したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

今時の研究

1名無し@日本降参党員:2013/07/03(水) 11:18:57
1637年に有田を追われた一族の現在です。

2もっこす:2013/07/03(水) 11:34:07
1637年に有田を突然追われたご先祖様たちはどう考え動いたか。
我が家のご先祖はうまく細川家に仕官できた。
名前が熊本では藤原氏流れの一族と知られていたからだろう。
言葉も唐津弁は熊本肥後弁とコ酷似していた。
女房殿には「佐世保から来た」と誤魔化していたが。
まさか、有田を追放された陶工だとはいえなかったろう。
これは、一族の他家にも共通する事情である。
ところが、陶工の血は隠せない。子孫に才能として受け継がれている。
尽く美術の才能に秀でている。
名前と才能が追放された一族の現在を知る指標となる。

3もっこす:2013/07/03(水) 11:44:22
//www47.tok2.com/home/yakimono/honoo/02-01.htm
この追放された時点で、我が一族はうじゃうじゃいたらしい。
珍しくなかった。身についた人が全員一族状態なのだから。
今も、有田町はそういう状態だ。
おまけに、窯元同士婚姻をした結果、窯元は親族同士なのだ。(・_・;)

4もっこす:2013/07/03(水) 14:03:01
>>2
://www.shinshindoh.com/00-samurai.htm
これが、細川家侍帳ね。
同じ名前はない。
細川家が家臣を募集したのは、1632年、1637年の二度だけだ。
加増されたのだから募集し、島原の乱で家臣が戦死したから募集した。
なお、現在では戦国時代の終わりの事件が島原の乱とされている。
徳川幕府体制下では、石高に応じて家臣数が決められていた。
だから、廃藩置県の時、卒族問題がおこっても伊達、細川の二藩は足軽も武士と認められた。
常勤の実態があったからである。
江戸時代、普通の藩は足軽などは臨時雇いで済ませていた。
足軽は典型的な身分的周縁であり、色んな階層がいた。
改易された佐々正成の子孫も細川家の足軽になっている。
明治になって、済々黌を創立した。

5 もっこす ◆issCdUklS2:2014/12/25(木) 04:36:13
訂正しておく。
「佐世保から来た」は嘘ではなかった。
有田に隣接して「佐世保三川内」というところがあった。
古窯跡もある。
ここが先祖の地だろう。

6うさぎ:2017/11/06(月) 21:53:31
tp://slow-hand.jp/url/?id=1419


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板