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日本で現代美術がマイナーな理由

1hiroto:2004/05/15(土) 14:55
なぜ日本では、現代美術が、かくもマイナーな
存在なのかを考えるスレッド。

2hiroto:2004/05/15(土) 15:10
そもそも、僕が現代美術掲示板を作るにいたった理由は、2chの
美術掲示板における、現代美術の話題に対しての低レベルな誹謗投稿が、
いかに多いかに驚いたことです。特に村上隆、森万里子、森村泰昌らの
成功に対するやっかみから生じる反感が非常に多い。そういうわけで、
現代美術の独立した掲示板が必要(僕にとって)だと思いました。

そういう幼稚な見解を表明している連中は、美大の学生、美大出身者が、
かなりの部分を占めているように見受けられます。僕はヨーロッパの
某国の美術アカデミーの学生をしてますが、日本の美大(芸大も含め)
を出て、同じ学校に通ってる人たちの大半は、現代美術音痴です。
要するに、日本の美術教育の中では、現代美術の歴史と展望を
教えることができる人材が、きわめて少ないように思われます。

3hiroto:2004/05/15(土) 15:24
近代美術も現代美術も西洋文化に起源を持ちます。
近代美術が現在の日本で、それなりの市民権を得て、
毎年のように「印象派展」のたぐいが日本各地で
開催されますが、現代美術の展示は、採算が合わない
せいか、比較的まれです。市場もゼロに近い。

近代美術は、近代的市民社会の欲望、快楽の充足装置で
した。現在の私たちは、ポストモダン社会に生きていて、
自ずから近代とは異なる、自己意識を持ち、様々な
メディアへの好奇心に動かされる存在です。普通に考えれば、
現代美術が今の我々の感性に最もマッチする、唯一のアート
であってしかるべきなのに。

4Hiroto:2004/05/15(土) 15:59
ちなみに、ポスト・モダンという言葉について、1980年代の
バブル経済と結びついた流行語で、今は口にするのをはばかる
という態度は、日本でだけ流布している誤った認識だと思います。
イリヤ・カバコフのオープニング・レクチャー(1999年8月7日
水戸芸術館現代美術ギャラリー・ワークショップ)が、
ポスト・モダンと現代美術を理解する上で参考になると思います。
http://www.arttowermito.or.jp/art/kabakovlecj.html

「現代美術用語集」(artscape)のポスト・モダニズムの項
http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/k_t/post_modernism.html

5匿名:2004/07/26(月) 20:31
さあ、何について語ろうか?
まず、君、人を集めてこいよ!誰もいないじゃん。

6匿名さん:2004/08/18(水) 04:27
村上も言ってたけど、所詮、現代美術は日本人には関係のないことなんですかね。
日本には、ブルジョワが存在しないから。

7匿名さん:2004/08/18(水) 04:57
(´−`).。oO (ここでボケて!!)

8匿名さん:2004/08/18(水) 05:56
>>5
税制も関係してるのかも。
日本ではアーティストが美術館に作品を寄贈しても、
贈与税をとられちゃうらしい。アメリカでは、寄贈によって税金が
控除される制度があるらしい。

98:2004/08/18(水) 06:04
上の投稿は、5でなく6に対して。
それから、日本では○山○夫みたいに、保守政治家や中国要人に
取り入って、アート以外の手段でステイタスを吊り上げてる人がいて、
そういう奴の作品は、暴落しないだろうとの予測の元に、日本の
ブルジョアたちやら保険金融機関が、海外では相手にされないような
絵を買ってる。でも竹下元首相も死んじゃったし、暴落しない保証が
どこにあるのか不思議だけど。

10匿名さん:2004/08/19(木) 06:41
いや、日本国民が、現代アートを求めていないんじゃないかって思ったの。

11匿名さん:2004/08/19(木) 07:47
そりゃどこの国の国民だって、その大多数は現代美術も、現代音楽も、
純文学も求めてないでしょ。
もともとこれらのアートは、ごく一部の鑑賞者によって支えられて
きたわけで、それが文化を形成してたわけだが、そういうわかりにくいものは
大衆蔑視でイカンというのが、昨今の日本の風潮なんじゃないかな?

12匿名さん:2004/08/21(土) 10:08
(`・J・´)ヾ
(ミライ)-○≪ パトロールチュウ!
 ‖ ‖
朝のパトロールにやって参りました

13匿名さん:2004/08/22(日) 22:42
日本のお宝って、茶道の茶碗とか、掛け軸とか、
箱にしまって、他人にはめったに見せないっていう考え方が、
あったでしょ。そんなことも現代アートの流行らないのと関係あるのかもね。
美術館で大勢の目にさらされた絵に、所有欲が湧かないとか。

一方で、グッチやプラダのバックには、日本人は所有欲ありまくり。W
使い心地がよい、長持ちする、見た目が美しいということで
ブランドバックは買われるのだろうけど。
利用価値のあるものは、やっぱり売れるのですよ。

14匿名さん:2004/08/23(月) 10:08
もともとアートってグッチやプラダのバッグみたいな安っぽい代物じゃ
ないわけですよね?商品価値を云々するのはアートマーケットの
仕事で、アーティストはマーケットとは切り離されて、美術史の中で
革新的な制作をしようと努力してる存在だと思うんです。そうじゃない
人も多いには違いないけど。
村上隆がバッグのデザインをしたり食玩を出したりしてるけど、
それもメタ・アート的な視点からの戦略性を考慮してると思うんです。
良い悪いは別として。
最大の問題は、日本の美術教育が未熟で不毛だということだろうと思います。
文学も音楽も同様に教育に問題があるのだと思います。

15匿名さん:2004/08/26(木) 18:03
>>14
>もともとアートってグッチやプラダのバッグみたいな安っぽい代物じゃ
ないわけですよね?

ほんとうにそう断言できる?
プラダやグッチのバッグを他の有象無象のバッグと区別する価値観は、
「芸術作品」だけを人間が作った諸々の生産物から区別する価値観と
まったく無関係だと思う?

現代美術は、そうした価値観を疑うところから出発してるんじゃなかったの?

1614:2004/08/27(金) 08:56
>>15
>ほんとうにそう断言できる?
僕には自明なことです。
>プラダやグッチのバッグを他の有象無象のバッグと区別する価値観は、
>「芸術作品」だけを人間が作った諸々の生産物から区別する価値観と
>まったく無関係だと思う?
僕にはプラダやグッチのバッグは、他の有象無象のバッグと区別される
べき特性があるとは思いません。単なるブランド的価値が付加されて
いるに過ぎない。日本の米が世界一美味いみたいな、捏造された神話を
まとっているから、一部の消費者から過大評価されているだけのこと。
他方で芸術は消費の対象ではありません。
アートのマーケットは2次的存在です。

>現代美術は、そうした価値観を疑うところから出発してるんじゃなかったの?
もしそう思われるなら、その主張を説得力のある形で投稿してみてください。

1715:2004/08/27(金) 15:10
モノの価格は、その値段を出して買う人がいれば、
どんなに高くても、それが正当な価格となる。
これは市場主義経済の原則。
プラダのバッグも高級米も「不当に」高価なわけではない。

プラダのバッグと有象無象のバッグの価格差を形成しているのは
品質の差ではなく、ブランドという差異性の記号そのもの。
従ってそのブランドに価値を見いださない人間には、その値段だけの価値はない。
つまりブランドはそれ自体が人為的に作られた価値観のシステム(体系)といえる。

いっぽうで「芸術」というものを考えてみると、
これもまた人為的に作られた「ひとつの文化的な価値観のシステム(体系)」ではないのか。
そのシステムの起源は西欧近代であり、そこで形成された価値の体系は
その外部の人(つまりバッグで言えばブランドを認めない人)には意味を持たない。
なお西欧近代で「芸術という価値の体系」がどのように成立したかについては、
王侯貴族のコレクション(例えばクンストカンマーと呼ばれるもの)から
近代的なミュージアム(美術館/博物館)への移行に関する分析からも
多くのことを知ることができる。

>>アーティストはマーケットとは切り離されて、美術史の中で
革新的な制作をしようと努力してる存在

アーティストだけがマーケット(市場原理)から切り離されるべき特別な「存在」、
という脳天気な思い込みの根拠はいったい何なの?

美術史はマーケットと隔絶した価値観なの? 過去のパトロンやコレクター、画商は
アーティストに比べればどうでもいい人間なのか?

とりあえず、こんなとこかな(W)

18利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/08/28(土) 06:50
14改め、利毛Tと改名します。
>>17
>プラダのバッグと有象無象のバッグの価格差を形成しているのは
>品質の差ではなく、ブランドという差異性の記号そのもの。
>従ってそのブランドに価値を見いださない人間には、その値段だけの価値はない。
>つまりブランドはそれ自体が人為的に作られた価値観のシステム(体系)と
>いえる。いっぽうで「芸術」というものを考えてみると、これもまた人為的に
>作られた「ひとつの文化的な価値観のシステム(体系)」ではないのか。
その通りだと思います。多くのブランド商品は100年ほどの歴史しか持たず、
そのため誰がどういう戦略でブランド価値を作ったか、だいたい分かってしまう
のに対し、芸術という文化的な価値観のシステムは、人類の歴史と共に
発展してきた、複雑なシステムであり、文化そのものの根幹ゆえに、今日でも
人文諸科学の研究対象となっています。
15氏がいみじくも認められているように、芸術=「文化的な価値観のシステム」は、
その他の嗜好品=「人為的に作られた価値観のシステム」とは、似てはいるけど、
同列に扱うのはナンセンスなのです。

19利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/08/28(土) 06:51
>>17
>そのシステムの起源は西欧近代であり、そこで形成された価値の体系は
>その外部の人(つまりバッグで言えばブランドを認めない人)には意味を
>持たない。
西洋近代の価値体系を受容したがゆえに、日本をはじめ、非欧米文化圏に
おいても、芸術や美術という概念が普及し、自分たちの非西洋的歴史においても、
芸術的活動が行われていたという認識が、近代において一般化しているわけです。
西洋の芸術と、それを支える理論の影響力は、単なるブランド商品などとは、比較に
ならない、強力な外部への浸透力を持っていました。その浸透力の理由は、
当時の西洋の科学技術や産業が優れていたから、芸術までもが優れているかの
ように思われたのだ、等の短絡的な理屈では説明できません。やはり、東洋とは
異なる西洋の文化、その真髄である芸術作品にふれて、圧倒される経験を、
当時の日本人は体験したのでしょう。
例えば、国粋主義的な日本美術擁護者であった岡倉天心でさえ、あるコンサートで、
ベートーヴェンの交響曲を聞いたのち、
「ああ、この音楽だけだよ、西洋が東洋より優れているのは。」
と友人のビゲローに語ったそうです。

20利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/08/28(土) 06:52
>>17
>アーティストだけがマーケット(市場原理)から切り離されるべき特別な「存在」、
>という脳天気な思い込みの根拠はいったい何なの?
文化を尊重する態度が、脳天気だとは思いません。文学にせよ、現代音楽にせよ、
真のアーティストは、市場原理など一顧だにしないものなのです。クセナキスや
リゲティが小室哲哉より偉大なアーティストであることは、僕にとっては自明な
ことですが、その根拠は何か?と問われれば、自明性の根拠について、
長々と説明を要します。少なくとも、アーティストは、作品がいかに多く、高額で
売れたかによって、その偉大さが測られるわけでは決してなく、その作品がいかに
革新的であるかによって、評価が決定すると僕は思ってます。

>美術史はマーケットと隔絶した価値観なの? 過去のパトロンやコレクター、画商は
>アーティストに比べればどうでもいい人間なのか?
どうでもいい。グッゲンハイムにせよ、レオ・キャステリにせよ、アーティストに比べれば
どうでもいい人間だったと思います。

21利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/08/28(土) 08:35
このスレッドのテーマ、「なぜ日本では、現代美術が、かくもマイナーな
存在なのか」という疑問への1つの答えが、15氏の発言を契機に、明らかに
なったように思われます。つまり今日の日本では、かつて文化を構成して
いた、視覚美術や芸術的音楽や文学といった諸芸術は、ブランド商品と何ら
区別されるべきではない、消費されるべき商品、嗜好品なんだという、
資本主義経済一元主義。それから、西洋で生まれ発展してきた概念、思想、
文化といったものは、東洋の島国の日本人には、関係ないものだという
新保守主義。相互に関係する、これら2つの傾向は、従来の文化や教養
といった大人の価値を否定しつつ、自分たちが偏愛するオタク的な狭い
価値体系を擁護するのに利用されています。
(15氏がそういうオタクだと言っているわけではありません。一般論です。)
こうしたオタク人口の増大が、まともな文化を経済原理によって
隅へ押しやり(書店でエロ写真集が美術書を圧倒しているごとく)、
批判精神を欠いた、幼児的な「萌え」や「癒し」が恥ずかしげも無く
自己主張しているというのが、今日の日本の嘆かわしい現状というわけです。

2215:2004/08/28(土) 17:06
利毛Т氏に聞きたいことはいろいろあるけど、とりあえず、この質問に答えてね。

>芸術という文化的な価値観のシステムは、人類の歴史と共に
>発展してきた、複雑なシステムであり、文化そのものの根幹ゆえに、今日でも
>人文諸科学の研究対象となっています。

おいらは、「芸術という文化的な価値観のシステム」が、
「人類の歴史と共に発展してきた」とは思わないんだけどな。

前にも言ったようにこの「価値観のシステム」が作られたのはヨーロッパ近代(だいたい18世紀ぐい)。

そこで近代のヨーロッパが何をしたかというと、この「価値観のシステム」という
モノサシを過去の文化遺産全般に適応し、芸術と非芸術に分類した(美術史とミュージアムの誕生)。
これで始めて、パルテノンはただの遺跡から「芸術品」に昇格した。
そのいっぽうで西欧近代は同じモノサシを同時代の非西欧世界の文化にも適応し、芸術と非芸術に分類した。

というわけでこのモノサシは過去から現在、世界のあらゆる文化に適応可能なものとなったが、
その歴史はたかだか数百年にすぎないのでは?
ま、高級ブランドよりはちょっとは長いけどね(w。

利毛Т氏は芸術が「文化的な価値観のシステム」であることには同意しているみたいだけど、
その起源は何時で何処だと考えてるの?(もしおいらと違う考えなら、具体例を挙げてちょーだいね)

2315(つづき):2004/08/28(土) 17:54
>>19
利毛Т氏はこのモノサシが非西欧社会に受容された理由をどう考えているの?

西欧の芸術は非西欧の文化よりも素晴らしく、それに圧倒された非西欧の人は喜んでそれを受け入れた、という認識でいいのかな?

おいらはそんなきれい事の話じゃないと思う。
受容には西欧における資本主義の発達と植民地主義(帝国主義)が密接に関わっているのでは?

あんたの理屈はブッシュJr.には通じると思うが、ビン・ラディンには通じないと思うよ(w

24利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/08/28(土) 18:46
>そこで近代のヨーロッパが何をしたかというと、この「価値観のシステム」という
>モノサシを過去の文化遺産全般に適応し、芸術と非芸術に分類した(美術史とミュージアムの誕生)。
>これで始めて、パルテノンはただの遺跡から「芸術品」に昇格した。
パルテノン神殿の造営の総監督を務めたフィディアスは、当時(紀元前5世紀)のアテネにおいても
傑出した彫刻家として認められており、近代的芸術家概念が無かったからといって、彼の作品が
芸術では無かったとする主張は、単なる空論にすぎないでしょう。紀元前4世紀のアレクサンダー
大王の宮廷画家であったアペレスにしても、その作品は現存しないものの、多くの逸話と後世の
画家たちに大きな影響をあたえています。ポンペイの秘儀荘にほぼ完全な形で残る、逸名画家に
よるフレスコ画を観ても、その技術はジョットの時代と、さして変わらない高いレベルのものである
ことがわかりますし、ナポリの考古学博物館にあるファルネーゼのヘラクレス像を観れば、
紀元前5世紀のブロンズ像からのローマ時代の摸刻からでも、ミケランジェロに匹敵する造形性が
達成されていたことが理解できるでしょう。

>利毛Т氏は芸術が「文化的な価値観のシステム」であることには同意しているみたいだけど、
>その起源は何時で何処だと考えてるの?(もしおいらと違う考えなら、具体例を挙げてちょーだいね)
広い意味でのアートの起源は、人類の起源にまでさかのぼるように思います。人類が文化を獲得した
ときに、呪術的行為としてボディペインティングをしたり、狩の光景を洞窟に描いたり、死者を花と
一緒に葬ったりといった、生活の実用には直接には結びつかない習慣が生まれるとともに、
アートを求めるメンタリティが産声をあげたんだと思います。
芸術が鑑賞者であるわれわれの心に現象するものである以上、近代的芸術概念が成立することを
もって芸術の誕生と見做す考え方は、言葉のレトリック以上の真実性を持ってはいないと考えます。

25利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/08/28(土) 18:51
>>23
>受容には西欧における資本主義の発達と植民地主義(帝国主義)が密接に関わっているのでは?
>あんたの理屈はブッシュJr.には通じると思うが、ビン・ラディンには通じないと思うよ(w
あなたの理屈は、原理主義的という点でビン・ラディンや仏教遺跡を
爆破したタリバンたちと、とても親和性がありそうですな(笑)

26利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/08/29(日) 07:32
>>23
>西欧の芸術は非西欧の文化よりも素晴らしく、それに圧倒された非西欧の人は喜んでそれを受け入れた、
>という認識でいいのかな
まさか!中国の宋の時代の水墨画には、当時の西洋に欠落していた、
のびやかな空間感や自然感があり、とても知的かつ自由な世界が描かれて
いたと思います。そういう情景が漢詩に歌われた精神とともに、室町時代に
日本へ到来し、雪舟に受け継がれ、はては等伯の松林図へと昇華していった
と思うわけで、そういった経緯は岡倉天心も『東洋の理想』などの
著作でも把握されているところだと思います。それらの絵画の継承・発展の
歴史を、西洋美術史を鏡として、固有の東洋美術史として捉える契機となった
点で、西洋の美術概念の受容は、肯定的な側面も多々あったと考えます。
もちろん、従来差別が無かった芸術的表現形態に、絵画と彫刻を装飾的な
仕事の上位に置くという、西洋的な美術のヒエラルキーを無理やり
当てはめたことや、文人画や浮世絵を不当に貶めたことなど、日本の美術の
再編成作業に、多くの問題点があったことも確かでしょう。そうした
文化的コンフリクトは、文化を再生させる契機にもなり得ると思う。
水墨画や茶道など中国や朝鮮の文化とのコンフリクトを通して、
日本文化の発展が見られた例であると思う。それらの文化的価値体系
を芸術であると見做す事は、別に不自然なことではないと思うのです。

2715:2004/08/29(日) 10:36
>>24
あれ〜、かなり誤解されてるなあ。シクシク。
>芸術が鑑賞者であるわれわれの心に現象するものである以上、近代的芸術概念が成立することを
>もって芸術の誕生と見做す考え方は、言葉のレトリック以上の真実性を持ってはいないと考えます。

おいらは西洋近代以前に芸術(正確には芸術と見なしうるもの)が存在しなかったとは言ってないのよ。
おいらが言っているのは、人間の文化活動全般を芸術と芸術でないものに分ける価値の体系が西洋近代に誕生した、ということ。

>芸術が鑑賞者であるわれわれの心に現象するものである
その「われわれ」を規定してるのが実は近代(的価値観)じゃないの? ということをおいらは問題に
してるのよ。

たぶんあんたは、芸術が歴史的にも固有の価値観に貫かれた自律的なものと捉えているだな。
おいらは、芸術もその時代の社会や文化全般との関係のなかで形成される
他律的なものだと思うんだけどね。

>>26
おおむね同意。
おいらが23で皮肉ったのは、19の言説に西欧中心主義的な匂いを感じたからだよ。

西洋起源の近代性を普遍的なモデルにすることには、常にイデオロギー的な圧力がかかっている。
日本の場合はコンフリクトはあの程度のものですんだけれど、
世界中のすべてが日本みたいにラッキーだったわけじゃない。
ほかの地域ではもっと厄介な問題をいろいろ引き起こした(てる)ことは
認識する必要があるんじゃないの?

28利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/08/30(月) 01:03
>>27
>おいらは西洋近代以前に芸術(正確には芸術と見なしうるもの)が存在しなかった
>とは言ってないのよ。
>おいらが言っているのは、人間の文化活動全般を芸術と芸術でないものに
>分ける価値の体系が西洋近代に誕生した、ということ。
なるほど。誤解してましたね。ただ、人間の文化活動全般を芸術と芸術で
ないものに分ける考え方は、必ずしも西洋近代固有ではなかったように
感じる。東洋の美術においても、それなりのヒエラルキーの意識が
はたらいていて、江戸時代でも狩野派のお抱え絵師の作品はハイアートで、
浮世絵は1段下に見られていた。岡倉天心の意識も、こうした江戸時代の
考えを脱していなかった。彼のブレーンであった狩野芳崖や橋本雅邦も
狩野派だったから、明治時代でも民間では錦絵が人気を保っていたにも
かかわらず、東京美術学校でも日本美術院でも浮世絵版画技術は、全く
無視されていた。そういうわけでハイアートとしての芸術と工芸や
大衆的な戯画的作品とを差別化すること自体は、明治の日本では、
違和感なく受け入れられてしまったんじゃないかという気がします。

29利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/08/30(月) 01:31
>>27
>>芸術が鑑賞者であるわれわれの心に現象するものである
>その「われわれ」を規定してるのが実は近代(的価値観)じゃないの?
> ということをおいらは問題にしてるのよ。
芸術作品を、たとえ宗教的主題を扱うものにせよ、その宗教的要素を
括弧に入れて、鑑賞、批評するという態度が確立したのは、西洋近代に
おいてたという意味での発言だとすれば、おおむね同意できる。
ヴァザーリの画人列伝などは、かなり先駆的な例ではあるけれど。
優れたアーティストは、つねに彼に先行する時代の優れたアート作品に
対して、それらを批判的の乗り越えることをアートの実践を通して、
目指してきた。その傾向は近代において、さらに加速し、現在に至って
いる。
>たぶんあんたは、芸術が歴史的にも固有の価値観に貫かれた自律的なもの
>と捉えているだな。
芸術は、芸術固有の歴史を持っており、芸術家が常に参照し乗り越えよう
とするのは、その歴史であったと思う。もちろん、20世紀の芸術家の
多くが、マルクス主義的歴史観に影響されていたことも事実である。

>おいらは、芸術もその時代の社会や文化全般との関係のなかで形成される
>他律的なものだと思うんだけどね。
もちろん時代の推移と共に、芸術家をとりまくリアリティのありかは、
変化していく。産業社会の高度化、マスカルチャーの隆盛から、無意識に
せよ意識的にせよ、芸術家は一般大衆と何ら異なることなく影響を受ける。
当然、そうした影響は、その作品の表現に影を落とすものだ。
ただ、アーティストは、その自己責任において、自律的に自己の表現を、
固有のコンセプトのもとに展開すべき存在であって、一般大衆の嗜好に
あわせて表現を選択したりはしないものだと思う。商業映画や漫画とは、
全く違う制作原理なのである。

3015:2004/08/31(火) 09:05
>>28
>人東洋の美術においても、それなりのヒエラルキーの意識が
>はたらいていて、江戸時代でも狩野派のお抱え絵師の作品はハイアートで、
>浮世絵は1段下に見られていた。

うんうん、そりゃそうだわな。
西洋、非西洋を問わず、多くの社会ではそのなかで生産される文化のジャンルの内部に
序列がある。ひょっとしたら序列の無い社会もあるかもしれないけど、
おいらは文化人類学者じゃないんで、知らねえけど。
で、その序列は受容層の違いや用途の違い(宗教用か世俗用か)などで決まってくるわけね。

でもねえ、おいらが問題にしている、西洋近代に成立した
「芸術と芸術以外のものを分ける価値の体系」はそうしたものとは質的にまったく違う。

簡単に言えば、この価値の体系は、それによって選別された「芸術」をそれまでの宗教的な神に代わって、神の位置に据えた。「芸術」は近代が創造した新しい「神」(正確には「神々」のなかのひとつ)なのよ。
「神」というのはもちろん比喩的な意味だよ(念のため)。
もう少し詳しく言えば、タブーによって守られた聖域を形成したということ。

3115:2004/08/31(火) 09:14
ついでにもうちょっと。
>>29
>芸術作品を、たとえ宗教的主題を扱うものにせよ、その宗教的要素を
>括弧に入れて、鑑賞、批評するという態度が確立したのは、西洋近代

芸術が政治や宗教といった外的なものに左右されず、芸術家の内面のみに
従う自律的なものだという思想はそこで初めて成立したんじゃないのかい?
おいらの浅〜い知識では、確か18cドイツのヴィンケルマンあたりが
言い出しっぺのはず。
その結果として近代以降の西洋では、「芸術作品でしかない芸術作品」
(芸術作品であるという以外に価値を持たないもの)が芸術の中心になった。

>>ただ、アーティストは、その自己責任において、自律的に自己の表現を、
>>固有のコンセプトのもとに展開すべき存在であって、一般大衆の嗜好に
>>あわせて表現を選択したりはしないものだと思う。

この「一般大衆」を「王侯貴族」や「教会」に置き換えれば、あんたの意見は
ヴィンケルマンとほぼ同じじゃないの?
ちなみにヴィンケルマンは芸術の自立性が実現していたのは古代ギリシアのみで、
それ以後のヨーロッパの芸術はすべて、少数の例外を除いて堕落したものと考えていた。
特に彼が厳しく批判したのは、バロックとロココの芸術。
おいらはヴィンケルマンのような反動的な復古思想の持ち主ではないけど、
ロココの芸術が「リッチでゴージャスで快楽的なものが大好き!」という当時の
宮廷社会の嗜好を満たすために作られたものであることは確かだと思うね。

32利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/01(水) 05:30
>>30
>簡単に言えば、この価値の体系は、それによって選別された「芸術」を
>それまでの宗教的な神に代わって、神の位置に据えた。
フランス革命の混乱期に、キリスト教の神にかわって、理性という神を
人格化して、それを崇拝する儀式を行ったらしいけど、芸術にもそういう
位置が与えられたってことかね?
まあ、美術館と教会の社会的機能には、何がしか類似性があるとは思うけど。
それにバロックの意義は、対抗宗教改革の運動として、カトリック教会を
美術館にしてしまおうというものだったとも思われるし。
でもねえ、西洋ではキリスト教信仰は根強く存続してるよ。
東欧の旧共産圏の連中なんか、無心論者だったのに、不幸にもまた
キリスト教に入信しはじめてる。比喩としても、神というほど大げさな、
芸術の賛美が、近代において始まったとは思えないけどね。
キリスト教との関係よりは、近代国民国家の成立との関係で、西洋近代の
芸術概念が形成されてきたと言うべきだろうね。

>「芸術」は近代が創造した新しい「神」(正確には「神々」のなかの
>ひとつ)なのよ。
まあ、芸術家=天才=神に愛でられた人という、さして根拠もない考え方が
19世紀のロマン主義の流行の頃ぐらいから広まって、今でもそういう観念に
捉われてる人も多いね。それでも西洋近代以前にも、傑出した芸術家には、
洋の東西を問わず、特別な敬意が払われていたと思うけどね。
芸術以外の近代に創出された神々には、例えば何があるの?
科学?

>もう少し詳しく言えば、タブーによって守られた聖域を形成したということ。
具体的には、何がタブー?芸術の自律性を疑う事とかかな?

33利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/01(水) 06:07
>>31
>芸術が政治や宗教といった外的なものに左右されず、芸術家の内面のみに
>従う自律的なものだという思想はそこで初めて成立したんじゃないのかい?
>おいらの浅〜い知識では、確か18cドイツのヴィンケルマンあたりが
>言い出しっぺのはず。
それはつまり、芸術は自己表現だっていう図式のことなのかな?
しかし美学や芸術学の研究者による芸術観と、芸術家の芸術観とは、
ほとんど関係無いと思う。芸術家は学者より、芸術の何たるかが、
よく分かっているが、それを理論化はしない。ヴィンケルマンが
何を言ったかは知らないけど、たぶん芸術家以外の、世間一般の人々の
芸術観に影響を与えただけのことだろう。
宗達でもレオナルドでも、優れた芸術家は、たとえ宗教的主題を扱おうが、
誰も実現し得なかったもの、想像され得なかったものを作り出そうとして
いた。芸術活動の自律性、創造のプロセスにおいて、芸術家の精神が自由で
あるということは、芸術性の根幹に関わる自明性だと思う。そういうことは、
鑑賞を繰り返すうちに、自然に理解できるものなのだが。

34利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/01(水) 06:11
>>31
>ロココの芸術が「リッチでゴージャスで快楽的なものが大好き!」という当時の
>宮廷社会の嗜好を満たすために作られたものであることは確かだと思うね。
ヴァトー、ゴヤもまたロココの芸術家である。宮廷社会の嗜好を満たし得たから、
彼らの作品が今日まで鑑賞され続けていると言いたいのかね?
そんなわけ無いだろ。

3515:2004/09/01(水) 22:14
>>32
>でもねえ、西洋ではキリスト教信仰は根強く存続してるよ。
>東欧の旧共産圏の連中なんか、無心論者だったのに、不幸にもまた
>キリスト教に入信しはじめてる。
そいつはあくまで、政教分離という近代的な枠組みのなかでの話でしょ。

>神というほど大げさな、芸術の賛美
「神は賛美するもの」という認識では
おいらの言ってることは理解できんと思う。
「神を信じる」というのは「神の僕になる」ということだよ。

>キリスト教との関係よりは、近代国民国家の成立との関係で、西洋近代の
>芸術概念が形成されてきたと言うべきだろうね。
西洋史における近代化というのは近視眼的には
絶対王政から市民社会を基にした国民国家への移行だけれど、
もっと巨視的に見れば、政治と宗教の分離(宗教の脱権力化・無力化)へ
向けての長〜いプロセスの最終段階なわけね。
で、その果てにニーチェの言う「神は死んだ」という
歴史認識が出現するわけでしょ。

>芸術以外の近代に創出された神々には、例えば何があるの?
>科学?
「科学」のほかにもいろいろあるよーん。「技術」「文化」「歴史」。
ものすごく大雑把に言えば、こんなところじゃない。

>具体的には、何がタブー?芸術の自律性を疑う事とかかな?
それもタブーのひとつだけど、最大最強のタブーは「神」の存在を認めないこと。
例えばタリバンはそれを石仏の破壊として実行したわけでしょ。

さらに言うと、
日本の近代化のなかでも「芸術」の受容が試みられたが、
そこでは「芸術」は「神」になれなかった。
なぜならそこにはすでに天皇という強力な「神」がいたから。

で、ようやく「日本で現代美術がマイナーな理由」に戻るわけだけど、
その理由の一端(というか遠因)は、
こうした「芸術」の中途半端な受容にあったんじゃないかな、
とおいらは思うわけよ。

3615:2004/09/01(水) 22:17
>>34
ついでに質問をひとつ。
ロココの話で気になったんだけど、
あなたは美術史や建築史における「時代様式」というものをどう考えてるの?
「様式」の展開はすべて芸術の内在的要因によるものだと思う?

33.に関しても聞きたいたいことがあるけど、とりあえずここまでにしとくよ。
歯ごたえのある返答を待ってるよ!

37利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/02(木) 06:39
>>35
>「神は賛美するもの」という認識では
>おいらの言ってることは理解できんと思う。
>「神を信じる」というのは「神の僕になる」ということだよ。
まあ、あなたの言ってる理屈は大変単純なので、言わんとすることはわかる。
19世紀後半あたりから、芸術を神聖視して、まるで殉教するように夭折した、
少数の優れた芸術家たちが出現し、それらが神話化されることで、さらに、
何十万、何百万人もの無名の芸術家(詩人なども含め)が出現した。
これは、近代特有の現象であって、それ以前の時代には、無かった事態だ。

その背景には、ロマン主義文学による天才神話の創出と、活字メディアによる普及や、
公的機関による美術教育の制度化があるように思う。

過度に理想化されたベートーベンとかミケランジェロとかの芸術家の伝記が出版され、
ゴッホの悲劇的な生涯が、その作品から切り離されて、有名になったことを筆頭に、
芸術家が、聖フランチェスコのような聖人として、偶像化されるようになった。
また、近代国家が国立の美術専門家の養成学校、美術アカデミーをつくり、私立の
画塾なども増えた。たぶん、美術(装飾や舞台美術やデザインを含む)の需要が、
近代産業社会の到来によって、相対的に増加したんだろう。ヨーロッパ各国の
美術アカデミーには、たいてい美術館が併設されている。模写や摸刻の便宜のためだろう。

だいたい以上のような、近代における芸術の社会的地位の浮上は、俺も認めるわけだが、
その理由付けをキリスト教の権威の低下と相関させるのは、非キリスト教圏への、
近代的芸術観の輸出が、容易に行われたことを考えれば、あんまり適切なものでは
ないことが理解できるだろう。

38利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/02(木) 06:56
>>35
>西洋史における近代化というのは近視眼的には絶対王政から市民社会を
>基にした国民国家への移行だけれど、もっと巨視的に見れば、
>政治と宗教の分離(宗教の脱権力化・無力化)へ向けての長〜いプロセスの
>最終段階なわけね。
そりゃ、巨視的な見方ではなく、別の側面からの見方だろ。
俺の印象では、ブッシュのアメリカを見ればわかるように、ヨーロッパ諸国では、
表向きには政教分離をはかりつつも、キリスト教を国家の装置の中に組み込んで
国民の国家への忠誠心や愛国心を高めるのに利用してるように見える。
イタリアの小学校には十字架の設置が義務付けられて、宗教の授業もある。
そもそも、芸術家であること、芸術に世俗的経済的以上の価値を見出す事と、
宗教の信仰を持つこととは、あまり関係が無いと思うけどね。
信仰を持つ人間が文化や芸術に理解を持たなかったり、むしろ狂信的信仰の
ゆえに、サボナローラみたいに、「退廃芸術」を焼き捨てるよう民衆を指導する
奴もいたし。芸術家でも仏教徒だったりキリスト教徒だったりマルクス主義者
だったり。
というわけで、キリスト教信仰の衰退を、近代の芸術信仰の根拠とするのは、
相当の眉唾だな。

39利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/02(木) 07:38
>>35
>>芸術以外の近代に創出された神々には、例えば何があるの?
>>科学?
>「科学」のほかにもいろいろあるよーん。「技術」「文化」「歴史」。
>ものすごく大雑把に言えば、こんなところじゃない。
で、それらの神々の僕になることが、芸術家や学者になるってことだと、
俺は別に認めても良いけど、15氏は、芸術だけでなく、自然科学、社会科学、
人文科学などの、近代的な学問を研究する価値も、やはり市場経済的な価値で
おしはかるべきだと言いたいわけ?だとすると応用科学にしか価値が無いって
ことかね?俺は、あらゆる学問には、それぞれ固有の研究すべき道筋があるし、
世の中の役に立つかどうか、金儲けに繋がるかということは、2次的なもの
だと思う。文化というのは、そういうもんだと思うんだけどね。まあ、大学で、
そういう役に立たない研究を続け、給料がもらえる時代というのは、近現代に
特有なことではあるし、今の日本のように不況が続くと、切り捨ててしまえという
意見も出てくるんだろうが。

40利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/02(木) 07:58
>>27
>西洋起源の近代性を普遍的なモデルにすることには、常にイデオロギー的な
>圧力がかかっている。
>日本の場合はコンフリクトはあの程度のものですんだけれど、
>世界中のすべてが日本みたいにラッキーだったわけじゃない。
>ほかの地域ではもっと厄介な問題をいろいろ引き起こした(てる)ことは
>認識する必要があるんじゃないの?
具体的にはどういう例があるの?
帝国主義時代の植民地政策とか昔の話じゃなく、現在形でいうと?
俺はコスモポリタニストだから、アラブ世界の民族主義には、シンパシーは
全然感じない。パレスチナについては、アラブとは無関係に、社会正義の
観点から、同情はするけど。イスラム文化圏の国でもトルコなんかは、政教分離
に成功して、近代的な民主的国家になってると思う。俺はそういう近代化、
西洋化が悪い事だとは、ちっとも思わない。イスタンブールでビエンナーレも
やるようになったしな(笑)

41利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/03(金) 07:31
>>36
>ロココの話で気になったんだけど、
>あなたは美術史や建築史における「時代様式」というものをどう考えてるの?
>「様式」の展開はすべて芸術の内在的要因によるものだと思う?
様式、モードってのは、2流の芸術家が気にしたり追随したりするものであって、
アートがアートであるための革新性とは、関係ないものだと俺は思ってる。
ファッションみたいに、消費者に飽きられないように、毎年モードを変えて、
ほとぼりが冷めた頃に古いモードをリヴァイヴァルさせるみたいな姑息なことは、
真のアーティストの考える事ではないと思う。
カラヴァッジョは革新的であったけれど、その様式を追随したカラヴァッジョ派の
アーティストは、革新的ではない。キュビスムを始めたブラックとピカソのみが
革新的であって、その他の追随したキュビストたちは重要ではない。
時代様式という概念は、事後的に、あたかも時代精神を反映しているかのように
見えるだけであって、芸術家がその表現を創造した時点では、様式ではない。
模倣者を生む事で、様式という呼称が与えられるに過ぎない。

42利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/05(日) 17:05
>>35
>日本の近代化のなかでも「芸術」の受容が試みられたが、
>そこでは「芸術」は「神」になれなかった。
>なぜならそこにはすでに天皇という強力な「神」がいたから。
この論法に説得力があるかどうかだが、近代のほかの神々といわれる、
科学、技術などが、天皇という絶対神のおかげで、日本には不十分にしか
受容されなかったのかどうなのかを、ちょっと考えてみればわかることだと思う。
天皇を神として崇めよという国家神道は、明治政府の発明であった。しかし、
はたして、明治から戦前までの大日本帝国の臣民たちが、ほかの文化的価値いっさいを、
天皇教に劣る2次的なものだと信じていたのかというと、かなり疑わしいと思う。
天皇教というのは超越的な要素のない国家装置だったし、多くの日本人からは、
タテマエとして信仰されていたものだったんじゃないか?もちろん大正時代と
昭和初期とでは、国家による思想統制の度合いは大きく異なっただろうから、
ファシズム期には狂信者の数も増えたんだろうが。表現の自由を国家が統制する
時代には、芸術も衰微せざるを得なかったとは思うけど。それでも近代芸術に殉死
するような芸術家は、日本にも沢山いたわけだよね。

4343:2004/09/06(月) 01:29
美術研究板より訪れました。いつのまにか芸術とはなんぞやという話になっていますね。
昔このことについては頭が痛くなるほど語りつくしたものだ。
省略すると15氏とは意見が同じ。

かっこつきの「芸術」、とそれ以前のいわゆる表象との一番相違は、
「芸術家」は自分の作品を「美術史」という壮大な価値体系の中に位置づけん
と渇望しているということでしょうか。研究板でもお話しましたが、自意識が強いんですよね。
自分の様式がそれまでの様式とはいかに異なり、革新的であり、新しい価値観を
提示しているのかということに最大の価値を置いている。
その意味ではカラヴァッジオは芸術家ではないかもしれない。
彼は単に天才であっただけで、自己言及的な近代の芸術家とは違う。
結果的に革新的であっただけではないだろうか。

それから、利毛T氏は、結果的に理想の芸術や芸術家について
語っているような気がする。特に>>41
ここで歴史的でないと思ってしまう自分は、15氏の言うように、
近代以降の神の僕であるからかもしれない。

4443:2004/09/06(月) 01:40
で、自分は正直言ってしまうと、現代美術にまで時間をさけずにいて、
殆ど無知なので間違っていたら申し訳ないんだけど、、、

村上隆は造形がおもしろいからもてはやされているの?
それともサブカルを引用したのがおもしろいからもてはやされているの?

もし前者なら、彼は「現代美術」という狭い井戸の中で革新者であったに
すぎないし、後者なら手法としては特に革新的ではないですよね?
多分前者なんだろうなーと思うんだけど、それなら彼はカラヴァッジェスキ
に過ぎないですよね?だから西洋人にとってはおもしろくとも、
日本では彼が認められない、というのはとてもわかりやすいんだけどな。

4543:2004/09/06(月) 01:45
ところで、「なぜ○○は日本ではマイナーなのか?」というのは色々応用できるクエスチョンですね。
「なぜ日本ではクリケットはマイナーなのか」
「なぜアメリカではサッカーはマイナーなのか」
「なぜ黒人には水泳がマイナーなのか」

46利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/08(水) 07:19
>>43
>昔このことについては頭が痛くなるほど語りつくしたものだ。
>省略すると15氏とは意見が同じ。
へえ〜。じゃ、俺がここに書いたことに納得できないわけですか。
15氏も43氏も、芸術が近代に生まれた概念だってことと、
さらに芸術作品はブランド品と経済的観点から見て差異はないし、
市場価値のモノサシで芸術的価値もまた計られるべきだとおっしゃりたい
わけ?
>かっこつきの「芸術」、とそれ以前のいわゆる表象との一番相違は、
>「芸術家」は自分の作品を「美術史」という壮大な価値体系の中に位置づけん
>と渇望しているということでしょうか。研究板でもお話しましたが、自意識が強いんですよね。
>自分の様式がそれまでの様式とはいかに異なり、革新的であり、新しい価値観を
>提示しているのかということに最大の価値を置いている。
俺は、近代以前の芸術表現を「表象」などと呼び分ける意味はないと思う。が、
それはさておき、普通に昔の美術に接していれば、当時の優れた芸術家が、
近代以降の芸術家に負けず劣らず、ひたすら独自の表現を追及し続けていたことが、
わかると思うんだけどね。例えば雪舟とかでも。

47利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/08(水) 07:57
>>43
>その意味ではカラヴァッジオは芸術家ではないかもしれない。
>彼は単に天才であっただけで、自己言及的な近代の芸術家とは違う。
>結果的に革新的であっただけではないだろうか。
43氏がいうところの芸術(アート)=自己言及的な表現、自己表現という
定義が、俺にはどうもよく分かっていない。もし、自己表現ということばで、
「自分の様式がそれまでの様式とはいかに異なり、革新的であり、
新しい価値観を提示しているのかということに最大の価値を置いている」
ことだとすると、(様式というのがちょっと違和感があるものの)
それほど違和感は無い。しかし繰り返し言うが、それは西洋近代に
限った事ではない。例えばティツィアーノは、何でラファエッロの
ように描かないのか?と訊かれたのに対し、既にラファエッロが
やった風には自分は描きたくないのだ、という風なことを答えたらしい。
よく覚えてないけど。
カラヴァッジョが、17世紀の初頭において、1世代前のマニエリスム絵画の
様式を打破しようとしたことは、意識的に為されたこと。革新的であることを
意図して、それを実現したのであり、当然ながら美術の歴史を踏まえた行為
だったことは、疑う余地が全く無いと思う。

48利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/09(木) 04:40
>>43
>それから、利毛T氏は、結果的に理想の芸術や芸術家について
>語っているような気がする。特に>>41
ラッセンや鶴太郎だって芸術家だし、彼らの作品を語る場合に、
市場原理を持ち出すのは、俺もそのほうが有効だと思う。なぜなら、
彼らのような3流、4流の芸術家は、過去の諸様式の模倣とアレンジを
やってるだけなわけで、いくら日本の美術市場で売れようが、彼らの
作品は美術史には決して残らないものだから。つまりブランド品と同じ。
俺はそういう作品には全く興味が無いから、現代において生み出される
芸術作品のなかでは、革新的価値を問い続ける現代美術にしか興味がない。
もちろん現代美術をやってるつもりの芸術家でも、実は過去の芸術の
模倣とアレンジをやってるだけの人も多いが、そういうのは、数多く
作品を観てれば、すぐに見分けられるようになると思う。いつの時代でも、
理想を追求した芸術のみが生き残るものだと思う。いくらでも実例はある。

49利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/09(木) 04:56
>>44
>村上隆は造形がおもしろいからもてはやされているの?
>それともサブカルを引用したのがおもしろいからもてはやされているの?
もちろんその両面が評価されてると思うが、どちらかといえば、俺自身は
造形性を評価している。といっても、今の所、村上の作品で歴史的なのは、
等身大フィギュアシリーズの2、3作だけであろうと思う。平面も目玉の
やつは、それなりに面白いが、その他はそんなでもない。

>もし前者なら、彼は「現代美術」という狭い井戸の中で革新者であったに
>すぎないし、後者なら手法としては特に革新的ではないですよね?
俺は、現代美術が狭い井戸だとは思っていない。優れた世界的人類史的文化である
芸術を、日本でマイナーであるゆえに、「狭い井戸」と呼ぶ発想は、
現代音楽や現代文学に対しても向けられるのだろうが、それは幼稚な考えだ。
現在の日本の文化的状況こそが、偏狭かつ幼稚な穴に落ち込んでいるのだと思う。

50匿名さん:2004/09/09(木) 20:08
>>利毛Тさん
あなたの言うような美術史や歴史意識といったものが現在もほんとにそのまま
成立するのかどうか、大きな疑問ではあるね。
自律性とか革新性といった言葉も、できたら別の言葉にパラフレーズするなり
検証しながら使うべき言葉だと思う。
あと最終的に、経験を積めばわかることだ、みたいな言い方で済ますのは、
あなたが、ただ教育的言辞を他者に披露するために書き込んでいるならともかく、
他者とちゃんと議論をするつもりがあるのならばなるべく使わない方がいいんじゃないかな。

51利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/09(木) 21:39
>>50
>あなたの言うような美術史や歴史意識といったものが現在もほんとにそのまま
>成立するのかどうか、大きな疑問ではあるね。
では、あなたがそれを疑問とする根拠を論理的にご説明ください。

>自律性とか革新性といった言葉も、できたら別の言葉に
>パラフレーズするなり検証しながら使うべき言葉だと思う。
芸術の自律性というのは、芸術が経済的、社会的、政治的などの、
芸術以外の要因によって、他律的に、その傾向を規定される存在では
なく、アーティストが表現の自由と自己責任において、その歴史的、
社会的、実存的、等々の反省をもとに、作品に結実、提示される
コンセプトを核として、鑑賞者に納得されるものだと思う。
革新性とは、誰もやってないということであり、革新的でない作品とは、
「もうやられてる」、「古い」という意味で、きわめて日常的に
使われている批評上の表現だと思う。

>あと最終的に、経験を積めばわかることだ、みたいな言い方で済ますのは、
>あなたが、ただ教育的言辞を他者に披露するために書き込んでいるならともかく、
>他者とちゃんと議論をするつもりがあるのならばなるべく使わない方がいいんじゃないかな。
まあ、その点については、おっしゃる通りですね。ちゃんと議論をする用意のある、
まともな対話者に対しては、そういう言い方は慎むべきでしょう。それで済ませてる
つもりは無いけどね。

5243:2004/09/09(木) 22:53
この問題に関しては、どうしても二つにわかれる。
表現者として芸術を捕らえようとする人、それから自分のように、歴史的
に芸術の誕生を捕らえようとする人。絶対接点ないんですよねえ。
なぜかというと、前者の人は、自分が後者でないと自覚している場合が殆どないので。

もし、雪舟が独自性だとか革新性を追い求めていた、とするためには、
「現代の価値観で」「雪舟の作品を眺め」「彼の作品に芸術性を感じる」
というのは歴史的じゃないんですよね。
私だって、雪舟の作品はすごいと思いますよ。でも、雪舟自身の言葉から
芸術に対する言及が無い限り、それは「思い込み」という。
しかし、雪舟は確かに非常に力強いが、当時の中国の水墨画と比較して
革新性がるかどうかは、、、難しいところだなあ。個人的には。

でも、別に利毛T氏のスタンスは、現代を生きる芸術家としてはいいのでは
ないでしょうか。だからもちろん理想の芸術を語ってもいい。
ただアカデミックではないというだけの話で。
あなたは芸術家なんだから、相手を自説で「魅了」することの方が
重要なんだと思う。アカデミズムは歴史家がやればいいことですから。

5343:2004/09/09(木) 23:10
それから、革新性というのが芸術の最大価値なら、
ビザンティン美術はなんの価値も無いかもしれないなあ。それから中世美術も。
というわけで、>>48については疑問。
時代によって評価される過去の美術は違うわけだし。
ポントルモだのパルミジャニーノだのはマニエリスムの歴史認識が
誕生するまで全然評価されてなかったし。
現在評価されている画家も、いつ評価されなくなるかもしれないし。

カラヴァッジオについては失礼いたしました。その話は知りませんでした。
個人的には、芸術家の萌芽は勿論ルネッサンスにあると思います。
それでもルネッサンス美術を芸術という言葉で簡単に包括するのは抵抗あります。

5443:2004/09/09(木) 23:23
>>49
そういう意味で小さな井戸と言ったのではありません。
もし村上隆の造形を革新的だというなら、その前により革新的なフィギュア作り
をしているストイックなフィギュア職人などは秋葉原にごろごろしてるわけで。
本当にいいフィギュアを知ってる日本人が、村上ってすごいとなかなか
思えないのは自然だと思う。
言ってみれば、下田に行けば安くてうまい寿司が食べられるのに、
わざわざパリで一番うまいと言われる高くてたいしておいしくない寿司を
食べる気になれないようなもの。

55利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/10(金) 01:59
>>54
>もし村上隆の造形を革新的だというなら、その前により革新的なフィギュア作り
>をしているストイックなフィギュア職人などは秋葉原にごろごろしてるわけで。
>本当にいいフィギュアを知ってる日本人が、村上ってすごいとなかなか
>思えないのは自然だと思う。
いや、それこそ「革新的なフィギュア作りをしているストイックなフィギュア職人」
なんて評価事態が、誇張的な言い方であって、実際はロダンの時代までの、
手垢にまみれた西洋流の写実的彫刻技術を習得して、フィギュアに応用してる
だけのことではないか?そんな技術は、アートとして見たらちっとも
革新的では無い。

村上が評価されたのは、等身大化することで、あくまでアートの文脈に、
オタクのフィギュアをのせつつ、造形面でベルニーニ的な低俗なバロック性を
復活させ、それにより現代日本の歪んだ性意識を誇張しつつ具現化してみせた
点にあると思う。村上の立体作品が受容された前提は、ジェフ・クーンズの
「M・ジャクソンとバブルス」などの先例作品があったからだろう。
村上は否定しても、彼の作品がアイロニー、批判性を示しているように、
解釈されたが故に、欧米では高く評価されたのであり、そういうコンセプチャルな
評価の文化が無い日本では、岡田某のようなオタクの、工芸的な観点から、
ディテールが甘いとか、トンチンカンな見方をされてしまうわけだ。

5643:2004/09/10(金) 03:06
>>55
ほーう、そういう評価があるんですか。それならおもしろいと言えない
こともないですね。私そのへんの現代美術の知識がないので、なんで評価
されているのかわからなかった。

>実際はロダンの時代までの、手垢にまみれた西洋流の写実的彫刻技術を
>習得して、フィギュアに応用してるだけのことではないか?

これは違うんじゃないですか?多分江戸時代くらいからの生き人形の伝統
を受け継いでいると思いますよ。西洋の影響は、多分ないと思う。

5743:2004/09/10(金) 03:36
日本フィギュアの様式は、例えば浮世絵が衝撃的に革新的だったように、やはり革新的だと思う。
あの大きな目だとか、小さな鼻、といった幼児性と、極端に肥大化した乳房だとか、
全部が衝撃的だったと思う。少なくとも西洋人にとっては。

村上隆のコンセプチュアルアートも、いいんですけど、
彼の作品は、やはり大前提として、日本のフィギュアの造形の革新性がなければ
見向きもされなかったというのが事実だと自分は思う。そういう意味ではいい題材を見つけたよね。
やはり、ピカソのシュールレアリスムが評価されたと同時に、アフリカの民族美術が
評価されるようになったように、フィギュアも評価されるべきだと思いますよ。
利毛T氏は全くくだらないものだと思っているようですが、、

幼稚で病的な日本文化を、正統的な西洋のアートの文脈にのせて提示してみせた
村上は、知的で高尚でおもしろい。でも、そのもともとのものは、評価すべくもない幼稚な日本の文化。
こういう見方はどうなのでしょうか?
村上もそんな感じなんでしょうか?だとすれば岡田とかに嫌われるのよくわかるなあ(笑)
彼だって頭がいい人なんだから、コンセプチュアルアートくらい言われれば理解するでしょう。
多分、それは、おたく文化に対するリスペクトがないことを、わざとあげつらってるんじゃないですか?
実際村上氏と、岡田氏の言葉を読まなきゃわからないけど。

58利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/10(金) 12:07
>>57
>フィギュアも評価されるべきだと思いますよ。
>利毛T氏は全くくだらないものだと思っているようですが、、
つうか俺も一時期原型作りとか、試したこともあったけど、
あれは普通の彫刻ですよ。何も独自ではない。
アニメとかのキャラクターを題材にしたフィギュアてのは、
所詮モノマネなわけでしょ。
それに比べ、村上が打ち出したのは、母乳で縄跳びする巨乳少女とか、
ペニスから噴出する精液で投げナワする若者とか、ヴァルキリー型に
人体が折れ曲がって変形してしまう、全裸美少女ロボとかなわけで、
そういうアイデアは、全く何の革新性もない原型師たちからは、決して
出てこないんじゃないの?だって完売すれば満足という連中でしょ?
原型師の持ってる技術は、便利だから利用すればいいだけのことで、
そういう職人を使って、村上は良い仕事をしたと思うよ。もう新鮮味は
無くなったけどね。

59利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/10(金) 12:19
>>56
>これは違うんじゃないですか?多分江戸時代くらいからの生き人形の伝統
>を受け継いでいると思いますよ。西洋の影響は、多分ないと思う。
生き人形ってのは、確かに興味深い伝統だったと思うけど、それはとっくに
断絶してるはずだよ。それこそ最近ドールが流行ってるから、再評価され
てるのかもしれないけどね。明治初期の生き人形職人と、もともと仏師だった
高村光雲とは、さして違いの無い、木彫彫刻家(職人)だったんだと思うけど、
光雲だけが天心によってハイ・アートの世界に引きあげられて、
結局有名になっちゃったわけだけど。
俺の印象では、原型師って、美大の彫刻科くずれが多いんじゃないかと思うけど、
どうなんだろう。独学にせよ、芸術解剖学とか、人体の構造的知識がないと、
うまくはいかないと思うけどね。

60利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/10(金) 12:33
>>57
>村上もそんな感じなんでしょうか?だとすれば岡田とかに嫌われるのよくわかるなあ(笑)
>彼だって頭がいい人なんだから、コンセプチュアルアートくらい言われれば理解するでしょう。
>多分、それは、おたく文化に対するリスペクトがないことを、わざとあげつらってるんじゃないですか?
>実際村上氏と、岡田氏の言葉を読まなきゃわからないけど。
村上は岡田に対しては先生呼ばわりで、いたく低姿勢みたいだよ。おたくになれなかったから、
アートをやってるなんて、おたく向けのリップサーヴィスも忘れないし。俺は、そういう
村上の姿勢は、どうかしてると思うけど。
岡田の方は、最初は村上のフィギュアのアイデアを公然と馬鹿にしてたんだけど、村上が超メジャー化して
からは、自分の生き残りのために村上との絆を大事にするようになったようだね。
岡田はヴェネツィアの建築ビエンナーレの日本館で、秋葉原のオタクショップの再現に関与してる
らしいけど。まあ現代美術のビエンナーレに比べて、すごくマイナーな催しだし、お堅い西洋の
建築の雑誌で、評価されるわけないし、なんであんなことやるんだろうね(笑)

61利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/10(金) 13:21
>>53
>それから、革新性というのが芸術の最大価値なら、
>ビザンティン美術はなんの価値も無いかもしれないなあ。それから中世美術も。
全く価値が無いとは言えないが、パントラクールのモザイク壁画なんて
1コあれば十分だと思うよ。アノ時代は公会議で図像表現に多くの規制が
設けられてしまったからね。表現の自由が無い時代には、芸術も衰退したって
ことだと思う。もっともラヴェンナのモザイク壁画は、色彩的には綺麗だけどね。
それから中世美術については、結構地方による独自性があって、彫刻には面白い
ものが多いと思う。
>というわけで、>>48については疑問。
俺は、芸術が進歩し続けてきたとは言ってない。キリスト教が国教化され、
宗教的規制が強まり、芸術への資本投下が減少すれば、文化は衰退し、やがて
断絶するものだろう。

>時代によって評価される過去の美術は違うわけだし。
>ポントルモだのパルミジャニーノだのはマニエリスムの歴史認識が
>誕生するまで全然評価されてなかったし。
そりゃ事実誤認だよ。彼らは、ミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロの
3巨匠以後の世代で、ブロンズィーノやロッソ・フィオレンティーノなどと
ともに、同時代的に最も評価の高かった芸術家だった。同時代のヴァザーリ
(彼だってフィレンツェでは高く評価されてた)だって彼らのことを
書き残してるはず。日本で知られてなかったというだけの話。
例えばフェルメールが20世紀初頭まで無名だったなんて言われるが、
オランダ国内では良く知られた巨匠だった。フランス人がフェルメールを
知るのが遅れたというだけのこと。
>現在評価されている画家も、いつ評価されなくなるかもしれないし。
そりゃ日本だけで評価される類の画家の評価が、このまま続くとは俺も
思わないけどね。日本でだけ知られてる海外の画家ってのも多いよね。
いずれにせよ、欧米の現代美術の世界で、何十年も第一線で活躍した
アーティストが、評価されなくなった例を俺は知らない。

62メロンパンナ:2004/09/11(土) 01:52
>>57
>日本フィギュアの様式は、例えば浮世絵が衝撃的に革新的だったように、
>やはり革新的だと思う。
>あの大きな目だとか、小さな鼻、といった幼児性と、
>極端に肥大化した乳房だとか、全部が衝撃的だったと思う。
>少なくとも西洋人にとっては。
アメリカはどうか知らないけど、ヨーロッパの若者は、
日本のアニメを見て育ってますから、大きな目とか、驚かないかも。
テレビのアニメの80パーセントは、日本製という感じです。
ヨーロッパ人と話ていると、「ベルサイユのバラ」、
「はいからさんが通る」を懐かしアニメだと語ったり、
「日本に行ったら、『ルパン三世』の銭形警部がいつも食べてるような
ラーメンが食べたい」なんていう声を聞きます。

63匿名さん:2004/09/11(土) 11:38
 フランス人が、”ベルバラ”とか”ラ・セーヌの星”をみて違和感ないのでしょうかね。
日本人としてはあれをフランス人には見られたら恥ずかしいと思うのですけど。
しかしながら、あれらを見て育って大人になってしまった人だからこそフィギュアに反応するのではないですか?
中高生の頃、ロックを聞き込んだおっさんやおばさんが、テレビCMに使われるロックミュージックに妙に反応したりとかするのと同じで。

”なんで、ヨーロッパではアニメ制作がマイナーなのか?” なんちゃって。

64利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/11(土) 21:07
あちゃちゃ!>>61の恥ずかしい誤記を訂正します。
×パントラクール
○パンクラトール(全能の神)

6550:2004/09/11(土) 23:28
>>51
>>あなたの言うような美術史や歴史意識といったものが現在もほんとにそのまま
>>成立するのかどうか、大きな疑問ではあるね。
>では、あなたがそれを疑問とする根拠を論理的にご説明ください。

たとえば美術史なら美術史が或る程度自律性をもって変遷しているように見える時代はとうに終わっているで
しょ。それは絵画や彫刻などの視覚芸術がメディアとして、文化の主要な関心事、ドミナントを形成し、それを
強力な文化的共同体が安定した継承を支えているといった場合に限られるのでは。

美術史っていうのは、とくにリーグルやヴェルフリンを典型として、そういった限られた理想的条件を規範として
成立したわけでしょ。そんなもの現代に当てはまるわけがない。

自律性についてはぜんぜんパラフレーズになってないような気がする。
芸術というのは徹頭徹尾他律的なものでも徹頭徹尾自律的なものでもなく、
いうまでもなく、それは他の文化的事象はもちろん、その時代の経済や、生活様式と無関係であるわけがない。
けれどもそれは原因と結果といった単純な因果関係でもないわけです。
歴史性というのは芸術を成立させるそういった複雑な関係性を隠ぺいするための都合のよいエクスキューズとして
使われているんじゃないの?

66利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/12(日) 22:26
>>65
>美術史っていうのは、とくにリーグルやヴェルフリンを典型として、
>そういった限られた理想的条件を規範として
>成立したわけでしょ。そんなもの現代に当てはまるわけがない。
俺は美術史家やら美学者やらが、アーティストの行為の後付けとして
でっちあげた美術史を問題にはしてなくて、あくまでもアーティストが、
その生きる時代に乗り越えられるべき壁として認識されている、前時代、
同時代の先行する芸術表現の話をしている。例えばミニマルアートを
創始した連中にとっての抽象表現主義、コンセプチャルアートをはじめた
連中にとってのミニマリズム、アプロプリエーションをはじめた連中に
とってのコンセプチャリズムなどなど、20世紀後半の美術史を回顧しても、
アーティストにとって、主体的に取り組まれ、超克しようとする運動と
しての歴史意識は、厳然として存在している。歴史意識を持ってない天然
素朴のアーティストは、そもそも現代美術を志向することさえ不可能だと
思う。現代美術に対峙せず、古い美術史の勉強ばかりしてると、奇妙な偏見
にとらわれちゃうみたいだな(笑)

67利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/12(日) 22:42
>自律性についてはぜんぜんパラフレーズになってないような気がする。
>芸術というのは徹頭徹尾他律的なものでも徹頭徹尾自律的なものでもなく、
>いうまでもなく、それは他の文化的事象はもちろん、その時代の経済や、
>生活様式と無関係であるわけがない。
そりゃそうだよ。俺は芸術が100パーセント自律的だなんて言ってないよ。
芸術が100パーセント他律だという極論に反駁しただけだ。

>けれどもそれは原因と結果といった単純な因果関係でもないわけです。
そりゃそうだ。もっと詳しく説明してみせてよ。
>歴史性というのは芸術を成立させるそういった複雑な関係性を隠ぺいするための都合のよいエクスキューズとして
>使われているんじゃないの?
俺が芸術の成立根拠をうまく説明できないことを隠蔽するために、
歴史性という概念を使ったと言いたいわけか。大きな物語が終わったとか、
異口同音に唱えるのが流行りだが、俺は歴史概念をヘーゲル的な合目的的運動だとは、
ちっとも思っていない。芸術が人類を疎外から解放するとか一昔前の神話を
信じてはいない。が、20世紀後半以降の芸術表現の変遷には、ファッションの
遷移などとは同一視できない、より自由な表現を求める、芸術家の主体的意思が
関与してたと思っている。そしてなお、現在における芸術の革新も、可能だと
思っている。歴史意識を欠いては、あらゆる革新は不可能であると思う。

6850:2004/09/13(月) 21:09
>>66-67
ミニマル、コンセプチャル、アプロプリエーションなんて、歴史的超克どころか、
現代において形骸化した自称、自律的な歴史意識のまさに行き着く先としての
限界を示しているようにしか見えないんだけど。
前に、あなたの「経験を積めば分かることだ」的な言い方を批判したわけだけど、
あなたのいう自律的な歴史性というのも、それと同じように他者との議論なしに
自らを曖昧に正当化するような、そういう概念でしょ。エクスキューズというのはそういうこと。
つまり自律的な歴史性というのなら、それを、一部の疲弊しつつある自閉的なコミュニティの
弱々しい信仰告白のようなものとしてではなく、他者に対して強い説得力、感染力をもち、
新たなムーブメントを生み出していくような力をもったものとしてそれが具体的にどういう
構造や展望をもっているのか、きちんと提示してみせてよ、ということ。
そのためには自律性や歴史性、革新性といったあなたの大好きな概念を、
同語反復的に(まさにお経のように)ただ唱えるだけではなく、きちんとパラフレーズし、
われわれが生きているこの世界との複雑な関係性の中に位置づけ、
検証する必要があるんじゃないの? ぼくが言ってるのはそういうことなんだけどね。

69利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/13(月) 22:23
>>68
>ミニマル、コンセプチャル、アプロプリエーションなんて、歴史的超克どころか、
>現代において形骸化した自称、自律的な歴史意識のまさに行き着く先としての
>限界を示しているようにしか見えないんだけど。
われわれの現代美術に対する見解の齟齬の根源は、こういう決め付けにある。
つまり、現代美術を受容するためには、具体的な作品と対峙して、連綿と
続いてきた芸術的革新の運動を追体験する必要がある。それには確かに
結構な手間がかかる。日本には現代美術史を一望できる良い美術館が無いし、
20世紀後半の美術史を解説する書籍も、日本語で読めるものは数が少ない。
だからといって、現代美術総体を価値のないものと決め付ける50氏が持つような、
日本に蔓延するところの、現代美術への反感に対しては、俺は断固として教育的に
矯正すべきだと思う。具体的には、どう進めていくべきか?
50氏が俺に要求することは、ミニマリズムから現在までの美術史を
「他者に対して強い説得力、感染力をもち、新たなムーブメントを生み出して
いくような力をもったものとしてそれが具体的にどういう構造や展望をもって
い」たのか、きちんと提示してみせなきゃいけないようだが、そりゃ俺には
荷が重過ぎる。
そこで、対話の糸口を探るために、質問させていただくことにする。
50氏だけでなく、現代美術に違和感を持っておられる方々の嗜好が
知りたいので、どなたでも下記のアンケートに答えていただきたい。
【現代美術が嫌いな方へのアンケート】
質問1 あなたが評価されてる、または興味をそそられる現代のアーティスト
    は誰かいますか?あるいは、あなたが大嫌いなアーティストは誰ですか?
    どういうところが嫌いですか?
質問2 20世紀前半の近代美術については、どう思われますか?
    誰か好きなアーティストはいますか?
質問3 デュシャンについては、どう思われますか?

70利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/14(火) 13:48
例えば、現代音楽をほとんど聴かない人、現代文学をほとんど読まない人が、
それらの作品を恥ずかしげも無く誹謗しながら、それらを擁護する者に対し、
「それらが優れていると言うなら、言葉で説得してみせろ」
と要求したなら、そういう理不尽な要求に、どのように答えるべきだろうか?
まず、そういう人が音楽なり読み物なりに、どんな嗜好を持っているのか
を知った上で、なんで現代音楽なり、現代文学が嫌いなのか、どんな
作品に接して、何ゆえ彼が反感を感じたのかということを、たどっていく
しかないだろう。
例えば43氏とは、村上隆とオタクフィギュアをめぐって、評価の対立点が
はっきりしたわけで、俺は合意に至らなくても、とりあえず相手の考えが
わかったから良いと思った。50氏がジャッドからクーンズまでの
アーティストを全て否定するつもりなら、何らかの実例を出して、自説を
裏付けてもらいたい。そうすれば俺も反論しやすくなる。

7150:2004/09/14(火) 21:47
>>69-70
ぼくはあなたに、作品について言葉で説明しろ、なんて一言も言ってないよ。
あなた自身が自分の言葉として述べたことをきちんと説明してよ、と言ってるだけでしょ。
それのどこが理不尽な要求なんだろうね。
どうやら言うべきことは僕の最初の短いレスのなかに要約されてたみたい。
結局あなたは最後には「経験を積めば分かる」という言い方に戻っちゃうわけだし、
結局はこの場所で自分の「教育的言辞を披露」したいだけの人であることも分かったし。

ぼくは相手がちゃんと議論する能力に乏しいと分かると急速に興味を失う人間なので、
あなたが計画中である教育的言辞の披露にも参加するつもりはありませんが、
他人に教育を施す前にまず自分自身の言ってることをきちんと理解することをお勧めします(笑)。
まあ、さんざん大言壮語したあげく、その論拠をちっとも提示しえない人から教育を
受けたいとは、まさか他の人も思わないと思うけど、まあ、がんばってみてください。

72利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/14(火) 22:39
71
>ぼくは相手がちゃんと議論する能力に乏しいと分かると急速に興味を失う人間なので、
>あなたが計画中である教育的言辞の披露にも参加するつもりはありませんが、
こいつって、結局ミニマルもアプロプリエーションも何にも知らずに、
あてずっぽうで、「現代において形骸化した自称、自律的な歴史意識のまさに
行き着く先としての限界を示しているようにしか見えない」なんて、
トンチンカンなことをぬかしておいて、ちょっと突っ込まれると、捨てゼリフ
残して逃げる、よくいる厨房だったな(笑)

73利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/14(火) 23:17
>どうやら言うべきことは僕の最初の短いレスのなかに要約されてたみたい。
>結局あなたは最後には「経験を積めば分かる」という言い方に戻っちゃうわけだし、
どこが?なんで?現代美術の価値が分かってない、あんたの美術体験に即して
議論してやろうと、歩み寄っているわけだぜ?

>結局はこの場所で自分の「教育的言辞を披露」したいだけの人であることも分かったし。
あんたは、このスレで現代美術に対する、いわれの無い侮蔑以外は披露してないが、
その直感に過ぎない考えを、他人に説得できるネタも何にも持って無かったのか?

74利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/14(火) 23:53
結局、現代美術が面白いってのは、個々の作品が面白いわけで、作品に接する
こと抜きに、教科書的に、現代における現代美術の意義を語ったって、
全く伝わらないんだよ。哲学なり小説なり、文字での表現に置換できる
ものでもないわけだし。それに、俺は別に宗教の勧誘をしたいわけじゃないからね。
もともと興味のない輩に話したって徒労だよ。
バブルがはじけて、文化も蒸発してしまったのは日本だけの現象で、欧米では
現代美術をはじめ、あらゆる文化が普通にリスペクトされているのだが、
日本で起きたことが、世界の趨勢とパラレルだと思い込んでる人が多いのかも
しれない。だから「一部の疲弊しつつある自閉的なコミュニティ」なんて
言えるんだろうね。それって日本のオタクのことだろ?

75匿名さん:2004/09/23(木) 19:43
母乳で縄跳びする巨乳少女とか、
ペニスから噴出する精液で投げナワする若者とか、ヴァルキリー型に
人体が折れ曲がって変形してしまう、全裸美少女ロボ

キモッ!

76匿名さん:2004/09/23(木) 19:55
>>利毛Т (9ZjLM/uE)
>ぼくはあなたに、作品について言葉で説明しろ、なんて一言も言ってないよ。
あなた自身が自分の言葉として述べたことをきちんと説明してよ、と言ってるだけでしょ。
それのどこが理不尽な要求なんだろうね。

の部分はスルーか?

77匿名さん:2004/09/24(金) 19:36
結局利毛Тが>>15

>プラダやグッチのバッグを他の有象無象のバッグと区別する価値観は、
「芸術作品」だけを人間が作った諸々の生産物から区別する価値観と
まったく無関係だと思う?

現代美術は、そうした価値観を疑うところから出発してるんじゃなかったの?

の「価値観」の意味を勘違いしてるってことでw

78利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/26(日) 09:53
>>75
現代美術の評価においては、近代美術以前の美醜の判断基準など
2次的なものなのだ。
>>76
説明を求めるなら、俺の投稿の、どの部分にフォーカスを当てているのか、
何で不備と言うのか明示してもらわないと、1から説明しなおすのは嫌なわけ。
>>77
何が言いたいんだ?ちゃんと説明して見せろよ。

79匿名さん:2004/09/28(火) 19:38
>>78
>現代美術の評価においては、近代美術以前の美醜の判断基準など
2次的なものなのだ。

じゃあ村上のキモフィギュアは現代美術におけるどんな判断基準によって評価されてんの?

80利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/30(木) 11:36
>>79
>じゃあ村上のキモフィギュアは現代美術におけるどんな判断基準によって評価されてんの?
じゃあ、等身大の人体モデルを使った表現が現代美術において、
どんな風に変遷してきたか、回顧してみることにしよう。

石膏で人体型をとったジョージ・シーガルもいるが、デュエン・ハンソン(Duane HANSON
(1925-1996))をまず、押さえておこう。ポリエステル樹脂を使って、リアルな人体による
社会風刺的主題の作品を60年代から作ってきた草分け的アーティストだ。
ttp://www.designboom.com/eng/funclub/duanehanson.html
ttp://www.artmolds.com/ali/halloffame/duane_hanson.htm
上のURLにあるイメージは彼の代表作だが、一目でアメリカ人とわかる、肥満した
庶民が、買い物してたり、観光してたり、疲れて休んでたりしてるでしょ。
こういう老いたり太ったりした、全く美しくない、普通の人々が生活する姿を、あらためて
作品として眺めてみると、興味を惹きつけるものがあると俺は思うんだが、どうかね?

81利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/30(木) 12:40
村上が等身大フィギュア作品を発想したときに、直接影響を与えたであろう
先行作品として、ジェフ・クーンズ(Jeff Koons 1955- )による
『マイケルジャクソンとバブルス』(Michael Jackson and Bubbles, 1988)を
押さえておくべきだ。
ttp://www.broadartfoundation.org/collection/koons.html
(画像をクリックすると多少大きいイメージを見ることができる)
この作品はセラミックで作られている。専門の職人に作らせており、クーンズは
こういう風に作ってねと指示しただけ。にもかかわらず、これは傑作だと思う。
ハンソンにおいては、ありきたりの庶民の姿の中に現代人のリアリティが
探求されていた。一方クーンズはアメリカショービジネス界の最も有名な
スターの姿を、皮肉たっぷりに、真っ白いツルツルの陶器で表現した。
もちろんマイケルが何度も整形手術を繰り返し、肌がだんだん白く、白人に
なっていったという事実も想起されよう。

82利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/09/30(木) 13:01
村上と同世代の、リアルな人体表現をよく使うアーティストの作品を比較対照
したら、村上のスタンスもより理解できるだろう。
チャップマン兄弟(Jake Chapman 1966- , Dinos Chapman 1962- )
ttp://www.artseensoho.com/Art/GAGOSIAN/chapman97/chapman1.html

ロン・ミュエック(Ron Mueck 1958- )
ttp://www.artmolds.com/ali/halloffame/ron_muek.htm

83匿名さん:2004/10/01(金) 19:04
で、村上のフィギュアの現代美術の基準による価値は?

84利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/10/02(土) 04:24
>>83
80、81、82で引用された作品から、20世紀後半の美術史の変遷を理解し、
自分で考えてみなよ。どこにも「これが正しい価値基準だ」というものは
無い、というのが現代美術と付き合うための心得なのだ。村上の作品が
同時代の同傾向の作品の中において、他を圧する強度、リアリティを発散
し得ているかどうか、それぞれの鑑賞者が、それぞれに判断すべきであり、
その結果として、村上は現代美術の玄人たちの多数の支持を得たということ。
俺の村上についての考えは、既に示しているので繰り返さない。
批評家の評価が知りたければ、WEB上で探せば、英文でいくらでも読めると思う。

85匿名さん:2004/10/03(日) 17:17
そう、かつて彦坂尚嘉が指摘した通り、一種自虐的な戦略で世界のアート・
シーンを制覇したのが、80年代の森村泰昌であり、90年代の村上隆であった。
倒錯した日本、しかも、アニメのように空っぽで表層的なので倒錯が侵犯行為
とさえなりえない日本。そんな日本を自虐的に演じてみせることで、彼らは
ポストモダン・オリエンタリズムとも言うべき欧米の期待に応え、世界的に
もてはやされたのである。

浅田彰
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/

86匿名さん:2004/10/03(日) 20:24
>>84
↓のこと?
>村上が評価されたのは、等身大化することで、あくまでアートの文脈に、
オタクのフィギュアをのせつつ、造形面でベルニーニ的な低俗なバロック性を
復活させ、それにより現代日本の歪んだ性意識を誇張しつつ具現化してみせた
点にあると思う。

「日本の歪んだ性意識」を欧米に伝えるのにアートである必要があるのか?
本一冊書きゃ済むことだと思うが。

87匿名さん:2004/10/04(月) 04:09
>>86「日本の歪んだ性意識」を欧米に伝えるのにアートである必要があるのか?
本一冊書きゃ済むことだと思うが。

受容者が本一冊で満足しなかったという結果と提供者がヴィジュアルで提供した
くて、超頑張ってさせた結果だと思う。

88利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/10/04(月) 13:57
>>86
>本一冊書きゃ済むことだと思うが。
そういう批判は、あらゆるコンセプチャルな傾向を持つアート全般に
対して、繰り返されてきた紋切り型の典型だ。
小説や詩という芸術的な形式で表現することは無駄で、論理的な哲学書なり
学術的な書物を書けばよいと言っているようなものだね。

89匿名さん:2004/10/04(月) 20:22
小説や詩はメッセージを除いても文学性が残るが
コンセプチュアルアートはメッセージオンリーで
「芸術的な形式での表現」は皆無なような気がするが。

90匿名さん:2004/10/04(月) 20:24
で、村上のフィギュアの場合
どこらへんが「芸術的な形式で表現」されてるとこなわけ?

91メロンパンナ:2004/10/10(日) 00:21
>>89
例えば、壁に文字を書いた作品をやるにしても、
字体、大きさ、色などアーティストの選択が展示の仕方に
反映されてくるわけで、「芸術的な形式での表現」は見られると
思うよ。

92匿名さん:2004/10/13(水) 20:25
>>91
それじゃロゴデザインなんかと変わんないな。

93匿名さん:2004/10/14(木) 21:19
コンセプチュアルアートは論理をちょうど超えた「ヴィジュアル」として成立しているよ
うにおもうなぁ。論理のみで表現する場合は価値になり得ない「矛盾の同居した状態」
じゃないかな。
だからメッセージとして受け取れることはほとんど無いように感じる。
良くわかってないけれど・・・。

94メロンパンナ:2004/10/16(土) 01:35
例えば、文字を使う作家として、ジェニー・フォルツァーがいるけど、
読んだ人が混乱するような場違いな言葉を
街の中に出現させるということをやっているよ。
http://adaweb.walkerart.org/context/artists/holzer/holzer1.html

水のみ場(図書館とかにある、ボタンを押すと冷水が上にむかって
飛び出す機械)の上に、「口というのは面白いものだ、なぜなら外側の
乾いているところから、すべりやすい(slippery)内側へと入る
という場所の一つだからだ。」と書いた作品もあります。
エロティックな感じがして、面白いと思うんです。

95ヒロ:2004/10/16(土) 21:56
はじめまして、
これまでの書き込みを急いで読みました。
みなさんのいろいろな考えを興味深く読んでいると、
自分の考えも少しですが書いてみたくなりました。

現代美術は欧米の人が請負った問題であり日本では他人事のように思ってます。
日本の年配の人では受け入れ難い作品でしょう。
昨今では国境というものがなくなりつつあり、
自分の歴史や国、、という背負うものも無くなりまったく自由ですが、
何か表現そのものが弱くなってしまっているように思います。
どうしても現したいものがあるというより、他人や世界のことを気にしすぎるようです。
日本では現代美術が無くてもかまわないところがありますが、
欧米では現代美術が無くなれば先がありません。
やはりおいつめられているように思います。
それと視覚というより言語に頼りすぎでしょうか。

96利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/10/18(月) 07:31
>>95
>現代美術は欧米の人が請負った問題であり日本では他人事のように思ってます。
>日本の年配の人では受け入れ難い作品でしょう。
例えばピカソやマティスも20世紀前半においては現代美術のアーティスト
だったわけで、当時の一般の美術愛好家たちからは、嘲弄の対象でしか無かった。
しかるに21世紀の今日、彼らの作品はオーソドックスな優れたアートとして、
一般の美術愛好家たちからも愛好されてます。
ジョイスの小説でもジョン・ケージの音楽でも、発表当時は揶揄され、スキャンダル
扱いされても、何十年か時間が経過して、時代の意識が作品に追いつくことで、
日本でも鑑賞者が徐々に増えているんじゃないですか?
現代美術とは、現代文学や現代音楽がそうであるように、アートの現在形のこと。
岡倉天心も著書の英語の原文では、コンテンポラリー・アートという言葉を使っている。
ただ現在では、コンテンポラリー・アートはモダン・アートを批判的に継承する
ものであり、モダン・アートは終わった、という認識が美術を知る人々に
共有されてる点が、天心の時代と我々の時代との隔たりであるわけです。
美術を狭い枠でしか理解しないモダニズム信奉者にとって、現代の美術表現が忌々しく、
愚弄すべきものにしか見えないのは当然なことで、むしろ古い価値判断の枠を持たない、
知的好奇心の旺盛な鑑賞者にとっては、近代美術よりも同時代的で、好ましく
受け入れられ得るものだと思います。

97利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/10/18(月) 08:04
>>95
>昨今では国境というものがなくなりつつあり、
>自分の歴史や国、、という背負うものも無くなりまったく自由ですが、
>何か表現そのものが弱くなってしまっているように思います。
>どうしても現したいものがあるというより、他人や世界のことを気にしすぎるようです。
我々が接する現代美術の作品の殆どは、2流のもの、さして革新的でなく、他の
評価の高いアーティストの作品の尻馬に乗っただけの2番煎じが多い。でもやっぱり、
国際的評価の高いアーティストの代表作は、歴史を超えて文化の結晶として残る、
優れたものが多いと思う。残念ながら日本でそれらが展示される機会は少ないのが
現状で、例えばチャップマン兄弟の『HELL』も水戸芸術館での展示では、写真だけ
だった。チャップマン兄弟の代表作を鑑賞するにはロンドンに行く必要がある。
システィーナ礼拝堂のフレスコ画を見るにはローマに行かねばならず、
『神秘の子羊』を見るには、ゲントへ行かねばならないのと同じなのだ。

98利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/10/18(月) 08:37
>>95
>日本では現代美術が無くてもかまわないところがありますが、
>欧米では現代美術が無くなれば先がありません。
>やはりおいつめられているように思います。
別に追い詰められてはいないと思うけどね・・・。
なんでそう感じるのか、ちょっと不思議な気がする。
テートモダンなんて、観光客ですごく賑わっていて、ロンドンの立派な観光資源に
なってるし、スペインのビルバオなんて、グッゲンハイム美術館(フランク・ゲイリーによる
斬新な建築は007映画にも登場)のおかげで、見るものが無い汚い斜陽工業都市が、
一躍観光地になっちゃうし。
日本人って、歌舞伎や文楽なんかの古い伝統芸能は、大事に保存しようとするけど、
反面において新しい文化的価値を積極的に支援しようとはしないよね。
石原都知事なんか典型だけど。アニメやヴィデオゲームを日本政府が支援する
気になったのは、文化活動としてではなく、あくまで娯楽産業として育成しよう
という主旨だし。
日本で現代美術を信念を持って続けるアーティストは、ほんとに大変だと思う。

99ヒロ:2004/10/18(月) 19:58
日本の現代美術はやはり特殊なように思います。
ピカソのアヴィニョンの娘にしても明治のころの作品です、ピカソ、マチス、、
芸術家としてはめぐまれてますね、ジョイスは読んでないので解りませんが、
ケージの禅の理解なんて浅いです。
それと現代美術は欧米の価値基準でしか生きれないでしょう。

100ヒロ:2004/10/18(月) 20:07
>>97
われわれの不幸は複製でなにもかも出会ってしまっている。
感動は一度かぎりでしょう、二度目からでは嘘がまじります。

101ヒロ:2004/10/18(月) 20:18
>>98
>別に追い詰められてはいないと思うけどね・・・

現代美術はとても自由なようですが、
なにか自分たちの枠の中でしか現せないように思います。
欧米はもうなにもかも行き詰っているように思います。
それと、よい作品とつまらない作品の差なんて解らないほど小さいので、
いつも間違った評価があります。
でもあまり簡単では面白くないのでしょうか。

102メロンパンナ:2004/10/20(水) 02:59
ヒロさん、はじめまして。
>>99
>ケージの禅の理解なんて浅いです。
そうですね。ケージは禅より、中国の易のほうが
好きだったのかもしれないですね。

103ヒロ:2004/10/20(水) 20:42
メロンパンナさん、はじめまして。
>>102
ケージの音楽は少ししか聞いてませんが、好きな方ですね。
とても東洋の自然が好きなやさしい心の音楽でしょうか、
聞いていると現代音楽にはめずらしく心が落ち着きます。

104利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/10/26(火) 13:39
>>100
>われわれの不幸は複製でなにもかも出会ってしまっている。
>感動は一度かぎりでしょう、二度目からでは嘘がまじります。
きのう偶々最新号のFLASH ARTを見ていたら、パオラ・ピーヴィ(Paola Pivi)
の"Zebra"という題名の写真作品に惹きつけられた。
昨年のFreezeArtFairで展示されたもの。下記URLにイメージがあります。
ttp://www.luxflux.net/n3/artintheory1.htm
俺はPiviは優れたアーティストだと思っており、中でもこの"Zebra"は、
良い作品だと評価してる。実際に実物のプリントされた作品を観なくても、
複製のイメージからでも、これが良い作品だと判断できる。
感動という体験こそ、疑わしいんじゃないのかな?ラッセンや鶴太郎の
絵で感動してる人たちはたくさんいる。

105利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/10/26(火) 13:52
Zebraについてはイメージを見れば一目瞭然だと思うけど、
雌雄一対のシマウマを、雪原に連れて行って、写真を撮ったもの。
アフリカのサヴァンナでしか生きられない生物を雪原という別の
コンテキストへ移植するという、デュシャンのレディ・メイドとも
通ずるアイデア。しかも雌雄一対であることから、様々なイメージを
喚起させる。さらに白と黒の縞のイメージと、背景の雪原との視覚的
対比が効果的で、清々しい印象を与える。そんなわけで、俺はこの
作品が好きなのです。

106利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/10/26(火) 15:20
訂正
FreezeではなくFriezeでした。
ロンドンで発行されてるFriezeという雑誌も結構面白いと思う。
ttp://www.frieze.com/

107ヒロ:2004/10/27(水) 21:11
>>104
感動は本来の自分を取り戻しますね、何かべつの世界でしょう。

108利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/10/28(木) 15:03
>>107
>感動は本来の自分を取り戻しますね、何かべつの世界でしょう。
俺も20年前は芸術作品から得られる感動を至高の経験のように思っていた。
でも今考えると、鑑賞者本人の体調や気分に左右されるエクスタシーの
体験というのは、不確実で、その作品が真実優れているから感動するわけでは、
必ずしもないと思っている。
「本来の自分」なんてものは無い。そのときどきの気分があるだけ。と俺は思う。
アリストテレスの『詩学』で、美的エクスタシーについての分析があったと記憶
するけど、普遍性は無いと思う。

109匿名さん:2004/10/29(金) 18:35
>>105
画像をサンクスです。
雪の中のシマウマと青空がさわやかですね。

110匿名さん:2004/10/31(日) 02:22
>>108
>その作品が真実優れているから感動するわけでは、必ずしもないと思っている。

それは確かにそうでしょうね。60億人への普遍性はありえないし、実際求められ
ていないのかもしれません。しかし大多数の人々を感動させうる芸術作品が事実存
在しているのは不思議ですね。作品がより多くの「気分」を内包している場合、様
々な気分の人々を同時に感動させ得るのだと思います。
そして全ての「気分」を同時に含んだものは普遍的な感動を成し遂げるかもしれま
せん。今、個人的にはベートーベンの第九が凄いと思ってます。

111ヒロ:2004/10/31(日) 02:54
やはりこの世は嘘偽りの世界でしょうか、
感動する一瞬こそモノとの出会いでしょう、
そしてなぜか二度目になると知識が入りますね、
そのとたんに人はモノを見なくなります。
>>110
音楽というより再生された何度でも聴ける使い古されたモノでしょうか。

112匿名さん:2004/10/31(日) 03:49
>音楽というより再生された何度でも聴ける使い古されたモノでしょうか。

一度聞いた例えば「第九の部分」を頭の中で流すことでも感動し得る。もちろん
「私の場合」という限定はありますが。

>感動は一度かぎりでしょう、二度目からでは嘘がまじります。
で、これは「あなたの場合」という限定のもとにあります。

優れた作品は、例えば私やあなた以外の人を何度か(もしくは何度でも)感動させ
られると思いますよ。
それで私はそういうレヴェルの作品をめざしてます。難しいですが。

113利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/10/31(日) 22:19
>>110
>しかし大多数の人々を感動させうる芸術作品が事実存在しているのは不思議ですね。
俺もベートーベンは子供の頃から好きではあるのですが、今では第九にしても、
人間中心主義的なロマン主義の古臭い感じに、辟易する気分になるのがしばしば。
だから頭の中で音楽を再生する気にもならない。クセナキスやらリゲティやらの、
より現代的作曲家の作品は、現時点ではベートーベンほどのポピュラリティーを
持ってないのは確かだけど、「多くの一般人を感動させ得ること」は、芸術作品の
価値の基準たり得ないと俺は思う。
一種の忘我的感情である感動は、宗教やファシズムに資するものであって、
今日の芸術にとって、必要だとは俺は思わない。

114利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/10/31(日) 22:42
俺は感動という概念を、一種の忘我的感情という意味で使っていたが、
もっと緩い、あくまで知的な判断力を伴った高揚感ってのを感動と呼ぶなら、
それが優れていると俺自身が判断する芸術作品(小説や映画や音楽を
ふくむ)を享受するときに、俺は確かに緩い感動を感じていると言えると思う。
そういう緩い感動は、再現可能でもあり、常に知性が働く故に、新たな発見を
伴って、作品をより深く享受できたような気にもなるだろうし、逆に底の浅さを
発見して失望したりもするだろう。

115匿名さん:2004/11/01(月) 00:11
>>113>>114
>「多くの一般人を感動させ得ること」は、芸術作品の
価値の基準たり得ないと俺は思う。

私もそう思いますよ。

感動については、それがほとんどの人にとって「幸福感」を意味しているからこそ重要
な情動なんでしょう。どちらの言葉も抽象的かもしれませんが。「忘我的感情」をやは
り意味していると思います。その「宗教やファシズム」という形で失敗しているわけで
すが。人間がそれを求めてもいるのは確かですよ。
まあ、芸術作品に対する感じ方も人それぞれですね。逆に60億人が全く違った解釈を
持てるような、つまり少しも統一させない芸術作品でも良いのかも・・・。

11643:2004/11/01(月) 00:59
ちょっと忙しくて来れなかったので、、全部読む暇は全然無いので、幾つか。

>ビザンティン美術のパントクラトールは一つあれば十分
もうちょっとビザンティン観た方がいいですよ。自分は平均よりは
目にしてきた方だと思うけど、ビザンティン美術を、衰退した芸術と言った人には初めてであった。
ビザンティン帝国崩壊前夜に立てられたコーラ修道院の壁画だとか、息を呑むような美しさだし
何万何十万と描かれただろう聖母子像を、限られた図像の中で、いかに親子の愛情や
マリアの悲しみを表現しようかと、画僧が貞節謙虚に苦心していたか、とか
そういうの観て、感じてほしい。パントクラトールだって、一つ一つ、手が全然違うよ!
図像は同じだけど、それぞれ本物の価値を持って光っているよ。
だからね、私がずっと言いたいのは、「革新性」「自律性」そんなのは、近代以降
に誕生した概念だってこと。(ルネサンスに始まるわけだが)そんな「芸術」という
乱暴なキーワードで、それ以前の、いわば人間の社会精神から生まれ出でたものを
ばっさり切ろうとするから、ビザンティン美術のよさが見えてこないんだよ。

あと、パルミジャニーノのあたり。同時代のことを指してるんじゃなくて、
バロックの隆盛とともに、あの辺りのマニエリスム画家の評価は失墜していったよ。
彼らが再評価されたのは、マニエリスムという用語が美術史に誕生してからだよ。
アカデミズムの画家だって、当時はとても評価されたけど、長らくつまらないものとされ、
そしてまた再評価されつつあるよね。グリーンバーグだってそうじゃない。
評価されて、おとされて、また再評価されて。あなたはなんか変な神話を信じている気がする。
ミケランジェロだって、ドイツ人が再評価するまでは、ラファエロの影に全然隠れていたんだよ。

ちなみに私は、現代美術を見るのは全然好きなんで。考えるのは、あんまり訓練してない。

117ヒロ:2004/11/01(月) 02:16
今日の芸術は作る側が創るのか、見る側が創るのかの問題でしょう、
ぼくはいまの人は見る側がほとんど過剰なほど創ってると思ってます。

118利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/01(月) 03:38
>>116
>もうちょっとビザンティン観た方がいいですよ。自分は平均よりは
>目にしてきた方だと思うけど、ビザンティン美術を、衰退した芸術と
>言った人には初めてであった。
別に俺の意見が少数派ではなく、むしろビザンティン美術を評価する
人の方が少数派だと認識してます。ちなみにレオナルドも俺と同意見でした。
レオナルドが1490年頃に書いたとされる手記から、彼の美術史のビジョンを知る事が
できます。
|画家は「自然」を師としなければならぬ――(略)彼ら(ローマ時代以後の画家たち)は、
|常にお互いの模倣ばかりしていた、そして時代が経るにつれ、常に芸術を衰退させて
|いた。こうした画家たちのあとにフィレンツェ人ジョットがあらわれた。(略)ついに
|ジョットは同時代の親方たちはもちろん、何百年の先人すべてを凌駕した。この人の
|のち芸術は再び衰退した、なぜなら皆が出来合いの絵を模倣したから。こうして、
|フィレンツェ人マザッチョが現れ、完璧な作品によって、師の中の師である
|自然以外から学ぶ人々が、いかに無駄な努力をしていたかを示すまで、幾世紀
|もの衰退が続いたのである。
(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』岩波文庫214頁、Codice Atlantico 141r-b より、適宜意訳抜粋)

119利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/01(月) 05:14
>>117
>今日の芸術は作る側が創るのか、見る側が創るのかの問題でしょう、
>ぼくはいまの人は見る側がほとんど過剰なほど創ってると思ってます。
俺は見る側(鑑賞者)は芸術を享受するだけで、創ることは無いと
思っている。
すると最近のリレーショナル・アートというのはどうなんだ
という問題になる。いろんなタイプがあるけど、鑑賞者が作品の完成に
参加する、巻き込まれるということは、アーティストの計画によって、
割り振られた役割を演じること、つまり役者にさせられることであり、
<見る―見られる>存在になることである。そう考えるとミケランジェロ・
ピストレットの鏡に写真を貼った作品は、平面の内部に鑑賞者を含む、
作品が設置された環境を取り込んでいたし、ブルース・ナウマンのヴィデオ
カメラとモニタを通路に設置して、鑑賞者のうしろ姿とかを本人に見せる
作品なんかも先駆的な事例と言えるかも。
ともかく、作品の内部に鑑賞者の身体がとりこまれようと、肉体的労苦を
感じさせるものであろうと、究極の製作者は、作る側のアーティストのみ
なんじゃないかな。例えば演奏家は芸術を創造してるのかどうか?
極言すれば、作曲家だけがアーティストであって、演奏家は取替えがきく
メディアにすぎないと俺は思っている。ましてや鑑賞者にできることは、
作品の批評のみじゃないだろうか。

120利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/01(月) 05:39
>>116
>ビザンティン帝国崩壊前夜に立てられたコーラ修道院の壁画だとか、息を呑むような美しさだし
俺もレオナルドもイスタンブルには行ったこと無いからねえ・・・。そんなに良かったのか。
俺はフィレンツェの洗礼堂、ピサのドゥオモ、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院なんか
のモザイク壁画を見たけど、別に美しくも何とも無かったよ。ビエンナーレの時にでも
行きたいねえ、イスタンブル・・・。

121利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/01(月) 08:27
>>116
>だからね、私がずっと言いたいのは、「革新性」「自律性」そんなのは、近代以降
>に誕生した概念だってこと。(ルネサンスに始まるわけだが)そんな「芸術」という
>乱暴なキーワードで、それ以前の、いわば人間の社会精神から生まれ出でたものを
>ばっさり切ろうとするから、ビザンティン美術のよさが見えてこないんだよ。
まあビザンティン美術と俺とは、相性が悪いというか、好みじゃないんだろうね。
ロシアのイコンとか、よくもまあ似たり寄ったりのものばっか作ってと呆れるばかりだし。
ロマネスク彫刻のなかには、割りと独創的で馬鹿っぽく、面白いと思えるものが
あるんだけどね。
俺は日本の仏画もあんまり感心しない。あまりにも拝まれるべきモノとして
作られた、型どおりの宗教美術は、いくら歴史を経ようが、芸術的価値は低いと
思う。実際にモノを観ないと、総論では判断できないけどね。

12243:2004/11/01(月) 13:49
>>121
要するに、あなたは自分の芸術論をここで言いたいだけで、
普遍的な芸術論を構築したいとか思っているのではないわけだ。
じゃあ、なんでもいいんじゃないですかね、、

123匿名さん:2004/11/01(月) 23:50
>>121>>122
芸術的価値ってある程度でも規定されているものなのですか?そもそも価値基準は
必要なのか。例えば一方的な抑圧のようなもので滅びかかっているということ?
普遍的な芸術論を求めているというのは解らなくもないが。

124利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/02(火) 02:48
>>116
>何万何十万と描かれただろう聖母子像を、限られた図像の中で、いかに親子の愛情や
>マリアの悲しみを表現しようかと、画僧が貞節謙虚に苦心していたか、とか
>そういうの観て、感じてほしい。
こういう感情移入は、芸術鑑賞において、2次的な要素だと思うけどね。全く無駄だとは
いわないが。俺はヨーロッパで暮らしているが、キリスト教をはじめ、あらゆる宗教に対して
嫌悪感を持っている。教会はキリスト教徒に対する洗脳装置なので、その雰囲気に染まって
まったりする気にはなれない。

125利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/02(火) 02:48
>>122
>要するに、あなたは自分の芸術論をここで言いたいだけで、
>普遍的な芸術論を構築したいとか思っているのではないわけだ。
「普遍的な芸術論」なんてものは、現代においては成立しないと俺は考えている。
古今東西の美術に共通する本質なんてものは存在しない。美は制度的歴史的概念である。
ヴィザンティン美術は、スターリンの肖像画みたいなものと思われ、今でも美術扱いしてる
43氏のような人がいるとはいえ、俺にとってはどうでもよい。
現代美術の個々の作品を、どのように判断すべきかだけが、俺にとっては常に問題であり、
その場合に、美術史のコンテキストについての、十分な情報を持っておく必要がある。

12643:2004/11/03(水) 02:49
感情移入じゃないってば(苦笑)
一つ一つ美術史家の目で細かく見ていけば、決まった図像の中にも
当時の神学とか思想の影響を受けてなんとか当時の世相を表したいと
思ってる、ということが学問的に立証できるわけ。

まあ、全ての宗教に嫌悪感をもっていて意味のないものと思う人は、
美術を理解することなんてできないでしょうねえ。芸術は人間が誕生した
時からあると「信仰」しているのに不思議だわ。ミケランジェロのシスティーナ
だって、なんだって強烈な信仰心がなきゃ成立しえなかったわけだし、
勿論ミケランジェロの数々の独創的な図像などは、「全て」当時の神学思想
に裏打ちされているわけですから。人間の生み出した表現を、「線と形」
だけで観ることなど不可能。「純粋なる鑑賞」なども不可能。絶対不可能。

それから普遍的な芸術論を構築する気があるのかどうかっていうのは、
つまり他人に自分の意見を理解してもらいたいと思って
「議論」しようとしているのかってことを聞いているんです。
つまり論理的かどうかってことです。
あなたの場合は、単に自分の意見を押し付けたいということがだんだん
わかってきたので、「ビザンティン美術は芸術ではない」とこの
人思ってんの、ふ〜ん、ていう意見しかないな。
ビザンティン美術が芸術ではないことを、美学的に証明できるならまだしも、
単にあなたが嫌いだっていう事実にはあまり興味が無い。
ということで、上の方にいた人達もどっかいっちゃったんだなあと思った。

で、まあビザンティン美術の研究というのは、西欧美術に比べれば本当に昨今始まったもので、
価値の無い芸術、という感想は、非常に古臭い考えであることを
お伝えしておきます。ちなみに、誰かが言っていましたが、レオナルドはビザンティン
建築は素晴らしいと思っていたらしいですよ。それでも、レオナルドがビザンティン
美術が好きかどうか、ということは、人のコンセンサスを得る場合に殆どなんの
効力もないと思います。何何先生が評価していた、とかヨーロッパで数十年評価されている
現代美術家、というのも同様です。殆どなんの価値もありません。
そう主張する人が、いかに論理的に客観的にそれを「証明」できるかでしょう。
だってあなたは宗教なんて嫌いなわけだし、感情移入も認めないんだから、、

あなたの「芸術観」は近代以降誕生したものに他ならなくて、その現代の価値観で
過去を乱暴に裁断しているだけなのに、あたかも過去に「芸術」が存在した(厳密な意味で)
と主張してしまうからおかしいと言っている。あなたの芸術観が過去においては
正確に適用できないということを認めてくれるなら、「ビザンティン美術は独創的では
ないから自分にとって現代的な意味での芸術ではない」と言っても全然いい。
そりゃそうだろう、、という感想しか生まれないけど。
私はそれよりも、現代のものさしで計れない「非常に美しく人の心のうつもの」
があるとすれば、そういうものを包括するような、論理的な言説を生むことのほうがよっぽどスリリングでおもしろいや。

127利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/03(水) 10:18
>>126
>感情移入じゃないってば(苦笑)
>一つ一つ美術史家の目で細かく見ていけば、決まった図像の中にも
>当時の神学とか思想の影響を受けてなんとか当時の世相を表したいと
>思ってる、ということが学問的に立証できるわけ。
当時の世相を宗教的図像が表してるって、マニエリスムが当時の不安な
世相を表現してたみたいな、紋切り型の解釈を与える事が、美術をネタに
した学問的な商売になることぐらいは、俺も知ってはいるけど、それは芸術を
享受する態度とは別ですよね?スターリンや毛沢東の肖像が、いかに加工
されてたか、といったこととネタ的には何も変わらないんじゃない?
そこで連想されるのは、毛沢東の肖像を素材にした、アンディ・ウォーホルですが、
確かに当時の世相を意識的に反映させようとした人でした。

128利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/03(水) 10:50
>>126
>ミケランジェロのシスティーナだって、なんだって強烈な信仰心がなきゃ
>成立しえなかったわけだし、
そりゃそうですよ。ただ信仰心があれば、誰でもミケランジェロのように
『最後の審判』や『天地創造』が描けたというわけでは無い。
信仰心に目を曇らされた人間には、宗教的主題の芸術作品を、まともに批評はできないと思います。
メル・ギブソンが監督した『キリストの受難』を、1個の映画作品として批評する場合でも、
ビザンチン美術を鑑賞する上でも、信仰心および、信仰に対する同情心は、全く助けになりません。
>勿論ミケランジェロの数々の独創的な図像などは、「全て」当時の神学思想
>に裏打ちされているわけですから。人間の生み出した表現を、「線と形」
>だけで観ることなど不可能。「純粋なる鑑賞」なども不可能。絶対不可能。
というか、図像の解釈なんて、聖書の知識があれば、何も難しいものではないわけです。
例えばシスティーナ礼拝堂の『最後の審判』を鑑賞する場合、ミケランジェロが愛読してた
ダンテの『新曲』からの影響を見て取ったり、審判の裁断を下す若々しいキリストの肉体の、
捻れた形象に、当時発見されたヘレニズム期のラオコーン群像の影響を見たりというような
見方の方が、より興味深いし、アーティストの心情により近づけると思われます。
それに加えて、フォルマリズム的な分析は、作品理解に常に役に立つと思います。

129利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/03(水) 11:11
>>126
>それから普遍的な芸術論を構築する気があるのかどうかっていうのは、
>つまり他人に自分の意見を理解してもらいたいと思って
>「議論」しようとしているのかってことを聞いているんです。
>つまり論理的かどうかってことです。
あなたの上記の文章は、とっても非論理的だと思います。普遍的でないものごとに
ついて、論理的に語り、相互理解を深めようとする行為は、日常においても、
常に行われていることです。
美術史を普遍的な美の発展として記述する事は誤りであり、無益なことだと思いますが、
美術史を個別に地域や時代に即して、背景となるコンテクストを明らかにしつつ、
記述する事は、文化史の一分野として学問的な研究対象となることでしょう。

130利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/03(水) 11:54
>>116
>あと、パルミジャニーノのあたり。同時代のことを指してるんじゃなくて、
>バロックの隆盛とともに、あの辺りのマニエリスム画家の評価は失墜していったよ。
>彼らが再評価されたのは、マニエリスムという用語が美術史に誕生してからだよ。
パルミジャニーノの代表作である『首の長い聖母』は、イタリア国外におけるマニエリスムの
再評価とかの、学者が研究して作り上げる「美術史」とは無関係に、ウフィッツィ美術館には、
ずいぶん昔から展示されており、20世紀の初頭にリヴォルノ出身のモディリアーニは、
1年間フィレンツェの美術アカデミーでデッサンを学んでいたおり、この絵に親しく接していた
はずだと思う。彼がヴェネツィア経由でパリに行き、引き伸ばされた肖像画を描くように
なった背景には、彼が好んだフィレンツェ派、ヴェネツィア派絵画だけでなく、自然に
パルミジャニーノの絵からも創作のヒントを得たはずだと思う。俺が重視している美術史とは、
こういうアーティストによる昔の美術の解釈と、新しい形での再生という自然な繋がりである。
モディリアーニは決して、さほど前衛的革新的なアーティストではなかったけれど、明らかに
イタリア絵画の伝統を滋養にし、それらを咀嚼して独自のアートを創造した人だった。

131利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/03(水) 12:41
>>126
>それでも、レオナルドがビザンティン美術が好きかどうか、ということは、
>人のコンセンサスを得る場合に殆どなんの効力もないと思います。
俺がレオナルドの手記を引用したのは、ちゃんと文章を読めばわかるとおり、
彼が、アーティストは自然を師とするべきであり、ジョットやマザッチョが他の
アーティストより優れていたのは、彼らも自然から直接学んだためだと主張
していた歴史認識に興味を覚えたため。ちなみに俺自身は、自然を師とするべきだ
という考えは、現代美術においては、ちっとも有効ではないと思ってる。
しかし、例えば西洋近代絵画に惹きつけられた円山応挙が、写生を尊んだことなどを
連想すると、近代美術の枠組みを構成していた思想が、レオナルドあたりから
自覚されてきたこと、(ギリシャ・ローマ美術の復活ということを含め)、それが週百年間
かけてコンフリクトを生みつつ世界に広まり、未だに日本の美術界では、こういうドグマに
とらわれてる人も結構いることなど、いろいろ考えさせられるのです。
自然を師とせよという思想も、それ以前の美術を支えていた思想同様に普遍性はないけれど、
現代美術が近代美術を批判的に継承してきたものであり、われわれがポストモダン化しつつある
モダニズム社会に生きる以上、再考する価値はあるように思われます。

132ヒロ:2004/11/03(水) 20:50
>>131
>自然を師とするべきであり、

世界広しといえども、自然を師としたのはモナリザしかありません、
まあ永遠に完成は無いでしょうが、永遠の天才ですね。

133利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/07(日) 08:58
>>123
>芸術的価値ってある程度でも規定されているものなのですか?そもそも価値基準は
>必要なのか。例えば一方的な抑圧のようなもので滅びかかっているということ?
>普遍的な芸術論を求めているというのは解らなくもないが。
今日の大学で、西洋美術史や日本美術史が、研究される理由は、個々の時代や地域で
生み出された美術作品に、芸術的価値が有る(あるいは高い)からではなく、
美術史が文化史の1分野であるからであって、それゆえにあらゆる時代、あらゆる地域の
美術の変遷の歴史が、網羅的に、学術的研究対象としては等価に、研究されているの
だろうと思います。ですから、図像解釈やら様式の比較やらが、いくら研究されようと、
個々の作品の芸術的価値に関しては、言及しようが無いと思いますし、それを美しいと
賞賛することは、主観的な判断を下す事であり、学問的態度としては無意味だと思います。
43氏は、ヴィザンチン美術の学術的研究が行われていることが、すなわち芸術的価値が有る
(あるいは高い)ことだと勘違いされているように思えます。

芸術家は、学者と違って、過去および同時代の作品について、独断的にせよ、常に価値判断を下す
存在だと思います。芸術家が作品を創造する行為には、自身の作品への価値判断が、常に
伴うからです。先に引用したレオナルドの手記は、ジョット以降マザッチョ以前のアーティスト、
つまりシモーネ・マルティニから国際ゴシック様式に属する幾多のアーティストを否定し、
フラ・アンジェリコも否定したということです。自然から直接学ぼうとせず、金箔を多用し、装飾的、
様式的なものに勢力を注いだ画家たちを否定したということです。

134匿名さん:2004/11/11(木) 00:29
>>133
>芸術家は、学者と違って、過去および同時代の作品について、独断的にせよ、常に価値判断を下す
>存在だと思います。芸術家が作品を創造する行為には、自身の作品への価値判断が、常に
>伴うからです。

価値判断に終始することではないと思うが、現社会に価値基準があり、そこに利便性を付帯している
ことからも価値判断が必要かもしれませんね。

135利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/11(木) 09:10
>>132
>世界広しといえども、自然を師としたのはモナリザしかありません、
>まあ永遠に完成は無いでしょうが、永遠の天才ですね。
レオナルドの自然から直接学ぶ実践が、すなわち膨大な解剖デッサンだった
わけで、それが彼にとっての「科学」の1部だったと思います。
そういう思想が起源になって、美術アカデミーの教科として、芸術解剖学が
教えられ、骨やら筋肉を模写させるという奇妙な伝統が、未だ残っていたり、
ヌードデッサンなんかが未だに基礎教育として、まかり通っていたりと、
古い習慣が後を絶たないのは不思議な事です。でも、そういう古い近代的な
教育システムの中から、漫画家やアニメ作家やフィギュア原型師とかが
出てきて、別のマーケットに人材を供給している現象も、それなりに興味深い
気がします。

136利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/11(木) 09:23
>>134
>価値判断に終始することではないと思うが、現社会に価値基準があり、
>そこに利便性を付帯していることからも価値判断が必要かもしれませんね。
現代における芸術家の価値基準というかリアリティの源泉は、おっしゃる
通り、我々が生きている現実の社会なんだと思います。そこから遊離して、
独り善がりの美学に耽溺してたら、芸術の実践など不可能でしょう。
利便性とおっしゃってる意味は、俺には分かりません。
アートは非利便的な発想、あるいは利便的世界への批判として生まれるもの
だと認識していますので。

137利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/11(木) 09:51
現代美術の話題になかなか行かないのだけれど、俺なりにビザンチン美術と
現代美術との関連を考えてみた。要するにイコン的なイメージを活用する
アーティストは、そんなに多くは無いが、無視できないくらいはいる。
例えばキース・ヘリング、ペンク、奈良美智(ペンクの教室にいた)など。
ウォーホルのシルクスクリーンを使った有名人の肖像、あるいは
キャンベル・スープ缶なども、ある意味でビザンチン美術的な思考の、
復活を意味する先駆的事例かもしれない。でもウォーホルが選ぶ有名人の
顔は、喪のイメージが常に付帯してるから、そのあたりはビザンチンじゃ
ない気がする。村上隆は、喪の感覚は継承してない。でもスーパーフラット
をビザンチンと読み替えても、そんなに違わない気もする。目玉を強調する
ところなんかビザンチン度が高いかも。そもそも日本の漫画アニメに
ビザンチン的な図像と類縁性があるのかもしれない。
中村政人のマクドナルドなどの企業ロゴを素材とする作品も、光り輝いて
たりして、すごくビザンチンっぽい気がしてきた。

138匿名さん:2004/11/11(木) 17:04
>中村政人のマクドナルドなどの企業ロゴを素材とする作品も、光り輝いて
>たりして、すごくビザンチンっぽい気がしてきた。

宮島達男の数字はどうでしょう?
こちらのほうが妙に宗教ぽかったりして(笑)。

139利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/11/11(木) 23:03
>>138
>宮島達男の数字はどうでしょう?
>こちらのほうが妙に宗教ぽかったりして(笑)。
宮島さんの芸術の源泉は某宗教にあるそうですから、彼の作品が宗教っぽい
のは妙ではないんです。
|「芸術家は才能の枯渇で苦しみます。
|私が芸術の世界に今あるのは、自分の原点である
|信心の泉を枯らさなかったからです。」
ttp://www.sokagakkai.or.jp/world/world_m/member07.html

140匿名さん:2004/11/21(日) 12:13
枯渇してから長いけど、それも、信心のおかげということね。

141匿名さん:2004/12/23(木) 19:24
こないだ都美館にいったんですが物凄い混んでました。ミケランジェロのやつ。
現代美術では考えられませんね。あの需要は何だろう。

142匿名さん:2004/12/26(日) 03:09
>>141
日本のオタクたちの美の基準が、ルネッサンスのようです。
海洋堂の専務のインタビューを読んで納得できたけど。
NYの美術館でブランクーシを糞味噌に貶したあとで、
ルネッサンス彫刻を見て圧倒されてやんの。ほんと馬鹿丸出し。
ブランクーシにせよトム・フリードマンにせよ、ルネッサンス彫刻を
常識として踏まえたうえで、誰もやってないことに挑戦してるわけだが、
フィギュアおたくの美意識とやらは、ルネッサンスからロダンあたりで
永久停止してるようだ。
どうでもいいけど、そういう頭で現代美術を貶すのは、やめてほしいものだ。

143匿名さん:2004/12/26(日) 16:25
>>142
日本のオタクたちの人口はそんなに多いんだろうか。

144匿名さん:2004/12/27(月) 01:42
>>143
日本のオタクたちの美意識(嗜好)は、平均的日本人の美意識の
スタンダードなんじゃないかと思う。
ミケランジェロ作とかいう彫刻が人気が出るのも、ディテールがよく出来てる
とか、そういう瑣末なとこに妙に執着しちゃうからじゃないの?
俺は実物観てないから、作品の真贋、出来の良否については、何も言えないけど。

145匿名さん:2004/12/29(水) 08:02
>>144
本物の人間みたいに良く出来た彫刻だ、というだけで、
感動する人も多いだろうしね。
現代美術は具象彫刻より、分かりにくいかもね。
誰か詳しい人の手引きが必要だと思う。

146匿名さん:2005/01/14(金) 23:17
>現代美術は具象彫刻より、分かりにくいかもね。

彫刻について、どこから、現代美術といいますか?
流れ的に、ブランクーシは難しいということに鳴るのかもしれないけど、
ブランクーシってモダンの範疇でしょう?

現代の村上隆はミケランジェロと同様にとっつき易いなんてことになるのかもしれないし、

147匿名さん:2005/01/15(土) 09:27
>>146
>ブランクーシってモダンの範疇でしょう?
そうですよね。モダニズム彫刻の父がブランクーシです。
現代美術へのブランクーシの影響は、彼の『無限の円柱』なんかにみられる、
同一形態の反復、モジュール構造なんかが、カール・アンドレに大きな影響
を与えたこと。まあミニマリズムをモダンの最終形態ととらえるか、
微妙ですが。
それとデュシャンが友人だったブランクーシの作品を、NYで売りさばく
ことで糊口をしのいだ時期があったこと。あんまり関係ないよね。
ポストモダン彫刻というと、ボイスとかトニー・クラッグあたりからになるのかな?
まあ、彫刻という概念自体が消えるわけだけど。

148匿名さん:2005/01/18(火) 00:59
>まあ、彫刻という概念自体が消えるわけだけど。

どうかな、戸谷とかいい仕事していると思うけどな、
あの作品をみると彫刻という概念が地として立ち上がると思うのだけど、

149匿名さん:2005/01/20(木) 07:54
彫刻って、造形主義的な美しさは重視されなくなっていると
思うし、これからどうなっていくのかな。

僕は、戸谷っていう作家の作品は観たことないです。

150匿名さん:2005/01/21(金) 10:06
>>148
戸谷成雄って人ですよね、たぶん。
直接観た訳ではないけれど、イメージから想像するに、なんか1960年代のアルテ・ポーヴェラと
ミニマリズムをかけあわせたようで、こういうことを1990年代から延々とやってることに、
とくに新味があるようには思えませんけど。彫刻というか、インスタレーションですよね。
表面的なテクスチャにこだわること自体、1960年代風ではあるけれど、トンネルとか、中に
入ったりすると、また臭いとか、圧迫感とかも感じられるのでしょうか?
バゼリッツもチェーンソーで人体つくってるけど、これまたアナクロニズムだと思います。
やっぱり家をぶった切った、ゴードン・マッタ・クラークの迫力には、到底かなうものではないと
思いますが。こういう彫刻家がトム・フリードマンと勝負できないとおもいますけどね。

ttp://www.shugoarts.com/jp/toya.html
ttp://www.city.kitakyushu.jp/~k5200020/exhibit/tobata/past/toya.html

151匿名さん:2008/03/13(木) 21:32:59
俺は美大卒じゃないけれど
この板は洋楽のRock聞き出した
厨房がエリッククランプトン知ってるか?
zepe知ってるか?ニールヤング知ってるか?
それならアルクパー知ってるか?ボブハイト知ってるか?
とマイナーなrockミュジシャンを得意げに
自慢する厨房と同じですね。
たいして知らないくせBTかなんか写真観ただけで
自慢する板です。
唯一スレ続くのがこのスレです。


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