紅を捕らえて誰の差し金かを吐かせ、
首謀者に違いないその男まで芋蔓式に引きずりだす」
 自信たっぷりに言いはなった大司馬を、諸臣は頼もしげに見やった。
「しかしその女はどういう女なのでしょう。先の謀反で赦されながら主上を脅
かすとは、恩知らずにも程がある」
 すると大司馬は肩をすくめて事も無げに答えた。
「もともとそういう女なのだろうな。梁興の寵姫でありながら、閨で、おそら
くだまし討ちのようにして主人を討った。赦されたあとは親族である貞州の州
侯を頼っていったものの、州城での評判は芳しくなかったようだ。官吏ではな
いから執政の役には立たぬし、おまけに謀反人の寵姫だった女だ。周囲も警戒
するし、当人も努力して周囲の役に立とうとする殊勝な心がけは見せなかった
ようだ。そのため州侯が代替わりすると居づらくなったようで州城を辞したら
しいが、そんな女がひとりで生きていけるはずもない。もともと謀反を企んで
いた男や呪者と、後ろ盾のほしい暁紅とで利害が一致したというところだろう」

184永遠の行方「呪(95)」:2009/06/23(火) 20:09:53
おそらく暁紅は、件の呪に関する資料や呪具を持っていただろうからな」
「なるほど。それで筋は通る」
 だが別の官は慎重な姿勢を見せた。
「今の段階で予断を差しはさまぬほうが良いのでは。確かに暁紅がこの件に関
わっている可能性は高いでしょうが、首謀者に利用されているというより、彼
女自身の企てである可能性もあります。何しろ先の謀反から二百年。行方知れ
ずになってからも百年以上です。その間に何があったかわかりませんし、暁紅
自身が呪を操り、すべての糸を引いていると考えても突飛な想像ではあります
まい。もともと梁興時代の光州では呪が盛んに用いられていたという話ですし、
敵を理由もなく軽んじて油断するようなことは控えたほうが良いかと。現在わ
かっているのは、主上を陥れた女が暁紅の下僕である可能性が高く、従って暁
紅が裏にいると考えられること。あとはこれからの調査次第でしょう」
 慎重な意見に朱衡も「そうですね」と同意した。
「それに市井にまぎれた飛仙を捜すのは、言うほど容易なことではない。何よ
り暁紅の形式上の身分は飛仙ですが、それは単に仙籍を削除されなかったとい
う結果によるものであって、別に彼女のための歳費が計上されているわけでも
ない。そのため界身から歳費を引きだすこともなければ、それによって居所の
見当をつけられるわけでもないのですから、あまり先行きを楽観視しないほう
がいいでしょう」
 勢いづいていた大司馬は多少気をそがれたようだったが、それでも「まあ、
それもそうだな」と冷静に応じた。さらに他の官もこう言った。
「考えてみれば、光州侯が言ってきたとおり確かに今回の事件は女のやり方に
思える。自分から攻めるのではなく、相手の気を引いて自分のほうに誘いこむ
のは、悪女が男をたらしこむのに似ているんじゃないか」
「なるほど……」
「仙籍から消えた下僕が本当に例の女だったとしたら、我々は確かに首謀者に
近づきつつある。だがこういうときこそ逆に慎重さが求められると思う。特に
今回はこんな不可解な事件を起こす輩なのだし、敵の真の目的がわからない以
上、気を引き締めてかからないと。それに主上を罠にかけた女は、『わが主よ
りの伝言』と言ったという。女が暁紅の下僕なら、主とは暁紅を指すはず」

185永遠の行方「呪(96)」:2009/07/02(木) 20:32:45
「うむ。確かにそうだ」
 大司馬は大きくうなずいて表情を引き締めた。
 そもそも光州全体を不毛の地とする大がかりな呪を施すことで、梁興の遺志
に従って間接的に王に復讐するというなら、弑逆を企てるならまだしも、王を
昏睡状態に陥れる必要はない。むしろひそやかに潜伏しつづけて呪の完成を待
ったほうが得策のはずだった。実際、葉莱と幇周から呪具たる文珠が見つかっ
たせいで、いまだ被害を受けていない他の里からも文珠が除かれることになる
だろうし、その結果第二の環が完成しないのならば、問題の呪は発動を免れる
のだろうから。
 要するに動機はわかったようでいてわかっておらず、謎が謎を呼んでいる状
況であるのは変わらないのだ。
 大司馬は壇上の空の玉座の隣に立っている六太を見あげた。
「当時のことで何か思い出されたことは? 特に暁紅ら寵姫のことで」
 たが六太は、少し考えただけで首を振った。
「前にも言ったように、俺はただ離宮に引き立てられてきた彼女らを見ただけ
だ。その打ちひしがれたさまに哀れに思ったことは覚えているが、名前も知ら
なかったし、誰が誰だと記憶しているわけではない。梁興を討った女について
も、そう聞かされて『この女が』と思っただけで、他に特に印象はないな」
「そうですか。まあ、二百年ですからな」
 大司馬は残念そうな顔をしながらも、自身を納得させるように何度か軽くう
なずいた。
 ついで、幇周の里から見つかったという呪具の報告に移ろうとしたとき、不
意に六太が提案した。
「手がかりらしきものにたどりついて何よりだ。しかし暁紅を捕らえるまで時
間がかかるかもしれないし、それがなくとも呪というものは厄介だ。この際、
蓬山に問い合わせてみるというのはどうだ?」
「蓬山、でございますか?」思いがけない提案に、冢宰も面食らって六太の言
葉を繰り返した。「それは、蓬山ならばわれわれの知らない呪に関する知識を
持っているかもしれない、という意味でしょうか? つまり主上の昏睡を解く
鍵が見つかるかもしれないと?」

186永遠の行方「呪(97)」:2009/07/02(木) 20:34:49
「そうだ。一般には知られていないことだが、蓬山は天の窓口みたいなものだ
からな。俺たちが知りえない知識もたくさん持っているはずだ。ただし普通の
女仙があの呪について何か知っているとは思わない。思わないが、碧霞玄君な
らあるいは、と思う」
「ふうむ。確かに可能性としては考えられなくもないでしょうが、どうでしょ
うな。そもそも蓬山となりますと、四令門が開く時期でないと行き来が――」
「雲海上を行けばいい。俺が転変して行けば、向こうでいろいろあったとして
も二日もあれば往復できる」
 六太が単身蓬山に赴くつもりでいるのを知り、冢宰は暫時沈黙してから静か
に首を振った。
「これが天の理に関わることであれば、確かに蓬山をお訪ねになるのも当然と
考えたでしょう。以前、泰台輔の捜索をなさったときもそうなさいましたな。
しかし今回の事柄と天が結びつくとは思えません。これはただの謀反です。前
にもお願いしたように、台輔には関弓にお留まりくださいと申しあげます」
「だが……」
「むろんいよいよ打つ手がないとなった場合は、あらゆる手を尽くすという意
味で蓬山行をお願いするかもしれません。しかし現在のところ、そこまで切羽
詰まっているわけではなく、むしろ解決に向けて事態が動きだしたというとこ
ろでしょう。違いますか?」
 これには六太は答えず、うつむいただけだったので、冢宰は何事もなかった
ように報告の続きに戻った。諸臣は壇上を気にしてちらりと目を向けたが、特
に反応のない六太に、彼らも報告に注意を戻した。
「予想されていたとおり、呪具は文珠だったわけですが、幇周では里の四方を
囲む形で四つの文珠が埋められており、葉莱でも同じ場所から発見されました。
それ以前の、一戸のみ被害に遭った廬里では、その家の四方を囲む形で、葉莱
や幇周よりずっと小振りの文珠が見つかったそうです」
 一連の文珠は、小振りのものもそうでないものも、すべて高価な宝玉が使わ
れていた。どんな呪であれ一般に、普通の石より宝玉を使うほうが効果が高い
と言われているが、第一の環と第二の環で、単純に考えれば総計で百個近い数
が必要になる。普通の庶民に手が出せるものではなかった。だが州侯のような
地位にある者が計らったことなら、それくらい造作もなかったろう。

187永遠の行方「呪(98)」:2009/07/02(木) 20:36:57
 問題はいつ埋められたかということだった。
 しかし雁は国が安定しているだけに、里や廬自体の位置は二百年前とさほど
変わっていないことがわかった。第一の環で被害に遭った家々についても、少
なくともこの五十年で場所を移したと思われる家屋はなく、したがってそれ以
降に埋められたのだろうと推測するしかなかった。
「いずれにせよ、諸々の状況を鑑みると、二百年前の謀反の際に既に埋められ
ていたとは考えられないそうです」
「するとやはり、あとで謀反の残党が埋めたと推測できるわけですか」
「おそらく」
「ならば、いつ、ということはそれほど気にしなくてもいいかもしれませんね。
家屋が別の場所に建て替えられて、せっかくの呪が効力を発しなくなる危険を
考えれば、比較的最近、多めに見積もっても十年から二十年程度の間に行なっ
たことに違いないのですから」
 それはもっともな推理ではあったが、敵方の人数を推しはかる材料とならな
いのが残念ではあった。何となればたとえ単独犯の行為であっても、ある程度
の時間をかければ、各地に文珠を埋めることは十分可能だからだ。
 光州からの報告によれば、念のために場を安定させる別の呪を施してから順
次文珠を取り除いているとのこと。おそらく第二の環の上にある他の里や廬に
も埋められているだろうから、発見次第、同様の手順で除いていくとのことだ
った。
 何か見落としていなければ、これでもう新たな被害は発生しないはずだから、
来月一ヶ月の間に何も起きなければ、光州への行幸の目的は達したと触れを出
すことができる。そうすれば光州城での王のふりをしている影武者も役目を終
え、実際に事件が収まった以上、たとえ謀反人が王の昏睡について噂を流した
ところで残党による流言飛語として片づけることも容易になると思われた。光
州の民は何の疑いもなく「すべて主上のおかげ」と喜び、被害に遭った里の者
もやがて事件を忘れて日常に戻り、諸官はしばらく時間を稼ぐことができるだ
ろう。
 その間に謀反人を一網打尽にし、王にかけられた呪を解くのだ。

188永遠の行方「呪(99)」:2009/07/04(土) 13:57:55

 朝議のあと、昼餉をはさんで大司寇府で執務に精を出していた朱衡は、仕事
の切れ目を見つけて仁重殿に赴いた。昔ならいざ知らず、王も宰輔も必要な執
務量はかなり減っているから、六太はいつも遅くとも午後の半ばには靖州府を
退いて自分の居宮に戻るようになっていた。
 夕刻の退庁を待たずに出向いたのは、朝議の際の六太の様子が気になったか
らだ。相変わらず静かな緊張が宮城を支配している今、彼も何か吐き出したい
こともあるのではないか。そんなふうに思う。
 ただの主従関係であってもこれだけの歳月をともに過ごせば、仲間意識も情
も自然と芽生えてくる。実際朱衡は口に出さないだけで、尚隆にも六太にも深
い親愛の情をいだいていた。一介の仙に過ぎない自分でさえそうなのだから、
六太はそれ以上に尚隆に情を持っているに違いないのに、王が昏睡に陥ってか
らこちら、あまりにも感情を見せないのが逆に気になった。
 むろん実質的に王が不在の今、臣下の筆頭である宰輔が取り乱してはいけな
いだろうが、普段率直に心中を吐露することが多いことを思えば、あまりにも
不自然だった。これだけ長く仕えると何とはなしに微妙な変化も感じ取れるよ
うになるものだ。
 六太は無条件で王を慕うとされる麒麟だが、普段の彼からはあまりそんな印
象を受けない。尚隆といると確かに嬉しそうな顔になるのだが、それでいて王
が示した政策を簡単に否定しては鋭くなじることも少なくないからだ。昔は他
に麒麟の知り合いなどいるはずもないからそういうものだと思っていたし、特
に不思議とも思わなかったが、長い間に接することになった他国の麒麟と、六
太はあまりにも違っていた。たまに仲良く揃って逐電するくせに、雁の王と麒
麟は互いに一定の距離を置き、そこから相手の側には決して足を踏み入れない
ように見えた。
 その昔、六太は「王なんて存在は民を苦しめるだけだ」と事もなげに言いは
なって、朱衡をびっくりさせたことがある。よくよく話を聞いてみれば、六太
は蓬莱で庶民として生まれ、戦乱を嗜むその土地の為政者に相当苦しめられた
らしい。当人が話したがらなかったため詳しく聞き出すことはできなかったが、
それで、と納得したことを今でも覚えている。

189永遠の行方「呪(100)」:2009/07/04(土) 14:00:23
 幼少時のつらい記憶は、確かになかなか忘れることはできないものだろう。
それを思えば、六太が尚隆に対して一定の距離を置くのも無理はないとも言え
た。
 しかし六太は麒麟だ。罪人にすら憐れみを覚え、眼前に困窮する者があれば
慈悲を施さずにはいられない神獣だ――いくら普段は普通の少年のように見え
るとはいえ。そんな彼が負の感情に支配され、天帝に本能として与えられてい
るはずの王への思慕を抑えるのは不憫なことではないだろうか。おそらくは葛
藤もあるだろうし、特に今の非常時においては、万が一にでも王が崩御するよ
うなことがあれば国が荒れるかもしれない。王への思慕と、国を、民を憂う気
持ち。少なくとも近しい臣下にはそれらへの不安を漏らしても不思議はないの
に、六太はあまりにもおとなしすぎないだろうか。それでいて蓬山に行くなど
と突拍子もないことを言いだし――。
 取り次ぎの女官に先導されて居室のひとつに赴くと、朱衡の懸念を知らない
六太はにやりとした笑みを向けてきた。その昔、よく政務を怠けて王とともに
逐電していた頃を彷彿とさせる、小ずるい笑み。
「別に怠けてはいないぞ。今日の政務は終わったんだからな」
 朱衡は一呼吸置いてから、穏やかに微笑した。確かに昔と違い、尚隆も六太
も随分とおとなしくなったと思う。だから王と宰輔が同時に姿を消すといった
ことがないかぎり、臣下らも彼らの出奔を大目に見るようになっている。
「何も台輔に小言を申しあげるために参ったわけではございませんよ」
「へえ? まあ、いいや。茶でも飲む?」
 六太は女官に言いつけて茶と菓子を出させ、朱衡にもくつろぐよう言ってゆ
ったりとした椅子を指した。女官らが下がって余人の目がなくなってから、朱
衡は話を切りだした。
「本日の朝議で、台輔は蓬山に行きたいとおっしゃいましたね。あれは何か当
てがあってのことなのでしょうか?」
「当て?」
 意味がわからないといった顔で問い返す。朱衡はうなずいた。

190永遠の行方「呪(101)」:2009/07/04(土) 14:03:28
「台輔は簡単におっしゃいますが、われらにとって蓬山はあまりにも遠く、困
難な道のりの果てにある仙境です。むろん台輔はそこでお育ちですし、これま
でにも何度か足を運んでおられることも存じております。しかしそれにしても、
いきなり蓬山にとおっしゃるからには、何か具体的な当てがおありになるのか
と。これまで拙が記憶しているかぎり、蓬山行はすべて目的が明確だったはず
ですから」
「いや、その意味じゃ、別に当てはないけど。でもあのとき言ったように碧霞
玄君なら……」
「当てもないのに蓬山まで、それも随従をいっさいお連れにならず、転変まで
して超特急で往復なさるおつもりだったと?」
「あのなあ……」
 六太は溜息をついた。朱衡の用向きがわかって取り繕う必要がないことがわ
かったのだろう、先ほどまで見せていた小ずるそうな笑みはとうに収めていた。
「そりゃ、そう思うかもしれないけどさ。仕方ないだろ? 何しろあの昏君が
大見得を切った挙げ句、まんまと敵の罠にかかって寝こけてんだから」
「しかし」
「悪いが、俺にはこの事件が簡単に解決するとは思えないんだ」
 思いのほか厳しい表情でそう答えた六太に、朱衡は驚いて目をみはった。
「暁紅とかいう女にしたって、自分で行方をくらました飛仙が、そう簡単に見
つかるもんか。これが昏睡に陥ったのが俺で、尚隆がぴんぴんしてたんなら話
は別だけどな。尚隆は自分を発信人にして鸞を飛ばせる。暁紅を名宛人にすれ
ば、鸞は一直線に彼女の居場所に飛んでいくはずだ。行動を封じたいなら、何
なら仙籍から削除して只人にしてしまうこともできる。大司徒もそう言ってい
たが」
「大司徒が?」
 朱衡は顔をしかめた。もしや先の見舞いの際のことだろうかと思う。いずれ
にせよ、そんな話を六太にするとは大司徒も分別のない。これでは暗に、尚隆
ではなく六太が呪にかかれば良かったと言っているようなものではないか……。
 そんな朱衡の心中を察したのだろう、六太はこう言って取りなした。
「大司徒は大司徒なりにあれこれ考えて悩んでいる。言葉として吐き出すこと
で逆に不安を収めたいという心理もあるだろう。あまり責めないでやってくれ」

191永遠の行方「呪(102)」:2009/07/04(土) 14:06:29
「ですが」
「それより俺は、晏暁紅が市井の飛仙だというのが気になる。宮城や州城、仙
洞で暮らしていると、周囲は不老不死の人間ばかりだから人の生き死にや老い
にも鈍感になるが、市井に紛れた飛仙はそうはいかない。多くの知り合いを死
出の旅に送りだす彼らはやがて、暁紅のように行方をくらますか仙籍を返上す
るのが常だ。地にあって只人と交わる飛仙は生に倦み、人生を諦観しやすい。
そんな彼らと、謀反のよくある動機である権力欲は結びつかない」
「なるほど」朱衡は相槌を打ちながら、単純に相手の言葉を否定しないよう気
を配って答えた。「しかしそれはあくまで一般論ではないでしょうか。お話は
理解できますが、飛仙にもいろいろな者がいるわけですし……」
 とはいえ彼は、六太が自分の考えを正直に語ってくれることにある意味では
安堵していた。今はとにかく心中をすべて吐きだしてもらったほうが良い。
「そうだな。だが俺は、帷湍が言ってきた、尚隆との話も気になるんだ」
「帷湍の話――とおっしゃいますと」
「最初、呪者が気の触れた女に伝言を託したと聞かされた帷湍は、呪者が随分
投げやりだと感じたという。伝言が伝わらずとも別に構わないように思えたか
らな。それに対し尚隆も、考えようによっては光州の地に描かれた環も同じだ
と答えたって話。何か不可解な事件が起きているとわざわざ知らしめる意図が
あるように見えながら、一方では事が露見してもしなくてもかまわないという
投げやりな感じを受けると言ったと」
 朱衡は記憶を探り、光州からの詳細な報告の中に確かにそんな内容があった
ことを思いだした。彼自身はさほど重要な情報とも思わなかったが。
「呪者が伝言を託したと思われていた女こそ、実は当の呪者だったわけです。
したがってそのことから受けた帷湍の印象がどうであれ、あれはあくまで演出
だったことになりますが」
「うん。確かに尚隆に呪をかけたのはその女だけど、光州で病を発生させた呪
とは別物だろう。だから女のことはそれとして、光州の地に描かれた環につい
てはどうだろうな。おまけにこっちは尚隆が受けた印象だ。あいつはあれでか
なり鋭いから、根拠のない『印象』とはいえ莫迦にできない」
 それはそうなので考えこんだ朱衡が黙っていると、六太は続けた。

192永遠の行方「呪(103)」:2009/07/04(土) 14:09:39
「俺は気になるんだ。今回の事件が尚隆や帷湍に恨みがある人間の単純な復讐
劇というならまだわかる。共感はできないが、動機をひもとけるという意味で
の理解はできるからな。でも野に下った飛仙がそこまで何かに執着するだろう
か。言いかたを変えると自分で事をくわだてるにしろ利用されるにしろ、行方
をくらまして百年も経ってから、謀反を起こしたり陰謀に加わるだけの『気概』
を持てるだろうか。俺は別に晏暁紅が無関係だと思うと言っているわけじゃな
い。むしろ単なる協力者より首謀者に近いかもしれないとさえ思っている。な
ぜなら生に執着しない飛仙の淡泊な印象は、尚隆が口にした、敵方の投げやり
な印象とも不気味に符合するからだ。そしてもし敵の動機が復讐でも権力の奪
取でもないなら、この事件の解決は相当難航するんじゃないか。おまえたちを
信頼していないわけじゃないが、俺は嫌な予感がして仕方がない」
 そう言われてみると朱衡も、六太の心配にも根拠がないとは言い切れないよ
うな気がした。いまだ敵方の真意が不明というのもあるが、少なくともこれま
でわかったことから想像するかぎり、確かに過去の例にあったような単純な復
讐や権力欲が動機と考えるには不自然な感触はあった。
 それでも六太が気にしているように、謀反人が事が露見してもしなくてもか
まわないというような投げやりな考えでいるかと問われれば、それも少し違う
気がした。何となれば広い光州中に呪具たる文珠をきっちりと置くなどという
行為は、相応の決意と計画性がなければできないことだからだ。
 むろん梁興は、文珠を設置する廬里の選定も慎重に行なっていたろうし、暁
紅が持ちだしたのだろう呪に関する書類の中に、そういった詳細な計画が載っ
ていた可能性も容易に想像できた。おそらく今回の謀反人は、それら梁興の負
の遺産を最大限に活用しただけだろう。しかし大した気概がないのであれば、
実際に光州中を巡って文珠を設置する段階で諦めるのではないだろうか……。
 それを言うと、六太はしばらく考えてから、はたと思いついたように「賭け、
かな」と言った。
「賭け?」
「そう。敵は闇雲に謀反の成就を狙っているわけじゃないかもしれない。俺た
ちに向けてあえて手がかりを提示し、それに気づいて対処すれば俺たちの勝ち、
そうでなければ自分たちの勝ち。不可解だが、そんな賭けをしていると仮定す
れば辻褄は合う」

193永遠の行方「呪(104)」:2009/07/04(土) 14:12:04
「そんな莫迦な」朱衡は思わず反論した。「他のことならいざ知らず、事は謀
反という大罪ですよ。光州では多くの民が病に斃れただけでなく、実際に主上
が狙われて昏睡に陥り、敵の手の者もひとり死んでいます。そんな大それた賭
けがいったいどこにあります!」
「……神をも恐れぬ無謀な賭けだな」
「では主上を陥れた女は、何のために自分の命を投げ打ったのです? 呪が跳
ね返されて報いを受けたのか、進んで病にかかったのかはわかりませんが、不
治の病に蝕まれてまでするほどの『賭け』なのでしょうか?」
 そう問うと、六太は「うーん……」と唸ったまま黙りこんだ。そのまま朱衡
が待っていると、六太は肩をすくめて「わからない。お手上げだ」と答えた。
「で、単刀直入に聞くが。もしこのまま尚隆が目覚めなかったとしたら、雁は
どれくらいもつと思う?」
 不意を突かれ、朱衡は答えに窮した。あのとき大司徒に問われたのと同じ言
葉だったが、まさか六太に尋ねられるとは予想もしていなかったからだ。だが
今の話の流れを考えれば、問われても不思議のない内容ではあった。
 朱衡は迷ったものの、結局は大司徒に返したのとは違う答えを慎重に口にし
た。
「この状況が外部に漏れないという前提でなら、何事もなければいくらでも、
と申しあげるしか」
「ふうん?」
「主上に御璽をいただかなければ各種政令も公布できませんが、国府としてで
はなく、各自治体の条例という形でしのぐことは可能ですので。ただしその結
果、首長が権力を持ちすぎてしまう危険がありますから、官吏の専横を招かな
いよう注意する必要があります」
 そこでいったん言葉を切ったものの、六太が目顔で先をうながしたので、朱
衡は仕方なく厳しい見通しも口にした。今の六太に口先だけのごまかしは利か
ないだろう。
「しかし一番問題なのは、実は官吏の登用や罷免、異動といった人事関係です。
とりわけ仙籍を更新できなくなるのが厄介です。たとえば拙官が部下を罷免し
ようにも仙籍から削除できず、新たな官を登用しようにも仙籍に載せられない
のでは、日常の業務に支障が生じるのはもちろん、主上に何かあったと気づか
れてしまいます。数ヶ月から半年程度ならともかく、正直なところを申せば、
主上には一刻も早くお目覚めいただきたいものです」

194永遠の行方「呪(105)」:2009/07/04(土) 14:15:15
「そうだな。俺たちでは収拾のつかない事件でも起きて民の生活に悪影響があ
れば、次の王をという声も自然と出てくるだろうし」
 さらりと言ってのけた六太に、朱衡は言葉を失った。それは目覚めぬままの
王の命を奪うことを意味しているからだ。
 今の段階で既に六太がそこまで覚悟しているのかと思うと、さすがの朱衡も
内心の動揺を抑えきれなかった。尚隆が暴君となり六太が失道したのならば、
弑逆もやむを得ないと覚悟を決めたかもしれない。しかし誰が手を下すにしろ、
こんな状況で王を弑するなど、到底耐えられるものではなかった。
 そんな彼の動揺をよそに、六太は淡々と続けた。
「そもそもたとえ謀反人を一網打尽にしても、尚隆にかけられた呪を解く方法
を簡単に吐くはずがない。謀反は計画した段階で死罪と決まっているからな。
今回の事件が敵の賭けだろうが野望だろうが、それが潰えたと悟った彼らは、
捕らえられた瞬間に貝のように口を閉ざすんじゃないのか。むしろ拷問を恐れ
て、捕まる前にみずから命を絶つことも十分予想される。そして彼らが死ねば、
呪を解く方法がわからないまま、尚隆はこのまま昏睡から醒めないかも知れな
い。そんな状態が長く続き、執政に滞りが出てくれば、民の間からは自然と不
満が出てくるだろう」
 あまりにも冷静な言葉に朱衡は愕然とした。そういった想像をすることも確
かに必要ではあったが、ようやく敵の姿が見えてきたかどうか、という今の段
階で口にする言葉では決してない。六太が一介の官吏なら、彼自身が混乱に乗
じて陰謀をたくらみ、王に危害を加えようとしているのではないかと疑われて
も仕方のないところだ
 朱衡は何とか取り繕って落ち着いたさまを取り戻し、口を開いた。六太も大
司徒と同じだ。あえて口に出すことで、逆に不安を解消しようとしている。そ
の相手が気心の知れた自分であるということは、内心を吐露すると同時に暗い
予測を否定してもらいたいと思っているはずだ。
「台輔がそんなことをおっしゃっては困りますね」
「困るか」
 六太は、自分こそが困るとでも言うかのようにほのかに笑った。その表情は
昔の、王は民を苦しめるだけだと暴言を吐いたり、長(なが)の出奔で朱衡ら
を手こずらせた頃の面影はなく、宰輔の顔だった。

195永遠の行方「呪(106)」:2009/07/04(土) 14:18:25
 そういえば六太が尚隆の命を受け、あちこちの国の情勢を探るようになった
のはいつごろからだったろう。先の慶での例を出すまでもなく、妖魔が闊歩す
る荒れた土地にも尚隆はひそかに六太を派遣した。使令を使い、使令に守られ、
人としては弱者である少年の姿を持つこの麒麟は、いろいろな場所に紛れこむ
のに都合が良かったからだ。
 普通の王なら危険な地に麒麟を派遣するなど考えもしないだろう。しかし使
令がいる以上、実質的に危険はないと言って尚隆は無頓着に六太を使い、六太
もその命に従った。それは単に勅命だったからだろうか。それとも主に信頼を
寄せ、心から彼の役に立ちたいと思うようになったからだろうか。あるいは宰
輔として、国外の情勢にも気を配るべきだと考えたからだろうか……。
「困ります、本当に。他の者には何もおっしゃっておられないようですからい
いですが、台輔こそは誰よりも主上がお目覚めになることを信じてさしあげな
ければならないお立場でしょうに」
 それを聞いた六太は、ふたたび困ったように笑った。その笑みがあまりにも
淋しげに見えて、朱衡はどきりとした。
 ――本当は王のことが心配でたまらないのだろうに。
 でなければ蓬山行など口にするはずもない。六太は明らかに他の臣下より焦
燥に駆られているのだ。もし王が目覚めなかったらと暗い仮定をするのも、そ
の焦りの現われ。こんな聞き分けの良い――良すぎる冷静な言葉ではなく、も
っと感情に走ってくれたなら、同じ内容の言葉を投げられても朱衡も落ち着い
ていられたろうに。
 だが六太は不意に考えこむとこう尋ねた。
「俺たちって困ってるよな?」
「は?」
 唐突な下問に意味が解らないながらも、自分をじっと見つめる六太に朱衡は
軽くうなずいた。
「本当に困っているよな?」
「いいえ、とお答えできる状況なら幸いなのですが。残念ながら非常に困って
いると言わざるを得ません」

196永遠の行方「呪(107)」:2009/07/04(土) 14:21:39
 正直に答えると六太は、うん、とうなずき、壁際の供案の上にある物を取っ
てくれと朱衡に頼んだ。それは封をした書簡らしきもので、言われるままに朱
衡は手に取り、確認するかのように六太を振り返って軽くかざした。
「そうそれ。ちょっと開けてくれないか。中に何か書いてあると思うんだけど」
「これは何ですか?」
「たぶん占文(せんもん)のたぐい。前に知り合いにもらったんだけどさ、本
当に困ったときじゃないと開けちゃいけないって言われて。もちろん信じてる
わけじゃないけど」
「占文……。斗母(とぼ)占文ですか? 運勢占いの? 開けると斗母玄君か
らの助言が記されているという?」
「うーん。たぶん」
 朱衡は意外に思いながらも薄い書簡の封を切った。その手のものは基本的に
庶民の娯楽なのだ。どうとでも解釈できる適当な文言が最初から記されている
のが普通なのだから。
「あれは子供の遊びのようなものですが」
「ま、そうなんだけどさ」
 中にたたまれていた料紙を取り出す。開いてみたが、そこには何も書かれて
いなかった。
「白紙です」
 六太に紙面を見せてから、開いた状態のまま傍らの大卓に置く。「信じてる
わけじゃない」と言ったわりに、六太は明らかに落胆していたが、すぐに自嘲
めいた笑みを浮かべて視線を伏せた。
「本当に困ったときに開けると、苦境を脱するのに助けになる言葉が浮き出る
はずなんだけど」
「はあ……」
 朱衡はあいまいに言葉を濁したが、普段はこんなものを当てにするほうでは
ないのにと思うと、さすがに胸が痛んだ。だが六太はすぐ顔を上げ、気を取り
直したように明るく言った。
「しかし意外だな。朱衡もこういうの知ってるんだ?」

197永遠の行方「呪(108)」:2009/07/04(土) 14:25:03
「知っていると申しますか……単に小学ではいろいろな伝説や物語をもとに字
を教えられましたので。信じる信じないではなく、そういった伝説や占いも数
少ない娯楽でした。もっとも当時は雁も厳しい時代でしたから、他には何もな
かったと言うべきですが。一番人気は降神術である紫姑卜(しこぼく)でした
が、斗母占文もそれなりに遊ばれていましたよ。何しろ人間の運命と寿命を司
る斗母玄君が与えてくれる助言です。それにませた女の子などは素知らぬふり
で、恋をしかける言葉を自分で書いて占文と偽って相手に渡したり。相手も心
得たもので、取っておくような野暮な真似はせず、人目のないところですぐに
開いてみたものです」
 朱衡は遠い昔を懐かしむように目を細めた。
 この世界では精神論に重きを置くたぐいの信仰は盛んではない。一般的なの
は「拝めばこういう得がある」という、具体的な現世利益をもたらしてくれる
神々への信仰だ。たとえば子供をくれる天帝や西王母がそれに当たる。良くも
悪くも自分の欲求に正直なのだ。
 碧霞玄君の人気もそこそこ高いが、それは彼女が、立身出世だの病気平癒だ
の恋愛成就だのといった、ありとあらゆる願いをかなえるとされる、いわば都
合の良い女神だからだ。紫姑や斗母玄君もそのたぐいとはいえ、碧霞玄君ほど
いろいろな願いを聞いてくれるわけではない。したがってそのぶん庶民の人気
は低いというわかりやすい構図だ。なのにそれなりに馴染みがあるのは、娯楽
の一種と思えば紫姑卜や斗母占文もおもしろい遊びだからだろう。
「そういえば朱衡の子供時代の話はあまり聞いたことがなかったな。おまえで
も幼い頃は――」
「――台輔!」
 顔色を変えて突然叫んだ朱衡に、六太は怪訝な顔で言葉を切った。朱衡は今
し方、大卓の上に置いたばかりの料紙を震える手で取り、表を六太に向けて見
せた。
「字が……」
 いつのまにか表面にくっきりと浮かびあがっていた文字。
「寄こせ!」
 六太は朱衡から引ったくるようにして料紙を手に取り、少なくとも墨で書い
たとは思えない不思議な茶色い文字をまじまじと見つめた。

198永遠の行方「呪(109)」:2009/07/04(土) 14:28:22
 そこにあったのは、ただ二文字。
 ――『暁紅』。
「さっきは確かに白紙でした」そう言いながら、朱衡は六太の手元を覗きこん
だ。「昔からいろいろな占文の話は聞いていますが、実際にこんな不思議を目
の当たりにするのは初めてです」
「俺もだ」
 六太は唸るように言い、紙をひっくり返したり斜めから見たり、難しい顔で
検分している。
「例の女が尚隆に渡した紙、あれにも『暁紅』とだけあったよな」
「でもあちらは普通に筆で書かれていました。拙官も実物を見ましたが、内容
は同じでも、筆跡も見た目もまるで違います」
「うん。不思議だな」
 ふと朱衡は思いつきで尋ねてみた。
「もしやこれをくれたのは蓬山の女仙ですか? だから台輔は蓬山に行きたい
とおっしゃったのですか?」
 すると六太は苦笑した。
「全然違う。そういうんじゃなくて――」
 だが彼は思い直したように真顔になり、「そうだな、聞いてみる価値はある
かもな。只人ではなく、意外と力のある女仙なのかも」とひとりごちた。
「ちょっと出かけてくる」
「えっ」
 唐突に言われ、朱衡はつい驚きの声を上げた。そんな彼に六太はまた笑い、
先回りしてこう言った。
「心配するな。関弓からは出ない」


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次の投下までしばらく間が開きます。

>>178
ありがとうございます。これだけ書いてももう少しこの章は続くので
気長にお付き合いください。

199永遠の行方「呪(110)」:2009/08/01(土) 00:06:23

 その日、夕餉を取るために寮の自室の扉を開けた鳴賢の前に、思いがけず六
太の姿があった。
「よう。久しぶり」
 片手を軽く上げ、気軽に挨拶をしてくる。最後に会ったのは例の「王は人柱」
の話のときだが、それも既に何ヶ月も前だ。気まずいようなそぶりもなく、以
前と変わらない様子に鳴賢は何となく安心した。
「本当に久しぶりだ。元気だったか?」
「まあまあってとこかな。――で、敬之か玄度、知らねえ? 房間と飯堂を覗
いてきたけどいなかった。そういや楽俊も見かけないな」
「敬之は帰省中だ。玄度はさっき藩老師と話をしているのを見かけたから、そ
のうち戻ってくると思うぜ」
 扉を閉め、外出のために財嚢を持ったか確認しながら答える。最近は飯堂で
はなく、気分転換のために外に夕餉を食べに行くことも頻繁な鳴賢だった。勉
強のためとはいえ、ずっと寮にこもっていると気が滅入るからだ。
「文張はたぶん図書府に本を返しにいったんじゃないかな。今の司書は奴にも
便宜を図ってくれる人だから、今のうちに借りておきたい本もあるらしいし」
「そっか……。どうすっかな」
 何やら考えこんだ六太に、鳴賢は「敬之と玄度に用か?」と尋ねた。
「用は用なんだけど……。あ、鳴賢も知ってんのかな? 倩霞の新しい住まい。
前に引っ越したとか言ってたじゃん?」
「ああ、それなら知ってる。一度だけ敬之につきあって、阿紫のところに行っ
たから」
「へえ。ちなみに奴の戦果は?」
 鳴賢は肩をすくめ、聞くな、と身振りで示した。六太は笑った。
「あいつも仕方ねえなぁ。でも、ま、いいや。鳴賢、すまないけど、倩霞の家
の場所を教えてくれないか?」
「阿紫に何か用か?」
「阿紫じゃなくて倩霞のほう。ちょっと聞きたいことがあって」

200永遠の行方「呪(111)」:2009/08/01(土) 00:08:32
「ふうん?」
「あ、別に倩霞にちょっかい出そうってんじゃないぜ?」
 おどけて言った六太に、鳴賢はふたたび肩をすくめて見せた。
「いちいち言わなくてもわかってるよ。玄度じゃあるまいし、俺はそれほど嫉
妬深くは見えないだろうが」
「どうだかなー」
「わかったわかった。どうせ外で夕餉を食おうと思っていたところだし、散歩
がてら案内してやる」
「そうか、悪いな」
 まったく悪いとは思っていない顔で、六太はにこにことして答える。
「――と。でももしかして玄度を待って、誘って一緒に行ったほうがいいかな?
あとでばれたら、あいつのことだから機嫌を損ねるかも」
「ほっとけよ」鳴賢は淡泊に答えた。「あいつ、最近はほとんど俺と口を利か
ないんだぜ。一緒に行ったって、今さらどうなるものでもないだろう」
「なんだ、まだごたごたしてたのか。いいかげん仲良くしろよ。友達なんだろ」
「あいつの頭が冷えるまでは無理だな。成績も落ちる一方だし、こうなったら
もう本人の自覚にまかせるしかない」
 閑散とした寮の廊下を先に立って歩きながら鳴賢はそう言い捨て、あまりそ
の話をしたくなかったので強引に話題を変えた。
「それより俺、海客の団欒所に行ってみたんだ。雁で官吏になるなら、海客の
ことくらい知っていたほうがいいって文張に勧められてさ。六太もあそこには
ちょくちょく行ってるんだろ?」
「え? うん、まあな」
 がらりと話題を変えられて、六太は少しだけ戸惑った様子を見せた。実のと
ころ鳴賢が団欒所に赴いたのは、新年の開放日を含めて二度だけだし、海客と
さほど親しくなったわけでもなければ、いまだに興味も薄い。単に、毛色の違
う話としてとっさに口をついて出ただけだ。だが六太のほうは頻繁に訪ねてい
るらしいだけに、戸惑った顔をしたのは一瞬のこと、思ったとおりすぐ話に乗
ってきた。

201永遠の行方「呪(112)」:2009/08/01(土) 20:48:23
「どうだった? けっこういい連中だろう?」
「うーん」鳴賢は頭をかいた。「実を言うと最初はうさんくさいやつらだと思
ったんだ。でも話してみたら、そう悪い連中でもないようだ。何て言うか――
良くも悪くも普通というか」
「そりゃそうだ。同じ人間なんだから」六太は苦笑した。「それに鳴賢は雁を
出たことがないだろ?」
「ん? それが海客と関係あるのか?」
「まったく意識してないと思うけど、雁はこれでかなり他国と違うんだよ。家
や橋みたいな大小の建造物の様式はもちろん、食べものも相当蓬莱に影響を受
けてる。王や宰輔が胎果だからというだけでなく、海客や山客を保護している
せいで、特に海客が他国からけっこう流れてくるからな。そいつらが伝える文
化や食習慣が、長いことかかって国内の隅々まで影響を与えた。たとえば酒も
麺も、茶でさえ、雁は他国と違うんだぜ。というか種類が豊富なんだ」
「……そうなのか?」
 こればかりは鳴賢も驚いて尋ねた。六太はうなずいた。
「たとえば蓬莱味噌ってあるだろ? 単に味噌とも言うな。一般的ではないし、
人によって好き嫌いもあるだろうけど、かと言って別にめずらしいわけでもな
いよな?」
「もちろん」
「あれは他の醤(ひしお)と毛色が違うからそう名付けたっていうんじゃなく、
本当に蓬莱風の穀醤(こくしょう)を再現したものなんだ。だから他国からや
ってきた海客はそれだけで感激する。基本的に他の国にはないものだから」
「へえー……」
「今思いつくだけでも、うどんに醤油に……蓬莱由来のものはたくさんある。
雁じゃ普通に食べられているから誰も意識はしてないだろうけど。つまり鳴賢
だって自覚してないだけで、実際には蓬莱の影響を相当受けてるんだよ。だか
らその意味では海客たちと、最初から大いに縁があるんだ」
 鳴賢にとっては初めて聞く話で、驚き以外の何物でもなかった。なんだかん
だ言っても海客は、自分たちのような普通の民とは本質的に接点などない存在
だと思っていたからだ。たまたま知り合った相手とだけ、ごく個人的なつなが
りができるだけの異世界人でしかないと。

202永遠の行方「呪(113)」:2009/08/01(土) 20:50:54
「それは、知らなかった」彼は素直にそう答えた。「六太は海客に聞いたのか?
それとも自分でも他国で、雁との違いを実感したってことか?」
 何となく六太が捨て子だったことを思い出しながら問う。捨てられていた国
――生まれた国――がどこだか知らないが、生きるだけで精一杯だったろうそ
の頃は、そんなことを考える余裕も知識もなかったはずだ。ということは雁に
来てから、それも団欒所に行くようになってから海客に教えられただけに違い
ない……。
 だが六太は意外にも「ああ」と肯定した。
「俺、これでもいろんな国に行ったことがあるんだ。もちろん民の日常を詳し
く知るところまで滞在した国は限られるけどな。それに実を言うと俺、胎果だ
から」
「えっ」
 今度こそ仰天して立ち止まった鳴賢に六太はくすりと笑い、すたすたと歩き
ながら答えた。
「前に言ったろ? 雁の生まれじゃないって」
「そりゃ――そりゃ、聞いたけど、さ――」
 あわてて後を追いながら、それ以上の言葉を紡ぎだせずに絶句する。胎果―
―不幸にして卵果の状態で蓬莱に流され、さらに何の因果かふたたび虚海を越
えて流されてきてしまった存在。
 そんな彼を尻目に、六太は笑顔で淡々と続けた。
「別に不思議はないだろ。何たって雁には海客が多い。俺が蓬莱生まれでも、
それ自体は大したことじゃない。それに海客の総数が増えれば、必然的に胎果
の割合も増えるはずだ」
「そりゃ――まあ――」
「団欒所にだって胎果はひとりいるしな。二年前に流されてきた女の子。それ
に比べれば俺はずっと小さい頃――四つの頃に戻ってきたから、彼女ほどの衝
撃はない。そもそも親に捨てられて山ん中で飢え死にしかけていた時に戻って
きたから、むしろ幸いだったと言うべきなんだろう」

203永遠の行方「呪(114)」:2009/08/02(日) 11:44:20
「じゃあ、もしかして……六太は蓬莱に流されただけで、元から雁の民なのか?」
 「王は人柱」の話の際、六太にいだいた反発を思いだしながら尋ねる。六太
がこれまたあっさり「ああ」と答えたので、鳴賢は押し黙った。
 そう、あのとき確かに六太は自分を「雁の民じゃない」とは言わなかった。
「雁の生まれじゃない」と言ったのだ――蓬莱生まれだから。
「すまない。俺、とんだ誤解をしてたみたいだ」
 あのとき感じた反発の片鱗はまだ残っていた。今でも六太の考えかたに同意
は到底できない。しかし目の前の少年が、生まれる前に異世界に流されて苦労
を重ね、ふたたび戻ってきたという重い事実は、そんなことを想像もしていな
かっただけに、残っていた反発などどこかへ失せてしまうだけの衝撃があった。
「六太は以前、自分のことを『浮民みたいなもの』って言ったろ。だからてっ
きり他国生まれで、雁に流れてきたんだと思ってた」
 一瞬きょとんとして鳴賢を見た六太だが、すぐに笑顔に戻った。
「なんだ、そんなことか。別に大した違いはないし、鳴賢が気にするようなこ
とじゃない」
「でもさ……」
「蓬莱では何しろ貧乏だったから、家族で浮民みたいな暮らしをしていたのは
本当だし、こっちに戻ってきて――その、生まれがわかってさ。そしたらけっ
こう裕福なところで、びっくりするくらい贅沢させてもらったんだ。蓬莱での
俺の両親は、生きるために子供を捨てなきゃならなかったってのに。おかげで
あまりの違いに、餓鬼の時分からいろいろ考えるようになっちまった」
「そうだったのか……」鳴賢は驚愕のままにつぶやいた。「六太はもともとそ
れなりの家の生まれだったんだな。なのに蓬莱に流されたばっかりにそんな目
に」
「だからもう昔の話だって」
「ああ……そうだな。何にしても良かったな、戻ってこられて」
 感慨をこめてつぶやいたものの、六太は本当にもう気にしていないのだろう、
何も答えずにすたすたと歩いている。鳴賢はこれまでたまに、六太の見慣れぬ
仕草に戸惑うことがあったのを思いだした。だがもしあれが蓬莱で培われたも
のだったとしたら納得がいく。

204永遠の行方「呪(115)」:2009/08/06(木) 20:54:53
「行方不明になった息子が思いがけず戻ってきて、両親も喜んだろう。実を言
うと俺、六太はどこかの富裕な官吏の養子にでもなっているんじゃないかと思
ってたんだ」
 これには六太は何も答えず、ちらりと鳴賢を見て微笑しただけだった。
「それにしても蓬莱は伝説の理想郷のはずなのに、実際には子供を捨てるほど
貧しい人々がいるのか。海客と話をして、それなりに蓬莱について知ったと思
っていたけど、こんな話を聞かされるとさすがに幻滅するなあ」
「向こうもこっちも本質は何も変わらないさ。こちら側にいろいろな国がある
ように、いろいろな世界があるってだけなのかも。俺たちが蓬莱と呼んでいる
異世界にも貧しい者も富める者もいて、戦乱があって平和があって、喜びも悲
しみもある。海客たちはそこで、俺たちと同じように懸命に日々を追い、つま
しい生活の中でささやかな幸せをつかもうとしていたんだ。ある日突然、何の
前触れもなく、着の身着のままでこちらに流されてくるまでは」
 団欒所で交わしたさまざまな話を思い起こし、鳴賢はふたたび黙りこんだ。
以前に比べれば、海客たちをそう遠い存在とは思わなくなっていただけに、さ
すがに重いものを感じざるを得ない。そして六太や海客たちに比べれば、いか
に自分が平和で平穏な生活を送ってきたのかがわかるのだった。かつては自分
なりに波乱のある人生を歩んできたと思っていたものだが。
 とはいえ六太は、海客たちへの同情に終始するかと思いきや、厳しい言葉も
口にした。
「いずれにしろこちらに来てしまったものは仕方がない。どうあがいても二度
と帰れないのは確かだからな。さっきも言った団欒所の胎果の女の子、あの子
は俺と違って生まれもわからないから、実質的に他の海客と変わらない。それ
に流されてきて二年しか経っていないせいか、いまだに周囲になじもうとしな
いんだ。現実を受け入れず、自分を哀れんでくれる同情の言葉以外は絶対に聞
こうとしない。でもそのうち嫌でも諦めるようになる。でないと結局は生きて
いけないから」
「……だよなあ。それって緑の髪の子だろ? 見たところ十五かそこらって感
じだったし、まだ親が恋しい頃だろうな。もっとも仏頂面だったから、悪いけ
ど俺はいい感じはしなかった」

205永遠の行方「呪(116)」:2009/08/07(金) 20:10:46
「そうか。でもつらい気持ちはわかるから、俺は何とかここになじんでくれれ
ばと思っていろいろやってる。結局は本人次第だから難しいだろうけど。それ
に他の連中も、表面上は蓬莱に帰ることを諦めたように見えても、実際にはそ
うとはかぎらない。何十年も経って、場合によっては息を引き取る間際になっ
て、諦めていなかったこと、悔いばかりの人生だったことを自覚する海客もい
るんだ」
 だがそれは仕方のないことだろう。あくまで帰還が不可能という厳しい現実
を突きつけられて諦めざるを得なかっただけで、ほとんどの場合は当人が割り
切ったわけではないのだろうから。そのこと自体は鳴賢も同情を覚えたが、と
はいえ雁にいる海客の扱いが、荒民や浮民よりずっと恵まれているのも事実だ
った。
「気持ちはわかる。ただこう言っちゃ何だが、雁では荒民と違って戸籍ももら
えるんだし、少なくとも他国にいるよりは恵まれた暮らしができるはずだろ。
文張が言っていたが、海客ってだけで殺される国もある。それを思えば相当恵
まれているんだがな」
 すると六太は「もちろんだ」と返した。
「でも最初から雁に流れついたり、海客を迫害しているわけじゃない国から来
ると、大して実感はできないだろう。比較の対象がないから。ただ確かに現実
に向き合うための手段として、他人より恵まれていると思うことができれば、
それまでとは違う思いをいだけるかもしれないってのはある。『自分はこの人
よりはましな境遇だ』と考えること自体は不遜かもしれないが、そういう思い
にすがらないと立ち直れないことはあるからな。それで気持ちが落ち着いて、
自立のきっかけになるなら悪いことじゃない」
「誰だって自分が一番不幸だとは思いたくないよな」
 そのことで何か特別な思いをいだけたり、得をするというならまだしも。
 それを言うと六太は、不幸にして荒れた国に流れ着き、海客を迫害する官吏
に追われるだけでなく妖魔にも襲われ、死と隣り合わせだった困難な旅路に関
する手記を匿名で記した人もいると答えた。それを団欒所に置いてあると。淡
々と事実を連ね、さらにその時々の心の動きを取り繕うことなく赤裸々に記し
てあるため、大抵の海客は手記を読んで落ち着くらしい。根本の部分で共感を
覚えるのはもちろん、他のどの海客より過酷な体験であり、その人物に比べれ
ば自分はましだと思えるからだろう。

206永遠の行方「呪(117)」:2009/08/08(土) 10:19:07
 鳴賢は興味を覚え、一度読んでみたいと口にしたが、蓬莱の言葉で書かれて
いると言われて諦めた。それと同時に団欒所で見せられた、自分には意味不明
のさまざまな書きつけを思い出した。
 要するに異世界に流されるなどという前代未聞の体験をした者は、誰であれ
吐き出したいことが少なからずあるということなのだろう。そしてあんなふう
に書き散らすことで心中を吐きだし、精神の安定を保とうとする者もめずらし
くないのだろう。
「しかしちょっと意外だったな」
 鳴賢がそう返すと、六太は怪訝な顔をした。
「意外って何が?」
「この手の話じゃ、六太は大抵、相手を同情するようなことばかり言うだろ。
なのに六太でも、こんなふうに悟ったことを言うんだなと思って。むろん今の
話も同情の範疇ではあるけど」
 すると六太は困ったような笑みを向けた。
「忘れてるかもしれないが、これでも鳴賢より長く生きてきたんだぜ。さすが
にいろいろ学んださ。口先だけで憐れみを施すのは簡単だが、それじゃあ何も
解決しないってこともよくわかった」
「そりゃ当然だ。たとえば当たり障りのない言葉より、厳しい言葉のほうが当
人のためになることだって普通にあるんだし」
「うん。俺もわかってはいるつもりなんだ。とはいえ、とっさのときにはなか
なかな……」
「そういえば何て名前だったかな、海客の団欒所で会った中年の女性。彼女は
末端の仙だそうだけど、それでも蓬莱には帰れないんだろ? てことは普通の
海客はもっと無理だよな。俺は単純に、仙なら向こうに渡れるのかと思ってい
たけど」
「……守真のことか」
「ああ、そんな名前だった」

207永遠の行方「呪(118)」:2009/08/08(土) 22:10:24
「官吏を目指しているんだから鳴賢は知ってるだろうけど、仙には位ってもの
がある。虚海は伯以上の仙でないと渡れない。守真は下士だから、どう転んで
も虚海を渡るのは無理だ」
 淡々としていながらも厳しい声音だった。格付けで言えば下士は最下位の仙
だ。虚海を渡ることについてはともかく、一般論として大した能力がないだろ
うことは納得がいく。
「たとえば王は、正確には仙じゃなく神だ。でもその神でさえ、虚海を渡れば
大災害が起きると言われている。ということはたとえ最上位の仙である公でも、
王よりさらに大きな災害をもたらすだろう。本来交わるはずのないふたつの世
界を強引につなげて渡る上に、王よりも力がないんだから。となれば結局のと
ころ、高位の者だろうと、よほどのことがないかぎり蓬莱へ渡るはずがない」
「なるほど」
 鳴賢は納得してうなずいたが、同時に、やけに六太がこの手の話題に詳しい
ことを不思議に思った。普通に考えれば、大学生である鳴賢のほうが詳しいは
ずなのに。それを問うと、六太は軽く笑った。
「これでもいろいろつてがあるんだ。それに今の話みたいに、一般の民が知ら
ないことでも海客なら知っている場合があるわけだろ。だから鳴賢が知らない
ことを俺が知っていても、それ自体は別に不思議なことじゃない。そもそも今
の話は、官吏でも普通に生活するぶんには必要のない知識だ」
「まあな。海客以外に、今の暮らしを捨ててまで蓬莱に渡りたいと思う雁の民
はいないだろうし」
「もっともそのうちおまえも偉くなって、普通の官吏が知らないことも知るよ
うになるかもしれないぜ」
 冗談とも本気ともつかぬ調子で六太が言ったので、鳴賢は溜息まじりながら
「だといいけどなあ」と軽く返した。
「――そうだな。もしおまえが偉くなっても、どこかで俺に会ったとき、態度
を変えないでくれよな」
 なぜか感慨をこめて言った六太に、鳴賢は「変えるわけないだろ」と呆れた。
「友達なんだから。だが、もちろん公私混同はしないぜ?」

208永遠の行方「呪(119)」:2009/08/09(日) 10:02:31
「わかってるって」
 六太は笑いながら鳴賢の腕を軽くたたいた。それで気持ちを切り替えたのか
彼は、団欒所でのもっと明るい出来事を話し始めた。
 国府を出、ぴりりと気持ちの良い冬の冷気の中、綺麗に除雪された広途をふ
たりしてのんびり歩いていく。倩霞の家まではまだ距離があったし、これまで
の内容には興味を覚えていたとあって鳴賢もおもしろく話を聞いた。たとえば
以前は海客にこちらの言葉を教えるのは大変だったらしいが、最近は蓬莱の童
謡をこちらの歌詞に直し、団欒所を訪れる皆で歌うことで悪くない成果を上げ
ているとのことだった。
「蓬莱にも童謡があるんだ?」
 鳴賢は戸惑いながら尋ねた。何しろ彼が知っている童謡の大半は、文字通り
の子供向けの歌ではない。意味のない戯れ歌もあるにはあるが、子供に歌わせ
る歌謡でこそあるものの、躾に重点を置いていたり、政治的な風刺や批判を含
んだ内容が多かった。躾以外の歌は、要するに表立って言えないことを童謡に
託して歌い、子供の戯れ歌だと誤魔化すわけだ。
 荒れた国はもちろん、これは雁のような安定した大国でも事情はさほど変わ
らない。卑近な言葉が使われる俗謡は程度が低いと見なされ、隠喩や暗喩をち
りばめ、韻を踏む「高度」な歌謡がもてはやされる傾向があるためだろう。い
かに平穏に、裏に意味のある言葉を持つ詞を作るかが腕の見せどころというわ
けだ。それだけに蓬莱にも戦乱や貧困があると知ってさえ、風刺を連想させる
童謡があると聞くのはやはり不思議な気がした。
 鳴賢の疑問を承知している六太は、蓬莱での童謡の基本はあくまで子供のた
めの、底意のない娯楽だと説明した。謎めいた伝承のような歌もあるが、他愛
のない内容だったり可愛らしいものが大半だと。
「蓬莱では童謡ってのは詞が短くて簡単なんだ。あくまで子供が楽しむものだ
から、身近でわかりやすく楽しい言葉が使われる。それをこっちの言葉に置き
換えても、生活に密着している卑近な表現ばかりって点は変わらないだろ。だ
から実生活ですぐ役立つ。何より節がついていると覚えやすいから、言葉の勉
強には最適なんだ。鳴賢も見たかもしれないけど、団欒所にはいろいろ楽器が
持ち寄られている。新年とか冬至とか、そういった大きな祭りがある際は関弓
の民もやってきて、蓬莱の童謡をこっちの言葉で一緒に歌ったりもする」

209永遠の行方「呪(120)」:2009/08/09(日) 22:02:03
 鳴賢は記憶をさぐったが、楽器らしきものを見た覚えはなかった。普段はし
まわれているのかもしれない。
「楽器のことは知らないが、文張も歌のことは言ってたぞ。変わった歌が聞こ
えてきて、それに引きよせられて団欒所にたどりついたって。実を言うと俺、
新年もちょっと覗いてみたんだ。でもすぐよそに行っちまったから、そんなこ
とをしてたとは知らなかったなあ。そう言えば守真だか誰だかが、歌のことは
言っていたような気もするけど」
「機会があったら、また行ってみてくれ。大勢で歌うのってけっこう楽しいも
んだぜ。蓬莱では気分や言動がぴったり合うことを『息が合う』と言う。確か
に歌を歌って呼吸を合わせると、なぜか互いに親しみを覚えやすくなるもんだ。
おまけに大声を出すと気も晴れる。だから簡単に覚えられる童謡をそこそこの
人数で歌って楽しむと、海客と関弓の民はいっぺんに仲良くなれるんだ。おか
げで団欒所に来たことのある民は、蓬莱の童謡もいくつか歌えたりする。それ
くらい簡単な歌なんだ」
 そう言うと六太は、蓬莱の童謡らしい歌を口ずさんでみせた。鳴賢には馴染
みのない曲だったため、雁が蓬莱の影響を受けていると言っても歌謡は違うの
かなと思ったほどだが、拍子が良くて単純で、すぐに覚えられそうなのは本当
だった。
 ただしひよこや子犬がかくれんぼという遊びをするとの歌詞には大いに戸惑
った。家禽や家畜を擬人化すること自体に馴染みがなかったし、さらにそれを
子供向けの歌にするという発想がなかったからだ。そのため「もしかして蓬莱
では家畜も言葉を喋るのか?」と尋ねて六太に笑われた。
「こういうのは蓬莱独特の感覚らしいな。向こうじゃ植物さえも擬人化する。
たとえば趣味で綺麗な花を育てている人が、毎朝水を遣りながら花に挨拶した
り、ねぎらったりするなんて話もめずらしくない。もちろんそんなことをしな
い人も多いんだろうけど」
「すごい世界だな」鳴賢は呆れた気持ちで相槌を打った。
「そうだ、鳴賢の字、本当は赤烏だったよな? 烏が出てくる童謡もあるぜ」

210永遠の行方「呪(121)」:2009/08/10(月) 20:44:22
 六太はそう言って別の歌を口ずさんだ。烏が鳴くのは、巣に残してきた子供
を可愛いと言っているのだという内容の歌。これまた烏を人に見立てているよ
うで、目を丸くした鳴賢は「へえー……」と返すしかなかった。
 蓬莱と同じくこちらでも烏は身近な鳥だから、関弓の民も馴染みやすいので
はと思い、早めに翻訳してみたと六太は説明した。烏は成長したのち親に食物
を運んで恩を返す孝鳥と言われるくらいで、その真偽はともかく縁起もいい。
鳴賢の本来の字である赤烏に至っては太陽に棲むという神鳥のことで、太陽の
異称のひとつともなっているくらいだ。まったく知らない蓬莱独特の鳥が出て
くる歌より、雁の民が馴染みやすいのは確かだろう。
 そんな興味深いことを話していたせいか、道中はあっという間だった。関弓
も他の大きな街と同じく、長い間に少しずつ外へ外へと拡張されてきた街だ。
そのため、ところどころにかつての隔壁の名残である城壁があり、鳴賢はそれ
を越えながら六太を街の南西へと案内した。
 大きな邸宅が立ち並ぶ一画に来たところで、六太は「今、団欒所でやりたい
と思ってるのは講談なんだ」と楽しげに語った。
「それも普通のやつじゃない。紙芝居って言うんだけど、紙に物語の絵を描い
て、場面ごとに差し替えて見せながら物語を語るんだ。演目は蓬莱の伝説や物
語でもいいし、俺たちの世界の物語でもいい。たとえば――海に棲む竜王の話
とか。子供は絶対喜ぶし、綺麗な絵で講談師がそこそこなら、大人だって楽し
んでくれると思う」
「そりゃ確かにおもしろそうだ」
「だろ? 蓬莱にもおもしろい話は山ほどあるから、娯楽として聞きに来る民
もいるだろう。そうやって交流を深めるのは互いのためにもなる。問題は絵を
描けるやつがいないってことなんだけど、鳴賢は心当たりないかなあ?」
「俺に聞くな。さすがに絵描きの知り合いなんぞいないって。しかし俺たちに
とっては蓬莱こそが伝説なのに、その蓬莱にも伝説があるってのは不思議な気
がする。いや、蓬莱もこっちと似たような世界だってことはよくわかったけど
さ」

211永遠の行方「呪(122)」:2009/08/10(月) 20:47:17
「実を言うと蓬莱にも異世界の伝説があるんだ。海のかなたに不老不死の人々
が住む理想郷があるって話。蓬莱人はそこを常世の国と呼んでる」
「へえ。俺たちの蓬莱の伝説と似てるな」
「どこでも現実は世知辛いものだから、今いる場所とは違う素晴らしい世界が
あるんじゃないかと夢想するのは、どの世界でもあるってことなんだと思う。
要するにさ、そういうことなんだ」
「そうか。そうかもな……」
 ふと考えこんだ鳴賢は、先ほどから気になっていたことを尋ねてみた。
「あのさ。俺って頭が固いかな?」
「え?」
「何て言うか……発想が貧困と言うか。文張や六太に蓬莱の――というか海客
の話を聞いても、良くない方向に驚いたり否定したり、後ろ向きのことばかり
言ってたような気がしてさ」
 六太のことも、雁の生まれではないと聞いて、はなから浮民と思いこんで反
発を覚えた。楽俊に海客のことを聞かされても、どうせ胡散臭い連中で、自分
たちとは無縁の存在だと頭から決めつけていた。
 それでも今までは特に意識してはいなかった。しかしこの道中で何となく、
自分は頭が固いんじゃないか、既成概念に囚われすぎているんじゃないかと、
鳴賢は思い始めていたのだった。
 だが六太は笑うと軽く流した。
「別にそうは思わないな。これまでの自分の経験や常識に照らして、まったく
異質のことを見聞きしたら、まずは懐疑的になるのは当然だろう。異世界から
来た異邦人に対して警戒を覚えるのだって仕方がない。むしろそれが大人の分
別ってものだ」
「文張もそうだったか?」
「楽俊? あいつは好奇心の塊だからなあ。――うん、蓬莱のことは単に目を
丸くして聞いているほうが多かったような気はするけど、団欒所に行ったとき、
海客とは積極的に話していたようだな」

212永遠の行方「呪(123)」:2009/08/10(月) 20:49:22
「だよな。少なくとも俺みたいに、はなから否定したり悪い印象を持ったりは
してないよなあ……」
「でも最後は大抵、『蓬莱ってえのは変わったとこだな』で一刀両断だぜ。確
かに、いいとか悪いとかじゃなく、そういうものだと単純に受け止めている感
じではあったけど」
「そうか。あいつらしいな」鳴賢はそう言い、ふと見えてきた大門のひとつを
指した。「あそこが倩霞の家だ」
 すると六太は妙な顔をした。かすかに眉をしかめて立ち止まる。
「どうした?」鳴賢も立ち止まる。
「いや……」
 何やら戸惑うように件の大門を凝視している。高い墻壁が連なり、その中に
穿たれた大門の意匠からしてかなり立派な邸宅であることが窺える。鳴賢はそ
れで気後れしているのかなと思い、ふたたび歩き出すと、六太は無言であとを
ついてきた。だが閉じている大門の前まで来ると、さっきまでとは打って変わ
って硬い声でこう言った。
「案内してくれてありがとう。ここから先はひとりで大丈夫だ」
 鳴賢は思わず「はあ?」と声に出していた。確かに案内するとは言ったし、
倩霞に用があるのは彼ではなく六太のほうだ。しかしこんなふうにそっけなく、
用済みと言わんばかりの言葉をかけられるとは思わなかった。少なくともいつ
もの六太なら、「鳴賢はどうする? せっかくだから一緒に倩霞に会ってくか?」
ぐらいは聞くはずだった。
「何だよ、そりゃ」
 さすがにむっとしたため、彼はさっさと通用門から中に入った。そのとたん、
生臭い臭いがかすかに鼻を突く。不審に思って見回すと、中門である垂花門の
前を過ぎた壁際の茂みに雪が積み上げられており、そこから漂ってくるのだっ
た。

213永遠の行方「呪(124)」:2009/08/10(月) 22:12:13
 近寄ってよく見れば、それは料理のためにさばかれた羊だの鶏だのの残骸だ
った。ほとんど雪に埋もれる形で放置されているため、近くに寄らないかぎり
大した臭いではないが、こういうことは家の裏手でやるものだ。主人である倩
霞が病弱で、外出もほとんどしないことはわかっているから、目が届きにくい
のをいいことに使用人が怠けて処置していないものと思われた。
「使用人のしつけがなっていないな。郁芳とか阿紫あたりが、こういうところ
までちゃんと気を配っても良さそうなものだが」
 何の答えもないため振り返って見ると、六太は門を入ったところで真っ青な
顔をして立ち尽くしていた。かなり気分が悪そうだ。鳴賢は、こいつはこうい
う動物の死骸も苦手なんだよなと思いつつも、普段より反応がずっと激しいよ
うに見えて不思議に思った。
「おい。大丈夫か?」
「……あ。うん」
 力なく答える六太。もはや笑みを浮かべようともしない。さすがに鳴賢は気
遣い、「中で少し休ませてもらえよ」と言った。
 そんなやりとりが聞こえていたのだろう、通常は門番の住まいである門房か
ら阿紫が出てきた。見知らぬ間柄ではないが、彼女は丁寧ながらもどこか警戒
するような面持ちで「何かご用でしょうか?」と尋ねてきた。
 鳴賢は六太を見やった。あれだけ道中で長話をしたのに、考えてみればここ
に来る理由を尋ねなかったことにやっと気づいた。
「倩霞に会いに来た。ちょっと聞きたいことがあって」
 六太は硬い声のまま静かに答えた。阿紫は黙って鳴賢と六太を交互に見てい
たが、やがて「どうぞ」と言って、垂花門の奥に案内した。広い院子を抜け、
回廊を経て正房に上がる。
 日没には間があるというのに、正房の中は暗かった。ほとんどの窓が鎧戸を
閉じている上、あちこちに衝立を立てて風だけでなく光も遮っているせいだろ
う。刺繍を凝らした重厚な緞帳を壁に巡らし、そこここに高価な飾り物を置い
てあるというのに、どこかひっそりと陰鬱な感じがした。足元が危うくならな
い程度の灯りはともっているものの、房全体を照らすにはほど遠い。何より、
しつこいほどに甘い芳香が漂い、鳴賢は息がむせそうになった。

214永遠の行方「呪(125)」:2009/08/10(月) 22:14:17
「何なんだ、この匂い。それに暗い。もっと明かりを足せばいいのに」
 思わず鳴賢が言うと、阿紫はつんとした顔で、「倩霞さまのご病気に、強い
光は目の毒ですから」とそっけないいらえを返した。
 鳴賢たちを客庁に通して椅子を勧めたのち、阿紫は主人に来客を伝えに下が
った。ふたりきりになると六太は、「鳴賢。悪いけどやっぱり帰ってくれない
か」と静かに言った。
「おまえ……」
 鳴賢は呆れた声を出したが、六太の顔がこわばっているのを認めて言葉を切
った。乏しい灯りの下でも蒼白になっているのがわかる。六太は硬い声のまま、
鳴賢がこれまで見たこともないほど真剣な表情で言った。
「取り越し苦労かもしれない。だが嫌な予感がする。おまえを危険な目に遭わ
せたくない」
「危険? 危険って何だよ。ここは倩霞の家で――」
 鳴賢が言い終わらないうちに扉が開いた。とたんに甘い芳香が強くなる。衣
擦れの音とともに、気遣わしげな阿紫に手を添えられた貴婦人が姿を現わした。
黒紗ですっぽりと全身を覆った倩霞だった。
 その異様な姿に鳴賢は思わず立ちあがっていた。ほのかな灯りが黒紗を透か
し、見慣れた麗人の面影を奥に認める。しかし美しかった肌はただれ、酷い有
様だった。
 姿なき男の声が「タイホ」と制すると同時に、六太が「おまえたち、手を出
すな」と低く呟いた。何が起きたのかわからず、とっさに周囲をきょろきょろ
した鳴賢の耳に、ふたたび「しかし」という男の声が届いた。
「ようこそ、延台輔」
 戸惑う鳴賢の眼前で、黒紗の麗人は異様な姿に反して音楽的で朗らかな声で
挨拶をした。以前と変わりのない倩霞の声。六太も立ちあがり、抑揚のない声
で「晏暁紅か」と尋ねた。それと同時に自分の頭に手をやり、巻いていた頭巾
の布を解く。豊かな長髪が光をはじいてこぼれ、肩に、背に、ふわりと落ちた。
その光景に鳴賢は呆然となって立ちつくした。
 それは真夏の太陽の色。神々しいまでに輝く、まばゆい黄金(こがね)色だ
った。

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次の投下までしばらく間が開きます。

215名無しさん:2009/08/10(月) 23:45:56
うおおお久々に覗いてみて良かった
続き楽しみにしてます!!

216永遠の行方「呪(126)」:2009/08/28(金) 21:29:34

「まあ、知っていたの?」
 鳴賢の驚愕をよそに、倩霞は鈴を転がすような声でころころと笑った。何か、
とても楽しいことがあったかのように。
 六太は「いや……」と力なく首を振った。
「だが中門のところで家畜の屠殺体を見たとき、もしやと思った。断末魔の苦
悶の痕跡が、いまだに邸の外からも窺えるほど苦しめて殺すなんて尋常じゃな
い。あんな――あんな酷い……」
 彼は視線を落とすと体を震わせた。だがすぐに敢然と顔を上げる。
「そしておまえのその姿を見てはっきりわかった。呪詛を行なう者は、みずか
らの心身をも損なう。他人を害する呪は呪者自身に跳ね返ってくるからな。ま
してや、あれほど大がかりな呪を行ない、大勢の人々を死に至らしめたとあっ
てはなおさらだ」
 黙って黒紗の中からほほえんでいる倩霞に、六太は厳しい顔で問いかけた。
「この謀反をたくらんだのはおまえだな。家畜の死骸は呪詛の痕跡か? それ
とも俺への警告のつもりか」
「痕跡? 警告? とんでもない」倩霞は朗らかに答えた。「おまえには使令
がいるじゃないの。危険を察知した使令の進言によって、眼前で引き返されて
はおもしろくないわ。いえ、別にそれでも構わなかったのだけれど、血や穢れ
に弱いというおまえの性質を試してみたの。そんなに青い顔をして、きっと使
令も影響を受けて弱っているのでしょうね」
「そんなことまで知っているのか。いや、当然か。光州侯の寵姫だったのだか
らな」
「昔のことよ」彼女は眉をひそめ、初めて不快な表情を見せた。
「では、おまえは謀反を認めるのだな。事件のあった光州ではなく、こんな近
くにいたとはまだ信じがたいが、他に首謀者がいて協力しているのでも何でも
なく、紛れもないおまえ自身がたくらみ、光州の人々に、そして王に害をなし
たと認めるのだな?」
 倩霞は答えず、艶然たる微笑を返した。六太は深く溜息をついた。

217永遠の行方「呪(127)」:2009/08/28(金) 21:36:08
「俺がここにやってきたのは、事件が起きる前におまえに渡された書簡を開い
たからだ。最初は白紙だった中の占文に、おまえの字『暁紅』が浮かび上がっ
た。その不思議に、おまえを疑っていなかった俺は力のある女仙かと思い、助
言を得られるかもしれないと考えた。だが今にして思えば、最初からそう仕組
んでいたんだな? 斗母占文を装ったあの紙片も、呪で演出しただけなんだな?」
「あれは光州の片田舎で自生する草の汁で書いただけよ。日に当てると文字が
浮かび上がってくる、それだけ。その地方では子供でも知っているというのに、
おまえは何も知らないのね」
「待って――くれ」
 置いてけぼりにされた鳴賢は、やっとのことでかすれた声を出した。だがそ
れきり言葉は続かなかった。このふたりはいったい何の話をしている? 呪―
―謀反――何の話だ? それに六太の髪……。
 対峙しているふたりを交互に見ながら、必死に状況を把握しようと努める。
そんな鳴賢にちらりと暗い目を投げた六太は、すぐ倩霞に視線を戻して言った。
「彼は無関係だ。おまえの新居を知らなかったから案内してもらっただけ。帰
ってもらってもかまわないだろうな?」
 わけがわからぬなりに冗談じゃないと思った鳴賢が口を開く前に、倩霞が
「だめよ」と言った。相変わらず朗らかに。だがすぐに言を翻した。
「――そう、それでもいいかもしれないわ。この者が国府から役人を連れて戻
ってくる頃には、すべてが終わっているでしょう。王はこのまま永遠に目覚め
ることはなく、五百年の長きに渡って続いてきた王朝はあっけなく終わる。―
―そうね、それがいいわね」
 ふと倩霞がよろめき、彼女の体に気遣わしげに手を添えて支えていた阿紫が、
女主人を傍らの榻に座らせた。その拍子に黒紗から手が覗き、指先から手首ま
で痛々しくも醜くただれているのがよくわかった。紗に隠れている他の部分も
似たようなものなのだろう。前に敬之と一緒に会ったときはこうではなかった
のに、どう見ても余命いくばくもないのは明らかだった。数ヶ月か――もしか
したら数日の命なのか。
 鳴賢はぞっとなった。倩霞も六太も、阿紫でさえ自分が知っていると思って
いた人物ではなく、何が起きているのかさっぱり理解できなかった。眼前で重
大なやりとりが行なわれているらしいことはわかるのに、彼だけはまったくの
蚊帳の外だった。

218永遠の行方「呪(128)」:2009/08/28(金) 21:48:21
「待ってくれ」鳴賢はふたたび声を上げた。「主上が永遠に目覚めないって―
―何のことだ。六太――」
 黙って彼を見つめる金色の少年に、言葉を切る。髪の色が指し示す真実はひ
とつしかない。だがそれは、茫然とした頭にひどく染みこみにくいものだった。
「――台、輔……? 延台輔……?」
「そう呼ばれている。五百年前、この国に王を据えて以来」
 静かな声だった。その声は鳴賢の脳裏にじわりと染み込んでいき、混乱して
いた頭はようやく秩序めいたものを取り戻していった。
 ――ああ。
 足元が崩れそうになりながら、彼はうめいた。そう、まったくもって六太は
嘘は言っていない。雁は王も麒麟も胎果であり、それは誰もが知っている有名
な事実だった。五百年も生きていれば、鳴賢より年上に決まっている。他国の
ことであれば自国のことであれ、鳴賢の知らないことを知っていても何の不思
議もない。
 ――ああ、まったくもって何の不思議もない。
 彼はよろめいて、力なく後ろの椅子に座りこんだ。
 がっくりと垂れた頭を両腕でかかえこんだ鳴賢の前で、六太はしばらく黙り
こんでいたが、やがて淡々と語り始めた。
「昨年末、光州の州侯から急使があった。原因不明の流行病により、ひとつの
里が全滅したという」
 のろのろと顔を上げた鳴賢の前で、六太は静かに話を続けた。調査の結果、
光州では一年前から奇妙な病死が相次いでいたのがわかったこと。場所は州城
を中心とする環を右回りに移動しつつ、計ったように月に一度の頻度で発生す
るという不可解なものであったこと。
 もろもろの状況を鑑み、国府は呪を使った謀反のくわだてと判断。新年早々
のふたつめの里の全滅を受け、王は行幸という名目で親征を決断、光州入りし
た。ところが狡猾な罠をしかけていた謀反人に呪をかけられ、昏睡状態に陥っ
てしまった……。
 触れがあったため、行幸のことは鳴賢も知っていた。光州で何か事件が起こ
ったせいであることも。しかし王を信頼しきっている民は、心配という名の関
心を寄せることもなく、それは鳴賢も同じだった。

2191:2009/08/28(金) 21:54:47
>>215
どうもです。今のところ一月弱に一度くらいは集中的に書き込めそうなので
この章が終わるまでは、そのくらいでたまーに覗いてもらえると
空振りはないんじゃないかと思います。

220永遠の行方「呪(129)」:2009/08/29(土) 00:06:25
「何しろ梁興の謀反から二百年も経っている。そのため当初は残党の仕業であ
る可能性は低いと思われていたが、王に昏睡の呪をかけて絶命した呪者が、梁
興の寵姫だった晏暁紅の下僕である線が濃くなった。そのため暁紅を首謀者も
しくは謀反の協力者と推定し、行方を追おうとしているところだった」
 六太はそう言って、険しい表情で倩霞を見やった。彼女に対し「晏暁紅か」
と問いかけ、それを倩霞が肯定したことを思いだした鳴賢は身を震わせた。
「なんで、そんな――」動揺のかけらも見せず、ひたすら倩霞を気遣って側に
侍っている阿紫に呼びかける。「――阿紫……」
 阿紫は鳴賢に一瞥を投げたものの、冷ややかなまなざしだった。女主人が座
る榻の傍らに膝をついたまま、ふたたび気遣わしげに倩霞を見あげる。
「まさか、この家の者すべてが知っているのか? ここは謀反人の根城だった
とでも言うのか?」
 倩霞の店は女向けの小物を扱っていただけに、従業員も若い娘ばかりだった。
それもほとんどが恵まれない境遇から倩霞の家に引き取られたため、一緒に住
んでもいたはずだと思い、鳴賢は信じられぬ思いで倩霞を凝視した。だが彼女
は相変わらず微笑を浮かべているだけ。その静かで妖しいほほえみに、鳴賢は
自分の発した言葉が真実であることを悟らずにはいられなかった。
「他の娘たちはどこだ? 郁芳とか……。頼む、話をさせてくれ」
 何かの間違いではないのかと祈りつつ、鳴賢は訴えた。しかし倩霞は答える
代わりに、傍らの阿紫の手にそっと自分の手を重ねた。
「もう誰もいないわ、誰も。残ったのはこの子だけ」
「逃げたということか……?」
「いいえ。みんなわたしに命をくれたの。あの呪を行なうためには若く健康な
命がたくさん必要だった。みんな喜んでわたしに命をくれたわ」
 ――狂っている。
 鳴賢はそんな言葉を飲みこみ、倩霞、いや暁紅を凝視した。言葉もない鳴賢
の前で、六太は悲痛な表情でしばし瞑目した。

221永遠の行方「呪(130)」:2009/08/29(土) 10:46:22
「おまえは賭けをしていた」六太の青白い顔色は変わらなかったが、それでも
しっかりとした声だった。「俺たちが気づいてたくらみを阻止するか、気づか
ぬまま光州を不毛の地にしてしまうか。少し遅かったかもしれないが、俺は気
づいた。賭けに勝ったのはどちらになる? おまえか? 俺たちか?」
 だが暁紅は榻の上で、相変わらずほほえんでいた。混乱しきりの鳴賢は、震
える声でやっと六太に尋ねた。
「それで主上は……」
「目覚める気配のないまま、宮城でこんこんと眠り続けている。もう半月にも
なる。このまま呪が解けなければ、王の眠りが覚めることはないだろう」
「そんな」
 目の前が真っ暗になる。以前楽俊に問われた、王が崩御したら――という仮
定が、突如として現実味を帯びたことに、彼は慄然となった。
「知らなかった――そんなことになっていたなんて――」
「箝口令を敷いているからな。今のところ雲海の下にはいっさい漏れていない
はずだ。だから下界で王の状態を知っている者がいるとすれば、謀反人の一味
でしかありえない」
 六太はそう言って、厳しい顔でふたたび暁紅を見やった。鳴賢は茫然と座り
こんでいるばかり。ついに六太は悲壮な声で、「いったいなぜだ!」と叫んだ。
「おまえは飛仙となり、下界にくだって百年以上経っている。宮城では今回の
謀反の首謀者に対し、さまざまな憶測がなされているが、いろいろな情報を見
聞きするにつれ、俺には単なる権力欲だの復讐だのとは思えなくなった。たと
えば梁興が没した直後なら、逆恨みとはいえ主人の仇討ちのつもりなのだろう
と解釈することもできる。しかし八十年も貞州城の片隅でひっそりと過ごし、
さらに市井に紛れて百二十年。王への恨みなど、あったとしても既に失せてい
るはずだ。あるとすれば――」
 六太はいったん言葉を切ってから続けた。
「――飛仙ゆえの、屈折した厭世感。違うか?」
 暁紅はほほえんだまま、快い楽の音を楽しむかのように少し首を傾げて聞い
ている。

222永遠の行方「呪(131)」:2009/08/29(土) 10:53:47
「聞けば貞州城に引きこもったおまえからは、梁興の謀反に結果的に関わるこ
とになったことへの悔悟の念は窺えなかったそうだ。むしろ冷遇されているこ
とへの反発があったとか。貞州での隠遁に等しい生活は、華やかだったろう光
州での寵姫としての毎日とは確かに雲泥の差だったろう。それで処遇に不満を
持ったのなら気持ちはわからないでもない。少なくとも梁興を討った功労者で
あるのは事実なのだから。
 だがおまえの面倒を見てくれた貞州侯が代替わりして居場所がなくなったと
き、おまえは市井に紛れることを選んだ。ならば少なくともそのときは復讐心
などなかったはずだ。復讐するつもりなら、その機会など二度と得られないだ
ろう市井に下るより、州城にとどまることを選ぶだろうからな。しかしおまえ
は市井に降り、やがて行方をくらました。それは心機一転、最初から出直すつ
もりになったからではないのか? だとすればおまえの動機は仇討ちでも復讐
でもない。単に、何かの理由で長い間に降りつもった不満のはけ口を求めただ
けだ」
 涼しい顔で聞き流している暁紅と異なり、鳴賢は愕然として聞いていた。謀
反をたくらむ輩がいること自体、信じがたいことだが、それが確たる動機のあ
るものではなく鬱屈した不満のせいだなどとは、到底信じられるものではない。
何かの間違いではないかと思いながら、彼は眼前で交わされるやりとりの意味
を必死に理解しようとした。
「飛仙の中にはたまにそういう不満を溜める者がいる。特に政争に敗れて位を
追われた高官が、仙籍を持ったまま失意の中で隠棲する場合などがそうだ。し
かし彼らと異なり、幸か不幸かおまえには手段があった。梁興が遺した呪の文
珠だ。かくしておまえは、普通の飛仙ならただ不平を口にして日々を無為に過
ごすしかないものを、文珠があったばかりに大それたたくらみをくわだてた―
―違うか?」
 だが暁紅は溜息をつくと、どこか小馬鹿にした表情で六太を見た。
「どうとでも好きなように捉えればいい。慈悲の生き物と言われながら、おま
えも情人の王と同じく、いつもそうやって高みから見下ろしているだけ。勝手
に推し量って理解した気になって、その実、地べたにはいつくばって暮らす者
の気持ちなどわかるはずもない」
「――待て」

223永遠の行方「呪(132)」:2009/08/29(土) 11:05:09
「何にしても既に手遅れよ。追いつめられた気持ちはどう?」
「待て、おまえは何を……」
 六太は驚愕の面持ちで「情人……?」とつぶやいた。その有様に鳴賢は今さ
らながらに、市井でなかば公然の事実として受け止められている話を思いだし
た。雁の王は麒麟と理無い仲であるという話を。
 実際、小説などでも普通に演じられているし、囚われた麒麟を王が単身救出
に赴いた斡由の乱などは、昔から人気の演目だ。庶民が思い描く麒麟は、慈悲
深いのはもちろん、美しくたおやかで性別を感じさせない夢幻の世界の住人。
雁の麒麟が少年の姿であることは知られているが、人間の女など足元にも及ば
ないほど美しいともされており、王の寵愛もさもありなんと思われていた。
 鳴賢は以前、楽俊や六太を無理やりその手の小説を見せに連れだしたことが
あった。しかしそれは、まさか六太が当の延台輔だとは思いもよらないからで
きたことで、さすがに恥じ入った。
 だが六太は、青ざめた顔はそのままに、少し困惑した体で低く笑った。
「何か誤解があるようだ」少し待ってから、誰も何の答えを返さないことに言
葉を続ける。「俺は王の褥に侍ったことはない。それを言うなら、誰の褥に侍
ったこともない。人は人を求めるものだろう。だが麒麟は人じゃない。おまえ
は今の俺の姿に惑わされているだけだ。俺が麒麟の姿になれば、自然と納得で
きるだろう」
「それを口実に転変するつもり? 転変して何をしようというのかしら」
 暁紅は冷笑した。六太は彼女の様子を窺い、諦めたように視線を落としては
かない笑みを浮かべた。
「市井の小説で、そういった演目があるのは知っている。だがたとえば元州の
乱の際に王が単身元州城に潜入したのは、実のところ謀反人の斡由と一騎打ち
をするためだった。それが一番被害の少ない方法だったというのが王の弁。俺
を助けたのはそのついでだ」
 六太はちらりと鳴賢に微笑を投げ、かすかにうなずいた。その表情に、鳴賢
はその話が真実であることを知った。小説はあくまで小説。庶民の娯楽でしか
ない。
「しらじらしいこと。光州侯でさえ、おまえたちの仲を知っていたというのに」

224永遠の行方「呪(133)」:2009/08/29(土) 11:12:59
「梁興のことか。だが俺はその男と実際に会ったことはないし、市井の者と同
じく、単なる噂に想像をたくましくしただけだろう。宮城で働く者に問えば、
俺と王はそんな間柄ではないと誰しも答えるはずだ。だいたい王と麒麟が異性
ならまだしも、雁の場合は男同士。一般的にも婚姻を結べるのは男女に限り、
同性同士の結びつきは倫理にもとるというのに、王と麒麟だけが例外であるは
ずがない。それ以前にさっきも言ったとおり、そもそも麒麟は人じゃないんだ。
人外の者を、人である王が欲するはずがないだろう。王の名誉のためにそれだ
けは言っておく」
 六太はほとんど感情を見せず、淡々と言ってのけた。その説明に鳴賢は納得
せざるをえなかったが、同時に傷をえぐられたような鋭い痛みを覚えた。
 ――人外の者を、人である王が欲するはずがない……。
 かつて六太は、想いを寄せる女性について鳴賢に語ったことがある。しかし
その想いが成就することはないとも言い切った。あのときは相手が年上で既婚
の可能性を考えたが、自分が人間ではないことをもって諦めたのだとしたら。
 確かに麒麟に愛を告白されても相手の女は困るだろう。人間ではなく、婚姻
もできず子も持てない相手と添おうとする女もいないだろう。そもそも第一に
王と国のことを考えるべき麒麟の恋など、少なくとも官吏は歓迎しないだろう
し、王自身も不快を覚えかねない。庶民も何となく釈然としないものを感じ、
そこまで麒麟が想う相手の女こそが真実の王ではないのかと、余計なことを考
えるのではないか。そうなれば相手の女にその気がなかったとしても、王に叛
意を持つ者に利用されないとも限らない……。
 そう、麒麟の恋など誰も歓迎しないのだ。
 俺はいつも考えなしだ、鳴賢は絶望のままに内心でうめいた。頭が固くて考
えが浅くて、いつも物事の表面しか見ていない。六太がさらりと語ったあのと
きの告白は、心の内に相当な覚悟と悲哀を秘めたものであったろうに。
 そんな彼の悲痛な思いをよそに、六太は暁紅に尋ねた。
「おまえが謀反をくわだてるに至った動機の中には、同じように誤解があるの
ではないか? もしそうなら誤解を解きたい。どうしてこんなことをくわだて
たのか、話してはもらえないか」
 だが暁紅は答えなかった。超然と沈黙を守っている彼女を前に、六太は迷う
ような表情を見せた。

225永遠の行方「呪(134)」:2009/08/29(土) 20:48:27
「それともやはり仇討ちのつもりなのか? 梁興を討ったのはおまえ自身だが、
それは籠城を終わらせるためにやむにやまれずやっただけで、主君への恩情は
いまだ残っているということか?」
「仇討ち?」ようやく口を開いた彼女はおかしそうに笑ったが、口調はそっけ
なかった。「仇討ちなどであるものか。あの男に恨みはあっても恩などない」
 とりつく島のない、冷ややかなまなざし。
「そうか。だが少なくともおまえは俺たちを試していたな。実際に賭けをして
いたかどうかはさておき、俺たちがたくらみに気づき、適切に対処をすれば、
被害を最小限に抑えられるようにしていた。ということは、本気で謀反を起こ
す気などなかったのではないか?」
「さあ。それはどうかしら」
「まぜっかえさないでくれ。これまでの短いよしみとはいえ、俺にはおまえが
そんなに残酷な人間とは思えない。いや、思いたくない。何を不満に思ってい
たにせよ、おまえには謀反に通じる確たる動機はなかった。だから八つ当たり
に等しい行為を完遂することに迷いがあった。どこかで自分を止めてほしいと
いう気持ちがあった……」
 鳴賢は懸命に話しかける六太を、それを聞き流す暁紅を、ただ見つめていた。
彼自身になすすべはなかったが、それでも倩霞こと暁紅に、六太の真摯な言葉
が届いていないことだけは見て取れた。無惨な姿になり果てていながら、彼女
からは恐れも迷いも窺えず、動揺のかけらさえ見て取れなかった。
 黒紗から覗いている指先を凝視し、酷くただれたように見える肌が、実は腐
りつつあるのではないかと思いついて吐き気をもよおす。房に蔓延するこの奇
妙な甘い匂いは、腐臭を隠すためではないのか……。
 ――いや。暁紅が身じろぎするたびに舞い上がるように思える甘い匂い、こ
れは腐臭そのものではないのか。
 鳴賢は酸っぱいものがこみあげるのを感じたが、何とか抑えこんだ。
「占文を装って俺に渡したあの書簡。あんな手がかりを与えては、一歩間違え
れば計画が頓挫しかねない。そんな書簡を俺に渡したのは、内心で止めてほし
かったのではないか?」
 暁紅は深く溜息をついた。
「麒麟というのは本当に莫迦な生き物なのねえ……」ひとりごとのようにつぶ
やいてから、「あれはわたしの運だめし。ただし同時におまえを、適切な時期
にここへおびきよせるための餌でもあった」
「なに……」六太は目を見開いた。

226永遠の行方「呪(135)」:2009/08/29(土) 20:53:14
「むろんうまくいく可能性はほとんどなかったけれど、もともとこのくわだて
は成功するほうが不思議なくらいだったのだもの、失敗しても諦めはつく。で
も蓋を開けてみれば運命はわたしに味方し、王は眠りに落ち、おまえはこうし
てわたしの元にやってきた。どうやら天帝は、王朝を終わらせることをお望み
のようね。誤算は唯一、王が出てくるのが遅かったというだけ」
 何の遠慮もなく謀反の根幹にからむ事柄を口にする。震える声で「待て」と
口を挟んだ尋ねた六太の傍ら、鳴賢はどんどん肝が冷えていくのを感じた。
 彼女がここまであけすけに語ることの意味はひとつ。既に目的を達し、国側
がどうあがいても事態が動かない、手遅れの段階にまで至ってしまったという
ことに他ならない。あるいはそれを装って、さらに罠をかけようとしているの
かもしれないが、いずれにせよ、のっぴきならない状況であるのは確かだった。
 そして今の彼が何よりも案じているのは、謀反人の首魁と対峙している六太
だった。麒麟は数多くの妖魔を下僕として従え、それにより身を守っていると
聞く。下僕となった妖魔が人語を操るとすれば、先刻聞こえた姿なき男の声が
そうなのかもしれない。しかし六太は「手を出すな」と制し、頼りない少年の
姿で対峙している。暁紅も彼女につきそっている阿紫もかよわい女人ではある
が、どこにどんな罠があるともしれない以上、麒麟に危害が及ぶ事態を鳴賢は
恐れた。王が意識不明に陥っているというのが本当なら、さらに麒麟にまで危
害を加えられてはたまらない。それこそ雁が滅びてしまう。
「おまえは王が出てくることを予想していたとでもいうのか?」
 鳴賢の焦燥を知らぬげに、六太は相手に問いかけた。そんな彼に、暁紅はた
だ莫迦にしたような視線を投げた。
 無言の返答に愕然とした表情で黙り込んだ六太は、蒼白な顔をいっそう白く
して暁紅を凝視した。
「――光州の地に描かれた環。月に一度、里で特定の方角の住む家族が呪によ
る病に斃れた――ひそやかで不可解な事件」
 微笑を取り戻した暁紅は、茫然とつぶやいた六太をじっと見つめていた。勝
ち誇ったような表情は、六太の推測が当たっていることを指しているのだろう
か。
「王は言っていた。事件を知られても知られなくともどうでもいいと思ってい
るような、なげやりな意思を感じると。だがその反面、ここで不可解な事件が
起きているぞと、しらしめる意図があるようにも思えると」
「その割には、ずいぶん遅いお出ましだったこと」暁紅はくすくすと笑った。

227永遠の行方「呪(136)」:2009/08/29(土) 20:56:47
「わざわざ一年をかけて最初の呪環を完成させたというのに。野次馬のように
ふらふらと出歩くあの下卑た王なら、人死にの出る怪異を目の当たりにすれば、
興味を引かれて即座に飛んでくると思ったのに」
「おまえ――」
「それでもやっと幇周で食らいついてきたとき、もうおまえたちに勝ち目はな
くなった。罠を張った郁芳は、さぞかし満足して逝ったことでしょう。あとは
おまえたちが、残された選択肢の中から自分の運命を選ぶだけ」
「郁芳……?」
 阿紫と同じく、暁紅の店で働いていた若い娘の名。鳴賢も六太も何度か会っ
たことがあった。
「――浣蓮。生まれたときから一緒にいた、わたしの乳兄弟」
「おまえはその彼女をも死に追いやったのか!」
 悲痛な叫びを上げた六太だったが、微笑を浮かべている相手にその思いが届
くはずもない。
「追いやるだなんて。あれは郁芳自身の望みだったというのに。わたし以上に
王を恨んでいたというのに」
「王を恨む? なぜだ。この謀反はやはり復讐だったとでもいうのか?」
「――だめだ、聞いちゃいけない!」
 やっとの思いで鳴賢は立ち上がると、膝に力が入らないながらも、何とか両
者の間に割って入った。頭の片隅で、こんな状況でも玄度なら暁紅をかばうの
だろうかと、ちらと考える。そうかもしれない、そうでないかもしれない。だ
が自分はもうごめんだ。こんな女などどうでもいい、何とか六太をここから遠
ざけなければ。安全な場所まで連れて行かなければ。
「こんなにぺらぺら喋るなんておかしい。こいつは何か罠をしかけようとして
いる。聞いちゃいけない!」
「鳴賢……」
 悲しそうな顔でつぶやいた六太の前、暁紅は傍らの阿紫の頭を優しくなでた。
「この子の父親はね、雁に流れてきてすぐ、窃盗の濡れ衣を着せられて往来で
なぶり殺しに遭ったの。母親のほうは妓楼に売り飛ばされるところを抵抗した
ために、その場で大勢の男に慰みものにされて舌をかんで死んだ。この子には
姉もいたのだけれど、まだ十になるやならずやだったのにどこかに売り飛ばさ
れてそれっきり。わたしが通りかからなかったら、やせこけた姿で物乞いをし
ていたこの子も数日のうちに命を落としていたでしょう。うちに引き取った娘
はそんな境遇の子ばかり。王を恨み、自分の無力さを嘆きながらも一矢報いた
いと思っている者は雁にも大勢いるのよ」

228永遠の行方「呪(137)」:2009/08/29(土) 21:00:14
 鳴賢は振り返ると、六太の代わりに暁紅に反論した。
「主上は浮民にも荒民にもできるだけのことはなさっている。慶はずいぶん良
くなったが、戴から、そして巧から、これまでどれだけの荒民が流れこんでき
たと思っているんだ。いくら雁が大国でも、限界ってものがあるんだぞ! 治
安が悪いと言いたいんだろうが、それは浮民や荒民自身が追いはぎだの強盗だ
のをやらかしているせいじゃないか。女を乱暴して売り飛ばすのも、手っ取り
早く金を稼ごうとする浮民がよくやる手口だ。おまけに仲間内でさえ、施しを
奪い合って喧嘩沙汰になるくせに、自分たちの無体を棚に上げてよくそんなこ
とを言うな!」
「鳴賢」
 六太がそっと後ろからそっとささやき、激昂した彼を穏やかに制した。鳴賢
はさすがに黙ったが、暁紅と六太の間で踏んばり、どくまいとした。
「王は眠りに落ちたが、本当に謀反をたくらんでいるなら弑逆を試みたはずだ。
それをせずに昏睡にとどめたのはなぜだ? 内心で止めてほしいと思っていた
わけではないなら、本当は何を狙っている?」
 六太の問いに、暁紅はふっと微笑した。彼女はしばらく思わせぶりに沈黙し
ていたが、やがて阿紫の肩に置いていた手を、ゆっくり持ち上げて六太に向け
た。
 鳴賢は緊張して、六太を指すただれた指先を見つめた。これも何かの罠かと
警戒する中、相手の爪が真っ黒に変色しているのを見て取り、先ほどの吐き気
が蘇った。
「おまえ」
 微笑を浮かべたまま、暁紅は静かに言った。意味をつかめないまま鳴賢が息
を殺していると、彼女は続けた。
「おまえが王の身代わりになれば、自然と王の眠りは覚める。あの呪は、その
ように定めてかけたのだから」
 鳴賢は血の気が引くのを感じた。これこそが罠だ。この女は王だけでなく麒
麟をも罠にかけ、雁を滅ぼそうとしている……。

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次の投下までしばらく間が開きます。

229永遠の行方「呪(138)」:2009/09/17(木) 20:32:58
 だが背後の六太はしばし沈黙しただけで、こう尋ねた。「それで王は助かる
のか?」と。
「おい、謀反人だぞ。こいつの言うことに耳を貸すな。嘘に決まっている」
 鳴賢は血相を変えて訴えたが、六太は超然とたたずんでいた。
「六太――い、いや、台輔」
 今さらのように気づいて言葉を取り繕ったものの、六太はふっと笑って「態
度を変えないでくれと頼んだだろ」と言った。喉元までこみあげた、それどこ
ろじゃないとの言葉を鳴賢は何とか飲みくだした。
 だいたい麒麟を昏睡に陥れることが目的だったなんて、それもおかしな話だ。
王を殺す、麒麟を殺す、王位を乗っ取る――どれも大罪とはいえ、人なら誰し
も持つ醜い感情、すなわち権勢欲、復讐心、嫉妬心などに立脚しているだけに、
理解することは可能だ。だが麒麟を王の身代わりに求める暁紅の本心がどこに
あるのか、鳴賢にはさっぱりわからなかった。
「し、使令で――そう、使令でこいつを捕らえてください。その間に俺が国府
に走って、衛士を呼んで――」
「鳴賢」
 興奮した鳴賢を、六太は静かにたしなめた。その控えめな威厳に、鳴賢は黙
らざるを得なかった。
「よく見てくれ。どう見ても、この女は余命いくばくもない。今だって命を永
らえているのが不思議なくらいだ。そんな女を捕らえて乱暴したら、その場で
絶命してしまうかもしれない。仮に捕らえたとしても、すぐ死ぬ者が脅しなど
に屈するとも思えないし、何より衛士が来る前に自害しない理由もない。そう
なれば王は助からない」
 六太の言うとおりだった。暁紅が最初から余裕のまなざしでふたりに相対し
ていたのがその証拠。今さら何をしようと事態は動かないと睨んでいるからこ
そ、彼女はいろいろなことを語ったのだろう。そんな彼女を捕らえることは、
すなわち王を見捨てること。
 だが。
「主上のことは残念です。でも台輔がいれば」
 王を見捨てても麒麟がいる。麒麟がいれば、新たな王を選ぶことができる。

230永遠の行方「呪(139)」:2009/09/17(木) 20:53:30
 そんな鳴賢の心中を察したのだろう、六太はゆっくりと首を振った。
「それはできない」
「台輔!」
 鳴賢は悲鳴に似た叫びを上げた。だが六太は「俺には王を見捨てることはで
きない」ときっぱり言い切ると、暁紅に向きなおった。
「おまえの真の狙いはわからないが、真実、俺が身代わりになることで王が助
かるのなら幸いというものだ。その意味では――そう、俺は間に合ったんだな。
あの書簡を開き、助言を求めておまえの元にやってきた。それ自体はおまえの
目論見どおりだったとしても、俺は最後の賭けに勝った」
「王を助けるとでも言うの? おまえに自分を犠牲にできると?」
 嘲笑った暁紅を尻目に、鳴賢は必死で六太に訴えた。
「そんな! 飲まず食わずで眠り続けたら死んでしまいます。そうなったら結
局は主上も死んでしまう。同じことだ!」
 一瞬きょとんとした六太だが、すぐに合点がいったようにひとりうなずいた。
「ああ、そうか。おまえはまだ神仙についてよく知らなかったな」そう言って、
笑みさえ浮かべて説明する。「只人と異なり、神仙は飲まず食わずでも相当も
つんだ。王が半月も眠っていながら生命に何ら危険が及ばないのがその証拠。
おまけに麒麟は天地の気脈から力を得ることができるから、安静状態ならおそ
らく何十年眠ろうがまったく問題ないだろう。そして意識の有無に関わらず、
俺が生きてさえいれば王の生命に別状はない」
「そんな問題じゃ――!」
「安心なさい」暁紅が楽しそうに口を挟んだ。「本当に身代わりになるという
なら、おまえが昏睡に陥ると同時に王は目覚める。それは保証するわ。それに
この呪は必ず解除条件を定める。だからおまえの眠りも永遠ではない」
 鳴賢は彼女を振り返った。光州の人々を害し、王を眠らせ、今また麒麟に身
代わりを迫りながら、その眠りはいつかは解けるという。いったい何を狙って
のことなのか、見当もつかなかった。狂人に論理を求めるのは無駄かもしれな
いが。
「――だからおまえの一番望まないことが起きたら、眠りから覚めるようにし
てあげる」

231永遠の行方「呪(140)」:2009/09/18(金) 20:14:15
 にこやかに告げた彼女に、呆気にとられた鳴賢はすぐ「おまえは狂ってる」
と吐き捨てた。
「あら。それとも――そう、いっそ王が死んだときに目覚めるほうがいいかし
ら」
 六太は顔をこわばらせた。頭を振った鳴賢は「話にならない」と言い捨て、
暁紅に指をつきつけた。
「おまえは詐欺師だ。大げさに言いたてて不安をあおり、もっともらしい嘘を
吐き、自分の望む方向に誘導しようとしている。だが残念だったな。そもそも
どうやって台輔の心の中を知る。台輔がもっとも望まないことを知る。だいた
い自分が真実、何を望んで何を望まないかなど、当人にだってわからないもの
だ。人の心はそれほど単純じゃない。なのにそんな不確実なことを眠りから覚
める条件にすると言い切ること自体、おまえが俺たちを騙そうとしている証拠
だ」
「……潜魂術か」
 つぶやいた六太をはっとして見やる。六太の顔は真っ青で今にも倒れそうだ
ったが、それでもしっかりと立っていた。
「そういう呪があることは知っている。他人の精神に忍びこみ心の内を探る、
危険で高度な術だ。なぜなら肉体であれ精神であれ、他人に干渉する術はすべ
て、相手の抵抗に由来する反動が生じるからな。だが潜魂術の場合、まず相手
が術を受け入れなければならないはずだ」
「そう。だからおまえはわたしを受け入れなければならない。受け入れて、心
の内をすべてさらけ出さねばならない」
「だまれ!」
 鳴賢はわめいた。なぜ自分は六太の求めに応じ、こんな女の家に案内してし
まったのだろう。これで麒麟にもしものことがあれば、悔やんでも悔やみきれ
ない。
「台輔、これも何かの罠です。謀反をたくらむようなやつが、自分の目的を正
直に言うはずがない。きっと嘘をついて――そう、何か、台輔しか知らない重
大な機密を握ろうとしている。それが目的だから、主上を眠らせて台輔をここ
へおびきよせたんだ!」

232永遠の行方「呪(141)」:2009/09/18(金) 20:29:15
「俺しか知らない国家機密などないよ……」六太は力なく笑った。「仮にそん
な機密があったとして、余命いくばくもない女が知ってどうする? どうにも
ならない」
「しかし、台輔」
「王朝を滅ぼすことが目的なら、このまま事態を放置すればいい。たとえ王の
命に別状がなくても、王が玉座にいなければ遅かれ早かれ国は傾くのだから。
それをせずに身代わりになれというのなら、この女の狙いは確かに俺なんだろ
う」
 まんまと相手の話に乗せられかけている六太の様子に、鳴賢は何とかせねば
と必死に考えた。なぜここまで素直に相手の言葉を聞いてしまうのだろうと、
憤りさえ覚える。
 もともと六太は相手を疑ったりしないほうだし、彼が麒麟であることを知っ
た今、それも慈悲の生き物の性分と考えれば納得はできる。しかしそれと謀反
人の言い分に耳を傾けることは話が別だ。
「すべてはおまえ次第。見てのとおり、わたしの余命は短いわ。光州の呪環を
完成させるまで永らえるつもりだったけれど、もしかしたら数日も保たないか
もしれない。このまま黙って立ち去るか、別の運命を選ぶか、早く決めなさい。
わたしはどちらでもかまわない。どんな形であれ、おまえと王が苦しみさえす
ればいいのだから」
 涼しい顔で言ってのけた暁紅を、六太は凝視した。
「俺と王を苦しめるために……?」
 沈黙。
「俺たちを――俺と王を恨んでいるのか?」
 投げられた問いには答えないまま、やがて暁紅はこう言った。
「でもわたしにも慈悲はあるから、おまえの苦しみを最小限にしてあげる。呪
の眠りは夢をもたらさない。おまえは何も感じず、何も考えず、ただ呼吸をし
ているだけの木偶(でく)になる。暗黒に呑まれ、時の流れから切り離されて
昏々と眠り続ける。悦びもない代わりに、悲しみも苦しみもない」
「狂ってる……」
 つぶやく鳴賢の傍ら、しばし考えこんだ六太は静かに問うた。

233永遠の行方「呪(142)」:2009/09/18(金) 21:03:38
「麒麟の生命は王の生命とつながっている。その呪が俺の生命を脅かさないと
約束できるか? 俺が昏睡に陥ると同時に王は目覚め、王の生命にも健康にも
害は及ばないと保証できるか?」
「そのように計らったと言ったでしょう。信じられないのなら、何よりも我が
身が可愛いのなら、黙ってここを立ち去ることね」
「俺には多くの使令がいる。そいつらはどうなる? 同じように意識を封じら
れるのか、それとも自由に動けるのか。ほとんどはこの場で俺の影に陰伏して
いるが、身辺から離れている者もいる」
「影の中の使令はおまえとともに封じられる。他はどうなるか試してみる? 
完全に意識を封じられ、息をしているだけの木偶と化した麒麟の使令が暴走し
ないかどうか」
 わずかな躊躇のあと、六太はうなずいて「わかった」と答えた。
「離れている使令もすべて呼び戻す。俺はおまえを拒まない。潜魂術でも何で
も使うがいい」
「台輔!」
 今度こそ悲鳴を上げた鳴賢に、六太はなだめるように言った。
「さっきも言ったとおり、人の身体や精神に干渉する術は呪者に相当な負担を
かける。何よりも人の心の中は、常に変化する迷路のようなものと聞く。だか
ら潜魂術は、術者を迷路で迷わせないために、受け手が術を受け入れる必要が
あるのだと。ならば目的の情報以外はほとんど読みとれないだろうし、俺の最
も望まぬことが何かくらい、すぐにでも死ぬ女に知られても大した問題じゃな
い。むしろ余力のある今のうちにやってもらわないと王が助からない」
「でも――でも――!」
「鳴賢……」
「夢も見ない眠りなんて――死と同じじゃないか!」
 ついに鳴賢は泣き声を上げた。顔も知らず姿を見たことさえない王は、むろ
ん尊崇の対象ではあるものの、彼にとって記号と同じだ。だが六太は違う。何
年も何年も、友人として過ごしてきた。ともに騒いで楽しい時間を共有し、さ
さいな喧嘩をし、悩みを語り合い――。
 しかもその大事な友人の危難に、自分は何の役にも立たないのだ。

234永遠の行方「呪(143)」:2009/09/19(土) 19:49:36
「いつかは目覚めるだなんて、本当にそのいつかはやってくるのか? 考えた
くはないだろうけど、もし主上が謀反や事故で逝去なさってしまったら! 眠
り続ける六太は次の王を選べない。主上がおられなくなり、眠る麒麟だけが残
されたら……」
 続く言葉はさすがに口に出せなかった。仮朝を預かる官吏たちは、悩みつつ
も国家のために非情な決断をくだすだろう。次の麒麟を得るために。
「だとしても、だ。今ここで王が助かるのなら、俺はそれでかまわない」
 六太はそう言って笑ってみせた。鳴賢は絶望と混乱に囚われたまま、もう何
も言うことができなかった。
 ほんの数刻前まで変哲のない日常の中にいたというのに、この違いはどうだ。
想像だにしなかった事件に突然投げ込まれ、力も知識もないまま、ただ成り行
きを見届けることしかできない。
 何か見落としがないだろうか。暁紅の言に、明らかな矛盾、罠の匂いはない
だろうか。
 ――あるに決まっている。自分が気づかないだけで。
 鳴賢は思ったものの、何をどうすべきなのか彼にはわからないのだ。限られ
た時間の中、それもこの場においてどうすれば最上の決断になるのかなど、一
介の大学生に判断できるはずもなかった。
「で。俺はどうすればいいんだ?」
 尋ねられ、暁紅は目の前の床を無造作に示した。
「そこに横たわり、目を閉じなさい」
「台輔に無礼だろう!」
 鳴賢は憤慨して叫んだが、六太は素直に床にあおむけになって目を閉じた。
暁紅は阿紫に支えられながら傍らに座り込み、黒紗の中からただれた片手を伸
ばすと、掌を六太の胸に置いた。その有様を間近で見守ることしかできない鳴
賢は、せめて何か重大なことを見落とすことがないようにと、懸命に目を凝ら
した。
 だが暁紅が一言二言何かつぶやいただけで、特別なことは何も起きなかった。
誰ひとり身じろぎする者のないまま、時間だけがひっそりと過ぎていった。
 そして。

235永遠の行方「呪(144)」:2009/09/19(土) 20:00:11
 さだかではないものの四半刻も経ったかに思われた頃、不意に暁紅がくずお
れた。伸ばしていた腕をだらりと垂らし、六太の傍らで完全に力を失って倒れ
こむ。ずっと彼女を介助していた阿紫が顔色を変え、それでも声は出さずに女
主人の体に手を添えた。
 鳴賢は息を殺して、その様子をじっと見ていた。床に倒れこんだまま微動だ
にしない暁紅に、もしかして死んだのかもしれないと考える。
 負担をかける術だと六太は言った。その術が、予想外に暁紅の体力を奪った
のではないか。だとしたら王を救うことはできないかもしれないが、六太は助
かる。
 そうは思ったものの、六太も目を閉じたまま動かないことに気づいてぞっと
する。
 人の心は迷路に似ていると六太は言わなかったか。もしや暁紅はその迷路の
中で迷ったのではないだろうか。そしてその干渉が、六太にも悪影響を及ぼし
たのではないだろうか……。
 だが、やがて暁紅がわずかに身じろいだ。同時に六太もかすかにうめいてぼ
んやりと目を開き、鳴賢を複雑な思いにさせた。
 見守る中、いったい何を思ったのか暁紅がくすくすと笑いだす。それはすぐ
に明らかな嘲弄となり、彼女はおかしくてたまらないとでも言うように、大声
を上げてけたたましく笑いはじめた。鳴賢は呆気にとられた。
「これが――これが麒麟……。なんてあさましい――!」
 堰を切ったように笑い続ける暁紅の傍ら、六太が悄然とした面持ちでゆっく
り体を起こした。暁紅は黒紗の奥に満面の笑みをたたえたままこう告げた。
「気が変わったわ。最も望まないことではなく、おまえの最も望むことがかな
ったとき眠りから覚めるようにしてあげよう。おまえの最大の願望の成就が、
昏睡の呪縛を解くようにしてあげよう」
 彼女の意図を理解できず、鳴賢は目をしばたたいた。これも何かの罠か。と
はいえ望まぬことではなく、望みがかなったときに呪が解けるというのなら少
しはましかもしれないとは考える。同時にどこか引っかかるものを覚えて妙に
気が急いたが、それが何かはわからなかった。
「――鬱蒼とした山林。草を踏みしだいて去っていく足音。二度と振り返らな
い背中。衣笠山」

236永遠の行方「呪(145)」:2009/09/19(土) 20:11:11
 上体を起こしたまま、頭痛でもするのか額を押さえていた六太が、はじかれ
たように顔を上げた。驚愕の面持ちで暁紅に目を向ける。
「待っているなんて嘘。死を受け入れたなんて嘘。おまえは父親が振り返って
駆け戻ってくるのを望んでいた。すまなかったと言って、ふたたび手を引いて
ともに帰ることを望んでいた。民意の具現? 慈悲の塊? とんでもない!」
 くっくっと笑った暁紅は阿紫に助けられ、よろめきながらも元の榻に戻った。
声の力強さとは対照的に弱々しい足取りだったが、それでも彼女は黒紗の奥で
目をきらきらと輝かせて六太を見た。
「この王朝が安寧のままに続くこと、それはおまえの第三の願いにすぎない。
そして王を選ぶ役目を負いながら、それこそがおまえの存在意義の最たるもの
でありながら、王が死ぬときはともに逝くことを願っている。王朝の安寧を願
うより王と麒麟を失った国を案ずるより、責任を投げ捨てることを望んでいる。
それが第二の願い」
「それがどうした」
 うつむいてしまった六太を尻目に、鳴賢は腹立たしい思いで吐き捨てるよう
に言った。暁紅が放った言葉の意味はよく理解できなかったものの、六太を貶
めようとしていることだけはわかったからだ。
「雁の民すべてにとって主上は大切なおかただ。おまけにこれだけ長く仕えて
きたなら、そのおかたに殉じたいと思っても何の不思議もない。民だろうと官
だろうとそれは同じだ」
 延王は五百年もの間この国に君臨している、神のごとき賢帝だ。想像力がな
いことを自覚している鳴賢でさえ、王の近臣らが主君に対していだいているだ
ろう尊崇と思慕の念くらい容易に想像できる。長く仕えていればいるだけ、最
期をともにしたいと考えるだろうことも。
 むろん実際には悲しみに暮れながらもやがて立ち直り、自分の人生をまっと
うしていくものだ。親を失った子供、伴侶を失った妻や夫が、涙のあとで新た
な生き方を模索するように。
 だが暁紅は彼を無視し、暗い顔でうつむいたままの六太を責めるように、さ
らに言葉を投げつけた。「あさましい」と。
「自国の麒麟の最大の望みが、王の長寿でも国の安寧でもないなんて誰も思わ
ないでしょうね。でもおまえはそれを知っている。どれほど自分が愚かしくて
あさましいか、聖なる神獣、慈悲の具現と言われながら、その実どれほど自分
が可愛いか。おまえの願ってやまないことが何かを知ったなら、民はどれだけ
失望するかしら。どれほど愚かしい望みを抱いているか知ったなら」

237永遠の行方「呪(146)」:2009/09/19(土) 20:33:00
 無礼な物言いに憤りを高める鳴賢とは逆に、六太は唇をかみ、沈黙を守った
まま一言も発しなかった。それをいいことに暁紅は次々とあざけりの言葉を投
げつけた。
「胎果というのはあわれなものね。蓬莱でのおまえはただの足手まといだった。
親にとっては遺棄するしかない邪魔な子供だった。でもそれがおまえの真の姿。
この世界で大切にされ、かしずかれているのは、ただ天帝から王を選ぶ役目を
負ったという一点のためだけ。おまえ個人が何を思おうと、そんなことは何の
価値もありはない」
「六太は六太だ」
 鳴賢はとっさに反駁しようとしたが、投げつけられた内容への理解が足りな
いのとあまりにも憤りが大きすぎるのとで、それ以上は言葉にならなかった。
 それでも蓬莱との連想から、六太が異世界で親に捨てられたと言っていたこ
とを思い出す。麒麟と言えど、蓬莱では普通の人間として生まれたということ
だろうか。金の髪を目の当たりにしながら、誰も彼が麒麟だと気づかなかった
のだろうか。鳴賢にはそれは不思議なことに思えたが、本来なら大勢の侍者に
かしずかれ、敬われつつ大切に大切に育てられるはずだったろうにと思うと、
偶然卵果が流されたばかりに辛酸をなめた六太が気の毒でならなかった。
 だが六太自身は何も言わず、責められるがままに甘んじていた。まるでなじ
られるのが当然だと思っているかのように。
 ひとしきり暁紅が責め、やがて気が済んだのか笑みを含んだ顔で口を閉じる
と、六太はようやく顔を上げた。しかしながら鳴賢の想像とは裏腹に、彼の表
情からは既に翳りは失せており、憤りも焦りも窺えないどころかむしろ穏やか
な様子だった。
 彼は相手に慈愛のまなざしとしか思えないものを向けて言った。
「まだよくわからないが、俺がおまえを傷つけたことがあるなら申し訳なく思
う。俺はこんなふうだからいつも考えが足りず、意図せずに誰かを傷つけてし
まうことがままある。何しろ王に対してさえもそうだからな。だからそれでお
まえの気が済むのなら呪でも何でもかけてくれ。ただ、あとで自分が後悔する
ようなことだけはしないでほしい。なぜならそれで苦しむのは俺ではなく、お
まえ自身だから」

238永遠の行方「呪(147)」:2009/09/20(日) 19:50:34
 鳴賢は呆気にとられた。それは暁紅も同じだったらしく、彼女は見るからに
唖然とした顔になった。
「紙と筆をくれないか」彼らの反応に大して注意を払わず、六太は頼んだ。
「俺が昏睡に陥ると同時に王が目覚めるなら、国政に関する心配はいらないだ
ろうが、官に伝言を残しておきたい。これでも一応宰相なんでな。その伝言を
鳴賢に託したいんだが、彼には手を出さないでくれるな?」
「六太!」
 本当に謀反人に言われるがままに呪にかけられるつもりなのか。鳴賢は今さ
らながらにぞっとなった。一方暁紅は、狼狽を取り繕おうというのか「勝手に
なさい」とそっけなく答えた。彼女に軽くうなずいた六太を見て、何とかしな
ければと必死に考える。何とか――。
「頼む、六太とふたりきりで話をさせてくれ」
 先ほど覚えた引っかかりの正体を悟った鳴賢はあわてて暁紅に頭を下げた。
 六太から、彼が最も望んでいることを聞き出す。どうやら彼はそれをはっき
り自覚しているようだし、それなら自分は聞いたままを国府に伝えるだけでい
い。本当に呪の解除条件がそれなら六太を助けることができる――そう考えた
のだ。
 小馬鹿にしたような視線を暁紅に向けられ、鳴賢は焦った。何しろ先ほどま
でなじっていた相手だ。もう少し手加減すれば良かったと後悔しながら、彼は
懸命に言い募った。
「六太には友達も多いのは知っているだろう。そいつらに向けた伝言も聞いて
おきたい。本当にこれが六太と言葉を交わせる最後なら、せめてそれくらい許
してくれ。何も知らなかったとはいえ、俺がここに六太を連れてきたんだ。そ
の後悔のまま一生を過ごすなんて耐えられない。麒麟が王の身代わりになるこ
とが避けられないなら、せめて最後に少しでも役に立ったと思えることをさせ
てくれ」
 すると暁紅は思いの外あっさりと「好きなようにすればいい」と答えた。こ
れで謀反人の裏をかけると確信した鳴賢は心の底から安堵したが、それを相手
に気取られないよう気を引き締めた。
 暁紅は阿紫に命じて紙と筆を取りに行かせ、戻ってきた阿紫は大卓にそれを
置いた。うなずいた六太を意味深な微笑とともに一瞥した暁紅は、阿紫の介添
えにすがって房室を出ていこうとした。

239永遠の行方「呪(148)」:2009/09/20(日) 19:54:29
「言伝は短い。すぐに書き終わる。出ていく必要はない」
 鳴賢の腹の内を知らない六太が彼女を引き留めた。鳴賢の希望を打ち砕く言
葉だったが、とうに覚悟を決めた彼が万が一を考えて言ってるのはわかった。
どう見ても暁紅が重病人なのは確か。席を外している間に彼女の息が絶えるこ
とを恐れているのだ。少なくとも時間が経てば経つほど、不測の事態が起きて
王を助けられなくなる可能性はあるのだから。
 鳴賢としては望むところだが、主君を限りなく尊敬し慕っているに違いない
六太にしてみれば確かにそれを懸念しても無理はない。
「俺も六太と最後に話したいんだ」
 敵が間近にいるとあって、目配せなどでほのめかすこともできない。鳴賢は
必死の思いで訴え、自分の意図が通じるよう念じた。さらに暁紅に向き直り、
再度頭を下げる。
「おまえは永遠の眠りではないと言うが、現実にはこれが台輔と言葉を交わせ
る最後の機会かもしれない。ならば台輔の言葉を他の者に伝えるのも、この場
に居合わせた俺の務めだ。余人を交えずに話したい。そんなに長くはかからな
い」
 幾度も幾度も必死に頭を下げる鳴賢を、何の感慨も窺えない顔で眺めやった
暁紅は、沈黙を守ったままあっさり扉の向こうに姿を消した。扉が静かに閉ま
ると、吐き気をもよおす甘い匂いが少し薄らいだ。
 扉に耳を当てて向こう側の様子を窺い、本当に大丈夫だと見極めてから六太
に向き直る。それから「すまない」と言って六太にも頭を下げた。
「台輔の――いや、六太の気持ちはわかる。でもあいつらのいないところで話
をする必要があったんだ」
 意味が分からないような顔をした六太に説明する。
「六太があいつの言葉を信じるなら、俺はもう何も言わない。俺なんかに口を
出せることじゃないから。でもあの女が確かに真実を語っているとしたら、主
上も六太も助かる方法がある」
「……どうやって」

240永遠の行方「呪(149)」:2009/09/20(日) 20:03:23
「あいつが言っていたことを教えてくれ。六太の最も望んでいることは何か、
こっそり俺に教えてくれ。そうすれば俺は国府に駆け込み、役人にそれを伝え
る。六太の望まないことが、王朝の滅亡だの民の困窮だのといった悲惨な事態
だろうことは想像がつく。でも最も願っていることなら。それならきっと誰も
傷つかないんだろう? むしろ良いことなんだろう? 多少の困難はあったと
しても、時間はかかったとしても、目指すべき結果がわかっていれば何とかな
る。そうすればいったんは呪にかけられたとしても、遠くない時期に確実に解
くことができる」
 だが六太は疲れたように笑っただけだった。怪訝な顔をした鳴賢の前で、彼
はいったん床に視線を落とし、何やら考えこんでから顔を上げた。その面を彩
るのは穏やかで淋しげな微笑だった。
「俺は俺の望みを知っている。あの女に言われたとおり、あさましい願い事だ。
そしてそれは絶対に成就しえないことだ」
「そんなの聞いてみなきゃわからないじゃないか」
 六太は深く溜息をついた。
「暁紅がなぜおまえの願いを聞き入れて俺とふたりきりにしたと思う? 俺が
絶対にそれを口にしないと知っているからだ。俺の最大の願い事が絶対に成就
しえないことをわかっているからだ。だから俺を苦しめるために、呪の解除条
件にすると言ったんだよ」
 鳴賢は言葉に詰まった。
「まさか、そんな」
「潜魂術をかけられたとき、俺にもあの女の思考が少し読みとれた。というよ
り勝手に流れ込んできた。あの術は両刃の剣だな。いずれにしろ、理由はとも
かく確かに暁紅は俺と王を恨んでいる。王が昏睡から覚めないことで俺が苦し
んでいることを喜んでいるし、逆に俺が昏睡に陥ったなら、実質的に麒麟を失
う前代未聞の事態に王が苦しむだろうと想像して喜んでいる。王を弑逆しなか
ったのは、おそらく昏睡の呪にかけるほうが簡単だったからだろう。単に成功
する可能性が高いほうを選び、実際に成功した。そしてどうやら肉体的により、
精神的に苦しめるほうを望んでいるらしい。
 もっとも俺が眠りに囚われても、実際には王はさほど苦悩しないと思う。麒
麟が生きてさえいれば王の生命に別状はないし、そもそも単に長く生きている
というだけで、実のところ俺は大して国政の役に立ってはいないんだ。だから
これからおまえに託す言伝さえ伝われば、この国は何の波乱もなく平和に続い
ていくはずだ」

241永遠の行方「呪(150)」:2009/09/20(日) 20:14:28
 声もない鳴賢に、六太は笑った。
「考えてもみろよ。俺はもう五百年も生きてきたんだぜ? 只人の何倍も生き
たんだから、たとえ今日命が終わったって恨む筋合いはないだろ。それに実際
には昏睡に陥るだけで死ぬわけじゃない。少なくとも暁紅が本当にそう考えて
いることはわかった。俺としては確証を得られてかなりほっとしたし、正直、
王が助かるならこういう目に遭うのもありかな、と思った」
 あまりにも淡泊な物言いに鳴賢は愕然とした。飛仙ゆえの厭世観と六太は言
ったが、もしや生きることに飽いているのは彼自身だったのだろうか。暁紅に
投げた問いは六太の本心でもあったのだろうか。麒麟の生命が王とつながって
いなければ、彼は死そのものさえも簡単に受け入れたのだろうか。
 だが六太はさらにこうも言った。
「蓬莱のある世界では、好機の女神には前髪しかないという言い方がある。出
会ったときすぐつかまないと女神は素通りしてしまい、好機をつかむことは二
度とかなわないんだとさ。ならば俺にとってこれこそが好機だ。たとえそうで
はないとしても、逡巡している余裕はない。機会を逃し、あとになって最初で
最後の好機だったことに気づいて生涯後悔するより、俺はこの機会を選ぶ」
 彼にとって、王は自分の命より大事な存在なのだろう。決して生に飽いてい
るのではないのだ。ただ王を救うためなら自分がどうなろうとかまわないのだ。
 黙り込んでしまった鳴賢を前に、六太は大卓の前の椅子に座ると筆を取った。
墨に穂先を浸し、いつもの達筆で紙の上にさらさらと文字を連ねる。傍らで見
るともなく見ていた鳴賢は、簡潔で残酷な文言がしたためられるのを目の当た
りにした。
 まず前提として、呪者との取引により王の身代わりになることを決断したと
いう事実、それを縁あって知り合った赤烏という青年に託すが、彼には何の落
ち度もないことが説明された。そして官への指示が淡々と記される。
 もし王が道を失った場合、国を荒らさないために早い段階で自分を殺すこと。
そして王が崩御した場合も、昏睡状態では新たな王を選べないので、次の麒麟
を得るために自分を殺すこと。
 ――それだけ。
 やはり六太は死を覚悟しているのだ。書面が言伝という名の遺言であること
をまざまざと感じた鳴賢は、彼の決意の度合いにもう何も言えなかった。

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次の投下までしばらく間が開きます(今回はそんなに長く開かないと思いますが)。

242名無しさん:2009/09/22(火) 02:16:51
ぅぉぉぉぉぉ…!!
ついにキターーーーー!
切ない
テカりながら待ってます

243永遠の行方「呪(151)」:2009/09/24(木) 20:13:02
例の新作が発表になるとしばらく世界にひたってしまうかもしれないので(前回そうだった)
とりあえず4レスぶんだけ投下して行きます。その後はたぶん間が開きます……。
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 署名をし、別の紙を上から押しつけて墨を吸い取らせた六太は、伝言を折り
畳んで鳴賢に差し出した。
「俺が呪にかけられたら、これを国府に届けてくれ。押印がなくとも、筆跡か
ら俺の直筆だとわかるはずだ」
 震える手で紙を受け取る。そのとたん鳴賢は足下から震えが立ち上ってきて
床に座り込んでしまった。困ったような顔をした六太を見て、自然と涙が溢れ
てくる。
「六太……」
「気にするな。おまえのせいじゃない」
 穏やかな笑みを向ける相手に、鳴賢は泣きながら「ごめん……ごめん……」
と繰り返した。何と慰めを言われても、ここに彼を連れてきたのは自分なのだ。
 六太はそんな彼を黙って見つめていたが、やがてこんなことを語りだした。
「知ってのとおり俺は胎果だ。五百年前、卵果が蓬莱に流されて向こうで生ま
れた」
 優しいまなざしに、鳴賢は嗚咽しながらも何とかうなずいた。
「蓬莱はこことは違う理のもとに成り立っている世界で、天帝もいなければ麒
麟もいない。そもそもこちらの世界のことはまったく知られていないんだ。だ
から家族はもちろんのこと、俺自身でさえ自分を人間だと思っていた。おまけ
に貧しい家でさ、毎日食っていくのがやっと。なのに当時は戦乱の世で、蓬莱
中がきな臭かった。住んでいた都も敵の焼き討ちにあって燃え、俺の家族も焼
け出されて浮民同様の生活を強いられた。そのとき俺はまだ四つ。自分の食い
扶持さえ稼げない末っ子の俺は厄介者でしかなく、両親は生き延びるために俺
を山に捨てた。もう顔も名前も忘れてしまったけれど、俺の手を引いて山に連
れていった父が、振り返りつつ去っていった後ろ姿をまだ覚えている。俺はす
べてわかっていて、そうせざるを得なかった家族の事情を酌み、その場にとど
まった。そして、何せ飢えかけている四つの子供だから、三日も過ぎるころに
は身動きすらできなくなった。だが幸いにも俺の女怪、これは麒麟と生死をと
もにする乳母代わりの生き物だが、その女怪がようやく俺の居場所を捜し当て
て蓬山に連れ帰ったんだ」

244永遠の行方「呪(152)」:2009/09/24(木) 20:15:42
 淡々と語られる数奇な身の上。過去の六太のさまざまな言動を思い起こし、
すべてはこの生い立ちに立脚したものであったのかと、鳴賢はやっとすべてに
得心がいく思いだった。
「衰弱しきってほとんど意識がなかったこともあり、当時のことはよく覚えて
いない。そもそも麒麟は、こっちでは五歳くらいまで獣型で、人としての意識
はないんだ。そのため五歳を過ぎて人型を取り戻した俺は、やっと周囲の女仙
と言葉を交わせるようになり、蓬莱でのことも思い出した。そのとき言われた
んだ、俺は麒麟で王を選ぶ役目を負って生まれてきた神獣だって。蓬莱では俺
の家族を含め、戦に明け暮れる為政者に民がさんざん苦しめられたのに、今度
は俺が、民を虐げる為政者を選ばなければいけないんだって。それを聞いて心
底ぞっとした。おまけに王になりたくて昇山してきた連中はろくでもないやつ
ばかりで、彼らとの対面に俺は辟易した」
 王の選定を嫌がる麒麟。さすがに六太はすまなさそうに複雑な微笑を向けた。
「とはいえそのためだけに生まれてきたというなら、王を選ばなければ俺の存
在意義はない。それで十歳のとき、女仙を拝み倒してこっそり雁に連れていっ
てもらったんだ。『生国』を見れば、役目を果たす気になるかと思って。
 でもその時代の雁は、蓬莱よりずっとむごい有様だった。失道した前王はた
ったの三年で雁を焦土に変え、さらに次の麒麟は新たな王を見つけられないま
ま寿命を迎えてしまった。天の加護を得られずに数十年を経た国土は荒れ果て、
妖魔でさえ飢え死にするほどの荒廃だった。見渡す限り一片の緑もなく、黒々
とした荒野が広がる惨状に俺は震えた。蓬莱での記憶が蘇り、俺の選ぶ王がこ
の国に、民に、とどめを刺すだろうことを予感し、俺は役目を放って逃げ出し
た。逃げて ――蓬莱に帰った」
 雁の民が知っているのは、麒麟が蓬莱で王を見つけたという事実だけ。当然
ながら、王を探すための蓬莱行だったと、誰もが思いこんでいる。
 それを知っているからだろう、六太はいったん言葉を切り、泣き濡れた顔で
座りこんでいる鳴賢に「夢を壊してごめんな」と謝った。
「そ、んな。謝らないで――くれ――」
 鳴賢は声を震わせながら、何とかそれだけ言った。

245永遠の行方「呪(153)」:2009/09/24(木) 20:17:52
 彼自身はむろん折山の荒廃を知らない。単に書で読み、知識として知ってい
るだけだ。しかし実際にそれを目にした相手、それも親しい友人から生々しく
語られると、六太のような生い立ちの幼い麒麟が酷い光景に衝撃を受け、動揺
のあまりそんな行動を取ってしまったのも仕方がないように思えた。むろん普
通の麒麟なら、だからこそ「早く王を選んで国土を安んじなければ」と考える
のだろうが、そもそも麒麟が只人と同じように悩み苦しむなど、鳴賢は想像す
らしたことはなかった。王とて元は人だ。だが麒麟は蓬山で生まれ育つ特別な
神人なのだから、無意識のうちに浮き世を超越している存在だと思いこんでい
た。
 いずれにしろ十歳といえば、彼自身は小学に通っていた頃。国の命運を左右
するほどの重荷を負わせられた者の悩みなど、冗談でも「わかる」などと言え
るはずもなく、ましてや責められるはずもなかった。
「でもそれも結局は、王を選ばずにはいられない麒麟の本能に影響されていた
んだ。なぜなら俺は、蓬莱で放浪した末に王と出会ってしまったから。広い広
い蓬莱で三年もの間、後から思えば最初から王のいる場所を目指していたかの
ように旅をしていた。そして相手を見た瞬間に、俺にはそいつが王だとわかっ
た。瀕死の雁の息の根を止める王だと」
「六太……」
「今ならわかる。俺は単に蓬莱で過ごした幼い頃のつらい記憶から、王という
ものが国を滅ぼす存在としか思えず、見いだした王を希望ではなく絶望と感じ
ただけだと。だが結局は俺は彼を連れ帰った。連れ帰って王にした。それから
五百年。見てのとおり、俺が雁を滅ぼすと直感した王のもとで国は繁栄してい
る。危うい局面もなかったわけじゃないが、王はそれを乗り切った」
 話の向かう先の見えぬなりに鳴賢がおずおずとうなずくと、六太は力強くう
なずき返した。そして言った。「ならば最も良いのは、このまま彼に国を任せ
ることだ」と。
 鳴賢は背筋がぞくりとした。思わず口を開いたものの、言葉は出てこなかっ
た。この結論を説明するための告白であったのかと、めまいさえ覚える。王の
選定を嫌がり、王に懐疑的だった麒麟がたどりついた結論。

246永遠の行方「呪(154)」:2009/09/24(木) 20:19:58
「歴史上、短命の王朝は多い。天帝は最も王にふさわしい者に天啓を下すとい
うが、鳴賢も知っているように、実際にはなかなかうまくいかないものだ。今
ここで王を見捨て、俺が次の王を選んだとする。その結果、国が荒れる可能性
は、残念ながら決して低くはないどころかむしろ高い。とすれば現実に事がう
まく運んでいる以上、最善の選択はこのまま王に任せることだ。俺自身が王を
見捨てる気になれないというのもあるが、民のためにも、王と俺とどちらが犠
牲になるべきかと考えれば俺のほうなんだ。
 むろんいずれ王は失道するだろう。もしくは禅譲するだろう。人間というも
のは永遠の重荷を負えるようには作られていないからな。そして史書をひもと
いて歴史の例に学ぶまでもなく、禅譲よりも事故死よりも、失道する可能性の
ほうがはるかに高い。したがって最初の俺の『雁を滅ぼす王だ』との予感は、
十中八九、現実のものとなり、国土はふたたび荒れるだろう。だがそれでも俺
はもう、王を選ぶのを嫌がり、王を信じなかった昔の俺じゃない。
 たとえ王が明日失道したとしても、五百年もの長きに渡って国を支えてきた
功績は確かに存在する。そして王と言えどひとりでは何もできない以上、終わ
らない生の重圧に耐えかねて道を誤ったとしても、それは王だけの責任じゃな
い。ともに国を支えてきた官や民、すべての者が等しく負うべき咎なんだ。全
責任を他者である王ひとりに負わせ、自らの所業を顧みないほど傲慢なことは
ないのだから。
 昔の俺は、王という存在そのものを信用できなかった。だが王はもはや他の
何者にもなれないが、民は官にも王にもなれる。官も民にも王にもなれる。そ
して人は立場が変わると、容易にそれまでの信条を翻したり、過去の自分と同
じ立場の者を虐げたりする。王だから信用できないのじゃない、人の心がうつ
ろいやすいだけだ。王であること、民であること、それ自体で何かを許された
り責められたりするのじゃない。長くかかったが、俺はやっとそう思えるよう
になった」
 これは六太の遺言だ。鳴賢はようやく気づいた。先ほど受け取った言伝はあ
くまで官への指示。だが六太は、最期の言葉を書面ではなく言葉にして鳴賢に
伝えるつもりなのだ。

247永遠の行方「呪(155)」:2009/10/10(土) 12:56:26
 いったん止まった涙がふたたび溢れてくる。
 自分は彼の意志を尊重し、一言一句聞き漏らさず、誠実に国府に伝えるべき
なのだろう。六太自身が倩霞こと暁紅の新居を知っていたらひとりで訪問した
ろうし、そうなればこんな機会を与えられる者もいなかったはず。だからこれ
はむしろ僥倖なのだ……。
 理性でそうは考えたものの、感情は追いつかなかった。つらいのは身代わり
になる六太のほうなのだから、たまたま居合わせた傍観者に過ぎない自分は、
もっとしゃんとしているべきなのに。
 泣き続ける鳴賢に、六太は優しく語りかけた。
「なあ、鳴賢。人は誰しもいつかは死ぬ、それが理だ。しかし死が確実に訪れ
るからと言って、よしみを結ばないとか愛さないと考えるのは本末転倒だよな。
人生の結末だけを見て、その人が生きてきた軌跡をまったく顧みないというこ
とだから。ならば王朝も同じだ。王はいずれ斃れ、王朝はいつか滅びる。だか
らと言って昔の俺のように、はなから王を信じないなんて愚かなことだし、人
というものがいずれ必ず死ぬから知り合わない愛さないと主張するのと同じく
らい馬鹿げた考えだ。永遠に続くものしか信じないという無い物ねだりは、不
遜だし悲しいことじゃないだろうか。だから俺は王を信じるし、五百年もの間、
雁のために粉骨砕身してきた王にこのまま国を委ねたいと思う」
 鳴賢は顔を上げ、泣きながらも「うん……うん……」とうなずいた。そんな
彼を六太はしばらく黙って見つめていた。
「こんなことを言っても無理かもしれないが、あまり気に病まないでくれ」や
がて六太はそう言った。「なぜなら麒麟にはもともと何もない。生命すら自分
のものではなく、王を敬愛するのも天帝に仕組まれた本能でしかないんだ。本
当は自分の意志だってない。言ったろ、王を選ぶのが嫌で逃げ出したはずなの
に、実際は王のいる場所に引き寄せられていただけだったって。麒麟は所詮、
天意を受けるための器、天の傀儡でしかない。さっき暁紅はただ生きているだ
けの木偶になると言ったが、もともと天の木偶なんだから、おまえは本当に何
も気にしなくていいんだ」
 鳴賢は途端に激しい感情が沸き起こるのを感じた。それは憤りに似ていたが、
とてもやるせなく切ない感情でもあった。
 彼自身も今まで、他の民と同じく延麒について一方的な幻想のみをいだいて
いた。慈悲深く気高く、雲の彼方に住まう至高の神人だと。それは王について
民が考えるのと同じく、尊崇という言葉を理由に個性はまったく問題にしない
ものだった。麒麟の存在意義は民に慈悲を施すこと。何を思い悩もうと、いや、
麒麟が民への慈悲以外に思い悩む可能性があることさえ考えが及ぶことはなか
った。

248永遠の行方「呪(156)」:2009/10/10(土) 12:58:49
 だがそれは単に当人を直接知らなかったからにすぎない。今、延麒が六太だ
と知った。六太は六太だ、誰とも違う。
「六太は六太だ」
 感情に突き動かされるまま、やっとのことでそれだけ言った。先ほど暁紅に
言ったのと同じ言葉を。六太はまた少し笑ってみせたが、それはとても淋しそ
うに見えた。
 鳴賢は悟った。自分の意志というものがあるか否か。人として、自我を持つ
者として根元的なそんな事柄さえ、六太はずっと確信を持てずにきたのか。天
意を伝える者として敬われながら、本当は自分というものは存在しないのでは
ないかと長い間心の底で怯えていたのか。
「ありがとな。でも――もう、いいんだ」
 淋しそうな笑顔に、鳴賢はとっさに「あきらめないでくれ」と言いかけた。
しかし結局口には出せなかった。こんな状況で無責任な気休めを言えるはずが
ない。だがせめて――せめて。希望とは言わないまでも、何か六太の心にささ
やかな灯火がともるようなことを。
 先ほど渡された言伝を握りしめる。
「これは俺がちゃんと国府に届ける」
 きっぱり言い切ると、六太は微笑とともにうなずいた。
「ただ、これは宰輔として公に準ずる文書のつもりなんだろう? 何しろ官宛
の指示だ。それなら書けること書けないこと、いろいろ制約があるんだろうと
の想像はつく。でもせめて主上には私的な言伝を残してもいいんじゃないか?
一介の民に過ぎない俺がこんなことを言うのは差し出がましいが、主上だって
五百年もそばにいてくれた六太がこんな目に遭って、最後に一言でも自分に向
けた言葉を残してくれなかったらお悲しみになると思う。そもそも六太は主上
の身代わりになるんじゃないか。むろんさっき話してくれたことは細大漏らさ
ず国府に伝える。俺ごときに主上への拝謁がかなうはずもないが、これほど重
大なことだ、内容は官吏がすべて奏上してくれるだろう。でも直筆での言伝が
あるのとないのとでは、主上のお気持ちも違うと思うんだ」
 せめて尊崇する王にくらいは、正直な心中を吐露してくれれば。吐き出すも
のを吐ければ六太も少しは気が安まるのではないだろうか……。

249永遠の行方「呪(157)」:2009/10/10(土) 13:01:29
 だが六太は軽い調子で肩をすくめると、「そんなものを残しても、あいつは
うるさがるだろうから」と答えた。
「慈悲の繰り言ばかりだって、いつもうるさがられていたし、最後くらいは静
かにしてやるのが王に対する情けってものだろう」
 冗談なのか、それとも本気で言っているのか。何と応じるべきか迷っている
と、六太はこんなふうに説明した。
「俺たちは――そうだな。王と俺は、主従としてはまあまあうまくやってきた
と思う。でもそれだけだ。俺は第一の臣だが、王はいつだって自分の勝手にや
るから、民にしわ寄せがいくのでないかぎり諫言はするが放っておく。そもそ
も王が俺の諫言を容れた試しはないんだ。俺が――まあ、他の臣でも同じだが、
誰が何を言おうと大勢に影響はない。さっき説明したから、鳴賢もさすがにも
う小説みたいなことは想像していないだろうけど、それでも俺と王がそれなり
に親しいと思っているんだろ? そりゃあ五百年も一緒にいるんだから親しい
と言えば親しいが、俺がいわゆる寵臣かと問われれば違うと答えるしかない。
 ちなみにまた夢を壊すようで申し訳ないが、王が后を迎えず後宮に寵妾も囲
わないのは、単にその必要がないからだ。何しろ適当に街に降りて、その辺の
独り身の男と同じように妓楼で用を済ませているからな。宮城で女官に手を出
す必要すらない」
「……まさか」鳴賢は唖然となった。至高の存在である王が街の妓楼に通う…
…?
「雁じゃ、麒麟が普通に町中を歩いているんだぞ? 王が粗末ななりでその辺
を闊歩していても不思議はないだろうが」
 おどけた笑み。素直にうなずいて良いものやらわからず、鳴賢は目をしばた
たいた。
「おまけに妓楼と言っても高級なところとは限らない。何せあいつは、うさん
くさい場所にも平気でもぐりこむからな。賭場で負けて無一文になり、その安
っぽい女の元からさえ叩き出されることもある。それでもどういう奇跡か国は
治まってるんだから大目に見てやってくれ。これでも五百年前よりは随分大人
しくなったんだ。何しろ宮城にいる時間も長くなったからな。少なくとも何ヶ
月も行方をくらまさなくなった」

250永遠の行方「呪(158)」:2009/10/10(土) 13:04:10
「あ、ああ……」
 どうやら本当らしいと踏んだ鳴賢は何とかうなずいた。だが内心の落胆は隠
しようもない。「宮城にいる時間が長くなった」って、そもそも王が宮城にい
るのは当然だろうと思うのだが。
 六太はにやりとすると「ま、そういうわけで」と続けた。
「それだけ好き勝手やってきた破天荒な王だから、この期に及んで俺の私信は
必要ない。むしろ心配なのはあいつが失道したあとだ。だから官への言伝を書
いた。それに俺が永遠に目覚めないなら、これから先、王宮では俺のことを物
として扱ってほしいと思っている。はっきり言えば見捨ててほしい」
 軽い感じで王について語られたあとだけに、思いがけない話題の転換に鳴賢
は絶句した。
「なぜなら意識もなく使令もいないも同然の麒麟にできることは何もないし、
王にはそんな役立たずの宰輔よりも民のことを心にかけてほしいからだ。しか
し最後に私信を残そうものなら、もしかしたらあんな王でもそれにとらわれて
俺を物として扱えないかもしれない。それじゃあ王もつらいだろうし、そのせ
いで治世を誤らないとも限らない。万が一そうなったら、俺がここで身代わり
になる意味がない」
「でも――それじゃあ、六太はどうなるんだ」
「麒麟の役目は慈悲を施すことだ。いわばこれも俺の役目ってことだ」
「そんな」
 六太は椅子から立ちあがった。座りこんだままの鳴賢の傍らで膝をつくと、
相手の片腕にそっと手を添えて顔を覗きこむ。
「ありがとな。おまえと友達になれて楽しかった」
 鳴賢は何も言えないまま、ただ言葉を飲みこむしかなかった。
「それとおまえとの約束を破ることになるから謝っておく」
「約束……?」
「以前、言ったろ。俺の好きな相手が誰か、俺が死ぬ直前ならおまえに教える
って」

251永遠の行方「呪(159)」:2009/10/10(土) 13:07:30
 そう言われて鳴賢は思いだした。ずいぶん前、確かにそんな話をしたことが
あった。彼自身はその場の勢いで応じただけで、そこまで厳密な「約束」とは
考えていなかったのだが。
「き、気にしないでくれ。そもそも六太は死ぬわけじゃない。ただ眠るだけだ。
もしかしたらちょっと長く眠っているかもしれないけど――それだけだ」
 ふたたび泣きそうになりながらも何とかこらえる。六太はうなずくと、ふと
厳しい顔つきになった。
「それとおまえにはさらにつらいことを頼まなきゃいけない」
「言ってくれ。俺にできることなら何でもする」
「無事――という言い方も変だが、呪にかけられてしまえば俺は用済みのはず
だ。それが暁紅との約束だからな。だからおまえには即座に国府に走ってもら
って、俺を宮城に運ぶための官を連れてきてもらいたいんだが、やはり少し懸
念がある。なのでさっきの書面を届けるだけじゃなく、昏睡に陥った俺を、そ
のままおまえの手で国府まで運んでもらえるとありがたい」
 鳴賢はうなずいた。言われずともそのつもりだったのだ。無防備な六太をこ
んな場所にひとり残して行けるはずがない。呪にかけられるのも耐えられない
というのに。
 何より暁紅が本当に約束を守るつもりか怪しいものだ。か弱い女人とはいえ、
六太が使令とともに無抵抗となってしまえば、息の根を止めることも簡単にで
きる。鳴賢には六太のように謀反人を信じることなどできはしない。ここでは
無力な立会人でしかないから、仕方なくなりゆきに任せているだけなのだから。
 六太が「ありがとう」と言って立ち上がった。そのまま暁紅の元に行くのか
と思った鳴賢は、とっさに彼の手をつかんで引き留めた。
「主上に言伝がいらないというのはわかった。でも市井の個人的な知り合いに
簡単な文(ふみ)を書くのはどうだ? 六太の身分や今回のことを報せるわけ
にはいかないにしても、文張とか――そ、そうだ、風漢とか。ずいぶん親しか
ったじゃないか。ご機嫌伺いの挨拶くらいなら、そんなに変には思われないだ
ろうし」

252永遠の行方「呪(160)」:2009/10/10(土) 13:10:22
 これはただの時間稼ぎだ。鳴賢はそう自覚していながら、どうしてもこのま
ま六太を送り出す気にはなれなかった。時間を稼いでも何にもならないとわか
っているのに。
 風漢という名前に、六太はわずかにぴくりと反応した。だがすぐに「今は一
刻も早く王を救うのが先だ」と答えた。「すまないがわかってくれ」と。
 とうとう鳴賢は覚悟を決めざるを得なかった。彼はまだ萎えている脚を叱咤
しつつ何とか立ち上がった。震える声で言う。
「――俺が。俺があの女を呼んでくる。六太はここで待っていてくれ」
 普通は目下の者が目上の者の元に出向くものだ。仮にも宰輔を謀反人の元に
向かわせるよりは相手に出向かせる。雁の民としての、せめてもの矜持だ。
 六太は一瞬迷うような顔をしたが、すぐにうなずいた。
「わかった。頼む。俺はおまえが戻ってくるまでに、さっきからずっと影の中
でざわついている使令をなだめておく」
 鳴賢はおぼつかない足取りで扉に歩み寄った。扉を開き――六太の「鳴賢」
という呼びかけに振り返る。六太は先ほどまでとは違い、ためらうような、妙
に思い詰めた表情をしていた。鳴賢は黙ってうなずくと六太に向きなおり、相
手の言葉を待った。
「もし――もし、でいいんだけど、さ……」
 しばらく迷っていた六太は、やがておずおずと言った。鳴賢は相づちの代わ
りに、またうなずいてみせた。
「もしいつか――町中で王に会うことがあったら伝えてくれ。『雁を頼む』と。
それから『おまえは雁を救った。感謝している』と」
 鳴賢はこみあげるものを感じたが、必死に飲み下した。
 最後に思いの一端を口に出せてほっとしたのだろう、六太はまた優しい顔に
戻り、どこか懐かしむような目でひとりごとのようにつぶやいた。
「俺、ほんとはあいつと一緒にいられて楽しかったんだ……」

253しばらくオリキャラ中心です:2009/10/10(土) 13:12:33
次の投下までまたしばらく間が開きますが、
次回からは章の終盤近く(予定)までオリキャラ側の描写になります。
ただし読み飛ばしても大筋には影響ありません。

その辺の描写が終了するあたりで、またアナウンスを入れたいと思います。

254名無しさん:2009/10/17(土) 00:03:16
ろくたん…
鳴賢と同じところでこみあげてしまいました
続き楽しみにしています

255永遠の行方「呪(161)」★オリキャラ中心★:2009/10/31(土) 20:58:10
予告通りしばらくオリキャラ中心の描写になるため、
名前欄にマーキングしておきますね。いちおう尚隆&六太も出てはきますが。
------

 女は泣いていた。抵抗することも従うこともできず、ただ臥室の床に突っ伏
して泣いていた。
「……できません」
 彼女はすすり泣きながら弱々しい声で訴えた。だが取り囲む男たちからは、
取り乱す女に対して何の感情も窺えなかった。
「どうか、どうか、お許しを」
 幾度も床に額をこすりつけ、ひたすら主君の足元で許しを乞う。女は善人と
いうには俗物に過ぎたが、さりとて別に悪人というほど性根が卑しくもない。
権力者の寵姫らしく奢侈を好む、単に美しいだけの平凡な女だ。そんな彼女に
とって、いきなり下された主君の命は恐怖そのものだった。
「わしの妾たちの中ではおまえはなかなか見所があると思っていたが、どうや
ら眼鏡違いだったようだな」
 榻に座るその男は、眼下の女を見おろして陰鬱に笑った。
 周囲に仁王立ちになっていた小臣のひとりが、先ほど女が取り落とした冬器
の短剣を床から拾い上げ、ふたたび無理やり握らせる。女はがたがたと震え、
今度は自分の膝の上にそれを取り落とした。命じられた罪を犯さずにこの場か
ら逃れるには、もはや自分が死ぬしかないが、もとよりそんな勇気があるはず
もない。
 男は言った。
「聞け、暁紅。こうなってはわしも小臣も処罰からは逃れられぬ。だが王には
一矢報いずにはおくものか。たっぷりと後悔を味わわせ、わしに王位を譲って
おけば良かったと悲嘆のうちに崩御するよう仕向けてやる。とはいえそれには
わしの臣が残っておらねばな」
「謀反は大罪です」
 震えながら訴える暁紅を、梁興は鼻で笑った。
「おまえとてなびかぬ王への不満をぶちまけておったろうが。そもそもせっか
く閨に侍らせてやったのに、色仕掛けで王をたぶらかすこともできずにしおし
おと戻ってきおって、この役立たずめ。おかげでわしの計画が台無しだ」

256永遠の行方「呪(162)」★オリキャラ中心★:2009/10/31(土) 21:03:16
「でも――でも、わたくしは謀反の計画など存じませんでした」
 梁興はにやりとした。
「わかっておるとも。それが重要なのだ。その作為のなさがな。過去、延麒の
助命嘆願で謀反の中枢に近い者も赦された例がある。となれば計画を知らず謀
反人の首魁を討った功労者なら、必ずや放免されるだろう。早くその冬器でわ
しの首を落とすのだ」
 震え上がった暁紅は、ふたたび主君の足元に体を投げだして許しを乞うた。
先の見えない籠城の生活はつらかったし、何より謀反の連座による処罰が恐ろ
しかったが、華美と贅沢の中で安穏と暮らしてきた身には、人を斬首せよとの
命に従うのも同じくらい恐かった。
 死の苦痛を最小限に抑えるため、既に薬剤で首から下を完全に麻痺させてい
た梁興は、小臣らに目配せした。うなずいたひとりがいったん暁紅の臥室から
出ていき、すぐ別の女を引きずって戻ってきた。
「お許しください、お許しください!」
 暁紅の側仕えであるその女は泣きわめき、自分の主が他の小臣に囲まれてい
るのを認めて助けを求めた。
「暁紅さま! お助けください!」
 暁紅は蒼白な顔を自分の乳きょうだいに向けたが、怯えた表情のまま、ふた
たびうつむいてしまった。
 梁興は小臣に命じた。
「その女を殺せ。慰み者にして、その有様を存分にこやつに見せつけてから、
これ以上ないというくらい惨たらしく殺してやれ。死体は細かく切り刻み、凌
雲山から下界にばらまけ。あとは獣が始末してくれよう」
「侯!」
 暁紅は浣蓮とともに悲鳴を上げた。小臣らは野卑な笑みを浮かべて顔を見交
わすと浣蓮の装束に手をかけた。半年もの籠城で彼らも鬱憤がたまっており、
仙籍に入っていない奚らはとっくに餓死していたとあって、特に女に飢えてい
たからだ。
「暁紅さま! お嬢さま!」

257永遠の行方「呪(163)」★オリキャラ中心★:2009/10/31(土) 21:08:09
 装束を乱暴に引き裂かれながら、浣蓮は必死に助けを求めた。その昔――乳
母と一緒に親元で過ごしていたときのように「お嬢さま! お嬢さま!」と泣
きながら呼ぶ乳きょうだいに、暁紅は絶望に満ちた目で梁興を見上げた。梁興
はふたたびにやりとした。
「おまえは狗(いぬ)の皮をかぶった狼となる。赦されて野に下り、時期を待
つのだ。あとはわしが教えたとおりにやればうまくいく。呪具の隠し場所は覚
えたな?」
 力の入らない膝を叱咤して何とか立ち上がる。彼女は震える手で梁興を榻に
押し倒すと、冬器を握りしめた。護身用の女物の短剣よりずっと大きいそれは
無骨な手触りで、これまで武器とは縁がなかった者にはとても扱いにくかった。
 梁興はぎらついた目で女を見上げた。口元は相変わらず笑いを含んでおり、
死や苦痛に対する恐れはまったく窺えなかった。
「肉を斬る感触、骨を断つ感触。その手でしっかり覚えておくのだぞ。それを
折りに触れて思い出せ。これは予言だ。わしの遺言を果たすまで、おまえはそ
の呪縛から逃れられぬ」
 最後まで梁興は悪趣味だった。追いつめられているのは彼ではなく、暁紅の
側なのだった。暁紅が主君の喉元に冬器の切っ先をあてがうと、相手はまばた
きすらせずに、ひたと自分の妾妃を見据えて嘲った。
「違う違う、喉を突くのではない、首筋に刃を押し当て、そのまま体重をかけ
て横に倒して首を切断するのだ。非力なおまえが突いたぐらいで仙は死なぬわ」
 自分の手に余る事態に対して静かに恐慌に陥っている暁紅の腕を、いつのま
にか横にいた小臣が乱暴につかんだ。梁興の首に側面から刃を当てる形で榻に
短剣を勢いよく突き立て、そのまま彼女ごと梁興の上にぐいと押し倒す。仙の
体でさえ貫通する鋭い冬器の威力ゆえか、はたまた首の骨と骨の間にうまく刃
が入ったのか、暁紅の手の中で、鈍い音とともに男の肉と骨はあっけなく切断
された。胴体を離れた首は派手に血糊をまき散らしながら、ごとりという音を
立てて榻から転がり落ちた。
 その有様に暁紅は息を飲み、一瞬後絶叫した。血にまみれた短剣を悲鳴とと
もに放り投げ、その際、自分も上体に盛大な返り血を浴びていることに気づい
てさらに絶叫する。首を失った胴体と小臣の間からもがくように逃れ、臥室の
片隅にまろぶように駆け寄ると、彼女は泣き叫びながらその場にしゃがみこん
で頭をかかえた。

258永遠の行方「呪(164)」★オリキャラ中心★:2009/10/31(土) 21:12:07
 背後で一部始終を見ていた小臣らは、ふたたび顔を見合わせてうなずいた。
乱れた装束のまま座り込んでいた浣蓮は、ただ茫然と事態を眺めていた。
 小臣のひとりが暁紅に近づき、狂乱している彼女の腕を乱暴に取って臥室の
中央まで強引に引き立てた。先刻のように大勢で彼女を取り囲む。
「侯の指図を覚えているな? 呪具は書類とともに油紙で包んで凌雲山の古い
隧道に隠してある。以前は城下への秘密の抜け道だったが、さびれているから
そこまでなら光州城を出たあとでも外部から入り込めるだろう。迷路のように
なっているから道順を間違えるなよ」
 だが恐慌に陥ったままの暁紅はひたすら首を振り、訳の分からぬうわごとの
ようなものを漏らすだけだった。小臣の言葉が聞こえていないのだ。
「お嬢さまをお離し!」
 男たちの間をすり抜けて気丈に駆け寄った浣蓮が、小臣から暁紅の腕を強引
にもぎ取る。彼女は血まみれの女主人をしっかり抱きしめ、憎悪に満ちた目で
男たちを睨んだ。小臣らは再々度顔を見合わせて笑った。
「おまえ、なかなか見どころがあるではないか」
 そう言って彼らは、先ほど梁興が暁紅に教えたのと同じ内容を浣蓮に語った。
そうしてから彼らは、ようやく大声を上げた。
「反乱だ! 侯が後宮の女に討たれたぞ!」
 さらに男たちは臥室の扉を開けて、何度も「反乱だ」と声を張りあげながら
臥室を飛び出していった。途端にざわめきに包まれた深夜の後宮で、混乱と衝
撃から脱せないまま、暁紅はただ乳きょうだいと抱き合って震えていた。

 暗い目だ。王を目の当たりにした暁紅がまず思ったのはそれだった。まるで
闇の深淵を覗いているかのような、狂気を宿した暗い目だと。
 危険な輝き。だから暁紅は王に惹かれた。鋭利な刃が放つ魔性のきらめきに、
人が魅入られるように。
 彼女にとって、すべての始まりは行幸だった。主君である梁興が、光州への
行幸を願っているのは知っていた。それをきっかけに、彼が王に取り入るべく
画策していることも。

259永遠の行方「呪(165)」★オリキャラ中心★:2009/11/01(日) 10:47:01
 暁紅はもちろん遠い関弓に行ったことはなかったし、ましてや王の拝謁を賜
わったことなどあるはずもなかったが、市井に暮らす者と異なり、王の不行状
についての噂はおぼろに聞いて知っていた。側近がしっかりしているから王朝
がもっているだけで王自身は俗物だと。その反面、またとない賢君と褒めたた
える者も多くいて、暁紅はどちらが真の評価か図りかねていた。ただ梁興が王
を前者だと見なしているのは明白だったため、彼女自身も何となくそうなのだ
ろうと想像していた。
 それでも王が神人であり、国家の最高権力者であることに変わりはない。そ
のため梁興に「皆で主上の閨に侍って技巧を凝らすように」と言い含められた
際も、高級遊女扱いされて悲嘆に暮れる他の寵姫と異なり、彼女は千載一遇の
好機と受けとめた。もとより梁興に愛情などあるはずもない。単に地位と贅沢
な暮らしに惹かれて仕えているだけだ。もし王に乗り換えられるなら願っても
ない。
 王が独り身であることは知っていた。もちろん後宮には非公式に女を囲って
いるに違いないが、彼女は自分の美貌に自信があった。もし王の寵愛を得られ
たら……。三百年もの長きに渡って后をもたない王に、彼が延麒を溺愛してい
るとの噂もあったが、暁紅はまったく信じなかった。麒麟は人ではないし、そ
もそも延麒は十二、三歳の少年の姿と聞く。これが麟ならば、王が幼い少女を
好む場合はまたとない相手かもしれない。だが色気も何もないだろう幼い少年
を好む王がいるとは信じられなかった。
 何にしても州侯に過ぎない梁興とて大勢の寵姫をかかえているのだから、お
そらくそれと同数以上の妃嬪(側室)はいるだろう。お手つきの女官も多いだ
ろう。だが容貌にしろ王の愛情にしろ、后に取り立てるほどの者はいないのだ。
そこに何とか割り込めれば……。
 正式な婚姻は結べないにせよ、実質的な王后になれれば名誉も贅沢も思いの
まま。おそらく宮城の後宮は、こんな州城の後宮とは比べものにならないほど
豪勢に違いない。

260永遠の行方「呪(166)」★オリキャラ中心★:2009/11/01(日) 10:51:54
 そうやって梁興とは違う自分なりの目論見を心にいだいた暁紅は、王の無聊
を慰めるための宴席に念入りに着飾って姿を現わした。諦めた他の寵姫も梁興
の指図どおりに王の周囲にしどけなく侍っていたが、肝心の王は、あまたの美
姫に何の関心も見せなかった。ただ常に王の身辺を守る宮城の小臣らが、傍ら
の禁軍将軍とともに片時も気を緩めず鋭い目を周囲に投げていた。
 夜になり着替えを済ませた王を、女たちは王に用意された豪華な臥室で待ち
かまえた。薄物をまとい、下品にならぬ程度になまめかしく肌を見せて媚びを
売るさまに随従らは顔をしかめ、王はと言えば苦笑した。
 王は傍らの禁軍将軍に「これが光州流のもてなしのようだぞ」と声をかける
と椅子に腰をおろした。ゆったりと足を組んで女たちを眺め渡し、指先で頭数
を数えてから自分の小臣に言う。
「女のほうがかなり多いな。だがひとりでふたりを相手にすればだいたい数は
合う。せっかくのもてなしだ、存分に可愛がってやれ」
「主上」
 何を言われたのか理解できずうろたえる女たちを前に、将軍ら随従が諫める
ように王の傍らでささやいた。だが王はおもしろそうに肘をつき、あごをなで
て再度女たちを眺めてから「俺にも好みというものがあってな」と冷たく言い
はなった。寵姫らは激しく動揺したが、それでも必死に笑顔を作って頭を下げ
た。
「申しわけございません」
「わたくしどもではお好みに合いませんでしたか」
 王は肩をすくめた。
「合わぬな。どれも変わりばえせぬし、花娘のほうがよっぽどかわいげがある」
 女たちは顔色を変えたが、それでも暁紅は何とか笑みを浮かべていた。権力
者が傲慢なのはあたりまえだ。ここをうまく取り入ってこそ、王の寵愛を得ら
れるというもの。
 だが暗い目の奥に狂気の光を宿した王は、事もなげにこう続けた。
「おまえたち、何の芸があるのだ? 裸踊りでもしてくれるのか? どのよう
な痴態で俺を楽しませようというのか、まずは小臣相手に技巧を見せろと言っ
ておる。おもしろそうなら抱いてやらんでもない」

261永遠の行方「呪(167)」★オリキャラ中心★:2009/11/01(日) 10:54:40
 さすがに女たちは蒼白になって体をこわばらせた。これは勅命なのか。この
場で王の小臣を淫売のように肉体でもてなし、そのさまを披露せねばならない
のか。
 王の随従らが身じろぎするのを見て、彼女らは恐怖のままに後じさった。だ
が将軍も小臣も、諫める言葉を溜息とともに投げただけだった。
「主上。お戯れはおやめください」
 しかし相変わらず暗い目をした王は、ただ意地の悪い笑みを浮かべただけだ
った。
 将軍は寵姫たちに向きなおった。
「おまえたちはもう下がれ。主上はお疲れである。侯にはこの手のもてなしは
いっさい不要である旨を伝えるように」
 女たちはその場から逃げるように退出した。暁紅も淫売の真似をせずにすん
だことに心の底から安堵しながらも、あまりの屈辱に唇をかみしめながら逃げ
帰った。
 翌朝、不首尾を知った梁興にねちねちと嫌味を言われたものの、勝ち気な暁
紅はひるまなかった。そもそもこの男が嫌味たらしいのはいつものことなので、
王は最初から自分たちを侮辱するのが目的だったと言い張った。命令どおり、
ちゃんと男をそそるいでたちで誘惑した、美しい女になまめかしく誘われたら、
まっとうな男なら情欲に駆られるはずだと。
 それを聞いた梁興は考えこみ、やがてこう言った。
「こうなるとあの噂は真実かも知れぬな」
「何の噂です?」
 王后になる野望があっけなく潰えたことでいらいらしていた暁紅は、つっけ
んどんに尋ねた。
「なに、王は延麒を寵愛し、ひんぱんに閨に侍らせているというあの噂だ」
「まさか」暁紅はせせら笑った。「台輔は幼い少年のお姿だというではありま
せんか。それに主上が女を漁りに下界にちょくちょく降りるとかいう噂、存じ
ておりますよ。さすがにありえない話ですが、要するにそれほど女好きである
という比喩なのでしょう」

262永遠の行方「呪(168)」★オリキャラ中心★:2009/11/01(日) 21:53:29
「しかしな、わしに稚児趣味はないが、少年もたいそう味があるそうだぞ。一
度やると忘れがたいとも聞く。思えば歴代の延王の中には、女より男を寵愛し
た王もいることだな」
 美しい眉をひそめた暁紅をよそに、彼はひとり「見目良い少年を大勢侍らせ
るべきだったか」と唸り、無造作に手を振って彼女に退出を命じた。女として、
州侯の寵姫としての誇りを傷つけられた暁紅は、腹立たしい思いとともに後宮
の自室に下がった。
 侮辱され、またみずからの目論見も台なしとなり、暁紅が王を恨めしく思っ
ていたのは事実。さらに女の浅はかさで、どのように意趣返しをしてやろうか
とも考えていたが、ほどなく梁興が謀反を起こしたこと、内宮で王を襲撃させ
失敗したことを知ったときはさすがに愕然とした。
 まさに青天の霹靂。もとより容貌が美しいだけで内面は平凡な女にすぎない
彼女は、主君が犯した罪の大きさにおののくとともに連座で処罰されることを
確信し、目の前が真っ暗になった。州侯の側近く仕えている上、王に色仕掛け
を試みた事実がある以上、最初から計画を知っていたと見なされるのは必至だ
からだ。
 謀反は計画しただけでも絞首、実行すれば斬首。いずれにせよ死罪は免れな
い。王に辱められて憤ったことを忘れ、暁紅は他の寵姫と同じく絶望の中で毎
日を過ごすこととなった。
 後宮に閉じこもってさえいれば、外部の様子はほとんど知らずに済む。それ
でもやがて王が側近の助けで州城から脱出したことが、女たちの知るところと
なった。州城は王師と近隣の州師に包囲され、梁興は籠城を決意した。城の各
門を強固な呪で閉ざしたため、外部からの侵入が難しくなったと同時に、内部
の者が投降することもできなくなった。
 女官が仕入れてくる話の端々から、暁紅は自分たちの置かれた状況が刻一刻
と悪くなっていくのをひしひしと感じた。それでもしばらくは生活に目立った
変化はなかったものの、二ヶ月を過ぎる頃になって急速に食料事情が悪化した。
援軍の当てもないのに城に籠もっていれば、遅かれ早かれ物資が尽きるのは明
白。後宮でも庭院に畑を作るなどして手を尽くしていたが、時間がかかる上、
もともと大勢の人間を養うほどの収穫は見込めない。仙ではない奄奚らが飢え
て衰え、体力を失って病にかかり、ばたばたと倒れだした。仙であればごく少
量の食物で永らえることは可能だが、それでもひもじさは隠しようもない。水
も不足して湯浴みや衣類の洗濯にも事欠くようになり、よれよれになった装束
をまとい、惨めな日々を送る羽目になった。

263永遠の行方「呪(169)」★オリキャラ中心★:2009/11/01(日) 22:00:29
 そしてある夜、前触れもなく臥室を訪れた梁興に命じられたのだった。彼の
首を落とし、王への復讐に備えて市井に身を潜めよと。
 梁興が死んだあと、長い籠城で覇気を失っていた臣下らはあっさり降伏した。
もとより主君に王位簒奪後の地位を約束されていた限られた側近以外は、王に
叛意を持つ理由などないのだ。呪によって強固に閉ざされた扉を開けることは
生き残った者には難しかったため、まず王師が雲海上から侵入、彼らに伴われ
た冬官によって門という門が開けはなたれた。
 だが梁興の首を落とした際の心理的な衝撃で自失していた暁紅に、当時の記
憶はほとんどない。気づいたときには崆峒山の離宮に引き立てられ、他の者と
一緒に延王延麒に引見されていたという具合だった。
 王は珠簾の奥に鎮座したまま、見覚えのある暗い笑みを浮かべて沈黙を守っ
ていた。臣下であるにも関わらず壇上で王の前に立っていた延麒が、気遣わし
げな顔で人々を見渡す。
 暁紅はただそれをぼんやりと見あげていた。秋官に尋問もされたはずだが、
手に残る、肉を、骨を断つ生々しい感触に悩まされ、意味の通る返答をしたか
どうか覚えがなかった。だがそれだけに周囲は、彼女が梁興を討ったことには
疑いを差しはさまなかった。無謀な籠城を終わらせるためだったと誰もが自然
に納得したようだ。あの場にいた梁興の小臣らは拷問の果ての死を恐れて開城
前に自害していたから、事情を知る者がほとんど残っていなかったせいもある
だろう。
 暁紅の目に映った延麒は華やかな少年だった。際だって派手ないでたちをし
ていたわけではないが、おそらく身分ゆえの高価な装束と、何よりも頭に戴く
黄金の豪奢なきらめきがそのように見せたのだろう。ただ、美しいと言って言
えないこともなかったが、それは外見の年齢に由来する中性的な印象と、長い
髪によって女性的に見えたからに過ぎない。暁紅にしてみれば決して美貌とは
言えず、何よりあまりにも幼すぎた。
 延麒は何も言わぬ王を尻目に、この場の全員に恩赦を与えると言い張った。
周囲の臣に諫められてはいたが、彼は背後の王を振り返って「それでいいな?」
と無造作に言ってのけた。相対する王の暗い目は相変わらずだったが、それで
も以前見たときよりずっと生命の躍動が感じられるものになっていたのを、暁
紅は投げやりな気持ちの中にも不思議に思った。

264永遠の行方「呪(170)」★オリキャラ中心★:2009/11/01(日) 22:02:52
 王は疲れたように軽く笑うと、無礼な延麒の物言いを咎めもせず「好きにし
ろ」とだけ言った。堂にいた光州城の者は安堵のあまり泣き崩れた。「台輔、
台輔……」と泣きながら叩頭する彼らに、延麒は安心させるように声をかけた。
「心配するな。州侯が謀反を起こしたのは事実だが、おまえたちは知らずに巻
きこまれただけだ。おまけに門扉には閉鎖の強固な呪言が刻まれ、投降しよう
にも普通の者には開けられなかった。おまえたちのせいじゃない」
 押し殺した嗚咽が広がる中、ひとり暁紅は普通ではないと思った。何しろ事
は謀反なのだ。本来ならば生き残りの全員に対し、苛烈な取り調べが行なわれ
てしかるべきだろう。少なくとも王は何かしら指示をするはず。なのに延麒は
王をないがしろにして光州の者に話しかけ、しかも王自身がそれを許している。
 王が麒麟の慈悲の諫言を容れて恩赦を与える形ならまだしも、これでは延麒
自身が王であるかのようなふるまいではないか。そもそも王が謀反に連なる者
をわざわざ引見していること自体がおかしい。既に斬首しただろう何人かの臣
の首を確かめるために赴いたついでかもしれないが。
 暁紅の脳裏に梁興の言葉が蘇った。王が延麒を寵愛しているとの言葉が。
 市井でそのような小説がもてはやされているのは知っていた。だがよもや下
世話な演目に、真実が含まれているなどとは思いもよらないことだった。
 安堵で泣き続ける周囲の者と異なり、暁紅は下を向いて情けなさに唇を噛ん
だ。美貌とも言えないこんな少年に自分は負けたのか。あのとき王は暁紅に興
味のかけらも示さなかったのに、今の王は皮肉めいたおもしろそうな顔で延麒
を眺めている。
「少年もたいそう味があるそうだぞ。一度やると忘れがたいとも聞く」
 梁興が浮かべていた野卑な笑みとともに、そんな言葉が蘇った。この麒麟は
閨でどんな睦言を王にささやくのだろう。どんな痴態で王を惑わしているのか。
 だが暁紅が何を思おうとすべては終わった。梁興は死に、光州城は陥ちた。
 彼女はうなだれ、ただぼんやりと延麒の、他の臣の声を聞いていた。だがそ
の空洞に似たうつろな意識の片隅で、梁興が遺した呪具の所在を知っている自
分は、無力に見えて大きな力を持っているのだと何となく意識していた。

----------
次の投下までしばらく間が開きます。もしかしたら今までより少しかかるかも。

26584:2009/11/29(日) 06:41:14
約一年ぶりに覘いてみたら凄いことになってる…!
六太の切なさは痛々しいけど色んな方が書いて下さっているので
「なぜ尚隆→六太になったか」にじっくりこだわっている作品に出逢えるのは嬉しいです。←尚隆ファンなので
想いが通い合う瞬間が待ち遠しい〜。
Viva、延主従!!

266永遠の行方「呪(171)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 21:58:04

 梁興の乱のあと、暁紅は乳きょうだいを連れて従兄弟大叔父に当たる貞州侯
の元に身を寄せた。昇仙して数十年、市井の親族とはとうに疎遠になっていた
とあって行き場がなかったためだが、何より梁興の側仕えだったがゆえに、一
定の期間、所在を明らかにすることを求められたからだ。
 いくら延麒が恩赦を施したとはいえ、謀反人を主君に戴いていた者、それも
近習や妾妃を即座に放免するほど国府の秋官は甘くない。貞州城に行くことを
許可されたのは、いずれかの凌雲山にいれば、そうそう行方がわからなくなる
ことはなかろうとの判断に違いない。明言こそされなかったものの、遺された
者たちに不穏な動きがないか様子を見るつもりなのだ。貞州侯は遠縁とはいえ
実際には行き来のなかった暁紅を快く受け入れたが、彼は親族ゆえの単純な身
元保証人というわけではなく、所在を保証する役目をも負っているわけだ。
 貞州侯は実際の生活の面倒を妻の采配に任せ、その侯妃は後宮内で暁紅に二
間続きの広い房室を与えた。
 光州城では殿舎ひとつをあてがわれていたとはいえ、寄る辺を失った身で贅
沢を言えるわけもない。そもそも暁紅は客分でも何でもなく、建前は侯妃の下
僕としての後宮入りだった。それも仙籍こそ削除されなかったものの、降格さ
れて浣蓮と変わらない身分になっていたことを思えば、むしろ厚遇と言えただ
ろう。建前は建前として、実際には侯妃の世話をする必要もない。あくまで後
宮に住むための名目上の地位だからだ。そしてもし暁紅と浣蓮がしおらしくも
誠実に貞州の者たちに接していたなら、ここでの暮らしは想像していたほどわ
びしくはないとほっとしたことだろう。
 しかし光州の後宮での長年の奢侈にどっぷり浸かっていた暁紅はもちろん、
美貌の乳きょうだいを幼い頃から誇らしく思って崇拝していた浣蓮も、その振
る舞いは当人らが自覚していた以上に尊大だった。特に暁紅は、梁興の首を落
としたときの肉と骨を断つ生々しい感触から逃れられず、しばしば悪夢にうな
されていたとあって、よけいに侮られまい、弱みを見せまいと肩肘を張ってい
た。そのため当初は彼女らの人となりを見定めようと遠巻きにしていた女官た
ちも、すぐ冷めた目で見るようになった。

267永遠の行方「呪(172)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:00:50
 何しろただでさえ謀反人の側仕えだったのだ。暁紅が梁興を討った功労者で
あることは伝わっていたものの、無謀な籠城を終わらせるためではなく単に生
命惜しさ、要するに謀反人を討つことで助命を乞うためだったのだろうと、す
ぐ揶揄まじりにささやかれるようになった。それは当人に謙虚さのかけらも窺
えなかったせいもあるが、身近で接する女官らとさえ親しく交わろうとしなか
ったことが一番大きかった。こういうことは人間関係次第で良くも悪くもなる
ものだが、少なくとも暁紅は決して自分から歩みよろうとはしなかったからだ。
 これまで女主人の身の回りの世話だけをしていた浣蓮にしても、ここでは膳
を運んだり掃除をしたりといった下働きの仕事までこなさねばならないことに
茫然としていた。もともと市井にいた頃も裕福な商家で、暁紅の乳きょうだい
兼遊び相手として恵まれた暮らしをしていた彼女にとっても、貞州城での暮ら
しはやりきれないものだった。
 こうして女ふたり、日々の生活に理不尽だという不満ばかりを心にいだいて
過ごすことになったのだった。

「ほれ、にこりともせぬ。相も変わらずかわいげのないこと」
「主人ともども穀潰しのくせに、自分を何様だと思っているのやら」
 これ見よがしのささやきが、女主人の膳を厨房に下げる浣蓮に投げかけられ
る。貞州城に身を寄せてから既に半年近く。様子見だった当初と異なり後宮の
女官たちの反応は冷たく、こうして蔑みのこもったささやきを耳にすることも
多くなった。
「謀反人と一緒になって主上を色仕掛けでたぶらかそうとした輩の下僕だもの。
心根が卑しくないわけがない」
「そもそも梁興の妾妃というのは、賓客の閨の相手もする遊女のごときものだ
ったそうな」
 ひそやかな笑い声がさざなみのようにあたりに満ちた。つい足を止めた浣蓮
と目があった女官は、わざとらしく長い袖で口元を隠すようにして同僚にささ
やいた。

268永遠の行方「呪(173)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:03:25
「もちろん主上がそんな安っぽい手管に惑わされるはずもなく、淫らな奉仕は
丁重にお断わりになったそうですよ。下賤の者のようにけばけばしくも安っぽ
い格好をした女たちは、なすすべもなく臥室を引き上げていったとか」
「それはそれは。さぞかし見ものだったでしょう」
 羞恥と憤りに顔を染めた浣蓮は、唇をかみしめて相手を睨んでから敢然と言
い放った。
「心根が卑しいのは王のほうだわ。丁重に辞退したですって? 目の前で小臣
相手に閨の技巧を見せろと、下卑た顔で後宮の方々に命じたくせに。きっと普
段から宮城でも無体を強いているんでしょう。お気の毒にお嬢さまは危うく王
の無体に蹂躙されるところだった。あのような暗君に仕えねばならない官は本
当に哀れね」
 不敵なあざけりに、女官らは顔を見合わせた。彼女らは「恐れ多い言い草を」
と、このときばかりは心からの驚きとともにひそひそと言い交わした。
「恐れ多い?」
 浣蓮は冷笑とともに言い捨て、まじまじと自分を見つめる女官らを置いて立
ち去ったが、腹の中は煮えくり返っていた。
 暁紅はまず光州の官吏の愛人となって州府の官邸に住むようになり、そこで
さらに高位の官の興味を引いた。そして最終的には州侯の目に止まって後宮入
りするという、女としてとんとん拍子の「出世」だった。そのいずれにも浣蓮
はつき従い、女主人の未来が開けていくたびに誇らしい気持ちを味わったもの
だ。なのにまさか別の州城の片隅でこんなみじめな生活をするようになるとは、
予想だにしないことだった。
 幼い頃から美貌で、富裕な実家でちやほやされて育った暁紅は当然ながら気
位の高い娘だったが、気心の知れた浣蓮には気位の高いなりに心にかけ、実の
姉妹のように仲良く過ごしてきた。浣蓮のほうも遊び相手としていつも一緒に
いたとあって、女主人が受ける崇敬を自分と同一視しやすく、いつしか暁紅の
お気に入りとして彼女に尽くすこと自体に生き甲斐を覚えるようになった。
 浣蓮自身は、可もなく不可もなくといった体の平凡な容姿だったが、それだ
けに磨けば磨くほど光輝く女主人を飾りたてることに深い満足を覚えた。暁紅
は「出世」のたびに乳きょうだいの装束も新調してやり、身の回りのものも自
分に合わせて高価な品々に代えてやった。女というものは友達と一緒に綺麗な
装束を試し着したり、化粧を施しあったりという戯れも好きなものだが、暁紅
にとってその相手はいつも浣蓮であり、趣味の良い彼女が化粧を施してやると、
若い娘であるだけに浣蓮もそれなりに美しく見えた。

269永遠の行方「呪(174)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:12:20
「おまえだって元は悪くないんだから、もう少し外見に気を遣わないとだめよ」
 そう言って朗らかに笑う暁紅と、長いこと楽しく過ごしてきたものだ。
 行幸の報を聞いたとき、浣蓮も女主人と同様、暁紅が王の目に止まる可能性
を考えて胸を躍らせた。美しい女というものは得てして、男がみな自分に懸想
すると思いこみがちだ。暁紅自身が多少なりとも王の気を引けるはずと考えて
いたのはもちろん、彼女を誇りに思っている浣蓮はむしろ当人より大きな期待
をいだき、必ずや良い目が出るにちがいないと確信した。どちらの女もこれま
で挫折と言えるほどの苦い経験はなく、そのため完全にもくろみが失敗する可
能性など思ってもいなかった。
 いずれにせよ謀反の計画を知らなかった彼女たちにとって、事実はどうあれ
すべての始まりは行幸だった。結局のところ梁興が何をたくらもうと、王が暁
紅の魅力に捕らわれてしまえば関係ない。謀反が成功すれば王となった梁興が
宮城に入ったろうし、失敗しても暁紅自身は何の憂いもなく宮城に迎え入れら
れただろうからだ。
 そのためいざその野望があっけなく打ち砕かれると、我が身が落ちぶれたこ
とに対する悲嘆と不満の矛先は、不思議なことに梁興ではなく、狂気の光を宿
した王、暁紅に目もくれなかっただけでなく無体な命令をくだした王に向かっ
た。それは既に死者であり最後の最後に自分たちを惨い目に遭わせた梁興のこ
とで思い悩みたくもなかったという心理もあろうが、要するに初めて味わった
挫折の原因が王だったからに過ぎない。加えて王の権力が絶大なだけに、后に
なるという野望が潰えたことによる衝撃が何より大きかったのだ。特に女主人
のさらなる栄華を確信していた浣蓮の失望は深く、その意味では暁紅当人より
打撃を受けていたかもしれない。おまけにこうして貞州城で女官らのあざけり
を受けるようになり、心の傷がさらにえぐられるようだった。
 何も知らないくせに、と浣蓮は歯ぎしりして思う。お嬢さまはこんなところ
で朽ち果てて良いかたではないのに。お嬢さまも、そしてわたしも、本来なら
華々しく宮城に迎え入れられるはずだったのに――。

270永遠の行方「呪(175)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:15:40

 やがて彼女が厨房を経て女主人の元に戻ると、ちょうど暁紅が何やら紙片を
くしゃりと丸め、足下に捨てたところだった。書き損じなどのただの塵にして
は暁紅が不快な顔をしていたので、浣蓮は不審に思って「お嬢さま?」と声を
かけた。
「ああ、戻っていたの。ご苦労だったわね」
 にこやかに乳きょうだいを迎えた暁紅の前で、浣蓮は紙くずを拾い上げて開
いた。それが下賤の男からの情交を持ちかける淫猥な文面であることを知り、
憤激とともにふたたび丸めて捨てる。
「なんて恥知らずな……」
 金品をちらつかせる、明からさまで興味本位な誘い。貞州城に来て以来、彼
女らが不如意であることを知っているのだ。暁紅は誇り高く顔を上げ「下賤の
者のたわごとです。捨て置きなさい」と言ったものの、心中が穏やかでないの
は明らかだった。
 浣蓮は憤りのままに、先ほど女官らから受けた侮辱を報告した。その言に王
から受けた屈辱を思い出した暁紅は、自分が娼婦であるかのような噂が後宮に
蔓延していることを知ってさすがに色を失った。女官だけではない、このよう
な誘いの文が奚に仲介されていつのまにか臥室に置かれること自体、貞州城の
者たちが彼女をどのように見ているか知れるというものだ。
 さらに浣蓮から、門卒が「いくら握らせれば、暁紅の臥室に手引きしてくれ
るんだ」と淫らな話を持ちかけてきたことなども聞き及び、暁紅は毅然として
「侯妃に抗議しましょう」と言った。
「わたしもおまえも、このような低劣な侮辱を甘んじて受けねばならない理由
などない」
 浣蓮もうなずき、ふたりして念入りに身支度を調え――手持ちの衣装も少な
く、新調もできぬ今では大した支度はできなかったが――奚をつかまえて強引
に先触れとして向かわせた上で侯妃の元に赴いた。

271永遠の行方「呪(176)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:18:48
 周囲の冷たい視線のせいもあろうが、特にすることもないとあって暁紅は房
室にこもりがちの毎日だった。にぎやかに宴を催して他の妾妃に権勢を見せつ
けたり、贅沢な衣装をまとって園林を散策したりといった、光州城での華やか
な生活は過去のこと。当初、そんな様子を気遣った貞州侯から「毎日毎日こう
して閉じこもってばかりでは気も晴れぬだろう。この際だから何か身の立つこ
とを覚えてはどうだね」と言われたものだが、いったんかたくなとなった心が
それを受け容れることはなく、そのため侯妃とさえ会うことも滅多になかった。
そんな彼女を穏やかな侯妃は快く迎え入れたが、それも用向きを聞くまでのこ
とだった。
「わたくしを侮辱したのは王のほうです。浣蓮が申したことに間違いはありま
せん。王はわたくしどもに対し恥知らずで下劣な命令をくだしました」
 女官らへの叱責を求める暁紅の言い分を黙って聞いていた侯妃は、やがて深
いため息をついた。
「実のところ、あなたの言が真実か否かは問題ではないのですよ」
 結果的に謀反に関わったことについて何ら後悔の念が窺えない彼女に対し、
侯妃は言動に注意するようにとたしなめた。さらには仮に王による侮辱が真実
だったとしても、恩赦を受けた身、それもいまだゆるやかな監視を受けている
身でそんな不敬を言うものではないと、こんこんと諭した。人の口に戸は立て
られないのだから、まずは自分の言動を省みるようにと。
 女官の言動は確かに品性を欠いているとして、それについての叱責は約束さ
れたものの、結局暁紅らは、大して気の晴れぬうちに自分の房室に戻っていく
ことになった。
 そもそも罪はすべて梁興のものではないか。巻き込まれた自分たちは、要す
るに運が悪かっただけなのに。
 そう考えて不満をためた彼女らの心理に同情の余地はあった。だとしても日
頃、主君から窺えた王への侮蔑は謀反の萌芽であり、それを見過ごしていたこ
とになにがしかの後悔はあってしかるべきだったのだが。
 いずれにしろ後宮は女の園であり、女というものは基本的に噂話が好きだ。
侯妃の叱責が効いたのか、さすがに目の届くところで女官たちが下卑た噂をす
ることはなくなったものの、相変わらず暁紅と浣蓮に向けられる視線の意味は
明らかだった。

272永遠の行方「呪(177)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:21:34
 男性の官吏の反応は多少異なっていて、高位の者はそれなりに警戒の目を向
けていたものの、下吏や奄の中に淫猥な興味にあふれた視線を向けてくる者は
やはりいた。なのに決して誘いに乗らず孤高を保つ暁紅に対し、既に大勢の男
を引っ張りこんでいるとのくやしまぎれの噂を流す下吏さえいた。
 もっとも後宮に入れる者は限られているとあって、好んでそのような噂話に
耳を貸した女官らも、実際にここでの暁紅の不行状を信じたわけではない。し
かしいつまで経っても打ち解けず傲慢な彼女が、噂の中だけでも貶められるこ
とに小気味の良さを感じていた。一般的に言っても他人の悪い噂ほど広まりや
すく、不幸であればあるほど覗き見的な興味を持たれるものだ。
 こうして暁紅は、彼女を崇拝する浣蓮は、かたくななままいつまでも貞州城
で孤立していた。
 そんな中、ふたりは慰めあい、暇に飽かせて夜遅くまで語りあうのが常だっ
た。たったひとりでいたならば、何とか周囲になじもうと努力もしたかもしれ
ない。しかし身近に親しい相手がいたことで最低限の孤独は癒やされたため、
どちらも自分を変えたいとは思わなかった。そして浣蓮という幼い頃からの崇
拝者がいたことで、暁紅はむしろ浣蓮自身に比べれば蓄積される不満の度合い
は低かった。不遇の主人に代わって憤り、ひいては自分を不幸だと嘆く浣蓮を
慰めるたび、暁紅は自己の誇りを保てる気がするのだった。
 ただ皮肉なことに、そうして不遇を嘆く彼女らの支えは梁興に託された呪具
だった。既に死者である梁興の駒になるつもりなどないものの、国家を脅かす
力を持つらしい呪具が自分たちのものであることだけが、今となっては彼女ら
のなけなしの誇りの源だったからだ。そのため、どちらもかつての主君に恩の
かけらも感じていなかったのに、呪具の存在についてはしっかりと口を閉ざし
ていた。
 貞州城に来る前に不審を覚えられずに隠し場所に近づく機会がなかったとあ
って、実際にはそれはいまだ光州城に隠されたままであり、どちらも実物を見
たことすらなかった。すべての根拠は死ぬ直前の梁興の言葉のみで、どのよう
に使うものなのか、具体的な効果は何なのかを把握しているわけでもなかった。
 だがそれだけに、逆境にあってむしろ想像はふくらんだ。光州全土に呪いを
かけて、作物が育たない不毛の地とする呪。そんな事態になったら、王が天命
を失ったがゆえと考えるのが普通だろう。そして作物が取れなくなれば民の恨
みは結局王に向かい、遅かれ早かれ実際に失道するはずだった。つまり貞州城
の者が何も知らずに蔑む暁紅たちこそが、王朝の命運を握っているのだ。

273永遠の行方「呪(178)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:27:09
「あの者らは、自分たちが砂上の楼閣に住んでいることを気づいていないので
すわ。光州ではなくこの貞州において呪具を使うこともできますのに、そんな
ことも知らずにお嬢さまとわたしを邪険に扱って」
 周囲を警戒して夜ごとひそかに語らいながら、浣蓮はいつもそう言って女主
人と自分の自尊心を保った。何しろ語る時間ならたっぷりとある。それに実際
に呪具を見たことがなくても、州侯の権威のもとに王への復讐を意図して開発
された呪なのだ。効果がないはずはなく、おそらくは聞かされた通りの威力を
発揮するに違いない。
 梁興に教えられた隠し場所は、ほとんど使われなくなっていた古い隧道の枝
道だった。途中が迷路のように入り組んでいたがために、道を知らない者が不
用意に入りこめば、二度と光を拝めずに横死するのは必至。それでなくとも籠
城の際、万が一の王師の進入に備えて件の枝道に通じる分岐は封鎖され、落城
直前に周囲の岩を破壊して完全に塞いだとも聞き及んでいた。その後、枝道を
復旧したか否かはわからなかったものの、もともと使われなくなっていた場所
にそう手間をかけたとも思えない。つまり州城に通じる最奥部は閉ざされて打
ち捨てられたままだろうが、それゆえに下界側の入口からなら容易に入り込め
るだろう。
 ただしこれだけ時間が経てば、整備されていない隧道なら落石などで道が埋
もれている可能性もあった。だがどちらもそのことはあえて考えないようにし
ていた。誇りの拠りどころである呪具が失われてしまったと考えることは絶対
にできないからだ。
 実際には、国府による監視が終わったと確信できる頃まで殊勝に過ごし、そ
のあとで知恵を絞れば光州城の様子を見に行くだけの理由は簡単に見つけられ
ただろう。したがって呪具の現状を知ることも可能なはずだったが、暁紅らは
毎晩楽しく語らうだけで行動に移すことはなかった。たとえ既に呪具が失われ
ていたとしても、ここで王や貞州城の者にどうやって復讐するかを語り合って
いるぶんには、自分たちのものとして楽しい想像を巡らせることができるのだ
から。

274永遠の行方「呪(179)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:31:26
 そうして月日が過ぎ、後宮の片隅で不遇を嘆きつつ暮らす彼女らは、自然と
州城の者から忘れられていった。良くも悪くも興味を持たれたのは最初の頃だ
けだった。悪意が含まれていたとはいえ当初の関心は、目立つ新参者に対する
通り一遍の興味でしかない。そもそも大した地位も金もない女が、下吏であれ
貞州城の面々の生活に影響を及ぼすはずもなく、となれば周囲になじもうとも
せず、みずから隔てを作る暁紅らに積極的に関わる理由はなかった。噂好きの
女官らも彼女らを揶揄するのに飽いて別の話題を見つけ、やがて暁紅の世話を
する浣蓮を見かけても、空気のごとく無視するに至った。
 そんなとき貞州侯から「何なら州城の外、市井に住まいを求めても良い」と
告げられたのは、おそらく国府からのゆるやかな監視が終わったためだろう。
不満はどうあれ実際にはたくましく運命を切り開いていくだけの気概もないふ
たりが、それを受けることはなかったが。
 こうして梁興の呪具を手元に置くことも、それを使った復讐を実行に移すこ
ともないまま、いたずらに歳月だけが過ぎていった。
 そして。
 長い時間の経過は好むと好まざるとに関わらず、王から貞州の官から受けた
屈辱による憤怒の感情を自然と風化させたのだった。

 州城の後宮の片隅で送る、人々に忘れ去られた生活。当たり障りのないまま
に日々は過ぎていき、毎夜の暁紅と浣蓮の語らいも形骸化した。呪具の威力を
見せつける日が来ることだけは、いまだおぼろに夢見てはいたが、熱意はとう
に失せていた。
 侯妃の下僕としての給金だけのつましい暮らし。暁紅は名目だけのその役目
を一度とて果たすことはなく、したがって波風も立たないが満足もない、代わ
り映えのない毎日だった。仙は歳を取らない。周囲の人々も州城の様子も何も
変わらない。時に凍結されたかのようなその環境で、ふたりの女はただ漫然と
生きていた。年を過ぎるごとに時の風化は思考の上に降り積もり、こまやかな
心の動きさえその堆積に埋もれ、喜びも憤りも感じず、もはや日々に流されて
生きているだけだった。

275永遠の行方「呪(180)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:35:07
 陽光まぶしい園林を、華やかな殿閣の威容を露台からぼんやりと眺めては、
暁紅は何の感動も覚えぬ毎日になげやりな吐息を漏らした。ここでの生活は、
戴にあるという厚い万年雪に閉ざされて眠っているようなものだった。浣蓮も
彼女と大差なかったが、下働きの仕事をする折りに周囲とやりとりする機会が
あるだけあって、まだ不満の種は尽きていないようだった。
 このままおもしろみのない人生をただ過ごしていくのだろうか。諦めに似た
思いが暁紅の心中をよぎる。いや、自分はとっくに死んでいたのだ。梁興の首
を落としたあのときに。
 いまだ両手に生々しく残る、肉と骨を断つむごい感触。皮肉にもその記憶だ
けは、いつまで経っても衰えることはなかった。
 救いはどこにもない。梁興の謀反はとうに忘れ去られ、雁は繁栄し、ここで
蟄居しているも同然の暁紅のことなど、覚えている者もいないだろう。
 このまま夢も希望もなく、時の流れに心をすり減らしていくだけの余生なの
だろうか。そうしてただ歴史の中に泡のように消えていくのだろうか。
 暁紅の想念の中、暗い目の奥に狂気を宿した王は遠い荒野でひとりたたずん
でいる。彼の横顔は彼方をひたと見つめ、雁を、そして自分自身をさえ焼きつ
くす狂気の中で、ひたすら運命の時を待っているかのようだった。
 光州を不毛の地とする呪。そんなものが何になると言うのだろう。暁紅が手
を下したとしても、王はあの皮肉めいた暗い笑みを浮かべるだけに違いない。
たとえ手を下さずとも、王はやがて自らを焼きつくすだろう。そして自分はと
っくにあの暗い狂気に焼かれてしまっていたのだ、そんな気がした。
 彼女は既に燃え殻だった。何も見ず何も生みださず、もはや喜びにも怒りに
も心を動かすことはない。単にまだ死んでいないというだけの虚ろな存在でし
かなかった。

----------
次の投下までまたしばらく間が開きますが、
その辺りでオリキャラ中心の部分を終わらせたいと思います。

>>265
また一年後に覗いてもらえるようがんばりますね♥

2761:2010/02/28(日) 17:47:35
オリキャラしか登場しないのにちまちま投下してもなーと、
章の区切りがつくまで投下を控えていたのですが、
とっくに書き上がった後も納得がいかず、未練がましくいじくってました。
でもしょせんオリキャラの部分だし、別にいっか、と投下することに。
それでもまだ少し未練があるので、手直ししつつ、
時間軸が現在に戻るまでは小出しにします。

なお名前欄から「★オリキャラ中心★」が取れるまでは、
読まなくても話の筋はわかると思います。
(要は何とかして尚六になだれ込むための動機の捏造に過ぎないので)

それと何だか随分と閑散としてしまったのと
他の投下もないようなので邪魔にはならなさそうだし
別の書き手さんがいらっしゃるまでageていきます。

277永遠の行方「呪(181)」★オリキャラ中心★:2010/02/28(日) 17:51:36

 あるとき久しぶりに貞州侯が暁紅を尋ねてきた。ひとしきり世間話をした彼
は、やがて仙籍を辞することにしたと静かに告げた。後進に道を譲り、妻とふ
たり、余生を田舎でのんびり過ごすつもりだと。
「おまえたちはどうするね? わたしが采配をふるっているぶんにはともかく、
さすがに次の貞州侯の方針までは左右できない」
「それはわたくしどもの仙籍が削除されるとおっしゃっているのでしょうか?」
 質問の意図を悟った暁紅が、こわばった表情で尋ねた。傍らでそれを聞いて
いた浣蓮は真っ青になった。
 長く市井と関わりを持たぬままに生きてきた彼女らにとって、仙籍を削除さ
れることは死と同義だった。いつまでも若くいられるのは仙であればこそ。仙
籍を削除されればその瞬間から老いはじめ、病気にもかかるようになり、怪我
も負いやすくなる。いくら死んだような日々を無為に過ごしていても、みずか
ら求めて仙籍をはずれるのではなければ、そのような宣告を受けるのはおそろ
しいことだった。
「その可能性はある。少なくともこのまま州城にいたいなら、それなりの職務
に就く必要があるだろう」
 震える浣蓮の傍ら、みずからも大いに動揺しながらも、暁紅は自分でも意外
なほど冷静な態度を崩さなかった。もともとこんな事態は、毎夜のひそやかな
語らいの中で何度も出てきた話題だった。それゆえこれは、予想された運命の
時がついに訪れたというだけにすぎない。
 とにかく次の貞州侯がやってきて現実に居場所がなくなってからでは遅い。
それだけははっきりしていたので、彼女はめまぐるしく思考を働かせて時間を
稼ごうとした。
 突然の話で枝葉を考える余裕はなかったものの、重要なのは呪具であること
はわかっていた。市井に下ってから寄る辺のない女ふたりが遠い光州城に行く
のは困難を伴うからだ。呪具を回収するなら、貞州侯の庇護下にある今しかな
い。その他に何か問題があったとしても今は頭に浮かばなかったし、おそらく
あとでどうにでもなるだろう。
「いきなりそのようなお話を伺いましても途方に暮れてしまいます。浣蓮もこ
うして動揺しておりますし、わたくしにも心の準備というものが必要です。仙
籍を削除されるというのは大変なことですから」

278永遠の行方「呪(182)」★オリキャラ中心★:2010/02/28(日) 17:53:42
「そうだな。だがもし今のうちに下界に戻るのであれば、飛仙として仙籍を削
除されぬよう計らうことはできる。今のおまえたちの官位ではさすがに歳費を
与えるほど優遇することはできないが、餞別としてしばらく楽に生活できるだ
けの俸禄は与えられるだろう。何と言っても親族なのだからね。とにかくしば
らくぶりに下界の空気に触れ、環境を変えて、身の振りかたをじっくり考えて
みてはどうかな」
 下界で只人と交わる飛仙は、親しい人々を見送るだけの歳月に倦み、結局は
仙籍を返上することが多い。もしくは行方をくらまし、放浪の果てに客死する
か。要するに貞州侯は、彼女らが他の飛仙と同様に市井の暮らしの中で達観を
得、自分から仙籍を返上する気になることを想定し、それまで多少の猶予を与
えると言っているのだ。
 浣蓮はすがるように暁紅の手を握りしめた。その手を優しく握り返しながら、
暁紅は神妙な表情を作って貞州侯に申し出た。
「その前に光州城を訪れるわけにはまいりませんか? 謀反という嫌な思い出
があるとはいえ、わたくしどもが長い時間を過ごした場所です。それになつか
しい場所を目にすれば、浣蓮も気持ちを決めやすくもなるように思います。別
に今の光州侯にお目にかかりたいとか、以前の住まいを見たいとまでは望みま
せん。でもせめて最後に、思い出深い光州の凌雲山や麓の街の様子を見てまい
ることをお許しいただきたいと思います」
 貞州侯は少し驚いたようだったが、「なるほど」とうなずいた。
「そういうことなら扱いやすい騎獣を貸してあげよう。もし光州に戻りたいの
なら、ついでに城下の街の下調べもして当座の住まいを見つけてくるといい。
田舎暮らしも悪くないと思うのだが、どうやらおまえたちには華やかな都会の
ほうが好ましいようだ」
 貞州侯が退出したあと、動揺から脱せられずにすがる浣蓮を暁紅は励ました。
長く仕えた浣蓮は当然ながら、誇り高い暁紅の操縦法――どうすれば彼女の機
嫌を取れるか――を心得ていたが、それは暁紅も同じだった。どうすればこの
唯一の下僕にして崇拝者の忠誠を失わず、したがって孤独に陥らずに済むか。
そんなことは感覚でわかっていた。
 弱気にならず、自信に満ちて未来を語れば良い。

279永遠の行方「呪(183)」★オリキャラ中心★:2010/03/01(月) 20:30:58
「とにかく今は呪具を見つけることが最優先。手に入れさえすれば、おそらく
何とでもなるでしょう。梁興はわたしに王への復讐をさせたがっていたのだか
ら、たとえばある程度の期間、市井に潜んで暮らせるだけの宝物のたぐいも隠
されているのではないかしらね」
 歳費を得られないなら、自分たちで生計の手だてを講じなければ路頭に迷っ
てしまう。仙籍の削除に次ぐ浣蓮の恐怖の理由はそれだった。暁紅にとっても
そうなのだから。
「でも――お嬢さま――」
「新しい貞州侯が来て、ここを追い出されてしまってからでは遅いのよ。かと
言って追い出されたくなければ、官吏になる知識も技能も持たないわたしたち
は、今度こそ奚の仕事でも何でもしなければならなくなる。そんな屈辱になど
到底耐えられるものではないわ」
 長い蟄居の過程で実際には王への復讐心を失っていたとしても、この期に及
んで新たな屈辱を味わうのはごめんだった。何と言ってもいったんは州侯の寵
姫にまで上りつめた尊い身なのだ。その誇りだけは誰にも奪うことなどできな
い。
 呪具と一緒に宝物があるかもしれないというのは願望でしかなかったが、い
ざ口に出してみると信憑性があるように思えた。女主人が自信たっぷりに言い
切ると、浣蓮は動揺を残しながらもようやく落ち着く様子を見せた。
 そうして数日のうちに貞州侯が寄越してくれた騎獣に乗り、彼女らは実に数
十年ぶりに光州に向けて飛び立っていった。

 騎獣の上で風を切りながら――むろん騎乗していれば実際には風など感じな
いが――暁紅は徐々に眠りから覚めていく気分を味わっていた。貞州城に来て
からの長い歳月は、漫然と日を追い、ひたすら日常を倦むだけの毎日だった。
だがこうして久しぶりに外の新鮮な空気を吸うと、まるで暗く長い洞窟から陽
光の下に出てきたように思えた。
 季節は晩春。気候もよく蒼穹は高く、何の憂いもないなら快適な旅路だった。
動きやすいこざっぱりとした衣服を着こみ、一路、光州の中心部を目指す。
 足の速い騎獣を使うふたりだけの道程とあって、大して時間はかからなかっ
た。騎獣に乗り慣れていないため途中で頻繁に休憩を取ったものの、光州城を
擁する凌雲山が見えてからは気が楽になって飛ばしたので、州城にたどりつい
たのはまだ陽が高いうちだった。

280永遠の行方「呪(184)」★オリキャラ中心★:2010/03/04(木) 00:06:28
 街に入って宿を取るより先に、とにかく目的の隧道の入口に向かう。もとよ
り知識として位置を教えられていたに過ぎない彼女らは、寂れた小さな洞窟の
入口を探すのに少々難儀した。それは当然で、ようやく見つけたそこは長い間
使われていなかったらしく半ば崩れ、苔むし、人が定期的に出入りしている気
配はまったくなかったのだ。
「明らかに打ち捨てられている。予想通りだわ」
 黒々とした口をぽっかり開けた洞窟に少々怖じ気づきながも、暁紅は訳知り
顔でうなずいて見せた。
 この奥に入らなければ呪具は手に入らない。それも浣蓮に取ってこさせるの
ではなく自分で見つけなければ。ひたすら不遇を嘆いていれば良かった今まで
とは違うのだ。暁紅の直感は、市井に降りても変わらず自分が主人であること
を、今のうちに感覚で納得させておくべきだと告げていた。
 時の流れはどれほど強い感情でも風化させる。長いこと眠ったように過ごし
てきた彼女は実際、昔ほどにはこんな場所も怖いとは思わなかった。何かあっ
たとしたら、それはそれだ。どうせ後は朽ちていくだけの人生なのだから、今
のうちにさっさと死ねるだけましだ……。そんな投げやりな慨嘆さえ心にいだ
く。
 後込みする浣蓮を従えた暁紅は、騎獣の手綱を手にしたまま、小さな手燭の
灯りだけを頼りに、この数十年の間に何度も反芻した記憶に従って隧道をたど
った。
 梁興の首を落としたときの衝撃がずっと残っていたせいもあるが、何より毎
夜の語らいで隠し場所に通じる道順を反芻し続けていたため、運命の夜に告げ
られた道順はそっくり脳裏に刻まれており、鉄の格子で封じられた一角にたど
りついたら梁興を讃える文言を唱えれば封印が解除されることもわかっていた。
おかげで何ヶ所かの分岐にも迷うことはなく、ほどなく古びた鉄格子が見えて
きたとき、ようやく浣蓮はほっとした表情になった。
 しかし手燭を高く掲げてあたりをよく照らしてみると、どう見ても鉄格子の
向こう側の岩が崩れて塞がれているように見え、彼女らは愕然とした。
「岩が――!」
 背後で小さな悲鳴を上げた浣蓮を制しつつ、暁紅は解呪の文言を唱えて鍵を
はずした。彼女の頭の中にも衝撃が渦巻いていたが、とにかく見定めなければ
との動揺のままに、開かれた扉の内側によろよろと歩み入る。そして崩れた岩
の陰、外からでは見えない場所に、巧妙に小さな扉が据えられているのを見つ
けたのだった。

281永遠の行方「呪(185)」★オリキャラ中心★:2010/03/06(土) 00:40:55
 大人の背丈の半分の高さしかないその扉に鍵はかかっておらず、取っ手を引
っ張っただけで難なく開いた。向こうは岩壁にうがたれたささやかな洞(ほら)
になっており、小さな櫃が三つ積まれていた。
「見つけたわ。こちらへ来てごらんなさい」
「お嬢さま……」
「梁興は用心深く事を運んだようね。確かに落石で塞がれているように見える
鉄格子の奥など、誰も無理に押し入ろうとはしないでしょう」
 間近であらためて周囲の岩を調べると、それらは漆喰のようなもので隙間を
固められており、見かけとは裏腹に、実際には容易に崩れないようになってい
た。
 騎獣の体躯では狭い鉄格子の扉をくぐれなかったため、手綱を外側につなぎ、
一番上の櫃を地面におろす。ひとかかえほどしかない小さな櫃ではあったが意
外に重く、埃のような土砂に薄く覆われていたために持ち手が滑りやすくもな
っており、ふたりがかりでおろすのがやっとだった。
 蓋の掛け金をはずして調べると中身は、柔らかな絹の詰め物と油紙に包まれ
た上に皮袋に入れられた、玉やら装身具やらの見事な宝飾品だった。傍らに置
いた手燭の乏しい灯りだけでも、それらの豪華な美しさは堪能できた。
「言ったとおりでしょう。やはり梁興は宝物も隠していたんだわ。州城にあっ
た莫大な財宝に比べればささやかなものだけれど、これだけあればどんな生活
でもできる」
 こんなことは最初から見通していたという体で、暁紅は一番上にあったきら
びやかな連珠と歩揺を取り、「これはおまえのものよ」と言って浣蓮に渡した。
「そんな、お嬢さま」
「この櫃の半分はおまえのものだもの。おまえは貞州城でわたしよりずっと苦
労してきたのだから、これくらいのものは受け取らなくてはね」
 寛大な主人の役を演じた彼女は、「あとで再訪するときの旅費になる」とつ
ぶやいて小さな宝玉をひとつだけ取り、櫃の蓋をぱたんと閉めてふたたび掛け
金をかけた。
「これほどのかさと重さのものを、見咎められずに貞州城に持ち帰れるわけも
ない。もうしばらくここに隠しておかなければ。市井に降りてからあらためて
取りに来るとしましょう。呪具は残りのふたつの櫃の中でしょうね」

282永遠の行方「呪(186)」★オリキャラ中心★:2010/03/06(土) 00:44:59
 そう言ってふたたび浣蓮を促し、ともに汗を流して第二の櫃を引っ張り出し
た。
 油紙と皮袋で厳重に守られていたのは同じだが、今度の中身は書類の束だっ
た。しかし重要な内容が書かれているのだとしても、手燭の灯りだけでは細か
な文字を読むことはできず、彼女らは諦めて最後の櫃を取り出した。そこには
明らかに呪言とわかる文言を刻まれた文珠が山のように納められており、今度
こそふたりは心の底から安堵の吐息をもらした。

 書類のうち一番上にあった包みから数枚のみ取り出して懐に入れると、暁紅
は櫃を元通りに洞に納めた。今すべてを持ち出すわけにはいかないにしても、
記されている内容をまったく知らないままこの地を離れるのはいやだった。一
部でも持ち帰って、確かに強大な威力を持つ呪具があることを確認しなければ。
長い間心の支えであった事柄が、確かに事実であるとの証拠がほしかった。
 とはいえまだ回収こそしていないにせよ、梁興の遺産をあっけなく発見でき
たことに暁紅は拍子抜けする思いだった。貞州で無為に過ごしていた間、心の
どこかで見つからないかもしれないと恐れていたのが嘘のようだ。こんなこと
なら理由をつけてもっと早くここを訪れるのだったと、今さらながらに彼女は
後悔した。
 その後ふたりはようやく街に入って高級な舎館を選び、騎獣を預けて広々と
した居室に落ち着いた。旅装束だから簡素ななりだが、手入れの行き届いた高
価な騎獣と物腰から宿では上客として丁重に扱われた。
 まずは湯を使って短い旅路の疲れと隧道で浴びた土埃とを落とす。それから
豪勢な食事をしたため、茶を飲みながらゆったりとくつろいだ。連珠を首に、
歩揺を髪に差してはしゃぐ浣蓮に高慢な微笑を投げつつ、暁紅は懐に隠してい
た書類をわずかな緊張とともに取り出して卓に広げた。気づいた浣蓮も、つつ
ましやかながら興味深く覗きこむ。
 それは呪に関する説明書きで、素人である暁紅にもわかる表現で概略が記さ
れていた。いわく摩訶不思議な作用をもたらすものではあるが、これは厳然た
る技術なのだという。
 呪を行使する方法は三つ。

283永遠の行方「呪(187)」★オリキャラ中心★:2010/03/06(土) 16:39:25
 言うまでもなく一般に知られているのは、所定の手順によって呪言が刻まれ
た呪具を用いることだった。これは持ち主が仙であると只人であるとを問わず、
誰でも効果を享受することができる。順風車や冬器がそれだ。もっともこの場
合は正確には、「呪を行使する」とは言えないが。
 次の方法は無機物や生物に対し、定められた文言を正確に刻むこと。つまり
前述の呪具を作成する方法となる。ただし普通は冬官の仕事になるためか、詳
細は省くとそっけなく記されているだけだった。素人にとっては適当に文字を
刻むだけでも大変な作業に違いなく、工人でもない暁紅らには到底無理だと思
われたからかもしれない。
 最後の方法は、言葉の意味を理解した上で正確に呪言を詠唱すること。これ
は呪具が必要なこともあれば、詠唱だけで効力が生じるものもあるらしい。ど
ちらにしても通常は只人には扱えず、仙であっても当人の位、または能力に依
存する部分が大きいとされていた。呪詛の場合はさらに特殊で、被術者の無意
識の抵抗を打ち砕くため、それなりの能力を持っていないかぎりは相応の注意
と準備が必要と記されていた。呪具自体の何らかの変形によって結果的に相手
を傷つけるものなら別だが、相手の心身に直接作用を及ぼす呪は闇の領域に属
する禁断の秘術であり、たとえ仙であっても元は人にすぎない者が使うには多
大な危険を伴うのだ。
 概略に続いて、国府への報告なしに密かに開発されたものを含めた呪の目録
が載っていた。個々の術に関する細かい説明はなかったので、隧道に残してき
た書類の中に詳細があるに違いない。
「いろいろな術がありますわ。名前を見ただけでは何のことやらわかりません
けど、きっとどれもすばらしい効果をもたらすのでしょうね」
 目を輝かせた浣蓮の言葉通り、目録には大量の術名が羅列されていた。しか
しそれらを含め、大半は暁紅が光州時代に「呪ではこんなこともできる」と噂
を聞いたことのある内容の焼き直しに過ぎないと思われた。ということは世間
に知られているか否かはともかく、大多数は秘術でも何でもないに違いない。
だが少なくともひとつの州を不毛の地にするなどという邪法は、前代未聞の禁
呪のはずだ。
 それにしても、と暁紅は不審を覚えた。これだけの呪をすべて駆使すれば、
梁興はすぐにでも王位に就けたのではないだろうか。それをせずにまずは行幸
を仰いで王をおびき寄せたことを考えると、厳しい制約があるのか、先ほどの
概略にあった注意書きが示すように、使用をためらうほどの危険があるに違い
ない。たとえば自分の肉体や生命を代償にしなければならないなど。

284永遠の行方「呪(188)」★オリキャラ中心★:2010/03/06(土) 16:50:10
 最後の夜の、彼の陰鬱な笑みが脳裏に蘇った。あの男は自分の目的さえ達せ
られれば、暁紅がどうなろうと意に介さなかったろう。たとえ呪の発動と引き
替えに暁紅や浣蓮が命を失っても些末事に過ぎないのだ。
 そんな男、それも死者の操り人形で終わってたまるものかと憎々しげに考え
る。自分が件の呪を使うとしたら、それはあくまで自分のため。間違っても梁
興のためではなく、もちろん浣蓮のためでもない。確かにあとは市井に埋もれ
て消えていくだけの人生かもしれない。しかしそれは絶対に、他人の道具とし
て生涯を終えることではないのだ。

 一ヶ月後、暁紅たちは貞州侯の代替わりを前に貞州城を辞して光州に戻った。
最後に受け取った俸禄で光州城下の立派な邸宅を買い取り、当座の住まいとす
る。いずれは口の固い下働きを探すことになるだろうが、しばらくはふたり暮
らしだ。
 騎獣を借りて、例の隧道にあった櫃を早々に手元に運んだ暁紅は、邸の奥深
い小部屋に安置して詳細に検分した。
 最初の櫃には只人が一生遊んで暮らせるほどの豪華な財宝。次の櫃には呪に
関するさまざまな資料。もっとも大半は少なくとも冬官にとっては既知と想像
される内容だったが、それは復讐に際して、既存の術でも何らかの役には立つ
だろうと梁興が考えたからに違いない。もしくは単にすべてを国府に明け渡す
のが惜しかったのか。そして最後の櫃には呪言を刻まれた、それ自体が価値の
ある美しい宝玉で作られた大小の文珠。
 浣蓮はこれでようやく長い間の苦しみを王にぶつけられる、絶対に思い知ら
せてやると意気込んだ。暁紅のほうは既に復讐心を失っていたも同然だったが、
唯一にして忠実な下僕の機嫌を損ねるのは得策ではないと判断し、自分も同じ
気持ちであるように装っていた。それに多大な力を得た今、どうせなら王に意
趣返しをしてみたいという欲求はあった。
 何しろこれらの呪に本当に効力があるとすれば、指を鳴らすように簡単に雁
の運命を左右することができる。ならば猫が鼠をもてあそぶように王をもてあ
そんでみたいものだ。
 そう、高貴な女神のごとく玉楼に座し、はるか下界で人々があわてふためく
さまを見物できたらどれほど気分が良いだろう。自分はいわば翳(うちわ)を
一振りするだけで、優雅に、そして簡単に国土を暗雲で覆うことができる。天
上の彼女を見上げて畏怖と恐怖におののく愚か者たちを眺め、宴の中で笑いさ
ざめき……。

285永遠の行方「呪(189)」★オリキャラ中心★:2010/03/06(土) 16:52:19
 そこまで空想したものの、楽しくさまよいだした思考も王のことを考えると
萎えてしまった。暁紅にはどうしてもあの王が普通の男のように苦しむさまを
想像することはできなかったのだ。闇に魅入られたような暗い目と、その奥で
燃え盛る異様な炎。触れれば斬れるような危険な刃のきらめき。苦しむという
よりはむしろ――おもしろがるのではないだろうか。
「ほう。これはなかなかの見ものだ」
 そう言って笑いを含み、興がる王の姿なら容易に想像することができ、彼女
は唇をかんだ。やはり自分は王に一矢を報いることはできないのか。
(ならばお望み通り、おもしろいものをご覧に入れてさしあげますわ、主上)
 彼女は心の中で挑戦的に呼びかけた。枯瘠環で混乱に陥った光州を見て苦悩
するもよし、よしんば彼女の想像通りに王が興がったとしても、ひとつの州の
滅亡は必ずや王朝の終焉を導くはず。目の奥に闇をたたえた王は、自分の最期
さえも笑い飛ばしてしまうのかもしれないが、それでも暁紅の力を誇示するこ
とはできる。そして興を得た彼は今度こそ彼女に深い関心を示すだろう。
「おまえのような野心的な美女を后にしておけば、はるかにおもしろい人生を
過ごせたろうな。惜しいことをした」
 そう言ってにやりと野生的な目を向ける王なら容易に想像でき、暁紅は少し
気分が良くなった。
 しかしながら書類を検分するにつれ、どうやら只人ならまだしも仙に呪をか
けることは難しいらしいとわかった。額に第三の目が開いている仙は、位が高
ければ高いほど呪術的な能力も大きいからだ。神籍にある王は仙よりはるかに
高位の存在だから、さらに困難を極めることは想像に難くない。
 ふたりの女は落胆したものの時間だけはいくらでもあったので、とにかく何
かの術を試してみることにした。そうやって呪に詳しくなれば状況を打開する
方法が見つかるかもしれないと考えたのだ。
 複雑な文言を唱えたり面倒な準備や呪具が必要な高度な術はいったん脇にの
き、彼女らは呪言の詠唱で発動できる術を試すことにした。
 暁紅が慎重に選んだそれは、しかし呪詛に連なる術だった。最悪の場合、相
手を死に追いやる邪悪な術。しかし彼女は多少のためらいを覚えただけで、さ
ほど気にすることはなかった。市井の只人が相手なら比較的簡単に効力を発揮
するだろうし、そもそも彼らはたった六十年で生涯を終える下層民にすぎない。
わずかなためらいも、あくまで自分の身に惨事が起きることを恐れてのもの。

286永遠の行方「呪(190)」★オリキャラ中心★:2010/03/06(土) 23:44:33
 これが毒殺なら、何とかして標的に近づき毒を盛らねばならない。剣を使う
場合に至っては、肉を斬り骨を断つおぞましい感覚を二度と味わいたくはなか
ったから最初から問題外だ。
 しかし呪言をつぶやくだけとなれば、もともと心理的な垣根は低い。暁紅は
その決定的な境界を、自分でもまったく意識せずに楽々と越えてしまったのだ
った。
 それでも他人に害をなす呪は相手の抵抗を打ち砕かねばならないとの警告は
無視できなかったので、考えあぐねたあげく、心身ともに抵抗が弱いだろう乳
幼児を狙うことにした。幼い子供、特に赤子はちょっとしたことで死に至るだ
けに、直接触れないかぎりは疑いも招きにくいだろうとの計算もあった。
 ある日、暁紅は良家の夫人と侍女という風体で浣蓮を従えて町中を散策した。
人目のまばらな小途で、揺りかごに寝かせた赤子と日向ぼっこをしていた若い
母親を見つけた彼女は、「まあ、可愛い赤ちゃんだこと」とにこやかに話しか
けた。そして浣蓮と母親が世間話をしている隙に、定められた呪の心象を正確
に思い浮かべて小声で呪言を唱えた。
 その瞬間、世界は暗転し、彼女はその場で意識を失って昏倒した。

287永遠の行方「呪(191)」★オリキャラ中心★:2010/03/09(火) 00:06:34

「……さま。お嬢さま」
 遠くで呼わる浣蓮の声。ひどい倦怠感の中、暁紅は長らくその声を聞き流す
だけだった。このままではいけないという考えが頭に浮かんだのはずいぶん経
ってからのこと。彼女はようやくうっすらと目を開いた。
 そこは例の買い取った邸宅の牀榻であり、枕元を覗きこんでいた浣蓮がほっ
とした表情を向けた。
「お気がつかれましたか。ようございました。本当にようございました」
 そう言ってさめざめと泣く。指一本動かすだけの気力もない暁紅は、黙って
臥牀に横になっていた。疲労だの何だのという生易しいものではない。生命そ
のものを使い果たしたかのようなすさまじい消耗感。
 浣蓮が彼女の口に吸い飲みをあてがって薬湯を飲ませようとしてくれたもの
の、だらだらとこぼすばかりで結局飲みこむことはできなかった。
「お嬢さまが昏睡しておられる間、あの書類を詳しく調べてみました。只人の
場合は呪言を唱えても効果を発揮させることはほとんど望めないわけですけど、
仙であってもよほどの才能がないかぎり、呪詛には相当な準備が必要だそうで
す。というのも相手の抵抗を打ち崩し、無意識の呪詛返しがあったとしてもそ
れを無効化するために、あらかじめ大量の気を蓄えておかなければならないん
です」
 こわばった顔で訴える下僕の言葉を、暁紅は打ちひしがれた思いで聞いてい
た。
 ではこれは、あの赤子に呪詛をしかけたがための報いだったのか。たかが只
人の赤子だったのに、そもそも首か胴を断ち切られないかぎりそうそう死ぬも
のではないと言われる仙なのに、これほどの消耗を強いられるのか……。ある
いは赤子ゆえに潜在的な生命力は強かったということだろうか。
 何にしてもひとり呪ったくらいでこんな目に遭うのでは、ひとつの州を不毛
にするなどという大それた術は到底かけられない。ざっと書類を読んだかぎり
では、枯瘠環を発動させるには目的となる地域を十二方位から二重の死の呪環
で囲わなければならず、したがって最低でも二十四家の死が必要なのだから。
梁興はいったい何を考えていたのだろう。

288永遠の行方「呪(192)」★オリキャラ中心★:2010/03/09(火) 21:02:11
 暁紅が倒れてから既に十日以上が過ぎていた。浣蓮によると、結局あの赤子
は数日後に死んだとのこと。しかし眠ったまま目を覚まさずに衰弱死したとい
う静かな終焉であり、呪詛による効果かどうかはわからなかった。
 それから丸一日、暁紅は寝たきりだった。それでも女主人が回復してきたこ
とでほっとしたのだろう、浣蓮はかいがいしくもにこやかに世話をし、書類に
あった記載をさらに調べたと言って、消耗ゆえに極端に口数の減った暁紅が黙
って耳を傾けるまま事細かに報告した。
「気というものは、その人の能力や体質によっては労せずためることができる
そうです。そうでない場合は呪言を他人に唱えさせることで、その人の気を利
用する方法があるとか。とはいえ無理強いして唱えさせても効果は見込めない
そうですし、そもそもわたしたちの代わりに生命を投げだしてくれる他人を見
つけるなんて無理でしょうね」
 だが彼女は打ちひしがれるでもなく謎めいた笑みを口元に浮かべていたので、
暁紅は不思議に思った。それがわかったのだろう、浣蓮は笑みを浮かべたまま
こう続けた。
「でもお嬢さま、わたしたちは恵まれていますわ。というのも男の体は基本的
に気を放出するように作られているそうですけど、反対に女は気をためこみや
すいんだそうです。ただ一点だけ注意すれば、女は男の気をいくらでも吸いと
れるとか」
 意味がわからず、さりとて疑問を口にするほど回復していなかった暁紅は黙
って聞いているだけだった。
 やがて暁紅の体調が良くなると、浣蓮はたまに一、二刻姿を消すようになっ
た。そうして一ヶ月後のある日、家事の合間に同じように暫時姿を消したかと
思うと、疲れきった様子ながらも勝ち誇った表情で戻ってきたのだった。
「お嬢さま、わかりました。消耗に備えて気をためれば良いんです。梁興もそ
れを見越して、わたしたちに呪を任せたんです」
 呆気にとられている女主人を前に、彼女は暁紅が唱えたのと同じ呪言を用い
て幼児ひとりを殺めたことを得意げに報告した。しかし少々やつれてはいたも
のの足取りも声音もしっかりしており、あのときの暁紅と比べるとはるかに元
気だった。

289永遠の行方「呪(193)」★オリキャラ中心★:2010/03/09(火) 21:04:28
「どうやって……」
「男から気を奪うんです。やりかたも書いてありました。思ったより簡単でし
た。それに」いったん言葉を切ってから、意味深な笑みを浮かべて続ける。「
男のほうも悦ぶんです。不思議ですわね。気を、つまり生命力そのものを奪わ
れているとも知らず、狂ったように何度でもわたしの体を求めるんです」
 ――房中術。
 茫然としながらもようやく暁紅は理解した。浣蓮は男と交わることで、相手
の気を、精力を奪いとったのだった。
「どうやら気を奪われる際の感覚というものは、恐ろしいまでの快感をもたら
すようです。破滅に導かれているとも知らず――いえ、だからこその禁断の快
楽なのかもしれません。何度も何度も狂ったようにわたしを求め、十日も経つ
頃には老人のように肌が乾いてかさかさになり、目は落ちくぼみ、それはみす
ぼらしい風体になり果てていました。適当なところで切り上げて別の男を見つ
くろいましたけど、どの男もそれはそれは夢中になって、ふんだんに気をくれ
ました」
「浣蓮……おまえ……」
「けれどお嬢さま、いくら男を悦ばせても、自分だけは達しないように律しな
きゃいけません。気をためこむ女の体も唯一、達するときだけは気を放出する
状態になるそうです。そうなったらせっかくためこんだ気を失ってしまいます」
 狂おしげに目を輝かせて、くっくっと笑う下僕の様子に、暁紅は背筋がぞっ
とするものを覚えた。男女の交情が子供に結びつかないこの世界では、さほど
貞節が重んじられるわけではない。だが少なくとも地味な浣蓮はこれほど容易
に男に身を任せる娘ではなかったし、いくら目的のためとはいえ、交情による
成果を赤裸々に語るような下品な娘でもなかったはずだ。なのにこの様子は、
ためらいもなく呪詛を行なった暁紅でさえ、何かが異常だという感覚は否めな
かった。
 そんな女主人の様子に頓着せず、というよりも暁紅は表面上は落ち着いて、
「よくやったわね」と微笑とともに褒めたので気づかなかったのだろうが、彼
女はそれからも時折姿を消してはそのたびに勝ち誇った顔で戻ってくるように
なった。自分たちが呪を使えることを周囲に知られてはまずいというのに、手
に入れた力を得意になって乱用するさまに暁紅は愕然とした。

290永遠の行方「呪(194)」★オリキャラ中心★:2010/03/09(火) 21:06:35
 ――この……小娘。
 心中で毒舌を吐く。これまでも折に触れうとましく思ったことはあるものの、
この下僕をこれほどいまいましいと思ったのは初めてだった。
 やたらと力を行使しないよう、何とか言いくるめなければならない。それも
浣蓮が不快に思わないよう注意して。ここで扱いを間違えたら、下僕を失うだ
けでなく敵を作ることにもなりかねない。
「ねえ。いくら大きな街でも、流行病でもないのに赤子や子供が次々と死んで
は怪しまれてしまうわ。特にわたしたちは新参者なんだもの、子供が死ぬ前に
必ず見慣れない女の姿があったなんてことが知れたら大変なことになる。書類
にあった呪が本物だという確認はできたことだし、おまえのおかげで気をため
る方法もわかったのだから、今度はもっと地味な別の呪を試してみてはどうか
しらね。どの術も、いずれ何かの役には立つだろうから」
 そう言うと浣蓮は心得顔でうなずいた。
「おまかせください、お嬢さま。そうおっしゃるだろうと思って、子供を殺め
たのは一度だけですわ。それも不審を抱かれないよう細心の注意を払ってのこ
とですからご安心を。餌食にした男たちは皆衰弱死しましたけれど、旅人や浮
民のような余所者ばかりですし、傍目には悪い風邪をこじらせたように見えた
と思います。今試しているのは呪詛ではなく、心を縛って一時的に昏睡に落と
す術とか、香を使って幻惑する術とか――そのあたりです。もちろんなかなか
成功はしませんけど、それは仕方がないと思います。少なくとも只人に限って
言えば、そういう術のほうが単純な呪殺よりずっと難しい面もあるし、そもそ
も仙とはいえ素人のやることなんですから」
「そう……」
 彼女なりに注意は払っているらしいことを確認し、暁紅はとりあえず安堵し
た。しかし浣蓮は相変わらず狂おしくも目を輝かせており、暁紅は下僕の暴走
を警戒するとともに薄ら寒くなった。確かに浣蓮は身体的には多少の疲れが窺
える程度だったが、代わりに精神を――自分自身をどんどんすり減らし、心そ
のものを病んでいっているように見えたからだ。
 もしや他人に害をなす呪は、身体にしろ精神にしろ、術者の側も必ず何かを
犠牲にしなければならないのではないだろうか。そう考えて慄然としたものの、
だからと言って櫃を封印してどこかへやってしまうわけにもいかない。そんな
ことをしたら、これまでの数十年の心の支えがなくなってしまう。それに害さ
え被らないのなら、そして周囲に露見しなければ、暁紅自身も他の呪を試して
力を実感したいとの欲求はあるのだ。

291永遠の行方「呪(195)」★オリキャラ中心★:2010/03/09(火) 23:12:54
 そんな女主人の心境にはまったく気づかず、浣蓮はあいかわらずさまざまな
呪を試していった。とはいえ相手は市井の名もない民に限られていたのが幸い
だった。呪殺に限らず、仙に呪をかけるのは困難を伴うとあっては無理からぬ
話だが。
 枯瘠環(こせきかん)と名づけられた、土地に不毛をもたらすための肝心の
呪にもまだ手は出せなかった。いろいろと面倒な準備が必要な上、実際に不毛
にする土地――つまり光州の大半――を死の呪環で囲む必要があり、そのため
の文珠を各地に埋めねばならなかったからだ。
 どこにどのように埋めれば良いかという指示は事細かに記されていたし、そ
もそも櫃の文珠はこのために用意されていたのだから、他の術に比べれば手順
自体は明確で施術者の能力に依存する部分もなかった。しかし光州中を何ヶ月
も旅して埋めねばならないというのだから、か弱い女ふたりにとっては考えた
だけでも難事業だ。何よりそれだけの規模の呪詛となると、いったん発動した
ならば施術者の側も相当な負荷を強いられるのは想像に難くない。いくら気を
ためて備えても、簡単に生命を落とすかもしれないのだ。
 とはいえ浣蓮はあきらめたわけでもなかった。既に復讐心をほとんど失って
いた暁紅と違い、彼女は何としても王を苦しめたいと思っていたからだ。
「あまり深刻に考えることはありませんわ、お嬢さま。物見遊山のつもりで楽
しく旅をして、文珠はそのついでに埋めてきましょう。でも――そう、浮民や
荒民のようなならずものに襲われないよう、旅の間、屈強な用心棒を雇ってわ
たしたちを守らせるぐらいはしたほうがいいでしょうね」

292永遠の行方「呪(196)」★オリキャラ中心★:2010/03/10(水) 23:50:44
 茶を飲みながら、そう言って楽しげにころころと笑う。内心でずっとこの下
僕の暴走を警戒していた暁紅は、相手の様子にふと思いつくものがあった。
 浣蓮は王を苦しめたいと思っている。そのさまを見て溜飲を下げたいと。そ
れならば。
 暁紅は考えこむ風情を見せてからおっとりと尋ねた。
「おまえ、それで本当に満足なの?」
「と、おっしゃいますと?」
 怪訝な顔をした浣蓮の前で、暁紅は持っていた茶杯をゆっくりと卓に置いた。
そうしてふたたび考えこんで見せてからこう答えた。
「時間さえかければ、もちろん枯瘠環を敷くことはできるでしょう。でもそれ
で光州を不毛にしたからと言って、市井で暮らすわたしたちはもう王が苦しむ
姿を直接見られるわけじゃない。人々は王に呪詛の言葉を吐くだろうけれど、
それで本当に彼が苦しんだかどうかを知ることはできないわ。あの王のことだ
もの、むしろ皮肉めいた顔で軽く笑い飛ばすだけかもしれない。たとえ最後は
失道だったとしても、わたしたちが味わった悔しさや苦しみの一端さえ味わわ
ないで終わるかも知れない」
「それは……」
 浣蓮は言葉を失って口を閉ざした。
 ずっと暁紅につきしたがってきた彼女も、何十年も前に光州城で王を目の当
たりにしている。横暴で冷ややかで、みずからを焼きつくす炎を内に秘めてい
た王。そんな彼が普通の男のように単純に苦しむ姿は、確かに想像しにくかっ
たのだろう。
 目を伏せた彼女は、やがて吐き捨てるように「仕方がないじゃありませんか」
と答えた。
「わたしたちには他に手だてなどないんです。これで王が苦しむはずと自分に
言い聞かせて、せめて想像で心を慰めるしかないんです」
 子供のようにふてくされた相手を見て、暁紅は微笑を浮かべた。彼女の暴走
を抑え、自分の手足として操るための糸口を見つけたと思ったからだ。
「そうでもないかもしれないわ」
 思わせぶりに優しくほほえんだ女主人に、浣蓮ははっとして顔を上げた。

293永遠の行方「呪(197)」★オリキャラ中心★:2010/03/11(木) 00:11:20
「お嬢さま……」
「お聞きなさい。梁興が謀反を起こすまで、わたしは王がおしのびでひんぱん
に市井に降りているなどと信じたことはなかった。女を抱きに妓楼に通ってい
るという噂も。だってあまりにも荒唐無稽ですもの。でもわたしたちは既に、
延麒が王の寵愛を受けていることを知ったわね。となれば他の噂もかなりの部
分は真実なのではないかしら」
「それは、まあ……」
「貞州城にいた間だって、おまえは王に放浪癖があるという話を普通に耳にし
て、わたしに教えてくれたわね。ならばあの男を市井におびきだすこと自体は
不可能ではない。彼の関心を引ければ向こうからやってくるんだから。そうや
っていったんおびき出してしまえば、王が苦しむさまを、少なくとも報いを受
けた姿をこの目で見ることも不可能ではない――そうでしょう?」
「それは――そうですけれど……」浣蓮は困惑したように口ごもった。「でも
……おびきだすって、どうやって」
「だから呪よ。枯瘠環を目的ではなく手段として使うの。それも梁興の思惑通
りに一度に未曾有の大事件を起こして終わりにするのではなく、只人にはわか
らないけれど国府の関心は引くようなおかしな現象を、思わせぶりに少しずつ
起こしていく。そのほうがわたしたちの体の負担にもなりにくいだろうし、日
頃から下界をふらついているような王なら、自分の目で確かめようとしゃしゃ
り出てくるんじゃないかしらね。延麒のためとはいえ、かつて元州城にひとり
で乗り込んで謀反人と一騎打ちをしたほど無謀な男だもの」
 幾度かまばたいた浣蓮は、やがて合点がいったらしく大きくうなずいた。
「――ええ。ええ……確かに」
 忠実な下僕がようやく主人の言に耳を傾ける姿勢を見せたことで暁紅はほっ
とした。いろいろなものを手に入れたばかりなのに、暴走しかけていた浣蓮に
自分まで引きずられるのはごめんだった。
 そもそもまだ櫃を手に入れたばかりで、具体的に何が可能で何が不可能かを
把握したわけではないのだ。今はとにかく、先のことを考えるのに時間がほし
かった。

294永遠の行方「呪(198)」★オリキャラ中心★:2010/03/11(木) 00:15:07
 思わせぶりな事件を起こして王をおびき出すという策は、今思いつくままに
口にしただけで裏付けも何もなかった。しかし口に出してみれば我ながら悪い
考えではないように思えたし、何よりも浣蓮の行動を制限するのに、これ以上
良い口実はなかった。
「ねえ、浣蓮。わたしもおまえも、梁興の操り人形で終わっていいわけがない
わ。だからあの呪はあくまでわたしたち自身のために使いましょう。光州が滅
びようと滅びまいと、今さらそんなことはどうでもいい。櫃の呪は王の興味を
引くような事件を起こすことに利用し、そうしてわたしたちをこんな境遇に追
いやった王が苦悩するさまをとっくり鑑賞するの。でもそのためには不用意に
術を試して人目を引くような危険は冒さず、まずはあの書類を隅から隅まで調
べて慎重に策を練らなければね」
 浣蓮はまじまじと暁紅を見つめていたが、ようやく分別は取り戻したらしく、
ここしばらく彼女の目に宿っていた狂おしくもぎらついた光はやわらいでいた。
「確かにそうです……」考えこみながら答える。「それに――そう、光州に戻
ってきたばかりのわたしたちですから、昔のように一時的な監視がついていな
いともかぎりませんね……。だとしたら少し不用心でした。これからはもっと
慎重に事を運ばなければ。ここまで待ったんですもの、もう何年か待つ程度の
ことは我慢できます」
「数年なんて、神仙にはあっという間よ。さほど待ったと思わないうちに、き
っと機会は訪れるわ」
「おっしゃるとおりです。疑いを抱かれないよう、数年はここで静かに暮らし
て――そうだわ、どうせなら靖州に、首都関弓に行きませんか?」
「関弓?」
「はい。王がひんぱんに街を歩いているというのが本当なら、この目で王を見
ることができるかも知れませんよ。通いつめている妓楼でもわかれば待ち伏せ
だってできます。よしんば見かけることができなくても、王に関する噂を集め
ることはできるんじゃないでしょうか。そうすればずっと罠を張りやすくなり
ます」
 暁紅は考えこんだ。すばらしい誘惑ではあったが、浣蓮が言い出しただけに、
どこかにまずい点がないかと警戒のままに頭の中でさらった。

295永遠の行方「呪(199)」★オリキャラ中心★:2010/03/12(金) 19:11:17
 だが特に危険はないように思われた。それに華やかに違いない首都での暮ら
しには憧れたし、何よりも王のそばにいけるのは大きな誘惑だった。
「それは良い考えだわ。ではそれまではしばらくここで、人目につかないよう
ひっそりと暮らしましょう。どうせあの大量の書類を読み解いて、どんな呪を
利用できるか時間をかけて検討しなくてはならないのだもの。枯瘠環にしても
一度に死の呪を発動させるのではなく、時間差を設けて事件を起こす余地があ
るかどうか探らなければ」
「そのことなら大丈夫だと思います。事細かに書かれていた指示を素直に解釈
するかぎり、逆にひとつひとつの死の呪は適当な時間をおかないと発動しない
ような書き方でしたから。ただひっそりと暮らすとしても、王の噂なり動向な
りを得るには、今のうちに世間と接点を持っておくほうがいいんじゃないでし
ょうか。何か商売をするとか」
「商売ですって? 下賤の者のように卑しい仕事をするというの? とんでも
ない!」
 驚いた暁紅は思わず強く調子で抗弁したが、浣蓮はそれを不快に思う様子は
なく、むしろ地道に彼女を説得した。
「実際にお金儲けをする必要はないんですから、要は怪しまれなければいいん
です。お嬢さまのご実家も商家だったんですし、聞こえの良い商売なんていく
らでもあるじゃありませんか」
「まあ、おまえが言うなら……」
 相手の言には一理あったので、暁紅は不承不承浣蓮に譲った。
 その後、彼女らは先行きのことをあれこれ考えながら、互いに案を出してい
った。とりとめのない内容も多々あったものの、かつて貞州城で毎晩語らった
ような夢想に比べれば、目的がはっきりしているぶんずっと実のある内容だっ
た。
 そのまま大した事件も起きずに十年が過ぎ、何の監視もないことを確信して
から、ふたりは住まいを関弓の近くに移した。その際、念のために別人を装う
ことにし、新しく戸籍を手に入れることにした。むろん簡単にできることでは
ないが、梁興の遺した財宝をもってすれば方法はあった。

296永遠の行方「呪(200)」★オリキャラ中心★:2010/03/12(金) 19:13:39
「貧しい身なりで荒民のふりをし、旌券を紛失したことにして府第に届け出る
のよ。そして仮の旌券を発行してもらう。何年か経ってほとぼりがさめた頃に、
その名義でささやかな土地を買えばそこに戸籍を作れるし、旌券も正式なもの
になるわ」
 土地というものは一般の民、それもよそ者が簡単に買えるほど安いものでは
ない。第一、貧しいはずの荒民が土地を買おうものなら、金の出所について詮
索もされるだろう。そもそも雁の民なら、わざわざ戸籍を偽名で作り直す利点
などないのだから、普通はそんなことを考えもしないし、考えたとしても先立
つものがない。だが彼女らには櫃の宝物があった。
 いきなり関弓に住むのではなく、まずは近くの街に住まいを求めたのもその
ためだった。偽名で仮の旌券を取得し、正式な戸籍を得て出自を隠してから関
弓に移ったほうが何かと安全だろうと考えたのだ。
 いずれにせよ現王朝が必ずしも永らえて復讐の機会を得られるとはかぎらな
かったのに、貞州でただ不遇をかこっていたことと言い、もともと彼女らの行
動力は高くない。追いつめられてからようやく腰を上げるたちだ。そして首都
近郊に居を移したのもまだまだある準備の初期段階に過ぎなかったし、いろい
ろなたくらみを実地に移すのはさらに先の話だった。
 それゆえ彼女らにとって、その日の邂逅はまったくもって予想だにしないこ
とだった。
 当人たちも自覚のないままどこか疲弊していた心は、口では関弓に行けば王
と遭遇する可能性はあると言いながら、特に暁紅はそんな都合の良いことは起
きないだろうと投げやりに考えている面があった。期待が裏切られたときのこ
とを思うと、そのほうが心理的に楽だったからだろう。おそらく大きな障害で
もあれば、そこであっけなく挫折していたにちがいない。しかし思いがけない
その出会いは、運命による最初で最後の決定的な後押しとなったのだった。

297永遠の行方「呪(201)」★オリキャラ中心★:2010/03/13(土) 14:05:56

 関弓の城壁の内側で、暁紅と浣蓮は無言のまま並んで座りこんでいた。往来
は行きかう民で相変わらず活気にあふれており、彼女らと同じように城壁の傍
らにたたずむ荒民たちでさえ、傍らに小綺麗な天幕を張って忙しく立ち働いて
いる。
 そろそろ黄昏時だが、彼女たちは惨めな心をいだいたまま立ちあがる気力も
なかった。この時刻では隣の街に帰る余裕はない。宿を取ろうにも貧しい荒民
を装うためにほとんど金を持ってこなかったし、そもそも華やかな関弓には荒
民を泊めてくれる舎館などないだろう。
 首尾自体はうまくいった。府第で発行してもらった仮の旌券はきちんと懐に
収まっている。だがそのために「ただ一度我慢すれば良いのだから」と打った
芝居が彼女たち自身を打ちのめした。
 朝、隣町の仮住まいから粗末な着替えを抱えて出立し、途中の灌木の陰で着
替え、元の衣類と持ち物は油紙に包んで枯れ葉で隠しておいた。衣類はこのた
めに用意した古着であり、髪は臭気のある古い油を塗ってから乱雑にまとめあ
げ、顔にも日焼けしたような顔料をなすりつけると、傍目にも浮民のようにし
か見えなくなった。泥水で手を汚し、爪の間にも泥を入れて乾かして少しでも
綺麗な部分を隠してから、彼女たちは髪や古着の臭気を我慢しながら、徒歩で
関弓に向かった。これならば実際に着く頃には疲れきっていて、空腹でもある
だろうし、ことさら惨めな様子を装わずとも、貧しい浮民に見えるだろうと思
ったのだ。裕福な暮らししかしてこなかった彼女たちだから、なるべく演技を
しなければならない局面は避けたかった。
 出自は貧しい隣国の慶とし、あらかじめ調べた材料をもとに組み立てた設定
を頭にたたきこんで、何を聞かれても大丈夫なようにした。そういった準備自
体は正しかったが、彼女たちは自分たちの忍耐力のなさを軽く見ていたのだっ
た。
 徒歩に慣れていない彼女たちは、半日以上かかってようやく関弓の街にたど
りついた。空腹と長時間歩いた足の痛みのため無口になり、身なりが貧しかっ
たせいなのか関弓の府第でも後回しにされ、長い時間待たされて心の底から疲
れきっていた。

298永遠の行方「呪(202)」★オリキャラ中心★:2010/03/13(土) 14:10:08
 尋問のように事情を根ほり葉ほり聞かれ、ようやく仮の旌券を得て役所を出
たときには既に日は傾いていた。これからまた徒歩で戻るのかと思うと惨めな
思いがあふれた。店の主人に露骨に嫌な顔をされながらも、軽い財嚢からなけ
なしの銭を出して干した苹果(りんご)を一切れずつ買う。疲れきって城壁の
内側に並んで座り、無言のままそれをかじった。甘みも噛みごたえもある干果
は少量でも満足を得やすいのだが、心が温まることはなかった。
 今からでは隣町の閉門に間に合わない。今夜はここで寄り添って夜明かしを
するしかなかった。明日になって仮住まいに戻れば食事もできるし、今日一日
の辛抱だ。
 それでも暁紅はうんざりしていた。自分で計らったことながら行き場のない
憤りを覚える。夏の終わりとはいえ石畳からじんわりと伝わる冷えが心をも凍
えさせ、いっそのこと冬器に身を投げて何もかもを終わらせたかった。
 自分は王に会いたかっただけなのに、なぜこんな目に遭わねばならないのだ
ろう……。
 かじりかけの干し苹果を手に、ぼんやりと往来を眺めていた彼女は、しかし
ぎくりと体をこわばらせた。
 雑踏の向こう。屋台の並ぶ一画に、目立つ偉丈夫がいた。出で立ちは普通の
民となんら変わるところはなかったが、暁紅は一目で見分けた。
 ――王だと。
 彼女が延王尚隆に会ったのは何十年も前、それもたった三度に過ぎない。普
通なら顔など忘れ去っているか、多少見覚えがある程度の記憶しか残っていな
いだろう。
 だが暁紅にはわかった。見た瞬間に全身に衝撃が走り、思いがけぬ邂逅にそ
の場に凍りついた。
 とはいえ雑踏の向こうに立つ長身の男は、もはや彼女の記憶の中に住んでい
た王ではなかった。皮肉めいた暗い笑みはどこにもなく、かつて暁紅を惹きつ
けた危険な刃のきらめきも失せ、ただ磊落に笑っていた。
 彼の視線の先にいるのはひとりの少年。髪を隠すためだろう、布で頭をぐる
ぐる巻きにし、傍らの王を見あげて同じように楽しそうに笑っている。
「延麒……」
 茫然としたまま口の中でつぶやいた暁紅は、何かよくわからないものが音も
なく崩れさっていくのを感じていた。そしてこのとき初めて梁興の乱から過ぎ
去った長い歳月を実感した。

299永遠の行方「呪(203)」★オリキャラ中心★:2010/03/14(日) 12:37:22
 王も麒麟もとっくに過去の呪縛から解きはなたれていたのだ。彼らが光州の
謀反のことなど忘れて未来を生きていたことを、自分たちが時の流れから取り
残された遺物でしかないことを、彼女は心の底から思い知った。
 見る目を持つ者がいれば、件の男をただ者ではないと悟ったかもしれない。
しかし彼らは雑踏に溶けこみ、誰の注意も引いてはいなかった。
 並んで座っていた浣蓮は女主人の異状に気づき、怪訝な顔で彼女の様子を窺
った。
「……お嬢さま?」
「王よ。王と延麒があそこにいる」
 ささやきかけてきた下僕に、暁紅は小さくも固い声音を返した。びくりとし
た浣蓮は同じように雑踏の向こうに視線を投げたが、その目はなかなか標的を
認めることができなかった。
「わからない? あそこの粉屋の店先にいる男と少年が見えない?」
 浣蓮は示された先をまじまじと見つめ、やがて「まさか」と震える声を漏ら
した。
「あれが――あれが王? 王と延麒? あんな貧しいなりの男と少年が?」
 主人と異なり、彼女は恨みに思う相手の顔をほとんど覚えていなかった。だ
がすぐに記憶を呼び覚ましたのだろう、「ああ、本当に……」と絶句したあと
で嘆いた。
「千載一遇の機会なのに、どうすることもできない。わたしが覚えたささやか
な呪では、きっとまだ神仙をどうこうすることはできないだろうし、何より延
麒には王と麒麟を守る使令が常にそばにいるはず。おまけに剣豪で知られる王
は害意を持って近づく者を簡単に察知するかもしれず、罠にかけるには周到な
準備が必要です。いったん疑われたら二度と機会はないでしょうから、毛の一
筋ほども怪しまれずに近づいて呪をかけなければならないのに、今のわたした
ちには到底無理です」
 暁紅はそれには答えず、ただ王と延麒を凝視していた。
 不思議なことに憤りも、明確に恨みと言える感情も湧いてはこなかった。た
だ、何か裏切られた気分だった。

300永遠の行方「呪(204)」★オリキャラ中心★:2010/03/14(日) 12:41:05
 あんなふうに磊落に笑う男が、暗い目で冷笑を浮かべていた王と同一人物と
は思えなかった。これではその辺を歩いている凡庸な只人と同じではないか。
 延麒が彼を見上げて話しかけ、答えた王が延麒の肩をたたいて再び笑った。
そうして彼らは雑踏を歩きだし、偶然にも暁紅と浣蓮が座りこんでいる城壁の
ほうに向かってきた。かつての謀反に連なる者がここにいることを知られては
まずいとは思ったものの、暁紅は目をそらすことができなかった。
 ふと彼らは周囲を見回し、明らかに暁紅たちに視線を向けた。しかしその目
は、ぎくりとした彼女らの上をあっけなく素通りし、少し離れたところにある
屋台で止まった。駆け出す延麒のうしろから王はゆっくりと歩いてついていき、
暁紅たちのかたわらをあっさり通り過ぎていった。
「――あの男。お嬢さまに気がつきませんでした。はっきりとこちらを見たの
に」
 浣蓮が放心した声でつぶやいた。暁紅は答える気にもなれず、黙って彼らの
後ろ姿を見送った。
 こんな貧しい汚れたなりなのだから、ごく親しい知り合い以外は顔を認めら
れずとも仕方がないだろう。そもそも疲れきって座りこむ荒民など、裕福な雁
の者には城壁と同じ背景でしかない。
 だが暁紅は失意のうちに真実を悟った。王が自分のことなど覚えていないこ
とを。貞州で過ごした何十年もの間、浣蓮とふたりしていかに王に意趣返しを
するかを楽しく語らったものなのに、当の相手は、恨みを持つ彼女たちを覚え
てさえいなかったのだ。この調子ではあの謀反の前、閨に侍らされた梁興の寵
姫たちに下卑た侮辱を与えたことさえ忘れているかもしれない。
「ひどい……」
 声を震わせてうつむいた浣蓮を、だが暁紅は冷え冷えとした心で無視した。
大国雁の最高権力者である王に比べ、何の力も持たない自分の惨めさを思い知
らされた気分だった。
 王が恨めしかったが、それ以上にあれほど自分を引きつけた危険な香りを失
った彼が情けなかった。自分があんな平凡な男に惹かれたはずはなく、つまら
ない男への復讐のためにかつて日夜考えをめぐらせていたとは思いたくなかっ
た。

301永遠の行方「呪(205)」★オリキャラ中心★:2010/03/14(日) 12:43:49
 王の視線を独占している延麒の姿をぼんやりと眺める。少年の様子はかつて
崆峒山で乱の生き残りを引見したときを彷彿とさせた。王の前で我が物顔に振
る舞っていた、あのさまを。人は麒麟を慈悲の権化だと言う。しかし暁紅には
少年が王の寵愛を一身に受け、すべての言動を許されて、ただ自分の思うがま
まに振る舞っているだけと思えてならなかった。
 雑踏の向こうの屋台では延麒が食べものを王にねだっていた。ぶつ切りにし
た羊肉やら乱切りの野菜やらを、ただ串にさしてあぶっただけの簡単な食べも
の。たれさえつけることなく、さっと岩塩をふっただけの粗末なものだったが、
根菜だけの串を延麒はうれしそうにほおばった。暁紅たちがなけなしの銭をは
たいて干し苹果を買ったのは、荒民を装ってほとんど金を持ってこなかったが
ためで、でなければ薄汚い屋台などには絶対に近づかなかった。しかし延麒は
何も感じていないらしい。庶民的と言えば聞こえはいいが、驚くほど卑しい麒
麟だと暁紅は思った。
 だがその少年に、傍らの王は笑顔を向けているのだ。彼女には決して向けな
かった、愛情に満ちた顔を。
 王の鋭いまなざしから刃のきらめきを失わせ、闇の向こうをひたと見据えて
いた暗い視線を光の側に向けたのは延麒に違いない。寵童なのだからそれも当
然と言えば当然だが、暁紅は失意の中にも苦々しく思った。昼も夜も常に傍ら
に侍り、こうして市井におしのびで出るときさえ王のそばを離れない。王は延
麒のものなのだ。後宮にどれほどの女が囲われていたにせよ、たったふたりで
親しく出歩いているこのありさまを見れば、延麒がその頂点に立っているのは
明らかだった。
 梁興の時代から、いや、おそらくはその前から、少年はその座を占めていた
のだろう。そんなことも知らず、一時とはいえ栄光を夢見て浮かれていたのだ
と思うと、今さらながらに貶められた気がした。それと同時に、野性味あふれ
た王の牙を抜き、羊のように飼い慣らした不遜な麒麟をいまいましく思った。
自分に目もくれなかった王のことは確かに恨めしかったが、それ以上に延麒が
憎かった。
 ――そう、暁紅は延麒を憎んだ。激情がほとばしるほど強い感情ではなかっ
たし、むしろ心の中は冷え冷えと凍るようだったが、それでもちろちろとくす
ぶる燠のような小さくて静かな炎は、確かに彼女の胸の内で青白く燃えあがっ
たのだった。

302名無しさん:2010/03/14(日) 23:15:39
ああ色々滾ってきた…ここ数日毎日更新とは夢のようナリ
でも作者様くれぐれも無理しないで下さいね!

303永遠の行方「呪(206)」★オリキャラ中心★:2010/03/15(月) 22:41:20

 ふたりの女は城壁の前でよりそって一夜を明かした。夜明けの開門と同時に、
疲労と冷えとでこわばった体をかかえ、萎えた足を引きずるようにして関弓の
街を出る。どちらも無言のまま、仮住まいの街に向かってとぼとぼと歩いてい
った。
「……光州城を出てからどれくらい経ったのかしら? 長かったわねえ」
 四半刻も歩いた頃、暁紅は自分と並んで歩く浣蓮に聞こえるようにつぶやい
た。今彼女の頭にあるのは自分でも正体のわからない悔しさと、延麒を王から
引き離したいという欲求だけだった。王への復讐など既にどうでも良かったが、
とにかく延麒だけはこのまま王のそばに侍らせておきたくはなかった。
 しかし浣蓮の恨みは王にのみ向けられている。ひとりでは何もできない以上、
自分の手足であるこの下僕を何としても言いくるめなければならなかった。
「わたしたちが位を落とされ、長い間、生ける屍のような生活を強いられてい
たというのに、苦しみを伴わない唐突な死を慈悲のごとく王に与えることはな
いわ。そもそも呪を使ってさえ、不老不死である神仙を殺めるのは容易ではな
いのだから、もっと別の――そう、たとえば醒めない眠りに落とすというのは
どう? それなら生命を奪うわけではないから神仙相手でも何とかなりそうだ
し、王が昏々と眠り続けたら大騒ぎだわ。民に隠し通せるはずもないし、執務
を取れない状態が長く続けば修復できないほど国政が滅茶苦茶になって麒麟も
失道するでしょう」
「王を苦しめるのも弑するのも諦めるとおっしゃるのですか?」
 思ったとおり浣蓮が固い声音を返したので、暁紅はわざと朗らかに言った。
「おばかさん。直接手を下さずとも、王がむごい末路に至れば良いのでしょう
に。そしてそれをわたしたちが見ることができれば。生殺与奪の権を握ってい
るのはこちらなのだから、神経をきりきりさせるのはやめなさい。わたしたち
は捕らえた鼠を猫がもてあそぶように王を翻弄して、こちらの手の内で彼が滑
稽に踊るさまを楽しめばいいの」

304永遠の行方「呪(207)」★オリキャラ中心★:2010/03/15(月) 22:44:13
 その言葉は浣蓮のみならず、彼女自身に向けたものでもあった。運命を握る
自分たちがいたずらに焦燥に駆られる必要はない。いや、焦りなど見せてたま
るものかと、なけなしの誇りをかきあつめて考える。女神たる自分は軽やかに
しなやかに、運命の織りなす縦糸と横糸を操って、ただ王と延麒を翻弄すれば
良いのだ。
「でも……」
「もちろん枯瘠環は敷くのよ、光州の滅亡ではなく王をおびき出すために。呪
環によって起きる事件は一見して謀とわからないよう、それでいて国政の場で
は勘の良い者なら不穏な事態が起きていると推測できるものにする。それを長
く引っ張ることで国府の、引いては王の注意を引くの。これまで何度も話し合
ったとおりにね。事件の真相を見極めようと王がしゃしゃりでてきたら、何と
かして近づいて昏睡に陥れる呪をかける。もちろん難しいことだけれど、無理
に死を与えようとするよりは成功しやすいでしょうし、何より目の前で王が呪
に倒れたらおまえも満足できるのではなくて?」
 女主人の意図をはかりかねた浣蓮は黙りこんだ。しばらく考えこんだ彼女は、
やがて疑わしそうにこう言った。
「……確かに睡獄に捕らえるという呪はあります。でもあれを使うには、同時
に術の解除条件も定めておく必要があります。でなければまったく効果がない
か、予期せぬ時期に簡単に目覚められてしまうと書いてありました」
「そうだったわね。確かどんな状況においても破れない術というものは存在し
得ないから、あえて弱点をひとつ設けておくことで逆に強固な術にすることが
可能だとか。ならばこうしてはどうかしら。王にかける呪の解除条件は、延麒
が昏睡の呪にかかることにする。そして王と同じように何とかして延麒もおび
きだし、この際だから身代わりになるか王を見捨てるかを当人に選んでもらい
ましょう。いくら何でも相当悩むでしょうねえ。麒麟が苦悩するさまなんて、
滅多に見られるものではないわ。むろんそこで延麒が王の身代わりになること
を受け入れると決まったわけではないけれど、卑しくともまがりなりにも麒麟
なのだから、まず主を見捨てることはないでしょう。当然ながら延麒の昏睡に
も覚醒条件を定めなければならないけれど、王が崩御するとか何とか――とに
かく誰もが望まないだろう、悲惨な事態が起きたときとでもしておけばいいわ。

305永遠の行方「呪(208)」★オリキャラ中心★:2010/03/15(月) 22:46:15
そうすれば延麒の身代わりによって呪から解放された王が知るのは、実質的に
麒麟が永遠に失われたという冷たい事実だけ。おまけに枯瘠環のことがある。
麒麟を失い、ひとつの州を丸ごと失ったも同然の王は、時期が多少遅くなるだ
けで苦悩の中で死ぬことになるでしょう」
 だが浣蓮は黙り込んだままだった。暁紅は自分が必死に説得しようとしてい
るとは悟られないよう、おっとりと、それでいて確信に満ちた声で語った。
「わたしはね、万が一にもこの企てを失敗したくはないの。だからそのために
もっとも成功しやすい方法を選び、さらに二重三重の罠を張っておこうという
だけの話なのよ。これだけの手段を講じておけば、わたしたちは必ず目的を達
することができる。最悪、王をおびきだせずとも、枯瘠環で光州を不毛にして
民が困窮すれば、麒麟は失道するに違いないのだもの。ただしこの場合は王が
実際に苦しむかどうかを知ることはできないだけに、おまえが鬱憤を晴らせる
かはわからないけれど、そもそもこれは最初におまえが言ったこと。王が苦し
んでいるはずと自分に言い聞かせて我慢するしかないわね。
 幸いにして目論見どおり王をおびき出すことができたら、とにかく危険は犯
さず、何とか近づいて昏睡の呪だけをかける。機会は一度きりなのだから、万
が一にも失敗するような危険で面倒な呪はかけられないわ。比較的容易な術で
間に合わせなければ。
 成功したら、今度は延麒を罠にかけるために彼もおびきだす必要があるけれ
ど、ああやって市井を歩いているさまを見れば、いくらでも機会はありそうね。
そして延麒にはわたしたちの目の前で王の命と自分の命のどちらを取るか選ば
せてあげる。あの少年がどんなふうに苦悩するか、今から楽しみだわ。何しろ
自分の命を惜しめば王は目覚めないままだし、その場合は国を傾けないために、
遅かれ早かれ官は王を弑するに決まっているもの。
 延麒が王の命のほうを惜しんで身代わりになったら、それこそがわたしたち
の望むところ。王が目覚めたときには実質的に麒麟は失われている。おまけに
光州では作物が育たなくなり、人々は飢えて怨嗟の声が街々に満ちる。ここま
で来ればどんな王でも打つ手はないでしょう」

306永遠の行方「呪(209)」★オリキャラ中心★:2010/03/15(月) 22:49:17
 浣蓮は黙ったまま、暁紅の言葉をじっと考えているようだった。
 仮住まいに戻った彼女らは、湯浴みをして身仕舞いを整え、滋養のあるもの
をどっさりと食べてやっと人心地ついた。
 榻にゆったり横になってくつろぐ暁紅の傍ら、ようやく浣蓮が重い口を開い
た。
「枯瘠環は行なうのですね?」
 暁紅はちらりと視線を投げてほほえんだ。
「最後の安全弁ですもの。たとえすべてのくわだてが失敗しても、枯瘠環さえ
敷いておけば王の破滅は保証される」
「そうですね……」浣蓮は視線を彼方に向けて考えこみながらうなずいた。
「でもそれで終わりにしてはおもしろくない。もっともっと、わたしたちと同
じように長い間苦しめなくては。真綿でじわじわと首を絞めるようにして、生
命をすり減らすような苦しみを与えなくては」
 王よりも、むしろ本当は麒麟にね、という言葉を、暁紅は内心で自分に向け
た。
「そのために王から麒麟を奪うのよ。枯瘠環で王を下界におびきだし、延麒が
身代わりになることを覚醒の条件に定めた睡獄に捕らえる。その際、かつてわ
たしたちに辱めを与えた報いだということがわかるようにしておきましょう。
そうすればあとですべてが自業自得であることを知ったとき、後悔にさいなま
れるでしょうから。そして次は延麒をおびきだし、彼に王の運命を選ばせる。
なぜならわたしたちこそがすべての命運を握っているのだから、そうやって高
みからささやかな慈悲をたれ、麒麟がどんな選択をするか鑑賞してあげるの。
でもまがりなりにも慈悲の塊と言われる麒麟なのだから、延麒は王を救うこと
を選ぶでしょう。そうして今度は延麒に呪をかける。解呪の条件を満たして目
覚めた王が知るのは、愛人である麒麟が失われたことと、光州が未曾有の災厄
に見舞われたこと。それがわたしたちに屈辱を加えたがための報い」
 じっと聞いていた浣蓮は、暁紅の策には確かに考慮の余地があると思ったの
だろう、迷うように幾度も目を泳がせながらも、やがて納得したようにこう言
った。

307永遠の行方「呪(210)」★オリキャラ中心★:2010/03/15(月) 22:52:16
「愛人を失ったら、いくらあのふてぶてしい王でも嘆くでしょうし、そもそも
王の正当性は麒麟に選ばれること。その麒麟が呪に倒れたら、そしてひとつの
州が滅亡したら。王が道を失ったがゆえに天意を失い、災厄に見舞われたのだ
と考えるのが普通だと思います」
「そして官の、民の支持を失い、王朝は崩壊する……」
「はい」
「いったん傾き始めたら、きっと止めることはできないわ。傾国の奔流はどれ
ほど王があらがおうと、すべてを飲みこむ」
 今度こそ浣蓮は女主人にうなずいて、「はい」としっかりした声を返した。
実際のところ、彼女とて内心では王の呪殺が難しいことはわかっていたろう。
「それからね、考えたのだけれど、文珠を埋めて光州を死の呪で覆うときは、
今までとは比べものにならないほど大量の気が必要になるはずだわ。でもその
ためにおまえが自分を犠牲にすることはない。一度にひとりとかふたりを殺め
るならともかく、何十人となったら、事前に必要なだけの気をためられるかど
うかわからないのだから、呪は他の者にかけさせましょう」
 それを聞いた浣蓮はさすがに目を丸くした。
「どうやって……」
「この靖州でも、荒民や浮民を大勢見かけたわね。彼らの中には不遇を嘆いて、
雁の民どころか王に不満を持っている者もいると思うの。それをうまくたきつ
ければ、命を投げだして呪詛を行なうくらい躊躇しないんじゃないかしら。そ
れも大人ではなく分別の未熟な幼い子供なら――そう、見所のありそうな子供
を必要なだけ引き取り、わたしたちに恩義を感じるように仕向けましょう。そ
してわたしたちが王にひどいことをされたと納得させる。子供は恩に報いるた
め、さらには自分自身の復讐を成し遂げるために、いくらでもわたしたちの望
むことを自分から行ないたいと考えるようになるわ」
「でも」驚いた浣蓮は口ごもった。「難しくありませんか? そんなに都合良
くいくでしょうか」
 暁紅は少し考えてから答えた。

308永遠の行方「呪(211)」★オリキャラ中心★:2010/03/15(月) 22:55:07
「愛人を失ったら、いくらあのふてぶてしい王でも嘆くでしょうし、そもそも
王の正当性は麒麟に選ばれること。その麒麟が呪に倒れたら、そしてひとつの
州が滅亡したら。王が道を失ったがゆえに天意を失い、災厄に見舞われたのだ
と考えるのが普通だと思います」
「そして官の、民の支持を失い、王朝は崩壊する……」
「はい」
「いったん傾き始めたら、きっと止めることはできないわ。傾国の奔流はどれ
ほど王があらがおうと、すべてを飲みこむ」
 今度こそ浣蓮は女主人にうなずいて、「はい」としっかりした声を返した。
実際のところ、彼女とて内心では王の呪殺が難しいことはわかっていたろう。
「それからね、考えたのだけれど、文珠を埋めて光州を死の呪で覆うときは、
今までとは比べものにならないほど大量の気が必要になるはずだわ。でもその
ためにおまえが自分を犠牲にすることはない。一度にひとりとかふたりを殺め
るならともかく、何十人となったら、事前に必要なだけの気をためられるかど
うかわからないのだから、呪は他の者にかけさせましょう」
 それを聞いた浣蓮はさすがに目を丸くした。
「どうやって……」
「この靖州でも、荒民や浮民を大勢見かけたわね。彼らの中には不遇を嘆いて、
雁の民どころか王に不満を持っている者もいると思うの。それをうまくたきつ
ければ、命を投げだして呪詛を行なうくらい躊躇しないんじゃないかしら。そ
れも大人ではなく分別の未熟な幼い子供なら――そう、見所のありそうな子供
を必要なだけ引き取り、わたしたちに恩義を感じるように仕向けましょう。そ
してわたしたちが王にひどいことをされたと納得させる。子供は恩に報いるた
め、さらには自分自身の復讐を成し遂げるために、いくらでもわたしたちの望
むことを自分から行ないたいと考えるようになるわ」
「でも」驚いた浣蓮は口ごもった。「難しくありませんか? そんなに都合良
くいくでしょうか」
 暁紅は少し考えてから答えた。

309永遠の行方「呪(211)」★オリキャラ中心★:2010/03/15(月) 22:57:53
「男の子はやめておきましょう。幼くとも異性の考えることは何かとわたした
ちと違うはずだから。自分の不幸を絶望とともに嘆き、雁を憎いと明確に自覚
する程度には自我のある女児を――そうね、十歳前後の女の子、それも親のい
ない子がいいわ。何ならならず者に金をやって目の前で親をむごい目に遭わせ
てもいい。それをすべて王のせいにする。衝撃で茫然としているうちに引き取
って恩を着せ、わたしたちも王にむごい目に遭わされたと、そのために復讐の
機会を窺っているのだと教えこめば、きっと進んで生命を投げ出すでしょう。
だって剣や毒を使うのではなく、呪言を唱えたり文珠を置くだけなのだもの、
自分にも簡単にできると考えるだろうし、それで復讐を果たせるとわかればや
る気になるんじゃないかしら」
 浣蓮は相変わらず目を丸くしていたが、あれこれ考えを巡らせるうちに得心
したらしく、「おっしゃるとおりかもしれません」と同意した。
「子供は考えも足りないし、そこにわたしたちに都合の良い考えをたくさん吹
き込めば。そもそも大人より死を怖いと思う気持ちも小さいでしょうから、親
を失った悲しみと憎しみをすべて王に向けることさえできれば、ある意味、大
人よりずっと純粋にはかりごとをなしとげられそうです」
「良い考えでしょう?」
 荒民にしろ浮民にしろ、彼らを待つのは異国の地でのたれ死ぬだけの惨めな
末路だ。ならばそんな者たちの命を使い捨てにしてもさほどのことはない――
暁紅は淡泊にそう考えた。むしろその程度の犠牲で目的を達せられるなら願っ
てもない。
 すっかり納得した様子の下僕を前に、これでいい、と彼女は満足した。よほ
ど運命が意地悪をしなければ、そして自分たちがへまをしなければ、延麒を王
から引き離すことができるだろう。天意を受けた僕(しもべ)を失った王はふ
たたび闇に魅了され、きっとあの暗い目を、鋭利な刃のように危険で魅惑的な
笑みを取り戻すに違いない……。

310ここまでオリキャラ中心です:2010/03/15(月) 23:02:29
すみません、>>308は無視してください。

随分かかりましたが、これでオリキャラ中心のエピソードは終わりです。
というか、さすがに自分でうざくなってきたので終わらせましたw
(これでもかなりはしょってるんですが)

次回からもしばらくはオリキャラ視点が続くものの
時間軸は現在に戻ってくるので、ようやく>>252の続きになります。

3111:2010/03/15(月) 23:11:04
>>302
お気遣いありがとうございます。
今のところ、既に書いてしまった部分を
未練がましく推敲して小出しにしているだけなので大丈夫ですv

312永遠の行方「呪(212)」:2010/03/16(火) 23:36:07

 暁紅が目を開けると、そこは暗い臥室だった。窓を閉めきった中、小さな灯
火だけが静かにゆらめく。阿紫がひそやかに「お目覚めですか……?」と声を
かけてきた。
 昔の夢を見たのは久しぶりだった。暁紅は榻の上で物憂げに上体を起こすと、
応える代わりにほほえんだ。
「いつのまにか眠っていたのね。どれくらい経ったのかしら?」
「さほどの時間は。ほんの少しの間、うとうとなさっていただけです」
 ではあれは一瞬の間に見た夢だったのか。いや人の一生など、しょせんその
程度のものなのだ……。
 長いようで短かった。短いようで長い人生だった。でもこうしてすべての企
てが成功した今、彼女は満足だった。こんなにうまくいくなんて、運命は本当
に雁が滅びることを望んでいるに違いない。
 引き取った浮民の孤児のうち、一番従順で扱いやすい阿紫を彼女は残してお
いた。呪詛の報いは、いくら他人の気を使っても暁紅や浣蓮に襲いかかり、じ
わじわと体を腐らせていった。そのためどうしてもひとりは介添えとして手元
に置く必要があったのだ。
 だがこの娘の役目ももう終わる。あとはのたれ死ぬなり、ひとりで生きてい
くなり勝手にすればいい。
 引き取った大勢の娘たちの誰ひとりとして、暁紅は情を移すことはなかった。
無実の罪で夫を王に殺されて嘆く、慈悲深く悲劇的な女主人の役を演じただけ
だ。幼く純粋な娘たちは暁紅に同情し、恩に感謝し、親兄弟をむごい目に遭わ
された孤児として、暁紅のもくろみ通りに王への復讐心を抱いた。
 むろん暁紅にも浣蓮にも子育ての経験はなかったとあって、孤児を集め始め
たときは試行錯誤だった。それでも暁紅は自分に尊崇を寄せる浣蓮のごとき下
僕の扱いに慣れていたおかげで、飴と鞭とをうまく使いわけ、思ったよりも容
易に女児らを味方に取り込んだ。
 思春期を迎える頃になると自我が出てきて扱いの難しくなった者もいたが、
そういった娘は早々に呪の実験に使って処分し、事なきを得た。そもそも孤児
らは枯瘠環が発動した際の負荷を受け止める贄であり、まだ文珠を敷設しても
いない段階では、彼女らの養育とて計画の本番に備えた予行に過ぎなかった。

313永遠の行方「呪(213)」:2010/03/16(火) 23:39:07
 ようやく娘たちを育てる見通しがついたとき、いくつかあった失敗を考慮し
た上で、あらためて幼い孤児を三人引き取った。それを手が掛からなくなるま
で数年育てたのち、一緒に光州中を旅した。もちろん今度こそ枯瘠環を構築す
る文珠を所定の場所に埋めるためである。その際、簡単な呪の威力を見せたこ
とと、民が娘たちに冷たく当たるよう仕向けたことで復讐心を煽られ、孤児ら
はいっそう操りやすくなった。人数が増えても、むしろ操縦はたやすかった。
一緒に旅をした娘らが自発的に新入りに呪の威力と民の冷たさを吹きこんだ上、
目的を同じくする一定の集団ができあがると、それ自体が意志を持ったかのよ
うに、取りこまれた娘は煽り煽られていったからだ。
 女ばかりの所帯というのも怪しまれる危険を最小限にした。富裕な者が大勢
の使用人を抱えるのは当然だし、おまけに主人が若く美しい女とあれば、使用
人を女で固めても疑いをいだかれにくかったからだ。もとより一般に女は暴力
と縁遠いと思われているというのもある。
 考えを翻して去ろうとした孤児もいないではなかったため危険の生じたこと
はあったが、それでも結局は大した問題にはならずにここまで来たのだった。
 すべての鍵は、靖州に、関弓に来たこと。その気になれば、数年に一度、運
が良ければ年に一、二度ほど王の、延麒の姿を見かけることになったからだ。
暁紅の目的は王より延麒だったため、どうやって近づこうと考えあぐねたが、
幸い向こうから近づいてきた。そのために卑しい半獣にも我慢して親しげに振
る舞ったが、甲斐はあったというものだ。
 占文を装った封書を延麒が受け取ったとき、暁紅は運命に勝ったと思った。
既に枯瘠環の準備を終え、王をおびき出せさえすれば、呪をかけた上で暁紅の
名を記した紙片を示す段取りになっていた。目覚めない王に国府は焦り、必ず
や唯一の手がかりである暁紅を探そうとするだろう。そして同じ名が延麒の持
つ占文に浮かび上がれば、不思議に思った少年は意味を知ろうとするはずだっ
た。
 そこで延麒自身が単身やってくるか、官を差し向けるかは想像のかぎりでは
なかったものの、顔見知りの優しい美女を演じていた暁紅は、おそらく単身や
ってくるだろう、そして何も知らずに助言を求めるだろうと予想した。実際に
は鳴賢という青年とともにやってきたわけだが、官ですらない一介の大学生な
ど役立たずの添えものと同じ。結局少年は苦悩のままに王を救うことを選んだ
のだった。

314永遠の行方「呪(214/219)」:2010/03/17(水) 19:07:05
 邸の入口近くで家畜を酷く屠殺しておいたのは、血や怨嗟に弱いという麒麟
を弱らせ、ひいては危険を察知するかもしれない使令をも惑わせて警告を発さ
せないため。警告を発されては引き返されるおそれがあったし、暁紅はどうし
ても延麒に無情な選択肢を与えて苦しめたかったのだ。かつて王にいだいた復
讐心は、今やそっくり延麒に向けられていた。自分が望んで果たせなかった地
位にある延麒に。
 暁紅は麒麟の苦悩のさまを見られて満足だった。この少年は二度と王に会う
ことはない。王を飼い慣らした罰だ。
 とはいえ潜魂術を駆使した結果は意外だった。彼女の思いこみと異なり、実
際には延麒は王の愛人ではなかったからだ。しかしその事実を知った彼女はみ
ずからの誤解を悔いることなく、むしろ歓喜した。延麒の心の奥底を覗いて誰
にも知られぬひそかな本心を知り、何もかもを思い通りにしていると思ったこ
の麒麟にも、切実にどうにもならないことがあるのを知ったからだ。
 延麒がどのような振る舞いを許されていようと、彼の本当の望みがかなえら
れることは絶対にない。それを知って暁紅は胸がすく思いだった。
「鳴賢が待っています。延台輔の準備ができたそうです」
 女主人に肩掛けをかけながら阿紫が言った。暁紅は「そう」とだけ答え、彼
女に支えられながらゆっくり立ちあがった。
 あの莫迦な大学生も十分役に立ってくれた。何といっても延麒と知りあうこ
とができた上に、ここに案内してくれたのだから。もちろん怪しまれずに延麒
をおびきよせるため、あらかじめ新居の所在を大学生らに伝えておいたわけだ
が。
 房室の扉を開けると、厳しい表情で口を真一文字に引き結んだ青年が立って
いた。
「台輔がお呼びだ」
 固い声で暁紅に告げる。ふたたび微笑した暁紅は彼には目もくれなかった。
自分は延麒に呼ばれて行くのではない。下僕のように従順に待つ無力な少年の
元に、運命の女神として降臨するのだ。
 衣擦れの音をさせながら、彼女は暗い廊下をゆっくりと歩いていった。待ち
望んだ未来がこの先にあった。
 客房では延麒が待っていた。無言のまま、現われた暁紅を硬い表情で見やる。
 榻に座った暁紅は、暗号のように織りこんだ解除条件とともにいくつかの呪
言を唱え、延麒にすべて「諾」と答えさせた。

315永遠の行方「呪(215/219)」:2010/03/17(水) 19:10:54
 通常の呪なら、ある種のものは術者が死ねば自然に解ける。しかし王を捕ら
えた呪はもっと強固なもので、解くにはあらかじめ定められた条件を満たさね
ばならなかった。延麒に施そうとしている術も基本はそれと同じとはいえ、解
除条件を外部の事象ではなく内部、すなわち「望みがかなうこと」という当人
の心理状態に求めたため、王を陥れたときとは異なる手順が必要だった。すな
わち被術者自身が呪を受け入れるという手順が。
 解除条件を示すと同時に、それ以外の要素による覚醒をすべてはねつける強
固な呪言を唱え終え、ついで睡獄を構築する心象を思い浮かべて最後の呪言を
口にする。
 そのとたん暁紅の心にどしりとした衝撃が走り、彼女は思わずうめいた。素
手で心の臓をつかまれたかのような、鈍く重々しい衝撃。だが胸を押さえた彼
女は、視界の端で延麒がくずおれるのをはっきりと捉えた。
 これでようやくすべてが終わる。彼女も浣蓮も今まで口に出さなかっただけ
で、この企てを終えたのちも生き延びようなどとは考えていなかった。無為に
日々を追うだけの長い人生の果てに、そんな人間らしい欲求などとうに消え去
っていた。王を陥れるどころか、雁の滅亡を計らうような企てを試みられたの
も、すべては事後を考える必要がなかったがため。
 ――そう。ふたりの女は、実際は光州城が陥ちたときに死んでいたのだ。そ
の後の長い時間は、梁興に与えられた幻のようなもの。
 いったい自分の一生は何だったのだろう。何も愛さず、生み出すものもなく、
ただ流されるだけのくだらない人生だった。浣蓮にさえ真に愛情をいだいたこ
とはない。こうして王と麒麟を陥れたとはいえ彼女自身の手腕とは言えず、と
うに死んだ男の遺産を使っただけ。
 暁紅はようやく、自分がずっと死に場所を探していたことを自覚した。本当
は呪などどうでも良かった。浣蓮と違い、彼女が身につけた呪はわずかなもの
だった。潜魂術を覚えた理由は――本当は自分の心を知りたかったのだ。自分
の本当の望みを。
 だがもうそれももうどうでもいい。こうして延麒を陥れ、王から引き離した。
愛人ではなくとも、天意を受けて傍らに侍る神獣を失った王は、きっとみずか
らの心の奥にある闇を引きずり出すだろう――あのときのように。危険な光を
宿した魅惑的な目を二度と見られないことだけが心残りだったが、それでも彼
女は満足だった。

316永遠の行方「呪(216/219)」:2010/03/17(水) 19:16:12
 暁紅は微笑を浮かべたまま目を閉じた。これでやっと梁興の首を落としたと
きの、肉と骨を断つ忌まわしい記憶からも解放される。次に生まれてくるとき
は美しい蝶になろう。何も知らず何も悩まず、ただひらひらと風に乗り、花か
ら花へと飛んで蜜を吸い、季節の終わりにひっそりと命を終える蝶に。
 そうして彼女の意識は、永遠の暗黒の中にゆっくりと沈んでいった。

 成り行きを見守ることしかできなかった鳴賢は、六太が声もなくくずおれる
のをただ見ていた。同時に暁紅が胸を押さえて苦しそうにうめいたが、彼の視
線は床にうずくまるようにして倒れた六太に釘づけになったままだった。
 六太はうめきもせず、ぐったりと床に伏している。榻の上で同じように伏し
た暁紅の体に、蒼白になった阿紫が手をかけた。
「……倩霞さま」
 少女は震える声でそっと呼びかけたが、女主人はぴくりともしなかった。
「倩霞さま。倩霞さま――」
 応えのないまま幾度も呼び続けた少女は、ついにすすり泣きの声を上げた。
 鳴賢は激しく動揺しながらも、この女は今度こそ死んだのだろう、と考えた。
素人考えでは眠りに捕らえるという呪が、直接的に死をもたらす呪詛に比べて
それほどの負担を生じるとは思えなかった。しかし既に十分すぎるほど弱って
いたがために、ちょっとした負荷でも耐えられなかったのかもしれない。そも
そも仙は不老不死であり、怪我を負いにくく病気にもかからないと言われてい
る。なのにこうして全身が腐り果てるほどなのだ、おそらく只人ならとうに死
んでいたろうし、ここまで長らえたのも仙であればこそなのだろう。
 ――六太は間に合ったんだな。
 萎えそうな足を叱咤して踏みとどまりながら、彼は泣きそうな心で考えた。
暁紅が六太にかけたふたつの呪が決定的な打撃を与えたのだとしても、この女
は見るからに余命いくばくもないという感じだった。あと何日かでも遅かった
ら六太が身代わりになることもできず、王の眠りを覚ますことは望めなかった
のかもしれない……。
 そこまで考えて冷水を浴びせられたようにぞっとする。本当に暁紅は真実を
語っていたのだろうか。やはりこれは罠で、まんまと六太が術にかけられただ
けでなく、王も眠りから覚めずに昏々と眠り続けているのではないだろうか…
…。

317永遠の行方「呪(217/219)」:2010/03/17(水) 23:13:48
 彼はようやくふらふらと六太の元に歩み寄り、倒れ伏したままの少年の傍ら
に力なく膝をついた。そっと肩に手を置いてみる。温かなぬくもりと静かな呼
吸、だが瞼は固く閉ざされている。遠慮がちに肩を揺すってみたものの、まっ
たく反応はなかった。
 本当に呪の眠りに捕らわれてしまったのか。今さらながらに恐怖を覚え、閉
ざされたまなこをひたすら凝視する。
 房室の一方では阿紫が泣きながら立ちあがり、暁紅の亡骸を必死にかかえあ
げようとしていた。女主人がまとっていた美麗な装束の乱れを直して身仕舞い
を整えてから、か弱い少女の細腕で奮闘し、ほどなく彼女は暁紅の骸とともに
扉の向こうに消えた。ふたたび閉ざされた扉の内部に静寂が戻る。
「六太……」
 鳴賢のささやくような呼びかけに、六太はまったく反応しない。ただ静かに
伏しているだけ。
「そんな。こんなことが本当に……」
 彼のひそやかな声を聞く者は既に誰もいないのだった。鳴賢はぶるぶると身
を震わせながらも、混乱する頭で必死に考えた。
「そ――うだ、国府に連れていかなきゃ。とにかくここを出なきゃ」
 ぐったりとした六太をかかえあげようとして、床の上で扇のように広がる豪
奢な金髪に目をとめる。このまま町中を歩いたら大騒ぎになってしまう。
 鳴賢はあたふたと周囲を見回し、六太が頭巾として使っていた布が、無造作
に大卓に置かれているのを見て手に取った。それで六太の頭を覆い、目立つ長
髪を必死に隠そうとする。手が震えてなかなか布を巻けなかったが、見た目が
無様にはなったものの何とか髪を頭巾に押しこんで隠した。その際、目と鼻の
先で少年の幼い顔をまじまじと見、ほの暗い房室の中でも眉に薄茶色の眉墨ら
しきものがなすりつけられているのを認めた。
 これまで彼は何となく、六太の髪が淡い茶色だと思っていた。それはこの眉
のせいだったのだ。
 だが産毛さえも見分けられるほど間近でよくよく見れば、伏せられた長いま
つげは金色だった。おそらく本来の眉も同じ色なのだろう。それではすぐ正体
を知られてしまうから、髪を布で覆って隠すと同様に、眉墨をつけて変装して
いたのだ……。

318永遠の行方「呪(218/219)」:2010/03/17(水) 23:35:46
 彼は以前、延台輔が視察のため大学を訪れたときのことを思いだした。
 大学寮の飯堂で鳴賢とともに卓に座っていた楽俊に、「自分もいわば半獣だ
から」と宰輔は気安く声をかけてきた。手を伸ばせば届く距離に神人に立たれ
た鳴賢らは焦り、座ったまま畏れ多くてずっと目を伏せていた。だから顔は見
ていない。むろん緊張のせいで正体に気づかなかったというのもあるが、今に
して思えばあのときの六太は多少声も作っていたのだろう。
 六太を背負いあげた鳴賢は、少年のあまりの軽さにふたたびぞっとなった。
見た目よりはるかに幼い――まるで四、五歳の幼児を背負っているかのようだ
ったのだ。確かに六太は小柄だし華奢でもあったが、その軽さは常識を超えて
いた。
 麒麟という神獣の特性なのだろうか。あるいはこれも呪による恐ろしい作用
なのか。鳴賢にはどちらとも判断がつくはずもない。
 泣くまいと思いながら彼は房室を出、ひっそりと静まり返った廊屋をたどっ
て院子に出た。締め切った邸の中はあれほど暗かったのに、実際にはまだ冬の
日は落ちておらず、にじんだ夕陽があたりを赤々と染めていた。
 中門を出、大門をくぐって広途に出ると、そこは紛うことなき日常だった。
人々は忙しく行き交い、あるいは道端で和やかに談笑し、先ほどまでの恐ろし
い出来事が嘘のようだ。誰も鳴賢を気にとめず、その背に負われた少年の正体
と囚われた運命に気づかない。静かに眠っている六太を見て、疲れて眠りこん
だ弟を兄が負っているだけと誰もが思うだろう。だが実際は少年は王と国のた
めに自分を犠牲にし、邪悪な術に囚われてしまったのだ。
 ――何も感じず、何も考えず、ただ呼吸をしているだけの木偶になる。
 嘲弄を帯びた暁紅の声が脳裏に蘇った。夢も見ない、死と同様の眠り。六太
が口にした「もう、いいんだ」という優しい諦めの言葉。
 ――麒麟にはもともと何もない。生命すら自分のものではなく、本当は自分
の意志だってない――。
(そんなはず、ないじゃないか)
 耐えきれず、鳴賢は心中で六太に呼びかけた。ここに来るまでの道中で交わ
した和やかな雑談を思い起こす。あのときの六太は本当に楽しそうだった。

319永遠の行方「呪(219/E)」:2010/03/17(水) 23:39:18
(今、やりたいと思ってるのは講談なんだ)
(大勢で歌うのってけっこう楽しいもんだぜ)
 本当に自分というものが、自我がないというのなら、あんなふうにはしゃげ
るはずがない。そもそも蓬莱で親に捨てられたことを苦しく思うわけがない。
 だがそれでも六太は言ったのだ、麒麟は所詮、天の傀儡でしかないと。麒麟
の生命さえ続いていれば王朝には何の障りもないと。
(じゃあ、おまえはどうなるんだ、おまえの気持ちはどうなるんだ)
 心中で悲痛に叫んだ彼は、ついに涙をこらえられなくなった。黄昏の中、滂
沱と涙を流しながら背の六太に語りかける。
(麒麟だから? じゃあ麒麟でない六太のことは誰も心配しないのか。主上さ
え健在なら、誰も六太を救おうとは思わないのか。そんなはずないだろう。そ
れとも本当にそうだって言うのか。宮城にはそんな無慈悲なやつしかいないの
か)
 むろん答えはない。
 国官を目指していた鳴賢も、実際の宮城のことは何も知らないに等しかった。
もしかしたら六太のことは、崇められているとしても本当に麒麟としか見られ
ていないのかもしれないが、だとしても誰を責めるわけにもいかない。なぜな
ら彼自身もこれまで麒麟が人と同じように悩んだりするとは思っておらず、尊
崇という言葉を隠れ蓑に、ある意味で無関心だったのだから。
 自分は無力だ。どうしようもないほどに。
 だがたとえ本当に宮城の人間が情け知らずだったとしても、六太はそこへ連
れていくしかない。自分には何もできないから。六太を救えるとしたら宮城の
人間だろうから。
 鳴賢は袖でぐいと涙をぬぐうと顔を上げ、唇を固く引き結んだ。そうして黄
昏に彩られた雑踏の中を、国府に向かってとぼとぼと歩いていった。

- 「呪」章・終わり -

320永遠の行方「呪(後書き)」:2010/03/17(水) 23:44:13
なんでこんなに長くなったんだろうなあ……。

とまれ、これで「呪」章は終わりです。
尚六的にはようやく「起」が終わったという感じ。

「承」である次章「王と麒麟(仮)」は、一言で言うと膠着状態。
謀反の首魁であるオリキャラ関係はもう出ないので事件はなく、
何とか六太を目覚めさせようとして果たせずに月日だけが過ぎていきます。
陽子や景麒も登場するし、今度こそ原作キャラが主体になるはず。
(実質的にオリキャラの鳴賢は出ますが、風漢の正体等々を知らない狂言回しは必要なので)

描きたいのは次章ラスト以降とあって、早くその辺りに辿り着きたいものですが、
羅列しただけのエピソードを整理して構成を確定したり、
複数ある演出を取捨選択するため、次章開始までまた何ヶ月か間が開きます。

321名無しさん:2010/03/18(木) 00:36:22
乙です。
久しぶりにきたら更新されてて嬉しいです。
これからゆっくり読みます。

322永遠の行方「王と麒麟(前書き)」:2010/05/14(金) 20:58:31
  呪者の死亡で謀反自体は解決したものの、
  昏々と眠り続ける六太については手の打ちようがなかった。
  手がかりは、呪を強固なものにするため
  あえて唯一設定された解除条件。
  六太の一番の願いとは何なのか……。

というわけで、もったいぶって↑なんか書いてみましたが
前に書いたように膠着状態の章のため
「事件」というほどはっきりした動きはありません(その予定)。
それだけに逆に書くのが難しくて苦戦中……。
で、このままだとあと三ヶ月は投下できなくなりそうなので
「きりの良いところまで」「見通しが立ったら」とか思わず
ちまちま置いていくことにしました。
ただしもしかしたら途中でかなり間が開くことがあるかもしれません。

またこれだけ無駄に長くなると自分でも細かい設定を忘れてたりするので
変なところがあったら突っ込んでください。
辻褄を合わせるか、「それは忘れてください」宣言しますw

尚隆、朱衡等の雁国側キャラが中心なのは当然として、陽子と景麒も出る予定。
六太については章が終わる直前まで、ずーっと眠り姫状態です。

323永遠の行方「王と麒麟(1)」:2010/05/14(金) 22:18:16
 意識のない宰輔が閉庁間際の国府に運び込まれたことは、即座に宮城に伝え
られた。麒麟が昏睡状態に陥ったとは天下の一大事だが、国府の一般の官はむ
ろん、雲海上で王が伏せっていること、そもそも光州に赴いたはずの王が関弓
に戻っていることは知らされていない。それゆえ彼らの反応は、騒然としなが
らも恐慌に陥るほどではなかった。
 連絡を受けた大宰は仁重殿に迎えた宰輔を黄医に診察させ、大司寇は冢宰や
大司馬とともに、宰輔を背負ってきたという男の尋問に関する報告に目を通し
た。
 謀反人の一味と思しきその人物の姓名と氏字に目を留めた大司寇は、しかし
はたと考えこんだ。それから自分の府吏を差し向けて、件の男を大司寇府まで
連れてくるよう命じた。

 三十歳前後と思われる男は、罪人のように後ろ手に縛られ、引きずられるよ
うにして連行されてきた。そのさまを見た朱衡は端正な顔をしかめた。
「こんな扱いをせよと命じたつもりはないが。縄を解くように」
「しかし……」
「いいから解きなさい。どうやら事件に巻き込まれたようだ」
 朱衡は自分の侍史(書記)だけを残して官を下がらせ、鳴賢という字のその
男に傍らの椅子を示した。
「では詳しい話を聞こう。そこへ座りなさい」
 男は伏せていた顔をのろのろと上げ、朱衡を見た。そのまま崩れ落ちるよう
に膝をついて叩頭する。
「お願いです、六太を助けてください。お願いです、お願いです」
 彼は何度も何度も頭を床にこすりつけ、泣きながら震える声で繰り返した。
朱衡は少し表情をやわらげてこう言った。
「もちろん台輔はお助けします。そのために何が起きたのか、最初から順を追
って説明してもらいたいのです。既に国府から報告は受けているとはいえ、本
人に直接聞いたほうが早いですからね」
 鳴賢は手を床についたまま、泣きぬれた顔を上げた。

324永遠の行方「王と麒麟(2)」:2010/05/15(土) 19:45:24
「主上は――主上はお目覚めになりましたか? 六太は主上の身代わりになっ
たんです。それが謀反人との取引だった。でもあの女は六太をだましたのかも
しれない。もし主上が――」
「主上は先ほどお目覚めになりました。心身ともにお健やかであらせられます」
 それは事実だった。宰輔昏睡の報を受けて六官が愕然としたまさにそのとき、
正寝に詰めていた女官が「主上がお目覚めになりました!」と駆け込んできた
のだから。その時点で既に典医は簡単な診察を終えており、女官を通じて何の
問題もないと伝えてきた。
 鳴賢は茫然とした顔で座りこむと、涙を滂沱と流した。
 朱衡は女官を呼んで茶を出させ、再度説明を促した。熱い茶を口にした鳴賢
はようやく少し落ち着いたらしく、震えは残るものの、しっかりとした口調で
説明を始めた。
 まずは宰輔六太と自分の関係、小間物屋を営んでいた倩霞のこと、彼女の元
へ案内してくれと六太に頼まれたこと……。
 事件の直後だけに彼の記憶は明確で、内容にも矛盾はなかった。もとより大
学生とあって、論旨をまとめたり弁論を行なったりということになじみがあっ
たせいもあるだろう。
 ――そう、国府の報告を見るまでもなく、朱衡は彼の身分や人となりを知っ
ていた。尚隆と六太が目をかけている楽俊と幾度か言葉を交わしたことがあっ
たし、その際、鳴賢というおもしろい字の学生についても聞いたことがあった
からだ。
 話すうちにだんだん落ち着いてきたのだろう、鳴賢は目を伏せ、淡々と事実
のみを語った。房室の片隅では侍史がさらさらと筆を走らせて内容を記録して
いる。
 呪をかけられた六太を背負い、国府にやってきたところまで話し終えた彼は、
そこで言葉を切って深々と頭を下げた。
「あとはご承知のとおりです」
 朱衡はうなずいた。
 先刻、六太が「出かけてくる」と言ったときの情景が蘇る。鳴賢の話はその
朱衡の記憶と見事につながっていた。あのときにわかっていれば、何としても
引き留めたものを――。

325永遠の行方「王と麒麟(3)」:2010/05/17(月) 00:17:39
「委細はわかりました。ご苦労でしたね」
「いえ……」
 青ざめたままの鳴賢に、朱衡は微笑してみせた。
「先ほども言ったように、主上は心身ともにお健やかであらせられる。もとも
と神籍にあられるかたなのだから、そう簡単に呪だの何だのに冒されるはずも
ないのです。台輔にしても神籍にあられるのは主上と同じゆえ、この不遜な企
ては必ずや近日中に解決するでしょう。安堵するように」
「……はい……」
「今のところは、ひとまず大学寮に戻ってよろしい。またあとで何か尋ねるこ
とがあるかもしれないが、それまで普通に過ごしていなさい。むろんこの件に
関しては、くれぐれも他の者に知られないように」
 鳴賢は、ただ無言で頭を下げた。
 朱衡は筆記を終えた侍史に、鳴賢を大学寮まで送るよう命じた。房室の扉が
閉じられて人気がなくなると、彼はついと体を引き、傍らの衝立に向き直った。
「やはり巻き込まれただけでしょう」
 椅子のきしみと衣擦れの音。衝立の陰から現われた尚隆は「もちろんだ」と
うなずいた。
「そもそもあれは謀反に荷担するような男ではない。年齢相応の功名心を持つ、
普通に善良でまっとうな気性の持ち主だ」
 王の様子には、半月以上に及ぶ昏睡を窺わせるものは何もなかった。朱衡は
侍史が記した書類の束を手に取って主君に示した。
「彼の記憶は明快ですね。台輔と謀反人とのやりとりも逐一覚えているようで
す。彼が見聞きした内容は、ほぼ正確に再現されたことでしょう。何にしても
台輔がおひとりで謀反人の元に乗り込まずに良かった。既に起きてしまったこ
とをとやかく言っても仕方ありませんが、少なくとも経緯はわかりましたから、
ここから何か手がかりを得られるかもしれません」
 尚隆は「そうだな」と応じ、懐から一枚の書き付けを取り出した。それは六
太が鳴賢に託した官への伝言だった。鳴賢はそれを六太の懐に納めた上で彼を
背負ってきたため、鳴賢の証言を待つまでもなく、黄医の診察に当たって六太
の体を改めた女官が見つけたのだった。

326永遠の行方「王と麒麟(4)」:2010/05/17(月) 00:19:39
「しかし、こんなことになっていたとはな」
 ややあって尚隆は溜息を漏らした。さすがの王もこの事態は想像の埒外だっ
たろう。
「俺の記憶は幇周で途切れている。病に冒された女が何か口の中でつぶやいた
と思ったら、次には宮城の牀榻で寝ていた。狐につままれたような気分だ」
 そう言って六太が託した言伝をひらひらとそよがせる。既に書面の内容は朱
衡も見ており、六太がどれほど厳しい決意を持って謀反人と取引したのかもわ
かっていた。そして実際に六太は昏睡に陥り、先刻まで尚隆がそうだったよう
にまったく目覚める気配はなかった。
「先ほどの大司馬の報告では、件の邸に差し向けた兵は首魁の女と従者の亡骸
を見つけたそうです。晏暁紅の名が仙籍から消えたことも確認しましたので、
倩霞と名乗っていた女が暁紅本人であることに間違いはないでしょう。従って
残党がいるかどうかはわかりませんが、今のところ探索の糸は切れた形です」
 女主人の亡骸を臥牀に安置し周囲を花で飾ったあと、ただひとり残った側仕
えの娘も傍らで毒をあおって自害していた。鳴賢がいたときにこの話をしなか
ったのは、いくら関わりを持ったとはいえ、今の段階でそこまで詳細を知らせ
ることはないと判断したからだ。
 兵に邸内を調べさせているものの、今のところ謀反の動機や呪に関係すると
思われる書類や道具は見つかっておらず、六太を目覚めさせるための方法はわ
からなかった。尚隆が昏睡に陥っていた間もなすすべがなかったのだから当た
り前ではあるが。
 尚隆は、ふむ、と考え込んだ。
「いずれにしろこの件に関しては、呪者は真実を語った上に約束を守ったこと
になる。六太が昏睡に陥ると同時に俺が目覚めたのだからな。自分と大勢の従
者の命を犠牲にしてまで、結局何が目的だったのか、解せん話だ」
 彼はそう言うと、六太の言伝をふたたび懐にしまった。そして「どれ、顔を
見に行ってやるか」とつぶやいてから、朱衡の表情に気づいて笑った。

327永遠の行方「王と麒麟(5)」:2010/05/19(水) 20:06:59
「そう案ずるな。目覚めるものならそのうち目覚める。謀反人との取引の結果
とはいえ俺が目覚めたということは、同様に六太の呪も解く方法があることを
示しているのだからな」
「もちろんです」
 朱衡は硬い表情ながらも、しっかりとうなずいた。このまま六太が永遠に目
覚めないなど、絶対にあってはならないのだから。

 仁重殿に赴いた尚隆は、まっすぐ主殿の臥室に向かった。出迎えた女官らは
複雑な表情だ。王が目覚めてほっとした代わりに、直接の主である六太が昏睡
に陥ってしまったのだから無理もない。
 厚い帳で閉ざされた牀榻の扉の奥を見た尚隆は、控えていた黄医に「どのよ
うな状態なのだ?」と尋ねた。
「昏々と眠り続けておいでです。主上の侍医とも話を致しましたが、症状とし
ては主上が昏睡に陥っておられたときと非常に似通っているようです。ただ主
上は何の反応もお見せではなかったそうですが、台輔は普通にお寝みであるか
のように、多少は表情などを動かされることがあります」
「ほう?」
 わずかに考え込んだ尚隆は彼らに「少しはずしてくれ」と言って人払いをし
た。帳を開け、その奥に横たわるおのれの半身を目にする。
 軽く吐息をついてから、尚隆は臥牀の端に腰掛けた。手を伸ばして六太の金
の髪に指を通し、頭をそっとなでる。何の反応もないが、傍目にはぐっすりと
眠り込んでいるだけとしか見えなかった。
「まったく……」彼は口の端に困ったような笑みを浮かべた。「おまえは心底
から麒麟なのだな。民のためとあらば、嫌いな王の身代わりになるのも躊躇せ
ぬか」
 鳴賢の証言を衝立の裏で聞いていたとき、尚隆は初めて六太の身の上を知っ
た。おそらく朱衡もそうだろう。これだけ長い時間をともに過ごしながら、尚
隆は六太が蓬莱で両親に捨てられたことなどまったく知らなかったのだ。それ
が蓬莱で為政者が起こした戦乱のせいであることも、ゆえに六太が為政者と名
の付く存在をすべて厭い、かつて王を選ぶことさえ拒んだことも。
 だが知らずとも無理はなかった。麒麟は本来、蓬山で生まれ育つ。蝕によっ
て蓬莱なり崑崙なりに流されたとしても、民らが願うのは幼い麒麟の帰還のみ。

328永遠の行方「王と麒麟(6)」:2010/05/21(金) 00:48:45
尊き神獣がよもや異世界で親に捨てられるとは思ってもみないし、流されたの
は不運としても、日々の糧にも困り、貧困と飢えに苦しむとは想像すらできな
いだろう。そして幸運にも探し当てられて無事に帰還したあとは、本来いるべ
き場所に戻った以上、王を選び王に仕えることを求めるのみ。あるとすればせ
いぜい、神獣ゆえ異世界でも尊ばれたに違いないとのおぼろな思いこみぐらい
で、麒麟に異世界での境遇を尋ねるという発想さえ持たないだろう。そして生
い立ちに関わる記憶がつらいものだった場合、誰にも尋ねられなければ、麒麟
自身もその記憶を掘り起こしてまで身の上を語ろうとはしないに違いない。い
きずりの旅人や似たような境遇の孤児など、二度と会わないだろう相手に、正
体を明かさぬまま心中を吐露することならあるだろうが。
 実際、尚隆もこれまで六太に生い立ちを尋ねようとはしなかった。むろん向
こうで出会ったことではあるし、こちらに来てから彼も胎果であることは知っ
たので、雑談の際に出自について水を向けたことはある。だが記憶しているか
ぎり、六太は気のない返事をしただけだ。そして帰還が四歳かそこらだったの
なら、あまり覚えていなくとも無理もないと軽く受けとめた覚えがあった。
 蓬莱での出会いも、後から何となく「王の探索のためだったのだろうな」と
考えていた。既におぼろになっている登極当時の記憶を振り返ってみても、雁
の官のみならず、蓬山の女仙もそのように捉えていたようだった。よもやそれ
が、王の選定を嫌がって蓬山から出奔した果ての邂逅だったとは思いもよらぬ
ことだった。
 親に捨てられ、負わされた運命を拒み、生まれ故郷の蓬莱に逃げ帰った。思
えば出会ったときの六太は、妙に大人びて暗い目をした子供だった。麒麟は王
の選定から逃れることはできないと、のちに自嘲気味に言っていたのを聞いた
こともあった。
 おそらく六太は、蓬莱で家族とともに平穏に過ごしていたかったことだろう。
神獣としてではなく、無名の只人として。だが結局は運命から逃れることはで
きず、尚隆を選んで連れ帰った。その後、六太は長らく尚隆と距離を置いてい
たが、すべてがわかってみればなるほどと思えるのだった。何より五百年もの
歳月が経ってさえ生い立ちについて口にしないということは、六太にとっては
未だに思い出すのがつらい記憶なのだろう。
 麒麟という生き物は哀しいものだなと、尚隆はひとりごちた。いくら当人が
名もなき生涯を望んでも、あいにく運命のほうは手放してくれない。自分の欲
求に反して王を選び、今また国のために迷うことなく自分の生を放棄し――。

329永遠の行方「王と麒麟(7)」:2010/05/21(金) 19:16:35
 麒麟の卵果が生る木は捨身木という。それは私心を持たず、ひたすら国のた
め民のために尽くす存在であることを示しているがゆえだろう。
「まあ、待っておれ。呪などすぐに解いてやる」
 困ったような笑みを浮かべたまま、尚隆はそっとつぶやいた。

 一方、こちらは鳴賢。
 閑散とした大学寮の自室に戻った彼は、しばらく茫然と座り込んでいた。ま
だ夕餉を済ませていないことに気づいたのは、かなり時間が経ってから。しか
しいっこうに空腹は感じなかった。
 既に夜も更けている。六太がやってきたのは、まだ日も高いうちだった。気
分転換を兼ねて外で夕餉を食べようと思い、そのついでに六太を案内しただけ
なのに――。
 もはやずいぶんと昔のことのようだ。
 彼は顔を上げ、簡素な室内をゆっくり見回した。ようやく日常に戻ったはず
なのに、岩をくりぬいて作られた房間のたたずまいはそっけなく、見知らぬ場
所のようだった。
 六太を連れていった国府で、彼は罪人同然の扱いを受けた。「まず事情を聞
かなくては」と慎重な姿勢を見せた官も上長の命に押され、民に知られぬよう
に奥に通されたあとで縛りあげられた。拷問こそされなかったものの言葉と態
度で謀反人と見なされたのは明白で、あまりの仕打ちに憤激した。だがその気
持ちもすぐに萎えてしまった。何と言っても意識が戻らない六太に誰よりも衝
撃を受けていたのは鳴賢自身であり、その事実の前に打ちひしがれていた彼は、
抗弁する気力さえも失せてしまったからだ。むしろ聞く耳を持たない多くの官
の反応に、無慈悲な人間ばかりかもしれないとの想像が裏付けられた気がして、
余計に打ちのめされた。
 だがそうやって厳しく尋問されていたところへ、慌ただしく別の官吏がやっ
てきて何かを耳打ちし、途端に彼らは明らかな狼狽を見せてひそひそと話を始
めた。ついで「大司寇がじきじきに尋問なさるそうだ。覚悟しておけ」と冷や
やかに言われ、鳴賢は目の前が真っ暗になった。
 普段の彼なら千載一遇の機会と捉え、身の潔白を証立てるとともに顔をつな
ぐことができると意気盛んに思ったかもしれない。しかし打ちひしがれて抗弁
する気力さえ萎えた状態では、このまま謀反人の一味と見なされて投獄され、
大学も除名されると思い、自分の人生は終わったと観念した。

330永遠の行方「王と麒麟(8)」:2010/05/21(金) 20:15:13
 罪人のように縛られたまま雉門を通り、さらにいくつかの門を過ぎ、まさか
こんな形で雲海上に赴く羽目になるとは思っていなかった彼は、威容に満ちた
宮城のたたずまいの中で萎縮するしかなかった。何をどう抗弁しても、聞き入
れられることはないだろう。自分がいかにちっぽけな存在であるかを真に思い
知った気がした。
 だが彼を引見した大司寇は、想像していたような人物ではなかった。即座に
「事件に巻き込まれたようだ」と言い、縄を解くように命じてくれた。むろん
最高位の国官のひとりなのだから威厳に満ちていたし、何より宰輔昏睡という
前代未聞の事件の前に厳しい声音だったが、少なくとも国府の官よりはるかに
丁重に扱ってくれた。それで鳴賢はようやく、末端の官の中には徳に欠ける者
がいるとしても、やはり高官となるとそれなりの人徳を兼ね備えているのだと、
衝撃から脱せないまでもどこか安堵の気持ちを覚えた。
 きっと大丈夫だ、そんなふうに自分に言い聞かせる。あの大司寇ならきっと
六太を助けてくれる。それに――そう、主上はちゃんと目覚めたとも教えてく
れたじゃないか。麒麟は王の半身なのだから、きっと主上も手を尽くしてくれ
る……。
 王の人となりについての六太の言葉を思い出す。形容だけでは俗物としか思
えなかったが、大学で学んだ数々の勅令を思い起こせば、深い見識と決断力を
備え、慈悲にあふれた人柄であるのは確かだ。立派な人物でも私生活はだらし
ない者もいるが、おそらく延王はそういう種類の人間なのだろう。ならばきっ
と六太を助けるべく奔走してくれるに違いない。
 鳴賢はそう自分に言い聞かせると、書籍を取り出して書卓に向かった。
 今回、自分はたまたま事件の一端に関わっただけだ。六太と暁紅のやりとり
も、託された伝言も、すべて大司寇に伝えた――六太の「死ぬ前に好きな相手
が誰かを教える」という約束、最後に「町中で王に会うことがあったら伝えて
くれ」と前置きして言われた言葉など、六太が他言を望んでいないだろう事柄
以外は。おそらくもう何も教えてはもらえないだろうし、現実問題として役に
立てることもないだろう。
 ならば自分にできることは勉強しかない。必死に学んで、やがて国官となり、
国のために尽くすこと。
 それが自分に残された唯一の道だと鳴賢は思った。

331永遠の行方「王と麒麟(9)」:2010/06/05(土) 09:47:08

 王の覚醒を受け、夜明けを待たずに緊急に朝議が召集された。入れ替わる形
で昏睡に陥った宰輔六太についてもその場で報告がなされたため、「今度は台
輔か」と一同に緊張が走った。しかし王が目覚めた以上、王自身が言うように
六太についても手立てはあると考えられ、昨日までと違って臣下らの表情には
余裕があった。
 この頃には六太が残した伝言における言及のほか、もろもろの状況から鳴賢
による証言はほぼ真実と判断されており、暁紅が潜伏していた邸に差し向けた
兵による捜査状況と併せ、大司馬と大司寇から詳細な顛末が報告された。
 もはや倩霞と名乗っていた女が、梁興の寵姫だった晏暁紅であることに間違
いはなかった。信じがたいことに彼女自身が謀反の首謀者であることも。
 具体的な動機はいまだ不明とはいえ、鳴賢の証言に信を置くなら王と麒麟に
深い恨みを抱いていたらしい。とすれば他に原因を考えられない以上、かつて
の光州城の陥落が動機と解釈するしかなかった。彼女自身が梁興を討って籠城
を終わらせたのは事実としても、そういう状況に追いやったとして国府を、王
を逆恨みし、さらに貞州城で蟄居同然の生活を送ったことで鬱憤がたまり、長
い間に謀反へと気持ちが固まっていったのだろう。
「だが暁紅は冬官でも何でもない。仙であるというだけの素人だ。今回の光州
の事件も、梁興が作らせていた文珠を落城のどさくさに紛れて持ち出して隠し、
それを使っただけと思われる。最初から含むところがあったのだな。だが知識
がないためにどのように使うものなのかがわからず時間だけが過ぎていき、最
近になってやっと準備が整ったということだろう」
 そう述べた大司馬に、別の官も同意した。
「梁興のそばにいたのだから、不穏な呪が開発されていたことも当然知ってい
たでしょうな」
「それに貞州城での生活ぶりからも、暁紅が不満をためる種類の人間であるこ
とは窺えましたし、それでいて技術的な知識や能力がなかったこともわかって
います。それを鑑みるに、能力もないのに『正当に評価されず虐げられている』
と不満を募らせる輩に通じるものがあったのでは」

332永遠の行方「王と麒麟(10)」:2010/06/08(火) 22:01:03
「なるほど。落城間際という状況でおそらく処罰から逃れるために梁興を討ち、
その際、万が一自分に害が及ぶなり何なりしたときに主上に意趣返しするため
に、文珠をかすめ取って隠しておいた――その辺が妥当でしょうね」
 口々に推測を述べた官らに大司馬は「確かに」と大きくうなずいた。
「暁紅が梁興を討ったのは落城間近の閨、いわば追いつめられてのことだ。計
画性があったとは思えないし、その後の態度から推して、謀反の連座による処
罰を恐れ、単に国府におもねるためだった可能性は高い。だが処罰されないま
でも貞州でただの女官として過ごす羽目になり、奢侈に慣れた寵姫としては憤
懣やるかたなかっただったろう。実際、貞州側の証言から暁紅が処遇に不満を
抱いていたことはわかっている。それで結局は叛意を固めて貞州城を辞し、隠
しておいた文珠を使って復讐を企てたと思われる。むろん逆恨みでしかないわ
けだが、一般的に言って女というものは男より感情に走りがちだ。特に恨みを
抱いた女ほどしつこいものはない。それを思えば今回の事件における不可解な
部分もおそらく、他人には理解できない暁紅なりの論理に則ってはいたのだろ
う」
 大司馬はそう言って報告を締めた。他の面々も「当人なりの言いぶんはあっ
たろうが、大筋はそんなところでしょうな」と同意した。
 というより既に動機はどうでも良いとさえ言えた。問題は暁紅に残党がいる
かどうか、つまり謀反の企てが終わったか否かなのだから。
 目下のところ彼女に下僕以外の協力者がいた様子はない。倩霞名義で経営し
ていた小間物屋、これは市井での王や麒麟の動向を探るための場所だったと思
われるが、とりあえず謀反のことは伏せ、流行病が出たためという理由をつけ
て建物を調べたものの、手がかりと言えるものは見つからなかった。
 なお数ヶ月前に暁紅は転居していたが、実は転居先の邸もずいぶん前に彼女
が買ったものであることがわかった。店に出ていた数人の娘以外の下僕、特に
幼い者は、そこでずっと人目を避けるようにして静かに暮らしていたらしい。

333名無しさん:2010/06/19(土) 15:34:17
鳴賢乙。いい奴だ。
やっぱり尚六はいいですね。

334永遠の行方「王と麒麟(11)」:2010/06/25(金) 19:12:50
繁華街の小間物屋に子供や妙齢の娘ばかり大勢置けば妙な興味を持たれるに違
いなく、それを避けるためだったのだろう。何十人もいれば中には謀反の意志
を翻す者も出るだろうし、秘密を守るには、そんな彼女らと接触する人間は極
力少ないほうがいいのだから。
 夜を徹して邸内を捜索しているところだが、庭のあちこちに掘り返した跡が
あり、そこから娘たちの変わり果てた姿が見つかった。暁紅の語った内容が真
実なら、主人に命じられるまま光州の里廬を害する呪詛を行ない、その報いを
受けて生命を落としたに違いない。
 しかし現在のところ、光州の奇妙な病や六太の昏睡をもたらした呪そのもの
に関する手がかりは得られていなかった。存命の協力者がいて持ち出したので
なければ、暁紅もしくは下僕が最期に当たって慎重にすべてを破棄したと思わ
れた。資料があれば宰輔を目覚めさせる手がかりを与えることになりかねない
のだから、謀反人の行動としては順当なところだろう。
 埋められていた娘たちについては、天官府から派遣された医師のひとりが代
表して報告を奏上した。
「まだ掘り起こしたのは十歳から十八歳ほどの数体に過ぎませんが、遺体の状
態から推して死亡時期は異なっているものの、いずれも今から数ヶ月ないし一
年ほどの間に死んだと考えてよろしいしょう。光州で奇妙な病が起き始めた時
期と一致するのと、数ヶ月内に死んだらしい娘の遺体は季節柄保存状態が良く、
そこに明らかに暁紅と同じ体が腐る症状が認められたため、呪詛の行使の結果
と見るのが妥当と思われます」
 娘らの旌券がなかったため身元がわかった者はひとりもいなかった。鳴賢の
証言もあり、おそらくすべて浮民だったのだろう。

335永遠の行方「王と麒麟(12)」:2010/06/26(土) 00:08:48
 むろん幼い彼女たちが真に自由意志で呪を行なったかどうかの確証はない。
しかし酷い殺されかたをした家畜の怨嗟を察知した六太が気づかなかったらし
いこと、何より自分の不遇を嘆いて雁を逆恨みし、暁紅に心酔していた者ばか
りだったというなら、復讐のために進んで生命をなげうったとしても不思議は
ない。一般に若者は他人の言動に影響されやすいものだし、活気にあふれてい
るだけに煽られれば無謀なことも平気でやりかねない。しかもそれが自分たち
を幼い頃に引き取って恩を施してくれた主人の命とあらば、みずからの復讐心
も満たせるとあって喜んで実行するだろう。いわば純真さゆえの暴走とも言え
るが、暁紅はそういった年代の娘たちをうまく操ったのかもしれない。
 最後に残った阿紫という娘、これは毒をあおって主人の後を追ったが、彼女
だけは病に冒された様子はなかった。しかし遺書めいたものもどこにもない。
「結局わからないことばかりか」
 一同は溜息をついた。
「しかし逆恨みとはいえ、いったい麒麟たる台輔に何の恨みがあったのでしょ
う。常軌を逸していると思うほかはなく、そんな輩の論理を推し量るのは無駄
でしょうね」
「それでも全員死んだのであれば、ある意味で事件は解決したことになるが…
…」
「暁紅は偽名で戸籍を作っていた。その辺を含めて足取りを追っているところ
だが、今のところ新たな手がかりはない。しかしながらこのまま光州での事件
が収まれば、確かに事態は収束したと見て良いだろう。したがって問題は台輔
だ」
 大司馬はそう言って壇上の玉座に座している王に向きなおり、頭を下げた。
「残念ながら現在のところ解呪に関する有用な情報はございません。しかし何
としても手がかりを得る所存でございます」
 うなずいた尚隆は、「それで光州のほうはどうなっている?」と尋ねた。
「俺の影武者を立てたと聞いたが」
「光侯の独断ではありますが。しかしながらとりあえずは誤魔化せているよう
です」

336永遠の行方「王と麒麟(13)」:2010/06/27(日) 19:22:12
 苦虫をかみつぶしたような顔で答えた大司馬に、尚隆は軽く笑った。
「仕方あるまい。帷湍も相当苦慮しただろう。いずれにしてもそういうことな
らいったん光州に戻らねばなるまいな。そこで影武者と入れ替わるとするか。
ともかく謀反人どもが本当に死に絶えたのなら、元凶である文珠を取り除いた
以上、次なる事件はもう起きないはずだ。ならば国府と州府の連携により謀反
人を一網打尽にし、抵抗したためその場で討ち取ったことにしてそれを公表す
れば、光州での事件は収拾できる。その間に暁紅に関する調査を終えておけ。
報告は光州から戻ってから聞く」
「御意」
「それから蓬山に問い合わせの勅使も出しておけ。半月眠っていても俺はぴん
ぴんしているし、六太にしても同じだろうが、この際はっきりさせておいたほ
うがいい」
「と、おっしゃいますと?」
「つまり眠ったまま、飲食せずに麒麟がどのくらい保つかを、だ」
 居並ぶ高官らは一瞬言葉に窮した。
「それは、むろん神仙ですし、さらに神獣麒麟ともなれば、おそらくはいくら
でも――」
 戸惑いとともに口ごもりつつ答えた大宰に、尚隆は淡々と続けた。
「俺もおまえたちもそれを知っている。そもそも六太は俺に害が及ばぬことを
納得したからこそ呪を受け入れたのだからな。とはいえ下吏や奄奚にまで俺た
ちと同じ確信を求めることはできぬし、それは一般の民も同じだ。だが蓬山の
お墨付きを得ておけば、万が一解決が長引いて事態が漏れたり公表せざるを得
なくなったとしても恐慌を防ぐことができる。麒麟について一番よく知ってい
るのは蓬山であり、女神碧霞玄君の治める聖なる仙境なのだから。それにこの
事態を蓬山にまで秘密にする必要はない」
「御意のままに」
 応えた冢宰に、尚隆はさらに光州城への往路に同道させる禁軍兵数名の選抜
を指示して朝議を終えた。

337永遠の行方「王と麒麟(14)」:2010/07/03(土) 10:28:09
 うやうやしく頭を垂れて主君の退出を見送った臣下らだったが、彼らの表情
に曇りはあれど、声にも所作にもどこか張りが感じられた。王の覚醒と同時に、
滞っていた宮城の血流がふたたび流れ出したかのようだった。昏睡に陥った宰
輔のことは心配だったが、もはや采配をどうするかで悩むことはない。国政の
歯車として、王の指図通りに動けば良いのだ。
 自分の生命を握っている麒麟の昏睡を報されても泰然としている主君の様子
に高官らは何となく安堵し、それぞれ同席の部下にてきぱきと指示を下した。
命令する者がおり命令の内容が妥当であり、そしてやることがあれば、官吏は
何も考えずにすむ。これまでの長い治世においてたびたび昏君呼ばわりしてき
た王とはいえ、辣腕ぶりは誰もが認めている。その主君を一時的にとはいえ失
って混乱したあとだけに、ふたたび主命を拝することができるのは臣下らにと
って望外の喜びだった。

 六太のことは伏せ、王の覚醒と謀反人の正体のみに触れた内密の青鳥を光州
侯宛に飛ばしたあと、尚隆は禁軍兵数名とともに早々に光州城に向かった。
 迎えた光州城側は打ち合わせどおり、謀反人の正体と居所を突きとめた旨の
伝言を携えた使者として即座に内宮に導き、尚隆はそこで無事に影武者と入れ
替わった。表向きにいる官でそのことに気づいた者は誰もいなかったろう。
 人払いをした房室で、尚隆は光州侯帷湍と令尹に向き直った。
「よくぞご無事で……」
 令尹は涙ぐみながら、その場で叩頭した。
「影武者を立てるよう強く進言したのは拙官にございます。光侯はむしろ反対
しておられました。咎はすべて拙官に――」
「そう焦るな、士銓」尚隆は苦笑した。「結果的にそれでうまく運んだのだ、
何も言うまい」
「まことにもったいなきお言葉――」

338永遠の行方「王と麒麟(15)」:2010/07/03(土) 10:31:07
「何より帷湍の進言のおかげで、謀反人の首魁が晏暁紅であることを突きとめ
られたのだからな。そしてその女が関弓に潜伏していることがわかった以上、
数日内には捕らえるか討ち取るかした旨の使者が来るはず。とはいえ事件が解
決したと断じるには、次なる病の発生がないことを確かめねばならん。今度こ
そ目標と思われる里で何事も起きないことを民らに示せ」
「は」
 士銓はふたたび叩頭すると、帷湍からも細かく指示を受けた上であわただし
く房室を退出した。残った帷湍の表情は、しかし硬かった。
「何があったのだ……?」
 静かな表情で黙って臣下を見ている尚隆に彼は続けた。
「俺は、いや光州城は台輔の使令により監視されていた。だが十体もの使令は
前触れもなく忽然と姿を消した。青鳥を飛ばすべきかと思ったが、そうするま
でもなく国府から連絡が来て、詳細を知らせぬまますべて解決したという……」
「まだ解決したわけではない。晏暁紅が関弓に潜伏していることがわかっただ
けで捕らえたわけではないからな。少なくとも公式にはそのようになっている。
いきなり謀反人を討ち取ったことにすると呆気なさすぎて、おまえたちも狐に
つままれた気分になろう。まずは先触れとして予告をし、今か今かと待ちかま
えているところで討ち取った旨の青鳥が来たほうが納得もしやすかろうと思っ
てな。事件の顛末に関する筋書きはこうだ」
 いわく、一地方州にとどまらぬ陰謀を察知した光州侯が王のお出ましを乞い、
王は首都州で謀反人が次なるくわだてをなすことを見越して、油断させるため
にあえて大勢の兵を連れて宮城を空けた。その後の光州側の調査で、先々代の
光州侯・梁興の仇を打つため、遺された寵姫が長い時間をかけて謀をめぐらせ
た疑いが濃厚となり、彼女の足取りを追うことになった。そして念のために国
府にも報せたところ、連絡を受けた国府は謀反人らが関弓に潜伏していること
を突きとめ、総力を挙げて一党を討ち取った――。
 これならば表向きの発表とも齟齬がないし、国府との連携により事件が解決
したということで光州の面子も立つ。現在は討伐直前の、国府から「問題の寵
姫の居所を突きとめた」と光州に連絡が来た段階というわけだ。

339永遠の行方「王と麒麟(16)」:2010/07/03(土) 10:34:18
「では本当は……」
 尚隆は肩をすくめて「晏暁紅は死んだ」と答えた。
「おまえが関弓に伝えた推理どおり、確かにその女が謀反の首謀者だった。協
力者は暁紅の下僕らのみで、これも死に絶えた。おそらく残党はいないだろう」
「では……何が問題なのだ?」
「六太が俺の身代わりになった」
 言葉を失った帷湍に、尚隆は即座に「安心しろ」と続けた。
「死んではいない。俺がそうだったように眠り続けているだけだ」
「そんな、なぜ台輔が」
「俺にかけられた呪には解除条件が設定してあってな、それが六太が代わりに
呪にかかることだったそうだ。暁紅におびきだされた六太は、身代わりになれ
ば俺が目覚めるという暁紅が提示した条件を飲んだ。そして俺がここにいる」
「そんな……」
「まあ、座れ。最初から説明しよう」
 鳴賢という同行者がいたおかげで、六太と暁紅のやりとりはすべてわかって
いる。尚隆は卓で向かい合って座った帷湍に、その内容を詳しく説明した。聞
き終えた帷湍は「ちょ、ちょっと待ってくれ」と言うと、戸惑いの表情で考え
こんだ。
「謀反人の、その、晏暁紅の意図がさっぱりわからんのだが……。そもそもの
最初から台輔が狙いだったわけでもあるまいに。何より呪の解除条件にされた
という、台輔の一番の願いとは何なのだ? 話を聞いたかぎりではごく個人的
な望みのように思えるが」
「さてな。それがわかれば苦労はせぬ」
「台輔は麒麟だから、少なくとも物騒な望みでないことは確かだな。それなら
近習、いや台輔と親しく言葉を交わしたことのある者すべてを聴取すればわか
るんじゃないか?」
 だが尚隆は困ったように笑った。
「おまえ、六太が真に私的な望みを言うのを聞いたことがあるか?」

340永遠の行方「王と麒麟(17)」:2010/07/13(火) 00:01:06
「いや、ないな……。せいぜいあれを食いたいとかこれを食いたいとか……政
務を怠けて息抜きしたいとか――」
 尚隆は静かに「六太には欲がない」と断じた。
「当人はいろいろ私欲を持っているつもりかも知れぬが、実際にはさほどこだ
わっておらぬし、どれも非常時にはあっさり忘れる程度のものでしかない。あ
れの口から出るのはすべて民のため、他人のための言葉ばかりだ。麒麟だから
な」
 いったんはうなずいた帷湍だったが、はたと膝を叩く。
「台輔はいつも、宮城にずっといると息が詰まると言っていた。それ、おまえ
もそうだが、いつでも自由に出歩きたいとか――」
「出歩いておろうが」尚隆は苦笑した。
「う、うむ、そうか。そうだな」
 帷湍はあわてたように言って、また考えこんだ。
「しかし台輔いわく『あさましい願い事』だそうだが、どうも想像がつかん。
思うのだが、台輔の言う『あさましい』は俺たちとは基準が違うんじゃないか?
他人が聞けば『そんなこと』と笑い飛ばす程度の内容なのに、品性の高い――
と言うのもしっくり来ないが――麒麟ゆえに恥じ入っているだけとか」
「かもしれん」
「そうだな、他に思い当たることがあるとすれば――麒麟ではなく人になりた
い、とか。冗談にせよ、たまに『麒麟は損だ』と愚痴っていたことはあるぞ」
「それは冬官に確認した。物理的に不可能なこと、基準が不明確なことを解呪
の条件にすることはできぬそうだ。少なくとも客観的に見て実現の可能性のあ
る事象でなければならんらしい」
「そ、そうか。なるほど。ならば違うか……」
 再三考えこんだ帷湍は、やがて諦めたように「やはり周囲に聴取して回るし
かなかろうな」と溜息をついた。

341永遠の行方「王と麒麟(18)」:2010/07/13(火) 20:24:09
「うまくすれば仁重殿の女官あたりが知っているかもしれん。官でだめなら奄
奚にも聞き取り範囲を拡大して、それでもだめなら城下の、台輔が親しくして
いたろう只人とか――いや」
 言葉を切った帷湍は、見る見るうちに蒼白になった。
「台輔の正体を知らせず、どうやって怪しまれずに只人に聴取する? へたな
やりかたをしたら台輔が昏睡に陥っていることが民にも知られてしまうぞ。そ
もそも台輔自身が『あさましい願い事』と恥じ入っていたのなら、滅多な相手
には話さんだろう。むしろたまたま行き合っただけの旅人とか、二度と会うは
ずのない相手に話しただけかもしれん。深刻な内容であればあるほど、告白の
相手に知り合いでも何でもない赤の他人を選んで気持ちを収めるというのはあ
りがちな話だしな。それに謀反人が設定した条件以外に呪を解く方法が本当に
ないとしたら、台輔の一番の願いがそれというのは注意を要する情報だ。台輔
がこれまで誰かに話したり匂わせたりしたとして、その相手の性根が曲がって
いないともかぎらん。少なくとも価値のある情報と知って、国府に莫大な見返
りを要求することは考えられる――いや、実際に台輔の願いを知らずとも、俺
たちがそれを必死に求めていることを知ったら、千載一遇の好機とばかりに私
利私欲を満たす手段にする可能性はある。おまえを幇周で呪にかけた呪者も、
要は俺たちが求めている情報を餌におびきだしたわけだからな」
 自分が口にした言葉に茫然としながら、帷湍はこわばった顔で尚隆を凝視し
た。
「……おい」
「この情報の扱いには相当な注意を要する」尚隆は淡々と答えた。「それゆえ
六太にかけた呪に、呪者があえて解除条件を設定したことを知るのは限られた
者だけだ。現在のところ鳴賢と彼の証言を書き記した朱衡の侍史、冢宰、三公
六官、黄医、そしておまえだ。蓬山に勅使を出すよう指示したゆえ、いずれ碧
霞玄君にも知れようが」
「うむ……」

342訂正:2010/07/13(火) 20:28:27
>>340の冒頭一行が抜けてました。↓が入ります。

 言葉に詰まった帷湍はそわそわとした素振りで考えこみ、やがてがっくりと
うなだれた。

343永遠の行方「王と麒麟(19)」:2010/07/17(土) 18:06:03
「そもそも呪者である暁紅は、その願いがかなうことはありえないと思い、六
太自身も肯定したほどの内容だ。そして俺にかけられた呪が、六太が身代わり
になるまで誰も手も足も出なかったことを考えると、長丁場になるやも知れん」
「うむ……」
「俺は俺自身に関してならいくらでも博打を打つが、六太はだめだ。既にあれ
は国のため俺のために自身を犠牲にした。不用意に情報を漏らして不心得者に
利用されることで真の手がかりを逃し、それによってあれのとどめを刺すこと
は俺にはできぬ」
「も、もちろんだ」
 卓の上で拳を握りしめた帷湍は、冷や汗を流しながら幾度もうなずいた。普
段は飄々としている尚隆が、今のように厳しい顔を見せることは滅多にない。
これは本当に由々しい事態なのだと、帷湍はいっそう身を引き締めた。
「とにかく光州の呪環には綺麗にけりをつけねばならんな。そうすれば時も稼
げるし、他の経路から何か情報が出てくるかもしれん」
「そうだ。任せたぞ」
 同じころ、宮城では冢宰と六官で内議を行なっていた。いくら謀反人を討伐
したことにしても、王が宮城に戻ってくるには今しばらくかかる。もともとが
人心の慰撫と士気の鼓舞のための行幸でいろいろと催しもあるし、事件の解決
を知って安堵した民としても、王への尊崇を深めるとともに「いろいろお疲れ
もあるだろう。せっかくいらしてくださったのだし、この際ゆっくりなされば
いい」と気楽に考えるだろうからだ。国府としてはその間に、王に命じられた
すべての調査を終えなければならなかった。
「実は少々まずい事態が」報告の区切りがついたところで、太宰が困惑顔で言
った。「というのも先ほど景王より台輔宛の親書が届いた」
「親書――景王から、ですか」
「台輔がときどき慶国と文をやりとりしておられるのは存じておりますが」
 他の官も当惑して顔を見合わせた。太宰は続けた。

344永遠の行方「王と麒麟(20)」:2010/07/20(火) 00:35:13
「正式の親書というわけではない。鸞ではなく、青鳥につけられていた普通の
紙片だし、何より封蝋の小さな印影は景王の玉璽ではなかったからな。だがい
つも書簡を処理している女官によると、景王がごく私的に――というか私人と
して台輔に文を送る際に使っている印に間違いないそうだ。それ自体は登極の
際の縁や数年前の戴国の件もあり、台輔は気安く景王とやりとりしておられる
から不思議はないし、主上もご存じだろうが、何しろこの時機だ。台輔は昏睡
しておられるわけだし、主上はおられぬし」
「確かに困りましたね。本人しか内容を聞けない鸞でなかったことは幸いです
が、われわれが封蝋を破って書面を確認するわけにもいきません」
「しかしもし返信が必要だったとしても、台輔とてそれなりに忙しいお体だ。
いつもすぐ返事を送っていたわけでもなかろう」
 朱衡と大司馬がそう返すと、太宰は「うむ」とうなずいた。
「それゆえ書簡のみ受け取り、青鳥はすぐに返した。ただ現在のところ主上は
しばらく光州城においでのわけで、とりあえず主上に報告の青鳥だけは飛ばそ
うと思っている」
「それが良いですね。そもそも鸞でなく、封蝋の押印が玉璽でもなかったとい
うことは、少なくとも緊急の用件ではないはず。ならば主上の還御をお待ちし
た上で対応しても問題にはならないでしょう」
「あるいは景王は今回の謀反の騒ぎをお知りになり、単に主上を心配なさって
文を寄越されたのかもしれませんな。台輔宛にしたのは、ご多忙であろう主上
のお手をわずらわせまいということで」
「それならばお気持ちはありがたいが、何もこの時期にとは思いますなあ」

345永遠の行方「王と麒麟(21)」:2010/07/25(日) 00:02:54
 その後すぐに散会となり、抑えたざわめきの中で房室を退出しながら、彼ら
はこんな言葉を交わした。
「しかしこうなると最後の最後に暁紅が気持ちを変え、台輔の呪の解除条件を
『最大の願いがかなうこと』としたのは不幸中の幸いでした。もし『もっとも
起きてほしくないことが起こったとき』とでもされていたとしたら、どれほど
の惨状が想定されたのやら」
「確かに、考えるだにぞっとする」
「それに台輔の第二、第三の願いが解呪の条件でなくて良かった。なぜなら第
三の願いである『王朝が安寧のままに続くこと』ではいつ達成されたと見なさ
れるのかが不明確だし、『王が死ぬときはともに逝くこと』という第二の願い
に至っては、主上が崩御されるというとんでもない事態ですから」
「まあ、だからこそ逆に条件にできなかったとも言えるでしょう。主上が冬官
に確認なさっていたように、ああいうものはそれなりに明確な基準でなければ
ならないはずですから。その意味で第三の願いとやらは適当ではないし、第二
の願いにしても、眠りから覚めるための条件として『死ぬこと』を挙げるのは
矛盾しています」
「なるほど。それもそうだ」
「しかし『王が死ぬときはともに逝くこと』が第二の願いとは。失礼ながら日
頃は主上と激しく言い争うこともある台輔がそんな望みをお持ちとは夢にも思
わなかったが、やはり麒麟は王を慕うものなのですなあ」
 不意に落ちた沈黙の中、やがて朱衡はためらいがちに「そうですね……」と
だけ答えたのだった。

346永遠の行方「王と麒麟(22)」:2010/07/31(土) 10:43:23

 玄度が寮の鳴賢の房間を訪れたのは、事件から四日後のことだった。
 最近はほとんど口を利いていなかった友人が、真っ青な顔で戸口にたたずん
でいるのを見て、鳴賢は「ああ、こいつも知ったんだな」と悟った。さすがに
国府も謀反があったこと、主犯が倩霞であることまでは隠そうとしておらず、
既に町では謀反人が城下に潜んでいたことが知られつつあった。倩霞が先々代
の光州侯・梁興の寵姫晏暁紅であり、主人の仇を取るために謀反を企てたらし
いことも。大学が長期休暇中でさえなかったら、寮内ではもっと早くに知れて
いたろう。
「梁興って、二百年前に謀反を起こしたって州侯でしょ? そんな輩は罰され
て当然なのに、遺された愛妾が復讐しようだなんて、逆恨みもはなはだしい」
「光州で妙な病が流行ったのも、その女が呪を使ったからだそうだ。腐っても
仙人だからな。でもさすがは主上だ、すべてお見通しで謀反人が靖州に潜んで
いると睨み、油断させるためにあえて光州に行幸なさったらしい」
「その女は、今度は靖州で妙な病を起こすつもりだったのかもな。どっちにし
ても主上の思惑通り見事に油断して、まんまとしっぽを現わして討伐されたん
だと」
「何にしても大事にならなくて良かった」
 食事に立ち寄った店で、鳴賢は客同士のそんな会話を耳にした。彼は大司寇
が密かに差し向けた下吏から、自分がどのように関わったことにするかについ
てのみ言い含められていた。しかし噂から判断するかぎり、倩霞は関弓に潜伏
していたところを国府の役人に踏み込まれ、呪を使って激しく抵抗したために、
阿紫ともどもやむなくその場で斬って捨てられたことになっているようだった。
小間物屋も邸も夏官が徹底的に調査していることは知っていたので、謀反が起
きたことが早々に明らかにされたのは、人々がそういった行動に不審をいだか
ないようにするためもあるだろう。
 ただ阿紫に懸想していた敬之が寮に戻ってきたら、何と告げるべきだろうと
鳴賢は悩んだ。それより問題なのは倩霞にのぼせていた玄度だ。
「倩霞が謀反を企てて成敗されたって……」
「知ってる。本当だ」鳴賢は目を伏せて答えた。

347永遠の行方「王と麒麟(23)」:2010/08/01(日) 10:22:41
「まさか、そんな」
「実を言うと俺、倩霞のことで夏官に尋問されたんだ」
 彼は房間の中に玄度を手招いて扉を閉めた。向かい合って座り、内々に指示
されていたとおり、頭の中で何度も反芻した筋書きを口にする。
「事が事だから、やたらと口外するなと言われてたから、ずっと黙ってた。で
もそのうち、おまえや敬之にも呼び出しがあるかもしれない。何しろ謀反だ、
少しでも倩霞に関わったと知れた人間は厳しく尋問されるだろう」
 玄度は目を大きく見開いた。わなわなと震えた彼は口を開いたが、なかなか
言葉が出ないようだった。
「――じゃ、あ――本当なのか……」
「少し前に倩霞を訪ねていったら、会えたことは会えたんだけど妙だったんだ。
肌が――なんて言うか、崩れるんじゃないかってぐらい酷いただれかたで、ど
う見ても悪病に冒されたとしか思えなかった。なのに倩霞は何も気にするふう
もなく『近々おもしろいことが起こる』と楽しそうに言ったんだ。気が動転し
てたんでよく覚えてないが、『雁の終焉を見せてあげる』とか何とか言ってた
と思う。すぐ帰ったんだが、しばらくして国府に呼び出された。近所の人が俺
を見かけていたそうで、夏官府は俺が倩霞を訪ねていったことは知っていて、
彼女が仙で梁興の愛妾だった女で、国を傾けるために呪を使って光州に病をば
らまいたと言っていた。倩霞の病も呪のせいだと。他人を害する呪を使うと、
術者も報いを受けるらしい」
 玄度は茫然とした様子で、床几に座りこんでいた。鳴賢は六太とのやりとり
を思いだし、また涙が出そうになって声が震えた。
「小間物屋は、関弓で町の様子を探るために開いていたらしい。引っ越し先の
邸も以前から倩霞の物で、そこが根城だったって聞いた。それ以上の詳しいこ
とは、俺も教えてもらえなかったんでわからない」
 そう言うと玄度は、彼も涙ぐみながらようやく答えた。
「お、俺、倩霞の邸に行ったら――夏官があふれてて通してくれなくてさ。何
が起きたのか聞いたら謀反だって。謀反を起こした仙の女を成敗したから、邸
を調べているところだって」

348名無しさん:2010/08/01(日) 21:15:31
姐さん、素敵な話をありがとう(*´∀`*)
続きをwktkで待っております。

349永遠の行方「王と麒麟(24)」:2010/08/09(月) 22:49:31
「今、主上が光州に行幸なさっているだろ。あれは謀反人が光州に病をばらま
いたせいで、その首謀者が倩霞だったんだそうだ。確かに彼女が言った妙な言
葉も、謀反を企てていたなら辻褄が合う」
「俺にはとても信じられない……」
「俺だってそうさ。でも倩霞は本当は二百歳以上だったことになる。二百年前
に死んだ梁興の愛妾だったんだから。だとすれば俺たちみたいな青二才の扱い
なんか、赤子の手をひねるようなものだったろう」
 謀反は大罪だ。数々の証拠があるらしいとわかってさすがに玄度も盲目的に
倩霞を弁護する様子はなく、ひたすら茫然とした様子で自分の房間に帰ってい
った。もともと彼らは倩霞と顔見知り程度の間柄で、彼女の個人的な事柄につ
いては何も知らないのだ。
 彼を見送った鳴賢は、ふう、と吐息を漏らし、扉を閉めて椅子に座りこんだ。
倩霞にのぼせていた玄度が騒ぎたてなかったのはありがたかったが、敬之が大
学に戻ってきたら同じように嘘をつかねばならないと思うと気が重かった。
 ――王は人柱、か。
 敬之とともに聞いた、六太の言葉。雁が安泰でいられるのは、王が人柱であ
ることに甘んじている間だけだと六太は言った。いったいあのときの彼はどん
な思いを胸に秘めていたのだろう。
(王も人間だ)
(人間としての悩みや苦しみと無縁でいられるわけじゃない)
 宰輔として王の傍らに控える六太がそう言ったということは、実際に王がそ
れに類する姿を見せたり窺わせたりしたことがあるのかもしれない。なかなか
貧困から脱せられない諸国を見るまでもなく、国を統治するのは大変なことだ。
延王は五百年もの長きに渡って君臨し、雁を繁栄させているが、民に知られて
いないだけで、その裏には非常な苦難があったのかもしれない。
 鳴賢は大きく息を吐いた。五百年と言えば、単純に計算しても只人としての
人生八回ぶんに相当する長さだ。それほどの歳月を、統治の重責に耐えつづけ
る精神力は相当なものだろう。いつかはその力が尽きると考えて恐れるのは、
あらためて考えれば不思議でも何でもない。

3501:2010/08/09(月) 22:52:19
えー、暑くて何も手に付かないので、
既に書いた部分を推敲しつつ小出しにして誤魔化してますw
投下の間隔が開いたら、
「クーラーもつけずに無駄に頑張ってバテてるんだな」と笑ってやってください。
今夏の酷暑、どうにかならんですかね……。

351永遠の行方「王と麒麟(25)」:2010/08/10(火) 23:06:32
 だがそれを理解しても、鳴賢にはあのとき自分がどう返せば良かったのかは
わからなかった。ただ何となく、単に六太の言葉に迎合しても意味はなかった
ろうとは思った。慰めではなく批判でもなく、建設的なことを言えていたら…
…。
(もしいつか――町中で王に会うことがあったら伝えてくれ)
 どこか思い詰めたような六太の顔。
(俺、ほんとはあいつと一緒にいられて楽しかったんだ……)
 どうやら王も頻繁に町中を出歩いているようだが、鳴賢は王の顔を知らない。
だからそもそも関弓で見かけたことがあるかどうかすらわからない。王への文
を書かず、そんな彼にあの伝言を頼んだということは、実際には六太は王に伝
えるつもりはなかったのだろう。言伝を遺すことで、目覚めない六太に王が心
を砕きすぎ、万が一にも治世を誤らせてはならないから。
 それでもこれが最後と思えばこそ、誰かに心情を吐露してしておきたかった
に違いない。ならばあの言葉は紛れもなく六太の本心。それもこれまで王には
言っていない類の言葉だろう。鳴賢にはそれは不思議に思えたものの、王と麒
麟の間柄というものは普通はそれほど素っ気ないものなのかもしれない。
 重いな、と鳴賢は口の中でつぶやいた。六太が目覚めるまで、彼はそれをず
っと負っていかねばならない。これが――そう、六太はもともと楽俊の知り合
いだった。もし言伝を預かったのが楽俊だったら、彼はいったいどうしただろ
う。
 鳴賢は弱々しい笑みを浮かべた。楽俊はおしゃべりだし余計なことを口にす
ることもあるが、逆に口をつぐむことも知っている。何年も六太の身分を伏せ
ていたことだし――彼が六太の正体を知らなかったとは思えない――ずっと自
分の胸に納めておくだろう。
 楽俊も寮にこもって勉強しているが、翌日の夜には倩霞の事件を知っていた
ようだった。彼の母が話を仕入れてきたのだろうが、六太の身に起こったこと
までは知らないはずだ。

352名無しさん:2010/08/12(木) 00:27:55
無理せずマイペースでやってください。
汗と期待でてっかてかになりながら続き楽しみにしてます。

353名無しさん:2010/08/12(木) 13:44:55
別スレでも書いたのですが、今更ながらここに迷い込んだ(のではなくお宝を探しにやってきた)者です。

来てまだほどない人間が、この大作を読んでよいものか、
読み続けると今度はにこの数年がかりの作品がまだ完成してないことを
自分も今から他の方と同じように最後を見守る幸せな人間になっていいのか、と申し訳ない気持ちがしながら読みふけりました。

夢中になって読んで、時折遡って投下の間隔を確かめながら、少しでもその空白の期間(萌え待ち期間)を想像して
『あーこんなステキな作品読んで、こんな短い期間で大量投下されてるー!』とか、
『あーこんなところで一月の待ち期間があったら毎日通って犬のように待ち続けちゃうよ〜!』
『今こんな一気に読んでいいんか自分!モッタイネー!でも一気に読みたい気持ちを抑えられん!』

などと、ほんとはもっと語りたいぐらい今おなか一杯にこの作品に対して叫びたいことがあるのですが
なにしろ美しい作品が途中で自分の駄文長文が割り込むのが申し訳ないので1/100ぐらいで止めておきます。

あと、呪に関する部分・・・原作を読めていなかったのもホラーが苦手ということがあり
この部分を読んだときは怖くて怖くておトイレも髪を洗うのも背筋が怖い思いでしたorz

でも読まずにいられないという・・・こんな凄い作品に出会って、ほんとにいいんだろうかという作品の凄さに圧倒されっぱなしです。


今年の暑さはクーラー無しじゃやっていけんので、熱中症にはくれぐれもお気をつけくださいませ(`・ω・´)
この作品の全てが素晴らしいと思っているので(憂慮なさっていたオリキャラの部分も素晴らしいものです)
もし長いから省こうかな、という程度のことであれば、気にせずにいくらでもどんだけでも続けていって下さい…!

3541:2010/08/13(金) 10:00:20
>>352
お気遣いありがとうございます。
あと二ヶ月くらいは、ストックを小出しにしてちんたら進めていこうかと。
一応室温35度でも昼寝できたし(パソコン様はさすがに室温30度あたりで休んでいただく)
体調的には大丈夫なんですが、いかんせん頭が働かないw

>>353
あー、呪の部分がやばかったですか。ホラーとかそういう意識はなかったので失礼しました。
以後の話でその手の内容はないはずなのでご安心ください。

それでも楽しんでいただけているようで良かったです。
むしろ、今のところ801でも何でもないのに
こんなに褒めてもらっちゃっていいの?って感じでおろおろしてますw

原作は、『魔性の子』は別として、残酷な場面はあまりなかったように思うんですけど
ああいう世界観だから、どうしてもところどころ悲惨な描写はありますもんねー。
でもアニメと違ったおもしろさなので、ぜひ堪能してください。

355名無しさん:2010/08/13(金) 12:18:17
いえ、けして嫌だったというわけではないのです、恐ろしかったのです。
あまりに素晴らしい描写で、それでいて最初の淡々とした・・・というかひたひたと迫ってくる描写から
畳み掛ける怒涛の展開で、ほんとうに引き込まれてしまい、だからこそ怖くて・・・けして嫌だったんじゃなくて・・・
あーこういうのなんて表現したらいいんでしょうか。素晴らしかったからより怖かったのです(先ほどから表現が一緒orz)

とっても楽しかったのです!多分スピリチュアルホラー的なものが特に昔から怖くなるタチだったので。
そして原作を読むならまず最初にかかれた作品だよね・・・と魔性の子を当時手に取り、あまりに怖くて(とても面白いとはもちろん思ったのですが)
もう少し精神年齢が高くなったら読もう・・・などという感じで読む機会を逸したのでしたorz といってもうアラサーに(ノ∀`)

あんまり何度もレスをつけてもSSのお邪魔になりはしないかと思ったのですが
否定的な言葉に聞こえてしまったのなら大変だ!と思いまたコメさせてもらいました。

別スレの新婚夫婦熟年夫婦にもハゲ萌えさせていただきました!


こちらの板はチラ裏がないようなので、そこそこのSSスレにしか感想が書けないとちょっとだけ不便ですね。
きっとステキなSSのお邪魔をしたらいけないとレスを控えてる方もいらっしゃるんじゃないかなと思いました。
今チラ裏があったら100レスぐらいの勢いで全てのSSに対する感想を投下しそうですw

356永遠の行方「王と麒麟(26)」:2010/08/16(月) 00:36:54
「さほど大事に至らず、早々に解決して良かったってとこか」
 倩霞が主犯であることにはさすがに驚いていたが、結局はそんなふうに軽く
締めた彼に、鳴賢はふと「おまえ、もともと六太と知り合いだったんだよな。
どこで知り合ったんだ?」と尋ねてみた。一瞬沈黙した相手に、たたみかける
ように「六太が頭巾をはずしたところを見たことはあるか?」と尋ねた。楽俊
は溜息をついた。
「鳴賢。すまねえが――」
「ああ、いいって。それ以上言うな。わかってる」
 何か問いたげな相手に、鳴賢は重ねて「わかってる。すまん、忘れてくれ。
俺も忘れる」と言った。それ以来、楽俊と顔を合わせても、六太のことも謀反
のことも話題にはしていない。
 自分には力も知識も伝手もない。できるのは勉強に励んで国官を目指すこと
だけ。それは重々承知していたが、誰の役にも立てず、ただ口を閉ざして待つ
ことしかできないのはつらかった。

357永遠の行方「王と麒麟(27)」:2010/08/21(土) 19:28:55

「里廬から発見した文珠、呪に関する資料、すべて粉砕または焼却の上で破棄
しました。復元は不可能です」
 州司馬および州司空からの最終報告を受け、光州侯帷湍は令尹に渡された報
告書に目を通した。晏暁紅が使った文珠も、梁興の冬官助手が遺した覚え書き
も、これですべて消滅したことになる。
 あのように危険な物を残しておいたら、ふたたび不逞な輩に利用されないと
もかぎらない。梁興の冬官助手のように技術的な興味を覚えられるのはもちろ
ん、宝玉を使った文珠自体の価値に目がくらんだ不心得者にかすめ取られても
困る。また何百年も経ったあとで事件を起こされるかもしれないのだ。
 そのため国府から謀反人を討伐した旨の連絡が来たあと、帷湍は今回の呪に
関わるすべての資料を厳重な監視の元で破棄させた。
 既に二月も初旬を過ぎている。関弓に潜伏していた暁紅一党を討ち取った旨
の触れは出してあり、民らはとうに安堵して、害を被った里の民も「主上のお
かげ」と喜んでいる。今月中にふたたび病が発生しなければ、州府としても枕
を高くすることができる。
 文珠が発見された里や廬のうち、次の標的だったと目された嘉源(かげん)
の里からは一時的に民を避難させていた。代わりに懲役を科されている模範囚
から、特赦を条件に志願した数名を住まわせている。彼らに何事も起きなけれ
ば、文珠を取り除いたこと、そして何より呪者が死んだことで事件が解決した
ことの目安となる。
「それから先ほど関弓から主上宛に青鳥が届いたため、内宮の主上にお運びい
たしました」
「わかった。他に特に問題は起きていないな?」
「避難させた嘉源の民の中には多少不満を訴えている者もおりますが、もとも
と農閑期の上、今月中に生まれる予定の赤子もおりませんし、問題はないでし
ょう。生命を守るためだということは彼らも納得しています。国府から謀反人
一党を討ち取った旨の急使がやってきて以来、これに関連すると思われる不穏
な事件も起きておりません。あとはこのまま何も起きないことを待つだけです」

358永遠の行方「王と麒麟(28)」:2010/08/27(金) 22:33:52
 帷湍はうなずき、報告で中断した通常の政務に戻った。その後、内宮の主君
の元に顔を出し、予定通り呪に関する資料をすべて破棄したことを告げ、現在
に至るまで問題が起きていないことをみずから報告した。
「他にも呪具らしきものが隠されていないかどうか調査させたが、何か見つか
ったという報告は受けていない。もっともこれだけ大がかりな呪を用いた謀反
だ、念には念を入れてさらに慎重に調査するよう重ねて命じたが――」
「何も出てこんだろうな。謀反人が真に目的を果たしたのなら」複雑な表情に
なった帷湍に尚隆は続けた。「なぜ晏暁紅が六太を狙ったのかはわからん。一
党がことごとく死んだ以上、これは永遠の謎だろう。いずれにせよ鳴賢に語ら
れた暁紅の言葉から推測するかぎり、彼女は六太を陥れられて満足だったよう
だ」
「ああ……そのようだな。ならば光州の呪環が成功しようがしまいが、既にど
うでも良かっただろう。よしんば失敗に備えたさらなる企みの計画があったと
しても、それには手をつけずに満足して逝ったに違いない」
「おそらくはな」
 溜息をもらした帷湍は、大半の官は事件をほとんど終わったものと見なして
いると告げた。光州城で六太の昏睡を知らされたのは令尹の士銓のみ。彼は帷
湍以上に衝撃を受けているが、他の高官はまさかそんな事態になっているとは
夢にも思っていない。見通しがついたため王も近々宮城に戻ることになってい
るし、むろん月が変わるまで油断できないとはいえ、州城内でも既にほっとし
た空気が漂っていた。
「実際、六太のことを除けばけりはついたのだ。士銓には気の毒だが、光州城
の官はしばらく緊張続きだったのだから大目に見てやれ。大勢で雁首を揃えて
額を寄せ合っていても仕方がない。光州は光州として、しっかり行政を切り回
していれば良いのだ」
 軽く笑った尚隆に、帷湍は「そうは言うがな」と言いかけ、途中で考え直し
て話題を変えた。

359永遠の行方「王と麒麟(29)」:2010/09/02(木) 00:02:59
「それで、そのう……台輔のことはどうする?」
「どう、とは?」
「台輔の一番の願いが何かを知るには、いつまでもその問い自体を伏せておく
わけにはいかんと思うのだが。呪の解除条件がそれというのは別として」
 すると尚隆はふっと笑い、卓にあった紙片を手に取った。先刻、令尹が言っ
ていた青鳥で送られてきたものらしい。
「宮城に戻ってから様子を見て指示を出すつもりでいたが、朱衡が先回りして
これを送ってきた」
「朱衡が? 何を?」
「六太が望んでいたことを仁重殿の女官から聞きだすため、適当な理由をでっ
ちあげて話をすることの許しを求めてきた。さっき許可を出す旨の返信を送っ
たところだ」
「ああ、そうか。なるほど」
 帷湍は少し安堵し、渡された紙片の内容に目を走らせるなり「うん」と大き
くうなずいた。
「口実としては悪くない。むしろ自然だ。あいつならうまくやるだろう」紙片
を尚隆に返し、少し考えてから言う。「俺もあれから台輔の望みそうなことを
いろいろ考えてみたが、残念ながらさっぱりわからんのだ。確かに今までいろ
いろな話はしたが、あの台輔が恥じるような内容があったとは到底思えんし」
「まあ、俺も似たようなものだからな」
「だがおまえはよく台輔と逐電していたろう。旅の間に、台輔がいつもと違う
反応を見せた話題に心当たりはないのか? やたら欲しがっていた物があった
とか、どこかに行きたがっていたとか――」
「ふうむ。ないわけではないが、すべて理由が明らかなことばかりだな。今回
の件にはまったく関係ないようだ」
「そうか……」
 溜息を漏らした帷湍に、尚隆は「おそらく六太は、俺にもおまえにも言った
ことはないだろう」と言った。

360永遠の行方「王と麒麟(30)」:2010/09/06(月) 21:51:21
「朱衡は女官から聞きだすと言ってきたが、官どころか誰か知り人(びと)に
言ったことがあるかどうかすら怪しいものだ。いかに麒麟が綺麗事を好むとは
いえ、あれとて五百年も生きておるのだ、大抵のことでは『あさましい』だの
『恥ずかしい』だの思うはずがない。ましてや長い間、貝のように口を閉ざし
ているはずがない。ということは滅多な相手に話したとも思えぬ」
「とすると、やはりたとえば行きずりの赤の他人に……」
「その可能性もなくはないが、現実問題として検証は不可能だ。だから俺たち
はこれまで見聞きした六太自身の言動から推測して、あれの第一の望みとやら
を探りだすしかない。そのものを聞いた者がおらずとも、複数の情報、それも
日常的に六太と親しくしていた者の話を集めれば、おのずと見えてくるものが
あるはずだ」
 尚隆の言葉に帷湍は考えこみ、やがて合点がいったように「そうか」と言っ
た。
「その意味で、朱衡が女官に作り話をして聴取するのも意味はあるということ
か」
「女官だけではない、これまで六太が話をした者、接した者、すべてが重要な
情報源だ。しかしおそらく断片と断片をつなぎ合わせるような地道な作業にな
るだろう。以前、長丁場になるかもしれんと言ったのはそういうことだ」
 それへうなずいた帷湍は、ふと思いついてこんなことを口にした。
「考えてみれば出自が人に過ぎない俺たちでは、麒麟が何を望むかについて想
像するにも限界がある。台輔と話したことのある他国の麒麟にそれとなく聞け
れば、手がかりのひとつになるんじゃないか? それに麒麟同士なら、台輔も
突っ込んだ話をしていそうだ」
「ふむ」尚隆は意外そうな顔であごをなでると、少し考えてから答えた。「そ
うだな、目の付けどころは悪くない」
「あまり期待は持てないと考えているのか?」

361永遠の行方「王と麒麟(31)」:2010/09/11(土) 01:03:45
「そうは言っておらん。だがもともと麒麟同士は滅多に会うものでもないし、
六太が自分の私事と考えていることについて、そこまで突っ込んだ話をするほ
ど親密になったことがあるかどうか。ただ、おまえが言うように手がかりの一
端になる可能性はある。いずれ機会を見つけて他国の麒麟にも当たってみるべ
きだろう。同じ麒麟だからと当てにするのではなく、要は六太が接した只人ら
に話を聞くのと同じことだ」
「まあ、暁紅の言葉や台輔の反応から推すと、むしろ台輔は大抵の麒麟が思い
もよらない望みをいだいている可能性のほうが高いわけだしな……」
 いずれにしても、先ほど尚隆が言ったように一区切りがついたのは確かだっ
た。これからは六太の昏睡が市井に漏れないよう配慮しつつ彼の最大の願いを
探りだし、それが成就されるよう働きかけるしかない。
「ところで光州の例の呪環だが。念のために被害に遭った里廬の共通点がない
か調べてみたが、やはり単に位置の問題だったようだ」
 帷湍は六太のことでそれた話を戻し、暁紅が謀った呪に関する報告の続きを
した。謀反人の死でけりがついたとはいえ、一通りの地道な調査は必要だった。
「たまたま大規模な都市はなかったものの、小規模な集落から周囲に町ができ
ている中規模の里までいろいろあったし、産業にも住民にもこれといって共通
項はない。第三の環が敷かれていないことを確認するため、葉莱を基点に南下
する形で第二の環の内側の里廬をふたつ調べたが、何も出てこなかった。いち
おう葉莱と州城を結ぶ線上にある他の里廬の民にも、不審な物があれば即座に
州府に届け出るよう伝えてある」
「そうだな。何も出んだろうが、もともとの文珠の総数が判明していない以上、
念には念を入れる必要はあろう」
「それから暁紅が台輔に斗母占文を装って渡したという封書の写しを見たが、
幇周で呪者がおまえに渡した紙片と同じ『暁紅』という文字が書かれていたも
のの、明らかに筆跡が違う。あの写しは原文の筆跡も再現されていたのだろう?」
 尚隆は「そのはずだ」とうなずいた。

362永遠の行方「王と麒麟(32)」:2010/09/15(水) 21:46:56
「おそらく占文は暁紅が、俺が見たほうは暁紅の従者だった幇周の呪者自身が
書いたのだろうな。暁紅は身寄りのない娘を集めて下僕としていたが、娘らは
単なる使い捨ての道具だったようだし、この件には関係ないだろう。しかし幇
周に現われた浣蓮という女は仙であり、ずっと暁紅の従者だった上に当人も呪
の使い手だった。またあの程度の紙片を早くから用意していたとも思えぬ以上、
その場で女自身が普通に墨で書いたのだろう。要は呪をかけるために俺の気を
一瞬だけそらせば良かったのだから、六太が見せられた占文とは性質が違う」
「では筆跡の違いに第三者が関わっていたのでなければ、やはり事件は解決し
たということになるか」
「と、思っている。占文については、白紙に字が浮かび上がる仕掛けで驚かせ
て六太をおびきよせるためだったろうから、暁紅があらかじめ用意していたの
だろう。草の汁で書いたということだが、確かに他の地方にはないものだ。知
らぬとなればだまされるかも知れない。それも相手は、暁紅が小間物屋の女主
人として知り合ったがゆえに警戒していない六太だ」
 主君の言葉に、帷湍はしばし考えてからこう言った。
「俺は占文の現物を見ていないから断言はできないが、聞いたかぎりでは煬草
(ようそう)の汁で書いたのだと思う」
「ほう?」
「主に南西の山間部で見られる雑草だが、苦味が強くて食用にはならんから子
供の遊びぐらいにしか使えん。染料が取れる大青(たいせい)に酷似している
が、かと言って誤って一緒に発酵させると色は濁るし、質も悪くなってうまく
染まらなくなる。煮出した汁で字を書けば、漂白していない紙なら乾くと白紙
に見える程度に字が消えるが、すぐに暗所で保存しなければ、二度と鮮明な字
としては浮かびあがらんそうだ。例の占文は内側を黒く塗った状袋に入れてあ
ったという話だが、おそらく状袋自体も煬草を漉いて作ったのだと思う。だが
それでも効果は半年もてば良いほうだろう。かと言って明るいところに出して
字が浮かび上がってもすぐに褪せてしまうから墨の代わりにもならん。まさか
こんなことに使われるとは……」

363永遠の行方「王と麒麟(33)」:2010/09/18(土) 16:07:36
「明礬(みょうばん)と同じだな」
「明礬?」
「あれも溶液を墨の代わりに使ってから紙を乾かすと書いた字は消えるが、水
に浸すと現われるからな。だが知らぬ者にとっては仙術のたぐいに見えよう」
「ああ……そういえばそうだな」
 帷湍は意外性に驚いてそう答えた。明礬水は果汁を使った場合と同じく火で
あぶっても書いたものが現われるが、いずれにしろ日常的に使われるものであ
っても、その特性を知って利用すれば他人を驚かせることはじゅうぶん可能な
のだ。
 尚隆は続けた。
「しかし書いて半年ももたぬということは、暁紅は六太に渡したとき、早々に
俺を陥れて六太に選択を迫るつもりでいたことになる。むろん呪環のための文
珠をすべて埋設し終え、実際に呪を順次発動していたからに違いない。俺がど
の時点で出てくるかはわからなかったとしても、住人をことごとく死に至らし
めた葉莱がひとつの目安だったはずだ」
「たとえそれまで気づく者がいなくても、ひとつの里が病で全滅したと知った
州府が、過去に遡って同種の病が発生していないか調査するだろうと考えるの
は当然の推理だしな……」
「そして人為的な匂いを嗅ぎとった俺たちが次の目標と思しき里に目星をつけ、
その時点で俺が出てくることも予想できただろう。何しろ暁紅は俺と会ったこ
とがあり、大事件とあらば自分で首を突っ込む性分であることは知っていたの
だから。むろん今にして思えば、だが」
 要はまんまと暁紅に謀られ、敵の狙い通りにおびき寄せられたということだ。
帷湍はふと考えこんだ。
「さっきの煬草の話で思い出したが、そういえば台輔は食用になる野草には詳
しかったな。以前、女房と娘が染料にする草木と薬草を採集に行ったとき、俺
も無理やり駆り出されたことがあるんだが、ちょうど台輔が来ていて一緒に連
れていかれてな。俺も知らなかったいろいろな野草を娘に教えていた」

364永遠の行方「王と麒麟(34)」:2010/09/18(土) 16:10:14
「麒麟は草食動物だからな。しかもあいつは食い意地も張っている」
 尚隆は苦笑したが、帷湍は神妙な顔になった。
「それなんだが……」彼は口ごもった。「今にして思えば、台輔は蓬莱にはこ
ういう野草もあるとのうんちくも口にしていたんだ。あとで俺にこう言った、
蓬莱にいた頃は草の根をかじって飢えをしのいだこともあると。貧乏な家だっ
たからと台輔は笑っていたし、意外には思ったが一度きりの話だったからすっ
かり忘れていた。しかし鳴賢という青年の証言では台輔は親に捨てられたとい
うし、もしや捨てられたあとの話だったのではと思ってな。確か台輔が蓬山に
帰還したのは三つか四つくらいだったはずだろう?」
「四歳だったと言っていたな」
「うむ。その後で王の探索のために蓬莱を再訪したわけだが、そのときは使令
もいたろうし、そこまで苦労はしなかったと思う。とするとやはり、親に捨て
られてから蓬山に連れ帰られるまでの間の話だったのではと」
「かも知れぬ」
「今さらだが、何百年も一緒に過ごしていて、俺は意外と台輔のことを知らな
かったのだなと思ってな……」
 おまえのことも知らないが、と帷湍は胸のうちで付け加えた。


---
しばらくちまちま投下してきましたが、
ストックが尽きてしまったので、次の投下まで間が開きます。

365永遠の行方「王と麒麟(35)」:2010/10/11(月) 09:43:22

 仁重殿の主殿に詰める侍官女官、特に六太の近習は、長く仕えている者が多
い。彼らが謀反、それも呪者の陰謀による王の昏睡という前代未聞の事態に衝
撃を受けたのはもちろんだが、その後、直接の主である六太が身代わりになっ
たことで、誰もが激しい動揺の中にあった。六太は麒麟であり、神獣にして玉
座の象徴。それゆえその身に起きた事態を懸念するのは当然だが、そもそも気
安く親しみやすい性格もあって、彼らは六太を慕っていたからだ。
 むろんそれぞれ自制して日々の勤めを果たしてはいる。しかし内心の動揺と
混乱を隠し切るところまでは行っておらず、仁重殿全体に沈痛な空気が漂って
いた。
 とはいえ尚隆が昏睡状態だったとき、侍医によれば、ただ呼吸をするのみで
身じろぎすらしなかったとのこと。翻って六太の場合、意識がないのは確かな
のだが、たまにぼんやりと目を開くことがある。これは要は呪が不完全だった
のではないか、時間さえ置けば、やがて自然に目覚めるのではないかと、近習
らは一縷の望みを託して日々を過ごしていた。
「まあ、大司寇。よくいらしてくださいました」
 六太の見舞いに訪れた朱衡を、女官らは一様にほっとした顔で出迎えた。
 彼女らの多くは天官であり、太宰から直接事の次第を説明されてはいた。し
かしながら先行きが不透明な中で、六官のひとりである朱衡がこうして頻繁に
見舞ってくれるのはありがたいことだった。
 麒麟は長期間昏睡状態でも生命に別状はない、それが雲海上から蓬山に派遣
した勅使の持ち帰った碧霞玄君の返答だった。そのことで王の健在が保障され
たからと言って、まさか六太が見捨てられるはずもないが、捨て置かれるとま
では言わずとも、このままなすすべもなく放置されるのではないかと、誰もが
内心で不安を覚えていた。

366永遠の行方「王と麒麟(36)」:2010/10/11(月) 21:17:09
 まだ王は行幸から戻らず、事態も動かない。六太の症状は少なくとも悪化す
ることなく、従って急を要する状態でもない。主たる六太さえ健在なら日頃は
にぎやかな仁重殿も、今は息を潜めてじっとしているといった風情だ。そんな
淀んだ空気であるだけに、どうしても悪い方向へと考えをめぐらせてしまうの
だろう。
 しかし六官のひとりであり、王の登極当初からの側近である朱衡がこうして
頻繁に訪れてくれることは心強かった。少なくとも見捨てられてはいないと思
えるからだ。冢宰や他の六官も見舞ってはいたのだが、謀反の後始末を兼ねた
調査に追われていることもあり、どうしても間遠になりがちだった。
 朱衡を奥へと案内しながら、年かさの女官が先回りして「台輔は相変わらず
ですわ」と告げた。
「でもいつもは遅くまで寝ていたいと駄々をこねることもあるのですもの、
堂々とご政務を怠けることができて、実際のところは大喜びかもしれません」
 笑みを浮かべながら、自分と周囲の気を引き立てるように明るく言ってみせ
る。朱衡も微笑してうなずき、「まったく」と同意した。
 六太の臥室に通されると、そこでは黄医ならびに女官たちが控えていた。昨
日までと同じ光景のはずだったが、室内に入るなり朱衡は目を見張った。
「これは……何とも華やかな」
 まだ冬だというのに、房室のあちこちに花が飾られていた。紅や薄紅、黄色
や白。春から初夏を思わせる花々が、大卓や窓辺、壁にしつえられた供案で鮮
やかに咲き誇っていた。
「見事でございましょう?」先ほどの女官が微笑んだ。「園丁が屋内で育てて
いた花だそうです。こうしておけば、春の訪れに木々が芽吹くように台輔もお
目覚めになるだろうと」
「きっとじきに、『いつのまに春になったんだ』と驚いてお起きになりますわ」
 別の女官も言葉を添える。
 六太の眠る牀榻の折り戸は開かれていたが、奥の帳はおりている。朱衡が首
をめぐらせると、その帳の左右にも花が生けられているのが見えた。

367永遠の行方「王と麒麟(37)」:2010/10/17(日) 09:09:57
「なるほど。これならばいかに寝坊助の台輔でも気持ちよく目覚められそうだ」
 そんなことを言いながら黄医の傍に座り、いつものように六太の様子を聞く。
とはいえ太宰には毎日報告が行っているし、冢宰には太宰から報告が上がるか
ら、これは雑談の延長のようなものだった。
 昨日と変わりばえのない報告を聞き、朱衡のほうからは王がそろそろ宮城に
戻ってくるという話をした。あれから光州では何の事件も起きていなかったし、
謀反の残党はいないだろうということでほぼ結論は出ていた。
「そうですか、主上が……。早くお戻りいただければ、わたくしどもも心強い
ですわ」
 女官たちは顔を見合わせながら幾度もうなずき、朱衡は「大丈夫ですよ」と
続けた。
「主上はご自分を救い、ひいては雁を救った台輔にたいそう感謝しておいでで
す。必ずや台輔をお救いになるでしょう」
「ええ。ええ、もちろんです」
「主上を信じております」
 彼女らは泣き笑いのような表情を浮かべ、口々に言った。
「――そう、台輔が無事お目覚めになったら主上に褒美をいただきましょう。
なんと言っても台輔のおかげで主上の呪が解けたのですから」
 わざとおどけたように言った朱衡に女官たちも大きくうなずき、気力を奮い
立たせるように「ええ、本当に」と明るく応じた
「きっと相当な無理でも聞いてくださいますわ」
「王を救った功績は偉大ですもの」
「そういうことなら台輔には一刻も早くお目覚めいただいて、何をいただくか
入れ知恵させていただかなければ」
 そんな彼女らの様子を朱衡は微笑したまま眺めた。そして出された茶を飲ん
で臥室の様子をゆったり眺め渡してから、ふと思いついたようにこんなことを
言った。

368永遠の行方「王と麒麟(38)」:2010/10/17(日) 19:47:38
「そうですね、こんな機会は二度とないでしょうから、この際、台輔が一番望
んでおられることをかなえてさしあげるというのもいいかもしれません」
「一番望んでおられること、ですか?」
「ええ。台輔が何かほしがっておられたとか、これをしたいと言っていたこと
はありませんか? お目覚めになる前に先回りして主上にお願いしておくと、
あとでお喜びになるでしょう。あるいは比較的容易に入手できそうな物品なら、
さっそく買い求めて枕元に置いておけばいいですし、物ではなく――そう、誰
か昔なじみに会いたいとおっしゃっていたなら、その人物の所在を調べておく
こともできます」
 女官たちは目を輝かせ、「それは良い考えですわ」とはしゃいだ。
「皆さん、台輔がほしがっておられた物や望んでおられたことに心当たりのあ
るかたは?」
「さあ……。お好きなお菓子はいくつか存じておりますけど」
「以前、恭の有名な大道芸を見たいとおっしゃっていたことはあります」
「でも一番のお望みとなると……」
「何もひとつにしぼることはないんじゃありません? 大司寇がおっしゃった
ように、この際ですもの、全部かなえていただけばいいんです。まずは心当た
りの品をいくつか早々にいただいて、台輔の枕元に置いておきましょう。そし
て実際にお目覚めになってから、台輔ご自身で一番欲しいものを主上におねだ
りなさればいいんです」
「あら、それもそうですわね」
 彼女らは楽しそうに笑いさざめき、朱衡にも尋ねた。
「大司寇は台輔のお望みをご存じなんでしょう? 昔からおられるし、もとも
と台輔と親しくしておられたんですもの」
「ぜひ、わたくしどもにも教えてくださいませ。他のお望みと併せて台輔に入
れ知恵させていただきますわ」
 朱衡は苦笑して首を振った。

369永遠の行方「王と麒麟(39)」:2010/10/20(水) 20:54:54
「台輔はなかなか個人的なお望みは口にされませんからね。あそこの地域に浮
民が流入して困窮しているから援助してやれとか、橋が少なくて老人が難儀し
ているから作れとか、その手の話はよくなさいますが。でも――そうですね、
他の者が何か聞いているかもしれないし、心当たりを尋ねておきましょう。台
輔がお目覚めになったら、主上にご褒美のおねだりをするときはぜひ入れ知恵
してさしあげてください」
「おまかせくださいませ」
 仁重殿の者たちが鬱々としていたのは、先行きが見えない上に、毎日を同じ
ように過ごすだけで気散じになる事柄もないためだった。しかしここに至って
ようやく気が紛れることを見つけた彼女らは、「台輔のお望みをかなえる」べ
く張り切ったのだった。

 仁重殿の主殿を辞した朱衡は、待たせていた下吏を伴って外殿に向かった。
これから簡単な内議の予定があった。
「大司寇、台輔にお変わりは?」
 下吏に尋ねられ、朱衡は「残念ながら、変化はないそうだ」と答えた。この
下吏は朱衡に重用されてはいるが、鳴賢の証言を書き記した侍史と違い、六太
にかけられた呪にあえて解除条件が設定されたことまでは知らない。
「そうですか……。でも毎日のように大司寇がお見舞いに行かれるから、仁重
殿の者たちも心強いでしょう」
「それならば良いのだがね。そうそう、女官たちに気散じになることを提案し
てきたよ」
「へえ? 何を言ってきたんです?」
「台輔のおかげで主上が救われたのだから、お目覚めになったらご褒美をいた
だくといいと焚きつけてきた。女官たちもおもしろがってね、どうせだからこ
の際、台輔がお持ちだろういろいろな望みを全部かなえていただこうと言い出
した」

370永遠の行方「王と麒麟(40)」:2010/10/24(日) 08:56:49
 下吏も笑顔になり、「そりゃあいい」と明るく応じた。六太と親しくしてい
る朱衡に仕えているだけあって、彼も日頃から六太とは頻繁に言葉を交わして
いた。それでも仁重殿の女官侍官ほど落ち込んでいるわけではないが、やはり
どこか沈んでいるふうではあったから、少しでも明るい話題があるとほっとす
るのだろう。
「台輔が欲しがっていたものや望んでいたことをわたしも聞かれたが、正直、
台輔が個人的な望みをおっしゃるのはあまり聞いたことがないので、他の者に
聞いておくと言っておいた。おまえも心当たりがあるなら仁重殿の者たちに教
えてやりなさい。台輔が欲しがっていた品が比較的容易に入手できそうならす
ぐ買い求めて枕元に置けばいいし、そうやってあれこれ計らっていれば気も紛
れるだろう。――そう、台輔の臥室は今、花でいっぱいでね。一足早く春が来
たようだった。一日も早いお目覚めを願ってしたことらしいが、ああやって気
が紛れることをしているのはいいことだ」
「何しろこんな事件は前代未聞ですからねえ。でもまあ、きっとすぐ台輔はお
目覚めになりますよ。それに主上がお帰りになったら、今度は台輔の呪を解く
ための問い合わせの勅使を蓬山に送るんでしょう?」
「ああ、そのように奏上しようということになった。まあ、主上が光州で何か
情報を得て来られるか、多少遅くなっても帷湍が有益な情報をつかんでくれれ
ばいいのだが」
「大丈夫ですよ、大司寇」
 そんな話をしながら外殿への道をたどる。途中で執務にからむ指示をして下
吏を大司寇府へ向かわせたあと、朱衡はひとりで外殿に向かった。内議を行な
う房室に入り、既に参集していた冢宰と他の六官に会釈する。次官以下は入れ
ていないから、ここにいるのはすべての事情を知る者だけだった。
「申し訳ありません。少々遅れましたか」
「いやいや、拙官どもが早く来すぎたようです」
 ひとしきり雑談を交わしてから、本題に入る。
「して、大司寇。仁重殿の女官たちの反応は」

371永遠の行方「王と麒麟(41)」:2010/10/24(日) 21:22:31
 冢宰白沢の問いに朱衡は答えた。
「うまく話を作って焚きつけることはできました。主上を救ったご褒美に、台
輔がもっとも望んでおられたことを奏上してかなえていただいてはどうかと。
気散じにもなることだからでしょう、女官たちも飛びつきましてね、この際だ
から台輔のお望みをすべてかなえていただこうと言い出しました。とはいえ残
念ながら、今のところ心当たりはないようですが、これまで台輔がどんな望み
をお持ちだったか、細かいことまで思い出そうと努めてはくれるはずです」
「大司寇のご提案を不審がられはしませんでしたか?」
「大丈夫です。上司である太宰や大宗伯ではなく拙官から雑談として話したこ
ともありますし、むしろ女官たちを気遣ったがためと受けとめられていると思
います。拙官も、他の者にも台輔のお望みの心当たりがないか聞いてみると約
しましたが、女官たちも他の者に聞いて回ることでしょう。我々ではなく彼女
らが主のために働きかけるぶんには怪しまれることはないかと。また仮に台輔
のお望みがわかっても女官の手に負えない内容なら、太宰なり拙官なりに相談
してくるでしょう。いずれにしろ彼女たちは話を聞いてもらいたがっているの
で、折に触れて台輔の見舞いに参上し、気軽な雑談として水を向ければいくら
でも話してくれるはずです」
「なるほど。ご苦労でした、大司寇」
 白沢はうなずき、他の者も難しい表情ながら視線を交わしてうなずきあった。
ついで大司空から、六太にかけられた呪の解除に関する調査状況が報告された
ものの、内容ははかばかしくなかった。
「もちろん台輔の第一のお望みを解呪の条件にしたという暁紅の言葉が真実で
ある保障はないため、冬官たちにはとにかく、予断を捨ててあの呪を解くため
の方法を調べるようにと命じてあります。ただ、何かの条件を設定したことは
まず間違いないでしょうな。呪言を刻まずに行使するこの種の呪は通常、一定
の条件を課して、それが達成されたときに解けるとするのが普通です。なぜな
ら術者だけが解くことができるようにした場合は肝心の術者に何事かあれば同
時に術も解けかねない上、どの方面にも堅固な守りの壁を巡らすというのは難
しく、絶対に解けない鉄壁の術をかけることはまず不可能だからです。むしろ
意図しない時点で解けるような不安定な状態になりやすい。しかしあえて弱点
を一ヶ所設け、それ以外は堅固、弱点のみもろい、というのは術者にとって設
定しやすく、弱点以外を突かれた場合の防御もしやすいのです」

372永遠の行方「王と麒麟(42)」:2010/10/25(月) 19:05:21
「ふむ。まあ、理屈はわかるような気もするな」考え込んだ大司馬が、あごを
なでながら言った。「ならば暁紅は確かに何らかの条件を設定したことだろう。
だが弱点なのだから、内容の選定にはかなり神経を遣ったはずだ」
「おそらくは。そして暁紅はなぜか、台輔のお望みが絶対に成就不可能だと
思っていた。これは台輔ご自身もそうだったようですが、したがってそのお望
みを解呪条件にしたというのはかなり信憑性が高いと考えられます。
 しかしながらこの手のものは、以前主上にもうちの冬官がご説明したとおり、
実現可能かつ具体的な未来の事象でなければなりません。つまり暁紅の意図や
台輔ご自身のお考えがどうであれ、客観的に見れば可能性がまったくない事柄
ではないはずなのです。さらに具体的ということは、仮に台輔のお望みが『今
年は豊作になること』だったとして、条件としては、雁全体の特定の作物の特
定の期間における収穫量が特定の量を超えたら、とでもすることになるでしょ
うか。したがって台輔のお望みが多少あやふやだったとしても、解呪条件には
具体的な何かの状態を指定したはずだとなります」
 一同は、うーん、と唸った。
「それはそれで厄介ですね。台輔のお望みの内容次第とはいえ、暁紅が実際に
どんな条件を設定したかとなると……」
 朱衡が眉間にしわを寄せてつぶやいたが、大司空は穏やかに笑った。
「暁紅の言葉が真実であるなら、台輔の最大のお望みとやらがわかれば推測は
可能でしょう。見当さえつけば、ありえそうな事柄を片っ端から試せばいいの
です」
「確かに手がかりがないよりは随分とましだな。暁紅としては『主上の鼻に墨
がついたら』のように、まったく推測不可能な条件を設定することもできたの
だから」
「それもそうだ」
 彼らは厳しい表情ながらも大きくうなずいた。見通しは決して明るくないが、
今はとにかく調査に手を尽くし、王の帰城と新たな下命を待つしかない。

373永遠の行方「王と麒麟(43)」:2010/10/25(月) 19:08:08
「いずれにせよ、仮にその条件をなかなか突き止められなかったとしても、他
に解く方法がないとは限りませんね。もともと暁紅は素人だったのですから、
彼女の意図に反して、実は術が不完全で不安定である可能性もあるのではない
でしょうか。主上のときとは違って、台輔は身じろぎなさったり、たまにぼん
やりと目を開けたりもなさいます。仁重殿の者たちは、それが術が不完全であ
るがゆえではと望みを託しているようです」
 朱衡がそう言うと、他の者も「なるほど」と同意した。
「いかがですか、大司空」
 問われた大司空はしばらく考えてからこう答えた。
「ふむ。そう――不完全かどうかはともかく、解決の糸口にはなるかもしれま
せんな。台輔のお望みがかなうことを解呪の条件にしたのであれば、単純な事
象の発生というだけでなく、台輔のお心がそれと認識することも必要と思われ
ますから」
「えっ、台輔ご自身が、ですか?」
「そうです。例の大学生の証言によれば、暁紅は呪言らしき意味不明の文言を
唱えたあと、何度か台輔に『諾』と答えさせたとのこと。おそらく台輔に呪を
受け入れさせて精神を縛るためでしょう。それにより形式としては強制ではな
く被術者の側が受け入れたことになるのが重要で、『特定の条件が満たされな
ければ起きたくない』という心理状態を人為的に作り出したとも言えます。逆
に言えば、特定の条件が満たされたかどうか知るための部分は起きていなけれ
ばならない。つまり確かに現在、台輔の意識はないのだが、無意識の一部とも
言うべき心の一部分は起きていて、そこが条件が満たされたと認めれば、台輔
の目が覚めるということではないかと思われます」
 他の者はざわめき、顔を見合わせた。
「では……台輔は完全には眠ってはおられないと?」
「いやいや、そういうことではありません」大司空は苦笑して、思わず身を乗
り出した面々を制した。「台輔の意識は確かに深い眠りに閉ざされています。
角のあるはずの額に触れても何の反応もなく、目の近くに火をかざしたり指で
突こうとしてもいっさい反応をお見せではない。起きているのは――そう、い
わば池に垂れた釣り糸のようなもので、釣竿を持つ台輔ご自身は眠っておられ
る。もしくは眠りの草原で伏しておられる台輔の長い御髪(おぐし)の先が、
現実の世界との窓口である池に浸されていると考えてもいいかもしれませんな。

374永遠の行方「王と麒麟(44)」:2010/10/25(月) 19:10:42
御髪には感覚も意識もないが、台輔のお体の一部ではある。そして興味を引か
れた魚が御髪の先に食いつく、すなわち解呪条件が成立すれば、引っ張られた
感触で台輔は『望みどおり魚がかかった』と認識して眠りから覚めることにな
るでしょう」
 面々は困惑し、「わかったような、わからないような……」とつぶやいた。
「しかし……そうすると、むしろ暁紅が設定した条件を解除するだけでは不十
分で、状況としてはより厳しいということでは?」
 白沢の問いに、だが大司空は首を振った。
「魚が食いつかずとも、御髪が池に垂れて何事かを待ち受けていることにはな
るわけですからな。意識そのものはないとはいえ、かすかに身じろいだり目を
開けたりなさるのがその証拠です。ということは暁紅が設定した条件の成立を
待たずとも、もしかしたら台輔は何かをお感じになってお目覚めになるかもし
れない。魚が食いつくという厳密な条件ではなくとも、たとえば池にさざなみ
が立つとか、流れてきた小枝がからまるなどして御髪が揺れればお気づきにな
るかもしれない。成立した解呪条件が完全に外部の事象の場合、それは言うな
れば直接台輔のお体に手をかけ、揺り動かして強制的にお目覚めいただくよう
なもの。主上の場合がこれに当たります。しかし望みがかなうという、ご本人
の心持ちが鍵となる場合、もともと台輔はそれを待ち受けておられる状態なの
ですから、当初想定していたよりは明るい希望が持てると言えます。ただし先
ほど例に挙げた豊作の場合、実際に豊作になることはもちろん、それを台輔が
お知りになることも必要にはなるでしょうな。近習が台輔のお世話をしながら
『今年は豊作だって』と世間話をする程度でいいのですが」
「なるほど……」
 ようやく納得した官らはうなずいた。いずれにしても難しい状況であること
は変わらなかった。
 ふと大司馬がこんなことを尋ねた。
「この種の呪については冬官もあまり詳しくはないと聞いたが、実験はできな
いのかな?」

375永遠の行方「王と麒麟(45)」:2010/10/25(月) 19:13:24
「実験? と言いますと?」
「冬官同士で、念のため安全で確実に解ける条件を設定した昏睡の呪をかける
のだ。その上で他のやり方でも目覚めさせることができないかどうか――」
「それはできません、そもそも人に有害な呪の行使は禁じられています」
「しかし非常時だぞ」
「拙官はそのような無謀な命を出すつもりはありません」大司空はきっぱりと
答えた。
「無謀? 単に眠らせるだけの術が?」
 大司馬はぽかんとしたが、大司空は重々しくうなずいた。
「相手の心身に直接働きかけて害をなす術というのは、どれも要は呪詛です。
呪詛を行なえば当人もただではすみません。光州に施した術で弱っていたとは
いえ、台輔に呪をかけて絶命した暁紅を見ればわかるでしょう。神獣麒麟に仕
掛けた術ということで、彼女の場合は通常よりはるかに大きな負荷がかかった
可能性はあります。また神である王や麒麟、あるいは蓬山に仕えておられる女
仙がたが術を行使した場合は事情は異なるかもしれません。が、どちらにして
も地仙でしかない一介の技官には荷が重過ぎます。もちろん勅命とあらば冬官
府は謹んで拝し奉りますが、主上は逆にお許しにならないでしょう。あれで主
上は、雁の民ひとりひとりをご自分の血肉と思っておられるかたですから」
「うむ……そうか」
 大司馬は唸ったが、ただの思いつきだったのだろう、それ以上強行に主張し
ようとはしなかった。
 ひととおりの報告が終わったあと、彼らは王の帰城に関する日程の確認をし
た。近日中に光州城を出て帰途に着く予定ではあったが、往路と違って通常の
行幸のように下界をゆっくり戻ってくることになっていたため、それなりに日
数のかかるのが気を揉むところだった。
 王が光州で手がかりを得ていれば良いのだが、今のところ見通しがついたと
いうような報せは来ていない。それでも彼らは、主君さえ戻ってくれば何とか
なるような気がした。

---
次の投下まで、しばらく間が開きます。

376六太の悩み(1/5):2010/12/25(土) 11:38:33
まだ次の投下までしばらくかかりそう。
というわけで少々早いですが、年末のご挨拶がてら、
つなぎで手持ちの尚六ラブラブネタを落としていきます。

もっとも尚隆は登場せず、朱衡と六太が話してるだけの内容。
雰囲気としてはコメディ寄りのほのぼのという感じ。
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 その日、大司寇府から自分の官邸に戻った朱衡は、思いがけず六太の訪問を
受けた。退庁後にわざわざやってくること自体滅多にないというのに、何やら
人目をはばかるふうで妙にそわそわしている。
「よう。元気?」
 へらへらと挨拶をしてきたが、その何気なさが逆に怪しかった。朱衡は平静
を装いながら、もしや何かいたずらでもたくらんでいるのだろうかと気を引き
締めた。
 この麒麟が、主である王と恋仲になって数ヶ月。しばらくは官が砂を吐くほ
ど甘い新婚ごっこを楽しんでいたようだが、そろそろ飽きて他の遊びを見つけ
ようとしているのかもしれない。むろん六太のたくらみなど可愛いものだが、
裏で尚隆が糸を引いている場合はそれなりに用心が必要だ。
 しかしどうもそういうことではないらしい。はっきりとは言わないまでも、
六太にはめずらしく相談があるようだった。
 朱衡はとりあえず茶と菓子でもてなし、気を利かせて下吏と奄を下がらせた。
ふたりきりになっても六太は迷うふうでなかなか用件を切り出さなかった。
 それでも他愛のない雑談で場の空気をほぐしながら待っていると。
「あの、さ」
「はい」
「その。ちょっと聞いてもいいかな」
 声こそ明るいものの表情はどこか硬い。何より妙に目が真剣だ。滅多にない
様子だけに、さすがに朱衡は少し心配になった。
「拙官にわかることでしたら、いくらでもどうぞ」
「う、うん」
 六太は茶杯を両手で持ったまま、数瞬だけ迷うように目を泳がせて沈黙した。
朱衡は安心させるように微笑を浮かべ、彼が話し出すのを待った。

377六太の悩み(2/5):2010/12/25(土) 11:42:35
「正直に言ってくれ。尚隆って『変態』だと思うか?」
「はい?」
 予想外の下問に朱衡は固まった。しかし六太は真剣な表情で、とてもからか
うふうではない。
 いったん言葉に出してしまったことで決心がついただろう、朱衡が固まって
いる間に、六太は堰を切ったように話し始めた。
「だ、だってさ。初めのうちはそうでもなかったのに、最近はあいつ、閨で変
なことたくさんするんだ。いっつも俺の全身をくまなくなでてしつこくなめま
わすんだ。俺のをしゃぶったり、足の指までしゃぶるようになめるときもある
んだ。これって変じゃないか? 普通はそんなことしないんじゃ? やっぱり
尚隆って変態?」
 羞恥で耳まで真っ赤になりながらも、座っていた椅子から腰を浮かせて大卓
に身を乗り出し、思い詰めた表情で訴える。めまいを覚えた朱衡は、いったい
何と答えたらいいのか頭を抱えた。それを尻目に六太は「俺、俺、あいつにな
められてないとこ、ない……」と言ってうなだれた。
 六太としては確かに真剣なのだろう。しかし主君の秘め事をここまで赤裸々
に聞く羽目になると思っていなかった朱衡のほうは大混乱である。
 実年齢は自分と大差ないとはいえ、六太の見た目は年端もいかぬ少年だし、
やんちゃで出奔好きでいろいろ困らせられてきたことはさておき、仮にも聖な
る神獣だ。唯一無二の主と相愛になるまで、接吻だってしたことがあるかどう
か怪しいもの。そんなうぶな彼にしてみたら、経験豊富な尚隆の愛撫は確かに
常軌を逸していると思えるかもしれない。
 すがるように自分を見つめる、らしくない六太に、朱衡は覚悟を決めた。深
く考えるから恥ずかしくなるのだ。学問の話をしているときのように、冷静か
つ客観的に淡々と話せばいい。
「台輔。最初に申し上げておきますが、閨房で何をするかというのは好みの問
題でしかないのです。したがって非常に個人差が大きいことはご承知おきくだ
さいませ。さらに他人に大っぴらに話すことではないため、何が一般的で何が
そうでないのかは誰にもわかりません。大事なのは合意の上であること、お互
いが満足すること、それによって愛情を確認できること。それさえ満たしてい
れば、何をしようとまったく問題にはならないのですよ」

378六太の悩み(3/5):2010/12/25(土) 11:49:55
 だが六太は納得できないような顔をしている。
「でも、朱衡も尚隆みたいなことしてるわけじゃないよな?」
 う、と詰まった朱衡だが、さりげなく深呼吸をして何とか平静を保った。
「拙官はその方面には淡泊ですので、主上とは少々違うかもしれません。しか
しそれでも主上がそうなさりたいお気持ちは理解できます。おそらく男なら誰
でも、多かれ少なかれ愛人に対してそうしたい欲求があるのではないでしょう
か」
「俺、男だけどわかんねー」
「それは」内心で必死に自分を励ます朱衡。「お立場と言いますか――その、
閨での役割の違いのせいかと」
「でも」
「主上は『変態』ではありません。それははっきり申し上げられます。ご安堵
なさいませ」
 力強く断言してみせると、六太は自信なげに「そう――なのかな……」とつ
ぶやいた。
「主上はたいそう情熱的に台輔を可愛がっておられるだけですよ」
「でも、あいつ……」
「はい?」
「俺のことを好きだって言ってくれるけど、閨ではいつも変なことを言わせた
がるんだ。その――俺のをこすってくれて、でももうちょっとってとこでわざ
とやめてじらして、にやにやしながらどうしてほしいか聞いてきたり。恥ずか
しいことを口にするまで続きをしてくれないんだ。仰向けになったり四つんば
いになったり、頻繁に体勢も変えさせられるし、おまけに入れてる最中に、ど
んな気持ちか聞いてくるんだ。俺、どうしたらいい?」
 なぜ自分が麒麟の恋愛指南をしなければならないのだろう。ふたたび頭を抱
える朱衡だった。どうして身近な女官などに相談しないのだろう。六太の近習
なら、普段から王とのあれこれを詳細に把握しているだろうに。
 それでも六太が本気で悩んでいるのはわかったので、朱衡は何とか実のある
助言をしようとした。
「おそらく主上は、台輔が恥ずかしがるご様子をたいそう愛しくおぼしめしな
のでしょう。だからわざとそういった言動をなさるのです」

379六太の悩み(4/5):2010/12/25(土) 11:54:26
「そ、そうなのか?」六太はびっくりした顔になった。
「おそらく他の誰も知らない台輔の艶めいたご様子を、ご自分だけが目になさ
るという事実に喜んでおられるのでしょうね。台輔が乱れるのは主上のお相手
をなさるときだけ。それを確認したくて、わざと意地悪にも思えることをなさ
るのですよ」
 六太は考えこんだ。
「そう言われると、確かにそんな気もする……」
「一般的にも、これは妻のことではありますが、昼は淑女、夜は娼婦というの
が男の理想とも言われます。男というものは愛人が自分だけに痴態を見せるこ
とにたいそう悦びを覚えるのです。それは男心をそそると同時に、自分の技巧
が愛人に喜ばれていることの証左でもありますから、その両方の理由で満足を
覚えるのです」
「……へえー……」
 六太は目を丸くしたまま、感心したようにつぶやいた。まだ思い詰めた表情
は残っているものの、滅多に見せない尊敬のまなざしさえ朱衡に向けている。
「そっかぁ。朱衡ってやっぱ、いろんなことを知ってるんだな」
「お褒めいただきまして光栄です」
「えーと。じゃあ俺、どうしたらいいと思う?」
 ここに至ってもそれを聞くのかとめげつつ、朱衡は誠実に応対した。
「確認なのですが、主上がなさることで台輔が本当に嫌だと思っておられるこ
とはございませんね? あくまで恥ずかしいからどうしたらいいのかわからな
い、そういうことでございますね?」
 六太はふたたび顔を赤くしてうつむいたが、それでもかすかにうなずいた。
「それでしたら、主上が台輔をじらそうとなさったら思い切り甘えてさしあげ
なさいませ。そして恥じらいながらも大胆に続きをせがんでごらんなさいま
せ」
「う、うん。あとは?」

380六太の悩み(5/E):2010/12/25(土) 11:57:34
「主上はご自分の愛撫で台輔が乱れるさまをごらんになりたいのですから、気
持ちよいと感じたら素直に快楽に身をお任せなさいませ。普段なら恥ずかしく
て口にできないこと、やれないことも、それを知るのは主上おひとりですから、
いくらでも言ったりやったりなさいませ。それらもすべて愛の行為なのです。
そしてもしお嫌でなかったら、たまに主上にも同じようなことをして差し上げ
ると主上はお喜びになると存じます」
「俺が、あいつのすることと同じことを――」
 閨でのあれこれを具体的に思い出しているのだろう、いっそう顔を赤くした
六太だったが、それでも何とかうなずいた。そして朱衡が「頼むからこれ以上
聞かないでくれ」と内心で願いつつ返答を待っていると、六太はようやく納得
した顔になった。
「ありがと、助かった」照れた笑みを向けて礼を言う。「変なこと聞いてごめ
んな。俺、こんなこと初めてで何かと判断がつかなくて……。でも内容が内容
だから滅多な相手には相談できなかったんだ。尚隆にも悪いし。でも朱衡なら
昔から俺らのこと知ってるし、忌憚のないところを言ってくれると思って」
 どうやら彼なりに考えてのことだったらしい。自国の麒麟に頼りにされるこ
と自体は純粋に喜ばしいことではあるし、朱衡は素直に六太の感謝を受け取っ
ておいた。それでも彼がほっとした様子で帰っていくと、不意に疲労を覚えて
椅子に座り込んだのだった。

 翌日、六太が大司寇府の執務室に顔を出した。室内を見回して余人がいない
ことを確かめた彼は、昨日のような照れた笑みを見せて朱衡に駆け寄った。
「昨日はありがとな。朱衡の言うとおりにしたら尚隆はすごく喜んでくれた
よ」
 嬉しそうに報告してくる。こんなときばかり律儀にならずとも――と再々度
頭を抱えた朱衡は、何も言わず曖昧にうなずくだけにとどめておいた。
「不思議なんだけど、そうしたら俺もいつもよりずっと良かったんだ。尚隆も
何回もしてくれて、途中で俺があいつのをこすってやったらめちゃくちゃ喜ん
でさ。もう激しくって、今朝方まで寝かせてもらえなかった」
 もはや既にのろけでしかない。
 ひとしきり報告すると六太は「俺、あいつが変態でも別にいいや」と開き
直ったように言い、意気揚々と引きあげていった。残された朱衡は言葉もなく、
ふたたび疲労を覚えて溜息とともに座り込むしかなかった。

381名無しさん:2011/04/20(水) 21:19:22
姐さんの安否が心配…震災からかれこれ一ヶ月以上経ったけど、何事も無ければ良いが

3821:2011/04/23(土) 10:14:39
こちらは大丈夫ですので、ご安心ください。
長らく中断してしまっているのは、書くのが難しい章であるのが大きな理由です。

まだ次の投下の見通しが立たないのですが、
せっかくなので書き逃げスレに尚六の掌編を置いていきますね。

383永遠の行方「王と麒麟(46)」:2011/05/14(土) 23:06:24

 延王尚隆が宮城に戻ってきたとき、既に三月も半ばを過ぎていた。首都関弓
はまだ雪に埋もれていたが、慶国と接する南部の地域なら穏やかな春の息吹を
感じられる頃だ。往路と異なり、経路となった街々にたっぷりと壮麗な行列を
見せて華やぎを与え、人々をお祭気分にさせて彼らに一時の享楽をもたらした
末の還御だった。
 玄英宮ではさっそく朝議が招集され、まずは行幸につきしたがった官から光
州での出来事が報告された。
 二月は例の病は発生せず、謀反に連なると思われる不穏な動きも認められな
かった。そのため残党もおらず一連の事件は終わりを告げたというのが大方の
見方だった。これ自体は明るい報せではあるものの、六太にかけられた呪に関
する手がかりはなかった。いや、術そのものについては既知の呪であったため
詳細までわかっているが、だからと言って簡単に解けるかと言えばそうでない
ことは周知のとおり。
 ついで宮城で留守を預かっていた高官らが、これまでにわかった事柄を相次
いで奏上した。暁紅の邸を捜索した結果や、蓬山に遣わした勅使の持ち帰った
返答、王が不在の間の朝議や内議で検討されたり報告された内容、等々である。
 もちろん六太にかけられた術に解除条件が設定されたことは伏せられていた
ため、それに関係する表現は注意深く取り除かれていた。いずれにしても膨大
な量ではあり、それでいて報告の中にこれといった決め手はなく、現状のとこ
ろ打つ手がないのは認めざるを得ない。何しろ六太は、弱点である角のある額
に触れられてさえまったく反応しないのだ。
 黄医からはさらに詳細な報告がなされたが、やはり現段階で打つ手がないこ
とを再確認しただけに終わった。ただし幸いなことに、昏々と眠り続けている
とはいえ健康上の問題はないし、しかも碧霞玄君から数十年程度飲まず食わず
でいたくらいではなんら差し障りはないとの返答も得ている。それが長年この
王と麒麟に仕えてきた官らの胸中を晴らすことにはならないまでも、何らかの
期限に迫られているわけではないことは大きな救いだった。

384永遠の行方「王と麒麟(47)」:2011/05/18(水) 19:53:22
 そもそも王が失道したわけでもなく、いやしくも天意を享けた王朝なのだ、
このまま謀反人の思惑どおりに終わっていいはずがない。
 長い朝議を終えた尚隆は滞っていた通常の政務をこなし、夕刻近くになって
から内議に冢宰と六官を招集した。高官らは仁重殿の女官を中心に行なってい
るさりげない聴取の成果を始め、これまでの試行錯誤の詳細を事細かに告げた。
尚隆は黙ってそれらに耳を傾けていたが、いったん報告の区切りがついたとこ
ろで冢宰が尋ねた。
「ところで主上。景王からの親書の内容はいかがでしたか」
「六太宛に来たというあれか。非常時ゆえ、開封してはみたが」
「して、内容は」
 すると尚隆は困ったような笑みを浮かべた。
「よくわからん」
「……は?」
「蓬莱の文字で書かれていたからな。それも俺が向こうにいた頃と、かなり変
わったようだ。あるいは陽子が使っているくらいだから女文字のたぐいかも知
れぬ。それでも『陽子』という文末の署名は読めたし、おぼろに意味をつかめ
ぬでもないが、果たして解釈が合っているかどうか。最近の蓬莱文字に詳しい
者に読み解いてもらう必要がある」
「詳しい者とおおせられましても……」
 これまで蓬莱関係については六太に任せておけば良かったので、向こうの文
字を尚隆より読みこなせる者などそうはいない。
「禁軍にいたろう。軍吏に取り立ててやった海客の男が」
「なるほど。確かにおりますな」引き取ったのは大司馬である。「その者は国
府におりますから、宮城に配置換えした上で、親書を渡して翻訳させましょう。
流されてきて数十年経っておりますが、それくらいなら蓬莱文字もそう変化は
しておらぬでしょう」
「しかし宮城内でさえ、不用意に話が漏れないよういろいろ気をつけていると
いうのに、海客などに関わらせるのはいかがなものかと思われますが」

385永遠の行方「王と麒麟(48)」:2011/05/18(水) 21:00:47
 大宗伯が眉をひそめて言う。大司馬とて、これまで海客に良い印象を抱いて
いるとは思えない男だったので、彼が王の提案にすんなり同調したのも他の官
には意外だった。だが、
「海客は軟弱な上に上位の者に対する当たり前の礼儀や敬意を持ち合わせぬ不
遜な輩が多い。そんな者に任せられぬのは道理だが、海客にもきちんとした者
はいる。特に件の軍吏は蓬莱でも軍にいたことから、雁と王朝に対する敬意を
きちんとわきまえており、真面目で口も堅いことがわかっている。拙官も何度
か実際に話をしており、信頼にたる男だと思う」
 大司馬にそう説明され、大宗伯は他の官とうなずきあいながら「そういうこ
となら」と同意した。
「今回の事件を景王にお知らせしたほうが良いのでしょうか?」
 朱衡が尚隆の意を尋ね、他の者も主君の顔を見た。むろん普通ならば他国に
知られることは避けたい。しかしもし返信を要する書簡だった場合、放置すれ
ば逆に疑念を抱かれかねない。卑しくも王である以上、大っぴらに騒ぐことは
なかろうし、むしろ何らかのもめごとを察して気遣いを示してくれるとしても、
事情を知らぬ者によって他国の宮城で話が広まる事態は避けたかった。
 尚隆は事も無げに肩をすくめた。
「まあ、陽子と――景麒には経緯を知らせてやったほうが良かろうな」
「しかし、主上。このような事態を安易に漏らすわけには」
「六太とはひんぱんにやりとりをしていたようだから、音沙汰がなければ陽子
も心配するだろう。それに慶もまだ安定には程遠いが、もう少し歳を取ってこ
なれればともかく、陽子のことだから不審に思えば早々に鸞でも送ってこよう。
書簡の封蝋が玉璽ではなく陽子の私印であったこと、署名が『陽子』のみだっ
たことを考えると、あくまで私的で気楽なやりとりとしか思えぬから、むしろ
話が漏れぬうちに言い含めたほうが安全だ」
「それはそうですが」
「六太と親しかった者を順次聴取して、あれの望みが何であるかをつきとめる
という作業もある。帷湍は他の麒麟にも尋ねたほうがよいと言っていたが、雁
が後援している陽子や景麒なら行き来しても不思議には思われぬ」

386名無しさん:2011/05/19(木) 11:51:28
更新キテタ━━━ヽ(∀゚ )人(゚∀゚)人( ゚∀)人(∀゚ )人(゚∀゚)人( ゚∀)ノ━━━!!!!

387永遠の行方「王と麒麟(49)」:2011/05/21(土) 00:16:37
「そういうことでしたら、台輔と日常的に書簡をやりとりしておられた景王な
ら、確かに一番適当ではありますな……」
「解決の糸口が見えぬ以上、早め早めに手を打つに越したことはない。むろん
海客に親書を読み解かせてからになるが――陽子には開封を詫びねばならぬ―
―小さな紙片に記された短い文面だ、すぐに翻訳できるだろう」
 一同は考えこんだ。蓬山には勅使が「この呪の解法に心当たりがあればご連
絡を」とも伝えてあり、本日の朝議でもいずれ時期を見て再度勅使を立てるこ
とになった。それとは別に、他国の麒麟に尋ねてみるというのも確かに良い手
であると思われた。
「手段を尽くすという意味では、別の手立てもありますな」
 ふと大司馬が言った。他の者が注視すると、彼はしれっとこう続けた。
「冬官府で実験は可能ですからな。安全で確実に解ける条件を設定した上で昏
睡の呪をかけ、他のやり方でも目覚めさせることができないか試せばよい」
「それは……」
 大司空は口ごもった。それは王が不在時の内議で出た素人の思いつきに過ぎ
ず、しかもあの場で大司馬がすぐ引っ込めた案のため奏上には含まれてはいな
かった。そのため主君の前で持ち出されるとは思わず、不意打ちを食らった形
だった。
「いかがでしょう、主上」
「ふむ。危険がないなら、やっても損はあるまい」
 あっさりと応じた主君に、大司空はうろたえた。だが他の官からも異を唱え
る声は出ず、大司空が何を言うよりも早く、大司馬は「ところで朝議にて仁重
殿の女官から出された奏上ですが」と話を変えて彼の言葉を封じた。

 その日の夜になってから大司空は長楽殿に伺候した。大司馬の提案が危険な
ものであることは王に説明しなければならなかったが、このまま六太の昏睡が
続けば、いずれは実験せねばならぬかもしれないと覚悟は決めていた。
 夕餉を摂っていた主君の元に招き入れられた大司空が、懸念もあらわに食事
の邪魔を詫びると、尚隆は彼が何も言わずとも人払いをして女官たちを下がら
せた。

388永遠の行方「王と麒麟(50)」:2011/05/21(土) 00:18:39
「主上。内議でおおせられた実験についてですが、お伝えしておかねばならな
いことがあります」
「言ってみろ」
 大司空は主君の不在時における内々のやりとりを繰り返し、危険な術である
こと、それでいておそらく得るものは何もないだろうことを説明した。
 尚隆は静かに聞いていたが、やがて「それでも呪を解く可能性を見つけられ
ぬわけではないということだな」と念を押した。
「御意」
「そして素人ゆえの安易な思いつきということは、別の誰かが考えついても不
思議のない案ということでもある。実際、既に同じことを思いついた者もいる
だろう」
「はあ」
「ということは、呪を解けるかもしれない可能性があるのに試さないなら、冬
官府に有形無形の非難が集まりかねないということだ。何より使命感に燃えた
冬官自身がこっそり試しかねない。梁興に仕えていた冬官助手のように、動機
さえあれば危険を冒す者はいくらでもいよう。それが雁のためとなればなおさ
らだ」
 大司空はしばらく考えたのち、ためらいながらも「そうかもしれません」と
応えた。尚隆は彼をじっと見つめてから溜息をついた。
「この際はっきり言っておくが、いまだ呪の有効な解法がない以上、長丁場に
なることは覚悟せねばならんぞ」
「主上」
「その間、官府の間で責任のなすりあいが起きるのを極力防がねばならん。こ
れは不信が噴出してからでは遅い。いったん生じた不満は容易には収まらぬも
のだし、しぶしぶ試したあげく有用な結果を得られなかったとなると、その失
望感も上乗せされてしまう。逆に早めに手立てを講じて『こういう方法を試し
たがだめだった』と明らかにしておけば、できるかぎりのことをしていると他
の者は納得するし、無駄な作業に心を残さず、別の有用かもしれない手段に意
識を移しやすくなる。むろん実験で思いがけず解法がわかればもうけものだ
が」

389永遠の行方「王と麒麟(51)」:2011/05/21(土) 00:20:41
 不意に大司空は悟った。先の内議において主君は、既にそのことを考えて許
可を下したに相違ないのだ。さらにはこうして大司空がやってくることも予想
していたろう。
「では……」
「術者に極力危険のないように、そして冬官自身を含めた諸官が、冬官府が手
を尽くしていると納得できるように計らっておくことだ。大司馬はある種単純
な男で、今回のことも悪意があるわけではない。そして彼の提案が多少の危険
を伴うとしても、しこりを残してまで強硬に抵抗する性質のものでもなかろう。
ただでさえ光州の心証が悪くなっているところへ、内朝六官の中でさえ感情の
行き違いが起きるのは避けたい。平時ならささいなことであっても、非常時に
はゆがみが大きくなる」
 大司空はいったん考えこみ、しばらくしてから口を開いた。
「そうしますと……むしろ冬官の中から自発的に出た案という形にしたほうが
いいですな。実際に考えつくかぎりの案を部下に出させ、すべて試してみるこ
とにしましょう。それなら外部からの圧力に因ったことにはならないため外聞
もいいし、内部の者の不満もたまりません。大司馬が提案した以上のことを行
うことで、彼への牽制にもなります」
「任せる」
 尚隆はそう言ってから、ふと何かを探すように一瞬視線を傍らにさまよわせ
た。そうしてからにやりとする。
「くれぐれも気をつけることだ。実験で術者にもしものことがあれば、六太が
目覚めたあと、あれに罵倒されるのは俺なのだからな」
 大司空は緊張の残る表情に何とか微笑を浮かべて応え、主君のもとを退出し
た。

 翌日、尚隆は昼餉を済ませてから仁重殿を訪れた。彼は前日の朝議で、女官
らが文書による奏上で求めた六太への褒美を認め、目録を提出するように指示
していた。そして仁重殿を訪れてから、直接女官らをねぎらった。それから六
太が眠っている臥室に赴き、ずっと詰めている黄医に容態を確認したが、依然
変化なしとの答えだった。

390永遠の行方「王と麒麟(52)」:2011/05/21(土) 00:23:04
「下界においても、頭を打つなどして長期の昏睡に陥る者はおります。むろん
只人の場合は数日のうちに意識が戻らねば生命に関わるわけですが、症状の程
度はさまざまで、石のように動かない者がいる反面、外部からの刺激に反応こ
そしないものの、目を開けるなどの自立的な動きを見せる者もおります」
 黄医はそう言って、さまざまな症例の中に六太を目覚めさせる手がかりがな
いか調べさせていると告げた。
「ところで六太は、身じろいだりぼんやりと目を開けたりすることもあるわけ
だが、たとえば粥のようなものを食べさせることはできぬのか?」
 尚隆の問いに黄医は驚いた顔で首を振った。
「それは……試してはおりません。市井の者が昏睡に陥ったときは、何とか水
分を取らせるために唇を湿らせたりもするようですが、ご承知のようにもとも
と神仙は飲食をせずとも簡単には死なない存在です。特に麒麟は角を通じて天
地の気脈から力を得られます。碧霞玄君のお墨付きもありますし……」
「だが飢えや乾きはつらいものだ。既にふた月近く経っていることだし、死な
ないからといっても肉体は悲鳴を上げているだろう」
 尚隆は牀榻の奥に足を踏み入れた。帳は巻き上げられて、臥牀の様子がよく
見えるようになっている。女官らは今では朝は帳を開けて光を入れ、夜は帳を
おろすようにしていた。そうやってささやかながらも生活にめりはりをつけれ
ば、六太に良い作用があるように思えたからだ。
 尚隆は枕元に腰をおろすと、しばらく半身の様子を窺った。
「今はうっすらと目を開けているな」
「はい。一日のうち何度かこのように目をお開けになりますし、たまに身じろ
いだりもなさいます。しかしながら意識のないことは確かです」
「ふむ」
 尚隆は少し考えてから、六太の背に左腕を差しこんで上体を起こした。そう
してさらに考えたのち、水で湿らせた綿を女官に持ってこさせた。主君の意図
を察した黄医は「下手なことをすれば台輔を窒息させてしまいます」とあわて
たが、尚隆は六太の顎を支えて慎重に角度をつけた上で唇に綿を押しつけ、ほ
んのわずか喉に水滴をたらしてみた。

391永遠の行方「王と麒麟(53)」:2011/05/21(土) 00:25:27
 すると唇の端から水をしたたらせながらも、六太は反射のようにごくりと喉
を動かした。手元を覗きこんでいた黄医は感極まったように「おお」と声を上
げた。
「よし。飲めるようだな」
 尚隆は今度は果汁を満たした杯を持ってこさせた。先ほどよりしっかり六太
の上体を支えてから果汁を口に含み、右手で六太の顎をつかむと、口移しの要
領で少しずつ喉に果汁を流しこむ。すると顎を伝ってかなり臥牀にこぼれはし
たものの、六太はささやかな一杯を飲むことができた。
 尚隆は顔を輝かせている黄医にうなずきながら内心で、意識のあるときにこ
んな口づけまがいの真似をされたら、尚隆を殴りはしないまでも全身で抵抗す
るだろうなと、ほんの少しおもしろく思った。
「いくら神仙でも、断食が続けば意識が戻ったとき食物を摂ること自体が難し
くなる。目覚めたあとの回復を早めるためにも、少しでも摂取させておくに越
したことはない」
「確かに水や果汁を少しずつお飲ませすることはできましょうが……」
 黄医が安堵の中にも困ったような顔をしたので、尚隆は「なんだ」と尋ねた。
「畏れながら、拙官どもが尊き台輔に口移しをするわけにはまいりません」
「そうか」尚隆は苦笑した。「ならば俺が暇を見て見舞い、その都度飲ませる
ことにしよう。それ以外は先ほどのように湿らせた綿などで試せばよかろう。
むろん無理は禁物だが」
「かしこまりまして」
 綿や果汁を持ってきた女官たちは牀榻の外で成り行きを見守っていたが、今
は安堵のあまり泣きそうな顔をしていた。尚隆がそれへうなずくと、彼女らは
深々と拝礼した。

392永遠の行方「王と麒麟(54)」:2011/05/21(土) 00:27:34

 王が還御して数日も経つと、宮城は表面上は普段の装いを完全に取り戻した
ように見えた。今打てる手はすべて打ってしまったので、あとは良い結果の訪
れを待つしかなかったし、王が宮城にいる以上、政務の滞りもなかったからだ。
靖州侯の政務については令尹が代行している。首都州侯という麒麟の地位は名
目上のものに過ぎず、実務の大半はもともと令尹と州宰によって執り行われて
いただけに、これまた特に問題は起きていなかった。
 新たに深刻な事態が持ちあがることもなく、六太のことさえ意識から追い
払ってしまえば以前と同じように日々を送れてしまうことに、朱衡は複雑な思
いに駆られた。朝議の際も、ふと壇上の玉座の傍らに宰輔の姿を探してしまう。
日頃は何かと困らせられてきたとはいえ、六太の元気の良い声を聞けないのも、
威儀などどうでもよいとばかりにばたばたと宮城を走るさまを見られないのも、
正直なところ淋しかった。
 内殿の王の執務室に赴いた際も、つい主君の傍らに目を泳がせると、目ざと
く見つけた尚隆が「なんだ?」と問うた。
「いえ……」何となく気後れしながらも、朱衡は答えた。「何だか奇妙な感じ
がしまして」わずかに眉をひそめた尚隆に説明する。「主上も台輔も宮城にお
られる場合、台輔はよく主上とご一緒でしたから。しかしながら今は朝議の際
もお姿はなく、違和感と申しますか、どことなくおさまりが悪い気がします」
「そうか?」尚隆は意外そうに言った。「俺などは、いちいちうるさく口を出
されなくて静かでいいがな」
「はあ」
「まあ、そのうち気にならなくなるだろう。何にでも慣れるものだ」
 平然とした顔で書類をめくる主君に、朱衡は一抹の淋しさを覚えた。もちろ
ん王にあわてふためかれても困るのだが。
「……確かにそうだな」
 やがていくつかの書面を吟味し、朱衡に遠慮なく一部の書類を突き返した尚
隆がつぶやいた。朱衡が黙って首をかしげると、尚隆は困ったように「視界の
端でうろちょろする六太がいないと、静かすぎて調子が狂う」と答えた。

393書き手:2011/05/21(土) 00:30:39
次の投下まで、またしばらく間が開きますが、前回よりは短くて済むかと。
以下、予定や書き手の事情を知りたくないかたはスルーでお願いします。







前回かなり長く中断してしまったこともあって、見通しについて触れておきます。
全体の章立てはこうなっています。

 ・序
 ・予兆
 ・呪
 ・王と麒麟(尚六的「起」)← ★今ここ★
 ・絆(仮題。尚六的「承転」。基本はメロドラマ)
 ・終(エピローグ&尚六的「結」。たぶん短い)

そのため現在は、章立て的には折り返し点を過ぎたあたりとなります。

ただ、もともと「予兆」章と「呪」章はひとつの章だったのを
長すぎるため公開に当たって分けただけで、構想的にはふたつで一章。
(それでも予想以上に「呪」章が長くなってしまいましたが)
したがって実際の折り返し点は今の「王と麒麟」章の半ばとなり、
これまたそれなりに長くなる予定の章とあってまだ先の話です。
つまり完結まで、少なくとも今まで費やしたのと同じくらいのレス数を消費するかもしれず、
まあ、その……気長にお付き合いいただけると嬉しいです、という話だったりw

なお前回の長期中断は、実は入院&通院してた影響が大きく、
別に十二国記の二次創作への熱が醒めたということではないのでご安心を。
中断中も、ここに出していないだけで小品は書いていたし、
そうやって気分転換しつつ、要はマイペースでやってます。

ところで原作で進展があったとしても、残念ながら取り入れられないと思うので
その場合は完全にパラレルということになります。
実際、当作品の投下開始後に出たyomyomの短編の設定も入れていません。
無意識のうちに影響は受けているかもしれませんが。

もっとも現時点でこれだけ捏造過多だと、その手のものが苦手なかたは
既にご覧になっていないとは思いますが、いちおうご注意まで。

394aya:2011/05/21(土) 23:09:46
割と頻繁にこっそり覗きに来ています。
最近更新されてて嬉しいです^^
また楽しみにしてますv

395永遠の行方「王と麒麟(55)」:2011/06/04(土) 07:13:08

 空が暗くなったと思うと、にらんだとおりやがて雨が降りだした。鳴賢は筆
を置いて立ち上がった。玻璃の窓の傍らに立って流れ落ちる雨粒を眺めると、
途端に思考がさまよいだし、災難が六太を襲ってからどれくらい経ったのだろ
うかと考えた。まだ二ヶ月――いや、もう二ヶ月だと陰鬱な思いで認める。
 いまだに何の音沙汰もない。国府から何か言ってくることはないにしても、
意識さえ戻ったなら、六太のことだから顔を出してくれるに違いないのに。
 しばらくの間ぼんやりと外を眺めていた彼は、やがて書卓の上を照らすべく
燭台の灯りをつけ、ふたたび腰をおろして勉強を続けた。そうして固くなった
饅頭をちょっと口にしただけで夕餉も摂らずに熱心に書卓に向かっていると、
夜も遅くなってから扉をたたく音がした。
「文張か? 開いてるから勝手に入れよ」
 机にかじりついたまま声を張りあげる。だが室内にすべりこんだ気配が発し
た「俺だ」という声は別人のものだった。驚いた鳴賢は振り向くなり、「風
漢」と立ち上がっていた。風漢は片手で酒壷を掲げて見せながら、親しげな笑
顔で「元気か」と言った。
「どうして、ここへ」
 六太は「閹人(もんばん)と知り合いになってさ」「俺、楽俊の身内みたい
なもんだし」と言い訳してほいほいやってきていたが、大学寮は凌雲山の中に
ある。出入りの際は普通、閹人の誰何(すいか)を受けるはずだし、外部の者
は夜間、基本的に雉門を通れないはずだ。
 だが――そう、意外にも風漢は官吏だったのだと思い直す。六太は「小間使
い」などと表現していたが、同じ場所で働いているとも言っていた気がする。
ということは実際は宮城に仕える高官ではなかろうか。ならば下界からではな
く、雲海上からやってきたということか。鳴賢の房間の場所も、もともと知り
合いだったらしい楽俊に尋ねればすぐわかることだろう。
 相手は、一瞬の間にそんなことを考えた彼をよそに眉根を寄せた。
「少しやせたのではないか? ちゃんと食っているか?」

396永遠の行方「王と麒麟(56)」:2011/06/04(土) 12:35:55
「大丈夫だ」
 口ごもりながら言葉を返した鳴賢は、どんな態度を取るべきか迷った。相手
自身が身分を明かしたわけではないにしろ、官吏だとわかった以上、丁寧に応
対したほうがいいのだろうか。それに風漢の外見こそ鳴賢より年下だが、仙籍
に入っているなら、はるかに年長ということもありうる。
「あの。風漢、さん――」
 すると風漢は驚いた顔になり、ついで苦笑した。
「おまえに『さん』付けされるとは思わなかったぞ」
「だって、その。ええと、官吏なんだろう……?」
「俺が? 誰に聞いた?」
 反射的に「台輔に」と言おうとしてかろうじて思いとどまり、「六太に」と
答える。もしかしたら、実は六太の正体を知らないかもしれない。何よりいく
ら宮城に勤めていても今回の事件の詳細を知らされているとは限らず、不用意
なことは言えないと遅まきながら気がついた。
「いつだったか、六太があんたと一緒に府第みたいなところで働いているって
言ってたんだ」
「そうか」
 風漢はうなずくと、しまいこまれていた床机を引き出して座り、卓子の上に
酒壷と懐から出した包みを載せた。包みの中は手づかみで食べられる軽食のた
ぐいだった。
「差し入れだ。最近、顔を見なかったから、どうしているかと思ってな」
 鳴賢は物入れから杯をふたつ取り出すと卓子に置き、向かいに座った。とり
あえず相手の出方を見るしかない。風漢は杯に酒をそそぎ、軽食とともに勧め
た。
「勉強も大事だが、身体を壊しては何にもならんぞ。たまには息を抜いたほう
がいい」
 鳴賢はあいまいにうなずきながら杯を受け取った。そうしてしばらく勧めら
れるままに飲んで食べていると。

397永遠の行方「王と麒麟(57)」:2011/06/07(火) 20:03:23
「心配をかけてすまんな」
「え?」
「六太のことだ」
 彼を凝視した鳴賢は、それでも慎重に口をつぐんでいた。
「相変わらず意識はない。だが幸いなことに体は健康と言える」
「風漢さんは――」
「風漢、でいい。今までと同じでかまわん」
 鳴賢はいったん言葉を飲み込んでから言うべきことを探し、ふたたび口を開
いた。
「その、風漢は……最初から六太の正体を知っていたのか?」
「いや。最初はただの餓鬼だと思った。麒麟だと知ったのは少し後だな」
 あっさり答えた相手に、ごくりと唾を飲みこむ。彼は明らかに六太の身分も
今回の事件も知っている。ということはどこかの殿閣の下働きなどではなく、
下吏でさえなく、やはりそれなりの官位に違いない。
「つまりあんたは、玄英宮に出仕している官吏だってことだよな……?」
「そんなところだ」
「まさかあんたが国府の高官とは思わなかった。台輔から」と言いかけて「六
太から役人だと聞いたときも驚いたけど」と言いなおす。だが風漢は咎めるで
もなく、おかしそうに眉を上げた。
「それほどたいそうなものではないぞ。雑用ばかりやらされている小間使いだ
からな」
「もしかして六太のいる仁重殿にでも仕えているのか?」
「いや、あちこちで用をこなしている。要は何でも屋だ。だが、だいたい内殿
や正寝にいることが多いかな」
「正寝……」鳴賢は絶句した。内殿が王が政務を執る場所であり、正寝が王の
私室だということは知っていた。「じゃあ――まさか、主上にお目にかかった
こともあるのか?」

398永遠の行方「王と麒麟(58)」:2011/06/07(火) 22:11:51
「おう。あるぞ」
「その、どんなかたなんだろう? やっぱり名君だと思っていいのか?」
「ふむ」風漢はおもしろそうに顎をさすった。「どうだろうな。普段はあまり
良い話は聞かんが。側近に小言をくらったり、たまに罵倒されてもいるよう
だ」
「罵倒?」
「昔、朝議にすら、混ぜっ返すくらいなら出てこなくていいとまで官に言われ
たこともあるほどだからな」
 そう言って気楽に笑う。だが相手の受けた衝撃と混乱に気づいたのだろう、
すぐこう続けた。
「王のひととなりなど、俺が言うことではない。それに人間の評価などという
ものは、見る者によって変わるものだ。そんなものはいずれ実際に王に会った
とき、おまえが自分の目で判断すればいい」
 言葉面こそそっけないが、まなざしは穏やかで声音も温かかった。これまで
抱いていた彼の印象にはそぐわない。こんなふうに話すこともできるのかと、
鳴賢は意外に思った。
「だが、いずれにしろ六太のことは王なりに大事に思っているのは確かだ。幸
いにも呪者の残党はおらず、謀反のくわだては終わったと考えられる。六太が
目覚める完全な解決はまだ先になりそうだが、王が六太を見捨てることだけは
ありえない。それは信じてくれていい」
「そのう……ありがとう、それを聞いて安心した」
 鳴賢は気づいた。六太と同じように、風漢が「主上」ではなく「王」と表現
していることに。その意味するところまではわからず一抹の不安を覚えたもの
の、気遣ってくれているのは明らかで、その思いやりは素直に嬉しく思った。
「ところでこうして訪ねてきてくれたのはありがたいけど、ちょっとまずいん
じゃないか」
「うん? なぜだ?」

399名無しさん:2011/06/09(木) 22:24:41
うおお来てたマジお疲れ様です
ドキドキしつつまったり待ってます!

400永遠の行方「王と麒麟(59)」:2011/06/11(土) 09:48:56
「六太の身に起きたことは、少なくとも下界じゃ秘密にしとかないといけない
だろう? なのにこうして俺のところに来ると、いらぬ詮索をされかねない。
それに俺にもあまり詳しいことは教えないほうが安全だと思う」
「俺のような風来坊がこんなところに来たとて、悪い遊び仲間におまえが誘わ
れていると思われる程度のことだ。まあ、おまえの損にはなるか」
「俺は気にしない」
「それにおまえは信頼できる」
 思いがけない言葉だった。
「おまえ、最初に国府で尋問されたとき、王が昏睡状態に陥っていることを伏
せていたろう? あくまで六太が、王に危害を加えられなければ言うことを聞
けと脅されたことにしたな? そして大司寇の前に引き出されてから、やっと
すべてを語った」
「……なぜ、それを」
 茫然となりながらも、鳴賢はようやくそれだけ言った。王の意識がないこと
を知っているのは雲海の下では謀反人だけという六太の言葉を思い出し、低い
位の官もいる国府では迷いながらもとっさにぼかしたのだ。
「国府では酷い扱いを受けたようだが、その原因のひとつが、おまえが事件の
内容を一部伏せたため、供述の印象に不自然さを与えたことにあるのだ。だが
おまえは王の身に降りかかった災難、六太が身代わりになったことで本当に解
消したかどうかわからない深刻な事態について、しかるべき官が相手でなけれ
ば明かしても意味がないどころか混乱を招くだけと判断したようだな。我が身
の安全を図るより国を守ることを優先したおまえ自身も、おまえの判断も信頼
できる」
「あ、ありが、とう……」つっかえながらも礼を口にする。それからじわじわ
と、思いがけず自分の誠心を認めてもらったことの嬉しさが湧いてきた。

401永遠の行方「王と麒麟(60)」:2011/06/11(土) 12:34:37
「で、六太のことだが、今回のことでは皆一様に衝撃を受け、何とか六太を救
おうと奔走している。王は蓬山に使いを出して、呪の解法を相談しているそう
だ。また先日は景王から、自分にできることがあれば何でも遠慮なく言ってく
れとの申し出があったと聞く。六太は景王とも親交が深く、何度も私的に金波
宮を訪問しているくらいだから、景王も本気で心配している。今回の事件に関
してはむろん箝口令が敷かれているものの、景王には既に事件のあらましが伝
えられたくらいでな」
 蓬山。景王。箝口令。風漢の口から当たり前のように飛び出す言葉は、恐ろ
しいほど日常からかけ離れていた。
「それに知っての通り、六太はああいう気さくな性格で面倒見も良い。だから
友達が多いし、政務を怠けて頻繁に王宮を抜け出す割には官の受けも悪くない。
皆、苦笑いをしながら結局は見逃しているからな。六太を直接見知る官で、好
意を持っておらぬ者などまずいないだろう。
 というより皆、六太には甘いのだ。何しろ見た目は年端もいかぬ少年だし、
本人もしばしばそれを利用して、無邪気なふりで官に菓子をねだったり、あど
けない様子を見せて叱責を免れたりする。あれでけっこう策士だぞ」
 にやりとした相手に、鳴賢も調子を合わせて何とか笑みを浮かべた。
「ただ、あの呪というやつは厄介だ。それでも六太は麒麟だから今のところ健
康上の問題はないし、したがって何かの期限に督促されているわけではない。
解決まで多少時間はかかろうが、玄英宮は六太を救うべく手を尽くしている。
おまえも心配だろうが、しばらく見守っていてくれ」
「ああ……わかった」
 鳴賢はうなずいた。そのことを伝えるために、自分を安心させるためにいろ
いろ教えてくれたのか。一介の大学生にこんなことまで明かしたら、それなり
の地位にいても、ばれたら風漢はまずい立場に追い込まれるのではと心配に
なったが、それでも気遣いはありがたかった。
「あの。六太のことで気になってたことがあるんだけど」
「言ってみろ」

402書き手:2011/06/11(土) 12:36:50
こんな感じで、今月いっぱいくらいは
ちまちま投下していくと思います。

403永遠の行方「王と麒麟(61)」:2011/06/14(火) 23:08:37
「俺、六太をおぶって国府に連れて行ったんだけど、六太の身体がすごく軽く
て恐かったんだ。もしかしてあれも呪のせいなんだろうか」
「いや。麒麟はもともと体重が軽いそうだ。騎獣でも空を飛ぶものは体が軽い
傾向があるから、同じことかもしれん。人型では無理だが、六太も麒麟の姿に
なれば飛行できるからな」
「そうか。良かった」
「他に何か聞きたいことは?」
「じゃあ――そうだな、この際だから。もしかして風漢は大司寇府か秋官府で
俺のことを聞いたのか?」
「そんなところだが、実を言えば俺もあの場にいたのだ。おまえが大司寇の前
に引き出されたとき、衝立の後ろで控えていた」
「えっ……」
 驚愕のあまり、思わず腰を浮かせる。
 だが考えてみれば、あのとき大司寇は鳴賢を連れてきた国府の下官らを退出
させただけだ。六官ほどの高官なら、もともと見えない場所で邪魔にならない
よう部下が侍っていても不思議はないし、彼らまで下がらせたわけではない。
「それって、あんたが大司寇の側近ってことだよな? 要するにかなりの高
官ってことで……」
 まさか大司寇の次官である小司寇ではあるまいな。そう考えて顔をこわばら
せた彼を、風漢は「阿呆」と笑い飛ばした。
「小間使いだと言ったろう。俺はあの嫌味な大司寇にいつもこき使われている
のだぞ」
「嫌味って……」
「おまえは知らんだろうが、あの大司寇はな、今の王の登極時に『雁を興す興
王か、滅ぼす滅王か、どちらの諡がいいか選べ』と迫った剛の者だ。穏やかそ
うに見えて気が短いから、俺もいろいろ苦労している」
 風漢はそう言うと、何と返していいかわからず途方にくれた鳴賢を前に心底
おかしそうに笑った。

404永遠の行方「王と麒麟(62)」:2011/06/15(水) 22:20:40

 その後に交わされた会話は謀反と関係なく、他愛もない内容ばかりだった。
風漢は宮城で流れている害のない噂、下働きの間で交わされたちょっとした笑
い話といったあれこれをおもしろおかしく語った。六太の近況がわかったこと、
何より酔いが回りはじめていたこともあって、鳴賢は徐々に気分がほぐれ、雲
海上での出来事とあって興味深く聞いた。
 やがて鳴賢の元に本を借りに来た楽俊や敬之が加わり、彼らがさらに酒と食
べものを持ち込んで、男同士の気楽な小宴会となった。だが最後は結局酔いつ
ぶれてしまったようで、鳴賢が気づいたときは既に朝。楽俊と敬之は狭い臥牀
の上で同じようにつぶれていたが、風漢の姿はなかった。
 そのときになって遅まきながら新たな疑問が湧いてきた鳴賢は、せっかくだ
からもっといろいろ尋ねれば良かったと後悔した。
 しかし思いのほか早く次の機会がやってきた。数日後、午後も遅くなってか
ら、ふたたび風漢が寮に姿を見せたのだ。学生の大半はまだ授業を受けている
時間帯だが、必要な允許の残りが少ない鳴賢は、受けねばならない授業自体も
限られる。したがって自室での勉強が主体になっていることを知っているのだ
ろう。
 今日の風漢は手ぶらだった。彼は「屋内にこもっているばかりでは気が滅入
るぞ。つきあえ」と言い、鳴賢を強引に街に連れ出した。凌雲山を出たのは久
しぶりで、関弓の街を歩いて気持ちの良い風にさらされると確かに気晴らしに
なった。
 伴われた先は、学生らがよく行く安酒場のたぐいではなかった。途を歩きな
がら、門構えからして至極立派な高級な菜館のひとつを見上げた風漢は、「こ
こにするか」とさっさと大門をくぐった。出てきた主人と一言二言話をした彼
は、一階にある広い飯堂ではなく、三階の奥まったところにある立派な房室に
通された。おっかなびっくり後に続いた鳴賢は、案内してきた店の者が下がっ
てから「ここの常連なのか?」と尋ねた。
「いや、初めてだ」無造作な答え。

405永遠の行方「王と麒麟(63)」:2011/06/18(土) 10:19:22
 室内の豪華な調度類を見回した鳴賢は、少々居心地の悪い思いをした。しか
し安酒場で語らうのと違い、誰かに聞かれることもあるまいと気が楽になる。
街に連れ出されたとき、人目のある場所で六太のことなど話題にできないと思
い、どうやっていろいろ尋ねようと考えたが、ここなら心配はなさそうだ。
 店の者はまず酒と簡単な肴を運び、ふたりがそれに手をつけている間に豪華
な料理の皿をいくつも運びこんだ。彼らは風漢が人払いをすると、丁寧に礼を
してから退出した。
 ふと鳴賢は手元の料理の皿を見下ろした。
「……六太の体は健康だって言ってたけど、意識がないってことは、水も食べ
ものも摂れないってことだよな?」
「基本的にはそうだ。だが幸いなことに、水や果汁なら何とか飲ませることが
できるようになった」
 風漢は、湿らせた綿で少しずつ喉に水を流しこむと六太が反射のように飲み
こむこと、ごく薄い粥のようなさらさらとしたものなら、さじですくって口の
奥に入れてやれば、これまた反射のように飲みこませることができるとわかっ
たと告げた。
 宮城ではちゃんと世話をされているだろうと想像していたものの、具体的に
説明されて鳴賢は安堵した。
「良かった……。六太自身は飲まず食わずでも大丈夫って言ってたけど、蓬莱
では貧しくて飢えたとも言ってたんだ。そのせいで親に捨てられたって。なの
に、いくら意識がなくても、また飢えと乾きにさらされるのは、って思ってさ」
「大丈夫だ」風漢は安心させるようにうなずいてから「ところで」と話を変え
た。
「おまえ、これまで六太とどんな話をした?」
「……なぜ?」
「呪を解くためには、六太の一番の願いとやらを突き止めねばならんことはわ
かっているだろう?」

406永遠の行方「王と麒麟(64)」:2011/06/18(土) 23:03:04
「うん」
「その手がかりを得るためには、六太の心情を理解せねばならん。心情を理解
するためには、六太が語った言葉をいろいろと知らねばならんのでな」
 鳴賢は首をかしげた。
「でもあのとき起きたことは全部大司寇に申しあげたし、今さら俺に聞くこと
なんか。第一、宮城に勤めているあんたのほうがずっと詳しいはずだろう?」
「そうでもないぞ。確かに俺はこれでけっこう長く宮城にいるゆえ、六太のこ
とをよく知っているつもりでいた。政務を怠けてひんぱんに抜けだす六太は、
これまた怠け癖のある俺と利害が一致したこともあって、一緒に見張りを出し
抜いて逐電することも多かったしな。しかし大司寇とともにおまえの話を聞い
ていて、実際は何も知らなかったことを思い知った。そもそも六太が蓬莱で親
に捨てられただの飢えただのという話は、俺は初耳だったのだ」
「へえ。意外だな」
 日頃から親しく言葉を交わしていたようだから、たまに会ってちょっとやり
とりする程度の鳴賢らよりずっと六太のことを知っていると思っていたのに。
実際、ふたりの遠慮ないやりとりを聞いたかぎりでは、身分の差があるとはい
え相当に親しそうに見えた。
「俺に比べれば、むしろほとんど行動をともにしなかった他の官のほうが詳し
いかもしれん。たとえば光州に六太と親交のある官がいて、昔、その細君が薬
狩りに六太を伴ったそうだ。そのとき、薬草を見分ける際に蓬莱にいた頃の話
をし、草の根をかじって飢えをしのいだことがあると言ったらしい。だが俺は
それほど悲惨な生活を送っていたとは思わなかった。最近になって別の官も
言っていたが、六太は『王という存在は民を苦しめるだけ』と言ったこともあ
るそうだ。もっとも似たようなことは俺も耳にしたことがあるが、適当に聞き
流したので理由までは聞かなかった。だがその官によると六太は、蓬莱で庶民
として生まれ、戦乱に明け暮れるその土地の為政者に相当苦しめられたらしい。
要は呪にかけられる前におまえが聞いた内容と似たようなものだが――蓬莱が
長く戦乱の時代であることは俺も知っていたが、六太の言動は自身の経験に由
来するのではなく、市井の民人の貧苦に心を痛めたがゆえだと思っていた」

407永遠の行方「王と麒麟(65)」:2011/06/22(水) 00:10:14
 淡々と語る風漢を見ながら、ふと鳴賢はどこか淋しげだと感じた。相手の表
情は平静だったし、語調も穏やかだったから、そう考えるのは不思議なこと
だったが。
「むろん、そういったことを六太から聞いていた官はごく一部だ。おそらく片
手で足りようし、今挙げた者たちも、少なくとも六太の過去についてはそれ以
上のことは知らないようだ。あれで六太は擬態がうまいからな、容易に本心を
悟らせん。些細なこと、他愛もないことならむしろ開けっぴろげにうるさいく
らい語るというのに、こうと決めたことはとことん口をつぐんで気取らせない。
誰に似たのか、けっこう頑固だ」
「ああ――言われてみればそうかも知れない」
「だから六太の心情を理解しようにも、おそらく玄英宮では、いや、どこであ
ろうと王や官に対しては、あまり突っこんだ話はしなかったと思われるのだ。
だが知ってのとおり六太は下界にも知己が多い。ということは彼らを聴取すれ
ば手がかりを得られる可能性があるのだが、理由を伏せたまま、誰にどうやっ
て聴取すればいいのかという問題がある。それでまずは今回の事件のことを
知っているおまえに、これまで六太と交わした話を細部まで思い出してもらい
たいのだ」
「そういうことか」
「もちろん上にいる連中も、俺がおまえの聴取に当たっていることは承知して
いるし、何を言っても咎められることはない。すべては六太のため、雁のため
だと思って、細大漏らさず教えてくれ」
「わかった」
 納得した鳴賢は記憶の糸をたどった。宮城の高官たちも承知だと聞かされれ
ばまったく緊張しないはずもないが、酒もある飲食の場で、見知った男が相手
というのは非常に話しやすかった。それに友人にさえ相談できず、ひとりで抱
えこむ日々は精神的に多大な負担を強いていたから、すべてを承知している相
手と遠慮なく話せるのはありがたかった。

408永遠の行方「王と麒麟(66)」:2011/06/22(水) 00:28:20
「そう言われてみると――うん、思ったよりいろいろなことを聞いた気がする。
確かに官には話せないと言ってたこともあった。というより、俺らが官吏に
なったらもうそういう話題は出せないって言いかただったように思う。そのと
きの話題は王は人柱だなんて内容だったから、当然と言えば当然だけど」
「人柱?」
「うん……」
 得々と語るような内容ではないため、自然と声を落として説明することに
なった。
(雁も永遠じゃない)
(王は――人柱、みたいなものじゃないかって。だから雁が安泰でいられるの
は、王が人柱であることに甘んじている間だけだって)
(王だって人間なんだ。時には弱音を吐きたいときもあるだろうし、泣きたい
ときもあるだろう。そういうのを全部ひっくるめて王を認めてほしい)
 風漢は黙って耳を傾けていた。
「俺にとって主上は文字通り神だ。だからそのときは正直むっとした。でも六
太は日頃から主上のおそばにいたわけだから、今にして思えば主上が悩んでお
られるのを見たとか何とか――とにかく根拠はあったんだろうな。でもいくら
六太でも、主上に成り代われるわけじゃないから、それで思い詰めていたのか
もしれない」
「思い詰めていた、か」
「でなかったら、人柱だの何だのって発想はできないだろ」
 力なく笑ってみせると、風漢は「なるほどな」とうなずいた。
「あんたはこの手の話を六太から聞いたことはなかったのか?」
「ああ」
「そうか。そうだよなあ。ただでさえ相手を選ぶ話題だし、おまけに六太は宰
輔だ。そんな立場にある臣下が堂々と官に話したら、それだけで不穏な空気が
流れるだろう。当然、主上にも申しあげていないだろうな。不敬な内容なのは
確かなんだから、いくら主上が寛大なおかたでも不快になられるはずだ」

409永遠の行方「王と麒麟(67)」:2011/06/25(土) 07:39:42
 そこまで話すと鳴賢は黙りこんだ。風漢もあえて先をうながさずに杯を重ね、
気詰まりではないが真摯な沈黙の中で、鳴賢はもう一度あのときの会話を思い
返していた。
「……六太は言っていたっけ。人間としての悩みや苦しみと無縁でいられるわ
けじゃないのに、王には王としての振る舞いしか許されないって。崇めたてま
つることが逆に王を孤独にすることもあるって。俺、今になってようやくその
ことを想像できるようになった。なんて哀しいんだろうって思うようになった。
だって冷静になって考えれば六太の言ったとおりなんだ。大半の民にとって、
王なんてものは失政をせずに暮らしの安寧を保ってくれさえすればそれでいい
んだよ。王が何を思い、何を悩み、何を喜ぼうと、どうでもいい。つまり誰も
王個人の感情なんて気にしないし、そういう存在だとも思わないんだ」
「ではおまえ自身は、延王にどういうふうでいてほしいのだ?」
 不意に尋ねられ、鳴賢は言葉に窮した。「う、ん――そうだな……」あれこ
れ考えた末に、ようやくおぼろな答えを引っ張り出す。
「そう――俺たち民が幸せになるだけではなく、主上にも幸せでいてほしいな。
だって人柱だなんて悲しいじゃないか。いったん王になったら王として以外に
生きられないなら、せめて王であることで幸せだと思っていただけることがあ
ればと思う。だからと言って、どうすれば主上がそう感じてくださるかはわか
らないけど」
 風漢はしばらく黙っていた。何となく鳴賢が答えを待っていると、やがてこ
う言った。「王には自分で自分を救えるだけの強さが必要なのだ」と。
「あまり思い詰めることはない。民や自身の苦悩をすべて引き受けて救う者が
王なのだから」
「……ずいぶん突き放した考えだな」
「そうか」
「――いや。それほど主上を信頼しているってことか」
 すると風漢は低く笑ったが、どこか困ったような響きを帯びていた。

410永遠の行方「王と麒麟(68)」:2011/06/25(土) 10:45:10
「おまえももうわかったろうが、麒麟は――というより六太は心配性だ。まだ
起きていないこと、起きるかどうかもわからないことをあれこれ考えては悩む。
確かにいずれ王は失道するのかもしれない。いや、禅譲にしろ事故にしろ、遅
かれ早かれ王朝は終わるのだろう。だがな、五百年以上の命脈を保っている今
の王朝が、人の寿命の何歳に当たるのかはわからんが、百年後もまだ健在かも
しれんのだぞ。なのにその百年をくよくよ考えて過ごす気か?」
「いや、まさか。でも……」
「おまえは折山の荒廃を知っているな。妖魔さえ飢えたと言われるあの荒廃だ。
見渡すかぎり一片の緑とてなく、国としての終わりを待つばかりと思われた。
だが雁はそこから蘇ったのだ。この世界の国々はそうやって興亡を繰り返しな
がら、長い歴史を歩んできた。これまでもそうだったし、これからもそうだろ
う。人が生まれては死ぬように、王朝も立っては斃れるものだ。ならば、いず
れ訪れるだろう終焉を恐れるな。永遠に続く王朝がないということは、きっと
終焉にも意味があるのだ。苦悩にさいなまれたことのない者が真の歓喜を味わ
えぬように、病に伏さねば健康のありがたみもわからぬように、陽に対する陰、
明に対する暗は必要なのかもしれん。だが終焉は真の終焉ではない。人が老い
て消えていく一方で、新しく生まれてくる命がある。同じように必ずや国も再
生する。たとえ王朝の末期において、どれほど荒廃し辛酸をなめようとな。お
まえがなすべきことは王を哀れむことではなく、ましてやいたずらに終焉を恐
れることでもない。重要なのはただ、きたるべき『そのとき』を見誤らぬよう
にすることだ。そうしておのれの信念に従ってなすべきことをなせば、結果な
ど後からついてくる」
 思いがけない話に、鳴賢はまじまじと相手を見つめた。
「むろん六太の懸念はわからんでもないし、そうやって心配する者も必要なの
かもしれん。だが恐れてばかりいると、却って災いを引き寄せるものだぞ」
「う、ん……」

411永遠の行方「王と麒麟(69)」:2011/06/26(日) 08:55:39
 手の中の杯を見つめながら、彼は言われたことの意味を考えた。端的に言え
ば六太の悩みなど捨て置けと言われたも同然だったが、穏やかな確信を持って
語られる言葉と声音には力強さがあり、その旋律に浸るのは不思議と不快では
なかった。
 杯を干すと、風漢はその都度、酒をついでくれた。そうして六太が語ったこ
とを記憶から掘り起こしつつ、鳴賢がそれにまつわる自分の思いを訴えている
うちに夜が更けていった。話題はしばしば六太のことから離れたというのに、
風漢は話を元に戻すでもなく自由に喋らせてくれたので、自然その流れはさま
ざまな事柄に及んだ。それは友人たちとたまに夜を徹して熱中する哲学論議に
似ていて、彼は風漢とそんな話ができることを驚きながらも楽しんだ。
 そうして心にかかっていたことの多くを吐き出せたおかげで、鳴賢は最後に
は予想外に良い気分で店を後にすることができた。六太のことは心配だったが、
宮城で手が尽くされていることを納得し、自分も心を強く持とうと思った。
 風漢は、またそのうち寮を訪ねると約束し、何か用があれば大司寇宛に文を
出せばいいと告げて去っていった。

 深夜の小途で指笛を吹くと、すぐに騶虞が飛来した。たまは尚隆を乗せると
ふわりと舞いあがった。禁門に向かう途中で、尚隆はふと手綱を引いて向きを
変え、しばし中空にたたずんだ。はるか足下に広がる関弓の街を見おろす。
 ――そう。自分で自分を救えるだけの強さが王には必要なのだ。その強さを
失ったとき、おそらく道も失う。
 六太は王が人柱だと言ったという。要は国に捧げられた贄だと。そうして彼
は王を憐れんでいる。ただ善政を享受し、失道の罪を王ひとりに負わせて失政
を責めるのは違うと、麒麟らしい憐れみのもとに訴えている。
「そうではない」ほのかな笑みを浮かべ、慈愛とも嘲りともつかない口調でつ
ぶやく。「そのときは誰もが王をなじっていい。結果をすべて引き受けるのも
王の役目なのだから」
 やがて彼は騶虞の向きを変えると、夜に溶けるように飛び去っていった。

4121:2011/06/26(日) 08:57:44
次の投下まで、しばらく間が開きます。

413名無しさん:2011/06/27(月) 03:34:26
素晴らしいです、姐さん。
初めて来て、寝ずにノンストップでここまで来ました。
途中、泣 き な が ら。
いつまでも待ってるので無理しないで下せぇ。

4141:2011/06/28(火) 00:01:08
お気遣いありがとうございます。

というか、この長さをノンストップですか。
それはすごい。

415永遠の行方「王と麒麟(70)」:2011/07/16(土) 09:05:00

 六太を昏睡に陥れるのに用いたと思われる術を用い、さまざまな実験が冬官
府で行なわれた。その後の内議で大司空によって結果が報告されたが、彼はま
ずきっかけを作った大司馬への謝意を謙虚に口にした。
「専門家というものはともすると、自分の都合でものを見てしまいます。そし
て詳しく知っているがためにわかりきったことを見落とすこともあります。そ
の意味で、このような試みを提案してくださった大司馬に感謝いたします」
 彼が実験に否定的だったことを知っている大司馬は、怪訝な顔をしながらも
うなずいた。大司空は続けて、大司馬の提案とは別の、考えうるかぎりの組み
合わせの実験について述べた。それは現場の冬官たちに諮って出させた案を元
にしたもので、術が不完全だった場合を含め、ささいな違いも併せると六十以
上の組み合わせがあった。万全を期したとの大司空の言葉を、一同は認めざる
をえなかった。
 大司空は手元の書面に目を落としたまま、淡々と実験の結果を読みあげた。
「これらを逐一検証したため日数はかかりましたが、昨日、すべての試みを終
えました。詳細は数日のうちに書類を整えてご報告するとして、ひとまず結果
だけ簡単に申します。正しく術をかけた場合は定められた条件以外に破ること
はできませんでした。翻って術が不完全だった場合は、特に条件を満たさずと
も破ることができましたが、むろんこれは呪の一般的な性質でありますので、
結果を待つまでもなく、初期の段階で台輔に試みております」
「つまり――結局のところ成果はなかった、と」
 白沢の問いに、大司空は沈んだ顔で「申しわけありません」と詫びた。
「考えうるかぎりの可能性を網羅したつもりですが、先ほども申したように、
専門家ゆえの見落としがあるかもしれません。いかがでしょう、大司馬」
 彼は神妙な面持ちで書類の束を大司馬に渡した。大司馬は考え込みながら慎
重に書面を繰ったが、やがて書類を差し戻すと言った。
「いや……。これ以上は拙官にも考えつかぬ。冬官府はよくやっていると思う。
しかし――そうか……」

416永遠の行方「王と麒麟(71)」:2011/07/16(土) 09:33:42
 内心ではかなり期待していたのだろう、彼は他の六官に比べてかなり落胆し
た様子だった。大司空も沈痛な面持ちではあったが、決然とした口調でこう続
けた。
「せっかくご助言をいただきながら力及ばず、まことに遺憾です。しかしなが
ら見方を変えれば、素人の暁紅でも『正しく』術をかけられたことを検証でき
たとも言えます。となれば台輔の第一の願いなるものを探し当てられれば、必
ずや術は解けるでしょう」
「しかし暁紅が口にした解呪条件が出まかせという可能性も……」
「もちろんそうです。しかし暁紅は、台輔が術にかかれば主上がお目覚めにな
るという約束を守りました。それに台輔を陥れられて満足だったらしいことを
考えあわせると、やはり真実を語ったと考えて良いと思います。何しろ今回の
事件でわかった彼女の人となりから判断するかぎり、感情的な満足を優先させ
たろうと推測できますし、条件を達成できないと思っていたのであれば、まや
かしの手がかりを与えて惑わすより、真の手がかりを与えておいて右往左往す
るさまを想像するほうがずっと快感を覚えたはずですから。
 したがって拙官は、台輔のお望みを知るべく、もはや本格的に聞き取りを開
始すべきと進言いたします。そしてそれにはぜひとも夏官府のお力添えをお願
いしたいところです。関係者の足取りを追ったり聴取を行なったりという作業
に慣れているのは夏官ですから。口の固い者を選抜して情報収集に当たらせ、
これはという内容があれば、ぜひ解呪に当たっている冬官にお知らせください。
いくら台輔のご健康に悪影響がないとはいえ、一刻も早くお救いしたいのです
が、しかしながらもはや冬官だけでは如何ともしがたいのです」
「まあ――そうだな……」大司馬はつぶやいた。「とりあえずは宮城内の者が
対象か。いずれにしろ何か表向きの理由を付けたほうがよかろうな。――そう、
大司寇が仁重殿の女官を焚きつけたわけだが、さらに一歩押しすすめて、彼女
らが『台輔のお望みがかなえばお目覚めになるかも知れない』と考えたことに
するというのはどうだろう」

417永遠の行方「王と麒麟(72)」:2011/07/17(日) 08:50:34
 朱衡はうなずいた。「少々の後押しで、そういう方向に考えを向けさせるこ
とはできるでしょう。伝説でもありがちな展開ですし、そもそも何か良い予兆
があれば問題が解決すると期待するのは自然な心情です」
「ただ大司寇は既に一度似たような話をしているわけですから、今回は別の者
に水を向けさせたほうが安全ではありませんか?」
 気遣わしげな大司徒の言葉に、朱衡はこれまで黙って耳を傾けていた主君を
見やった。「現在のところ、仁重殿に頻繁に出入りしているのは拙官のほかは
主上ですが……」
「ふむ。ならば適当に水を向けてみよう。女官たちの様子を見ると、確かに
ちょっとした後押しで良さそうだ」
「おそれいります」
「とはいえ実際に彼女らが言い出さずとも、仁重殿から話が出たことにしてお
けば良かろう。話の変遷としては不自然ではない以上、出所を仁重殿としてお
きさえすれば、女官らも自分たちの誰かが言い出したと納得するはずだ。今日
のうちに種は蒔いておくから、折を見て刈り取れ」
「御意」
「では」と白沢が話を引き取った。「仁重殿の女官たちが『台輔のお望みがか
なえばお目覚めになるかも知れない』と考えて訴えたため、他に手がかりがな
い以上、万策を尽くすという意味で、まずは宮城において聴取を行なうことに
した、と。出所はあくまで仁重殿の女官であり、根拠はないとして。他の官は
彼女らを哀れに思うでしょうが」
「それは仕方あるまい」と大司馬。
「夏官府による聴取の試みはそれとして、われわれも身近な次官以下にさりげ
なく尋ねたほうがいいしょうね」朱衡が言った。「台輔は奄奚にも気安く声を
かけておられましたが、仁重殿の者を除けば、やはり親しいのは日頃から一緒
にいることの多い、ある程度以上の官位の者が大半のはず。それに違った者が
尋ねれば、異なる答えが得られるかもしれません」
 それで益がなければ市井の者にも聴取範囲を拡大しなければならないが、こ
ちらはどこに六太の知己がいるかを調べるところから始めねばならない。した
がって彼らとしては、宮城内での調査で成果が上がるよう祈るしかなかった。

418永遠の行方「王と麒麟(73)」:2011/07/17(日) 10:17:39
 とはいえ尚隆が鳴賢から聞き出した内容は、今のところ六太の願いごとに直
結する話ではないものの目新しく興味深いものだった。そのため彼らは、六太
の望みがごく個人的な事柄であるなら、宮城とは無関係の場所で語られた可能
性のほうが高いかもしれないと、厄介に思いながらもおぼろに感じてはいた。
 やがて内議を終えて退出する主君を見送った六官は、そのあとで自身も房室
を出ながら溜息まじりにざわめいた。その中でふと朱衡と目が合った大司徒が
微笑した。
「何か?」
 朱衡も微笑しながら尋ねると、相手は少し考えるように小首をかしげた。
「いえ、何と申しますか……相変わらず主上がどっしりと構えておいでなので、
わたくしどもも安心して事に当たれるな、と」
「そうですね」
「どうも大司空は焦っておられるようですが、ここは間違いのないようにじっ
くりやることが重要ではないでしょうか。時間はあるのですから、むしろ拙速
にならないように注意しないと」
 そう言って大司徒はふたたび微笑むと、会釈をしてから自分の官府に戻って
いった。

 尚隆は政務の合間に仁重殿を訪れた。六太の臥室では相変わらず花が咲き乱
れており、常春の桃源郷さながらだった。卓には六太の好きな菓子類が甘い香
りを放っていたほか、女官たちが主君に頼んで得たさまざまな褒美が所狭しと
並んでいた。中でもわざわざ範国から急ぎ取り寄せた、太鼓を叩く童子を始め
とする一連のからくり人形は見事だった。尚隆は裳裾や披巾を翻して優雅に踊
る舞姫人形を手に取ると「ほう」と声を上げた。
「範の品だな。意匠といい細やかな動きといい、さすがに見事だ」
「こちらの童女は、ねじを巻くと料紙に字をしたためますのよ。筆を取りあげ
て墨を付けて」女官のひとりが別の人形を示してほほえんだ。「台輔はよく、
祭りの屋台で粗末なからくり細工をお求めになっては遊んでいらっしゃいまし
たから、こういったものをごらんになればお喜びになるでしょう」

419永遠の行方「王と麒麟(74)」:2011/07/17(日) 20:56:43
「なるほど」
 尚隆はうなずいたが、内心では違うだろうなと感じていた。六太はからくり
細工そのものが好きなのではない、市井の祭りが好きなのだ。祭りでさまざま
な人とふれあい、彼らをからくり細工で驚かしたり一緒に遊ぶのが好きなのだ。
いつも粗末な細工を仁重殿に持ち帰っていたのも、女官に見せてささやかな驚
きを与えたり、話の種にするためだったに違いない。
 尚隆は舞姫を元の場所に戻すと、牀榻の開いている扉に一瞥を与えた。
「ぐっすりとお寝みですわ」
 悲しそうに応じた女官に、尚隆は大仰に溜息をついた。
「まったく。これだけ褒美を与えてもまだ足りぬのか。実は既に目覚めていて、
もっと良い遊び道具をせしめようと目論んでいるのではあるまいな」そう言っ
て他の贈りものを手にとってはしげしげと眺める。「今ごろ、夢の中で楽しい
思いをしているのやも知れぬが、六太の鼻先にうまそうな菓子でもぶらさげて
食欲をあおってやれ。夢の中より現実のほうが魅力的とわかれば、さっさと目
覚めるだろう」
「まあ」
 女官は困ったように微笑した。やがて尚隆は果汁の杯を用意させると、いつ
ものように口移しで慎重に六太に飲ませた。それから別室にいた黄医を呼んで
容態を確認したのち、人払いをして六太とふたりきりになった。
 近習が丁寧に世話をしているので、六太の外見に乱れたところはまったくな
かった。黄金の髪は艶やかだし、日に一度、広々とした露台で椅子に座らせて
日向ぼっこをさせているせいか肌も健康そうだ。
「すまぬな。もう少しかかりそうだ」
 臥牀の片隅に腰をおろして半身を見おろした尚隆はそっとつぶやいた。
 やがて立ち上がった彼は衣擦れの音をさせながら牀榻を出、臥室の扉に向か
おうとして振り返った。室内は人けもなく静まり返っており、牀榻の奥に六太
が横たわっているとはとても思えなかった。何しろ今まで六太の周囲に必ず
あった使令の気配すら感じられないのだ。

420永遠の行方「王と麒麟(75)」:2011/07/18(月) 09:21:56
 奇妙なものだな、と彼はひとりごちた。王にとって麒麟がそばにいるのは至
極当たり前のことだ。息抜きに市井に紛れるときを別にすれば、諌言にしろ単
なる雑談にしろ、今までうるさいくらいに尚隆にまとわりついていた六太が、
もう二ヶ月以上も無言で横たわったままというのはひどく奇異な感じだった。
――そう、いつか朱衡が言ったように、ふとした拍子に姿を探してしまうのは
仕方がない。
 だがそんなことを考えるとは、自分は淋しいのだろうか。それもおかしなこ
とだ。権力の頂点に立つ以上、王とはもともと孤独なもの。登極の当初からそ
れを割り切ってきたはずではなかったか。孤独であってしかるべき王が、その
ことを苦痛に思うようでは……。
 いや、と口の端に苦々しい笑みを浮かべてわずかに頭を振る。ここには誰も
いない。宮城でいつも無意識に装うように言動を取り繕う必要はない。
 相手が麒麟であろうとなかろうと、五百年もともにいた者の姿が見えなくな
れば淋しく思って当然だ。実際、これまでの治世で長年の臣下が仙籍を辞すた
びに、快く許可を与えながらも寂寥感を覚えてきたものだ。しかも今回の件は
六太自身の意志ではなく強いられたもの。国と民を思う彼の心根を哀れと思う
のはもちろん、王位の象徴であり臣下の筆頭でもある麒麟が側にいないとなれ
ば、どこか落ち着かない気分になるのは仕方がない。麒麟は王の半身。他の臣
と異なり、どれほど長い治世であっても必ず王の傍らに侍っていると保証され
ているはずの存在なのだから。
 要は俺は自分の弱さと向き合いたくないのだろうな、と彼は考えた。だから
淋しさも認めたくないのだ。
 とはいえすべて解決したのちに足跡を振り返って自分を見つめ直すならとも
かく、まだ渦中にあるうちにおのれの弱さを認めては命取りになりかねないの
は確か。第一、時に非情な決断を下さねばならない王はいわば現実主義の権化
であって、綺麗ごとに終始する麒麟は、半身とはいえ真にわかりあえることな
ど永遠にないだろう相手だ。尚隆自身、六太とは常に一定の距離を置いてきた。

421永遠の行方「王と麒麟(76)」:2011/07/18(月) 09:33:31
それは六太のほうも同じだ。王を求める麒麟の本能として以上に尚隆を想うこ
とはないだろうし、今回の事件で主君に言伝の一言も残さなかったという事実
がそれを裏付けている。六太の最大の関心事はあくまで雁が――できれば他の
国々も――平和に治まっているか否かなのだ。
 ――そのはずなのに。
 尚隆はその場にたたずんだまま考えこんだ。
 いったい六太の一番の願いとは何だろう? 呪者にあさましいと嘲られても
否定せず、恥じ入って口にしなかった。しかも絶対に実現しないであろう事柄
だと言う。帷湍が言ったように個人的な願いごととしか思えないが、尚隆には
さっぱり見当がつかなかった。これだけ長いこと一緒にいれば、他の者はさて
おき、彼なら多少なりとも推測できても不思議はないのに。
 ならば――そう、ひとまず自分自身に置き換えて考えてみよう。俺自身の一
番の願いとはなんだろう? 延王尚隆としてではなく小松尚隆としての願いと
は?
 だが、結局彼は自嘲気味に低く笑うしかなかった。彼は雁の王だ。雁の繁栄
と民の安寧以外に望むことなどない。六太は変に気を回していたようだが、王
にとって国は体であり、民は体をめぐる血流だ。五百年以上もこの国に君臨し
ている尚隆にとって、もはや意識の上でも公私を分かつことなどできはしない。
六太は王を憐れみ、鳴賢も感傷的になっていたが、人柱などという発想は王と
国が別物と考えるから出てくるのであって、尚隆にとっては既に雁こそが自分
の血肉なのだ。
(だが……おまえもそうではないのか?)
 牀榻に向かって心の中で問いかける。そうしてしばらく考えをめぐらせたの
ち、踵を返して臥室を出て行った。宮城での聴取は夏官や冬官に任せるとして、
やはり市井でも引き続き話を集めたほうが良さそうだ。中でも事情を話したり
作り話をする必要がない鳴賢には、間をおかずにさらにいろいろ尋ねるべきだ
ろう。あの様子ではうまく記憶を呼び覚まさせればまだまだ興味深い話題が出
てきそうだし、本人も協力的だ。それを取っ掛かりに、たとえば他の大学生に
聞き取り範囲を広げることも容易だろう。

4221:2011/07/18(月) 09:36:14
また来月あたりに続きを投下します。
次は(少しだけ時間を遡った)陽子サイドの話になります。

423名無しさん:2011/07/18(月) 20:47:39
初めまして、最近こちらに流れ着きました。
燃えに萌える大作に巡りあえて幸せです。王様な尚隆かっこよす。
陽子も好きなので続きを楽しみにしていますね。

4241:2011/07/19(火) 18:42:12
>>423
ありがとうございます。来月半ばくらいには投下したいなと。

425永遠の行方「王と麒麟(77)」:2011/08/14(日) 08:46:44

 政務の合間に内殿の一室で体を休めていた陽子は、ふと窓框に鳥が止まった
音に気づいて視線を向けた。雁の色を尾羽に帯びた鸞にほほえむ。
「久しぶりだな」
 そんなことをひとりごちる。大がかりな謀反のくわだてがあったとの噂は聞
いていたが、後始末を終えてようやく慶に意識を向けるだけの余裕ができたと
いうことだろうか。
 だが鸞が尚隆の声でまず人払いを求める言葉を口にしたので、彼女は眉根を
寄せた。こんなことは初めてだった。
 不審に思いながらも側にいた官を下がらせる。鸞はしばらく沈黙し、十分な
時間が経ったと声の主が判断したのだろうあとで、ふたたび男の声で喋りはじ
めた。淡々とした声音で語られる内容に、陽子は次第に緊張が高まるのを感じ
た。

「どう思う?」
 急ぎ景麒と冢宰の浩瀚を呼び寄せた陽子は、鸞による親書を聞かせた上で尋
ねた。内容を明かす場合、尚隆はこのふたりのみに留めてくれるとありがたい
と伝えてきていた。半身である景麒は別格として、浩瀚を加えたのは、政務を
こなす上で彼の手助けなしに陽子が動くことはまだ無理だと知っているからだ
ろう。
「謀反人を一網打尽にしたものの、延台輔が首魁の姦計に陥り呪をかけられて
昏睡状態に陥ってしまった。しかしながら碧霞玄君も保証しているように麒麟
である延台輔の健康に障りはなく、目下のところ術を解くべく鋭意調査中であ
る――と」
「そうだ」浩瀚に応えた陽子は、少し考えてから「だが細かい事情がよくわか
らないな」とつぶやいた。「延王が延麒は無事だとおっしゃるならそうなんだ
ろうけれど。それに別に慶に助けを求めているわけでもなさそうだ」
「麒麟は天地の気脈からも力を得られる生きものです」景麒が答えた。「只人
であれば昏睡が長引けば危険ですが、数ヶ月程度意識が戻らないくらいでは影
響はほとんどないでしょう」

426永遠の行方「王と麒麟(78)」:2011/08/14(日) 08:51:41
「数ヶ月ですめば良いのですが」
 慎重に答えた浩瀚に、陽子は「というと?」と尋ねた。
「延王は謀反についての詳細は省略しておられましたが、雁で陰謀が発覚した
のは昨年十二月ですね。明けて一月には地方州に行幸なさっておいでで、それ
も謀反人をあぶりだす策の一環だったとか。実際、その直後に一党が討ち取ら
れています」
「そうらしいな」
「宮城に還御されたのが今月半ば。その頃に延台輔が呪にかけられたのなら、
さほど日数は経っておりません。しかしながら謀反人を討ったのが一月末から
二月初めらしいことを考えると、遅くとも主上が青鳥を送られた頃には既に昏
睡に陥っていた可能性があります。したがって一ヶ月乃至二ヶ月は経過してい
ることになり、解呪にかなり手間取っていると見ていいでしょう。そして今回
の親書の主旨は、主上が送られた私信の返事が滞っていることの謝罪で、延王
が延台輔の代わりに開封したことも詫びておいでだ。つまり解決のめどは立た
ないが、そろそろ主上に秘しておくのは限界として、仕方なく事情を報せてき
たことになります」
 陽子は考えこんだ。「実際には親書の内容より深刻な事態というわけか」
「でなければ、そもそも碧霞玄君にお伺いなど立てないでしょう」
 麒麟の生命は王とつながっている。延王が失政せずとも、延麒に何事かあれ
ば雁の大王朝はあっけなく瓦解する。
 泰麒捜索の折、恩は延王が斃れたときに返すと陽子は言ったが、正直なとこ
ろあれはあくまでその予兆がないからこそ言えた軽口だった。内心では、少な
く見積もってもあと二、三十年は安泰だろうと考えていた。
 だが尚隆が失道せずとも、麒麟を失えばその命は尽きてしまう。
 陽子は拳を握り締めた。半身に目を向ける。
「謀反の経過を含め、延王は端的にわかりやすく説明してくださったので、全
体像は掴めたと思う。だが正直なところ今ひとつ現状がわからない。景麒、す
まないが玄英宮に行って事情を詳しく伺ってきてくれないか」
「延王は金波宮の他の者には伏せておいてくれとおっしゃっていましたが」

427永遠の行方「王と麒麟(79)」:2011/08/14(日) 09:01:56
「うん、だから密かに行ってくれ。わたしや浩瀚では無理だが、おまえなら転
変すれば玄英宮まではすぐだ。一日くらい、何か理由をつけて政務を休んでも
不審には思われないだろう。とんぼ返りになるから大変だが、今雁にもしもの
ことがあったら、慶にとっても打撃が大きすぎる。それに延麒は麒麟の長老格
のひとりだし、慶も日頃から世話になってきた。もしできることがあるなら役
に立ちたいし、何より同じ麒麟としておまえも心配だろう」
 景麒は少し考えてから「わかりました」と答えた。
「わたしからの見舞いと併せ、向こうで何か気づいたことがあれば延王に申し
あげてくれ。この件はおまえが戻ってからあらためて話しあうことにする。碧
霞玄君のお墨付きがある以上、少なくとも今日明日のうちに深刻な事態に陥る
ような緊急性はないはずだから」
「それにおそらく延王も、主上が詳細な状況をお尋ねになることは予想してい
るでしょう」
 浩瀚の言葉に、陽子は「そうだな」とうなずいた。
 ふたりを下がらせたのち、政務に戻る前に陽子はしばし考えこんだ。後援し
てくれる隣国の危難を景王として不安に思う気持ちはもちろんだが、日頃から
私的なやりとりをしていた延麒が災難を被ったことを考えると心が痛んだ。彼
女自身も謀反人に襲われた経験があるだけに、とても他人事とは思えなかった。
それに浩瀚の言うことが当たっていれば、既に二ヶ月に渡って昏睡状態に陥っ
ているかもしれないのだ。
(ここが蓬莱で延麒が普通の人間なら、病院でチューブにつながれて臥せって
いるところなんだろうな……)
 麒麟が天地の気脈とやらからも力を得られる存在で幸いだ。自身が巧を放浪
していたときの過酷な旅を振り返ってみると、神仙であっても元が人間であれ
ば、水や食物を摂らねば長い間には衰弱するのは明らかだったからだ。
 もっとも麒麟は生臭を厭うだけで、飲食自体は普通にする。ということは他
の神仙よりは緩やかにせよ、絶食すれば徐々に衰弱していくのは避けられない
ように思われた。
 陽子はおとなしく留まっている雁の鸞に目を遣った。

428永遠の行方「王と麒麟(80)」:2011/08/14(日) 09:07:16
 尚隆は延麒への親書の開封を詫びていたが、実際のところ謝られる必要はな
かった。延麒と文をやりとりするようになったとき、「尚隆に教えろと命令さ
れれば話さずにいることはできないぞ」と彼に念を押されていたし、内容はと
言えば、今回は路木に祈る作物に関する雑談のたぐいだったからだ。それも万
が一、無関係な人物に読まれても支障のないよう蓬莱文で書いていたし、署名
も「陽子」のみとしていた。しかし尚隆なら見られても不都合なことは何もな
い。もっともあらためて考えると謝罪は口実で、陽子に今回の事件のことを報
せるほうが主旨だったように思われた。
(それにしても延王はよく現代文を読み下せたな。わたしなんかは教科書に写
真で載っていた古文もほとんど読めなかったのに。でもあれは字を崩してあっ
たからかな。逆に昔の人が現代の楷書体を読むなら読みやすいのかもしれない。
外来のカタカナ語の意味は掴めなかったと思うけど)
 陽子が延麒とやりとりするようになったのは蓬莱がらみの理由だった。慶を
少しでも良くするために、蓬莱の知識なり技術なりで役立つことがあればと思
い、延麒が遊びに来た折に雑談がてら相談したのがきっかけだ。その昔、国を
整えるのに尚隆も蓬莱の知識を生かしたことがあると聞いていたせいもあった。
「それを景麒にも話してみたか?」
 延麒にそう聞かれ、陽子は首を振ったものだ。
「話していない。というか景麒には話せない。あいつは蓬莱のことを匂わせた
だけでも途端に嫌な顔をするから」
「そうか。まあ、そうかもなぁ」顔をしかめた彼女に、延麒は同情するように
笑った。
「景麒だけじゃない。たぶん他の人間も、官も民もひっくるめてだけど、わた
しがいつまでも蓬莱のことを考えているとすると、基本的に良い気はしないだ
ろうと思う。この世界で生きていくに当たって、いつまでも元の世界のあれこ
れに目を向けられたままでは困るから。

429永遠の行方「王と麒麟(81)」:2011/08/14(日) 09:14:21
 もちろんそれはわかるんだ。ただ慶には余裕がない。現実に困窮している民
が大勢いる以上、少しでも早く何とかしたいし、もし蓬莱の知識で役に立つも
のがあればぜひとも取り入れたい。実際、蓬莱に便利な技術のたぐいがあるの
は事実なんだから。とはいえ今言った理由があるからとりあえず相談できるの
は、慶の民でもなくちょくちょく蓬莱に行っている延麒だけだ。迷惑かもしれ
ないが」
「迷惑ってことはないけどさ。でもそれって鈴や祥瓊にも相談できないのか?
少なくとも鈴は海客だから、陽子と話は合いやすいだろ」
 陽子は少し考えてから首を振った。
「彼女たちは友達でもあるけれど、やはり適当ではないと思う。鈴も現在の蓬
莱は知らないわけだし、なのに愚策かも知れない、上策かも知れない、それを
判断する基準を持っていない人たちに相談するのは、ある意味では無責任では
ないだろうか」
「知識そのものがなくても、その人が持つ感覚自体は参考になるぜ。それにい
ろいろ取り入れるに当たっては、蓬莱のことを知っているかどうかより、むし
ろこっちの世界の事情を心得ているかどうかが重要じゃないかな。どちらにし
ても意見を求めるとかそういうんじゃなく、話すだけでも違うと思うし、陽子
に頼りにされた相手も嬉しいだろう。それにひとりで考えこんでいると気分が
滅入るものだし、いつの間にか思考が堂々巡りになっていたりもするもんだ。
それを吐き出すだけでも何かと落ちつくんじゃないか」
「……そうだろうか」
「たとえば昔、朱衡がおもしろいことをやっててさ。まだ朝が整わず、何かと
忙しくててんてこ舞いだったとき、陶器の置物を執務室の入口に置いて、自分
に何かを進言する場合は内容をまず置物に喋れって部下に言い置いてた。おか
げで珍妙な光景が繰り広げられたけど、それだけのことなのに進言が厳選され、
内容もずいぶん実のあるものに変わったんだとさ。喋ることで考えがおのずと
整理される上、一語一語に対する相手の反応も考慮するようになるから、文書
で練るよりいいものができやすかったらしい。置物相手でもそうなんだから、
生きた人間に話せばもっと有用な結果が出るんじゃないか」

430永遠の行方「王と麒麟(82)」:2011/08/14(日) 09:26:24
「それはそうだけど……」陽子は口ごもったが、すぐに首を振った。「でもだ
めだ。正直なところ、自分の考えをまとめる段階にも達していないんだ。だか
ら多少なりとも背景をわかっている相手に、雑談がてら、とりとめのない話題
を気軽に話すことができれば――」そこまで言って、何かに気づいたように苦
笑する。「そう、これもある種の甘えなんだろうな。要は現代の蓬莱に関する
面倒な説明を全部省略して話を理解してくれる相手に、気楽に吐き出したいん
だ。そうすると手頃なのが、金波宮にもよく来る延麒で」
「ああ――なるほど」延麒も苦笑した。
「景麒や鈴や、他の人たちがどうこうってわけじゃないんだな、本当は。蓬莱
のことを考えるのに、わたしは自分に言い訳をしたかっただけか……」
 陽子はほのかに笑みをとどめたまま、力なく視線を床に落とした。
 本心では、蓬莱に帰るという望みを完全に捨て去ったわけではない。生涯を
この世界で過ごすという決心を固められたわけでもない。
 それでも王として手を尽くしながら懸命に数年を過ごすうちに、少しは覚悟
ができたと思っていた。家族を始めとする身近な人々のことをあえて考えない
ようにすれば、利用できるものは利用するという、王としてのたくましい思考
のもとに、一般論として蓬莱の技術なり知識なりを役立たせられないかと思っ
ていた。
 しかしそれは、どんな細い糸であっても故郷とつながりを持っていたいとい
う、無意識の欲求の発露に過ぎなかったのかもしれない……。
「実際、役立つ知識はあると思うぜ」黙りこんでしまった陽子に、延麒はいた
わるように言った。「ただ、こっちの人間にとって蓬莱というのはあくまでお
とぎの国だ。自分たちの生活とは何の関わりもない。俺は蓬莱にもむろん良い
ところはあると思っているし、取り入れたら民のためになるんじゃないかと考
えることも多々あるけど、せいぜい近臣に蓬莱の服を見せて、似たようなのを
作ってくれと頼むぐらいが関の山だ。さっき陽子が言ったとおり、確かに為政
者がそんなうわついた考えを持っていると官や民に知れれば反感が出かねない
し、事と次第によっては『だから胎果は』などと見当違いの不満をいだかれる
危険もある。その意味では気楽に蓬莱のことを話せるのは、尚隆を除けば俺も
陽子くらいかもな。もっとも尚隆も現代の蓬莱について具体的に知っているわ
けじゃないが」

431永遠の行方「王と麒麟(83)」:2011/08/14(日) 09:36:02
「雁は昔から蓬莱の技術や仕組みを取り入れてきたって聞いたけど、それでも
雁の官もいまだに抵抗あるんだろうか」
 延麒は肩をすくめた。「尚隆の場合は結果を出してきたし、急激な変化を起
こさないよう時間をかけたから、官もいたずらに拒否反応を起こすわけじゃな
いが、それでも均衡を取るのは難しい。尚隆はあくまでこちらの世界の枠組み
の中に蓬莱のやりかたを取り入れただけで、物事の仕組みの根本を変えたわけ
でもないんだがな」
「そうか」
「でもまあ、そういうことを考えることで陽子の気が紛れるなら結構なことだ。
もっとも俺もそううまい時期に慶に来られるとは限らないから、何なら鸞でも
青鳥でも、私信を送ってくれれば適当に返事はするぞ。本当にいい考えが浮か
ばないでもないし、それが民のためになれば万々歳だ」
「……鸞しかないな」少し考えてから溜息まじりに答える。「わたしはまだ自
力ではじゅうぶん読み書きできないから」
 すると延麒が「何なら蓬莱文でもいいぜ」と返したので彼女はびっくりした。
「それなら読める人間も限られるから安全でもあるだろ」
「延麒は現代文も読めるってこと?」
「まあ、何とか」彼はにっと笑った。「むしろ俺、向こうで生まれ育った時代
では読み書きを習ってなくてさ。だから蓬莱文は比較的最近になって覚えたっ
ていうか」
「それって、いつ頃の話?」
 最近だと言われれば、普通の感覚ならせいぜい数年前、古くても十年前あた
りが限度だろう。しかし延王や延麒の場合、数十年、下手をすれば百年単位で
ものを言うので、一般的な感覚は当てにならなかった。
「ええと、どうだったかな」彼は指折り数えて考えた。「七十年前かそこらか
なあ。少なくとも習ってから百年も経ってないと思うけど」
「やっぱり」
「え?」
「いや、何でもない。でも七十年前ってけっこう昔だけど大丈夫? 今とは仮
名遣いや漢字も違うんじゃ」

432永遠の行方「王と麒麟(84)」:2011/08/14(日) 09:47:04
「ああ、だから書くのはちょっと苦手だ。でも読みだけなら何とかなる。でな
いと向こうの看板なんかも読めないから、遊びに行ったときにつまんないだろ」
「……なるほど」納得した陽子はくすりと笑った。
「ただ、もし尚隆に教えろと命令されれば、文の内容を話さずにいることはで
きないぞ?」
「もちろんかまわない。むしろ延王にもいろいろ助言をいただきたいくらいだ」
 こういうわけで、それから折に触れ、陽子は延麒に青鳥で文を送るように
なった。相手も忙しいだろうから必ずしも返事を求めていたわけではなかった
にせよ、書きなれた蓬莱文で気の赴くままに手紙を書けるのは嬉しかったし、
祥瓊らと話をしたり桓?と剣の稽古をするのとは違う種類の息抜きにもなった。
 たまに来る延麒からの返信はごく短いものだったが、陽子が送った手紙の内
容を理解しているのは確かで、何となく張り合いがあった――。
 陽子は回想を振り払うように軽く頭を振ると、座っていた椅子から立ち上
がった。
 もし浩瀚が推測したとおり解呪に手間取っているのなら、景麒が戻ったら力
になれることはないか検討してみよう。呪について陽子は何も知らないと言っ
て良かったが、それでも手伝えることがないとは限らない。第一、事件の渦中
にいる者は、明白な事実に気づかぬことが往々にしてあるものだ。あまりに近
すぎると、自明のことが却って意識から抜け落ちてしまうためだろう。となれ
ば遠く離れた金波宮にいる陽子にも、だからこそ役に立てることがあるかもし
れない。

 翌日の早朝に金波宮を発った景麒は、その日の夜には戻ってきた。陽子は長
楽殿の一室に浩瀚も呼び、ふたたび三人で会合を持った。
「延台輔にかけられた術を解くめどは立っていないそうです」
 景麒は固い表情で報告した。延王はみずから仁重殿に景麒を案内し、人払い
をした上で現状を端的に語ったという。この麒麟の性格をよく知っていると
あって、いたずらに言葉を弄する必要はないと判断したのだろう。

433永遠の行方「王と麒麟(85)」:2011/08/14(日) 09:58:53
「延麒はどんなふうだった?」
「臥牀で寝ておられました」
「それはそうだろう」
「お元気そうでした。普通に眠っておられるように見えました」
 陽子はちょっと考えてから尋ねた。「延麒を昏睡に陥れた術がどんなものか
わかっているのか?」
「睡獄の呪です」
「解くのが難しい術なのか?」
「そうとは限りませんが、どうやら解除条件が設定されているようです。その
条件が成立しないと延台輔は目覚めません。延王は術をかけた謀反人が、延台
輔が一番望んでおられることを条件にしたらしいとおっしゃっていました」
 陽子は浩瀚と顔を見合わせてから言った。
「意味がよくわからないんだが」
「延台輔のお望みを誰も知らないのですが、謀反人は絶対にかなうはずがない
と考えていたようです」
「つまりこういうことですか」浩瀚が口を挟んだ。「延台輔はひそかにある願
いを持っておられたが、残念ながら絶対に成立し得ないと思われる内容だった。
偶然にしろ策を弄したにしろその内容を知った謀反人は、皮肉をこめてあえて
その願いの成就を解呪の条件にした――と」
「そうです」
 景麒はうなずいた。陽子は顔をこわばらせた。
「しかしそうだとすると、絶対に延麒を目覚めさせられないってことじゃない
か。延麒の望みを誰も知らない上に、知っていたとしても成就できないんじゃ」
「本当に不可能なことを解呪条件として指定することはできません。あくまで
延台輔がそう思いこんでおられたというだけなので、延王は延台輔のお望みを
知ることができれば術を解けるとおっしゃいました」
「ああ――そういうことか」
 陽子はほっとしたが、厄介な状況であることは変わらなかった。
「それで延王はわたしに、延台輔の一番のお望みについて心当たりはないかと
お尋ねになりました」

434永遠の行方「王と麒麟(86)」:2011/08/14(日) 10:06:01
「で、あったのか?」
「ありません」
「……おまえ、延麒を心配しているよな?」
 景麒は心外だとでも言うように眉をひそめ、「もちろんです」と答えた。
「ひとつも思い当たることはないのか? 麒麟の一番の願いなんて、国が平和
になるようにとか人々が困窮しないようにとか、けっこう限られてくると思う
が」
「そういう内容ではなく、ごく個人的な願いのようです。延台輔は恥じて、誰
にもおっしゃっていないらしいとの話でした」
「恥じて――?」
 陽子は困惑のままに繰り返し、ふたたび浩瀚と顔を見合わせた。これまでの
延麒とのつきあいを思い起こしても、どうもぴんと来なかった。
「延王は主上にも、もし心当たりがあるようなら報せてほしいとおっしゃって
いました」
「残念ながら、今のところ思い当たることはないな……」
 いずれにしても景麒は半日程度玄英宮に滞在したに過ぎないため、持ち帰っ
た話は最低限の内容だった。現状はわかったものの、ではどうすれば延麒を救
えるかを考えるには材料が少なすぎた。
 雁で謀反のくわだてがあったことは金波宮でも知られていたので、陽子はそ
の見舞いを口実にあらためて景麒を派遣することにした。そうすれば公に数日
は滞在できるから、もっと詳しい事情を見聞きすることができるだろう。それ
に景麒は心当たりはないと言ったが、延麒と同じ麒麟としての視点が役に立つ
かもしれない。むしろ延王はそれを期待する部分もあって、いろいろ報せてき
たのではないだろうか。
 もちろん陽子自身が赴ければ一番良いのだが、相変わらず政務は山積みだし、
そう簡単に宮城を空けるわけにはいかなかった。
 彼女はひとまず鸞を返して、謀反に対する非公式の見舞いとして景麒を派遣
する旨を伝えた。そして自分にできることがあればぜひとも協力したいので、
延麒が術にかけられた経緯の詳細を含め、さらに詳しい事情を景麒に伝えてほ
しいと頼んだのだった。

4351:2011/08/14(日) 10:09:35
次は玄英宮での描写に戻る予定ですが、投下までまたしばらく間が空きます。
というか暑さでパソコン様もへばっているので、
涼しくなってから続きを書ければと思います。

436名無しさん:2011/08/23(火) 03:28:31
陽子キター!
どう絡んでくるか楽しみです
姐さんのパソコン様、涼しくなったら頼むよ〜

437265:2011/08/27(土) 17:42:06
また一年弱ぶりに立ち寄ってみたら、さすがです姐さん…!
(襟を正しての年中行事みたいに拝見しております。)
こちらの身にも突き刺さってくるものがビシバシあって
いつも痛いけれど目から鱗が落ちるような心地がしています。
続きも楽しみにお待ちします。

438名無しさん:2011/09/10(土) 09:57:11
たまには覗いて見るもんです。
続編キター!!
久々にろくたんも出てきて嬉しいです。続き待ってます!

439永遠の行方「王と麒麟(87)」:2011/09/22(木) 19:09:17

 慶において事情を知る者を安易に増やさないため、今回も景麒は従者さえ連
れず単身雁に赴いた。非公式であったこともあり大仰な歓迎の儀は省かれ、重
臣の居並ぶ内議の場で、景王からの見舞いの書状が延王に渡されるに留まった。
 書状および景麒の口から、六太を救うための協力が約される。それを受けた
延王からさっそく、同じ麒麟としての立場からわかることがあれば教えてほし
いとの要請がなされた。
 とんぼ返りだった先日の極秘訪問の際は簡単な言及のみだったため、景麒は
まず、謀反の顛末に関する詳細な説明を受けた。ついで六太の現状と、呪を解
くためにこれまで試みられた手段についても説明が行なわれた。何しろ何が手
がかりになるかわからない状況だ。特に今回は、六太と同じ麒麟の視点からな
ら有益な手がかりが得られるかもしれないと玄英宮側は期待していたし、親交
の深い景王の善意を疑う理由もないので、把握されているすべての情報が伝え
られた。
 一通り質疑応答を繰り返した景麒は、翌朝、仁重殿に赴いた。先日は六太の
顔を一瞥する程度で帰っていったし、大司空らから受けた説明を咀嚼した上で、
あらためて六太の状態を確認するためだ。
 外国からの賓客のもてなしを担当する秋官府の長として、朱衡は大司空とと
もに景麒を仁重殿に案内した。数人の女官が期待に満ちたまなざしで出迎え、
うやうやしく主のもとへ導く。
 臥室に入った景麒は、前回と同じく花の咲き乱れる室内をめずらしそうに見
回した。朱衡はほほえんで言った。
「ここは相変わらず常春の領域なのですよ。先日は詳しく申しあげる暇があり
ませんでしたが、少しでも延台輔に心地よく過ごしていただこうと、皆で腐心
しております」
「良いのではないでしょうか」景麒は何やら考えこんでから答えた。朱衡が問
いかけるように見つめると、彼は「良い香りは魔を払うと言われますから」と
続けた。

440永遠の行方「王と麒麟(88)」:2011/09/22(木) 19:11:58
 華やぎが目を楽しませているのはもちろん、花の香りが穏やかに満ちている。
大司空が「なるほど」と大きくうなずき、傍らで控えていた女官もぱっと顔を
輝かせた。
「まあ……では、たとえば香を焚くのはいかがでしょう」
「悪くありません。呪を解く手助けになることはないでしょうが、悪いものを
寄せつけにくいはずですから。延台輔が使令も封じられている以上、これ以上
の災厄を招かないためにも、考えられるかぎりの守りを固めておくべきです」
「さすがに麒麟たる景台輔はお詳しくていらっしゃる」
 誠実な答えに軽い驚きを覚えながら、朱衡は応じた。前景王の時代と併せ、
彼は一度ならずこの麒麟に会ったことがあったが、以前はあまり気も利かず、
言葉もそっけない印象だった。無口とは違うが、話をしていても途中でこちら
の言葉が宙ぶらりんになる感じなのだ。
 それが今やかなり言葉も増えたし、前日の種々の説明の際もこちらの官とき
ちんとやりとりしていた。先日のあわただしい訪問の際は気づかなかったが、
ずいぶんと進歩したものだと朱衡は思った。他国の宰輔に対して言うことでは
ないため、口にすることは控えたが。
 人払いをしていったん女官を遠ざけた彼らは、六太の眠る牀榻内に足を踏み
いれた。
「それで、いかがでしょうな、景台輔」大司空が尋ねた。「あらためて延台輔
をごらんになって、何かお感じになることは」
「麒麟の強い気を感じます。特に問題があるようには見えません」
「お目覚めにならないことを除けば、ですね」
「そうです」
「ふうむ。やはり台輔のお望みを地道に探るしかないか……」
 先日の訪問の際も景麒は尚隆に心当たりを尋ねられたが、景麒はまったくな
いと答えた。しかし今、彼は考えに沈んだかと思うとこう言い切った。
「延台輔も麒麟です。麒麟の願うことはやはり、国のことか王のことしかあり
ません」
「しかし」朱衡が言葉を挟んだ。「昨日もお話ししたように、ごく私的なお望
みとしか思えないのですが」

441永遠の行方「王と麒麟(89)」:2011/09/22(木) 19:15:30
「私的だとしても、国か王か、いずれかに関わることです」
「そうでしょうか」
 つい疑わしそうな目を向けると、景麒は憐れむようにふっと口元をなごませ
た。
「あなたがたは麒麟の性(さが)をご存じない。われわれの思考は決して、国
や主君から完全に切り離されることはありません。延王は、延台輔がごく個人
的な願いをいだき、それを恥じて口にしなかったようだとおっしゃっていまし
たが」
「そうです」
「延台輔ご自身がいかに個人的な望みと思っておられようと、それを恥じてお
られようと、やはり国か王に関わることとしか考えられません」
 朱衡は大司空と視線を交わした。果たしてこれは手がかりなのか。しかし鵜
呑みにすることはためらわれた。生きてきた歳月の違いのせいかもしれないが、
景麒より六太のほうが心情的にはるかに複雑な面を持っているのは確かだった
からだ。
「なるほど。まだ宮城内における聞き取りも終わっておりませんから、景台輔
のご助言も踏まえて調査を続けることに致しましょう」
 大司空が無難に返した。朱衡は話題を変え、解呪条件を設定したほうが術が
堅牢になると聞いたが、どうしても解けないものなのかと尋ねた。景麒はまた
考えこみ、「あまり適切なたとえを思いつきませんが」と前置きして言った。
「呪によって眠りに縛られるのが不自然な状態であるのは確かなので、長い間
にはどうしてもどこかにゆがみが生じます。そこであえて最初から出口として
の扉を設けてやる。これが解呪条件です。生じたゆがみは氾濫した河の堤のよ
うに、出口がなければどこが決壊するかわかりませんが、流れる先を一ヶ所に
誘導してやれば制御しやすいからです。なおかつ出口に至る経路で、ゆがみを
逃がす形で巧みに流れの力をそいでやる。そうすれば扉に到達しても力づくで
突破されることはありません。いずれにしろ全方位を完全に抑えることは難し
いですが、最終的に一ヶ所のみ強力に封じれば良いとなれば、話はずっと簡単
になるのです」

442永遠の行方「王と麒麟(90)」:2011/09/22(木) 19:18:05
「そうですか……」
「おまけに所定の手続きによって呪を受け入れたということは、延台輔ご自身
が『目覚めたくない』と思わされているのと同義です。それによって術が強化
されているため厄介です」
「やはり延台輔の願いごとを探るのが確実な方法のようですね」
 朱衡はそう答えてから、過日、主君に命じられた内容を説明した。
「延台輔のお望みそのものが確実な鍵であることを、広く知られるわけにはい
きません。『自分ならそれを知っている』と言えば、でっちあげでも何でも国
との取引材料になりえますから。そこで仁重殿の女官を誘導して、延台輔の願
いがかなえば術が解けるかもしれないという、おとぎ話のような可能性を彼女
らが思いついたことにしたいのです。そうすれば彼女らの忠心に押される形で
心当たりを調査する理由になります。それでいてさほど重要視されていない印
象も与えるため、不穏な輩がたくらみに利用する危険も抑えられるでしょう。
 景台輔のお越しは良い機会ゆえ、そちらに話を向けたいので、ご助力をお願
いできますか」
「……わたしは芝居が不得手です」
 景麒は渋い顔で答えた。朱衡は笑った。
「いえ、むしろ普通になさっていて良いのです。単にわれわれの話を否定しな
いでさえいただければ」
「そういうことでしたら」
 相手はしぶしぶといった体で応じた。朱衡は女官を呼びいれると茶を命じ、
客庁に移って休憩した。しばらく大司空と景麒を相手に雑談をしたのち、朱衡
は控えている女官のひとりに尋ねた。
「本日はまだ主上はこちらにお見えになっていないのだな?」
「はい。いつもふらりとお立ち寄りになりますので、わたくしどももいつお越
しになるか存じません」
「主上は最近はここで何を?」
「以前と同じですわ。台輔のお世話を手伝ってくださいます。それだけでなく、
わたくしどもを力づけてくださいます」

443永遠の行方「王と麒麟(91)」:2011/09/22(木) 19:23:49
「なるほど」
「先日お見えになったときなど、台輔の鼻先に菓子でもぶらさげてやれと冗談
をおっしゃいました。夢の中より現実の世界のほうが良いとわかれば自分で目
覚めるだろうからと」
「ああ、それはいい考えかもしれない」
 尚隆の撒いた「種」はこれかと合点した朱衡はにこやかに応じた。景麒に視
線を戻して「何しろうちの台輔はかなり食い意地が張っていましてね」と軽口
を叩いてみせる。
「しかし残念ながら、ここにある菓子だけでは足りんでしょうなあ」
 戸惑うような景麒を尻目に、大司空も調子を合わせた。ふたりして冗談のよ
うに笑いあいながら、さてここからどうやって話を続けようかと朱衡が考えて
いると、一番隅に控えていた女官が「あの」と口を挟んだ。
「そのう、思ったのですが……」
 とたんに傍らの同輩に袖を引かれ、差し出がましさをたしなめられた彼女は
言葉を切った。朱衡は安心させるようにうなずいた。
「景台輔は延台輔のために遠路はるばるお越しくださったのだ。何か思いつい
たのなら、この際だから申しあげてみなさい。どれほどささいな内容でもかま
わない」
「は、はい」彼女もぎこちないながら微笑を返した。「あの、主上は冗談で
おっしゃいましたけれど、本当にその可能性はないのでしょうか」
「その可能性とは?」
「現実のほうが良いと思っていただくことで、術が解ける可能性です。もちろ
ん実際にはお菓子でどうにかできる問題ではないでしょうが、何か他の、台輔
がとても望んでおられることがあって、それがかなったとしたら。ずっとお眠
りになっているとはいえ、台輔は意識のどこかでわたくしどもの話を聞いてお
られるかもしれません。だとしたらお望みがかなったことを知れば、ご自身で
何とか目覚めようとなさるのではありませんか?」
「ほう」興味深そうにうなずいた朱衡は、景麒に尋ねた。「いかがでしょう、
景台輔。話としてはできすぎという気がしないでもありませんが、少しは可能
性があると思われますか?」

444永遠の行方「王と麒麟(92)」:2011/09/22(木) 19:26:12
 景麒は黙って彼を凝視していたが、やがてためらいがちに答えた。
「わかりませんが……。そう――いう可能性もあるかもしれません……」
「少なくともその試みが害になることはなさそうですね」
 そう言うと景麒はあやふやな口調で「はあ」と同意し、ややあってから思い
切ったように言った。
「そもそも天命を享けた王、それを主君に戴く麒麟は、失道しないかぎり天帝
の加護を受けています。いわば天運を味方につけているのであり、本来、そう
いう相手に対する呪詛を成功させるのは困難です。したがって普通は相手の運
気が下降気味になったとき、それを加速させるような呪詛を仕掛けます。まと
もに張りあっても勝ち目はありませんから。
 もちろん今回の呪者もそれなりに運を味方につけていた。巧妙に罠を張って
延王を油断させただけでなく、即座に死に至らしめるような危険な呪を避ける
ことで、被術者側の無意識の抵抗を最小限に抑えるだけの狡猾さもあった。呪
者が延王に手渡した料紙に焚きしめてあった香も、おそらく術を成功に導くの
に役立つ調合だったのでしょう。
 とはいえ呪者の運もそこまで。呪詛によって滅ぼされるとしたら、しょせん
それだけの運しか持っていなかったのです。しかし延王も延台輔も天運を味方
につけているはずですから、この不遇は一時的なものでしょう。今しがたこの
者が言ったように、お望みがかなえば、延台輔ご自身が目覚めようと努力なさ
る可能性も十分ありえます」
 上出来だ、と朱衡は思った。ここまで話を合わせてもらえれば文句はない。
彼は女官に向き直った。
「かと言って、台輔にそのような大きなお望みがあるかどうかはわからないが、
もし心当たりがあるなら、どんな細かいことでも大宗伯に相談しなさい。台輔
のことを一番よくわかっているのは、日頃からおそばにいるおまえたちなのだ
から」
「は、はい」
「そう――もしかしたら他の者はそのような思いつきを馬鹿にするかもしれな
い。だが主に対するおまえたちの誠心から出た話を卑下することはない。六官
に相談した上でなら、何でも思うとおりにしなさい」
 その後、朱衡らは別室に控えていた黄医の元にも景麒を案内した。主君に報
告すべき内容を把握した景麒は、この件については適宜鸞なり青鳥なりで連絡
を取りあうことを確認し、翌日慶に戻っていった。

4451:2011/09/22(木) 19:33:38
続きはまた明日。
(一ヶ月見ない間に、したらばのスレ表示スタイルがかなり変わりましたね)

>>436
今回、陽子は顔見せ程度、もっと後になってからまた登場するので
しばらくお待ちください♥

>>437-438
マジで一年ぐらいの長いスパンで覗いてもらえると手ごろですw
もともと進行が遅い上に、停滞というか膠着状態の章ですからねー。

突き刺さる……というのが何かちょっと心配ですが、オリキャラのときのように
もしかなり読む人を選ぶ部分があれば指摘してもらえるとありがたいです。
正直かなり鈍感なほうなので、自分では気づかないんですよ……。

446永遠の行方「王と麒麟(93)」:2011/09/23(金) 12:29:25

 麒麟が気にかけるのは王か国のこと。景麒が断言した話を聞いた他の六官は
戸惑った。今回の条件に合致する逸話に心当たりはないし、それは尚隆も同じ
だ。
 これが普通の人間なら、忠心をもって仕えつつも内心で主君を妬み、成り代
わりたいと望むこともあるだろう。そしてそのような二面性を持つ自分の浅ま
しさを恥じることがあるかもしれない。
 しかし六太は麒麟だ。妬みだの恨みだのといった負の感情に由来する望みを
抱くとは考えられないし、かと言って国の繁栄や主君の長寿を願っているので
あれば恥じることではない。仮に六太の基準で恥と思うことがあったとしても、
ここまで固く口をつぐんでいた理由にはならない。そもそも六太が雁を愛して
いるのは明らかだし、たまに言い争うことがあるとはいえ、主君とも五百年の
長きに渡ってうまくやってきた。むしろ尚隆とつるんで突っ走り、何かと官を
困らせてきたほどで……。
「だが留意はしておこう」尚隆は内議の席で重臣たちにそう言った。「少なく
とも同じ麒麟の言葉だからな。あるいは俺たちが何か見落としているのかもし
れん。あまりにも明白すぎて却って気づかないようなことを」
 その内議では光州からの報告も伝えられたものの得るところはなかった。し
かし、もとより六官のほとんどは、光州から解決策がもたらされることなど期
待していなかった。
 ついで宮城内で行なっている聴取の経過が報告された。「望みがかなえば六
太の目が覚める可能性はある」との噂を流した上で、各人に心当たりを尋ねた
ところ、根拠の有無に関わらず話がいろいろ出てきていた。何しろ六太は普段
から宮城のあちこちを気軽に歩いていたため、身分の高低に関わらず、言葉を
交わしたことのある者は多い。彼らから出てきた意見を集め、解呪に力を尽く
している冬官たちに伝えるとともに、情報の集積から見えてくるものがないか
どうか吟味する。
「しかし宮城でのことはどうしても政務がらみの話が主体になります。もっと
個人的な話題が出てくれば、いろいろ判断の助けになるのですが」

447永遠の行方「王と麒麟(94)」:2011/09/23(金) 12:32:39
 一同を見回した白沢に、朱衡が「そうですね」と応じ、少し考えてから続け
た。
「拙官も折に触れて身近な者に尋ねているところですが、実のところ興味深い
話はありました。もう少し詳しく聞いてからと思ったのですが、簡単に申しま
すと、国府にある海客の団欒所についてです。台輔がご身分を隠した上でちょ
くちょく足を運んでおられたことは冢宰もご存じですね」
「もちろん聞いています。そもそも団欒所は靖州侯たる台輔の命があって設け
られた場所ですから」
「秋官府の下吏のひとりが興味本位でたまに訪ねるようになったそうで、その
者から聞いたのですが、団欒所では海客と関弓の民が和やかに交流し、菓子を
持ち寄って飲食したり、蓬莱の楽器を弾いて一緒に歌ったりしているそうです。
蓬莱やこちらの歌をね。聞けば台輔も海客を真似て楽器を演奏することがある
とか」
「ほう」
 尚隆が意外そうな声を上げ、他の者も一様に驚いた。楽器の演奏などという
高雅な趣味は、やんちゃな雁の宰輔には似合わないものだったし、事実そんな
場面を見たことがある者はいなかった。
「それは知らなかった。時々団欒所に通っていることは聞いていたが……。俺
が手慰みに笛を吹くとき、いつもつまらなそうにしておったから、その手の物
に興味はないと思っていたぞ」
「もちろん台輔は楽人ではありませんから、あくまでお遊びの域を出ないで
しょう。一度、件の下吏に案内させて扉の外から窺ったことがある程度なので
詳しくは存じませんが、太鼓をぽこぽこ叩くとか、その程度のようですよ」
「だがそれはそれで楽しそうだ」尚隆はおもしろがり、しきりに「あの六太が
な」とひとりごとのように繰り返した。

448永遠の行方「王と麒麟(95)」:2011/09/23(金) 12:41:30
「要は民に混じってわいわい騒ぐのが楽しかったのでしょう。それに簡単な俗
謡を通じて、海客にわれわれの言葉を学ばせる試みも行なっておられたようで
す。
 ただし件の下吏は、当時は拙官の私邸の奄でしたが、その時点では台輔に気
づいておりませんでした。いつも下界に行くときのように御髪を隠した粗末な
なりでしたし、下吏のほうも年長の海客とばかり話していたからでしょう。そ
れで拙官が教えた上で固く口止めをしておきました。またその日は大勢でにぎ
わっていたため、官服でなかったこともあって、台輔も拙官に気づかなかった
ようです」
 尚隆はにやりとした。「六太が宮城で問題を起こしたときに備え、取引のネ
タのひとつとしてしまいこんだわけか」
「政務さえまじめにやっていただければ、その手の息抜きぐらい認めないわけ
ではありませんから」
 さらりと答えた朱衡に、尚隆は「怖いな。俺もどんな弱みを握られているや
ら」と楽しそうに返した。
「いずれにしろ海客の歌は、宮城での堅苦しい雅楽などとはまったく趣が違い
ました。そもそも非常に騒がしいのですよ」朱衡は当時を思い出して苦笑した。
「民が好む俗楽をさらに騒々しくした感じで、雅のかけらもありませんでした。
興味本位で見に行きながら早々に退散したのはそのためです。台輔に見つかる
ことを避けたというより、正直なところ頭が痛くなりましてね。下吏はもっと
静かな歌もあると、あとで言い訳していましたが」
「だが興味深い。これまで報告された情報と毛色も異なる。六太がいつも具体
的に何をしていたか、その下吏からさらに聞き出したらどうだ」
 朱衡はうなずき、「そのつもりです」と答えた。

-----
次の投下まで、またしばらく間が開きます。

449永遠の行方「王と麒麟(96)」:2011/11/12(土) 13:44:54

 小さなたたずまいの甘味屋で女主人が店番をしていると、そんな店には不似
合いな若い男が訪れた。地味ながら仕立ての良い長袍は、どう見ても農民では
ないが、商売人でもなさそうだ。
 ちょうど客足が途切れて暇を持て余していたところだったので、彼女はつい
しげしげと客を見つめた。
 威圧感はないが、長身なので大きく見える。二間ほどの間口、奥行きもさほ
どではないささやかな店では、それだけで満員になったように思えてしまう。
何となく覚えがある顔のような気もするが、さだかではない。
「いらっしゃい」
 声をかけると、男は狭い店内をぐるりと見回してから「ちと尋ねるが」と
言った。
 なんだ、道でも聞きたいのかとがっかりしながらも、「はいはい、何でしょ
う」と愛想よく応えると。
「女将(おかみ)は六太という少年を知っているか? たまにここで買ってい
たらしいのだが」
 彼女は怪訝な顔をしたもののうなずいた。
「知ってますよ、あのいたずら坊主でしょ。最近は見ないけど」
「俺は風漢という。実は六太の知り合いでな、少し前に六太の養い親が地方に
いくことになって、それに六太もついていったのだ」
 唐突な話題に女主人は面食らった。
「しかし急なことだったので、世話になった人たちに挨拶もできなかったらし
い。それで代わりにこの界隈で挨拶をしてきてほしいと頼まれて、こうして
回っている」
「それは……どうも。ご丁寧に」
 そう答えたものの、そこは商売人の勘、男の言うことに不審を覚えて警戒し
た。それを察したのだろう、相手は苦笑した。
「六太は言わなかったかも知れんが、打ち明けて話すと養い親はそこそこ高い
官位なのだ。俺は以前から世話になっていたもので、子息の頼まれごとをこな
して点数稼ぎをする意味もある」

450永遠の行方「王と麒麟(97)」:2011/11/12(土) 19:58:23
 女主人は曖昧にうなずいた。だがふと考え込んだ彼女は急に目を見開いた。
「旦那、もしかして一度、六太とここに来たことがありませんか?」
「さあ、どうだろう」男は眉根を寄せた。「覚えていないが、あったかも知れ
ん。何度かこの辺で甘味屋めぐりにつきあってやったことはあるからな」
「あたしは旦那に見覚えがありますよ」彼女はようやく警戒を解いて笑いかけ
た。「六太の親御さんには見えなかったし、ちょいと歳の離れた兄弟にしても
雰囲気が違いすぎるし、不思議に思ったのを今思い出しました。なんだ、親御
さんの知り合いだったんですねえ」
「六太と並んでいると似合わぬか」
 苦笑する男に、女主人も人懐こく笑った。
「こう言っちゃ何ですけど、旦那はあまり堅気には見えませんからね。ああ、
ごめんなさいね、だからって無法者に見えるってわけじゃないですから。子供
を連れ歩くような家庭的なお人には見えないだけで」
「ふむ。鋭いな」
「商売人ですから、これで人を見る目は確かですよ」
 胸を張って答える。いずれにしろ男は話が通じて安心したようだった。
「そうですか、六太がねえ。うちはここへ店を構えて三年ですけど、一年ほど
前からよく買いに来てくれました。引っ越すと知っていたら、お餞別をあげた
のに」
「急な話だったらしいからな。俺も後になって聞いた。そのうち、また戻って
くるだろう」
「ま、お役人はお役目でそういうこともままあるそうですね。よろしくお伝え
ください」
 すると男はまた店内を見回し、所狭しと置いてある菓子を眺めた。
「六太がここの品を懐かしがっているので、来たついでにいくつか買って送っ
てやりたいのだが。あれが好きそうな菓子はどれだろう」
「あの子は、牛や山羊のお乳なんかは体に合わないと言っていたけど、そうい
うのが入っていないお菓子は何でもおいしいって言ってくれましたよ。一種類
をたくさん食べるより、ちょっとずついろいろなお菓子を食べるのが好きだっ
たみたい」
「そうか。それなら日持ちのするものを適当に見繕ってくれんか」

451永遠の行方「王と麒麟(98)」:2011/11/15(火) 22:48:15
「はいはい。ちょっと待っててくださいね」
 彼女が手早く菓子を選んで小さな包みを作ると、男は小卓の片隅に載ってい
た素朴なからくり人形に目を留めた。取っ手を回すと人形が走るように脚を動
かす仕掛けになっている。彼がめずらしそうに手に取ったのに気づき、女主人
は「うちの息子が作ったものです」と教えた。
「ほう。あんたの息子は職人か」
「本職は大工だから、お遊びみたいなものですけどね。お菓子を買いにきた子
供たちが喜ぶものだから置いてあるんですよ」
「ふむ。確かに六太もこんな細工が好きだった」
「そういえばあの子も、新しい細工に取り替えるたびに動かして遊んでいっ
たっけ。やっぱり男の子ですねえ。仕組みが気になるらしくて、ひっくり返し
たり、取っ手を回しながら歯車の動きを見たりしてました。あたしも息子が
作ったものが喜ばれると嬉しいものだから、古くなったのをあげたこともあり
ますよ」
 嬉しそうに笑って言うと、男も笑い返した。
「そうか。そんなふうに覚えてもらえていたと知ったら六太は喜ぶだろう。何
しろ急に関弓を離れたから、便りを読むとかなり淋しがっているようだ。菓子
と一緒に、こうして知り合いを訪ねた話をいろいろ書き送ってやりたいと思っ
ている」
「ぜひよろしく言ってくださいな」
「ついでと言っては何だが、他に六太が好きそうなものを知らんか? どうせ
この菓子を送るのだから、まとめていろいろ送ってやりたい」
「お菓子で?」
「何でも良いのだ。実を言うと俺も六太がいなくなって淋しくてな。あれはな
かなか賑やかな子供だったから、養い親に世話になったことはさておいても、
できるだけのことはしてやりたい」
 そう言った男は確かに少しさびしそうだった。子供がひとり引っ越しただけ
で、大の大人が、と女主人は少しあきれた。
「いたずら好きでしたけどねえ」そう言って肩をすくめる。「でもまあ、心配
はいりませんよ。何だかんだ言って子供はすぐ周囲になじむものです」

452永遠の行方「王と麒麟(99)」:2011/11/15(火) 22:52:24
「そうかもしれん。何にしても六太が好きなものをたくさん送ってやって、少
しでも向こうに馴染む手助けができればと思っている。菓子やからくり人形の
他に六太の好きな物を聞いたことがあったら、ぜひ教えてくれ」
「さて、いきなり言われてもねえ」
 女主人が困惑して考えこむと、男は「何でもいい」と言った。
「六太が好きだった物、楽しみにしていたこと、喜んでいたことに心当たりは
ないか? 物でなくてもかまわん。たとえば俺はこの界隈で挨拶をしてきてく
れと頼まれただけだが、もし別の場所にも親しくしていた人物がいるなら、
そっちも回っても良いのだ。そうすれば六太への手紙に書けるからな。そう
いった相手を知っていたら、教えてもらえるとありがたい」
 ずいぶん必死だとさすがに奇妙に思いながらも、他に客はいないとあって、
女主人はゆっくり考えた。
「あの子は海客とも親しくしていたみたいだから、蓬莱ふうの、めずらしいも
のがいいんじゃないかしら」
「海客?」
「聞いた話じゃ、国府に海客の団欒所があるそうで、そこで楽しく遊ぶことも
あったようですよ」
「ああ、それは知っている」
「何だったかしら、他にもいろいろ聞いたと思ったんだけど。そうそう、一度、
絵描きを知らないかと聞かれたことがありました。紙芝居ってのをやりたかっ
たんですって」
「紙芝居?」
「講談のようなものだそうですよ。ただ、紙に描いた情景を客に見せながら説
明するんです。そうして情景を差し替えながら物語を進めていく。芝居なら役
者や小道具が必要だけど、紙芝居なら絵を描いた紙と講釈師がいればできるで
しょう。でもあいにく、あたしの知り合いに絵描きはいなくて」
「ほう……」
 こうまで六太のために気を配る男に不審を覚えながらも、これまで話したこ
とは別段、誰かの不利益になったり危険を招くような内容ではないはずだ。そ
う考えて女主人は尋ねられるままに、思い出せる内容をひととおり話した。さ
らには自分の息子が六太に頼まれて木を削り、蓬莱ふうの楽器作りを手伝った
話もしてやった。

453永遠の行方「王と麒麟(100)」:2011/11/15(火) 22:56:24
 そういったあれこれを話すと、男は時折「ほう。それは知らなかったな」と
相槌を打ちながら、微笑とともに聞いていた。
 やがて菓子の包みをかかえた男が帰っていくと、女主人は彼が何度か口にし
たその言葉に首をひねった。親兄弟ではないなら、知らないことがあってもむ
しろ当然ではないか……。

 鏡磨きの道具を抱えて歩いていた男は、ふと雑踏の中で覚えのある顔を見つ
けた。場末のいかがわしい賭場で、二、三度言葉を交わしたことのある相手だ。
「よう。風漢じゃねえか」
 にやにやしながら近づくと、相手は見慣れた鷹揚な笑みを見せた。
 風漢はほどほどに賭博を楽しむことを知っていながら、金のあるときは惜し
げもなく使い切って素寒貧になる、しかもそれで一向に困った様子がないとい
う不思議な男だった。おおかた、どこかの大店(おおだな)の身内なのだろう
が、なかなか憎めない男でもあった。おまけに長身ではあるがごつい印象はな
く、すっきりと見栄えの良い姿とあって、身なりさえ整えればなかなかの色男
と言えるだろう。
「どうだい、これから」
 指で賽(さい)を投げる真似をする。だが相手は苦笑して首を振った。
「すまんが、手持ちがなくてな」
「そりゃ残念だ。俺のほうはつけの代金を徴収してきたところだから、けっこ
う懐はあったかいぞ」
「まあ、次の機会にな」去りかけた風漢は、ふと思いついたように振り返った。
「おまえ、六太を知っているか? ときどき俺と一緒に歩いていた十三歳の少
年なのだが」
「ふん? あんたが餓鬼を連れてたって?」
 莫迦にしたように鼻で笑う。そもそもこの男とは賭場でしか会ったことはな
い。子供連れのはずはなかった。
「そうか、知らんか……」
「その餓鬼がなんだって?」

454永遠の行方「王と麒麟(101)」:2011/11/15(火) 23:00:00
 話の見えないのが嫌だったので尋ねると、風漢は彼が世話になった役人の子
息だと説明した。その一家が仕事の関係で急に地方に引っ越したため、よくこ
の街で遊んでいた子息に頼まれて代わりに挨拶回りをしているのだという。
「よくもまあ、そんなつまらんことを」
 つい呆れた声を漏らすと、風漢は「そう言ってくれるな」と笑った。
「それなりの官位の役人だから、子息でも恩を売っておけばいずれ役立つこと
もあろう。それに地方へ行ったのは一時的なことだから、しばらくしたらまた
戻ってくるはずだ」
「へえ。あんたでもそんな世知辛いことを考えるんだな」
 彼は何となく幻滅して答えた。どこか飄々としているこの男も、やはり浮世
の枷からは逃れられないのだ……。
 だがそれは彼自身も同じだ。懐が温かいとは言っても、しがない鏡磨きの仕
事で稼げる金はたかが知れている。十年も前に女房と別れて以来、楽しみと
言っては女と博打しかない。もっともそれで身上を潰すほどの甲斐性もないが、
それが幸いなのかどうか。
「……まあ、確かに役人に恩を売れるものなら売っておいたほうがいいわな」
 おざなりにつぶやく。軽くうなずき合って互いに立ち去ろうとしたところで、
ふと足を止めた風漢がまた男を見やった。その目に一瞬の逡巡を認めて、男は
意外に思った。
「……俺に女房子供はおらぬが、六太のことは幼い頃からよく知っているゆえ、
俺にとっても息子のようなものなのだ。それが急な転居で淋しがっているよう
なので、親が役人というのはさておいても、少しでも慰めになるようなことを
してやりたい」
「ふん?」
 取ってつけたような打ち明け話に、男はつまらなそうに鼻を鳴らし、顔をし
かめた。
 彼にも息子がいる。別れた女房が引き取って以来、どこで何をしているのか
もわからないが。妻子に大したことをしてやれなかったという負い目が、逆に
冷たい態度を装わせた。

455永遠の行方「王と麒麟(102)」:2011/11/15(火) 23:03:36
「どうかしたか?」
 風漢に尋ねられ、男は興味がなさそうに首を振った。それから少しそっけな
かったかもしれないと思い直して、言い訳のように答えた。
「子供のことだ、機嫌を取りたいなら、適当に玩具でも買ってやればいいだろ
が」
「たとえば?」
「これが小娘なら飾りもので間違いなく機嫌を取れる。十三歳でいいとこの坊
ちゃんなら、扱いやすい短刀ってとこだな。柄や鞘に見栄えのする細工がして
あって、帯にでも挟めるようなやつだ。背伸びをしたい年頃だ、喜ぶだろうさ」
「それが、六太は剣だの弓矢だのといった猛々しいものは嫌いなのだ。菓子や
らからくり人形やらを好んでいるのは知っているが、他にも何かないかと探し
ている」
「へえ。ずいぶんやわな小僧だな」
「何にしろ、そういうわけで六太の好みを知っている者がいれば助かるのだが」
「悪いが、心当たりはないな」
 肩をすくめてみせる。それから二言三言交わしたあと、彼らは別々の方向に
歩き去った。
 しばらく歩いたあとで鏡磨きの男はふと背後を振り返った。雑踏の向こうに、
既に風漢の姿はない。
 家庭とは縁がなさそうなあの男でも、子供を気にかけるものなのか。だが、
あの物言いからしてただの言い訳のように思えた。どうせ高官である親のほう
に取り入りたいだけだ。派手に遊びすぎてとうとう金が尽きたか、何かやばい
ことをして後ろ盾がほしくなったか……。
「息子、ねえ……」
 口の中でつぶやく。そしてつい、幼い頃に手放したきりの自分の息子を思い
出してまた顔をしかめたのだった。

456永遠の行方「王と麒麟(103)」:2011/11/15(火) 23:07:43

「変わりはないようだな」
 その日、いつものように仁重殿を訪れた尚隆は、相変わらず意識のない六太
を見おろして言った。付き添っていた黄医は、いつも尚隆が六太に飲ませる果
汁を女官に用意させながら「残念ながら」と答えた。
 やがて枕元に座って六太を片腕でかかえ、時間をかけて果汁を飲ませた尚隆
は、ふと何かに気づいたように半身の腕をなぞった。
「ずいぶんやせたようだが」
「はい」
 もともと六太は細身だし、子供らしいふっくらとした頬は失われていないの
で気づきにくかったが、以前と比べて明らかに腕が細くなっていた。眉をひそ
めた尚隆は、ついで衾をはぎ、薄い被衫の上から太もものあたりに掌をすべら
せた。脚の変化は腕よりも顕著だった。
「脚もかなりやせたな」
「はい。既に何ヶ月も寝たきりでいらっしゃいますから仕方がありません」
「と言うと?」
「ご自分で腕や脚を動かしになれませんので、筋肉が落ちてきています」
 黄医は説明した。神仙であっても暴飲暴食をすれば太るし、逆に鍛錬すれば
体が引き締まるものだ。それは只人となんら変わらない。当然、手足を使わな
ければ萎え、筋肉が落ちて細くなっていく。それが続けば、やがて歩くことす
らままならなくなる。
「朝昼晩と、手足をさすったり関節を動かしたりしてはおりますが、こればか
りは台輔ご自身が身動きなさらないとどうにもなりません」
「かくしゃくとしていた老人が、風邪で寝込んだとたん脚が萎えて起きるのが
難しくなったという話を聞いたことがあるが……」
 黄医はうなずいた。「老人ですと、たった一週間寝込んだだけでも相当に足
腰が弱るものです。ただ台輔はお若い体ですし、そもそも神獣麒麟でいらっ
しゃるのですから、お目覚めにさえなれば回復なさるでしょう。それでもこの
ご様子では、元のお体に戻るまでしばらく訓練が必要かと」
「意識が戻っても、当分は歩けないということか」
「起き上がるのも難しいと思われます」
 重々しい答えに尚隆は無言のまま視線を落とし、腕の中の六太の寝顔をじっ
と見つめた。

4571:2011/11/15(火) 23:09:51
今回はここまでです。
今のところ、年内にあと一回投下できるかどうか?という感じ。

458名無しさん:2011/11/21(月) 00:38:15
ふぉぉ油断してしばらく来ていなかったら投下キテタワ――(゚∀゚)――!!
必死な尚隆良いですなー(*´Д`)ハァハァ

459名無しさん:2011/12/14(水) 20:06:48
年末というせいもあってか閑散として淋しいので
続きをちまちま落としていきますね。

460永遠の行方「王と麒麟(104)」:2011/12/14(水) 20:09:41

 今回、鳴賢が海客の団欒所を覗いてみようと思い立ったのは、単なる好奇心
からというわけでもなかった。普段の生活から抜け出してみたかったのだ。
もっと正確に言えば逃げ出したかった。
 大学で友人たちと歓談すると一時的に気は晴れるが、それでも胸のどこかに
重苦しい塊はあった。親しい相手が目の前にいながら、彼らに打ち明けられな
い事情を抱えていると、友人と会うこと自体が逆に重荷になる。かと言って、
完全に見知らぬ人々の中に身を置くのはいっそう孤独が深まる気がする。
 そこで彼は、知り合いというほど親しくないものの、見た顔のある団欒所を
思い出したのだった。
 新年もちょっと覗いてみて、目ざとく彼を見つけた守真に酒をふるまわれた
から、訪れるのはこれで三回目だ。新年の祝いのときは関弓の民もいて、およ
そ三十人ほどで楽しく語らっていたようだが、今日の開放日にいたのは十数人
だった。
 交わされている言葉から推して関弓の民がほとんど。海客は守真と恂生だけ
のようだった。最初に訪れたとき見たみすぼらしい部分はとうになく、小綺麗
に整頓された堂室の奥には、こちらの世界や蓬莱のものらしい楽器が置かれて
いて、恂生が婚約者の――それとももう結婚したのだったか――娘と一緒に、
親に連れられてきたのだろう子供らと遊んでやっていた。他の関弓の民は思い
思いの場所で椅子に座るなどして歓談しており、うちひとりの女性が守真のい
る卓で一緒にお茶を飲んでいた。
 居心地が悪かったら、すぐ帰ろう。そう考えて堂内を見回した鳴賢を、今回
も守真が真っ先に見つけた。常に来訪者に気を配っているのかもしれない。そ
う思って振り返ってみれば、彼女はいつも堂室の扉に向かって座っていたし、
二度目に訪れたときもちゃんと名前を呼んで声をかけてくれていた。
「こんにちは、鳴賢」
 にこやかな挨拶に、鳴賢も「こんにちは」と返した。置かれている榻のひと
つに手招かれたので、傍らの女性に会釈しながら隣に座ると、すぐに茶と菓子
の小皿が出てきた。載っている菓子のひとつは今まで見たことがないほど精緻
なものだったから、彼は驚いて見つめた。

461永遠の行方「王と麒麟(105)」:2011/12/15(木) 22:08:41
「これは蓬莱の菓子?」
「いいえ」守真はおかしそうに笑った。「ただの焼き菓子だもの。抜き型は工
夫したけど、あとは色とりどりの飴を垂らしたり、砂糖づけの乾果を細かく
切って載せて蓬莱ふうに飾りつけただけ。お菓子に限らないけど、蓬莱では見
た目を美しく細やかに盛りつけることも大切なの」
「へえー」
 鳴賢は素直に感心し、件の菓子を手にとってためつすがめつした。これなら
高級な菜館の甘味としても出せるのではないだろうか。
 傍らの関弓の女性も、守真の手料理はとても綺麗で美味しいと褒めた。守真
は、本当は手抜きが得意なんだけどと笑ったあとで、簡単にできるものばかり
だと腕がなまるので、ときどき難しそうな飾りつけに挑戦するのだと言った。
「何しろこういう飾りつけに必要な材料もすぐ安価に手に入るんだもの、雁は
すばらしいわ。国によっては、たとえば砂糖は高級品でなかなか庶民は買えな
いって聞くでしょ」
「そうなんですか?」
「ええ、蜂蜜のほうが安いし一般的らしいわよ。甘いものって気持ちが和らぐ
から、わたしたちみたいな者でも気軽に砂糖を買えるのは本当にありがたい
わ」
「荒れた国じゃ、そもそも甘味自体が少ないらしいからね。でも雁には主上が
いらっしゃるから」
 関弓の女性が誇らしげな表情で相槌を打った。自国のことを褒められて悪い
気はしないから、鳴賢も嬉しく思いながら、飴で飾った菓子を口に入れた。抑
えた甘さとほろ苦さが同居した不思議な味だった。
「お味はどう?」
「うまいです。甘さもくどくなくて上品な感じです」
「それは良かったわ。ここじゃ、男の人でもとことん甘いのが好きな人が多い
みたいだけど、そういうのばかりだと飽きやすいと思って砂糖を控えめにして
みたの」
「これならいくらでも食べられそうです」
「じゃあ、帰るときにまたお土産にしてあげるわね。大学でお友達とどうぞ」
「あれ、あんた、大学生なの?」

462永遠の行方「王と麒麟(106)」:2011/12/17(土) 12:47:53
 目を丸くした女性に、鳴賢は「落ちこぼれかけてますけどね」と笑った。楽
器の一画では、子供たちを前に恂生が鼓を叩いてやっていて、子供たち自身は
手のひらほどの小さくて単純な楽器で、鼓と拍子を合わせながら笑い声を上げ
ている。詩吟と同じく音楽も教養のひとつだから、鳴賢も笛のひとつも嗜まな
いではないが、蓬莱の楽器はさすがにめずらしく、こうして見ただけでは弾き
かたがわからないものもあって興味深かった。
「開放日でも、あまり海客は来ないんですね」
 何気なく言うと、守真は「そうね」とうなずいた。
「雁に住んでいる海客だけでも数十人はいると聞くし、関弓に近いところにい
る人だけでも十人はいるだろうけど、だんだん来なくなる傾向があるわ」
「どうして?」
「海客同士はいわば同郷だから懐かしくはあるけれど、それって嫌でも蓬莱を
思いだすってことでしょ。でもわたしたちはもう故郷に戻れない。だから気持
ちにけりをつけるためにあえて離れるんだと思う」
「ふうん……」
「ただ、それでうまくやっていければいいけど、精神的に追い詰められて堕ち
るところまで堕ちる人もいるの。困ったときは頼ってほしいんだけど、なかな
かそういうわけにもいかなくて」
 以前鳴賢は楽俊から、団欒所の開く日が定められたのは、仲間内で閉じこ
もって問題を起こす輩がいたからだと聞かされた。だが問題はもっと複雑なの
かもしれない。
「いろいろ難しいのよね。誰でも傷つくのは怖いから」守真は考え深げに言っ
た。「特にこっちに流されてきたばかりの海客は打ちひしがれていて、十の慰
めがあっても、ささいな行き違いひとつで傷ついたりする。それが続くとどん
どん過敏になって、百の慰めがあっても一の困難で傷つくようになる。だから
と言って内にこもっていても何にもならないんだけど、そこまで悟るには長い
時間がかかるわ。こればかりは他人に言われてどうなるものでもないから」
「でもいつかは、なんていうか――諦めないといけませんよね?」
「そうね。でも難しいわ。たまに平然として見える人もいるんだけど、内心で
は他の人以上に傷ついていたりするの。本人が自覚していなくても。だからと
言って、やっぱり心のうちを吐き出してもらわないとわたしたちもどうしよう
もないんだけど」

463永遠の行方「王と麒麟(107)」:2011/12/18(日) 09:50:07
 悲嘆と衝撃を表に出さない人は鬱憤をどんどん溜めていって、思いもかけな
いときに爆発するのだという。それが他人を傷つける形だったりすると、海客
全員がそう見られるようになってしまうと守真は悲しそうに語った。
 彼女は、手を伸ばせばはたかれることもあるだろうが、その手をつかんで助
けてくれる人もいる、閉じこもっていてはそういう出会いの可能性も自分で拒
否することになるとも言った。だがそれは、悲嘆を経て現実を見つめる心境に
たどり着いたからこそ言える言葉なのだろう。
 ふと鳴賢は悟った。自分がここに来ようと思ったのは、彼自身に劣らず悩み
傷ついている人が確実にいるとわかっていたからだと。一見穏やかに暮らして
いるように見える守真と恂生だって、大いに荒れたことがあるはずなのだ。そ
ういえば初めて会ったとき、恂生がそんなことを言っていた……。
「そういうわけで、ここにくる顔ぶれはだいたい決まっているの。もっと人が
少なければ悠子ちゃんも来るけど、今日は顔を見せたと思ったらすぐ里家に
帰ってしまったわ。それでも随分進歩したのよ」
「ユウコちゃん?」
「胎果の女の子よ。緑の髪の」
「――ああ」
 楽俊を嫌悪していると鳴賢が直感した娘だ。彼自身もあまり顔を合わせたい
相手ではなかったから、いないほうが気が楽だった。
「あとは国府に勤めている華期(かき)って男性も常連だけど、最近は仕事が
忙しいみたいで全然顔を見ないわね。彼がいると恂生とふたりで演奏してくれ
るから、子供たちが喜ぶんだけど」
「へえ」
「六太もいれば、三人で小さな子供たちを楽しませてくれるわ。男性も意外と
子供好きだったり世話好きだったりするのよね」
 不意打ちのように口にされた名前に、鳴賢は鋭い痛みを覚えた。誤魔化すよ
うに顔を伏せて茶を口にする。
「……守真さんは、楽器は?」
 何とか取り繕って尋ねる。相手は困ったように笑った。
「ピアノを少しだけ。昔はもう少しマシだったんだけど、指がなまっちゃって、
今じゃ簡単な童謡くらいしか弾けないわねえ」

464永遠の行方「王と麒麟(108)」:2011/12/19(月) 18:48:59
「ぴあの?」
「ほら、あそこの一画で手前にある黒い大きな楽器のこと」
 指し示されたほうを鳴賢は頭をめぐらせて見た。それは奇妙な形をした卓の
ような黒い楽器で、いったいどのように弾くものなのか見当がつかなかった。
「でもここにあんな大きな楽器があるのって不思議よね。随分古いものだと思
うんだけど――さすがに百年ってことはないでしょうけど、少なくとも何十年
かは経ている感じなのよ。あのまま蓬莱から流されてきたとも思えないし、仮
に流されてきたのだとしたら状態が良すぎるし、いったい誰が持ちこんだのか
しら。カスタネットは華期の手作りで、ドラムセットもこちらの楽器を改造し
たりして恂生が何とか形にしたんだけど、あのグランドピアノはわたしがここ
に来たときはもうあったの。ただ調律は、昔いた海客から引き継いだ恂生も四
苦八苦していて、もういい音は出ないわね。それでもお遊びには十分だわ」
「そうですか」
 適当に相槌を打ちながら、鳴賢は六太のことを考えた。六太の身分について
は知らないらしいのでさておき、昏睡状態であることを知ったら彼女も心を痛
めるだろう。
 倩霞の家に行く途中で話した内容を思い出す。海客と関弓の民の交流につい
て、六太は随分楽しそうに語っていた。何か――そう、紙芝居とか言っていた。
おそらくここにある楽器についても、それを使った楽しい催しを考えていただ
ろうに。
 ――自分にも何かできないだろうか。
 ふと彼は思った。絵を描けないから紙芝居も作れないし蓬莱の楽器も弾けな
いが、そんな自分でも少しは役に立つことがあるのではないだろうか。

 同じ日、鳴賢が寮の自室に戻ってしばらくすると、ふらりと風漢がやってき
た。
 風漢は「元気でやっているようだな」と声をかけた。物思いが晴れたわけで
はないが、蓬莱のことをいろいろ守真や恂生に尋ねているうちに気がまぎれた
ため、それなりに明るい顔をしていたのだろう。
「今日は、何か?」

465永遠の行方「王と麒麟(109)」:2011/12/20(火) 21:49:34
「またおまえと話をしようと思ってな。六太について、俺の知らないことがま
だまだ出てきそうだ」
「じゃあ、まだ……」
「こればかりは大当たりを引き当てるまで、正解に近づいているかどうかすら
判断できんから仕方がない」
 鳴賢はがっかりした。だが相手の言うとおりではあったから、気を取り直し
て「そうだな」と応じた。
 風漢はまた軽食の包みを持参していて、鳴賢に勧めてくれた。鳴賢のほうは
守真からもらった菓子があったのでそれを出すと、風漢もめずらしがった。
「今日、海客の団欒所に行ってきてさ。国府にあるんだけど知ってるか?」
「ああ。六太がかなり気にかけていたようだからな」
「そこにいた海客がくれたんだ。細やかに飾ったり盛りつけるのが蓬莱ふうら
しいぜ」
「なるほど」
 菓子を手に取ってしげしげと眺めた風漢は、楽俊にも会い、六太の望みにつ
いて心当たりを尋ねたと言った。
「楽俊――文張にも事情を話したってことか?」鳴賢は驚いた。
「いや。理由は明かせぬが、故あって知りたいとだけ言っておいた」
「……それで納得したのか?」
「余計なことは何も聞いてこなかったな」
「へえ……。さすがと言うべきなんだろうな」
 感嘆をこめて応える。風漢の尋ねかた次第にしても、普通は事情を尋ねるだ
ろうに。
「口止めはしたのか?」
「ああ。だがやはり六太に何かがあったことは察したようで心配そうだった。
近いうちにちゃんと時間を取って経緯を説明してやるつもりではいるが、それ
で逆に勉強に影響が出るようではまずい。難しいところだ。むろん本来ならお
まえも巻きこむべきではないが、すまないと思っている」
「あ、いや」鳴賢はあわてた。「あんたのせいじゃない。むしろ俺は、こう
やって話を聞いてもらってありがたいくらいだ。他には誰とも話せないし」

466永遠の行方「王と麒麟(110)」:2011/12/21(水) 20:27:22
「ふむ。ならば楽俊にも早いうちに事情を明かすとするか。そうすればおまえ
も話し相手ができる。なに、話が広がることは心配するな。もともと楽俊は六
太の身分を知っているし、何年も親しくつきあっている。個人的にいろいろ頼
まれごとをこなしたりもしていたようだ」
 巧国出身の楽俊がどこで知り合ったかはわからないが、大学に入学したとき
には既に六太の正体を知っていたのだろう。思わず「やっぱり」とつぶやくと、
風漢は「ん?」と言うかのように眉を上げたが、それ以上何も言わなかった。
 いずれにしろいくら伏せたいと思っても、六太を助けようとするかぎり、少
しずつ事情を知る人間が増えていくのは避けられなかった。あらためて考える
までもなく当たり前のことだったが、いくら心配するなと言われても、秘密が
どんどん漏れていくようで鳴賢は落ち着かなかった。彼としてはそれが悪い方
向に転ばないことを祈るしかない。
「そうすると、俺なんかより文張のほうがよっぽど詳しそうだな。それで、心
当たりはあったって?」
「残念ながら目新しい話はなかった。意外とおまえが聞いたような深刻な話は
しておらぬようだ。関弓で六太がよく行っていた店も教えてもらったので、そ
のうちの何軒かに顔を出してきたが、こちらも収穫というほどのものはない。
いきなり突っ込んだ話などできぬゆえ、六太の好物を尋ねる程度しかできな
かったせいもあろうが」
 どうやらここしばらく、まめに街を歩いて聞き込みをしていたらしい。風漢
は、六太が養い親の官吏と一緒に地方に引っ越したという設定を披露した。急
なことだったので、彼が六太の代理として挨拶に回っているのだと。あまりう
まい言い訳とは思わなかったが、大人数ではなく風漢ひとりがひっそりと回っ
ているかぎりは目立たないし、問題ないだろう。
 聞き込みの相手は大人が大半だが、往来で茶卵売りの少年につかまって茶卵
を売りつけられた折に、近辺の子供たちが六太のことを知っているか尋ねたり
もしたらしい。残念ながらすべて空振りに終わったようだが、特に落胆した様
子はなかった。

467永遠の行方「王と麒麟(111)」:2011/12/22(木) 19:52:48
「正直、期待していなかったとは言わぬ。だが難しいだろうと思ってはいたか
らな、そういう感触をはっきりつかんだだけでも収穫と言える。そもそも仮に
六太が自分の望みについて話した相手がいたとしても、さほど親しくないなら
当人はとうに忘れ去っているだろう。やはり今まで知られていなかった知り合
いとやらを探すよりは、おまえや楽俊のような、既に俺も知っている相手と何
度も話して情報を掘り起こすほうが見込みがある。他の者に手を広げるとして
もそのあとでいい」
「俺にわかることならいくらでも聞いてくれ。自分では何も思いつかないが、
いろいろ尋ねてくれれば思い出すことがあるかもしれない」
 鳴賢は言った。もっとも何が手がかりになるかもわからないし、風漢のほう
からいちいち尋ねるのも効率が悪かったので、結局、何年も前の楽俊の房間で
の六太との出会いからこれまでのことを、思い出せるかぎり話すことになった。
以前、菜館で話した内容とも多く重複したが、風漢は辛抱強く耳を傾け、むし
ろ途中で質問を挟んであやふやな点を細かく尋ねたりした。
 六太つながりで海客の団欒所についても話が及び、ふと鳴賢は「あそこで俺
でも役立てることってあると思うか?」と聞いてみた。六太は海客のことを気
にかけていた。六太自身も蓬莱の生まれであることが関係しているのかもしれ
ないが、自分が尽力することで多少なりとも六太のためになるだろうか。
「おまえが本当にそうしたいなら、まずは彼らのことをもっと知ることだろう
な。知ればおのずとやりたいこと、やれることが見えてくるものだ」
「そうか。そうかもな」
 こんなことに巻き込まれる前だったら、鳴賢も積極的に海客と関わりたいと
は考えなかっただろう。だが風漢が、いろいろな人々と知り合って縁ができる
のはいいものだぞ、と笑顔で続けたので、力づけられた気分だった。先日の飲
み食いの際の語らいと言い、どうやら相手は鳴賢がこれまで考えていたより懐
の深い人物だったらしい。
 何だかんだ言いながら、やっぱり国官ともなると違うんだな、と心の中でひ
とりごちる。あの大司寇も立派な人物だった。だが。
 それほどの人々に囲まれていながら六太は、王が孤独だと言ったのだ。断言
したわけではないが、そうほのめかした。

468永遠の行方「王と麒麟(112)」:2011/12/23(金) 11:22:23
 いや、あれは宮城での話ではなく、市井の民人がいだいている偶像の話だっ
たか――と、既に細部が曖昧になっている記憶をたぐる。そして孤独にさいな
まれるのは王だけではないだろうと考えた。
 なぜなら麒麟も同じなのだから。人々は勝手に幻想を抱いてその幻想に心酔
する。麒麟本人が何を思おうとどうでもいい。普段は明るい六太が、内心では
いろいろ思い悩んでいるようだった。しかし誰も個人としての六太の心境なん
か考えもしないのだろう。だから――そう、きっとあれは六太自身のことでも
あったのだ。
 それを訴えると、風漢は考え深げに鳴賢を見つめた。彼の口から漏れる言葉
は含蓄に富んでおり、今や鳴賢は無意識に相手の助言を期待していた。
「おまえの慰めになるかどうかはわからぬか」
「うん」
「民人が王や麒麟の人となりを知らないとおまえは言うが、それも利点がある」
「利点?」
「仮に王が私生活にだらしなく、六太が言うように賭博好き女好きだったとし
ても、民が知るのはその施政が良いか悪いかだけだ。つまりは余計な知識に惑
わされずに王を評価できるということだ」
「それはそうだけど……」
「だからこそ王が失道したら厳しく糾弾できるのだし、未練もなく次の王を求
められるだろう。もし個人としての王を知っていれば、それまでの功績から見
捨てることを躊躇するかもしれないし、苦しむかもしれない。だが既に国は傾
いているのだ、生活も困窮しているだろう。そんな時代に、王に同情してさら
に民が苦しむことはない」
 あっさり言ってのけた彼を、鳴賢は触れれば切れる刃のようだと思った。あ
まりの鋭さゆえに斬られたときは気づかないが、なまくらかと思って油断して
いると痛い目に遭う。
 これほど冷静に割り切っている臣下をかかえている延王は、果たして幸せな
のだろうか。いや、六太はそのことを知っていたからこそ、主君の心情を慮っ
ていたのではないか……。
「六太にしても麒麟ゆえに目先の慈悲に惑わされ、大局を見定めることができ
ない。六太個人を知り、あれが施す慈悲の詳細を知ったら、反感を持つ民は大
勢出てくる」

469永遠の行方「王と麒麟(113)」:2011/12/24(土) 11:58:20
「そうなのか?」
 驚いて問い返すと、風漢は苦笑した。
「おまえも、官吏が浮民の親子を追い立てたことを六太が責める言葉を口にし
たとき、内心で不満を覚えたと言っていたろうが。浮民だけではない、たとえ
大勢の人間を殺した極悪人でも、目の前で嘆願されれば六太は赦さずにはいら
れない。被害者の親族がどれほど憤り嘆き悲しもうとな。それが麒麟という生
きものの性情なのだ。だから麒麟を神秘の神人として幻想のままに置いておく
のは悪いことでははない。民に伝わるのはあくまで宰輔が慈悲深いという漠然
とした事実だけだから、よほどのことがなければ悪意の持ちようがない」
 鳴賢は何も言えずに聞いていた。今回の謀反の首謀者である暁紅のことも六
太は赦していた。少なくとも責める様子はなく、憐れんでさえいた。それを光
州で病に斃れた人々の縁者が知ったら、憤りを覚える者も出るだろう。
 風漢は続けた、どんなものにも表と裏の両面があり、良いことだけ、悪いこ
とだけ、という事柄は滅多にないと。
「一筋縄ではいかないな」鳴賢は溜息まじりにつぶやいた。「言われてみれば、
確かに個人としての王や麒麟を知らないってことは利点もある。雲の上の存在
だと思っていればこそ、よほど切迫しなければ、謀反だの何だのといった良か
らぬ考えをめぐらすこともないだろうから」
 今回の事件にしても、暁紅はもともと州城にいた仙なのだから普通の民が起
こしたわけではない。それも王が失政したわけでもなく個人的かつ利己的な恨
みが動機のようだから、対応に当たった延王の気持ちはかなり違うだろう。
もっとも五百年ものあいだ君臨し続け、奸臣による多くの謀反を鎮めてきた王
なのだから、この程度ではびくともしないだろうが。
「……五百年も生きるって、どんな気持ちなんだろうな」
 ふと言葉を漏らす。風漢が黙っていたので、鳴賢はひとりごとのように続け
た。
「しかもおもしろおかしく遊び暮らすんならともかく、毎日が重責の連続なん
てさ。王は失敗したら死ぬしかない。それでも昇山したやつなら王になる気
満々だったはずだからまだしも、今の主上は違うだろ。そうして麒麟のほうは、
王が人の道を失ったら代わりに病んで死ぬ。そりゃ自分が選んだ王なんだから、
仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないけど、結局は他人の言動のせいで自
分が苦しんで死ぬってことだ。俺なら王にも麒麟にもなりたくはないな」

470永遠の行方「王と麒麟(114)」:2011/12/25(日) 11:33:26
「そうだな。しかし現実には、私欲から王位を簒奪しようとする者は絶えない。
今回の謀反人が仕えていた元・州候もそうだ。よほど王位に魅力を感じるのだ
ろう。だがそういう輩がうまく国を治められるとは思えぬし、治められねば
早々に国が荒れて殺されるしかないのだがな。おそらく普通に仙として王に仕
えていたほうが、よほど安らかに長生きできように」
 実際に宮城で働いているせいか実感のこもった言葉に、鳴賢も同意した。
「今回のことで、才の前王の遺言を思い出してさ」
「責難は成事にあらず、というあれか?」
 鳴賢は笑って、「打てば響くように返ってきたな。やっぱりあんたは高級官
吏だ」と言った。
「さっきの話にも通じるけど、王や麒麟に対して、本当にみんな自分とは切り
離して考えてるんだな、って思って」だが少し前までは鳴賢自身もそうだった
のだ。「国を富ませるのも荒らすのも王で、自分たちは関係ないって感じで。
国が富めば恩恵を受ける。荒れれば暮らしが苦しくなる。そういう単純な図式
しか俺たちの意識にないのはどうなんだろう。それに六太が言ってたけど、慶
じゃ登極したばかりで右も左もわからなかった予王に、官が冷たくて全然協力
しなかったって。でも国ってのは、頂点に王がいるにしても、みんなで治める
ものじゃないのか。でないとうまくいくものもうまくいかないのじゃないか。
なのに何で王にばかり責任をなすりつけるのかな、って。その前に自分たちが
すべきことをやっていたのかって。
 だから俺は今は勉強する。なぜなら学生だから。王を含めた誰かを責めるの
ではなく、そうやってまず自分の本分を尽くして――無事に卒業できたら玄英
宮に行ってさ、少しでも六太の役に立てたらいいなって。
 そりゃ、官吏になっちまったら宰輔と気安く話せるわけもない。けじめとい
うものは大事だし、万が一、六太が俺を重用してくれたら――そんなことはな
いだろうけど万が一――贔屓だの何だのと陰口をたたかれるのは目に見えてい
る。それじゃあ逆に六太の足を引っ張るだけだ。だから俺は、上に何のつなぎ
もないただの新米官吏として働くことになる。それでも王宮に出仕できさえす
れば、下っ端なりに国政に役立てると思うんだ」
「うむ。何よりその心根が六太は嬉しいと思うぞ」
 そう言った風漢のまなざしは穏やかで優しく、いたわりに満ちていた。

471名無しさん:2011/12/25(日) 11:39:21
今年の投下はここまでです。

さて今年は何かと大変な方々が多かったと思いますが、
皆さまにとって来年が少しでも良い年になればいいなと思います。

というわけで少し早いですが「良いお年を」。

472名無しさん:2012/01/20(金) 07:38:37
ぎゃーつ続きが( 〃Д〃)モェモェ
姐さん、遅れましたがあけおめことよろです!
ネズミも好きなんで、楽春の名前に舞い上がってます。続き待ってます!いつまでもー!

473永遠の行方「王と麒麟(115)」:2012/03/08(木) 20:23:13

 今回の件で陽子が雁に連絡を寄越すときは、小さな紙片に記した蓬莱文を青
鳥で運ぶ、これまでの六太とのやりとりを装う取り決めになっていた。慶の諸
官に知られないようにするにはそれが一番自然で容易だったからだ。むろん今
度は陽子は、尚隆のみならず彼の近臣に文面を見られることを承知しているだ
ろう。
 その日、六太宛に届いた青鳥の内容は簡潔で、現状および景麒が訪問して以
降の進展を尋ねるものであり、今回も大司馬が推薦した海客出身の軍吏に翻訳
させた。ほんの数行の原文に対し、書き上げられた文章はずっと多かった。訳
文のみ記した書面が一枚、さらに元の蓬莱文と訳文を併記し、相互に単語の意
味を照合できる形で仕上げた書類を添付していたからだ。これなら文意をねじ
まげるなどの捏造を施しにくいだけでなく、そういった作為による誤訳を発見
しやすくもなる。さらには蓬莱文の素養のない人間でも、原文をそのまま理解
する助けになる。おそらく尚隆なら、あと二、三度繰り返せば現代の蓬莱文を
読み下す要領をつかめるだろう。
 軍吏は最初に訳させたときも同じ形式を用いていたが、別に大司馬の指図が
あってのことではなかった。海客を信用しない者がいたとしても、誠意を疑わ
れぬよう、ひいては取り立ててくれた大司馬に害が及ばぬよう工夫したものら
しい。
「なるほど」
 訳文が記された書面を大司馬から受け取った尚隆はうなずいた。感心した様
子の主君に、請け負った大司馬も満足だった。
 文面には六太の現状を尋ねる言葉、当事者でもないのに催促するようで申し
訳ないという詫びの文言に続いて、少しでも進展があったら教えてほしい旨が
連ねてあった。さらに、何が手がかりになるかわからないとのことなので、自
分がこれまで六太と話した内容を少しずつ書き送る用意があるとも。
「六太は陽子と親しくやりとりしていたのだし、わざわざ手紙で言及すること
はなくとも、慶を訪問した折にでも普段と違うことを口にしたかも知れぬ」
「確かに」
「では陽子の政務に支障がない範囲で書き送ってもらうとするか」
「実は主上。この文を訳させた軍吏も、例の団欒所に顔を出していたそうで
す」

474永遠の行方「王と麒麟(116)」:2012/03/09(金) 21:52:57
「ほう?」
 尚隆が眉を上げると、大司馬は続けた。
「作業を任せる前に口止めをしたのみならず質問も禁じていましたので、その
者自身は余計な口を利かずに作業しておりました。しかしあれも海客です。何
か言いたそうにしておりましたので、ふと思いついて尋ねたところ――」
「六太を知っていたというわけか」
「はい。ただし年に二、三度顔を合わせれば良いほうだったとあって、たまに
団欒所に顔を出す少年が台輔だということは気づいていなかったそうです。今
回の件で景王からの親書に台輔のお名前があったため、そこで初めて『もし
や』と思ったとか」
 あごをなでた尚隆は考え深げに言った。「その程度であれば大した話はして
おらぬだろうが、念のため聴取はしておくことだ」
「ではさっそく」
 しばらくして大司馬は陽子宛の返信を預かり、大司馬府に戻っていった。

 朱衡のほうも、重用している下吏から団欒所での六太の様子について聞き出
していた。
 ただ以前、団欒所を訪れた際に彼が懲りた様子を見せていたためだろう、話
を振っても下吏は躊躇して、あまり詳細な話はしなかった。そこで数日挟んだ
のち、執務の休憩の折に再度言及したところで、ようやく本格的に話を始めた。
「しばらく台輔の意識が戻らないなら、代わりに海客のことを気にかけてさし
あげたほうが良いからね。それに台輔の意外な姿について聞くのはなかなか楽
しいことだとわかった」
 朱衡がそう言うと、下吏も納得した顔になった。そして自分が団欒所に行く
ことになった当初から順を追って話しはじめた。
「でも前にも言いましたけど、俺、全然台輔に気づかなかったんです。団欒所
には守真って中年の世話好きな女性がいましてね、もっぱらその人と話してい
たし、確か最初に見たとき、台輔は恂生っていうもっと若い海客と一緒に子供
を遊ばせてやっていたから。俺は守真から蓬莱のめずらしい話をいろいろ聞け
るのがおもしろくて何度か顔を出すようになって、そこで仕入れた四方山話を
大司寇にするようになったわけです」

475永遠の行方「王と麒麟(117)」:2012/03/09(金) 23:34:34
 団欒所には海客の楽器もいくつか置かれていた。三度目か四度目に訪れたと
き、関弓の幼い子供たちにせがまれた守真が、ピアノという楽器で童謡を弾き
だした。彼女に合わせて恂生も琵琶に似た楽器を弾き始め、そこへ顔を出した
六太が打楽器を合わせ始めた。ここに至って下吏は初めて六太を注視したの
だった。
「蓬莱の童謡ってのは本当に子供向けの他愛のない歌なんです。でも俺は詞も
知らなかったし、端っこで他の連中と話をしながら何となく聴いていただけで
す。そりゃ途中で、どっかで見たような顔が鼓を叩きはじめたなぁ、とは思い
ましたけど、離れていたしあまり気にしませんでした。大司寇をご案内したの
はその頃で、台輔だって言われて、もうびっくりですよ。でも確か、次に行っ
たときは台輔はおられませんでした。むろん大司寇に口止めされてたから、
こっちに気づかれたらまずいとは思ったんで、むしろ好都合でしたけど」
 そもそも団欒所の開放日は決まっているし、それなりに忙しい六太がいつも
顔を出せるはずもない。
 それから数ヶ月の間、下吏がそこで六太を見かけることはなかった。その間
彼は恂生と話すようになり、恂生が蓬莱で「バンド」という小さな楽隊に参加
していたことを聞いたのだった。
「なんか凄いんですよ。恂生は大学生だったって言ってたから、官吏になるつ
もりだったんでしょうが、蓬莱でも楽は高官の嗜みなんですかね。自分で詞を
書いたり曲を作ったりもするんだそうです。守真が弾く曲は童謡だったり、
『クラシック』っていう綺麗で落ち着いた曲だったりするんですが、恂生のは
全然違ってて。われわれの音楽に似たものがないんで説明が難しいんですが―
―あ、そうか、大司寇は一度お聴きになったんですよね。あれ、本当はうるさ
いだけじゃないんです、意外と奥が深くて、たとえば蓬莱でも若者なんかは既
成の概念や体制に対する怒りに似た反抗心を持っていて、その心情のひとつの
表現として――」
 どうやらこの下吏は海客の音楽がひどく気に入っているらしい。最初こそ話
すのも遠慮がちだったというのに、朱衡がほほえんで聞いているとだんだん口
調が熱を帯びてきた。そしてひとしきり拳を振り回すようにして蓬莱の音楽に
ついて熱く語ったあと、ようやく「あっ、すいません、つい」とあわてた顔で
言葉を切った。
「気にしなくていい、なかなか興をそそる話だ」

476永遠の行方「王と麒麟(118)」:2012/03/09(金) 23:55:08
 朱衡は笑いながら言った。実際、これまで六太の口から聞いた覚えのない内
容だけに興味深かった。
 彼は恐縮した相手を促して話を続けさせ、団欒所で下吏が守真や恂生から聞
いた六太の言動に耳を傾けた。そしてこれほど長くつきあいながら、今まで六
太のそんな面を知らなかったことを不思議に思い、おそらく尚隆も興味深く聞
くだろうと考えた。

「台輔は最初から蓬莱の音楽を好んでおられたわけではないでしょう」下吏か
ら聞き出した内容を報告した朱衡は最後に言った。「ただ、海客にこちらの言
葉を覚えさせるに良い手段だとひらめいたのだと思います。実際、旋律という
ものは耳に残ります。詞がついていれば一緒に覚えるでしょう。どうやら日常
生活で使われる頻度の高い語を選び出して詞に入れ、それに合わせた曲を海客
の青年に作らせて頻繁に歌わせることで、われわれの言葉を学ばせていたよう
です」
 内議の席にいた他の重臣のうち、大司馬もうなずいた。
「うちの海客の軍吏にも尋ねてみたが、実際に効果は上がっていたらしい。わ
れわれの言葉のみで詞を作ったり、はたまた蓬莱の言葉と交互に繰り返したり、
いろいろ種類があるようだ。単純に一から十まで数を追うだけの歌もあり、団
欒所に来た関弓の民もそれで片言の蓬莱語を覚えたという。かなり意思の疎通
に役立ったのではないかな」
「台輔は目のつけどころが違いますね」他の者も感心した様子だった。
「ただ密かにおやりになっていたことだけは不思議ですが」
 朱衡が首を傾げると、尚隆は「別に隠していたわけではあるまい」と笑った。
「おそらく遊びの延長で始めたのだろうし、あくまで趣味の範疇と思っていた
のだろう。しかし試みを始めたのが数年前でありながら、この短期間でかなり
の効果が上がっていたとすれば、いずれ何らかの形で大きく取り上げるつもり
だったのかも知れん」
「ああ、それもそうですね」
 件の下吏が語ったところによれば、六太は恂生にいくつかの蓬莱の楽器の手
ほどきを受けたらしい。ということは以前朱衡が言った「太鼓をぽこぽこ叩く
程度」ではなく、一応はそれなりに弾けたのだろう。少なくとも恂生や、たま
に加わる軍吏の華期と楽しく合奏したこともあるとの話だった。

477永遠の行方「王と麒麟(119)」:2012/03/14(水) 23:33:43
「俺が笛を吹くときはつまらなそうな顔をしておったのになあ。俺の腕前では
興味がわかなかったということか」
 尚隆が情けなさそうな顔で溜息をついたので、近臣らは笑いを漏らした。
 朱衡に続いて報告した大司馬は、六太は海客と作った歌を、子供らを含めた
関弓の民の前で歌うこともあったと告げた。新しく歌を作ったとき、守真や恂
生と交代で、あるいは一緒に披露したのだという。
「ほほう、それはそれは」
「あの台輔がねえ」
 少年の姿を留め、声変わりもしていない六太が、子供らの前で元気よく声を
張り上げて歌うさまを想像するのはほほえましいことだった。一から十まで数
える歌も、曲を作った海客らと一緒ににぎやかに披露し、関弓の民もそれを聞
きながら覚えて一緒に歌ったのかもしれない。尚隆も楽しそうに笑みを浮かべ
ながら報告を聞いていた。
「あら」
 ふと大司徒が眉根を寄せたので、他の者が「何か?」と尋ねた。大司徒は周
囲を見回しながら、おずおずと言った。
「あのう、思ったのですが、台輔は歌うたいになりたいとか――まさか、そう
いう夢をお持ちだったわけではない、ですよね……?」
 他の者は一瞬呆気に取られ、ついで吹き出した。
「まさか」
「あくまでお遊びでしょう。たまたま結果的に海客の役に立っただけで」
「はあ」
「だが――まあ……」
 ひとしきり笑ったあとで、彼らは真顔になって顔を見合わせた。
「可能性としては、なくもない、か……?」
「さ、さあ?」
 うーん、と真剣に考え込む。だがそれを見守る尚隆はと言えば気楽な顔で、
「なるほど、ありうるな」とおかしそうに笑っているだけだ。
「あ、そういえば」声を上げた朱衡に視線が集中する。
「大司寇、何か?」
「今、思い出したのですが、こんなことがありました。何十年も前のことです
が」

478永遠の行方「王と麒麟(120)」:2012/03/14(水) 23:40:02
 当時、朱衡の下吏がまだ私邸で奄をしていた頃、蓬莱から流れてきたらしい
雑貨を興味半分で買い求めたことがあった。その中に蓬莱の楽器を演奏する女
性をかたどった美しい陶器の置物があり、小さなものだったせいか状態が良く、
譲られた朱衡は私邸の片隅に飾っていたのだという。
「あるときたまたま台輔がそれをご覧になり、これはピアノという楽器だと説
明してくださいました。たいそう気に入ったご様子でしたので差し上げたとこ
ろ、しばらくして仁重殿に伺ったとき、件の置物が大切に飾られているのを拝
見いたしました」
「ほう」椅子の肘掛に頬杖をついて聞いていた尚隆も考え深げな声を漏らした。
「すっかり忘れておりましたが、普段あまり物に執着なさらない台輔にしては、
ずいぶんお気に召したようでした」
「なるほどな。いずれにせよ、あれが思ったより音楽に興味を引かれているこ
とはわかったわけだ。まったくそれならそれで、俺の笛にも多少なりとも関心
を持ってくれればいいものを」
 尚隆がふたたび情けない顔で「俺の立場がない」とぶつぶつ愚痴ったので、
近臣らからまた穏やかな笑いがこぼれた。いったん微妙に緊張した空気がほぐ
れ、なごんだ雰囲気の中で彼らはあれこれ語り合った。
「台輔が歌うたいになりたいという夢をお持ちだったか否かはさておき、お目
覚めにならなければかなうはずがない以上、少なくとも呪者が設定した解呪条
件ではありませんね」
「ま、いちおう詰めている冬官には伝えておきましょう。手がかりになるかも
しれませんから」
「しかし台輔も意外な面をお持ちだったわけですな」
「拙官も海客が作ったという歌に興味が湧いてきました」
「ええと、一から順に数える歌でしたか、いずれそれを歌っている台輔のご様
子を拝見したいものですね」
「そういえば台輔はあれで、たまに意外なものに関心を見せることはありまし
たな。厨房で粉がこねられて菓子が焼きあがるまでをじっと眺めていたり、工
人が殿閣を修理している様子を飽きもせずにごらんになっていたり」
「そうそう。時折、宮城のあちこちをうろちょろなさって」

479永遠の行方「王と麒麟(121)」:2012/03/14(水) 23:53:00
「外朝にある宿舎に御髪を隠して入りこみ、官吏の幼い子弟と遊んだりもして
いたそうですよ。台輔に拝謁のかなわない身分の者が多いため、いまだに台輔
の正体に気づいてはいないようですが」
 尚隆はこれらの話に興味深そうに耳を傾け、時折「ほう」と意外そうな声を
上げた。そして「それは知らなかった」とおかしそうに笑った。
「主上はさっさと関弓山を抜け出して下界に行っておしまいのことが多いです
から、確かにこういったことはあまりご存じなかったでしょうね」
 近臣らも笑いながら答え、ひとしきり、こんなことがあった、あんなことも
あった、という思い出話の花が咲いた。尚隆は穏やかに微笑したまま、時折
「そうか」と静かな相槌を打っていた。

 仁重殿を訪ねた尚隆は、笑顔で軽く手を振って女官らをさがらせた。牀榻に
足を踏み入れ、いつも黄医がかけている椅子に腰をおろす。
 表情に穏やかな微笑を留めたまま、彼はやがて静かに吐息を漏らした。眠る
半身にからかうような視線を投げ、口角を上げてにやりとする。
「――まったく」口の中でつぶやく。「何と言っても五百年だぞ。なのにそれ
だけ長い付き合いがある俺さえ、おまえの望みを知らぬ。おまけに関弓山内部
でのことに至っては、俺より他の者のほうがよく知っている。困ったことだ」
 そのまましばらく六太の寝顔を眺めていた彼は、ふたたび吐息をつくと言っ
た。
「別行動も多かったからな、逆におまえも俺について知らぬことは多かろう。
――そう、ひとり旅の途中、たまに奏国の太子と出会うことがあるのだが、他
の者に言ったことは一度もないゆえ、おそらくおまえも知らぬだろうな。街道
の奥まったところにある田舎に素朴な飯を食わせてくれる老人がいて、ここ二
十年ほどたまに訪ねて行くことも。その昔、碁石を集めていたことも、その理
由も――だがな」いったん言葉を切ってからまた続ける。「それでも俺は淋し
いぞ。これだけの歳月を過ごしながら、ただいたずらに時を重ねたに過ぎな
かったのか。互いに知らぬことばかりだが、そもそも相手のことを知りたいと
思うほど興味がなかったのか。生命を分けあっているはずの俺たちなのに、絆
と言えるものは何もなかったのか」
 それだけ言って尚隆は黙り込んだ。そうして長いこと経ってから微笑ととも
に繰り返した。「淋しいな」と。

480名無しさん:2012/03/14(水) 23:58:08
とりあえずここまで。
諸事情により、次回の投下まで少なくとも何ヶ月か開くと思います。

481名無しさん:2012/03/19(月) 00:25:54
姐さん乙です。
尚隆セツナス。
次回まで気長にお待ちしております。

482名無しさん:2012/04/10(火) 07:30:47
こまめに覗くものですねぇ!更新ありがとうございます!!唄うたいなロクタンもかわいいと思います。

483名無しさん:2012/06/10(日) 11:34:14
久しぶりにちょこっとだけ投下します。
なお次の投下は、前回以上に間が開くかもしれません。

484永遠の行方「王と麒麟(122)」:2012/06/10(日) 11:37:01

 控えめに叩かれた扉を開くと、鳴賢の房間の前に立っていたのは楽俊だった。
「よう。どうした」
 鳴賢が声をかけると、相手は「昨夜、風漢さまからいろいろ話を聞いたもん
でな」と言った。どきりとした鳴賢は「まあ入れよ」と中に招き入れた。
 楽俊に床机を勧め、向かい合って座ったところで尋ねる。
「いろいろって、どんなことを聞いた?」
「うん、たぶん――全部なんだろうな」
「全部……」
「謀反の経緯から台輔の現状まで。そりゃ、細かい部分ははしょってるんだろ
うが」
「そうか……」
 鳴賢はそう言って黙り込んだ。予期していたことではあったが、いざそうな
るとなかなか言葉が出てこなかった。
「大変だったんだな」
 いたわるようにぽつりと言われ、鳴賢はうなずいた。それでようやく、ずっ
と気になっていたことを確かめる気になった。
「文張、おまえ、六太の正体をずっと知っていたんだよな?」
「そうだ。ずっと黙ってて悪かった」
「いや、それは仕方がない。それに風漢が宮城に出仕している官吏だってこと
も知ってたんだよな? 道理でいつもあのふたりを丁寧に『さん』づけで呼ん
でたわけだ」
「すまねえ」楽俊はぺこりと頭を下げた。
「いいさ、おまえもいろいろ事情があったんだろうし。六太が台輔だってわ
かったとき、おまえも驚いたか?」
「いんや。何せ最初に会ったときから台輔だったからな」
「へ?」
「おいらが巧にいたとき、行き倒れてた海客の女の子を拾ったって話を覚えて
るか? 実を言うとな、その子を連れて雁に来たとき、いろいろ問題があって
主上におすがりしようってことになったんだ。そしたら風漢さまに会って玄英
宮に連れていかれて、そこでちょうど外出からお戻りになった台輔と会った」

485永遠の行方「王と麒麟(123)」:2012/06/10(日) 11:39:52
「へええ……」
 呆気に取られた鳴賢は、相手をまじまじと見つめた。風漢に対し「さん」で
はなく「さま」づけに変わったことも気づいたが、今までは風漢が国官だと知
らない自分たち相手に、やたらと敬意を表した言葉遣いにするわけにはいかな
かったのだろう。
「この大学を受験することができたのも、風漢さまのお計らいのおかげでな。
おいら、単に海客の女の子を拾って連れてきただけなのに、おふたりには感謝
してもしきれないほどの恩を受けてるんだ。台輔の頼まれごとをこなしてたら、
巧から母ちゃんを連れてくるための金まで用立ててくれて。本当に親切な方々
なんだよ」
「そうか……」
 何とかそれだけ言って鳴賢はふたたび黙り込んだ。言われてみれば、すべて
うなずけることばかりだった。
「おまえ、実はすごいやつだったんだな」
「別においらはすごくねえよ」
「いや、すごいよ。それに良い行ないをすれば報いがあるっていうけど、世の
中ってのは本当に善意が善意を生むんだな」
「そうじゃねえんだ」楽俊はちょっとしょげたふうに視線を落とした。「おい
ら、雁が海客を手厚く迎えてるって聞いてたから、その子を連れて行ったら、
もしかしたら褒美をもらえるんじゃないかと思ったんだ」
「それがどうした」いつになくしおれた様子に、鳴賢は思わず笑っていた。
「巧からはるばる危険を冒して海客の子を連れてきてやったんじゃないか。途
中、妖魔に襲われたこともあるとも言ってたろ。そりゃ、ちょっとくらいは見
返りを期待したにせよ、根本に善意がなきゃできないことだ。むしろおまえが
そうやって自分のことも考えてたとわかって嬉しいよ。究極のお人よしだと、
他人に騙されるだけだったりして危なっかしいからな。
 ――で。おまえも風漢に聞かれたんだよな? 六太の望みが何なのか」
「聞かれたはいいが、おいらも全然心当たりがねえ。そりゃ、多少は個人的な
ことも話したけど、何が好きだこれが好きだなんてたぐいの話には一回もなら
なかったからなあ」

486永遠の行方「王と麒麟(124)」:2012/06/10(日) 11:41:59
「確かに風漢もそんなようなことを言ってた。まあ、心当たりがないのは俺も
同じだしな」
 とはいえ鳴賢には少し気がかりなことがあった。今回の事件に関して詳細を
大司寇に報告し、その後で六太について知っていることを風漢に伝えはしたも
のの、あえて口にしなかった事柄もあるからだ。
 何年か前、六太が口にした片思いの話。そして暁紅の邸で託された王への伝
言。六太は決して、どちらも他人に明かされることを望むまいし、特に片思い
の件は誰にも話さないと鳴賢は約束していた。
 だが……。
「何ヶ月も台輔の姿を見ないとは思ってたんだが、あのかたは主上に命じられ
て密かに国外の様子を探りに行くこともあるから、今回もてっきりそれかと
思っていた。まさか呪をかけられて昏睡状態とは想像もしなかった」
「前代未聞の事件だからな……」
 彼らはひとしきり、謀反によって受けた驚きについて話した。その後、鳴賢
は風漢から頼まれていた内容を口にした。
「おまえに教えてもらった海客の団欒所、あそこに六太もよく行ってたんだ。
つまり海客たちは六太の正体を知らないながらも親しく接していたことになる。
それで俺が折を見て話を聞いてくることになった。風漢は関弓を歩いてあちこ
ちで聞き込みをしていたってのに、なんでか団欒所には足を向けていないらし
い。もっともいきなり訪れて六太のことを尋ねても不審がられるだけだろうけ
どな。ちなみに聞いてるかも知れないが、六太は養い親の官吏がいきなり地方
に異動になったんで、それにくっついていったことになってる」
「ああ、聞いた」
「大学で六太と話したことがある連中にも、雑談ついでにそれを伝えてさりげ
なく話を聞いたほうがいいだろうな」
「そうだな、おいらや鳴賢がいないところで台輔と話してたやつはいないだろ
うが、念のために。おいらのほうは母ちゃんに聞いてみる。あの人も台輔のこ
とを知ってるし、厨房の出入りの業者からかなり街の噂話を仕入れてるから、
何か手がかりをつかめるかも知れねえ」

487永遠の行方「王と麒麟(125)」:2012/06/10(日) 11:44:22
「おいおい」鳴賢はあわててたしなめた。「いくらおばさんが相手でも、やた
らと話をしたらまずいって」
「大丈夫だ。母ちゃんは台輔のご身分を伏せて話をするだろうし、風漢さまに
了解も得てる」
「そう……なのか?」
「ああ。だからやたらと話を広めるわけじゃねえ。安心してくれ」
 鳴賢は考え込んだ。楽俊が言うなら心配はいらないのだろうが、それでも不
安はぬぐえなかった。
 それからしばらく、ふたりは六太について友人たちに尋ねる際の口実を含め、
いろいろと打ち合わせした。楽俊が自分の房間に戻っていったあと、残された
鳴賢は、団欒所等で話を聞きまわるまでもなく宮城内での聴取で成果が現われ、
六太の目が覚めるようにと、真摯な思いで祈らずにはいられなかった。
 だがそれからさらに何度も風漢と話をする機会があったものの、鳴賢が待ち
わびている報せはなかなかもたらされなかった。いったい六太の一番の望みと
は何なのか、有用と思われる手がかりは宮城においても得られていなかったの
だ。
 そしてそのまま四ヶ月が過ぎ、五ヶ月、六ヶ月が過ぎても、状況は何も変わ
らなかった。季節はあっさりと夏を通り過ぎ、気づいたときには既に秋の気配
が立ちこめていた。

- 続く -

488名無しさん:2012/06/11(月) 20:50:14
更新嬉しいです。 バンザーイ。ヽ(*´∀`)八(´∀`*)ノ
楽俊可愛らしくて萌え萌え。

じりじりしながら次もお待ちしておりまする。

489名無しさん:2012/06/14(木) 01:03:45
お待ちしてました。
ろくたんの一番の望みを尚隆たちが知る時が楽しみ。

気長に待ってますので続きもまた時期がきたらお願いします。

490名無しさん:2012/06/27(水) 03:40:01
鳴賢と楽俊のシーンは、ほんとにわくわくします!
また鳴賢が真実に一歩近づいた…!
物語、ほんとに面白いです!更新有難うございます。

491名無しさん:2012/07/09(月) 19:25:22
いつもいつも待ってくださっていてありがとうございます。
既にかなり書いていたのですが、どうも踏ん切りがつかずに長らく保留にしてました(^^;
でも先日、久しぶりに最初から読み返したところ、
少なくとも致命的な矛盾はなさそうだとわかったので続きを投下します。
(随分たまってるけど、投稿間隔を2分空けないといけないのは大変なので少しずつ)

492永遠の行方「王と麒麟(126)」:2012/07/09(月) 19:41:50

 関弓から、何か進展したという報せはいまだもたらされていない。光州内で
の調査も、とうにし尽くした感がある。今日の執務を終えて自室に下がった帷
湍は、暮れなずむ窓の向こうを眺めながら、つい「くそっ」と悪態をついた。
 尚隆が呪の眠りに囚われたときも慄然としたが、六太が彼の身代わりになっ
たことを聞いたときは、それこそ世界が終わったかのような衝撃を受けた。
 なぜ六太が誘いだされる前に、謀反人の居場所を突きとめられなかったのか。
少なくとも晏暁紅を疑うだけでなく、早急に彼女の居場所を探すよう強く関弓
に進言すべきではなかったか。
 主と同様に怠け癖のある六太に激怒したことは数えきれないとはいえ、麒麟
の本質である彼の慈悲を疑ったことは一度もない。そもそも考えが回らないだ
けで、六太は基本的に善意に満ちている。奔放な主に影響を受けやすいのは
困ったことだが、莫迦な子ほど可愛いというか、宮城にいたときに六太に困ら
された幾多の思い出は、振り返ってみれば決して嫌なものではなかった。
 ――なのに。
 彼は煩悶のままに拳を握り締めた。
 謀反人から取り引きを持ちかけられた六太は、まったく躊躇せずに応じたと
いう。王の身を、ひいては雁を守るために身代わりとなった。何だかんだ言っ
ても、彼はやはり一国の宰相なのだ。
 翻って自分はどうか。
 発端は光州にありながら結局、帷湍はすべて後手に回っただけだった。関弓
を頼るばかりで、彼自身は何ひとつ解決できていない。いち早く晏暁紅が怪し
いと睨んだことも、六太が身代わりになったという事実の前には虚しいだけだ。
 そもそもどうして尚隆の求めに応じて彼を幇周に伴ってしまったのだろう。
何が起きようと主君だけは安全な場所にいてもらわねばならなかったのに。
 後悔してもしきれない帷湍だった。
 せめてこの不始末を少しでも償うために処罰を受けたいとさえ思うが、今の
ところ主君から何らかの咎を受けたわけではない。そのことで内朝の一部が不
満を覚えているのはわかっているので、普段以上に質素な生活を送って州城で
謹慎しているつもりだが、もともと州侯とは簡単に州城を出るものでもないの
だから、悔悟と恭順の気持ちを表わすのは主君に奏上した文だけだ。
 ――台輔の身代わりになれるものなら、すぐにでも関弓に赴くのに。
 そうは思っても、自分に王や麒麟のような価値はないこと、したがって最初
から謀反人の標的ではなかったのだろうことは重々承知の帷湍だった。

493永遠の行方「王と麒麟(127)」:2012/07/09(月) 21:10:57

 ごくわずかな緊張をはらみながらも、玄英宮の空気は奇妙な均衡が保たれて
いた。
 仁重殿の女官たちは毎日、朝が来ると主の臥室の窓を開けて光と風を入れ、
牀榻の扉を開ける。下界はとうに夏を過ぎて秋の装いを深めていたが、ここは
相変わらず花の楽園だった。宰輔の直轄地から納められた豊かな果物が、陶製
の大皿に山と盛られてみずみずしい芳香を放っている。
「おはようございます、台輔」
 彼女らは帳の奥でひっそりと横たわる主に声をかけた。被衫を脱がせると、
湯で絞った手巾で丹念に顔や体を拭いて手足をさする。ついで日課となってい
る黄医の診察を受けさせたあと、ゆったりとした服を着せて安楽な椅子に座ら
せ、長い髪をくしけずる。
 だがひとしきり主の世話をすると、もう女官たちは手持ち無沙汰になってし
まう。何しろ六太は基本的に飲食できないため、せいぜい果汁や水のような重
湯をごく少量飲ませるくらいで、通常の献立を用意する必要はない。政務も執
れないから装束を調えて広徳殿へ送り出したり帰りを迎えたりすることもない
し、話し相手になったり散歩につきあうこともない。それでいて所属の人員が
減らされたわけでもないので、少々の雑事は簡単に済んでしまう。以前のよう
なめりはりの効いた忙しさはなく、女官たちは終日時間をもてあますことに
なった。
「なんだか最近は、下吏もわたしたちとまともに目を合わせない感じじゃあり
ません? 腫れものに触るような扱いというか……」
「本当にねえ。まるで仁重殿だけが過去に置き去りにされていくよう」
 心地よい風の通る露台で紗の天蓋をしつらえ、その下に六太を座らせたあと、
彼女たちは自然と愚痴めいた言葉を交わした。六太の望みがかなえば目覚める
かもと、その可能性に望みをいだいているものの、話を聞いた諸官は大抵疑わ
しくも気の毒そうな目を向けるばかり。それでも必死に情報を集めて解呪を担
当している冬官に伝え、自分たちでも試行錯誤しているが、六太が目覚める気
配はなかった。

494永遠の行方「王と麒麟(128)」:2012/07/09(月) 21:31:09
「他のかたがたは台輔が心配ではないのかしら? 主上は毎日のようにお見舞
いにいらしてくださるのに、諸官の訪問は間遠になるばかりではありません
か」
「確かに台輔のご様子は変わりませんが、それならそれで日課としてお見舞い
に参上してくださってもいいのに」
「いくらお命に別状がないと言ってもねえ」
「そりゃあ、主上がご健勝なのは喜ばしいことですが」
 しかしながら状況に変化がなく緊急性もないとなれば、四六時中緊張してい
るわけにはいかない。六太の安全さえ確保したなら、とりあえずそっとしてお
くしかなく、彼女たちもそれは理解していた。だがそれと、見通しの立たない
日々の中で精神的に消耗していくのは別問題だ。
「諸官は少しのんびりしすぎているんじゃありませんこと? これでは、あっ
という間に一年が経ってしまいます」
「特に靖州府の官。台輔の下でのお勤めだというのに薄情です」
「こちらの官に比べ、お忙しい合間を縫って青鳥をくださる景王のほうが、よ
ほど心配してくださっていますわ」
「それは――さすがに言いすぎでしょう」
 ふと官位が上の女官がたしなめたので、注意を受けた女官ははっとなった。
「皆さんが台輔を案じる気持ちはわかりますが、台輔の御前です。あまり聞き
苦しいことを口になさいませんよう」
「も、申し訳ありません」
「それよりもっと楽しいことを考えましょう。そうそう、楽士を手配していた
だく件、大宗伯が了承してくださったそうです。これで毎日、台輔に美しい楽
の音をお聞かせできますね。むろん台輔も馴染んでおられたという海客の楽曲
とは異なるでしょうが、あれは騒々しくて聞き苦しいとのもっぱらの噂ですか
らね。今の台輔には静かで綺麗な曲がふさわしいと思います」
「きっとお気持ちが安らぎますわ」
「それから先ほど、新しくお作りするお被衫の生地の見本が届きました。今の
ものよりずっと柔らかくて肌触りも良く――」
 彼女らは気持ちを切り替え、六太に日々を気持ちよく過ごしてもらうための
話し合いをはじめた。

495永遠の行方「王と麒麟(129)」:2012/07/09(月) 22:52:00

 ある日の午後、陽子は地官府から上がってきた書類を検分していた。民が要
望している新しい作物の一覧だ。
 路木に願えるのは王だけだが、どのような作物を願うかをすべて陽子ひとり
で考えられるはずもない。それらはたいてい下の官府から順次要望が上がって
きて、途中で取捨選択されつつ、最終的に王の元に来ることになっている。陽
子の仕事はそれらを承認するか差し戻すかし、さらには承認した作物を儀典に
則って路木に祈願することだった。
 休憩のために茶を煎れてもらって一息入れた陽子は、書類を持参した浩瀚の
おとないを受けたとき、少し考えてから他の官を下がらせた。ひとり残った浩
瀚が「内密の話でも?」と尋ねてきた。
「うん。なかなか雁から良い報せが来ないなと思って」
「延台輔のことですね」
「あれからもう何ヶ月も経っているのに」
「それは仕方がないかと。もともと難しい状況です。口に出さずとも、延王も
長期戦を覚悟されているはずですよ」
「やはりそうなんだろうか」
 陽子は考え込んだ。正直なところ彼女自身はそこまで厳しい見通しを立てて
いたわけではなかった。最初に報せを受けたときは多大な衝撃に打たれたが、
何しろ大国雁は百戦錬磨の延王を戴いている。当初は難儀したとしても、さほ
ど経ずして解決の報せがもたらされるのではとの期待を持っていたのだ。
 彼女は「延王は強いな……」とぽつりとつぶやいた。
「この新しい作物に関する書類を見て延麒のことを思い出したんだ。これまで
彼とはいろいろなことを話したけれど、政務についても相談したことがある。
そのときは蓬莱の物ややりかたをうまく取り入れられないかと思って。わたし
が一番良く知っている世界だから」
「蓬莱の物と言っても、簡単に持ってこられるわけではありませんが」
「うん。だから延麒も物品ではなく、知識とかそういう無形のもので役立つ内
容を考えたほうがいいと助言してくれた。路木に願う作物とか。実際には結局
こうして官府から上がってくる作物を願うだけだけれど。

496永遠の行方「王と麒麟(130)」:2012/07/10(火) 20:06:09
 そういえば浩瀚は、蓬莱には里木も路木もないって知ってる?」
「はい。あちらでは子は男女の交渉によって女の腹にできるもので、両親の形
質を均等に受け継ぐとか。そのため兄弟姉妹を始めとして、縁者は容姿が似る
と聞いています。正直に申せば少々気味が悪い気がしないでもありませんが」
 浩瀚の弁に、雁にいる友人を思い出した陽子はくすりと笑った。
「里木や路木に慣れているとそう感じるんだろうな。あちらは出生を管理する
者もおらず、その意味ではまったくもって無秩序な世界だし」
「しかし人に限らず、動物も植物も雌雄が交わることで両親の形質を受け継く
子孫ができるとなれば、確かに里木も路木も不要ですね。ある望ましい性質を
持つ動植物が欲しい場合、それに近い性質の雌雄をかけあわせればいいので
しょう?」
「そうなるな。実際にはそういう品種改良も、簡単に望ましい性質が現われる
とは限らないので大変らしいけど。もちろん人の手でかけあわせずとも、子が
普通に両親の形質を継ぐ以上、自然と子孫は変異していく。それが長く続くと、
まったく別の種に思えるくらい先祖と違った子孫ができるんだ。たとえば蓬莱
にはいろいろな種類の犬がいて、大きさもさまざまなら毛足の長さもさまざま、
性格もおっとりしていたり逆に攻撃的だったりする。そういうのも長い間品種
改良を重ねた結果らしい。こちらでも植物なら、野木に新しい種類の種が生る
ことはあると聞いたけど」
「それでも滅多にないことです。それゆえ新しい植物を見つけることを生業と
する猟木師は、横取りされないよう相当神経質になります。とはいえ穀物に限
るなら、新しい種は路木にしか生りません」
「穀物か……。そうだな、小麦についてはよく知らないけど、米なら蓬莱はた
くさん種類があったよ。寒さに強かったり害虫に強かったり収穫量が多かった
り。味が良かったり香りが良かったり……。そういえば果物も、林檎なんか色
からして相当バリエーションがあったな。味も酸味が強かったり甘かったり
さっぱりしてたりで」
 陽子が懐かしそうに語る傍らで、浩瀚は「寒さや害虫に強いというのはいい
ですね」とにっこりした。

497永遠の行方「王と麒麟(131)」:2012/07/10(火) 20:17:32
「こっちにはそういう特徴を持つ品種はないんだろうか?」
「拙官も詳しいわけではありませんが、民が苦労している作物があるかもしれ
ませんね。いくら主上のおかげで天候が安定しても、もともとの性質として育
てにくいとか育てやすいといった特徴はありますから。そろそろ農地の状況も
改善してきたことですし、主食である穀類の生産量を上げるためにも、民の声
を吸いあげて新しい小麦や米を願っていただくのも良いかもしれません」
「品種のバリエーションを増やすこと自体はいいと思うんだ。怖いのは、何か
予想外のことが起きたときに、それに弱い同形質の作物がすべてだめになるこ
とだから。そんなとき作物の特徴が異なれば、少なくとも全滅はしないだろう。
そう――路木に願って済むことならいくらでもやるから、民が望む作物があれ
ば、これからはいったん地官府で吟味したりせずに無条件で要望を上げてほし
いな。結果的にもし新しい種が不評だったとしても、民が植えなくなるだけか
ら自然と淘汰されるだろう。それくらいは大したことじゃない。あるいは慶で
不評だったとしても気候や土壌の違う他国なら種をほしがって高く売れるかも
しれない」
「しかし……」
「なんだ?」
「天帝がお聞き届けくださるかどうかにかかっているとはいえ、あまり主上が
路木を安売りなさると、民の間で軽んじる空気も出かねませんが」
 慎重な意見を述べた浩瀚に、陽子は朗らかに笑った。
「いいじゃないか、それくらい。蓬莱と違って品種改良は王の肩にかかってい
るんだぞ。取りまとめる官も大変だろうから優先順位はつけるつもりだが、何
より民の暮らしを少しでも良くすることが大事だろう。それに比べれば王や宮
城の体面などどうでもいい。むしろ民が気軽にいろいろな案を出してくれるよ
うになるほうが好ましいじゃないか」
 単に延麒を心配する話から、思いがけず意欲的な話題になって陽子は嬉し
かった。こちらに来て極貧の生活を経験したとはいえ、蓬莱で培われたもとも
との味覚で判断すれば、民が日々食するものはさほど美味とは言えず、献立も
単調にすぎた。おまけに慶はまだまだ国全体が貧しい上に収穫量が絶対的に不
足している。陽子は何とかして、人々がおいしいものを腹いっぱい食べられる
国にしたかった。

498永遠の行方「王と麒麟(132)」:2012/07/10(火) 21:24:13
「それにしても主上は景台輔ではなく延台輔に相談なさったのですね」
 ふと指摘され、陽子は「あ、うん、まあ……」と言葉を濁して苦笑いした。
そうして、景麒には内緒にしてくれよ、と浩瀚を軽く拝む仕草をした。
「別に景麒をないがしろにしたわけじゃない。ただやはり軽々しく蓬莱の話題
を出すものではないだろうと思ったんだ。わたしは今ではこの国の王なのだし、
景麒に限らず、いつまでもあちらに囚われているように思われるのは本意では
ないから。ただ蓬莱は自分がよく知る世界で、こちらにはない便利なものや優
れた技術があるのは事実なので、わたしの少ない知識でも国政に役立てられる
かもと単純に考えただけなんだ。そして延麒は蓬莱の事情にも詳しいから、何
か有益な助言をもらえればと。それでも耳にすれば不快に思う人はいるだろう
から、日頃はあまり口にしないようにしている」
「確かに安易に話題になさることではありませんね。賢明なご判断だと思いま
す」
「もっとも延麒に相談したのは、わたしの甘えもあるんだけどね。彼なら蓬莱
の事情に詳しいから、予備的な説明をせずともすんなり話が通じてやりやすい
んだ。でもこれも景麒に言うことじゃないだろう」
「それは――そうですが」
 眉をひそめた浩瀚に、陽子は先回りして「わかってる」と笑った。
「そんなことをしていたら景麒とぎくしゃくしかねないってことは。でもこれ
でもあいつとは、少しずつ互いに理解を深めてはいるんだ」
「ならば良いのですが」
「そういえば延麒に、碁を覚えて景麒と打ったらどうかとも勧められたっけ。
蓬莱にも碁はあるけど、こちらでは教養のひとつなんだって?」
「ああ、蓬莱にもあるのですね。そうです。しかし主上は嗜まれないのですか。
あれは単純でいて奥の深い遊戯ですから、おもしろい上に気分転換にもなりま
すよ」
「そうらしいな。延麒には無理に話題を見つけずとも、碁盤を挟んで勝負をす
れば自然と相手に親しむものだと言われた。実際、延麒は延王とも碁を打つこ
とがあるらしい。あれで延王は弱くて、延麒はこれまで全戦全勝らしいよ。ふ
ふ、わたしも碁なら延王に勝てるのかな」

499永遠の行方「王と麒麟(133)」:2012/07/10(火) 21:49:53
「拙官の官邸や私邸にも碁盤を備えてございます。正寝にもどこかにしまいこ
まれているはずです。昔、螺鈿の細工が施された見事な碁盤を拝見した覚えが
ありますから。よろしければあとで少しお教えしましょうか? 規則自体は子
供でもすぐ覚えられるほど単純ですから、基本さえ押さえれば、折に触れて女
官を相手に腕を磨けばよろしいかと」
「そうだな。それもいいかもしれない。ところで景麒のほうは碁を知っている
んだろうか? あいつが碁盤の前に座っている姿はあまりイメージできないけ
ど」
「さあ……。伺ったことはありませんが、どうでしょう」
「何なら浩瀚から教えてもらったあと、わたしがあいつに教えればいいか」
「それもよろしいですね。何にしても碁は性格がでますよ。台輔がどんな碁を
打つのか、拙官も興味があります。それに一局打つのにそこそこ時間がかかり
ますから、確かに相手と親しむには良いでしょう。延台輔のお勧めは悪くない
ように存じます」
「うん。延麒も延王と同じで、一見でたらめなようでも考えるべきことはきち
んと考えているんだよな。碁を覚えて、いずれ延麒の意識が戻ったら対局をお
願いしてみようかな」
「延台輔も喜ばれるでしょう」
「他にもいろいろ提案されたけど、碁以外はなじみがなかったから覚えていな
いな。彼は――延王もそうかもしれないけど、遊びごとには詳しいらしい。あ
れでけっこう趣味人なのかも。そういえば前に雁に招かれたとき、延麒に案内
されて国府にあった海客の団欒所とかいう場所に行ったことがある。蓬莱の楽
器がいろいろ置いてあって、延麒と一緒にピアノを演奏したっけ。あれは楽し
かったなあ」
 そのとき六太は、尚隆も笛を吹いたり舞を舞ったりすると言っていた。それ
を思い出した陽子は、やはり雁の主従はいいコンビなのだろうとつくづく思う
のだった。
「ほほう、蓬莱の楽器、ですか」

500永遠の行方「王と麒麟(134)」:2012/07/10(火) 22:52:55
「うん。雁は海客を歓迎しているから、そういうものも積極的に集めているの
かもしれない。なじみ深い楽曲を聞くと、それだけで気持ちが安定するものだ
し、そうやって海客が国になじむ手助けをしているんだろう」
「蓬莱の楽曲は、われわれのものとはかなり違うという話を聞いたことはあり
ます」
「音階もリズムも違うからね、どうしても聞いた印象が変わってくる。もちろ
ん音楽は生きるために必須のものではないけれど、海客にとって一番つらいの
はむしろ、そういうちょっとした――それでいて決定的な文化の違いなんだ。
だから蓬莱のものを真似た楽器を目にしたり楽曲を聴くのは、精神の安定に役
立つと思う。雁では海客は三年間は援助されるから、単に命をつなぐだけなら
難しいことはない。でも人間ってそれだけで生きられるものではないだろう。
食べものにしてもそうだ。たとえどんなにおいしいものを食べても、時には故
郷の素朴な味が恋しくてたまらなくなるときがある。思えば登極前、雁に助け
を求めて玄英宮に滞在していたとき、何品か蓬莱ふうの料理が出されたことが
あるけど、あれも気を遣ってくれた結果だったのかも」
 目を細めて懐かしそうに語った陽子は、しばらくいたずらに手元の書類を
繰ったあと、不意に「そうだ」と声を上げた。
「何か?」
「これでも料理は得意だったんだ、母にいろいろ仕込まれたから。そのうち気
分転換がてら、皆に料理をふるまいたいな。小麦粉や卵、砂糖はあるわけだか
ら、簡単なお菓子も作れるだろう。クッキーやホットケーキ程度なら簡単そう
だ。ドーナツなんかもいいな。卵を使わない生地を作れば景麒にも食べさせら
れるし」
「主上のお手製の料理ですか。もったいなくも楽しみです」
「浩瀚は――さすがに料理はしないか」
「残念ながら」
 浩瀚はほほえみ、ひとしきり歓談したふたりはやがて政務の話に戻ったの
だった。

501永遠の行方「王と麒麟(135)」:2012/07/11(水) 21:41:49

 大学で行なわれた各種試験が終わり、提出する論文のめどもついた鳴賢は、
久しぶりに団欒所に赴いた。今度こそ卒業したいと必死に頑張ったものの、既
に卒業が確実視されている楽俊と違って感触はよくない。それでも何とかふた
つの允許を得る見通しは立ったため、少なからずほっとしていた。
「へえ……。六太って官吏の養子だったんだ……?」
 恂生は、彼を手伝いがてら鳴賢が六太のことに言及すると、驚きではなく当
惑の面持ちになった。何か不自然だったろうかと心配になった鳴賢だが、楽俊
に確認したかぎり六太はほとんど自分について話していないはずだし、この設
定で通すしかないのだ。不思議そうな顔を作り、こう尋ねてみた。
「長い付き合いらしいのに知らなかったのか? だいたいそんなに意外か? 
官吏じゃないのに仙だったら、普通は官吏の身内に決まってるだろう」
「あ、いや。――うん、そうか。養い親にくっついて他州に行ったのか」
「でも一時的なものらしいから、いずれは戻ってくるんじゃないか」
「ふうん……。しかしそうなると残念だな。六太がいないとここも淋しくなる」
「仕方ないさ。官吏なんてのは出世したければ命令ひとつでどこへでも行かさ
れることを覚悟しなきゃいけないんだから。もちろん急なことだったから、六
太も皆に挨拶できなかったことを残念がっていたらしい。俺も後になって知り
合いの官吏に聞かされたくらいだ。そのうち落ち着いたら手紙でもくれるん
じゃないか」
 鳴賢は何気なさそうに答えてから目の前に置いた板に集中し、大きく「海客
団集室」の文字を書いた。ついで紙に今月と来月の開放日の予定と、誰でも気
軽に訪ねてほしい旨の告知文を書く。板は扁額として入口に掲げ、紙はその下
に掲示することになっていた。
 国官を目指すくらいだから鳴賢は筆跡には自信がある。黒々とした墨で鮮や
かに書き上げられたそれは堂々としていて、掲示を提案した鳴賢自身も満足し
た。
「こんな感じでどうかな」
「うん、すごい。格好いいな。俺なんかいまだに筆の扱いに苦労しているから、
そうやって一発で書かれると尊敬する」

502永遠の行方「王と麒麟(136)」:2012/07/11(水) 21:52:08
 恂生はそう褒めてから振り向き、少し離れたところで談笑しながら人形を
作っていた女性たちに大声を張り上げた。
「守真、この板はしばらく置いたままにして墨を乾かすから触らないで。あと、
催しの詳細は日時が確定してから書くってことでいいよな」
「ええ、それでお願いするわ」
 作りかけの素朴な人形を軽く掲げながら、一団の中にいた守真が笑顔を返し
た。
 絵師を手配できれば紙芝居をやりたいところだったが、残念ながら適当な人
物に心当たりがなかった。そこで頭をひねったところ、簡単な人形を作って人
形劇をしたらどうかとの守真の思いつきが出て皆で形にしているところだった。
確かにいくら語りに合わせて情景を差し替えるとしても、静的な絵を見せるよ
り、人形で動きのある場面を演出したほうが幼い子供などには受けやすいだろ
う。
 女性の一団にはめずらしいことに緑の髪の胎果の少女もいて、関弓の民と並
んで黙々と針を進めていた。守真はその彼女をちらりと見てから恂生に言った。
「区切りがついたのなら、悠子ちゃんが書いた脚本をまた見てあげてくれる?
 せっかくだから鳴賢も意見を聞かせてちょうだい」
 無造作に片手を上げて「おー」と応えた恂生は、そのまま鳴賢を手招きしな
がら守真たちに歩み寄った。
「ところで知ってた? 今鳴賢に聞いたんだけど、六太が養い親の官吏にくっ
ついて地方州に引越しちゃったんだって。要は転勤。ずいぶん急だけどしばら
く戻ってこれないらしい」
「えっ……」
 目を丸くした守真は針を持つ手を止めてこちらを凝視した。ぱちぱちとまば
たいた彼女はしばらく何も言葉を口にしなかったが、やがて傍らの悠子に話し
かけた。
「大変、六太の親御さんが急に地方に転勤になって、あの子もついていったん
ですって。もう当分会えないってことだわ」
 なぜ恂生が言ったのと同じような説明を繰り返すのだろうと不思議に思った
鳴賢だが、緑の髪の娘はまだこちらの言葉に難儀しているのかもしれないと思
い当たった。恂生と違って守真は仙だから、彼女が話せばここにいる誰に対し
ても言葉が通じる。

503永遠の行方「王と麒麟(137)」:2012/07/11(水) 23:01:21
 ぱっと顔を上げた悠子は、明らかな驚愕の声を上げて守真を凝視した。それ
から一言二言口にしたが鳴賢には聞き取れず、守真が優しくたしなめた。
「結局あれから口を利いていないの? 困った子ねえ。こっちには電話っても
のがないんだから、どちらかが引越しちゃったらそう簡単に謝れないわよ? 
手紙だって気軽にやりとりできるとはかぎらないんだし」
 鳴賢は恂生の袖を引き、小声で「六太と何かあったのか?」と尋ねてみた。
恂生は困ったような笑みを浮かべて教えてくれた。
「別に仲たがいをしたわけじゃない。去年の年末あたりだったか、六太が言っ
たささいなことで悠子がつっかかってね。いつものことだから六太のほうは適
当に受け流していたけど、悠子が勝手にへそを曲げて口を利かなかったんだ。
でも六太はしばらくここに来ていないから、それから会ってないだろうな。と
なるとそのまま引っ越されたんじゃ寝覚めは悪いだろう?」
「なるほど」
 ここで口論の原因を聞くことでもないので、あとできちんと教えてもらおう
と心に留める。六太に関わることなら何でも手がかりになる可能性がある。
 悠子が書いたという話は三本あり、鳴賢は彼女と恂生と一緒に少し離れた場
所に椅子を移動した。粗末な紙に書かれた物語は蓬莱語だったため、一部にあ
らすじ程度の大雑把な部分が残っているそれを恂生が読みあげて鳴賢に聞かせ
た。
 一本は東海に棲む美しい竜王公主の恋物語だったが、展開そのものはわかり
やすくて幼い子供でも楽しめそうだった。残りの二本は、病気がちの母親のた
めに山に希少な薬草を探しに行く兄妹の冒険譚と、横暴な領主が次々に出す難
題を、めんどりや穴熊といった動物たちと協力して解決していく腕白少年の滑
稽譚。聞けば守真や恂生の意見を取り入れて既に二回ほど手直しをしているら
しいのだが、正直なところこの娘に何かの才があるとは思ってもみなかった鳴
賢は驚いた。
 恂生が鳴賢に「どう?」と尋ねる。
「飽きが来ないよう、全部異なる傾向の話にしてもらったんだ。それと楽しい
気持ちになってもらいたいから、どれもめでたしめでたしで終わるようになっ
てる。説教くさい展開もない」
「うん、おもしろい。すごいな、まるで講談を聞いているようだ。おまけに初
めて聞く物語だから新鮮だ」

504永遠の行方「王と麒麟(138)」:2012/07/11(水) 23:09:17
 鳴賢は正直に認めた。それを通訳したのだろう、恂生が蓬莱語で話しかける
と、それまで一度たりともまともに鳴賢を見たことのなかった娘がびっくりし
た目を向けてきた。そういえば大して会ったことがあるわけではないにしろ、
この娘が少しでも笑ったり明るい表情をしたところを見たことはなかったな、
と鳴賢は気がついた。
「特に最後の話、お節介なめんどりとひょうきんな穴熊のやりとりが滑稽でい
い。それと領主が本当に憎らしいから、大言壮語を吐いて窮地に追い込まれた
ように見えながら、その都度切り抜ける少年も気分がいいな」
「うん、ハラハラドキドキするだろう?」
「ところでその話は架空の国での出来事ってなってるけど」
「ああ、それも天帝が世界を作り直す前の時代にしてある。何しろ領主が悪役
だからね、万が一それをお上への批判にすりかえられたら大変だ」
 おどけるように肩をすくめた恂生に、鳴賢は理解とともにうなずいた。悠子
自身が配慮したにせよ守真か恂生が助言したにせよ、ちゃんと考えられている
のだ。
「すごくおもしろい」
 これくらいは聞き取れるだろうと娘に簡単な言葉をかけると、相手は戸惑っ
た表情ながらもおずおずと会釈してきた。
「ところでこれって見料を取らないのか?」
「え? 無料だよ、もちろん。単にここに集まって楽しんでもらいたいだけで、
商売するつもりはないから」
「それはもったいないな」
「食うに困っているわけじゃないから。そもそもこうしてここで関弓の民と歓
談するのも、互いに親しむのが目的だし、欲を出すと却って厄介ごとを招きか
ねないよ。他の海客にも影響があることなんだから、無欲が一番だ。それに小
金を稼げなくても、楽しんでもらえたら充分やりがいがある。関弓のような大
きな街でさえ、普通の民が楽しめる娯楽は限られているからね」
「それでも目に見える形で報酬があると、意欲が違うと思うんだがなぁ。たと
えお茶代程度だとしても」
 恂生が悠子に一言二言言い、娘は相変わらず戸惑いながらも再度鳴賢に軽く
頭を下げた。見料のことを口にしたため、彼女の物語にそれだけの価値はある
とでも伝えられたのだろう。

505永遠の行方「王と麒麟(139)」:2012/07/11(水) 23:26:01
 その話はそこで切り上げ、さらにしばらく内容を検討したあと休憩すること
になった。守真らがいる場所に椅子を戻して一緒にお茶をすする。
 鳴賢が話題を向けるまでもなく、守真が六太についてあれこれ尋ねてきたの
で、問われるままに話をした。その後、鳴賢が手紙を書いて知り合いの官吏に
託し、届けてもらうつもりだと告げ、ついでに六太の好きなものがあれば送っ
てやりたいと口にすると、好きな菓子やら親しくしていた人の噂話やらが出て
きた。その延長で悠子との口喧嘩について尋ねたところ、こういうことだった。
 あるとき六太が彼女に、淋しいときは太い木の幹に抱きつくと安心できると
教えたのだという。それを悠子は「莫迦じゃないの、あんた」と一刀両断、し
かしめげない六太は「そうなんだけど、意外に落ち着くんだ」と答えたらしい。
「落ち葉の中に潜り込んで寝たりとかさ。それに相手が木なら、誰にも気づか
れないですむぞ」
 ふたりが何を話してそんな話題になったせよ、六太としては相手を慰撫する
つもりだったのだろう。しかし悠子は逆に莫迦にされたと怒ったらしい。確か
に木に抱きつけだの落葉の中で寝ろだの、突拍子もないことのように思えた、
が。
「実は俺、この間試してみたんだ。六太が根拠のないことを言うとは思えな
かったから」
 と恂生。隣町に行く用事ができたとき、途中で立派な大木を見つけ、ふと六
太の言葉を思い出して抱きついてみたのだという。
「そうしたら不思議なんだけど、確かにちょっと気持ちが安らぐ気がしたな」
「へえ……」鳴賢は驚いた。
「ついでに木の根元で仰向けになって体に落葉をかけてみたら、なんていうか
大地に抱かれているような気持ちになってさ。あれもなかなか悪くなかった」
「ほら、六太はあなたを莫迦にしたわけじゃないし、いい加減なことを言った
わけでもなかったのよ」
 うつむいた悠子に守真はそう励ましてから、恂生に「わたしもそのうち試し
てみようかしら」と笑顔を向けた。そして「そんな助言ができるなんて、六太
も淋しいときがあったのかしらね」と続けたので、鳴賢はどきりとした。
「気持ちを落ち着けたくて、木に抱きついたりしてみたのかしら。恂生は聞い
たことある?」

506永遠の行方「王と麒麟(140)」:2012/07/11(水) 23:34:11
「誰かに教えてもらったのかもしれない。それともたまたま遊びでそうやって
みたら気分が良かったのを覚えていたとか」
「気楽そうに見えたけど、あの子もあれでいろいろあるのかもしれない。引越
し先でも元気にしていればいいんだけど。そうね、わたしもぜひ手紙を書きた
いわ。宛先がわからないから鳴賢に頼んでもいい?」
「ああ、いいですよ。六太のことを知らせてくれた官吏に一緒に送ってもらい
ます」
 それから人形劇の話に戻り、この際、観客のための榻やら上に置く靠枕やら
も自分たちで新しく作ろうかという話になっていった。

 玄英宮では静かな日々が続いていた。主君が昏睡に陥っていたときと異なり、
どこか淀んだものが鬱屈して爆発を待っているといった緊張感もない。常であ
れば不在がちな主君もほとんど宮城を空けることなく、聞きこみのために関弓
に降りても、一、二刻で戻ってくる。おかげで書類がたまることもなく政務は
円滑に回っていた。六太に関する懸念さえなければ、何事もなかったかのよう
な毎日。
「大司寇、たまには夕餉でも一緒にいかがですか。銘酒を手に入れましたので、
ぜひ一献」
 そう言って冢宰白沢に誘われた朱衡は、「喜んで」と応じて相手の私邸に出
向いた。
「こちらにお越しになるのは久しぶりですね」
「確か昨春の梅見に伺ったきりですから。官邸にはたまにお邪魔していました
が」
「今年は梅見どころではありませんでしたな」
 そんな言葉をにこやかに交わしながら、白沢は朱衡に料理と酒を勧めた。ひ
としきり歓談したあと、白沢は従者を下がらせ、昨夜届いたばかりの慶の親書
のことを話題にした。
 当初は六太とのもともとのやりとりをなぞって青鳥を飛ばしていたのだが、
昨夜は前触れもなく景麒が獣型で現われ、これまで六太が陽子と交わしたあれ
これが書かれた大量の書面を届けたのだった。青鳥につけられる紙片に書ける
文章量などたかが知れている。それで地道にちまちま送らざるをえないことに
陽子が辛抱できなくなったらしい。何しろ周囲に怪しまれないためには、青鳥
を飛ばす頻度も多くはできないのだ。

507永遠の行方「王と麒麟(141)」:2012/07/12(木) 19:19:36
「景王が思い切りの良いかたであるのは存じておりますが、あれにはびっくり
しました。何しろ景台輔は、大量の書面を入れた袋を背にくくりつけておられ
ましたから」
 くすくすと笑う朱衡に、白沢も苦笑して相槌を打った。
「そうそう。飛脚代わりにされ、疲れた表情でお気の毒でした。確かに麒麟の
俊足でなければできないことですが、申し訳ないことに深夜にとんぼ返りです
よ」
 それでいて陽子は覚えているかぎりをすべて書き送ってきたわけではない。
これまでの六太との親交を考えれば、ごく一部にすぎないだろう。彼女からの
伝言によれば、まずは六太が関心を示したことのある話題を時系列で一覧に書
き出した、何が手がかりになるかわからないため判断は玄英宮に任せるが、古
い順にやりとりの詳細を書きあげていくので、少なくとも月に一度ぐらいの頻
度で景麒に届けさせるとのことだった。
「景王もお忙しいでしょうにありがたいことです。これで手がかりが得られれ
ばいいのですが」
「景台輔が以前おっしゃった、麒麟が願うのは国か王のことという話とつなが
るような何かが出てくれば……。もちろん台輔のあずかり知らぬところで、台
輔のお心を探るような真似をしていることには罪悪感を覚えますが、そこは非
常時としてお許しいただくしかありません」
「ええ。台輔もご理解くださるでしょう」
 そうは言いながら、これまで六太が誰にも明かそうとしなかった、明かした
くないと思っていた事柄であるのは確か。他に方法がないとはいえ、それを探
り出さねばならないことに、申し訳ないと詫びる気持ちは朱衡も持っていた。
「ところで大司寇、最近の秋官府の様子はいかがですか? 特に浮き足立って
いるようなことは?」
 話題を変えた白沢に、朱衡は首を振った。
「変わりありません。むろん台輔のことはみな心配していますが、とりあえず
状況に変化はないわけですし、仕事をしていれば気も紛れます」
「そうですな、秋官府に限らず、大半の官は台輔の御身を案じながらも主上の
健在ぶりに安堵しています。特に官位が低くなればなるほど、意識的にしろ無
意識にしろ、台輔のことを考えないようにしているようです」

508永遠の行方「王と麒麟(142)」:2012/07/12(木) 19:46:17
「もともと低位の者には、日々の業務における台輔との接点などありませんか
らね。意識から追い出すのは容易でしょう」
 既に何ヶ月も六太なしで政務が回っている上、玄英宮は王や宰輔の不在に慣
れている。おまけに末端の官にできることはないとなれば、事件を脇にのけて
いるより仕方がない。
「そうです。そしてこのままの状態が一年も続けば、おそらく諦めに近い空気
が支配的になってくると思われます」
 朱衡が反射的に眉根を寄せたので、白沢は弁解するように続けた。
「もちろん台輔のために尽力し続けますが、正直なところ先が見えないのは確
かです」
「本格的な調査を始めてからさほど経っていない状況ですし、それでいて興味
深い話はいろいろ出てきていますよ」
「それでも、です」白沢はめずらしく厳しい表情になっていた。「何しろ慈悲
深くも厄介なことに、台輔ご自身がわれわれに逃げ道を与えてくださいました」
「逃げ道?」
「官に宛てた言伝です。託された書面も簡潔でしたが、例の大学生により伝え
られた、ご自分を単なる物として扱い見捨ててほしいとのお言葉……」
「――ああ」
「このまま解決しなかったとしても、『仕方ない、台輔もわかってくださって
いる』と言い訳することができます」
「しかしわれわれは諦めませんよ」
 朱衡が強く言い放つと、白沢もそれに同意するように大きくうなずいた。
「とはいえ残念ながら解決の見通しは立っていません。実のところ拙官は、い
ずれ宮城で諦念が支配的な空気になったとき、主上に与える影響を心配してい
ます」
 朱衡はまじまじと相手を見、それから力を抜いてほほえんだ。
「冢宰も意外と心配性でいらっしゃる。われわれが主上に翻弄されるならとも
かく、あの主上が官に影響を受けることなどありえません。いつもこちらの思
惑を無視して、ご自分の思うとおりにしてきたかたなのですから」

509永遠の行方「王と麒麟(143)」:2012/07/12(木) 19:55:31
「ええ、これまではそうでした」白沢は溜息をついた。「実際のところ仮に諦
念が支配的になろうと、台輔をお救いできるそのときまで平穏に過ぎればそれ
でも良いのです。しかしいくら主上が胆力のあるかたとはいえ、発端からこれ
まで、あまりにも平然となさっていることが逆に気になります」
「主上のお立場で簡単に動揺を見せるわけにもいかないでしょう。今現在、玄
英宮の諸官が落ち着いていられるのは、間違いなく主上が泰然としてくださっ
ているおかげです。
 もちろん主上なりに台輔を心配しておられます。でなければ毎日のように仁
重殿に見舞いに行かれるはずはありません。そもそもあの主上が何ヶ月も宮城
に留まっておられること自体、異例です」
「それはそうなのですが……側近であるわれわれにぐらい、もう少しお心を見
せてくださっても良いのではないか、と。いや、あれで主上が内面を簡単にお
見せになるかたでないことは承知しています。しかし過去の謀反と異なり、今
回のことは残念ながら主上ご自身のお力ではどうにもならない。呪の専門家で
はありませんから、どうしても冬官など、他の者に解決をゆだねざるを得ない。
これまで日常においてはわれらを信頼して任せながら、ここぞというときには
みずから解決に乗り出すというやりかたでやってきた、それが通用しないので
す」
「そうかもしれませんが、まだ六、七ヶ月しか経っていないのですし」
 まだ、と言うべきか、もう、と言うべきか。
「大司寇。問題は、いろいろな台輔の話が出てきているとはいえ、まったく先
が見えないことです。忌憚のないところを申せば、解決まで何年、何十年か
かっても不思議はない状況です」
「その可能性は最初から主上も承知しておられますよ。むろんわれわれも。だ
からこそまず碧霞玄君のお墨付きをいただいたわけでしょう」
 そう答えたものの、できれば最悪の事態は考えたくない朱衡だった。白沢は
続けた。
「台輔がたまに顔を出しておられたという海客の団欒所、景王の親書を翻訳し
ている軍吏もそこにいたとの話ですが、主上はその軍吏をご自分で聴取しよう
とはなさりませんでしたな。それなりに台輔と親しくしていたと思われるのに。
そして重大な事件にはご自分で首を突っ込むたちの主上が、関弓で地道に聞き
込みをしながら、足元の団欒所にはいっこうに立ち寄る気配がない」

510永遠の行方「王と麒麟(144)」:2012/07/12(木) 20:33:15
「台輔と異なり、これまで一度も足を向けたことはないようですね。とはいえ
もともと主上は、すぐ凌雲山を抜け出しておしまいになるようなかたですから。
それに団欒所のことは鳴賢に任せたとおっしゃっていました」
「しかし主上は胎果であられる。蓬莱ゆかりの人々にもっと興味を持ってもい
いはずだとは思いませんか? なのに逆に避けておられるかのようだ」
「はあ」
「世の中には、言葉や態度に出さないほど逆に傷が深いということもあります。
考えてみれば主上は、蓬莱でのことをほとんど口になさったことがない。今回
の事件では、台輔が生い立ちを明かさなかったことばかり印象が強いようです
が、実のところは主上も同じです。おふたりとも、五百年という歳月を思えば
不自然すぎるほどわれわれに過去を話しておられません」
 それは事実だったので、朱衡は迷いながらも「確かに」と認めた。
「と言うことは主上も台輔に劣らず、蓬莱での出来事に傷ついておられる可能
性があると思うのです。しかしも蓬莱から主上をお連れした台輔がそれに触れ
ないということは、台輔もご承知の事柄なのでしょう。
 ただでさえ麒麟は王の命の担保であり、半身と言われるほどの存在。加えて
主上の場合はそういった蓬莱での縁がありますから、さらに強い絆を感じても
不思議はありません。なのに誰の目にも通り一遍の心配しかしていないように
見えるとなれば、そのことが逆に気にかかっても仕方ありますまい」
 白沢の言葉はうなずけるものであったので、朱衡は否定しなかった。沈黙を
挟んでこう答える。
「本来、王にとって麒麟はいて当たり前の存在ですね。いわば空気のようなも
の。いなくなって初めて違和感を覚える……」
「別行動も多く、大喧嘩をなさることもめずらしくなかったとはいえ、普段の
おふたりはなかなかに仲の良いご様子でした。その台輔がご自分の意思や主命
で出かけておられるならともかく、意識不明で臥せったまま、何ヶ月も主上の
傍らにお姿がない。加えて使令という下僕も消えてしまった現在、長年その存
在に慣れて便利に使っていた主上にしてみれば違和感どころではないはずです。
むろん今の段階でどうということではありませんが、大司寇にはお心に留め置
いていただければと」

511永遠の行方「王と麒麟(145)」:2012/07/12(木) 20:59:10
 朱衡は考えこんだ。要は白沢はこう言いたいのだ、六太ほど尚隆の過去を
知って理解している者はいないだろうし、したがって麒麟であると否とを問わ
ず代わりはないはずだ、と。その六太を失ったも同然の今、主君の心に本人も
予想してしないような動揺が走る可能性はある。いや、表面に現われていない
だけで、現時点で既にかなり傷ついているのではないだろうか……。
 何しろ胎果の尚隆には家族がいない。后を娶ってもおらず、相変わらず後宮
は空のまま、側室たる妃嬪を蓄えたこともない。あれで公私をきっぱり分ける
尚隆は、宮城で女官に手を出したこともない。いかに下界で女遊びをしようと、
長く生きた神仙は既に市井の民人とは異なる時間を生きているものだから、そ
こに深いつながりを見いだすことはできないだろう。
 こうしてあらためて考えてみると、尚隆は意外と危ういように思えた。不測
の事態が起きたとき、家族なり恋人なりがいれば心の支えになるだろうが、尚
隆にそういう相手はひとりもいないのだから。
 果たして宮城は主君にとって「家」足りえているのだろうかと、朱衡は初め
て真剣に考えた。出奔のたび、自然に帰ってきたいと思ったから帰ってきてい
たのか、それとも他に行くあてがないから仕方がなかったのか。六太もそうだ
が、そもそも宮城の居心地が良ければ、あれほど頻繁に下界に赴いただろうか。
 主君の生い立ちは朱衡もよく知らない。仕えた五百年で知りえたのは、尚隆
が領主の息子であり、死んだ父親から継いで治めていた所領を失ったため六太
が連れ出したという話ぐらいだ。それも六太や尚隆がほのめかした言葉の断片
をつなげてそう解釈しただけで、具体的な家族の話は一度も耳にしたことがな
かった。
 これだけの時間が経った以上、白沢が言うように、今となってはおそらく六
太のみが知る過去なのだろう。そして主君が自分の個人的な事情を口にしない
ということは、真に心を開いている相手がいないということでもある。何かが
あればひとりで立ち直るしかないし、事実これまではそうやってきたはずの主
君だった。

512永遠の行方「王と麒麟(146)」:2012/07/13(金) 20:21:41

 団欒所で行なわれた人形劇は大成功だった。長年、ここを管理してきた守真
でさえ、これほど催しが盛況だったことはないと言ったほどで、裏方とはいえ
手伝った鳴賢も嬉しかった。
 朱旌の講談や小説と同じように受け止められたことと、近所の知り合いを中
心に配った絵入りのちらしが木版による色刷りでめずらしかったこと、何より
無料だったためだろう。日常における娯楽の少なさもあって、予告した時刻に
は子供を連れた母親や老人を中心に五十人以上が集まっていた。
 人形は手袋のように手を入れて動かす簡単な作りだが、それを操る守真と恂
生の大げさな身振りと口上が受け、最前列に座った子供たちは終始笑ったり叫
んだり大騒ぎだった。
 海客は守真と恂生、裏方にいた悠子の三人だけだったので人手は足りなかっ
たが、日頃から何度も顔を出していた関弓の女たちが茶や菓子を出すのを手助
けした。めずらしく人型の楽俊も母親を連れて訪れていて、楽俊の母は守真に
挨拶をするなり他の女たちとともにはりきって手伝いを始めた。
 これで酒を出したりお金をやりとりしていたら諍いが起きた可能性もあるが、
大半が老人や女子供で顔見知りが多かったこと、ふるまわれたのがささやかな
茶と菓子だけだったのが逆に良かったのかもしれない。
 劇がひとつ終わるごとに休憩を兼ねた歓談の時間を設け、集まった人々は皆
知り合いとなって楽しく言葉を交わした。ずっと守真の傍らにくっついていた
悠子だけは、言葉に不自由しているとあってほとんどしゃべらなかったが、物
語が彼女の手によることが知られると皆が口々に感嘆の声を上げたので、話が
見えないなりに嬉しく思ったらしく、遠慮がちな笑みを浮かべることもあった。
「これ、六太が言いだした紙芝居がきっかけだけどさ。どうなるかと思ったけ
ど、やってみて良かった」
 最後の物語を上演したあと、一通り観客の間を回って言葉を交わしていた恂
生は鳴賢の隣に来て座るなりそう言った。
「今まではこういうのやったことないのか?」
「うん。楽器の演奏とか皆で歌うとかお茶会とか、そういうたぐいの催しが主
体だった。俺は蓬莱の歌謡曲で好きなのを演奏したり歌ったりしたけど、大し
て受けなかったなぁ。そうしたら六太が、綺麗に彩色した絵で紙芝居をしたら
どうかと言い出したんだ。それなら万人受けするだろうって」

513永遠の行方「王と麒麟(147)」:2012/07/13(金) 20:33:52
「ああ、俺も聞いたことがある。でも絵師を手配できなかったって言ってた」
「んー」恂生は頭をかいた。「本当は手配できなかったわけじゃない。実は悠
子がけっこう得意でさ、描いてもらったらって話だったんだ。もともと六太は
そのつもりで言いだしたらしくて」
「あの子、絵も描けるんだ?」
 鳴賢が驚いて尋ねると、恂生は困ったような顔をしつつ「まあな」と答えた。
「だけどあの子は自分の絵を他人に見られるのを嫌がって。慣れた用具がな
かったのと、絵が漫画的で――そういう手法の絵が蓬莱にあるんだ。こちらに
ない感じの。それで絶対にけなされると思ったらしい。悠子はあれで他人の目
をひどく気にするたちだから」
「でも今回の脚本は書いたんだろ?」
「あれは最初、守真たちと雑談していて出た話を発展させたものだから、抵抗
が少なかったんじゃないかな。俺も守真も話を考えるなんてのは不得手で、あ
の子がいろいろ肉付けしたのを後で聞いてとにかく褒めたら、ようやくやる気
を出してくれて。ただでさえあのくらいの歳の子は扱いが難しいから、あのと
きはほっとした」
「そうだったんだ……」
「でも良かったよ、うまくいって。六太がいたら一緒に喜んでくれただろうに、
それだけが残念かな。そうだ、君に頼みがあるんだけど」
 恂生が今回の脚本の写しを六太に送りたいと言ったので、鳴賢は引き受ける
ことにした。前に守真に頼まれた六太宛の手紙と同様、大司寇に言付ければ仁
重殿に届けてもらえるだろう。残念ながら返信は期待できないが。
「海客の――蓬莱の音楽については、俺も楽俊から聞いたことがある。変わっ
てるって」
「一口に蓬莱の音楽と言ってもいろいろあるんだけどね。俺がよく歌っていた
のは流行り歌というか俗謡のたぐい。俺、蓬莱ではバンドっていう小さな楽隊
をやってて、そういう歌ばかり演奏してたんだ。自分で曲も作ってた。でも
こっちじゃ面子は揃わないし楽器もないしでくさってたら、それまで何かと周
囲をうろちょろしていた六太が、自分に教えてほしいって言ってきて。

514永遠の行方「王と麒麟(148)」:2012/07/13(金) 21:19:53
 今から思うと、それで気を引いて俺と親しくなるきっかけにしようとしてく
れたんだろうな。結局、蓬莱の流行り歌をいろいろ教えて、調達できたぶんの
楽器の弾きかたも教えて、そうしたら一緒に歌ったり弾いたりしてくれるよう
になってさ。それまで俺、けっこう荒れてたんだけど、それでやっとちゃんと
六太と話をする気になれたんだ」
 恂生は当時を思い出すようにしみじみと語った。興味を引かれた鳴賢が、ど
んな曲を六太に教えたのか尋ねたが、「ギターでもあればすぐ旋律を弾けるん
だけど、今はちょっと無理。俺、ピアノは弾けないし」と答えた。
「でも良かったら次の機会にでも、守真と無伴奏で歌ってやるよ。蓬莱独特の
物や慣習を知らないと完全には歌詞を理解できないだろうけど、大抵は恋の歌
だから何となく雰囲気はわかると思う」
「……恋の歌なんだ?」
「そう。だから蓬莱でも、そういう歌をくだらないと莫迦にする人もいて――」
「六太も恋の歌を歌ったりしたのかい?」
「うん、一緒にね」恂生は嬉しそうだった。「つきあいってだけじゃなく、本
当に楽しそうにしてくれたよ。あれで六太は度胸も声量もあって、歌いかたも
堂々としているんだ。音程も確かだし、教えた俺が言うのも何だけど見事な歌
いっぷりだった。大勢を前にしても全然あがらないし」
 それはそうだろう。日頃から六太は大勢の女官にかしずかれていたはずだし、
朝議や政務で、諸官を前にする毎日だったはずだ。こんなところで何十人かの
民の注目を集める程度で、いちいち緊張などしなかったに違いない。
「おまけに声変わりもしてないから女声部も歌えたし、二重唱をするときは重
宝したな。もっとも本人は子供っぽいから男声部を歌えないと不満があったみ
たいだけど、俺はなかなか綺麗で通りの良い声だと思ってた。ここでいろいろ
作業しているときも、蓬莱の流行り歌を鼻歌で歌っていることもよくあったっ
け」
「それも恋の歌?」
「そう。何せ教えた歌の大半がそうだから」
 鳴賢は考えこんだ。たかが歌だ、旋律が良ければ歌いたくもなるだろうし、
恋を織りこんだ歌詞自体に惹かれたとはかぎらない。

515永遠の行方「王と麒麟(149)」:2012/07/13(金) 21:37:49
 とはいえ六太は切ない片恋をしていたはず……。
「恂生、もし良かったら俺にも蓬莱の歌を教えてくれないか? ちょっと興味
が湧いてきた」
「かまわないよ。というか、蓬莱のものに関心を持ってもらえるのは嬉しいか
ら大歓迎だ。楽譜はここに常時置いてあるから、次の開放日にでも来てくれれ
ば、二、三曲ならすぐ覚えられると思う」
「譜面があるんだ? 詞が書いてあるなら貸してもらえるかな?」
「いいけど……でも蓬莱語で書いてあるぞ?」
「あ、そうか。俺には読めないな」
 鳴賢はがっかりしたが、数曲なら恂生が簡単に翻訳しておいてくれることに
なった。彼が普段生活している店の場所を詳しく教えてもらい、次の開放日を
待たず、三日後に取りに行く約束を取りつける。
 蓬莱の恋歌に、六太の望みに関する手がかりがあるとはかぎらない。しかし
彼が繰り返し歌っていた曲があるなら、多少なりとも詞に共感していたはずで、
そこから心中を察することができるかもしれない。

 いつもの鼠姿に戻った楽俊と連れだって寮に戻った鳴賢は、その後で楽俊の
母が作って届けてくれた蒸し菓子でお茶にし、人形劇についてあれこれ話した。
「おいら、ああいうの初めて見たけどおもしろかったな。母ちゃんもずいぶん
褒めて、次があるなら、ぜひまた見たいって言っていた。朱旌の小説みたいに
大がかりな舞台がなくても、それっぽく見えるもんなんだなあ」
 楽俊はしきりに感心していたが、それは鳴賢も同じだった。
「もともと六太が紙芝居ってのをやりたがっていて、絵師を手配できなくて人
形劇に変えたんだ。でもこうなると紙芝居も見てみたいよな。何より彼らが新
しく作った物語だから目新しくていい」
「よくまあ、ああいう話を考えつくもんだ。悠子とかっていう海客の子が考え
たんだってな」
「うん、そう。守真たちと雑談みたいにして話していたのが原型らしいけど、
あの子に何かの才があるとは思ってもみなかったから驚いたよ。正直、これま
であまり良い印象は持っていなかったんだ。だっておまえを気味悪がったのっ
てあの子だろ?」

516永遠の行方「王と麒麟(150)」:2012/07/13(金) 21:46:08
「よくわかったな」
「そりゃあな。見ていればぴんとくる」
 でも、と鳴賢は続けた。考えてみれば、まだ里家で養われているような女の
子だ。それが蝕に巻きこまれて、着の身着のままでこちらに流され、二度と肉
親とは会えなくなってしまった。だとしたらいろいろと同情の余地はある。性
格的に多少の欠点はあれど、鳴賢が脚本を褒めた際の戸惑った表情と言い、こ
ちらに来て以来、他人に認められることがほとんどなかったのかもしれない。
それでかたくなになっていたなら、今回のことがきっかけで少しは人当たりが
良くなる可能性はあるし、半獣に対して考えを改めるかもしれない。
「むろんわからないけどな。でも最初に思ったより嫌な子じゃないかもと思っ
たんだ。六太も気にかけていたようだし」
「おいらのことなら別に気にしてねえから、鳴賢も忘れてくれ。蓬莱に半獣が
いないなら、あの子もおいらを気味悪がったというより、むしろ怖がったのか
もしれねえしな。そのうち自然に慣れてくれるさ」
 その後、鳴賢が恂生の言っていた蓬莱の流行り歌の話題に変えると、楽俊は
うーんと天井を振りあおいだ。
「言われてみると、確かに台輔は機嫌がいいとき鼻歌を歌うこともあったなあ。
もしかしたらあれも蓬莱の歌だったのかもしれねえ」
「鼻歌か……。じゃあ詞はわからないな」
「詞を知りたいのか?」
「六太が好きな歌の詞がわかれば、少なくとも好みを知る手助けにはなるだろ
う? それで今度恂生に、蓬莱の歌詞をいくつか教えてもらうことになったん
だ」
「そうか。そうだな、台輔が好きだったものなら、確かに何でも手がかりにな
る可能性はある。おいらもこれまでの台輔との話を思い出して、あらためて考
えてみることにするよ。ついでに母ちゃんにも聞いてみるかな」
「ああ、頼む。俺のほうはまた折を見て海客たちと話すつもりだ」
 これまで大学の朋友たちにさりげなく聞いたかぎりでは、鳴賢たちほど親し
くなかったとあって、六太と突っこんだ話をした者はいなかった。それに比べ
れば団欒所の海客たちのほうが、六太が彼らを気にかけて力になってやってい
たぶん、はるかに親しいはずだ。

517永遠の行方「王と麒麟(151)」:2012/07/13(金) 22:47:47
「恂生を励ますために、六太は彼から蓬莱の歌や楽器を習ったりしていたらし
い。そういった趣味の話をしていたなら、好みだの何だのについても一通り話
題にしたことがあるんじゃないか」
 恋愛問題についてとは言わずに表現をぼかす。こればかりは楽俊にも悟られ
るわけにはいかなかった。

 それから三日後に恂生を訪ねた鳴賢は、彼の新妻である揺峰も交えてお茶を
飲んだ際、予期したとおりこれまで出てこなかった話をいろいろ耳にした。そ
れは事実というより、揺峰によると「こうじゃないの」という程度の推測では
あった。しかし蓬莱の恋歌にかこつけて話題を向けると、彼女は六太が麒麟だ
と知らないせいか、好きな女の子くらいいるだろうと当然のように語った。宮
城の諸官にとっては思いがけないことに違いないが、かと言って揺峰はまった
く根拠のない話をしたわけでもなかった。
「だってそういうことに興味のある年頃でしょ? そりゃ仙ってことは見た目
より少しは年上なんだろうけど、大して変わらないわよ。それに六太は歌がう
まいの。よく通る声で安定しているから聞きごたえがあるのね。楽しい歌はも
ちろん楽しくにぎやかに歌ってたけど、しっとりとした恋歌なんか情感たっぷ
りに歌いあげるんだもの、あれで好きな子のひとりやふたりいなかったはずは
ないわ」
 気楽な調子で断言した彼女に、鳴賢は続けて尋ねた。
「でもこの近くにはいなかったですよね、六太の好きな子。少なくとも俺は知
らない」
「うーん、どうかしら」揺峰は小首をかしげて考えた。「そうね、確かにわた
しが知るかぎりでは相愛の子はいなかったかも。でも片恋なら、こっそり陰か
ら姿を覗き見るような相手ぐらいいたんじゃない? もっとも引越したんなら、
これまでのことはそれとして、新しい土地で気の合う子を見つけると思うけど」
 あっけらかんとした物言い。まさか六太が、苦しい片恋を続けているとは考
えてもいないのだろう。
 頼んでおいた歌詞については、恂生が揺峰とふたりがかりで翻訳しておいて
くれていた。恋する娘を表現した恋歌、恋人が去ったことを嘆く失恋の歌、友
人を励ます歌、の三編。

518永遠の行方「王と麒麟(152)」:2012/07/13(金) 23:08:52
 それなりの期待を持って詞に目を通した鳴賢だったが、しかしながら翻訳の
精度の問題なのか、まったくもって心を惹かれる表現でも文体でもなかった。
だがそんなことは予想済みだったのだろう、感想を述べず、礼だけを返した鳴
賢に恂生が苦笑した。
「あまり高尚な詞じゃないのはわかってる。ひねりもないしね。でも大抵の流
行り歌は曲に乗せて歌わないと魅力がわからないと思うよ。今ちょっとサビの
部分だけ蓬莱語で歌ってみる。翻訳で言うとこの部分だな」
 彼は詞の書かれた紙の一点を指すと、わずかに体を揺らして拍子を取りなが
ら、あまり大声にならないよう注意して歌いはじめた。蓬莱語の意味はわから
ないながら、無味乾燥で見るべきところなどないと思われた詞が、とたんに生
命を吹きこまれて生き生きとした表情を見せはじめる。
 鳴賢の知る俗謡とは毛色が違うため耳が馴染まず、すぐには良い歌だと言う
ことはできなかった。しかし歌詞を見た際に受けた白けた印象を考えれば、存
外悪くなかった。
「これ、三つとも六太は歌ったことがある?」
「何度もね。度胸のある六太の声量で歌われると、この恋歌などは歌詞は単純
なのにかなり聞きごたえがあるんだ。揺峰も言ったように、彼はしっとりした
失恋の歌だって情感たっぷりに歌ってくれる」
「失恋の歌……」
「帰ってくるまであの歌声が聞けないなんて本当に淋しいな。最近は華期も団
欒所に顔を出さないし、悠子は楽器を弾けないし、俺と守真だけでやるとなる
と歌も伴奏も演目がかぎられる。俺たちが歌ったりしている間、団欒所に来て
くれる人の相手をする人がいなくなるからね。これまではたまに歌会を開いて
いたんだけど、しばらくはお茶会を主体にするか、このあいだみたいな人形劇
を企画するしかないな。好評だったから別にやりたくないわけじゃないけど、
俺としてはやっぱりバンドに未練があるんだよなぁ」
 しばらくして鳴賢は、蓬莱の他の歌も教えてもらうことを改めて約束して帰
途についた。寮に戻り、得た情報を楽俊と交換する。
 その後、ひとり自室に戻った鳴賢は、持ち帰った蓬莱の歌詞に目を落とすと
考えに沈んだ。

519永遠の行方「王と麒麟(153)」:2012/07/13(金) 23:12:20
 いくら情感たっぷりに恋の歌や失恋の歌を歌えたからといって、それが六太
の心情をあらわしているとは限らない。初めて聞いた鳴賢でさえ、耳慣れない
ながらも旋律に魅力を感じたのだから、誰でも気晴らしに流行り歌ぐらい歌う
さ、と軽く済ませるのが分別というものだろう。だが揺峰は、六太だって恋の
ひとつやふたつしたことがあるだろうと言っていた。一般的に女性は男性より
観察眼が鋭いものだ。彼女の勘が的を射たものだったら。
 とはいえ彼女は六太の身分を知らない。麒麟であることを知らない。ひとり
の少年に対して当たり前のように語った自分の言葉が、麒麟の恋という非常識
な事態を指すとは考えてもいない。両者を結びつけられるのは鳴賢だけだ。六
太の告白の細部はさすがに忘れてしまったが、これまで誰にも言ったことはな
いとの言葉は覚えていた。つまり鳴賢が胸にしまっておくかぎり、他の誰にも
想像できない可能性は高い。
 当たり前だ。何より王と国のことを考えねばならないはずの神獣が、どこの
誰とも知れぬ女性に苦しい懸想をしているなど。
 だが果たしてこれは正しい手がかりなのだろうか。想う女性に関する事柄が
六太の望みならその可能性はあるが……。
 六太は呪者に「あさましい」とののしられ、自分でも恥じているようだった。
もし国や主君への忠勤を差し置いて望みのない恋にうつつを抜かしていたなら、
それも納得できてしまう。
 ――なんということだ。ぴったり符合するじゃないか。
 鳴賢は座っていた椅子から立ちあがり、狭い室内をうろつきまわった。考え
れば考えるほど重要な手がかりに思えてきて胸の動悸が高まった。もしや六太
の最大の願いとは想いを遂げることではないのか? 少なくとも想いが通じ合
うことでは?
 彼はふたたび椅子に座りこみ、うなりながら両腕で頭をかかえた。いったん
思いついてしまうと、その考えを頭から振り払うことは困難だった。
「でも俺、六太と約束したんだ。好きな娘がいることは誰にも話さないって。
天帝にも言わないって。そりゃ、あのときはこんな事態になるなんて六太も予
想してはいなかったろうけど」

520名無しさん:2012/07/14(土) 00:49:08
キテタ━(゚∀゚)━!!!
なるほどこう繋がってくるわけですね!
思わぬ展開にトキメキが止まらないです(*´∀`*)
鳴賢ガンバ!!

521永遠の行方「王と麒麟(154)」:2012/07/14(土) 08:24:36
 もっとも六太は、鳴賢が誰かにもらしてしまうことになっても気にするなと
も言った。そのときはそのときだと。だが――そうだ、そうなったら自分は壊
れるとも言っていた。それほど真摯な想いなのだ。やはり鳴賢ごときが軽々し
く他言できる内容ではない。
「いったい宮城では少しは進展しているんだろうか? それとも相変わらずお
手上げ状態なのか……」
 深々と溜息をついたのち、鳴賢は房間の扉を振り返った。
 ここしばらく風漢の顔を見ていないから、状況はわからない。だが明らかな
進展があれば、あれだけ気遣ってくれた風漢のことだ、早々に伝えに訪れるだ
ろう。それがないことの意味は明らかだった。

 その夜、臥牀の中であれこれ考えていた鳴賢は、結局一睡もできなかった。
 六太の恋は、呪を解くための正しい手がかりだろうか。彼の想い人が明らか
になれば、事件は解決に向かうのだろうか。
 それともしばらく様子を見たほうがいいのか。だがたとえば相手の女性が仙
だったとしても、いつまでも健在とはかぎらない。こうしてぐずぐずしている
うちに、事態は取り返しのつかないことになってしまわないだろうか。
 誰にも相談できないまま鳴賢は悶々とした。どうすべきか、自分で決断しな
ければならない。
 むろん想い人が人妻だったり、六太に対し尊崇の念はいだいても恋愛感情な
ど持っていない可能性は高い。しかし風漢が呪についていろいろ説明してくれ
たからわかるが、厳密な意味での六太の望みと、実際に暁紅が設定した解呪条
件とは別の話だろう。ならば本心からでなくとも、相手の女性が愛の言葉を六
太の耳元でささやけば済むとか、その程度で何とかならないだろうか。
 醜くも黒く腐りながら、楽しそうに六太をあしらっていた暁紅の最期の様子
を思い起こす。あの女の心は歪んでいた。そんな女が、愛のささやき程度で
あっさり解けるような呪を設定するだろうか……。

522永遠の行方「王と麒麟(155)」:2012/07/14(土) 08:49:29
 いや、やるかもしれない、と望みをつなぐ。もし暁紅が嘲ったのが麒麟の懸
想という私事であり、恥じた六太が決して口にしないだろうこと、したがって
想いが成就しないことを確信していたなら、そもそも他人が相手の女性を割り
出すことさえ困難だと承知していたはずだ。事実、鳴賢は知らないし、六太が
恋をしているなど諸官も気づかないからこそ、これまで色恋の方面に調査を進
めなかったに違いない。無意識のうちにその可能性を除外しているわけだ。
 ならば愛のささやき程度でも解ける呪である可能性はある。問題はむしろ、
たとえ永遠に目覚めなくても、みずからの恋を秘したいと考えていただろう六
太の悲愴な心中で……。
 悩み続けた鳴賢は、明け方近くになってようやく覚悟を決めた。暗い天井を
凝視したのち、しばし瞑目する。
 すべての責任は自分が負おう。優しい六太なら絶対に鳴賢を責めないことは
わかっている。だが自分の進言で首尾よく六太が目覚めたとして、相手の女性
ともどもいたたまれない思いをする結果になったなら、一命をもって詫びよう。
一介の大学生の行為にすぎないとしても、ひとりの人間が生命をもって訴えれ
ば、周囲の官も少しは考えてくれるだろう。
 何より六太は恋をしただけだ。彼がいかに恥じようと、それ自体は何ら責め
られるものではない。今回の事件がなければ誰にも知られずに済んだはずの、
ささやかな私事にすぎないのだから。いくら国と主君に生涯をささげるべき神
獣でも、それくらいの感情は許されていいはずだ。
 そうだ、そのときは上奏文を書いて六太の誠心を訴え、主上のお慈悲におす
がりすることにしよう……。
 いったん決心すると、鳴賢はまだ暗い中で起きて手燭をともした。六太の願
いごとについて心当たりがあると、さっそく大司寇宛に手紙を出そうと考えた
のだ。
 ただし――滅多な相手に話すことはできないと、こればかりは厳しく考えた。
畏怖の念に打ち震えながらも、話す相手は畏れおおくも雁の主上のみと思い定
める。あれほど六太が思いつめていた事柄が切ない片恋だとしたら、六官とは
いえ臣下に明かすのは酷すぎて、鳴賢自身の心情としても耐えられなかった。
ならばせめて、六太の唯一無二の主にして半身である延王にのみ秘密を伝えよ
う。

523名無しさん:2012/07/14(土) 09:23:14
>>520
>なるほどこう繋がってくるわけですね!

あはは、そうです。あれだけ海客の団欒所がどうだの
オリキャラばっかうだうだ書いたのも、要はここに来るという……。
これで>>7-14ともやっとつながりました。五年ごしです。長かったぁ。

続きはまた夜に投下に来ます。

524永遠の行方「王と麒麟(156)」:2012/07/14(土) 19:45:05

 封をした書簡を大司寇宛にひそかに出した日の夜、鳴賢の房間を風漢が訪れ
た。一瞬どきりとしたものの、書簡には六太との約束を簡単に述べた上で、王
にのみ明かすと念を押しておいたはず。そのため、たまたま風漢の来訪が重
なっただけかと思ったのだが。
「大司寇に手紙を出したそうだな。六太の最大の願いについて心当たりを思い
出したそうだが」
 話を切り出した風漢に、鳴賢は目をむき、声を失った。くれぐれも内密にと
頼んでおいたはずなのに。実際に会ったのは一度きりとはいえ、大司寇を信頼
していた彼は多大な衝撃を受けた。
 だがいったん知られてしまった以上、国官を前に黙しているわけにもいかな
い。進退窮まった鳴賢は思わず目を閉じたものの、すぐに強い決意をにじませ
て相手を睨んだ。
「……なぜあんたがそれを知っている?」
「大司寇におまえの手紙を見せられたのだ。それで事情を聞きに来た。内密に
してくれとのことだったので、他の者は知らん」
 話が漏れたのみならず、書簡そのものまで見られたのか。鳴賢は打ちのめさ
れた気分になった。
「そうだ。手紙にも書いたが、誰にも話さないと六太に約束した事柄だ。ただ
今は非常事態だから……。
 だが約束を破ることになる以上、せめて麒麟の半身とされる主上にだけお伝
えしたい。他人に知られることを望んでいなかった六太のためにも、主上以外
には絶対に明かしたくない。あんたには悪いが、官に話す気はないから帰って
くれないか」
 それきり口を閉ざす。別に延王の尊顔を拝したいとか、そこまで不遜な望み
をいだいているわけではない。無事に目通りが許されたとしても、玉簾の奥に
おわす影に叩頭しながら奏上するといった感じだろうか。いずれにせよ、王に
だけ秘密を伝えられることさえ保証されれば、体裁は何でもかまわなかった。
 風漢は、ふむ、とあごをなでると、しばらく考えてから言った。

525永遠の行方「王と麒麟(157)」:2012/07/14(土) 20:09:15
「確かに手紙にはそのようなことが書いてあった。しかし謹厳な大司寇が、内
密のはずの話を明かして俺を遣わしたことを不思議には思わんか?」
「思うさ、それは」
「まあ、そうつっけんどんに言ってくれるな」風漢は困ったように笑った。
「実は俺を遣わしたのは大司寇ではない、王だ」
「えっ……」
「内密にとのおまえの配慮はちゃんと伝わっている。それゆえおまえを宮城に
呼ぶこともしなかったのだ。かと言って王がそう簡単に出歩くわけにも行かぬ
ので、代わりに聞いてこいと遣わされた」
 あわてて記憶を探った鳴賢は、宮城では内殿や正寝にいることが多いとの風
漢の言を思い出して愕然とした。
「あんた――まさか大司寇ではなく主上の側近――」
「それゆえ俺に話すのは実質的に王に話すのと変わらない。いや、同じだと
思ってくれ。おまえが話した内容は、俺の命にかけて王にしか話さない。おま
えが何か話したということさえ、他に知るのは封印書簡を受け取った大司寇の
みで、彼も他言はしない。六太の意識が戻ったあと、六太本人にも言わないし
悟られもしないと約束する」
 鳴賢は心が揺れるのを感じたが、迷いに迷い、結局は首を振った。
「だめだ。ただでさえ六太との約束を破るんだ。絶対に主上にしか話せない。
それに俺の想像が当たっていたら、六太はこれを明かすくらいなら自分が永遠
に目覚めなくてもいいと思っていたことになる。俺に教えてくれたのだって、
たまたま俺を慰めるためにそんな話になっただけ、それまで誰にも話したこと
はないと言っていたんだ。そんな話を、いくら主上の側近でも官に言うことは
できない。頼むからわかってくれ」
 そう言って頭を下げる。そのままじっとしていると、やがて風漢は溜息をつ
いた。
「そうか。わかった」
「風漢」
 ほっとした鳴賢は顔を上げ、「ありがとう」と礼を言った。風漢は、やれや
れといった体で肩をすくめた。

526永遠の行方「王と麒麟(158)」:2012/07/14(土) 20:31:22
「そこまで言われたなら仕方がない。おまえがひそかに王に目通りできるよう
頼んでみよう。こちらから連絡するゆえ、しばらく待っていてくれ」
「すまない」
「気にするな。俺としてはおまえの言いぶんもわかる。しかし六太に慰められ
たとはな。おまえ、何か悩みごとでもあったのか?」
「いや、その……大したことじゃない」
「まあ、六太はあれで面倒見が良いからな。楽俊のことも日頃から気にかけて
力になっていたようだし、海客の団欒所でもいろいろ世話をしていたそうだが」
「うん。地道に話しかけたり、相手の興味のあることを尋ねて気を引いたりし
ていたらしい。蓬莱の流行り歌を習ったりとか。そうすることで親しくなって、
相手が立ち直るのを手助けしたんだな」
 彼は恂生から聞いた話を教えた。すると風漢は、確かに六太が、蓬莱由来の
歌らしいものを鼻歌で歌っていたのを聞いたことはあると言った。
「ところで鳴賢。今さらかもしれんが、おまえは悩みごととやらを吹っ切れた
のか? 何なら相談に乗るぞ。六太ほど聞き上手ではないかもしれんが」
「吹っ切れたというか……。もういいんだ。ずいぶん前のことだし、今さらだ」
「そうか? だが忘れたと思っていても、ふとした拍子に、相変わらず囚われ
ていることに気づくかもしれんぞ。何しろ俺がそうだからな」
「おまえが?」
「実は俺は胎果でな」
「ええっ!? お、おまえ、海客だったのか!?」
 掛け値なしに驚いた鳴賢は相手を凝視した。言われてみれば、官に登用され
た海客仲間もいるとか何とか聞いたことがあったような……。
「まあ、そのようなものだ。で、もう戻れんことではあるし、故郷のことは
吹っ切ったつもりでいた。だがな、長い時間が経った今になって、実は吹っ切
れておらんことに気づいたのだ。かと言って、今さらどうしようもないことで
はあるのだが」
「そうだったのか……」

527永遠の行方「王と麒麟(159)」:2012/07/14(土) 21:19:06
 鳴賢はそれでいろいろ納得できることがあると思った。こんなに近くにある
のに、彼が団欒所に赴こうとしなかったこと。守真が言っていた、気持ちにけ
りをつけるためか、海客は団欒所にだんだん来なくなる傾向があるという話…
…。
「だからか。六太のことで聞き込みをするのに、海客の団欒所を避けていたの
は。二度と帰れない故郷を思い出してしまうから」
「そういうわけではないが――いや、そうなのかも知れん」
 口の端にさびしげな笑みを浮かべた風漢に、鳴賢は「あんたでも弱気になる
ことがあるんだなあ」と驚いて苦笑された。
「俺を何だと思っているのだ。俺とて人間なのだぞ。弱気にもなるし、くさる
こともある。俺に比べれば、団欒所に足しげく通っていた六太のほうが精神的
には強いのかもしれん。だから海客の悩みごとの相談にも乗れたりしたのだろ
う」
「そうか……」
 鳴賢はしばし黙りこんだ。六太はもちろん、風漢を含めた海客たちの体験に
比べれば、あのときの自分の悩みなどちっぽけなものだ。楽俊のように、巧か
ら危険を冒して旅をしたわけでもない。たかが失恋の痛手、それも面倒がって
手紙ひとつ送らないでいたら愛想をつかされたという情けない話なのだから。
「別に俺のほうは、あんたたちみたいな大層な話じゃない。女に振られたんだ。
それだけのことさ……」
「色恋の話か」
 抑えきれない驚愕の響きに、鳴賢ははっとなった。風漢の目に鋭い光が宿っ
ていた。失言を悟った鳴賢は狼狽した。
「あ……」自分を凝視するまなざしに、耐えきれず視線をそらす。
「――六太の幼い外見から考えると、残念ながら懸想した女にまともに相手に
されるとは思えぬな……」
 鳴賢は泣きたい思いだった。勘づかれてしまった以上、他の者――大司寇な
ど――にも話が伝わってしまうのだろうか。
「頼むから。頼むから主上以外には言わないでくれ」

528永遠の行方「王と麒麟(160)」:2012/07/14(土) 22:20:09
「大丈夫だ、鳴賢」風漢は手を伸ばすと、鳴賢の腕をつかんで力強く揺すった。
「言ったろう、王にしか話さないと。六太の意識が戻ったあと、六太本人にも
言わないと。俺の命にかけて誓う」
「……うん――うん」鳴賢は震えに襲われながらも、何とかうなずいた。
「どんないきさつでそんな話になったのか、詳しいことを教えてくれ。俺の想
像のみで王に語るわけにはいかぬ」
「で、でも正直言って、細かいことまできちんと覚えているわけじゃないんだ。
もう何年も前の出来事で」
「かまわぬ」
 強くうながされ、鳴賢は当時を思いだしながら訥々と語った。自分の失恋の
話から、六太が望みのない片恋をしている話になったこと。ただし相手が誰な
のかは頑として語らず、自分が死ぬ直前なら教えてもいいと告げられたこと。
「六太は言ったんだ、今まで誰にも言ったことはないって。このことは天帝に
も言わないでくれ、誰かに知られたら自分は壊れるって。それはそうだ、麒麟
の恋なんて誰も歓迎しないんだから」
 六太は人間ではなく、外見はといえば永遠に十三歳のまま、婚姻もできず子
も持てない。戸籍さえない。そんな相手に告白されても、大抵の女は困るだけ
だ。そもそも麒麟は第一に主君のことを考えるべきで、最悪、王自身が不快を
覚えかねない。暁紅が「あさましい」と嘲り、六太自身も恥じたのは、決して
理由のないことではないのだ。それどころか相手の女が、叛意を持つ者に「真
の王」として利用される危険さえある。
 鳴賢は、暁紅の邸で六太の正体を知ったときに頭に浮かんだ数々の懸念を口
にした。
「だから六太が黙っていたのは当然なんだ。相手の迷惑になるどころか生命に
関わる上、誰のためにもならないんだから。なのに、なのに俺――」
「大丈夫だ、鳴賢」風漢は先ほどの言葉を繰り返して励ました。「悪いように
はせん。すべては六太のためだ」
「う、ん……」
「で、相手の女に心当たりはないのだな?」

529永遠の行方「王と麒麟(161)」:2012/07/14(土) 22:29:03
「ああ。でも当たり前だろう? 六太は隠していたんだ。それに考えたんだけ
ど、もしかしたら片思いの相手にあまり近づかなかったんじゃないかな。ほら、
あるだろう、嫌いな相手を避けるのは当然として、好きな相手に対しても距離
を置いたりすることって。真剣な想いであればあるほど、相手の反応が怖くて
却って近づけないんだ。明らかに向こうも気があるように見えれば別だけど、
六太の片恋はまったく望みがなかったらしい。ということは亭主持ちかもしれ
ない。それだけに自分の想いを他人に悟られないようにする用心とか、相手に
迷惑をかけたくないという思いは強かったんじゃないかな。あるいは諦めるた
めに意図して距離を置いていたかも。その場合、他人には大して親しくない間
柄に見えた可能性もあると思うんだ」
「なるほど……」
「俺の想像だから、実際はどうだったかわからないけどさ。でも恋をしている
人間なんて、はたから見れば普通は何となくわかるものだろ。なのに宮城では
誰もそんなことを考えず、今回の件では最初から色恋について除外していたみ
たいじゃないか。相手を知らないどころか、そんな事態を想像してさえいな
かったってことは、六太が必要以上に相手に近寄らなかったから、一緒にいる
ところをあまり見られていないってことはないかな。もちろん逆に、ひんぱん
に顔を合わせても不審がられない役目の人物とか、相手が意外すぎてみんなが
その可能性を除外しているって可能性もあるけど。だいたい普通の人間のよう
に麒麟が恋をするなんて、誰にとっても想像の埒外だったろう」
 何しろ少し前までは鳴賢自身もそうだったのだ。聖なる神獣が人間に懸想す
るなど、いったい誰が想像するだろう。これが異性の王を愛するというのなら、
まだ理解しやすいのだが。
 いや、相手が王なら、同性であったとしても忠心の延長として納得の余地は
ある。どちらも神人で、只人の倫理を超越している神秘の存在なのだから。だ
からこそ市井では、斡由の乱を背景にした王と麒麟の恋物語が人気なのだ。六
太自身があの手の小説の筋立てを否定していなかったら、そして延台輔の外見
が女性めいたなよやかなものでなく、金髪を除けば普通の腕白少年であること
を知らなかったら、今でも鳴賢は小説の設定に根拠があると思っていたかもし
れない。

530永遠の行方「王と麒麟(162)」:2012/07/15(日) 08:15:22
「俺も、六太が色めいた事柄に関心を示すのを見たことはなかったゆえ、おま
えの話を聞いてさえ、どうにもしっくりこないのは確かだ。女遊びをする俺に
対しても、六太は大抵は無関心だったし、せいぜい呆れた顔で見送るだけだっ
た。少なくとも自分も女遊びをしたいとは思っていなかったようだ」
「あのなあ」鳴賢は顔をしかめた。「ひとりの女を一途に想いつづけていたろ
う六太と自分を一緒にするなよな。だいたい純情な六太が、商売女との情事に
関心を示すわけがなかろうが」
「それもそうだな。いずれにせよ、恋愛となれば普通はその成就を願うものだ。
片恋とはいえ、いや、だからこそ秘めた想いは強く、当人も抑えようがなかっ
たのかもしれん。だとすれば厄介だな」
「そのことなんだけど、六太の望みと、呪者が設定した解除条件とは似て非な
る事柄だって教えてくれたよな。だったら相手の女性が実際に六太に恋をする
必要はないと思うんだ。想いが通じあうことが六太の最大の望みだったとして、
たとえば相手が愛の言葉を耳元でささやくとか、その程度で呪は解けるんじゃ
ないか? 『お慕いしております。早くお目覚めください』とか何とか、そ
れっぽい言葉を言うわけだ。そもそも呪者は、六太が絶対に望みを明かさない
と確信して安心していた。つまり相手を割りだせると思っていなかったとすれ
ば、解呪につながる動作自体は、そう凝ったものではないと思うんだ」
 すると風漢は眉根を寄せてつぶやいた。
「恋愛の成就のことは、俗に『思いを遂げる』と言うな……」
「風漢!」
 意味するところを瞬時に悟り、鳴賢は戒めるように鋭く叫んだ。聞こえはい
いが、「思いを遂げる」とはすなわち性交することだ。まさかそれらしい女を
言いくるめて片っ端から六太と同衾させ、覚醒するかどうか試すつもりでは。
「安心しろ。六太にしろ相手の女にしろ、誰にも無体を強いるつもりなどない。
そもそも六太にその手の経験はないようだし、いくら恋していても、普通の男
のような生々しい欲望を持っているとは俺には思えぬ。麒麟というものは夢見
がちで理想主義的で、現実を見ない面があるのだ。晏暁紅が何を解呪条件とし
たにせよ、そういった六太の心情からかけ離れた内容にはしておらぬだろう」

531永遠の行方「王と麒麟(163)」:2012/07/15(日) 08:31:34
 その答えにひとまず安堵したものの、風漢は厳しくも思い切りの良い、現実
的な男だ。いよいよとなったら王にどんな進言をするかわかったものではない
し、非常時ゆえ、王もそれに許可を与えるかもしれない。そう考えると、やは
り話すのではなかったと、鳴賢は激しい後悔の念に駆られた。
「か、考えてみたら」
「うん?」
「六太の片恋はそれとして、最大の願いごとが恋の成就というのは違うかもし
れない。いろいろ考えあわせると、相手の女は少なくとも仙だと思うんだ。だ
としたら玄英宮ではなく、地方の州城あたりにいるんじゃないか。それならた
まにしか会えないだろうから日頃は忘れていられる。そうすれば切なくも美し
い思い出として、たまに思い返す程度で心を慰められると思うんだ。これまで
俺にしか話していなかったのも、そうやって普段は忘れていたからかもしれな
い」
「つまり、六太の願いごとは他にあるのでは、と?」
「う、ん……」
 われながら言い訳じみていると思った鳴賢の語調は弱かった。だが風漢は頭
から否定することもなかった。
「確かに恋愛の成就が六太の真の望みかどうかは疑問だ。逆説めくが、六太が
恋に悩んでいるとしたら、それはあくまで国が平らかに治まっているためだろ
う。国が乱れ民が困窮しているなら、麒麟はどうしてもそちらに意識が向き、
自分の望みどころではないはずだからな。つまり恋愛の成就という私的な願い
に優先して、国の安寧という条件があることになる。実際、前に慶国の台輔も
助言してくれたのだが、麒麟が願うのは王か国のことに決まっているそうだ」
「でも麒麟だって人間じゃないか」
 鳴賢は思わず反論していた。事実、六太は人間味あふれた少年だった。それ
はそうだろう、人の形をしている以上、人としての感情がないはずがない。だ
からこそ蓬莱で親に捨てられたことを嘆き、王という存在を国を滅ぼすものと
思いこんだのだ。ならば公に期待されている役目、想定されている性情とは裏
腹に、個人的な幸せをつかみたいと思い、何よりそれを望んでも不思議はない。
それゆえひそかに苦しんでいたのではないか。

532永遠の行方「王と麒麟(164)」:2012/07/15(日) 08:47:05
 とにかく判明している条件にことごとく合致するのが色恋の話題なのだ。風
漢もそれは了解したはずだった。
「それはそれとして」と風漢は続けた。「相手の女を探しだせさえすれば、と
りあえず六太の近習にして様子を見る手もある。問題はその女自身、自分が想
われていることを知らない可能性が高いということか」
「そうだな。突き止めるのも大変だ」
「だが六太の片恋を知らなかった場合に比べれば、はるかに望みはある。おま
えが思いだしてくれたおかげだ。さっそく王に報告の上、どうすべきか検討し
てみることにしよう」
「風漢」座っていた床机から立ちあがった相手を、鳴賢は呼びとめた。
「なんだ?」
「すべては六太のためだと言ったよな? いくら目覚めさせるためでも、意識
を取り戻したあとで六太が苦しむようなことはしないよな?」
「むろんだ」
「その……主上もそう考えてくださるだろうか?」
「大丈夫だ。心配するな」
「ならいいんだ……」
 いずれにしろ、ここまで話してしまった以上、もはや鳴賢にはどうしようも
ない。あとは王の考え次第だった。

 外出から戻った尚隆は、その足で六太の臥室を訪れた。不測の事態に備えて
牀榻の外で不寝番を務めていた女官が、主君の投げた視線ひとつで拝礼してし
めやかに退出する。
 牀榻に足を踏みいれた尚隆は帳を開け、枕元に腰かけた。半身の寝顔を見お
ろしていた彼は、やがて静かに手を伸ばすと、子供らしいまろやかな頬を愛し
げになでた。
「恋を、したか」
 優しい声音で、いたわるようにそっとささやく。
 彼はそれきり口を閉ざしたまま、長らくじっと座りこんでいた。

- 続く -

533名無しさん:2012/07/15(日) 08:51:42
というわけで核心に迫りつつあるようですが、
そもそも動きのない、たらたらしている章なので、これ以降もたらたらします。
他のことをやりながらだったため、投下もたらたらでしたがw

いずれにしてもこれで、踏ん切りがつかずに
ずっと投下を保留にしておいたぶんを含めて出し終わったので、
次回の予定は未定です。
とはいえあまり間を開けると、
せっかく読み返して確認したぶんの記憶も薄れてしまうため、
早めに続きを書けたらいいなぁと思っています。


ちなみに。
自分のイメージ的には、歌うたいなろくたんより
ドラマーなろくたんのほうが元気良さそうで好きなんですが、
今の展開とはあまり結びつかないですな。

534名無しさん:2012/07/16(月) 23:28:33
とてもたくさんの更新が嬉しゅうございました!
段々と確信に近付いて来たようでドキドキです。
鳴賢、探偵役がんばれ!
そして尚隆の「恋を、したか」のセリフが。
その一言だけで色々な想いが詰まっているようで、切なくなりました。

早く続きが読みたーい!とワクテカしています。
またの投下、どうぞ宜しくお願いいたします。<(_ _)>

535名無しさん:2012/07/18(水) 13:10:39
怒濤の伏線回収に唸らせて頂きました。
焦れったいのがたまりません。
気と首を長くして尚隆と六太の幸せを願ってます。

536名無しさん:2012/07/21(土) 04:22:29
うおーーー!いいところで続くになっている。
更新投下お疲れ様でした。
白沢と朱衡の話のところは胸が切なくなりました。
鳴賢いい奴。ろくたんの相手と風漢の正体を知る時が楽しみ。
ろくたんと尚隆があまり辛くなく幸せになれるといいなあ。
続き気長に待っていますので、またお願いします。

537書き手:2012/07/22(日) 09:41:08
>>534-536
こちらこそよろしくお願いします。
完全にストックがなくなってしまい、
続きも書いては消し、書いては消しているとあって
次がいつになるかわかりませんが、忘れられないうちに
またお邪魔できればいいなぁと思います&hearts;

最後の最後にそれなりのカタルシスはあると思うのですが、
じりじり、イライラ、当分はそんな感じですかねー。
マジで前章より長くなるかも(苦笑)。

538台輔来臨(前書き):2013/01/02(水) 18:23:22
新年あけましておめでとうございます。
息抜きに、何度か言及のあった「延台輔が大学を視察した」話を置いていきます。

というか単にサボりのつけで、六太が大学を視察させられる羽目になっただけなので、
本編と異なりコメディ風味。カップリングもなしの他愛のない内容です。
とはいえ例によって勝手な解釈や設定がちらほら顔を出しているので要注意。

539台輔来臨(1):2013/01/02(水) 18:25:23
 大学の教師たちなら、宰輔としての六太の顔を知っている場合もあるので注
意が必要だが、学生相手ならその心配はない。だから大学寮にある学生向けの
飯堂は、六太にとって灯台下暗しの気楽な場所だ。特に楽俊が入学して以来、
何のかんのとお節介を焼いて顔を出した結果、楽俊が親しくする他の学生とも
仲良くやるようになった。
 しばらく前に政務を怠けて宮城を抜け出していた六太は、その日の夕刻、学
業を終えた楽俊や鳴賢らとともに飯堂の方卓に座り、他愛のない雑談を楽しん
でいた。めずらしい菓子の包みを手土産として持参していたため、食後の甘味
としてお茶とともに皆で味わいながら、街の噂話やら厳しい老師の指導への愚
痴やらを聞き、自分も気の向くままに喋っていたとき。
 はす向かいに座る鳴賢の後ろに何気なく目をやった六太は、見覚えのある官
吏の姿に気づいた。反射的に「やばっ」と声をあげて首を縮め、背も丸めて、
鳴賢や楽俊の陰に隠れる。不思議そうな顔になった鳴賢は背後を振り返り、す
ぐそばで老師のひとりと立ち止まって話している青年の姿を認めた。整って柔
和な顔立ちと言い、すらりとした体つきと言い、かなりの美丈夫と言っていい
だろう。仕立ての良い長袍を着ているだけなので身分はわからないが、教師で
も学生でもないのは明らか。件の老師が至極丁寧に応対しているところを見る
と国官、それもかなりの高官と思われた。
「――ああ、周老師を訪ねてきた官吏かな。周老師がこんなところに来るのは
めずらしいけど、それがどうかしたか?」
 姿勢を戻した鳴賢はそう言って、「いや、あの」とあたふたする六太に首を
かしげた。
「どうしました?」
 上から降ってきた声に鳴賢が見上げると、先ほどの青年が笑顔で卓の側に
立っていた。六太は椅子の上で固まったまま、引きつった顔を相手に向けた。
「こんなに幼い少年を大学で見るのはめずらしいですね。あなたもここの学生
ですか?」
 その笑顔が怖い。官服でない朱衡を見るのは久しぶりだ、などと思っている
余裕は六太にはなかった。
「あ、いえ、まさか」絶句している六太に代わって、鳴賢が笑いながら答えた。

540台輔来臨(2):2013/01/02(水) 18:27:51
「違います、俺らの友達です。でもこいつ頭いいから、絶対に大学を目指せ
よって誘ってるんです。な、六太?」
「それは頼もしいですね。楽しみなことです。六太というのですか? 覚えて
おきましょう」
 言葉遣いも物腰もやわらかいものの、笑顔の奥に見え隠れする冷え冷えとし
たものに、六太は心底ぞっとなった。
 だがいつ雷が落ちるか、正体をばらされるかと緊張した彼をそのままに、朱
衡は傍らの老師とともにすぐ立ち去った。ほっとして背もたれに寄りかかった
六太を、鳴賢が不思議そうに眺めた。
「おまえってかなり図太いのに、それでも緊張することがあるんだなぁ。まあ、
高級官吏っぽかったから無理もないけど。もしかしたら老師の教え子かもな。
どこの官吏なんだろ」
 六太の隣では楽俊が、何と言ったらいいのかわからないというふうにひげを
そよがせていた。

 そこで素直に宮城に戻って政務に励めばいいものを、六太は逆に「ほとぼり
が冷めるまで隠れていよう」と考えた。朱衡のことだから、六太があれからす
ぐ大学を逃げ出したと考えると想像し、裏をかくつもりで楽俊の房間に泊まり
こむ。
「そりゃ、おいらはかまわねえですけど。でもいいかげんで戻ったほうがいい
んじゃないんですか? 朱衡さまを怒らせると怖いんでしょう?」
「まあ、そのうちな」
 気楽に答えた六太はそこを拠点に関弓を遊びまわった。
 そんな彼をかくまった楽俊は、数日後の夜、房間に戻った六太に「台輔、実
はお知らせしたいことが」と言いかけた。
「おい、遅いぞ、文張。――なんだ、六太もいたか」
 房間の扉を軽く叩いて開いたのは鳴賢で、頬は上気し、鼻歌まじり。明らか
に酒が入っていた。
「いい酒を手に入れてさ。みんないるから、六太も俺の房間に来いよ」
「うん、行く行く。今日も手土産あるし。ちょうど酒のつまみになる」

541台輔来臨(3):2013/01/02(水) 18:30:12
 六太はそう言って、楽俊への土産に街で買い求めた包みを掲げて見せた。鳴
賢は六太の背をぽんと叩いて「お、気が利くな」と上機嫌で言った。
 鳴賢の房間には他に学生がふたりいて、既にできあがっていた。他の房間か
らも調達したのだろう小さな卓子が三つ並べられており、その上に酒器と雑多
な肴が載っている。卓子の周囲には床机がいくつか置かれていた。
「遅いぞ、文張」
「あれ、六太。まだ文張のところにいたんだ?」
 員数外の六太のために、書卓の下に折り畳まれていた別の床机が引き出され
た。六太は「まーな」と言いながら、土産の包みを卓子に置いて開けた。中に
は季節の木の実や種を炒ったものが入っていた。
「お、うまそう」
「六太は肉も魚もだめだったよね? ここに炒り豆と揚げ饅頭があるよ」
「さあ、まず乾杯だ」
 床机に座った楽俊と六太の前にも、酒の注がれた杯が置かれた。それを持っ
て皆で乾杯する。
「酒は敬之の郷里から送ってきたやつなんだけどさ」
「ほら、台輔が大学を視察なさるだろう。今日はその前祝いというか、景気づ
けに」
 杯に口をつけたばかりの六太は、思いがけない話にブッと酒を吹いた。
「し、視察? な、な、なんで?」
 濡れた口元や胸元を拭くどころではなく、あせって尋ねる。そんなことをし
たら、自分の正体がばれてしまうではないか。
「台輔は大学に興味を持っておられるそうだ。卒業者は無条件で高級官吏にな
れるからかもしれない。すぐにご自分の目の届くところに配属される可能性が
あるってことだからな。もしかしたらこの間飯堂で見た官吏は、その下見に来
たのかも」
 鳴賢は自分の言葉にうんうんとうなずきながら、目を輝かせている。卒業し
て国官になれればまだしも、大学生が王や麒麟に会う機会はまずないからだ。
前祝いをしたくなるのも当然だろう。

542台輔来臨(4):2013/01/02(水) 18:33:05
「でも公ってわけでもないらしい。ごくごく少人数のお供で、おしのびに近い
形で視察なさるとか。俺たち学生を萎縮させたくないとおっしゃったそうだ」
「台輔はお優しいかただからな」
「むろんおそば近くに寄ることは無理だろうけど、万が一お姿を見かけても叩
頭する必要はなく、拱手で良いそうだ。それでも間近でお顔を拝する機会なん
てないだろうけど、何かの拍子に遠くからさりげなく盗み見るくらいならでき
るかもしれない。運が良ければお声をかけていただけるかもしれない」
 浮かれている学生たちに、六太は冷や汗をかきながらも、何とか「へ、
へえー……」と返した。
「何しろ絶世の美少年という噂だからなぁ。ぜひともご尊顔を拝したいものだ
が」
 鳴賢の言葉に六太が目を白黒させていると、鳴賢は片目をつむってからかう
ように言った。
「なんだ、知らないのか? 世慣れているようで六太もやっぱり子供なんだな。
主上が后妃を娶られず、登極当初から五百年間も後宮を空のままにしているの
は、お美しい台輔を一途に寵愛なさっているからなんだぞ。それほど美しいか
たなんだ」
「へあ?」間抜けな声を出す六太。
「主上は、それはそれは台輔を大事になさっているそうだ。小説でもよくやっ
ているだろうが」
 実は斡由の乱を題材にした小説も、王と麒麟の麗しい愛と絆を主題として上
演されることが多い。何しろ最大の見せ場は、敵地に単身乗り込んだ王が数々
の危難をくぐり抜けて無事麒麟を見つける場面なのだから。謀反人に引き離さ
れていた恋人たちがやっと再会する感動の名場面であり、観客も大いに盛り上
がるところである。
「……それ、ぜってー違うから」
 六太は茫然とした顔のまま、あきれたように言った。
「なんで?」
「台輔は男だろーが」
「だから神々しいまでに麗しい美少年なんだって。そこらの女なんか足元にも
及ばないそうだぞ」

543台輔来臨(5):2013/01/02(水) 18:36:09
「なんたって麒麟だからなあ。人間の女なんかと比べられるはずもないよ。そ
れこそ目がつぶれるくらいお美しいに決まっている。そして慈悲深くてお優し
い上に、心から主上を慕っておいでになる。主上が寵愛なさるのも当然だと思
うぞ」
 布を巻いた頭をかかえ、両手でかきむしらんばかりにした六太に、先ほどか
らひげをさわさわさせていた楽俊が気の毒そうな目を向けた。もちろん楽俊が
知らせようとした内容も視察のことだったのだ。

 酒盛りが終わったあと、六太は大慌てで宮城に戻った。既に夜半だったが、
急いで朱衡の官邸を訪ねる。どう考えても、先日大学寮に現われた朱衡と関係
があるとしか思えなかったからだ。
「これはこれは台輔。こんな遅くに何か重大な事件でも?」
 笑みをたたえながらも冷たい空気をまとって現われた朱衡に、六太は「う」
と言葉を詰まらせた。
「いや、その……。朱衡は秋官長だから関係ないかもしれないけど、その、俺
が大学を視察するとか何とか」
「ああ、そのことですか。礼には及びません。どうやら台輔はたいそう大学に
ご興味がおありのご様子。そのお心を汲んで視察の手はずを整えただけですか
ら、臣下として当然のことです。もちろん冢宰や六官にも話は通してあります」
 交渉の余地のない口ぶりだった。六太は「いや、だから、その、あの」と抵
抗を試みたが、朱衡は目の前で超然とたたずんだまま、相変わらず笑みを浮か
べていた。
「お帰りになったらすぐお知らせしようと思っていたのですよ。そうするまで
もなく台輔のほうからお訪ねくださったことですし、視察は明日ということに
いたしましょう」
「へっ? で、でも、政務が」
「おや、ここ十日ほど、朝議でも広徳殿でもお見かけしなかったので、お時間
は充分おありと思っておりました」
「あ、明日は――そう! ちょっと用事が……」

544台輔来臨(6):2013/01/02(水) 18:38:13
「何の用事でしょう? 大宰や大宗伯に確認したところ、ご公務や祭祀の予定
はないそうですが」
 結局ひとことも言い返せずにとぼとぼと帰途についた六太の背中に、朱衡は
追い討ちをかけた。
「それともまたお出かけになるのでしたら、お帰りになり次第すぐ視察という
ことにさせていただきます。ええ、それが朝でも昼でも夜中でも」
 何が何でも視察を遂行させられるらしい。笑顔のまま怒り心頭に発している
様子の朱衡に、さすがに六太は観念した。

 それでも遅まきながら朱衡の機嫌を取ろうとした六太は、久しぶりに朝議に
出た。そのあともちゃんと広徳殿に赴いて政務を執る。だが午後も半ばを過ぎ
たころ、仁重殿に拉致され、大勢の女官に取り囲まれて身支度をさせられる羽
目になった。椅子に座り、女のようにぱたぱたと白粉をはたかれる。
「けほ、な、なに?」
「お口に粉が入ります。しばらくお動きになりませんよう」
 祭祀でもこんな格好をさせられたことはない。だが女官たちは、自身も困惑
しながらも「大司寇のご命令ですので」と六太の身なりを整えていった。念入
りに化粧が施され、紅まで引かれる。用意されていた衣装は常服のたぐいだか
ら、裳を着けたり衣を何枚も重ねるといったことこそなかったものの、宰輔と
もなれば常服もかなり仰々しいものになる。そこに翡翠の佩玉や、玉で飾られ
た小さな冠までつけさせられたため、なかなかに気の重いいでたちになった。
 服はともかく、化粧なんかされたら絶対おかしな仮装にしかならないぞ、と
うんざりした六太だったが、途中ではたと気づいた。
 白粉をはたかれ眉まで描かれ、常服とはいえきらびやかな長衫に肩衣、略式
の冠。ここまで飾ったら、ほとんど別人じゃないだろうか。
「ちょ、ちょっと、鏡見せて」
 普段なら女官にまかせきりのところ、身仕舞いを終えたあとで姿見に映して
みる。

545台輔来臨(7):2013/01/02(水) 18:41:17
 別人に見える……かもしれない。あれだけ白粉をはたかれた割には厚化粧で
はなく、むしろ自然な素顔に見える気がする。気がするだけかもしれないが、
そもそも鳴賢たちは髪を隠して粗末な格好をした六太しか知らない。よほど間
近で見られないかぎり、この盛装なら澄ましていればあるいは……。あとは声
を何とか……。
 実際のところは朱衡も、さすがに大学に出没する正体不明の少年が自国の麒
麟だと知られることは避けたいと考えていた。六太にお灸を据えることが目的
なので、とにもかくにも顔をさらさせて、本人をはらはらさせないことには意
味がない。しかし実際の麒麟を見て幻滅されることも避けたい。へたに真実を
知らせて官吏候補が減ってしまってはたまらないからだ。
 そこで巷に流布している噂を利用し、まさしく絶世の美少年に仕立て上げる
ことにし、この仕儀となった次第である。
(そうだ、どうせ行かなきゃならないんなら、楽俊の力になってやるかな。半
獣だってことで疎まれているらしいし)
 そんなことを考えていると、支度を終えた知らせを受けたのだろう、朱衡が
大宰と連れ立って現われた。
「おや、これは。馬子にも衣装ですね」
 相変わらずの笑顔で言い放った朱衡に、六太はなかば引きつりながらも、自
分も笑みを作って返した。優しげな微笑というのはこれくらいかな、などと考
えながら。おや、と眉を上げた朱衡に、やわらかくも高い声を作って尋ねる。
「それで大司寇、すぐに大学へ?」
 よし、女のように細く優しげに聞こえるぞ。いや、もうちょっとおっとりし
た感じのほうがいいかな。
 あれこれ考えている六太を見て、朱衡もまた挑戦的に微笑しながら「準備は
整ってございます。まいりましょう」と答えた。

 六太の供は、朱衡と大宰、それに護衛が五名。確かにごく少人数のおしのび
だ。大学寮では大学頭と老師陣が一行を出迎えた。
 大学寮、というが、これは学生たちが起居する共同宿舎だけを指す語ではな
く、この場合は大学全体のことである。現代の蓬莱と違い、寮とは役所の部署
につけられる語なのだ。
「台輔のご来駕を賜り、光栄に存じます」

546台輔来臨(8):2013/01/02(水) 18:43:20
 学頭は拱手して歓迎の挨拶をうやうやしく口にした。
(そうか、叩頭じゃなく拱手でいいってのは、俺の顔をさらすためか!)
 ここに至って気づいた六太は歯噛みした。何しろ学頭や老師の何人かは、宮
城で式典の際に会ったことがある。間近で親しく口を利いたわけではないにせ
よ、あまり直視されると、最近大学に入り浸っている自分の正体に気づかれる
かもしれない。
「忙しいところ、世話をかけますね」
 とりあえず適当に答えを返しつつ、ほほえみながら少し首をかしげる愛らし
い仕草をしてみせる。来てしまった以上、別人のように穏やかにたおやかに麗
しくふるまってごまかすしかない。
 さすがに学頭は以前と印象の異なる六太に少々違和感を覚えたようだが、す
ぐ笑顔に戻って挨拶を続け、一行を寮内に導いた。先導するのは学頭、しかし
他の老師もぞろぞろと後をついてくる。非公式とはいえ、もはや「おしのび」
とは名ばかりだった。
「学舎はこちらですが、ご存じのように南側が明法院となっておりまして――」
 大学側と朱衡とで既にどこをどのように見せるかという段取りはつけられて
いるのだろう、基本的に六太は案内されるままについていくだけ、適当に相槌
を打てば、あとは学頭が勝手に喋ってくれた。
「北側の学舎には文章院が――それで最近は堂院も――」
 六太は微笑してうんうんうなずいているものの、実のところ説明は右から左
へ素通りである。本音を言えば早くも飽きが来ていたりする。最初のうちこそ
知り合いにあったらと緊張したが、たまに見かける学生は遠巻きにしているだ
けで近寄ってくる気配はなく、堂院のひとつを見終わった頃には気分は既にだ
らけていた。
 そもそも裾も袖も長くゆったりとした長衫なので歩きにくいし、普段つけな
い冠まで被っているとあって、肩が凝って仕方がないのだ。彼自身が大学の施
設に興味を持ってやってきたわけではないだけに、「まだかなー、早く終わら
ないかなー」と上の空だった。そんな六太に気づいたのか、ふと学頭が言った。
「この向こうが図書府になっておりますが、台輔は少々お疲れのようです。ご
無理をなさってはいけません、ひとまず休憩と致しましょう」

547台輔来臨(9):2013/01/02(水) 18:45:25
「そうだな――い、いえ、そうですね、そうしていただけるとありがたいと思
います」
 すっかり気が抜けて地を出しかけた六太は、あわてて言い直した。
(危ねー、危ねー……)
 貴賓室に通された六太は、さすがに肩は凝るし作り声が続いて息切れはする
しで疲労気味だったが、茶を供されて何とか人心地がついた。
「ところで」と学頭に言う。「半獣の学生がいるそうですね。非常に優秀だと
聞いています」
「え? は、いえ、それは……」
 思いがけない展開だったのだろう、学頭は狼狽して口ごもった。尚隆の計ら
いで高官の推挙という形で入試を受けた楽俊だが、半獣に対して良い印象を持
つ者はやはり少ないのだ。
「他国ではまだまだ半獣を差別しているところもあると聞きますが、分け隔て
なく受けいれてくださった学頭には心からお礼を申しあげます」
「は、はあ」
 学頭はおそるおそるといった体で、半獣を気にかける理由を尋ねた。六太は
「わたしも言うなれば半獣ですから」と朗らかに答えた。
「台輔は神獣であらせられるわけで、半獣というわけでは……」
「いえいえ、同じですよ。人型と獣型の二形を持っているのですから。それで
半獣の学生を、普通の人と何も変わることなく扱っていただけたことが嬉しい
のです」そして爆弾発言。「もしその学生に時間があれば、ぜひ話をしてみた
いのですが」
 学頭は汗を噴きだし、傍らの大宰と朱衡に目を遣った。大宰も朱衡に目を向
けたが、朱衡はわずかに吐息を漏らしてみせただけだった。六太の思惑に気づ
かないはずはないが、彼も楽俊を買っているだけに、あえて止めるつもりはな
いらしい。そもそも止められておとなしく撤回する六太ではない。
「かしこまりました」覚悟を決めたらしい学頭は言った。「ではすぐその者を
呼びにやりましょう」
「彼は今どちらに?」
「さ、どうでしょうな。どこかで授業を受けている最中かもしれませんが」

548台輔来臨(10):2013/01/02(水) 18:47:36
「学頭。その者は今の時間は授業がなかったように記憶しております」
 付き従っていた老師のひとりが助け舟を出した。
「授業がない? とすると、どこにいるのだろう」
「図書府か、でなければ自室に戻って勉強しているか……」
「あー。もう、めんどうくせー」
 ぽりぽりと頭をかきながら、うっかりつぶやいた六太を、あわただしく言葉
を交わしていた学頭と老師がびっくりしたように振り返った。六太は「やばっ」
とばかりに表情を取り繕い、「何か?」とでも言うかのように小首をかしげて
微笑した。学頭らが戸惑い顔で背後の護衛たちに視線を移したところを見ると、
低くぼそりとつぶやいただけに護衛のひとりごとだと思ったのかもしれない。
 いずれにしろ老師のひとりが急いで図書府に楽俊を探しに行き、すぐ戻って
きてそこには姿がなかったと告げた。
「それでしたら宿舎で勉強しているのかもしれませんね」六太はにっこりした。
「この際ですから、わたしたちのほうから出向きましょう。実のところ、宿舎
も見ておきたいと思っていたのですよ」
 六太もさすがにこの喋りかたに疲れてきたところだ。それに動きにくい格好
でいるのにも飽きた。多少なりとも六太を焦らせたことで朱衡も気が済んだろ
うし、さっさと楽俊に会って後押ししてやった上で帰りたい。
「そんな、台輔が」
「どうぞお気遣いなく。では宿舎に案内していただけますか?」
 だが楽俊は自室にはいなかった。学頭らは冷や汗をかいているし、六太もこ
の茶番に飽きている。
「そ、そうだ、学頭、飯堂かもしれません」
 老師のひとりが口にした言葉に、六太は、げ、と後ずさりした。飯堂など、
普段の六太が一番よくたむろしている場所ではないか。
 だがあわてていた学頭らは六太の様子には気づかず、言い出した老師があた
ふたと様子を見に行った。そしてすぐ早足で戻ってきたかと思うと、半獣の学
生が飯堂にいたことを告げたのだった。
 六太は覚悟を決めた。

549台輔来臨(11):2013/01/02(水) 18:49:58

 飯堂には学生の姿がちらほら見受けられた。まだ夕餉には間があるが、楽俊
と同様に、この時間は授業のない学生なのだろう。学頭に先導され、護衛と老
師陣をひきつれた六太に、彼らはすぐ気づいた。おだやかに満ちていたざわめ
きが一瞬高くなったものの、静粛に、との学頭の無言の身振りに黙りこむ。
「台輔。あちらにおるのが半獣の学生です」
 学頭がひとつの卓を示してうやうやしく告げる。おっとりとうなずいた六太
は、優雅な足取りで卓の間を歩き、そこへ向かった。事前の通達があるから平
伏こそしないものの、さすがに直視する勇気のある学生はいないらしい。立っ
ていた者は拱手して頭を下げているし、座っていた者も突然の麒麟の出現に緊
張しているのか、これも顔を伏せてじっとしている。護衛と老師陣が監視する
かのように周囲を厳しく見回していることもあり、せいぜい盗み見るかのよう
に、ちらちらと目を動かすだけだ。
 問題の卓にいたのは、鼠姿の楽俊に鳴賢、そして日頃彼らと親しい学生ふた
り。彼らは堂がざわめいた時点で不思議そうに周囲を見回し、そこで六太と目
が合っていた。ただし金の髪を見るなりあわてて姿勢を正して顔を伏せたので、
顔かたちまでちゃんと見定めたわけではないだろう。
「半獣の学生というのはあなたですね? 会えて嬉しく思います。――ああ、
そのまま。立たなくて良いのですよ。わたしもいわば半獣ですから、気遣いは
無用です」
 卓の傍らに立ち、念入りに作った声で優しい言葉をかける。
「名は何というのですか?」
「張清と申します、台輔」
 楽俊はぺこんと頭を下げてから答えた。一緒に座っている鳴賢たちは明らか
に緊張しており、顔を伏せたまま固まっていた。
「大変優秀だそうですね。特に法律について詳しいとか。わが国の令のうち、
行政法の変遷について記したあなたの論文を読みましたが、なかなか含蓄に富
んだ内容でした」
「おそれいります」

550台輔来臨(12):2013/01/02(水) 18:52:26
「それから朱鳥三十年に定められた称徳格と嘉祥八年の孝文格について、施行
細則である式に関するあなたの解釈は興味深いものでした。ところどころ他国
の法令も引用して比較しているところがすばらしいですね」
 そばで控えている学頭は茫然と六太を見つめている。楽俊はふたたびぺこん
と頭を下げてから、論文を記すに当たって調べた資料に関する考察なども口に
し、六太は優しくうなずきながら聞いていた。
 実のところ楽俊の論文など読んではいないのだが、昨夜のうちに再度宿舎を
訪れ、めぼしい内容を当人にちゃっかり聞いてあったりする。そのときは単に、
学頭の前で最近の学生の論文に言及すれば、大学に興味を持っているという設
定に矛盾が起きないだろうし、何かの役には立つだろうと考えただけだったの
だが。
 あとは六太得意の度胸とはったりである。楽俊のほうもうまく話を合わせて
くれたため、ぼろが出ることはなかった。
「有意義な話を聞けて嬉しく思います。これからも勉学に励んでください」
 最後に六太は楽俊に笑いかけ、ついで学頭にも上品な笑みを向けた。そうし
て来たときと同様に、護衛やら老師やらを引き連れて優雅に退出する。後にし
た飯堂からはすぐ、興奮気味のざわめきが響いてきた。六太は傍らの朱衡を見
上げ、どうだ、とばかりににんまりとした。

「はー、一時はどうなることかと思ったけど、何事もなくて良かった」
 その夜、宮城を抜け出した六太は、性懲りもなく楽俊の房間を訪れてそう
言った。「また朱衡さまのお怒りが……」とたしなめる楽俊を「まあまあ、い
いから」とへらへら笑って押しとどめる。
 そこへ先日のように鳴賢が顔を出した。
「お、またいたな、六太」
「えへへ」
「来いよ、文張が台輔に声をかけてもらったお祝いだ」
「へえ?」
 にやりとした六太は、手招きされるまま、とことことついていった。鳴賢の
房間では先日と同じ面子が待っていて、卓子と床机も同様に並べられ、酒器と
肴があった。杯に酒をそそぎ、にぎやかに乾杯する。

551台輔来臨(13/E):2013/01/02(水) 18:55:06
「すごいんだぜ、六太。なんと台輔がわざわざ文張に声をかけてくださったん
だ」
「しかも文張が前に書いた論文の内容までご存じだった。あの後、周囲の連中
の茫然とした顔と言ったら」
「ほんと。六太にも見せたかった」
 彼らは愉快に笑いながら、酒をつぎあった。
「そりゃ、すごい。俺も見たかったなあ」
「それに台輔は噂どおりのおかただった! もう絶世の美少年!」
 今度は六太は酒を吹かなかったが、何とか無理やり飲みこんだあと、げほげ
ほとむせた。
「び、美少……?」
「むろんぶしつけにお顔を直視できるはずもないけど、台輔がおいでになった
とき、遠目に一瞬お姿を見てしまったんだ。あわてて目をそらしたけど、貴色
の黄色い長衫に玉の冠、黄金の髪がきらきら輝いて、もうお美しいのなんの。
そのあとすぐ、俺らが座っている卓の側にいらしたんだけどさ、想像していた
より小柄で華奢なおかただった!」
 鳴賢たちは椅子に座っていたし、逆に宰輔は立っていたので、ちょうど六太
と同じ身長だということは気づかなかったらしい。それに確かに六太は小柄で
華奢だが、そもそもゆったりと美しくひだを作っていた長衫のおかげで体格な
どはっきりしなかったに違いなく、結局は見る側の思い込み次第なのだ。
「お声も優しくて、細くはかないようでいながら凛としていて、さすがは麒麟
という感じでさ」
「……えーと」
「ああ、これが主上のご寵愛を一身に受けておられるゆえんだなと思ったら―
―」
 興奮気味の鳴賢は、六太の様子など気にしてはいない。茫然としている六太
の服を、傍らの楽俊がちょいちょいと引っぱって耳打ちした。
「こう申しあげては何ですが、自業自得ってもんですよ、台輔」
「……反論する気も起きねー……」
 六太はぼそりとつぶやいた。

552名無しさん:2013/01/10(木) 04:37:54
新年お年玉SS、ありがとうございます〜!
楽俊が誉められるシーンは以前の時も好きなシーンでした
水戸黄門の印籠のごとく、スカッとするシーンです!
楽俊がハッピー

553永遠の行方「王と麒麟(165)」:2013/02/09(土) 16:00:25

 しばらく経ってまた風漢が大学寮を訪ねてきたとき、彼は鳴賢を見るなり
「元気がないな」と言った。あれからいろいろ思い悩んでしまい、そのせいで
自分がやつれて見えることは友人たちに指摘されて承知していたので、鳴賢は
誤魔化すように笑うしかなかった。
 海客の団欒所で新たに聞き知った六太とのやりとりやら、楽俊やその母親が
集めてきた情報やらを懸命に報告する。どれも到底有望な手がかりとは思えな
い些細な内容ばかりだとわかってはいたが、それだけに彼の真摯な思いは伝
わったようだった。
「これを預かってきた」
 ひとしきり話を聞いたあと、風漢は懐の折りたたんだ書状を差し出した。鳴
賢は怪訝そうに書状を開き、はっと息を飲んだ。
 文面自体は簡潔なものだ。尽力に感謝していること、そして件の約束は守る
ので心配は無用であること。他人には何のことやらさっぱりだろうが、最後に
記されていたのは――延王の御名御璽。
「こ、れ……。まさか、ご宸筆……?」
 畏敬のあまり震える声で問うと、風漢はうなずいた。
「安心しろ。呪を解くためであれ何であれ、王は六太のためにならぬことはせ
ん」
 予想外の厚遇に混乱した鳴賢は、茫然とした顔で風漢を見つめた。椅子に
座っていなかったら、脚が萎えて床にへたりこんでいたところだ。しばらく固
まったまま書状を握り締めてから、のろのろと再び文面に視線を落とす。
「……うん」
 長い時間が経ってから、彼はかすかにうなずいた。そして祈るように目を閉
じ、胸元に書状を抱きしめたのだった。

554永遠の行方「王と麒麟(166)」:2013/02/09(土) 16:02:57
 その夜、さまざまな思いが駆けめぐった鳴賢はなかなか眠れなかった。明け
方になってようやくまどろんだが、朝を迎えたときには不思議と気持ちは落ち
着いていた。
 ――主上を信じよう。
 そんな思いが自然に湧きあがる。そもそも一介の大学生に過ぎない彼を王が
慮る必要はないのだ。なのにわざわざ風漢に書状を託してまで気遣ってくれた。
なんという誠実さ、慈悲深さ。そして王を信じると断言した六太の言葉。
 ならば――自分も信じよう。
 そう思い定めると、久しぶりに晴れ晴れとした気持ちになった。伝えるべき
ことはすべて伝えたという思いもあり、鳴賢は今度こそ事態は完全に自分の手
を離れたと感じた。そしてあまりにも少ない手がかりを思えば、六太の眠りを
覚ますことの難しさも冷静に分析できた。だがもう焦りはない。事件の解決に
向けて王が働き続けるかぎり、いつか必ず目覚めると確信できたからだ。
 どこか吹っ切ったふうの彼の様子に楽俊も安心したようだった。「元気が出
たようだな」と言って、その日の授業のあと、夕餉をおごってくれた。敬之や
玄度も顔を出し、老師の講義について四人で久しぶりに熱のこもった意見の交
換をした。
 鳴賢よりずっと早く立ち直っていた敬之たちは、長らく鳴賢が沈んでいたの
も、自分たちと同じく失恋の痛手によるものと考えて気にかけていた。そんな
彼ら自身、以前と比べればどこかに陰りはあった。鳴賢は食事の席で友人たち
の気分を引き立てるように「いろいろあったけど、初心に返ろうと思ってさ」
と晴れやかに笑った。
「大学を卒業して国官になる。そして雁と主上のために一生懸命働くんだ」
 力強く言い切ると、敬之らも「うん」と笑みを向けた。
 六太が養い親と地方に行ったという作り話はとうに伝えてあったが、その延
長で皆で海客の団欒所に連れていくことにもなった。日常と違う世界と接すれ
ば気晴らしになることは経験でわかっていたし、六太の代わりに少しでも海客
らを気遣ってやりたくて、鳴賢が積極的に誘ったのだ。

555永遠の行方「王と麒麟(167)」:2013/02/09(土) 16:05:16
 そうして今回も遠慮した楽俊を除いた三人で出向いた団欒日、親しみやすい
守真はともかく、悠子という娘は相変わらずそっけなかった。しかし以前鳴賢
がぽろりと褒めたことがあったせいか、それでもとげとげしさはかなり薄れて
いた。
「あの子さ」と、守真に呼ばれて少し離れたところで話をしている悠子を眺め、
鳴賢は仲間たちに耳打ちした。「胎果だから、蓬莱では顔がまったく違ったん
だって。それに綺麗な黒髪だったのに、こっちに来たら変な緑の髪になって衝
撃を受けたらしい」
「へえ。別に変な色でもないけどな」
 玄度が不思議そうに言ったが、確かに見た目がまるきり変わってしまったら
衝撃を受けるだろうことは皆納得した。よほど醜かったならともかく、自分の
顔には誰しも愛着があるものだ。女と違ってあまり鏡を見ない鳴賢でさえ、自
分の顔が別人に変わってしまったら相当な打撃になるだろう。
 悠子と話す必要があるときは恂生が通訳したが、基本的には片言が主体のた
め、当然ながらあまり親しいやりとりにはならなかった。それでも例の人形劇
の台本に敬之が興味を示したのは嫌ではなかったらしい。どこか腫れ物に触る
ような守真らと違い、蓬莱の事情に疎い彼らが示す素朴な反応も良いほうに転
んだのかもしれないが、態度は相変わらずそっけないながら、簡単な単語を並
べた筆談に娘が応じるようになったのは進歩だった。
 そうやって鳴賢は穏やかに日々を過ごし、大学ではこれまで以上に勉学に勤
しんだ。たとえ何年、何十年かかろうと、国官になって昇仙すれば、いつまで
も六太の目覚めを待つことができる。ならばそのときが来たら、空白の時間な
ど少しもなかったかのように、「やあ」と笑って六太を迎えよう。
 そんなふうに考えた彼の心には、もはや何の迷いもなかった。逆に玄英宮で
は暗雲が垂れこめつつあったのだが、結局最後までそれを知ることがなかった
のは彼にとって幸いだった。

556永遠の行方「王と麒麟(168)」:2013/02/14(木) 21:01:59

 六太の解呪を任された冬官の一団は、二日に一度程度、仁重殿に伺候してい
た。黄医立会いのもと、これまで六太が関心を見せたとわかっている事柄に由
来する方法で、呪が解けるかどうか地道に試している。
 事件が起きて以降、既に定例になっていたその日の内議において、冬官府か
らの進展なしといういつもの報告を受けたとき、ふと王がこんなことを言い出
した。
「これまでは六太が何を考えていたかを中心に考えてきた。今度は逆に、既存
の思想を当てはめる形で導き出したらどうだ」
「と、おっしゃいますと?」
「たとえば仏教には五欲というものがある。食欲、色欲、睡眠欲、財欲、権力
欲、という。それに該当する形で、六太が望んでいたことがないか調べるのだ」
「五欲……」
「それでは大雑把すぎるというなら、煩悩なら百八つもあるぞ。順に当てはめ
ていけば可能性を網羅しやすく、各人が持っている六太の印象から導き出す方
法に比べて漏れは少なくなると思うが」
「なるほど」
 六官は納得した。五欲と言われても、麒麟を想定した場合は正直なところぴ
んとは来ない。しかし実際に六太が、誰にも明かせないと恥じるほど個人的な
願望を抱いていたと思われる以上、既存の一般論を基点に据えて心情を推し
量ってもいいかもしれない。少なくとも主君が言うように可能性は網羅できる
だろう。
「しかし……たとえば台輔が色欲に囚われていたとは到底思えませんが」
「それならそれでいいだろう。ひとつひとつ可能性を潰していけば、おのずと
選択肢は狭まる」
 そのような会話を交わしたのちに散会となり、朱衡は数日ぶりに仁重殿に見
舞いに赴いた。今日は少々趣向があるのでぜひおいでをと、あらかじめ仁重殿
の女官に乞われていたのだ。同じ内容を伝えられたという尚隆も一緒で、主従
は揃って仁重殿を訪れた。

557永遠の行方「王と麒麟(169)」:2013/02/14(木) 21:06:47
 六太の居室のひとつに通された彼らは、室内をずっと彩り続けている花や菓
子の間にある、たくさんの贈りものを目にした。王から下賜された品はもちろ
ん、女官たちの心づくしや、他の官からの見舞いも多々ある。一番多いのは光
州侯帷湍が定期的に送ってくる品々だった。光州側で新しい情報が何もないた
め、せめてもと思ってやっているのだろう。いずれも女官が日々入れ替えてい
るらしく、朱衡が目にするたびに室内の様相は微妙に異なっていた。
「帷湍は相当気に病んでいるようです」
 贈りものの山を一瞥した朱衡が沈んだ声で言った。
 光州側に落ち度があったと見なされている以上、朱衡に限らず六官が帷湍と
個人的にやりとりするのは好ましくない。何より帷湍自身、公に責任を問われ
こそしていないものの、悔悟の念から私的な行動を慎んでいるらしい。
 それだけに光州からの連絡は官を通した公のものに限られており、玄英宮側
もせいぜい報告の受領を示す簡潔な返信のみで対応していた。そもそもかなり
早い段階で、光州で興味深い情報が見つかることもなくなってしまったため、
宮城でも成果が上がっていないこともあり、いちいち進捗を返す手間をかける
理由がなかったのだ。
 帷湍の心情を汲んで、朱衡もあえて連絡を取ろうとはしていないが、関弓か
ら遠く離れた場所にいる彼の焦燥と悔悟は察して余りある。
「六太のことは、別にあやつのせいではなかろう」尚隆は苦笑した。
「いえ、残念ながら、帷湍の責任は大きいと言わざるを得ません」
「それを言うなら、不用意に出歩いた俺のほうが責任重大だと思うが」
「もちろんです。主上も反省して、二度と軽々しい行動をなさることのないよ
うにお願いいたします」
「わかった、わかった。そうにらむな」
 そう言う主君の口調は相変わらず気楽で、朱衡は小さく溜息をついた。
 六太は居室で、ゆったりした大きな椅子に座らされていた。その前に別の椅
子がいくつも置かれている。主君と朱衡を迎えた女官らは、いったん拝礼して
から彼らに椅子を勧め、そののち自分たちも下座につつましく座った。
「本日は少々趣向がございます」
 そう言ってひとりが綴じた冊子をうやうやしく示したのを見て、朱衡は得心
した。
「鳴賢が送ってきた例の脚本か。海客の娘が内容を考えたという」
「さようでございます。台輔が楽しみにしておられたそうなので、せっかくで
すから読み聞かせて差しあげることにしました」

558永遠の行方「王と麒麟(170)」:2013/02/14(木) 21:10:24
「それはいい。台輔もお喜びになるだろう」
 冊子を手にした女官は、これらが子供向けの物語であり三本あること、その
簡単な内容説明を口にした。さらに元は人形を使う劇の脚本だったとあって、
朗読に際して不足している説明を少々追加したとも。そののち芝居がかったそ
れらしい口調でゆっくりと語りはじめた。
 まずは美しい竜王公主の恋物語。朱衡は六太が恋物語のたぐいに関心がある
とは思わなかったし、何より女性である公主の視点で語られる話だったため、
筋立てそのものには興味を惹かれなかった。しかし途中までは悲恋に終わりそ
うで聞き手をはらはらさせながら、最後は報われて大団円になるという構成は
それなりに興味深いものだった。
 続いて、病気の親のために薬草を摘みに行く兄妹のほのぼのとした冒険譚。
最後は、意地悪な領主を機転でやりこめる少年と動物たちの滑稽譚が語られた。
子供向けで短いとはいえ、いずれもかなり工夫が凝らされた内容で、暴力的な
展開もなかった。本当に六太にこの朗読が聞こえていたなら興がって満足した
に違いない。尚隆でさえ「目新しい上になかなかおもしろい」と感心していた。
「海客が書いたと伺ったときはどうかと思ったものですが、こうして読んでみ
れば意外に楽しい内容でした。台輔が楽しみにしておられたのもわかります」
 語り終えた女官は、にこにこしてそう言った。少しでも六太に心地よく過ご
してもらおうと、毎日、美しい音楽を演奏させているが、これからはこういっ
た物語も入手して語り聞かせてみるつもりだとも。
「そういえば、六太に気に入った女官や侍官はいるのか? いるならその者を
常に侍らせるがよかろう」
 尚隆が言うと、女官は少し考えてから答えた。
「台輔は誰とでもすぐ仲良くなってしまわれるので、突出して寵愛されている
者はおりませんが。おそばに仕える者は皆可愛がっていただいております」
「そうか」
「むしろずっと同じ顔ぶれでお世話しているほうが良いのではないでしょうか。
お目覚めになったとき、いつもの面々でお迎えしたほうが台輔も安心なさるか
と」
「そうだな。しかし気に入った女官のひとりぐらいいても良いだろうに。女遊
びにも関心がないようだし、こうしてあらためて考えると甲斐性のないやつだ」
「主上。台輔をご自分と同列に考えませんように」

559永遠の行方「王と麒麟(171)」:2013/02/14(木) 21:12:40
 ついたしなめた朱衡を、尚隆は「そう硬いことを言うな」と軽くあしらった。
「麒麟だからその手の生々しい欲求がないのは当然としても、少しは女に興味
を示しても良いと思うのだがな。だが、まあ良い。それはそれとして男女を問
わず、よく遊びに行くような親しい相手は地方の州城あたりにおらぬのか。も
しいるならこの際宮城に配置換えをして、六太の側に仕えさせてやろう」
「確かにお目覚めになったときにすぐ会えればお喜びになるでしょうが、わざ
わざ私的にお訪ねになるほど親しい官は遠方にはいないと思いますよ」
 朱衡は答え、あえて言うなら帷湍がそれに当たるのではと指摘した。そもそ
も六太は、地方と言っても下界に遊びに出るならまだしも、州城を訪問するこ
とはほとんどなかったはずだ。むしろ官や政務から逃げようとして、官府のた
ぐいを極力避けていたと言っていい。
「ああ……そうか。そうだったな。ふむ、そういったところは俺と変わらぬ」
尚隆は笑ってうなずいた。
 やがて女官が六太を臥室に運んだあと、暫時、朱衡は人払いして尚隆とふた
りきりになった。
「主上」
「なんだ」
「台輔がお目覚めになったら、女官への口実でも何でもなく、台輔がお望みに
なるものを実際に差しあげてください」
「まあ、言われずとも、いくらでも何でも下賜するが」
 あくまで気楽な調子の主君に、朱衡は吐息を漏らして話題を変えた。
「ところで先ほど女官が読み聞かせた物語のうち竜王公主の話は、鳴賢による
と蓬莱の童話の焼き直しだそうです。元は半人半魚の姫の話で、台輔も知って
おられたとか。悲恋だったのをめでたしめでたしで終わるように変えたそうで
す」
「ほう」
「団欒所での催しに備えたためもあるでしょうが、台輔は蓬莱の伝説や物語に
そこそこ詳しかったようですね」
「ふむ。あれだけ遊びに行っていればな」
「それなのですが……」朱衡はわずかに言いよどんだあとで続けた。「もしや
台輔は、蓬莱に帰って暮らしたいとか、そういった願いを持っておられたので
はないでしょうか」

560永遠の行方「王と麒麟(172)」:2013/02/14(木) 21:16:36
「蓬莱に?」尚隆は意外そうに眉を上げた。
「はい」
「それはないな。六太が帰りたいとしたら、貧しくとも家族で暮らしていた頃
の蓬莱だろう。今の蓬莱ではない」
「そうでしょうか」
「今の蓬莱の様相はな、朱衡。泰麒を連れ戻しに行ったときに俺も見たが、俺
や六太がいた時代とはまったく違うのだ。もはやあそこは、この世界の他国よ
りも遠い遠い異邦だ。六太の帰りたい場所は、既にあれの心の中にしか存在し
ない」
「主上も、ですか?」
 思い切って尋ねると、尚隆は一瞬だけ驚いたような目をしてから、ふと笑ん
で「そうだな」と肯定した。
「帰りたいと思うのは、そこに懐かしい人々がいるからだ。少なくとも思い出
の景色の中で面影を偲ぶことができるからだ。だが今の大きく変貌した蓬莱で
は、六太とてそうはいくまい。そもそもこれまで遊びに行った際に個人的に親
しくなった者は何人かいたようだが、過ぎた歳月を思えば全員没しているだろ
う。たとえば何十年か前、親切な婦人の元にしばらく通って蓬莱語の読み書き
を教えてもらったようだが、その相手もとうにいない。時を遡るすべがない以
上、故人となった知人と再会する方法はなく、ならば少なくとも呪者が設定し
た解呪条件ではない。それにあれで六太はさびしがりやだからな。仮に懐かし
い景色が残っていたとしても、俺やおまえや、日頃から街で親しく触れあって
いた人々がいない場所で暮らしたいとは思うまい。あれはやはり雁を、雁の国
土や人々を愛している」
「そうですか……」
 朱衡はほっとしたような、それでいて手がかりではなかったことに残念なよ
うな複雑な気持ちだった。しばらく考えに沈んだ彼は主君にしみじみと語った。
「景台輔はいろいろ助言してくださいましたが、台輔の最大の願いとやらは、
やはり個人的な事柄なのでしょうね。でなければその場にいた鳴賢に、密かに
手がかりなりと伝えたはずですから。しかしそうなさることはなかった。むし
ろ逆に口を閉ざしてしまわれた。呪者も台輔を鳴賢とふたりにしておきながら、
手がかりを与えられるとは考えていなかった」
「個人的な願い、か……」

561永遠の行方「王と麒麟(173)」:2013/02/14(木) 21:23:16
「願ってはいても、誰にも知られたくないと考えておられた。晏暁紅にあさま
しいと嘲られても、一言も反駁なさらないどころか、むしろ逆に諦めてしまわ
れた。それほど恥じておられたのでしょう。そして実質的に生を放棄すること
になっても口にできないほど真摯な願いでもあった……。
 あらためて思い返してみると、台輔は本当に個人的な望みはまったくと言っ
て良いほど口になさいません。もちろん民に対する慈悲や、はたまた食事のお
好みといったささいなことはいくらでも気軽におっしゃいます。しかし今にし
て思えば、ご自身のごく個人的な事柄に関わるお望みを口になさったことはな
いように思います」
「よもやおまえがそんなことを言いだす日が来るとはな」尚隆はおもしろそう
に笑った。「あれだけ六太が好き勝手に下界を出歩くことに文句を言っていた
というのに」
「それは否定しません。しかしあれは言うなれば籠にこめられた鳥が外に出た
がるようなもので、普通に考えるところの個人的なわがままとは少し違うと思
うのです」
 真剣な顔で妙に理解を示した朱衡に、尚隆は肩をすくめた。
「その意味では、真に十三であった頃から、本当の意味でのわがままを言った
ことは一度もないかも知れぬな」
「そういうお望みがないのであればともかく、どうも台輔は慎重に隠しておら
れたようですね。何もそこまでご自分を軽んじることもないでしょうに。どの
ような内容であれ、台輔が真剣であれば誰も笑ったりしないでしょう」
「だが……もしその願いとやらが、他人の不幸を招くことだったら?」
「不幸、とおっしゃいますと」意外なことを問われ、朱衡は驚いた。
「それはわからん。だが考えてみれば二律背反になる事柄もありうるからな。
六太の性格からすれば、あれの願い自体は他愛のない内容である可能性は高い。
宮城を出て自由に出歩きたいという欲求のようにな。だがそれが明らかになっ
た場合、誰かの生命に深刻な危機を招きかねないとしたら」
 漠然としてはいるものの、まったく考えられない方向性の推測ではなかった
ので朱衡は反論しなかった。少なくとも六太の願い自体が突拍子もない事柄で
あると解釈するよりは、その成就のために邁進した結果、意図せずして他人の
不幸を招きかねない内容としたほうが想像しやすい。それなら六太が伏せるの
はわからないでもないし、むしろ慈悲の麒麟ゆえの動機にふさわしいと言えた。

562永遠の行方「王と麒麟(174)」:2013/02/14(木) 21:26:20
「……哀れだな」
 ふと尚隆がつぶやいたので、朱衡は首をかしげた。
「哀れ、ですか? しかしもし本当に台輔のお望みの結果、思いがけず他人に
害をもたらしかねないのでしたら、台輔が隠しておられたのは理解できます。
内容次第では、麒麟でなくとも躊躇するでしょう」
「そうではない」尚隆は苦く笑った。「元は王という存在を嫌っていたという
六太が、非常時には結局、躊躇せずに自分を犠牲にして俺を救った。麒麟の性
(さが)とはいえ哀れなものだと思ってな。突き詰めてしまえば王など官とど
こも変わらん。無理して救おうとせずとも、いよいよとなれば首をすげ替えれ
ばそれですむ」
 さらりとした調子で怖いことを言う。朱衡は動揺を表に出さないよう注意し
て答えた。
「台輔が主上を嫌っておられたのは昔のことでしょう。それも主上ご自身に責
があるわけではなく、単に蓬莱での幼い時分のご苦労によるもので、今では普
通にお慕いしておられると思いますよ。何より主上と一緒に下界に行かれると
きは、いつも楽しそうにしておられたではないですか」
「ふふ。麒麟は王といると嬉しく、離れているとつらい生きものだそうだから
な」
「それに鳴賢によれば、台輔は晏暁紅のことさえ哀れんでおられました。誰の
ことも哀れんでしまうのが麒麟の性と言えますし、仮に主上をお救いするため
でなくとも、それが雁にもたらされる災厄を避けるためなら、台輔はご自分を
犠牲にするに躊躇はなさらなかったでしょう。主上がおられなくなればすぐに
国が荒れかねませんが、台輔の生命さえあれば主上に障りはないのですから。
 それにしてもこうして振り返ってみると、人ひとりの考えることというのは
意外とわからないものですね。日頃から侍官女官に囲まれて生活なさっていた
台輔のことでさえ」
「そうだな」
「いくら言葉を連ねても、心情のほんの一端しか伝えることはできませんが、
かと言って口にしなければ誰にも何も伝わらない。難しいものです」
 そう言って穏やかに微笑んでみせる。尚隆もどこか困ったような微笑を返し
てきたが、その様子は特に疲れたふうもなく、自棄を起こしているようでもな
かったので、朱衡は杞憂だろうと自分に言い聞かせた。

563名無しさん:2013/02/14(木) 21:29:08
とりあえず今回はここまでです。

564名無しさん:2013/02/17(日) 22:33:17
更新ありがとうございます!
これから尚隆がどのように変化し自分の気持ちに気付いていくのか、先が知りたくてウズウズします。
緻密に伏線を立てておられるので執筆が大変だとは思いますが、
一読者としてwktkしながら、先を読めるのを楽しみにしております。

565名無しさん:2013/02/18(月) 03:42:57
お年玉に続きチョコよりビターかつスイートな物語を読ませて下さる姐さま…!

竜王公主、人魚姫の切ない恋物語とオーバーラップする六太の秘めた思い…、

鳴賢が主上の書状に打ち震える場面は高潔な雰囲気が伝わってきて、そこも好きです。
思えばいつも鳴賢が真実に気づかずに触れているシーンにはドキドキしています。
事実に気づいた時に起こる衝撃を妄想しつつ噛み締めて読んでます。

566書き手:2013/02/24(日) 17:38:10
感想ありがとうございます&hearts;

伏線は……かなり回収したと思うんですが、
もう忘れている細かな部分とか、一部は置き去りになりそうな感じ。
その辺は軽く読み流していただければとw

昨年後半は投下できませんでしたが、実は書いたは書いたものの
またまた踏ん切りがつかずに長いこと寝かせていました。
でもおぼろに章の終わりが見えてきたこともあって、
少し気が楽になったので、さほど間をあけず、
これからちまちま投下していくと思います。
(もっとも実際に章が終わるのはまだまだ先)

とりあえず尚隆がぐるぐるし始めてる3レスを投下。

567永遠の行方「王と麒麟(175)」:2013/02/24(日) 17:41:29

 六太に関する陽子からの書状は膨大と言ってもいい量だった。しかも先ごろまた景麒が
新しく運んできたばかり。
 海客の軍吏による翻訳をしばらく併用した結果、最初はよくわからなかった現代の蓬莱
文も、尚隆なら何とか原文を読みくだせるまでになっていた。こちらの世界も五百年前の
蓬莱も、口語と文語は厳然と区別されていたが、今の蓬莱ではほとんど口語そのままに書
き記すものらしい。それがわかってみれば、そして蓬莱の現代語の特徴をつかんでみれば、
陽子の書状はかなり読みやすい部類だった。先方もその点に気を配って書いているのだろ
うが。
 そうやって必要に迫られたおかげで現代の蓬莱文に慣れた尚隆は、昼間の空いた時間や
夜間を精読や再読に充てることにした。多少手間取っても原文のまま読みくだせるとなれ
ば、他の者が携わるより作業は早い。何より陽子の目で描写された六太は、玄英宮での様
子とはまた違って興味深いものだった。
 ただそれに時間と意識を取られたせいで、毎日のように出向いていた仁重殿への訪問も
少し日が空くようになり、滞在時間そのものも短くなった。六太の近習たちが心細そうな
顔をしたので、政務が忙しい旨を言い訳にしたが、実際のところ尚隆は六太の顔を見るの
を避けていた。
 その日、仁重殿を訪れた尚隆は、久しぶりに人払いをして臥室から女官らを遠ざけた。
鳴賢から片恋の話を聞いた夜に訪れて以来、六太とふたりきりになったのは初めてだった。
 臥牀の傍らの椅子に腰をおろして六太を眺めやる。そのまま黙って半身の顔を見つめて
いた彼は、やがて口元に淋しげな笑みを浮かべた。
 六太の恋の話を聞かされたとき、まず感じたのは紛れもない驚愕だった。麒麟の思考は
本来、自王と自国が第一のはず。そもそも六太の幼い外見では色恋沙汰と縁がないように
思えたし、まさか永遠に覚めない眠りに甘んじるほど真剣な懸想をしていようとは思って
もみなかったのだ。
 実年齢を思えば恋愛経験がないほうがおかしい。しかし普段の六太に色恋に興味を覚え
ているそぶりはなかったため、尚隆は漠然と、その方面の心理は肉体同様幼いままにとど
まっているのだろうと思っていた。

568永遠の行方「王と麒麟(176)」:2013/02/24(日) 17:43:35
 ただし麒麟が恋をするはずがないとまでは考えてはいなかった。これまでいろいろな王
や麒麟と出会ってきたが、男女の場合は明らかに内縁関係に相当する主従もいたからだ。
何年か前に慶で話をした廉麟も、かぎりなく恋愛感情に近い気持ちを主君にいだいている
ようだった。それに実のところ麒麟は普通に喜怒哀楽の情を持っている。六太を見ていれ
ばわかるように、相手を責めたり恨んだりすることさえある。人々に対する慈悲の感情が
はなはだしいだけで、それ以外は浮世離れしているわけではないのだ。ならば異性を恋い
求めることも当然あるだろう。
 ――六太がそうだったとは、うかつにも尚隆が気づかなかっただけで。
 そして当初の驚愕が過ぎ去ったあとは、じわじわと淋しさが胸を占めるようになった。
漠々とした荒野でひとり、風に吹かれているような寂寥感とでも言うか。それは賑やかな
六太の姿が傍らから消えたことで感じた違和感とは比べものにならないほどのわびしさ
だった。
 普通の少年と同じように恋をしたことは、六太自身のためにもどこか安堵を感じていた。
麒麟とておのれのささやかな幸福を求めても良いはずだと思うからだ。だがこれほど長い
時をともにしながら、結局は彼に信用されていなかったという事実による衝撃は予想外に
大きかった。
 何といっても五百年以上を過ごした相手なのだ。臣下の筆頭である上、半身と言われ、
生命を分けあっていると言われ、時には各地を一緒に放浪して楽しく過ごした六太は、名
実ともに一番近しい存在だった。主君と臣下ゆえに一定の距離は置いているとしても、尚
隆はとうに六太を身内と見なしていた。外見の年齢の差による、そして騙されやすく万事
に見通しの甘い六太への自然な庇護心から、いつしか保護者めいた感情をいだくようにも
なっていたし、息子とは言わぬまでも腹違いの弟ぐらいには思っていた。互いに遠慮のな
いやりとりは親しさの発露でもあり、官と違って縁を切ることは不可能という関係は血縁
にも似て、家族のいない尚隆にとって間違いなく一番大事な存在だったのだ。
 だが六太のほうはどうか。彼の麒麟としての忠心を疑ったことはないが、おのれの恋を
秘して一言も語ることがなかったという事実は、尚隆を有象無象と同列に見なしたも同然
だった。六太が真剣に想っているなら他言など絶対にしなかったし、逆にいくらでも助言
し協力もしたろう。だが現実には六太は相談するより、とことん秘すことを選んだ。知り
あって数年しか経たない鳴賢に心の奥底を明かしながら、尚隆にはほのめかすことさえし
なかった。普段は話好きで開けっぴろげな六太が、言葉にも態度にもまったく出さなかっ
たということが、彼の想いの深さと決意の度合いとを物語っている。

569永遠の行方「王と麒麟(177)」:2013/02/24(日) 17:46:23
 鳴賢が指摘したように、相手の女性の生命にも関わる重大な問題であるのは確かだ。尚
隆の立場や、一方的に想いを寄せられて困惑する相手の心情を思いやった結果という解釈
もできよう。何より秘密というものは、いったん誰かに喋ってしまえばどうしても漏れる
ものだ。六太の片恋が鳴賢から尚隆に伝わったように。それを考えれば、本気で秘密を守
りたいなら誰に対してであれ口にしないに限る。
 だがそれならそれで、なぜ鳴賢には明かしたのか。ある意味では尚隆ほど秘さねばなら
ない相手もいないだろうが、生命を分けあっている半身として、主従ゆえではなく友情と
信頼から相談してくれても良かったろうにと考えてしまうのは仕方がない。
 六太にとって、王である自分は特別だとずっと信じてきた。それは紛れもない事実では
あったが、王と麒麟の枠を一歩も逸脱するものでないなら非常に淋しいことだった。主従
間で友情が成立すると考えるほどおめでたい思考はしていないつもりだったが、半身とさ
れる六太なら、それに近い関係を育めるような気がしていた――いや、実際に育んできた
と無意識に思っていたのだ。
 考えれば考えるほど、押しよせる現実に気が滅入ってきて、尚隆は声もなく笑った。思
いのほか打撃を受けているのがおかしかったし、そんな自分が哀れでもあった。鳴賢から
話を聞いた直後は驚きが勝っていたが、時間の経過とともに淋しさは増していった。考え
るほどに、自分が本当はいかに孤独であったのかを思い知らされた気がした。
「だが……おまえも孤独だったのだろうな」
 ふと声に出して六太に語りかける。
 仏教の五欲にかこつけて話を振ったものの、六太が苦しい片恋をしているなどと考える
官はひとりもいなかった。むしろ色欲を否定していた。仁重殿の女官が六太に、海客の娘
が書いた物語を読み聞かせたが、その中に恋物語が一編あった。だが一緒に聞いた朱衡が、
六太が男女の恋模様そのものに興味を持っていたわけではなかろうと考えているのは明ら
かだった。
 想像してもいないということは、その種の事態を歓迎していないことの表われでもあろ
う。麒麟の恋など誰も歓迎しないという鳴賢の指摘は正しい。
 尚隆が孤独なら、人知れず片恋に苦しんでいた六太もまた孤独だったのだ。

570永遠の行方「王と麒麟(178)」:2013/02/26(火) 19:07:56

「しばらく光州に連絡していませんでしたが、そろそろ現状の詳細を知らせる使者を立て
てはどうでしょう。目立った成果はありませんが、向こうは事件の発生地でもあります。
あまり連絡を疎にするのもどうかと」
 六官と次官とで打ち合わせをしていた際、朱衡はさりげなく提案した。内容の性質にも
よるが、余州とのやりとりも基本的に秋官の担当だから、提案すること自体は不自然では
ない。
 尚隆が朱衡と連れ立って仁重殿を訪れた先日、尚隆ははっきり「帷湍のせいではない」
と口にしていた。それを伝えるだけでも帷湍の気持ちは違うだろう。
 だが大司馬や太宰は顔を見合わせ、やれやれといった風情で頭を振った。
「何も今、光侯を慮る必要はなかろう。だいたい光州からの情報もとうに大した内容では
なくなっているのだ」
「そうだな。台輔をお救いする目処が立ったならまだしも、それどころではない状況だ」
「いえ、だからこそ、ある程度の配慮は必要ではないでしょうか。国難の折、諸侯諸官は
一丸となって事に当たらねばなりません」
 言葉を選んで答えた朱衡だが、ふたりは肩をすくめて見せた。それへ朱衡はあえて話を
続けることはせず、やわらかく微笑んだ。
「ではとりあえず現状のまま様子を見るということでよろしいでしょうか」
「いいのではないかな。まあ光侯と親交の深い大司寇にしてみれば、何かと便宜を図りた
いのだろうが」大司馬はそう言って鼻を鳴らした。「もし光州から有益な情報が上がって
くるようなことがあれば、そのときに考えれば良かろう。ところで大宗伯。先ほどの占人
の件だが――」
 議題が移る中、六官の様子を鑑みた朱衡は内心の失望を隠しつつ、何か目立った成果が
上がるまで、光州については話題にすることも控えたほうが良さそうだと判断した。向こ
うで手がかりが見つかる可能性は残されている。しかし六太が昏睡状態であることを知る
者は帷湍と令尹だけだし、今に至るまで有望な情報が出てきていない現実を考えると望み
薄だろう。成果がないのに帷湍と親しい自分が話題に出したり連絡を密にすると、主君が
襲われたときの衝撃による光州侯への反感を容易に思い出されるのみならず、内朝六官の
不和のもとになりかねない。

571永遠の行方「王と麒麟(179)」:2013/02/26(火) 19:09:57
 もっとも朱衡自身は、今回の事件でも帷湍に対する信頼を損なわなかったし、むしろ光
州侯が帷湍で良かったと安堵さえしていた。そもそも誰が州侯でも、おそらく今回の事件
は防げなかった。仮に朱衡が州侯位にあったとしても同じように後手に回っていた可能性
は高い。気短な自分の性格を考えると、もっと下手を打っていたかもしれない。他の者な
ら言わずもがな。ならば気心の知れた、信頼できる帷湍が当事者であったことは、彼には
気の毒だが不幸中の幸いだった。何より少しぐらい連絡を取らなくても謀反の心配をしな
くてすむのは大きい。冢宰白沢や尚隆自身もそう考えているはずだ。
 ただ、それどころではないとの大宰の言にも共感はしていた。なぜなら朱衡は今、光州
の帷湍よりはるかに王の様子が気にかかっていたからだ。
 いろいろ考えた末、朱衡は内々に白沢を訪ねて主君の様子を伝えた。もともと尚隆を心
配していたのは白沢のほうだったからだが、相手は意外にも「そうですか」と軽くうなず
いただけだった。
「冢宰? 主上が心配ではないのですか?」
「もちろん心配しておりますよ。しかしながら以前にもそういった話をしましたが、今回、
主上が大司寇にお心の一端を垣間見せたこと自体は悪くありません。台輔もそう思われる
でしょう」
「台輔が?」
「そうです。拙官が、そしておそらく台輔も恐れておられるのは、主上が心の奥底に闇を
かかえながらも周囲にそれを悟られず、ある日突然乱心するという事態だからです。それ
に比べれば、誰かに愚痴や弱音を吐くこと自体は悪い兆候ではありません。助けてほしい
という心理があればこその言葉ですからな」
 決心している者は何も言わず、淡々と実行するのみ。惑う者だけが周囲に救いを求めて
心中を漏らすのだ。
 だが朱衡は、平然とした顔で「王など首をすげ替えればすむ」と言い放った尚隆が良い
傾向だとは思えなかった。少なくとも平素と同じではないだろう。むろん二百年前の梁興
の謀反の頃に比べれば、今のところは言うほどの変化ではないが、なかなか状況が進展し
ないことで、さすがに少し苛立ってきたのではないだろうか。

572永遠の行方「王と麒麟(180)」:2013/02/26(火) 19:13:12
「しかし、そうすると拙官を含めてどう対処すれば良いのでしょう。見通しが立たないの
に根拠なく励ましても説得力に欠けますし、かと言って主上のおっしゃることに迎合して
も悪い事態になりそうです」
「さよう、やたらと励ましても逆効果でしょうな。しかしここはとにかくお心を語ってい
ただけるように努力するしかありますまい。口に出せば、それだけで気が晴れるというこ
ともあります」
「いたずらに迎合せず、かと言って頭から否定もせず、ですか。難しいですねえ」朱衡は
嘆声を漏らした。
「――そう。たとえば台輔が心から主上を信頼しておられたとか、そういう心情がわかる
証言でもあれば良かったのですが」
「信頼?」
「台輔なりのお考えあってのこととはいえ、主上に何の言伝もなかったのは非常にまずい
やりかたでしたからな」
 自分を見捨ててほしいとの六太の伝言は、極論すれば王にも官にも解決できないと、彼
らを役立たずだと言ったも同然だった。むろん皆が気に病まないようにとの配慮によるこ
とはわかっている。しかしあれはむしろ、何年かかろうと呪を解いてくれると信じている
とでも伝えるべきだった。それなら信頼に応えるべく歯を食いしばって粘り強く解決に当
たれるし、何より伝言自体が心の支えになる。
 しかし肝心の六太が諦めてしまっていては。麒麟なしでも主君の治世に何の陰りもない
との確信が、彼にとって王や諸官に対する究極の信頼のつもりだったとしても。

573永遠の行方「王と麒麟(181)」:2013/02/28(木) 19:32:02

 政務を終えて長楽殿の私室にさがった尚隆は、夕餉を済ませると早々に人
払いをし、用意させてあった酒に口をつけた。
 ふと杯を持ったまま傍らの卓に顔を向け、そこに積まれていた陽子からの書
状の山を眺めやる。
 六太は陽子と親しく交流していたとはいえ、付き合いとしてはたかが数年、
おまけに普段は離れて暮らしている。したがって持てる情報自体は限られてい
るはずだが、そのぶん記憶も残りやすかったのだろう。直接会って話した内容
については、いつ頃どのような話をしたのかかなり具体的に書き連ねてあった
し、書簡によるやりとりについても、六太からの返信も添付して詳細に説明し
ていた。中には慶の内情を推察できる言及もあり、さすがに無用心すぎるだろ
う、浩瀚は承知しているのだろうかと、若さゆえのまっすぐな気性に苦笑する
しかない尚隆だった。
 鳴賢に片恋の告白をした六太は、陽子にも、尚隆とはしなかった深い話をい
ろいろしていた。
 たとえば蓬莱の知識や技術を国政に生かせないかと陽子が相談した折、天の
理についても深く言及する形で助言していた。互いに蓬莱について詳しいから
こそだろうが、知り合って数年しか経たない他国の王相手にずいぶんと突っ込
んだ話をしたものだと思った。同じようなことを主である尚隆とはもっと話し
てもいいはずだが――考えてみれば、六太とはそこまで深刻に委細を話し合う
ことはなかったかもしれない。そもそも尚隆は、国政に生かすべく蓬莱の情報
を得させたことこそあるが、六太自身の助言を必要としたことは一度もなかっ
た。
 いずれにせよ書状を見るかぎり、陽子もまさか六太が恋に悩んでいたとは
思っていないようだ。このぶんでは鳴賢に教えられなかったら尚隆自身も気づ
かないままだったろう。
(ただ、六太の最大の願いが本当に恋の成就だったとしても、それは現実に国
が平らかに治まっているからだろうがな)

574永遠の行方「王と麒麟(182)」:2013/02/28(木) 19:35:40
 鳴賢は麒麟も人間だと言い、恋をして個人的な幸せを求めても不思議はない
と言った。だがそうなったのはやはり今の雁が平和だからだろうと、ずっと六
太を見てきた尚隆は思うのだ。
 幾度か謀反が起きたとはいえ、国土は豊かだし基本的には平和に治まってい
る。だからこそ六太もとりあえず民の幸せを脇にのけ、自分の恋情を育むこと
ができたのだろう。多くの民が難儀していれば、六太の関心は彼らを助けるこ
とに向くはずだし、それが麒麟という生きものに天帝が与えた性質だからだ。
つまり皮肉にも六太の望む太平が、結果的に片恋という苦しい状況を招いたと
も言える。
 しばらく酒杯をあおっていた尚隆は、六太の恋の相談に乗りながら酒を酌み
かわしてみたかったとしみじみ思った。男同士の腹を割った親密な対話ができ
たろうに。時にお互いをからかいながらも、恋の悩みを語りあい慰めあう。そ
のまま酒を過ごして、ふたりして酔いつぶれてしまってもいい。そういった光
景を思い描いてみると、そこには紛れもない憧憬があった。王は孤独で当たり
前だと割り切ってきたはずなのに。
 それにしても、六太の周囲に女の影がまったく見えないのが腑に落ちなかっ
た。いったい六太がここまで完璧に自分の心を隠せるとは。
「つくづく使令が残っておれば、な」
 ふとつぶやく。本質は妖魔である使令は、人の心の機微に鈍感なほうだ。し
かし六太の日頃の言動を見知っているのだから、いろいろと有益な手がかりを
得られたろうに。
 いったいどんな相手かと、尚隆は想像をめぐらせてみた。六太の性格。女の
影がまったく見えないこと。鳴賢に語った告白の内容……。
 只人なら相手は日ごとに老いていくし、尚隆の王朝に陰りがない以上、死ぬ
直前なら教えてもいいなどと言う必要もない。そこまで待たずして、相手のほ
うで人生を全うして去っていくからだ。
 ならば片思いの相手は仙で、それも正式な婚姻にせよ野合にせよ伴侶がいる
のだ。少なくとも六太に脈があるはずはない。脈があったなら麒麟の慈悲の性
(さが)としても想いの成就という動機からしても、自分ひとりで秘すことは
ないだろう。おそらく相愛になった上でふたりで秘するのではないか。

575永遠の行方「王と麒麟(183)」:2013/02/28(木) 19:39:59
 相手に寿命がなく、六太の想いは一方通行に過ぎない。しかし麒麟である以
上、その恋は王朝に混乱を招きかねない。だからこそ六太は、しっかりと口を
つぐんできたのだろう。
 もちろん相手の女性を守るためもある。民にとって現人神である尚隆が采配
すれば、六太の恋による混乱も即座に収められるだろうが、問題の女性は肩身
の狭い思いをするはずだし、相当悩みもするだろう。六太を恨む結果になるか
もしれない。何より望みのない自分の想いを知られる惨めさを何としても避け
たかったのだろう。
 だがその相手はどこにいるのか。鳴賢の想像もあって最初は地方の州城かと
も思ったが、朱衡の言うとおり、普段の六太が府第のたぐいに近寄らなかった
ことを考えると可能性はまずない。それに恋情というものは、相手が遠方に去
れば自然と冷めていくものだ。望みのない片恋ならなおさら。日々、顔を合わ
せてこそ、相手の姿や言動に刺激を受けて想いが持続するのだから。
 ということは、女の影がないという不思議はさておき、遠方ではなくこの近
辺、意外にも宮城にいるのではないか。突出して寵愛されている者はいないと
の仁重殿の女官の言がある以上、近習ではないと思われるが、逆に身辺近くに
いる相手だからこそ恋情を押し隠してきた可能性もある。とにかくまったく接
触がないことはなかろうから、ちょっとぐらい一緒にいて多少親しくしても、
周囲の目には不思議とも何とも映らない役職であるはずだ。
 それにしても六太は、いつから懸想を隠していたのだろう。開けっぴろげな
彼は基本的に隠しごとに向かない性格をしている。もしずっと年若い時分だっ
たら、尚隆にもうっかり漏らしていたはずだ。少なくとも誰か好いた女がいる
のではと、尚隆が感づく程度には言動に現われただろう。ということは、尚隆
にさえ自分の心を隠しとおせる擬態を身につけた年齢になってから――外見の
変わらない仙ばかりに囲まれていると精神的な成長の度合いも遅いものだから、
仮に市井の民の倍はかかるとして――分別のある四十歳の倍の八十歳くらいだ
ろうか。
 だがそれから四百年以上も懸想したまま押し隠してきたと仮定した場合、あ
まりの報われなさにさすがに哀れになった。相手が誰であれ、せめてここ数年
以内の話であってほしいものだ……。

576永遠の行方「王と麒麟(184)」:2013/03/02(土) 10:15:45

「主上。差し出がましいとは存じますが」
 ある晩、いつものように陽子の書状を繰っていた尚隆に、長楽殿の女官がお
ずおずと進言してきた。
「なんだ?」
「最近、御酒(ごしゅ)の量が多すぎるのではないでしょうか。あまり過ごさ
れますと、お体のほうが」
「そのことか」尚隆は苦笑した。「見てのとおり、陽子からの書状を遅くまで
読んでいるからな。単純に起きている時間が長くなったせいだろう。何か見落
としがないかと幾度も同じ書状を検分するし、それでいて紙をめくるだけでは
手持ち無沙汰になって、つい酒杯に手を伸ばすことになる」
 だが女官たちの心配そうな顔を見れば、その弁明を額面どおりに受け取って
いないのは明らかだった。尚隆は彼女らの懸念を軽く茶化して下がらせ、ふた
たび目の前の書状に取りかかった。
 口語調で親しみやすく書かれていたせいか、書状を読み進めるほどに、そこ
に記されている六太の様子が鮮やかに浮かびあがっていった。彼がこう言った、
ああ言った、金波宮でこんなことをやりたがった、こんなふうに助言してくれ
た――。六太の好みなど個人的な望みにつながりそうな事柄を中心に、起きた
こと、話したことが淡々と連ねてあるだけなのに、そのときの姿が眼前に甦る
ようだった。
 それはまるで――二度と会えない懐かしい人物の足跡を振り返るかのようで。
 やがて尚隆は吐息を漏らすと、疲れたように目頭を押さえた。実際、文面に
現われる六太の生き生きとした言動とは裏腹に、彼自身はここ数日でひどく疲
れた気がしていた。
 途中まで読んだ書状を傍らに投げ出した彼は、軽く頭を振ると椅子の背もた
れにもたれた。
 既に深更。疲労とともに眠気が訪れるかと思えば、逆に眠りから覚めたよう
な奇妙な気分だった。長い夢から覚めたというか、ふと我に返ったというか…
…。

577永遠の行方「王と麒麟(185)」:2013/03/02(土) 10:19:55
 がむしゃらにやってきた五百年。尚隆は今ようやく立ちどまり、六太の思い
出とともにみずからの足跡を振り返っている気がしていたのだった。
 陽子の書状には、ところどころ彼女の感想めいた記述もあり、六太が相手だ
と蓬莱の話題も少々の説明だけで普通に通じるから楽だった、延王がうらやま
しいと思っていたとも書かれていた。以前、援助の礼のために陽子が玄英宮を
訪れた折、六太に連れ出されて一度だけ海客の団欒所に行ったのだという。開
放日ではなかったため無人だったが、陽子はそこで六太と一緒に蓬莱の楽器を
懐かしく弾いた。普段は金波宮で蓬莱にからむ話を口にしないよう気をつけて
いる彼女だったから、知らず知らずにたまっていた鬱憤を発散できてかなり嬉
しかったらしい。
 説明不要で、もしくはちょっとした補足だけで故郷の話題が通じる六太は、
確かに尚隆にとっても楽な相手だった。だが今、陽子がうらやんだ半身は尚隆
の傍らにいない。
 そもそも麒麟は天帝から王への贈りものでもあるのではないか。治世が続く
かぎり、傍にいることが保証されている半身。決して裏切らない臣下。寿命を
知らず権力の頂点に立ちつづけねばならない者にとって、有能であると否とを
問わず、そんな存在は得がたくもありがたいものだ。どんな場合においても、
絶対的な孤独に陥ることは避けられるのだから。
 だがこのまま六太の目が覚めないとなれば、尚隆はひとり遺されたも同然
だった。他国の王が当たり前のように持っている半身がいないのだ。
 もし六太が逆の立場だったらどうしたろうと考える。言伝のひとつもなく、
半身を失ってひとりで国を治めることを強制されたら簡単に受け入れられただ
ろうか。
 そうではないだろう、と思う。六太とて多大な衝撃を受けるはず。だが彼は
尚隆に対してそれをやったのだ。
「見捨てられたか……」
 力のない声でつぶやく。六太がそんなつもりではなかったのはわかっていた
が結果は同じことだ。要は愛する女性を守るために呪者に屈したのだから。
 自分は今、切実にひとりだと尚隆は思った。

578永遠の行方「王と麒麟(186)」:2013/03/03(日) 10:06:29

 秋の雨季が終わり、冬が到来した。年が明ければすぐ、幇周の事件から一年
が経ってしまうというのに、六太に関しては相変わらず進展はなかった。
 もっとも主君は大して気にするふうもない。この際だから六太の周囲を綺麗
どころで固めてやれと言いだすなど、少なくとも表面上は相変わらずのんき
だった。六太自身も悪い気はするまいとのことで、これまでの近習はそのまま
に、ちょっとでも六太と私的なやりとりをしたことがある女官を日替わりで侍
らせてやれと。そうやって美女にちやほやされれば起きてくるかもしれないと
気楽そうに笑い、「良い考えだろう」と胸を張っていたが、自分が見舞いに行
く際も目の保養になると口を滑らし、どうやらそちらが本音のようだった。今
さら女官に手を出して後宮に美女を蓄える気になったわけでもあるまいが。
 害になることではないため王の意向を受ける形で処理し、加えて先日からは
春官府の占人や筮人も冬官らの作業に加わり、呪を解く鍵がどういった性質の
ものか、神意にすがる形で探るべく試行錯誤を続けている。解呪に関わってい
る冬官、春官の大半は六太の望みが鍵であることを知らされていないが、この
種の呪の基本的な考え方として「何らかの解除条件が設定されているはず」と
の想定自体はなされていたからだ。今のところ結果は芳しくなかったが、それ
でも手がかりが得られる可能性はあった。
「新年の各式典ですが、どうしたものでしょう。主上は例年通りでいいとおっ
しゃっておいでですが」
 朝議のあと、立ち話のついでにそんなふうに溜息をついた大宗伯に、朱衡は
「今はそれでいいのではないでしょうか」と答えた。
「下界はとうに謀反の件を忘れていますし、宮城でも、明日にも台輔がお目覚
めになるかもしれない。お気持ちはわかりますが主上がお望みである以上、努
めて普段どおりにふるまうことです」
「あまり新年を祝う気にはなれませんがねえ……」
 頭を振り振り立ち去った大宗伯を見送った朱衡は、みずからもつい溜息を漏
らした。自主的に謹慎している体の帷湍の上洛はないことが確定したので、州
侯の送迎や接待も役目である秋官府の負担はそのぶん減る。しかし正直なとこ
ろ、かつての朋輩と遠慮のない愚痴話をして発散したかったという思いもある。

579永遠の行方「王と麒麟(187)」:2013/03/03(日) 10:10:39
 何しろこのままでは、元会儀礼という元日の重要な儀式に麒麟の姿がないこ
とになってしまう。下界で大々的に式典を行なう節目の年に当たらないのが幸
いだが、長々とした儀礼の中には各地に現われた瑞祥を奏上して王の治世を讃
える部分もある。竜の形をした彩雲が現われただの白雀が現われただのを数え
あげ、吉祥として祝うのだ。だが麒麟の不在は、どんな瑞祥があろうとすべて
を打ち消す。
 それともこの状態が長く続けば慣れて何とも思わなくなるのだろうか。既に
下位の官たちが、意識的にせよ無意識にせよ宰輔の不在を忘れているように見
えるのは確かだが……。

 陽子によれば、これまで六太が雑談がてら彼女に助言したことは多岐に及ん
でいた。たとえばかつて陽子が提案した『大使館』に関連して、各国が交流す
ること自体は良いことだと言ったらしい。
 なぜなら自然と王同士も交流できるようになるから。麒麟はしょせん次点で
あって、国の頂点に立つ王の気持ちはわからない。わかるとすれば、同じ立場
の他国の王だけ。むろん相性もあろうが、同じ立場で話せる相手と交流するこ
と自体は悪くない。少なくとも刺激にはなるだろう。王が精神的に追い詰めら
れるのは、そういったはけ口がないからではないか――そんな話をしたのだと
いう。
 いつものように手がかりが隠れていないかと書状を再読していた尚隆は、そ
んな逸話に苦笑を禁じえなかった。自分の主のことは突き放すくせに、相変わ
らず陽子には親身なやつだとおかしく思う。
 六太がその種の気遣いを尚隆に示したことはない。おそらく麒麟の甘い考え
は、まだまだ国政というものの厳しさを知ったとは言えない未熟な陽子のひた
むきさと相性がいいのだろう。
 六太が海客の団欒所によく出向いていたことを彼女が知っていたのも親しく
つきあっていたせいだ。もちろん靖州侯として認可して設置した場所だから、
官も尚隆も団欒所の存在自体は認識していた。しかし詳細までは気にかけてい
なかった。ところが陽子は六太に連れられてこっそり出向き、一緒に蓬莱の楽
器を弾くようなこともした。よく入り浸っていることは尚隆にも秘密だと六太
に悪戯っぽく念を押されて。

580永遠の行方「王と麒麟(188)」:2013/03/03(日) 10:13:48
「秘密、か」
 ふ、と笑う。鳴賢や陽子といった、うち解けて年数の浅い者たちが六太に口
止めされるほどの秘密を打ちあけられていたというのに、自分は一度もそんな
ことはなかったなと、一抹の淋しさとともに振り返る。むろん陽子の場合は親
しい者同士の内緒話程度の軽いものだ。何しろ理由は、宮城から逐電したはず
の六太が国府にいる可能性を知られたくないという単純なものだったのだから。
だからこそこの事態に陽子も隠さず伝えてきたのだろう。
 それでも六太が「秘密だ」と言い、尚隆にも話すなと口止めしたのは事実。
 ――おまえにとって俺はいったい何だったのだろうな。
 尚隆は慨嘆した。
 自分たちには五百年の絆があるはずだった。だがこうなってあらためて考え
ると、本当にそうだったろうかと疑問を感じた。
 他国の王と麒麟に比べ、多少の問題はあっても総じて仲良くやってきたつも
りだったし、周囲からもそのように見られていた。何と言ってもこれだけの歳
月を一緒に過ごしてきたのだ。
 しかし実のところは単に契約と麒麟の本能で縛られた主にすぎなかったのか
もしれない。六太と自分の距離は、尚隆が考えていたよりずっと遠かったのか。
 六太のことは何でも知っているつもりだったが、海客の団欒所での話と言い、
蓬莱の楽器のことと言い、実際は知らないことばかりだった。単に相手のこと
を知っていると思いこんでいただけだった……。
 その昔、蓬莱にいた頃、行き倒れているのを拾った子供に、問われるまま自
分のことを頓着なしに語ったことを思いだす。逆に子供は自分のことを一切話
さなかった。この世界に来て蓬山に赴き天勅を受けてさえ。
 だが……思えば尚隆のほうも、あえて六太に事情を尋ねなかった。だから相
手のことを知っているようで知らなくても当然だし、そのことで六太を責める
のはお門違いだろう。
 これまで六官らも六太の望みについて思い当たることをいろいろ述懐したわ
けだが、その機会に朱衡は初めて、以前、六太が「王なんて存在は民を苦しめ
るだけだ」と言い放ったのを聞いて驚いたことがあると口にした。そして蓬莱
で庶民として生まれ、戦乱を嗜むその土地の為政者に相当苦しめられたことを
簡単に打ち明けられたと。翻って尚隆も六太に「俺は王が嫌いだ」と言われた
ことこそあるが、軽く受け流してそれ以上問わなかった。だから庶民の生まれ
であることも知らなかった。

581永遠の行方「王と麒麟(189)」:2013/03/03(日) 10:16:55
 要はその差だな、と冷静に分析する。朱衡は尋ねた、尚隆は尋ねなかった、
単純にそれだけの話だが、そのこと自体が尚隆と六太の距離感と互いへの執着
のなさを示していた。結局、自分たち主従は遠いところにいたのだ。事実、尚
隆には六太の真の望みなど思い当たらず、鳴賢に言われて初めて色恋の可能性
を考えたではないか。
 正直なところ、どこの誰とも知れぬ女性への想いについて、なぜ自分に相談
しなかったのかと問い詰めたい気持ちはある。しかし六太のほうでは主君とし
て以外に尚隆を認識していなかったのなら、私的な相談事を持ちかける対象か
ら外れても当然だ。同じ王でも、陽子にはあれだけ親身に接していたのだから、
差は歴然としている。
 それに――。
 おそらく仮に相談されていたとしても淋しさは覚えたに違いない。いつまで
も子供だと思って庇護していた存在が、いつのまにか大人への階段を上ってい
たことへの保護者の平凡な感慨のたぐいだろうが……。それとも王の半身とさ
れる麒麟でさえ生命を賭けた恋情を赤の他人に向け、国と主君をないがしろに
しかねない現実に直面して、だろうか。
 勝手に裏切られた気分になっていたことに気づき、尚隆は自嘲気味にまた低
く笑った。これまで私人としての六太に理解を持っていたつもりだったのに、
深層心理では麒麟の思考のすべては国と王に向かうべきとの意識があったのか。
 彼は膝の上の書状を脇にのけた。そうして酒を満たした杯に手を伸ばそうと
し――ふと自分でもわからない引っかかりを覚えて書状に目を戻した。何か…
…今、気になることがなかったか? 眉根を寄せ、先ほどまで何を考えていた
かを思いだす。朱衡のこと――陽子のこと。そうだ、尚隆にはそっけないのに、
陽子には親身だった六太……。
 そのとたん、靄か霞のようにおぼろだったものが不意にくっきりと輪郭を
持った。
「まさか……」
 ここに至って彼は、六太に女の影がないというのが思いこみに過ぎないこと
に気づいた。なぜなら頻繁に書簡をやりとりし、時には実際に慶に訪ねてさえ
いた陽子も女だからだ。それも妙齢の。相手は他国の王だし、いくら親しくて
も単なる友人、せいぜい擬似姉弟としか思わなかったが……。

582永遠の行方「王と麒麟(190)」:2013/03/03(日) 20:42:32
 尚隆はめまぐるしく思考を回転させ、これまでの六太の言動と鳴賢の話、さ
まざまな事実から導きだした推測を逐一照らし合わせた。そしてまったく矛盾
しないこと、むしろすべてが符合することに愕然とし、冷水を浴びせられた気
がした。
「――待て!」
 先走る思考を咎めるように鋭い言葉を発する。酒杯の代わりに書状を手に
取った尚隆は、しかし文面に目を走らせることなく、そのまま力をこめて握り
つぶした。気づいてみれば、女の影がないどころではない。単に尚隆が見逃し
ていただけではないか。きっと同じように見逃していることもたくさんあるの
だろう。
 ――もし六太の懸想の相手が陽子ならば。
 他国の王への麒麟の片恋……。
 ――確かに口をつぐんでいるしかなかろうな……。
 長い時間が経って大きく息を吐いた尚隆は、ふたたび書状を脇にのけると椅
子の背もたれに力なく寄りかかった。静寂の中で疲れたように片手で目を覆う。
自分が六太でもそうしただろうと納得し、初めて六太の決意と絶望を理解でき
た気がしたのだ。
 陽子の書状には友人の危難を気遣う思いこそあふれていたものの、色恋どこ
ろか、恋情に育ちそうな甘い感情はかけらも見当たらなかった。だからこそ尚
隆もこれまでその可能性に気づかなかったのだが、要は六太の想いが報われる
見込みはないということなのだろう。
 相手は他国の王であり、それも片恋にすぎない。明かしたとて先方は困惑す
るだけだろうし、雁の官はといえば動揺は避けられない。尚隆とて、自分の主
にはそっけない麒麟が他国の王に恋の激情を向けて慕ったら、さすがに複雑な
気持ちになったはずだ。
 一目惚れという言葉もあるくらいだから、過ごした時間の長短と恋の芽生え
とは関係ない。しかし六太が尚隆に心を許すまで何十年もかかったことを思う
と、数年のつきあいしかない陽子にすぐに打ち解けたことと言い、尚隆はこれ
まで以上にやるせない気持ちになった。それは鳴賢に話を聞いたときの驚愕と
も、傍らに六太の姿が見えなくなったことへの苛立ちめいた淋しさとも違う。
限りなく絶望に近い静かな衝撃だった。

583永遠の行方「王と麒麟(191)」:2013/03/03(日) 20:44:38
 ある意味で愚直な陽子は、麒麟の好みだとは言えるかもしれない。かつての
泰麒探索の折、臣下の前ですら、王位に執着していない態度を見せた彼女はま
だまだ配慮が足りない。官や民にとって王位は至高のものなのに、それを軽ん
じているように見えれば反感が生じるからだ。しかし何かと配慮が足りないの
は六太も同じ。若いだけに純粋で、誰に対しても誠実であろうとする陽子の言
動は、為政者としては足をすくわれかねない危険なものだが、それゆえに麒麟
にとっては好ましかったのかも知れない。
「ふふ……」
 尚隆はつい笑いを漏らして天井を仰いだ。
 結局は誰も王としての尚隆しか求めていないのか。一番近しい存在だと思っ
ていた六太でさえ、尚隆に求めるのは王としての価値だけだったのだろうか。
 だがそもそも尚隆のほうでも他人と距離を置いてきた。王としてならともか
く個人としての彼は、誰かの懐に飛びこんだこともなければ、本気で誰かを受
けとめたこともない。だからこそ誰にも頼らず自分の足だけで立っているつも
りだったのだが……。
(本当は違ったのかもしれんな)
 ひとりで立つどころか、傍らに六太がいないだけで、六太が陽子に懸想して
いたかもしれないと考えただけでひどく淋しかった。
 他国の王と麒麟と異なり、年がら年中一緒にいたわけではないし、そもそも
別々に逐電することの多いふたりだった。それでも、いずれ必ずあの悪戯めい
た笑みを見られることを疑わなかったからこそ、安心して出奔できていたのだ
ろうか。
 互いの意思とは無関係に六太が尚隆から離されたのは、考えてみれば遙か昔
の斡由の乱で人質にされたときだけだった。あのとき誰に心中を明かさずとも、
内心ではここが正念場だと覚悟していた。ただ元州が黒幕だとわかり、六太の
生存を確信できたから息をつけたに過ぎない。玄英宮の諸官は斡由との一騎打
ちが目的だったと考え、六太自身も自分の救出はついでだったと捉えていたよ
うだが、尚隆にとってはどちらも自分の生命をかけた大勝負だったのだ。
 斡由の乱から過ぎ去った歳月をしみじみと振り返った尚隆は、ずいぶん遠く
まで来たものだなあとぼんやり考えた。

584名無しさん:2013/03/04(月) 09:54:32
投下乙!

てっきり陽子はチョイ役(雰囲気作りの顔出しだけ)と思っていたら・・・!
てか尚隆鈍すぎるよw

585永遠の行方「王と麒麟(192)」:2013/03/05(火) 20:17:52

 新年の慶賀の儀式は無事に執りおこなわれた。諸官がまとう礼装の色彩は重
厚かつ華やかで、一見しただけでは昨年との違いは何も窺えなかった。
 その一方で、春官府の占人らにより仁重殿にひっそりと小祭壇が築かれ、新
年に先立つ七日間の潔斎ののち、元日の祭祀と時刻を合わせる形で種々の占卜
が行なわれた。解呪条件を突き止めるためだ。
 占人が占うのは普通は吉凶であり、それゆえ不明の事柄を特定する目的に用
いるのは少々無理があった。しかし重要な神事である新年の祭祀と同時に行な
うことで天帝の加護を得られるのではと期待したのだ。
 公式の式典において冢宰や大宗伯が顔を見せないわけにはいかず、比較的手
の空いていた大司空と大司徒が占卜に立ち会った。筮竹や亀甲、鹿の肩骨と
いった占具に現われた占形(うらかた)に春官らは頭を寄せて小声でささやき
あい、ああでもないこうでもないと協議した。
「『明白な事実に留意せよ』ですか。意味深ですね」
 儀式の合間に結果の報せを受けた朱衡は眉根を寄せた。その場にいた冢宰や
大宗伯らも考えこむ。
「しかし何やら期待が持てそうな占形ではある。ちょうど主上も次の典礼のた
めの着替えで退出しておいでになりましたから、さっそくお知らせに上がりま
しょう」
 そう言った冢宰と連れ立ち、朱衡はあわただしく主君のもとに向かった。
 だが尚隆の反応は薄かった。奏上された短い占文にちらりと目を遣り、「な
るほど」と言っただけ。
「もちろん解呪の条件そのものがわかったわけではありません。しかし眼前に
ある明白な事実をそれゆえにうっかり見逃しており、それに気づきさえすれば
いいという意味なら期待が持てます」
 朱衡が補足したが、大仰な祭服に肩が凝ったらしい尚隆は別の装束を調える
女官らに目をやり、うんざりといった様子で溜息をついていた。
 そもそも年が明ける前から、解呪に対する尚隆の反応は明らかに淡白になっ
ていた。焦燥に駆られていないのはむしろ結構なのだが、六官に任せきりで、
既に関心を寄せていないとさえ見える。

586永遠の行方「王と麒麟(193)」:2013/03/05(火) 20:35:06
「まあ、せっかくの新年だ、あまり根を詰めるなと言ってやれ。――ああ、そ
この酒でも占人に持っていくといい」
 極彩色が施された儀典用の華麗な酒壷を顎でしゃくった主君に、朱衡は内心
で拍子抜けしながらも「はい」と応えた。
「主上は我々を信頼してくださっているのですよ。気ばかり焦っても仕方あり
ませんから、ああして泰然と構えてくださるのが一番ありがたい」
 御前を退出して仁重殿に赴く途中、白沢はそう言って笑った。朱衡は釈然と
しないながらも、「とりあえず様子を見ましょう」との言にうなずいた。確か
に下手に首を突っ込まず、すべて臣下に任せてくれるなら面倒がない。それに
ここに至るまで、尚隆自身もいろいろ推測や案は出していたのだ。下界での聞
き取りは言わずもがな。もしかしたらそうやって手を尽くしたことで真に長期
戦の覚悟を決め、一時の苛立ちが治まったのかもしれない。
 王から銘酒を下賜された春官らは感激し、いっそうの意欲を示した。その様
子を見て、朱衡はこれはこれでうまく回っているということだろうと考えた。

 しばらくは平穏な日々が続いた。いろいろと危惧していた朱衡だったが、新
年の儀式に麒麟が不在でも結果的に不都合が起きなかったという事実は、下位
の官をかなり安堵させたようだった。各地に現われた瑞兆の奏上もきちんとな
されたし、占卜でも凶兆は現われていない。少なくとも天帝は王を見放しては
いないのだ。
 そう考えると、もともと六太の「自分を見捨ててくれ」との伝言や蓬山のお
墨付きの件もあり、このまま平穏無事に過ぎていくのではと、何とはなしに
ほっとした空気が漂うようになった。
 まだ禁足は解かれていないが、もともと雲海の下で常勤する下吏はそう簡単
には宮城に来られない。事情を知らない外朝の諸官からすれば、謀反があった
せいか、まだ警戒が厳しいようだ、程度の認識だったかもしれない。
「『明白な事実』というからには、既に周知の材料の中に手がかりがあるはず
だ。聞き取りした内容は膨大なものだが、端から当たっていけば、遅かれ早か
れ大当たりを引き当てるだろう」

587永遠の行方「王と麒麟(194)」:2013/03/05(火) 20:56:39
 仁重殿での占卜の結果について六官はそう分析し、作業の冬官らをねぎらい
つつ発破をかけた。その様子に王は特に口出しをせず、鷹揚な笑みでもって臣
下らに任せた。
 そうこうするうちに関弓にも遅い春がやってきて、玄英宮諸官の禁足も解か
れることになった。執務室の玻璃の窓ごしに、やわらかな陽光を眺めやった尚
隆は、「春だな」とぽつりとつぶやいた。ちょうど御前に侍っていた朱衡は
「はい」と答え、主君の言葉の続きを待ったが、尚隆は黙って書類に視線を戻
し、政務を続けた。
 それからまたしばらく経ったある日。
 秋官府が担当する朝議の草稿の奏上のため、朱衡は執務の合間に内殿に赴い
た。そして諸事に主君の了承を得、大司寇府に戻るべく退出しようとした。
「五百年」
 ふと主君の静かな声が響いた。朱衡が振り返ると、尚隆は窓辺に立って背を
向けていた。
「よくもったと思わんか?」
 一瞬凍りついた朱衡は、それでも平静を装うことに成功し、「まだまだこれ
からでございますよ」と返した。尚隆は振り向き「そうか」と苦笑した。
 そうして余裕の態度で退出した朱衡だったが、大司寇府に向かいながら眉を
しかめ、「まずいな」と口の中でつぶやいた。
「思ったよりこたえておいでだ……」
 尚隆が官に弱音を吐くなど滅多にあることではない。愚痴や弱音を吐くこと
自体は悪くないと白沢は言ったが、これは明らかに悪い兆候だろう。以前の、
王の首をすげかえるという話のときはまさかと思ったが、その後は落ち着いた
ように見えていたのに。
 しかし考えてみれば、あの主君にしては最近は妙に静かだった。相変わらず
宮城に留まってはいるものの、仁重殿への訪問は間遠になっているらしく、先
日朱衡が訪ねた際は六太の近習が嘆いていた。かといって解呪に努力する官ら
の元に赴き、首を突っ込むわけでもない。政務以外はじっと正寝の奥深く鎮座
するという、これまで諸官が王に望んで果たせなかった品行方正な態度でいる。

588永遠の行方「王と麒麟(195)」:2013/03/05(火) 21:20:11
 何かあったのだろうかと、朱衡は首をひねりつつ記憶を探った。しかし六太
が臥せって以来、尚隆はほとんど宮城に留まっていたわけで、変わった出来事
は聞こえてきていなかった。外出したとしても、市井や大学で心当たりに聞き
取りをするためのものだったし、それも最近は絶えていた。思い当たるのはせ
いぜい、以前に鳴賢が深刻な語調の書簡を寄越したことぐらいだが――あとで
尚隆が笑いながら、詳しく聞いたところ彼の思いこみだったと言ってきた。六
太を助けられなかったことで自責の念に駆られ、失恋の痛手もあって、些細な
ことを深刻に悩んでくよくよしていたらしい。おかげで時間をかけてたっぷり
慰めなければならなかったとぼやいていた。
 また白沢に相談しなくては、と朱衡は暗く考えた。相談しても何にもならな
いかもしれないが、少なくとも六官を統べる冢宰には主君の状態を把握してお
いてもらわねばならない。
 それにしても当初から、数年、最悪の場合は数十年もの長丁場さえ覚悟して
泰然としていたと思われる主君なのに、一年も経たないうちに悪い兆候が現わ
れたことは意外だった。むろん麒麟の不在自体は一大事だが、幸いなことに緊
急性はないし、占卜の結果を信ずるなら見通しも暗くない。
 ――いや。
 その考えが楽天的に過ぎることにようやく気づいた朱衡は、表情を引き締め
ると厳然と認識を正した。
 占卜というものは大抵どうとでも受け取れる内容であるものだが、あの占形
も同じだ。身のあることを言っているようで、実際は何も言っていない。有力
な情報が俎上に上がっているかどうかはもちろん、方向性が正しいのか誤って
いるのかもわからない。何となく悪くない印象を受けただけで根拠は何もない
のだ。
 そもそも「お告げ」のたぐいで事件が解決するなら苦労はないだろう。それ
くらいなら蓬山の女神・碧霞玄君が早いうちに有用な助言をしてくれたはずだ。
むしろ占形に囚われることで調査に予断を与えてしまい、悪い結果を導く可能
性を懸念すべきかもしれない。

589永遠の行方「王と麒麟(196)」:2013/03/05(火) 21:31:37
 それどころか――。
 占文にあった『明白な事実』とは、六太を目覚めさせる方法はないのだから
諦めよという冷酷な宣告としても解釈できるではないか。
 朱衡は愕然とした。主君が関心を寄せなくても当然だ。
 いずれにせよ六太を助けたいという心情や、一年に渡って力を尽くしてきた
以上、少しずつでも真実に近づいているはずだという期待をいったん脇に置い
て冷静に考えると、何が解呪条件か皆目わからないのが現状だった。進展した
ように見ても、あくまで作業に携わる諸官の願望でしかない。厳然と事実のみ
を並べた場合、事態は当初からまったく動いていなかった。
 冬官たちがいろいろ試行錯誤しているため、手立てが尽きたとは言えない。
しかし解決に向かっている保証がまったくない以上、冷笑的な者なら、見切り
をつけるまでの単なる時間稼ぎだと言うだろう。すべては「六太の最大の望み
がわからなければ打つ手はない」という厳しい現実に帰結するが、いまだに見
当さえついていないのだから。なのに先の占形の件は、実質的に毛の一筋ほど
も事態が改善していないのに、根拠のないまま楽観的な見通しを主君に報告し
たことになる。
 それで尚隆は、逆に先行きに期待が持てないと悟って滅入ってしまったのだ
ろうか。単なる願望でしかないものを嬉々として報告するほど救いがない状況
なのだと。
 しかしそうすると、もともと内心でかなりの打撃を受けていたということだ。
だがあの主君がそこまで繊細だろうかと考えると、どうにも朱衡にはしっくり
こなかった。政治は綺麗事ではない。王として冷静に割り切ることも厳しく断
罪することも限りなくこなしてきた尚隆だったのだから。
(他に何かあるのだろうか……)
 朱衡は動揺のままにあれこれ考えたが、むろん心当たりはなかった。

590書き手:2013/03/05(火) 21:33:42
今回の投下はこんなところで。
「尚隆はこんなにぐるぐるしない!」という人ごめんなさい。
次回以降、もっとぐるぐるします。

591名無しさん:2013/03/06(水) 03:09:57
連日沢山投下ありがとうございます&乙です姐さま!
しみじみ孤独なのだと悟ってしまった尚隆、切ない…
そしてまさかの陽子ラブ、たしかに点と点を繋げると!
王様まできただけ大分近いとみるべきでしょうかな……。

592名無しさん:2013/03/08(金) 23:47:11
序章が丁度この頃、という感じでしょうか?
ぐるぐるする尚隆・・・精神的に追い詰められる尚隆・・・イイ!!
尚六いちゃいちゃが早く見たいけど孤独に苛まれる尚隆も見ていたいジレンマ
次回のぐるぐる悶々な尚隆楽しみにしています!!

593書き手:2013/03/10(日) 13:10:20
>序章が丁度この頃、という感じでしょうか?
そうですね、もうちょっと尚隆がぐるぐるして、「序」章はその後という感じです。
あえてきっちりつなげることはしませんけど。
にしても書き始めたときは、まさか五年もかかるとは思いませんでしたw

次回は、早ければ今月中、遅くても来月には投下します。

594永遠の行方「王と麒麟(197)」:2013/03/20(水) 09:32:38

 眠る六太の傍らで、ひとり静かに腰かけた尚隆は、ふう、と小さく息を吐い
た。
 彼には鳴賢が楽観したような、「お慕いしています」程度の言葉を聞かせれ
ば解ける呪とは考えられなかった。何を恨んでいたにせよ、長い時間をかけて
周到に準備した呪者が、偶然解ける可能性のある条件を採ることはないだろう。
少なくとも何らかの能動的な行為、おそらく身体的な接触は必要なはずだ――
性交かどうかはともかく。
 陽子は生娘だろうな、と尚隆は重い気持ちで考えた。あの六太が生々しい行
為を望んでいたとは思わない。とはいえこのまま他に心当たりを思いつけない
なら、可能性を完全に除外するわけにはいかないのではないか。
 鳴賢との約束もあり六太の懸想を明かすつもりはないが、もっともらしい言
い訳さえ考えられれば、生真面目な陽子は逆に覚悟を決めて同衾してくれる可
能性はあった。今、雁に何事かあれば、慶も共倒れしかねないからだ。
 だが慶の諸官に話が漏れたら大変なことになる。景麒への恋着から暴君と
なった予王の記憶のせいで、ただでさえ女王の色恋沙汰に厳しい国柄だ。また
もや相手が麒麟、それも今度は他国の麒麟となれば、民や官の幻滅と反感を招
くのは必至。そうなればまだまだ足元が固まっていない赤楽王朝にとって致命
傷となりかねない。目覚めた六太自身、罪悪感に駆られて苦しむだろうし、
却って陽子と疎遠になるかもしれない。計らった尚隆との関係に至っては、想
いの深さの反動から言っても確実に悪くなるだろう。そうなればたちまちのう
ちに歪みが蓄積し、雁の王朝もきしみを上げ始めるに違いない。
 そして――それでも呪が解ければまだしも、見込み違いで解けなかったらそ
れこそ悲惨だ。
 こればかりは単なる試みや、だめでもともとという考えでやっていいことで
はない。必ず呪が解けるという確証が必要だった。
 だがあれからずっと考え続けていた尚隆にはわかっていた。慶を、他国を巻
き添えにしてはいけないことを。王としての決断を下すなら、このまま口を閉
ざして語らず、陽子はもちろん誰にもほのめかすことさえせず、六太自身の望
みどおり彼を放置すべきであることを。だがその選択を脳裏に浮かべた尚隆は、
即座に嫌だと思ったのだった。

595永遠の行方「王と麒麟(198)」:2013/03/20(水) 09:45:21
 このまま六太を見捨てる。半身を切り捨てる。何もかもを――諦める。
 一緒に出奔した日々。楽しかった道中。喧嘩と仲直り。
「なぜ、俺に言わなかった」
 昏々と眠り続ける六太に、尚隆は吐き捨てるような口調で問いかけた。せめ
て六太の想い人が陽子だという確実な証拠があれば、誰の心情も傷つけない方
法を模索できるかもしれないのに。
 だが今の状況では、あまりにも繊細な事柄ゆえに、六太の片恋にからむ話題
は何であれ考えることさえ危険だった。第一、六太の生命が危ういならまだ言
い訳のしようもあるが、まったく問題はないのだ。
 鳴賢が口にした、蓬莱で親に捨てられたという経緯を思い出す。捨てられた
ことを恨みもせず、家族が生きながらえるために、みずからの死を受け入れた、
たった四歳の子供。
 二度と目覚めないという呪を受け入れた六太は、そのときと同様、死を甘受
したのと同じだ。肉体的な死がありえないことを術者にしつこく確認したのは、
単にそれが王の命とつながっているがため。王の死は簡単に国の荒廃につなが
るため。仮にそうでなかったとしたら、真の死すらあっさり受け入れたのだろ
う。見知らぬ他人の命さえも哀れんでしまう彼は逆に、自らの安全や命に対し
て、ある意味では非常に無頓着だった。しかし。
 たとえ六太が陽子に懸想していたとしても。
「俺にとって、おまえ以上に大切な者などおらんのがわからんのか……!」
 ついに尚隆は苦悩の声を上げた。
 答えはなかった。

 草木が瑞々しく萌えいずる春だった。宮城の殿閣も華やかな色彩に飾られて
いるはずだった。
 なのにこの褪せたような風景は。
 窓辺でひとり園林を眺め渡していた尚隆は、不思議だな、とぼんやり考えた。
最初は必ずや呪を解く方法を見つけると意気込んでいたし、確信してもいた。
しかし六太の覚醒は望めないかもしれないと覚悟せざるを得なくなった今、傍
らに彼がいないだけですべてが無彩色になったようだった。
 冬官たちが日々努力しているのは承知している。しかし現実には事件以来、
何の進展もないのだ。そして誰も六太の懸想を想像してもいない。相手が陽子
かもしれないということも。元日にもたらされた占形とて、実際には身のある
内容はまったく示されていなかった。

596書き手:2013/03/20(水) 09:52:36
こんな感じで、またしばらくちまちま投下していきます。

597永遠の行方「王と麒麟(199)」:2013/03/23(土) 00:37:00
 だが尚隆は官の精勤に水を差すつもりはなかった。解決に向けて努力し続け
る限り、彼らが真に絶望に駆られることはないだろうからだ。そしてそのうち
自然と、誰にとっても六太の不在が当然の状態になる。
 いや、既に宮城でも、解呪に携わらない大半の者にとってはそうなっている
と言えるだろう。それでも新年の慶賀を一区切りとして、王に障りがないこと
を確信したらしい官の多くが安堵して見えるのは幸いだった。あるいは水面下
では、万が一のために不正に蓄財をもくろむ輩も出てきているかもしれないが、
明らかな傾国の兆候が見えるまでは大事に至らないはずだ。
 尚隆は毎日機械的に政務をこなしていた。冢宰や六官の働きには不足もなく、
尚隆の決断を必要とする事態も起きていない。吟味され、奏上された書類を承
認すればそれで済む。その陰でほとんどの官は、主君の鬱屈の度合いが静かに
進行していることに気づいていなかった。
 尚隆は時折、ふらりと仁重殿を訪れて六太を見舞った。冬官たちが詰めてい
たり黄医による診察の時間帯は避け、最近では女官たちと談笑することもなく
すぐに人払いをし、ただじっと半身の眠る姿を見つめて過ごした。
 ――本当に陽子なのか。
 心の中で幾度も問いかける。そしてもしや自分を見捨てろとの伝言は、今の
尚隆の状況を見越してのことだったのだろうかと考えた。陽子のために。慶の
ために。呪にかけられる直前、六太が気遣ったのは、果たして隣国の女王のこ
とだけだったのか。
 だとしても、尚隆ならひとりでも大丈夫だと信頼してのことだったのだろう。
しかし買いかぶりすぎだと思うのだ。これまでどれほど後悔を重ねて生きてき
たか、尚隆自身が一番よく知っていた。
 ある晩、数日ぶりに仁重殿を訪れると、六太は横たわったまま薄目を開け、
放心しているように見えた。だがその目は何も映しておらず、焦点が結ばれる
ことはないのだ。頬に掌を添わせても反応はない。普通なら額を触られるのを
嫌がるのに、これまた無反応だった。呪者の残した言葉通り、人形と何も変わ
らない。しかしながら温かな血の通う肉体を前にして、たとえ心はここになく
とも人形だと思うことは難しかった。
「何が望みだ」
 ぽつりとつぶやく。しかしその言葉は空しく牀榻の壁に吸い込まれて消えた。
尚隆は椅子に座ったまま、伏せた顔を片手で覆い、苦悩の吐息を漏らした。

598永遠の行方「王と麒麟(200)」:2013/03/23(土) 10:38:58
 決断、というほどのことはない。このまま手をこまねいていれば、おのずと
六太は見捨てられる。しかしそうすべきだという王としての理性と、個人とし
ての感情はいまだに折り合いがつかなかった。
 それでいて焦りがあるかと言えば、不思議なことに逆なのだ。理性と感情の
狭間にあって、どちらにも行けない今、心中はむしろ凪いでいた。それは平静
というより、亡国もやむなしとする諦めの境地に近い。これからの人生を半身
たる麒麟なしで孤独に生きることを考えると、王朝に対する未練は自分でも意
外なほど感じなかったからだ。
 積極的に死にたいわけではない。しかしあらためて終わりのない生と王の重
責を思うと、いかに雁を愛していても気が重いだけだ。ここまで国を繁栄させ
るのも相当な苦労だったのだから。
 そもそもこれだけ長く生きたのだ、いつ死んでも文句のあるはずはない。そ
ういえば六太も同じことを鳴賢に語ったのだったか。
「五百年、か」
 乾いた声でふとつぶやく。われながらよくぞここまでもったものだと、尚隆
はしみじみ思った。
 潮時なのか、とも考える。これは寿命のない王に対する運命からの宣告の一
種なのか。
 決して国を滅ぼしたいわけではなかった。だが孤独をかかえたまま重責を担
い続けなければならないとしたら、この際、風のように消えていくのも悪くな
いように思えた。第一どの道を選んだとて、終焉自体は必ずやってくるではな
いか。
 いずれにしろ、このまま日々を漫然と過ごしていても遠からず王朝は傾くだ
ろう。王が迷いに囚われるようになったら最後なのだから。毎日の政務を機械
的にこなす程度では、国が徐々に疲弊していくのは避けられない。だがそのこ
とに諸官が気づいたときには遅いのだ。
 もちろんすぐには影響は出ないだろう。雁の体制はそれほど脆弱ではない。
仮に尚隆が政務を放棄したとしても、祭祀さえ行なっていれば数十年程度はも
つと思われた。しかし王の乱心による亡国が犯罪によるむごたらしい即死のよ
うなものとしたら、職務放棄による消極的な傾国は、みずから望んだ断食によ
る緩慢な衰弱死だという程度の違いしかない。

599永遠の行方「王と麒麟(201)」:2013/03/23(土) 19:49:24
 これまで滅亡への暗い思いをいだいたことは幾度となくあると自覚している
尚隆は、そのときでも妙な気概はあったなと過去を振り返った。今の腑抜けた
気持ちとは全く違う。国を滅ぼそうと考えるのにもそれなりの覇気がいるもの
らしいが、それでも亡国という結末は同じだ。とはいえ、雁に頼っている慶に
とっては猶予期間があるほうがありがたいだろう。
 ――そう、陽子を巻き込むわけにはいかないのだ。
 彼は孤独に笑った。そして心の中で六太に、俺がいなくなってもおまえは平
気なのかと問いかけた。麒麟は王といると嬉しく、離れているとつらい生きも
のだと六太自身が語ったのではなかったか。
 確かに意識はない。しかしこうして尚隆が見舞うたび、奥深いところでは主
君の来訪を喜んでくれていないだろうか。もし王気が遠く離れたら、麒麟とし
ての本能ゆえだろうが何だろうが、王を探しに赴きたいとの強い欲求が芽生え
ないだろうか。
 淋しげな笑みを浮かべながら、尚隆は半身の髪に指を通し、そっと頭をなで
た。そしてしばらく押し黙ったのち、決然とした表情になると静かに立ち上
がった。
「王を探すのは麒麟の役目だ」
 低いつぶやきを残して六太の牀榻から立ち去る。彼はいったん正寝に戻ると、
そのまま宮城から姿を消した。

「主上が?」
「禁門の閹人(もんばん)によると、昨夜遅く外出なさり、まだお戻りではな
いようです」
「また大学にでも聞き取りに出向いておられるのだろうか」
「だとしても、これまでは夜中のうちに戻っておいでだったのに」
 主君の逐電の報を聞いた六官は、早朝あわただしく会合を持った。そのまま
主君なしで朝議を済ませたものの、午(ひる)になっても尚隆が戻ってくる気
配はなかった。大司馬などは最初「そろそろ主上も息抜きしたかったのだろ
う」と悠然と構えていたが、白沢と目配せした朱衡の「実はこんなことが」と
いう話にさすがに不安をあらわにした。
「王など首をすげ替えればすむと、本当にそうおっしゃったのか? 五百年も
よくもったものだ、と?」

600永遠の行方「王と麒麟(202)」:2013/03/23(土) 22:07:33
「はい」
「不吉な」大司馬は難しい顔で唸った。
 そのまま丸一日が過ぎても尚隆は戻らず、彼らは本格的に不安に駆られた。
何ヶ月も行方をくらますこともあった以前と違い、この一年、姿が見えないと
してもせいぜい半日程度だったのだ。それも遊興ではなく、市井での聴取のた
めとわかっての不在だった。
「さて、どうしたものか」
「しかし現実問題として、このままお帰りを待つしか」
「うむ……」
「とにかく我々が動揺を見せては、部下たちに悪影響を及ぼしかねません」
「そうですな。しばらくお姿がなかったとしても、主上は以前のように気楽に
出奔なさったのだという体でいるのが一番良い。実際、そのうち何事もなかっ
たようにお戻りになるはずだ」
 ――でなければ永遠に姿を消すか。ついそんなことを考えてしまった朱衡は
身震いした。
 いずれにしろ、やはり悪い兆候だったのだ。一見すると些細な事柄だったゆ
えに、まさかまさかと思いつつも打ち消してきた。しかしよくよく考えてみれ
ば、以前にも似たようなことはあった。
 あれはいつだったか。光州の、梁興の謀反の少し前だったように記憶してい
るから――二百年以上は昔の話だ。
 まだ、主君の滅入る気配がはっきりとしなかった頃。ある日、尚隆がぽつり
とつぶやいたことがある。宮城にいてばかりでは「息が詰まる」と。
 冗談交じりに、あるいは単にぼやいただけなら聞き流しただろう。しかしそ
の疲れたつぶやきは妙に朱衡の心を捉え、不安にさせた。彼が主君の出奔をあ
る程度まで大目に見ていたのはそのためだ。宮城を離れて息抜きをしなければ、
おそらくあの王は窒息してしまうのだろう。
 こうしてあらためて考えると、尚隆には意外ともろいところがあるように思
えた。何よりこれほど長い治世を敷いても、心の内を臣下に見せることなど滅
多になかった。どんなにいい加減に見えても、臣下との間には明確に一線を設
けていた。それは言い換えると、素の自分を誰からも慎重に隠して孤立してい
るということではなかったか。

601永遠の行方「王と麒麟(203)」:2013/03/24(日) 12:44:40
 主君にも心の支えが必要だ、と朱衡は初めて強く考えた。何事かあったとき、
少なくとも気を紛らわせる人なり物なりがなければならない。だが……。
 難しい問題だった。平素なら尚隆は自分で適当に市井で発散してくれるから、
その意味では面倒がなかったのだが。

 そうして宮城で六官が内々に打ち合わせていた頃、肝心の尚隆は騶虞を駆り、
既に関弓から遠く離れた場所にいた。市井の様子を見聞するときは妓楼だの賭
場だのに入り浸り、表面に表われない民の本音をさぐることが多かった。そう
いったいかがわしくも賑々しい場所では雑多な人間が集まる上、素性を詮索さ
れにくかったからだ。
 しかし今回ばかりは目立たない町を選んで逗留し、何の変哲もない地味な舎
館で息を潜めるようにじっとしていた。そして騎獣を預けたまま時折ぶらぶら
と食事に出るのみで、無為に時を過ごした。
 毎晩舎館を変えていた彼は、ある安宿で話好きの使用人の少年と暫時言葉を
交わした際、問われるまま、待ち合わせをしていると簡潔に答えた。だが本気
で六太が探しにくることを期待していたはずはない。この程度で目覚めるもの
なら、とうに目覚めていたろう。
 それでも尚隆は昼間、ふと往来で空を見上げては、どこかに金色の光がない
かと探した。
 目に映る春の空の色はまだ淡い。そしてその空と下界とを隔てているはずの
雲海はここからでは視認できなかったが、決して通り抜けられない障壁として
確かに存在する。それは尚隆と六太を隔てる障壁でもあった。
 一人部屋に泊まっていたものの、安宿は壁も薄いものだ。特に外の静まる夜
間は、他の房間の話し声やいびき、廊下の足音といった雑多な騒音が耳につい
た。しかしそうやって他人と完全に切り離されなかったことは、却って今の尚
隆には良かっただろう。夜の静けさは人を物思いにふけさせるものだ。そして
明るい陽の下では平気だったことが、不意に耐えられなくなってしまう魔の刻
でもあるのだから。
 それゆえ普段の尚隆は、夜間は市井でも宮城でも決断を要することは考えな
いようにしていた。哲学めいた思索には向いているかもしれないが、夜の闇と
静寂の中でひとり考えたことは概して悲観的になる傾向があるからだ。

602永遠の行方「王と麒麟(204)」:2013/03/24(日) 12:51:53
 だが今の彼はみずからを追いつめるように、折りたたんだ衾褥に寄りかかり
ながらじっと考えに沈んでいた。夜が更けるにつれ隣室の話し声もやみ、遠く
で聞こえるいびきだけになっていく。
 平和だ、と彼は思った。平凡で穏やかで――何百年も彼が守ってきた市井の
暮らしがここにあった。
 だが安らぎではなく懐かしいような切なさを感じるのは、この平穏が終わり
つつあることを知っているからだろうか。今この時代が、すぐに過去形で語ら
れることになるかもしれないと知っているからだろうか。
 ――五百年の昔、蓬莱にあった小松家のように。
 口に出したことこそないものの、尚隆は自分の根がいまだに蓬莱にあると感
じていた。彼にとっての故郷は今でも瀬戸内のあの小さな所領なのだ。既にい
ろいろな記憶はおぼろになり、親兄弟の名前さえ忘れてしまったというのに。
 もちろん雁にも愛着はあるし愛してもいる。自分で試行錯誤してここまで育
て上げたのだ、雁も確かに彼の故郷だった。小松の領地でのことは、おそらく
思い出の中で美化されてもいるだろう。時々無性に懐かしくなるのは二度と帰
れない場所だから。雁も記憶の彼方で懐かしむだけの存在になれば、尚隆は
きっと雁が恋しくて仕方がなくなるに違いない。
 だが王たる彼にはそのときは絶対に訪れない。王でなくなれば死あるのみな
のだから。
 そんなことをつらつらと考えていた尚隆は、ふと六太に思いを馳せ、ああ、
とすべてが腑に落ちた気がした。
 ずっと胸中を蝕んでいた奇妙な苛立ち。淋しさ。自分でも正体のわからない
もやもやとした焦燥感。
 それは王として麒麟を失うからではない。六太が陽子に懸想していたからで
も、身内と見なしていた親しい者を失うからでもない。それらの理由も決して
小さくはないが、六太との別れは、尚隆が生まれ育った時分の蓬莱、懐かしい
瀬戸内との永遠にして完全なる決別だからなのだ。
 陽子に指摘されるまでもなく、六太相手なら蓬莱の話は普通に通じた。それ
も異世界のような現代の蓬莱ではなく、尚隆が生まれ育った時代の蓬莱だ。泰
麒を迎えにいったときのあちらの夜景は無機質で、灯りだけは豊富だったもの
の不思議と温かみは感じられなかった。直線ばかりの灰色の町並みはそっけな
く、その見知らぬ風景は既に完全な異邦だった。だから尚隆にとって懐かしい
と感じる時代の蓬莱を知る者はもう六太だけなのだ。

603永遠の行方「王と麒麟(205)」:2013/03/24(日) 12:57:13
 この世界に来た当時は、むしろ六太を見ると過去を思い出してつらい思いも
したような気がする。だが瀬戸内で出会ったがゆえに、そこにいるだけで六太
は今はもうない故郷の存在を証だてていた。
 何しろ数百年を経た今、蓬莱の記憶はもはや雲をつかむように曖昧だ。そも
そも身ひとつでこちらの世界に渡ってきた尚隆には、その記憶以外に、既にお
のれの故郷を確認するすべはない。しかし一部とはいえ思い出を共有する六太
がいたことで、故郷が夢の産物ではないことを無意識のうちに確認できていた。
王が孤独であるのは当たり前だと、ずっと冷めた思いで突き放しているつもり
だったのに、本当は六太が傍らにいたことで救われていたのだ。たとえその自
覚がなかったとしても。
 これがたとえば臣下に蓬莱出身の者がいない陽子なら、早い段階で克服しな
ければならない事柄だろう。しかし尚隆は六太がいたことで、良くも悪くも故
郷との完全な決別の機会を失った。ときには蓬莱の話をするだけでなく六太を
派遣して、いろいろな情報を得させることさえした。そうして五百年もの長命
の王朝を築いた今になって初めて、本来ならば登極直後に克服すべき現実と対
峙することになったのだ。
 六太こそは尚隆の根、尚隆に残された唯一の蓬莱の形見だった。なのにその
彼を失ってしまっては、いくら枝を伸ばし葉を茂らせようとしても無意味とい
うもの。
 自分はひとりだ。尚隆は今度こそ明確にその意味を理解した。小松の領地も
あの時代も、蓬莱では既に歴史の彼方に消えてしまっている。単に年代的なこ
とを言うだけなら当時から仕えている官もいるが、彼らはあくまでこちらの世
界の人間だ。故郷で同じ時間を共有した人間は、とうの昔から六太しかいない。
 なのに。
「――おまえが!」
 突如としてこみあげた激情のままに、尚隆は思わず声に出していた。拳を握
り、心中を吐露する。
「おまえが俺を連れてきた。おまえが俺を王にした。なのに――なのに、今さ
ら見捨てるのか!」
 彼は両手で顔を覆い、魔の刻の中で日頃の無意識の自制が決壊するに任せた。
 このまま六太を失いたくなかった。たとえ彼が自分を主としてしか見ていな
いとしても、尚隆にとっては唯一無二にしてかけがえのない存在だったのだ。

604書き手:2013/03/24(日) 13:04:01
今回はここまでです。
次回……は慶サイド(陽子)の視点に変わるかな?
投下するまでちょっと時間がかかるかもですが。

605名無しさん:2013/03/27(水) 01:03:44
必須とはいえ小松が切ないですなぁ…
二人が笑い合えるのを願うばかりです。

606永遠の行方「王と麒麟(206)」:2013/04/04(木) 19:14:04

 陽子の元に雁から知らせが来ること自体はおかしくない。しかし鸞や青鳥で
はなく使者が書状を携えてくるのはめずらしかった。おまけにいちおう面識が
あるとはいえ、さほど親しくもない朱衡からの私的な使者。雁からの良い便り
を待ちわびていた陽子とて首を傾げたのは当然だろう。
 外殿の一室で、彼女は景麒を同席させた上で使者を招き入れた。先方は特に
人払いを願ったわけではないが、六太のことがあるので念のために官は下がら
せた。景麒の使令がいれば陽子の安全は確保されるから、護衛の小臣もうるさ
いことは言わずに御前を辞した。
「花見?」
 使者の用件は花見の宴への招待だった。予想外のことに陽子はぽかんとして
問い返した。それを肯定した使者は、朱衡からの書状をうやうやしく差しだし
た。
「景王におかれましては、昨年は見舞いに景台輔を派遣してくださるなど、つ
ねづねわが国へのご配慮に感謝しております。つきましてはちょうど玄英宮の
桜が見頃になりますので、ぜひ景台輔とともに花見の宴にお越しいただき、日
頃のご政務のお疲れを癒していただければと」そこで使者はいたずらっぽい顔
で少し声をひそめた。「実はわが主上がかなり退屈しておられまして、大司寇
は景王をお招きして主上を驚かせたい趣向なのです」
 使者から書状を受け取った景麒が文面を確認し、陽子に招待の詳細を説明し
た。件の桜は現在の蓬莱で一般的な染井吉野ではなく山桜や八重桜の一種らし
い。しかしそれでも蓬莱出身の陽子には懐かしいだろうとの誘いだった。この
世界で花見と言えば普通は梅だ。桜で花見の宴を開くなど、王と宰輔が胎果で
ある雁ならではだろう。
 陽子は少し迷ったのち、返事をするのでしばらく待ってほしいと告げ、女官
に使者のための房室を用意させた。その後、冢宰府まで急いで浩瀚を呼びにや
り、景麒と三人で話しあった。
「何だか唐突な感じなんだがどう思う? 延台輔の事件と無関係とは思えな
い」
 書状を読んだ浩瀚はこう答えた。

607永遠の行方「王と麒麟(207)」:2013/04/04(木) 19:16:11
「これがもともと主上が親しくしておられる延王ご自身のお招きなら不思議な
ことではありません。しかし慶を後援してくださっているとはいえ、相手はた
かが六官。個人的な交友があるならまだしも、そうではないということは、何
か主上においでいただきたい用件があるのでしょう。花見の宴は口実です」
「やはりそうか。書状には訪問の際に渡したいという贈りものの目録もあるけ
ど」
 陽子は貴重な陶磁器やら玉石やらの一覧を指した。かなり高額な金銭の提示
もある。日頃の交流のお礼にしてはおかしいが、先方は陽子たちが不審に思う
ことは織り込み済と思われた。表面的には友邦国からの非公式な宴の招待だが、
これは取り引きの申し出なのだ。陽子が雁を訪ねてくれればこれだけの援助を
するとの。それも一日程度ではなく、少なくとも数日は滞在してほしいのだろ

「朱衡さんと話をしたことはあるけど、とても礼儀正しい人だった。いくらこ
ちらが小国でも、いたずらに他国の王を呼びつけるとは思えない。わたしがな
かなか慶を離れられるはずがないこともわかっているはずだ」
「だからこその好条件なのでしょうね。雁の大司寇の領地がいかほどかはわか
りかねますが、慶の国力との対比で考えれば、一年ぶんの収入以上と考えても
おかしくない額です」
「年収丸ごとか。領地の経営にもいろいろ必要だろうに思い切ったな」陽子は
感嘆した。「ということは、どうしてもわたしに来てほしいということか」
「おそらく」
「延台輔に何事かあったんだろうか」
「確かなことは申せませんが、延王が退屈しておられるという話が気になりま
す。どうやら延台輔ではなく延王に何事かあったようです」
「延王に」陽子はさっと顔色を変えた。
「この様子では使者も詳細は知らされておらず、本当に宴への招待だと思って
いるのでしょう。どうやらあらかじめ理由を説明するわけにはいかないが、雁
としては主上のご助力で何か確実に助かることがあると考えているようです。
少なくとも雁の内紛に主上を利用するといった陰謀の一端とは考えられません」
 陽子は眉根を寄せ、書状の細目を眺めた。しばらく考えこんでから「でもこ
れはこれで悪くない」とつぶやく。

608永遠の行方「王と麒麟(208)」:2013/04/04(木) 19:18:15
「ほら、この間わたしが提案した奨学金制度の計画、予算を捻出できるまで棚
上げになったけど、これだけあれば賄えるんじゃないか? それから時計塔の
建設と」
 彼女が期待をにじませて相手の反応を窺うと、浩瀚は苦笑した。
「とりあえず奨学金の件なら。あとは時計塔より里家の助成に回したほうが良
いですね。正直なところを申せば、主上にはあまり金波宮から出ていただきた
くはありません。ましてや国外になど。しかし台輔がご一緒であれば万が一の
危険もないでしょう。隣国ですし、数日から十日ほどでしたら、その間は拙官
が何とかしますよ」
 物分りの良い態度を見せた浩瀚だが、これは延王もしくは延麒に何事かあっ
たらしいと推測されるためだろう。陽子の安全さえ確保できるなら、彼も早急
に現状を把握したいのだ。
「ああ、頼む」陽子はほっとして眉を開いた。
「主上は延台輔のこともご心配なのでしょう?」
「うん。ちゃんと自分で見舞いに行きたいと思いながらなかなか行けなかった
けど、いい機会だ。ついでに直接延王に日頃の後援のお礼も言える」
「先方からの招待ですし、何よりこれだけの援助があるとなれば他の官も納得
しやすいですね。延王ご自身のお招きではないとはいえ、堅苦しいことのない
よう形式的に官からの非公式の招待になったという話にしておきましょう」
「景麒も特に問題はないよな? 何日か瑛州を留守にしても?」
「はい、かまいません。わたしも延台輔が心配です」
「よし。それならおまえとふたりだけで行くことにしよう。そのほうが却って
面倒がない」
 非公式とはいえ、他国への訪問で王が仰々しい供を引き連れないとは異例だ
が、登極直後、雁に遊学するふりをして固継で暮らしていたときも陽子はひと
りで、供を連れて遊学しているという体裁も取り繕わなかった。もともと堅苦
しいことを嫌っている彼女だから、今回もそれで通せるだろう。
 返信を持たせた使者を帰した陽子は、青鳥でも先方と簡単な打ち合わせをし
たのち、さっそく雲海上から雁に向かった。下界から行っても良かったのだが
旅程が余分にかかるし、何が起きたのだろうと気が急いたのだ。もちろん、よ
く雲海上を気軽に行き来していた延王延麒の影響を受けたというのもある。

609永遠の行方「王と麒麟(209)」:2013/04/04(木) 19:20:18
 高岫を越えてすぐ、雁の最初の凌雲山で、陽子と景麒は朱衡が差し向けた迎
えと合流した。そのまま彼らに護衛される形で玄英宮に入ったふたりは、内々
での訪問とあって目立たないよう数人の下吏を従えただけの朱衡に出迎えられ
た。
「お久しぶりです、朱衡さん」
「遠路はるばるおそれいります。景王、景台輔にはお変わりなく」
「桜を見せていただけるとか。金波宮にはないので楽しみにしてきました」
 当たり障りのない挨拶をにこやかに交わしたのち、掌客殿ではなく朱衡の私
邸に案内された。非公式の訪問であるのみならず、今回は朱衡の私的な招きに
よるものだからだろう。
 もっとも雁の大司寇の住まいとあって相応の格式を持った建物で、一国の王
を招いても礼を失するものではなかった。
 陽子はまず汗と埃を落とすための湯浴みを勧められて好意に甘えた。先方は
現代の蓬莱では毎日入浴する習慣なのを知っているのだ。久しぶりの長時間の
騎乗でこわばった筋肉を入浴でほぐした彼女は、用意されていた豪華だが楽な
衣裳に着替えたのち、奥まった一室で軽食を供されるのに任せた。そうして朱
衡が人払いをし、側仕えの下吏も下がらせて三人だけになってから、ようやく
彼女は口を開いた。
「このたびはお招きありがとうございます。ただ、提示してくださった金額は
大国雁の六官としても高額ではないでしょうか。うちの冢宰によると、年収相
当としてもおかしくないとか。慶としては助かりますが、朱衡さんは大丈夫で
すか?」
 ぶしつけではあるが、やはりはっきりさせておかねばなるまいと陽子は思っ
たのだ。財政の厳しい慶にとってありがたい申し出とはいえ、そのことで万が
一にでも朱衡が難儀するようなことがあれば、それも心苦しい。
 すると朱衡は少し驚いたように目を見張ってからほほえんだ。
「確かに高額ではありましょうが、さほど無理をしたわけではありませんので
どうかお気遣いなく。拙官は独り身ですし、金のかかる趣味も持ってはおりま
せんので、ありがたいことに自然と財はたまる一方なのです。何しろ定期的に
領地の者に還元しているくらいで。それより景王にはこちらの無理を聞いてく
ださったのですから、万謝の印としてぜひお納めいただきたく」

610永遠の行方「王と麒麟(210)」:2013/04/04(木) 19:22:21
「そうですか。では遠慮なく」ほっとした陽子もほほえんで応じ、さっそく本
題に入った。「ところで延台輔のご様子はいかがでしょう。それからそちらの
使者によると、何でも延王が退屈しておられるとか」
 朱衡は数瞬だけためらうそぶりを見せてから、こう答えた。
「台輔のご様子にお変わりはございません。相変わらず眠り続けておいでです。
景王は率直なお人柄ですから、この際、拙官も打ち明けて申しましょう。冬官
は日々努力しておりますが、正直なところ手詰まりの状態です」
 陽子は緊張とともに、傍らに座る景麒と顔を見合わせた。
「もちろん最悪の場合は解呪に何十年もかかるかもしれないと、口には出さな
いまでも可能性は頭の片隅に置いておりました。おそらく主上もそうだったに
違いないのですが、最初のうちは泰然としておられたのに、どうも最近の主上
は苛立っておられるようなのです」
「苛立つと言うと……」
「政務を放擲するわけではありませんが、何事にも以前より反応が薄いのです。
どこか投げやりとでも申しますか。それでいて万事に執着がないわけでもなく、
常日頃は官に対して鷹揚であられるかたが、先日、台輔のことはもう諦めたほ
うが良いと進言した官に怒って即座に罷免しようとしたほどで」
「それは」陽子は絶句したのち、何とかこう続けた。「しかしその官が悪いの
では? わたしだってもし景麒が似たような事件に巻きこまれて見捨てろと言
われたら憤慨する」
「わかっております。しかし今まででしたら、主上はあからさまな態度は取ら
なかったと思うのです」
「つまり精神的な余裕がなくなってしまった、と?」
「はい」
 溜息とともにうなずいた朱衡に、陽子は顔を伏せてしばし考えこんだ。確か
に尚隆らしくない言動だし、臣下が心配するのも理解できた。わざわざ陽子を
呼ぶような真似をしたということは、他にも彼らが懸念する材料が多々あるに
違いない。彼女は顔を上げ、状況が状況だけに単刀直入に尋ねた。
「それで、わたしは何をすれば? 延王を励ますとか? ただこういうことは、
下手な慰めや励ましは逆効果だと思いますが」

611永遠の行方「王と麒麟(211)」:2013/04/04(木) 19:24:25
「申し訳ないながら、主上が気晴らしになるような話でもしていただければと。
景王も主上と同じく胎果であらせられる。もし主上が興味をお持ちになれば、
現代の蓬莱の話などはいかがでしょう」
 陽子は押し黙った。蓬莱のことは、陽子にとってもまだ思い出になってはい
ない。そんな状態で、なりゆきで自然と話が及んだならともかく、意識的に話
を振るのは気が進まなかった。そもそも励ましのための話題としてふさわしい
だろうか。そのときはお互いに楽しいかもしれないが、あとになって空しくな
らないだろうか。
 彼女はふと、自分が五百年後にその時点で流されてきた海客と蓬莱の話をし
た場合を想像してみた。懐かしいというより――ちょっとした拍子に切ない気
持ちのほうが大きくなって気鬱になるかもしれない。公私ともに充実して精神
的に満たされているときならまだしも、少なくとも苛立ったり暗くなっている
ときにしていい話ではないだろう。
 むろん六太となら現代の蓬莱の話もたくさんしたが、彼はいくらでも蓬莱と
自由に行き来できた。陽子にとってもまだ自分の記憶と乖離しない情報だから、
郷愁の念を覚えるのはさておき、彼がもたらす話を興味深く聞くことも可能
だった。どちらも尚隆とは条件が違う。
「延王がお望みになればいくらでも話はしますが」彼女は慎重に答えた。「た
だ、気晴らしといっても、正直なところ若輩者のわたしにうまくできるとも思
えません」
「何でもいいのです。少なくとも変わりばえのない官の顔を見、変わりばえの
ない話を聞くよりはずいぶんと違うはずです。それに麒麟が昏々と眠り続ける
などという事態は前代未聞で、そうなると同じ王としてのお立場を持つ景王か
らのお言葉は、我々のような臣下が何を言うよりはるかに重みがあります」
「しかし……お役に立てるかどうか」
 そう答えながら、陽子は六太とかつて話した内容を思い出していた。
 彼は言ったのだ、国同士が交流するのはいいことだ、自然と王同士も交流す
ることになるからと。王の気持ちは王にしかわからない、だからそういった日
頃の交流があれば、いざというときにも孤独に陥らず、王の支えになるだろう
と。

612永遠の行方「王と麒麟(212)」:2013/04/04(木) 19:26:29
 六太自身はそこまで語らなかったものの、彼が麒麟である以上、主である尚
隆を念頭に置いた発言だったはずだ。陽子の目から見ても、普段の尚隆が麒麟
の助言を必要としているようには見えなかった。だからこそ万が一の場合を考
え、主に頼りにされない自分ではなく、他国の王という同じ立場の人間と交流
させることで凶事を遠ざけたいと願ったのだろう。
 ならば実際に尚隆を力づけられるかどうかはさておき、陽子が彼といろいろ
な話をすることは、それだけで六太の希望に沿う行動ではあった。
「今さらこう申しても何ですが、どうか気楽にお考えください」黙りこんでし
まった陽子に朱衡は微笑した。「景王にはいろいろご苦労もおありでしょうし、
何かとお疲れもありましょう。今回のことはたまの休暇とでも思し召して、単
に骨休みのために玄英宮においでになったとお考えください。明日は主上をお
招きして内々で花見の宴を催します。景王は今回、台輔のお見舞いと花見のた
めにおしのびでいらしたということにしますので、まずは主上を驚かせていた
だき、そのまま普通に歓談していただければ」
「そうですね……」陽子は考え考え口を開いた。「では、すべては延王にお目
にかかってからにします。単に話を聞くのと自分の目で確かめるのとでは違い
ますから。それから延王をお誘いして、延台輔のお見舞いにも伺わせていただ
きます」
 昨年、最初に景麒が玄英宮を訪問した際は、尚隆みずから仁重殿に案内した
という話だった。六太のことが尚隆の苛立ちの原因だとすれば、眠りつづける
麒麟を前にした彼の様子も見ておいたほうがいいだろう。
 朱衡は礼を述べ、重要な話はとりあえず済んだので、三人はそのまま軽食を
つまみながら雑談した。いい機会ではあり、陽子は政治について朱衡にいろい
ろ質問し、慶でやりたいと内心で温めている二、三の計画について意見を求め
た。朱衡はそのすべてに丁寧に答え、考えうる限りの利点や難点を挙げ、過去
に雁で似たような試みがあれば、率直にその成功例や失敗例を示した。数百年
に渡って王を支え、六官を歴任してきた彼の実務知識は豊富で、経験の浅い陽
子にとって非常にありがたく、それだけで今回の訪問の甲斐はあったと思える
ほどだった。

613書き手:2013/04/04(木) 19:28:33
陽子視点でさらっと。

次回は朱衡視点。あまり空けずに投下できるかと思います。

614永遠の行方「王と麒麟(213)」:2013/04/06(土) 11:37:59

 相変わらず生真面目な陽子の人柄は、朱衡にとって好ましいものだった。
気取らず臆さず、それでいて他国の官にさえ謙虚に教えを受ける。それゆえに
軽んじる者も出るだろうことを考えると危険な側面はあれど、慶にはそんな若
き女王を支える忠臣も順当に育っているに違いない。
 しばらく陽子や景麒と歓談したのち、ふと朱衡は、六太が尚隆を信頼してい
たと思える逸話がないだろうかと尋ねてみた。陽子は驚いたように彼を見つめ、
「信頼、ですか?」と聞き返した。
「はい。官が主上に何を申しあげようと、日頃からお側に仕えている以上、目
新しい話にはなりえません。しかし普段は遠く離れておられる景王の口からそ
ういう逸話が出たとなれば、多少は主上の気も晴れるように思うのです。何し
ろ台輔は主上に何の言伝も残してくださいませんでしたし、それどころか見捨
てろとまでおっしゃいました。それはうがった見方をすれば誰にも呪を解ける
はずがない、解決できるはずはないという、不信と諦めの現われと解釈するこ
ともできてしまいますから」
 彼は以前白沢と話した内容を手短に説明し、だからこそ六太の信頼を確信で
きれば、それ自体が励みになりうると告げた。すると陽子は、話を聞くうちに
苦笑してこう答えた。
「延台輔が延王を信頼しているなど、当たり前じゃないですか」
「え?」
「日頃からあれだけ親しく遠慮のないやりとりをしていて、信頼していないは
ずはないでしょう。見ていればわかります。何かと言い争うこともあったよう
ですが、そんな真似ができたのも逆に確固たる信頼があればこそです」
 力強く断言され、朱衡はまじまじと相手を見た。陽子の傍らで黙って控えて
いる景麒も、朱衡と目が合うなり、同意を示すかのように軽くうなずいた。
「失礼ですが、そこまで玄英宮の皆さんが疑心暗鬼に陥るほど状況が悪いので
しょうか」
「は、まあ……」
「ではわたしからはっきりと申しあげます。延台輔は延王を信頼しておられま
す」
「それはわかっているのですが、しかし」

615永遠の行方「王と麒麟(214)」:2013/04/06(土) 11:40:04
「逸話が必要なのは、延王ではなく朱衡さん自身が確信できないからでは?
だから延王にもはっきり進言できない。でもそんな疑いをいだく必要がどこに
あります? ずっとおふたりを見てきた皆さんに、新たな根拠など今さら必要
ないでしょうに」
 ぶしつけとも思える大胆な物言いに朱衡は呆気に取られた。これまで彼女と
話をしたことは何度もあるが、その印象では気遣いのある、どちらかと言えば
控えめな女性だった。事実、今しがたまで謙虚に朱衡の助言を聞いていた彼女
なのだ。だが無心になってみれば、言われた内容にうなずける部分はあった。
 なるほど、と彼はすぐ気を取り直した。いくら国主たる身分に慣れてきたと
はいえ、彼女が普段からこのような物言いをしているとは思えない。そもそも
六太とは数年の付き合いしかない陽子だ、五百年も仕えてきた朱衡に対し、普
通ならここまで強い調子で言えるものではないだろう。
 これは故意の態度であり、激励の一種でもあるに違いない。何しろ事態が動
かない以上、あとは気持ちの持ちようと言うしかない。だとすれば万事を明る
く捉えたほうが好ましいに決まっている。皆で難しい顔を寄せ合って鬱々とし
ても得るものは何もないのだ。
「は――い。そうですね……」
「たぶん皆さんは、ずっと事件の渦中におられるだけに滅入ってしまったんで
しょうね。誰の目にも明らかなことさえ、つい疑いを差し挟んでしまうほど不
安になっていらっしゃる。わたしは当事者ではありませんし、最近の玄英宮の
様子も知りませんから、いくらでも無責任な言葉を吐けますが、だからこそわ
かることもあります。延台輔は延王を慕っておられますし、信頼してもおられ
ます。そもそも呪の眠りを受けいれたのは延王を助けるため。全部、延王のた
めなんです。延王にもそう申しあげて、どうか延台輔の誠心を疑わないようお
願いしてください」
「はい……」
「もちろん雁という国のためでもあるでしょうが、ここまで長命の王朝となる
と、たぶん国と王を明確に分けて考えるのは難しいと思います。わたしだって
雁と延王を切り離して考えることなんてできません。それを――そうですね、
たとえば国さえ安泰なら延王の気持ちはどうでも良いと延台輔が考えていただ
ろうとか、そういった薄情な解釈を皆さんや延王がなさっているとしたら延台
輔が可哀想です」

616永遠の行方「王と麒麟(215)」:2013/04/06(土) 11:42:07
 他に聞く者があれば、いくら王とはいえ、後援する大国の高官にこれほど遠
慮のない物言いは無作法だと思ったかもしれない。当事者ではないから気楽に
言えるのだと反論したかもしれない。だが荒削りながら素直な確信に満ちた彼
女の言葉は力強く、国官としてまっとうな誇りを持ちこそすれ驕りを戒めてい
る朱衡にとって、嫌悪を感じさせるものではなかった。むしろ勇気づけられる
気がした。
 実際、日頃の六太の様子を思い起こすまでもなく、主君を好いていることは
明らかなのだ。政務上の方針における衝突は、民への慈悲がすべてに優先する
麒麟と現実的な王との問題だから別の話としても、私的な時間における周囲が
はらはらするほど遠慮のないやりとりは確かに信頼があればこそだろう。
「今回の件は、自分の命か延王の命かという究極の選択を迫られた延台輔が延
王の命を選んだ、そういう単純な話だと思うんです。時間だってそんなにあっ
たようではないし、状況が状況だけに、延台輔自身動揺してもいたでしょう。
後になって延王がどう受けとめるかなんてじっくり考える余裕もなかったん
じゃないでしょうか。だからその時点で最善と思える決断をした。自分の望み
を鳴賢に明かさなかったのも、きっと聞いたら誰もが納得するような深い事情
があるんでしょう。延王に言伝を残さなかったのだって、もしかしたら別れの
言葉を言いたくなかっただけかもしれない。またいつか絶対に会える、そう思
いたかったからこそ何も言わなかったと解釈することも可能じゃないですか。
鳴賢への説明はさておき、延台輔の本心がどうだったかなんて誰にもわからな
いんですから」
 畳みこむように言われて朱衡はうなずいた。確かに六太の本心を知ることが
できない以上、いくらでも好ましい方向での解釈は可能だ。
 納得した朱衡は、穏やかにほほえんでみせた。それに晴れやかに笑い返した
若い女王の顔はまぶしかった。
 不意に、これも若さというものの発露かもしれないと考える。いくら仙は外
見が変わらないと言っても、年を重ねればどうしても考えかたが硬直してくる
し、疲れも見えてくるものだ。そうして今回のように余計なことまで気を回し、
たったひとつの確信に至るまでに延々と遠回りをしてしまう。しかし後から振
り返ってみると、真実は意外と単純だったりするのだ。

617永遠の行方「王と麒麟(216)」:2013/04/06(土) 11:45:54
 思えば長いこと膠着状態が続いているがゆえに、尚隆のみならず自分たちも
思惟の迷宮に入りこみ、無意識のうちに考えすぎていたかもしれない。主君に
対して不用意な励ましは逆に事態を悪化させかねないと危惧して自制していた
し、陽子自身も先刻似たようなことを口にしたが、言った当人が心から信ずる
言葉であればおのずと説得力を持つだろう。そう考えると、疑念を差し挟む余
地がないほど確固たる態度で接していたら、意外と尚隆もすんなり受け入れて
前向きな態度のままだったかもしれないのだ。なのにいつの間にか腫れものに
触るような対応をすることで、知らず知らずのうちに主君を追いつめてしまっ
たのか。
 これではとても王を支える重臣とは言えないと、朱衡は反省した。そしてよ
どんだ空気を払う一陣の風が吹いたような印象を感じ、陽子を雁に招いたこと
は間違いではなかったと確信したのだった。
 もちろん今の尚隆の精神状態は常と異なるし、もし陽子が同じような態度で
接した場合、一歩間違えれば彼を憤激させかねなかった。そもそも当人は配慮
しているつもりでも、若い時分は無意識に相手の心に切りこんで頓着しないこ
とがままあるものだ。その結果、事態の悪化を招くことも。しかしだからこそ
逆に成せることもあるのではないか。
 正直なところ不安もないではなかった。しかし陽子が真に傍若無人に振舞う
はずもなし、最近の主君の様子をあらためて思い返した朱衡は、この際、少し
気持ちをかき乱されるくらいでちょうど良いのかもしれないと考えた。何より
これまで彼女が書き送ってきた大量の書類を思えば、心から六太の心配をして
いるのは明らか。そんな相手と懇談することで、尚隆の気が少しでも晴れるこ
とを彼は願った。

 朱衡は翌日、楽俊と引き合わせる手はずを整えていたため陽子は望外に喜ん
だ。首尾よく大学を卒業した楽俊が、結局雁の国府で任官することになり、朱
衡の引きで秋官府に登用されたことは知っていたらしい。それで今回、もしお
互いに時間が取れるようなら会う心積もりはあったようだが、尚隆や玄英宮の
状況がわからないだけに訪問の予定も伝えていなかったとのことだった。

618永遠の行方「王と麒麟(217)」:2013/04/06(土) 11:47:57
 何しろ任官したばかりの下っ端の新人官吏だ、本人の意思だけではそうそう
融通が利くはずもない。おまけに周囲の目を考えれば、楽俊自身のためにも、
まさか景王であることを明かして強引に面会の時間を作るわけにもいかないだ
ろう。
 朱衡は過去の書類の整理という名目で楽俊を大司寇府の一室に呼び出し、自
分が朝議に出ている間、彼らだけで歓談できるよう計らった。その後、ちょう
ど午(ひる)に、久しぶりに旧友に親しんで気分が高揚している陽子と景麒を、
花見の宴を催す場所に案内した。そこは宮城の園林の奥まったところにある場
所で、山桜や桃、早咲きの八重桜などが咲き誇る美しい一画だった。むろん大
司寇とはいえ朱衡が自由に占有できる領域であるはずもないが、他の六官にも
白沢から話を通した上で、景王を歓待するためとして了解を得てのことだった。
 ただし大々的な酒宴ではなく、あくまで内輪の催しである。給仕をしたり楽
器を演奏したり華やかな舞を添える女官は幾人も侍っていたが、客としては陽
子と景麒、冢宰の白沢、そして尚隆だけだった。
 護衛の夏官を数人引きつれ、白沢を伴って現われた尚隆は、それまで何やら
興味の薄そうな様子で白沢と言葉を交わしていたのが、出迎えた陽子と景麒に
気づくなりさすがに驚いて目を見張った。
「お久しぶりです、延王。楽俊からこちらで桜が見ごろと聞き、延台輔のお見
舞いに伺うついでに、朱衡さんに無理を言ってお邪魔してしまいました」
 尚隆は陽子の傍らに控えていた朱衡にちらりと目を遣った。彼女の言を鵜呑
みにせず、朱衡が計らったことだと直感したのかもしれない。が、「なるほど」
と言ってわずかに苦笑したのみで、少なくとも追求はしなかった。
 用意されていた席に皆が座り、ひととおり料理と酒が並べられたあと、延王
ならびに景王の長寿を祈念して乾杯する。あまり酒を飲みなれていないという
陽子に、朱衡は弱い果実酒を中心に勧めた。彼女は範から取り寄せた繊細な玻
璃の杯の美しさに感嘆していた。おまけに山桜の花びらの一片が杯に落ちると
いう椿事が起きたものだから、風流だと大喜びだった。
「金波宮には桜がないとおっしゃっていましたね。蓬莱では梅よりも桜が愛で
られているという話ですから、この際、何本か植えてみてはいかがですか?」
 そんなふうに話を向けると、陽子は困ったように「正確に言えば、桜の一種
はあります」と答えた。

619永遠の行方「王と麒麟(218)」:2013/04/06(土) 11:50:00
「でもわたしが見慣れていた淡い色合いの品種と違って、鮮やかな寒緋桜なん
です。下界には薄い色合いのものもあるそうですが、宮城にあるのは赤みが強
くて。むろんあれはあれで綺麗ですが、残念ながら桜を見ている気にはなれま
せんね。だからこうして山桜や八重桜を見ると嬉しいんです。ここにはないよ
うですが、枝垂桜なんかも好きですよ」
「桜と言えば六太が言っていたな……」興味を引かれたらしい尚隆がふと口を
挟んだ。どこか遠くを見るようなまなざしでつぶやくように言う。「今の蓬莱
では、葉が出る前に花が咲く品種が主流だと。だから満開になると花だけで枝
が覆われて、かなり見ごたえがあると。もっとも色が淡いため、どぎつくはな
いらしいが」
「そうです。よくご存じですね」
 昨日の様子では、蓬莱の話をすることに抵抗があるふうだった陽子だが、自
然な会話の流れであるためか微笑んで普通に相槌を打っていた。
「染井吉野という品種です。同じ場所にあるものは皆一斉に満開になるため、
そりゃあ見事で。ただ満開になったあとは数日程度しかもたないし、風や雨に
すぐ散ってしまうのが難点ですが。それに比べると山桜や八重桜はいろいろ種
類があるので長く楽しめていいですね。同じ場所にある同じ品種でも、開花の
時期まで揃うわけではないようですし」
 陽子と歓談する主君の様子は、多少の疲れは窺えるものの、内心で朱衡が危
ぶんでいた苛立った気配は今は薄れていた。一時はどうしたものかと思ったも
のだが、少しは気持ちが浮上したのかもしれない。だが陽子はどう見ているだ
ろう。何しろ女性は一般的に、男性より他人の顔色やちょっとした所作の変化
などを敏感に見分けるものだ。彼女の目にも、尚隆は以前と大差ないように
映っているだろうか。
 陽子は午前中に会った楽俊の話題も出し、新米とあって覚えることが多くて
大変だと、だが忙しいながらも充実しているようだと話した。尚隆は笑みを浮
かべたまま鷹揚に聞いていたが、そうやって親しく語らい、皆で華やかな舞い
や楽曲の美しい旋律を楽しむうちにすっかり酒を過ごし、朱衡が気づいたとき
には主君は完全に酔っ払ってしまっていた。

620永遠の行方「王と麒麟(219)」:2013/04/06(土) 11:52:04
 陽子も多少は酔ってはいたようだが、量としてはさほど飲んでいないためだ
ろう、頬が上気する程度で、受け答えもはっきりしていた。翻って尚隆は最後
には呂律が回らなくなり、話すというよりもはや唸る感じで、途中で陽子は何
度も聞き返さなければならなかった。それも神仙であればこそで、もし彼女が
只人だったら一言も聞き取れなかったに違いない。
 過去、尚隆が酔う場面など朱衡は無数に見てきたが、ここまでひどいのは初
めてだった。少なくとも、内々の宴とはいえ屋外で正体がなくなるまで酔った
ことなど一度もない。せいぜいふざけて周囲にからむ程度だった。
「これは……まだ夕刻にもなっていないが、主上にはそろそろお休みいただい
たほうが良さそうですな」
 節度を持ってちびちびと酒を味わっていた白沢が苦笑いとともに言った。朱
衡も動揺を隠して「そうですね」と同意した。
「とりあえずそこの殿閣の一室にお運びしましょうか」
「わたしが手伝います」
 くすりと笑った陽子が茶目っ気のある仕草で軽く片手を挙げた。宴の間、離
れて警備していた夏官を呼び寄せるべく頭をめぐらせた朱衡を押しとどめる。
「素敵なご招待をいただいたのですから、お礼にサービスします。それにして
も延王もこんなに酔っ払うことがあるんですね。意外とわたしのほうがお酒に
強いのかな?」
 おどけたように言った彼女は、半ば眠っている尚隆の様子を窺うように顔を
近づけるなり、なんとぺちぺちと頬をたたいた。
「ほら、延王、しっかりして。もうお年なんだから、そろそろお酒は控えない
と」
 周囲を唖然とさせる台詞を吐いた彼女は、輿を用意しようかとざわめきだし
た女官らを気にせず、尚隆の片腕を取って肩を貸そうとした。だが体格の差か
ら言っても力の差から言っても支えられるはずはなく、見守っていた面々に対
しばつが悪そうに笑った。
「ごめん、やっぱり重くて無理だ。景麒、ちょっと手伝ってくれ」
「主上……」

621永遠の行方「王と麒麟(220)」:2013/04/06(土) 11:54:07
 呆れた顔をした景麒だったが、溜息をひとつついたあと、諦めたように尚隆
の反対側の腕を取って肩を貸した。それでもかなり難儀していたが、陽子が尚
隆を軽く揺すりながら「ほらほら、延王、ちゃんと立って」と声をかけると、
幸いにも完全には酔いつぶれていなかったらしい。重く頭を垂れていた尚隆は
何やら唸りながらもふらふらと立ちあがり、それを景麒が必死で支えた。女官
たちも尚隆の装束の袖や長い裳に手をかけて、主君が少しでも歩きやすいよう
に手助けした。
 やがて一番近い殿閣の臥室のひとつに案内されたあと、臥牀に腰を下ろした
尚隆は額を押さえながら、先ほどよりは随分とはっきりした声で「水……」と
つぶやいた。女官たちが、水の用意やら正寝への連絡やらで暫時あわただしく
姿を消すと、陽子は張りのある声で「延王、しっかりしてくださいね」と言葉
をかけた。呼応するかのようにひとつ大きな息を吐いた尚隆は、のろのろと顔
を上げ、弱々しい笑みを浮かべて相手を見た。
 だがつられた朱衡も陽子に目を遣ると、彼女のほうはとうに笑顔を消してお
り、それどころか厳しい表情をしていたので彼は驚いた。
「今、あなたに斃れられては迷惑です」
 突き放すような鋭い語気に、一瞬、室内に緊張がはらんだ。朱衡も白沢も息
を呑み、傍らの景麒があわてて「主上!」と小声でたしなめた。しかし尚隆は
呆気に取られたかと思うと、すぐに顔を伏せておもしろそうにくっくっと笑い
だした。
「新米の王が言うようになったな。恩人の俺に」
「仕方ありません。今雁が斃れたら、間違いなく慶には大打撃です。わたしに
支えきれるかどうかわかりませんし、それどころか周辺諸国が共倒れになる危
険すらあります。それを許すわけにはいきません」
「なるほど」
 尚隆はもう一度低く笑うと、「では英気を養うために、今日はこの辺で休ま
せてもらうとしよう」と言った。そうして陽子を追い払うかのように、手の先
をひらひらと振った。陽子は肩をすくめて退出しかけ、ふと振り返った。
「そうそう、明日は延台輔のお見舞いに伺いたいのですが。案内していただけ
ますか?」
「ああ、いいぞ」
「ではまた明日」

622永遠の行方「王と麒麟(221)」:2013/04/06(土) 11:56:11
 それだけ言うと、彼女はあっさり臥室から出て行った。それを景麒が追い、
あわてた朱衡も白沢にうなずいて、彼とちょうど戻って来た女官たちに後を任
せて陽子の後を追った。
 朱衡が房室を出ると、景麒が小走りに主に追いつき、周囲をはばかるように
「主上!」と呼んだところだった。扉の外で控えていた夏官たちが驚いたよう
に彼らと朱衡を交互に見た。
「あれではあまりにも延王に無礼ではないですか」
 だが陽子は歩調を落としもせず、顔を正面に向けたまま足早に歩きながらこ
う返した。
「耳に心地好い言葉をかけるばかりが激励ではない。特に王にはな。わたしな
ら難局に直面したとき、優しい言葉で場当たり的な慰めをかけられるより、厳
しい言葉で奮い立たせてもらったほうがありがたい。自分で自分を奮い立たせ
られないならなおさらだ」
「しかし」
「何なら引っぱたいてもらってもかまわない。だがさすがに他国の王に暴力を
振るうわけにはいかないからな」
「景王」
 朱衡がようやく追いついて声をかけると、陽子はにこっと笑って「失礼しま
した」と返した。
「いえ、あの……」彼女の前に出て殿閣の出口に先導しながら、めずらしく言
うべき言葉を見つけられずに朱衡は口ごもった。
「今日は桜を見せてくださり、ありがとうございます。それにしても今からお
休みになったとしたら、明日は延王も随分早くお目覚めになるでしょうね」
「は、まあ、そうですね」
「では明朝お目覚めになったら、朝食のあとでさっそく仁重殿に案内していた
だきたいのですがよろしいでしょうか。それともやはり朝議には出ていただい
たほうが? ならば午後からでも結構です」
 朱衡は考えるまでもなく、即座に「いえ」と首を振った。
「急ぎの案件はないはずですし、今は何より台輔のことが最優先ですから。も
ともと頻繁に朝議にお出になるかたではありませんので、官もご不在に慣れて
おります」
 陽子はまたにこっと笑い、「わかりました」と答えた。

623書き手:2013/04/06(土) 11:58:15
今回はこんな感じ。
陽子は叱咤激励担当ということで。

前回は思ったより早く投下できましたが、
次はちょっとかかるかもしれません。

624永遠の行方「王と麒麟」(218):2013/04/12(金) 19:27:11
 彼女は景麒と尚隆を幾度も交互に見たのち、緊張とともに立ち上がった。無
駄だろうことはわかっていた。だが戯れとはいえ可能性を示してしまった以上、
この場で白黒つけるしかあるまい。
 彼女は枕元に立ち、穏やかに眠っている六太を見おろした。童話に倣えば頬
や額ではなく、やはり唇に接吻するのが順当だろう。
 陽子に恋愛の経験はなかった。当然、接吻を交わしたこともないから、これ
がファーストキスになるわけだ。もちろん国主の地位にある今、そんなことに
こだわったり動揺するほど純情なつもりはない。しかし無垢な様子で寝入る六
太には、勝手なことをして申し訳ないと思った。
 六太の背に腕を差し入れて抱き起こすのは何となくためらわれたため、枕の
両端に手をついて顔を近づけた。一瞬躊躇したのち、花の香りの中でそっと唇
を押し当てる。温かな体温を感じるとともに穏やかな寝息が顔にかかり、ああ、
本当に眠っているだけなんだと、ほんの少しだけほっとする。
 陽子は体を起こすと、つい息をつめて効果のほどを見守った。期待していな
いつもりだったが、それでも何事も起きないことを見定めるとかすかな失望を
禁じえなかった。
 振り返ると、尚隆は床に座り込んだままこちらを凝視していた。陽子は無言
で首を振った。
「そう、か……」
 尚隆はつぶやくと、疲れたように息を吐いて顔を伏せた。明らかな落胆の様
子に、結果的に期待をいだかせてしまった陽子は罪悪感を覚えたが、童話に
倣ったとしても接吻の相手は絶対に自分ではないだろうとは思った。
「あの。わたしより、どうせなら延王が接吻したほうがいいんじゃないでしょ
うか。延麒は麒麟です。物語で王女に配されるべきが王子だとしたら、麒麟に
配されるべきは王だと思うんですが」
 すると尚隆は力ない笑みを浮かべながら大儀そうに立ち上がった。
「接吻か。接吻なら俺は何度もしたぞ」
「えっ」
「正確には口移しだがな。そうやって何度も水や果汁を飲ませた。いくら神仙
でも喉の渇きはつらいものだからな」

625書き手:2013/04/12(金) 19:32:39
す、すみません、>>624は忘れてください。
他の場所に投稿しようとして誤爆しました。
見なかったことにしてもらえると助かります。
申し訳ない。

626書き手:2013/04/17(水) 22:52:10
予定ではきりのいいところまで書いてから投下するつもりだったため、
まだしばらくかかるはずでしたが、ポカをやってしまったので
途中までですが6レス投下します。

627永遠の行方「王と麒麟(222)」:2013/04/17(水) 22:54:18

 夜の静けさの中で考えこんでいると、深い深い海の底にいるようだった。
一切の物音は絶え、空気はしんとして動かない。
 だがもともと宮城というものは静謐で、立ち並ぶ殿閣の威容もあって謹厳な
雰囲気が漂っているものだ。騒々しくも活気のある市井とは違う。朱衡にいろ
いろ言われたこともあり、陽子の意識そのものが常と異なっているだけに違い
ない。
 用意してもらった臥室でひとり臥牀に座っていた彼女は吐息をもらした。景
麒は隣室をあてがわれているが、使令は彼女の傍にもいるはずだ。
「班渠」
 呼びかけると、姿のないまま「ここに」という静かないらえのみが返ってき
た。
「延麒の使令の気配はないか?」
「はい」
「そうか。やはり完全に封じられているのか……」
 今さらではあるが、ありうべからざる異状に陽子はしばし瞑目した。
 彼女の目から見ても状況が良いとは言えなかった。おまけに宴席で尚隆のあ
んな醜態を見るはめになるとは思いもせず、少なからず動揺もしていた。陽気
に酔うならまだしも、あれはやはり鬱々とした心情の現われによる泥酔だろう。
 だが救いようのないほど悪いわけでもなかった。打つ手がないほど事態が悪
化していたら、そもそも朱衡は陽子を呼ぶことはしなかったろうし、尚隆もま
ともに彼女の相手をしていないはず。尻にまだ卵の殻がついているようなひ
よっこの王の言葉など、実績のある大国の王にとって何ほどのものでもないの
だから。
 そんな前兆の段階で朱衡が動いたのは、タイミングとしては非常に適切であ
るように思えた。だが自分の態度が、期待されているように尚隆に良い影響を
及ぼすか否かはわからなかった。陽子には心理学の素養などない。ただ、朱衡
たちが気遣う一方らしいのを見て取り、誰か叱咤する役の者もいなければなら
ないと即座に思った。もし自身が同じ立場に陥ったら、慰めと同時に、景麒に
言ったように引っぱたいてでも奮い立たせてくれる相手もほしいだろうと思う
からだ。

628永遠の行方「王と麒麟(223)」:2013/04/17(水) 22:56:22
 とはいえ臣下という絶対的に弱い立場の者にそれを望むのは酷だろう。第一、
朱衡をはじめとする重臣たち自身、現状に動揺している。ならば身分的には同
等である陽子が引き受けるしかない。雁の諸官は当事者ではあるが、麒麟を持
つ王の心情に添えるのは同じ王しかいないのだから。
 もっとも気分は滅入っているとしても、尚隆はちゃんと王として自身を律し
ていた(六太のことは諦めろと言った家臣に憤ったのは大いに同情の余地があ
る)。ならば少しぐらい自分が無礼な物言いをしても大丈夫だろう。慰め、気
遣う役は、大勢いる雁の諸官に任せておけばいい。
 厳しい表情でそんなことを考えていた陽子は、ふと目元をなごませた。尚隆
の憂鬱が六太の不在によるものなら、彼女が感じていたよりはるかに麒麟を大
事に思っていたということだ。普段の彼は六太をからかったり適当にあしらっ
たりと、どうかすると麒麟を軽んじているふうだったが、やはり半身同士の結
びつきは何物にも代えがたいということだろう。六太のほうも表面上は尚隆を
気遣う態度を見せなかったが、折にふれ陽子に語った言葉には、おそらく主を
想定しているのだろうな、と察せられるものが多々あった。何より彼らは同時
代に生まれ育った胎果だ。日頃の態度がどうであれ、その関係には余人に計れ
ないものがあるに違いない。
 それを思うと雁の主従を襲った不幸な事件に心が痛むのはもちろんだが、主
従愛というか男同士の友情というか、その絆に憧憬を覚える陽子だった。女同
士だとついついすべてを言葉に乗せて伝えようとするが、男同士である彼らは
単に余計なことを口にしないだけなのだろう。
 大丈夫、と彼女は自分に言い聞かせた。第一、今回の事件は尚隆にも六太に
も非はないのだ。なのに麒麟を奪われ、このまま雁が沈むような理不尽があっ
ていいはずはない。
「おやすみ、班渠」
 そう言って臥牀に身を横たえた陽子は、すぐに穏やかな眠りに引き込まれて
いった。

 翌朝、陽子は朝餉を済ませると、朱衡の案内で景麒とともに尚隆を迎えに
行った。尚隆はあのまま正寝に戻らずに寝(やす)んだらしく、昨日の殿閣で
は近習らが主君の着替えやら食事の世話やらで忙しく立ち働いていた。

629永遠の行方「王と麒麟(224)」:2013/04/17(水) 22:58:26
 出迎えた女官に陽子の案内を任せ、朱衡は礼をすると朝議のためにその場を
辞した。
「おはようございます、延王」
「おう」
 陽子に応えた尚隆に昨日の泥酔の名残はなかった。しかし目元には疲れた様
子が漂っており、気力が満ちているとは言いがたい。
 やがて彼女と景麒は、尚隆や彼の護衛とともに仁重殿に向かった。内々に景
王の訪問を伝えられていた仁重殿の女官たちは大層な喜びようで、大人数でい
そいそと出迎えた。
「延台輔にこれを」陽子は出迎えの女官のひとりに一通の書簡を差し出した。
「お見舞いを何にしようか迷ったのですが、延台輔が喜びそうなものを考えつ
かなかったので手紙を書いてきました。延台輔の枕元に差しあげてください」
「ありがとうございます。台輔もさぞやお喜びになると存じます。いつも景王
からの鸞や青鳥に楽しそうにしていらっしゃいましたもの」
 そう応じて六太の臥室に案内する。陽子たちが護衛を扉の外に待たせて中に
入ると、そこは景麒が報告したとおりの花の楽園だった。春とあって花などめ
ずらしくないとはいえ、すがすがしい朝日の中、華麗な装飾が彩る宮城の室内
で花々が咲き乱れるさまは桃源郷以外の何物でもなかった。陽子は室内をぐる
りと見回し、感嘆の声を漏らした。
「景麒から聞いてはいたが、確かに見事だ」
「台輔がはやくお目覚めになるように、またお目覚めになったとき、お目を楽
しませられるようにしております」
 褒め言葉に女官は嬉しそうに答え、さらに奥にある牀榻へと導いた。牀榻の
折り戸は完全に開け放たれており、臥牀を隠す帳も巻き上げられていた。これ
また花で飾られた臥牀には小柄な体が静かに横たわっているのが見え、陽子の
体にわずかに緊張が走った。女官は先ほどの陽子の書簡を枕元に置いて「台輔。
景王がお見舞いにいらしてくださいましたよ」と優しく声をかけた。
「延麒」
 女官と入れ替わるようにして臥牀の傍らに立った陽子は、あたりをはばかる
ようにそっと呼びかけてみた。反応があるはずはないとわかってはいたが、間
近で見ても単にぐっすり眠っているだけとしか思えなかった。

630永遠の行方「王と麒麟(225)」:2013/04/17(水) 23:00:30
 普段の六太は明るくにぎやかで、物静かなどという形容は絶対に当てはまら
なかった。しかしこうして見る彼は静謐そのもの。常ならばくるくるとよく動
く親しみやすい表情は、外見の幼さもあって悪戯小僧という印象ばかり強かっ
たが、何の表情も浮かべていない今、美しいと言ってもいい顔立ちをしている
ことに陽子は気づいた。まるで六太ではなく、性格の違う双子の兄弟と対面し
ているようだった。何より咲き乱れる美しい花々に囲まれて眠る様子はメルヘ
ンの世界そのもので、とても現実とは思えなかった。
「眠り姫みたいだ……」
 静謐な美しさに目を細めた彼女は、ほのかな微笑とともにつぶやいた。その
まま黙り込んでいると、彼女と並んで立っていた尚隆が「眠り姫、とは?」と
尋ねてきた。顔を上げた陽子は尚隆にも微笑を向けた。
「蓬莱――いえ、外国の童話です。いばら姫とも眠りの森の美女とも言います
が、悪い魔女に呪われて百年の眠りについた王女の話です」
「童話……」
 何やら考えこんだ尚隆はすぐ「六太も蓬莱の童話には詳しかったらしい」と
言った。さらに話を聞いた陽子は、海客の団欒所で六太の発案を元に上演され
たという人形劇の話を聞いて驚いた。竜王公主の恋物語が明らかにアンデルセ
ンの人魚姫の焼き直しだったからだ。陽子自身の経験から言うと、男の子はこ
の手のロマンチックな童話に詳しくないことが多かった。中学のとき、文化祭
の出しものをクラスで検討した際、シンデレラや白雪姫のようなディズニーが
アニメ化した物語でさえ筋を知らない男子が多くおり、常識だと思っていた女
子は当惑したものだ。
「なのに延麒は知っていたんですね」
「実際に脚本を書いたのは海客の娘という話だから、六太が提案したとは限ら
んがな。知っていたとしても、もともと劇の題材を探していたようだからその
せいもあるだろう。あるいは海客たちと親しく交わる過程で彼らに教わったの
かも知れん」
 それにうなずいた陽子は六太に視線を戻し、ならば眠り姫の物語も知ってい
たかもしれないと複雑な思いをいだいた。まさか六太も、自分が同じような呪
いの眠りに囚われるときが来るとは想像もしていなかったろう。

631永遠の行方「王と麒麟(226)」:2013/04/17(水) 23:02:33
「……で。件の話の姫は眠りから覚めたのか?」
「はい」
 尚隆の問いに、陽子は六太を見おろしたまま応えて簡単に説明した。
「姫の眠る城はいばらに囲まれて誰も近づけなかったのですが、ある日噂を聞
いた王子がいばらを切り開いて城に乗り込み、姫の美しさに思わず接吻したと
ころ、呪いが解けて目覚めたんです。そしてふたりは結婚していつまでも幸せ
に暮らしたと。王子や王女の接吻で相手の呪いが解けるというのは、童話でよ
くあるパターンのひとつかもしれません。魔女の毒りんごで命を落としたと思
われた白雪姫も、王子の接吻で息を吹き返しますから」
 彼女が話したのはあくまで眠り姫や白雪姫として語られる物語の類型のひと
つだったが、大筋としてはこんなところだろう。
 尚隆の応えはなく、しばらく沈黙が続いた。ふと複数の衣擦れの音を聞いた
陽子が不思議に思って振り返ると、女官たちがしずしずと臥室から退出すると
ころだった。何か合図をしたのだろうかと眉根を寄せて尚隆を見ると、すべて
の女官が退出してから、彼はようやく口を開いた。
「陽子。頼みがある」
「何でしょう」
「六太に接吻してはくれまいか」
「えっ……」
 驚いた陽子は彼に向き直った。まさか今の童話のパターンの話を真に受けた
わけでもあるまいにと、混乱のままに相手の顔を凝視する。
「あの」
「頼む」尚隆はその場で膝を折ると、両手を床について頭を垂れた。「このと
おりだ」
「や、やめてください、延王!」
 焦った陽子もあわてて膝をつき、土下座している尚隆の肩に手をかけて起こ
そうとした。しかし彼は深く頭を垂れたまま頑として動かなかった。
「延王!」
 再度呼びかけた陽子が弱りきって顔を上げると、後ろで控えていた景麒も茫
然とした体で立ちすくんでいた。今回の訪問で、今までになく感情を覗かせる
尚隆に不安を覚えてはいたが、童話のよくある演出にさえすがりたいと思うほ
ど追い詰められていたのかと、予想外の反応に陽子は激しく動揺した。だが…
…。

632永遠の行方「王と麒麟(227)」:2013/04/17(水) 23:04:37
 彼女は景麒と尚隆を幾度も交互に見たのち、緊張とともに立ち上がった。無
駄だろうことはわかっていた。だが戯れとはいえ可能性を示してしまった以上、
この場で白黒つけるしかあるまい。
 彼女は枕元に立ち、穏やかに眠っている六太を見おろした。童話に倣えば頬
や額ではなく、やはり唇に接吻するのが順当だろう。
 陽子に恋愛の経験はなかった。当然、接吻を交わしたこともないから、これ
がファーストキスになるわけだ。もちろん国主の地位にある今、そんなことに
こだわったり動揺するほど純情なつもりはない。しかし無垢な様子で寝入る六
太には、勝手なことをして申し訳ないと思った。
 六太の背に腕を差し入れて抱き起こすのは何となくためらわれたため、枕の
両側に手をついて顔を近づけた。一瞬躊躇したのち、花の香りの中でそっと唇
を押し当てる。温かな体温を感じるとともに穏やかな寝息が顔にかかり、ああ、
本当に眠っているだけなんだと、ほんの少しだけほっとする。
 陽子は体を起こすと、つい息をつめて効果のほどを見守った。期待していな
いつもりだったが、それでも何事も起きないことを見定めるとかすかな失望を
禁じえなかった。
 振り返ると、尚隆は床に座り込んだままこちらを凝視していた。陽子は無言
で首を振った。
「そう、か……」
 尚隆はつぶやくと、疲れたように息を吐いて顔を伏せた。明らかな落胆の様
子に、結果的に期待をいだかせてしまった陽子は罪悪感を覚えたが、童話に
倣ったとしても接吻の相手は絶対に自分ではないだろうとは思った。
「あの。わたしより、どうせなら延王が接吻したほうがいいんじゃないでしょ
うか。延麒は麒麟です。物語で王女に配されるべきが王子だとしたら、麒麟に
配されるべきは王だと思うんですが」
 すると尚隆は大儀そうに立ち上がりながら自嘲気味に言った。
「接吻か。接吻なら俺は何度もしたぞ」
「えっ」
「正確には口移しだがな。そうやって何度も水や果汁を飲ませた。いくら神仙
でも喉の渇きはつらいものだからな」

633永遠の行方「王と麒麟(228)」:2013/04/25(木) 19:11:05
「はあ」
 あやふやな調子で応えた陽子は、何となく接吻と口移しとでは違うのではな
いかと思った。だがそんなふうに感じてしまうのは、彼女にこの手の経験がな
かったせいだろうか。確かに口を触れ合わせるという行為自体は同じなのだか
ら。
 やがて三人は牀榻を出、臥室にあった小卓を挟んで向かい合うように座った。
黙り込んでいる尚隆に、陽子はここ最近考えていたことを口にした。
「延王。わたしは呪の仕組みについては何も知らないし、そもそもこの世界の
理(ことわり)に疎い以上、市井の只人より物を知らないとは思いますが」
「ああ……。それが?」
「だから割り切って、この際、蓬莱人として考えてみました。延麒がずっと目
を覚まさないのは、要するに昏睡状態が続いているということですよね」
「そうだな……」
「そんなふうに怪我や病気で意識が戻らない状態を、今の蓬莱では俗に植物状
態と言います。とはいえ最近の進んだ医学でも人体についてまだまだ解明でき
ていないことが多く、医者が絶望を宣告した患者が奇跡的な回復を見せること
もあります。十人の医者が十人とも回復不可能と断言したとしても、必ずしも
一〇〇パーセント見込みがないわけじゃないんです。
 たとえばこんなことがありました。当時は感動の夫婦愛として大きなニュー
スになったそうですが、植物状態から絶対に回復しないと言われていた老人に
奥さんが毎日頬ずりしていたら、奇跡的に意識が戻ったんです。目を覚まさな
い奥さんに旦那さんが毎日話しかけ、音楽を聞かせたり、手足をさすったりと
刺激を与え続けていたら目覚めたなんて話も聞いたことがあります。夫婦のよ
うな親密な間柄の相手による継続的なふれあいは、地道に続けると病状を改善
させることもあるんです」
 陽子の知識の元は、ある日の保健の授業における教師の雑談だった。それを
記憶の底からさらいながら懸命に説明した。当時は、その時点で随分過去の出
来事であったのと、赤の他人ゆえの平凡な感嘆をいだいただけとあって細部は
あやふやだったが、医者に回復を絶望視されていた患者が、配偶者による触覚
的聴覚的な接触の継続のおかげで奇跡的に意識を取り戻したという基本的な構
図は覚えていた。

634永遠の行方「王と麒麟(229)」:2013/04/25(木) 19:13:12
 最初はいぶかしんでいた尚隆も話が進むにつれ興味を示し、真剣な表情で耳
を傾けた。
「景麒から呪について説明してもらったとき、どの方面からも破れない鉄壁の
守りをめぐらすのは難しいし、まず不可能と考えていいと言われました。誰に
も絶対に解けない完全無欠の術などない、だからこそあえて弱点たる解呪条件
を設け、解呪の試みによって生じるエネルギーがすべてそちらにそれるよう誘
導した上で、その部分のみを過剰に防御するのだと。正直なところその説明を
理解したとは思いませんが、要はどれほど堅牢に見える術でも解く方法がある
ということでしょう。それに何であれ、人間のやることに『絶対』はありえな
いはず。おまけに延麒の場合は自分の望みがかなったかどうかを知るための部
分は起きていると、少なくとも待ち受けている部分があると考えられるそうで
すね」
「らしいな」
「だったら延麒の体に毎日刺激を与え続ければ、もしかしたら条件を満たさず
とも意識が戻る可能性もあるとは思いませんか? 蓬莱で回復した患者の奇跡
の例にならって、親しい相手が毎日地道に話しかけたり頬ずりをしたりすれば、
時間はかかるかもしれないけれど延麒の反応を引き出せるかもしれないと思い
ませんか? だって延麒はもともと目覚めを待っているんだから、解呪条件に
合致しなくても外部からの刺激に反応する可能性がないとは言えない」
 陽子はそんなふうに意気込んだが、尚隆は難しい顔でこう答えた。
「話はわからぬでもないが、六太の近習はもともと毎日きちんと世話をしてい
る。床ずれが起きぬよう寝返りを打たせたり、関節が固まらぬよう手足を動か
したりさすったりしているぞ。美しい楽の音も聞かせている。だが今に至るま
で何の反応もない」
「もしかしたらまだ時間がかかるのかも。蓬莱での奇跡の例は、少なくとも何
年もかかったように記憶していますから。それにしょせん女官です。官は家族
じゃありません。少なくとも夫婦のように親密な相手というわけでは」
「……麒麟には家族も配偶者もおらぬだろう」
「王がいるじゃないですか!」陽子はここぞとばかりに身を乗り出すと畳みか
けた。「麒麟は王の半身、生命を分け合っている存在です。ある意味では夫婦
や親兄弟より近しい関係と言えるはず。ならば延王が毎日声をかけ、手足をさ
すったりすれば、延麒も反応するかもしれない。――そう、少なくともこんな
ふうに離れた宮殿で暮らすのではなく、正寝に連れて行って一緒に暮らすとか。

635永遠の行方「王と麒麟(230)」:2013/04/25(木) 19:15:23
景麒によると、麒麟は王といると嬉しく離れるとつらい気持ちになるそうです。
だったら毎日延王の近くに置けば、眠っているとはいえ延麒も嬉しく感じ、そ
れが良い作用を及ぼす可能性も――」
「確かに麒麟は王を慕う生きものと聞くが、果たしてどうかな。特に六太の場
合は、必要以上には俺に近づかなかったからな。つきあいの長さを思えば互い
に相手のことを知りつくしていてもいいはずだが、現状はほど遠い。というこ
とは実際のところ、あまり親しいとも近しいとも言えないのかもしれん」
 陽子の言葉を遮った尚隆はそう言い、同意を求めるかのように、同じ麒麟で
ある景麒を見た。
「慕う――というのとは違うと思いますが」ややあって、景麒は慎重な様子で
答えた。
「ふん?」
「王のそばにいると嬉しいという麒麟の感情は好悪とは無関係なのです。した
がって延台輔が延王を個人的にどのように思っておられようと、主上がおっ
しゃったように近くで生活なさるほうが望ましいのは確かです。王とともにあ
ることを切望するのは麒麟の本質ですから」
「好悪と無関係というのがぴんとこないな」陽子は首をかしげた。「だって王
の近くにいたいと思うわけだろう?」
「そうです」
 景麒はうなずいたものの、口下手な彼はそれ以上うまく説明できないよう
だった。だがさらに聞き出すうちに、ふと思いついたらしい尚隆が尋ねた、
「水のようなものか?」と。水は人が生きるのに不可欠だ。それがある場所に
住みたいと思うし、断たれれば苦しいが、自身の好悪の感情とは何の関係もな
い。せいぜいまずい水よりはうまい水を欲する程度だ。
 景麒は即座に「王と麒麟の関係に比するものなど存在しません」と否定した
ものの、最終的に部分的な比喩としては認めたのだった。
「なるほど、王は麒麟にとっての水か……」
「つまり生命の源にも等しいということですね」
 視線を床に落とした尚隆が低く笑うのへ、陽子は彼が皮肉な考えに囚われぬ
よう即座に言った。目を上げて彼女を見た尚隆に微笑して続ける。

636永遠の行方「王と麒麟(231)」:2013/04/25(木) 19:17:26
「だからこそ誰が王を見捨てても麒麟だけは味方です。麒麟だけは絶対にわた
したちを裏切らない。それが麒麟の性(さが)だと言ってしまえばそれまです
が、それゆえに忠誠が保証されているとも言えます。ならばそういう存在を与
えられたことはとても幸せなことではないでしょうか」
 もちろん即位して数年しか経たない陽子にそこまで実感できているはずがな
い。そもそもまだ景麒と信頼関係を構築できたとは言いがたく、親しさで言え
ば、彼より後に知り合った桓?や祥瓊のほうが勝るだろう。
 だが彼女は、遠い遠い未来の自分にも伝わるようにと、どこか祈るような気
持ちでそう言ったのだった。
 尚隆は静かに彼女を見つめ、やがて「そうだな」と彼も穏やかに笑った。
「では六太も、麒麟である以上、王たる俺のそばに置けば良い作用を受けるか
もしれぬな」
「ええ」
 尚隆はわかったとうなずき、女官を呼ぶと急いで黄医を召しだすよう命じた。
そうして何事か起きたのかとあたふたとやってきた黄医に陽子の提案を吟味さ
せた。
 詳しい内容を聞いた黄医は驚いたものの、迷うことなく「景王のご提案は一
考の余地がございます」と答えた。
「何しろ前例のないことですので、正直に申しまして呪に対する効果のほどは
わかりかねます。しかし少なくとも台輔に悪い影響があるとは思えません。む
しろ良い案であることは間違いなく、となれば台輔を主上のおそばにお移しに
なるのは拙官としても賛成いたします」
「そうか。害がないことがわかっているなら試しても損はない」
 尚隆は少しの間考えをめぐらせてから、期待をこめて控えている女官らを見
回した。
「六太を長楽殿に移す」
 主君の宣言に、女官たちは了解のしるしとしてうやうやしく頭を垂れた。
「毎日、俺のそばで過ごさせることで良い影響があるなら、多少なりとも術が
解けやすくなる可能性はある。そうなればあるいはふとした拍子に目が覚める
かもしれん」
 尚隆はそう続け、いつも六太の世話をしている面々が引き続きそばにいたほ
うが良かろうと、彼女らにも一緒に長楽殿に移るよう命じた。

637書き手:2013/04/25(木) 19:22:04
あう、桓魋が化けました。失礼。
いつもは数値文字参照に変えるのですが、うっかりそのままコピペしました。

きりがいいので、今回はこの辺で。

638永遠の行方「王と麒麟(232)」:2013/05/10(金) 19:07:51

 それからは大忙しだった。衣類を中心に六太の身の回りの物をまとめなけれ
ばならないのはもちろん、近習も大勢正寝に移動しなければならない。
 だが六太を長楽殿に移すとしても、侍官や女官、護衛といった面々が控える
房室も用意する必要があり、それとの位置関係も鑑みて具体的にどの房室をあ
てがうか決めなければならなかった。場所としてはとりあえず主君の臥室の近
くでいいのではという案が女官から出たが、彼女らと黄医や尚隆の話を横で聞
いていた陽子が口を挟んだ。
「近くでもいいでしょうが、この際ですから延王の臥室に延麒のための臥牀を
運びこむわけにはいきませんか?」
「俺の臥室に?」尚隆が聞き返した。
「そうです。どちらにしても昼間は政務がある以上、一日中一緒にいられるわ
けじゃありません。だったらせめて夜くらい、延王の目の届く場所に延麒がい
てもいいと思うんです。もちろん臥室は狭くなってしまいますが」
「それは別にかまわんが、わざわざ臥牀を入れることもあるまい」
「でも……」
「もともと俺の臥牀は広い。片側に六太ひとり寝かせておいても邪魔にはなら
んだろう」
「ああ――なるほど」
 意表を衝かれた陽子は瞬いたが、言われてみればその通りだった。金波宮で
もそうだが、ただでさえ王の牀榻は広い。臥牀そのものもキングサイズのベッ
ドより大きいと思われ、大の男がふたりで寝てさえ狭くはないだろう。一方が
小柄な六太ならなおさら。おまけに雁の主従は男同士であり、その点でも問題
のあろうはずはなく、新たに臥牀を運びいれるより遥かに手軽だった。何より、
わざわざそのための時間を作らずとも毎晩王のすぐそばにいることになるため、
陽子の提案に端を発する今回の目的にはむしろ都合が良い。
「とはいえ、俺の臥牀まで大量の花で飾られても何だがな。その辺は手加減し
てくれ」
 からかうように言った尚隆に、傍らの女官も苦笑いしながら「はい」と応え
た。

639永遠の行方「王と麒麟(233)」:2013/05/10(金) 19:09:55
「ではこちらで準備している間に、先に何人か長楽殿に遣りましょう。それか
ら台輔を輿でお連れいたします。本日中がよろしいでしょうか、それとも占卜
で吉日を占って――」
「そう大仰にすることもあるまい。どうせ帰るついでだ、今、俺が連れて行く」
 尚隆は女官がきょとんとしたのを尻目に臥牀に近づき、手早く衾で六太をく
るむと軽々とかかえあげた。そのまま「行くぞ」と周囲に声をかけてさっさと
歩き出す。我に返った女官らがあわてて身振りで指図しあって分担を決め、数
人が王につき従った。陽子も景麒にうなずいて後に続こうとしたが、黄医に声
をかけられて立ち止まった。
「恐れ入ります。しばらく長楽殿もこちらもばたばたするでしょうし、その間、
先ほどの昏睡状態からの回復例について今少し詳しくご教示いただけましょう
か。蓬莱で行なわれている介護の方法についても教えていただけると参考にな
るのですが」
「いいですよ」
 陽子は快く応じ、傍らの景麒には「延王とご一緒してくれ」と言って送り出
した。何しろ今は六太の使令がいない。房室の外で待っている護衛とともに戻
るとはいえ、万が一のためにも用心するに越したことはなかった。玄英宮にい
る間、陽子には常に景麒の使令がつくことになっていたから、ひとりでいても
彼女の安全には何の心配もない。
 黄医は残っている女官にも「景王からいろいろご助言をいただけることに
なった」と声をかけ、何人か一緒に話を聞くよう促した。陽子はあわただしい
雰囲気になった六太の臥室を出、近くにある落ち着いた小部屋に案内された。
「わたしは医療の専門家ではないため、あくまで伝聞による素人の私見になり
ます。それから先ほど延王や黄医にご紹介した蓬莱における回復例ですが、も
ちろん滅多にあることじゃないでしょう。だからこそ奇跡だと騒がれたのだと
思います」
 最初に陽子はそう断って、彼らが過剰な期待をいだかぬよう釘を刺した。希
望を持つのはいいが、効果がなかった場合の落胆の大きさを思えば確実視され
ても困るのだ。何だかんだ言っても尚隆はその辺の区別を冷静につけられるだ
ろうが、臣下がどうかとなると心もとない。仮に効果が出るとしても、少なく
とも数年はかかると思われればなおさらだ。

640永遠の行方「王と麒麟(234)」:2013/05/10(金) 19:11:59
「心得ております」黄医はうなずいた。「そもそも呪に強制された眠りと、怪
我や病による昏睡とはやはり性質が違いましょう。しかし実際に台輔がお目覚
めになるか否かはさておき、良い影響があるらしいとわかればお世話をするほ
うも安心して取り組めます。意識はなくとも快く感じておられるかもしれない
と思えば張りも出ます」
「わかりました」
 陽子もうなずき、意識が戻らなかったり、肢体が不自由になった患者の介護
に関する話題を懸命に思い起こして話した。女官たちも熱心に聞き、六太のた
めとあって幾度となく質問もし、時にはこれまでの介護方法を実演して陽子の
助言を仰いだ。
 そうやって彼らの相手をしながら、陽子は先ほど六太を抱きあげて歩き去っ
た尚隆の姿を思い浮かべた。所作がきびきびとしていたせいか、どこか気持ち
に張りが出たように見えた。少なくとも気がまぎれたことは間違いなく、これ
で朱衡も少しは安心するだろうかと思う。日頃の後援の礼は、昨日の花見の宴
で同席の三人に既に述べていたのだが、やはり具体的に役に立てたと思えるほ
うが嬉しいものだ。
 午(ひる)になり、長楽殿の尚隆から昼餉の誘いが来たのを機に陽子が立ち
あがると、女官のひとりが「本当に景王には何とお礼を申しあげて良いか」と
しみじみと感謝を述べた。
「最近では官の中にも公然と台輔を見捨てるべきだと放言する不埒な輩がいる
上、このところ主上もあまりお見舞いにいらしてくださいませんでした。でも
景王のおかげで台輔を主上のおそばにお連れすることもできましたし、これで
わたくしどもも少しは溜飲が下がります」
「これ、景王に申しあげることではありませんよ」
 別の女官が朋輩の軽はずみな発言を叱責した。陽子は一瞬だけ迷ったものの
「朱衡さんからお聞きしています」と答えた。
「何でも、延王に延台輔を見捨てるべきだと進言した官がいるとか」
 注意したほうの女官に尋ねると、相手は少々ためらいを見せたのち慎重に答
えた。

641永遠の行方「王と麒麟(235)」:2013/05/10(金) 19:14:02
「確かにおるようです。わたくしどものところまで詳細が聞こえてきたわけで
はありませんが、解呪が難しいと思われる以上、無駄な努力は放棄して政務に
勤(いそ)しむべきだと。それが結局は雁を案じていた台輔に報いることにな
ると」
「そうですか」陽子は少し考えてからこう続けた。「仁重殿の皆さんもいろい
ろ苦労があることでしょう。進言した官も雁のために心を鬼にしたのかもしれ
ない。ただ、延王が延台輔のことを気にかけているのは確かです。皆さんも延
台輔を心配しているでしょうが、あえて言いますと、一番衝撃を受けているの
は延台輔の半身である延王です。ただそういった内心を容易に明かす人ではな
いというだけ。何かと雑音も聞こえてくるでしょうが、延王を信じて引き続き
延台輔のお世話をしてあげてください。物事というものは、何であれ疑おうと
思えばいくらでも疑えます。でも今必要なのは、延王を信じ、どれほど時間が
かかろうと延台輔が目覚めることを信じることだと思います。そのこと自体が
延王を支えることになりますから」
「承知いたしました。お言葉を肝に銘じていっそうの忠勤に励みます」
「申し訳ございません。つまらぬことを申しまして」
 女官たちは礼と詫びとで頭を下げ、陽子も「皆さんが不安に思うのもわかり
ますから」と優しく応じたのだった。

 昼餉の場は尚隆の臥室の近くにある、広く気持ちのよい露台だった。仁重殿
からついてきた女官たちが、長楽殿の尚隆の近習と協力して六太のためにいろ
いろ整えているのが遠目に見えた。
 案内されてきた陽子はそれを一瞥し、促されるまま卓についた。献立は、彼
女のためだろう、蓬莱ふうの料理を取りまぜた繊細かつ美味なものだった。
「身体を動かしているせいか、女官たちも良い気分転換になったようだ」
 果実酒を勧めながら言う尚隆自身、気がまぎれたらしく、今朝より格段に明
るい顔をしていた。陽子はにっこりして杯を受けた。
「何ならわたしが玄英宮にいる間だけでも碧双珠を貸しましょうか? 延麒が
怪我でも病気でもないことはわかっていますが、身につけさせれば良い作用が
あるかも。それに多少は飢えや渇きがやわらぎます」

642永遠の行方「王と麒麟(236)」:2013/05/10(金) 19:16:05
「主上」さすがに景麒が咎める声を出した。彼は主が碧双珠を身体から離すこ
とに良い顔をしない。
「ここにいる間だけだ」陽子はなだめるように言った。「心配ならその間、延
麒におまえの使令をつけておくといい。延麒の護衛にもなる」
「すまぬが、そうしてくれ。呪に対する効果までは期待せぬが、飢えや渇きが
少しでもやわらぐならありがたい。意識がなくとも身体は苦しんでいるかも知
れぬでな」
 尚隆も丁寧に景麒に頼んだ。景麒は逡巡ののち「わかりました」と答えた。
 食事を終えて尚隆の臥室に赴いた彼らは、碧双珠につけた紐を六太の首から
下げた。ちょうど女官たちがひとまず房室のしつらえを終えたところで、三人
はそのまま人払いをして臥室の片隅で椅子に座った。
「冬官の作業で進展と言えるものは本当にないのですか?」陽子が尋ねた。
「正確には判断がつかぬといったところだ。何しろ実際に大当たりを引き当て
るまで、何が解呪条件かわからぬわけだからな。新年に春官府の占人が手がか
りを求めて占卜を行なったが、身のある内容が得られたとは言いがたい。ああ
いうものはたいてい、どうとでも解釈可能だ」
「そうですか……」
「長丁場は覚悟している」
「はい」
 陽子はうなずいた。

 一方、朝議を終えた朱衡は、六太の見舞いに赴いた陽子と主君のやりとりは
どうなったろうと気にしながら、陽子を昼餉に招くために仁重殿に使いをやっ
た。そこで急遽六太を長楽殿、それも尚隆の臥室に移すことになったと聞いて
驚いた。しかも既に尚隆自身が六太を連れていったという。
 そのまま主君は陽子と景麒を昼餉に招く意向との話だったので、自分も食事
を済ませて時間を計ってから長楽殿に赴いた。人払いがなされている最中だっ
たが入室を許され、朱衡はひとりで主君の臥室に向かった。房室に入ると、仁
重殿の六太の臥室がそうだったように牀榻の扉は開け放たれ、帳は巻きあげら
れていた。臥牀の奥では六太が穏やかに眠っているのが見えた。

643永遠の行方「王と麒麟(237)」:2013/05/10(金) 19:18:09
「これはまた、急なことで」
 驚きのまま、拝礼もそこそこに言うと、尚隆が「善は急げというからな」と
笑った。
「蓬莱で意識が戻らず疾医(いしゃ)に見放された病人に対し、伴侶が声をか
けたり手足をさすったりする献身的な看護を続けていたら目覚めた例があるそ
うだ。それを思えば、麒麟は王といると嬉しい生きものゆえ、俺のそばに置い
て俺が声をかけたり手足をさすったりすれば良い効果がもたらされて呪が解け
ぬとも限らぬ。まあ、蓬莱の例はあくまで病の話だし、奇跡とも騒がれた稀有
な例だそうだから安易に期待はできぬが、何もせずに手をこまねいているより
はましだろう」
 朱衡は、なるほどと納得した。そうしてから、これほど好ましい措置もない
だろうことに気づいて、提案したという陽子に感謝した。これで玄英宮で一部
に広がりつつある、王はもう宰輔を見捨てたいのだという見当違いの噂を抑え
ることができようからだ。六太を王の臥室に寝かせること以上に、尚隆の関心
と気遣いを示す行為はない。しかも王みずから運んだとあっては。主君の見舞
いが間遠になっていたことを憂(う)いていた六太の近習にしても、これで力
づけられるに違いない。
 さらに朱衡は、六太の胸元を飾る碧双珠の青い輝きを認めていっそう驚いた。
玄英宮に滞在している間だけとのことだったが、いかに後援である雁を頼りに
しているとはいえ、慶の大事な宝重なのだ。まことに景王は情に厚い人柄だと、
彼は感服した。
 尚隆が言った。
「六太の世話の勝手がわかっているだろうから、六太の近習もこちらに移す。
それ以外はもともと人手が足りぬでなし、正寝の者で何とでもなろう。殿閣の
手入れもあるから、仁重殿を完全に空けるわけにもいかぬしな。六太が目覚め
れば、また戻ることになるのだし」
「冢宰へは」
「先ほど使いをやった。あとのことは白沢が適当に計らうだろう」
 主君の声音には張りがあり、朱衡は安堵した。油断はできないにせよ、気分
が浮上したらしいことは単純に喜ばしい。
(やはり景王においでいただいて良かった)

644永遠の行方「王と麒麟(238)」:2013/05/10(金) 19:20:12
 尚隆がいったい何に滅入っていたのかはわからない。しかし在位年数という
決定的な差があるとはいえ、同じ王という立場にある者との交流は良いほうに
転んだようだった。
 陽子に招待の使いを送ったのと同じ時期に朱衡は帷湍にも個人的に青鳥を送
り、宮城の近況を報せていたが、こちらも感触は悪くなかった。自主的に謹慎
している体の帷湍であり、いくら親しい朱衡からとはいえ、私的なやりとりは
先方も歓迎してはいなかった。しかし困難な状況にあるのは確かだが、だから
こそ地方州がしっかり支えねばならないこと、帷湍が治めるがゆえに多少光州
と連絡をせずとも安心していられることをはっきり伝えると、あちらも気を取
り直したらしい。朱衡への青鳥の返信で、光州は任せろ、こちらはこちらで
しっかり国を支えるときっぱり伝えてきたのだった。何だかんだ言っても、や
はり激励は必要だったのだ。
 朱衡は尚隆とともに、蓬莱における介護の例も陽子から興味深く聞いた。尚
隆が言うように呪に対する効果のほどはわからないとはいえ、六太が少しでも
心地よく過ごせる可能性があることならありがたいことだった。
 尚隆の指示で、陽子と景麒は正寝に房室を用意されて朱衡の私邸から移り、
それからさらに四日滞在した。せっかくの機会ということで、陽子は朱衡以外
の六官とも交流を深め、おしのびで各官府の見学までした。そして日に一度か
二度、必ず六太の見舞いに訪れてくれた。
「次はぜひ延麒の快気祝いに駆けつけたいですね」
 最後の日、朱衡が約束の贈りものを運ばせるためにつけた騎獣や従者ととも
に帰国の準備をしながら、陽子はにこやかに言った。明るい表情で確信をこめ
て言われると、それだけで勇気づけられる思いだった。
 贈りものについては話を聞いた尚隆が色をつけてくれたのだが、十数頭もの
大柄な騎獣に分けて積載された高価な品や金貨の山に彼もさすがに驚いたらし
い。朱衡を一瞥して「大盤振る舞いだな」と苦笑していた。
「拙官もそのように願っております」
「ではまた」
「道中、お気をつけて」
 朱衡は深々と拝礼し、主君や冢宰、他の六官とともに隣国の王と麒麟の出立
を見送った。

645書き手:2013/05/10(金) 19:22:15
慶サイド(陽子)の登場はたぶん、全編を通して今回でおしまい。
仮に出てくるとしてもイレギュラーです。

次回は再び、ぐるぐる尚隆で、六太が目覚めるまであと少しかかります。
とはいえ陽子訪問がこの章のひとつの区切りだったので、
終わりも何となーく見えてきました。
地の文でさらりとすませるか、実際にシーンを描写するかにもよりますが、
あと数回の投下でけりがつくんじゃないかと。


ところで今、完全版(新装版)の『東の海神 西の滄海』を読んでいるんですが、
蓬莱において六太が尚隆を呼ぶ場面で、「なおたか」とルビのある箇所はなさそうですねぇ。
それどころか地の文とはいえ、六太視点で「しょうりゅう」というルビが出てきちゃってる。
完全版はやたらとルビが振られており、「もしかして?」とちょっと期待しただけに残念。

646名無しさん:2013/05/12(日) 22:31:56
乙ですー
尚隆の追い詰められていっぱいいっぱいな感じが新鮮で素敵ですなw

647名無しさん:2013/05/14(火) 01:04:34
陽子ありがとう!という気持ちになりますなぁ。

新装版はまだきちんと読めてないけど
なおたかはないっぽい気がする。

648永遠の行方「王と麒麟(239)」:2013/05/24(金) 22:35:52

 陽子と景麒が去って、玄英宮に日常が戻った。尚隆の目には不思議に色褪
せて見える、自分と六太の周囲だけ時が凍結しているような日常が。
 突然の陽子の訪問には驚いたが、朱衡が私財を投じて招待したことを知って
さらに驚いた。どうやらそれによって主君の気を紛らわせようとしたらしく、
そこまで真剣に心配されていたのかと苦笑した。確かに我ながら気分が滅入っ
ているのは自覚していたし、それでいてさほど言動を取り繕ってはいなかった
から、長年の側近である朱衡が懸念したのは当然ではあった。
 内心で、さてさて悪いことをした、と茶化すように考えながらも、六太を唯
一の蓬莱の形見と悟ったあとでは、やはり完全な平常心は取り戻せなかった。
このまま六太を失うようなことがあれば、きっと自分は心の拠りどころを失う、
そんな予感がした。
 近臣の中には、主君の気持ちを推して慮っている者もいよう。だが、二度と
帰れない異世界を故郷に持つ者の気持ちは、おそらく実際に経験した者にしか
真に理解はできまい。
 むろんこの世界にも故郷を失った者は大勢いる。特に遥か昔に昇仙した古株
の官は、生まれ育った里そのものがなくなっている場合さえある。だがそれで
も彼らには、里や国は違えど、同じ理(ことわり)に支配され、同じ時代の空
気を吸っていた同胞(はらから)がこの世界に大勢いるのだ。
 六太でさえ、親に捨てられたという悲運はさておき、今では蓬莱にさほど執
着していないかもしれない。特に彼はあちらと自由に行き来できたのだから、
そのぶん執着心が薄くても当然だろう。だが蓬莱ゆえに半身にこだわっている
のは尚隆のほうだけだったとしても、彼にとって六太がかけがえのない存在で
あることに変わりはなかった。

 六太の近習は日中は六太の世話をし、夜は尚隆に任せて臥室をさがる。通常
の不寝番は隣室で、護衛は扉の外で常に控えているため、特に問題はなかろう
と、夜間は詰めておらずとも良いと尚隆が言い渡したからだ。実際、昏々と
眠っているだけの六太だから、寝所を移してからこれまでの数日で不都合なこ
とは何も起きていない。

649永遠の行方「王と麒麟(240)」:2013/05/24(金) 22:37:55
「それでは主上、台輔。お休みなさいませ」
 その夜も一礼して退出する女官らを笑顔で見送ってから、尚隆は牀榻の帳を
開けた。臥牀の奥では六太が横たわっていたが、日に何度かそうなるように、
今もうっすらと目を開けて放心した風情を見せていた。
 臥牀の上、すぐ傍らであぐらをかいた尚隆は、そんな六太をぼんやり見おろ
した。
 不思議だな、と切ない気持ちでつくづく思う。麒麟は必ず王の近くに侍るも
の。その心も、景麒が言ったように好悪の別はさておき、常に王とともにある
と言えるだろう。たとえば乱心した王が麒麟を遠ざけることはあっても、麒麟
が自分の意志で王から離れることは決してない。だから六太も傍らにいて当然
だと思ってきた。もしも心が遠く離れるなら、王である自分のほうだろうと。
 だが現実には今、身体はあるものの六太の心はここにない。夢も見ない眠り
に囚われたままなのだから完全な空白であり、王に対する関心すらないわけだ。
尚隆はこうしてそばにいて彼を気にかけているというのに。
「陽子と景麒は慶に帰ったぞ。おまえが目覚めたら、くれぐれもよろしく伝え
てくれと言っていた」
 静かに話しかける。王がそばにいて声をかけることで、少しは良い影響があ
るだろうかと考えながら。それから不意に口の端に笑みを浮かべ、からかうよ
うな声を投げた。
「おまえ、陽子に接吻されたのだぞ。わかっておるか?」
 だがそのからかいにも淋しげな色は禁じえない。
 陽子が眠り姫の話題を出したとき、もしや、と彼は期待した。六太の懸想の
相手が彼女であるなら、陽子に接吻されれば目が覚めるのでは、と。
 六太が恋の成就を望み、それが最大の願いだった可能性は高い。ならば呪者
は皮肉を込めてその意を汲み、相手の女性との何らかの接触を解呪条件にした
に違いない。しかしながら神獣であり性的に幼いと思われる六太と、普通の男
のような生々しい欲望は結びつかない。ならば――。
 ところが実際には解呪は果たせず、落胆した尚隆は、ごくごくわずかな時間
の間に自分がいかに激しい希望をいだいたのか思い知った。

650永遠の行方「王と麒麟(241)」:2013/05/24(金) 22:39:59
 しかし他国の王にこれ以上のことは望めない。望んでいいことではない。ど
んなに滅入ろうと、それがわからないほど道理を見失ってなどいない。余裕の
ない国の国主が、大量の贈りもので乞われたとはいえはるばる雁にやって来て、
他国の麒麟に接吻までしてくれた。それでもう十分だ。
 遠くに思いをはせるようにふと牀榻の天井を仰いだ尚隆は、彼にあえて厳し
く接した陽子の言動を思い浮かべた。なんだかんだ言っても実際のところは、
別段、それを不快に感じたわけではない。尚隆を力づけようとしているのはわ
かっていたし、むしろ若さゆえの大胆な言動に、かつての泰麒捜索の折、玉座
などいらないと臣下の前で言い放ったときの浅慮をなつかしく思い出しさえし
た。
 彼女は若い。若すぎてまだまだ自分の感情を抑えることができない。しかし、
だからこそ成せることもある。それに以前は言動の影響を慮るところまでいか
ないことも多かったが、さすがに今回はそれなりの予測をもって行動したのだ
ろう。
 六太に視線を戻した尚隆は、彼女と文をやり取りしていた六太の言を思い出
した。
 六太は、陽子にはあまり先行きが暗くなりそうな話題を振らないように配慮
していると軽口で言ったものだ。既に五百年以上を生きている自分たちとは違
う、老爺の繰り言は若い心にはそぐわない、と。
 確かに蓬莱の稀有な回復例を引き合いに出しての励ましなど、生きることに
倦んだ者にはとても思いつかないだろう。あれはどんな低い可能性にも希望を
失わない、生命力に満ちたまっすぐな心ゆえに口にできた言葉だった。おまけ
にまだまだ彼女はこの世界の理に通じたとは言えず、天帝の思惑よりも自分の
信念のほうを無意識に信じている。
 ならば、この際それに賭けてみてもいいだろう。
 もちろん陽子の提案に過剰な期待をいだいたわけではない。この世界は蓬莱
とは違う理に支配されている。あらためて考えるまでもなく、しっかり施され
た呪が解呪条件以外に解ける可能性はほとんどないと思われた。
 ただ、もしかしたら、ということはある。ほんの毛筋ほどでも可能性がある
ならば、諦める前にあがいてみるのもいい。

651永遠の行方「王と麒麟(242)」:2013/05/24(金) 22:42:03
 それに尚隆は天意を享(う)けた王だ。国内の状況から言っても、各種占卜
に凶兆が現われていないことを鑑みても、決して天命を失ったわけではない。
ならば天運は王に味方するはずだ。
 そう考えるのは別に彼が天帝を信じているからではない。少なくとも尚隆に
は天帝に対する「信頼」や「信仰」といった情緒的な感情はなかった。ただ経
験則から導きだした論理的な考えから、創造神に類する存在の確信があっただ
け。だからこそ天命を享けた王の運の強さを含め、この世界が天意を反映する
ように作られていることを納得して、ある意味では突き放すような冷静さで受
け入れてきた。条理の大いに異なる別世界からやってきただけに、いったん作
為の存在を得心すれば、世界の成り立ちをも含めた全体を俯瞰する視点に立っ
て割り切りやすかったのかもしれない。
 それゆえ、これまで謀反が起きたときの大胆な対処法も、天運を味方にして
いる王としてのおのれは必ず念頭に置いていた。もし天が尚隆にまだ雁を治め
てもらいたいと考えているなら、この危機も乗り越えられるだろう――尚隆自
身が諦めさえしなければ。
 問題はそこだった。
 六太が唯一の蓬莱の形見だと自覚し、なのに彼に見捨てられて一時的に憤り
に似た絶望に駆られはした。それはある意味では感情のほとばしりであり、負
の方向にとはいえ生の躍動感の発露でもあった。
 ところが今はそうではない。尚隆は不思議と覇気を失ってしまった自分を明
確に自覚している。食事をして初めて空腹だったことを自覚するように、立ち
止まって初めて歩き疲れていたことを自覚するように、ふと歩みを止めて進ん
できた道を振り返ってしまった尚隆は、これまで感じなかった疲労を、再び同
じように歩き出すには億劫だと思うような倦怠感を覚えてしまったのだった。
 おそらく、とどこか物憂い気分の中でも冷静に分析する。治世の最初の数十
年のようにやることが山積みで、国そのものも貧しかったらここまで迷いに捉
われはしなかったろう。そんなことに意識を割かれるほどの余裕はないからだ。
たぶん六太の望みどおり、彼を捨て置いても国政に力をそそいだに違いない。
余裕ができるのは喜ばしいことだが、暇がありすぎると得てして余計なことを
考えてしまうという見本かもしれない。

652永遠の行方「王と麒麟(243)」:2013/05/24(金) 22:44:07
 そもそも最初の百年で雁の全土はいちおうの復興を遂げた。続く百年で安定
した発展を続けてきた。つまり国を平和に豊かに治めるという目標は何百年も
前に達成できているのだ。進むべき段階的かつ具体的な目標と、最終目標に対
する未来像を描けているうちは気が張っているからいい。だが実際にそこに到
達してそれなりの達成感を得たあとは、ただ後戻りしないよう、少しずつでも
歩み続けるだけのゆるやかな現状維持だ。そこにもはや大局的な目標はない。
 人間というものは贅沢や便利さにすぐ慣れてしまうものだ。その上いったん
慣れると、少しでも後戻りすると不満を感じてしまう厄介な性質があるのだか
ら、国の安寧を保つためには決して立ち止まるわけにはいかなかった。だがだ
からといって既にどこへ行けるというものでもない。
 ふと尚隆は、自分はどうしたいのだろうかと考えた。ただ前に進むだけの、
永遠に続く重責の連続をこれからも続けるのか――たったひとりで。
 何を達成しても、傍らで共に喜ぶ者がいなければ張り合いはない。そしてそ
れは尚隆が意のままに罷免でき、いくらでも余人に代えられる官では物足りな
かった。
 むろん麒麟も王の臣下だが、王の選定という役目を負った神獣で、王の生命
も握っている特殊な立場にある。それゆえに玉座の象徴とされ、王の半身と呼
ばれる。いわば共同で王位を守っているようなものだ。主従ではあり、本気の
勅命を拒否することはできないとはいえ、王に対して真に強い態度を取れる唯
一の存在だった。
 だからこそ、このままむざむざと六太を失うことを認めてはだめだ、とは思
う。きっと天命ある王の終焉は、王自身が諦めるか否かにかかっている。諦め
さえしなければ、どんな困難も克服できるのではないか。たとえ間一髪で命を
失うような危険の連続にさらされてさえ。この世界に連れてこられた陽子の過
酷な放浪の旅 がそうだったように。
 そもそも尚隆はこれまで何事も諦めたことはなかった。暗い滅亡の誘惑に駆
られてさえ、その動機はどうあれずっと前を見据えていた。しかしいったん立
ち止まって足跡を振り返ってしまうと、既に目標を達成してしまっただけに、
これまで感じなかった疲労による誘惑は甘美だった。そろそろ荷を降ろして休
んでもいいのではないか、という魔のささやきは甘露のごとく甘く優しい。

653永遠の行方「王と麒麟(244)」:2013/05/24(金) 22:46:10
 何しろこの世界の王に老衰による自然死はない。天命を失っていないならな
おさら、禅譲にしろ弑逆にしろ、どこかの時点で王なり臣下なりが決断するし
か王朝の終焉はありえない。
 その上、彼は永遠など信じていなかった。武士は散り際が肝心だ。むろん王
の心構えとしては永遠を目指すべきだろうが、同時に終焉のことも想定してお
かねばならない。見たくないものを見ない、考えたくないことを考えないとい
うのは、市井の民なら許されるかもしれないが、王たる者の精神ではない。
 だが六太のことが原因で尚隆が王の位を退くことは、きっと六太を裏切るこ
とだ。たとえ愛する女性のために呪者に屈したのだとしても、尚隆がいれば国
の安寧は保たれると信じればこそ、覚めない眠りを受け入れたのだろうから。
 なのにこんなふうに惑っている主君を見たら、六太はいったい何と言うだろ
う。「なに、柄にもなく深刻に考えこんでんだよ」と呆れるだろうか。
「深刻にもなろう。半身に見捨てられたとなれば」
 ふと苦笑まじりにつぶやいたものの、六太は時に凍結されたように静謐をま
とったまま、実際に声が届くはずもない。しかし尚隆は脳裏で彼がわざとらし
く顔をしかめたのを感じた。
(ひねてんなー。見捨てるも何も、いつも俺を無視して勝手にやるくせに)
 確かに、と続けて苦笑する。万事に見通しの甘い六太の諫言や進言を聞き入
れたことは一度もないのだから。
(じじいになると繰り言が増えるんだよなぁ。やだねー、愚痴っぽくて)
 幻の六太は呆れたように肩をすくめている。尚隆は手を伸ばして、眠る六太
の頬をなでた。
 今にも起きあがって、幻聴ではなく本当に以前のような憎まれ口をたたかな
いだろうか、と夢想する。しかし現実にはただ横たわっているだけ。
 尚隆は六太が、王には何も悪影響がないことを呪者にしつこく確認したとい
う鳴賢の言を思い出した。王がいなければ国が荒れるのはすぐだから、と説明
したという。おそらく尚隆が王でなければ、この少年にとって何の価値もない
のだ。

654永遠の行方「王と麒麟(245)」:2013/05/24(金) 22:48:14
 だがそれは当たり前だ。六太は麒麟だ。麒麟が王を求めるのは本能であり、
それ以上の意味を求めるものでもない。おそらくは麒麟でなければ、尚隆の存
在に意識を向けることさえなかったに違いない。
 それでも少しは王としてではなく、個人としての小松尚隆を気にかけたのだ
と思えたらどんなにいいだろう。五百年もの間、苦楽をともにし――少なくと
も同じ時代の蓬莱に生まれ、同じ時を過ごし、ここまで来た。彼を玉座に据え
た当人とはいえ、いや、だからこそ、六太にとって尚隆が王でなければ一片の
価値もない存在だとは思いたくなかった。
 だが真実を知ることは尚隆には永遠にできない。彼が王でなくなるのは死ん
だあとなのだから。何より、ふたりは出会ったときから王と麒麟でしかなかっ
た。
 ――そう、王と麒麟だからこそ出会った。
 半身の顔を眺めながらそんなことをつらつらと考えていた尚隆は、徐々に心
の中に何かがしみいるのを感じていた。
 たとえ六太が陽子に懸想をしていようと、尚隆には天に強いられた忠義しか
なかろうと、そのこと自体は大した問題ではないのかもしれない……。
 ――なぜなら。
 なぜなら彼らは最初から王と麒麟だったのだから。だからこその出会いだっ
た。でなければ尚隆はあの瀬戸内の海で討ち死にしていたはずだし、そもそも
六太はそのずっと前に飢えて死んでいたのだろう。
 王と麒麟だからこそ出会った。そこへ、もし王でなかったら麒麟でなかった
らと仮定することは意味がない。
 ならば。
 それこそが自分たちの絆だ。王と麒麟であること、それ自体が。
 陽子に対するようなこまやかな気遣いを示されずとも、個人としての尚隆に
など六太がいっさい関心を寄せていなかったとしても。尚隆との間にも余人と
の関係に代えられない培ってきたものはあるはずなのだ。
 ――ならば。
 ならば王としてできるだけ長く六太の前にあること。それができれば。
 尚隆は拳を握りしめた。その目に一瞬、強い光が蘇る。
 このまま諦めてしまうことはできなかった。

655書き手:2013/06/03(月) 19:25:00
また海客などのオリキャラが多少関わってしまうこともあり、
ちまちま小出しにするのではなく、
この章の終わりまで書き上げてから一気に投下したいと思います。
そのためしばらく……というか、おそらく今度はかなり間が開きます。

尚六的承&転となる次章に突入してしまえば、
宮城における尚隆と六太のやりとりが主体になるため、
少なくとも下界のオリキャラはほとんど出ないんですけど。

656名無しさん:2013/08/19(月) 21:01:31
この作品に会えてよかった(*´∀`)

657名無しさん:2013/08/23(金) 10:45:28
応援してます

658書き手:2013/10/27(日) 20:43:56
章の終わりまで書いて一気に投下、と予告しましたが、
しばらく二次創作から離れていたので全く進んでいません(汗)。
と言っても十二国記から離れていたわけじゃないんですが。

当初は書き溜めていた部分も含めて推敲するつもりでそう予告したんですが、
時間が経って、別にこのままでもいいかぁと思ってしまったので少しだけ落とします。
ただ本格的に続きを投下するのはまだ先になります。

659永遠の行方「王と麒麟(246)」:2013/10/27(日) 20:46:01

 陽子のおかげで気晴らしができたためだろう、主君の様子はかなり改善され
たように見えた。一時のどこか苛立ったような気配は鳴りをひそめ、逆に人当
たりが柔らかくなりさえした。そして近習に様子を聞いても、朱衡自身の目か
ら見ても、かなり丁寧に六太の世話をしていた。
 にぎやかなほうが良かろうと、女官を含めた大勢でいろいろな噂話をしなが
ら六太にも普通に声をかけ、彼も話に混ざっているかのように振る舞う。何も
ないときは六太の眠る臥室に留まり、みずから優しくも根気よく手足をさすっ
たり関節を動かしたり寝返りを打たせたりし、その間も宮城でのできごとを話
して聞かせる。毎日の着替えでさえ、女官の手を借りながらも尚隆自身がやっ
ていた。朱衡や他の六官が見舞えば彼らにも談笑に加わるよう促すので、主君
の臥室は、開放的で活気がありながらなごやかな場所になった。
 本来なら昇殿できない官位の下官らも大勢招こうとしたため、さすがに警備
上まずいと官が進言し、代わりに外殿の一室に場所を設けて六太を連れだして
は、六太と親しかった下官たちを見舞わせて近況報告がてら談笑させるように
もした。仁重殿にいたときほど花は飾られていないが、それでも臥室を訪れる
人々の目を楽しませる程度には飾りつけがなされ、趣味の良い香が焚かれ、毎
日三度、時間を決めて楽人による演奏が行なわれた。水や果汁を飲ませるのも
女官まかせにすることなく、政務を中断して戻ってきてまで、かならず尚隆が
口移しで飲ませた。
「どうせなら関弓の街にも連れていって、六太の親しかった者たちと会わせて
やりたいものだがな」
 尚隆はそう言ったものの、使令がいない今、万が一を思えばさすがに無理と
いうものだろう。足を伸ばすのを許容できるのはせいぜい国府どまりと思われ
た。
 そうこうしているうちに尚隆は、下界に行く代わりにいくつかの凌雲山にあ
る離宮に六太を連れていくと言いだした。ずっと宮城にいては六太もつまらな
いだろう、場所を変えれば気分転換にもなる、と。少しでも六太が喜びそうな
ことは片っ端から試すつもりらしい。
「せっかくだ、おまえたちもつきあえ」

660永遠の行方「王と麒麟(247)」:2013/10/27(日) 20:48:05
 主君はそう笑い、政務の合い間に近習はもちろん六官の誰かを代わる代わる
同道しては離宮に赴き、そのまま二、三日逗留するのを繰り返した。離宮とて
基本的な造りは宮城と似通っているが、それぞれに特色はあるため、もしかし
たら本当に六太も微妙な空気の違いを捉えて喜んでいるかもしれなかった。
 陽子が尚隆や近習に行なった助言は、女官らの口を介して自然と広まってい
たから、宮城の誰もが王の意図を理解して協力した。特に下官は仙境蓬莱に由
来するとあって件の助言を確実視し、近日中に六太の目が覚めるに違いないと
思いこんだ者も多かった。
 むろん六太の身近にいる者たちはそこまで楽観してはいない。冬官たちも引
き続き解呪条件を突きとめるための努力を懸命に続けている。それでもこれま
での一年と異なる方向性での奮闘は気持ちを一新したし、ひんぱんに離宮に赴
くことは気晴らしにもなり、何かと滅入りがちだった六太の近習たちの慰安に
もなった。それは尚隆も同じだったに違いない。
 とはいえ主君の様子にずっと気を配っていた朱衡は、完全に不安をぬぐえた
わけではなかった。何しろ神仙である尚隆は、仮にどれほど生活が乱れ気持ち
が荒れても簡単にやつれることがない。だから一見すると面立ちは何も変わら
ないように思えるのだが、ずっと仕えてきた身からすると、どこか疲労の色が
窺えたし、何より表情に翳りがあった。それに妙に精力的なのも逆に気がかり
だった。こういうことは忙しくしている間はいいが、ふと気がゆるんだときが
怖いのだ。
 それでも朱衡は陽子の励ましを信じ、どれほど時間がかかろうと六太は必ず
目覚めるとの希望を胸に、主君の前では決して迷いを見せないよう気をつけた。
一方、白沢はともかく他の六官は早々に安堵したようで、朱衡などよりずっと
朗らかだった。
 尚隆が政務で不在の間、女官たちは六太を椅子に座らせ、彼が喜びそうな楽
しい物語を朗読して聞かせたりした。彼女らは市井に赴いてまでさまざまな物
語の写本を買い求めたが、尚隆にも、もし海客の書いた物語が他にもあれば、
ぜひ取り寄せてほしいと頼んだ。
「確かに六太は聞きたがるだろうな」

661永遠の行方「王と麒麟(248)」:2013/10/27(日) 20:52:13
 そのとき臥牀に寝かせた六太の枕元に腰をおろしていた尚隆は要望を聞き入
れ、鳴賢を通じて海客に頼んでみることを約束した。ついで日課となっている
楽人たちの美しくも荘厳な演奏がなされ、さらに女官たちが優しい声で柔らか
く合唱したあと、尚隆はどうせなら海客の音楽も聞かせてやろうと言いだした。
「海客の音楽、ですか?」
「そうだ」
「あれはかなり騒々しいとの話ですが……」
 果たして六太の身体に良いものやらわからぬと不安そうにした女官に尚隆は
苦笑した。
「だが六太は好んでいたそうだぞ。むろんおまえたちの歌声は美しく耳に心地
よいが、にぎやかで騒々しい歌や楽曲もたまには良かろう。特に海客のみなら
ず関弓の民と一緒に大勢で歌うときは楽しそうだったと聞くしな」
「しかし、不用意に台輔を下界にお連れするわけには」
 その場にいた朱衡もそう言って懸念を示した。民の前に出すならどうあって
も金の髪は隠さなくてはならないが、眠ったままの六太の頭を布で巻くのは不
自然ではなかろうか。
 尚隆は少し考え、六太は事故で頭を打ったことにしようと言った。
「頭を怪我したことにして保護のための布をぐるぐる巻き、一筋か二筋、薄い
茶色のかもじを垂らしておけば誤魔化せよう。こいつは市井に出るとき、よく
眉に薄茶色の眉墨をなすりつけていたから、出会った者たちは何となく茶色の
髪だと思っているはずだしな。そして天幕なり何なりで囲った場所を片隅に
作ってもらい、人目に触れぬよう、そこでこっそり歌や楽曲を聞かせてもらえ
ばよい。そもそも海客の団欒所は国府にある。街中に出すよりは相当に安全だ
ろうよ」
「では念のため、拙官もご一緒させていただいてよろしいでしょうか」
「おまえが?」尚隆はおどけたように眉を上げた。「海客の音楽は好みではな
いのではなかったのか」
「それも経験というものです。そろそろ拙官も新しい経験をいたしたく存じま
す」

662永遠の行方「王と麒麟(249)」:2013/10/27(日) 22:54:35
「なるほど」おかしそうに笑った尚隆は、傍らの六太に手を伸ばして頭をなで
ながら優しく話しかけた。「朱衡はそろそろ新しい経験をしたいそうだ。慣れ
ぬことをして頭痛がせねば良いが」
 その声音と所作には紛うことなき慈愛がこめられ、朱衡はとっさに言葉を続
けられずに数瞬、間が空いた。それから取り繕うように微苦笑してみせ、言葉
を継いだ。
「たまには頭痛がするようなことをするのも新鮮でいいものです。主上こそ、
聞きなれぬ楽曲に頭を痛めることのなきよう。台輔に笑われてしまいますよ」
「なに、日頃から何かとおまえたちに笑われているゆえ、今さらこれに笑われ
たとて別にこたえんな」
 そう言って穏やかに笑った主君の目も声もやはり優しかった。

 数ヶ月ぶりに大学寮に風漢が訪ねてきたとき、彼が「おう」とにこやかに手
を上げたので鳴賢はとっさに期待してしまった。
「もしかして呪が解けたのか?」
 房間に招きいれて扉を閉めるなり、急(せ)きこんで尋ねる。だが相手は笑
顔のまま首を振った。
「いや、まだだ」
「そ、そう、か……」
 ふくらんだ希望を一瞬のうちに打ち砕かれ、鳴賢は落胆のままに肩を落とし
て大きく息を吐いた。風漢の声音や物腰が今までよりずっと柔らかく感じられ
たため、てっきり事件が解決したのかと思ったのだ。適当に座ってくれ、と
言って、自分も椅子にかける。
「じゃあ、また俺に聞き取りでも?」
「いや、今日はちと頼みたいことがあって来た」
「俺に?」
「六太に読み聞かせたいので、海客が書き記した物語があれば、以前のように
手に入れて送ってほしいのだ。それと海客の音楽も聴かせたい。おまえは団欒
所の海客と面識があるゆえ、その旨を仲介してはくれまいか」
「えっ……」しばし絶句したのち、鳴賢は慎重に尋ねた。「それって……彼ら
を宮城に招くってこと、か?」

663永遠の行方「王と麒麟(250)」:2013/10/27(日) 22:56:39
 六太の身分を知られたらまずいだろうに、と懸念もあらわな彼に、風漢は
「いや」と笑いながら首を振った。
「いつもやっているように、団欒所で演奏なり合唱なりしてくれればよい。そ
れもできれば関弓の民も呼んでにぎやかにやるほうが良いな。陰で六太に聞か
せるゆえ、盛大なほど六太も喜ぶだろう」
「いや、その、だって。そもそも何だってそんなことを」
「実はな」
 風漢の説明は驚くべきものだった。先日、景王がわざわざ玄英宮を訪問し、
解呪条件を突きとめられずとも呪が解ける可能性があると力説したのだという。
いわく、蓬莱で怪我や疾病のため昏睡に陥り、二度と目覚めぬと思われた人々
が地道な看護で意識を回復した奇跡の例がある、ならば六太の場合も触覚や聴
覚に刺激を与え続ければ似たような効果が望めるかもしれない、と。特に親し
い間柄の人間による親身な看護、ひんぱんに声をかけたり好きだった音楽を聞
かせること等々が好ましいらしい。
 病と呪とでは条件が違うが、症状自体はよく似ているわけで、もしかしたら、
ということはある。それで王に一任されたのだと風漢は語った。
「むろん安易に期待はできぬ。できぬが、害のないことならやっても損はある
まい?」
「それもそうか……」
 はたから見てどれほど可能性が低いように思えても、手立てを尽くすという
意味では何であれやってみる価値はあった。
「でも、六太は養い親に連れられて余州に行ったってことになってるんだけど」
「六太は事故で頭を打ち、それ以来昏睡が続いていることにする。養い親は良
い瘍医にかからせるために首都関弓に戻りたかったが、勝手に任地を離れるわ
けにはいかぬとあって迷ったあげく、俺に頼んで六太だけ関弓に戻した。そこ
でこの手の症状に詳しい瘍医に、好きだった音楽を聞かせると効果のあった患
者がいると助言されたことにするのだ」
 既に基本的な設定は考えてきたのだろう、風漢の説明は淀みなかった。意表
を突かれて瞬いた鳴賢だが、少し考えただけでうなずいた。
「なる……。それなら矛盾はないか……」

664名無しさん:2013/11/04(月) 22:32:09
一気に読んでしまいました
めっちゃオモローです…!

665名無しさん:2013/11/14(木) 05:39:44
再読だけでも3日はかかりました。ああ、まだまだ何年も読んでいたい。
どの章も面白いです!

666永遠の行方「王と麒麟(251)」:2013/11/21(木) 22:51:02
「六太は俺が連れてくるが、頭を怪我したということで布をぐるぐるに巻いた
上で、隙間から薄茶色のかもじを覗かせて髪の色を誤魔化す。だが大勢が集ま
るとなると何が起きるかわからぬゆえ、念のために団欒所の片隅に天幕なり何
なりで囲った一角を設けてもらいたい。そこでなるべく人目に触れぬようにし
て歌や曲を聞かせるのだ。頼まれてくれるか」
「わかった」鳴賢はいったん了解したものの、すぐに不安な声になった。「け
ど、そう簡単にはいかないかもしれない。何しろ楽器を弾ける海客って、今は
守真と恂生だけなんだよ。悠子という娘は楽器を弾けないって聞いたことがあ
るし、もうひとり華期って男がいるんだけど、国府に勤めてて忙しいらしくて
全然顔を出さないから俺も会ったことがない。さすがにふたりだけじゃ難しい
んじゃないかな。関弓の民も呼ぶなら、彼らの相手をする人も必要だろうから」
「華期?」眉根を寄せた風漢は、すぐに、ああ、とうなずいた。「それならば
心配はいらぬ。忙しくとも開放日には顔を出すよう、俺が頼んでみよう」
「あ、そうか。あんたも海客だったんだよな。もともと知り合いか。でもそれ
なら、あんたが直接守真に頼んだほうが話が円滑なんじゃないか?」
「いや……。実を言うと俺はその女人と面識はないのだ」
「え、そうなのか?」
「最初から団欒所に行かぬ海客も少なからずいる」
「それでも華期とは知り合い?」
「国府で働いている者同士、まあ、いろいろとな」
「そうか。なるほど」
「それより関弓の民の相手をするなら、ほれ、楽俊の母親がいたろう。人形劇
も見にきて楽しんだ上、世話好きでいろいろ手伝ってもくれたそうではないか。
今度も頼めば引き受けてくれるのではないか」
「ああ、いい考えだ。さっそく明日にでも話してみるよ」
 楽俊によると母親も六太の身分も知っているということだし、その意味でも
安心だ。いろいろ気を配ってもくれるに違いない。
「文張は今頃きっと仕事で忙しいだろうな。とっとと卒業しちまいやがって」
鳴賢は明るい顔で毒づいてみせた。「じゃあ、団欒所のほうは今度の開放日に
訪ねていって、守真に頼んでみる」

667永遠の行方「王と麒麟(252)」:2013/11/21(木) 22:53:06
「うむ。よろしく頼む」
 必要に応じてそれらしい設定を即興で作ってかまわないとも言われたが、念
のためにその場でいろいろ擦りあわせをした。そのまま、何度かそうしたよう
に一緒に飲み食いでもしにいくかと思えば、風漢は開放日後の再訪を約束して
すぐに辞去した。聞けば 女官と一緒に六太の世話をする役もおおせつかった
ため、空いた時間はすべて六太の側にいるのだという。何度も聴取にやってき
たことといい、意外と職務熱心で面倒見のいい男だったんだな、と鳴賢は感心
した。
 翌朝、鳴賢は遅い朝餉を摂りに飯堂に行った際、こっそり楽俊の母親を呼ん
で計画を伝えた。ちょうど忙しい時間帯が一段落したところで、人の好い彼女
は真剣に耳を傾けてくれ、予想通り、ぜひ協力したい、詳しいことが決まれば
教えてほしいと言ってくれた。それから開放日までの間、鳴賢は頭の中で何度
も守真との想定問答を繰り返した。
 当日、実際に団欒所に赴くと、とっくに敬之が顔を出しており、ここに備え
つけられている簡単な言葉の対応表を広げて、片言の会話を混ぜた筆談を悠子
としているのを目にした。彼とはこの数ヶ月、何度か団欒所でも顔を合わせて
いたから、特に予想していないわけでもなかったが、今では悠子も片言で応じ
ているらしく、時折楽しそうな笑い声さえ聞けるようになった。敬之当人は蓬
莱の言葉に興味があって教えてもらっていると言い訳していたが、悠子を気に
かけているのは明らかだった。考えてみれば阿紫もそっけない娘だったし、年
頃も似通っている。意外とああいうのが好みなのかもしれない。いずれにせよ、
失恋の痛手を癒せたのなら喜ばしいことだった。
 鳴賢は談笑の輪の中にいた守真を見つけ、内々に相談したいことがあると耳
打ちした。いつになく真剣な様子に感じるものがあったのだろう、気を利かせ
た彼女は鳴賢を手招きし、隣の誰もいない小部屋へ連れていった。物置のよう
なそこで向かい合って座り、ためらいながら六太が頭を怪我して昏睡状態が続
いていることを告げると、いつもにこやかな守真も絶句してしばらく呆然とし
ていた。
「あ、命には別状ないんです。ほら、六太は仙籍に入ってるから、ちょっとぐ
らい飲まず食わずでも影響ないし」

668永遠の行方「王と麒麟(253)」:2013/11/21(木) 22:55:10
 安心させるように言うと、守真は幾度も目を瞬き、それからようやくのこと
でかすかにうなずいた。蓬莱に子を残してきた彼女は、赤の他人であっても子
供の災難に同情しやすいのかもしれない。
「養い親は手を尽くしたんだけど、やっぱり地方じゃいい瘍医がいないらしく
て。それで知り合いの風漢って男が世話を頼まれて、最近になって六太だけ関
弓に戻ってきたんです。そうしたら風漢の伝手で診てもらった瘍医に、地道に
手足をさすったり話しかけたりすると回復することがあるとか、好きな音楽を
聞かせたら反応を見せた患者もいるといった話を教えられたそうです。風漢は
小間使いを何人か雇って、ひんぱんに話しかけたり楽器を弾かせたりして六太
の世話をさせることにしたけど、俺が六太は海客の歌や曲も好きだって教えた
ものだから、ぜひ聞かせたいって乗り気になって。もっとも今、楽器を弾ける
のは守真さんと恂生だけだけど、それを言ったら、国府に勤めている官同士、
風漢は華期さんを知ってるから、何なら忙しい華期さんにも開放日ぐらいはこ
ちらに来てもらえるよう頼んでみると言ってました」
 さらに、できれば関弓の民も呼んで大勢でにぎやかにやってもらいたいこと、
かと言って六太を好奇の目にさらすのは本意でないため、堂室の一角を天幕な
どで囲って人目に触れない場所を作り、そこに運び入れたいとも伝えた。人手
が足りないが、話を聞いた楽俊の母親がぜひ手伝いたいと申し出てくれている
ことも。
 黙って話を聞いていた守真は、やがて得心したのだろう、気を取り直したら
しく大きくうなずいた。
「そうだったの……。大変だったのね」
「ちょっと聞いたところじゃ、六太は他の官吏の子弟と遊んでいてどこか高い
ところから落ちたらしいです。怪我自体は大したことなくてほっとしたはいい
けど、打ちどころが悪かったのか、それ以来、目が覚めなくて」
「まあ」
 顔を歪めた守真は口に手を当て、心の底から気の毒そうな声を上げた。彼女
自身は、景王が口にした蓬莱の回復例を知らないようだったが、効果があるか
どうかわからないにせよ、必死に手を尽くそうとする親御さんの心中を思えば
自分も苦しい、できることがあればいくらでも協力すると言ってくれた。

669永遠の行方「王と麒麟(254)」:2013/11/21(木) 22:57:19
「でも、歌や曲を聞かせるのって、一度だけじゃなく、きっと何回もやったほ
うがいいわよね?」
「あ、そう――ですね」鳴賢は内心で、風漢にそれを聞かなかったなとあわて
ながらもうなずいた。「そこまでは言われてないけど、確かにそうかもしれな
い。一回や二回ではだめでも、何回も繰り返すほど効果が現われやすいかもし
れないんだし」
 それを聞いて考えをまとめるかのようにしばし目を伏せた守真は、何やらひ
とりうなずいてからこう言った。
「だったら最初からきっちり予定を立てて大がかりにしなくてもいいと思うわ。
自然に人が集まったならともかく、関弓の人たちに声をかけてにぎやかに催す
のは後回しにして、はじめはついでのような気軽な演奏会でいいんじゃないか
しら。それなら準備もいらないからすぐできるし、何なら初回はわたしがひと
りでピアノを弾いて歌ってもいいんだもの。むしろ六太を運び入れる場所をき
ちんと作ったほうがいいわね。単に布を垂らしただけじゃ、誰かに興味本位に
覗かれないとも限らないし、そんなのは嫌でしょ」
「そうですね」
「六太も親しくしていた大工さんがいるから、ちょっと頼んで、背の高いしっ
かりした仕切り板を取りつけてもらうわ。あちらの堂室の中のことなら、ある
程度はわたしの裁量に任されているから、あとで取り外せるようにしておけば
咎められないし、上のほうが開いていれば声や音もよく聞こえるでしょ。舞台
裏のような体裁の、わたしたちだけ出入りできるような雰囲気にして。次の開
放日までに完成させたいから、しばらく一時的に大工さんを入れてもらえるよ
う担当の官に頼むわ。それから当日は早めに来て、他のお客さんたちが来る前
に六太にそこに入ってもらったほうがいいわね」
「はい。風漢に伝えておきます」
「六太の付き添いは、その風漢さんだけ?」
「あー……どうだろう……」

670永遠の行方「王と麒麟(255)」:2013/11/21(木) 22:59:23
「じゃあ、あとひとりぐらい見ておきましょうか。仕切った中に、六太を寝か
せておけるような場所と、付き添いの人のための椅子が必要ね。それなりの時
間を過ごすわけだから、いちいち外に出てこなくてもゆったりくつろげるよう、
お茶や軽食も用意して」
 てきぱきと段取りを口にする守真に鳴賢は、よろしくお願いします、と頭を
下げた。
 それから鳴賢は、六太に読み聞かせたいので、以前やった人形劇の脚本とは
別に、蓬莱の物語を書き記したものがないだろうかとも尋ねた。しかしこれに
関しては、残念ながら他にはないとのことだった。
「じゃあ、恂生にはあとでわたしが話をしておくわ。彼もショックを受けると
思うけど……。悠子ちゃんも今日来てるから――」そこまで言い、いったん言
葉を切って嘆息を漏らす。「あの子も聞いたら動揺するでしょうね。何だかん
だ言って六太とはよく話していたから。あなたのお友達の敬之がよく訪ねてく
れるようになったおかげで、最近はずいぶん明るくなったんだけど」
 やがて話を終えた鳴賢は守真とともにいったん隣の堂室に戻った。あちらこ
ちらでなごやかに談笑している人々を見渡し、それから敬之を捜すと、やはり
彼は悠子を相手に熱心に筆談を続けていた。邪魔をしては悪いだろうと思い、
さてどうしよう、用は済んだことだし今日はもう帰って勉強の続きでもするか
と考えたとき、後ろから恂生にぽんと肩をたたかれた。彼は「やあ」と挨拶す
ると、声を潜めて尋ねてきた。
「さっき、あっちで守真と話をしていたけど、何か込みいった話?」
「うん……。一言じゃ説明できないんで、あとで守真さんに聞いてくれ。君た
ちにぜひ頼みたいことがあるんだ。人助けになることなので、協力してもらえ
るとありがたい」
「へえ。なんだろ」
 鳴賢に頼まれるような事柄に心当たりがないためだろう、恂生はきょとんと
した顔で首をひねっていた。

671永遠の行方「王と麒麟(256)」:2013/11/21(木) 23:01:27

「おまえ、よく海客の団欒所に行っておったろう。今度な、おまえのために海
客たちが演奏したり歌ったりしてくれるそうだ。それも一度ではなく、何度で
もやってくれるそうだぞ」
 鳴賢から海客らの快諾を伝えられた尚隆は、その夜、早めに女官を下がらせ
て牀榻に入ると、すっかり細くなってしまった六太の腕や足をゆっくり動かし
ながら優しく話しかけた。六太をここに移して以来、彼は六太に触れるときは
必ず話しかけていた。もちろん最初は陽子に勧められたためだが、もともとふ
たりでいるときは互いに遠慮なく無駄口をたたいてきた間柄だ。たとえ反応が
なくとも黙ったまま世話をするよりはずっと自然だった。
「心配はいらぬ。団欒所の一角に仕切りを設けてくれるそうだから、その中で
聴けば民の目には触れぬゆえ」
 そんなことを言いながらひとしきり運動させたあと、乱れた被衫を直して衾
をかけてやった。
 六太と親しかった官を呼んで皆で談笑するのも、大勢で離宮に赴いて気分を
変えるのも、こうして話しかけながら六太の世話をするのも、早くも日常の光
景になっていた。何であれ、やるべきことがあるのはありがたいものだ。しか
し尚隆の気がまぎれるかといえば、実はそうでもない。結局のところはすべて
同じことの繰り返しにすぎないからだ。団欒所に海客の楽曲を聴きに行くのも、
二度三度と繰り返せば目新しさは急速に薄れていくことだろう。
 おまけに雁は基本的に官吏が勝手にやる流儀が定着しているため、もともと
尚隆の私的な時間は多い。それゆえ六太の世話に時間をかけること自体は負担
でも何でもないが、逆に気持ちの上では余計なことを考えやすかった。
 いたずらに期待はしていないが、諦めてもいない、と思う。しかしながら六
太を手元に置き、日常の一部としての看護が定着してしまうと、この状態に慣
れてしまい、なんだかんだ言っても彼の不在を受け入れていく過程になるよう
な気もしていた。不吉なたとえではあるが、既に死した者を見送る殯(もがり)
や葬儀のように。

672永遠の行方「王と麒麟(257)」:2013/11/21(木) 23:03:45
 葬儀など、実際は死者ではなく遺された者のためのものだ。皆で悲嘆にくれ、
故人の思い出を語り合い、その過程で現実を見つめられるようになって悲しみ
を克服していくのだから。
 六太をそばに置いて常に気にかけ手を尽くすことも、それに似て、やれるこ
とはすべてやったとの諦念のもとに現状を受け入れて気持ちを整理する過程に
なるのかもしれず、それはそれで淋しいことだと尚隆は思った。今こうして
惑っているのも、単に服喪の過程における遺族の嘆きの一段階のようなものな
のだろうか、と。
 とはいえ悲しいとき、人は泣くことで逆に癒されるものだが、今、尚隆の目
に寂寥や疲労の色はあっても乾いている。涙を浮かべたことなど、こちらに来
て一度たりともない。もはや人ではない王に涙は流せないのだ。
 ならばやはり、六太の不在を真に克服できることはないように思えた。これ
ほど長い歳月を経ても過去の蓬莱に対する望郷の念に強くとらわれているよう
に。
 尚隆は、とうにおぼろになっている故郷の遠い記憶に思いをはせた。彼が幼
い頃に亡くなった母親の記憶は既にないに等しく、兄ふたりや父親のことも、
もはや名前さえあやふやだった。市井の民については、子供の頃から親しくし
ていた人々も大勢いたはずなのに、顔や名前を思い出せる者はもうひとりもい
ない。それでいて国が攻め滅ぼされたときのことを考えるといまだに切ないの
だから、もはや自分でも何にこだわっているのかわからなかった。
 もしかしたら、と思う。こちらに来たとき、尚隆は討たれた父親と滅びた国
に思いをはせて思い切り泣いて荒れるべきだったのかもしれない。そうやって
とことんまで感情を爆発させていれば、ある時点で気が済んで、悲しみも後悔
も克服でき、いまだに蓬莱へのやみがたい郷愁にとらわれることもなかったか
もしれない。
 だが尚隆は泣かなかった。涙で癒される必要があるなどとは決して考えな
かったし、そもそも雁は貧しすぎて王が泣いている暇などなかった。

673永遠の行方「王と麒麟(258)」:2013/11/21(木) 23:05:54
 六太によってこの世界に連れてこられたとき、あまりにも異なる条理に呆れ、
造物主の存在と作為をひしひしと感じた。だがそんなふうに人工的な匂いを強
く嗅ぎ取りつつも必死に尽力してきたのは、人々の喜怒哀楽がまったき真実
だったからだ。愛し、嘆き、怒り、笑う。ねたみ、そねみ、騙しもすれば、逆
に命を賭(と)して他人を助けたりもする。人の営みはあちらもこちらも何も
変わらない。
 もちろん雁を富ませても、小松の地で死んだ人々の命は還らない。人の命に
は代わりがないのだから。しかしそれぞれを比せないからこそ逆に人数で量る
しかないのだ。意図せずして生き残ったのみならず寿命を失ってしまった身に
は、何としても生きがいが必要だったし、でなければ王などやっていけるもの
ではない。
 だがこうして雁を繁栄させ、大勢の国民に幸福をもたらした今になっても、
小松の民を救えなかった尚隆の後悔の念が消えることはなかった。ここまでき
たら、この思いは墓まで持っていくことになるのかもしれない。
 ――おまえのせいじゃないだろう?
 遠い記憶の中で、六太の声が耳に蘇る。
 確か――そう、討ち死にするつもりが六太に救われ、気がつけば重傷を負っ
て小舟に揺られていたのだ。やりとりのすべてを覚えているはずもないが、人
生における最大の転機だったからだろう、契約に至るまでの言葉の断片はいま
だに記憶に残っていた。
 悔やむ尚隆に、彼は静かに言ったのだ。凪いだ海のように穏やかに、淡々と、
尚隆のせいではない、と。あのときの彼の姿が、静謐をまとっているせいか今
の姿と不思議に重なって見えた。
 ――おまえはできるだけのことをやったろう?
 思えばあの言葉は、その後の五百年の治世で六太が尚隆に発したどんな言葉
よりも慈悲深かった……。

674書き手:2013/11/21(木) 23:19:49
特に盛り上がりもありませんが、このままの調子でたらたら行って
あと一回か二回の投下でようやくこの章が終わりです。
いちおう年内には投下したいと思っています。

次章は>>393の予定だと「絆」章でしたが、最初の部分がそれ以降と毛色が違うため、
独立させて「封印(仮)」章とすることにしました。
これまであえて書かなかった六太視点(ただし回想)ですが、
ろくたん好きにはもしかしたらきついかもしれない内容なので
実際に投下する前にあらためて注意書きを書きたいと思います。
(筋を箇条書きにしてるだけで、まだ本文を書いていないため予定は未定ですが)

脳内ではとっくにいちゃこらしてるんですが、
ラブラブになるのは「絆」章がずっと進んでから、
書き逃げスレに上げた「後朝」「続・後朝」よりも後になります。
先は長い……。

675名無しさん:2013/11/22(金) 03:21:30
区切りが近いというか、話に動きがあるせいか、ここ暫く物語へまた深く惹き込まれてます

時折訪れる尚隆の真実へのニアミスとすれ違いがもどかしく萌えます。

676名無しさん:2013/11/23(土) 11:14:43
ろくたん好きなので六太視点どきどきします。
そしてこの先がどうなっていくのかとても楽しみです。
ラブラブが待ち遠しいですが、気長に待ってますので
ぼちぼちよろしくお願いします。

677書き手:2013/11/30(土) 11:45:01
出来はともかく、何とか最後まで書いたので投下していきますね。
……が、レス数と連投制限(投稿間隔)の関係で短時間の投下は面倒なので、
内容と同じく、たらたら適当に落とします。

678永遠の行方「王と麒麟(259/280)」:2013/11/30(土) 11:58:42

 海客出身の華期という軍吏が団欒所に姿を見せなかったのは、他の官と同じ
ように禁足を課され、宮城から出られなかったからだ。その禁足も、現在では
緘口令を条件にほとんど解かれているのだが、自主的に宮城に留まっている生
真面目な官も少なからずいた。華期もそのひとりだったらしい。
 尚隆が外殿の一室に彼を召しだして六太に海客の音楽を聞かせる計画を伝え
ると、華期は礼儀正しい態度で逐一不明を確認したあと、次の開放日までに準
備が整うよう守真と連絡を取ると答えた。当日いきなり行っても、まともな演
奏も合唱もできないからだ。蓬莱でも軍人だったせいだろうか、生真面目すぎ
る態度に尚隆は「あまり難しく考えるな」と苦笑した。
「要はいつもそうだったというように、皆で楽しくにぎやかにやってくれれば
いい。それにこれから何度も顔を出すのだ、仮に最初は不手際があったとして
も一向にかまわぬ」
「は」
 彼は緊張をにじませながらも、きびきびとした態度で頭を垂れた。尚隆は傍
らに控えていた朱衡を顎でしゃくった。
「六太は俺が連れていくが、朱衡も付き添いたいそうだ。守真によると、とり
あえずふたりまで付き添いを考慮するとのことだからちょうど良いだろう」
「えっ」
 華期は驚いたように小さく叫んで顔を上げた。それからあわてた風情で「ご
無礼を」と口走ってまた頭を垂れたので、尚隆は笑って顔を上げさせた。華期
は迷うような表情ながら、しっかりした声で進言した。
「畏れながら、主上。国府とはいえ、万が一ということもございます。護衛を
お連れにならずに雲海の下におでましになるのは……」
「風漢、だ」
「は?」
「俺は市井では風漢と名乗っている。そしておまえとは国府に勤める官同士、
顔見知りという設定だ」

679永遠の行方「王と麒麟(260/280)」:2013/11/30(土) 13:26:09
 絶句した華期に、朱衡が同情した様子で口を挟んだ。
「案ぜずとも良い。主上も台輔も昔から、粗末ななりで民に混じって来られた
ものだ。おまえも噂ぐらい聞いていよう」
 いったい何と返してよいものやらわからなかったのだろう、華期は激しく瞬
いたのち、無難に「御意のままに」とだけ答えた。
「当日は他の客が来る前に早目に来てほしいとの話ゆえ、おまえに案内しても
らいたい。むろん場所はわかっているが、海客仲間であるおまえと連れ立って
行ったほうが先方もよかろう」
「かしこまりまして」
「で、そのようにしゃちほこばってもらっても困るので、顔見知り程度の丁寧
さに抑えてもらえぬか?」
「……努力いたします……。そのう、風漢、さ、ま――」
 必死で言葉を押し出した華期に、朱衡は気の毒そうな顔を向けていた。尚隆
は苦笑した。
「市井ではたいてい呼び捨てにされておるのだがな」
 ぐ、と言葉に詰まった様子の華期だったが、観念したのだろう、一度大きく
息を吐いたのち、力強い調子でこう返した。
「せめて、さん付けでお許しください」

 そして団欒所の開放日当日、六太の付き添いのために外殿の一室にやってき
た朱衡は、めずらしく簡素な長袍姿だった。髪も普通の民のように巾でまとめ
ているだけだ。いつもは大司寇の冠と官服なので、当人も少々居心地が悪そう
ながら、市井で民にまじっても違和感のない服装と言えた。
 一方、こういうことに慣れている尚隆のほうはさらに粗末な――当人にとっ
ては楽な――いでたちだった。
 肝心の六太は簡素な被衫姿で椅子に座らされている。長い金髪を小さく丸め
てから薄茶のかもじをかぶせ、その上から幅広の布を幾重にも巻いてある。そ
うすると誰の目にも頭を怪我しているように見えた。

680永遠の行方「王と麒麟(261/280)」:2013/11/30(土) 18:01:17
 華期が参内して面子がそろうと、尚隆は無雑作に「では、行くか」と言った。
赤子をくるむように薄い衾で六太をくるんで軽々とかかえあげる。はらはらし
た様子で見守っていた華期だったが、朱衡が促すようにうなずくと覚悟を決め
たらしく、「では、ご案内いたします」と主君らを先導した。
 凌雲山を下って雉門を出、主君や六官の顔を知らない下官たちのささやかな
好奇の目と幾度かすれ違いながら、奥まったところにある建物の堂室に向かっ
た。団欒所の扉は閉じられていたが、不意にそこが開き、外の様子を窺うよう
に顔を覗かせた男と尚隆の目が合った。腕の中の六太に目を留めた相手はびっ
くりしたように小さく「あ」と声を上げ、ついで傍らの華期に会釈しながら扉
を大きく開いた。「こんにちは」と言って一行を招きいれる。
「風漢さんだ。あちらは朱衡さん」
 華期が男に紹介する。男は尚隆らに軽く頭を下げ、「はじめまして、恂生と
言います」と自己紹介した。
 一行が堂内に入ると、恂生がふたたび扉を閉めた。中では数人が座っていた
が、すぐに皆立ち上がって出迎えた。事情は承知しているのだろう、尚隆に抱
えられている六太を見るなり、一様に痛ましそうな顔をした。
 鳴賢、そして中年の女がふたり。片方は尚隆も面識のある楽俊の母親だった
から、もうひとりが守真だろう。呆然とした表情の十五、六の少女と、傍らに
立つ敬之。少女は胎果の海客だとあとで紹介された。
「こんにちは。よくいらっしゃいました。わたしが団欒所の責任者の守真です。
いろいろ大変だったそうですね」
 女が優しい声をかけながら歩み寄ってきた。それを皮切りに他の面々も会釈
しながら次々に寄ってきて、何とも複雑な吐息とともに六太を見おろした。少
女は真っ青になると、口元に拳を当てて体を震わせた。
「あたし、まだ六太に謝ってない……」
 今にも泣き出しそうな様子に、傍らの敬之が慰めるように軽く肩をたたいた。

681永遠の行方「王と麒麟(262/280)」:2013/11/30(土) 18:15:47
守真はそれに気遣いのある目を向けながら、尚隆を背の高い仕切り板の向こう
の小部屋に案内した。出入口に当たる部分にはきちんと扉が取りつけられ、そ
こを開けると重く帳が垂れていた。帳を開けた向こうは意外と広い空間で、小
さめの臥牀と椅子、小卓が用意されており、尚隆は示されるままに臥牀に六太
をおろして寝かせた。臥牀に載っていた褥も衾も高価なものには見えないなが
ら、ふかふかと柔らかく手触りも良い。椅子にも詰めものがいくつも置かれて
いて座り心地は良さそうだった。小卓の上には軽食のたぐいだろう、何やら盛
り上がって布巾のかかった大皿が置かれ、傍らに水差しと杯、おしぼりまで
あった。
「面倒なことを頼んですまないな」
 尚隆がねぎらうと、守真はにこやかな顔で「いいえ」と首を振った。
「この出入口は堂室の扉とも近いので、外の厠に行くときも目立たないと思い
ます。来てくれるお客さんには、ここでわたしたちが打ち合わせや裏方の作業
をしていると説明しておくので、籠もっていても不審には思われないだろうし、
わざわざ扉を開けてまで覗く人もいないでしょう」
「うむ」
「こちらのお皿は軽食で、飲みものは水差しに。果実酢を水で割ったものです。
お酢は体にいいし、さっぱりしてけっこう美味しいんですよ。温かいお茶がよ
ければお持ちしますけど」
「いや、そこまでしてもらわずとも大丈夫だ」
 尚隆はそう言って、勧められるままに臥牀の傍らの椅子に腰を降ろした。尻
の下や背の詰めものが心地よく身体を支えた。
「なかなか具合がいい」
 尚隆が明るく笑いかけると、守真も笑顔で返した。ついで彼女は少し表情を
曇らせて六太を眺めやった。
「六太はまったく目を覚まさないのですか?」
「うむ……。時折目を開けることはあるのだが、意識そのものはないらしい。
だが根気よく手足をさすったり話しかけたり、好きな音楽を聞かせたりすると
回復することがあると知り合いの瘍医が言っていた。むろん当てにはできぬが、
これの両親にくれぐれもよろしくと頼まれたことでもあり、少しでも可能性が
あればすべて試したいのだ。何より六太はにぎやかなことが好きだから、親し
い者たちの歓談の様子を聞くだけでも喜ぶのではと思ってな」

682永遠の行方「王と麒麟(263/280)」:2013/11/30(土) 19:34:29
 守真は悲しそうな目でうなずいた。
「今日は久しぶりに華期もいることだし、四人で無伴奏で合唱しようと思って
ます。アカペラって言うんですけど、関弓の民にも意外と評判いいんですよ」
「ほう」
 そのとき恂生が帳の間からひょいと顔を差し入れた。「一番手のお客が来ち
まった。まだ扉を開けてなかったのに」と慌てたように小声で言ってすぐ引っ
込む。守真の「まあ、今日は早いのね」というつぶやきにかぶさるようにして、
恂生ら海客と客が親しげに挨拶する声が届いた。おそらく常連なのだろう。小
部屋ふうにしっかり仕切られているとはいえ、上部が開いているので会話の内
容はよく聞こえた。
「ときどき様子を見にきますけど、何かあったら遠慮なく呼んでください」
 守真は小声でそう言い残し、帳と扉を閉めてそこを立ち去った。尚隆が促す
と、朱衡ももう一脚の椅子に腰をおろした。
「こまやかな気遣いのある親切な女性ですね」外に聞こえぬよう、声を潜めて
話しかけてくる。
「そうだな。蓬莱に子を残してきたらしいから、子供の災難に敏感なのかも知
れぬ」
 言いながら尚隆は小卓の上の布巾を取ってみた。ほとんどは菓子のたぐいだ
ろう、大き目の皿に、見た目も美しく一口大の食べものがたっぷり盛られてい
た。朱衡が「なかなか趣味が良い」と感心したように言い、尚隆が手を伸ばす
のを押しとどめ、「念のために、まず拙官が」と蒸し菓子らしきものをひとつ
口に入れた。
「どうだ?」
「めずらしい味ですが美味ですね。拙官は甘いものは苦手ですが、これはさほ
ど甘くないし、抵抗なく食べられます」
「ふむ。付き添いが男ふたりということを考慮してくれたのかもしれん」
 他国では男女を問わず甘味がごちそうだったりする場合も多い。しかし豊か
な雁、特に王宮にいれば食糧事情は豊かだ、糖をたっぷり使った甘味とてめず
らしいものではない。むしろ甘すぎると食べ飽きてしまうという贅沢な現象さ
え起きるくらいで、貧しい国々と違って特に男性は甘味が苦手な場合も少なく
なかった。

683永遠の行方「王と麒麟(264/280)」:2013/11/30(土) 20:00:46
 朱衡は別の薄い菓子にも手を伸ばした。端をかじると軽い音がした。
「こちらは……焼き菓子、でしょうか。よくわかりません。そもそも菓子では
ないのかな。かなりしょっぱいですね」
 尚隆は同じ菓子を手にとってためつすがめつし、すぐに得心して、ああ、と
うなずた。
「薄く輪切りにした芋を油で揚げて塩をふったものだ。以前、六太が言ってい
たことがある。今の蓬莱で一般的な菓子だそうだ」
「ははあ。ではこれは全部蓬莱ふうの食べものかもしれませんね」
 菓子ばかりかと思いきや、薄い鶏皮をパリパリになるまで焼いて塩をふった
ものもあり、尚隆はつい「酒がほしくなるな」と苦笑した。決して高価ではな
いが冷めてもおいしく食べられるものばかりで、配慮の行き届いたもてなしに
尚隆も感心した。水差しにたっぷり入っていた、水で割られた果実酢もさわや
かだった。
「面倒見の良い女人だ。これでは六太も居心地が良かったろう。道理で暇があ
れば顔を出していたはずだ」
 尚隆はそう言うと、六太の肩のあたりに手を伸ばしてそっとなでた。
 堂室のほうでは少しずつ客が増えているらしく、挨拶やら何やらの声が次第
ににぎやかになっていった。多いときは三十人程度は訪れるという話を聞いて
いたから、もしかしたら今日もそれくらい来るのかもしれない。
 やがて何か合図でもあったのか、不意に談笑の声がやんだ。守真の柔らかな
声が響く。
「今日は華期も来てくれたことだし、久しぶりに皆で合唱します。ぜひお聞き
ください」
 それからまた少し間があって、尚隆と朱衡が興味深げに耳を澄ましているう
ちに、驚くほど美しい歌声が響いてきた。
 伴奏はない。海客らの声だけで奏でられた和音が堂内にこだました。旋律自
体は尚隆にもなじみがなかったから、現代の蓬莱の曲かもしれない。予想外に
繊細で美しい歌声に、傍らの朱衡が呆気にとられた様子で瞬いた。

684永遠の行方「王と麒麟(265/280)」:2013/11/30(土) 22:33:33
 声もなく聞き入っているうちに、長いようで短い一曲が終わった。気安い調
子で賞賛の声と拍手が沸き、尚隆も微笑とともに朱衡と顔を見合わせて控えめ
に拍手した。
「驚きました」朱衡がささやく。「前に聞いたような、単に騒々しい曲ばかり
ではないのですね。数人の合唱だけでこれほど繊細な印象になるとは」
「なかなか興味深いものだ」
「台輔も一緒にこんなふうに歌うことがあったのでしょうか。幼い子らととも
に遊びのようににぎやかに歌うのも楽しいでしょうが、これほど美しく合唱で
きるなら、それも張り合いがあったでしょうね」
「そうだな」
 同じように無伴奏の次の合唱がすぐ始まり、結局立て続けに四曲が歌われた。
明るく滑稽な曲調の歌もあったが、伴奏がないせいだろう、いたずらにうるさ
く感じることもなく、思いのほか楽しむことができた。
 その後はしばらく雑談の時間になったようで、楽しげな談笑の声が聞こえて
きた。あちこちで交わされる会話の細かな内容まではさすがに聞き取れなかっ
たものの、和やかで落ち着ける雰囲気だった。
 尚隆は目を細めて傍らの六太を見やった。臥牀に手を伸ばしてそっと頬をな
でる。先ほどの美しい合唱にしろ今の穏やかな団欒の空気にしろ、六太も楽し
んでいてくれればいいとしみじみ思った。
 そうこうするうちに子連れの客も訪れたようで、元気のよい幼い声も響くよ
うになった。それはまさしく市井の活気ある日常に他ならず、尚隆にとっても
思いがけず心安らぐひとときになった。朱衡でさえ笑みを浮かべ、果実酢や菓
子を堪能しつつ、人々の談笑を背景に、低い声で主君と語らっては楽しんだ。
 守真は二度、顔を見せ、飲みものや食べものの残りを確認してから、六太に
優しく声をかけてまた出ていった。その後、彼らを堂室に招き入れた恂生とい
う青年が入ってきて、小卓の上を布巾で拭いてから、おしぼりを新しいものに
換えてくれた。

685永遠の行方「王と麒麟(266/280)」:2013/11/30(土) 22:52:51
 だがそのまま出ていくかと思えば、彼は閉ざした帳にちらりと目をやり、明
らかに小部屋の外を気にする体で声を潜めると、深刻そうな表情で口を開いた。
「あの」
 小卓に頬杖をついていた尚隆がそれに応じて片眉を上げ、朱衡も微笑して目
顔で先を促すと、彼はこう続けた。
「その、こんなことを聞いたからって、無礼なやつだと思われても困るんです
けど」
「何か?」
「そのう……俺は神仙じゃないし、詳しくないんで、あれなんですけど。こ
れって失道の症状じゃないんですよね?」
 尚隆は何も答えなかった。朱衡も顔色を変えなかったのはさすがは六官とい
うところか。微笑を絶やさないまま、小首をかしげてみせただけだ。
 遠慮を窺わせながらふたりを交互に見た恂生は、答えがないことを知ると、
抑えた声ながらはっきりこう問うた。
「麒麟は玉座の象徴であり、王の半身だとも聞きました。失道かどうかはとも
かく、六太が、台輔がこうなって、主上に影響はないんでしょうか」
 朱衡が尚隆に目をやった。ここまではっきり言うからには。六太の頭に巻か
れた布から覗く茶色の髪がかもじだということもわかっているのだろう。
 尚隆が泰然と構えていると、ふと床に視線を落とした恂生は沈んだ声で続け
た。
「俺、何ヶ月か前に結婚したんです。嫁さんは一人っ子で、ずっと兄弟がほし
かったから、代わりに子供がたくさんほしいと言ってて、彼女のためにさっそ
く里祠に申しこんで帯を結びました。そしたら、すぐに卵果がなったんです。
簡単になるものじゃないって聞いてたのに」
 いったん言葉を切り、顔を上げてから決然とした表情で続ける。
「もちろん蓬莱と違って血のつながった子ってわけじゃないんだろうけど、少
なくとも俺はこれで天に認めてもらえたことになります。この世界で生きて
いっていいんだって。そして家族になった嫁さんにも、世話になった嫁さんの
両親にも、生まれてくる子供にも俺は責任があります。だからもし雁に何かあ
るとしたら、家族のためにも心構えだけはしておきたいんです。どうか教えて
くれませんか」

686永遠の行方「王と麒麟(267/280)」:2013/12/01(日) 09:58:38
 それだけ言って口をつぐむ。すぐには誰も口を開かず、しばらく小部屋の外
の談笑の声だけが響いていた。
「……失道ではない」
 やがて尚隆が穏やかに答えた。恂生はただうなずいて、次の言葉を待った。
「事情があって詳しいことは明かせぬが、これは事故のようなものだ。だがも
ともと神仙は飲まず食わずでも相当もつし、特に麒麟は天地の気脈から力を得
る生きものゆえ、仮にこのまま目覚めぬとしても生命に別状はない。したがっ
て王にも国にもなんら影響はない。その点は蓬山のお墨付きだ」
「そうですか……」恂生は安堵したように息を吐いた。それから複雑な表情で
六太を眺めやる。「神仙は病気にならないし、大抵の怪我もすぐ治るって聞い
てたのに」
「それはそうなのだが、何事にも例外のような事柄はあってな。だがいくら国
や王に影響がないとはいえ、六太を見捨てるわけにはいかん。それゆえ俺たち
は王の命を受け、こうして手を尽くしているわけだ」
 恂生はまたうなずき、「わかりました」と答えた。
「答えてくださってありがとうございます。あまり役に立てないかもしれない
けど、他に俺にできることがあったら言ってください。台輔だからっていうだ
けじゃなく、六太は友達だし恩人でもあるんです」
「うむ。何かあればぜひ頼もう。ところでちと聞きたいのだが」
「はい」
「他の海客らもこのことは?」
 何を聞かれたのかすぐ察したのだろう、恂生は首を振った。
「守真も悠子も、六太の身分は知りません。華期は――知ってるんですよね?
宮城から皆さんを案内してきたんだから。守真は薄々疑っていたとは思うけど、
今回のことで思い違いだったと考えたと思います。たぶん前に鳴賢が、六太が
養父母と一緒に地方に行ったって聞いたときに」
 しかし彼はそれが言い訳にすぎず、何かを誤魔化そうとしていると察したわ
けだ。鳴賢に関しても事情を知っているのではと疑っているだろうが、そうで
はない可能性も考え、確信があるまでは注意深く口をつぐんでいるというとこ
ろか。

687永遠の行方「王と麒麟(268/280)」:2013/12/01(日) 10:23:13
「だがそなたは違ったわけだ。六太に明かされていたのか?」
 恂生は困ったように笑って、また首を振った。
「別にそういうんじゃないけど。まあ、十年以上も付き合ってれば何となく。
たぶん街にも、俺と同じように気づかないふりをしている民は何人もいるん
じゃないかな」
「ほう」
「だって本人は隠したがってたみたいだから、気づかないふりをしてやるのが
気遣いってものでしょう」
 どこかおどけた表情で言った恂生に、尚隆も「なるほど」と苦笑した。
「それにここに来ていろいろ遊ぶことが六太は本当に好きみたいだった。でも
麒麟だって皆に知れたら、たぶんもう来られなくなる。そんなのは俺たちも寂
しいから」
「そうだな……」
「何にしても守真や悠子は知らないし、むしろ知らせたくはないです。俺は
こっちで恋人ができて結婚したから、故郷に帰ることを諦められた面もあるん
です。でも守真たちは違う。特に悠子は蓬莱に帰りたくて、六太が麒麟だって
知ったら無理難題を言うに決まってるから」
「麒麟は慈悲の生き物だからむげには断れず、困らせるだろうということか」
 だが恂生は肩をすくめると、あっさりこう言ってのけた。
「確かに六太は優しいです。できないことを頼まれたら、きっぱり断るくらい
優しい。それで傷つくのは悠子のほうなんだから、あの子は知らないほうがい
い」
「ほう……?」
 意外に思った尚隆が眉を上げると、恂生は「優しいってことは、優柔不断と
は違うでしょう?」と笑った。
「本当の優しさは、時には残酷に見えることがあると思います。六太はそれを
わかっていた」
「それはまた意外なことだな」

688永遠の行方「王と麒麟(269/280)」:2013/12/01(日) 10:35:45
「そうですか? そりゃ、六太も前はかなり甘ちゃんだったそうですけど。い
つだったか、昔は自分もずいぶん餓鬼で、いろいろ莫迦なことを言って周囲を
――特に主を困らせたと笑ってました」
 主ということは王のことだ。尚隆はますます意外に思った。
「今は違う、と?」
「少なくとも、六太の言う『昔』とは変わったってことじゃないかな。本人が
そう言ったんだから」
「なるほどな……」
 尚隆は微苦笑して応え、最近の六太の言動を思い浮かべた。はるか昔、最初
の大がかりな謀反だった斡由の乱の頃と比べれば物分かりは良くなったから、
確かにそのぶん成長したとは言えるだろう。尚隆に対してさえ相変わらず遠慮
はないし、目先の慈悲に捉われる麒麟の性のせいか、見通しが甘く人を見る目
がない点はさほど変わらないが。
「それじゃ、そろそろあっちに戻ります。俺の質問に答えてくださってありが
とうございました」
 恂生は丁寧に頭を下げてから小部屋を出ていった。それでようやく朱衡は大
きく息をついた。
「驚きました。台輔のご身分が知られていたとは」
「だがまあ、あの様子では他の者には言うまい。あれでも過去にはいろいろ
あったそうだが、なかなか見どころのある男だ」
「そうですね」
 それにさすがに尚隆が王ということまでは気づいていないだろう。
 しばらくするとふたたび海客たちの無伴奏の合唱が聞こえてきた。それで本
日はお開きとなり、歌と団欒を楽しんだ客たちは機嫌よく帰っていき、尚隆た
ちも守真らに礼を述べた上で再訪を約したのだった。

689永遠の行方「王と麒麟(270/280)」:2013/12/01(日) 13:35:42

 宮城に帰りついた尚隆は、いったん女官に六太の世話を任せ、内殿で官に奏
上された雑務をこなしてから正寝に戻った。六太のいる臥室で夕餉を取る際の
慰みに、海客の団欒所での温かなもてなしを女官たちに話してやると、彼女ら
は興味深く耳を傾けては六太に「台輔、良かったですねえ」と話しかけた。
 夕餉のあとで酒肴を運ばせた尚隆は、近習をさがらせ、しばしひとりで酒杯
をあおった。そうしてほろ酔い気分で牀榻に入った。
 眠る六太の傍らに座りこんだ彼は、ふ、とほのかな笑みを口元に浮かべ、半
身に声をかけた。
「まったくもって意外なことだな」
 六太は王に――尚隆に――莫迦なことを言って困らせたことがあると言った
という。自分は餓鬼だったから、と。海客の男が語ったその話は本当に意外
だったのだ。
 普段の六太は、今も昔も尚隆に対して遠慮はないし、言葉を選ばないものだ
からかなり辛辣な言い方もする。だが何しろ万事に見通しの甘い彼のことだか
ら、その意見に任せていたら実際には人的な被害が出たり国が混乱しかねない
ことばかりだった。それでいてうまく切り盛りする尚隆をねぎらうことはなく、
むしろ自分の意見に固執して非難するくらいだから、基本的にみずからの言動
を反省するということがない。本人はあくまで民への慈悲に立脚しているつも
りだからだろう。六太の言動が結果的に他人に害をもたらした場合は、さすが
の尚隆も厳しく接するせいかしょげることもあるが、どうも本質を理解しての
ことではないらしい。気持ちの切り替えが早いと言えば聞こえはいいが、要す
るにその場かぎりのことに見えた。
 だから具体的に何を思い浮かべて言ったにせよ、王に対する事柄で、彼が自
発的に反省の意を述べたこと自体が驚きだったのだ。
 もっとも尚隆自身は彼に殊勝な態度を求めたこともなければ、その言を気に
病んだこともない。口の悪さとは裏腹に悪気がないのはわかっていたし、何よ
り宰輔は王に進言や諫言、助言を行なうのが本分。理由もなく反対するならま
だしも、本人なりに考えた結果であれば、立派に自分の務めを果たしていると
言えた。それを容れるか否かはあくまで尚隆の側の問題だろう。

690永遠の行方「王と麒麟(271/280)」:2013/12/01(日) 18:45:50
 そもそも天帝から慈悲の性を与えられた麒麟には、普通の人間のような割り
切った考え方は絶対にできず、時に国のために厳しい決断を下さねばならない
王の論理とは決して相容れない。そういった考え方をする能力はないのだと、
尚隆はかなり早い段階で理解していた。それゆえ本人の能力を超えたところに
責めを負わせたいとは思わなかった。
 むろん官吏の中にはこれまで、大局を見極められず、短絡的な言動を多くす
る六太に諫言する者もいることはいた。しかし人的な被害がなければ、尚隆自
身はいつも彼の好きにさせていた。
(だが、それでも何やら省みるところがあったというわけか……)
 自分は餓鬼で、昔はそのせいで主を困らせたと。第三者に対する言葉とはい
え、今でもそう口にするということはずっと気にしていたのだろう。直接言っ
てくれれば、尚隆も茶化すなり真面目に対応するなりして慰め、それで六太自
身も気持ちに区切りをつけて忘れることができたろうに、あくまで黙っていた
ところが意地っ張りな彼らしい。
 相手に伝えたいともその必要があるとも思わなかったからこその沈黙だろう
が、今にして思えば少しは伝えてほしかったというのが正直な気持ちだった。
いつも飄々としている尚隆とて、本心では半身からの気遣いを欲さないではな
かったのだから。何であれ、言葉に出さないと相手には伝わらないものだ。
 こうして振り返ってみると、自分たちは一見、相手に言いたい放題だったよ
うに思える。しかし実際はずっと一定の距離を置いたまま、口にしないことも
数多くあったということなのだろう。
 もちろん相手の心に踏み込まない態度こそが逆に気遣いという場面もあった
はずだ。少なくとも尚隆はそうだった。それでも六太が内心でいろいろ省みて
いたとすれば、生命を分けあった半身同士、もう少し互いの内に踏み込んでも
良かったのかもしれない。
 陽子に対するような明らかな気遣いを示された記憶はないが、そういう尚隆
自身、半身への気遣いや励ましのたぐいを言葉にしたことはなかった。それで
も六太に対する配慮はいつも念頭に置いていたのだから、六太もそうではな
かったとは言い切れないだろう。
 今回の事件で知った六太の生い立ちを考えれば、麒麟の本能を忌避するかの
ようなこれまでの彼の言動は苦悩の裏返しということも考えられた。蓬莱で為
政者に虐げられた幼い頃の記憶に縛られて王を厭い、王のそばにあることを切
望するはずの麒麟の本能さえ厭う原因となっていたなら哀れなことだった。

691永遠の行方「王と麒麟(272/280)」:2013/12/01(日) 19:58:36
 しかしもし尚隆が気遣いを口にし、意見を容れなかったとしても彼の存在自
体が大事なのだと言ってやれていたら、何かが違ったのではないか。他国の王
と麒麟と違って年がら年中一緒にいたわけではないし、六太の進言も諫言も却
下してばかりだったが、それでも自分なりに半身を大切にしていたつもりなの
だから、きちんと言葉で伝えてやれば良かったのかもしれない。
 普段は必要以上に主に近づかず、それで少しも気にするふうのなかった六太
は、何だかんだ言って他国の麒麟ほどには主に執着していたわけではないだろ
う。顔を合わせてばかりいると、嬉しがるどころかうんざりするような反応を
見せることさえあった。だが尚隆は六太の相手をするのは嫌ではなかったし、
特に一緒に旅に出て、にぎやかな市井ではしゃぐ六太を連れ歩くのは楽しかっ
た。麒麟に似合わぬ口の悪さも、周囲がきついと受けとめて諌めるような暴言
でさえ、尚隆にしてみれば外見が幼いせいかほほえましかったのだ。
「六太」
 静かに声をかけた尚隆は、手を伸ばすと、今まで幾度となくそうしたように
六太の頭をそっとなでた。
「おまえが大事だとちゃんと伝えたことがあったかな?」
 返事はなかったが、答えは自分でわかっていた。
「なかったかもしれんな。せめてこうなる前に伝えておくべきだった。二度と
言葉を交わせなくなる前に」
 人は後悔する生きものだ。いつまでも同じ日々が続くと思いこみ、いざそれ
を失ってしまってから、取り返しがつかなくなってから初めて後悔する。
「覚えているか? たまにそろって宮城を脱出するときは楽しかったな。昔は
一緒に他国にまで足を伸ばしていろいろと見聞したものだ……」
 何しろ五百年だ。好きなようにやってきたつもりだったし、この事件が起き
るまでは、いつ死んでも悔いはないと思っていた。何よりひとりで、自分の足
で立っていると思っていた。すぐそばにいて自分を支える小さな麒麟の存在に
気づかないまま。
 天帝が配したように、確かに王に麒麟は必要なのだ。孤独と責務を分かち合
う相手として。でなければこの長い生を耐えられるものではない。たったひと
りで重責を担い続けることは人にはできない……。

692永遠の行方「王と麒麟(273/280)」:2013/12/01(日) 21:44:28

 季節は移る。
 雁の夏は、日差しこそ強いが空気は乾いて涼しく過ごしやすい。くっきりと
濃い緑に黄金の陽光が降りそそぎ、雲海を透かして見る下界は、秋の実りを予
感して彼方まで豊かな色彩にあふれていた。尚隆の心中を置き去りにしたよう
な鮮やかな色彩が。
 尚隆が予想したとおり、この頃になると海客の団欒所への訪問も目新しさが
失せ、すでに日常の一部となっていた。だがもともと市井で民と交わることを
好む尚隆だから、先方のきめ細やかな心配りもあって心がなごむひとときでは
あった。
 おかげで気持ちはずいぶんと落ちついたものの、相変わらず淋しさはあった。
それは六太が傍らにいないせいでもあるが、いよいよとなればひとりで治世を
続けるしかないという重い現実のせいだった。
 六太を裏切りたいとは思わない。ということは、仮にこのまま麒麟を失おう
と、最後まで王として立ち続けねばならないということだ。
 しかしいかに理性でそう考えても、覇気を失い、どこか疲れを覚えてしまっ
たことはいかんともしがたかった。既に六太を置いて気晴らしに下界に行きた
いとも思わなくなっていたし、そんな自分の変化に呆れてもいた。
 六太はあれで淋しがりやだが、実際のところ俺もそうだからな、と嘆息まじ
りに考える。これまでひんぱんに下界に降りて民にまじってきたのも、市井の
情報を収集するためもあるが、結局は人々といたいからだった。孤独を望む者
もいるだろうが、尚隆は人間が好きだった。君主である以上、宮城において安
らぎや楽しみを見出そうとは思わなかったが、そうやって自分を律しているぶ
ん、粗末な服で民にまぎれ、親しく接せられるのは嬉しかった。
 そんなふうに根が淋しがりやであるからこそ、いざこうして半身を取りあげ
られ、しかもそれが故郷を同じくする唯一無二の存在となると、その事実は心
に重かった。本当は尚隆とて幸せになりたかったし、真にすべてを分かち合え
る者――配偶者であれ親友であれ――を得ることへの憧れを持たないわけでは
なかったのだから。

693永遠の行方「王と麒麟(274/280)」:2013/12/01(日) 21:50:12
 二度目以降も朱衡は団欒所に同行したがっていたが、煩雑な雑務を官に任せ
て自由な時間が多い主君と異なり、六官ともなればそうひんぱんに宮城を空け
られるわけもない。結局、以前から何度か通っていた下吏を代わりに付き添わ
せ、朱衡自身は遠慮するようになった。下吏は恐縮していたものの、もともと
お調子者の気のある男ではあり、二度ほど付き添いをこなすと緊張も解け、苦
笑した尚隆に促されるまま、小部屋で寝かされている六太の傍らを離れて堂室
のほうで海客や訪問客と楽しく語らうようになった。その代わり守真や恂生が
しばしば様子を見にきては相手をするので、手持無沙汰になる暇もない。特に
恂生は、初回にいろいろ聞いて得心したあとは、いっそう親身に気を配ってく
れるようになった。六太の身分を知っていると明かしたことで、逆に気が楽に
なった面もあるのだろう。
「いつまでも寝ていると、目が溶けちゃうぞー」
 現代の蓬莱での言い回しだろうか、そんなふうにからかうように六太に声を
かけては、尚隆ともいろいろな話をする。二度目以降、尚隆は菓子などの簡単
な手土産を持ってくるようになったのだが、客が帰ったあと、片づけで残った
海客らと一緒にそれをつまんでしばし語らうこともあった。
「嫁さんとも話してたんだけど、六太の目が覚めたら、子供の名づけ親になっ
てもらおうと思って」
 四度目の訪問の際、団欒所の小部屋の中で尚隆がくつろいでいると、水差し
を取り換えにきた恂生が言った。
 聞けば、彼の今の名は妻の父がつけたのだが、以前違う字を名乗っていて、
それは六太がつけたとのことだった。
「守真も華期も、字は六太がつけたんです。悠子にも、まあ、あの子は結局
使ってないけど、本名をもじって悠明って字を考えてやって」
「ほほう」
「うちの子は冬になる前に生まれる予定だから、それまでに六太の目が覚める
といいねって、昨日も嫁さんと話してたんです」
 尚隆は微笑して「そうだな」と応じた。
 その日は小部屋の卓に小さな花器が置かれ、可愛らしい夏の野花が活けられ
ていた。守真が見よう見まねでやっているらしいが、これもきっかけは六太だ
とのことだった。

694永遠の行方「王と麒麟(275/280)」:2013/12/01(日) 22:07:44
「いつだったかなあ。何年も前だったと思うけど、六太が主にもらったって
言って、花をつけた梅の小枝を大事そうに持ってきたことがあったんです。で、
なるべく長く鑑賞したいって頼まれた守真が活けてやって、それから守真はと
きどき花を摘んでくるようになって」
「主にもらった梅の小枝?」
「そう。大事に世話していたから、かなりもったんじゃないかな。あの頃はま
だここが開くのは開放日に限定されていなくて、昼間は毎日でも来られたけど、
しばらく飾ってあった記憶があるから。花器の前で六太は頬杖をついて嬉しそ
うに眺めていたっけ。やっぱり麒麟だから、花でもすぐ枯らしたら可哀想だと
思うんだろうなあ」
 尚隆はいぶかしんだ。そんな覚えはない――と首をひねったあとで思い出し
た。
 後宮にある梅林で、満開の梅の木に登って遊んでいた六太が、うっかり長い
髪を枝にからませたことがあったのだ。苦笑した尚隆が取ってやろうと手を伸
ばしたところ、慌てて身を引いたものだからいっそうきつくからまってしまい、
尚隆は面倒だとばかりに小枝をぽきりと折ってしまった。折れたほうからだと
すんなり髪がほどけ――確か、そのまま枝を無造作に胸元に差してやった、と
思う。
 ただそれだけのことだったのだが。
 そんな小枝を大事に……?

 その日、訪れるなり守真が和綴じの冊子を尚隆に差し出して、蓬莱のおとぎ
話のひとつを脚本ふうに書き直したものだと説明した。多少おもしろく枝葉を
付け加えてみたので、また六太に読み聞かせてやってほしいと。以前鳴賢に、
人形劇の脚本の類似がないかと問われてから、悠子が守真と相談しつつ書きあ
げたものだという。
「これはすまんな。手間がかかったろう」
「どういたしまして。悠子ちゃんがせっかく書いてくれたから、これを元にま
た人形劇をやろうって計画してるんです」
「それはいい。そのときはぜひ六太を連れてこよう」

695永遠の行方「王と麒麟(276/280)」:2013/12/01(日) 23:11:44
「今度は台詞や説明を喋るだけじゃなく、楽しい歌も織りまぜて歌劇仕立てに
するつもりです。六太は歌が好きだし、みんなでわいわい騒ぐような賑やかな
雰囲気も好きだから、きっと喜んでくれるんじゃないかしら」
「うむ」
 一緒に六太に付き添ってきた下吏は、今日も早々に他の面子と歓談している。
尚隆が許したこととはいえ、朱衡に知れたら小言をくらうだろう。守真や華期、
恂生、勉強が忙しいらしく、初回以降ひさしぶりに顔を見せた鳴賢と敬之が入
れ代わり立ち代わり小部屋に姿を見せ、何やかやと六太の世話を焼いた。鳴賢
はここでは不用意なことを言うつもりはないようで、普段の彼からすると無口
なくらいだったが、代わりに恂生があれこれ話しかけてきた。尚隆のほうも、
鳴賢経由で六太に関する海客たちの証言は聞いていたものの、六太の身分を
知っていると明かされた上での語らいは興味深かったので、余人の目のないと
きにさりげなく水を向けていろいろなことを聞きだした。
「以前、六太は昔は自分は餓鬼で、周囲を困らせたと言っていたそうだが、気
に病んでいるふうだったのか?」
「え? いいえ?」恂生は少し驚いたように目を見張ってから、軽く肩をすく
めてみせた。「基本的に六太はくよくよする性格じゃありませんからね。こん
なことがあった、って言ってあっけらかんとしていたな。それに特に主にはた
くさん迷惑をかけたけど、ちゃんと許してもらえたって笑ってたし」
「許して――?」
「六太の主はいい人らしいですよ」そう言って笑顔を向ける。「かしこきあた
りのおかたのはずだけど、いろいろ想像して嬉しかったな。俺たちなんか一生
会うこともないだろうけど、何だか身近に感じられたから」
「ほう……」
「六太は言ってました。莫迦なことをして本気で怒られたこともあるけど、そ
れでも必ず挽回や反省の機会をくれるんだって。そうしてふたたび前を向いて
進むことを許してくれる。六太相手にかぎったことじゃないらしいけど、俺、
それを聞いてすごい人だと思ったな。だって普通に考えれば、権力の頂点に
立っていれば何かと疑心暗鬼になっても仕方のない局面もあるだろうし、過ち
を赦してばかりいたら、周囲にしめしがつかないはずでしょう。でもそういっ
た綻びを生じさせることなく収めているってことだから。きっとそれで六太も
失敗をくよくよせず、気分を切り替えて物事に当たれたんだろうな」

696永遠の行方「王と麒麟(277/280)」:2013/12/02(月) 19:26:36

 尚隆が宮城に戻ったのは午後も遅くなってからだった。出迎えた女官らにい
つものように六太の世話を任せると、守真にもらった冊子も彼女らに手渡した。
「俺も内容は知らんが、これも蓬莱のおとぎ話だそうだ。いろいろとおもしろ
く翻案してくれたらしい」
「それは楽しみなことですわ。さっそく練習して、また台輔にお聞かせしま
しょう」
「ところで主上、海客の楽曲にも意外と静かな曲があるとか。いつもこちらで
演奏してくれている楽人が、台輔がお好みなら宮城でもお聞かせしたいと興味
を持っているのですが」
「ふむ。その楽人が演奏するということなら、楽器が違うようだから難しいの
ではと思うが……。いつも付き添っている朱衡のところの下吏に聞くとよかろ
う。その者もかなり気に入っていて詳しいようだから参考にはなるだろう」
 着替えをしながらひとしきりそのような会話を交わしたあと、急ぎの書類を
手にやってきた白沢と政務の話をした。それから夕餉を摂り、六太にも水分を
摂らせた。女官が用意したのは、今日は花のよい香りを移した水で、尚隆が口
に含むと芳醇な蜜の甘みがあった。それを慎重に六太の口腔内に落として飲ま
せたのち、今日は疲れたからと、酒だけは用意させて早々に女官をさがらせた。
だがくつろいだふうに椅子にゆったりと座った尚隆は、何となく酒杯を手に
取ったものの、そのまましばらくぼんやりとしていた。
 ふと、夜のとばりの降りた窓の外を見やる。やがて彼は立ちあがると、露台
に通じる大きな框窓に歩み寄り、そのまま窓を開けて外に出た。高欄に両手を
ついて見おろすと、雲海の水を透かし、はるか下界の街の灯が見えた。
 しばらく夜の雲海を眺めてから室内に取って返し、六太を抱きあげて戻る。
初夏の夜風は尚隆にとって心地よいばかりだったが、寝たきりの六太の身体が
冷えないよう、しっかりと衾にくるんだ。
 尚隆は露台の端で下界を見せるかのように六太の身体を傾け、「どうだ、見
えるか?」と耳元で低く語りかけた。

697永遠の行方「王と麒麟(278/280)」:2013/12/02(月) 19:38:38
「おまえはよく高欄にのぼったり肘をついたりして、下界の様子を楽しそうに
眺めておったな」
 身軽な六太は、そこが高欄だろうが卓子だろうが、いつでも無造作にひょい
と座りこんだ。昔は官も、六太の行儀の悪さにいちいち小言を言っていたが、
今ではすっかり諦めて誰も何も言わない。宮城にある池で素っ裸になって水浴
びがてら鯉とたわむれたり、木に登って昼寝をしたりと、雁国の宰輔はしばし
ば市井のやんちゃ坊主そのままの無邪気な姿を見せた。
 だが諸官が呆れていたのは確かだが、その反面、永遠に子供の姿を留めたま
まの六太がはしゃぐさまになごんでいた面もあったろう。
「下もずいぶん賑やかになった。ほれ、あんなに灯が大きい」
 尚隆が登極したばかりのころ、首都関弓でさえ、たいそう困窮したありさま
だった。夜に灯すための蝋燭も少なく、それも蜜蝋や白蝋ではなく質の悪い獣
脂を使ったものだから、煙も臭いもひどかった。おまけに油や薪は冬に凍えぬ
ためにも節約せねばならず、その結果、日が落ちるともう街は真っ暗だった。
今、豊かな関弓で暮らす民には、そんな時代があったことなど想像もできない
だろう。
 ――もう、いいのかもしれんな。
 長かった、と心底から思う。国土を荒廃せしめた梟王の暴虐。さらに四十年
以上もの空位の時代があり、限られた財と食糧を奪いあった内乱が頻発して荒
れ果てたと聞いた。その結果、この世界にやってきた尚隆が見たのは、まさに
更地となった焦土だった。
 改革を勅令で断行し、とにかく民を食わせるために働いた。だが空位の間に
独断に慣れた雁の諸侯諸官は、のらりくらりと言い訳して、素直に新王に恭順
することはなく反乱も多かった。とにかく彼らに兵力だけは蓄えさせないよう
にして時間を稼ぎ、土に養分を取り戻させて、数十年をかけてやっと雁の全土
を復興させた。
 しかし何しろ深刻な貧困による混迷のさなかのことで、尚隆が見据える未来
が見えている者は官にもほとんどいなかったから苦労の連続だった。尚隆とし
ても奸臣に囲まれていたために、そうそう意図を明かすわけにもいかず、相手
が油断するなら侮られるくらいでちょうど良い、それで貴重な時間が稼げると
ばかりに説明の労はほとんど取らなかった。おかげで最初の何十年かは、下官
でさえ尚隆を侮る者が多く、彼らと違って嘲弄こそしなかったものの、六太も
ずいぶんと本気の罵倒を浴びせてきたものだ。

698永遠の行方「王と麒麟(279/280)」:2013/12/02(月) 20:15:55
 だが。
 ――たくさん迷惑をかけたけど、ちゃんと許してもらえたって。
 ――莫迦なことをして本気で怒られたこともあるけど、それでも必ず挽回や
反省の機会をくれるんだって。
 腕の中の六太を見おろしていた尚隆は、そうか、とつぶやいた。
 ただでさえ慈悲の神獣たる麒麟の思考は人と違う。時に厳しい処断をせねば
ならない王とならなおさら、決して真にわかりあえることはない。
 それでも六太は六太なりに尚隆を受け入れていたのかと、尚隆は思った。ひ
たすらに慈悲の繰り言を口にするだけ、自分の軽はずみな言動が逆に被害を生
じさせ、拡大させかねないことの自覚もないから、反省がないどころか、逆に
尚隆を責めた。少なくとも尚隆は恂生からいろいろ聞くようになるまで、そう
いう生きものなのだから仕方ないと、ある意味で突き放して考えていた。
 ――なのに、たくさん迷惑をかけたと言ったのか。
 許してもらえたと。必ず反省の機会をくれるのだと――信頼の言葉を。
 なぜか泣きたいような気がした。そして想像していたよりもずっと穏やかな
気持ちで、もはや何の心残りもないと思えたのだった。

 室内に戻った尚隆は、六太を臥牀の上におろし、ふと上半身を抱き寄せたま
まの六太の寝顔を見おろした。しばらくそのまま見つめてから微笑し、低い声
で「許せ、六太」とささやいた。
「もはや俺に、雁は支えきれん。長い間に作り上げた官の機構は王を頼らない
ようになっているから、冢宰や六官どもがしっかりしていれば、あと何十年か
はもつだろうがな」
 王が覇気を失ってしまった以上、国が乱れるのはそう遠いことではない。腑
抜けた気持ちで御せるほど、国政とはたやすいものではないのだ。
 それでも真に六太を裏切るつもりはなかった。信頼に応えるため、最後の最
後まで踏ん張ってみせる。ぎりぎりまであがきつづけ、たとえ一日でも六太の
命を延ばしてみせる。
「だが安心しろ。たとえ俺の命運が尽きても、おまえを置いてはいかん。官に
などおまえの息の根を止めさせはせん。俺がこの手で始末をつけてやる」

699永遠の行方「王と麒麟(280/E)」:2013/12/02(月) 20:20:49
 尚隆はそう言うと、自然に六太の唇に口づけた。深く深く――この上もない
愛情と、遠い決別への約束を込めて。
 六太は市井の民を見るのが好きだから、こんな房室に閉じこめるのではなく、
いよいよとなったときは一緒に連れていって外の景色を見せてやろう。騎獣に
乗せて街や田畑の上を飛び、ともに山野を眺め、それから黄海へ向かおう。そ
して六太の骸とともに蓬山にのぼるのだ……。
 口づけたあと、万感の思いで再び六太の顔を眺めやる。そのまま脳裏に刻み
つけるかのようにじっと見つめていると、不意に、伏せられていたまぶたが、
ぴく、と動いた。次いで明らかな意志を持ってゆっくりと瞬く。
 思いがけぬ事態に尚隆は息を飲んだ。まばたきも呼吸も忘れて、腕の中の六
太をひたすら凝視する。
 やがてまぶたが上がり、暁そのものの瞳が現われた。まるで夜明けのようだ、
と尚隆は思った。眼球がゆっくりと動いて傍らの尚隆に焦点が定まり、ふたた
び瞬く。もう長いこと何かに焦点を結ぶことのなかった瞳に見つめられ、信じ
られぬ思いで、六太の頬にそっと掌を添えた。
 それからどれくらい経ったのか。ほんの数瞬か半刻か。時間の感覚さえまっ
たくわからなくなった尚隆の耳に、かすれた声がひそやかに届いた。
「……どうして……泣いている……」
 驚いて反射的に自分の頬に片手をやった尚隆は、初めてそこが濡れているこ
とを知った。こちらの世界に来てから泣いたことなど一度たりともなかったの
に。
 ああ、と心の中で嘆声を漏らす。自分もまだ人だったのか、悲しいとき嬉し
いときにまだ涙を流すことができたのかと、深い感慨の中でしみじみと六太を
見やる。そして「どうしてだろうな……」と優しくささやくと、そっと六太の
頬をなでた。
 長らく無彩色だった周囲の風景に、ゆるゆると鮮やかな色彩が戻っていく。
尚隆の周囲で、止まっていた時間がゆっくりと動きだしていた。

- 「王と麒麟」章・終わり -

700書き手:2013/12/02(月) 20:23:18
というわけで、やっと終わりました。
大した事件もなく、たらたら日常が続いていくだけって、書くのが難しいですねえ……。
が、これでも尚六的にはまだ前座です。

「絆」章から分離した次章「封印(仮)」は、原作の『東の海神 西の滄海』直後から
しばらくの期間を主体とする六太視点の回想です。
六太がかたくなに自分の恋心を押し隠すことにした、その辺のいきさつの話。
それが終われば、「王と麒麟」章直後からの続きである「絆」章で、やっと恋愛話に入ります。

次章開始までかなり間が空くと思いますが、しばらくお待ちください。

701永遠の行方「遠い記憶(前書き)」:2013/12/14(土) 12:38:17
※しばらく来られないかもしれないので、ちょろっとだけ置いておきます。
※章のタイトルを、仮題の「封印」から「遠い記憶」に変更しました。

この章は六太視点で進みます。
原作の『東の海神 西の滄海』直後からしばらくの間がメイン。
ただ、もともと「絆」章の最初の部分として構想したので大した長さにならない“予定”。

以下、注意事項です。
(六太びいきの人間ですが、後で(気持ちを)上げるために、ここでいったん落とす感じです)
・『東の海神 西の滄海』において明確になっていない尚隆の意図について、
 断定するように見える部分が多々あります(もともと捏造過多なので今さらですが)。
・上記に関連して、正しさは「尚隆>尚隆以外の原作キャラ」という扱いになります。
・六太を非難するオリキャラが登場します。

実際に投下を開始するのはまだ先(来年以降)になると思いますが、
試しに冒頭だけ置いていくので、警戒警報を感じたらこの章はスルーしてください。
尚六的には次章「絆」がメイン(誤解、すれ違い、乙女、メロドラマのてんこ盛り)だし、
仮にこの章を読み飛ばしても物語的に意味不明になる恐れは“まったく”ありません。
(最後の部分は六太の心情描写になる予定なので、そこだけ読んでもいいかなー、と)

702永遠の行方「遠い記憶(1)」:2013/12/14(土) 12:40:20
 六太は恋をしていた。だがその相手は同性であったため、明確な禁忌ではな
かったにしろ一般的には好ましからざるとされていた。人に知れれば揶揄の対
象ともなりかねない。何より相手が六太を何とも思っていないことは明らかで、
彼は無意識のうちに感情を抑えつけた。
 だから六太が自分の想いを自覚したのは、かなり時間が経ってからのこと
だった。そしてそれからの歳月はつらいものとなった。
 決して報われることのない想いをいだきつつ、余人はもちろん、当の相手に
も気取られることのないよう細心の注意を払う。慈悲の生きものである彼は、
もともと根本の考えかたが相手と異なっていたため、その意味では楽だった。
必要以上に相手に近づかないようにした上で、彼がその存在意義の命ずるまま
に自分の意見を述べていれば、誰もが自然と、一見近しく思えるふたりの間に
も厳然たる距離があると考えてくれたからだ。
 それでも時折、ふたりきりで宮城を抜け出すときは心が躍った。相手がたま
たま拾ってしばらく弄んだ小枝だの、舎館で用意してもらった弁当を包んだ竹
皮だのを記念にこっそり持ち帰っては、しばらく手元に置いて眺めたりした。
彼以外の者から見れば、ごみ以外の何物でもないから、誰に迷惑をかけること
もない。
 そんなふうに日々を過ごし、それでもそばにいられるだけで幸せだと六太は
思った。
 ――主上が失道なさるとしたら、きっと台輔のせいでしょうね。
 その昔、もう顔も覚えていない下吏が侮蔑の微笑とともに打ちこんだ言葉の
楔は、今もしっかりと胸に突き刺さっていたけれども。

703437:2014/03/04(火) 01:05:33
年に一度の閲覧を心から楽しみにして、早数年。
「王と麒麟」章のラスト、読ませていただきました。
よくぞ、よくぞここまで書いてくださいました、姐さん…!

>自分もまだ人だったのか

この一行こそ私的クライマックスでした。
尚隆→六太の心情変化の描写をじっくり味わいたかった者にとって、
「王と麒麟」は最高級のホテルサービスで超一流フルコースメニューを頂戴した気分です。
このお話に出逢えたことは、尚六好きとしてファン冥利に尽きる醍醐味だなぁ…と感涙にむせっております。
本当に、本当にありがとうございます。
「絆」章、心待ちにしております。
どうぞご自愛くださいませ。

704書き手:2014/05/13(火) 00:07:41
ストックから1レス分だけひっそり置いていきます。
なかなか時間が取れないので、本格的な再開の見通しは立ってません……。

705永遠の行方「遠い記憶(2)」:2014/05/13(火) 00:08:41

 元州の乱のあと、州宰だった院白沢を太保に迎えると聞いたとき、さすがに
六太は戸惑った。
 もちろん尚隆は誰も罰さないと元州城で約束していたのだし、赦されること
自体は不思議ではない。しかし太保は宰輔直属である三公のひとりであり、宰
輔を助けて王に助言と諫言をするのが職分だ。そこに謀反の中枢にいた者を迎
えるというのだから、誰が聞いても唖然とする措置だった。
「なに、下官でいいから少し国府で働かせてもらえないかと白沢に頼まれてな。
だが、さすがに、もと州宰を下官に使うわけにもいくまい」
「だからって太保にするか? そもそも三公は州宰より位が上なんだぞ。言わ
ば栄転じゃないか」
 帷湍も呆れ顔で主君に意見したものの、尚隆の語調はあくまで気楽だった。
 元州城では長年、斡由に幽閉されていた州侯が救出されたものの、梟王にお
もねって大勢の民を虐げた罪が明らかで既に罷免されている。数十年間、表舞
台から遠ざかっていたために影響力はなく、謀反の件もあって更迭は容易だっ
た。令尹の斡由も王によって罰された。これで謀反さえなかったなら、とりあ
えず州六官の筆頭である州宰白沢が政治を主導したのだろうが、何しろ陰謀の
中枢にいた人物だ。おまけに白沢は宮城まで斡由の要求を伝えにきた使者でも
あるため、さすがに他から王に恭順する者を立てる必要があった。
 そこで尚隆は光州に派遣していた牧伯を元州侯に据えた。元州の乱への対処
の一環として首をすげかえたばかりの光州侯は、謀反のような大悪とは縁のな
い、財を蓄えることばかり熱心な小悪党にすぎないため、とりあえずは他の者
でも牧伯は間に合うからだ。
 すると白沢は、末端の下官、何なら府吏以下で構わないからしばらく国府で
働かせてほしいと懇願し、それならと尚隆は太保に任じることにしたのだとい
う。太師と太傅は、これまた乱に対処する際に光州から迎えたばかりなので据
え置き、末席の太保だけ入れ替えるわけだ。
「主上に恭順したように見えても内心はわかりません。獅子身中の虫というこ
とになりませんか?」

706永遠の行方「遠い記憶(3)」:2014/07/07(月) 23:42:55
「まあ、大丈夫だろう。白沢は身の回りの世話をさせる下吏をひとりだけ連れ
てくるそうだ。あとの人員はこちらに任せると」
 懸念の表情を浮かべて言った朱衡に、尚隆はそう答えた。白沢にしろ、自分
がどう見られるかは承知していて、身辺に元州出身者を極力置かないことで悪
心がないことを示すつもりなのだろう。言外に、監視されてもかまわないと
言っているわけだ。とはいえ連れてくる側仕えがたったひとりというのも極端
な話だった。
「州宰は、光州から迎えた冢宰や内朝六官と人脈があるのでは」
「人脈というほどではなかろうな。あくまで斡由主導による書簡のやりとりが
主体で、個人的な関係はなかったようだから。州宰が他州に赴けば目立つと
あって、本人が元州城を出たのも玄英宮に来たときぐらいだったらしい」
「では元州と連絡を取りあうつもりも、自分の派閥を作るつもりもないという
ことでしょうか。他の派閥に入るつもりも」
「そのようだな。まあ、いい経験にはなるだろう」
「はあ」
 朱衡は困惑まじりながらもうなずいた。
 王に恭順する者を元州侯につけ、令尹および州宰の後任は新しい州侯が任じ
る。もと州宰のほうは国府で三公に迎えられて位は上がるものの、実権も人脈
と言えるものもない。結果としては旧元州政府の穏便な解体と言えるだろう。
位が上がる代わりに、宮城にいることで、もと州宰の体面を保ちながら国府が
監視するのも容易になる。第一、水面下で元州と手を結んでいた光州から冢宰
や六官を迎えたくらいなのだ、あらためて考えればそう無茶な話ではなく、そ
れなりに均衡は取れていると言えた。

707書き手:2014/07/07(月) 23:44:58
ちまっと、また1レスだけ。
次は……たぶんまた間がかなり空きます。

708永遠の行方「遠い記憶(4)」:2014/07/13(日) 10:19:44

「本当にひとりしか連れてこなかったんだ……」
 その日、直接の上司となった六太の元へ、白沢が着任の挨拶に訪れた。仁重
殿の客庁で迎えた六太は、平伏する面々を見て少し複雑な気分でつぶやいた。
 事前に聞いていたとおり、供は下吏らしき青年がひとり。白沢は叩頭したま
ま、くぐもった声で六太のつぶやきに応えた。
「主上の過分なご厚情のもとに大任を拝命いたしましたが、元より犯した罪を
忘れたわけではございません。身ひとつで参る所存でしたが、さりとて宮城の
方々のお手をわずらわせるのも申しわけなく、この者に身の回りの世話をさせ
ていただくことを主上にお許しいただきました」
「いや、そりゃ、別にいいだろ、供ぐらい何人いても。――まあ、顔を上げろ
よ。ふたりとも、長旅ご苦労だった」
 顔を上げた彼らは礼節に則って、六太の顔でも足元でもなく、胸元のあたり
に視線を据えた。
「尚隆には? もう挨拶したのか?」
「ただいま、天官を通じて拝謁の許可を願っているところでございます」
「そっか。じゃあ、とりあえずお茶でも飲もうや」
 六太は奥に顎をしゃくり、既に女官が茶器を用意して待っていた卓を示した。
御前とあって、下吏のほうは緊張に青ざめ、立ち上がった際に足元もふらつい
たが、白沢はさすがに自然体だった。六太の着席を待って、自分も示された下
座に座る。下吏はと言えば、側仕えらしく近くの壁際に慎ましく立って控えた。
「とにかく、よく来たな」
 六太は茶を勧めながら歓迎の言葉を口にした。それでも複雑な心境は拭えな
い。
 もと元州の州宰。斡由の重鎮のひとり。
 あの乱で更夜にさらわれた際、斡由と対面した折も傍らに控えていたし、尚
隆に斡由の要求を伝える使者にもなったと聞いた。まさしく陰謀の中枢にいた
人物であり、尚隆が何を考えて三公に抜擢したのか、六太には今もってさっぱ
りだった。

709永遠の行方「遠い記憶(5)」:2014/07/13(日) 10:42:25
「今日からおまえは俺の直属ということになる。王に助言や諫言をするのが仕
事だ。もっとも」いったん言葉を切っておどけて見せる。「実際のところ、ほ
とんど仕事はないだろうけどな。尚隆は何でも勝手にやるから」
 これには白沢は微笑するのみで応えた。
「……元州はもう落ち着いたのか」
 ふと声を落として尋ねると、白沢はまた微笑して「大体は」とうなずいた。
「むろん新しい元州侯のもとに、調査は引き続き行なっております。今になっ
てみると、法外に行方不明者が多かったことがわかりまして」
 そう言ってさすがに顔を歪める。
 尚隆は確かに元州の謀反を赦したが、それは事件をうやむやにすることと同
義ではない。犯罪は犯罪であり、州侯の幽閉と哀れな身代わりのことを始めと
して、きっちり捜査して事件を解明することは必要だった。それにどこかに謀
反の芽が残されていないとも限らず、あるいは他州に飛び火しかねない火種が
くすぶっているかもしれない。それらをみずから綿密に調査することで、元州
の王への恭順を態度で示す意味もあった。
 さらに言えば調査に先立って、州城内において不審な行方不明事件が多発し
ていたこともわかっており、これまで州府で門前払いされてきた家族や縁者が、
続々と国府に訴え出ていた。
 そうして判明したのは、官位の高低を問わず、この十数年でかなりの官吏が
行方不明になっていたことだった。その数、十や二十ではきかない。国府には
既に簡単な報告が上がってきていたので六太も知っていたが、記録と聞き取り
結果を丁寧に突き合わせてみれば、実に百名を超える州官や下官、下働きが、
身の回りの品をすべて置いたまま忽然と姿を消していた。
 ――おそらくはすべて更夜が妖魔に喰わせたのだ。斡由の命令で。
 逆に言えば、それだけの人間が斡由の本性を見抜いていたということだろう。
そして非難するなり対抗するなりした結果、斡由の逆鱗に触れて闇に葬られた
のだ。
 ただ周囲の人間の中には、不明者の末路を薄々察していながら自身の生命を
守るために口を閉ざしてきた者も少なくなかったらしい。その恐怖の重石が取
れた今、事情聴取に訪れた秋官に堰を切ったように諸々を訴えているという。

710永遠の行方「遠い記憶(6)」:2014/07/13(日) 10:44:46
 六太はうつむいて、「そうか……」とつぶやいた。斡由は暴君にはならない
と更夜は言った。だが実際は、その時点で既に血にまみれた暴君だったのだ。
「白沢は生まれも元州か?」
 普通、国官以外の官吏になる場合は州から出ることはない。つまり生まれ
育った州の官府で登用される。
「さようでございます」
「遠く離れてしまうと、元州のことが心配じゃないか?」
「それは、もちろんでございますが」少し驚いたように口ごもってから「しか
しもう拙官が関わっては、逆に元州のためにはならないでしょう。いずれにし
ても既に州宰の任を解かれております」
「まあな。にしたって、太保に任じた尚隆も滅茶苦茶だけど」
「……わからないのです」
「ん?」
「わたくしどもがいったいどこで何を間違ったのか」
 白沢は苦悩の声音で心中を吐露した。
「元州の事情を斟酌してくださった台輔には正直に申し上げます。拙官には元
伯が掲げた大義自体が間違っていたとは、今でもどうしても思えないのです。
もちろん元伯の本性を見抜けず、かしらに戴いたことは大きな過ちでした。そ
れだけはわかるのですが」
「うん……」
 何をどう言いようもなくて、六太はただ相槌を打った。
 謀反は確かに大罪だが、尚隆に非があったのも事実なのだ。最後の最後でた
またまうまく転んだから王の首がつながっただけで、元はと言えば、重要な堤
さえ整備せずに長年放っておいたつけが回ってきたに過ぎない。
「しかしながら、ああいう結末になったからには何かが間違っていたはずなの
です。もしかしたら、そもそもの最初から、何もかもが」
「……そうなのか?」
 意外な返答に六太は驚いた。しかし手段は間違っていたかもしれないが、あ
のときの元州には大いに同情の余地があったのではなかろうか。元州の民が毎
日洪水の恐怖に怯え、何とか自治を得て堤を整備したいと切望した心情は、六
太にもじゅうぶん理解できた。

711永遠の行方「遠い記憶(7)」:2014/07/14(月) 00:26:58
「さようです。それで国府を見れば、何を間違ったのか、その手がかりなりと
つかめるのではと考え、厚かましいことは承知の上で主上にお願いいたしまし
た。まさか太保に任じていただけるとは思いもよりませんでしたが」
「尚隆のことだから、実はなーんも考えてないかもしれねーぞ」
 六太のからかいを白沢は「さ、それは拙官には何とも」と穏やかに受け流し
た。
「主上のお人柄は存じておりませんゆえ。それでも――」ふと遠くを見るよう
なまなざしで続ける。「少なくとも元伯より懐の深いかたであられるのは確か
でしょう」
「……まあな……」
 だが同時に、得体が知れない、とも六太は思う。尚隆の本音がどこにあり、
何を目指しているのか、この期に及んでも六太にはわからないでいた。
「もし――もし、主上のお考えの一端なりと垣間見ることができましたなら、
あるいは雁の未来を見ることができるのかもしれません。今よりは良い未来を」
「そうかな……」
「少なくとも元伯と異なり、主上は誰も手にかけてはおられません」
 結果的に斡由だけは斬ったが、あれはさすがに斡由の自業自得だろう。
 六太は一瞬言葉に詰まり、ややあってこう言った。
「……更夜のこと、許してやってくれな」
「更夜――元伯の射士だった男ですな。妖魔を飼っていた」
 今では白沢も、彼が暗殺者を務めていたことを知っている。大量の行方不明
者の直接の原因であろうことも。
「うん……。もちろん更夜がひどいことをしたのはわかってる。でも仕方な
かったんだ。斡由に拾われて恩を感じていたし、他に行くところもなくて逆ら
えなかったんだから。でも本当はいいやつなんだ」
 ふと他方からの視線を感じた六太が何気なく目を転じると、白沢の後方に控
えていた下吏と目が合った。彼は礼儀も忘れ、愕然とした体で六太の顔を凝視
していた。

712永遠の行方「遠い記憶(8)」:2014/07/26(土) 13:30:18

 白沢はまた微笑して、「主上がお赦しになりました」とだけ答えた。
 王が赦したものを自分が許さぬはずはない、ということだろうか。自身も主
君の前に大罪人として並び、赦されたひとりなのだから。それとも――。
 そこへ、客庁に侍っていたのとは別の女官が現われて来客を告げた。
「台輔。太師と太傅が参っておりますが」
「うん? 何の用だ?」
 三公は王の助言者だが、とりあえず新参の白沢をのけたとしても、現在の太
師と太傅は適当に与えられた役職にすぎない。それだけに、これまでみずから
仁重殿に伺候することもなかった。
 六太が元州城から宮城に戻ってきたとき、三公六官の顔ぶれががらりと変
わっていて驚いたものだが、尚隆が光州から招いたのだという。あとで朱衡に
聞いたところでは、光州は斡由率いる元州とひそかに結託していたそうだから、
それをあえて宮城内に引き入れた尚隆の思惑はよくわからなかった。
 しかし適当に高い官位を与えて、良からぬことをしないよう機嫌を取ろうと
しているんだろう、ぐらいのことはおぼろに想像がつく。それだけに太師らの
興味は、権力を拡大することと私腹を肥やすことに集中しており、民の暮らし
になどまったく関心がなさそうだった。六太のことも、接する態度こそうやう
やしいものの、本音では大して敬っていないのは明らかだった。
「何でも、太保がこちらにお見えと聞いて、ぜひ挨拶を、と」
「ふうん?」
 六太は白沢を見やり、彼がうなずいたのを見て、女官に客を通すよう伝えた。
来訪した太師らは、六太に叩頭して挨拶したのち、席を立って拱手していた白
沢に、にこやかに声をかけた。
「おお、貴殿が元州の」
「お初にお目にかかります。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。まずは台輔に
着任のご報告を、と思ったものですから」
「なんのなんの。もとより承知のこと。よく参られた」
「三公府にてお待ちしていても良かったのだが、何かとお困りのこともあろう
かと馳せ参じた次第。何と言っても元州の犯した大罪を思えば、特別に主上に
お赦しをいただいたとて肩身も狭かろう。何かあれば我らが主上にとりなすゆ
え、ぜひご相談くだされ」

713永遠の行方「遠い記憶(9)」:2014/07/26(土) 13:34:15
 妙に愛想の良い彼らを、六太は胡散臭そうに見やった。そんな視線などまっ
たく意に介さず、太師が続けた。
「時に太保。こたびの謀反を主上は寛大なお心でお赦しになったが、それに甘
えてはならぬだろう。やはり誠意というものは見せねばならぬ」
 自分たちも元州と結託していたくせに、いけしゃあしゃあとそんなことを口
にする。
「聞けば、元州は不正に財を貯めこみ、首都州である靖州よりも豊かだとか。
この際――」
 六太は顔をしかめた。他州に比べて元州が豊かなのは確かだが、別に不正を
したわけではなかろう。だが白沢はなんら抗弁しなかった。
「――元州が貯めこんだ財を主上に献上されてはいかがかな? もと州宰なれ
ば、その辺の財政事情にも詳しかろう」
「ご配慮、いたみいります」白沢は慇懃に頭を垂れた。「しかしながら小官は
既に州宰の任を解かれた身。現在の州政は主上が任じられた新しい州侯の領分
でございますれば」
「おう。それはそうなのだがな。しかし」
「代わりに小官は私財をすべて整理して参りました。新参の田舎者ゆえ、ご迷
惑をおかけするかもしれませんので、もともと三公六官の皆さまには、ご挨拶
に伺いがてら財を献じるつもりで」
 それを聞いたとたん、太師らは破顔し、目に見えて上機嫌になった。
「おお――おお、さすがに心配りのあることだ」
「恐れ入ります」
「ではのちほど三公府に参られよ。六官にも口添えし、貴殿の心遣いを伝えて
おくゆえ」
「ありがとう存じます」
 彼らは再び六太に挨拶すると、意気揚々と退出していった。
 六太は、ふう、と息を漏らし、白沢を促して座らせてから「ごめんな」と
謝った。六太のせいではないが、宰輔の御前であることも気にせず、堂々と賄
賂を要求するさまには溜息しか出なかった。

714永遠の行方「遠い記憶(10)」:2014/07/26(土) 13:36:19
 とはいえ、いたたまれない、というほどではない。雁は貧しく、一般の官の
志も低いのはこの二十年でよくわかっていたのだから今さらだ。それにいずれ
は改善していくはずだ――していってほしい、と思う。
 だが元州城にいた間は、同種の光景を見たことも話に聞いたこともなかった。
いろいろ鑑みても、六太が気づかなかっただけで水面下で横行していたとも思
えない。大逆を犯したとはいえ、その点、斡由は立派に元州を治めていたのだ。
 そう考えると、多少ばつが悪い思いをする六太だった。尚隆の統治の手腕が、
果たして白沢の主君だった斡由より優れているものかどうか。
 一方、その白沢は相変わらず動じる気色もなく、穏やかに答えた。
「台輔が気になさることはございません。これも世の習いというものでござい
ましょう。いずれにしましても太師に申し上げた通り、もともと私財を献じよ
うとは思っておりました」
「あんまり遠慮しなくていいんだぞ。いろいろあったが、太保に任じられたの
は事実なんだ。実権がないとはいえ領地だって相当な広さだし、下につく下官
や胥徒、奄奚の数もきちんと法で定められている。おまえが連れてきた下吏ひ
とりじゃ、身の回りの雑事をこなすのはもちろん、俺や他の官とやりとりした
り、先触れを遣わしたりする程度ですら手が回らないはずだし、配属された連
中のことは遠慮なく使っていい」
「お気遣い、かたじけなく」
「うん」六太はうなずいて笑いかけた。「とりあえず今日はもう下がっていい
ぞ。疲れているだろうし、急ぎの用事もないから、何かあっても明日以降でか
まわない」
「かしこまりまして」
 退出する白沢らを見送りながら、六太は多少は複雑な気分が拭えたような気
がしていた。
 もと州宰だけあって取り繕いはうまかったが、白沢の言葉そのものに嘘は感
じられない。人柄自体は誠実なのだ。国府に入ることを願ったのは、決して陰
謀や栄誉栄達のためではないだろう。そしてそんな彼がいったん王に仕えるこ
とを選んだ以上、二度と同じ罪を犯すことはないに違いない。

715書き手:2014/07/26(土) 13:38:23
とりあえずここまで。

10レスも使って白沢が着任の挨拶に来たあたりまでしか話が進んでないとか、
結局この章も想定より長くなる予感……orz

次回の投下は未定なので、今度こそしばらく間が開きます。

716書き手:2015/05/03(日) 16:35:22
お久しぶりです。いや、ほんと。

やっと仕事が落ち着いたので、ようやく続きに取りかかれます。
……が、さすがにここまで間が空くとこれまで書いた内容を忘れてしまい、
既存部分を読み返していろいろ確認中。
そのため実際に続きを投稿できるまではまだ少しかかりそうですが、
もう少々お待ちください。

せっかくなので書き逃げのほうに、尚六の掌編を一本おいていきますね。

717名無しさん:2015/05/12(火) 04:42:50
私もこの春からまた読み返してちょうど一週間ほど前にまた再読しおえたところでした
すごくタイミングがあってwktk

718703:2015/11/16(月) 17:43:22
久しぶりに読み返しては、新たな感動に浸っております。
今年から執筆に取りかかれそうとのことなので、続きを楽しみに待っています。
これほどの大作ですから、じっくり味わっていきたいですね。

719永遠の行方「遠い記憶(11)」:2017/03/11(土) 15:41:20

 ちょうど尚隆が姿をくらましていたこともあり――というより、所在が知れ
ていることのほうが少ないのは謀反の前と変わらないのだ――白沢が王に拝謁
が叶ったのは五日後のことだった。
 あとで白沢から苦笑まじりにそれを聞いた六太は、自身も苦笑した。
「あいつはいつもあんなもんだ。急ぎの用事があるときは、見かけたら即、つ
かまえないと逃げられるぞ」
「主上は驚くほど活動的でいらっしゃいますな」
「物は言いようだな。あいつ、すぐに行方をくらますから官はいつも探し回っ
てる――まあ、知ってるだろうけどさ」
 何しろ他ならぬ斡由が、そうなじっていたのだから。官は始終、王を探し
回っている、と。
 そのときのことを思い出した六太は、複雑な胸中ながらもへらりと笑ってみ
せた。そうして王が普段からいかに官を困らせているかのあれこれを、面白お
かしく披露した。
 白沢は何も言わずに微笑とともに拝聴し、やがて頃合いと見て辞去していっ
た。去り際、彼のあとに付き従っていた下吏が眉をひそめ、六太をちらっと見
たような気がした。

 翌日には七日に一度、三公六官が一堂に会する朝議にも白沢は出席し、気負
うことなく自然になじんでいった。六太の生活も、完全に謀反の前の状態に
戻った。
 それでも一応、六太は白沢のことは気にかけるようにしていた。三公は宰輔
の直属だし、心中を吐露した際に見せた苦悩の表情に同情を感じていたことも
ある。だがそれよりも、告げた動機通りに国府の状況を見聞し始めたようだが、
どこに赴くにしろ必ず事前か事後に六太に報告を入れていたため、単純に顔を
合わせることが多かったからだ。

720永遠の行方「遠い記憶(12)」:2017/03/11(土) 15:43:42
 疑いをいだかれないようにしているんだろうな、とはさすがの六太も気がつ
く。三公の職務である王への諫言や進言をするでもなく、ひたすらあちこちの
官府を見聞しているとなれば、普通は陰謀を疑うに決まっているのだから。
 毎日のように白沢から下吏を差し向けられ、あるいは本人が直接出向いて見
聞先に対する許可や報告を受けるのは、普段の六太なら面倒に思ったにことだ
ろう。しかしいまだ苦悩の中にいるらしい白沢が自分自身を納得させたいと
思っているなら、その手伝いをするのはやぶさかではなかった。何より荒廃の
中で元州を支えていた人物のひとりなのだから、白沢の行動は回り回って少し
でも民が潤う一助になるかもしれない。 そんなふうに思って接していると、
白沢は必ずしも件の下吏を同道しているわけではなかった。たったひとりを厳
選して連れてきたくらいなのだから腹心の部下だと思いこんでいたのだが、下
吏は自分を重用する白沢に対して逆に淡泊でさえあり、特にそういったことに
無頓着な六太でさえ、気づいてみれば首を傾げるほどだった。

「あの下吏は今日も連れてないんだな。元州から連れてきた……」
 あるとき六太は、別の胥徒を伴って仁重殿を訪った白沢に何気なく聞いた。
表面上はなじんだとはいえ、白沢にとって宮城は居心地の良い場所ではないだ
ろう。だからこちらが用意した胥徒を使いはしても気を許すまではしないだろ
うと思い、少し心配したのだ。
 白沢は問いに少々不思議そうな顔をしながら、「曠世(こうせい)のことで
ございますか」と穏やかに返した。
「本日のこの時間ですと、大学にお邪魔させていただいております」
「大学?」六太はきょとんとした。「まさか入学したのか?」
「いえ。ごく一部の講義のみ、聞く許可を主上よりいただいたものですから」
 聞けば曠世という名のその下吏はなかなか優秀らしく、彼が得意とする一部
の学科のみ、特別に聴講して良いことになったのだという。入試を受けられる
ほどの学力ではないらしいのだが、大学は雁全土から優秀な人材が集まってく
る場だ。そこに一部の学科とはいえ加わることを許されたのだから、大したも
のだと六太は素直に感心した。

721永遠の行方「遠い記憶(13)」:2017/03/11(土) 15:45:46
「ああ、そうか。そのために連れてきたのか」
 六太が得心してうなずくと、白沢は「あ、いいえ、そうではなく」と否定し
た。そもそも簡単に聴講の許可がおりるとは思っておらず、だめでもともとと
ばかりに頼んでみた結果らしい。
「あの者は仙籍に入ったのも比較的最近で、実際の年齢もまだ若いのです。身
寄りもないものですから、この際、いったん元州を離れ、中央で新しい知識を
学ばせれば本人のためにもなるかと思いまして」
「へえ」
「それに曠世はもともと元伯に――斡由に批判的でございました。それだけに
拙官にも遠慮がございません。いっそ、そういう者のほうが身辺に置くのに良
いでしょう。拙官の気づかぬ失態に気づいて諌言してくれるやもしれません」
 六太は目を瞬いた。
「いずれにせよ、拙官のいただいた太保の職は一時的なものと心得てございま
す。しかし短い間とはいえ、前途有望な若者を大学の空気に触れさせてやれれ
ば、元州に戻ったときに州政府の役にも立ちましょう」
「そ、そう、か。それで聴講を……」六太は何と返していいものやらわからず
に、ようやくそれだけ答えた。
「ただ実際にお許しいただけるとは思っておりませんでしたので、それについ
ては本当に驚きました。主上は鷹揚に笑って、好きにしろ、とだけ」
「ふーん……」
「主上には拙官にも、好きにしろ、と」白沢は苦笑した。「各官府を見学させ
ていただく際、当初は予定表を作った上で都度主上にも許可をと思ったのです
が、不要と言われてしまいました。むしろ面倒だから、それだけのためにいち
いち来てくれるな、と釘を刺されまして」
「まあ……その辺の態度は謀反の前と何も変わってないからなあ。官があいつ
をつかまえるのも相変わらず大変だ」
「そのようでございますな」

722永遠の行方「遠い記憶(14)」:2017/03/11(土) 15:48:12
「ま、何にしても、そういうことなら官府訪問の予告のたぐいは、今そうして
もらっているように引き続き俺に言ってくれていいぞ。何ならこれからは毎日、
午前中は朝議が終わったら見学に行って、午後は俺んとこに来ると流れを決め
ておくとかな。だからどうだってわけでもないけど、そう言っておけば明らか
に俺への報告のためって名目になるから、周りも納得しやすいんじゃないか。
おまえも黙って動き回るよりは気が楽だろう」
「ありがたいことでございます。ただこれまで伺った各部署の責任者にはどう
も賄賂の催促と受け止められたようで」
「へ?」
 驚く六太に白沢は片眉を上げ、おどけたように続けた。
「本当に勉強のつもりでいるのですが、こちらの出方を探られております。む
ろん厄介事にならぬよう、懺悔のためと正直に伝えておりますが、どこまで信
じてもらえているやら」
「……まあ、無理だろうなあ……」
 六太はつい腕組みをして唸った。実際、あちこちで賄賂のやりとりが蔓延し
ているのだから、訪問先の官府にとっては自然な発想なのだろう。
「あまり否定するのも逆効果でしょうから、贈られたものは素直に受け取って、
すべて主上に献上することにいたしました。これまた主上には笑われてしまい
ましたが」
 曠世に言いつけてきっちり作成した目録とともに献上しているとの話だった
が、尚隆は現物には関心を寄せなかったものの、どのような品や金額が賄賂に
使われたのかについては興味を示したらしい。
「それでせっかくなので相談させていただきたいのですが、大抵は曠世を伴っ
ているのです。しかし官府に赴く際はあえて他の者を――宮城で用意された胥
徒を――伴ったほうがよろしいでしょうか」
「うーん」
 六太は考え込んだ。確かに腹心と見なされている下吏だけを伴って白沢が現
れれば、密かに他の官と顔をつないで何かを企もうとしているように見えるだ
ろう。
 だが。

723永遠の行方「遠い記憶(15)」:2017/03/11(土) 15:50:14
「別にそこまで気にしなくてもいーんじゃねえの?」へらっと笑って言う。
「尚隆だって勝手にやれと許可したわけだろ?」
「はい」
「だったら王の許可はあるんだから気にすることはない。なんたってあれでも
雁の最高権力者だ。もっとも実際は王の権威なんかあんまりないけどな」
 六太が冗談のようにして笑い飛ばそうとすると、白沢は先ほどまでのやわら
かい表情を曇らせて沈黙した。
「……どうした?」
「驚きました」
 白沢はぽつりと漏らした。「主上の周囲は敵ばかりだったのですね」と。
 敵、という激しい表現に六太は少しひるんだ。敵も何も……すべて尚隆の民
なのだが。
「なのに主上はあれで、思いのほか宮城内の状況を把握しておられる。手足と
なる者はほとんどおらぬようなのに」
 そう漏らしてから六太の複雑そうな表情に気づいたのだろう、「つまらぬこ
とを申しました」と話の区切りでもあったので辞去しようとした。
 六太は彼を送りながら、努めて朗らかな態度で接した。元州の事件のさなか、
尚隆は元州とつながっているとわかっていて、光州から新たに三公六官を迎え
た。もともとそんなでたらめをやる呆れた王なんだから白沢が気にすることは
何もない、あいつは自分で墓穴を掘ってるんだから、と。
「それと官府への訪問の予定や報告以外にも、思うところや気づいたことがあ
れば俺に言ってくれ。そりゃ、何か身になる助言をしてやれるわけでもないだ
ろうけど、それでも誰かに話すと考えもまとめやすいだろ。もともと俺の直属
なんだから、遠慮はいらない。これからの国のためにも忌憚のないところを聞
かせてほしい。あと曠世だっけか、これまで通り、俺のところにだって遠慮せ
ずにいつでも連れてきていいんだぞ。せっかくだから大学の話なんかも聞かせ
てくれよ。俺、行ったことないし、ちょっと楽しみだ」
「お気遣い感謝いたします」
 白沢は頭を下げ、退出していった。

724書き手:2017/03/11(土) 15:52:47
なんだか予定に反して随分間があいてしまいました。
また忙しくなってしまったので続きはいつになるか未定。
今回まとめて載せたぐらいの量なら、さほどかからないとは思いますが。

……というか全然色気がない……。

725永遠の行方「遠い記憶(16)」:2017/03/14(火) 21:50:36

 こうして、気になる点がないでもなかったが、白沢とはまずまず良い関係を
構築できたのではないかと六太は思った。どうせ尚隆は六太だけでなく官の言
葉も聞かずに勝手をするのだ、しばらくは尚隆のやることに目をつぶっている
と約束したことでもあるし、そのぶん暇だ。
 むろん靖州侯たる六太にも政務はある。しかし宰輔に実権がないと言われて
いるのは、首都州は実際のところ州の宰相たる令尹が仕切っているからだ。六
太の仕事は現状、朝議や儀式等で王の傍らに侍るのを除けば、書類に承認の署
名や押印をするのが主体。時間はたっぷりあったから、数日後の午後、さっそ
く白沢が下吏の曠世を伴って仁重殿を訪問したのを喜んで迎えた。
 胸襟を開いていることを示そうと、六太はあえて、尚隆が建物を解体させて
周囲がみすぼらしくなった庭院を臨む房室に席を設けた。もちろん場そのもの
はきちんとしつらえられているし、女官も数人控えている。開け放たれた窓か
ら見える風景もあからさまに寒々しいわけではないから、礼を失しているとか
相手を軽んじているように見えるわけではない。ただ宮城にしてはちょっと質
素なだけだ。そうして尚隆が半数もの建物を解体して石材や木材として売り
払ったことを、率直にというよりはむしろ滑稽な話として大げさに話した。
「あいつ、いつもこんな調子ででたらめなんだよ。官も呆れて物も言えないっ
て感じでさ。元州と比べてがっかりしたろ。頑朴は関弓と違って活気もあって
綺麗だったもんな。元州城だって――」
「――畏れながら!」
 六太は曠世にも席を作って白沢の傍らに座らせてやっていたのだが、その曠
世が突然強い声を上げて六太の言葉を遮った。
「畏れながら台輔に申し上げます。ここ関弓より頑朴が栄えて美しかったのは、
主上が富を関弓に集めなかったからと拝察いたします。それは地方にも平等に
心を砕いておられるゆえではないでしょうか。宮城が元州城よりみすぼらしい
のも同じこと。凡庸な王であれば単純に自分の住まう首都を優先して整備する
ところを、主上はご自身が贅沢をなさることより、華やいだ風景や活気に満ち
た賑わいでご自分の目を楽しませることより、いまだに明日の食にも事欠く切
実に貧しい地域を少しでも助けることを優先しておられるのです」
「は……」

726永遠の行方「遠い記憶(17)」:2017/03/14(火) 21:52:36
 六太は目を丸くして相手をまじまじと見た。思い詰めた様子の曠世は、むし
ろ六太を睨む勢いでこわばった視線を向けている。白沢は小さく溜息をつくと、
曠世に「控えなさい」と叱責した。
「いや……別に構わない、け、ど」
 六太は白沢に取りなしながらも口ごもった。曠世は何か言いたげだったもの
の、いったん飲みこむことにしたらしい。謝罪するように深々と頭を下げたあ
と、しばらく口元をぎゅっと引き結び、六太が瞬きながらも見つめているうち
に再び口を開いた。
「ご無礼いたしました。畏れながら台輔に伺いたいことがございます。お許し
いただけるでしょうか」
「あ、ああ。何だ?」
 白沢の着任の挨拶のときは、曠世はただ六太を畏れ敬っていただけに見えた。
だが今は敵意とまでは行かずとも気圧されるぐらいには鋭い覇気を放っており、
六太は困惑を隠せなかった。
「台輔は斡由の射士だった男、妖魔を飼っていた駁更夜と古くからのお知り合
いだったと伺いました。だから更夜が斡由の命で台輔をさらったとき、台輔は
斡由の言いぶんに理解を示して元州城にみずからお留まりになったのだと。宮
城におられた台輔はいつ、元州の射士とお知り合いになったのですか?」
「ああ、そのことか」
 六太は何かほっとしてうなずいた。確かに不思議に思われるかもしれない。
二十年近く前の懐かしい出会いをちらりと思い浮かべ、六太は我知らずほほえ
んだ。
「十八年ぐらい前に一度会ったんだよ。息抜きに使令に乗って元州の黒海沿岸
あたりを飛んでたら、例の妖魔に乗って飛んでた更夜とすれ違ってさ。びっく
りして追いかけたんだ。まだ更夜は十かそこらで、斡由に拾われる前で。ずい
ぶん汚い格好をして腹を空かせてた感じだったから、一緒に飯でも食おうって
誘ったんだ。ちょうど餅の袋を持ってたし」
 そう答える。曠世が何かを待つようにしばらく黙っていたので、六太は首を
傾げた。
「――えっと?」
「それで……?」
「うん、それで。それでいろいろ話しながら、一緒に餅を食べたんだ」
「……は?」

727永遠の行方「遠い記憶(18)」:2017/03/14(火) 21:55:00
 曠世の表情が驚愕に彩られるのを、不思議な思いで見返す。長い沈黙のあと
で、曠世はようやく口を開いた。
「それ、で……餅を、食べて」
「うん?――うん」
「さほど長い時間ではありません――ね……?」
「そ、う――だな。うーん、半刻(一時間)もなかったかな?」
「十ばかりの子供の時分に一度、半刻ばかりともに餅を食したから。だから十
八年も経って更夜の仕える斡由が内乱を起こそうとしても信用なさった、と?」
 六太は黙った。黙らざるを得なかった。ようやく相手の言いたいことがわ
かったからだ。
 確かに――客観的に見ればそれだけだ。それだけだった。それだけで六太は
無条件で更夜を信用した。
 きっと何を言っても相手には理解されまい。そんな思いのまま顔を伏せ、膝
の上で拳を握りしめる。
 だって更夜は六太だったのだ。罪なくして親に捨てられた六太だったのだ。
 だから――ああ、だから。
 暗い顔をして何も言い返さない六太に、曠世は表情をいっそうこわばらせた。
そうして押し殺すような声で「たったそれだけであの男を信用したのですか」
と吐き捨てた。
「曠世、控えなさい。台輔に無礼だ」
 ぎり、と歯を食いしばった曠世を、再び白沢がたしなめる。実際、下吏ふぜ
いが宰輔にこんな物言いをしたら、死罪を申しつけられても抗弁はできない。
侍っている女官らも顔色を変え、これ以上の無礼があれば取り押さえられるよ
うに身構えた。
 白沢は溜息とともに、六太の許しを得て曠世を退出させた。意気消沈した六
太に、残った白沢は「実は」と説明した。
「州城の行方不明者の中に、曠世の大伯母と兄がおりましたのです。他の者と
同様、私物をすべて置いたまま姿を消しました」
「それは……」
 六太は絶句した。

728永遠の行方「遠い記憶(19)」:2017/03/14(火) 21:59:15
 不明者はまず全員が更夜の妖魔に食われたのだろうと推測されている。曠世
は州府に幾度も捜索を訴え出、門前払いをされ続けていたらしい。ようやく調
査が行なわれることになったものの、生存の見込みは薄い。そうして聴取の過
程でたまたま白沢の目に止まり、紆余曲折を経て、こうして供をするに至った
のだという。
 道理で斡由に批判的だというわけだ、と六太は暗い思いで納得した。斡由に
処分されたらしいからには、曠世の親族はもともと斡由に否定的な立場だった
のだろう。その影響を受けたにしろ、州政府の仕打ちに憤ったにしろ、元州の
もとの執政陣に対して曠世が恨みをいだいているのは想像に難くない。
「しかも両親は曠世が幼い頃に亡くなり、官吏だった大伯母の援助のもと、年
の離れた兄に育てられたようなものだとか。そんなあの者にとって、駁更夜は
もちろん、斡由に従っていた拙官も家族の仇なのです」
「仇……」
 六太は呆然と呟いた。着任の挨拶に訪れた際、更夜をかばった六太に愕然と
した彼の表情が脳裏に蘇った。
「そのことは、尚隆は……?」
「知っておられるようですな。主上への使いは曠世に命じておりましたが、聞
けばいろいろと声をかけてくださっているようで。大学での聴講を許可してい
ただけたのもそのせいかもしれません。おかげでこの短期間で、曠世はかなり
主上に心酔していると言ってもよろしいかと」
「そうなんだ」
 意外に思いながらも、だからか、と得心する。だから尚隆をおとしめるかの
ような六太の発言にも過剰に反応したのか。
「曠世には不明の大伯母と兄以外に身寄りがございません。しかしながらその
ことと、台輔への無礼を許容することは違います。若いとはいえもう少し分別
があると思ったのですが、もう御前に出さないほうが良いようですな。次から
は別の者を――」
「いや、構わない」六太は即座にきっぱりと返した。「むしろちゃんと話し
合って理解を深めたほうがいいだろう。曠世だっていつまでも暗い感情に囚わ
れていたくはないはずだ」
 曠世の苦しみや悲しみはそれとして、少しは更夜のことも理解してほしい。
甘い考えかもしれないが、六太はそう願わずにはいられなかった。

729書き手:2017/03/14(火) 22:01:51
久し振りのせいか、早速前回の投稿内容に誤り(原作との矛盾)がありました。
話の筋には影響ないので、気づいたかたもスルーしていただければ幸いですw


またしばらく間隔が空きます。

730名無しさん:2017/03/17(金) 01:07:31
よくぞ更新してくださいました!待ってました!
続きを楽しみにしています!!

731永遠の行方「遠い記憶(20)」:2017/03/25(土) 15:29:40

 最近の六太は三日に一度の朝議にもだいたい出席している。今日も冬官主体
の朝議のあと、昼餉を挟んで広徳殿での政務を終えた六太は、仁重殿に戻る途
中で朱衡と行きあった。拱手して挨拶したのち笑みを浮かべた朱衡は「台輔も
ようやく心を入れ替えたようでけっこうなことです」と満足の体だった。
「尚隆はいなかったけどなー」
 六太は立ち止まって向き直ると肩をすくめた。特段発言することのない六太
にとって、朝議は暇な時間でしかない。朱衡は少し呆れたような顔をしたが、
出席しているだけましだと思ったのだろう、何も言わなかった。
「ちなみに今日は三公のいる日じゃなかったけど、普段白沢もまじめにやって
るぞ。そうそう、白沢が元州から連れてきた下吏な、斡由が始末した被害者の
遺族らしい」
 相手が白沢に懸念を覚えているのを知っていたのでそう教えると、さすがに
朱衡は驚いた顔になった。
「それは……まことでございますか」
「うん。だから斡由に従っていた白沢も、その下吏の――曠世にとって仇なん
だと。あえてそういう、自分に厳しい目を持つ官を連れてきたそうだ」
 朱衡が考えこむ中、六太は「朱衡は曠世と話をしたことあるのか?」と聞い
てみた。尚隆から声をかけられているというぐらいだから、何かと尚隆の元を
訪れている朱衡も見知っているのではと思ったのだ。何となくその評価が気に
なる。
「いえ。そもそも拙どもは基本的に後宮で主上とお会いしておりますので、お
そらくその者を見たこともないかと」
「そっか」
 さすがに尚隆も、腹心の部下だけを入れている内密の執務室にまで白沢やそ
の従者を招いているわけではないようだ。

732書き手:2017/03/25(土) 15:31:44
ある程度書き溜めたので、しばらくの間
推敲しつつ思わせぶりに1レス単位でちまちま出していきます。
また矛盾があるかもしれないけど、もういいやw

733永遠の行方「遠い記憶(21)」:2017/03/26(日) 12:01:18
「何でも尚隆から、大学で一部の講義を聴講する許可も得たらしい。まだ若い
し、元州に戻ったあとで役に立つだろうと白沢が判断したそうだ。それなりに
優秀なんだろうな」
「……主上に取り入っているわけですか?」
「違う」警戒を露わにした朱衡に六太は笑って否定してみせた。「むしろそい
つは何でか尚隆に心酔している。白沢が奏上する際の使いに曠世を使ってるそ
うなんだけど、なんか尚隆は曠世といろいろ話をしてやってるっぽいんだ。こ
の間も白沢と一緒に来たときに、頑朴や元州城に比べて関弓や宮城はみすぼら
しいだろと話を振ったら、尚隆が富を関弓に集めずに地方にも気を配ってる証
拠とか何とか、すごい勢いで抗弁されてさ。まいったよ」
 六太が軽い態度で困ったように頭を振ると、朱衡は小首を傾げて「それはそ
の通りでは?」とあっさり返した。
「……まあ……そうかもしれないけど」
 不承不承同意する。
「そうだ、聞いてるだろうけど、白沢は今後のために官府を見学して回ってて、
直属の上司である俺のところに都度報告に来てる。もし気になるなら、その場
に朱衡も同席するか? 大半は単なる雑談だけどな」
 朱衡は微笑して「その機会がありましたら、ぜひ」とうなずいた。

 次に白沢が仁重殿に訪れたとき、先日の六太の取りなしがあったためか、連
れていたのはまた曠世だった。気になって白沢の挨拶の合間に彼に目をやると、
こわばった表情で六太の胸元を見つめていた。前回のことがあったせいか、さ
すがにいきなり目を合わせるような無礼はしないらしい。
(そうやって反感を丸出しにされてもなあ……)
 内心で溜息をつく。
 いつものように女官にお茶などを用意させ、曠世も席に着かせて、白沢と報
告という名の雑談をする。更夜のことをどうやってわかってもらおうか考えあ
ぐねていると、ふと白沢が神妙な面持ちで言った。

734永遠の行方「遠い記憶(22)」:2017/03/26(日) 21:27:14
「こう申しては何ですが、宮城には不心得な輩が多いですな。彼らが懐にする
金銭の半分でもあれば、市井の民の暮らしはもっと楽になるでしょうに」
 宮城の諸官の現状を憂えているようだ。斡由を妄信していたとはいえ清廉な
官も多かった元州城と比べているのだろうと想像し、六太も居心地の悪い思い
は禁じ得なかった。
「何しろ尚隆がいまだに官を御しきれてないからな。冢宰と三公六官は白沢を
除けばもと光州の連中だし、上がああだと、どうしてもな。――そういえば」
最近、帷湍から聞いた話を思い出してにやりと告げる。「元州の謀反のとき、
尚隆は市井に王が賢君だとか何とか大げさな噂を流したそうだけど、あれ、内
容を変えてまだ続けてるらしいぞ」
「ほう。今度はどのような内容で?」
「王がどれほど民のことを思ってるか、ってやつだな。その延長で、頑朴の漉
水沿岸以外の堤の工事が遅れてることもいろいろ言い訳して誤魔化してる。実
際は何もやってねーんだけどな」
「そうですか……」
 白沢は難しい顔で黙りこんだ。落胆しているのかもしれない。傍らの曠世は
と言えば、本日は控えているだけだ。
「それで官が文句を言えば、相変わらず『不満は俺を選んだ六太に言え』で済
ませてるもんなあ。俺には実権はないっつーの」
 そうして時間が過ぎて暇を告げた白沢を、いつものように六太は房室の扉の
あたりで見送った。白沢のあとに続いた曠世は、六太の前を通るとき、ひとり
ごとのように「主上もお気の毒に」とつぶやいた。
「えっ?」
 その声音の冷ややかな調子に思わず目を瞬いた六太だったが、曠世は何事も
なかったかのように退出していった。

735永遠の行方「遠い記憶(23)」:2017/03/27(月) 19:04:50

 穏やかに日々を送る中で、何だろう、と六太は訳のわからない不安に駆られ
る。
 顔を合わせる際に向けられるようになった、あの、どこかさげすむような曠
世の目。
 そもそも六太は常世に来て以来、ずっと大事にされてきた。宮城の官吏たち
は内心ではろくに王も麒麟を敬っていないだろうが、少なくとも表面上は礼儀
を尽くしているし、言葉も選んでいる。だから六太は、そういった負の感情を
まっすぐ向けられることに慣れていなかった。
(親族を亡くして八つ当たりでもしてるのか。でも斡由の独裁は俺のせいじゃ
ない。強いて言うなら、なかなか全土を治められない尚隆のせいだ)
 雲海に張り出した露台の上、高欄に上って座りこみ雲海の下を覗き見る。ど
こかへ出かけていたらしい尚隆が先ほど禁門から帰城したのも、六太はそこで
ぼんやりと見ていた。そうやって息抜きばかりしている王のどこに弁護の余地
があるというのだろう。確かに六太は、尚隆がいいと言うまで目をつぶってい
ると約束したけれども……。
 ふう、と吐息を漏らして、傍らの柱に寄りかかる。
(元州の謀反は、たまたまうまく転んで収拾できた。でも堤もそうだけど、他
の部分の整備もできていない……)
 王ひとりで何でもかんでもできるはずがない。でなければ国土が州に分けら
れ、州ごとに州侯が置かれる意味がない。斡由が実際にやったことはともかく、
言っていたことは正論だ。
 そうやって物思いをしていたせいか、朝議に向かう途中で久しぶりに姿を見
せた尚隆が「なんだ、変な顔をして。拾い食いでもして腹の具合がおかしいの
か」と失礼なことを言ってきた。むっとした六太は相手の正装の長い裳裾を踏
みつけてやった。尚隆は「おお」と笑ってわざとよろけながら、あっさり六太
の足をのけてしまったけれども。

736永遠の行方「遠い記憶(24)」:2017/03/27(月) 21:19:51

「なあ。尚隆が重用している朝士がいるんだけど、話をしてみたいか?」
 あるとき六太は、白沢にそう話を向けてみた。朱衡ら尚隆の真の側近は、謀
反の前と変わらない官位だから身分は低い。普通なら三公の白沢とは直接話も
できない立場だ。
 だが思ったとおり白沢は興味を引かれたようだった。
「ほほう。警務法務を司る朝士でございますか。それはまた」
「おまえは宮城には王の敵ばかりだと言ったが、実は尚隆が本当に重用してい
る人間は皆官位が低いんだ。だからそいつらが何をやってるかはほとんど知ら
れていない」
 後宮に執務室があることまで言って良いかわからなかったので、そちらには
触れない。白沢はやんわりと笑んでうなずき、「ぜひお願いしたいですな」と
答えた。
 さっそく朱衡に使いをやって予定を調えて招くことにする。白沢、朱衡、曠
世という顔ぶれである。六太は主に白沢と朱衡に話をさせ、その中の話題で
きっかけをつかんで曠世と和やかに語らうつもりだった。
 今や六太は、白沢よりも曠世が気になっていた。もっと話をしていろいろ聞
いてみたいし、自分も伝えたいことがある。でも実際にはどうして良いのやら
わからなかった。普通に話しただけではわかりあえないような気がしたのだ。
 そこで余人を交えての歓談に紛れれば、六太自身が話を振るよりは曠世も耳
を貸すのではと思いついた。白沢を警戒している朱衡にも、相手の人柄を見極
める良い機会を与えられるから一石二鳥だ。
 宰輔を中心とした親睦のための内々の茶会という体で場をしつらえる。現わ
れた朱衡は身分に則り、慇懃に礼を尽くして白沢に挨拶をした。白沢のほうも
相手を軽んじることなく、むしろ丁寧に対応していた。
 だがあらためて白沢に朱衡を紹介して尚隆に重用されている朝士であること
を告げると、朱衡は呆れ顔で、どこか咎めるように六太を見た。あまり尚隆の
手の内を明かすなとでも言いたいのだろう。それでも白沢がこれまで見聞した
官府の様子を正直に話して懸念を示すと、朱衡は警戒を怠らないふうながらも
誠実に言葉を返していた。曠世についても朱衡に紹介し、親睦を深める場なの
で遠慮なく交歓してくれと六太が保証したものの、少なくとも曠世のほうは特
に何か言うつもりはないようだった。

737名無しさん:2017/03/28(火) 16:49:11
また更新されてる!やったあああ

738永遠の行方「遠い記憶(25)」:2017/03/28(火) 21:06:37
「いまだに賄賂が蔓延していることは主上もご承知です。しかし富が国外に流
出さえしなければ、対応の優先度は低いとお考えなのです。実際、今そこに手
を着けられるほど余裕はありません。何しろ先の謀反に対処するために光州か
ら招いた冢宰および三公六官自体が悪習を隠しませんので」
 ちくりと牽制を混ぜながらも、朱衡は状況を説明した。現在の六官に代わる
官吏を育てているところなので、あと数年から十年程度はかかるだろう。何し
ろ長い空位の間に疲弊しつくした雁に劇薬は禁物だ。せっかくここまで緩やか
ながらも回復してきたのだ、着実に歩み続けるには、極端な抵抗を招かないよ
う、いくら歯がゆくともある程度まで変化はゆっくりでなければならない。だ
が任せられる官が大勢育てば、王は一気に対応するだろう。
 白沢が反論するのではと思った六太だったが、白沢は意外にも神妙にうなず
いていた。朱衡があえて「太保のお考えはいかがですか?」と水を向けると、
白沢は「いろいろごもっともかと」と答えてから、何やらふと溜息をついた。
「実は宮城にお世話になるようになって、拙官はもともと国全体のことも考え
ていたつもりが、元州の視点で元州の都合しか考えていなかったことを痛感し
た次第でしてな」
「そうなのですか?」朱衡が意外そうに問う。
「少なくとも国の援助を受けずとも、元州は立派に持ちこたえておりましたか
らな……。いろいろと後回しにされても仕方がなかったのでしょう」
 朱衡は眉をひそめたが、白沢は嫌味からではなく心底そう思っているよう
だった。
 首都州である靖州ですら元州に及ばない有様に、白沢も当初は王の失政を
疑っていなかったという。しかし登極当時に比べれば国全体に緑が増え、緩慢
とはいえ着実に復興しているのは確か。ならば失政とは言い切れないし、むし
ろ以前曠世が指摘したように、王が地方にも平等に心を配っているためとすれ
ば納得できるのだ。
 実際尚隆は宮城の建物ですら解体して建材として売り払ったぐらいなのだか
ら、富を首都州に集めてなどいない。それでもほとんどの地方州は靖州より貧
しいのが現実だ。国府にしてみれば、より貧しい地域を優先して労力を割くの
は当然だろう。それに対して元州の人々が「どこよりも元州は豊かで特別だっ
たのに、他の州も追いついてきている」と嘆いて不満をかこったのはお門違い
というものだった。

739書き手:2017/03/28(火) 21:08:48
>>737
>>731以降の一連の流れはあと5レスぐらいですかねー。
原作と密接に絡む部分なだけに、ちょっと推敲に難儀していて、
往生際悪く何度も手を入れてるんですけど、
たぶん明日か明後日までで全部投稿できるんじゃないかなと。

740永遠の行方「遠い記憶(26)」:2017/03/28(火) 23:15:35
「今となっては、漉水の堤さえ何とかしていただけていたら元州も過ちを犯さ
なかっただろうと、それだけが無念で」
「斡由がそんな殊勝な心がけだったはずはないし、主上も内乱を防ぐためには
許可できなかったに決まっているでしょう」
 さすがの朱衡も言い訳できずに口を閉ざしたところへ、曠世が唐突に冷やや
かな言葉を挟んだ。
「……曠世?」
 六太が驚いて声をかけると、これまで完全に沈黙を守っていた曠世は「失礼
いたしました」と差し出口を謝罪しながらもこう続けた。
「主上のご厚情により、私は大学で一部講義を聴講させていただいております。
そしてこれまで発布されたすべての勅令も学んでいるのですが――」
「尚隆のやつ、やたら勅令が多いだろ。思いつきで乱発するし、学んでも役に
立たねえんじゃねえの?」
 六太が茶々を入れたが、曠世は六太が喋る間は口をつぐんだだけで、すぐに
また続けた。
「先日から主上が元州の治水工事を許可しなかったのはなぜかと学生らが議論
していたのですが、複数回の討論を経た結果、内乱を防止するためだったとい
う解釈が主流となりました」
「……へ?」
「曠世。詳しく話してみなさい」
 白沢がこわばった顔で促す。曠世は淡々と続けた。
「先だっての元州の反乱について、大学でも情報の整理はだいたい済んでおり
ました。そのうちの重大な事実のひとつとして、元州が州師の兵卒の数をかな
り多めに申告していたことが挙げられます。これはもちろん既に明らかにされ
ているように、王師を少しでも多く元州頑朴に引きつけ、背後を光州師に突か
せると同時に関弓に攻め上がるという作戦を念頭に置いたためです。
 しかしそれ以前に、そもそも軍の規模を大きく見せることで言外に『これほ
ど強大なのだぞ』と牽制し、不用意に国府から手出しされないようにする意図、
陳情という名の要求を王に突きつけやすくする意図があったと推測するのは自
然なことです。つまり兵卒数が水増しで申告されたことに気づきさえすれば、
論理的な帰結としてそれ自体が元州の叛心の可能性を示唆していると判断でき、
警戒せざるを得ないわけです」

741永遠の行方「遠い記憶(27)」:2017/03/29(水) 19:28:34
 白沢が動揺を示して、わずかに目をそらした。
「何にせよ永遠に水増しのこけおどしのままとも考えにくく、いずれ元州は実
際にそれだけの兵力を蓄えるつもりだったはずです。そして状況から推して、
主上もその計画に気づいておられたのでしょう。おそらく元州師が申告してい
た総数について、最初から疑念を覚えておられたのではないでしょうか」
 朱衡は呆気に取られていたが、ふと何かを思い出したように「あ」と声を漏
らして一同の視線を集めた。
「そういえば……台輔の誘拐騒ぎのさなか、主上が元州師の規模について『黒
備左軍はありえない』とおっしゃっていたことが……」
 実際、申告通りの黒備一万二千五百などとんでもないことで、内実は何とか
八千をかき集めたものの、手を結んでいた光州も兵力不足で一部をそちらに貸
し出した結果、うち三千は大して訓練もしていない徴用兵だったと判明してい
る。
 曠世は得心したようにうなずいた。
「やはりそうだったのですね。さまざまな勅令を関連づけて解釈するかぎり、
主上が国全体の状態を少しずつ好転させようとしておられたこと、逆に梟王に
任じられた州侯には、治水の権を取り上げた上で監督官である牧伯を派遣する
などして、力を蓄えさせないよう苦心なさっていたことは明らかでした。そう
なれば当然、余州の軍備には常に神経質なほど注意を払われていたはずで、兵
力の水増しについても敏感に察知しておられたのではと推測する学生が多くい
ました」
「そう……かもしれません。私どもは、はなから申告を鵜呑みにして焦ってい
たのですが、主上は常に冷静でした。元州の謀反が明らかになった際も、頑朴
に王師を引きつけている間に、他州の州師に関弓を攻めさせるつもりだろうと
看破しておられました」
「さて、そう考えるとどうでしょう。治水を含めた土木工事も軍の管轄です。
そして残念ながら国府には、まだ地方の治水に手をつけるだけの余裕がなかっ
た。そこで仮に主上が慈悲深くも求めに応じ、元州に治水の権をお返しになっ
ていたら、元州はこれ幸いと、申告していた数、あるいはそれ以上にまで兵卒
の実数を増やしたと思われませんか? 大規模な土木工事のためと言えば堂々
と兵力を増強しても名目は立ちますし、実際に元州は何年も前から反乱の準備
をしていたのですよね?」

742永遠の行方「遠い記憶(28)」:2017/03/29(水) 20:20:25
 問われた白沢はといえば、言葉もない様子だった。
「さらに光州も元州の企てに乗ったことを考えれば、他の州も野心を持ってい
たことは想像に難くありません。何しろ雁は空位の時代が長く、官吏の専横が
当たり前になっています。そんな彼らにとって自分たちの意のままにならない
王という存在は煙たかったことでしょう。太保も憂えておられるように、宮城
でさえ、今もって主上を軽んじる輩が闊歩しているくらいです。自分たちの言
いなりになる新王にすげかえられないものかと、彼らが大それたことを考えて
も不思議はありません」
 事実、財のためであれ権のためであれ、不穏な動きをする州ばかりだった。
白沢の元州とて権を王に返さず、州侯を幽閉した令尹が勝手に仕切っていた。
 曠世は微笑しながら、「極論でも何でもなく、余州すべてが主上の敵だった
のです」と言い切った。
「元州に至ってはのちに台輔を誘拐し、それを盾に王権を譲るよう主上を脅し
たほど現実に増長していました。そんな元州に治水の権を許すことで軍備増強
のお墨付きを与えてしまえば、反乱を起こされる危険が増すのは当然です。さ
らには他州も『元州に許可してなぜうちの州がだめなのだ』と次々に要求を突
きつけてくる事態になるだろうことを、主上は見抜いておられたのではありま
せんか? そして他州も治水の権を得たら得たで、実際に王に剣を向けたかは
ともかく、元州と同じく兵を蓄えたことでしょう。力をつければつけるほど、
王に対する発言力は増すのですから。おまけに武力を手に入れた者は往々にし
てそれを誇示するものですから、不満があれば自分たちの要求を王に飲ませる
ために容易に兵を挙げたでしょう。
 しかし元州一州――裏で光州も手を組んでいましたが――でさえ対処が大変
だったのです、余州すべてとはいわずとも複数の州が、手を組んだにしろ組ま
なかったにしろ連鎖的に反乱を起こしていたら、国中を巻き込んだ内乱に発展
し、それこそ主上のお命はなかったはず。主上がかたくなに元州の要求をはね
つけることで余州州師の軍備拡大を抑えていなければ、今ごろはまた空位の時
代が訪れていたとは思われませんか?」
 朱衡も驚愕の面持ちで、呆然とした白沢を見やっている。六太は何とか言葉
を押し出した。
「で、でも。実際に漉水には氾濫の危険があったわけだし、氾濫していたらそ
れこそ民が大勢死んだはずで――」

743永遠の行方「遠い記憶(29)」:2017/03/29(水) 22:52:20
「どちらを取るか、苦渋の決断だったのかもしれませんね。多少の犠牲は覚悟
で国内を治めることを優先するか、主上がご自分のお命を捨てることでまた雁
に空位の時代と絶望をもたらし、はるかに大勢の死者を出すか。実際、それく
らいしか選択肢はなかったのですから」
 六太は息を飲んだ。
「……とまあ、大学ではこのように結論づけておりましたが、何しろ実務を知
らない学生の想像に過ぎませんから」
 先ほどは内乱を防ぐためだったと断言しておきながら、曠世は一転してにっ
こりとそう締めくくった。
 その後もさまざまなやりとりは続いたが、動揺した六太はほとんど聞いてい
なかった。ただ曠世が「主上には最初から事態の流れが見えていたのでしょう。
その上で優先順位を定め、真にやるべきことから着実に手を着けておられたの
だと拝察しております」と言ったことだけが耳に残った。

 彼らを見送ったあと、六太はその足で急いで後宮に向かった。思ったとおり
尚隆はいつもの執務室にいて、ひとり書卓で書きものをしているところだった。
「どうした?」
 血相を変えた六太を不思議そうに見やる。
「げ――んしゅう、の」声が震えて続かず、いったん口を閉じてからまた開く。
「元州の、治水工事を許可しなかったのは、反乱を防ぐためだったって本当
か? 州侯の権を制限することで内乱の勃発を防いでいたのか?」
「なんだ、ばれてしまったか」
 いきなりの問いに混乱しても良さそうなところを、尚隆は苦笑とともにそう
答えた。
「……なぜ、俺に――いや、他の官に、そう言わなかった……?」
「阿呆。宮中ですら敵ばかり間者ばかりなのだぞ。不用意に手の内を晒してど
うする」
 こちらの動きを読まれれば対策されて足元をすくわれる。そう言われてしま
えば、六太には反論できない。
 尚隆は書きものを再開しながら、気楽な調子で続けた。

744永遠の行方「遠い記憶(30)」:2017/03/30(木) 00:16:52
「それにいちいち王が命令の意図を説明すると、見所のある者でも自分の頭で
考えなくなり、無能の量産につながるだろうが。それに比べれば、怠けている
とかわけのわからんことをしているなどと思われて俺が奸臣に軽んじられるこ
とぐらい可愛いものだ」
「でも。漉水の堤が決壊していたら、大きな被害が――」
「それを危惧して治水の権を与えていたら、元州は工事を名目に兵を蓄え、数
年のうちに大規模な反乱を起こしていただろうな」あっさりと曠世が推測した
とおりの内容を告げる。「そうなれば十中八九、俺の首はなく、民も巻き添え
を食って大勢殺されていたはずだ。生き残った民も、悲願だった新王践祚が夢
と消えて絶望し、飢えや誰かに害される前に、みずから生きる気力を手放した
だろう」
「あ……」
 六太は自分の足が震えるのを感じた。それを察したのかどうか、手を止めて
筆を置いた尚隆は六太に向き直り、慰めるように言った。
「大丈夫だ。正当な王が玉座にあれば、それだけで天災が減るのだろう? お
まけに王は強運の持ち主だという。ならば洪水が起きたとしても、おそらく規
模は最小限で済む」
「でも」
「実際、州侯の頭を押さえつつ地方州の治水に金や人手を回す余裕などなかっ
たのだぞ。なのにもし大災害が起きたなら、俺も民も運がなかったと諦めるし
かなかろう」
「尚隆!」
「なあ、六太」悲鳴のような声を上げた六太に、尚隆はなだめるように言った。
「この世界は天帝が作り、独自の理に支配されているのだろう? ならば王だ
ろうと、造物主の定めた天測から逃れる方法などない」
「それは――」
「天帝を否定すれば、王が玉座にいなくても天災は起きないのか? 蓬莱のよ
うに男女の交わりで子ができるようになるのか? 違うだろう。ならば余裕が
できるまでは逆に天帝が作った理とやらを当てにし、できることから順次こな
していくしかない。実際、今のところむごい災害は起きずに済んでいるのだ。
綱渡りは綱渡りだが、このまま何とか俺の運が続くのを祈っておけ。多少は復
興したとはいえ、今、王を失えば、雁は間違いなく壊滅的な打撃を被るのだか
らな」
 六太にはもう何も言えなかった。

745書き手:2017/03/30(木) 00:19:19
これで推敲したぶんは出したので、また間が空きます。


あと最初に注意書きした通り、この章は基本的に尚隆age六太sage章です。
さらにガンガン行くことになると思うので、
ろくたんがオリキャラなんぞに責められる様子をご覧になりたくない場合はご注意を。

746名無しさん:2017/04/01(土) 00:25:43
更新待ってましたあああ!
次の投稿までwktkしてます

747書き手:2017/04/02(日) 09:19:51
前章以前を読み返していないため矛盾があるかもしれませんが、
いちおうこの章の最後まで書き上げたため
自分でもいい加減けりをつけたくなったというか面倒になったwので
推敲を切り上げてちまちま落としていきます。

残り27レスです。
投稿間隔規制が面倒なので、思い出したときにでも適当に。

オリキャラを避けていた向きには「遠い記憶(55)」あたりから
六太と尚隆のやりとりや六太の心情になるので
そのへんから目を通してもらえると大丈夫かも。
次章まで行けば、オリキャラは必要なくなるため
ほとんど出ない予定なんですけど。

748永遠の行方「遠い記憶(31/57)」:2017/04/02(日) 10:31:32

 陽光にきらめく広大な雲海の上を、悧角を駆って風のように飛ぶ。頭の中は
わけのわからない感情が嵐のように渦巻いていて、六太を苛んだ。
 しばらく悧角を乗りまわして、ある程度気が済んだ六太は宮城に帰った。仁
重殿に戻ると、朱衡が待っていることを女官に伝えられた。
「よう。どうかした?」
 明るく装って客庁に入ると、朱衡は気遣わしげな目を向けた。
「台輔。大丈夫ですか?」
「何が?」へらりと笑ってみせる。
「あれからしばらく太保と話したのですが、ずいぶん気落ちしていましたよ」
「ふうん」
「みずから信用されないようなことをしておいて、主上を無能と決めつけてい
たと」
 ――元州が明らかに王に帰順していなかったから。最初から反乱の恐れあり
と疑われていたから。だから治水工事を許可していただけなかったのですね。
 要は自業自得だったのだと、白沢は自嘲していたという。あまりにも悄然と
してしまったので、さすがに朱衡も気の毒に思ったようだ。
 六太は、ふいと顔をそむけて窓の外を見た。
「大学での議論は、拙官にとっても目から鱗が落ちる思いでした。確かに学生
の想像かもしれません。しかしむしろ我々のほうが日々の実務に追われて視野
を狭くしていたのでしょう。言われてみればどれも納得できることばかりでし
たし、根拠もありました。当時の主上のいろいろな言動も腑に落ちるのです。
ただ――」
 朱衡はいったん言葉を切ってから、こう続けた。
「太保はともかく、あの曠世という従者は、もうおそばに呼ばないほうがよろ
しいかと」
 六太は振り返って朱衡を見つめた。
「どうもあの者は、台輔に敵愾心のようなものをいだいているように思われる
のです」
「……曠世が俺に危害を加えると?」

749永遠の行方「遠い記憶(32/57)」:2017/04/02(日) 11:13:50
「そうは申しません。使令もいるわけですし」
「前に言ったろ? あいつは尚隆に心酔してる。でも俺に手を出せば尚隆にも
害は及ぶ」
「しかし身体的にどうこうではなく、台輔のお心を乱すに躊躇しない輩に見受
けられました」
「大丈夫だ」にっと笑う。「だいたい耳に痛い進言でもちゃんと聞くのが良い
為政者ってものなんだろ? 尚隆だってあいつと話をしてるらしいし、俺だっ
てそれくらいやれるさ」
「しかし……」
 朱衡は難色を示したが、六太は何でもないように肩をすくめてみせた。朱衡
は諦めたように息を吐き、「ではなるべく拙官も同席させてください」と念を
押してから辞去していった。
 朱衡の懸念もわかる。だが六太は曠世を遠ざけるのは嫌だった。
 怖い、と思うのだ。曠世と話せばきっと、また何かとんでもない話が出てく
る。大学で仕入れた知識か、あるいは尚隆が口にした言葉か。でも話をしない
ことはもっと怖い。
 尚隆は六太には言わないことも、朱衡や帷湍には話すことは知っていた。そ
れでいいとも思っていた。だが謀反を起こした州からやってきたばかりの曠世
にさえ話しているかもしれない、と想像すると心が重かった。

 後から六太が聞いたところでは、白沢は尚隆に私的に謁見してもらい、以前
の無礼と浅慮を心から悔いて叩頭深謝したという。既に太保に任じられている
のだから今さらではあるが、真面目な白沢のことだからあいまいにするのでは
なく、きっちりけじめをつけたかったのだろう。
「主上には『間違いを犯さない人間などおらぬだろう。そのぶん励めよ』と
笑って許していただけました」
 白沢はどこか晴れ晴れとしたように六太に報告した。
「遅きに失したきらいはありますが、主上が懐の深いかたで本当に良かった。
非常の時こそ本性が出るとよく言われますが、思い出すまでもなく主上は元州
が乱を起こした際も鷹揚に構えていらっしゃった。これが器の違いというもの
でしょうかな」

750永遠の行方「遠い記憶(33/57)」:2017/04/02(日) 13:23:14
 六太を誘拐されても動揺を示さず、泰然と構えていたという尚隆。翻って斡
由は、追い詰められて逆上した。
「まあ、斡由とは違うわな……」
 六太もさすがに否定はせずにつぶやく。
 斡由は天帝などいないと言いながら、最後は昇山しておけばと嘆いていた。
いつもその場かぎりの言を弄しただけで、実際のところは信念も何もなかった
のだ。
「もちろん拙官は、みずから過ちに気づけたわけではございません。もともと
斡由を盲信し、元州が不利になって初めて迷いを感じたくらいです。むしろそ
のような態度が斡由を増長させたのかもしれない、きちんと気づいて諌めてさ
えいれば、それなりに良い為政者であり続けてくださったのかもしれない。そ
んな拙官に他者を非難する権利などありません。これからは誠心誠意、主上に
お仕えさせていただきます」
「うん、まあ……がんばれよ」
 そんなふうだから、以前のように六太が「また尚隆が行方をくらまして官が
探してる」と言っても、白沢は「何か下界に用事がおありなのでしょうかな」
と妙に理解を示して笑むようになった。
「思えば主上は単身、元州城に潜入できるほど活動的なおかたでした。もしや
今回も、何やら探っておられるのでしょうか」
 ちょうど朱衡と曠世も伴って仁重殿の庭院を散策しているときで、朱衡は少
し諦めたように「実は以前から間諜の真似事をなさっておられます」と明かし
た。
「なんと。人手不足も極まれりというところですな――」
 そんな中、曠世は立ち止まって周囲の木立を見回した。
「仁重殿周辺の木々はよく手入れされていますね。他の場所はみな人手を減ら
したままのようで荒れている箇所も少なくないのに、主上は台輔を気遣ってお
られるのですね」
「え?」
 六太は同じように立ち止まって周囲を見渡したが、よくわからず「そうか?」
と言った。白沢と朱衡が話しながら徐々に遠ざかる中、曠世は笑みを浮かべて
「ああ」と何やらうなずいた。

751永遠の行方「遠い記憶(34/57)」:2017/04/02(日) 21:18:14
「失礼しました。台輔は主上がお嫌いでしたね」
 六太は目を見開いた。「何だって?」
 なぜか、六太は王が嫌いなのかと問いかけた更夜の顔が浮かんだ。何とかし
てあげるよ、と更夜は言ったのだ。言外に、王を殺してあげる、と。
「俺は別に――」
「駁更夜については、彼が幼い時分に一度、短時間ともに過ごしただけで無条
件で信用したのでしょう? 護衛を殺して台輔をさらうという暴挙をしでかし
た後でさえ。しかも護衛を殺したこと自体はまったく咎めなかったようだと太
保から伺いました。
 翻って地道に雁を復興させて内乱も起こさせずに治めていた主上の手腕は
まったく評価せず、いつも官の前でも遠慮なく悪しざまに言っていたと聞き及
んでいます。短い間ですが、私も台輔が主上を褒めたりかばったりするお言葉
を一度も聞いたことがございません。むしろ貶めてばかりだったかと」
 六太は、ぐ、と言葉を飲み込んだ。
 ――なぜ台輔はいちいちに主上を軽んじられるのですか。
 記憶の中の驪媚までもが悲しそうに六太を責める。
「だから主上を嫌っていると思ったのですが――もしや台輔は、本当は内乱が
起きてほしかったのですか?」
「そんなわけないだろう!」
 心にもないことを言われ、さすがの六太も激しい調子で言い返した。曠世は
笑顔のまま首を傾げた。
「そうなのですか? でも元州の反乱当時、台輔は主上ではなく斡由のほうに
理があると思われたのですよね? つまり王権を奪おうとした斡由に正義を認
めたから元州城にとどまった。州宰だった太保を含め、元州城側はそう解釈し
ていたために強気だったそうですが」
「なんで――なんでそうなる」
 六太は頭をかかえたくなった。確かに六太は斡由に理解を示した。王を弑す
ることも厭わない更夜を目の当たりにしながら更夜を信じた。
 だからと言って、戦いを容認していたわけでは決してない。むしろ回避させ
ようとしていたのだ。

752永遠の行方「遠い記憶(35/57)」:2017/04/02(日) 21:32:57
「理由はどうあれ、王の選定を担っている麒麟が天や王を疑う者に理を認めれ
ば、反乱に根拠を与えて後押ししたのと同じだからですよ」
「え……」
「元州の思惑や内情を知らずとも、護衛を殺して台輔をさらわせただけで斡由
の罪状は明白でした。なのに台輔は理解を示された。当時、私は正式な州官で
はありませんでしたが、州城内にはおりましたので、台輔が元州の言いぶんを
認めた、元州が正義だと皆が口にしていたのは聞いていました。もっとも台輔
は人質のはずなのにのんきに出歩いていらしたため、状況をわかっておられな
いのではと陰では非難もされていましたが。それともまさか、ご自分の行為が
戦いを引き起こしかねないこともおわかりにならなかった?」
「ち、違――戦いたがっていたのはむしろ斡由と尚隆だろう!」
「斡由はともかく、主上が、ですか? この前申し上げたとおり、主上はむし
ろ内乱を避けようと尽力なさっていました。軍を頑朴に向かわせたのは、あく
まで台輔が誘拐されたから。それも結局は斡由と一騎打ちをすることで、被害
を最小限に食い止められた」
「あれは――だから、その、漉水の堤が――」
 混乱のままに、もごもごと抗弁しようとする。曠世はくすりと笑った。
「ずっと思っていたのですが、台輔はすぐ人のせいになさるんですね」
 六太は絶句した。絶句しつつも、何とか反論しようとして結局果たせない。
 視界の端で、六太を置き去りにしていたことに気づいた朱衡らが急いで戻っ
てくるのを認めてそちらに顔を向ける。朱衡が「台輔、どうかなさいました
か」と焦った様子で問うのへ、六太は必死に笑顔を作ってみせた。
「いや、何でもない」
「この周辺は木々も下生えもきちんと手入れされているとお話していたのです。
主上は台輔を気遣って、仁重殿の周辺だけは人手を減らしていないようだと」
 曠世がにこやかに説明すると、朱衡と白沢も周囲を見回した。
「ああ、そう言われれば確かに。特に陰になって見えない場所ですと、正寝な
どでもわりと放置されていますが、仁重殿の辺りはどこも枝が整えられている
し歩きやすくもなっていますね」

753永遠の行方「遠い記憶(36/57)」:2017/04/02(日) 21:40:17
「ほほう。それはそれは」
 朱衡は安堵したようだったが、六太は内心で動揺したままだった。何となく
視線を落として足元をつま先でつついたあと、和やかに言葉を交わす三人に唐
突に声をかける。
「――なあ。王って必要だと思うか?」
「は?」
 朱衡は驚きを隠さずに六太を凝視した。六太は三人から視線を逸らして歩き
だした。彼らもあわててついてくる。
「別に斡由に理を認めたわけじゃないけど――誘拐されたとき斡由に言われた
んだ。天帝なんか存在しないんじゃないかって。王にしたって、あるじを自分
で選ぶ麒麟の特性を知った先人が勝手にありがたがって祭りあげただけじゃな
いかって」
 反応のなさに足を止めて振り向くと、朱衡が息を飲んで立ち尽くしていた。
傍らの白沢さえも「そんな不遜なことを言ったのですか!」と愕然としている。
六太はまた目を逸らした。
「天は梟王の横暴をなぜ許したのだ、麒麟が最善の王を選ぶというのは嘘だと
非難されて――俺は反論できなかった」
 反論できないどころか、尚隆について「雁を滅ぼす王だ」と答えた。相手の
言い分を認めたようなものだ。
 つまり六太は――舌先三寸で言いくるめられた。尚隆を信じていなかったか
ら。二十年もの間、尚隆が暴君の片鱗を見せることはなかったのに、六太は護
衛の亦信を手にかけた更夜よりも信じなかったのだ。
「そのとき一緒にいた牧伯の驪媚は反論していたけどな……」
「台輔。台輔がなぜそうお迷いになったのかはわかりませんし、天帝の存否な
ど拙官のような者が口にできるはずもありませんが、この世は王が国の頂点に
立つべきと定められているのは確かです」
「そう、かな……」
「ではなぜ、白雉は一声と二声を鳴いて王の即位と崩御を報せるのです? な
ぜ仙の任命と解任ができる玉璽を扱えるのは王だけで、白雉の足を取れるのは
王が崩御したときのみ、そしてそのときだけは官がそれを玉璽の代わりにでき
るのです」

754永遠の行方「遠い記憶(37/57)」:2017/04/02(日) 22:46:31
 六太は瞬いて朱衡を見た。
「なぜ凰は他国の大事を鳴き、その中に王と麒麟の去就があるのです。なぜ余
人ではなく王が祭祀をすれば天候が定まるのです。王が、ひいては王を選ぶ麒
麟が特別な存在であることの証左は、他にもいくらでも挙げることができます
よ」
 それは本来、言われるまでもないことだった。理の異なる蓬莱で生まれ、蓬
山で育ち、天勅を受けた六太には、この世界がそう作られていることを肌で感
じているのだから。
「俺、は……」
「台輔」朱衡は気遣うように声を和らげた。「主上や台輔が生まれ育った蓬莱
では、王は麒麟に選ばれるのではないのでしたね。だから混乱してしまったの
でしょう。しかし蓬莱はこことは違う理に支配された別世界なのでしょう?」
「……うん」
「斡由が台輔にそう言ったのは、あくまで反乱を起こした自分たちに理がある
と強弁したいがためでした。台輔を惑わし騙すためだけにそう主張したのです。
斡由の言が一貫していなかったことは既にわかっているではありませんか。い
たずらに言を弄して国を乱した謀反人の世迷い言など信じてはなりません」
 六太は泣きたいような思いで朱衡を見上げた。
「蓬莱では王は……為政者は往々にして横暴だった。だから俺は、王は王だと
……民とは違うから民を踏みにじりかねないと思ったんだけど……尚隆は違う
のかな……」
「もちろんです」朱衡は力強くうなずいた。「王こそは国のすべてであり、民
の庇護者です。王がいなくて民がやっていけるはずがない。主上が践祚なされ
なかったら、いまだに国土は荒れる一方だったことでしょう。民は主上のおか
げで救われたのですよ」
 六太はいったんうつむき――顔を上げると、はは、と唐突に明るく笑った。
「台輔?」
「いやー、深刻になっちゃってごめんな。うん、そーだよなー。いやあ、俺も
そう思ってたんだけど、ほら、何しろ尚隆のやつ、怠け者じゃん? さすがの
俺もとっさに反論できなくてさー。いやあ、まいったよ」

755永遠の行方「遠い記憶(38/57)」:2017/04/02(日) 23:19:18
「台輔……」
 いたましいものでも見るような目を向けられ、それでも六太は笑顔を作り続
けた。
「考えてみりゃ、王って得だよな。最近じゃ尚隆が出奔しても、白沢でさえ理
解を示すようになっちまったし、逆に俺が遊びに出るときは肩身が狭いのなん
の」
 純粋に遊びや息抜きで下界に行っている六太と異なり、実は尚隆がみずから
間諜まがいのことをして情報を集めていたと知ったことには触れない。朱衡ら
もそのことは口にせず、曖昧に笑みを浮かべただけだった。
「あー、でも一度くらい文句は言っとこうかな。尚隆のやつ、いまだに面倒に
なると『文句があるなら俺を選んだ六太に言え』って官を煙に巻いてるらしい
し。俺はあいつが玉座がほしいって言うからやっただけだっつーの。尚隆が勝
手やるのは今さらだけど、尻拭いさせられるなんて冗談じゃねえや。そりゃ実
際に俺のところまで文句を言いにくる官はいないけど、一度ぐらい釘は刺さな
いとな」
 そんなふうに言って、さっそく正寝に赴こうとする。はらはらした様子の朱
衡たちがつき従ったものの、結局その日は尚隆の姿を探すことはできず、六太
も不満を伝えることはできなかった。そのときになってようやく気づいたやや
遠い王気の所在を探ると、どうやら尚隆は宮城を出て関弓に行っているらしい。
翌日になって戻ってきたようなのだが、当然ながら六太に報せが来るでもな
かった。
(帰城したなら、少しぐらい顔を見せてくれたっていいじゃないか)
 八つ当たり気味にそんなことを考える。
 いつだって尚隆はそうなのだ。勝手に行方をくらませるし、六太のことなど
気にもしない。いつも六太が正寝や後宮に訪ねていくばかりで、尚隆のほうか
ら仁重殿を訪ねてきたこともない。
 だから六太は。
 誘拐されたとき、ほんのちょっと、尚隆があわてればいいと考えた。いつも
六太を放っておくから。出奔するときに六太を誘ってもくれないから。
 六太はひとり座っていた椅子の上で片膝を立てて両腕で抱き、その膝がしら
に顔を伏せてじっとしていた。

756永遠の行方「遠い記憶(39/57)」:2017/04/03(月) 19:19:14

 意外にも朱衡は白沢と話が合うようだった。あれ以来、朱衡は何度か白沢の
官邸に呼ばれて話をしたらしく、そればかりか帷湍のことも紹介したという。
ただし帷湍のほうは「表面上はにこやかなのに、太保はあれでかなり押しが強
いし図太い。裏で何を考えてるのかわからん。俺は苦手だな」と、当初の朱衡
と同じく、まだかなり警戒しているようだ。
 しばらくぶりに白沢と曠世が仁重殿を訪れたとき、朱衡も予定を合わせて訪
問してきた。極力笑顔を見せようと六太が心がけていると、朱衡は安堵したよ
うに「お元気になったようですね。何よりです」と挨拶してきた。
 白沢は太保として与えられた領地を視察してきたそうで、ついでに胥徒に管
理を任せていた領内の自邸の様子も見てきたという。もっとも太保として大半
は宮城内の官邸で過ごすのだろうから、滅多に自邸には行かないだろうが。
「ところでまだ補修されていない堤について、どのくらいあるのか帷湍に調べ
てもらいました」
 ひとしきり雑談を交わしたあと、朱衡が切りだした。帷湍は地を整える遂人
だ。国内の治水状況についても詳しいものの、他州の情報となると、実際に水
害が起きるか州侯が報告するかしないかぎりは中央に伝わりにくいものだ。だ
から朱衡が教えられたのも十数ヶ所に留まるが、現実に何らかの問題がある河
川はもっと多いだろう。
「それでもわかっているだけで十数ヶ所もあるのか」六太が憂いを込めて言っ
た。
「漉水の頑朴沿岸のように梟王に堤を切られた場所はもちろん、単に手入れが
行き届いていないだけだが危険な河川も挙げたそうです」
 もともと頑朴沿岸だけが氾濫の危機にあったわけではない。あの場所がこと
さら取り上げられていたのは、源泉が首都州にある大河ということと、何より
州侯気取りだった斡由が州都近くの堤ゆえに整備を強く求めたためだ。当然、
国府まで情報が届いていない、または高位の官の住まいから遠いとして放置さ
れている河川はさらにあるだろう。

757永遠の行方「遠い記憶(40/57)」:2017/04/03(月) 19:31:17
 何しろこの世界の国の常として、雁も平野は少ない。多少なりとも起伏のあ
る土地が大半だから一般的に水の流れも速く、仮に小川であっても、地形や季
節によっては警戒を欠かせないのだった。
「それでも梟王が切った堤の補修が最優先か。どうせ重要な場所を切ったんだ
ろうから」
 六太がそう言うと、白沢も「にしても思ったより数は多いのですなあ」と
唸っていた。
「これではさすがにすぐには予算を割けないのは理解できます。どこから着手
するかについても利害が絡む上、優先度についてはほうぼうから異論が出てく
るでしょう。これはまた調整が難しいですな」
「前王朝末期から空位初期に残された資料では数ヶ所に過ぎなかったはずです
が、状況的に混乱していたのか数は当てにならないようです。もしくは天候不
順のせいで急速に荒れてしまったか」
「何しろ民も自分たちで堤や自然の岸辺を壊しましたからね」
 六太らの会話に、曠世がしれっと口を挟んだ。六太はもちろん、他の者も驚
愕を隠さずに曠世を見やった。
「……何か?」曠世はいつものように笑みを浮かべていたものの、表情はどこ
か挑戦的だった。
「その。また大学での話か?」
 六太が恐る恐る問うと、曠世は首を傾げるようにして「いいえ?」と答えた。
「単に放置の結果、状態が悪化した箇所はともかくとして、壊された堤などが
全部梟王の仕業のはずがないじゃないですか。民も自分たちの手でやったんで
すよ。身に覚えのある里廬では公然の秘密になっていますし、処罰を恐れて役
人には必死に隠しているだけです」
「ど――う、して」喉がからからになったような思いで六太が問う。
「もちろん自分たちが助かるためです。洪水の恐れがあるときに対岸の土手を
崩してそちらに水を逃がすやりかたは、昔から繰り返されてきましたからね。
そりゃあ大罪ですが、洪水に押し流されて里廬が全滅するよりはましです。も
ちろん壊した土手の方向に別の里廬があろうと知ったことではありません」

758永遠の行方「遠い記憶(41/57)」:2017/04/03(月) 20:10:01
 何しろ王師に攻められた元州師だって、同じことをやろうとしたそうじゃな
いですか、今さらですよ――曠世はそう事もなげに言った。
「そんな!」
「曠世。それは根拠のある話なのか?」
 六太が悲鳴じみた声を上げ、白沢が強く問いただした。曠世は笑みを絶やさ
ないままうなずいた。
「これは昔、大伯母に聞いた話ですが、空位の時代、漉水の支流で続けて二ヶ
所ほど民が自分たちで堤を壊したそうです。私が育った里廬でも幼いころ大人
たちが内々にそのことを話していて、いざとなったら里廬の近くの河川も、こ
ちら側より高い対岸を同じように壊せないかと相談していたのを知っています。
さすがに主上が践祚なさってからは天候が安定してきていますから、そういっ
た事例は減ったでしょうが、それでも皆無ではないでしょうね。
 ちなみに件の二ヶ所をやったのは幼子をかかえた若い母親で、もちろんあと
で罪に問われて処刑されました。遺された子供は所属する里でちゃんと面倒を
見たそうですが」
「ちょっと待て。二ヶ所?」混乱した六太は額に片手を当て、もう一方の掌を
押しとどめるように曠世に向けた。「若い母親がひとりで堤を壊した? 一ヶ
所だけでも無理だろう!」
「ええ。無理ですね」
「じゃあ、それは……」
「もちろん真実は里に属する廬の男手が総出でやったんですよ。そして里廬で
もっとも不要とされたひとりに罪をなすりつけて口をつぐんだ。遺された子供
を皆で育てたのは、罪人とされた女――夫を亡くして困窮していたようです
――と話がついていて罪を被るのと引き換えだったのか、単に罪滅ぼしをした
かったのか。どちらかまではわかりかねます」
 言葉もなく黙り込んだ面々に、曠世は追い打ちをかけた。

759永遠の行方「遠い記憶(42/57)」:2017/04/03(月) 23:06:13
「念のために申し上げておきますが、こんな話は元州だけではないと思います
よ? 主上に申し上げたところ、もともとご存じだったようで、ここも蓬莱も
変わらないなと嘆息をついておられました。元州ではない別の州におしのびで
いらした際に、親しくなった民自身から、梟王がやったことにして堤を壊した
里廬があると耳打ちされたこともあったとか。おかげで同じ河川の岸辺が複数
箇所荒らされていた場合、流れが変わりかねない以上、補修の順番も熟慮しな
ければならず大変だとも頭を痛めていらっしゃいました」
 六太にとってあくまで民は弱者、庇護すべき存在で、責められるべきは必ず
為政者の側だった。まさかその民らが自衛のためとはいえ、氾濫の恐れがある
河川の対岸をみずから壊していたなど思いもよらないことだった。ましてや罪
をひとりに押しつけてのうのうとしていたなど。
「ですから私は常々思っていたのです。もちろん堤の補修は大切でしょう。し
かし空位の間、民自身もあちこちで岸辺を壊して状態を悪化させていた以上、
どうしたって手が回らないのは当然です。壊された箇所の周辺に至っては、他
の部分より崩落しやすいでしょうしね。なのに一方的に主上を責めて対応を急
かすのは違うのではと」

 その日、内殿の執務室は尚隆と冢宰、女官がいるだけで閑散としていた。先
ほどまではもう少し人がいたのだが、それぞれ書類を受け取って辞去していっ
たからだ。
 最後に冢宰も書類のいくらかを渡されて立ち去ったあと、尚隆は女官に供さ
れた茶を飲み、ようやく大きく開け放たれた窓枠に行儀悪く座りこんでいる六
太のほうを見た。
「何か用だったか?」
「別に」
 六太は不満げに答えてから、なあ、と問いかけた。
「おまえ、曠世と――白沢が連れてきた下吏といろいろ話してるんだって?
大学の聴講の許可も与えたんだよな」

760永遠の行方「遠い記憶(43/57)」:2017/04/03(月) 23:11:12
「なんだ。気になるのか?」
「気になるっていうか……」
「あれもあれでまじめすぎるな。もっと気を抜いたほうがいい」
 軽い口調だった。六太と異なり、別に辛辣な言葉を投げられているわけでは
ないのだろう。
 もっとも仮に何か言われたとしても尚隆は気にしないだろうが。何しろ普段
から側近に――特に帷湍には遠慮のない言葉で罵倒され慣れているのだから。
 六太が「斡由の被害者遺族らしいな?」と探るように言ってみると、尚隆は
肩をすくめただけだった。
「あいつ、おまえに心酔してるらしーぞ」
「ほう? 物好きなやつだな」
「……そうだな」
 それだけ返したものの、話が続かない。堤の話をしようかとも思ったが、今
さらだという気もした。きっと尚隆の頭の中では、とっくにいろいろな段取り
がつけられているのだろうし。
 尚隆が茶杯を卓に置いた音に、六太はふと思い出してまた、なあ、と言った。
「おまえさ、いいかげん『不満は俺を選んだ六太に言え』とか何とかで官を煙
に巻くのをやめろよ」
「うむ。いろいろ些末事を言われても面倒なだけだからな。あとはおまえに任
せる」
 にやにやした顔を向けられ、六太は眉をしかめた。
「だいたい玉座がほしいって言ったのはおまえだろうが。望みどおりにして
やったんだ、いちいち俺に押しつけるな」
「阿呆。俺に国がほしいと言えと迫ったのはおまえのほうだろう。半身なのだ、
面倒ごとぐらい、分かち合ってみせろ」
 苦笑した尚隆の抗弁に、六太は声もなく固まった。尚隆が玉座をほしいと
言ったから王にしたのではないか、何のことかわからないと考えて――。

761永遠の行方「遠い記憶(44/57)」:2017/04/04(火) 01:03:38
(違う)
 六太は愕然としながら、すっかり忘れていた記憶をようやく引っぱり出した。
(違う。尚隆は自分から玉座がほしいなんて言わなかった。まず俺が聞いたん
だ)
 そもそも蓬莱に生まれた尚隆は、当然ながらこちらの世界の存在も王の意味
も知らなかった。何より小松の民を逃がすために戦って死ぬつもりだった。
 それを助けてこちらの世界に連れてきたのは六太だ。確かに尚隆は「玉座が
ほしいか」と問われて「ほしい」と答えた。だが六太のほうも「国がほしいと
言え」と強く迫ったのだ。
 玉座の責任はどちら一方のみが負うべきものではない、両人がともに負うべ
きものだった。
 ずっと「尚隆が玉座をほしいと言ったから王にした。だから俺のせいじゃな
いし、そもそも天意が不満なら文句は天帝に言え」と周囲に減らず口を叩いて
きた六太は、反論の言葉を口にできなかった。
 ――台輔はすぐ人のせいになさるんですね。
 曠世の言葉が脳裏によみがえり、六太は暗い顔を伏せて唇をかんだ。
「六太?」
 急に黙りこんだ六太に、さすがに様子がおかしいと気づいたのだろう。尚隆
は席を立って、六太が座る窓に歩み寄ってきた。
「どうした」
 気遣うように頭に手を置かれる。そのぬくもりに、六太は泣きそうな目で見
上げた。
「なんだ、また拾い食いでもしたのか」優しい声だった。
「そう――かもしれない」
「困ったやつだな。腹が減っているなら、今日は正寝で一緒に飯を食っていく
か?」
「……うん」
 一瞬だけ顔をそむけてさっと目元を拭ってから、六太は必死に笑ってみせた。

762永遠の行方「遠い記憶(45/57)」:2017/04/04(火) 01:08:20

 斡由の乱以降、特に深刻な事件は起きていない。だから心穏やかに過ごして
も良いはずだが、最近の六太はこんなことを考えるようになった。
 なぜ尚隆は白沢を太保に任じたのだろうか、と。
 宮城に置いていろいろ見聞させるためなら、別に三公である必要はない。謀
反の中枢にあった人物なのだから、何なら本人が当初乞うたように下官として
勤めさせても良かったはずだ。
 だが尚隆は太保にした――六太の下につけた。
 もしや白沢の思いの変遷と反省のさまを間近で見せることで、六太に誤りを
悟らせるためかとも疑う。何をしてもいいが俺の足は引っ張るな、おまえが不
用意に動けば逆に民が害される、と言外に牽制しているのか。
 元州から宮城に帰還したあと、尚隆が六太の使令に命じたことがある。それ
は万が一また六太が狙われるようなことがあれば、誰を人質にされ、何を六太
自身に命じられようと、即座に六太の身柄を宮城に連れ帰れというものだった。
 あのとき更夜にも言われたように、本当に戦乱の到来を防ぎたいなら更夜を
殺すべきだったし、人質の赤子を犠牲にしても逃げるべきだった。でも六太に
はできなかった。だから尚隆が命じた。
 六太のあざなを馬鹿とした尚隆の心の一端が見えたような気がした。考えす
ぎかもしれないが、彼の苛立ちを示していないとどうして言えるだろう。
 白沢が尚隆に深謝した際、尚隆は「間違いを犯さない人間などおらぬ」と
笑って赦したという。さらには「何も失わずに生きていける人間もおらぬ」と
言って慰めもしたらしい。
 驪媚や亦信を喪わせた六太を、尚隆は本当に許してくれたのだろうか。何も
失わずに生きていけるはずはないのだからと、達観しているのだろうか。
 それでも相変わらず憎まれ口しか叩けない六太を、尚隆はどう思っているの
だろう。
 ――なぜ台輔はいちいちに主上を軽んじられるのですか。
 ――台輔が主上を褒めたりかばったりするお言葉を一度も聞いたことがござ
いません。
 最近では、六太は曠世と目が合うのを恐れるようになった。

763名無しさん:2017/04/04(火) 01:23:32
怒涛の更新で嬉しい・・・・
次も楽しみにしてるよ!

764永遠の行方「遠い記憶(46/57)」:2017/04/04(火) 19:45:29
 もちろん曠世は、内容はともかくとして言葉遣いは丁寧だ。だが、おそらく
それは敬意からではない。
 あれは拒絶だ。言葉そのものを丁寧に取り繕うことで、彼は六太との間に
きっちり線を引き壁を作っている。
(たぶん……憎まれてもいるんだろうな)
 諦めの心境で考える。曠世にとって更夜は親族の仇。更夜をかばう六太もそ
れは同じなのだろう。六太が更夜の肩を持つ以上、歩み寄りはあり得ないとい
うわけだ。
 傍で見ているかぎり、白沢は着実に尚隆の信頼を得、白沢に侍る曠世も、
けっこう便利に尚隆に使われてもいるようだった。それにどうやら曠世が辛辣
な言葉を突きつけるのは六太だけらしい。何しろ尚隆に心酔しているわけだか
ら、六太が更夜をかばうだけでなく尚隆に減らず口を叩くのも気に入らないの
だろう。その割に帷湍たちが言うぶんには大して気にしていないように見える
ので、よほど六太が嫌いらしい。
 あるとき仁重殿に帰る途中、たまたま曠世がひとりで書類を運んでいたとこ
ろに行き合ったため、六太は声をかけてみた。
「よう。がんばってるようだな」
「おかげさまで」
 いつものように張りつけられた笑みさえ、六太に対する壁と思われた。
「その、さ」立ち去ろうとした曠世をあわてて引き止める。「そろそろ普通に
話をしないか?」
「はい?」
「これだけけなされ続けると、さすがの俺も気分が落ち込むんだ。でももう知
らない仲じゃないんだし――」
「そうですか? でも拝見しているかぎり、台輔はずっと主上をけなし続けて
おられますよね。となれば当然、同じ行ないがご自分に返っても文句を言えな
いのでは?」
 小首を傾げるさりげない態度の割に、言葉は相変わらず辛辣だ。六太は口元
をこわばらせたが、何とか笑顔を保った。
「いやあ、尚隆は気にしてないしさ。それに帷湍なんかもよく尚隆を罵倒して
るだろ」

765永遠の行方「遠い記憶(47/57)」:2017/04/04(火) 20:06:28
「ああ。他の者がやっているからご自分もやっていいと思われているわけです
か。なるほど」
 六太は言葉に窮した。感情をそのまま相手にぶつけるという意味では、曠世
も六太のことを言えないほど未熟なのだろうが、だからこそ六太には反論でき
なかった。
ちなみに曠世は二十代前半らしいので、六太や更夜より年下なのは確かだ。
「実際のところ、はなから主上を軽んじている台輔と異なり、あれで帷湍どの
は主上にかなり敬意をいだいておられます。しかし奸臣は違います。玉座の根
拠である麒麟が王を軽んじるさまを見て、彼らはそれに正当性を見いだして主
上をないがしろにしています」
 つまり、と曠世は続けた。かつて元州城に留まったことで斡由の反乱を認め
たと見なされたと同様に、奸臣らは六太の態度を見て、王は軽んじてしかるも
のと思っていると。だから宮中の秩序の混乱は、六太の態度が一因でもあるの
だと。
 黙り込んだ六太に、曠世はくすりと笑みを漏らした。
「ご存じでしたか? 主上は相手の水準に合わせて対応を変えておられますよ」
「え……?」
「頭の良い、主上の意図を察することができる者にはそれなりの答えを、そう
でなければ適当にあしらっておられます」
「それは、おまえにはいろいろ話しているという意味か?」
 愚かな六太に何も話さないが、曠世には話しているのだと。
「まさか。私のような者に主上の深遠なお考えがわかるはずもございません」
 急に顔つきを正した曠世は、その言ばかりは本心から口にしたようだった。
「単に主上が意図を明かす相手は限られるということです。なのに表面だけで
判断して主上を悪しざまにおっしゃるのはいかがなものでしょう。奸臣らはい
まだに主上が怠けていると非難していますが、主上は実際には、ご自分が定め
た優先度と方法とで順次物事を処理しておられます。単にそれが官の考える対
応や優先順と異なっているがために、政務を放擲していたように見えるにすぎ
ません」
「それは……」

766永遠の行方「遠い記憶(48/57)」:2017/04/04(火) 20:24:02
 六太が口ごもると、曠世はひとつ溜息をついてから話を変えてこう言った。
「主上がこう言っておられたことがあります。『人は正義の名のもとに、簡単
に相手を追いつめるものだ』と。『自分が正義だと確信したときの人間の残虐
さは本当に恐ろしいぞ』と」
 自分は正義だからまったく悪くない。相手が悪いのだから何をしても良いと、
簡単に相手を傷つけて正当化してしまう。曠世は淡々とそう語った。
 六太のことか、それとも六太を責める自分を自覚してのことなのか。そう
思って困惑していると。
「勘違いしていただきたくないのですが、別に私は自分を正義だとまでは思っ
ておりませんよ。私は台輔は嫌いですが、無礼打ちにされても仕方がない態度
だということも承知しています。
 それでも台輔にこういったことをお伝えする人間も必要でしょう。でなけれ
ばこれまで同様、誰もが台輔を庇護して甘やかすだけなのですから。いくら台
輔の安全が主上のお命にかかわるとはいえ、そしてお姿が子供のままとはいえ、
ここまで甘やかすのはどうかと思いますね。何しろ台輔の考えなしの言動が主
上を貶め、それによって主上のお身の回りの危険を増大させているのは確かな
のですから」
 立ち尽くす六太に、曠世は一礼した。そうして踵を返して去っていく。
 その姿が見えなくなってから、六太はのろのろと歩き出した。仁重殿に戻り
ながら欝々と考える。確かに言われるまでもなく、六太の態度は王を軽んじて
いて、それが宮中の乱れの一因なのかもしれない。
 だが。
 仕方ないじゃないか、とも泣きたい思いで言い訳する。
 なぜなら――。
 なぜなら本当は尚隆にもっとかまってほしかったのだから。だから言い合い
もしたし、文句も言った。そうすればそのときだけは尚隆の気を引けるから。
六太には尚隆が耳を傾けたり意見を求められるほどの政治能力はないから。
 幼い子供みたいだ、と六太は自嘲した。あるいは好きな女の子の気を引くた
めに髪を引っ張っていじめたりして、逆に嫌われる男の子か。
 六太は尚隆を見る。いつも――見ている。だが尚隆は六太を見ない。

767永遠の行方「遠い記憶(49/57)」:2017/04/04(火) 21:23:37
 あいつは本当はけっこう優しいんだけどな、と半ば諦めの気持ちとともに、
仕方がないとも理解している。なぜなら尚隆にとって六太は、曠世に言われる
までもなく役立たずなのだから。

 それから数年が経った。
 未来の雁を担う官は順調に育っているようで、表面上はまだ奸臣が幅を利か
せていたものの、尚隆の手足となって実務を担う人材は着実に増えていった。
特に元州の州官出身者は、徐々に、だが確実に復興していく国を目の当たりに
して、自分たちの何がいけなかったのか、国府が本当は何をしていたのかを
悟ったらしく、完全に王に帰順した。
 三公六官は白沢を除けばまだ光州出身者のままだったが、数年のうちに首が
すげかえられることは確かだろう。朱衡などは明らかに法務関連の重要な案件
もかかえるようになったから、いずれは小司寇、もしかしたらいきなり大司寇
に抜擢されることもありえた。
「国内が安定していないのに、今度は荒民か。相変わらず頭の痛いことだ」
 周辺国がきな臭いという情報を持ってきた成笙に、後宮の執務室で尚隆が嘆
息を漏らした。
「大半は雁を素通りしていくとは思うがな。まだ雁の民自身が食っていくのが
やっとなのだし」
「まあ、いい。引き続き状況を探らせておけ」
 うなずいた成笙が麾下に指示を下すために退室する。それを見送った六太が
ふと口を出した。
「なあ。何なら俺がさっと行って様子を見てこようか?」
「うん?」
「宮城にばかりいたら息が詰まるし。おまえの命令で国外に出るなら勅命って
ことで言い訳できるじゃん」
 六太は大きく伸びをしたあと、にやりとしてみせる。
「なんだ、退屈していたのか」
「そりゃそうさ。おまえだって相変わらず外に出歩いてるんだ、たまには俺に
も口実を与えろよ」

768永遠の行方「遠い記憶(50/57)」:2017/04/04(火) 21:26:34
「なるほど。使令もいるし、考えてみれば適任か」尚隆はくっくっと笑ってか
ら「よし、台輔に命じる。適当にいろいろ探ってこい。だがあまり遊びすぎる
なよ」
「任せとけって」
「そうだな。うまくやれたら、そのうちどこかに連れていってやろう」
 六太は一瞬目を見開いてから、「楽しみにしとく」と笑った。
 嬉しかった。六太は名目上の靖州侯でしかなく、宰輔としても、何しろ尚隆
が六太の助言諫言を必要としていない。だから国が整いつつある中で、尚隆の
側近周辺が皆尚隆に頼りにされて忙しく働くさまにどこか焦っていた。置いて
いかれる、自分も何かしなくてはならない、と。
 だからとっさに申し出たのだが、尚隆の出奔に誘われるとまでは思わなかっ
た。
 思わず、ぐっと拳を握る。尚隆の目となって命じられるままに国の内外を探
れば、もっと気にかけてもらえるかもしれない。さすがに危険な場所には行か
せてもらえないだろうし、六太自身も不安があるが、使令さえいれば大抵の場
所なら何とかなる。
 六太は頑張って勅命をこなした。傾きつつある外国で民の暗い顔を見るのは
つらかったものの、そういうとき尚隆は、次は穏やかな地域の視察を命じて気
遣ったり、周辺に緑の増えた関弓の散歩に誘ってくれるようになった。おまけ
に使令を人目につかせるわけにはいかないとあって、一緒に騎獣に乗せてくれ
るのだ。
 騎獣の上で体を安定させるためなら、尚隆に後ろからぎゅっと抱きついても
言い訳はいらない。騎獣が小さめだと六太が前方に乗り、尚隆が後ろからかか
えるようにして手綱を取ることもあった。
 幸せだった。そんな自分の感情を分析するまでには至らなかったが、これが
麒麟の本能なのだろうと、深く考えることもなかった。
 相変わらず減らず口を叩くのまではやめられなかったが、尚隆自身は気にせ
ずにあしらってくれたから、曠世に呈された苦言を忘れ、これまた深く考えな
かった。むしろ一緒に過ごす時間が増えたことで積極的にわがままを言って、
どこまで許容してくれるのかと無意識に量っていたところがある。

769永遠の行方「遠い記憶(51/57)」:2017/04/04(火) 22:03:13

 そうやって日々が過ぎていき、あるとき六太は来年には三公六官が刷新され
る予定だと聞きつけた。
 まず朱衡の元に赴いて事実を聞いてみる。必要な人材がかなり育成された今、
今度こそ尚隆は改革を敢行するつもりらしく、朱衡は大方の予想通り大司寇に
抜擢される旨を内々に伝えられたとのことだった。帷湍は大司徒の予定だし、
白沢に至ってはなんと州侯だ。ただし元州ではない別の州だが。
 忙しそうな朱衡に祝いを告げ、ひとしきり話をしてから次に帷湍のところに
行く。禁軍左軍将軍になるはずの成笙の元へも。
 最後に白沢の元を訪れると、他の三人と違って実権のない三公だったぶん時
間もあるのだろう、引き止められて和やかに話をした。
「元州じゃなくて残念だったな」
「さすがにそこまでは望みません。むしろ宮城に来たときのように、遠く離れ
ていたほうが元州のことも客観視できて良いでしょう」
 白沢はそう言って朗らかに笑った。
「これは主上もおっしゃっていたのですが、斡由の政治的手腕自体は見るべき
ものがありました。見習うべきところは見習い、正すべきところは正してよく
治めよと、そう激励をいただきました」
「……うん。がんばれよ」
「まあ、実際に就任するまでまだ数ヶ月ありますので、これから初心に帰って
学ばせていただきますが。もっとも現在の冢宰らに漏れないよう注意も必要で
すな」
 何しろ尚隆が目論む改革はまだ極秘だ。現在の官位にふんぞり返っている奸
臣らに抵抗する隙を与えず、一気に畳みかける計画なのだから。同時に、これ
まで奸臣らが不正に蓄えてきた財も没収されることだろう。
 年が変わり、しばらくして現実に諸官に辞令が下ると、宮城はにわかに慌た
だしくなった。それでも尚隆の息のかかった下官がこの三十年でじわじわと組
織に浸透し、実務の要所を仕切るようになっていたとあって、上が刷新されて
ももはや混乱は起きない。捕縛されるべき者は捕縛され、または仙籍を剥奪さ
れて放逐され、代わりに今度こそ尚隆の認めた人材が冢宰および三公六官の座
につく。

770永遠の行方「遠い記憶(52/57)」:2017/04/04(火) 22:05:48

 六太があらためて白沢に挨拶に行くと、任地の州に向かうため、太保の官邸
は整理の真っ最中だった。さすがに十年近く過ごしたとなると、なんだかんだ
で荷物も増えたのだろう。
「元気でな。がんばれよ」
 六太はそう言って激励した。ついでに、最後かもしれないので曠世を呼びだ
して、久しぶりにふたりだけで言葉を交わした。もっとも曠世の冷ややかな笑
みは変わらなかったが。
「いろいろあったが、おまえもがんばれよ」
「お気遣い感謝いたします」
「その、俺もいろいろ浅慮だったのは認める。うん」
「そうですか」
「でも当の尚隆が別に気にしてないんだし――」
「それでも主上が失道なさるとしたら、きっと台輔のせいでしょうね」
 最後の最後で突きつけられた鋭利な言葉の刃と毒に、油断していた六太は絶
句した。ややあって震える声で問いかける。
「なん、だって?」
「只人でも、毎日身近な人間に罵倒され続けていればひねくれてしまうもので
しょう? なのにしっかり統治しておられる主上の手腕に、何かというと未だ
に難癖をつけていらっしゃるのですから、さすがの主上もいずれは倦んでしま
われるのではと」
「それ、は」
「もちろん不敬な想像ですし、主上が雁を繁栄に導いてくださることは疑って
おりません。しかしながら王というものは昔から、いずれ玉座に飽くものだと
言われます。なのにもっとも身近にいる麒麟が支えたり慰めるのではなく日ご
ろから罵倒していたら、さすがの主上もやがてはうんざりして『もういい』と
すべて投げ捨ててしまわれかねないとは思いませんか?」
 その論理には穴があったかもしれない。しかしいきなりのことで六太には否
定できなかった。
 六太自身、曠世にきつい言葉を浴びせられるのは嫌だったし、誤魔化しては
いたものの彼と顔を合わせるのは怖くもあった。いい加減、うんざりすること
もあったし、そろそろ態度を改めてくれないかとも思っていたのは事実だ。

771永遠の行方「遠い記憶(53/57)」:2017/04/04(火) 22:08:18
 だがそれを自分と尚隆の関係に当てはめられようとは思わなかった。
 思えば六太の意識は、言うなればずっと被害者のものだった。自分が加害者
になるなどありえないと無意識に確信していたから、他者を害している可能性
に至っては微塵も考えたことがない。顔では笑っていても、ほんの毛筋ほどで
も尚隆が傷ついている可能性、当人が自覚していなくても塵が積もるように鬱
憤が降り積もっている可能性などまったく想像していなかった。
「以前台輔は、王は王だ、民とは違うから民を踏みにじりかねないとおっ
しゃっていたことがありますね。私はそれを伺ったとき『世に言われる麒麟の
慈悲というものは、ずいぶん底が浅いのだな』と思ったことを覚えています」
「……」
「なぜなら、はなから信じずに疑ってばかりいたら、普通なら疑われたほうは
心が歪むものだからです。それは王であれ変わらないでしょう。臣が最初から
疑って信じなければ、主君の感情をみすみす負の方向へ向けかねません。
 台輔がどう思われようと、主上も人間ですよ。実際、どの国のどの王も、最
後には失道して過ちを犯してきたではありませんか。それは人間だから、どう
しても心の弱さを完全に克服するには至らないのでしょう。世に終わらない王
朝はないと言われるのはそういうことです。
 ならば主上もいつかは玉座の重責に耐えられなくなります。そんなとき半身
とされ、もっとも身近な麒麟にさえ罵倒され続ければ、立ち直れずに転落する
しかないではありませんか」
 六太が黙っていると、曠世は話が終わったと判断したのだろう、「それでは
お元気で」と一礼して立ち去った。六太はぼんやりとしたまま、その後ろ姿を
見送った。

 既に元州と光州は治まっている。改革で宮中にも秩序が戻り、さらに白沢の
治める州が完全に王に帰順すると、国内の状況は急速に安定した。むろんまだ
盤石とは言い切れないため油断はならないが、このまま地道に治め続けていけ
ば、雁の全土はおのずと復興を遂げるだろう。
 この頃には既に、以前曠世が口にしたような現王の意図、つまり治水を含め
た勅令の目的についても解釈が広まってきていて、十年、二十年経って結果が
誰の目にも明らかになると、もと元州の州官もあらためて王の慧眼ぶりに感服
して褒めたたえた。

772永遠の行方「遠い記憶(54/57)」:2017/04/05(水) 21:21:02
 白沢は新年の慶賀には必ずみずから宮城に足を運び、尚隆や六太はもちろん、
朱衡や帷湍らとも親しく歓談した。その際、いつも曠世を伴っていたが、それ
も十年が過ぎるまでだった。
「もともと元州に帰るのが本人の希望でしたのでな。いろいろと経験も積んだ
ようなので、先ごろ元州侯にお願いしてあちらの州官に戻していただきました」
 その年、白沢の随行に曠世の姿が見えなかったため六太が尋ねると、白沢は
そう答えた。六太は「そうか」と言ったものの、ほっとしたような、逆に寂し
いような、複雑な思いだった。
 以来、それとなく探ったところ、曠世は元州でよくやっていたらしい。それ
から何十年かを真面目に勤め上げ、後進を育ててからあっさり仙籍を辞して市
井に下ったという。
 その頃には内朝六官のひとりとして宮城に戻っていた白沢から、曠世が結婚
したらしいとの噂も聞いていたのだが、官でなくなった者の消息はすぐにわか
らなくなるものだ。さらに数十年を経るころには、おそらく既に没したのだろ
うなと思い、六太は不思議な寂寥感を覚えた。
 きつい言葉を浴びせられたのはもちろんだが、確かに六太の周囲には彼のよ
うに嫌悪とともに惨い事実を容赦なく突きつける者はいなかった。嫌だったし、
今度は何が口から飛び出すのだろうと思うと怖くもあったが、あれはあれで得
がたい経験だったのかもしれないと、今なら思える気がした。
「どうした」
 もう尚隆は後宮で密かに政務を執ることもない。内殿の王の執務室で六太が
何となくぼんやりしていると、書類の吟味が一段落したようでそう声をかけて
きた。
「なあ、曠世って覚えているか?」
 尚隆は少し考えこんだものの、すぐに「昔、白沢の側仕えだった者か?」と
正解を口にした。
「うん、そう。実はあいつがいた頃、けっこうきついこと言われ続けててさー」
ふいと視線を逸らして窓の外を見やる。「でも今となってみると、妙に懐かし
いっていうか。不思議なんだけどさ」
「ふむ」
「仙籍を辞して長いから、もう亡くなってるんだろうけど、何だかふと思い出
して。どうしてかな」

773永遠の行方「遠い記憶(55/57)」:2017/04/05(水) 21:32:40
 席を立つ気配がして視線を戻すと、尚隆が歩み寄ってくるところだった。首
を傾げてその様子を見ていると、たまにやるように尚隆が六太の頭に手を置い
た。
「誰であれ、置いていかれるのは寂しいな」
 変わらないその手のぬくもりに、不意に六太は泣きたくなった。曠世なんか
好きではなかった。自分すらも誤魔化していただけで、本当は話をしたくもな
かった。
 でも。
「そう、だな」
 誰であろうと置いていかれるのは寂しい。いっときとはいえ近しくしていた
者であれば特にそうだ。
 無造作に頭をなでてくる尚隆を見上げ、六太はごく自然に思った。尚隆が好
きだと。
 それは春になって草木が萌えるような、雪が融けて水になるような、ごく当
たり前の感情の開花だった。
(――そうか)
 ぼんやりと尚隆を見上げながら、六太はようやく自覚した。自分は尚隆が好
きだから、あれほど減らず口を叩いてまで気を引こうとしたのか、と。
 それは主君への敬愛ではない。友愛でもない。その手を余人と分け合わずに
自分だけのものにしたいと願う独占欲は恋情に他ならず、だからこそ報われる
ことはないだろうとも同時に確信した。
 にっと笑ってみせると、尚隆も笑顔を向け、またひとしきり頭をなでてくれ
てから椅子に戻った。
 その様子を眺めながら、六太はみずからの滑稽さに笑い出したくなった。
 なんて哀れなんだろう。尚隆が六太を麒麟として以上に見ることはないし、
そもそも男としての欲求は普通に市井で女を買って済ませている。雁でもこれ
まで美男美童を後宮に集めた男王はいるらしいが、少なくとも尚隆にそんな性
癖がないことは、長く接した六太自身がよく知っていた。
(気づかなければ良かったなあ)
 頭の後ろで手を組み、くつろいだふうにまた窓の外を眺めやる。尚隆の治世
が長く続くことを望んではいたが、それが自分の片思いの歴史になることを考
えれば、溜息しか出なかった。

774永遠の行方「遠い記憶(56/57)」:2017/04/05(水) 21:44:36
(長いなあ。長く続くんだろうなあ。まあ仕方ないか)
 心中で苦く笑う。感じるのは最初から諦念しかなかった。それでもこのとき
はまださほど実感がなかったせいか、どちらかと言えば穏やかな気持ちだった。
 期待はしない。夢も見ない。それでも想うだけなら許してほしいと、凪いだ
心で慈悲を乞う。
 しかし季節は過ぎる。その長さに応じて想いも降り積もる。ときに尚隆と馬
鹿騒ぎをし、ともに出奔して楽しく諸国を巡りながら、六太の恋情はより深く
真剣になっていった。それゆえに、この想いは絶対に知られてはならないと心
に銘じてもいた。
 王と麒麟は一蓮托生、いわば夫婦よりも固い絆で生涯を共にする。だがそれ
は国主と臣下の関係であって、決してそれ以上のものではない。尚隆が六太に
向けるのは、あくまで身内に対する親愛の情に過ぎなかった。
 そんな相手に自分の想いの深さを知られたときの惨めさを思うと死ぬよりも
つらい。離れるわけにはいかない相手となればなおさらだ。
 呆れられるかとも思うが、意外に優しい尚隆のことだから、知ればむしろ困
惑や哀れみの目を向けてくるのではないだろうか。ときにはあまりにも思いつ
め、宴席で酔ったはずみに笑い話として臣下に話されるかも知れないと、尚隆
の性状からしてありえない状況まで想像して恐怖することさえあった。尚隆で
はなく他の者にばれたとしても、もし哀れみや嘲りの目で見られるなら毎日が
針のむしろになるのは変わらない。

 だからなのか、それから長い時を経て晏暁紅に、六太が身代わりになれば王
は助かると告げられたとき、おかしなことに実質的な死を迎えることについて
の動揺はなかった。むしろこれが自分の生に用意されていた結末だったのかと、
すとんと胸に落ちるものがあった。振り返ってみれば、こんな不自然な想いを
いだいたままいつまでもいられるはずがないと、どこかで覚悟していた気がし
た。
 かつて使令は尚隆に、六太が狙われたなら誰を人質にされても六太を宮城に
連れ帰れと命じられた。だが今その王が危険にさらされ、翻って六太は眠り続
けるだけで生命に障りはないという。六太の影の中、どちらの命令に従うべき
か混乱した使令を、六太は双方の生命を守る唯一の方法だとしてなだめる。

775永遠の行方「遠い記憶(57/E)」:2017/04/05(水) 21:48:45
 きっとこれは天帝の慈悲なのだ。決して報われることのない想いを秘めつつ、
これ以上主のそばで苦しい一生を過ごさなくても良いのだ。誰よりも恋しい相
手が、六太のことなどまったく意に介さず、今日はこちらの女、明日はあちら
の女と渡り歩く姿をもう見なくて良いのだ。
 そう考えると、六太はやけに静かで落ち着いた気持ちになった。そして身勝
手な思いながら長いこと苦しんでいた暁紅に対して、心の底から哀れに思った。
州侯の美貌の寵姫にまでのぼりつめておきながら、ここまで落ちぶれてしまっ
たとは。
 それに尚隆が道を失ったとき、きっと六太には何もできない。かつて曠世が
六太の心に打ち込んだ楔は今でも鮮やかに生きていて、自分はむしろ追い打ち
をかけることしかできないだろうと思った。
 これまで国政で役に立たなかったように、結局は手をこまねいて、王と民の
双方の苦しみを見ていることしかできないに違いない。そもそも国政に有能な
麒麟がいた試しはないと聞く。それくらいなら、生きているだけの木偶になっ
ても同じこと。むしろいざというときに官が六太の命を絶つことで王の暴虐を
止めやすくなるかも知れない。
 ならば眠り続けるのも悪くはないと思った。どうせ麒麟のものは何もない。
生命すら自分の自由にならない。この想いさえ、もしかしたら王を慕うとされ
ている麒麟の本能なのかもしれない。ならばいっそ。
 ――ただの木偶になってしまえばいい。
 麒麟の生命さえ続いていれば、王の健康には何の差しさわりもないはず。む
しろ慈悲の繰り言を聞かされずに済むぶん、尚隆にとっては好ましいことかも
しれない。
 ――それでも。
 少しは悲しんでくれるだろうか。少しは哀れに思ってくれるだろうか。何年
かに一度でも、何かの折りに思いを馳せてくれるだろうか。長い時が経ち、王
から人に還る最期のとき、一瞬でも懐かしく思い出してくれるだろうか……。
 六太は安らかだった。そうして暁紅が呪を唱える中、不思議なほど澄んだ気
持ちで、尚隆への愛情を宝石のように胸にいだきながら目を閉じたのだった。

- 「遠い記憶」章・終わり -

776書き手:2017/04/05(水) 21:54:08
結局ぎりぎりまで往生際悪く推敲していたため少しかかりましたが、
やっと「遠い記憶」章が終わりました。

当初の構想ではほぼ地の文だけでさらりと書いて六太の覚醒につなげる予定だったところを、
説明だけに終始しても説得力がなさそうだと、結局普通に描写することにしたらこの体たらく。
これでもかなりのネタを入れ切れずにボツにしたんですが。
おまけに最後の六太の心情描写を書いたのは、昔書き逃げスレに投下したより前とあって、
今回書いた部分とうまくつながってないかもしれません。

元州に頑なに治水工事を許さなかった尚隆の意図については、原作を読み込むかぎり
ああいう感じだったのではと本作としては断言しちゃったのですが、実際にはどうでしょうねー。
民も自分たちで河岸を荒らしたとか、いつもながら勝手に設定を作っているし。
荒れた巧にいた頃の陽子の「ここは神だのみをしない国だ」あたりの描写から推して
空位であちこちが危険になれば、民は生き残るために手段を選ばなかったろうと想像しました。
現実の歴史や言い伝えなんかでもほうぼうで類似の話はある上、
雁は折山の荒廃と言われるほどすさまじく追い詰められたわけなので。

ともあれ次章「絆」はようやく、書きたかった尚六的本論です。

777名無しさん:2017/04/05(水) 22:12:40
お疲れ様でしたー
尚六的本論、楽しみにお待ちしています!

778永遠の行方「絆(前書き)」:2017/04/10(月) 21:13:50
―――――――――――――――――――――――――――――――――
 無事に呪の眠りから目覚めた六太。
 しかし呪に囚われている間、夢すら見ず、唐突に意識が戻った六太と、
 長らく苦しんだ尚隆とでは、その心情に温度差があった。
 主従は誤解し合い、すれ違いながら、それでも絆を深めていく。
―――――――――――――――――――――――――――――――――


やっとこの章までたどりつきました……長かった。

この「絆」章は尚六的本論、つまり承転結に当たり、
主に六太、または尚隆の視点で進みます。
たまに他のキャラの視点も入るかもしれませんが、
焦点がぼけるのでさらりと済ませ、舞台もあくまで宮城が中心。

基本的にはちょっとした誤解とすれ違いの話で、六太がやたら乙女です。
本格的に投下するまで、またけっこう間があくと思うので、
あとでとりあえず最初の2レスだけ落としていきます。

779永遠の行方「絆(1)」:2017/04/10(月) 22:23:36

 それは不思議な感覚だった。日も射さぬ深い深い水底から、唐突にぷかりと
浮かび上がったような。
 六太はなぜか、熱い、と思った。
 体が熱い。顔も熱い。そう――口元が熱い。何か熱いものが押しつけられて
いて、さらには口腔内に割って入ってくる。味わったこともないおかしな感覚
なのに、それがまったく不快ではない。
 何だろうと夢うつつに思いつつ、やがてその熱が離れたときは訳もわからず
寂しく思った。
 それと意識せずに、ぼんやりと目を開ける。思いがけず、呆然とした表情の
尚隆の顔が間近にあった。
 何が起こったのかわからず、そのままぼうっと眺めていると、男の目から一
筋の涙がこぼれ落ちた。この男が泣いた顔など、これまで一度たりとも見たこ
とはない。六太はあっけにとられて、まじまじと見つめた。声をかけようとし
たが、口がうまく動かなかった。
「……どうして……泣いている……」
 やっとのことでかすれた声を絞り出すと、尚隆はほんのりと微笑して「どう
してだろうな……」と静かに答えた。
 優しく頬をなでられて嬉しく思いながら、引き続き尚隆の顔を見るともなく
見ていると、徐々に記憶が蘇ってきた。
(そうだ、俺は暁紅に呪をかけられて――)
 そこまで思い出してはっとする。六太は王が目覚めることと引き換えに、覚
めない眠りに落とされたはず。尚隆が無事だったのはわかったが、こうして自
分まで目覚めたのはおかしい。
 そう思ってみれば尚隆の顔は、今まで見たことがないほどやつれていた。
 やつれ、というのとは違うかもしれない。何しろ仙は病にもならず怪我もし
にくい。死線を潜り抜けるようなことをしたのでないかぎり、そうそう面立ち
は変わらないものだ。ただ雰囲気が――妙に疲労の色が濃いというか。
 他に何か事件があったのだろうか、とめまぐるしく考える。この房室は静か
なようだけれど。
 六太はここが仁重殿の自分の牀榻でないようだということにやっと気づいた。
だが大きく開け放たれていた折り戸の向こうの様子に見覚えはある。牀榻の内
外にやたらと花が飾られているのが不思議だが、この装飾はおそらく正寝。そ
れも正殿たる長楽殿の王の臥室のひとつ、のような……。

780永遠の行方「絆(2)」:2017/04/10(月) 22:37:49
 六太は、まさか自分が眠り続けていたことで思わぬ悪影響があったのだろう
か、と焦った。
 靖州の令尹は優秀な男だから、靖州侯の不在が確定すれば、王の権限で承認
の押印まで全面的に任せるのに支障はなかったはず。それとも宰輔としての政
務のほうだろうか。あるいは祭礼とか他国の賓客を迎えるなどで、宰輔がいな
いと格好がつかなかったのかもしれない。それとも五百年の治世を誇る王とは
言っても、宰輔が実質的に不在であることに苦言を呈する輩でもいたのか。確
かに王の傍らに麒麟がいないとあれば、傍目には不安定この上ない。それとも、
それとも――。
「あの――さ。おまえ、随分やつれてるみたいだけど、何かまずいことでも
あったかな。いちおう呪者にはおまえに害がないって確認したんだけど……」
 かすれた声を出すたびに痛む喉を無視して、懸命に言葉を紡ぐ。
 自分がここにいるのは、頼んだとおりに鳴賢が国府に連れていってくれたか
らだろう。当然、経緯も詳しく説明したはずだ。だがそれ以上のことはさっぱ
りだった。牀榻はもちろん外の臥室の様子もほの暗いことから、せいぜい夜だ
ろうことが推測できる程度だ。
 尚隆の目が大きく見開かれるのを見て、当たりかな、と沈んだ気持ちになる。
昔の斡由の乱のときのように、自分が良かれと思ってしたことが、結果的に事
態を悪化させたのだろうか。
「ごめん……。俺、莫迦だからさ。やっぱり何か騙されたかな。王には何も悪
影響はないって、しつこく確認したつもりなんだけど」
 尚隆の唇がきつく結ばれ、眉に険が寄った。ここに至って臥牀の上に腰かけ
た尚隆に、衾にくるまれて抱き寄せられていたことに気づく。そうやってすっ
ぽりと腕の中に納まっていたものだから、六太にも相手の身体の震えがまざま
ざと伝わってきた。六太の目の前で固く衾を握りしめた拳には筋が白く浮いて
いた。
 ああ、怒っているんだ、と萎えた心で考える。大抵のことには鷹揚な態度を
崩さず対応してきた尚隆が、こんなに憤りをあらわにするのもめずらしいけれ
ど。
(じゃあ、本当に何か問題があったんだ。もしかして――今度こそ殴られるか
な)
 だが尚隆はふいと目をそらすと、六太をそっと臥牀に横たえてから立ち上
がった。臥室を出て、そこにいた護衛の臣にだろう、「六太の意識が戻った。
黄医を呼べ」と命じている声が聞こえた。
 尚隆はそのまま臥室に戻っては来なかった。

781名無しさん:2017/04/11(火) 12:11:41
一区切りお疲れさま&更新有難うございます
昔通ってましたがもう動いてないと思ってたのでサロンのスレで動いてた事を知り
他スレとあわせ全ログ一気読みさせていただきました
出来上がるまでのもだもだやスレ違いや追い詰められる系が大好物なので
脇まで丁寧に描かれ一歩一歩前進してる本作には引き込まれました
呪のくだりは蠱毒に似た禍々しさにゾクッとさせられ成長しながら真相に近付く鳴賢や
よくぞ言ってくれた!な陽子を応援し尚隆の気持ちが自然と六太に傾いていく様と
その憔悴っぷりをハラハラドキドキ見守りようやくと萌え死に…
でもこの先もまだもだもだしそうで楽しみでなりません
続きもゆっくり気長にお待ちしております

782書き手:2017/04/11(火) 22:46:28
ありがとうございます。
エタだけはないので、また何かの折にでも覗いてください。

前章でろくたんをかなりいじめてしまったので
早く尚隆とラブラブにさせてあげたいものです。

783名無しさん:2017/04/12(水) 22:28:46
絆の2スレだけで既に萌える、出て行った尚隆が切ない・・・
続き楽しみに待ってます!

784名無しさん:2017/04/15(土) 21:11:12
あぁぁほんと最高です!
待ってます!

785書き手(尚隆語録):2017/04/18(火) 21:05:22
長らく放置状態だったのに見てくださってありがとうございます。

実は投下してなかった間も「尚隆の台詞はこんな感じ」と随分ためてたのですが、
前章は六太視点に終始したし、あれ以上オリキャラをクローズアップするのも
「なんか違う」とほとんど使えず全部ボツに。
でもせっかくなのでそれも、全部ではなくごく一部ですが、合間に落としていきます。
ファイルごと削除するのもなんかくやしいので見逃してくださいw

 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

曠世が白沢に命じられて初めてひとりで尚隆の元に使いにやられた際、
むろん最初に白沢が「この者に使いをやらせます」と境遇を含めて紹介&予告した上での話ですが、
気安く声をかけてくる尚隆に、曠世は極限まで緊張しながらも思いきって
「あの! 不心得な元州をお見捨てになろうとは思われなかったのですか?」と問い。

片眉を上げてにやりとした尚隆、
「どうせ救うなら国を丸ごとだ。どちらにしろやることは大して変わらんのだからな」

もともと元州政府に恨みをいだいていたこともあり、
自分の親族を殺した更夜の肩を持つ六太の態度に衝撃を受けたこともあり。
それらとの対比から、曠世はこのたった一言でやられて心酔してしまったのでした。

……この台詞、先のどこかで使えるといいなあ(未練)。

786永遠の行方「絆(3)」:2017/04/18(火) 22:32:58

 六太が状況を理解できないまま待っていると、ほどなくあわただしい気配が
近づいてきた。
 足音、話し声。ずいぶんと大勢に思える。
 臥室の扉が開く音がして、衝立の陰から黄医が仁重殿の女官を数人伴って現
われた。
「おお、台輔、本当に……!」
 黄医は感極まったように叫んだ。女官たちは喜びというよりはむしろ顔を歪
め、泣きそうな表情で臥牀にまろび寄った。
 黄医は震える声で「失礼をば」と言って六太の片手を取った。そうして脈を
見、女官に差し出された手燭を六太の顔近くにかざして注意深く診察する。
「えっと。何があった?」
 とりあえずこれだけは聞かねばなるまいと思って尋ねると、黄医は目を瞬い
てから「おお」とうなずいた。
「台輔は一年半近く、意識がなかったのでございます」
「一年半……」
 たった、と意外に思った。たったの一年半。少なくとも何十年かは眠り続け
るだろうし、場合によっては眠ったまま命を失うことさえ覚悟していたことを
思うと、何だか拍子抜けした。
 言われてみれば確かに、呪にかけられたのは真冬だったはずなのに、気配は
既に初夏のものだった。
「呪が……」
「解けたようでございますな。理由はわかりませんが。主上が何かなさいまし
たかな?」
「さあ?」
 六太には何の自覚もないとあって首を傾げるしかない。ただ口元の不思議な
熱を思い出したとき、話に聞く接吻のようだったとふと思い、滑稽な連想にす
ぐ我に返って切なくなった。
 喉の痛みが本格的につらくなってきたところで、声調子からそれと察した黄
医が制止し、いろいろ疑問に思っているだろうことを簡潔に教えてくれた。
 今回の謀に関わった者は全員が死んだと思われること。したがって今度こそ
二百年前の光州の謀反は幕をおろしたはずで、後顧の憂いは何もないこと。
 犯罪者とはいえ、慈悲の麒麟にその死を伝えて喜ぶべきではなかったろうが、
王と麒麟の命が直接脅かされたのだから仕方ない。

787永遠の行方「絆(4)」:2017/04/18(火) 23:31:51
 六太を国府に運んでくれたはずの鳴賢がどうなったかについては、そもそも
彼の存在すら黄医らの意識になかったらしく、六太が必死で「め、けん、は」
と尋ねるなどしてやっと知ることができた。
「さて、やはりだいぶ四肢が衰えておられますな。神仙とはいえ、こればかり
は少しずつ動かして地道に訓練することで回復させるしか手がございません」
 重い身体にそうだろうなと六太も納得したものの、上体すら起こせないと
あって溜息しか出ない。女官は毎日六太の体勢を変えたり関節をゆっくり動か
したりと丁寧な世話をしてくれたらしいが、やはり自分で動かさないと体調は
戻らないのだろう。
「喉が乾いてはいらっしゃいませんか? 何かお飲みものをご用意いたしま
しょう。お食事についてはすぐには無理でしょうから、まずはごく薄い重湯の
ようなものから始めることになります」
 確かに長らく絶食していたのだから無理はない。
 用意された温かな小杯を口元にあてがわれる。ほんの一口か二口で充分と
思ったのに、さらりとしていながら芳醇で甘い風味に、気づけば六太は小さめ
の杯をあっさり干していた。
 しかし意識のない間も、なんと飲みものだけは少し摂っていたという。それ
も尚隆の口移しで。
 六太は目を白黒させ、ついでようやく状況を理解して真っ赤になった。体が
動いたなら、羞恥のあまり頭から衾をかぶったところだ。
「湿らした綿を台輔のお口にあてがって水分を流し込む案もございましたが、
窒息の可能性を考えるとどうしてもふんぎりがつきませんでした。かと申して
私どもが口移しさせていただくなど畏れ多いことでございます。そう申しまし
たら、主上が笑ってお引き受けなさって」
 六太の羞恥をよそに黄医は朗らかに笑い、女官たちも互いに見交わしてほほ
えんだ。
(――ああ。そうだったのか)
 不意に六太は悟った。
 目覚める直前の、あの熱い感覚。口元に何か熱いものが押しつけられていて
――。
 あれは単に何か飲み物を口移しされていたのだろう。まるで接吻のようだと
思ったけれど、半分は当たっていたわけだ。
 そこまで考えてから、六太は勝ち誇ったような暁紅の宣告を思い出した。
 ――最も望まないことではなく、おまえの最も望むことがかなったとき眠り
から覚めるようにしてあげよう。おまえの最大の願望の成就が、昏睡の呪縛を
解くようにしてあげよう……。

788永遠の行方「絆(5)」:2017/04/18(火) 23:35:24
 どきり、と鼓動が鳴った。自分の最大の望みなど、六太自身にはよくわかっ
ている。それは絶対に報われるはずのない、許されざる望みだ。だが。
 まさか、と思う。まさか自分の体はあれを誤解したということなのだろうか。
ただの口移しを接吻と勘違いして想いが通じたと思い込み、呪が解けた……?
 真相などわかるはずもない。だが実際に眠りから覚めた以上、それが一番可
能性がありそうな気がして、六太の全身を冷たい震えが走り抜けた。
(なんて――なんて滑稽な)
 いったい泣けば良いのか笑えば良いのかわからなかった。あまりにもあっけ
ない解決に、本当なら拳を振り上げて臥牀を叩くところだ。
(暁紅も可哀想に)
 あんな姿になってまで長いこと画策して必死に準備していたのに、そんなこ
とで呪が解けてしまっては浮かばれまい。しかも死んでしまったなんて。
 でも永遠に呪が解けないと思いこんだまま死ねたのなら、それはそれで幸せ
だったのかもしれない……。
 それともこれも天帝の慈悲なのだろうか。天帝は麒麟にあるまじき愚かな想
いをいだいた六太を憐れんで、その想いを密やかにかかえて生きることを許し
てくれたのだろうか。
 ふう、と諦念の吐息を漏らした六太は、心の奥底でこごった固いしこりの感
触に自分を戒めた。単に偶然がうまい具合に転んだだけなのに、調子に乗って、
もしかしたらという可能性を模索することなど許されないと思った。
 何しろ王というものは、失道して天に見放されないかぎりは天運を味方につ
けている存在だ。あっさり解決しても不思議ではないのかもしれない。
 こうなったら、残りの生はすべて天帝の恩寵と割り切って過ごすしかない。
麒麟にとって、もともと自分のものとは言えなかった生が、さらにはっきりし
たというだけ。偶然の結果で恩寵を賜ったに過ぎない六太が、おのれの欲を満
たすことなど決して許されない。尚隆への想いはこれまで以上に固く封印し、
心の奥底に閉じこめるしかないだろう。
 そんな六太の様子を勘違いしたらしく、黄医は「さて」と話を切り上げた。
「意識が戻ったばかりで疲れやすいのでしょう。しばらくご無理は禁物です。
今はまだ夜ですから、少しお休みくださいませ。明朝にまたまいります。女官
をひとり牀榻に控えさせますので、何かあればお申しつけを」
 六太は身体的には別に疲れてなどいなかった。しかし精神的な疲労は感じて
いたため、ありがたく目でうなずいた。

789名無しさん:2017/04/19(水) 08:17:21
こここ更新が…乙です!
零れ話も尚隆らしい台詞で素敵だし口移しを知ったろくたんにはニマニマせざるを得ない
グルグルしてるのがいじらしいやら切ないやらこのもどかしさも最高です
続きも楽しみにお待ちしていますー

790名無しさん:2017/04/19(水) 23:43:43
更新されてる!
二人の想いあってるのにすれ違いに私もニマニマしてしまう・・・・
この伝わりそうで伝わってないのって本当たまらんね

791永遠の行方「絆(6)」:2017/04/21(金) 19:34:19

 いろいろと考えながら目を閉じた六太が、次に気づくと既に外は明るいよう
だった。黄医の診察を受けてから、背に靠枕を当てられて軽く上体を起こされ
る。小杯をあてがわれて、昨夜と同じような甘みのある飲みものを摂った。
 女官によると宰輔覚醒の知らせを受け、まだ早朝だというのに官が続々と見
舞いに訪れているらしい。むろん長楽殿への昇殿を許されている官だけだが、
それでもけっこうな数にのぼるという。
 しかし六太を疲れさせないため、当面は六太が認めたごく親しい数人に限っ
て面会を受け付けるということだった。
「台輔……」
 許しを得て牀榻に入ってきた朱衡は、普段の彼にはまったくそぐわない、お
ずおずとした声調子だった。
 六太は本当は人払いしたかったのだが、何しろほとんど体が動かないとあっ
て、心配した女官が片時も離れない。仕方なくそのまま話をすることになった。
本音では尚隆の姿が見えないうちに、いろいろ尋ねて認識を合わせておきた
かったのだが。
 少し休んだからか、はたまた薬湯の一種だろう先ほどの甘い飲みもののおか
げか、多少喉の調子も良くなったのが嬉しい。それでも負担をかけないよう、
なるべく喉を使わず小声で話すようにした。そうすればごく近くにいる者にし
か内容が聞こえないから都合が良いというのもある。
 六太は朱衡に笑って「よう」と声をかけてから、こう尋ねた。
「何が起きたんだ?」
 小さな声を聞き取るために耳を六太の口元に寄せた朱衡が首を傾げる。
「何、とおっしゃいますと……?」
「俺、尚隆に迷惑かけたみたいなんだけど……。これでもいちおう呪者には、
王に悪影響がないってことをしつこく確認したんだ。でもあいつがあんなにや
つれてるってことは、実際には影響があったんだよな?」
 朱衡が愕然とした顔で黙り込んだのを見て、六太はいよいよおかしいと眉根
を寄せた。尚隆もおかしかったが、この男がこんな様子を見せることもめずら
しかった。
「台輔、それは」
「麒麟が生きてさえいりゃ、王には何の影響もないと思ったんだけど。考え違
いだったかな……」
「それは」いったん言葉を飲み込んだ朱衡が、やっとというふうに声を出す。
「麒麟とか、そういうことではなく。台輔の意識が戻らないとなれば、主上が
心配なさるのは当然かと」

792永遠の行方「絆(7)」:2017/04/21(金) 19:38:09
 今度は六太が首を傾げる番だった。だが確かに、ずっと身近にいた者が昏睡
状態に陥ったとなれば普通は心配するか、とようやく考え直す。
 にしても尚隆の様子がおかしいのは変わらないが、朱衡も知らない事情だっ
たとしても不思議はない。白沢も面会を希望しているとの話だから、そのとき
に白沢にも聞いてみようと六太は思った。
 そんな六太の様子に、朱衡はふたたび何かを言おうとして口を開きかけた。
しかし結局何も言うことはなかった。どこか悲しそうな表情をした彼は「台輔
を疲れさせてはいけませんね……。お顔も拝見しましたし、本日のところはこ
れで失礼いたします」と退出していった。
 釈然としない気持ちで見送る。傍らの女官が背の靠枕を取って寝かせ、臥牀
に広がる六太の長い髪を整えながらほほえんだ。
「主上も大司寇も、本当に台輔を心配なさっておられたのですよ」
 六太が疑問を呈してぱちぱちと目を瞬くのへ、その女官は幼子に言い聞かせ
るかのように穏やかに続けた。
「主上は何かと台輔を見舞ってくださいましてね。大司寇などは私どもにまで
お気遣いくださいまして、本当にありがたいと思ったものでございます」
 官の中には六太を見捨てるべきだとの意見もあったこと。六太づきの女官た
ちがそれをどんなに憤ったか。見舞いのために訪れる尚隆の姿に、どれほど励
まされたことか。六太が正寝にいるのは、景王からの助言に従ったためである
こと。尚隆が自分で六太をこの牀榻に移して、朝に晩に面倒を見たこと。それ
でもなかなか意識が戻らない六太に、心労のあまり今まで見たこともないほど
やつれたこと――。
(本当、に……?)
 六太は驚いた。正直、そこまで心配されるとは思わなかったのだ。
「お目覚めになって本当によろしゅうございました」
 しみじみと言った女官に、六太は今度こそ理解した。目覚めた直後のやりと
りにおける尚隆の反応の理由を。
 尚隆は本当に六太を心配してくれていたのだ。なのに当の六太がそれを認め
ず、他に理由があるはずと決めつけて尋ねたのだから、相手の真心を頭から否
定したも同然だ。尚隆を、情がないと、その程度の人間だと見限ったようなも
のであり、憤りを向けられても仕方ないだろう。
 仮に麒麟だから、王の半身だから心配されたのだとしても、六太は素直に嬉
しいと思った。それだけで十分だ、とも。
「尚隆には悪いことしたな……」
 女官に世話をされながら、さすがに済まない気持ちになる。勘違いで怒らせ
てしまったようだが、次に顔を合わせたときにはきちんと謝ろうと、六太は心
から反省したのだった。

793書き手(尚隆語録):2017/04/21(金) 19:41:22
これで一区切り。
結局、それでもろくたんはあまりピンときていない感じですが。
この後は尚隆視点と六太視点が交互していきます。
……が、しばらくお待ちください。

 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

尚隆
「王と言えど、自分の手でつかめるものなど、ほんの一握りだ。
 手から零れ落ちるもののほうが圧倒的に多い。
 なのにすべてを救えるなどと思うのは傲慢だろう」

ちょっと疲れたような感じでシリアスに。

794名無しさん:2017/04/22(土) 19:06:04
お疲れ様です!
すごく素敵です!
何度も読み返して待ってます!!!

795名無しさん:2017/04/22(土) 21:25:03
最近更新多くて嬉しい!
でも無理はせず頑張ってください、すれ違い尚六美味しい

796名無しさん:2017/04/23(日) 06:43:01
更新乙です!ろくたんイマイチわかってないのが本当美味しい
こうなると尚隆サイドが気になりますね
影ながら応援しております

797書き手:2017/04/23(日) 13:12:59
いろいろありがとうございます。
更新頻度については、書き溜めぶんはもっとあるので多分大丈夫です。
むしろ問題は以前の章を忘れてしまっていることによる矛盾なので
さすがにそろそろ一度読み返さないとまずいことぐらいですかねw

いずれにしろ今まで長々と書いてきたのは
この章以降を書くためなので頑張ります。
忙しさは一段落したので、多少間が空いたとしても
年単位で放置する羽目になることはもうないはずです。

798名無しさん:2017/04/24(月) 20:24:15
何の気なしに立ち寄ったら更新されてて大歓喜ですお疲れ様です!
原作の読み込み考察凄すぎて目から鱗の連続な上
ネガティブ六太が可愛くて可哀想でたまりません…
尚隆視点も楽しみにしてます!
はああ信じて待ってて良かった…!

799書き手:2017/04/26(水) 19:28:10
ありがとうございます。
ちょっとろくたんはいじめると癖になりそうでw
きっと尚隆もおもしろがってからかうのだろうなぁと勝手に思ってます。

800永遠の行方「絆(8)」:2017/04/28(金) 00:05:22

 六太が目覚めた昨夜、尚隆は六太を黄医らに任せて他の臥室で眠った。
 どこの王宮でも王の臥室の予備はいくつもあるものだ。特に不安定な王朝初
期は、暗殺を警戒して寝所を固定しないことが多いし、清掃や改装といった管
理面での都合に対応するためもある。
 もちろん玄英宮の長楽殿にも王の臥室は複数あった。ただし雁ほどの大王朝
になると、移動するのは警備上の理由というより大半は清掃等の都合だから、
頻繁に他の房室に移ることはない。実際普段の尚隆も臥室を固定している。六
太を寝かせていたのはその、主たる臥室だったが、他の臥室とて不意の王の要
求に応えられるよう、常に整えられていた。
 実際のところ、内心ではかなりの者が既に諦めていたし、宰輔がいなくても
政務上の支障はないようになっていたとはいえ、六太が目覚めたことはむろん
重大事であり慶事だ。夜ではあったが尚隆は三公六官に急使を出して報せた。
だが同時に「すべては明日の朝議で」とも添えておいた。翌日の朝議では久し
ぶりに皆が晴れ晴れとした顔を見せ、尚隆に祝いの言葉を述べた。尚隆は微苦
笑を浮かべて、ただうなずいておいた。
 尚隆が六太を心配していたことを、六太がまったく信じていなかったことな
どどうでもいいだろう。大事なのは事件が解決したという事実だ。
 その日の午後は政務を取りやめ、尚隆は長楽殿に戻って昼餉を摂った。その
後に広い露台にしつらえた卓に酒を運ばせる。穏やかな初夏の風を頬に感じな
がら、しばらく無言で酒をあおった。
 そのうちに女官が衣擦れの音をさやさやとさせて近づいてきた。
「主上。大司寇がお越しでございます」
「通せ」
 やがて何とも微妙な顔の朱衡が、どこか疲れたような足取りでやってきた。
「先ほど台輔のご機嫌伺いに行ってまいりました」
 それだけ言って、わずかな溜息とともに黙り込む。その原因に見当がついて、
尚隆はふと情けない笑いを漏らした。大の男ふたり、どうやらどちらも落ち込
んでいるらしい。

801名無しさん:2017/04/28(金) 00:26:12
うわあああ、続きが気になる
王と腹心落ち込ませるなんて、六太罪作りだ・・・・
早く幸せになって欲しいけど、このもだもだしたすれ違いが堪らんです

802名無しさん:2017/04/28(金) 11:44:53
落ち込む男二人の図いいなぁ

803永遠の行方「絆(9)」:2017/04/28(金) 19:31:55
 尚隆は「少し付き合え」と言って女官に席を作らせ、朱衡にも酒を勧めた。
普段あまり酒を嗜まない朱衡だったが、このときばかりは素直に応じた。
「六太はどうだ」
「意識もしっかりとしておいでです。黄医の見立てでは、神仙ですから、おそ
らくさほどかからずに元の生活にお戻りになれるのではと」
「そうか」
 それだけ言って尚隆は、穏やかな園林の風景を眺めやった。
 しばらく酒杯を口に運んでいた朱衡は、ずいぶん経ってから再び口を開いた。
「先ほど台輔に聞かれました。主上がおやつれになったのは何か問題が起きた
せいか、呪者には主上に影響が及ばないことを確認したはずなのに、と」
 尚隆は頭が痛むような気がして、持っていた酒杯を卓に置くと、しわの寄っ
た眉間に指先をやってもみほぐした。疲れたように吐息をつく。
「まったく……。自分が心配されていたとは思わんのか。俺は俺なりにあいつ
を大事にしていたつもりだったが、まったく伝わっておらんかったようだな。
確かにあれの反応がおもしろくて、からかったことも多いが」
 朱衡は何やら考えていたが、やがてこう言った。
「どうも台輔はあれで、ご自身を非常に軽んじられるところがおありのようで
す。拝察するに、ご自分が麒麟であること以外に尊重される理由はないと考え
ておられるようで」
「そういえば蓬莱で親に捨てられたという話だったな。その生い立ちが影響し
ているのか」
「わかりませんが……」朱衡は少し沈黙してから続けた。「主上が台輔を大切
になさっていることは、皆よく存じております。しかし当事者である台輔はそ
うではないようです。半身同士の王と麒麟といえど、いえ、だからこそ、しっ
かりと言葉で伝えなければ通じないこともあるのかもしれません」
「なるほど。耳に痛いな……」
「――それにしても」
「なんだ」
「どうして呪が解けたのでしょう。朝議では原因はわからないとおっしゃって
いましたが、主上が何かなさったのでしょうか」

804永遠の行方「絆(10)」:2017/04/28(金) 19:36:32
「ふむ。そうだな」
 尚隆は顎をなでながら、あのときのことを思い起こした。
 だが彼自身にもよくわからなかった。何しろ特別なことをしたわけではない
のだ。むしろこれまで何度もやっていたことしかしていない気がする。
「正直に言えば、よくわからん。変わったことをしたつもりはないのだが……。
直前に露台の上から雲海を透かして関弓の街を見せたが、どうだろうな。あれ
の体を傾けたとはいえ、仮に目を開いていたとしてもあの角度では視界に入っ
たはずもなし」
 その後、遠い未来を約すように接吻をした。さすがにいざとなれば六太を殺
す決意をしたなどと言うべきではないから黙っていたが、しかしあれとて、こ
れまで何度も口移しで水分を飲ませてきたのだ。そう考えれば新しいことをし
たとは言えないだろう。
「以前陽子が言っていたように、これまで毎日積み重ねてきたものが、たまた
まあのときに結実したのかもしれん。麒麟である六太を俺のそばに置くことで、
多少なりとも術が解けやすくなる可能性はあると、そうなればふとした拍子に
目が覚めるかもしれないと、それで六太を長楽殿に移したのだし」
「ああ、そういえばそうでした。景王は蓬莱の事例を引いておっしゃっていた
んでしたね。夫や妻が毎日欠かさず与えた地道な刺激で伴侶が目覚めたと。世
の中にはそういう奇跡もあるのでしょうねえ……」
 朱衡の声音は感慨深そうにしみじみとしていた。尚隆はふっと笑い、気合を
入れて「さて」と立ち上がった。
 いつまでもこうしていても仕方がない。いい加減で六太の顔を見に行かねば
ならないだろう。
「俺もまた、いちおう様子を見に行くか。それにあやつが眠っていた間、おま
えにも女官たちにも約束したからな、六太の望みがあれば、それが何であれ、
すべてかなえてやらねばならん」
「はい。どうぞ、いってらっしゃいませ」
 朱衡は微笑んで尚隆を見送った。

805書き手(尚隆語録):2017/04/28(金) 19:40:26
とりあえずここまで。

尚隆、普通気づくだろ!って感じですが……すみません、まだ気づきません。

尚隆視点はあと2〜3レス、六太視点はその後です。


 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

尚隆
「人間、一度注意されたぐらいで改善できれば苦労はない。
 次までにひとつでも改善されていたら大したものだと思わねばならん」

なんだろ、曠世に六太のことをほのめかしてちょっと愚痴られて
笑いながら弁護する感じかも。

806永遠の行方「絆(11)」:2017/04/30(日) 21:05:23

 六太が使っている臥室に赴くと、すっかり明るい顔に戻った女官たちが、臥
牀で体を起こした六太の世話をあれこれ焼いていた。
 尚隆の来訪に気づくなり、六太が「尚隆!」と嬉しそうな声を上げる。昨日
の今日だからか、まだ声はかすれていたし、それで大声を出すのを控えている
ようだったが、話すのにつらいというほどではなさそうだった。尚隆も穏やか
な笑みを返した。
「おまえが眠っている間、おまえの近習に、目覚めた暁には王を守った功績に
よる褒美を与えると約した。望みがあれば何でも言うがいい」
「へ?」
 六太はきょとんとして尚隆を見、それから周囲に侍る女官らに視点を転じた。
彼女たちは笑顔で大きくうなずいている。
「褒美……褒美?」と瞬きながら首を傾げている。
「どうせおまえのことだから、だいたいは食いもののたぐいになると思うがな」
「あー、なんだよ、それ」
 六太は頬をふくらませた。それからハッとしたようにあらためて尚隆を見る。
「あの、さ」
「なんだ」
「ごめんな。その、俺を心配してくれてたんだよな? 俺、うっかりしてて、
ちょっと誤解というか考えが及ばなくてさ」
「……ああ」
 どういう顔をしたものやらわからず、尚隆はただ相槌を打った。それから
やっと「気にするな」と言い添えた。
「いろいろ大変だったのだろう? おまえも必死だったのだから、他のことに
考えが及ばずとも仕方はない」
 六太は不思議そうな顔をした。尚隆の反応が、過去にないほど妙に物わかり
の良い様子だったせいかもしれない。
「何にしろ、とりあえずは体を治すのが先だな。あとのことはすべてそれから
だ」
「わかった」
 陽子が来訪したことも、女官たちに教えられて既に知っていたようだ。六太
が陽子や鳴賢、帷湍のことを気にしているので、ちゃんと使いをやって六太が
無事目覚めたことを報せることも約束した。陽子の名が出たときに内心でどき
りとした尚隆は、さりげなく反応を見守ったのだが、六太は陽子よりも鳴賢の
ことを気遣っていた。

807永遠の行方「絆(12)」:2017/04/30(日) 21:08:12
「回復したら会いに行けばいい」
「うん。そうだな。やっぱ直接会って話とかしたいや。何しろたくさん心配か
けたからなあ。まさかあんなことになるとは思わなかったからだけど」
 六太は溜息まじりに言ってから「そういえば」とこんなことを聞いてきた。
「目が覚めたんだし、俺、そろそろ仁重殿に戻ったほうがいいんだよな?」
「……なに?」
「おまえがいつも使ってる臥室を占領しちゃってるわけだし。あ、でも何ヶ月
も仁重殿を空けてるわけか。うちの主な女官たちも今こっちにいるってことは、
俺の臥室が整うまで少し待ってもらう形かな?」
 そう言って小首を傾げる。六太としては当然のことを本当に何気なく聞いた
だけなのだろう。それに確かにここは尚隆の臥室であり、そもそも長楽殿は六
太の御座所ではない。
 以前、陽子や景麒が来訪したとき、麒麟は王のそばにいると嬉しいものだと
いう話をした。だが六太の無邪気な様子は、尚隆から離れることを何とも思っ
ていないようだった。
 昔からいつもそうだったと尚隆は思い起こし、もやもやとしたものが胸にた
まるのを感じた。
「もともとは陽子の気遣いだ。せっかくだから、もうしばらくここにいれば良
かろう」
「え、でも――」
 六太は戸惑って何か言おうとした。だが尚隆はその言葉を遮ると、再び陽子
の名を出して強引に話題を変えた。
「陽子と言えば、見舞いに来たときおまえに手紙を置いていったぞ。あとで読
んでやるといい。ただ疲れないよう、返事を返すのはまだあとにしておけ」
「うん」
 六太は釈然としない顔だったが、それでもうなずいた。
 やがて女官たちが大きな肘掛椅子を運んできて、掃き出し窓のすぐ外の露台
に据えた。六太に日光浴という名の気晴らしをさせるためだ。六太が眠ってい
る間も彼女らは幾度となく運んだものだが、今ちょうど尚隆がいるので、彼が
六太を軽々と抱き上げて椅子まで運んでやった。
 六太がわたわたとあわてたが、何しろまだ自由が利かないとあって抵抗とい
うほどのものはない。尚隆はあるじに無関心に見える六太に意趣返しをするか
のように、無駄口を叩きながらゆっくりと運んだ。
「もし厠に行きたいなら、そちらも俺が運んでやるぞ」
「いや、マジで勘弁だって」
 六太は辟易したような顔をすると、大声で笑う尚隆に疲れた声を返した。

808書き手:2017/04/30(日) 21:10:44
尚隆視点はここで一区切り。
次はしばらく六太視点ですが、割とまたすぐ尚隆視点に戻ります。

809名無しさん:2017/05/01(月) 00:25:14
二人のやり取りに胸がきゅんきゅんする・・・・
読んでて顔がにやけてくる、続き楽しみにしています!

810名無しさん:2017/05/01(月) 03:22:36
投下されてることに数日前に気づいて、きちんと整えて丁寧に読める日までまって、やっと追いつきました。
投下の直前まで覗きに来てたのに、出遅れてチクショーと泣き叫びたい気持ちと、ヒャッホーって泣き叫びたい気持ちとでいっぱいです

両片思い超萌えるのでこの展開三年ぐらい楽しめます。萌える��!
尚隆の部分がやはりキュンキュンきます

811名無しさん:2017/05/01(月) 11:33:31
誤解を地味に引きずっちゃってるのいいですね
しっかり自室に引き留める強引さも尚隆らしくてにやにやします
あと抱っこ!驚いて咄嗟に尚隆の腕か衣をキュッて掴んでたらと妄想してさらに萌え
抱っこいいですよね〜お世話尚隆がツボです

812書き手:2017/05/03(水) 00:08:07
抱っこ、いいですよね、抱っこ!


さて、やっと以前の章を全部読み返しました。

……些細な部分を含めると、いろいろと矛盾もありますね。うむぅ。
すみませんが、細かい部分の矛盾は、気づいてもスルーするか脳内変換でお願いします。

あと、とにかく早く尚隆と六太をいちゃこらさせるのが自分的至上命題なので、
鳴賢や帷湍といった宮城にいないキャラは言及のみで、
彼ら視点はあとでまとめてやります。

813永遠の行方「絆(13)」:2017/05/03(水) 00:11:50

 体の回復に専念すること、六太の仕事はしばらくはそれだった。政務に就く
必要もないとあれば――問題はあまりにも暇すぎることだった。本当なら下界
にでも行きたいところが、まだ歩くのもままならない以上、諦めるしかない。
女官たちは大量の見舞いの品を開けて見せてくれたが、物欲の乏しい六太はほ
とんど、本当に見ただけだ。せいぜい範の精巧なからくり人形をおもしろく
思ったぐらいか。六太が眠っていたときに語り聞かせてくれたという物語も聞
いたものの、大半はもともと海客が書いた話だから六太は知っていたし、悪い
と思いながらもすぐに飽きた。
 心尽くし自体はありがたかったが、そもそも六太は本来行動派なのだ。仕方
がないとはいえ、こうして臥室に引きこもっていること自体、おもしろくない。
身体を動かす訓練も、皆がやたらと心配するからわずかずつだし、話相手の女
官のおしゃべりを聞いたり、ぼうっと窓の外の景色を見ているだけの生活とい
うのは本当につまらなかった。
 だからと言って別の景色を見るために、尚隆に抱きあげられて運ばれるとい
うのはどうなのだろう。
「なんだ、不満か」
「そうじゃないけど……」
 最近いつもそうであるように、薄い衾ごと抱きあげられて移動する。後宮の
園林にある百日紅(さるすべり)の小道を散策すれば、見事な紅白の花は確か
に目を楽しませてくれた。しかし六太の正直な気持ちを言えば、いったいどう
してこうなった、と頭をかかえたいぐらいだった。
 何しろ衣類や衾ごしとはいえ、尚隆の体温を感じるのだ。力強い腕にしっか
りと抱えられ、見上げればすぐそこに尚隆の顔がある。息づかいさえ聞こえて、
どういう拷問だ、と内心で愚痴っても仕方がないだろう。
(こいつ、こんなに面倒見が良かったっけ?)

814名無しさん:2017/05/03(水) 04:34:36
単に抱っこされてるだけなのに六太ったらフヒョヒョ

815名無しさん:2017/05/03(水) 12:04:03
抱っこ移動良いねえww
尚隆って目線合わせるために自分がかがむより、持ち上げそうなタイプだ

816永遠の行方「絆(14)」:2017/05/03(水) 22:33:22
 頭上に疑問符を大量に浮かべながら、まかり間違って尚隆にしがみつくよう
なことをしないよう気をつける。だが足よりは手の回復が早かったせいか、尚
隆に「しっかりつかまれ」と言われてしまった。
 だがそうやって一緒に移動しても、これまでこんなにべったりと過ごしたこ
とがあるわけではないから、大して話すこともない。それでも尚隆がつらつら
と、六太が眠っている間のことを話してくれたので耳を傾けた。
「帷湍にも悪いことしたな……」
「おまえが回復するまでは遠慮するそうだが、いずれ関弓にやってくるそうだ」
 そんなふうに光州の現状も聞いた。
 夜はといえば、女官が付き添っていたとはいえひとりで過ごしたのは目覚め
た最初の夜だけ。その次の夜からは尚隆がやってきて、同じ臥牀で寝(やす)む
ようになってしまった。もともと尚隆の臥牀なのだから当たり前かもしれない
が、被衫に着替えた尚隆の姿を見たときの六太の混乱ぶりと言ったらなかった。
 おまけに女官を下がらせ、尚隆みずから六太の世話をするのだ。手足をむき
だしにしてはゆっくりとさすったり、膝の関節をゆるやかに動かしたり。被衫
を脱がされて湯に浸した布で体を拭かれそうになったときは本気で焦った。さ
すがに王にそんなことをさせるのを、湯を運んできた女官が「とんでもない」
と恐縮しきりで止めたから助かったものの、本当にどうなることかと冷や冷や
したものだ。
 なのに混乱する六太に、尚隆は「おまえが眠っていた間もこうしていたのだ
ぞ」とからかうような声を投げたのだ。
(いやいや、さすがにそれはまずいって)
 片思いの相手に脱がされ、じかに肌に触れられて世話をされる。尚隆の意図
まではわからないが、確実に自分の精神が削られていっている。嫌がらせでも
あるまいに、と、妙な考えさえ脳裏に浮かぶ。それともまさか六太の反応をお
もしろがっているのだろうか。

817永遠の行方「絆(15)」:2017/05/03(水) 22:43:30
 王の臥牀はやたら広いため、眠る際は体が触れあわないのと、そのときはさ
すがに六太に背を向けてくれるのだけが救いだった。だが背を向けられればそ
れはそれで寂しく感じてしまうのが厄介だ。あんなに近くにいるのに却って離
れた気がしてしまうのだから。
(だいたい、俺の膝を動かしたりする時は遠慮なく触るくせに、寝るときは離
れて背を向けるってどういうことだ)
 おかしい、とさすがに六太も思う。そしてひやりとするのだ、本当はあんな
ことをしたくはないのではないかと。なんだかんだで、内心では鬱陶しがって
やしないかと。
(俺が暁紅と取引したおかげで尚隆が助かったのは事実だ。それでさすがのあ
いつも余計な気を回してるんだろうか。そういえば仁重殿から来た女官たちは、
俺を見捨てるべきだって進言した官にかなり憤っていたみたいだ。尚隆は俺に
配慮してることをちゃんと近習に見せて不満をそらす必要があると判断したと
か?)
 もしそうなら寂しいと六太は思った。自分は別に尚隆の邪魔をする気もない
し、今回のことで何か要求するつもりもない。放っておいてくれればいいのに、
と思う。でもそういえば褒美がどうとか言っていたっけ……。
 尚隆と同じ臥室、尚隆と同じ牀榻。ここまで近い場所で長く生活したことは
今まで一度もない。六太にはずっと不相応な望みをいだいているという恐れと
自覚があった。だからこそ自分の心を守るためにも警戒してしまう。嬉しいの
に切ない。幸せなのに悲しい。これ以上一緒に暮らしたら、近さと裏腹に絶対
に報われ得ない現実をまざまざと見せつけられる気がして耐えられそうにない。
 尚隆に運ばれるたびに、何気ない様子を装ってちらりと頭上の顔を見上げて
しまう六太だ。目をそらし続けても不自然だし、かと言って至近距離でずっと
見つめていたら、こちらの精神がどうにかなってしまう。もちろん尚隆だって
不審に思うだろう。

818永遠の行方「絆(16)」:2017/05/03(水) 22:59:28
 後から振り返ればきっと、はかない泡沫のような、ごく短い夢の時間に過ぎ
ないだろうに。六太にとって一生の思い出になったとしても、尚隆にとっては
すぐに忘れて二度と思い出さないような。
(これって転変したらどうなってるんだろう。やっぱり立てないのかな)
 ふと六太は疑問に思った。
 もちろん宮城にいる限りは獣形で過ごすことなどできない。だがもし転変す
れば動けるなら、尚隆に特別に許可してもらってしばらく獣形で過ごせないだ
ろうか。だが萎えているのが人形である以上、人形のままで治さないと回復で
きないだろうか……。
(とにかくまず歩けないってのがまずい。こうやって尚隆に何をされても逃げ
られない)
 尚隆の腕の中、またちらりと彼の顔を見上げながら、何とかしないと、と六
太は切実に思った。

 さすがに尚隆も六太を朝議に連れて行くようなことはしなかった。だからそ
の日、六太は彼がいないときにひそかに歩く練習をしようと考えた。少し眠り
たいからと、尚隆の代わりにやってきた女官を遠ざけたはいいが、扉の前には
護衛もいる。音を立てて注意を引かないよう気をつけなければならない。
 臥牀の上で上体を起こした六太は、何とか這って臥牀の縁まで行って座り、
足を床におろした。やはり腰から下の力が入りにくかったが、臥牀に手をつい
たままゆっくり慎重に立ち上がると、何とかいけそうな気がした。最近の訓練
で使っている杖は普段どこかにしまわれているようで、今、手元にはない。仕
方ないので手を伸ばして牀榻内の壁や開き戸につかまりつつ、そっと脚を動か
していき――ちょうど牀榻の入口を出たあたりで、つい逸ってしまった気持ち
に足先がついてこられず、変な方向にひねって体勢が崩れた。そのまま床に倒
れ込みそうになったところを、床から浮上するようにさっと出現した悧角が背
で支えてくれたので助かった。

819永遠の行方「絆(17)」:2017/05/03(水) 23:07:26
「ありがとな」
 六太はほっとして、大きく吐息をついた。悧角にの背に覆いかぶさる体勢の
まま、いったん休憩する。
(まだ無理か……。でも何とか自力で立ててはいるんだし、杖さえあれば、
ゆっくりとなら。というか今、さっさと仁重殿に帰ってしまえば良くないか?
そうすればさすがに尚隆も、わざわざここに連れ戻さないだろ)
 このまま使令で窓からひそかに仁重殿に帰るほうがいいか、それとも試しに
転変してみるかと思案していると、不意に悧角が「主上がおいでです」と言っ
た。
「へ?」
 六太は焦ったが、取り繕う暇もなく、臥室の扉が開く音がした。王や麒麟の
命に危険があるとか、よほどのことがあればともかく、原則として宮城におい
て使令が姿を現わすことはない。現わしたとしても、すぐに姿を消すものだ。
 六太が転ばないよう、悧角がゆっくりと床に沈むようにして姿を消すのと、
尚隆が衝立の陰から姿を現わしたのは同時だった。
「六太!?」
 尚隆が叫ぶなり駆け寄って、床に倒れている六太を抱き起こした。
「何をしている!」
「いや、ちょっと、歩く練習を、さ」
 あわてて言い訳したものの、「まだ無理だろうが」と強い調子で叱り飛ばさ
れた。
「おとなしく寝ていろ!」
 そう言って抱きあげられ、強引に臥牀に戻されてしまった。
「だって、あの、そろそろ仁重殿に戻りたいっていうか」
「……なんだと?」
「ほら、やっぱ自分の臥室じゃないと落ち着かないっつーか。おまえにも悪い
しさー」
 焦りを隠して、あはは、と笑って見せる。だが尚隆はむっとしたように六太
を見ているばかりだった。

820書き手:2017/05/03(水) 23:10:30
次からはまた尚隆視点です。

821名無しさん:2017/05/04(木) 03:19:00
どぎまぎする六太に萌える
はぁー、むっとする尚隆のこれからのターン、超wktk

822名無しさん:2017/05/04(木) 05:59:40
抱っことどきどき添い寝祭りには萌え転がるしかないw
切ないろくたんも最高すぎますね〜続きお待ちしております

823名無しさん:2017/05/04(木) 19:13:46
むっとする尚隆たまらん
結ばれた後の関係ももちろん良いんだけど、思いが通じる前のこういうやりとりめっちゃニヤニヤしてしまう

824永遠の行方「絆(18)」:2017/05/05(金) 21:35:08

 六太が目覚めたあと、折を見て冢宰白沢を始めとする三公六官も順次見舞い
に赴いた。疲れさせないよう、ほんの暫時話をしただけという白沢は、あとで
尚隆に報告した際こう言った。
「使っていなかった四肢が長い間に萎えてしまったのは仕方ないとして、主上
がおっしゃっていたとおりお気持ちは別段暗くなることもなくお元気そうでし
た。黄医も特に問題はないとの見立てです。毎日少しずつ訓練していけば、そ
うかかることなく日常生活に戻れるだろうと」
「そのようだな……」
「ただ台輔のご体調次第ですが、解呪に携わっていた諸官に報せて調査する必
要はあるでしょう。完全に呪が解けたのかどうか。万が一、悪い影響が残って
もいけませんので」
「その辺は黄医の判断に任せよう。特に問題はないと思うが」
「かしこまりまして」
 そんなふうに言葉を交わし、当分は六太に政務をさせないことも決める。も
ともと靖州の政務は令尹が取り仕切っており、六太の不在を考慮して承認印も
任せるようにしていたから何の問題もない。ただし早くも六太本人が退屈して
いるのと周囲に安心を与えるため、しばらく様子を見てから、体調を考慮しな
がら朝議を始めとして官府などに連れていくことを検討することにした。
 そうして諸官が晴れやかな顔を見せる裏で、尚隆自身はあまり気が晴れな
かった。表面上は喜んでいるふりをしているし、実際に喜んではいるのだが。

 その夜、長楽殿の居室のひとつで、尚隆は人払いをした上で酒を飲んでいた。
六太が目覚める前まで増えていた酒量は減ったが、それでも時折、こうして飲
まねばやっていられない気がした。
 ――俺、そろそろ仁重殿に戻ったほうがいいんだよな?
 六太が小首を傾げながら無邪気に放った問いが脳裏によみがえる。ここに―
―王のそばに――留まることに何の執着も窺えなかったそれ。麒麟は王の傍ら
にいるのが嬉しい生きものではなかったのかと、目覚めたのは王たる尚隆のそ
ばにいて無意識に嬉しがっていたからではないかと、何となく思っていた尚隆
は虚を衝かれた。

825永遠の行方「絆(19)」:2017/05/05(金) 22:00:27
 ――おまえ、随分やつれてるみたいだけど、何かまずいことでもあったかな。
 尚隆の心配などはなから想定していないことが明らかな問い。あとになって、
これまた無邪気に謝られたが、六太の中を占める自分の存在の小ささを示すよ
うで、尚隆は少なからぬ衝撃を受けた。
 本当に心配していたのだ。あの接吻をした際の、他人の手にかけさせるくら
いなら、そのときはこの手で六太を始末するという約束も、彼としては相当な
決意の表われだったのだ。
 なのに。
 まだ体の自由が利かないため、眠っていたときと同様に世話をしてやろうと
すれば、体をこわばらせて嫌そうな顔を向けてくる。することがなくて「暇だ。
暇、暇」とうんざりしているようなので、抱きあげてその辺を散策してやれば、
「えー……」と不満の声を漏らされる。おまけに先日は、ひとりで勝手に歩く
訓練をしようとして派手に転んでいた。あわてて助け起こせば「そろそろ仁重
殿に戻りたい」「やっぱ自分の臥室じゃないと落ち着かない」と平気で口にし
た。
 ――すり抜けていく。
 ふと感じた、奇妙な予感。まるで手の中から砂がこぼれていくような。六太
が尚隆の手をすりぬけてどこかへ行ってしまうかのような。
 あるじに似て出奔好きの六太が、実際には尚隆の手の内に留まっていたこと
などない。そもそもこれまで尚隆は、危険なことさえしなければ自由にさせて
いた。それでも不思議にそう感じたのだ、今ここでつかまえておかなければ、
いずれ手の届かないところへ行ってしまうと。
 王と麒麟は半身同士。命さえつながっているというのに、そう考えてしまう
のはおかしなことだった。その妙にはかなく、それでいて確固たる予感は、意
味がわからないだけに尚隆をいらだたせ、彼は勢いに任せて次々と酒杯を傾け
た。
 もともと尚隆の臥室なのだからと、ついそんな六太に対する鬱憤晴らしの意
図もあって、これまでと同様に同じ臥牀で寝(やす)もうとすれば、広さには問
題ないというのにやはり嫌そうな顔をされた。そんな様子を見たくなくて背を
向けて寝ているが、一番最初の日、時間が経って既に尚隆が寝たと思ったのだ
ろう、「……まったく」というつぶやきを六太が漏らしたのも知っている。

826永遠の行方「絆(20)」:2017/05/06(土) 08:33:05
 六太が呪の眠りに囚われている間、尚隆は孤独だった。六太が陽子に懸想を
している可能性を思いついてからはなおさらだ。それでも六太が目覚めさえす
ればそれなりに孤独も癒されると、どうやら無意識のうちに考えていたらしい。
だがその期待が叶えられることはなさそうだった。
 王と麒麟というものは、これほど遠かったろうか、と尚隆は今さらながらに
思いを馳せる。六太の気持ちがわからない。尚隆の世話に、せめてほんの少し
でも喜んでくれればいいものを、いつも向けられるのは驚きか、そうでなけれ
ばどこかこわばった表情と迷惑そうな目だ。
 六太を横抱きにして歩くと、ときどき六太の視線を感じた。周囲を眺めるの
ではなく、気づかれないようそっと尚隆を見上げていることがある。これまで
はああやって長時間をともに過ごしても話題が尽きないほどべったりした関係
でもなかったし、どうして良いやらわからないらしい。聞かれていないと思っ
ているのだろう、たまにごく小さく溜息をつき、そうしてまた見上げたりする。
妙に尚隆の心をざわめかせる、揺れるまなざしで。
 まだ政務をさせるつもりはなかったのだが、後宮の園林ばかりを散策しても
飽きるし、かと言ってまだまだ不自由な様子なのに、官位の低い者たちの興味
本位の視線にさらすのもどうかと思われた。それでまずは靖州府のある広徳殿
に連れていったところ、六太は呪に囚われる前は身近に接していた靖州府の高
官らと和やかに挨拶を交わし、久しぶりに会ったせいかとても楽しそうだった。
それどころか「承認印なら、もう押せるぜ!」とやたら張りきってしまい、急
きょ政務をさせることになってしまった。完全に盲判(めくらばん)だったが、
傍らで苦笑いしていた令尹の検分は通っている書類のようなので問題はないだ
ろう。
 翌日も特に疲れは残らなかったようなので試しに朝議にも連れていったとこ
ろ、それまであまりにも暇だったせいか、いつになく六太は喜んだ。自由に喋
るわけにいかない場とあって、事件が起こる前は大抵つまらなそうな顔で控え
るのが常態だったのだが。そのため、常にというわけではないが朝議には連れ
ていき、体に負担を与えないようゆったりとした椅子に座らせておくことにし
た。

827永遠の行方「絆(21)」:2017/05/06(土) 09:01:10
 だがいずれにしろ六太の興味は尚隆の上になく、いつも六官や別の者たちと
話を弾ませていた。
 何とか気を引けないかと、尚隆はふと思いついて鳴賢の元にも連れていった。
 鳴賢には朱衡経由で六太の覚醒を知らせていた。回復するまで、しばらくか
かりそうだとの見通しも。そのため、実際に会うのはそう急がなくても良いだ
ろう、むしろ六太がちゃんと回復して自分の足で会いに行ったほうが安心させ
てやれるかと思って控えていたのだが。
 ちょうど六太から鳴賢のことを心配する話題が出たとき、尚隆は「じゃあこ
れから会いに行くか」と言って悧角に命じ、大学の宿舎に鳴賢が在室か見に行
かせた。悧角はすぐ戻ってきて在室だと告げたので、散策するときのように衾
で六太をくるんだだけで悧角に乗り、そのまま出かけた。以前から楽俊に対し
てやっていたように、宿舎の窓から訪れる形だ。
 もちろんかなり驚かれたし、実際には鳴賢だけでなく彼の学友もいて、隠し
ていなかった六太の金髪に愕然とされたが、結局そのことに対する深い追求は
なかった。ただ尚隆が持参した酒を皆で飲み、少々語らっただけだ。
 悧角に乗って宮城に戻る途中の短い時間、六太は上機嫌で、尚隆に「ありが
となー」と礼を言った。そして「そのうち陽子のところにも行かなきゃな。景
麒の顔も見てやらないと」と嬉しそうに続けた。
 ――すり抜けていく。
 尚隆の手の中から。
 もともとその程度の関係だったのかもしれない。六太にとって尚隆はただ雁
の王で、雁を平和に治めてくれさえすれば良いだけの存在なのかもしれない。
 麒麟は本当は王の半身ではないのかもしれない。
 ――そろそろ仁重殿に戻りたい。
 ――やっぱ自分の臥室じゃないと落ち着かない。
 床に倒れていた六太をあわてて抱き起こしたとき、六太は嫌がって身を引こ
うとし、尚隆の手を振りほどくように強く上半身を揺すった。そうまでして自
分から離れたいのかと、あのとき尚隆はひそかに傷ついたのだ。

828永遠の行方「絆(22)」:2017/05/06(土) 09:13:23
 そもそも六太は他国の麒麟とはまったく違う。日頃から主君のはずの王を罵
倒するのに遠慮はないし、泰麒捜索のときもそうだったように、場合によって
は他国の王にさえ平気で同調する。そういう変わった麒麟なのだから、王を
慕っているとは限るまい。だいたい一年半もの間、つらい気持ちだった尚隆の
ことを最初はまったく信じていなかった上、一度謝ったあとはそのことをすっ
かり忘れて、もうどうでも良いように見えた。
 ――すり抜けていく。
 自由な六太は、尚隆の手の中に留めておくことなどできないだろう。こうし
て抱きあげてあちこち連れていけるのも今だけだ。呪に囚われていた間、尚隆
の手が届かなかったように、いつかまたこの手をすり抜けてどこかへ行ってし
まうだろう。それは不思議と確かに思える予感だった。
 呪が解けても、それ自体は何の解決でもなかったのだろうか。あれはもとも
と遠くにあった六太の心が具象化したような事件だったのかもしれない。
 そうしてしばらくまた酒杯を傾けていた尚隆は、やがて、ふふ、と自嘲の笑
いを漏らした。
 誰しも心は自由ではないか、と我に返ったのだ。国が荒れ、財もなく命から
がら逃げ出した荒民でさえ、心だけは何を思おうと自由だ。ならば王の半身た
る身を天帝に強制されている麒麟とて、心は誰にも縛られず自由であってしか
るべきだろう……。
 仮に麒麟が王のものだとしても、六太は尚隆のものではない。最初から尚隆
は考え違いをしていたのだ。心を得られるのは、当人がみずから捧げた場合だ
け。ならば六太の心は最初から尚隆が得られるたぐいではなかっただけなのだ
ろう。
(心を得られないなら)
 ――いっそ。
(体、だけでも)
 ふとさまよいこんだ思考に我ながら呆れて、尚隆はふたたび自嘲して酒杯を
傾けた。今まで決して頭にのぼらなかった発想に、自分が無自覚にどれだけ落
ち込んでいたかわかる気がした。

829永遠の行方「絆(23)」:2017/05/06(土) 09:20:34
 だが不思議なことに、いったん頭にのぼってしまえば妙に魅力的な考えに思
えた。何しろ王には、宮城の――正確には自国民の――誰であれ寵愛して後宮
に入れる権利がある。官位の低い者が見初められた場合は、やっかみから本人
がいろいろ言われることも後宮入りを邪魔されることもあるが、最終的に物を
言うのはやはり王の意向だ。まさか神獣麒麟にその法や慣習を適用する王が現
われるとは、誰も想定していなかったろうが。
 心をつかまえておけないものなら、せめて体だけでもつかまえておけないだ
ろうか。普通、体をつなげば情が湧くものだ。
(無理やり体を奪った相手になど情は湧かぬだろうに)
 尚隆は頭を振って、酔いとともについ思考を占めかけた妄想をも振り払った。
だがいったんさまよい出した思考は、酒の力もあってふらふらとあちこちを行
き来する。
 これまでの六太との良好な関係が壊れることになるだろうか。それとも慈悲
の麒麟は、それゆえに尚隆にも慈悲を垂れてくれたりするのだろうか……。
(莫迦なことを)
 そんなことをして何とする、六太に軽蔑されるだけだ。そもそも相手が自分
を何とも思っていないのに、抱いても空しくなるだけだろう。商売女を買うの
とはわけが違う。何しろこちらがほしいものは本当は心なのだ。
 そもそも麒麟とて相手を憎むことは知っている。ならば軽蔑よりは憎まれる
だろう。
(憎む、か)
 それはとてつもなく強い感情だろう。負の方向へとはいえ、そんな感情を向
けられるのは果たして悪いことだろうか。
 六太は衝撃を受けるだろうか、はたまた失道するだろうか。
(――いや)
 尚隆はふたたび力なく首を振ると酒杯を干した。六太は尚隆さえも憐れむだ
ろうと思ったのだ。今回の事件の呪者を憐れんだように。そしてふたりの距離
は永遠に縮まらず、むしろより隔たって、尚隆は自分がどこまでも孤独だとい
う、王たるものの宿命を知るだろう。
 だがもともと六太と自分はそんなつかず離れずの淡泊な関係だった。ならば
この際、その事実を決定的に思い知るのもいいかもしれない……。

830書き手:2017/05/06(土) 09:23:23
次は六太視点です。
ただし、割とすぐ尚隆視点に戻ります。

831名無しさん:2017/05/06(土) 10:22:07
大量更新乙です!
思ってた以上に尚隆が孤独で切なくてキュンキュンしっぱなしです
尚隆って手に入らないと見定めたらスパッと切り替えるイメージがあるけど
切り替えても体だけな方向にいってもろくたん失道→雁国の危機でどきどきw

832名無しさん:2017/05/06(土) 13:35:52
尚隆思考の振り切りが凄まじいよ……!たった一人でいる孤独より、隣に目覚めた六太がいるから味わう孤独のほうが、
より苦しくて思いつめるのだね……

833名無しさん:2017/05/06(土) 18:57:56
いつも飄々としてる尚隆が難儀な六太に翻弄されてるのがすごく素敵です!
思いのすれ違いで切ないけど尚隆が悩んでる所って本作で読めないから楽しいw

834書き手:2017/05/07(日) 00:04:17
尚隆……酔ってたんだよ……。

とりあえずGW中に六太視点は投稿しときますね。

835永遠の行方「絆(24)」:2017/05/07(日) 00:06:30

 六太が立ちあがって、ゆっくりながら歩けるようになるまでは意外と早かっ
た。とはいえ呪で眠っている間に体力も落ちて疲れやすくなっていたため、本
人がやりたがっても周囲が訓練のしすぎを気にし、慎重に段階を追っていった。
そのため六太自身はなかなか調子を取り戻せないという認識でおり、かなりの
不満をためる期間となった。
(早く仁重殿に帰りたいのに)
 相変わらずそう考えて焦る六太だったが、微笑を浮かべた女官たちが「主上
のお許しがありません」と頑として聞いてくれないのだから仕方ない。しかも
こっそり訓練をしようとしていたことを尚隆に見つかって以来、彼女たちは絶
対にひとりにしてくれなくなった。政務から尚隆が戻ってくるまで、必ず誰か
がそばにいる。
 尚隆と一緒ならさがっていてくれるが、それは要するに尚隆に抱きあげられ
てあちこちを散策しているときであって。
 もしこれが両想いの相手で、ゆったりとふたりの時間を持てたとでも言うな
ら話は違うだろう。だが何しろ六太には、ずっと不相応な望みをいだいている
という自覚がある。その時間は切なさしか生まなかった。
 それでも幸せだと自分に言い聞かせなければならないのだろうか。きっと一
生の思い出になるから、と。
 だが休み休みではあるが、やっと朝議にもかなりの距離を歩いて向かえるよ
うになった。途中で疲れて結局尚隆に抱きあげられることもあるとはいえ、徹
頭徹尾、横抱きであちこちに運ばれていたころを思えば進歩したものだ。数日
に一度は広徳殿に顔を出して、令尹や州宰と雑談を交わしてもいる。
(よし。ここまで来たら、尚隆もそろそろ仁重殿に戻っても文句言わないだろ。
なんか妙に過保護になったけど)
 それほど心配をかけたのだと思えば罪悪感も覚える。だが、それ以前に六太
自身の精神状態が持ちそうにない。尚隆の匂いを感じながら、同じ臥牀で仲良
く並んで眠るのはもうごめんこうむりたかった。どうせなら蓬莱の抱き枕よろ
しく抱きしめて眠ってくれればいいものを、逆に背を向けて寝られるなんて。
 もちろん現実にそんなことをされたら眠れないどころか、いっそう精神力を
消耗するだけだろうとは思うのだが、ついつい夢見るように妄想してしまう六
太だった。

836永遠の行方「絆(25)」:2017/05/07(日) 00:10:42

 あちこちに置かれた灯が放つ、温かな黄色の光に照らされた臥室。その夜、
被衫姿の六太は座っていた椅子から立ちあがり、ほんの数歩、歩いただけでふ
らついた体を支えるために目の前の小卓に両手をついた。頭をめぐらせて、半
分ほど開いている大きな框窓を見やる。填められている大きな玻璃の板は、都
度、蓬莱から技術や文化を容れてきた豊かな雁ならではだ。その先の露台も、
穏やかな夜の中でいくつかの灯に照らされて、光と影が織りなす美しい姿を見
せていた。露台では尚隆が雲海のほうに視線を投げ、立ち尽くしたまま、先ほ
どから何やら物思いに沈んでいる。
 ふと彼の目がこちらに向き、静かに歩み寄ってきた。そのさまがなぜか獲物
を視界に捕らえた猛獣のように見えて、六太は知らず、ぶるりと震えた。
「尚隆」
 六太は努めて普通に装い、明るい声を出して呼びかけた。
「なんだ」
「俺、そろそろ仁重殿に戻るわ。もうだいたい良くなったし」
 戻りたい、ではなく、戻る。六太はこれで自分の意志をはっきり伝えたつも
りだった。
 だが尚隆は露骨に顔をしかめた。臥室に戻り、掃き出し窓を閉めてから遮光
と目隠しのための垂れ幕まできっちり引いて向き直った。
「莫迦なことを言うな」
「え?」
 尚隆は大股に歩み寄ってきたと思うと、卓に両手をついたままの六太の後ろ
に立ち、長い金色の髪を愛でるように手にすくった。そんな彼の仕草を、六太
は首をめぐらせて不思議な思いで眺めた。尚隆は今まで六太にそんな仕草をし
たことはない。直に身体に触れられるより逆に官能的な気がして、それに気づ
いた六太は内心で少しうろたえた。
「俺は、またおまえと離されるつもりはないぞ」そう言った尚隆は、後ろから
六太の両肩に手を置いた。「身体が良くなったというのなら、もう待つ必要は
ないな。来い」
「……へ?」

837名無しさん:2017/05/07(日) 02:44:05
(��ぉぉぉぉぉぉっっ!)(息を潜めて○年分の感激を胸に心は全裸にネクタイで正座待機)

838名無しさん:2017/05/07(日) 08:41:03
(と…とうとう!???ドキドキドキ)

839永遠の行方「絆(26)」:2017/05/07(日) 09:54:55
 六太は我ながら間抜けな声を上げたと思った。しかし続いて尚隆の口から飛
びだした言葉に凍りついた。
「おまえを抱く」
 六太は呆然とした顔で、何度もまばたいて尚隆を見上げた。ようやくのこと
で意味を理解したあと、強がるように「そんなに飢えてんのかよ?」と返した
ものの声は震えていた。
「何とでも言え」
「俺、男なんだけど」
「知っている」
 呆気に取られた六太は声もなかった。
「おまえこそ、男同士でも契れるのを知らんのか」
 尚隆はふと、先ほどまでの張りつめた気配を消して、からかうように言った。
 この男はいったい何を言い出すのだ、と六太は混乱した。もしや何かの拍子
に自分の気持ちがばれてしまったのだろうか。あるいは話の種に、単に麒麟と
いうめずらしい生きものを抱いてみたくなったのか。どちらにしても、六太に
とっては悪夢でしかなかった。
 尚隆はそんな六太の恐慌を知らぬげに、後ろから抱きしめてきた。そのまま
頭を押さえるようにしつつ顎を上げさせ、無理やり口づける。ようやく我に
返った六太は何とか抵抗すべく、体をひねって尚隆の胸を押し、必死に逃げよ
うとした。だがもともとおぼつかない足元が動揺でもつれ、力が入らない。
「お――まえ、空しくないのかよ!?」
「何がだ?」
「き、麒麟なんか、抱いたって、おもしろいわけないだろっ」
「おもしろいかどうかなど知ったことか。おまえがほしいからおまえを抱きた
いと思う、それがなぜ空しいことなのだ」
「ほ、ほし――冗談、きつい」
「なぜ冗談だと思う」
「麒麟なんか――麒麟なんか、ただの器だ。すべては天意を受けるためのもの
で、自分の気持ちなんてない。王を慕うのは本能で、そんなの抱いたって空し
いだけじゃないか」

840永遠の行方「絆(27)」:2017/05/07(日) 10:06:12
 六太はもう涙声だった。いったいなぜこんな目に遭うのかわからない。
 だが尚隆は不意に優しい目になった。六太を押さえつける力は緩めないなが
ら、「王を慕う、か」とつぶやいた。
「ならばおまえも俺を慕っておるのだな?」
 六太は顔をそむけた。動揺しきりの彼は、普段ならばそれでも言わなかった
ろうに、ついに震える声で自棄のように「王を嫌いな麒麟はいない」と言った。
「それならばそれでも良い。ほしいと願った相手に慕われているとわかれば十
分だ」
 ふたたび強引に口づけてきた尚隆に、六太は「離せ!」とあくまで抵抗した。
だが強い力からは逃れきれず、とうとう「嫌だ」と泣き出した。
「は――話の種にでもするつもりかよ!?」
「おまえがほしいと言ったろう。――いや」
 尚隆はいったん言葉を切った。そうしてすぐに「そうだな、これも惚れてい
るということなのかもしれんな」と、どこか自嘲するように続けた。
 六太は愕然として、泣きぬれた目を尚隆に向けた。
「嘘だ……」
「嘘ではない」
「嘘だ」
「何が嘘だ。王が自分の麒麟に惚れて、どこが悪い」
 開き直ったように言う尚隆に、完全に恐慌をきたした六太は、泣きながらう
わごとのように「嘘だ」「ありえない」と繰り返した。奥底からわきあがって
くる恐怖に、というより理解できない事態に、六太の神経は完全に許容量を超
過した。ぶるぶると瘧(おこり)のように震えつつ、必死に相手の腕の中から逃
げようとする。衝撃のあまりいつもの仮面ははがれ、表情も言葉も態度も、何
ひとつ取り繕うことができなかった。
 だって慈悲の繰り言ばかりの自分はいつも尚隆のお荷物だったのだ。六太は
混乱の中で、そう過去を振り返った。これまで呆れられたことはあっても、特
に大事にされた記憶はない。むしろいつまでも困った子供だと苦笑いされてき
た気がする。要するに首をすげ替えれば良い官と違って、麒麟である六太は遠
ざけるわけにもいかず、尚隆は王として仕方なく付き合ってきただけだ。その
はずだった。

841書き手:2017/05/07(日) 10:10:02
全裸待機はやめてww


場面は変わりませんが、このまま尚隆視点に移行します。
しばらくはずっと尚隆のターン!
(ただ投下までちょっとお待ちください)

あ、でも強○はないです。
期待してた人がいたらごめんなさい。
泣いてるろくたん可愛いし、ついついいじめたくもなるけどw

842名無しさん:2017/05/07(日) 10:23:41
おおっ続けて更新が…パニくってるろくたん可愛いですねー泣かせたくなるのわかりますw
和○大歓迎ですしわくわく待つのも楽しい時間なのでご無理なさらず

843名無しさん:2017/05/07(日) 13:06:46
やめてといわれても、全裸待機せざるをえない
待ちわびた展開で続きが待ち遠しいよ!

844名無しさん:2017/05/07(日) 13:11:40
ついに何年も待っていた場面が読めるのですね!
ちょくちょく覗きにきててホント良かった!!

845名無しさん:2017/05/07(日) 14:19:33
お疲れ様です!!うわああいっぱいいっぱいな暴走尚隆たまりませんなあ…
>>837
靴下も忘れないで下さいね

846書き手:2017/05/10(水) 23:08:39
推敲しつつ、平日はニ、三レスずつ落としていきます。

847永遠の行方「絆(28)」:2017/05/10(水) 23:11:00
 一方、尚隆も驚いていた。
 先ほど露台から六太を見たとき、室内の灯の淡い光に照らされて金の髪がき
らきらと光る姿は、光でできた彫像のようだとも、幻のようにはかない姿だと
も感じて、妙に不安に駆られた。まだ以前のように自由に動き回れるわけでも
ないため、卓に両手をついてひっそりと立つさまに、ただ静かに眠っていた姿
を幻視する。そうして尚隆は、二度と離してたまるか、と内心で決意したのだ。
 だが本当に関係を無理強いすることはないだろうとも、どこかで諦めていた
気がする。おのれの醜さを六太に突きつけ、それに対する嫌悪を目の当たりに
し――おそらくそれで自分の心は萎えるだろう。そうしたら詫びの代わりに六
太を遠ざけてやろうと思った。きっと六太は安堵するに違いない。本人が望む
なら理由をつけて、陽子のところにしばらく滞在できるよう計らってやっても
いい。
 ――なのに。
 尚隆を嫌悪するのではなく、嫌悪から拒否するのではなく。恐慌の中、頭を
ふらふらと揺らして定まらない視線をでたらめにさまよわせ、それでも尚隆に
だけは目を向けようとせず、泣きながら幾度も幾度も「嘘だ」と繰り返す。そ
の様子に、これではまるで……と呆然としながらも訝しんだ。
「ありえない、ありえないんだ……」六太は泣きながら、しきりに首を振った。
「何が、ありえない」
「ありえない、嘘だ、嘘だ、ありえない……」
 また力なく首を振り、ひたすらうわごとのように繰り返す。足元がよろめい
て既に危うい。なのにやたらと首を振っては、混乱のあまりおぼつかない手で
尚隆を押して遠ざけようとするものだから体が傾き、今にも床に倒れこみそう
だった。尚隆が強引につかまえているから、結果的にかろうじて立っていられ
ているだけだ。
(これではまるで――まるで……)
 先ほどの「嘘だ」「嘘ではない」という応酬は、ほとんど反射的に言い返し
たに過ぎなかった。尚隆にしてはめずらしいことに、ほぼ感情に任せた台詞
だったと言っていい。「自分の麒麟に惚れて、どこが悪い」と言い放ったのも
同じ。何しろ内心では恋情のような甘いものではなく、よりたちの悪い「執着」
だとはっきり自覚していた。

848永遠の行方「絆(29)」:2017/05/10(水) 23:29:41
 だが今、彼は突如としてひらめいた可能性に動揺していた。尚隆自身を拒む
のではなく、あくまで尚隆の告げた想いが嘘だとして抵抗する六太。尚隆の脳
裏を、何年も前の廉麟の言葉が不意によぎった。
 麒麟は王のもの、王がそばにいなければ生きていられない、と。廉麟は確か
にそう言った。あのときは、ならばうちの麒麟は規格外だな、とひそかに思っ
たものだった。
(ああ)
 尚隆の心の中で、嘆声とともに何かがゆるゆると形作られていった。これま
でずっと見誤っていたそれ。いろいろな材料を得てなお、正しく組み立てられ
なかったひとつの絵。
 ばらばらに散っていた断片が、今度こそはっきりと正しく結びついていく…
…。
 ぴたりとはまった断片の数々が、ようやく尚隆の目にすべての真実を明らか
にした。長い長い時の中に埋もれ、最後に人知れず朽ちていくだけだったろう
真実を。
 わかってみればいちいちうなずけることばかりだった。なのに、自分は。
(――どうして)
 どうしてこれまで気づいてやれなかったのだろう。あまりにも深い後悔の念
に尚隆の心が激しく震えた。どれほどの間、必死に隠してきたのだろう。百年
か二百年か、あるいは。
(では、あの呪が解けたのは)
 雷に打たれたかのように天啓が訪れた。
 何も変わったことはしていないつもりだった。だがそうではなかった。なぜ
なら――尚隆は六太に接吻をしたのだから。
 確かに純粋に行為だけを見れば、それまで幾度となくやってきた口移しと何
ら変わらなかったかもしれない。だがあのときは水や果汁を飲ませていたわけ
ではない。
 陽子は言っていた。王子や王女の接吻で相手の呪いが解けるというのは、童
話でよくある類型のひとつだと。だからそれで目覚めたのなら、幸運な偶然と
思うことはできるかもしれない。
 だがあれはむしろ、思い人である尚隆からの接吻で六太の望みがかない、解
呪の条件が満たされたということではないのか……。

849永遠の行方「絆(30)」:2017/05/11(木) 23:19:21
(では、最近の六太が俺の世話を拒んでいたのは。驚いたり嫌がったりしてい
たのは)
 呪者の確信は、潜魂術により六太の認識を引き継いだがゆえだ。それほどあ
りえないと固く信じて解呪の条件としたほどの事柄。あさましい願いだと言い
切り、天地がひっくり返っても成就しないとまで思い込んでいたのなら、その
相手に触れられて親しく世話をされるのはむしろ苦痛だったのではないか。そ
こでこれ幸いと逆に距離を縮めようとするほど図太かったら、そもそもあのよ
うな卑怯な呪にかけられることもなかったはずだ。
(すべては誤解……?)
 六太は尚隆の世話を嫌がったのではなかった。ただ絶対に叶えられない望み
を目の当たりにすることを恐れただけだったのだ。
 尚隆は狼狽しつつも六太を見おろした。現金なことに先ほどまでのどこか追
い詰められた気持ちは、すべての断片と断片が明確に結びついたとたん、霧散
するように消失していた。今は何か救われたように感じ、むしろ動揺の中にも
優しい気持ちが芽生えはじめていた。まだ恐慌に駆られている六太を支えなが
ら、慣れない感情に途方に暮れる。
 ――愛(いと)しい。
 そんな気持ちが、みるみるうちに大きくなった。これだけ長い間そばにあり
ながらよくも気取らせなかったものだと思えば、いじらしくてたまらない。そ
んな頭の片隅では別の尚隆が、まったくもってやっかいな餓鬼だ、と、ようや
く復活した余裕の気持ちをにじませて苦笑していた。
「……信じられないならそれでも構わん。麒麟は王の命令には逆らえないのだ
ろう。おまえは命令に従っただけだ。自分にそう言い訳しておけばいい」
「いやだ……いやだ――」
 まだ完全に体調が回復したわけではないせいもあるだろう、混乱のあまり、
却って六太は抵抗の力を失っていた。尚隆の胸を押すように置かれた手には既
にまったく力が入っておらず、ひたすら泣いて首を振っている。
 気づけば、季節柄薄い被衫のせいもあって、夏場とはいえ涼しい雲海上の宮
城のこと、六太の体は明らかに冷えてしまっていた。あるいは混乱の極みにあ
る精神状態が何らかの症状として現われたのかもしれないが、いずれにしろ尚
隆はあわてた。

850永遠の行方「絆(31)」:2017/05/11(木) 23:36:32
(まずいな)
 さすがに我に返って牀榻に入れようとすると、六太は力の入らない手で、そ
れでも必死に抵抗しようとした。
「まだ何もしやせん。おまえ、足元がふらついているではないか」
 尚隆は強引に牀榻に連れこんだものの、寝かせるとさらなる恐慌に陥りそう
とあって、臥牀の端に腰かけさせた。臥牀から薄い衾をはいでそれですっぽり
とくるみ、衾ごと抱きしめる格好で同じように横に腰かける。恐慌から来る反
射か、ぶるぶると体を震わせたままの六太が落ち着くまで、何度も「大丈夫だ」
「何もしない」と声をかけつつ、これ以上相手の恐慌をあおらないよう、しば
らくじっとしていた。
 尚隆自身の気持ちとしても、罵詈雑言を浴びせられるならまだしも、こんな
ふうに恐怖に駆られているさまを見れば哀れさが先に立つ。どうやら両想いの
ようだとわかっても、さすがに無理やり抱く気にはなれなかった。ただでさえ
こんな様子の六太を見るのは初めてなのだから。
 そうやって時おり静かに声をかけつつ、ひたすら待っていると、長い時間が
経って、ようやく六太の反応が落ち着いてきた。尚隆に腕の中で身を硬くした
まま、がっくりと頭を垂れている。そのさまは荒れた国でよく見かけてきた民
らの無気力を彷彿とさせた。
 尚隆はせっかく落ち着いてきた六太を刺激しないよう、何とか相手の気持ち
をほどくための糸口がないかと穏やかに話しかけた。
「……そういえばおまえも蓬莱で生まれたというのに、向こうでの話を聞いた
ことは一度もなかったな……」
 ささやくような低い声に、六太はぴくりとも反応を示さなかった。
「生まれはどこだ」
 返ってきたのは無言だけ。だが尚隆が辛抱強く待っていると、ずいぶん経っ
てから消え入るように小さな声が「京」と答えた。
「帝のお膝元か。親は何をしていた。商いか。農民か」
「何も」
「何かしていたろうが」

851名無しさん:2017/05/12(金) 12:13:17
気持ち通じたー!尚隆良かったね、嫌われてるんじゃないよ
にまにまして続きお待ちしています!

852永遠の行方「絆(32)」:2017/05/12(金) 22:27:18
「……元は商家で下働きしてたみたいだけど、そこの主人が殺されたから。西
軍の足軽に」
「そうか……。家は?」
「そんなもん。燃えたよ。大きな寺も公家の屋敷も、民の家だって、全部燃え
た――燃やされたんだ。侍たちに。大名たちに」
 かぼそくも淡々とした声だった。何もかもを諦めたような。
「そうか……。それで食い詰めた親に捨てられたのか」
 ぎくり、と六太はいっそう身体をこわばらせた。やがて「仕方なかったんだ」
というつぶやきが漏れた。
「俺、まだ四つだったから……。働けずに食うだけの餓鬼で、役立たずだった
から……。仕方なかったんだ。家族が生き延びるために」
 千を生かすために百を殺す。百を生かすために十を殺す。そんな論理を嫌悪
する麒麟なのに、殺される側が自分であるならばまったくかまわないのだ。尚
隆は不憫に思った。六太自身は、普段から尚隆が唱えているその論理を自分が
肯定していることにまったく気づいていないようだが。
 尚隆は強いて、六太を慰めるような言葉をかけた。
「親はつらかったろうな。腹を痛めて産んだ子を捨てるとは」
 だが六太は力なく頭を垂れた姿勢のまま、身じろぎもしなかった。
 ふたたび長い長い時間が経って、小さなつぶやきがぽつりと漏れた。
「気味が悪いって、言われた」
 震える声。
「聡いから恐いって」
 かぼそい声に嗚咽が混じった。顔は伏せられたままだったが、六太がくるま
れている衾の上にぽたりぽたりと涙が落ちた。
「どこかから下されたみたいで、死なせたら祟りそうだって!」
 感情があふれたのだろう、不意に、声に力強さが蘇った。その声は血の色を
していた。五百年を経ても、その記憶が褪せることはなかったとでも言うよう
な。いまだに楔のように心臓に突き刺さっているとでも言うような。
「でも――でも、戦がなかったら、都が燃えなかったら、それでも捨てられず
に済んだんだ。俺はいてはいけない子供だったけど、役立たずだったけど、そ
れでも育ててもらえたんだ!」

853永遠の行方「絆(33)」:2017/05/12(金) 23:28:09
 血を吐くような悲痛な叫び。六太の体はふたたび瘧(おこり)のような震えを
発しはじめていた。
「だから俺は大名が嫌いだ。将軍とか、人の上に立って戦をする奴らが嫌いだ。
王だって大嫌いだ。だから、だから――」
 何かの発作を起こしたかのようにがくがくと激しく震えている六太を、尚隆
はあわてていっそう強く抱きしめた。赤子をなだめるように、優しく揺すって
やる。
「――俺は王なんか選びたくなかった。おまえは麒麟だって言われて、蓬山で
王を選べって言われて――吐き気がした。王がいるから民は殺される。王がい
るから民は搾取される。なのに王を選べって。だから蓬山を逃げ出したんだ。
逃げ出して戻ったんだ、蓬莱に」
 王を選びたくがないために蓬山を出奔した。いちおう鳴賢の証言で知っては
いたものの、初めて自分の耳で聞く告白に尚隆は驚かざるを得ない。確かにそ
んな麒麟の例は他にないだろうから。
 だが幸いにも哀れな興奮は長く続かなかった。尚隆が何も言わず、ただ励ま
すかのようにぎゅっと抱きしめては時おり揺すってやっていると、六太はほど
なく静かになった。相変わらず頭をがっくりと垂れたまま、震える声で続ける。
「――なのに。なのに、気の赴くままに旅をしていたらおまえに会った。一目
でわかった。おまえが王だって。王を選びたくなくて蓬莱に帰ったつもりだっ
たのに、天帝の掌で踊らされているだけだった。自分の意志で出奔したつもり
だったのに、そうじゃなかった」
 もちろん尚隆は蓬莱で六太と会ったわけで、彼が蓬莱に赴いていたことは了
解している。ただその理由については、何となく王を見つけるためだったろう
と思っていた。昔のおぼろな記憶をひっくり返してみても、天勅を受けるため
に蓬山に逗留していた際、女仙たち自身もそう言っていた記憶がある。むしろ
他には考えられないとして、その理由を信じ切っていたようだった。
 いずれにせよ、自分の意志で成したと思っていた行動が、すべて他者によっ
て仕組まれていたと知ったら、確かに衝撃を受けるだろう。
 何とも声をかけづらい内容に尚隆が黙っていると、六太はようやく泣きぬれ
た顔を上げた。泣きすぎて腫れた瞼の奥、ぼんやりとした目が無感動に尚隆を
見つめる。

854永遠の行方「絆(34)」:2017/05/13(土) 10:01:07
「麒麟には何もないんだ。この命も、感情すら自分のものじゃない。俺の気持
ちは全部天帝に仕組まれたものだ。だから、だから――」
 六太の目からふたたび涙があふれた。そうしてからまたぐったりと頭を垂れ
る。
「俺を、放っておいてくれ」
 かぼそくも乾いた声。何も望まず、何もかもを諦めたかのように力のないそ
れ。
「前みたいに妓楼にでも行って、姐ちゃんたちと遊んで憂さ晴らしして――俺
のことは捨て置いてくれ」
 それだけ言うと、六太はぱたりと黙り込んでしまった。今回の事件で鳴賢に
告げたことを除けば、これまで誰にも明かさず秘めていたのだろう重く真剣な
告白。尚隆は考えあぐねていたが、やがて「なあ、六太」と静かに呼びかけた。
「なぜそう決めつける。俺とおまえの年齢差からすると、おまえの前の雁の麒
麟が生きた年月も、俺が王とされた時期と被っていたのではないか。だがそい
つは俺を見つけられずに天寿尽きて亡くなったのだろう。それまでにも胎果の
王はいたというのに、崑崙や蓬莱に渡って探すという考えは浮かばなかったよ
うだな。ということは、おまえが向こうで俺と出会ったことはどうか知らんが、
蓬莱に戻ったこと自体はおまえの意志ではないのか? その後のことは、たま
たま俺が胎果だったためにうまく運んだだけかもしれんぞ」
 そこまで言って様子を窺ったものの、六太の反応はなかった。
「それに俺たちは既に五百年ともにいるのだ。これだけ長い間寝食をともにす
れば、麒麟であろうがなかろうが、相手を好ましく思っても不思議はあるまい。
それに俺もこの長い生の中で何度か考えたことがあるが、王を慕うという麒麟
の本能は、あくまで忠義に留まるように思う。宗麟や供麒を見るかぎり、嫉妬
という感情とは無縁のように思えるのでな。あの氾麟でさえ、氾王の寵姫たち
に別段妬くふうもない。というより寵姫たちの美貌やさまざまな才覚を自慢し
ていたくらいだから、むしろ王の幸いとして本心から喜んでいると言えるだろ
う。つまり独占欲ではないのだ、麒麟の、いわゆる王への思慕は。だが思い返
してみると、おまえは俺が妓楼に通うと不機嫌になったな」

855永遠の行方「絆(35)」:2017/05/13(土) 10:13:24
 思わず、といったふうに、六太がパッと頭を上げた。驚愕に彩られた顔で叫
ぶ。
「だ、誰が! それはおまえが真面目に働かないで、遊んでばっかりだから―
―」
「ならば後宮に女人を入れたいと言ったら、おまえはどう思う」
 六太は叫んだ形に口を開けたまま絶句した。次いで、頭を垂れるのではなく
顔を横にそむけて吐き捨てるように言った。
「勝手にすればいいだろ。俺には関係ない」
 そのまろやかな頬に、ふたたびあふれた涙が幾筋も伝った。
 実を言えば尚隆は、深い考えがあって言ったわけではなかった。六太の頑固
な態度に、つい反射的に口に出してしまったというか。
 だがそんな六太の反応に胸を衝かれた彼は、不用意な言葉を吐いてしまった
ことを心から後悔した。愚かな言葉を詫びるかのように六太を抱き寄せ、涙で
濡れた顔を自分の胸に押しつけた。
「莫迦、泣くやつがあるか。ただのたとえ話だ。俺はおまえに惚れていると
言ったろう」
 小柄な六太は、衾にくるまれていてさえ尚隆の腕の中にすっぽり納まってし
まう。もっと早く気づいてやれていれば。そうすればこんなふうに自分の翼の
下に入れて守ってやれたのに、と慙愧の念が心をさいなむ。
 いずれにしても、五百年以上をともに過ごしていながら、ふたりがこんな話
をしたのは初めてだった。知り合って何年も経たない鳴賢と交わした熱い話を
思い出しながら、尚隆は内心で、本当に俺はこいつのことを何も知らなかった
のだな、とひとりごちた。
「……ああ、そっか」
 尚隆の胸から頭を起こした六太が、不意に自嘲の声音を漏らしたので、尚隆
は「うん?」と問いかけた。
「俺、蓬莱でもここでもずっと役立たずだったしな。後宮でなら、俺でも役に
立つかもしれないって?」
 思いがけない言葉に、尚隆は呆気に取られた。
「おまえ……。もしかしてずっと自分を役立たずだと思っていたのか?」

856永遠の行方「絆(36)」:2017/05/13(土) 10:51:38
「役立たずじゃんか、実際」
「一口に治世五百年と言うが、おまえが俺の麒麟でなければ、最初の百年もも
たなかったと思うぞ」
「俺はいつもおまえの足を引っ張ってただけだ」
「なぜそう思う」
 とっさに理由を言えなかったのか、六太は口ごもった。だがすぐにこう答え
る。
「い――いつも、うるさそうにしてたじゃんか。慈悲の繰り言ばかりだって」
「それは否定せんが……。しかしそもそもそういう進言をすることこそが宰輔
の重要な役目だろう。それに俺の手足となって諸国の実情を見聞してくれてい
たろうが」
「そんなもの。麒麟なら誰だってできる」
「他の麒麟は、そもそも内乱状態やら空位で荒れているやらの他国に足を踏み
入れるのも嫌がると思うがな……。それにおまえほど機転が利かず、あっさり
と正体を見破られそうだ」
「宰輔の政務だって誰でもできる。訴状や陳情に目を通して、官から上がって
きた書類を決裁して……。靖州侯の政務もそうだ」
「だから、自分が意識不明になっても何の支障もないと考えたか?」
 六太は押し黙った。
「確かに表面的なことだけ見ればそうなのかもしれん。しかし心はどうなる。
おまえが呪にかけられたことで、鳴賢は心配のあまり相当に憔悴していたぞ。
命に別状がないとわかっていてもだ。おまえを何とか目覚めさせられないかと、
随分と力を尽くしてくれた。おまえと歌や曲を作っていた海客たちは、おまえ
が麒麟だとは知らないが、少しでも症状が改善すればと、関弓の民ともども何
十人も集まって演奏会を開き、眠ったままのおまえに歌を聴かせたのだぞ。覚
えてはおらんだろうが。それに俺はどうなる。おまえがいなければ俺は独りだ。
官だろうが女だろうが、俺と真に添えるのはおまえだけだ。蓬莱での俺、すな
わち俺の根を知っている唯一の存在、それがおまえなのだぞ。おまえがおらね
ば、俺は自分の根を失う。国を治める気力も失う。それがわからんのか」

857永遠の行方「絆(37)」:2017/05/13(土) 11:28:12
 六太は答えなかった。自信家なようでいて、その根本には実際のところ、よ
りどころとなるものが乏しかったのだろう。尚隆はあまり追い詰めるようなこ
とは言いたくなかったが、少なくない者たちが、六太のことを心から気遣って
いたことは信じてほしいと思った。
「なあ、六太」
 尚隆は優しく語りかけた。
「おまえが王を嫌いなことはよくわかった。だが俺はどうだ? 小松尚隆とし
ての俺は嫌いか?」
 ずるい問いであることはわかっている。だが今さら引き下がる気はなかった。
どれほど沈黙を保たれても、答えを聞くまでは待つつもりで黙っていると、六
太は消え入るような声で「嫌いじゃない」とつぶやいた。
「では好きか?」
 沈黙。
「俺はおまえを好いている。おまえはどうだ? おまえは俺を好いてくれてい
るか?」
 もちろん友愛方面の問いではないことはわかっているだろう。
 そのためか、今度の沈黙はずっと長かった。そんなあとで六太が発したのは、
声にならない声だった。いくら静かな牀榻の内とはいえ、こうして寄り添って
いなければ聞き逃したろう、そよ風のようにかすかなつぶやき。
「……好き」
 知らず息をつめていた尚隆は、ほんのりとした笑みを口元に浮かべた。つか
まえた、と思った。やっと、やっとつかまえた、と。
「では相思相愛というわけだ。ならば何の問題もあるまい?」
 そう言ってから、ふたたび六太の頭を胸元に抱き寄せる。顎に手をやって、
そっと顔を上げさせた。わずかな抵抗をかわし、目を伏せたままの六太を怖が
らせないよう、かすめる程度のささやかな接吻を唇に落とす。
「おまえがほしい。俺のものになれ」
 耳元でそっとささやく。六太が体を硬くするのを感じ、あやすように手の甲
をとんとんと優しく叩く。
「案ずるな。すべて俺に任せておけ。おまえはいつも考えすぎるぞ」

858永遠の行方「絆(38)」:2017/05/13(土) 13:24:40
 それでも六太は震えながら、いまだ力の入らない手で尚隆の胸を押しのけよ
うと抵抗の残滓を見せた。尚隆は内心で、まったくうぶなことだ、と苦笑しな
がらも愛しく思い、「大丈夫だ」と繰り返しささやいた。
「他のことは何も考えるな。俺のことだけ考えておれ」
 そう言ってさりげなく衾を剥ぎながら、先ほどよりは力を強めて接吻する。
 今度は唇を離さず、六太の背と頭の後ろに回した腕に力を込めて、深く深く
口づけた。強引に口を開けさせて舌を入れ、逃げる六太の舌をつかまえては強
く吸う。初めての経験で気が動転している相手につけこみ、幾度も角度を変え
ては口腔内を激しく蹂躙する。
「ん、んっ……」
 口を塞がれた六太が、鼻に抜ける声でうめいた。その声に潜むほのかな官能
の匂いを嗅ぎとり、尚隆は体の芯が熱くなるのを感じた。決心してからは臥牀
で六太に背を向ける理由が、まだ不自由な体に不埒な真似をしないために変
わったのだが、それで正解だったかもしれない。
 実は今回、少し心配していたのだ。六太を自分のものにするとして、果たし
てきちんと己の雄が役に立つだろうか、と。何しろ彼が六太の想いに気づかな
かった最大の原因を振り返るに、むろん六太がうまく隠していたというのもあ
ろうが、何と言っても男色の嗜好がなかったがゆえに、無意識にその可能性を
除外していたせいと思われるのだ。
 だが今、尚隆の雄は自分でも不思議なほど猛っていた。先ほど露台から室内
の六太の姿を見ていた際も少し心配だったのだが、杞憂に終わったことに心か
ら安堵する。決定的な瞬間に役立たずだったら、ふたたび六太を傷つけてしま
いかねない。
 やがて、慣れないことをされて頭がぼうっとなってしまったらしい六太の抵
抗がやんでいった。ふたりの体の間で相手の胸を押しのけるように置かれてい
た六太の手を、尚隆は片手でつかんで自分の肩の上に引きあげ、首を抱かせる
ように沿わせた。
 尚隆がやっと口を離すと、六太は空気を求めて深くあえぎ、彼の首に力なく
両腕を置いたまま、背に回されていた力強い腕にぐったりともたれた。尚隆は
そのまま六太の華奢な身体を臥牀に横たえた。

859永遠の行方「絆(39)」:2017/05/13(土) 13:29:25
 うんと優しくしてやらねば、と思う。長いことひとりだけを想ってきた一途
な六太は自分とはまるで違う。これ以上の衝撃を与えないよう、優しく接しな
ければ。おそらくは報われることのない想いを墓まで持っていく覚悟で、ずっ
と秘めてきたのだ。いきなり告白されても、確かにすんなり受け入れられるも
のではないだろう。
 それにこれから幾度閨をともにしようと、初めての夜は一度きりだ。幸せな
思い出になるようにしてやらねば。
 尚隆は自分の被衫の紐を解いて前をはだけると、六太にのしかかった。頬に、
鼻に唇を這わせて、その子供らしい柔らかい感触を楽しむ。六太の被衫もはだ
けてなめらかな肌をむきだしにし、素肌と素肌が触れ合うことにぞくぞくする
ような喜びを感じながら胸元をまさぐる。
 なし崩しに愛撫になだれ込もうとする尚隆にやっと気づいた六太が狼狽の中
で顔を背けた。相手を手で押しとどめようとするものの、動揺のあまりまった
く力が入っていない。いくら外見が子供といえど六太に色恋の経験があっても
おかしくはなかったし、実年齢を思えばむしろ自然だったが、あまりにもうぶ
な反応に、まったくの未経験らしいと尚隆は見当をつけた。
(あまりおびえさせぬようにせんとな……)
 そう自分を戒めながらも愛撫の手は止めず、首元から胸にかけて感じやすい
箇所を探しながら強く吸った。片方の乳首に舌を這わせ、強弱をつけてちろち
ろと舐めあげる。同時に下半身に手を伸ばすと、六太のものを包み込むように
優しくまさぐった。
「あ、や……! 何……!」
 六太が悲鳴じみた声を上げ、力が入らないなりに何とか尚隆を押しのけよう
とした。彼の股間はとうに尚隆の愛撫に反応していたが、なぜ自分がそんな反
応を示すのかもよくわかっていないらしい。どうやら自慰すらも経験がないら
しいと悟った尚隆は内心で困惑した。
 満年齢で十三歳ともなれば、昔なら別に嫁を迎えてもおかしくはない年では
あったが、もしかしたら麒麟はそういう欲求が少ないのかもしれない。少なく
とも尚隆は、昔のことで記憶は定かではないものの、十三歳のころは既に自慰
を知っていたような気がする。

860永遠の行方「絆(40)」:2017/05/13(土) 13:41:12
(少し厄介だな……。おびえさせずに自然に快感を味わわせてやりたいところ
だが)
 そう考えながら、逃れようと無駄な抵抗を続ける六太の被衫を一気に脱がせ
た。尚隆は身体を下にずらし、六太の膝を立てて太腿を両腕でがっしりと押さ
えこむと、その間に頭を入れ、むきだしになった六太のものを口に含んだ。六
太は息を飲んだ。
「そん、な……!」
 尚隆は刺激で固くなっていたものを何度も執拗に吸い、かつなめ上げた。六
太は両手で尚隆の頭を必死に押しのけようとし、さらに腰を浮かせて逃れよう
としたが、逆に不安定な体勢になったことでさらに強く腰を抱え込まれて愛撫
の度合いが深くなった。先端を、裏側を、熱い舌でなめあげられ、六太は激し
くあえいだ。
「あっ、あっ――だめっ、だめえっ――!」
 六太は快楽の声を上げながらも、尚隆の頭を手で押さえたまま、首を振って
快感をやりすごそうとした。そのうわずった声に尚隆はさらに官能を刺激され、
愛撫を深めた。わけがわからなくなったのだろう、六太は快感に導かれるまま
に身をよじり、腰をくねらせ、性の悦楽への耐性がなかったために、尚隆の口
の中であっけなく果ててしまった。
 六太は抵抗をやめ、褥に力なく横たわった。尚隆は顔を上げて六太の様子を
窺ったが、幼さの残る頬が新たな涙で濡れているのに気づいて狼狽した。いき
なり口で愛撫するのはやりすぎだったかと後悔し、あわてて頭を抱き寄せてな
でた。
「すまん、急ぎすぎた。嫌だったか?」
 ぽろぽろと涙を流すさまに、胸を締めつけられるような思いでいっぱいにな
る。六太は尚隆にしがみつくと、その首元に顔を押しつけた。
「俺、俺……。わから、ない……。だって……こんな、の、初めてで……」
 泣きながら震える声で答えるさまがいじらしかった。尚隆はなだめるように
六太の頭をなでながら言った。
「おまえを気持ちよくさせてやりたかったんだが、急ぎすぎたようだ。驚いた
ろう。すまなかった」
 六太は尚隆の首元に顔を押しつけたまま、かすかに首を振った。尚隆はほっ
として、六太の体をしっかりと抱きしめたまま、相手が落ち着くのを待った。

861永遠の行方「絆(41)」:2017/05/13(土) 14:11:23
 やがて六太が腕の中で静かになると、その顔を覗きこみ、小さな唇をそっと
ついばんだ。抵抗されないことを確認して、驚かさないよう少しずつ愛撫を深
める。
「尚……隆――」
 もはや六太もあらがわなかった。おずおずながらも主の首に腕を回して、舌
を入れてきた相手の行為に応えはじめる。
 尚隆は顔が遠いから不安になるのだと思い、六太の頬や耳に唇を這わせなが
ら、腕だけを伸ばして六太自身をまさぐった。反射的にだろう、それでも六太
は尚隆の腕をつかんで押しとどめた。しかし尚隆は手の動きを止めず、なだめ
るように「大丈夫だ」と耳元で優しく繰り返しながら、素直に反応しているそ
こを丁寧に愛撫した。六太の呼吸が速くなり、抑えきれない官能のあえぎが唇
から漏れる。
「尚隆……。お、俺、なんか……また出ちゃう――」
 しがみついて訴える切羽詰まった声音に、尚隆はようやく笑みを漏らした。
「いいんだ。そのまま俺の手に出せ。気持ちよくなるから」
 六太は戸惑っているようだったが、肉体の欲求は待ってはくれなかった。六
太はすぐに腰を震わせると、快感のうめきとともに射精した。とろりとした熱
い液体を手に受けた尚隆は、ふたたびぐったりとなった六太の尻の間にその手
を這わせ、目当ての場所にそれをたっぷりと塗りつけた。そうして滑りを良く
しておいてから、中指の先端をゆっくりと挿入する。気づいた六太が「何……」
とおびえた声を出し、また尚隆の腕をつかんだ。
「大丈夫だ。ここはな、男同士で契るときに使うのだ」
「え……」
 六太は「そんな、まさか」と動揺の色をあらわにした。尚隆は苦笑した。
「だがまあ、おまえはいわば病みあがりだ。無茶はせん。すぐ済むから楽にし
ておれ。とりあえず既成事実だけは作っておきたいからな」
 むろんそこは本来、そんな使い方をする場所ではない。ましてや十三歳で成
長が止まった小柄な体で、成人している尚隆の一物を受け入れるのはつらいだ
ろう。
 しかし六太は神仙だったし、その体は冬器以外ではほとんど傷つかない。だ
から多少の無理も、閨での行為なら何ということはないだろうと尚隆は見当を
つけていた。

862永遠の行方「絆(42)」:2017/05/13(土) 14:22:39
 六太は相変わらず不安そうに尚隆の腕をつかんだままだったが、相手の行為
を我慢して耐えているようだった。そんな彼に内心で「すまんな」と謝りなが
ら、やがて挿入する指を二本に、そして三本へと増やして抜き差しを繰り返し
た。
 やがて十分になじんで柔らかくほぐれたと判断した尚隆は、六太の太腿の間
に下肢を滑り込ませると、六太の腰を持ち上げた。先ほどまで指を入れていた
場所に、みずからの猛った雄をあてがう。
 ゆっくりと挿入される巨大な異物のせいだろう、六太は息を飲んで身体を固
くした。尚隆は動きを止め、「大丈夫か?」と問うた。
「う、う――ん」
「もう少し力を抜け。少しずつ入れるからな、もし痛かったら言えよ。神仙だ
から大丈夫だとは思うが」
 六太の中はあまりにも狭く、そして熱かった。吸いついてくるような熱い肉
壁の感触ときつい締めつけ。経験豊富な彼でさえ、これまで味わったことのな
いほど絶妙の感触だった。そのあまりの心地よさに、全部挿れる前から危うく
射精してしまいそうになり、尚隆は腹に力を入れてぐっとこらえた。時間をか
けて、狭い中を何とか根元まで挿入する。油断するとすぐ達しそうになるので、
震えながら深く息を吐いて何とか耐えた。
「全部入ったぞ。わかるか?」
「う――あ……」
 だが六太のほうは、ずいぶんと苦しそうだった。
「お、俺、なんか――」
「どうした」
「気持ち、悪い……」
「大丈夫か?」
「なんか――吐きそう」
「おい」
 心配する尚隆の前で、六太は浅い呼吸をせわしなく繰り返しては小刻みに震
えた。そこから伝わる絶妙の感覚に、尚隆はじっとしていても達しそうになる
のを必死でこらえ、そのまま六太の状態が落ち着くのを待った。

863永遠の行方「絆(43)」:2017/05/13(土) 14:37:33
 やがて六太の呼吸が安定してきたのを見定めた尚隆は「動くぞ」と言い置い
て、ゆっくりと腰を動かし始めた。
「あっ……!」六太は息を飲んで小さく叫び、尚隆の腕を押さえたままの手に
力をこめた。
「痛いか?」
「い――痛くは、ないけど、なんか――なんか、変……」
「初めてだからな。仕方がない。すまんが少しだけ我慢してくれ。俺もこのま
までは生殺しなものでな」
「うん……」
 もう射精をこらえる必要はないので、手早く済ませるため腰の動きを早める。
狭い中を幾度も出し入れしないうちに尚隆は達した。本当は中に出したかった
のだが、まだ六太への負担が大きかろうと判断し、果てる直前で一物を抜くと
褥の上に射精した。
 荒い呼吸を整えながら、ようやく解放されてほっとしている様子の六太を抱
きしめる。
「大丈夫だったか?」
 六太は目をきつくつむって尚隆にしがみつき、頭を尚隆の首筋に押しつけて、
混乱したように「俺、俺――」と震える声でつぶやいた。うぶな彼にとっては
驚天動地の経験だったのだろう。だがふたりには、新しい関係になじむだけの
時間はたっぷりとあるはずだった。
「そのうち体が慣れれば良くなる。毎晩可愛がってやるぞ。おまえは俺の大事
な伴侶だ」
 六太は何も答えず、ただ震えて、すがるように尚隆にしがみついているだけ
だ。尚隆は恋人の細い体をいっそう強く抱きしめると、耳元で優しい睦言をさ
さやきながら、頬や唇に幾度となく甘い接吻を繰り返した。

 だがここで肌を合わせたことは、完全な悪手ではなかったろうが、決して最
善手でもなかった。それを尚隆が理解したのは、しばらく経ってからのこと
だった。

864書き手:2017/05/13(土) 14:42:58
とりあえずこんな感じになりました。
肉体関係ができたことは大きな転機ではあるけれど、
尚隆が強引に進めたようなものだし、ふたりが真に通じ合うための通過点に過ぎません。

あと氾王に寵姫がいるとか、つい書いちゃいましたが、本作だけの設定なのでお許しを。
氾王は男女を問わず趣味人でオトナな寵姫寵臣をたくさんかかえていて
でも意外と皆認めあって仲良く過ごしていそうなイメージがあります。


なお以前、>>22で書いたように、書き逃げスレ『後朝』『続・後朝』は
この永遠の行方のエピソードのひとつで、時期的には今回の直後の話になります。

が、実は細部が異なる本筋版と妄想版のふたつあって、書き逃げスレに載せたのは妄想版のほう。
というのも当時は本編を書けるか見通しが立っていなかったというか、
「大長編になるだろうから、たぶん書かないだろうな」と思っていたため、
多少派手で書きやすいほうを安直に選んだ次第です。

特に『続・後朝』の朱衡の登場以降はほぼ妄想で、本編の展開とは全く違うと思ってください。
あれだと、すんなりラブラブに移行しそうに見えますが、
実際にはそんなことはなく、これ以降ろくたんはかなりぐるぐるします。

865名無しさん:2017/05/13(土) 18:02:13
大場面に邪魔だて出来ぬ……と感想スレで鼻息荒くしてました。
今日はまさかの一気投下で朝からドキドキと。

契る前に蓬莱での幼い六太をしっかりと救いあげる展開が泣けるほど嬉しかった……尚隆ありがとう、小松尚隆ありがとう。

そして繋がると思ったお話が別バージョンで、また違う続きが見られることにご褒美がありすぎる展開で本当に読んでいて感動します。何年も前にこの作品に出会えて良かった……!

866書き手:2017/05/13(土) 23:48:49
楽しみにしてくださってありがとうございます。
ぐるぐるろくたんのあたりは一度書いたんですが、
気に入らなくて書き直すので、次の投下まで今度はちょっと長く空きそうです。

いずれにしろ尚隆のぐるぐる時期は終わったので、それと入れ替わる感じですかね。
ずっと地味に悩んでいた尚隆と違い、六太にすれば目が覚めて
「なんか過保護になった?」と首を傾げていたら襲われて呆然としているようなもので、
それが落ち着いて本当の意味でくっつくにはまだ少しかかります。

要は、ろくたんはもっともっとぐるぐるして動揺して
てんぱって勘違いして泣いて、尚隆に慰めてもらわないと、ってことですw

867名無しさん:2017/05/15(月) 17:45:54
尚隆と六太の落差がまた萌えます・・・
姐さんの尚隆は包容力があっていいなあ、すれ違ってもだもだがまた良い!
無理がない範囲でいいので、頑張ってください!
続き楽しみにしています!!

868書き手:2017/05/21(日) 19:26:56
いろいろ書き直したんですが、
この辺はもうほとんど直さないだろうなと思った3レス分だけ落とします。

869永遠の行方「絆(44)」:2017/05/21(日) 19:31:56

 思いがけず尚隆に抱かれた翌朝、六太が目覚めると彼の腕の中だった。既に
朝に近いのだろう、薄明るい牀榻の中で顔を覗きこまれているのに気づき、六
太は反射的に覚えた恐怖で大きく体を震わせた。強引に抱いた尚隆自身に怯え
たのではない、いつ、昨夜の愛の告白は冗談だったと謝られるのかと、短い夢
の終わりを予感して激しくおののいたのだ。
 六太にとって、昨夜のなりゆきはまったく予想だにしないことだった。呪に
囚われる前まではいつも通りの日常だったし、永遠の眠りを覚悟していながら、
いざ起きてみれば眠っていたのはたかが一年半。なのに尚隆が妙に過保護に
なっているわ、やたらと触れてくるわで、六太にしてみれば困惑するしかな
かった。
 おまけに昨夜の尚隆は急に「惚れている」などと言い出した。追いつめられ
た六太は、つい感情が高ぶっていろいろわめいてしまったが、これが現実の出
来事だとはとても思えず、現実だとしても悪趣味な悪戯に引っかけられたとし
か考えられなかった。
 長い間、想いの成就を諦め、秘めることに慣れた六太は、それが報われたと
はとても信じられなかった。信じることすらも怖かった。
 だが尚隆は、腕の中で泣きそうになった六太をどう思ったのか、その小柄な
体を抱きしめると「二度と仁重殿には帰さぬぞ」と耳元で甘くささやいて接吻
してきた。優しい仕草と声音に、六太はいっそう体を震わせ――そこで牀榻の
折り戸の透かし彫りから漏れる明るさに、起床の時刻が近いのだろうことに思
い至って、はっとなった。
 このままでは起こしにくる女官たちに、裸で抱き合っているところを見られ
てしまう。そんなことがあってはならない、何とか誤魔化さなければ――と、
なぜそう考えたのかという自覚もないまま六太はあわてて飛び起きた。きょろ
きょろと見回して昨夜尚隆に脱がされた被衫を探す。
「どうした」
「被衫」

870永遠の行方「絆(45)」:2017/05/21(日) 19:37:05
「ん?」
「被衫、着なきゃ」
 声を震わせながらも必死に訴える。尚隆は何か残念そうな顔をしたが、仕方
ないというように彼もしぶしぶ上体を起こして周囲を見回し、臥牀の片隅で丸
まっていた六太の被衫を手に取ってくれた。
 ほっとした六太が受け取ろうとすると、だが尚隆は素直に渡してくれなかっ
た。背後から抱きしめて、昨夜のように乳首や局部をまさぐるなど戯れかけて
きたので、六太はふたたび激しく動揺した。
 それでも何とか女官たちが姿を見せる前に被衫を着ることはできた。そう
やってばたばたしたおかげで、起き抜けの際の恐怖も多少紛れたのだが、翻っ
て尚隆のほうはまるで無頓着だった。寝乱れてぐちゃぐちゃになった臥牀を取
り繕おうとするでもなければ、これまで六太が知らなかった、情事特有の匂い
もまったく気にした様子がない。
 ほどなく女官が数名起こしにきたものの、六太は狼狽のあまりずっとうつむ
いていたから、彼女らがどんな顔をしたのかは知らない。だが臥牀を改める際、
意味深な長い沈黙があったような気がして、六太は羞恥と動揺で震えながら、
ひたすら被衫の上着の裾をぎゅっと握りしめていた。
 結局その場で何か言われることはなく、いつものように彼女らに着替えさせ
られた。だが、急きょ湯と布がたっぷり用意され、いつもなら顔や手足だけな
のに全身を丁寧に拭き清められたため、全部ばれているんだと愕然とした。尚
隆に至っては、これからは夜だけでなく毎朝浴堂の用意をするようにとまで言
いつけていた。理由を察して顔から火が出るような思いをした六太は、頭から
衾にもぐりこんで永遠に隠れていたいとさえ思った。
 いったいどうしてこんなことになったのだろう。獲物を捕らえた猛獣のよう
だと思った尚隆にあらがえず、なしくずしに体の関係を持たされたが、これか
らどうなるのか、尚隆が六太をどう扱うつもりなのか、さっぱりわからなかっ
た。それでつい心細くなって、ちらりと尚隆のほうを見たのだが、気づかれて
嬉しそうな笑みを向けられた。六太はなぜか切なくて、泣きたい気持ちでいっ
ぱいになった。周囲に女官がいなければ本当に泣いていたかもしれない。

871永遠の行方「絆(46)」:2017/05/21(日) 19:40:41
 朝餉を摂り、正装して尚隆とともに朝議に赴いたものの、六太は用意された
椅子の上で自分の膝に視線を落として、ひたすら呆然としていた。このひどい
欺瞞がいつ終わるのだろうと思うと、そのときが怖くてたまらなかった。
 なのに。
「仁重殿だがな、広徳殿と同じように靖州府の建物として使うことにした」
「えっ……」
 さらに次の日の朝、いつものように尚隆と長楽殿で朝餉を摂っているとそん
なことを言われた。六太は驚愕のあまり箸を取り落とすところだった。だが昨
夜もたっぷりと情を交わしたせいか、相変わらず上機嫌な尚隆はこともなげに
続けた。
「今のまま放置しておくのももったいないしな。もともと広徳殿と近いのだか
ら、他の用途に充てるよりは使い勝手も良かろう」
「で、でも」
「むろんさすがに宰輔が自分の宮殿を持たぬというのはまずい。それでだ。お
まえには代わりに玉華殿をやることにした」
 さらなる混乱に襲われた六太は目と口を大きく開いた。ここで王の私室たる
正寝の宮殿の名前が出てくる理由がわからなかった。
「ぎょ、玉華殿? 長楽殿の、すぐそばの? なんで」
「もちろん普段は今まで通り長楽殿で過ごすのだぞ?」尚隆は念を押すように
言った。「だが俺とてたまには怪我をすることもある。そうするとおまえは血
の穢れで近寄れなくなるわけだ。ならば最初から、ここと近いが別の宮殿をお
まえの御座所ということにしておけば面倒も少なかろう」
 六太には寝耳に水だったが、冢宰にも太宰にも、昨日のうちに話が通ってい
たらしい。あれよあれよという間に、仁重殿で留守を守っていた残りの女官た
ちも全員が正寝に移ってきて、遅ればせながら次の朝議で諮られて追認もされ
た。そのすべてを六太は呆気に取られて見ているしかなく、帰る場所をなくし
たという事実はいっそう彼の心を追いつめた。

872名無しさん:2017/05/21(日) 23:16:55
うおおお、更新されてる!
それにしても数年前からずっと追って来て、ようやく両者の想いが繋がりかけてるのがなんだか感慨深いです・・・
でもすれ違いぐるぐる好きなので、もだもだ展開も嬉しいですw
尚隆は迷いがないのがさらに萌える・・・

873永遠の行方「絆(47)」:2017/05/27(土) 18:03:30

 数日後の診察で六太は、広い居室の中、女官の介添えなしにゆっくり歩いて
みせた。その様子を見て、黄医は満足げに微笑した。
「けっこうです。まだ疲れやすいようですが、身体機能としてはほとんど回復
なさったと考えてよろしいでしょう。ただ歩く際、あまりおみ足が上がってい
ないようです。階段はもちろん、ちょっとした段差でもつまずきかねませんの
で、それだけはご注意を。足踏みの訓練ではきちんと上がっておられるのです
から、普段の生活でも意識しておみ足を上げるようになさってください」
「わかった」
 六太は素直にうなずき、先ほどまで座っていた椅子に座り直した。その所作
の中でさりげなく皆から目をそらす。女官や黄医の目がいたたまれなかった。
今に至るまで何も言われていないが、ずっと身近に侍っている彼らは、絶対に
尚隆との関係を察しているはずだからだ。
 そんな六太に気づかず、女官たちは「そろそろ主上がおいでになる頃ですね」
と朗らかに言いながら卓をしつらえ、お茶の用意を始めた。六太が長楽殿にい
るとき尚隆は午後に必ず政務から戻ってきて、一緒にお茶を楽しむようになっ
ていた。広徳殿に行っている場合は、大抵は内殿のどこかで落ち合ってお茶を
飲むことになる。
「先ごろ景王から届いたお見舞いの――」
「明日は広徳殿にお出ましになるわけですから――」
「数日中に冬官が最後の確認をしたいと――」
 そんな会話を耳にしながら、六太は背を丸めてうつむき、小さく吐息を漏ら
した。
 「毎晩可愛がってやる」と宣言したとおり、尚隆はあれからも毎晩六太と同
じ牀榻で眠り、肌を重ねていた。体調を慮ったのか、大抵は体をつなげるとこ
ろまでは行かなかったが、肌と肌を合わせて濃厚な愛撫を施され、激しい快楽
の渦に落とされることは変わらない。六太は昼間、官や女官と顔を合わせる際
は必死で平静を装ったものの、内心の混乱と動揺は最初の夜からずっと続いて
いた。

874永遠の行方「絆(48)」:2017/05/27(土) 18:51:42
 六太には何もかもがいまだに信じられないのだ。実はまだ呪の眠りに囚われ
ていて、何かの作用で自分に都合の良い夢を見ているのではないかと真剣に
疑っているほど。
 一方、尚隆はと言えば相変わらず上機嫌で、最初の夜に迫ってきた際に見せ
た、どこか余裕のないさまはすっかり鳴りを潜めていた。一度体をつなげたあ
とは挿入を強いることもなく、大抵は六太の体を愛撫するに留めて、たっぷり
と愛情深い睦言をささやいてくれる。
 恋しいあるじに優しくされればもちろん嬉しいし、外で落ち合うときに尚隆
の姿を見つけた途端、やはり反射的に笑顔になる。だが次の瞬間にはふたたび
恐怖がぶり返し、本当にここは現実なのかと、何かの欺瞞ではないのかと怯え
てしまう六太だった。
「あの、さ……。俺、男なのに、気持ち悪くない……?」
 ある夜、六太は情事のあとで思い切って聞いてみた。だが苦笑されただけ
だった。
「気持ち悪かったら、そもそもこんなことはしておらんだろうが」
「う、うん。でも……」
「今の蓬莱ではどうだか知らんが、俺がいた頃は、男色は武士のたしなみのよ
うなものだったぞ」
「え、じゃあ……今までも……?」
「なんだ、さっそく悋気か?」
 尚隆はからかうように言ったが、その声音はあくまで優しかった。むしろ悋
気の片鱗を見せた六太に、やたらと嬉しそうだった。
「俺は男には興味がなくてな。知っておろうが、女ばかり相手にしてきた」
 六太は思わず顔をこわばらせた。それに気づいたのか、尚隆はなだめるよう
に髪に指を通して頭をなでてきた。
「だが、おまえは別だ。何しろこうまで惚れてしまってはな」
 惚れた、という言葉。好いている、という言葉。それがどうしても六太には
信じられない。だって尚隆は彼自身が言ったように、これまでずっと女としか
関係を持たなかったのだ。それも世慣れた、男あしらいのうまい大人の女を選
んでいたように見えた。それに男というものは普通、美しい女を好むものでは
なかろうか。

875永遠の行方「絆(49)」:2017/05/27(土) 19:39:50
 おずおずとそれを尋ねると、尚隆はおかしそうに「おまえは美しいではない
か」と返された。それで六太もようやく、「何、莫迦言ってんだよ」と無理に
笑ったのだが。
 突如として放り込まれた肉体関係とはいえ、六太から望んだ状態ではないと
はいえ、閨で抱きしめられながら甘い睦言をささやかれるのは嬉しかった。こ
れが夢でなければ何なのだと思うほど。
 だが同時にそれこそが六太を苦しめた。
 普段は飄々として、長年の近臣にさえ捉えどころがないと言われることもあ
る尚隆なのに、閨ではけっこう生の感情を出すのだ。六太に無理をさせないよ
うにだろう、大抵は六太の尻や股に一物を挟んで抽送するのだが、そのときの
欲情に駆られて上気した顔や荒い吐息、激しい腰の動き、口から漏れる獣のよ
うなあえぎは、六太がこれまで知り得なかったものだった。接吻でさえ、あん
なにいろいろなやりかたがあるとは知らなかった。六太が想像してきたのは、
単に唇を押しつけあう程度だったのから。
 なのにそうやって取り繕わずに素を出す尚隆を、これまで彼が抱いてきた行
きずりの女たちはとっくに知っていたのだ。
 自分の実体験としての性の知識が増えるにつれ、その関係に溺れるのではな
く、不思議と過去に尚隆が肌を合わせた無数の女の影が脳裏にちらつくように
なった。これまで長い間知らなかった尚隆の素の表情を知る者が実は大勢いる
という事実は、やはりこれは夢なのではとの疑いと併せ、思いのほか六太を苦
しめた。あんなふうに優しくささやいて、あんなふうに情熱を与えた相手が過
去にいただけでなく、これから先も無数にできるだろうことが容易に想像でき
たからかもしれない。
 熱い肌。荒い呼吸。したたり落ちる汗。射精する際の艶めいたうめき。達し
たあと脱力して六太に覆い被さるときに漏れる満足げな吐息。それは決して六
太だけのものではない。
 だからなのか、恋する相手と結ばれて有頂天になっても良いはずなのに、関
係を重ねれば重ねるだけ、六太の心はむしろ絶望に近づいた。

876永遠の行方「絆(50)」:2017/05/27(土) 21:28:39
 もちろんそんなことは今さらだ。想いが報われることを諦めていたことを考
えれば、過去の女たち――とはいえ大半は売春をなりわいとする妓女――に嫉
妬するのはおかしいとも理性では思う。だが六太がこれまで、尚隆が抱いてき
た女たちに漠然と妬く程度で済んでいたのは、単に情交の何たるかを知らな
かったからだ。
 なのに六太はもう閨で何があるのかを身をもって知ってしまった。そして見
知らぬ女たちは当たり前のように、何百年も前からこんな尚隆を味わい尽くし
ていたのだ。
 その想像は狂おしいほどに生々しく、六太をさいなんだ。憎しみこそ感じる
ことはなかったけれど、自分がひっそりと片思いに殉じている間に尚隆の熱い
肌を味わっていた女たちに初めて強烈な嫉妬を覚えた。
 毎晩のように尚隆に愛されているというのに、同じように愛されて、同じよ
うに腕の中で甘い睦言をささやかれた女が無数にいると思うと苦痛だった。今
の境遇が信じられない六太は、自分が彼女らの中に間違って紛れ込んだように
感じたからかもしれない。尚隆の技巧に手もなく翻弄されながら、六太は急速
に大きくなる自分の悋気の激しさを持て余した。
 思えばこれまでの六太は、ずっとぬるま湯につかっていたようなものだった。
そもそも神獣ゆえなのか、尚隆に導かれて性の扉を開くまでは、普通の生身の
男のような肉欲を感じたことは一度もなかった。恋愛ごとはすべて伝聞か想像
であって、一般的な知識こそあったものの、実体験に基づかないそれに具体性
はなくおぼろに脳裏に浮かべる程度。そこには自分の想いを秘め続けることに
対する悲哀こそあれ、他者に対する切実で苦しい嫉妬は存在しなかった。
 尚隆に優しい笑顔を向けられ、同じように笑顔を返そうと必死で努めながら、
六太は心の奥底で孤独に懊悩しつづけた。
 こんな生々しい感情は今まで知らなかった。知りたくもなかった。これが愛
というものなら、喜びよりも苦しみのほうが大きいのではないかとさえ思った。
 なのにもう、知らなかった頃には二度と戻れないのだ。

877書き手:2017/05/27(土) 21:31:26
今回はここまでです。

尚隆側にも迷いがあると、それこそgdgdになって読むほうもストレスがたまるので
もうぐるぐるするのは六太だけですねー。

過去の六太は、尚隆とのことを夢想するにしても
無邪気にバードキス止まりだった模様。
途中をすっ飛ばして、いきなり肉体関係に行ってしまった現在、
かなり混乱しております。

878名無しさん:2017/05/27(土) 22:33:54
尚隆がぐるぐる迷うのも大好きです、もしぐるぐるしてても最高です、ストレスではないです、でもこの尚隆も素敵です。
この六太の気持ちの辛さ、とてもとても萌えます。
素敵すぎておぼつかない日本語になってます。

尚隆の生々しい格好良さとても萌えます、しかも六太目線での描写!
過去の女への悋気に苦しむ六太とか、もうほんとにたまらなく切なく萌えます
尚隆格好良い……六太目線での獣な尚隆とかとても萌える……

879書き手:2017/05/28(日) 13:02:21
六太目線というか、六太にだけ獣な尚隆ってのもいいと思うんです(力説)。

既に尚隆のほうは心を決めてるんで、
あとは視野狭窄に陥っている六太がぐるぐるして着地点を決めるまでを
適宜想像しながらお待ちいただければと。

880名無しさん:2017/05/28(日) 20:45:12
六太にだけ獣な尚隆、良いと思います!(力強く同意)

881名無しさん:2017/05/28(日) 21:32:22
まったくまったく!!

882名無しさん:2017/05/28(日) 21:36:50
獣な尚隆に開発されちゃうろくたん…ごくり

883永遠の行方「絆(51)」:2017/06/10(土) 19:29:18

 六太が目覚めると比較的すぐ、陽子や帷湍らにも慶事として伝えられたし、
海客の団欒所の面々には鳴賢から伝えてもらうように頼んでいた。いずれもあ
くまで取り急ぎの報せであって、六太が普通に生活できるようになるまでそち
らの世話に注力するため、やりとりはしばらく控えさせてほしいとも添えてい
た。
 そのせいか、ほどなく陽子から送られてきた見舞いも、とりあえずの簡単な
祝いの品とちょっとした近況を伝える手紙だった。だがそろそろ返信ぐらいし
ても良かろうと、六太は短い手紙をしたためた。その様子をすぐ傍らで見守っ
ていた尚隆は、気遣うようにそっと六太の右手を持ち上げ「小さな字を書くの
にも、特に不自由はないようだな」と言ってきた。
「大丈夫、政務もできているわけだし。それに歩いてもあまり息切れしなく
なってきた。黄医も、あとは体力をつけるだけだって」
「それは重畳。だがあまり無理をしてはいかんぞ」
 尚隆は六太が書き上げた書面を、まだ濡れている墨に触れぬよう注意して他
方の手でつまみあげるとそのまま女官に渡し、非公式に景王に送るよう指示し
た。その彼の横顔を、六太は片手を取られたまま、盗み見るようにそっと眺め
た。
 こうしてささいなことでも尚隆のぬくもりに触れる機会も増えた。もうほと
んど普通に歩けるとあって、横抱きで運ばれることはなくなったが、逆に
ちょっとしたことでも尚隆が頻繁に手や体に触れてくるようになったからだ。
 それについては六太は素直に嬉しいと思ってはいたものの、同時に心の奥底
に巣くう恐怖の念がどんどん大きくなることも感じて怯えていた。
 六太にはどうしても、今の幸せな状況が現実だとは思えないのだ。最初から
恐ろしい勘違いであって、飽きた尚隆にすぐ捨てられるような気がしてならな
かった。
 たとえば意味深な視線を見交わしたり、ちょっとした気遣いを示しあったり
して、少しずつ心温まる予感を覚えながら想いの成就を迎えたのなら、話は
違ったかもしれない。しかし呪に囚われてずっと眠っていた六太にとっては、
ある日突然、何の前触れもなく棚ぼたのように長年の想いが叶ったようなもの
だった。だからその奇跡が、現われたときと同様に突然まぼろしのように消え
去ってしまうこともまた、必然のように思えた。

884永遠の行方「絆(52)」:2017/06/10(土) 21:11:29
 なぜなら最初から諦めていた六太は、たまに市井の噂話で聞くような恋愛の
かけひきも、相手に好かれるような努力も、恋人に乞うための告白も何もして
こなかったからだ。ただ寝ていただけなのに、目覚めたら尚隆が優しくべった
りと面倒を見てくれるようになっていて、あまつさえ恋が実ったなんて、どう
考えてもおかしい。そんな都合の良い話が現実に起こるはずがないではないか。
 想いが叶うことは絶対にありえないと思っていた。深く深く秘めたまま、誰
にも悟られることなく墓まで持っていくのだと固く信じていた。そして時に心
が引き裂かれるような思いをしながらも、実際に何百年もの歳月を耐えてきた。
 秘めることに慣れた想いを、今さら表に出すのは恐かった。何か恐ろしい間
違いのように思えた。尚隆の優しい対応に思い上がって期待をいだいたが最後、
あっさり足元から崩れていくような気がした。
 おまけに肌を合わせれば合わせるほど想いが増すような気がするのだ。これ
までも尚隆を好きだと思っていたが、本当の意味では恋していなかったのかも
しれないと思えるほど。
 あれほど好きだと思っていたのに、もっともっと好きになる余地があるなん
ておかしい。なのに閨で関係が深まるほど、牀榻の中で抱かれて睦言をささや
かれればささやかれるほど、ますます好きになっていくのだ。この想いが突き
返されてしまったら、きっともう心が壊れてしまう。歓びに天高く飛翔したあ
とで地上に叩き落されれば、身も心も粉々に砕け散るしかないのだから。
 ただ、以前は頻繁に下界を出歩いていた尚隆なのに、六太の目が覚めること
で事件が終息しながら、ほんの息抜きとしてすら宮城を離れる素振りがないの
には少しほっとしていた。官に聞けば、六太が眠っていた間も、解呪の手がか
りを得るため以外では下界に行かなかったらしい。そうして朝昼晩と食事をと
もにするだけでなく、午後の休憩でのお茶さえもふたりで楽しむ。まめに顔を
見に来ては世話を焼く尚隆に、六太は嬉しく思った。こうして宮城に留まった
まま、六太と一緒にいてくれる間は夢を見ていても大丈夫かもしれないと期待
したのだ。

885永遠の行方「絆(53)」:2017/06/10(土) 21:23:21
 一時の気の迷いかもしれないにせよ、ここまで六太に言い寄り、実際に毎晩
肌を重ねている。ならば今日明日のうちに六太が捨てられることはないだろう。
御座所を仁重殿から移すことまでやってのけたのだ、一ヶ月や二ヶ月程度で六
太に飽きて捨て置くような真似をしたら、さすがに官も呆れて強く苦言を呈す
るはずだ。逆に一年などという長期間は持たないだろうと観念してもいた。つ
まり来年の今ごろはきっと飽きられている。でも三ヶ月ぐらいはどうだろう。
半年は?
 ――半年ぐらいなら、きっと、何とか。
 つまり今年の冬までなら持つのではないだろうか。寒い夜に一緒に臥牀に
入って抱き合い、ぬくぬくと温かく過ごす幸せぐらいは味わうことができるか
もしれない……。
「今朝、鳴賢が楽俊と朱衡経由で送ってきたばかりの見舞いの品でな。海客の
団欒所の面々が作った蓬莱菓子だそうだ」
 六太が悲愴な見通しを立てているとは思ってもいないだろう尚隆は、女官に
指示して菓子を持ってこさせた。上機嫌なのは変わらず、六太が喜ぶだろうと
思っているのは明らか。六太は努めて笑みを浮かべた。
「へえ。じゃ、守真が作ったのかな? もし恂生とかも手伝ったなら、ちょっ
とびっくりかも」
「何でも、懇親がてら皆でにぎやかに作ったらしいぞ。色は薄いが、見た目は
どら焼きの生地に似ているな。せっかくだから俺も食ってみるとしよう」
 表面のごく一部にうっすらと焼き色がついている以外は雪のように白くてふ
わふわとした円盤状で、そこに飴色をした半透明の糖蜜がたっぷりとかかって
いる。先端がちょっとしたへら状になっている楊枝で切り分けた一片を六太が
口に入れると、見た目と同じく雪のようにほろほろと溶けた。尚隆も仲良く一
緒に食べ、「ずいぶん柔らかいな」「控え目な甘さで軽い食感だから、いくら
でも食べられそう」と感想を言い合った。
 菓子を食べたあとは、腹ごなしと気分転換のための散策だ。尚隆と手をつな
いで園林をぶらぶら歩く。剣も持つ尚隆の掌は大きくて固い。その温かなぬく
もりをいつまで味わっていられるのだろうと考えた六太は、ふと既に飽きられ
かけている可能性に思い当たってぞっとなった。

886永遠の行方「絆(54)」:2017/06/10(土) 22:29:06
 閨で睦むとき、実は尚隆はほとんど六太に一物を挿入しない。この半月でそ
んなことをしたのは最初の夜を入れても数回足らずであって、指を入れること
こそあるものの、一物は六太の股や尻に挟んで抽送している。何しろふたりの
体格差はかなりのものなので、これまでは六太の体を気遣っているのかと思っ
ていたが――どうも慣らしたりほぐしたりと手間がかかるようだし、そろそろ
面倒になったということはないだろうか。六太にはよくわからないが、もし男
同士にしろ、体内への一物の挿入が普通の愛の行為だとしたら、さすがに回数
が少なすぎるだろう。
 そんなことを思いついてしまった六太は、つい足を止めてぶるりと震えた。
 何の覚悟も知識もないところへの、初めての性体験という衝撃。諦めていた
想いの成就への期待と、相反する激しい不安。少しでも冷静になれれば建設的
な考え方もできたろうが、最初の夜以降、無自覚ながらも六太は相当に不安定
で臆病になっていた。
「どうした? 寒気でもするのか?」
「え、あ……。ううん、何でも、ない」
 心配そうな尚隆に口の中でもごもごと返しながら、六太はもしかしたら積極
的に愛撫を返さなければまずいのではと愕然とした。ただでさえ妙齢の女のよ
うな魅力的な容姿も、手ざわりの良い柔らかな乳房や豊かな腰も持っていない
のだ。実は満足してもらえていないなら、六太から奉仕しなければ、半年どこ
ろかひと月も持たないだろう。それに六太のほうは挿入されても、最初の一回
は内臓ごと押しあげられるようで吐き気をもよおしたし、それ以降もとにかく
愛撫に慣れるのに必死で、尚隆に喜んでもらえそうな痴態を見せた覚えもない。
(でも、そんな)
 尚隆によって強引に性の扉を開かれたばかりなのだ。六太が知っているのは、
実際に彼に閨で教えられたことだけ。それもあくまで受け身で、どうすれば相
手の男に満足してもらえるかなどという知識も技巧もない。
(どうしよう……)
 精神的に不安定な六太に、自分の一方的な想像に過ぎないという考えは浮か
ばなかった。自覚のないまま、坂を転がり落ちるように絶望に駆られた六太は、
知らずうつむき、震えて泣きそうになった。

887書き手:2017/06/10(土) 22:31:46
地の文ばかりでダイジェストっぽくなってしまったため
いろいろこねくり回していたのですが諦めました……。

次からは尚隆視点の予定なので、
今度はちゃんとキャラ同士のやりとりで話を進めたいと思いますが、
実際に投稿するまでけっこうかかりそうです。

888名無しさん:2017/06/11(日) 00:09:28
更新されてる!
成就してるのに、ろくたんがせつない・・・・
尚隆視点も楽しみにお待ちしてます!

889名無しさん:2017/06/12(月) 10:25:23
更新されてるーお疲れ様です!
ぐるぐる煮詰まってるろくたん切ないし尚隆視点も楽しみ
何ヶ月でも何年でものんびりお待ちしてますので無理はなさらず〜

890書き手:2017/07/02(日) 12:21:18
お待たせしました、少しずつ尚隆視点を投下していきます。
ちょっとわかりにくいかもしれませんが、
時系列で言うと、六太視点で描写された時期とかぶってます。

891永遠の行方「絆(55)」:2017/07/02(日) 12:23:26

 尚隆は六太の体調について、もちろん毎日黄医から報告を受けていた。そ
して解呪に関わった冬官たちからも、どうやら六太の体に呪の悪影響は残っ
ていないようだとの報告を受けて一区切りをつけ、まずは内議で、次いで翌
日の朝議で事件の収束を宣言した。
「やっとすべて終わりましたな」
 日頃泰然としている白沢もさすがに嬉しそうだった。六官を筆頭に朝官た
ちも晴れやかな表情を浮かべ、椅子に座っていた六太に「おめでとうござい
ます、台輔」「これで一安心ですね」と口々に祝いの言葉を述べた。
(まあ、俺の接吻がまことに解呪の条件だったのなら、今さら悪影響は何も
ないはずだからな)
 尚隆はそんなことを考えながら、続いて太宰が通常の案件に議題を移すの
を見守った。その合間にさりげなく六太に意識を向けると、表面上は明るい
ふうを装っていたが、表情はどこか硬かった。それは今に始まったことでは
なかったから、尚隆は顎をなでて考えこんだ。

 その日の六太は広徳殿に赴く予定だったため、午後のお茶は内殿の一室で
待ち合わせることを約束して、尚隆は自分の執務室に向かった。
 王の決裁を待つ間、天官のひとりが得々と披露した料理の蘊蓄にその場の
皆が顔を見合わせて苦笑いし、政務とはいえ穏やかな時間を過ごす。その後、
時間になったので待ち合わせ場所に赴くと、ちょうど通路の向こうから六太
がやってくるところだった。片手を軽く挙げて「おう」と声をかけると、尚
隆の姿を認めた六太が目を見開き、思わずといったふうに、一瞬だけ嬉しそ
うに顔を輝かせた。すぐに抑えた、どこか遠慮したような控えめな笑みに
なってしまったが。
 尚隆はそばにやってきた六太の背を押して目的の房室に入り、ともに席に
着いた。茶を飲みながら、身近な官がからむ日常の滑稽譚を披露すると、六
太もおかしそうに笑った。
「あいつ、普段がまじめなだけに、傍で見てると落差がおかしいんだよなあ」
「最近は料理が趣味だそうだ。今日は俺の承認印を待つ間、嫁のために作り
置きした総菜の蘊蓄を得々と語ってくれたぞ」

892永遠の行方「絆(56)」:2017/07/02(日) 12:57:17
 そんなふうに一見してなごやかなひとときを過ごしていても、六太の緊張
が真に解けることはなかった。
 初めて肌を合わせて以来、六太が何かを恐れているのはわかっていた。何
かを――おそらくは別れのときを。初めての朝、目覚めた六太の表情に浮か
んだ怯えを認めたとき、尚隆は自然と感じたのだ。あの怯えは、すがるよう
な、今にも泣きそうな表情は、戯れの時間が終わったことを告げられるだろ
う予感に対するものだと。
 前夜にした蓬莱での話と取り乱しようから自然な庇護欲に駆られていた尚
隆にしてみれば、むしろ愛しさが増したくらいなのに、六太のほうは、どう
してか一時的な戯れの相手に選ばれただけだと思いこんだらしい。表面上は
取り繕っているが、ふとした折りにうつむいては、いたたまれないとでも言
うように背を丸めてしまう。決して嫌われたとは思わないし、こうして一緒
にお茶や食事をする際に見せる嬉しそうな顔が偽りだとも思わない。だがこ
ちらが努めて優しく接しても、何しろすぐに表情が陰るので、どうしてそこ
まで気に病んでしまうのだろうと気になって仕方がなかった。
 まだ六太の想いを知らなかったころ、横抱きにして運ぶ最中に、たまに揺
れるまなざしを向けられた。あのときの、すがるような、どこか怯えたまな
ざしと今の様子はとても似ていて、尚隆をひどく不安にさせた。
 たとえば真に心を許し合った恋人同士なら、喧嘩をしたのでないかぎり、
沈黙が続く程度は気にならないだろう。そこまで近しい存在になれば、相手
の存在自体が癒しのようなものだからだ。
 だが六太は、ちょっとした沈黙でも怖いのか、今回も何かと懸命に話を
振ってきた。
「そういえばさっき広徳殿で令尹が教えてくれたんだけど、うちの州宰が甥
の官の前で下界の流行を知ったかぶりして教えて実は間違ってて、あとで指
摘されてへこんだらしいぞ」
「ほう、あいつがな。豪勢な飾りをつけた書棚を自作して、完成したはいい
が寸法を間違えていて帙が入らずへこんだ話は知っていたが」
 六太と話すこと自体は楽しいから、尚隆も話を合わせるのだが、もう少し
気楽に構えてくれればいいのにとも思う。むしろこういう関係になる前のほ
うが、沈黙が続こうが何をしようが、六太は気にしなかっただろう。
 茶と茶菓子を楽しんだあと、せっかくなのでふたりで庭院を散策すること
にした。室内にいるよりは六太も緊張しないだろうからだ。外に出、伸びを
してから傍らの六太を振り向き、思いついて「ほら」と手を差し出した。

893永遠の行方「絆(57)」:2017/07/02(日) 13:21:37
 六太は「え」と驚いたような顔をしてから、差し出された手をまじまじと
見つめ、ついで戸惑ったように尚隆の顔を見てからまた手に視線を戻した。
「ほら」
 再度促すと、瞬時に真っ赤になった六太はおずおずと遠慮がちに自分の手
を出し、そっと尚隆の掌に重ねた。それを尚隆が握ると、六太は身を震わせ
てうつむいた。
 六太の手を引いてぶらぶらと歩きながら、尚隆は適当に雑談をしたが、六
太はうつむいたまま黙りこんでいた。心配になって様子を窺うと、髪の間か
ら覗く耳は赤いまま。どうやら恥ずかしがっているだけらしい。単に手をつ
ないでいるだけなのに閨で睦み合うときより嬉しそうだとも感じ、尚隆は不
思議には思ったもののほっとした。
 その後、急ぎの書類があると官がやってきたため、既に今日の政務を終え
ていた六太をいったん正寝に送ってから尚隆は内殿に戻った。その際、手を
つないだままの主従に、女官たちが「あらあら」というような顔でほほえま
しそうに見たせいか、六太はいっそう顔を赤くしていた。
 夕刻になって長楽殿に戻り、いつものように六太とともに夕餉を摂った。
そのころには六太も普段の、取り繕った様子に戻っていた。しかし榻に並ん
で座り、そっと腕を回して肩を抱くと、体を硬くしてうつむいたもののやは
り耳は赤かった。うぶな反応に愛しさも募るが、こうして考える暇もないよ
うに追い込まないとすぐ表情が暗くなるのは困りものだった。
(それほど心配か)
 六太と初めての夜を過ごしたとき、尚隆は腕の中で疲れて寝入った六太の
顔を見て、深い満足を覚えた。陽子が慕われていたのではなく、尚隆が、尚
隆個人が想われていたのが無性に嬉しかった。
 実際のところ、恋愛的な意味で尚隆が六太に真に愛情を覚えたのは、前夜
の取り乱し具合を目の当たりにしてからだ。それまでは何をどう言い繕おう
と、相手が同じ時代の蓬莱を出身とするがゆえの執着に過ぎなかった。
 だが六太のほうはどうだ。なぜ呪者になじられて、それに甘んじるほど恥
じていたのかはわからないが、何があっても明かさないとまで思い詰めるほ
どの想いをいだき、さらに自分の命よりも尚隆の命を惜しんだ。それほどま
でに重く真摯な想いを寄せられていたと知った尚隆が感じたのは、紛れもな
い歓喜だった。

894永遠の行方「絆(58)」:2017/07/02(日) 13:25:55
 それまで、六太は尚隆の王としての側面以外には無関心に近いと思ってい
た。民にひどい仕打ちさえしなければ、尚隆が何をしようと気にもしない、
今まで必要以上に踏み込んでこなかったのもそのためだと。
(もっと早く、感情をぶつけあうべきだったのかもしれん)
 そうすればとっくの昔に、互いを真に半身として想い合う間柄になれたの
ではないだろうか。それともこんな経緯を辿ったからこそ、ここまで大きな
歓喜を覚え、六太に対して愛情を感じるようになったのだろうか。
 今となっては永遠にわからないことだ。だがそれで良いとも思う。大事な
のは今や尚隆が六太を欲しており、唯一の伴侶の座に据えたいと思うほどの
欲求を覚えたという事実だ。
 六太には笑っていてほしかった。蓬莱の親との確執に慟哭するさまはあま
りにも哀れで、何とかしてやりたいと自然に思った。もっと報われてほし
かったし、尚隆の腕の中で守られて、何の悩みもなく照れたように笑う顔が
見たくてたまらなかった。
 少なくとも体をつなげて既成事実は作った。単なる愛撫とは異なり、いか
にうぶな六太とはいえ、ふたりの関係が新しい段階に移行したことはさすが
にわかっただろう。あとは体の関係から心の関係に広げて、互いに理解を深
めていけば良い……。
 そんなふうに気楽に考えていたのに、最初の朝に六太が見せた泣きそうな
顔に胸が痛んだ。とっさに抱きしめて甘い言葉をささやいたものの、おそら
く言葉を弄するだけではだめだろうともわかった。尚隆が何を言っても、六
太自身が心から納得しなければ不安は解消するまい。
 尚隆による接吻で、呪の眠りから覚めたということは、六太の願いが叶っ
たということだ。そして体をつなげたということは、想いを遂げたことを意
味するのではないのか。なのになぜここまで暗い顔をするのか……。
 思えば前夜、眠りについたときも六太の顔に安らかな色はなく、むしろ眉
に暗い陰が落ちていた。強引に抱いたせいでもあるかと思えば、ちくりと心
に痛みを感じる。
 あれからそれなりの日数が過ぎたが、六太の様子は改善するどころか、少
しずつとはいえ確実に悪化しているように見えた。とりあえず優しく接して
様子を見るしかないのだろうが、いったいどうするのが正解なのだろうと、
尚隆は溜息をついた。

895永遠の行方「絆(59)」:2017/07/02(日) 21:18:13

 六太の御座所を玉華殿に移したため、仁重殿の女官侍官はすべて正寝に異
動となり、留守居として仁重殿に残っていた者たちも正式に正寝に移ってき
た。尚隆は既に正寝で六太と過ごしていた先発の女官らと一緒に顔を合わせ、
改めて六太の世話を命じた。
「ただしこれまで通り、普段は六太も長楽殿で俺と一緒に過ごす。俺が怪我
をしたなど、特に理由がないかぎり、玉華殿はあくまで名目上の御座所とな
る」
「かしこまりまして」
 だが彼女らの張り切り具合とは裏腹に、話をする間、榻に並んで座って尚
隆が肩を抱いていた六太のほうは戸惑った様子だった。どういう反応をすれ
ば良いのかわからないようで、またもや不安そうに尚隆を見上げている。ど
うも御座所を変えたことは彼の本意ではないらしい。恋人同士になったばか
りでもあり、尚隆としてはできるだけ一緒に過ごすのが当然だろうと思うの
だが。
 何か明るい話題を、と思った尚隆は、まだ六太に褒美をやっていなかった
ことを思い出した。
「ところでおまえはまだ望みを言っていなかったな」
「望み?」
「王を救った功績に報いて褒美をやると言ったろう」
「……ああ」
「何かないのか。この際だ、何でもかなえてやるぞ」
 国政に関することであれば、さすがに無条件にかなえるわけにはいかない
が、それでも妥協点をさぐることはできる。尚隆との関係についてであれば、
それこそ遠慮は無用だ。永遠の愛でも、公式の伴侶である大公の座でも堂々
と要求すればいい。そう思って促したのだが、六太の反応は予想外に薄かっ
た。
「うん……。別にいいや。欲しいものもないし」
 淡々と答えて、あっさり話を終わらせてしまった。最初からすべてを諦め
ているかのようで、尚隆にはもどかしかった。

896永遠の行方「絆(60)」:2017/07/02(日) 23:39:34
 自分の命よりも大事な想いではなかったのか。呪者に利用されても決して
明かさなかった真摯な想いではなかったのか。なのにそれがかなった今、ど
うして怯えるばかりで、自分から関係を深めようとしないのか。
 それとも――何か尚隆は対応を誤ったのだろうか。
 尚隆はいろいろ思い返したのだが、結局は肌を合わせたことに原因がある
としか思えなかった。
 むろん後悔などしていないし、今や毎晩六太を愛撫し、抱きしめたまま眠
りについているが、それをやめたいとも思わない。何の懸念もなく情事にの
めりこめるのは、こちらの世界に来て以来ほとんど初めてであり、何より恋
人との睦みあいという癒しの時間を手放したいとは思わなかった。
 だが六太の精神状態をこのままにしておくわけにもいかないだろう。

 数日後、光州の帷湍から六太宛に見舞いの果物が届いた。光州の名産でも
ある、茘枝のような一口大の果物で、朝採れたばかりだとのことだった。使
者が騎獣を飛ばして最速で届けてきたそれは見るからにみずみずしく、その
日の午後、さっそくお茶の際に供された。
「おまえの体調も落ち着いたようだし、帷湍もそろそろ関弓に来たいと言っ
ていてな。今、日程を調整しているところだ」
 そんなことを話しながら、尚隆みずから皮を剥いてやる。果汁のしたたり
そうな、ぷるりとした半透明の果物をつまんだ尚隆は、「ほれ、口を開けろ」
と六太を促した。六太は驚いた顔をしたが、口元にぶつけるように差し出さ
れたので、咄嗟に口を開けた。尚隆はそこに果物を差し入れ、六太は口を閉
じたはずみに尚隆の指までなめてしまって顔を赤らめた。最近では、赤面し
ていない時間のほうが短いのではと思うほどだ。もちろん実際にはそんなこ
とはないが。
「どうだ、うまいか?」
「う、うん。けっこう、甘い」
 六太は赤い顔で、ぎこちないながらもうなずいた。決して満面の笑顔とい
うわけではないが、尚隆の指をなめてしまったせいか照れたような笑みをほ
のかに浮かべていて、尚隆は思わず見とれた。

897名無しさん:2017/07/03(月) 00:12:07
うわあああ、一気に増えてる!!お待ちしてました!
尚隆が六太に結構べた惚れで見ててニヤニヤしてくる・・・

898永遠の行方「絆(61)」:2017/07/03(月) 20:28:39
(そういえば……手をつないで歩いたときも、恥ずかしがってはいたが嬉し
そうだったな)
 想い合っていたことがわかった以上、尚隆としては体を重ねることが区切
りであり、ひとつの到達点だと思っていた。あとは恋人同士らしく閨をとも
にすることで日常的に関係を持ち、心身ともに理解を深めていけばいいだけ
だと。
 だがいつまでも不安そうで、どこか不安定なままの六太を見れば、どうも
そういうことでもないようだった。むしろこういった、尚隆からすれば他愛
のないやりとりを重ねていくほうが良いのだろうかとようやく考えたものの、
ある意味ですれてしまった尚隆では判断がつかなかった。
(俺の愛撫で快感は感じているようだから、情事が嫌というわけでもないだ
ろうに。最近では閨で多少は甘えるようになってきているし)
 そんなことを考えながら、何となく閨での六太の痴態を思い出して、つい
つい口元をほころばせる。遠慮がちにとはいえ、最近では暗い閨でなら少し
は甘えてくれるようになったし、ますます愛しさが増した気がした。
 おかしなことに――いや、おかしくも何ともないかもしれないが、肉体関
係を重ねれば重ねるほど、尚隆が六太を愛しく思う気持ちは深まった。心を
得られないなら体だけでもとまで思い詰めてからさほどの時間が経ったわけ
でもないないのに、今のほうがずっと六太が愛しかった。
 それはそうだろう。あのときの感情は、なんと言い訳をしても実際には恋
情ではなく執着に過ぎなかったのだから。
 だが今は、こうして六太が尚隆の手で果物を食べさせられている様子を眺
めているだけで、穏やかな幸せを感じた。尚隆はこれまで、蓬莱の時代と併
せても本当の意味での恋人を持ったことはなかった。そのせいか初めての経
験に、どうやら自分でも意外ながら割と舞い上がっているらしいのだ。
 思えば息抜きに下界に降りて女を抱いても、愉しみはしても溺れることは
決してなかった。市井に使令を連れて行くことのなかった彼は、危険があれ
ばすぐ対処できるよう、どんなときも警戒は怠らなかった。常在戦場として
常に周囲に気を配っていたのだから、場末の娼館であれ我を忘れて情事にの
めり込めるはずもない。金銭で買った相手である以上信用もできないし、下
手に想われても面倒とあって必要以上に優しい言葉をかけることもなかった。
それはお互いさまで、相手の妓女とてこちらを客としか思っていないのだか
ら、仮に情を示されても困ったはずだ。

899永遠の行方「絆(62)」:2017/07/03(月) 21:06:19
 だが自分の私室である長楽殿で、恋人――いや、伴侶となった六太が相手
なら、そんな警戒も配慮も必要ない。そもそも姿を見せないだけで、いつも
使令が彼と六太を守っている。
 そのため尚隆は、過去にないほど無防備に情事を堪能していた。おずおず
とした様子とはいえ六太も少しは慣れ、暗い閨限定ではあるものの、時には
可愛い声で甘えたり、遠慮がちながらもぎゅっとしがみついてくるように
なったとあればなおさらだ。そんな六太を味わえるのが自分だけであるとい
う事実も快く、六太の柔らかな尻や股の間に己を挟み、つい夢中で抽送して
しまうこともしばしば。果てた瞬間、満足のあまり脱力して六太の上に覆い
かぶさってしまい、ふと我に返って「重かったか」とあわてて体を起こした
りもする。
 特に素股は、どうしても六太自身の性器ともこすり合わされるから、六太
が快感に耐えるように敷布や尚隆の腕をつかみ、「くっ……」とあえぎをこ
らえながら、思わず、といったふうに首を振って髪を乱すさまは非常に淫靡
だった。無理をさせずに淫猥な六太を鑑賞でき、尚隆は非常に満足していた。
よく見るために牀榻の中を照らす手燭の火を消さず、閨が完全には闇に沈ま
ないようにしているくらいだ。
 とはいえ恥ずかしいのか、六太は快感の声を上げるのをどうしてもこらえ
たいらしく、時には握った拳を口元に当て、ついには歯を立ててまで我慢し
ようとするので、怪我をさせないよう強引に拳を引き離すことも多い。する
と今度は衾やら掛布やらの端を噛んでまでこらえようとする。強情なやつめ
と内心で苦笑しながらも、それだけ尚隆の手管に溺れかけているということ
でもあり、妓女と違って作為のない反応は尚隆の雄としての自尊心を深く満
足させた。
 あとは少しずつ後ろの穴を拡張して慣らし、無理なく尚隆を受け入れられ
るようにしていけばいいが、むろん急ぐつもりはない。

900永遠の行方「絆(63)」:2017/07/03(月) 21:24:35
 それでも最初の夜に比べればはるかに指を受け入れやすくなっていたし、
六太自身の反応も芳しかった。どこをどうすれば良い反応を得られるかもわ
かってきたし、この奥にまた己を埋めることを思えば心は猛った。様子を見
るだけだと内心で言い訳をしつつ、たまに慎重に挿れてみれば、まだまだき
つくて時には痛いほどなのだが、これが六太の中かと思えば感激するほど心
地よい。毎晩、指で丹念に慣らしたおかげで、六太のほうも自然と内部が開
発されていたようで、挿入したときの反応もかなりよくなっていた。
 何しろ単に六太の一物をしごいてやるのと、後孔に指を深く突っ込んだま
ましごいてやるのとでは、もはやまったく反応が違う。片手の指を後孔に入
れ、ただし親指は蟻の門渡りと呼ばれる部分を撫でるように刺激しつつ、も
う片手で六太のものをしごく。すると最初は何とか耐えていた六太も、つい
には拳や掛布の端を口から離して背や顎をのけぞらせ、喉の奥から悲鳴じみ
た快楽の声を上げながら腰を振るのだ。きゅっと締まった後孔に、痙攣のよ
うに断続的に指を締めつけられれば、いずれここに遠慮なく己を挿れるのだ
と尚隆のほうもいよいよ劣情が高まって、快楽への期待に呼吸も荒くなる。
こうなるともはや六太は無意識に腰を上下に動かしていて、尚隆が動かさず
とも指が内部を行ったり来たりして肉壁をこするから、このまま滅茶苦茶に
犯して中に出せればどれほど素晴らしいだろうと妄想を重ねるほどだ。
 だが慎重に挿入するだけならまだしも、力任せに抽送するにはまだ早いだ
ろう。そう判断して何とか踏みとどまり、欲情に猛ったままの己を六太の性
器に激しくこすりつけて発散したりしている。だがもし六太のほうから、切
羽詰まったように「挿れて」とか「もっと奥」などとせがんできたら、いか
に尚隆と言えども理性を飛ばしたかもしれない。
 そんなふうに尚隆としては順調に関係を深めているつもりだったが、六太
が相変わらず頻繁に見せる暗い表情が、決してそう簡単ではないことを尚隆
に告げていた。長年の想いが叶ったのなら、普通は浮かれてもいいはずなの
に、六太は決してそうはならないどころか、何日経っても精神的に不安定な
ままだった。

901永遠の行方「絆(64)」:2017/07/04(火) 22:04:34

 ある日の午後、尚隆は朱衡を長楽殿の一室に呼んだ。茶を供してから女官
も侍官も退出させてふたりきりになったため、朱衡は首を傾げた。
「何か、内密の案件でしょうか?」
「うむ」
 尚隆はうなずいたものの、どうやって話を切り出そうかとしばし悩んだ。
 六太との関係は、長楽殿で身辺に侍る女官たちに限って言えば、当然わ
かっているだろう。それ以外の官で気づいている者はほとんどいないようだ
が、尚隆自身は、実は六太との関係を特に隠そうとはしていない。だから多
少注意深い官であれば、むしろ気づいて当然と言えた。
 中でも朱衡はずっと親しく過ごしてきた臣だけに、どうやら薄々勘づいて
いるようで、だからこそ今回の相談相手に選んだ。
「六太の目が覚めた直後、おまえに問われたな。どうして呪が解けたのだろ
うと」
「ああ、はい……」朱衡はそう答えてから、すぐ表情を引き締めた。「原因
がおわかりになったのですか?」
「六太に接吻した。それが鍵だったようだ」
 あっさり告げると、朱衡は驚愕の表情で絶句した。だがその目にすぐ理解
の色が浮かぶ。論理的な思考から、六太がずっと尚隆を想っていたことに思
い至ったのだろう。幾度か激しくまばたいたあとで、視線を落として「なる
ほど、それで……」と、どこか呆然としたようにつぶやいた。
「幾度も口移しで水や果汁を与えてきたのでな、てっきりそれと変わらぬ行
為だと思っていたのだが違ったらしい。あれで六太の願いが叶ったことに
なったのだろう」
 尚隆はそこで言葉を切り、朱衡の反応を見守った。朱衡は顔を上げると、
今度ははっきりとうなずいてみせた。
「了解いたしました。先の朝議でおっしゃったように既に解決を見たことで
すし、冬官たちの結論でも、呪の悪影響は窺えないとのこと。となれば、今
になって特に他の官に伝える必要はないでしょう」
 わざわざこんな席を設けて明かした理由を察したのだろう、きっぱりとし
た口調だった。

902永遠の行方「絆(65)」:2017/07/04(火) 22:37:57
「うむ。あまり大げさにして六太の心を乱したくない」
「かしこまりまして。それでは、おめでとうございますと申し上げてよろし
いのですね?」
 探るように言われる。尚隆が接吻した経緯は今さら問わないが、どちらか
の一方的な想いではなく相思相愛と考えて良いのか、ということだ。
「むろんだ。だが、そのことなのだがな」
「はい」
「その、な」
「はい……?」
 めずらしく言葉を濁す尚隆に、朱衡は首を傾げた。
「その、おまえから見て、六太はどんなふうだ?」
「かなり回復なさったせいか、たいそうお元気かと思いますが」
「そうか」
「しかしながら――そうですね、無理に明るく振舞っておられるようにも感
じます。実は正直なところ、少々痛々しいように感じられて、思い過ごしで
あればと懸念しておりました」
 尚隆は腕を組んで椅子の背にもたれてから、ひとつ溜息をついた。
「おまえも薄々気づいているようだが。六太を抱いた」
 朱衡は息を飲んだ。最近の六太の様子を思い浮かべながら、尚隆は続けた。
「俺はすれているからな、想い合っている者同士、肌を合わせるのは当然、
むしろ多少の行き違いはそれで何とでもなると思っていた。だが六太は違っ
たようだ。関係を持って以来、どうしてか精神的にずっと不安定でな」
 もちろん彼自身は六太を抱いたことを後悔してなどいない。そもそもあの
ときの追いつめられた気持ちを思い起こせば、六太の想いを知ったためとい
うのは言い訳であって、尚隆にとっては必要なことだったのだから。
「ちと生臭い話をする」
「かまいません」真剣な顔でふたたびうなずく朱衡。
「六太は接吻すら経験がなかったようだ。おまけに自慰もしたことがなかっ
たらしい。どうもあれは、その手の欲求に乏しいようだ。麒麟とはそういう
性質なのかもしれん」
 尚隆の接吻によって、六太は呪の眠りから覚めた。それはそれで良い。

903名無しさん:2017/07/05(水) 11:09:29
姐さん、いいよいいよー
尚隆すれてるよな、やっぱ。蓬莱のお嫁さんからしてあれだし
その分ろくたんに想いっきり執着して欲しい

904永遠の行方「絆(66)」:2017/07/05(水) 19:45:32
 だがそもそも、尚隆を恋していると思ったのは六太の思い違いという可能
性はないだろうか。現実に抱かれてみて、やっと気持ちの齟齬に気づいた可
能性は。
 そんな懸念を口にすると、朱衡は考え考え、こんなふうに答えた。
「そうですね……。確かに恋に恋する年頃というものはあるでしょう。台輔
の実年齢はともかく、これまで長いこと純潔でいらしたのなら、他人から聞
くのとご自分で経験なさるのとは大違いというのはあると思います。しかし
ながらそのお気持ちが勘違いということまではさすがにないでしょう。今に
して思えば、台輔が主上をお慕いしていたのは明らかでした。単にそれが恋
愛的な意味だとは誰も想像していなかっただけで。
 おそらくは初めてのご経験で、単に衝撃を受けておられるだけではないで
しょうか」
「実は俺もそう思う」尚隆も同意した。「俺が触れるといまだに震えるし、
涙目にもなるが、顔は耳まで真っ赤だしな。怖がっているのではなく、どう
もとてつもなく恥ずかしがっているようなのだ。だが正直、ここまで動揺が
長引くとは思わなかった。六太が自分を取り繕わないよう、あえて追い詰め
てみたようなものだが、失敗だったかもしれん」
「動揺、ですか」朱衡は尚隆の言葉を繰り返し、ひとしきり考えてからこう
答えた。「そう――仁重殿に住んでいらした以前と異なり、今は主上と寝食
をともにしておられるわけです。そうしますと、おひとりでじっくり考えて
気持ちを落ち着かせる余裕がないのかもしれません」
「なるほど。しかし落ち着かせるために仁重殿に――今は玉華殿か、とにか
く御座所に帰しでもしたら、それこそ六太は早くも見捨てられたと勘違いす
るだろう。どうも俺が一時的に相手をしているに過ぎないと思い込んでいる
ようなのだ。毎晩閨をともにしているし、愛撫も丹念にしているつもりなの
だが。そういえば先日、庭を散策する際に初めて手をつないでみたのだが、
閨よりむしろそちらのほうが嬉しそうな様子でな」
 朱衡は驚いたように目を見開き、物言いたげな顔になった。
「なんだ」
「その、主上」
「うん?」

905永遠の行方「絆(67)」:2017/07/05(水) 19:59:51
「台輔は、その、純潔でいらしたのですよね? そして台輔にとって、そも
そも主上が初めての恋のお相手でもある?」
 尚隆は組んでいた手をほどいて体を起こし、まじまじと朱衡を見た。
 六太には明らかに情交の経験はなかった。それのみならず、おそらくは恋
自体も初めて――尚隆が初恋なのだ。それに思い至ると、尚隆はあらためて
強い喜びに満たされたが、一途にひとりだけを想い続けていた六太と、無数
の女と関係を持ってきた自分とでは感性がまったく違うだろう。今回の事態
はそれに起因するのだろうか、とようやく考えた。
「うむ、おそらく」
「いわば台輔は恋愛の初心者であられる、と。手をつないで散策なさったら
喜ばれたとのことですが、たとえば文(ふみ)をお送りになったことは?」
「いや」尚隆は問いの理由がわからず眉根を寄せた。「毎日三食をともにし
ているのだぞ? 閨も一緒だし、何かあれば直接言ったほうが早かろう。離
れた場所にいて伝言があるなら女官にでも伝えさせるし、特に文を書く理由
はないな」
「では閨ではたっぷり可愛がっておられるけれども、日常的な触れ合いはな
さっておられない?」
「一緒に食事も散策もしているし、六太が歩けなかったときは、抱き上げて
あちこち連れていったろうが」
「主上」朱衡は、こほんと軽く咳ばらいをしてから言った。「お聞きするか
ぎり、台輔は過去に恋の経験もなく、主上が寵愛なさるまでは閨の知識もな
かった。つまりその方面では非常に幼いと思われます」
「む? まあ……そうだな」
「世の恋人たちというものは、普通はまず文を送りあったり、茶屋などで逢
瀬を繰り返して親交を深め、徐々に気分が盛り上がってくるものかと思われ
ます」
「……うむ」
「主上は台輔に対して、そういった段階を踏んで求愛なさったので?」
「いや……。その、いろいろあってな。ふとしたはずみにあれの気持ちを
知ったので、そのまま……なしくずしにというか、強引に抱いた、な」
 朱衡は溜息をもらした。何か叱られているような気分になり、尚隆はわず
かに視線をそらした。

906永遠の行方「絆(68)」:2017/07/05(水) 20:46:32
「長年、一緒にいらした台輔がお相手なので、さすがの主上も勘が鈍ってし
まわれたのでしょうか? たとえば年端もいかぬ生娘に求愛することを考え
てみてください。いきなり閨に引っ張り込んだら、体だけが目当てなのかと
誤解され、気持ちの上でのすれ違いが起きやすくなってしまいます。これが
男慣れした浮気女なら別ですが、閨のことよりも、まずは普段の触れ合いに
重きを置かれたほうがよろしいかと。そうやって肉体ではなく精神面でのつ
ながりを深めれば、台輔のお気持ちも和らぐのでは」
「しかし、今さら六太と臥室を別にする気はないぞ」
「もちろんです。先ほど主上がおっしゃったように、そんなことをなさって
は台輔が逆に動揺を深めてしまいます。閨のことはそれとして、昼間の触れ
合いを少し変えてはいかがかと申し上げたのです。台輔は手をつないで散策
なさったことを喜んでおられたそうですから、そういったささいな触れ合い
を重視なさることです。要は恋の夢を壊さないようにということです」
「恋の、夢」
 何だか体がかゆくなりそうな言葉だと思いながらも、尚隆は何となく納得
できるような気がした。五百年もの間、一緒に過ごした六太が相手なので、
朱衡が言うように勘が鈍っていたのだろう。一途に尚隆を想っていた六太の
恋は、尚隆が考えているよりずっと情緒的で甘美な空想の中にあったに違い
ない。翻って肉体的な交わりというものは、両想いだとしてもなかなかに
生々しいものだ。綺麗な面ばかりではないし、特に男同士となるといろいろ
と煩雑な部分もある。
 だが手を握られたり、恋人に物を食べさせてもらうようなままごとめいた
行為なら、恋の夢を壊さないどころか、むしろ甘やかな空想そのままだろう。
肉体的な刺激こそ少ないが、それだけに却って気持ちが落ち着いたり、精神
的な充足は得られるのかもしれない。そういった積み重ねがあってこそ、体
を重ねても不安を感じずに済むのかもしれない。
「――そう、か」
「はい」
 尚隆が納得した様子を見たからだろう、朱衡はほほえんだ。尚隆はあらた
めて朱衡を見た。
「いや、なんというか……。おまえからこんな助言を得るとは思わなかった
が、なかなかに経験を積んでいるようだな」

907永遠の行方「絆(69)」:2017/07/05(水) 20:48:56
「そうでもございませんよ。せいぜい人並みには、といった程度です。だか
らこそ百戦錬磨の主上よりは台輔の感性に近いだろうとは思いますが」
「しかし助かった。少し六太への対応を考えてみよう」
 うなずきながら、ふたたび腕を組んで背をもたれると、朱衡は微笑したま
まだった。
「なんだ」
「いえ、主上がこのようなことを相談してくださったのを嬉しく思いまして」
「なんだと?」尚隆は驚いて瞬いた。
「臣としましては、たまにお心の一端を見せていただけるだけで安堵するも
のでございます」
 尚隆は「そうか」と苦笑した。確かにこの臣下には、いろいろ心配をかけ
てきたと思い返したのだ。
「まあ、俺自身のことならまだしも、今回は六太に関わることだからな」
「王と麒麟は一対。仲むつまじいのはけっこうなことでございます」
「しかし文か。要は恋文……だな? 実は書いたことがないのだが」
「精進なさいませ」
「それと散策の際は必ず手をつなぐことにする。しばらくはもっと六太を甘
やかすか。いや、今でもかなり甘やかしているつもりなのだがな、どうもき
ちんと伝わっておらぬ気がする」
「そういえば先ごろ冢宰に、台輔のために温室や水遊びできる池などの造設
を命じられたそうですね。でしたら完成まで待つのではなく、台輔を連れて
現場をご覧になったらいかがですか。どこそこに何を作る予定だと説明なさ
りながら」
「ほう……なるほど」
「主上が台輔のために計らったことですから、少なくともがっかりされるこ
とはないでしょう。あるいは台輔のほうからご希望なりと出るかもしれませ
ん」
「うむ、良い案だ。六太もずいぶんと疲れにくくなったようだし、さっそく
連れて行ってみよう」
 尚隆は晴れやかに言った。

908書き手:2017/07/05(水) 20:52:48
尚隆、すでに六太にベタぼれだし甘々なんですけどねー。
数百年に及ぶ片思いの重みでどうしても六太はぐるぐるしてしまう上、
いろいろ慣れてスレて「両想いなのだから、とりあえずヤッてしまえば
間違いないだろう」な尚隆と、うぶなだけに繊細な六太とでは、
そもそもの感覚がまったく違うので、何かと行き違いが。
章の終わりも見えてきてるけど、あと一山あります。

というわけで次の投下まで、また少しお待ちください。

909名無しさん:2017/07/05(水) 22:12:49
感想スレにも感想書きましたが、ほんとに姐さん乙です

今日の投下は、読んでいてこちらが照れてしまった
尚隆��!こっちが照れ照れしてしまうよ!
こんなノロケ方があったかと、萌え萌えしました

アベマTVの放送で萌補給しつつ、楽しく待たせてもらいます
姐さんのお陰で2017年めちゃくちゃお祭り状態です

910名無しさん:2017/07/06(木) 02:04:20
久々に来てみたら更新が…姐さん乙です。
アドバイスに沿ってレッスン1からって初々しい主従が見れそうで楽しみです。

911名無しさん:2017/07/06(木) 09:44:09
レッスン1から・・・
何という萌え萌えむんむんな言葉・・・!

912永遠の行方「絆(70)」:2017/08/01(火) 21:06:06

 今日もお茶のあとで長楽殿の周辺をぶらりと散策する。尚隆は六太の手を
引きながら、今日起きたことを適当に喋ってくれるので、六太はたまに相槌
を打つだけで黙ってついていけば良かった。室内で面と向かっているときの
沈黙は気まずいが、こうして開放的な環境でぶらぶらと歩いているなら、さ
ほど気にはならない。
 初めて庭院で手をつながれて以来、尚隆はひんぱんに六太に手を差し出し
てくるようになった。閨で抱きしめられるのと違って触れあうのは手だけな
のに、六太は嬉しいわ恥ずかしいわでどきどきした。
 大きな手の温もりに包まれるのは嬉しい。閨での愛撫はすぐに訳がわから
なくなって翻弄されてしまうが、手をつなぐだけならそんなことにはならな
い。緊張することはするのだが体は適度に離れているし、尚隆は正面を見な
がら歩いて喋ってたまに振り向くぐらいなので、純粋に嬉しさのほうが勝っ
ていた。
(なんかいいな、こういうの)
 六太はようやく少し気持ちが落ち着いて、昼間はほのぼのとした時間を過
ごしていた。
 もちろん閨で睦むのも嫌ではない。何と言っても長年の片恋の相手だ。
 それでも尚隆に抱かれ、一方的に翻弄されて幾度も達すると、なぜか哀し
くもなってしまうのだ。これまでの生活と一変したためもあり、非日常の、
つかの間の夢を見ている気がしてならなかった。
 昨夜はいっそう激しくて、久しぶりに体をつなげて膝の上に乗せられ揺さ
ぶられている間、六太はつい切なくてぽろりと涙を落としてしまい、尚隆を
あわてさせた。
「どうした、痛いのか」
 そんなふうに聞かれ、六太はただ首を振った。夢の終わりはまだだと自分
に言い聞かせて。
(まだ尚隆は宮城に留まっている。きっともうしばらくは大丈夫)
 六太はそんなことを考えながら、時折尚隆が振り返っては雑談の同意を求
める言葉に、笑って「うん」とうなずいて見せた。

913書き手:2017/08/01(火) 21:08:30
ちょろっと一レスだけ。
ここから数レスほど六太視点で、つかの間の平穏な日々です。

914名無しさん:2017/08/01(火) 22:26:14
切な萌
うっかりほろり涙する膝の上の六太……清らかエロい

915名無しさん:2017/08/02(水) 10:19:10
六太切ない・・・、それにしても純粋だなあ
尚隆視点と違ってまるで少女マンガを見ているようだ
そして朱衡の言葉に素直に従う尚隆さんにも少し萌えたw

916永遠の行方「絆(71)」:2017/08/02(水) 23:47:21
 ただ最近、尚隆が物言いたげに見ることがあって、六太は少し気にしてい
た。嫌な予感がして、一度「なに?」と問うたとき、「いや」と首を振られ
たが、その後、「文言がなあ……」と唸るようにつぶやいていた。もしや別
れの言葉を選んでいるのだろうかと凍りついた六太は、それ以来、さりげな
く視線をそらすようにした。何も気づいていないふりをして、今のように
笑ってみせたりもする。
 いろいろあったが、六太は尚隆の重荷にはなりたくなかったし、ましてや
心を他に移されたり飽きられたとき、すがりついて鬱陶しい奴だと思われた
くはなかった。今の関係が、呪に囚われたがための過保護を発端とすると考
えられる以上、だんだん元の生活に戻っていく過程で、自然と関係も解消さ
れるのは仕方がない。話を切り出されたら深刻な様子を見せずに離れなけれ
ば。そうやって心構えをしておけば、いざそのときを迎えても醜態をさらさ
ずに済み、尚隆の心証も悪くならないだろう。
(短い間とはいえ幸せな時間を過ごせたんだ。それだけで儲けものじゃない
か)
 初めて抱かれてからある程度の時間が経ち、六太はようやくそんなふうに
考えられるようになっていた。それにいずれ飽きて捨てられ、仁重殿に戻る
ことになっても、あっけらかんと笑って鬱陶しい様子を見せずにいれば、こ
うやって手をつなぐことぐらいはたまにしてもらえるかもしれない。
 六太自身はそれを前向きな考えだと思っていた。

917名無しさん:2017/08/03(木) 07:01:03
六たん切ない…。更新ありがとうございます!やはり曲者尚隆とのお付き合い?は一筋縄ではいかないよなあ…

918永遠の行方「絆(72)」:2017/08/03(木) 20:23:46

 そんなある日、六太が広徳殿の執務室で官と話をしていると、尚隆づきの
侍官が文箱を持って訪れた。
「台輔。主上からお文(ふみ)でございます」
「……へ?」
 全面に螺鈿細工が施された、星がまたたく夜空のごとく美麗な小ぶりの漆
器を目の前の卓に置かれ、六太は戸惑って侍官と文箱を交互に見た。どちら
かが地方や国外に出ていて、使令経由で打ち合わせするような局面を除き、
六太は尚隆から文など受け取ったことはない。侍官がうやうやしい様子で
待っているので、錠はかかっていないのを見て取り、文箱の留め金をはずし
て蓋を開けた。
 文箱だから当然、入っているのは文だ。折り畳まれていた料紙を取り出し
て開くと、「愛する六太へ」という語で始まっていた。驚愕した六太は力を
入れたあまり危うく料紙を破ってしまうところで、まじまじと文面を凝視し
た。
 内容はと言えば、単に本日のお茶の場所の変更についてで、普段の尚隆な
ら女官に言づけて済ませるか、必要事項だけの簡潔な文面にするたぐいだっ
た。なのに、詩のように韻を踏んだ高尚な言い回しでこそないが、今日の天
気だったり六太の体調のことだったり、さほどの内容ではないが気遣うよう
な話題をいくつか連ねてあって、最後は「おまえの永遠の伴侶より」という
語で結ばれていた。
 しばらくそれを凝視していた六太は、戸惑いながら、使者となった侍官を
見た。
「あの……。これ、返事を書かないとだめかな? 口頭で返すのじゃだめ?」
「特には言づかっておりません」

919永遠の行方「絆(73)」:2017/08/03(木) 20:30:17
「そうか。でも……。うーん」
 さすがに空の文箱を返すのはまずいのではないだろうか。そうは思ったも
のの、何だか六太は不意に面倒になってしまった。
「じゃ、わかったって言っといてくれ」
「かしこまりまして」
 文をもらったこと自体は嬉しかったが、何を意図してのことかさっぱりわ
からず、侍官を返したあとも六太はしばらく「うーん」と唸っていた。
「台輔、主上が何か?」
「いや、大した内容じゃない。単にお茶する場所の変更」
「はあ」
 そばにいた官も、その程度の用件で文が送られた理由がわからず首をひ
ねっている。
 その後、時間になって指定された房室に赴いたが、いつも通りにお茶をし
ただけだった。茶菓子を食べながら六太がわけを尋ねると、尚隆は苦笑いし
た。
「実は朱衡に叱られてな」
「……朱衡?」
「世の恋人たちというものは、文を交わしたり茶屋で逢い引きを重ねたりし
て気分を盛り上げていくものだそうだ。いきなり閨に連れ込むものではない、
と」
 ふたりの関係を朱衡に知られたとわかって、六太はあっという間に赤面し
た。ゆでられたように赤い顔を伏せながら「そ、そうなんだ」と返し、そこ
でようやく言われた内容を理解した。
(……恋人たち?)
 六太は顔を上げて尚隆を見た。

920永遠の行方「絆(74)」:2017/08/03(木) 20:34:28
「かと言って、おまえとは政務以外一緒におるし、そもそも日頃からいろい
ろ話しておるしな。いちいち文にしたためるような事柄もないので、あれで
も頑張って文言をひねり出したのだが、おまえの返事は文ではなく口頭だし」
 苦笑いの中にも、どこかうらめしそうな表情を向けてくる。
「えーと……。その、ごめん?」
 くすりと笑いながら、六太は謝った。そして最近、物言いたげな顔を向け
られていたのはこのためかと思い当たって、苦しかった気持ちがみるみるう
ちにほどけていくのを感じた。
「……でも」
「うん?」
「――嬉しかった」
 慣れないことをされて戸惑いはしたが、嬉しいのは嬉しかったので、六太
ははにかんだ顔で素直に告げた。尚隆も笑って、「そうか」と答えた。
「でも大仰な表現はいらないかも」
「そうか? 頑張ってそれらしい表現を考えたのだがな」
「嬉しかったけど……恥ずかしかった」
「そうか」
「普通の文章でいいよ」
 六太はそう言いながらつい照れて顔をそらし、その後ちらりと上目遣いで
尚隆を見た。尚隆はと言えば、こちらも優しい目で笑っていた。
 また恥ずかしくなった六太は、手元の皿の茶菓子に視線を落として無心に
食べた。そんな六太に、ふと尚隆が自分の皿から小さな焼き菓子をつまんで
差し出してきた。砕いた木の実がふんだんに入っている、香ばしい菓子だ。
「おまえ、こういうのも好きだろう」
「う、うん」
 口元に差し出されたそれを、以前果物を差し出されたときのように、ぱく
りと食べる。食べ終わるとふたたび差し出されたので、六太は赤い顔をしな
がらも再度口を開けた。
 幸せだった。

921書き手:2017/08/03(木) 20:39:14
ほのぼのラブラブな主従です。

尚隆にいろいろ閨で教えこまれても、
ろくたんはまだまだピュアなので、十八禁なあれこれではなく
手をつないだりするほのぼのレベルが一番嬉しい模様。
しかも恋人つなぎとかじゃなく、普通につなぐ感じ。

922名無しさん:2017/08/04(金) 00:53:56
更新またあった!ああ六たん可愛い…!
ようやく幸せという単語が出て読むこっちも嬉しくなる!

923永遠の行方「絆(75)」:2017/08/05(土) 09:55:01

 初めて尚隆に抱かれたとき、六太は大海で嵐に翻弄されるはかない小舟
だった。激しい高波にもまれ続け、ついには水面に叩きつけられて粉々に砕
け散った。そこにあったのはまさしく衝撃であり、何の心の準備もない上に
性に無知だった六太はひたすら動揺するしかなかった。
 唐突な求愛は現実のこととは思えず、何かの間違いだと思った。毎日のよ
うに抱かれても、却ってそのおかげで動揺から脱することができなかった。
 それからかなり時間が経ち、ほのぼのとした毎日を過ごすようになって、
六太はようやく、六太を好きだという尚隆の言葉に実感が湧いてきた。
 毎日のようにふたりで庭院を散策し、その際、尚隆は必ず手をつないでく
れた。お茶の場所はあらかじめ決めるのではなく、午後になって尚隆が文で
伝えてくれることになった。それで少なくとも文を送る理由ができるからだ。
肝心の文面は六太の要望通り簡潔になり、特に大仰な修飾が用いられるでも
なく、単なる伝達事項という感じだった。それでも六太は、わざわざ文を
送ってくれること自体が嬉しかった。
 数日もすると、どちらからともなく文面で遊びだして、尚隆は昔の蓬莱の
候文(そうろうぶん)を記したりした。ただし比較的最近になって蓬莱文の読
み書きを身につけた六太に昔の文章はわからないので、陽子に教わった現代
文に候をつけるだけという、かなりでたらめなものだ。もともとの候文も割
とでたらめだったらしいが。
 ――本日は久しぶりに書類を溜めてしまい、官に叱られ候。
 ――くどくどと説教され、六太が恋しいで候。
 料紙を開けばそんなことが書かれていて六太も笑ってしまう。
 ――自業自得で候。
 ――さっさと仕事をしろで候。
 六太もそんなふうに返事を返したりもする。

924永遠の行方「絆(76)」:2017/08/05(土) 10:02:49
 そんなある日、六太は散策で正寝の正殿近くに連れてこられた。
「ここから蛇行するように小川を作ってな――」
 玉華殿のそば、何やら延々と掘り返されて工人が作業をしている現場に伴
われ、尚隆にそう説明された。最近工人があちこちで何かやっているなと
思ったら、六太のために整備しているのだという。広い箇所でも幅はせいぜ
い二、三歩、深さは六太の膝ほどの、いわば小さな水路のような小川を作り、
あちこちにままごとのような橋をかけ、途中に池を作り、色とりどりの魚を
放す。凌雲山の頂点にありながら高台からはささやかな滝のような水の湧出
もあるのが宮城の不思議だが、そういった湧水を水源とし、最後は地下に管
を通して雲海に流すという、そんな計画。今のように夏場なら、水遊びもで
きる。どっしりとした趣の玄英宮は、白で彩られた奏の清漢宮のような、殿
閣や園林それぞれが雲海に小島のように浮かんで回廊やらで立体的かつ優美
につながれた水の街ではない。むろんもともと雲海から引かれた水路もある
が、正寝に新たに作られるこれは真水の川になる。さらには戴にあるような
温室を作って、季節に関わらず花を楽しめるようにするらしい。
 そんなこととは知らなかった六太はびっくりしたけれども、自分を楽しま
せるために尚隆があれこれ考えてくれているのを知って心が躍るほど嬉し
かった。既に掘られている場所にぴょんと飛び降りて、底面をちょっと歩い
てみたりもした。
 その後、工事全体の状況を窺えるよう、尚隆は見晴らしの良い高台のひと
つに行って芝に腰を下ろした。そんな彼の膝の間、尚隆を椅子代わりにする
ような体勢で六太は座らされ、後ろから腕を回されて抱きしめられた。工人
以外に遠目に文官らしい姿も見え、六太は恥ずかしい思いをしたが、尚隆の
ほうはまったくの無頓着。むしろ余人の目があると、六太をからかいやすい
のか逆にきわどい戯れをしてくる。そのたびに六太はあわてるのだが、真っ
赤な顔で睨んでも、尚隆は笑っているだけだった。
「あのなー」
「別に良いではないか。俺とおまえの仲だ」
「ここ、外」
「なるほど、屋内なら良いと」

925永遠の行方「絆(77)」:2017/08/05(土) 10:09:28
 尚隆はそんなことを言いながら、六太を抱きしめたまま首の後ろに顔を埋
めてきた。それだけでなく、片手が不埒な場所を探ろうとしてきたので、六
太はその手の甲をつねってやった。
「いたた」
「だからここは外だって!」
 そんなふうにじゃれあいながら、少し前に比べれば、六太は信じられない
ほど穏やかな気持ちで過ごせるようになった。毎日、当たり前のように愛情
深く六太に触れてくる尚隆のおかげで、六太の気持ちはだんだん落ち着いて
いった。
 ――尚隆が俺を好きだって。
 ――俺は尚隆の伴侶だって。
 尚隆の言葉を思い出しては実感するようにかみしめて、心が温かくなる。
この様子なら、尚隆は宮城を出奔する際も六太を連れて行ってくれるのでは
ないかとも思った。その昔、勅命で国内の不穏な地域や国外を探るように
なった頃、尚隆は時折、労をねぎらうように遊びに連れ出してくれた。あの
ときのように仲良く一緒に騎獣にのり、軽口を叩きあいながら諸国を巡って
……。
(夢じゃないんだ。もしかしたらずっと一緒にいられるかもしれない?)
 そう考えると六太は嬉しくなり、鼓動は期待で高鳴った。むろん別れの予
感に対する恐れは残っていたが、だんだんと気持ちがほぐれていったことで、
当分はそんな心配はいらないのではと楽観的になってきた。
 その日の朝も政務のために広徳殿に向かい、早くも昼餉やお茶で会うこと
を思って「今日はどんな話をしよう」と、六太はどきどきしながら考えた。
とはいえ本当は話など何でもいいのだ。官の噂話だったり下界の流行の話
だったり、はたまた六太のために作られている途中の池や小川の話だったり。
言ったそばから忘れてしまうような他愛のない内容で一向にかまわなかった。
 そうやって浮かれていたからこそ、昼餉のあと執務室に戻ってしばらくし
たとき、尚隆が宮城から行方をくらましたと聞かされ、六太は世界が崩れた
ような衝撃を受けた。

926書き手:2017/08/05(土) 10:12:45
>>922
幸せ……幸せだったんですが!
このようにもう一山あります。
なんだかんだで詰めの甘い尚隆。

927名無しさん:2017/08/05(土) 23:25:23
にまにましながら読んでます
平和な尚六幸せだ・・・
でもせっかく六太の信頼得られそうだったのに、尚隆・・・・

928名無しさん:2017/08/05(土) 23:51:41
尚隆…一山あるんですね…六太頑張れ。超頑張れ。

929永遠の行方「絆(78)」:2017/08/06(日) 09:23:48

「え……?」
 まず六太は、何を言われたかわからずにぽかんとした。六太の執務室に書
類を運んでくるついでに、ちょっとした内容で話しかけてきた官のひとりが
苦笑とともに繰り返した。
「ええ、久し振りに主上がね。おかげで内殿では六官がばたばたしているそ
うで、でもおかしなことにみんな嬉しそうだっていうんです。これでやっと、
何もかもが事件の前に戻ったなあ、って」
 この官はおそらく尚隆と六太の新しい関係のことなどまったく知らないの
だろう。のほほんとした口調で語り、ばたばたしているという六官に劣らず
嬉しそうにしている。当人が口にした通り、これでやっと以前の日常に戻っ
た実感が湧いているのだろう。
 だが六太にしてみれば尚隆の出奔は青天の霹靂だった。少なくとも先ほど
尚隆とともに昼餉を摂った際は、まったくそんな話は出なかったのだから。
 予想外の事態に言葉を失ったあと、ゆるゆると現状を認識する。置いてい
かれたのだ、と。
 途端に足元が崩れて落ちていくような気がした。暗い暗い奈落の底へ。
 だが、今か今かと恐れながら待ちかまえてそのときを迎えたのと異なり、
衝撃のあまり凍りつくのではなく状況を把握できずにぽかんとしたのも、椅
子に座っていたためくずおれなかったのも幸運だった。六太が受けた激しい
衝撃に、その場の誰も気づかないようだったから。令尹あたりは主従の関係
を薄々察していたかもしれないが、今は他の部署に行っていた。
 混乱と動揺のただ中に投げ出された六太だったが、何気なさを装って手元
の書類を見やった。というか官がいるので、そこしか動揺した視線を向ける
場所がなかった。
 今日はたまたま、靖州侯たる六太の承認を必要とする書類が多く出されて
いた。それをとっさに利用する。
「あー、こっちは書類に埋もれてるってのにいいよなあ。そろそろ俺も下界
に遊びに行きたいや」
 芝居がかった仕草で書類の上に上体を投げ出すことで顔を隠し、そんなふ
うにぼやいてみせた。官たちは苦笑した。
「台輔はだめですよ。まだお体が本調子じゃないんでしょう?」
「んなことない、あとは体力をつけるだけなんだから。くっそー、よーし、
こうなったら大車輪で片づけるか。集中して処理しちまうから、しばらくひ
とりにしてくれ。別に逃げないからさ」

930永遠の行方「絆(79)」:2017/08/06(日) 09:39:41
「はいはい。そこの書類の束、本当にちゃんと片づけてくださいね。主上の
ことだからしばらく雲隠れするだろうし、なのに台輔にまで逃げられたら大
変なんですから」
「大丈夫、大丈夫」
 上体を起こした六太はにっと笑い、右手に筆、左手に州侯印を持って、わ
ざとらしく掲げてみせた。その場にいた数人の官は苦笑しつつ、適当に休憩
するために、もしくは決裁済の書類を届けるために、ぞろぞろと退出して
いった。
 ひと気がなくなったあと、六太は筆と州侯印を力なく卓に置いてうつむき、
深く長く溜息をついた。やがて顔を上げると口元に笑みを浮かべたまま、自
嘲するようにしみじみとつぶやいた。
「思ったより……早かったよなあ……」
 幾度も指折り数えてみたが、六太が呪の眠りから覚めて二ヶ月も経ってい
なかった。
 ――まだ、池も小川もできていない。
 だが涙は出なかった。不思議なことに、心中で嘆きながらもどこかほっと
していた。なぜならこれでもう、いつ飽きられるかと、いつ尚隆を失うかと
恐れる必要はなくなったのだから。もともと彼は六太のものではなかったの
だから。
 もちろんすぐに捨て置かれるようなことはないだろう。これは最初の変化
に過ぎない。そうして少しずつ尚隆は六太から離れていくのだろう……。
 危うく頭に乗ってしまうところだった、と六太は震える心で自戒した。あ
れほど女好きな尚隆の、六太を好きだという言葉を鵜呑みにしてしまうなん
て。
 むろん六太が意識不明の間、ずっと心配してくれていたのは事実だろう。
でも六太を抱いたのは、戯れとまではいかないまでも、気まぐれに近いもの
だったのかもしれない。
 ようやくのことで現実を思い知り、六太は体が芯まで凍えるように感じた。
奥底から立ち上ってくる冷たい震えを抑えることもできず、政務が終わった
あとは尚隆がいなくても長楽殿に戻らなくてはいけないのだろうかと懊悩し
た。尚隆のいない広いあの臥牀に、今夜からたったひとりで寝なくてはいけ
ないのだろうか。
 六太は暗い顔で悄然と座りこんだまま、夢の時間が終わったことをぼんや
り感じていた。

931名無しさん:2017/08/07(月) 00:34:00
はわわわ。一山がこれから迫ってくるのですね…相変わらず六太が賢く健気で可愛い…

932永遠の行方「絆(80)」:2017/08/09(水) 19:44:51

 靖州府の書類は令尹が厳しく検分しているので、普段の六太はあまり時間
をかけずに承認する。だが今は何かしていないと精神がどうかなってしまい
そうで、じっくりと書類を読み詳細を確認してから署名や押印をした。
 そうやって脇目も振らず、せっせと作業していると、一刻ほど経ったころ
に正寝の女官のひとりが訪れた。
「台輔。失礼いたします」
 靖州府の官が退出していったとはいえ、人払いというほど強く退出を求め
たわけではない。だから途中で一度、侍官が新たな書類を持ってきたりもし
た。訪れた正寝の女官も、執務室の前で警備している夏官に咎められること
なく、しとやかに入室してきた。
「主上からのご伝言でございます。本日のお茶は、玉華殿の東の四阿にてお
待ちしているとのことでございます」
 落ち着いた印象の年輩の女官は、にこやかにそう告げた。六太はぎこちな
いながらも何とか笑みを浮かべたが、内心では混乱していた。
「玉華殿の……東……」
「四阿でございます。ご政務のきりがよろしいようであれば、このままご案
内いたしますが。いかがなさいますか?」
「あの……さっき尚隆が出奔したって……」
「まあ」女官は、ほほと軽やかに笑った。「確かにどこぞにお出ましのよう
でございましたが、つい先ほど還幸なさいました」
「そう、なんだ」
 つまり尚隆が姿を消していたのは一刻ほどということだ。六太はいっそう
混乱したが、それだけ時間があれば女を買って息抜きすることはできるだろ
うと考えなおした。六太に配慮してこっそり行ったのだろうか。そして文で
はなく女官にお茶の場所を伝えさせるのは、あわてて戻ってきたから文を書
く時間がなかったのだろうか。
「台輔、本日のお茶はどうぞ楽しみになさっていてくださいませ」
「え……」
「さ、わたくしはこれ以上申しあげられませんが、ほんの少々、嬉しいこと
がございますよ」

933永遠の行方「絆(81)」:2017/08/09(水) 19:52:24
 女官は思わせぶりにそれだけ言って、六太の返答を待っている。六太は
「きりが悪いから、少ししてから行く」と答えて女官を帰した。実際には集
中して作業したおかげで、ほとんど書類の処理は終わっていたのだが。
 女官は「楽しみに」と言っていたが、六太は怖くてたまらなかった。女官
の前では必死に抑えていた震えにふたたび襲われ、長い時間をかけてのろの
ろと椅子から立ち上がった。
 最近は待ち合わせ場所まで行く際、嬉しくてほとんど駆けるようにしてい
たのに、一歩一歩が重くてなかなか進めない。途中、そんな六太の様子に気
づいた官や女官が気遣うような目を向けていたのに気づいたが、まだ体調が
万全ではないと思って見守っているのか、尚隆に捨てられかけていることを
察して哀れんでいるのかわからなかった。
 六太はこわばった表情のまま正寝に戻り、待ち合わせの場所に向かった。
目的の四阿は、数人が入ればいっぱいになるような、小さいが白い瀟洒な丸
天井を持つ石造りの建物で、陽子なら中華風ではなく洋風に近いと思ったこ
とだろう。
 曲線を持つ、これまた白く優美な石の柱の間、高くなっている内側に人影
があった。確かに尚隆だった。
 女官たちもいたが、建物が小さいとあって、邪魔にならないよう四阿の外
で遠巻きにして控えている。
 席を立ってこちらを待っている尚隆の姿を捉えたとたん、目から涙がこぼ
れそうになり、六太はあわてて気持ちを引き締めた。六太は尚隆を縛りつけ
たいわけでも、重荷になりたいわけでもない。醜態をさらすわけにはいかな
かった。
 ほんの数段の階段を上って四阿に入ると、六太の様子がおかしいのに気づ
いたのだろう、尚隆は眉をひそめて「六太?」と声をかけてきた。六太は必
死に笑みを浮かべた。
 どうか何も聞いてくれるなと必死に念じていたせいか、尚隆は眉根を寄せ
たまま瞬いたものの結局何も言わず、「こちらだ」と言って六太を隣の席に
座らせた。目の前の石案にはもちろんお茶の用意がされていたが、大皿に見
目好く盛られていた菓子は、種類こそ多いものの明らかに宮城で作られるよ
うな凝ったものではなかった。

934永遠の行方「絆(82)」:2017/08/09(水) 20:04:24
「以前、おまえを目覚めさせる手がかりがないかと下界に行った際、甘味屋
でも話を聞いてな。女将の大工の息子が作った、簡単なからくり細工を置い
ている小さな店だ。そこでおまえが少しずついろいろな種類の菓子を買い求
めて楽しんでいた話を聞いたのを思い出したので、せっかくだから買ってき
た。ついでにおまえのことも女将に話してきたぞ。聞き込みをする際に養い
親と一緒に遠方に引っ越したという話を作っていたのだが、関弓に戻ってき
たのでまたよろしく頼むとな。怪我をしていたが治ったとも言っておいた。
菓子をずいぶんおまけしてくれたから、おまえが外出できるようになったら
訪ねていくといい」
 六太は呆然として目の前の大皿に盛られていた菓子を見つめた。日持ちの
しそうな焼き菓子が主体で、特に凝ってはいない、一口大の素朴な菓子。だ
が造形や色合いからしていろいろな種類があり、普段の六太なら見たとたん
に無邪気に喜ぶような品々だった。
「どうだ? そろそろこういうのも食いたいかと思ったのだが。鳴賢からの
差し入れの蓬莱菓子を除けば、しばらく下界の菓子を食っておらんだろう」
 気遣わしげな声だった。
(女遊びに行ったのではなく……俺のために、菓子を……?)
 六太はまだ混乱していて、とても尚隆の顔を見る勇気はなかった。
(女官が、嬉しいことがあると言ったのは……)
 六太のために。六太を楽しませるために、わざわざ。
 なのに六太は尚隆を疑ったのか。息抜きに女を買いに行ったと。
 尚隆は取り皿にみずから菓子を盛って六太の前に置いてくれた。六太はつ
いに涙があふれてしまい、あわてて下を向いた。官服の膝に、ぽたぽたと滴
が落ちた。
 こんなにまで気遣ってもらえているのに恋人を疑った自分は最低だと六太
は思った。だがいったん芽生えた疑いは、自信のなさと相まって、どんどん
大きくなった。むしろこんな疑いを持つような自分だからこそ、愛想を尽か
されても当然だとも。

935永遠の行方「絆(83)」:2017/08/09(水) 20:15:29
 本当は六太に飽きがきていて、それを誤魔化すために帰りに菓子を買って
きただけではないだろうか。もしかしたら尚隆が言い出す前に、六太のほう
から臥室を別にしたいと切り出した方がいいのかもしれない。あるいはしば
らく下界に息抜きに行くように勧めるとか……。
 さすがに六太も、尚隆と関係ができてからの自分の精神状態がかなり不安
定であり、何かと悪いほうにばかり考えてしまうことを自覚してはいた。だ
がその心の動きは、もはや自分ではどうすることもできない段階に達してい
た。どうしても尚隆に飽きられて捨てられる未来が頭から離れず、そのとき
が怖くてたまらなかった。先ほど置いていかれたのだと早合点し、「やっぱ
り」とそれまでの予感が正しかったと思い込んだことも、無意識での確信を
増強する結果になってしまった。理性で強いて尚隆を信じようとしても、も
う感情がついてきてくれない。
「ろく――」
「うん、うまそうだ」
 六太は尚隆の言葉を遮り、必死に明るい声を出した。涙が滂沱のように流
れているため、どうしても顔は上げられなかったが、震えを抑えて懸命に言
葉を紡いだ。
「行きつけの甘味屋っていくつかあるけど、からくり細工っていうとあの店
かあ。俺、何度かからくりの仕組みを見せてもらったんだよね」
「……六太」
「体調も悪くないし、そろそろ顔を見せに行くかなあ」
「六太」
 不意に尚隆が肩に腕を回し、六太を胸元に抱き寄せた。両腕でしっかりと
抱きしめられた六太はますます動揺し、ついに嗚咽をこらえられなくなった。
何とか普通に話したいのに、口を開いても喉に塊が引っかかったようで言葉
にならなかった。
「大丈夫だ、大丈夫だから」
 尚隆はそう言いながら、六太を抱きしめたまま幾度も背をなでた。侍って
いる女官たちに「六太の体調が悪い。本日の政務は終わりだ」と告げる尚隆
の声が聞こえた。

936書き手:2017/08/09(水) 20:18:06
ろくたん、今まで以上に不安定でぐるぐるです。
でも区切りがつく章の終わりまであと20レスもかからないはず。

その次はついに最終章ですが、エピローグ的な、
そう長くはならないだろう内容とはいえ
ぎりぎり次スレまで行ってしまうかもしれません。

937名無しさん:2017/08/09(水) 23:01:51
続き楽しみにしてます、二人を幸せにしてあげて欲しいです!
でも、正直寂しいから終わって欲しくない気もする複雑な心境・・・w

938名無しさん:2017/08/10(木) 01:27:48
更新ありがとうございます!六太の涙が溢れる所、ぐっときました!そういえば六太は捨てられた子どもだったんですよね…トラウマない方がおかしいのに、いつも明るいイメージでしてたので六太がより六太らしく感じました。

939書き手:2017/08/10(木) 22:44:51
>>937
もちろん幸せになります!
あと次章はあえて描かない期間が出てくるので、
終わってもその辺を自由に妄想してもらえればと。

>>938
なんだかんだで主従ともどもトラウマはあると思うんですよね。
尚隆は小松領の滅亡、六太は親に捨てられたことで。
当人たちは普段は意識してないけど、何かの際には表に出てくるかなと。

940書き手:2017/08/11(金) 10:37:55
「絆」章の最後まで書き上げて推敲中ですが、
多少文言を変更する程度で、もうレス数自体は変わらないと思うので、
(忘れなければ)毎日一レスずつ投下していきたいと思います。

しばらくは尚隆視点、最後の数レスだけ六太視点です。

941永遠の行方「絆(84/100)」:2017/08/11(金) 10:42:05

 六太から送り返されてきた文箱を尚隆が開くと、いつものように短い返信
をしたためた料紙が現われた。
 ――こっちもそろそろ政務に飽きてきたで候。本日は李(すもも)を所望に
て候。
 尚隆は口の端に笑みを浮かべると、茶請けに李を加えることを女官に命じ
た。
 午後のお茶の場所を、六太に文で伝えるようになって数日。互いにだんだ
ん文面で遊ぶようになり、六太もすっかり遠慮がなくなった。それとともに
六太は目に見えて落ち着きを取り戻していき、やはり急ぎすぎたのが原因
だったか、と尚隆は反省した。
 初めての夜、尚隆は六太の動揺を鎮める手間をかけなかった。むしろ動揺
につけこんで、六太が以前のように自分を取り繕ってしまわないよう、揺さ
ぶりをかけたと言ってもいい。だがそのせいで、あまりにも急激な環境の変
化に気持ちがついて来られなかったのだろう。
 最初のうち、六太は尚隆の顔を見ても、どこか遠慮したようなおずおずと
した笑みしか見せなかった。六太が喜びそうな菓子を作らせて差し出せば、
菓子と尚隆を交互に見て、本当に食べていいのかと迷うそぶりを見せる。長
楽殿で臥室を始めとして六太のためにいろいろな房室を整えれば、これまた
自分が使っていいのかと戸惑っていた。いずれも事件前の強気な六太なら、
何の遠慮もなく享受したたぐいの内容だったろうに、尚隆の一挙手一投足に
びくびくするようになってしまった。
 しかし朱衡の助言を容れて日常的なふれあいの比重を増やしたのが効いた
のか、最近はようやく以前のように軽口を叩けるようになってきた。散策の
際に手をつなげば、直視こそされないものの、こちらを一瞥しては恥ずかし
そうな笑みを向けてくる。雑談の内容によっては気軽に返事をしてくるよう
にもなった。まだ少し緊張が残る気配はあるものの、傍目には事件の前の気
安い関係にほぼ戻ったように見え、尚隆はようやく安堵した。
「だから俺、奥のほうに隠しといたのに、結局見つけられちゃってさあ」
「広徳殿の執務室になど隠すからだ。そういうときはな、まず小さめの甕
(かめ)に入れて――」
 そんなふうに互いにささいな失敗を口にしては笑いあったりもする。

942永遠の行方「絆(85/100)」:2017/08/12(土) 10:49:26
 徐々に笑顔を取り戻していく六太に、尚隆も安堵とともに満ち足りた思い
を感じていた。時には花がほころぶような、ふわりとした幸せそうな笑みを
向けられ、思わず見とれたりもした。
(六太は俺の根だ。こいつがいれば、俺は俺自身でいられる)
 満足とともに、しみじみとそんなことを考える。
 その日はお茶のあとで正寝は長楽殿から玉華殿にかけて散策し、工人が作
業しているさまを六太に見せて計画を明かした。
「ここから蛇行するように小川を作ってな――」
 腕で指し示して詳細を説明すると、六太は驚いたように幾度もまばたきを
してから周囲をぐるりと見回して「マジ?」と尋ねた。
「小さな橋もいくつかかけるぞ。鯉やら金魚やらも放す」
「へえー」
 六太はきょろきょろしながら、尚隆とつないでいた手を離して、まだ水を
流していない川底にひょいと降り立った。もう足元に危ういところはないよ
うだった。
「これだとだいたい膝ぐらいか。うーん、さすがに泳げないかな」
「途中に池も作って、そちらはそこそこ深くするから、水遊び程度はできる
だろう」
「へえー、楽しみ」
 六太はそう言うと、おどけたようにその場でくるんと回ってみせた。
 六太のために関弓の街で菓子を買ってくることを思いついたのは、そんな
穏やかな日々を過ごしていたときだ。
 六太は鳴賢のことをずっと気にかけていたし、同じように下界の他の顔見
知りのこともそろそろ気になっているのではないか。聞き込みの際に寄った
甘味屋で菓子を買うついでに、せっかくだからあの辺の六太の知り合いに挨
拶でもしてきてやろう、六太が怪我をしたという話がどこまで伝わっている
かわからないが、そろそろ収拾をつけたほうが良い――そんなことを考えた
尚隆は、すぐ戻るつもりだったので特に官には告げずに街に降りた。
 解放日ではなかったため海客の団欒所は除外し(鳴賢と会った際、一緒に
いた彼の学友らに六太の身分が知られてしまったせいもある)、六太の行き
つけの店を数軒回ったあと、最後の甘味屋で焼き菓子を中心に手早く菓子を
選んでもらった。甘味屋の女将は、六太が怪我をしたこと――という設定―
―は知らなかったらしく、委細を聞いて驚き、「でも治って良かったこと」
と言っていくつもおまけしてくれた。

943名無しさん:2017/08/12(土) 16:22:43
ラストスパートが始まってる!あー毎日ドキドキさせてくれるのですね、ありがとうございます!楽しみに覗きにきます…!!

944名無しさん:2017/08/12(土) 22:19:22
幸せになるということで、わくわくしながら見守ります!

945書き手:2017/08/13(日) 08:52:40
ありがとうございます。

毎日一レスなので大した量じゃないけど、
夏休みだし、迷い込んだ人がここが今でも動いてるの知って
書き逃げにでも何か落としてくれないかと、かすかな期待も持ってたり。

原作さえ動いたらなあ……。

946永遠の行方「絆(86/100)」:2017/08/13(日) 09:02:12
 果物屋の店先ではみずみずしい夏の果物が山盛りになっていて、尚隆は次
の機会は菓子ではなく果物にしようと心に覚え書きをして宮城に戻った。久
しぶりに下界の菓子を見せて知り合いの話などをすれば、六太は喜ぶだろう
と思い、お茶の時間が待ち遠しかった。
 迎え出た女官に菓子の包みを渡し、いつもお茶をしている時間が迫ってい
たので、文ではなく口頭で六太に場所を伝えるため別の女官を遣った。その
間に手早く着替える。待ち合わせ場所に赴く途中、六太のために整えている
小川の工事状況もざっと見たが、順調のようだった。
 玉華殿の東にある四阿は、中央に石案が鎮座し、四阿の丸い内周にそって
座面が張り出している意匠のこぢんまりとした建物だ。尚隆は石案の上の大
皿に、買ってきた菓子が見目良く盛られているのを見やり、用意した女官に
満足げにうなずいた。自分が辿ってきたのとは違う、六太がやってくるだろ
う小道がよく見える場所に座る。
 ほどなく遠くに金色の頭が見え、尚隆は立ち上がった。だが近づいてきた
六太の顔がこわばっているのを見て眉をひそめた。
 六太はどこか頼りなげな足取りで階段を上って四阿に入ると、尚隆に笑み
を向けた。張りつけたような、ぎこちない笑顔だった。少し前まではよくこ
んな顔をしていた……。
「……六太?」
 声をかけたが、六太は不自然な笑みをいっそう深くしただけだった。
 不用意なことは言えないぞと直感した尚隆は、とりあえず六太を隣に座ら
せた。石案の上の茶菓子を見た六太は、それが宮城の厨房で作られたもので
はないとすぐ気づいたのだろう、どこか呆然としたように皿の上を凝視した。
「以前、おまえを目覚めさせる手がかりがないかと下界に行った際、甘味屋
でも話を聞いてな。女将の大工の息子が作った、簡単なからくり細工を置い
ている小さな店だ。そこでおまえが少しずついろいろな種類の菓子を買い求
めて楽しんでいた話を聞いたのを思い出したので、せっかくだから買ってき
た」
 そんなふうに説明しながら手ずから茶を煎れ、取り皿に菓子を盛って六太
の目の前に置いたが、六太は凍りついたように動かなかった。
(何があった?)
 尚隆は心配になった。昼餉のときはいつも通りだったのだ、この一刻の間
に何が――と急いで考えを巡らせた。

947永遠の行方「絆(87/100)」:2017/08/14(月) 08:34:30
(政務の際に何か言われたのか? いや、生活上の小言にせよ政務にからむ
諫言にせよ、官にちょっと言われた程度で今さら六太が動じるとは思えん。
使令が何か伝えてきた? それなら俺にも伝わるだろう。他にいつもと違う
ことと言えば――)
 ふと気がつく。最大の違いは、暫時とはいえ尚隆が関弓の街に降りたこと
ではないだろうか。
 どきり、と鼓動が大きく鳴った。六太自身が察したにせよ官が伝えたにせ
よ、尚隆が街に降りたことで六太が動揺したのなら、それは。
 いつの間にか深く顔を伏せていた六太の膝に、ぽたりと水滴が落ちた。ぽ
たり、ぽたり、といくつも。
「ろく――」
「うん、うまそうだ」
 六太は顔を伏せたまま、明るい声調子で言った。尚隆は呆気に取られた。
「行きつけの甘味屋っていくつかあるけど――」
 何事もなかったかのように話し始めた六太だったが、かたくなに顔を上げ
ず、声には震えが混じっていた。やがて息切れしたかのように途切れ途切れ
になり、それでも必死にいつも通りの口調を保とうとしていた。
(まさか、置いていかれたと思った……?)
 自然な演繹として辿りついた結論に、尚隆は愕然とした。尚隆自身は
ちょっと買いものに出た程度の認識だったのに、そこまで衝撃を受けるのか、
と。
(下手を打った)
 最近は落ち着いていたように見えたので、つい、もう大丈夫かと油断して
しまったのだ。
 だが以前は尚隆に対してもあれほど強気だった六太が、関係ができてから
は不安でいっぱいの様子だったではないか。想像通りなら六太の初恋は尚隆
だし、いつから想っていてくれたのかはさておき、ずいぶんと長いこと思い
詰めていたわけだ。おまけに今の関係は、尚隆が一時的に手を出したに過ぎ
ないと思っている節があり、精神的に不安定だったのはそのせいが大きいだ
ろう。長い間、一途にひとりだけを想い続け、想いが通じ合ったのも束の間、
その恋人に捨てられるのではと怯えているのだ。だからこそ朱衡の助言を容
れた尚隆は、手間暇かけていたわり、ゆっくりと気持ちをほぐしていくこと
を心がけたのだが。

948名無しさん:2017/08/14(月) 12:24:49
尚隆視点…!ドキドキする、六太を、六太をよろしくお願いします!←

949書き手:2017/08/15(火) 21:54:36
ふふふ、お願いされました!

950永遠の行方「絆(88/100)」:2017/08/15(火) 21:58:01
 これまで無数の女と簡単に関係を持ってきた尚隆に、六太の一途さと真剣
さの度合いを真に理解することはかなわなかった。好きあっているのなら体
をつなげてしまえば何とでもなると思ったのもそのせいだ。その見通しの甘
さがこの結果だった。
(まずいな。元の木阿弥になるとか、むしろ悪化するとかしたりせんだろう
な)
 ひやりとした尚隆は、「六太」と優しく声をかけるなり強引に抱き寄せた。
腕の中を見おろせば、相変わらず伏せられていたとはいえ涙で顔がぐしゃぐ
しゃなのは明らかだった。ついに嗚咽をこらえられなくなった六太は、それ
でも何とか普通に話そうとしていたようだが、口から出てきたのは、ぜいぜ
いと苦しそうな荒い呼吸だけだけだった。
 もうこれではお茶どころではないし、政務にもならないだろう。尚隆は六
太の背を撫でながら、女官たちに「六太の体調が悪い。本日の政務は終わり
だ」と言いおいて久しぶりに六太を横抱きにし、そのまま長楽殿に戻った。
 いつもの臥室に六太を連れていき、気持ちが落ち着く薬湯を用意させて強
引に飲ませる。かたくなに顔を伏せて泣き顔を見せないようにしている六太
を慮り、「おまえ、具合が悪いのだろう?」と誤解しているふうを装って無
理に寝かせた。六太は無言で頭から衾をかぶると、尚隆に背を向けて体を丸
めたが、興奮したせいかあまり薬湯が効かなかったらしく、ずいぶん経って
からようやく眠ったようだった。
 特に急ぎの書類もなかったので、尚隆はそのまま臥牀の傍らで見守ってい
た。自分の不用意な行動のせいで、ここしばらくの配慮が台無しになったこ
とが我ながら業腹だった。
 夕餉の時刻を過ぎてから六太は目覚めたようで、もぞもぞと動きだした。
しかし臥牀の上から衾の中を覗きこんでもどこかぼんやりとした様子で、尚
隆に背を向けたまま、悄然と横になっていた。
「腹が減ってないか? 何か食うか?」
 尚隆の問いかけにも反応がない。このまま寝かせておくかどうか迷ったも
のの、結局何か食べさせたほうが良かろうと、ぐったりとしていた六太の上
体をそっと起こした。抵抗はまったくなかったが、盛大に泣いたせいだろう、
乱れた髪の間から見える目はずいぶんと腫れぼったかった。

951永遠の行方「絆(89/100)」:2017/08/16(水) 19:28:14
 尚隆は消化の良い粥を用意させると、臥牀の上、自分も六太の傍らに座っ
た。六太を左腕で抱えて支えるようにし、右手で匙を取って六太に粥を食べ
させる。口元に匙を差し出されると、六太はのろのろと口を開いた。
(さて、どうするか)
 長い時間をかけて粥を食べさせ終わり、この様子のまま風呂に入れるのも
何かと危なかろうと、まだ歩けなかったときのように被衫を脱がせて清拭す
る。六太はその頃のように恥ずかしがるそぶりを見せるどころか、無感動に
ぼんやりとしたままだった。
 今日は何もしないで静かに寝かせるかと思ったものの、尚隆に見捨てられ
かけたと受け取ったのならそれもまずいのではないかと考え直した。どうす
るのが正解かわからないながらも、少なくとも身体的に離れるのは下策だろ
う。
 清拭のあとで被衫を着せることなく、尚隆も脱いで臥牀に入り、そのまま
そっと愛撫する。だが抵抗こそなかったものの、その晩の六太の体は初めて
の夜よりもずっと固かった。そうかと思うと、いったん感じたあとは今まで
になく乱れ、ついには尚隆にしがみついて泣き出した。尚隆の目にはとても
痛々しく思える姿だった。
 もし尚隆がずっと若く、経験が少なかったなら、いつまでも情緒不安定な
六太の反応を面倒に思ったかもしれない。だが大国の王として既にさまざま
な経験をし、さらには紆余曲折を経てようやく得た伴侶とあって、むしろ
いっそうの庇護欲に駆られた。六太がこんなふうになったのは、最初に尚隆
が強引に抱いたせいと思えば、むしろすまない気持ちにさえなる。
 そうやって危機感を募らせた尚隆だったが、翌朝目覚めた六太は少し落ち
着いたようだった。
「あの……昨日はごめん」
「気にするな。体調が悪かったのだろう?」
「うん、まあ……。その、いろいろ考えちゃって」
「そうか」
 六太の繊細さに、どこまで踏み込んでいいのかと尚隆は迷った。不用意に
言葉を連ねて、逆に衝撃を受けられたらと思うとつい躊躇してしまう。

952永遠の行方「絆(90/100)」:2017/08/17(木) 19:34:37
 その後、朝餉を摂ったあとはずいぶん落ち着いたふうで、こんなことを言
い出した。
「俺、そろそろ下界に遊びに行きたいんだけどさ、俺が自分が出奔するとき
におとりになってくれるなら、おまえが出奔するのを手伝ってもいいぜ」
 尚隆が黙っていると、六太はまだ少し腫れている瞼でにっと笑った。
「だから交換条件だよ。前にも似たようなのをやったことあるだろ? さす
がにあの事件のあとだから、ふたり一緒ってのはみんな心配するだろうから
さ、まず俺がおとりになってやるよ。で、おまえが遊びから帰ったら、今度
は俺が出る。順当だろ?」
 昨日のことがなければ、やっと以前の状態に戻りつつあることに安堵を覚
えたかもしれない。だが昔と異なり、既に尚隆が外出しても官が止めること
はない。現に昨日だってさっと関弓に降りたのだし、おとりなどまったく不
要だと六太もわかっているはずだった。
 だが今度の六太は、ある意味でかたくなだった。昨日尚隆が外出したのを、
ひとりで遊びに出たいのだと受け取ったのだろうか。
(ちと見通しが甘かったか)
 六太が精神的に不安定なのは承知していたつもりだった。だが当人がどれ
ほど不安がっているのか、尚隆は真に理解してはいなかったのだろう。本気
で尚隆を遠ざけようとしているわけではなかろうが、どうしても下界へ行か
せたいようで、何を言っても耳を貸さなかった。このまま留まっても、却っ
て不安を増大させるだけかもしれない。
 朱衡に咎められたように、いきなり閨に連れこむのではなかった、と今さ
らのように尚隆は後悔した。まさかここまで六太が不安定になろうとは予想
もしていなかったのだ。確かに尚隆は六太の動揺を煽ったが、決してこんな
ふうに追い詰めたかったわけではない。
(だがまあ、やってしまったものは仕方がない)
 いかに後悔したとて、時は戻らない。それでもまだ決定的な亀裂は生じて
いないはずだ。六太の動揺が激しいとはいえ、ふたりは相変わらず恋人同士
だし、ともに過ごす生活も変わっていない。尚隆が手を離しさえしなければ
挽回は可能なはずだった。そもそも尚隆への深い想いがあればこそ、六太は
不安になっているのだろうから。

953名無しさん:2017/08/17(木) 20:26:29
毎日更新嬉しいです!じわじわくっつきかけてるのを、もだもだしながら見てます

954永遠の行方「絆(91/100)」:2017/08/18(金) 19:40:52
(とりあえず一泊だけしてくるか。夕刻に出て、翌朝帰ってくれば良いだろ
う)
 要は一度遊びに出たと、尚隆の気が済んだからしばらくは大丈夫だと六太
が納得すればいいのだ。そうしておいて、戻ってきたら今度は同じような過
ちを犯さないよう注意して六太と過ごす。最近はずいぶんと明るくなってい
たのだから、真綿でくるむようにして細心の注意を払って対応すれば挽回で
きるはずだ……。
 そう思いながらも夕餉の時刻間際まで尚隆がぐずぐずしていたので、六太
は笑みを張りつけたこわばった顔のまま外出を促した。尚隆は、特におとり
は不要と言いおき、後ろ髪を引かれる思いで宮城を抜け出して関弓に降りた。
 とうに日は落ちていたが、大国雁の首都にとってはまだ宵の口だ。火の
入った灯籠があちこちに掲げられていて、どの通りも昼間のように明るく賑
やかだった。
 しかし尚隆は六太のことが気になって、宮城から離れる気はまったく起き
なかった。宮城の入口である雉門からさほど離れていない場所に並ぶ舎館は
どれもそれなりの格式で、普段の尚隆なら素通りするような建物だったが、
今日はあえてそのうちのひとつを選んで房室を取った。大部屋に雑魚寝だっ
たり、狭い個室で板間に薄い布団を敷くような場末の宿ではない。どれもき
ちんと牀榻のある房室ばかりで、尚隆は清潔な臥牀に腰かけるなり、ふう、
と溜息を漏らした。
 しばらく経ってから、一階にあった飯堂で夕餉をしたためようと立ち上が
る。そうして、ふと臥牀を振り返り、今夜はここで寂しく独り寝か、とふた
たび溜息をついた。王の臥室と比べるべくもない狭い臥牀なのに、やたらと
広く侘びしく見える気がした。最近はずっと六太を抱きしめて眠っていたの
で、寂しさもひとしおだ。
「つまらんな……」
 意図せずしてつぶやきが漏れた。そうやって言葉を口にしたことで、漠然
としていた気持ちが、意思が、みるみるうちに形になった。
「つまらん」
 今度ははっきり意識して口に出した。

955永遠の行方「絆(92/100)」:2017/08/19(土) 08:48:42

「お早いお帰りで」
 つい口を滑らせたといった調子で、禁門の門番が驚いた顔で主君を迎えた。
失言でとっさに口を押さえた門番に、尚隆は苦笑して片手を振ることで気に
するなと伝え、そのまま正寝に向かった。長楽殿で行き会った女官たちも、
つい先刻主君が逐電したのを知っていたのだろう、既に夜なのだから少なく
とも一泊はしてくると思っていたようで、礼をしながらも目を丸くしていた。
「おかえりなさいませ」
「六太はどうしている?」
 まだ早い時刻だったが、問うと女官は「既におやすみでございます」と答
えた。
 尚隆は、自分の世話は不要と言いおいて臥室に向かった。とりあえず宿の
飯堂で食事だけはしたので、腹も満たされている。
 六太から離れたくないと思った尚隆は開き直っていた。六太の勧め通り、
いったんは関弓に降りたのだから、もうそれで良いだろう、と。
 六太を起こさないよう、静かに扉を開けて臥室に入る。普段は消えている
灯が一部まだついていた。女官が消し忘れたのかと思い、だが被衫に着替え
るのに丁度良いと考えて何気なく室内を見回すと、隅の榻で六太が横になっ
て丸まっているのに気づいた。
「……六太?」
 驚きながらもそっと声をかけたが、反応はない。こちらに顔は向いていた
が、目は閉じていて眠っているようだった。実際、被衫には着替えている。
 何かしていて、牀榻に行かずにうっかりその場で寝てしまったのかと思い、
それでも不審を覚えて静かに歩み寄った。何もかかっていなかったから、体
が冷えてしまうではないか、寒くて体を丸めているのかと案じて覗き込むと、
ほのかな灯に照らされた頬に涙の跡があった。動揺した尚隆は反射的に腰を
かがめて手を伸ばし、だが寸前で思いとどまって頬のすぐ下の榻の座面に指
先を触れた。そこは確かにひんやりと湿っていた。

956名無しさん:2017/08/19(土) 09:47:10
六太、六太しっかり…いや尚隆しっかりして!!

957永遠の行方「絆(93/100)」:2017/08/20(日) 09:40:00
(……ずっと泣いていた……?)
 呆然として立ち尽くす。
 数呼吸の間、尚隆はじっとしていた。
 つと背後の牀榻を振り返り、何となくここで寝ている六太の気持ちがわか
るような気がした。なぜなら尚隆も同じだったからだ。下界の舎館の狭い臥
牀でさえ広く感じたのだ、ただでさえ広い王の牀榻は、ひとりで寝るのには
寂しすぎる。特にここしばらく、ずっとふたりで抱き合って眠っていたのな
ら。
 やがて尚隆は長く静かに息を吐いた。榻の前でしゃがみ込み、六太の頭を
そっとなでる。
「……本当は行ってほしくなかったのだろう?」
 つぶやくように言葉を紡ぐ。
 以前なら六太の強がりに苦笑したところだろうが、関係ができて以降、妙
に不安定な六太を見ている今は、身を切られるほど切ない思いしか湧かな
かった。
 それに結ばれて何年も経った間柄ならまだしも、自分たちはやっと想いが
通じ合ったばかり。いわば初々しい恋人同士なのだ。六太のために関弓に降
りて菓子を買ってきたことを、そろそろ脱走したくなってきたと思いこんだ
のに違いないと思えば、何といたいけなといっそう愛しくなるだけだった。
 きっとこれからも六太は自分の正直な気持ちを吐露することはないのだろ
う。何しろ長いこと尚隆への想いを秘めて気取られなかっただけでなく、死
と同義であると知りながら、尚隆の身代わりに呪を受けいれたくらいなのだ。
生半可なことで本心を明かすはずもない。
 だがいずれ破局が来ると怯える六太の心中を察しながら、経験豊富な尚隆
はこうも思うのだ。

958永遠の行方「絆(94/100)」:2017/08/21(月) 20:22:43
 確かにいつまでも恋人同士のような激情をいだいてはいられない。遅かれ
早かれ激しい感情はいずれ失せるだろう。だがそれは終わりではなく始まり
なのだ。燃え上がる炎のような恋心とて、やがては春の日差しのような穏や
かで落ち着いた気持ちに変わっていく。人はそれを情と呼ぶ。おそらく恋人
同士が他人から本当の家族になるのは、そんな段階に至ったときなのだ。
 それに関係ができて何百年も経ったとしたら、いくら六太でも変わりばえ
のしない恋人の顔に飽きるはずだ。いずれは世の夫婦のように倦怠期を迎え
るかもしれないし、朝から晩までこうしてふたりで過ごすこと自体を鬱陶し
いと思うようになるかもしれない。そこで自然な破局を迎えるか、はたまた
穏やかに危機を乗り切って絆を深めるかは、天のみぞ知る、だ。
 尚隆は六太をそっと抱き上げた。そのまま牀榻に向かう。
「う、ん……?」
 振動で気づいたのだろう、すぐにうっすらと目を開けた六太が、尚隆を認
めて大きく目を見開いた。呆然とした様子で口を開け――見る見るうちに涙
が盛り上がる。尚隆は立ち止まり、六太に優しい笑みを向けた。
「うあ、あ――」
 何しろ目覚めたばかりだ、態度を取り繕えるはずもない。動揺を露わにし
た六太は尚隆を凝視したまま、言葉にならない声を震わせた。
「六太」
 六太は、ひゅう、と息を吸い込んだ。そのまま吐き出せずに息が詰まりそ
うになっているのに気づいた尚隆は、あわてて六太を胸元に抱き寄せるよう
にしてから背を幾度も軽く叩いて呼吸を促した。
 混乱しているのだろう、六太は尚隆にしがみついて嗚咽し始めた。尚隆は
牀榻に入り、臥牀に腰かけて体勢を安定させてから言った。
「おまえがおらんとつまらんでな、一泊すらせずに帰ってきた」
 聞いているのかどうか、六太は泣きながらしがみついたままだ。
「六太」
 ふたたび優しく声をかける。言葉にならないのだろう、六太はただ嗚咽し、
尚隆にすがるようにぎゅっとしがみ続けていた。

959名無しさん:2017/08/21(月) 22:05:21
尚隆が滅茶苦茶良い男だ・・・、続き期待してます!

960永遠の行方「絆(95/100)」:2017/08/22(火) 19:45:13

 ほとんど一晩中泣き続け、明け方になってようやく眠りについたせいか、
翌朝の六太の顔はまぶたが腫れてひどい状態だった。だが一昨日の夜もそう
だったように、ぼんやりとした様子で何を言うのでもない。
 六太の今日の政務を取りやめさせた尚隆は、女官に六太の世話を任せて朝
議に向かった。その後、内殿で政務を執る。
 いつになく言葉少なな尚隆に、六官らは「何かございましたか?」と尋ね
たが、尚隆は「いや」と短く答えるに留めた。何やら考えあぐねているらし
い主君に六官らは顔を見合わせたものの、その場では何も言わなかった。
(本気になればなっただけ、人は憶病になるのかもしれないな)
 六太の様子を脳裏に浮かべた尚隆はそんなふうに思った。そしてしばらく
前から温めていた、六太に王の伴侶たる大公の位を与えることを本格的に考
える。そうやってこの関係を公のものにすれば、多少なりとも六太の精神の
安定に役立つだろう。正式な婚姻でなければ国氏は得られないが、もともと
六太は国氏を持っている。本来、内縁関係であれば当人の氏を使用するとこ
ろを、六太の場合は公的に延大公と呼ばせても何ら問題はない。
(むろん俺が伴侶としての氏を下賜してもいいわけだが、国氏が持つ重みと
は比べるべくもないからな)
 尚隆は持っていた筆を置くと、顎に手を当ててしばし考え込んだ。
 やがて六官が見守る中でふたたび筆を取り、目の前の書類の検分を再開し
た。その合間、ふと「しばらく見逃せ」と独り言のように言ったので、ちょ
うど秋官府の書類を受け取って確認していた朱衡が「はい?」と問い返した。
だが何の答えも返さなかったので、朱衡は他の六官や冢宰とふたたび顔を見
合わせていた。

961書き手:2017/08/22(火) 19:48:12
次から章の終わりまで六太視点です。
尚隆、ちゃんと失点は挽回しますので!

962名無しさん:2017/08/23(水) 01:16:24
失点を挽回?ドキドキしてお待ち申し上げます!

963永遠の行方「絆(96/100)」:2017/08/23(水) 20:00:08

「昼餉を食ったら抜け出して関弓に降りるからな、さっさと着替えておけよ」
 午近くになって政務から戻ってきた尚隆に、六太はそっと耳打ちされた。
戸惑って「え?」と問い返すと、尚隆はおどけたように眉を上げた。
「おまえがおらんとつまらんでな、一緒に出かけることにした」
「で、でも」
「世に亭主元気で留守がいいとは言われるが、伴侶になったばかりなのに、
さっそくおまえに邪険にされてはかなわん。だいたい別々に逐電することも
なかろう。この際、せっかくだから新婚旅行と洒落こもうではないか。今の
蓬莱にはそういう習慣があると以前教えてくれたろう」
 六太は呆然として目を見開いた。何と答えれば良いのかわからずに口ごも
る。
 尚隆にはひとりで息抜きをしてきてもらいたかった。そうやって六太が浮
気をいっさい咎めず寛容であれば、もし飽きられても完全には捨て置かれる
ことはないのでは望みをつないだのだ。
 昨夜はまさかその日のうちに尚隆が戻ってくるとは予想しておらず、つい
動揺して泣いてしまった。それで気を遣わせたのだとすれば、逆にまずいと
焦った。そういったことが積もり積もれば、遅かれ早かれ疎んじられてしま
うだろうからだ。
 だが尚隆は笑みを浮かべながらも、六太の逡巡を許さなかった。
「俺もおまえも最近は品行方正だったからな、そろそろ官を慌てさせてやろ
う」
 そんなふうに悪戯めいて言いながら、昼餉のあと、六太が宮城を抜け出す
ときに着ている粗末な衣類を、みずから引っ張り出してきて強引に着替えさ
せた。
「とりあえず関弓を出る前に一泊だ。おまえも知り合いに挨拶したいだろう。
楽俊や鳴賢は呼び出すなりして別に機会を設けてもいいが、例の甘味屋とか、
おまえの行きつけの店あたりは普通に顔を出すしかないからな」
 前日に六太が外出を勧めたときと異なり、尚隆は譲るつもりはまったくな
いようだった。あれよあれよという間に禁門の厩舎に連れていかれ、ひょい
と抱き上げられて騶虞の上に乗せられた。ついで尚隆は身軽にその後ろにま
たがり、六太を抱える形で手綱を取った。

964名無しさん:2017/08/24(木) 03:22:43
元気な展開で(・∀・)イイ!!

965永遠の行方「絆(97/100)」:2017/08/24(木) 21:18:46
 宮城の真下、凌雲山の麓に降りるだけなのだから、関弓の街はすぐだ。昼
間とあって目立つが、慣れている尚隆は極力人目につかないような場所を選
んで素早く降下した。首都を守る夏官に見咎められる前にいったん騶虞を放
す。もっとも宮城から降りてきたのは見られているだろうし、騶虞に乗るよ
うな人間は限られるから、わかっていて見逃してくれているはずだ。
 尚隆は六太の肩を抱いたまま並んで歩き、雉門に近い舎館に向かった。普
段はおもに安宿に泊まるから、かなり高級そうな門構えに六太は戸惑って傍
らの尚隆を見あげた。その意味に気づいたのだろう、尚隆は笑って説明した。
「昨日も取った宿だ。なかなか悪くなかったが、おまえがおらんとつまらん
でな。結局すぐ引き払ったが、どうせだから今度はおまえと泊まろうと思う」
 むろん六太もこれまで尚隆につきあって逐電したことは幾度もある。しか
しその際、これほど立派な宿に泊まった記憶はほとんどない。気を遣わせて
しまったのだろうかと懸念しつつも、ここまで来たら黙ってついていくしか
なかった。
 思ったとおり、尚隆が取ったのは立派な房室で、ちゃんとそれなりの意匠
の牀榻もあった。居間部分に腰を落ち着けた六太は、榻でふたり並んでお茶
を飲んだあと、思い切ってこう言った。
「あの、俺、ここで留守番してるからさ。どこか行きたいところがあれば
行っていいから」
 驚いたように見つめる尚隆に、六太は自然な笑みに見えるよう心がけて
笑ってみせた。
 昨夜、六太が不用意に泣いてしまったせいで尚隆に気を遣わせてしまった
のなら、何とか挽回したいと思った。自分は尚隆の負担になる気はないのだ
と、尚隆は好きにしていいのだとわかってもらいたかった。
 尚隆はまじまじと六太を見つめたあと、不意に困ったように笑った。
「何を勘違いしているのかわからんでもないが、俺はおまえと過ごすために
宮城を出たのだぞ」
「でも」
「新婚旅行だと言っただろうが」
 六太は驚いて口ごもった。確かにそう言われたが、本気にしてはいなかっ
たからだ。

966名無しさん:2017/08/25(金) 07:01:49
ここから尚隆のターン!ワクテカ( ´ ▽ ` )

967永遠の行方「絆(98/100)」:2017/08/25(金) 19:14:13
「で、でも、あの」
「なんだ」
「その、行きたいところとかあるなら本当に行っていいから」
 尚隆は苦笑した。
「信用のないことだ。だがまあ、俺はこれまでの行ないが悪かったからな、
こればかりは仕方がないか」
 尚隆はそう言ってから六太の体に腕を回して抱き寄せた。
「おまえは俺と一緒にいるのは嫌か?」
「う、ううん」
 六太は慌てて首を振った。尚隆はそれに応えて言った。
「俺もな。おまえと一緒にいたいのだ」
 六太は目を大きく見開いた。尚隆は笑顔のまま、黙って六太を見つめてい
る。
 言葉に詰まった六太は、やがて力なくうつむいた。
「……俺はおまえの重荷になりたくないし、疎まれたくもない」
 ついに口にする。後ろ向きなことを言うこと自体、鬱陶しいと思われるか
もしれないが、もう自分の怯えを誤魔化すことはできなかった。
 これからふたりの仲がどう変化しようと、王と麒麟である以上、日常的に
顔を合わせることは避けられない。破局そのものを恐れる気持ちがあるのは
もちろんだが、いずれ尚隆の心が離れたとき、自分を見てうんざりされるよ
うになったら、と六太はそれが怖かった。
「六太」尚隆は体に回した腕の力を強め、もう一方の手で伏せた六太の顔を
上げさせると、頬をそっとなでてきた。「俺がほしいのなら、そう言え。ほ
しいものがあるなら、手を伸ばして自分でつかみとれ。愛がほしいのなら自
分から求めろ。誰かを愛することが罪であるはずはない」
 至近距離から見つめられ、六太は「あ……」とあえぐように声を漏らした。
「この俺とて愛はほしいのだぞ。それがおまえの愛なら申し分ない」
 六太は声もないまま、尚隆の顔を見つめ続けた。理性では理解できても、
最愛の恋人を失う可能性を思うと、こうなる以前のような強い態度に出るこ
とは怖くてできなかった。

968名無しさん:2017/08/25(金) 20:21:59
尚隆って良い男なんだなあ・・・、六太の可愛さは元々だけどなんか自分の中で今更尚隆の株が上がってる

969永遠の行方「絆(99/100)」:2017/08/26(土) 08:26:06
「そもそも」と尚隆は続けた。「おまえは願いがかなったから呪の眠りから
覚めたのだろう?」
「……え?」
「わかっていないようだから言うが、おまえの呪が解けたのはな、俺がおま
えに接吻したからだ。それによって想いが報われるというおまえの願いがか
なったからだ」
 すべてを尚隆に見透かされていたことによる動揺はもちろん、心当たりの
ありすぎた六太は驚愕のままにあえいだ。
「水、とかを口移し、したせいなんじゃ……」
「幾度となく水や果汁を口移しで飲ませたのは事実だ。だがおまえはまった
く目覚める様子はなかったぞ。翻ってあのときは違う。俺はおまえに接吻し、
それで呪が解けた。確かに傍目から見ても、口移しと接吻では雰囲気からし
て違うだろうしな。それまで俺もわかっていなかったが、結果を考えれば似
て非なるものだったということなのだろう」
 優しい声だった。六太は混乱の中であえぎ続け――「そしてこうしてめで
たく恋人同士になったわけだ」と言われて泣き笑いのような表情になった。
いったん顔を伏せて力なく首を振ってから、顔を上げる。
「でも、変だよ、それ」
「変か?」
「だって俺は何の努力もしていない」
 そう言うと、尚隆は少し驚いたような顔をした。
「俺は最初から諦めていた。告白も、おまえに好かれるための努力も、何も
してこなかった。なのに願いがかなったなんて――目が覚めたらおまえが俺
に優しくなっていて、俺のことを好きだなんて言う。そんなの、おかしい
じゃないか」
 笑みを浮かべながらも、六太は今にも泣きそうな自分を自覚した。ああ、
やっぱりこれは自分の都合の良い夢なのだと、そんなふうに思ってしまう。
 尚隆は微笑して「そうか」と言った。そうして六太の頬を優しくなでなが
ら顔を覗き込み、「ならば」と続ける。
「今、言ってくれ。これまでおまえが言えなかった言葉、心の奥底に封じて
いた言葉を、今、俺に告げてくれ」
 六太は目を見張り、驚きのままに息を飲んだ。

970名無しさん:2017/08/26(土) 11:56:11
六太…!思いを尚隆に叩きつけてやれ!w

971永遠の行方「絆(100/E)」:2017/08/27(日) 09:27:41
「告白も努力も何もしてこなかったと言うのなら、今、言えばいい。今、努
力すればいい。遅いことなど何もない」
「あ……」
 接吻しそうなほど間近から見つめられ、六太はふたたびあえいだ。視線を
つなぎ留められたかのように、尚隆から目をそらせない。
「俺、は。俺は……」
 我知らず、うわごとのような言葉が唇からこぼれた。視界いっぱいに尚隆
の顔があって、六太は魅入られたかのように、ひたすら相手を見つめていた。
 それは遠く遥かな時代の蓬莱での懐かしい出会いを想起させた。波の音が
して、海鳥の声がして。どこまでも抜けるような青空を背景に、六太の顔を
覗き込んでいた尚隆。顔かたちは今とどこも変わらないが、雰囲気がずっと
若くて溌溂としていて――。
「俺は。俺は」
 震える声とともに想いがあふれた。数百年の長きに渡って封じてきた想い
が。
「ほんと、は」
 尚隆は微笑したまま、励ますようにわずかにうなずいた。泣きたくはない
のに涙がにじんで、六太の視界がぼやける。尚隆の姿を見失いたくなくてま
ばたくと涙がぽろりと落ちた。尚隆は親指をそっと滑らせて涙をぬぐってく
れた。
「ずっと、好きだった。最初から、好きだった――!」
 まるで堤が決壊したかのようだった。みずから封じていた言葉は奔流とな
り、ついに六太の唇から次々とあふれ出た。
 寂しかったこと、つらかったこと、嬉しかったこと、腹立たしかったこと。
泣きながら尚隆にしがみついた六太は、感情が高ぶったあまり、もはや自分
でも何を言っているのか支離滅裂でわからないような内容で思いの丈を訴え
た。既に嗚咽まじりのそれは、尚隆のほうもほとんど聞き取れなかっただろ
うに、彼は腕の中の六太の背を撫でながら「うん。うん」とうなずいて聞い
てくれたのだった。

- 「絆」章・終わり -

972書き手:2017/08/27(日) 09:30:46
これで「絆」章は終わりです。
当初の予定よりすれ違い度合いが減り、
代わりに六太の動揺具合が増大する結果になりました。
それでも結局六太が甘やかされているのは、やっぱり六太びいきだからw

次はようやく最後の「終」章です。
投下までまたしばらくお待ちください。

あと感想スレのほうは、雰囲気的に書き手が出しゃばって
レスしないほうが良さそうな感じだったので遠慮してました。
でもちゃんと見てます。いろいろありがとうございます。

973名無しさん:2017/08/27(日) 12:29:39
うわ〜最後素敵な演出ありがとうございます!まさか海神の頃が背景に流れるなんて思ってもみませんでした!六太が普通の人間でない事も受け入れ自分も普通じゃない事も受け入れつつ、でも前向きに二人の問題を対応する尚隆は流石だなと感動しました!彼の有事の安定感は素晴らしいですねw 絆はちまちまプリントアウトして冊子にする程楽しみに読んできました。もう新しい尚六は拝めないと諦めていたので大変こちらのお話は嬉しく心踊りました。終章投稿まで繰り返し読んでお待ちしています。

974書き手:2017/08/27(日) 19:35:49
楽しんでいただけたようで嬉しいです。
うっかりポカをやらかしても、最後はちゃんと決める尚隆です!

975名無しさん:2017/08/27(日) 20:31:50
うおおおおお、ようやく真に想いが通じ合った!
ずっと追ってきたので感慨深いです・・・・
973さんと同じように新しい尚六に飢えていたので、更新してくださるのが本当に楽しみで毎日見てました!
終章もお待ちしています!

976書き手:2017/08/27(日) 21:59:47
ありがとうございます。
次章は鳴賢、帷湍(&朱衡)、新婚旅行後wの尚隆&六太の話です。
時間を置くと書きにくくなるので、なるべく遅くならないようにしたいと思います。

977名無しさん:2017/08/29(火) 08:04:01
五百年の想いをぶつけることができた六太。それを優しく受け止めてくれた尚隆。ようやく通じ合えた二人に感無量です!
新婚旅行後の二人の関係がどんな感じになるのか、楽しみですw
読み返しながら終章お待ちしております。

978書き手:2017/10/17(火) 00:49:53
書き逃げスレの尚六祭り、大変美味しゅうございました。


さてちょっとサボっていたので間があいてしまいましたが、
そろそろ続きを投下していきます。
まずは六太が目覚めて割とすぐの頃の話。

979永遠の行方「終(1)」:2017/10/17(火) 00:53:28

 時刻は深更。大学寮の自分の房間で仲の良い友人ふたりと酒杯を重ね、鳴
賢は久しぶりに気分よく酔っぱらっていた。
 六太の意識が戻ったと、大司寇から書簡で密かに報されたのがつい先日の
こと。呪に由来する害が残っているかどうかはわからないので、様子を見る
必要はあるものの、おそらく心配はないだろうとも。房間にひきこもって何
度も何度も繰り返し短い文面を読んだ彼は、まずは安堵のあまり呆け、つい
で男泣きに泣いてしまった。そしてわざわざ、それもこんなに早く報せてく
れた大司寇の配慮に感激した。
 王の側近中の側近だという話なのに、一介の大学生にここまできめ細やか
な配慮をしてくれるなんて、いったい誰が想像できただろう。ああいう人が
六太を支えてくれているのだと思うと雁の民として誇らしかったし、六太の
友人としてわがことのように嬉しかった。国府では問答無用で罪人扱いされ
てしまった自分なのに、大司寇は予断を許さず、話を公正に聞いてくれた。
やはり直に宮城に仕える高官ともなると、下っ端の官とはまるで違うという
ことなのだろう。たぶん雲海の上で働く諸官もあんな人が多いに違いないと、
憧れもこめて何となく想像する。
 それだけに、もし首尾良く卒業して宮城に仕えられたとしても、そういっ
た有能で気遣いのある官があふれている以上、自分の出番はどこにもないの
だろうと考え、わかっていたことだとはいえ一抹の淋しさも覚えた。一足先
に卒業した半獣の友人は、もとは国籍も違う新人の身でありながら破格の扱
いで宮城にいると聞いたが、鳴賢は彼のような俊才ではない。
 そうやってほどよい酩酊のなかで手の中の杯を眺めるともなく眺めている
と、ふと玄度(げんたく)が尋ねた。
「で、六太はもう元気なんだろ?」
 鳴賢は酔いのまわった目を上げ、ああ、とうなずいた。うなずけることが
嬉しい。そうして安堵で呆けた余韻のままに、ぼんやりと答えた。
「まだ歩くまでは難しいらしいけど――何しろ長いこと寝たきりだったから。
でも少しずつ訓練すればすぐ動きまわれるようになるってさ」

980名無しさん:2017/10/17(火) 18:15:52
姉さん、お帰りー!

981名無しさん:2017/10/17(火) 19:38:35
待ってました!お帰りなさいませ!( ´ ▽ ` )

982永遠の行方「終(2)」:2017/10/17(火) 21:14:25
 ここにいる友人たちは、表向きの事情――六太が高所から落ちて頭を打ち、
意識不明に陥ったこと――は知っていた。それだけに、なかなか意識が戻ら
ないことで彼らはずいぶん心配していたのだが、呪が解ける見込みがないう
ちは鳴賢も何も言うことはできなかった。ただでさえ飲食はどうしているの
かとか、昏睡が長期に渡っているだけに疑問がいろいろ出ていたのだ。伝を
たどって高位の仙の医師に診てもらい、そのおかげで何とかなっているらし
いという伝聞形式で誤魔化してはいたが、それ以上のことは口が裂けても言
えるはずもなかった。六太が麒麟であることはもちろん、実は王の身代わり
に呪をかけられて意識不明で伏せっているなどとは。
 そして今回、大司寇からの報せを受けた鳴賢は、治療の甲斐あってついに
六太の意識が戻ったこと、身体の状態も快方に向かっているとやっと伝える
ことができたのだった。「見舞いに行こう」などと気軽に言い出されて止め
るのに苦労したが、報せの中で、回復に専念させるのでもっと良くなるまで
見舞いは待ってほしいと頼まれたと言い訳して事なきを得た。
 もっともあのような事件があった以上、これまでのように宰輔が気軽に市
井に出ることが許されるとも思えない。したがって鳴賢も友人たちも、もう
六太と会える機会はないかもしれないが、遠いところで彼の幸せを願おうと
思った。
 当初は、六太のことだから目覚めたら顔を見せてくれるだろうと考えてい
たものの、それはなんだかんだ言ってもすぐ解決するのではと、心の底で期
待していたからに過ぎない。だが危うく永遠に眠りに囚われるところだった
のだ、おそらく宮城の諸官は、二度と麒麟が危ない目に遭わないよう、奥深
い場所で大事に大事に守るに違いない。
「そっか。良かったね。あのちょこまかした賑やかな子がいないと、僕たち
もなんか寂しかったし」
「最近は風漢もお見限りだったしなあ。前は色街でけっこう見かけたのに」
「そのうち、また見かけるようになるさ」

983永遠の行方「終(3)」:2017/10/17(火) 21:20:45
 ふっと笑った鳴賢は、また杯に目を落とす。そう、六太に会えなくなって
も風漢がいる。あれだけいろいろ話した以上、きっと少しは六太の様子を伝
えてくれるだろう。そう考え、つながりが完全に切れたわけではないことに
安堵した。
「ん? 今、何か音がしなかった?」
 ふと敬之(けいし)が、書卓に面した窓のほうに目を向けて言った。鳴賢
も同じように閉まっている窓を見やると、確かに小石か何かが当たるような
小さな音がした。室内の明かりが窓の玻璃に反射して見づらかったものの、
外で何かが動いている気配があった。
「なんだ? 鳥か?」
 鳴賢は酔いにふらつきながら腰を上げ、窓を開けた。目の前に人の顔が現
われてぎょっとしたところで、よく見知った顔だと気づいて胸をなでおろし
た。
「風漢……なんて所から」
「よう、久しぶりだな。元気だったか。ちょっと通してくれ」
 騎獣にまたがったままの男から差しだされた酒壺を反射的に受け取った鳴
賢は、呆れながらも後ろに下がった。
 次の瞬間、魂が抜けるほど驚く。窓枠に足をかけて室内に身を乗りだした
相手が、何か大きな荷物を大事そうに抱えていると思ったら、豪奢な刺繍が
施された衾にくるまった六太だったからだ。それも見事な長い金髪をさらし
たままの。
 美しい髪は鮮やかに腰までを覆い、支えるように回されている風漢の腕に
も幾筋かかかり、室内の明かりを反射してきらきらと輝いている。まるで光
がこぼれているようだった。
 よく見れば風漢自身も、休養着らしいがかなり良さそうな衣服を身に着け
ている。知り合いの姿を認めていったんは笑顔になった友人たちも、あっけ
にとられて固まった。
「おまえたちもいたか。久しいな」
 奥にいた彼らに目をやった風漢は、こともなげに言いながら慎重に足元を
見定めて床に降りた。六太はと言えば、彼らを見て困ったような笑みを浮か
べている。

984永遠の行方「終(4)」:2017/10/17(火) 21:28:28
 大学寮の狭い房間に五人。鳴賢の友人たちは酒杯を片手に固まったままだ
し、他に座る場所もないため、風漢はさっさと壁際の臥牀に腰を下ろした。
六太を抱えなおして膝の間に座らせ、鳴賢に渡した酒壺を顎でしゃくる。
「まあ、飲め。俺の秘蔵でな、けっこううまい酒だぞ、それは」
「はあ……」
「こいつが元通りに動けるようになるまで、もうしばらくかかるようなので
な、とりあえず顔を見せに来た。どうだ、勉強のほうは。今度こそ卒業でき
そうだと楽俊に言っていたそうだが」
「はあ。まあ、たぶん」
 陸に打ち上げられた魚のように口をぱくぱくさせている友人たちを視界の
端で捉えながら、鳴賢は彼らへの説明の努力を放棄した。何から説明したら
いいのかわからないのはもちろん、今さら何を言っても混乱を招くだけとし
か思えなかった。
「六太――台輔――ええと。そのう」言葉遣いをあらためなければと思いつ
つも、あのときの六太の悲しそうな顔を思い出して、結局そのまま続ける。
「起きていて大丈夫なのか?」
「まーな。まだ歩いたりはできないけど、ちょっと起きてるくらいは全然平
気だ」
 六太は風漢の両腕に抱えられるようにして、彼の脚の間にちょこんと座っ
ている。よくよく見れば被衫姿のようだった。足元を見ると、くるまれてい
る衾の間から素足の爪先が見えている。寝ていた臥牀からそのまま連れてこ
られたとでもいうような風体だ。
 小間使いだの雑用だのと言いながら、実際は風漢は六太の側近のようだが、
いくらそれなりの官であってもこんなことをして咎められないのだろうか。
他人事ながら、鳴賢はそんな心配をした。自分たちのためにわざわざ連れて
きてくれたことはありがたいが。
「そうか……」
「心配かけたな。でも、もう大丈夫だから」
「ああ」

985永遠の行方「終(5)」:2017/10/18(水) 21:23:58
 鳴賢は何とか自失から脱すると戸棚に向かい、追加の杯をひとつ取り出し
てお持たせの酒を注いだ。しかしそれを風漢に渡すと、すぐに六太が「え、
俺のは?」と不平を鳴らした。
「……病みあがりだろ?」
「もう大丈夫だって」
「だめ」
「鳴賢のけち!」
「まあ、一口くらいならかまわんだろう」
 風漢は笑い、受け取った酒杯を六太の口に当てがった。しかし六太は両手
を添えて杯を傾けると、干す勢いでぐいぐいと飲んでしまった。
「あ、これうまい。何? 翠香酒?」
「おまえ……」
 手の甲で口をぬぐってご満悦の六太に、鳴賢は呆れた。以前の六太、鳴賢
のよく見知っていた六太がそこにいた。あの呪者の前で見せた、やけに静か
で達観した表情はどこにもない。
「だからもう大丈夫なんだって! あ、敬之と玄度も飲めよ。マジでうまい
ぜ、これ」
 いたずらっ子のようなにんまりとした笑みを向けられ、友人たちはやっと
金縛りから脱したようだった。しかし口を開けても、なかなか言葉が出てこ
ない。
 鳴賢は内心で彼らを気の毒に思いながら、風漢にもらった酒壺を、呆けて
いる友人たちの顔の前で掲げてみせた。
「そっちの酒、さっさと飲んじまえよ」
「あ、ああ」
 慌てた玄度が杯を一気に飲みほして空にする。しかし敬之のほうは逆に杯
を卓子に置くと、居住まいを正して風漢たちに向きなおった。
「六太、あのさ」
「ん?」
「その髪、さ」

986永遠の行方「終(6)」:2017/10/18(水) 21:26:16
 とたんに六太はすねたように頬をふくらませ、風漢を指し示した。
「文句はこいつに言えよ。こいつが勝手にこの格好のまま連れてきたんだか
ら」
「なに、往来を出歩くわけでもないのだから、別によかろう。すぐに戻るつ
もりだしな。それにおまえもこのほうが楽だろうが」
「それはそうだけどさ」金髪をくしゃくしゃにして頭を撫でる風漢の手から
逃れるように、顔をしかめた六太は首を傾けた。「でも騒ぎになるのいや
じゃん」
「別に騒ぎになっとらんだろうが。こら、暴れるな」
 駄々っ子めいて体を揺らそうとする六太を、風漢はあやすように後ろから
しっかり抱きしめた。六太は、はあーっと息を吐くと、おとなしくなってふ
たたび風漢の胸に背をもたれた。
「こいつの髪は実は鬣でな、切るわけにはいかんのだそうだ」と風漢。
「転変したときにみっともないんだよっ」
「だから暴れるなと言うておろうが。かと言って麒麟の鬣は染料のたぐいを
受けつけんので、布を巻いて誤魔化すしかないわけだが、いつもいつもそう
してばかりでは面倒だろう」
「そりゃ冬場はともかく、夏場は暑くて蒸れるしなー。これでけっこう苦労
してんだぜ、俺」
「そういうわけだ。見逃してくれ、敬之」
「はあ」
 やがて風漢は杯に残ったわずかな酒を飲みほすと、来たときのように再び
六太を抱えて立ちあがった。
「では顔も見せたことだし、戻るか。今抜け出したことがわかると、さすが
に官がうるさいからな」
「も、もう?」鳴賢は慌てた。
「こいつはまだ本調子ではないからな。なに、麒麟はそれほどやわではない。
すぐに以前のように走りまわるようになろうさ」
「またな、鳴賢」

987永遠の行方「終(7)」:2017/10/18(水) 21:28:21
 書卓を足がかりにして、さっさと窓から出ていく風漢の肩越しに、六太が
手を振った。騎獣は見たことのない種類だったがずいぶんと慣れているらし
く、おとなしく主人を窓の外で待っていて、彼らはそれに乗って飛び去って
いった。まるで一陣の風だった。
 二人の姿が消えると、友人たちが両側から鳴賢の肩をがしっとつかんだ。
「鳴賢!」
「いったいどういうことか、じっくり聞かせてもらおうか」
 ふたりとも目が血走っている。どう見ても腹に据えかねているといった様
子だ。
「あー……。だから六太はちょっと怪我、いや、病気――ってわけじゃなく」
 ふたりが一番聞きたいのは、六太の正体とか、どうしてそれを知ったとか、
そのあたりだろう。鳴賢にとっては一番面倒な部分だ。だからつい後回しと
いうか、六太の身に起きた事柄を適当に言って誤魔化そうとしたものの、麒
麟は基本的に病気にかからないし、怪我も負いにくい。表向きの事情だった
「頭を打って長期に昏睡」も、とたんにあやしくなってくる。失道かと誤解
されては大変だと思い直した。そもそもあの姿のままの六太を連れてきた風
漢が何も言わなかったのだから、このふたりになら真相を軽く説明してもか
まわないのだろう。丸投げされたとも言うが。
「えー、暁紅(ぎょうこう)に、去年起きた謀反の主犯に逆恨みで呪をかけ
られて、長らく意識不明だったんだよ。ほら、あの、昔の光州侯の寵姫だっ
たっていう女にさ。やっとその呪が解けて」
「む、謀反人に呪って!」
 仰天した彼らに、鳴賢は「口外するなよ」と念を押した。こんな話が不用
意に世間に出回れば、どんな影響があるかわからない。青ざめた友人たちは
こくこくとうなずいた。
「で、あれは、延台輔、だよな?」
「えーと。それは敬称であって……。その、名前が六太だから――」
 鳴賢はしどろもどろで説明しながら、内心で「風漢、恨むぞ」とつぶやい
た。

988書き手:2017/10/18(水) 21:30:33
とりあえずここまで。
鳴賢がらみはもう少し続きます。

989名無しさん:2017/10/18(水) 21:45:52
更新嬉しいです!
尚隆と六太の自然なスキンシップに萌える…!
姐さんの書く鳴賢、めっちゃいい奴ですよね

990名無しさん:2017/10/19(木) 23:11:01
わかる、自分の中で鳴賢の株がすごく上がった

991書き手:2017/11/15(水) 19:14:29
遅くなりましたが、鳴賢視点の話の続き、明日あたりから投下を開始します。
その次の帷湍の話を書けてないので、時間稼ぎに一日一レスです。
でも胸焼けしそうな内容なのでちょうどいいかもw

あと話の途中でスレを使い切ってしまう計算になるため、
先に次スレは立てておきます。
ちょっとしか使わなそうなのがアレですけど。

992永遠の行方「終(8)」:2017/11/16(木) 20:27:12

 そろそろ朝夕に秋の気配を感じはじめたころ、楽俊が昼間に鳴賢の房間を
訪れた。大学寮でまかないとして働いている母親のためにちょくちょく姿は
見せていたらしいのだが、鳴賢とはなかなか時間が合わなかったようで、ふ
たりは久しぶりに顔を合わせた。
「だいたい、ひと月ぶりくらいか? まあ、忙しそうだもんな」
 鳴賢がそう笑って茶杯を差し出すと、鼠姿の楽俊はどこかしょんぼりした
風情で杯を受け取りながら「朱衡さまはあれでかなり人遣いが荒くて……今
日はやっと取れた休みだ」とこぼした。もちろん出仕一年目から大司寇に目
通りできるなど、誉れでこそあれ忌避する事態ではない。楽俊とて気の置け
ない相手ゆえの、冗談めいた軽い愚痴にすぎないだろう。そもそも卒業すら
できていない鳴賢にしてみれば贅沢な悩みだ。所属自体は大司寇府ではなく
まだ最初に配属された部署で、本来の仕事の合間に雑用を言いつけられてい
るだけらしいが、それでもたまに重要な案件に関わることもあるというのだ
から。
「あとこの饅頭、母ちゃんから。もらいもんらしいけど、たくさんあって食
べきれないらしい」
「お、あとで敬之たちにも分けるか」
「ちょうどいいと思って潘老師のところにも持っていったら、関弓の少学に
出かけたとかでいなかったんだよなあ。ちょっくら聞きたいことがあったん
だけど、さすがにずっと待ってるわけにもいかねえ。そうだ鳴賢はわかるか
な、三十年ぐらい前に廃止された――」
 ちなみに楽俊には、風漢が六太を連れてきた夜のことはとっくに話して
あった。というより鳴賢は、あとで敬之らに追求されて大変だったという愚
痴をこぼさずにはいられなかったのだ。
 楽俊に問われるままに、昔の商法の解釈について鳴賢が持論を展開してい
ると、窓のほうから、こん、と音がした。ふたりが同時に窓に顔を向けると、
玻璃の向こうに、騎獣に乗った風漢と六太の姿があった。今度はちゃんと頭
に布を巻いて髪を隠していた六太は、風漢の前にまたがる形で普通に騎乗し
て、にこにこしながら胸元で小さく手を振っている。
「ろく……!」

993永遠の行方「終(9)」:2017/11/17(金) 19:16:07
 あやうく茶を吹きそうになった鳴賢だが、楽俊も何やら「夜でなくて良
かった……」と胸をなでおろしていた。
 風漢が笑顔で窓の玻璃を軽く叩き、ふたたび、こん、と音がする。鳴賢は
呆れながらも、座っていた椅子から立ち上がって窓を開けた。最初に六太が、
ついで風漢が、それぞれ身軽に房間の床に降り立つ。今度の騎獣は騶虞だっ
た。また窓外に待たせておくのかと思ったが、六太が手を伸ばして首元を撫
でながら「しばらく遊んでろなー」と声をかけると、騎獣は、くおん、と鳴
いて飛び去っていった。
 鳴賢はどちらかに譲ろうと、それまで座っていた椅子に手をかけた。しか
し風漢は不要というように無造作に手を振りながら「おう、元気そうだな」
と挨拶し、片腕にかかえていた袋を鳴賢の胸元に押しつけた。そのまま先日
の夜のように壁際の臥牀に腰をおろすと、脚の間に六太をちょこんと座らせ、
後ろから両腕を回してかかえこむようにする。体勢こそ前回と似ているが、
ずっと親密な空気が漂っていて、何とも形容しがたい雰囲気だった。鳴賢は
もちろん、こちらも譲ろうとしたのだろう、楽俊が床几から腰を浮かせかけ
た姿勢のまま固まり、ふたりの妙に睦まじい様子に困惑していた。
「みやげだ」
「ど、どうも……」
 彼らへの対応を迷いつつも、鳴賢は礼を言った。椅子に座り直してから、
思いのほか重たい袋の口を開けてみる。いくつかある紙包みは隙間から扁平
な形の果物が覗いており、大人の拳程度の大きさの小箱もいくつか。底には
酒らしい小瓶が布にくるまれて横になっていたが、指先でちょっと布をずら
してみると、複雑な文様で鮮やかに彩色された、ずいぶんと美麗な瓶だった。
「えっと。これ?」
「蟠桃(ばんとう)に菓子に酒だ。しばらく遠出していて、ねぐらに帰る前
にここに顔を出すかと思いついたのだが、どうせならそれなりのみやげを
持って来ようと思ってな。こっそり宮城に忍びこんでいろいろ漁ったら、地
方からの献上品と六太のおやつがあったんでくすねてきた」
「けん、じょう――!」
「台輔のおやつ……!」

994名無しさん:2017/11/17(金) 20:36:56
新スレ立ってた!
そして続き乙です、無理をせず更新していってください
待ってます!

995名無しさん:2017/11/17(金) 20:41:59
待ってました!ラブラブな二人の様子ゴチです!スレ立てもありがとうございます!続き待ってます…!

996書き手:2017/11/17(金) 21:42:52
えへへ、どうもです。
そりゃラブラブっすよー。
何せ新婚旅行直後なんで!
あーんなことやこーんなことをさんざんやってきた後です。



……青姦、とかも……。


えへ。

997名無しさん:2017/11/17(金) 22:27:06
ちょww
その話、読みたすぎですよ姐さん…!
興奮しすぎないよう心を落ち着けながら続きお待ちしてます…

998書き手:2017/11/18(土) 00:17:02
わははは、ほら、その辺書こうとすると、また完結が遠のくので……。
いちおうこんな↓感じですが、好きなように妄想してやってください。

まだ時折情緒不安定になるろくたんを連れて
尚隆は以前からたまに訪れていた僻地の里閭へ。
のんびりした場所で気持ちが落ち着き始めるろくたん。でもここで尚隆に誤算が。
里家に泊まってたんだけど掃除等は里家にいる老人とか孤児の担当なんで
さすがに情事の後始末はさせられないと、結果的に禁欲を強いられることに。
寝るときはろくたん、尚隆にぴったりくっついてなついてくるので余計煽られる。
数日後、里閭を後にした尚隆は、どこかの街で宿を取ろうと考えるものの
「これから妓楼なり宿なりを探して部屋を取って――だと? だめだ、もたん!」
ふと騎獣から眼下を見下ろせば、山間にちょっと開けた場所があり小さな湖が。
「山の中だしひと気はないな……よし!」
即座に着地して、状況がわかってないろくたんを草むらに押し倒し本懐を遂げる。
その後、体を洗うために湖に入り、そこでも以下略。
大丈夫、比較的南の地方だったこともあり水温は高かったけど、お湯じゃないから!
固まらないから!

ただ経験値の低いろくたんは尚隆の凶行に呆然とし
ここで「尚隆は……変態?」と疑惑が頭をもたげ始めた模様。

999名無しさん:2017/11/18(土) 03:00:11
ありがとうございます、姐さん!
里家の寝台は狭いだろうから、一緒に寝ると密着せざるを得ないよねw
尚隆にぴったりくっついて安心してすやすや眠るろくたんと、ムラムラもんもんとして眠れない尚隆とか
草むらに押し倒されて、明るい日差しの下で乱れた姿を見られちゃって、事後に照れるろくたんとか
そんな様子が可愛くて湖でまた襲っちゃう尚隆とか
めっちゃ妄想が滾るんですけど…!
変態尚隆、バンザイ!

1000書き手:2017/11/18(土) 11:16:36
「自分のモノ」認定したろくたんには遠慮なくケダモノになる尚隆ですw
しかもそれでいて乱暴じゃなく優しいから始末に負えない。
ろくたんをしっかり抱えて逃がさないようにし、愛撫の手も容赦ないのに優しい。
湖の中の凶行も、ろくたんが痛い思いをしないよう
ちゃんと柔らかい苔やらがびっしり生えている岸壁を選んで
そこにろくたんの背を押し付けて体勢を安定させてから立位でガンガン突き上げる。
もし誰か通りがかったらどうしようと、気が気じゃないのに次第にのめりこんで、
最後は尚隆にしがみついて大声で嬌声を上げてしまったろくたん。
あとで「……もう!」と甘えたふうに唇を尖らせてすねてみせるも、
「怒るな怒るな。しばらくおまえを抱けなかったから、
どうしても我慢できなくてな」と苦笑されておしまい。
ろくたんも恥ずかしいは恥ずかしかったけど
「そんなに俺がほしかったんだ」と思えばまんざらでもなかったり。




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