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『ぎん千代姫の一生』

1韋駄天はふと考えた:2008/05/14(水) 05:07:52
主な登場人物(カッコ内の人名は、登場人物役をイメージできる芸能人)

ぎん千代(辻希美=つじのぞみ)
立花宗茂(杉浦太陽=すぎうらたかやす、後にすぎうらたいようと呼び名を変更)
千代乃(中川愛海=なかがわあみ)
立花直次(杉浦太雄=すぎうらたかお)


  ∋0ノハヽ0∈
((∩( ´酈` ) ののたんと歴史物語が好きな人は読んでくらさい

2韋駄天はふと考えた:2008/05/14(水) 05:09:50
<あらすじ>

この物語は、戦国の世に実在し33歳(31歳の説も)でこの世を去った、ぎん千代姫(裎千代=ぎんちよ)の波乱万丈(はらんばんじょう)の生き様にスポットを当てた物語である。

戦国武将の娘として生まれてきて、さらなる権力の高みを目指して殺すか殺されるかで争い合った、戦国の世の刹那(せつな)な時代光景を想像しながら、ぎん千代姫の31歳という余りにも短く波乱万丈の一生を、歴史上の事実を交えて想い描いた物語。

ぎん千代姫の父親は、九州の豊後国(ぶんごこく)を発祥とし、豊前国(ぶぜんこく)、肥後国(ひごこく)、筑前国(ちくぜんこく)、筑後国(ちくごこく)、を次々に支配下に収めていった戦国大名、大友宗麟(おおともそうりん)配下の大友家臣団の中、全国に数多(かずあまた)いる戦国武将の中、屈指の猛将(くっしのもうしょう)と恐れられた立花道雪(たちばなどうせつ)。

その立花道雪は、若きころに落雷の直撃を受けて下半身不随(かはんしんふずい)の大怪我(おおけが)を負って(おって)おり、自力で歩くことはおろか立つことさえ不自由な身となった。

そんな障害(しょうがい)を負っても、十数人の部下にかつがせた御輿(みこし)に乗って戦場に出るやいなや、愛用の鉄砲と太刀(たち)を両手に携えて(たずさえて)は鬼神(きしん)のごとく、敵陣を縦横無尽(じゅうおうむじん)に闊歩(かっぽ)して敵兵士を蹴散らして(けちらして)いく立花道雪。

3韋駄天はふと考えた:2008/05/14(水) 05:10:19
立花道雪の旧名は戸次鑑連(べつきあきつら)であり、主君(しゅくん)の大友宗麟から筑前国最重要拠点の立花山城の城主として任命されると、大友一門の名門の家系であった立花家の家名を継ぎ、立花道雪と名を改めた(あらためた)。

ぎん千代姫の父が、九州屈指の猛将と恐れられた立花道雪ならば、ぎん千代姫の夫は、千の兵を万の兵に変える名将と全国に名を轟かせた(とどろかせた)、後の江戸幕府の下で筑後柳川藩(ちくごやながわはん)12万石大名となった立花宗茂(たちばなむねしげ)である。

立花宗茂の改名前の名は高橋統虎(たかはしむねとら)。

そして立花宗茂の実の父が、九州で猛威(もうい)を振るった大友家臣団の中、勇猛(ゆうもう)さと実直(じっちょく)さでは立花道雪と双璧(そうへき)をなすと謳われた(うたわれた)高橋紹運(たかはししょううん)。

高橋紹運の子は二人兄弟で、長男が高橋統虎(後の柳川藩12万石藩主の立花宗茂)で、次男が高橋統増(たかはしむねます=後の立花直次で三池藩1万石藩主)。

その高橋紹運は後に、わずか763名の部下と共に岩屋城に立てこもり、筑前国を制圧しようと猛進撃してくる島津軍2万余騎〜5万余騎の大軍勢を前に一歩も退かずに(しりぞかずに)、二週間の激戦の果てに高橋紹運以下全員が玉砕(ぎょくさい)で散った。(岩屋城の激戦)

4韋駄天はふと考えた:2008/05/14(水) 05:10:55
高橋紹運の子である立花宗茂は、立花道雪の養子(ようし)であり、立花宗茂にとって実の父が高橋紹運で、義理の父が立花道雪であり、義理の父の娘であるぎん千代姫を妻に迎え入れたことになる。

高橋紹運の子である立花宗茂が、立花道雪の元へと養子(ようし)になったいきさつは、猛将と恐れられた立花道雪には跡取り息子が生まれずに、姫君のぎん千代しか子供がいなかったために、二人の跡取り息子が生まれていた高橋紹運に頼み込んで、幼少のころから才覚(さいかく)に優れていた長男の立花宗茂を、立花家を継ぐ後継者(こうけいしゃ)として養子(ようし)にした。

立花宗茂の弟は高橋統増(たかはしむねます)こと、後の立花直次(たちばななおつぐ)。

戦国の世に生まれ、数々の戦いを生き延びてきた武将ならば、大友宗麟の名とともに、立花道雪、立花宗茂、高橋紹運らの三人の猛将の名前を聞き漏らすはずもなく、九州で戦の陣(いくさのじん)を張る武将ならば、敵方(てきがた)の大将が立花道雪、立花宗茂、高橋紹運の三人のいずれかだと名前を聞けば、戦意を喪失(せんいをそうしつ)して震え上がるくらいに、敵だけでなく味方からも恐れられた武将だった。

5韋駄天はふと考えた:2008/05/14(水) 05:11:19
そんな三人の猛将と深く関わって、戦国の世に生まれてきたぎん千代姫は筑前国を治める立花山城城主(城主は立花道雪)の姫として生まれた。

生まれながらにして、すでに一国城主の姫君(ひめぎみ)として育てられたぎん千代姫の性格は、父の立花道雪に非常に良く似ていた。

父の立花道雪の性格といえば、主君からの命に対しては実直でありながら、戦場での戦いには死を恐れぬ勇猛果敢(ゆうもうかかん)さで、敵に背を向けて逃げ出す臆病者(おくびょうもの)の兵士に対しては、味方の兵士に銃口が向けられた立花鉄砲隊から、情け容赦のない弾(たま)が飛んで来る事は当たり前であり、敵兵士だけでなく味方の兵士からも恐れられた存在であった。

そんな父の性格を受け継いだぎん千代姫であったがために、女や姫君としての器量(きりょう)よりも武将としての器量が勝っていた(まさっていた)。

立花道雪や高橋紹運以下、大友家臣団らの勇猛なる戦場での活躍により、九州における領地は拡大の一途を遂げる主君の大友宗麟と大友家。

だが、どれだけ大友宗麟や大友家が戦(いくさ)に勝ち続けようとも、武力支配した地域の民衆の心は大友家から離れる一方で、大友家領地内から沸き起こる相次ぐ一揆(いっき)と、大友家臣からの裏切り反乱蜂起(はんらんほうき)の連続で、大友家と大友家臣団は次第に弱体化していった。

6韋駄天はふと考えた:2008/05/14(水) 05:11:46
次第に弱体化していく主君の大友家の有様(ありさま)をなげくも、大友家家臣の一員として最後まで大友宗麟に忠節を誓う(ちゅうせつをちかう)立花道雪と高橋紹運。

だがそんな立花道雪の居城(きょじょう)である筑前国や立花山城(現在の福岡市東部の山の頂上に築かれた城)と、高橋紹運の居城地である筑前国の岩屋城と宝満城(現在の大宰府市東部の山の頂上に築かれた城)にも、北の長門国(ながとこく)からは毛利家率いる軍勢と、西の肥前国(ひぜんこく)からは龍造寺家(りゅうぞうじ)率いる軍勢の脅威(きょうい)にさらされた。

さらには足元の支配下に置いている筑後国(ちくごこく)の南からは秋月家の反乱軍勢力に、元大友家臣の反乱軍勢力との討伐(とうばつ)の戦いに明け暮れていた。

やがて年中、戦の連続で城を開けるばかりでなく、道雪自身が高齢でもありそろそろ家督を譲る(かとくをゆずる)時期にきていた道雪。

城主である我が身の不在の居城にもしもの事(城兵の反乱と城の乗っ取り)や、戦場で自分の死去によるお家騒動(立花家の家督相続争い)が起きれば、立花家の存続にも関わる重大事であった。

そこで一人娘のぎん千代に家督を譲り立花山城主にという道雪立っての願いが、主君の大友宗麟に認められた。

こうして女の身でありながら、父道雪を継いで立花山城主の座についたのが、若干6歳の幼いぎん千代であった。

7韋駄天はふと考えた:2008/05/14(水) 05:12:17
若干6歳のぎん千代が城主についたころから、世話役として従えていた千代乃(ちよの)という侍女(じじょ)がいた。

ぎん千代と千代乃は年も近く、遊び相手として、習い事の友達として、相談相手として、ぎん千代にとって千代乃は常に一番信頼できる侍女であった。

年下のぎん千代にとって少し年上の千代乃には、よく甘えたり、時折わがままを言っては困らせたりする姉みたいな存在でもあった。

年中、戦に駆り出されては居城の立花山城を居留守(いるす)にする父道雪。そんな不在の父に代わり城主として立花山城で日々成長していくぎん千代姫。
だが時代の急変が幼き城主のぎん千代にも襲い掛かる。

日向国(ひゅうがこく)耳川の合戦(みみがわのかっせん)により島津軍に大敗した大友宗麟と大友家。

このころから立花家の主君である豊後国大友家の衰退(すいたい)と、九州南端の薩摩国(さつまこく)から怒涛の進撃(どとうのしんげき)で北上してくる島津家と島津軍の勢いが、九州北端に位置する筑前国立花山城下の誰にも目に見えてはっきりしていく。

立花家の行く末を案じる(ゆくすえをあんじる)、城下の家臣や城下で暮らす民衆の心配をよそに、日々、習い事や遊びや武道にふける11歳のぎん千代と13歳の千代乃であった。

8韋駄天はふと考えた:2008/05/14(水) 05:12:44
そんなぎん千代が12歳になったころ、ぎん千代の元に、幼少のころから遊んだ幼馴染み(おさななじみ)の高橋統虎(たかはしむねとら)が、立花家の養子としてやってきた。

家督を唯一の娘であるぎん千代に譲った父の道雪だが、主君大友家の衰退が日に日に強くなり、島津家の筑前国侵入の勢いを食い止めるためには、自分はもはや高齢すぎて駄目な上に、若干12歳の娘のぎん千代では無理だと悟った。

そこで戦場で協力しあった戦友でもあり、同じ筑前国の守備を任された者同士である、高橋紹運の息子を養子にして立花家の家督を譲る決意を固めた。

血気盛んでまだ30代の高橋紹運には二人の若き息子がいた。長男が高橋統虎で次男が高橋統増。
この二人の兄弟のうち長男の高橋統虎の方が、武将のしての器量や才覚(さいかく)に優れているとの評判であった。

こうして立花家の養子となり立花山城で、城主のぎん千代と暮らすことになった高橋統虎は、立花宗茂と改名する。

ぎん千代と立花宗茂の二人の幼馴染みは、若くして義理兄妹の関係となり、後に立花家の家督(かとく)を、自分から奪うことになる立花宗茂と結婚する宿命のぎん千代であった。

9韋駄天はふと考えた:2008/05/14(水) 05:13:15
だが島津家の存亡をかけた耳川の合戦で大友家側が大敗した以降、時代の流れは容赦なく弱体していく大友家に襲い掛かる。

耳川の合戦以降、大友家勢力の軍勢が大きく衰えたのを知った、かっての大友家支配下の武将と手下の軍勢は、厳しすぎる軍政の支配下で同族の仲間を多数殺された積年の恨みを果たさんと、次々に島津家の薩摩側勢力に寝返りをする。

島津家勢力の軍勢が、肥前国(ひぜんこく)島原半島での沖田畷の合戦(おきたなわてのかっせん)で龍造寺家の軍勢を撃破して龍造寺家を滅ぼすと、島津軍の勢いづいた勢力は大友領地の肥後国から筑後国へと北上していき、みるみるうちに島津家率いる薩摩勢力側の軍勢は、1万余騎から2万余騎〜5万余騎へとふくれあがっていく。

完全に勢いづいた島津軍大勢力は、肥前国を制圧して領地にすると、次に肥後国領主の阿蘇家を降伏させて肥後国を制圧。今度は大友家領地の筑前国制圧へと侵攻作戦を開始する。

この島津軍大勢力の勢いを食い止めるために、筑前国から立花道雪と高橋紹運がそれぞれ兵を率いて南下、筑後国の各城を奪い返しては、島津軍大勢力の北上を阻止しようとする。

立花道雪と高橋紹運の二人の知勇と武勇に優れた猛将の前に、さすがの島津軍大勢力の軍勢も、北上を完全阻止されたかと思われた。

がしかし、大友家軍勢の要であった立花道雪が、筑後国の戦場で高齢によって急死するや戦局は一気に島津軍優勢に傾く。

10韋駄天はふと考えた:2008/05/14(水) 05:14:21
今日はここまで書きました。。。しおり

     
    nノノハヽo∈
   (ヨ(´酈` ) GJ
.    `Y   つ
      し' l_丿

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