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私の履歴書

1もっこす:2006/02/26(日) 16:25:50
あなたの人生聞かせtください。

2もっこす:2006/02/26(日) 16:55:52
ニフティ、現代思想フォーラム5番会議室より転載、1

01697/02501 QFG02265 もっこす RE:結婚と人権(実話版結婚と人権)
( 5) 98/11/16 04:58 01480へのコメント コメント数:1

#1480 xxxさん

 フィクションはありがちな設定としておもしろく読ませていただきました。
でも、実話の方がみんなに考えてもらうためになると思いますよ。そこで我が
一族に伝わる実例を紹介したいと思います。

 私もっこす一族は父方の曾祖父・祖父ともに熊本生まれです。明治維新でリ
ストラされるまでは侍であったそうです。祖父の妻つまり私の祖母が祖父のと
ころに嫁にきたときに、ご多分に漏れず姑による嫁いびりがあったそうです。
すなわち、なにかにつけて、「うちは二本差しだったんだからな」と言ってい
たそうです。それに負けるようでは嫁はつとまりませんので祖母が反論して曰
く、「私の家は三本差しじゃ!」と言い返したとか。この話を思い出す度に思
わず二本差しでも三本差しでもいいけど、おでんじゃないんだぞ、と突っ込み
を入れています。

 父の実家のあった村自体が、元武士という家が相当数あるような変な村で
す。第一に、村にはあってもおかしくないお寺がありませんでした。そして、
宗旨が浄土真宗西本願寺派という熊本の武士社会ではありがちな宗派でした。

 この九九歳で死んだお菊ばあさんのことは、いろいろ逸話が残っていますが
笑った時に見えるお歯黒が怖かったと言う父の思い出だけを書いておきます。
昔のお侍の奥さんていうのは鉄漿をしていたというのは、私は文献で知って
やっぱり我が家に伝わる言い伝えは本当だったんだと妙に感激した覚えがあり
ます。曾祖母は昭和の初め頃になくなっていますから一八三〇年代の生まれで
すね。この祖母夫婦の四男として私の父は生まれました。曾祖母にとっては最
後の孫にあたります。

3もっこす:2006/02/26(日) 16:57:33
転載2

 最後の武家の生活を知っていた曾祖母にも言い負けなかった我が祖母は、三
人姉妹でした。祖母の実家は、戦前まで熊本で一番の大地主だった島田家の小
作人をやっていた農家です。この島田家というのは、女優の島田陽子さんの実
家ですね。今でも公園みたいに馬鹿でかいお屋敷が残っています。さて、これ
から本筋に入ります。

 祖母の実家には、後継ぎの男子がいなかったので、長女に養子を迎えて、二
女三女は嫁に出たというわけですね。小作人の生活は相当苦しかったようです
が、鹿児島から養子にきた猪之助さんは働き者だったので一男四女を無事育て
上げました。この養子になるまでの経緯もみなさんのご理解の助けになると思
いますので我慢して読んでくださいね。

 猪之助さんは、明治の終盤頃に熊本鎮台に兵隊さんとして勤務していまし
た。たまたま非番のときに、熊本市内に行商にきていた農家の娘さんを見初め
て、後をつけたそうです。それも一度や二度じゃなかったようです。娘は知り
合いの家に逃げ込んで猪之助さんをまいたこともあったそうです。今でいうス
トーカーですな。ストーカー猪之助さんの努力の甲斐があって、娘さんの家を
突き止めました。次に、上司にわけを話して、仲人をたて結婚を申し込んだそ
うです。兵隊さんですからこれほど確かな保証もないわけです。身体は丈夫だ
し、今残っている写真を見てもいい男ですね。彼はよく働きました。生涯に、
一男四女を授かりました。子供を育てるために内職に精を出したそうです。彼
には非常に金になる特技がありました。靴作りです。たくさんの靴の木型を
持っていたそうです。農閑期には、せっせと靴を作っては、熊本市内に今もあ
る大きな靴屋さんに収めていたそうです。父と猪之助さんの子供とは、血のつ
ながらない従姉弟同士になります。

4もっこす:2006/02/26(日) 17:04:05
転載3


 猪之助さんは戦前になくなりましたが、戦後の農地改革で土地持ちになった
祖母の実家は長男が家を継いでいました。人間というやつは、財産ができると
とたんに卑しくなるもので、この長男は嫁に行かずに実家に残っていた妹たち
をいびりまくりました。追い出して確実に財産を独り占めにしようとしたみた
いですね。それを見かねた祖母が、末っ子の娘を自分の息子の嫁にしました。
血はつながっていませんから可能ですね。この娘が私の母です。これからは、
私が母から聞いた祖父の思い出です。

 母の父、すなわち私もっこすの祖父が働き者であり、特技として靴作りの技
術を持っていたことはすでにみなさんはご存知です。そして、この会議室の読
者であり、いささかでも部落問題を学ばれた方であるなら、明治期に部落の殖
産産業として靴作りが導入されたこともご存知でしょう。ところが、我が母の
実家も、そしてその村の人々もそんなことは知らなかったようです。第一に、
母の村も父の村の周辺にも、「部落」というものが存在しなかったからです。
知らないものは差別のしようがないんですよ。

 働き者であった祖父は、それなりに村の中での社会的地位を得ていたそうで
す。その祖父の出自が明らかになるのは、昭和の10年頃だったと母言ってい
ました。ある日、祖父を尋ねて祖父の親族の方が鹿児島からいらっしゃったそ
うです。ところが、祖父は親族を土間から一歩も座敷に上げようとはしなかっ
たそうです。家族は、あまりに非礼な祖父の態度を見て、親族の方を何度か座
敷に上げようとしたそうですが、その度に祖父が遮ったそうです。そして、時
間も遅くなったので、土間で食事を取ってもらったそうですが、祖父が鹿児島
から来た親族に指定した寝所は、納屋でした。母の実家の家の構造は、当時と
は大きく変わっていません。多少、玄関付近を増築したくらいですね。納屋付
近は当時のままですが、納屋の隣には汲み取り式の便所があります。親族の方
は相当くさい思いをされたことでしょう。

5もっこす:2006/02/26(日) 17:05:22
転載4

 祖父の親族がお帰りになってから、祖父を除く家族のものは「一族なのにあ
あまで酷い仕打ちをすることはないのに」と、話し合ったそうです。世間の話
では「部落」というものが世の中にはあり、祖父が鹿児島の親族にしたような
仕打ちを受けていることは知っていたようです。でも、まさか一家の家長が
「部落」の出であり、自分らの父もそうであったとは、それまで知らなかった
そうです。

 ここで考えてもらいたいのは、「部落」の出身であった祖父がいったん故郷
を出たことをもって、差別者の側に身を置いたその精神構造です。我が一族で
この話が語られるときには、猪之助じいさんの態度を一族として恥ずかしいこ
とだという口調で語られます。すなわち、人が人を差別するのは恥ずかしいこ
とだと。

 私の一族には、差別意識というものがありません。ちと不思議な話かもしれ
ませんね。私の祖母の行動がそれをよく証明しています。私の従姉弟の中で一
番綺麗だったT子という人がいます。年頃になる頃には貧しいサラリーマンで
はありましたが、恋人がいました。祖母は、その恋人と別れさせて、金持ちの
肉屋さんに嫁がせました。東京では、部落出身でなくても肉屋さんが営業でき
るそうですが、熊本では、関係者でないとむずかしいそうです。祖母の孫娘を
嫁にやる判断基準は、家柄などではなく金があるか否かでした。熊本の女性の
伝統的判断基準かもしてませんが。民謡のおてもやんの歌詞を思い起こしてく
ださい。

 私が部落というものを知ったのは、1975年に映画「橋のない川」の上映
運動に取り組む直前でした。74年11月22日に、あの「八鹿高校事件」が
起こって以後です。そして、一族のくわしい来歴を母に聞いたのは、最初に大
学解放研から拉致監禁されたその夜でした。 98/11/16(Mon) QFG02265 もっこす

6もっこす:2006/02/26(日) 17:19:12
NIFTYからの転載です。FSHISOの5番会議室より
02258/02501 QFG02265 もっこす もっこすの拉致監禁時代
( 5) 99/03/03 01:37 02035へのコメント コメント数:2

#2035 xxx さん

 完璧に変身しましたね。一皮剥けたと言うか、精神的にしなやかに御成りの
ようですね。うれしい限りです。

さて、私の場合の「拉致監禁」はどういう背景で行われたか書いておきます。
ただ、マイジンクスと言いますか心に少し気がかりなものがあります。この体
験談については、この10年ほどで3回は書いています。最初が、92年頃のFJON
でした。無論旧FJON時代ですね。当時「ステップ差別騒動」というのがありま
して、パソコン安売り店のステップから差別されたという自称一級障害者が、
無差別に各フォーラムに「告発文」を掲載するという騒動が起こっていますし
た。ところがこの「差別」されたはずの人が、別のフォーラムで差別行為をし
ていたんですから御笑いです。そしてその人と論争の中で私の体験談を書きま
した。後に、三才ブックスから出た「裏パソコン通信の本」というムック誌に
も騒動は掲載されています。次が筒井断筆騒動の頃で、最初に旧映画フォーラ
ムで、広島の教員の方と「橋のない川」の評価をめぐって論争になりました。
すぐ後に、FHANDで行われた「断筆宣言論争」でも書いています。ところがで
す、FJONは「リカちゃん騒動」で運営がおかしくなり、閉鎖一歩手前まで行
き、旧映画フォーラムは後にSYSOP失踪で閉鎖、FHANDのSYSOPかっくん氏は持
病の悪化により死亡と、さんざんな事実があります。これを読んだ方は、念の
ためにパソコンに塩でも撒いておいてください。もし、もしも万が一、ttyさ
んが糖尿で死んだら私のせいかも。糖尿じゃないって言っても、このファイル
を覗いたら、そうなる可能性が高いんだってば。
(転載続く)

7もっこす:2006/02/26(日) 17:21:18
2131 名前:もっこす[] 投稿日:2000/04/28(金) 18:18
私の監禁時代の幕開けは「八鹿高校事件」からでした。当時私はバリバリの映
画青年で、熊本市にあった自主上映団体の「熊本名作劇場」に参加していまし
た。これは私がまだ中学生の頃からあった団体で、ルーツは映画「戦艦ポチョ
ムキン」を見る会、とかいう上映運動の参加者が上映運動が終了した後も、そ
の趣旨を生かして作った映画馬鹿の集団だそうです。月に一度か二月に一度の
割合で旧作映画を上映していました。上映作品の選択は、上映当日に配布する
アンケートを参考にして、上映可能な作品から上映すると言うものです。黒澤
作品なんかも五万円くらいで借りれた時代ですね。今では、借りることができ
ても高いこといってますよ。フィルムの手配は映画センターという巡回上映を
職業としているところがやってくれます。西田敏行さんが映画で主演なさって
ますが、まさにあれですね。

(転載続く)

8もっこす:2006/02/26(日) 17:22:47
2132 名前:もっこす[] 投稿日:2000/04/28(金) 18:20
ところが、毎回アンケートの上位を占めながら、事務局長が絶対に首を縦に振
らない作品があったんですよ。それが映画「橋のない川」第一部、第二部です
ね。「やりましょうよ」と催促しても、もごもごと曖昧な返事しかしないんで
す。そんなときにおこったのが、「八鹿高校事件」でした。当時の運営委員一
同がそのときは全員一致で、次回上映は「橋のない川」と決めたのはあたりま
えでしょう。アンケート上位の作品を、不条理な暴力に屈してあきらめるなど
映画馬鹿集団の名折れですからね。事件が11月22日で、「橋のない川」上映が
翌年の3月でしたから、準備どころではなかったんですよ。ポスターを貼る前
に、前売り券配布網を通じて参加者を確保しました。私が担当したのは、熊本
市内の学校学園関係の前売り券の配布と販売促進でした。そして、ポスターを
熊本市内に張るのは、上映直前まで控えましたね。それでも、会場は二日で四
回の上映でしたが、毎回立ち見が出るくらい大盛況でした。解同は初日に30名
ほどのゼッケン集団で抗議にきました。他の県の会場では、電源を切られたり
スクリーンを汚されたりと言った妨害を受けていました。私たちは妨害に備え
て、あらゆる人たちと協力体制を取りました。警察にも警備をお願いしてあっ
たんですが、当日には、私服の警官が数人きていただけでした。当時の写真も
残っていますが、無線で連絡をとる私服警官の横で、解同幹部と話している教
師の方が写っているものがあります。穏やかそうに見える風景ですが、教師の
方はつい最近まで解同と協力して同和教育に取り組んできた方で、対する解同
幹部は、その少し前に解同熊本市支部を排除して、新たに熊本市支部を名乗っ
ている坂口という方でした。もうお亡くなりになったそうですが。
(転載続く)

9もっこす:2006/02/26(日) 17:24:43
2133 名前:もっこす[] 投稿日:2000/04/28(金) 18:22
解同の妨害に合いながらも、大成功をおさめた「橋のない川」上映会でした
が、その直後に私の「拉致監禁時代」が始まるとは思いもしませんでした。映
画「橋のない川」の第一部は完成当時、解同の協力の元、全国上映を成功させ
ていました。第二部については、熊本のように上映した県もあれば、上映でき
なかった県もありました。この映画がきっかけになって、各地に部落問題を考
える会が作られました。映画を見た人々が再び上映を成功させたわけです。

最初の拉致監禁は1975年3月下旬でした。朝からの講義があったので、9時には
学内にいました。教室への移動中に後ろから呼び止める声がします。振り向く
と、三人ほどの学生がいました。彼らは私を取り囲むと、口々によくも差別映
画を上映したな、とか,おまえのために部落大衆が迷惑してるとかいろんなこ
とを言っていました。とにかく、講義に行こうとすると逃がさないように邪魔
をするんです。小一時間も押し問答をしていると、何事かと私たちの周りには
見物人の山ができました。やがて、学内に巣くう暴力主義学生までもやってき
て、私は彼らの溜まり場のひとつに無理やり引きずり込まれました。彼らが監
禁場所に選んだのは、学内の学生の自主的な研究会がある棟でした。いくつか
の研究会は、過激派各派の溜まり場となっていました。なにせ、一時は革マル
派が自治会を牛耳っていた学校でしたので、三派系は言うに及ばず、すべての
セクトがあったようです。

溜まり場に拉致されてから、大学解放研の連中だけではなく、彼らと協力関係
にあるセクトの連中まで集まってきました。数を数えてみたら、約30名くらい
でしょうか。彼らはよく電話連絡をしていたようです。すべては解同県連の指
示によって行われていたようです。よく知った顔もいました。驚いたのは、解
放研の中に中学、高校、大学を通じての知人がいたことでした。彼の家は部落
ではなかったはずなんですが。
(転載続く)

10もっこす:2006/02/26(日) 17:29:07
2135 名前:もっこす[] 投稿日:2000/04/28(金) 18:29
後に、熊本を私が離れてから知ったことですが、彼の家があった地域は、いわ
ゆる「未指定地区」だったのです。ただ、どの同和団体もその地区に組織を作
るまでにはいっていなかったそうです。その「地区」は、いかなる団体の介入
も拒んでいました。自分たちにかまわないでくれと言うことだったそうです。

さて、彼らに監禁された私ですが、彼らと口論になりましたが、あいての論理
ミスをついて、相手もそのことをみとめました。だいたいが映画も見てはいな
い相手です。二度も映画「橋のない川」を鑑賞している私に原作さえ読んでい
ない連中が、いくら差別映画だと言っても馬鹿にされて当たり前でしょうね。
彼らは「警察に言っても無駄だ。警察はやさしいんだぞ」とか警察とつながり
があることを匂わせていました。ところで、監禁中におもしろいことに気づき
ました。幾人かが興奮して、私にに殴りかかろうとすると周りの連中が止める
んです。私は、よく訓練された自制が聞いた連中だなと思いましたが、そうで
はなかったようです。彼らの中のえらいさんが兵隊と思われる血の気の多いの
を部屋の隅につれていってなにやらひそひそささやいていたのですが、途切れ
途切れに「あかつき」とか「報復」とかいう単語が聞こえてきます。私には思
い当たることがありました。当時の学生の間でささやかれていたひとつの「伝
説」です。昔、ある暴力学生が学内で民青と口論になり、民青にびんたを食ら
わせたら、殴った学生の下宿がなぞの集団に教われて、ぼこぼこにされたとい
うのです。もっとも、その「伝説」を知る以前から「あかつき」または「あか
つき部隊」のことは知っていました。たぶん、一九六八年くらいだったかと記
憶していますが、夜遅く父が興奮して帰ってくると、「もう我慢することは無
いんだぞ」と話してくれたことがあります。68年当時は、暴力学生が各地の大
学でのし歩いていた時期でしたが、それを批判する学生共産党員が、殴られ死
亡する事件が続発していました。当時の共産党の方針は、暴力反対というもの
で、なぐられても我慢しろといったものだったそうです。父は職場の共産党に
入っていたそうです。おそらく共産党の会議かなんかで、「突破者」とか「査
問」に出てくる共産党の反撃の方針が出たのがこの時期だったんでしょう。私
(転載続く)

11もっこす:2006/02/26(日) 17:31:42
の家が、父の職場の共産党の溜まり場になっていて、よく共産党の会議なども
おこなわれていました。家が狭いんで隣の部屋で勉強していても、話が聞こえ
ました。その中に「あかつき部隊がどうした」とかいろんな話がありました。
もっとも、私が高校に入学した頃には、学生は勉強が本分という方針になった
みたいですが。

彼ら「あかつき部隊」の伝説的な暴力が、私を暴力から守ったわけです。こう
いった事情と言うのは、宮崎さんの本が出るまでは知りませんでした。当時出
された暴力学生に対抗する決定の中には、暴力のぼの字もありませんでしたか
らね。宮崎さんも川上さんも、暴力学生に殺されていった共産党員には言及し
ていませんね。それと、全国一斉に暴力学生退治は行われたはずですから、
「一万人」で済むはずもありません。

とにかく、事情はわからないが、拉致監禁されても殴られることはないと感じ
た私は、それから何度も監禁されながらも彼らを論破しつづけました。のべ
200時間以上は監禁されています。二年間ですからそんなもんです。最長で18
時間くらいですか。そうこうするうちに母が会社の定期検診で不整脈があると
診断されました。会社から帰ってくるなり、玄関で倒れこむことも多くなりま
した。真っ青な顔色で、一時間ほども横になっていました。私の拉致監禁が心
労をかけていたことは間違いありません。母の死期が近いのではないかと感じ
ました。
(転載続く)

12もっこす:2006/02/26(日) 17:33:03
2138 名前:もっこす[] 投稿日:2000/04/28(金) 18:43
私は、母の生きている間に卒業して社会に出る決心をしました。すべての闘い
から手を引いたんです。言いたいやつには何でも言わせておけ。私の母は一人
しかいないんだから。私はなり振りかまわず卒業だけを目標にしました。です
が、1976年12月31日の夕方、私がアルバイトから帰ってくると、家の明かりが
全部消えていてだれもいないんです。家に入ると、すぐに隣の家の人が、母が
救急車で病院に行ったと教えてくれました。バイクを飛ばして病院に駆けつけ
たときには、すでに死亡した母の体がありました。私が学校を卒業したのは翌
年の三月でした。

(転載続く)

13もっこす:2006/02/26(日) 17:34:11
母の死以来、私は年賀状の類は一切書いていません。解同が消滅するまでは私
には正月はこないでしょう。しかし、同和対策事業も終了する時代になってい
ます。資金源を断たれ、社会的に孤立しつつある解同が消滅する日はそう遠く
ないと感じています。まず、解同本体が解散する。私個人のリベンジはそれか
らです。私を監禁した大学解放研の足跡など調べるのは簡単なものです。熊本
の市営食肉工場に勤務している叔父が解同分裂の時に解同側に残っていますか
ら、叔父に調べてもらえばどこにいるかはすぐにわかるんですよ。

それと、私が卒業してから半年ほどして、警官をしている従兄から、飲みにさ
そわれました。小さいときから遊んできた従兄ですので、なんの不信も抱かず
に遊びに行ったんですが、一軒目のスナックで飲んでいるときに、見知らぬ男
が従兄に声をかけてきました。そのときの自己紹介では、従兄が警官になるに
あたって協力した警察の人ということでした。何軒か飲み歩いて家に帰ってか
ら父にそれを報告すると、従兄が世話になった警察官とは別人だとわかりまし
た。スナックであったときもらった名刺には「熊本県警警備一課警部」という
肩書きが刷り込まれていました。警備一課とは俗に言う「公安警察」のこと
で、一課は共産党担当の部署です。このとき私は悟りました。解同に売られ
た、とね。共産党ルートでは、私の父は共産党員ですから、接触してくるはず
が無いのです。解同が警察に私を売ったと考えるのが自然です。

私は卒業後一年で上京しました。それまでは、時々家に無言電話がかかってい
ましたが、たまたま電話に出た父が私が熊本を離れたと返事をしたら、それ以
来無言電話もかからなくなったそうです。

99/2/11(Thu) 04:28pm QFG02265 もっこす

14名無し@日本降参党員:2006/05/14(日) 22:52:20
本当?
誰からも相手にされて無いって聞いたけど。

15もっこす ◆Yo.FDX/z4Q:2006/06/17(土) 17:58:53
そんなこたあねえ。

16名無し@日本降参党員:2013/08/29(木) 12:29:04
要は、もっこすのひいじいちゃんが部落民だけど、もっこす自身は理不尽な部落解放同盟を嫌っているってことか。
イマドキ部落解放同盟なんて聞いたことも無いから、既に解散してるか、虫の息でしょ。
そろそろ個人的リベンジ始めないと、みんな寿命で逝っちゃうよ。

17もっこす:2013/08/30(金) 00:56:27
>>16
父方は1637年に有田を追放された一族なんだが、母方は奇妙なんだ。
養子に入った農家の姉妹と自分子供たちを全員士族の家に嫁がせている。
徹底した調査をしている。
この能力はあたしにも受け継がれている。
考えるに、長い間農民の監視をしていた一族ではなかったのかと思う。
空襲で全滅しているので調べようがない。

18名無し@日本降参党員:2013/08/30(金) 12:48:50
そろそろ個人的リベンジ始めないと、みんな寿命で逝っちゃうよ。

19もっこす:2013/08/31(土) 23:40:10
みんな、辞めちゃったし、復讐は果たした。
これだけ憎まれて、無事でいられるの?

20名無し@日本降参党員:2013/09/01(日) 08:02:09
>>19
無事ではいられないでしょう。じゃあもっこすに正月は来たのか。

21もっこす:2013/09/01(日) 14:26:30
うん、紅白見てるが知らない人ばかりだ。
やたら、時代劇や歴史に詳しくなりすぎて時代考証の穴がみえて困る。

22名無し@日本降参党員:2013/09/01(日) 20:26:23
>>21
まぁ、そう思えるなら、とりあえずは良かったナ
目上の者に失礼な言い方だが…( ゚ρ゚ )アゥー

23もっこす:2013/09/01(日) 22:40:44
今度参加予定の研究会なんだが、一族の人が担当してて笑った。
石をげれば当たるって、本当に有田に集中してる。


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