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理想的ポエムサイト

1 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/15(火) 20:38
「理想的スレッド」においては、多数の参加者による自由で活発な議論が、
楽しく行われる。
その結果、ネット市民が自らの歴史を主体的に創造するための学習活動が
支援される。


「理想的スレッド」の参加者には、誰でも自由になることができる。なんぴと
も「理想的スレッド」に参加することを強制されないし、なんぴとも排除され
ない。

また、「理想的スレッド」における発言の価値は、その内容のみによって決定
される。誰も自分が誰であるかによって、発言の重要性を主張できないし、
なんぴとも、自分が誰であるかによって軽んじられることはない。

したがって、「理想的スレッド」における発言においては、なんぴとも、彼が
何者であるのかを問われない。

17 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/19(土) 00:30
**********

4月の反省

**********


さて、私はとにかく、猛然と粗忽ものなので、いつも大量のミスを犯す。
ミスしていなくても、一ヶ月の思考によって主張が変わることもあるだろう。

そこでこの連載においては、月の後半を、「反省週間」として、自己批評したり、
修正したり、反省したり、うぬぼれたりする事にする。

とりあえず、大江のあの本は、「洪水は我が魂に及びて」のほうだったね。
イリュージョンからの引用は、かなり変形させているから、引用と言うより
やっぱ盗用だな。

あと、これのオリジナルは、カントだったような気もするし、デカルトだったような
気もするし、ルソーだったような気もするし、ソクラテスだったような気もする。
とにかくバックじゃなかったような気がするんだけど、バックも盗用してるから
元ねたは、すぐにはわからない。

18 名前:ぽげ 投稿日: 2003/04/19(土) 08:31
…(-_-)ウ(_- )ウ!(- )ウッ!( )ウマ(. ゚)ウマ!( ゚∀)ウマ!!( ゚∀゚ )ウマ━━! ウマ━━━━━━(゚д゚)━━━━━━!!!!!

19 名前:ぽげ 投稿日: 2003/04/20(日) 07:45
最近思ったこと。

理想的ポエム「サイト」というのはあってもなくてもどうでもよくて、
むしろ自ら理想的ポエム「環境」を作ることが大切なんじゃないかと。

たとえば漏れなんかは好みのポエムサイトリンク集をローカルに作って、
いつでも好きなときに閲覧できるようにしている。
あと、したらばBBSをブックマーク代わりにして、
旬のトピックにすぐリンクを張るようにしている。

そういう些細な心がけが理想に結集するといいなあ。

20 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:02
やっほー、ぽげさん。
書き込みアリガトっす。

たぶん、実際には、そういうふうに閲覧し評価する主体的個人が、いっぱい集まっ
て少しずつ公的領域を形成していくんだと思う。

ココでやろうとしているのは、あくまで空想のサイトについての、妄想です。
てか、思考実験です。

21 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:06
『ハッカーによって唐突に挿入された意図不明な断片』

安部公房の小説に深く淫したことのある者は、誰でも、彼を
触覚によって他者認識する作家として記憶するだろう。
彼にとって人間の魂は、「砂の女」の男が語ったように、皮膚に
宿るものなの、従って指で触れるものなのである。

― 人間にもし、魂と言うものがあるとすれば、それはきっと、
皮膚に宿るに違いない。

触角を離れて他者を知ることは、恐らくできないだろう。だが、
それは果たして、もっとも本質的なことだろうか?
安部がこのような世界観を持つに至るためには、多分なんらかの
語り得ない物語が有ったに違いない。私には別の物語が有り、
別の見解がある。

私は、「口付け」について、もう長いあいだ考えてきた。あまりに
長すぎて、自分が何を考えていたのか、思い出せないぐらいだ。

ここで思い出せることを書き留めておこう。

そう。私にとっては、触覚より、味覚の方が本質的なのである。
私にとって他者とは、なによりも味覚に於いて出現する実在で
ある。
このことは、私にとって最初の口付けが、恐らくは娼婦であった
であろう女の女陰との口付けであったことと、たぶん関係するだ
ろうが、どのように関係するのかは、私にはわからない。

人は多く、十代のはじめに他者との本質的な出会いを経験する。
それがどのようにして彼の世界観を決定するかは、たぶん、論理
によってでなく物語によってしか語り得ない。そして、往々にし
てそれは語り得ない物語なのだ。

J.バタイユは、恋人達の口付けを、「極端に貧しいと言う意味で」
最も極端な言語、と位置付けた。
そのことの意味について、私は考えたいが、十分には考えることが
できない。

ところで人は、口付けによって何を知るのか。

私達の意識は実は多くを知ることができない。しかし、意識と関係
しないところで、身体は、相手の身体についての情報を多く獲得す
る。

それは、相手の体質であり、ストレス状況であり、食生活、睡眠時
間、嗜好品の摂取量であるだろうし、さらに、保持しているウイスル
や、免疫型の情報であるだろう。

我々の身体は、この瞬間、実に豊かなコミュニケーションを達成して
いると思われる。
私はしかし、意識に於いても、最も本質的な他者認識は、「味覚」で
ある、と思う。

ここで私の考えていることは、おそらく、経験をつんだマゾヒスト
しか理解しないだろうが、あえてそれを述べることを私は試みよう
と思う。

私達は、「涙の味」に入り混じった多くの物質によって、意識が予期し
えなかった深いコミュニケーションに到達することが出来る。
この瞬間、私達は、他者の身体の実在を、自己の身体および生命を
もって認識するのである。
そこにおいて体験された他者は、もはや疑う事ができない。

なお、これと関連するかどうかわからないが、コミュニケーションの
最も始原的な状態は、赤ん坊と母親の間の「授乳」において始まる
と私は思う。
ここでも、母親と子どもは、「味覚」によってコミュニケーションし
ているわけだが、このことは、われわれに何かを示唆するように、
私は感じる。

いずれにせよ、私は他者の実在について深く疑う前に、味覚によって
他者の実在を知らねばならなかった。
これは私の特殊個別的な状況かもしれないが、少なくも私において、
他者とは疑うことのできない実在である。

22 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:09
あ、気がつかなかった。やっぱ、行数多いと省略されちゃうんですね。

来月分の前半部分(3節まで)の推敲が終わったのでアップします。
本当は後半(2から3節の予定)が面白いのよん。

23 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:11
************

第1章

理想的ポエムサイト」は、誰のために存在するのか。

−インターネットにおける「人間」とは何か。

************

24 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:13
1 
インターネットで発言する時、人は自らの肉体を喪失する。

25 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:13
2 
インターネットにおける言語は、発言者の肉体である。

言語がそのように特殊な有り方をしていることを考慮して、インター
ネット上の言語を、今後この連載では「言語身体」と呼ぶ事にする。

インターネット上において人間は、言語として出現する。

26 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:14
2-1
言霊とは、死亡した言語身体の幽霊である。言語身体の幽霊が他者に
憑依することにより、言説は主義となる。

27 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:15
2-2
すぐれた言語身体は、常に一個のポエジーとして出現する。

2-2-1
言語身体における言語は日常言語とは異なる有り方をする。
それは、詩的言語である。

2-2-2
インターネット空間に、人間は詩人として出現する。

28 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:16
2-3
言語身体は、泣き、笑い、疲れたり、血を流したりする。
それは、自殺したり、病気を移されたり、愛したり、快楽に
没頭したり、老衰したり、自慰したりする。

29 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:16
2-3
言語身体は、泣き、笑い、疲れたり、血を流したりする。
それは、自殺したり、病気を移されたり、愛したり、快楽に
没頭したり、老衰したり、自慰したりする。

2-3-1
言語身体が、例えば苦しみを訴える時、それは実際に苦しんで
いるのである。
その背後にいるであろう個人または団体が苦しんでいるかどうかは、
さし当たって重要な問題ではない。

2-3-2
言語身体は固定的テクストではない。
それは、成長する。

2-3-3
インターネット上の言語は、人間である。

30 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:18

言語身体は、言語主体とコミュニケーション言語より構成さ
れる。

31 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:19
3-1
言語身体どうしもまた、言語を用いてコミュニケーションする。
ただし、言語のみによってコミュニケーションするのではない。

32 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:19
3-1-1
日常空間における身体は、言語以外のものをコミュニケーション
に多用している。
身体は必ずしも意識を経由せずに、身体と会話する。

3-1-2
同様に言語身体も非言語的コミュニケーションを行う。
それは、具体的には、改行位置、句読点の数、濁音の頻度、
反復、比喩の遠近等によって無意識的に告白される、言語身
体の「きもち」である。

33 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:21
3-1-2-1
このコミュニケーション技術のうち、主として意識が分析しえた
技術は、レトリックと呼ばれる。

34 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:22
3-2
論争によって敗北するのは、コミュニケーション言語であり、
言語主体ではない。
もしも、言語主体が否定された場合は、言語身体は消滅する。
したがって、健康な言語身体は議論する危険を冒さない。

3-2-1
インターネット上のトラブルの多くは、言語身体が、自らを
言語身体として認識していないことに起因している。
言語主体に対する直接の攻撃は、暴力であることが認知され
なければならない。

35 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 00:26
*******
ここまでで、世界観終わり。
この後は技術論だけど、そっちのほうが多少なりとも面白いと
思う。

言語身体を身体として考察する都合上、病院とか出てくるから(笑。
後半は、早ければ週末にアップできます。

****************

36 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 23:12
あ、世界観に関連して、一つ重要なことを忘れてました。

それから、>>19に関連する部分を先にまとめましたので、
一緒にアップします。

37 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 23:14
4 真の批評家は、必ず、テクストを「味読」する。
  
  彼はテイストによって、「他者」の実在を知る。

38 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 23:15
4−1 言語身体にとって、インターネット空間に現われる批評家は
    一種の妖怪である。

4−2 批評家のために付け加えよう。
    今更、忘れるものもいないだろうが、言うまでもなく真の詩人は
    常に怪物である。

39 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 23:17
5 人間生活の自立と自存(サブシステンス)は、バナキュラーな領域で
  確立される。
  理想的ポエムサイトは、産業社会の制度の領域にも、シャドーワークの
  領域にも属さない。

40 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 23:18
5−1

ちなみに、現在、大手サイトの多くはシャドーワークによって成立して
いる。このことを好ましくないと考えるものは少なくないし、彼らは正
しいが、だからと言って産業社会の制度に従属することが好ましいわけ
でもない。

これらは、両方とも、真の人間のサブスシタンスを妨げるからである。

41 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 23:33
********

以上が、この連載で使用する世界観(人間観)の概略だナ。

第一章では、この他に、ネットにおける人間の有り方に関連する部分で、
若干の技術論を付加します。↓ ・・連休中にアップできると思います。

********

42 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/24(木) 23:43

あ、またカタカナ間違えちゃった。「サブシステンス」が(正)ね。
引用はあとで並べるけど、イワン・イリイチの用語と哲学を使ってます。

ようするに、人間は、自分で勝手に育つって事がとても重要だって事。
規格化された、教育「制度」では、本当の人間を育てることはできないし、
病院「制度」は、人間のヒーリング能力を、弱めてしまい、自立を妨げる
ってことです。

バナキュラーな、ってのは、地縁的なってことだけど、つまり国家制度みたいな
ものと違ったものってことです。
イリイチは、例えば、昔、車の無かった時代の「通り」とかが、これにあたり、
そこで子どもは、大人になったんだ、と言ってます。

ぽげさんが言ってた、
>そういう些細な心がけが理想に結集するといいなあ。
ってのは、この辺に関連すると思う。

僕らが後の章で検討する「理想的ポエムサイト」も、本当はサイトじゃなくて、
ストリートと表現されるべきものかもしれないね。

*********************

43 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:25
5‐2
アンナ・ハーレントは、人間の条件にとって、誕生は死よりも意義深いと考えた。
人間は常に、他者の中で存在を開始するという観点から、このことに、私も同意
する。

言語身体においてもこれは同様であり、実はさらに問題はあからさまである。

44 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:25
5-2‐1
言語身体は、他者に「触られる」ことによって実在を開始する。

それは、あらかじめ触られることに同意し、差し出された身体である。すなわち、
他者の手を、あるいは舌を、自らの存在形態のうちに予期した身体なのである。

「触ってもらえないならば、生きていても仕方ない。」という想いが、全ての言語
身体に隠されている。

私はこの状況を比喩して、「言語身体は、常に濡れている」と表現しようと思う。

言語身体は特に高尚なものでも、高度なものでもない。むしろ、このような卑猥な
比喩によってよく理解されるものであると思う。

45 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:26

人間とは、「間違い」そのものである。

6-1
「人間らしい」ことと、「間違いを犯す」ということは同じ事である。
これは言語身体にも妥当する。

従って理想的ポエムサイトは、「間違いを犯すこと」を支援する機能を持たねば
ならない。

46 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:30

>>24
>>25
>>44
インターネット上で、身体性に関するこれらの特徴がもっとも鋭く現われている
のは、現在は詩のサイトに於いてではない。
日記、闘病、犯罪告白、被害告発、自殺、虐待、フェティシズム、などのコン
テンツにおいて、言語身体は現在の詩サイトにおけるよりも鋭く、その姿を現
している。

それらの中で、現在においてもっとも深く言語身体が試みられているのは、露出
趣味サークルのサイトと、マゾヒストの告白サイトの2種である。

これらのサイトのコンテンツとして、例えば、ある言語身体が、「わたしは、今
夜二時に、代々木公園の某所でオナニーをします」と語ったとする。
実際にそれは行われるであろうが、代々木公園にあなたが出かけるとすれば、
奇妙な光景を目にするだろう。
あなたは、そこで自慰する女に、けして話しかけることはできない。なぜなら、
そこであなたが目撃するのは、すでに「主体」ではないからだ。

その肉体は、言語身体の作品なのである。

このことは、ネットで予告されたSM趣味者のパーティーなどでも、経験する
ことになるだろう。
そこには実際に肉体があり、コミュニケーションがある。
しかし、私達がネットで出会う身体は、そこにはない。

それはインターネット上のみに存在する、「語る(騙る)主体」である。

47 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:31

>>46
このような強度で存在する「ポエムする主体」は現在はまだほとんど現われて
いない。
だが、現在アダルト系コンテンツで人気を集めている「騙る主体」が究極の進化
をとげる時、その主体はおそらく詩人として出現するのではないかと私は思う。

8-1
最もエロティックな愛撫は、魂への直接の愛撫であり、最もエロティックな性交
は、詩人と批評家の間で行われる。

48 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:31

批評は、性行為である。

49 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:32
9‐1
インターネットにおける批評行為は、言語身体間のコミュニケーションを、言
語身体自身の意識(言語主体)が自覚しないレベルにまで踏み込んで行うこと
を意味する。

それは、多くの場合、暴力的な侵犯であるが、理想状態を想定して、より幸福
な比ゆを用いれば、それは言語身体の性交である。

日常空間に於いてもインターネット空間に於いても、一般に性交が遂行される
ためには、健全に反射する身体が必要であるが、それだけでは足りない。
さらに、技術的知識と経験が必要である。

>性的制度(結婚、恋愛、売春など)を、技術的知識と経験に代用し
>ようとする者は後を絶たない。
>しかしこれは間違いである。
>哺乳類は、学習と練習を経なければ性交することはできない。


9‐2
上質な性交が真剣に志向されるためには、主体が安易な性交を回避す
る技術、すなわち強烈なフェティシズムを持っていなければならない。

9‐2‐1
究極の批評的フェティッシュは、「理想」である。

50 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:33
10
ところで、これらの考察は、インターネットに於いて、批評が準拠しなければ
ならない規範の概略を示唆する。

51 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:33
10‐1
理想的ポエムサイトにおいて確立されるルールは、日常空間の存在者を想定し
た「誹謗」や「中傷」には言及しない。

言語身体を相手に、それと別の存在である日常空間の存在者を攻撃すること
は無意味である。
従ってそれは、そもそも比較的低い知性による誤謬としてしか遂行すること
ができない。

10‐2
理想的ポエムサイトにおいては、日常空間の存在者を想定した誹謗や中傷は
一笑に附される。
それは、けして批評行為でありえない。

52 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:34
10‐3
批評が性行為であるという事実が、当然の帰結として要求する規範として、
批評の高品質性という規範が存在する。

10‐3‐1
日常空間に於いては、誰でも、自分の身体を勝手にいじりまわされたり、舐め
られたり、論評されたりしない権利を持っている。
そしてこの権利は、実際に主張される場合が多いであろう。

だが、「詩人」は次章で述べるように、マゾヒストとしてインターネット空間に
登場する。
言語身体として登場した詩人は、意識するとしないとにかかわらず、彼の身体の
全ての部分で、批評の暴力を受け入れることに、あらかじめ同意してしまっている。

理想的な批評家は、理想的ポエムサイトにおいて、この同意を仮借なく、徹底的
に利用するであろう。
そして、その全ての過程が万人の視線にさらされる。

批評行為がもたらすものを、理想的な詩人は、快感であれ苦痛であれ、一切、避け
ることはできない。
なぜなら彼にとってそれは至福の喜びだからである。


10‐4
しかし、批評家は、性交である批評の瞬間において、なんらかの意味で上質な性
交を実現すべきである。

この高品質性は、理想的ポエムサイトにおいては、人類の文学の歴史の上で最も
厳しい水準で要求される。
上質でない批評は、理想的ポエムサイトにおいては批評であると名乗ることを許
されない。

なぜなら、インターネットで批評家が対象としている言語は、単なる情報ではな
く、一種の生命体だからである。

53 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:35
11
未熟な批評家である言語身体は、技術的な知識を習得し、さらに、詩人である言
語身体を用いて練習することによって、一人前の批評家である言語身体になる。

だが、他者の身体を用いて「練習」を行うことは、他者の同意に基づいてのみ
許容される。

日常空間において、ぎこちない身体の練習に協力することは、処女や童貞と性交
することを意味する。
そのような真面目な自己教育に協力することは、楽しい経験では有るが、誰もが
何時でも協力することに同意するわけではない。

もっとも、幸福な経験をつんだ身体の多くが、少なくとも時々は、この楽しいコ
ミュニケーションに賛同するだろう。

54 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:35

11‐1
理想的ポエムサイトは、未熟な批評家の練習と、一般的な批評行為を区別してとり
扱う。
同時に、未熟な批評家の性交練習を支援するための「出会い系」ストリートを併設
していなければならない。

11‐2
命題11-1で規定したストリートにおいて、自己教育を行う未熟な批評家は、自分
の練習の目的、すなわち、一人前の批評家としての言語身体になる、という目的
を自覚していなければならない。

55 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:38
>>>>>

6‐1‐1
日常空間の存在者ではなく、言語身体そのものに対し、知的かつ残酷な意図
にもとづいて行われる攻撃については、別の章で論考するが、ここで概略を
述べておく。

まず、商行為としての個人(個別的言語身体)攻撃はこれを禁じる必要がある。
ここでは、公正取引法の精神が参照される。
インターネットに於ける、ネガティブキャンペーンや「いじめ」はこれに相
当する。

次に、純粋な悪意、すなわち殺意に基づく言語身体への攻撃について述べる。
日常空間でも、論争相手のネクタイを引っ張ったり、殴りつけたり、ピスト
ルで撃ち殺したりすることは許容されていない。

これについては、日常空間での調整方法と同様に、刑法の精神に基づいて論議
されるべきである。

刑法の立法にあたっては、憲法の自然権の概念と三権分立の思想が参照されな
ければならない。

また、裁定は権力分立を遵守しつつ、法文にのっとって行われ、執行にあたっ
ては、報復を否定して、「罪を憎んで人を憎まず」の精神が貫かれる必要があ
る。

6‐1‐2
基本的に有罪者に対する処遇は技術的な課題である。
思想が課題とするのは、有罪とは何かということであるが、この連載では
言語身体への殺意の実行は有罪であると考える。

言語身体そのものへの暴力は、直接的な、身体および生命への侵害であるから、
「場に存在すること」を有価値とする限り、有罪であることを免れない。

>>>>>>

56 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:38
12
インターネットにおける悪意の主原因は、嫉妬および過剰防衛である。

12‐1
嫉妬は、不完全な半存在的言語身体が時として備える特徴である。
存在者は嫉妬しない。

12‐2
攻撃に転化しうるほどの過剰防衛は、病気である。
健康な言語身体は過剰防衛しない。

12‐3
嫉妬および過剰防衛は福祉の精神に基づいて予防されるべきだが、実際の
トラブル処理上は刑法の精神に基づいて取り扱われる必要がある。

57 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:39
13
言語身体は身体であるから、機能として売春することができる。
これについては、章を改めて論じる。

ここでは、だれがどのような意図で金を出し、だれが受け取るにせよ、言語
身体に対して金銭を支払う仕組みを作るのであれば、言語身体の本来のあり
かたについて考察し、それをゆがめないシステムを開発する必要があること
を指摘しておく。

58 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:40
14
言語身体に関する以上の論考の帰結として、理想的ポエムサイトが
具有すべき機能として、以下のようなものが考えられる。

A)声、心拍数、しぐさ、体温、匂い、呼吸音などによる非言語的コミュニ
ケーションを促進するシステム。

B)言語身体の健康を維持するための診療所。

C)十分に存在していない、半存在的言語身体の自己教育を支援する
ストリート。

59 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:40
15
デカルトは、「我思う、ゆえに我在り」と言った。
このことによって、近代の自我は、身体と語る主体(精神)の分離を経験したが、
言語身体の出現によって、これは再び統合される。

言語身体は、想念によって、自己の身体を存在させるのである。

60 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/27(日) 23:42
*****************
以上で、第一章、終わりです。

月後半に、「反省」して、来月は第二章を論じます。

ちなみに、目次は>>3

61 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/28(月) 00:16
あ、レファレンスつけ忘れました。

>>21 ジョルジュ・バタイユ「詩と聖性」参照
>>21 安部公房「砂の女」引用
なお、私が述べた「言語身体」の概念は、安部によって「箱男」として予言されている。

>>30 吉本隆明「言語にとって美とは何か」参照。 
自己表出と指示表出の概念を大幅に変形して盗用しています。

>>32 マイケル・ポラニー「暗黙知の次元」参照。具体的な事例は、むしろ
「イマーゴ」等の雑誌より盗用。

>>32-33 北川透「詩的レトリック入門」参照。
ほとんど原形をとどめていませんが、「レトリック」を言語外(例えば余白)に
まで拡張して考えようとする姿勢を盗用しています。

>>39>>42 イワン・イリイチ「シャドウワーク」引用

>>43 ハンナ・アレント「人間の条件」参照
僕は馬鹿だから、どうしても間違えるけど、「ハンナ」が正解ね (^^ゞ
なお、文庫本はアレントの表記が多いけど、「アーレント政治論集」とかも去年でて
るし、評伝や批評はアーレントででてることが多いみたいだから、間違えない限り「ハ
ンナ・アーレント」と書きます。この連載では何度かアーレントに言及します。
 
>>45 池内紀 編訳「象は世界最大の昆虫である/ガレッティ先生失言録」参照

>>59 デカルト「方法序説」引用

62 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/29(火) 00:22
************
「5月の反省」

まだ、5月始まってないけど。
6月に予定している課題は、はっきり言って、チョー革命的なので、少し準備が要るん
ですね。で、前倒しで。

>>59
想念として」の間違い。

>>58
理想的ポエムサイトを考える上で、その一部は、「仕組み」として考えざるを得ない。
しかし、僕は個人的に、ここ100年の近代商業主義は、やっぱちょっと気が狂ってたん
じゃネーノ、と思う。
従って、現社会の制度をそのまま移植することはしない。

例えば、現在の日本において、売春は制度である。
それを無反省に理想社会に持ち込むことはもちろん許されない。

ここで、特に誤解を生みやすいのは、刑務所と病院についてどう考えるか
だろうと思うので、以下簡略に解説する。

********

刑務所と病院。

この二つは商人達の要求によって登場した、怪物「排除」の制度である。
既に指摘したように、理想的ポエムサイトは、怪物としての詩人の登場を
待つわけだから、このような仕組みとは根本的に相容れない。

この二つに「成長」の幻想で大衆を洗脳する公的機関である「学校」が加わり、
これらの制度が、現代人から人間としての活動を奪っている、という認識が、
20世紀後半の思想家達にひろく共有された。

その代表的な論者として、私はイリイチをあげたのであるが、これらの「制度」
に疑問をもつ必要があること自体は、21世紀の共通認識であると私は考えている。

63 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/29(火) 00:34
>>58で上げた二つの仕組みのうち、当初「学校」として想定されていた仕組みは、
「ぽげ」氏の突っ込みのおかげもあって、再考慮の上、出会い系「ストリート」に
変更した。
「大人の言語身体」とはどう言うものかについて、考えようとした者は、これまで
私しかいない。したがって現段階では、もちろん、「大人な言語身体」と言うものは
出現していないのであり、「学校」に近いシステムを考えることには意味がない。

人はどうやって、大人になるのか。

もし私がその答えを持っていたとしても、そんなことは、もちろん秘密である(笑。
ティーンは自らその方法を作るべきだし、我われくたびれた大人も、彼らに混じって
一緒に自分の体で考えるべきだ。

そのような自己教育が試みられる場が、理想的ポエムサイトには併設されるだろう。

64 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/29(火) 00:48
つぎに、言語身体の「病院」だが、私は「診療所」と名づけた。
しかし、これはまだ、誤解を呼ぶ名称だったと思うので、「安息所」に変更する。

ある種の病的な言語身体には治療が必要であると考えられるが、何が病気であるか
を、誰が決めることができるのか。

言語身体の歴史は、まだ始まったばかりだ。
それがこれからどのように進化していくのかは、誰も知らない。
現時点で、「正常」を定義することはできない。

私の考える「休息所」は、語源的な意味で「ケア」の場所である。
「ケア」と言う言葉は、ゲルマン系ゴート族の「カラ」という言葉を語源とする。
この言葉は、「ともに苦しむ、ともに悲嘆する」という意味である。

休息所に於いては、このような「ケア」が行われるだろう。
私は、アダルトチルドレン・オブ・アルクホリックの人々が開発してきたという
互助システムや、DVやうつ病患者どうしのピアカウンセリングを念頭に置いて
いるが、言語身体の病として、指摘した「嫉妬」をどのように癒すことができる
のかは、私にはわからない。
私自身がほとんど嫉妬しない言語身体だからだ。

これについては、実際に嫉妬を知る者が、考える必要があるが、この種の仕組みが
必要であることを、私は指摘しておこうと思う。

65 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/29(火) 00:58
>>64
日常空間における互助サークルがそうであるように、そこは、クローズドな
空間であり、悪意を排除した、演劇的な「仮の空間」である必要がある。

外観について述べると、それは、同じ問題を持つもの同士が語り合うための、
「匿名を義務付ける掲示板」であり、そこでは、発言のルールや参加資格が
細かく規定されるだろう。

いうまでもないが、理想的ポエムサイトの他の一般の場所で、そのようなケア
を行うことは、当然不可能である。で、あればこそ、特別な場所を設ける必要がある
のだ。
それは、日常空間でも、例えば国会議事堂の会議室で、そのようなケアが行いえ
ないことと似ているかもしれない。

66 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/29(火) 01:01
>>64
DV被害者、の間違いね。失礼。

67 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/29(火) 01:15
以上が、学校と病院だが、刑務所についてはどうか。

昔、ヨーロッパに於いては、刑務所と精神病院は、同じ概念であり、建物であった
と言う。

そんなことが現代で許されるべきではむろんないが、言語身体の刑務所は、これを
「安息所」と類似のシステムとして想定することができる。

前述したように、罰則を設けるなら、それは報復であってはならない。
また、我々は、理想的システムについて考えているのであるから、「排除」という
安易な手法を採用することはできない。

で、あれば、刑務所は、たぶん限りなく「安息所」に近づくだろう。
そこで受刑者に課せられる唯一の罰は、より過酷な状況に身をさらすことが許され
ない、ということであるだろう。

68 名前:ボルカ 投稿日: 2003/04/29(火) 01:17
******
以上、学校、刑務所、病院についての付記。

「反省」は、しばらく続行します。

69 名前:ボルカ 投稿日: 2003/05/18(日) 12:39
いくつか、指摘しておくべきことがある。
一つは、瀬尾育男の適切さについてだ。

彼の言説が私と近接していることに最近まで私は気がつかなかったので、彼を
「発見」して、大変驚いている。

彼に対しては、思想上の友人を得た思いがあり、私は彼のような鋭い知性の
同時代にあることを嬉しく思うのだが、一方ではやはり、自分に対して落胆の
感を禁じえないのである。

そこでここでは、後に私が述べる予定でいたことのうち、瀬尾がまだ指摘して
いない、若干の事実を指摘して、ささやかな自尊心を満たそうと思う。

70 名前:ボルカ 投稿日: 2003/05/18(日) 12:40
***

なぜ、ハーバーマスでなく、アーレントでなければならないのか?
瀬尾はまだ、このことに言及していないが、私は明瞭にこたえることができる。
それは、アーレントが範としたモデルが、古代ギリシャだったからだ。

私達は、しゃべることによってのみ、ここに存在している。
沈黙すること。それは、語り手の消滅であり、言語身体の死である。
私達は、インターネット空間に、「語らねば死んでしまう」主体として
存在しているのだ。

この空間に、人類の何%が参加しうると考えることができるか?
現在私は、この問いをつきつめていないが、未来のある時点で、少なく
とも日本人の20%以上が「言語身体」である、と考えることが許される
と思う。

 市民の20%以上が、「文芸しなければ、死んでしまう肉体」として公的なあ
り方(万人に見られていると意識されたあり方)でフィールドに参加し、レ
トリックを駆使して表現する。
 そのような事態が、かつて一度でもあったとすれば、それは古代ギリシャの
ポリスの直接民主制においてであったろうと考えるのが適切であろう。

後に詳しく展開するが、これはアーレントの非妥協的な側面に、別の意味を
与えることになる。

71 名前:ボルカ 投稿日: 2003/05/18(日) 12:42
***

また、このことの帰結として、近年ネットで展開された、いわゆるフィルター
論を批判しておこうと思う。

フィルター論とは、「雑誌では編集者というフィルターがあるが、ネットには無い。
だから、ネットの詩の質は、平均すると当然に低い。」とする論である。
これは一面では妥当な意見である。だが、「低い」ことに意味があるとみなす点で
過ちを犯している。比べた場合、低いかもしれないし、見方によってはむしろ高い
かもしれないが、比べること自体に意味が無い。

 詩誌紙上の詩と、ネット詩は全く違うものである。
 私達は、生きる為にポエムしている。

 安易なフィルター論の立場に立つものは、おそらくは、なぜ、インターネットに
たとえば日記が公開されているのか、考えたことは無いのではないか。
 
 彼らは例えば、「一億総自己表現垂れ流し時代」のような、あさはかな物の見方
をすることができてしまう。悲しい話である。
 残念だが、彼らには民主主義のキホンが全くできていないのだ。
 
 他人の日記を見るとき、我々は最小限の優しさとして、そこに作者の「存在」し
ようとする必死さを読むべきでなのであり、これは、ネット上の詩を論評するさい
にも当然要求される。
 ここでは、作品の完成度は事後的な、従って付加的な意味しか持たない。

72 名前:ボルカ 投稿日: 2003/05/18(日) 12:44
***


もう一点、野村喜和男についても言及すべきであろうと思われる。
ここで、私が考察しているのは、いうまでもなく「都市論」である。

私は、あとに述べる理由により、インターネットを一冊の詩集と考えている。
従って私は、「詩」を「都市」と考える野村とは、かなり危険な関係にある。
このことについては、後の章で分析しようと思う。

***

73 名前:ボルカ 投稿日: 2003/06/08(日) 21:47
野村さんは、これ以降を書く前に読まなきゃいけないことにケテーイ(泣。
ついでに、ベンヤミンも、自分の場合必読決定。

しかも!今、あの自然主義の巨人であらせられる、超革命家のルソー大先生
の書かれた「言語起源論」にショー激受けてます。

この本って、レビストロースが絶賛してたんだけど、どうせ昔の本だからと、、
エミール(おっぱい論)と云い、告白(オナニズム論)と云い、ルソーって
油断できないよねー。

比喩論がすごいっす。
最初の言語は、比喩だったに違いないとか、ヘロドトスが文字を書けたわけ
は無いとか。

都市論(都市二説だっけ?初期の有名な論考があったはず)も抑えておいたほうがよさげ
な雰囲気。

74 名前:ボルカ 投稿日: 2003/06/08(日) 21:49
ざっと、そんなわけで、あと、最近また、アタマが創作方面へ向いていることも
あって、目次の予定を下方修正します。

とりあえず、一ヶ月延期。しゅみません。

75 名前:ボルカ 投稿日: 2003/06/08(日) 22:06
今月号買って無いけど、たしか高階さんも関西人ですよね。
彼の「キリンの洗濯」の表紙とカットやってる原律子(本業は、どエッチ漫画家)も
マンガ作品は関西人ポイ感じやねんな。

76 名前:ボルカ 投稿日: 2003/06/08(日) 22:08
あれ?書き込む場所間違えたみたいっす↑。

77 名前:ボルカ 投稿日: 2003/06/08(日) 22:09
今度は、ちゃんとできた。
やっぱミスだったのかな。

78 名前:ボルカ 投稿日: 2003/06/29(日) 01:12
最近、「触発する批評」というサイトで、若干の会話があった。

私は彼と現時点で議論することを不毛とみて避けた(後日、彼の立論が、固ま
れば、議論したいと願っている)のだが、かなりわかりにくかったと思うので、
私の側からの総括をしておこう。

**

この連載は、全体の見通しを、一応ながら立てた上で、執筆計画に沿って、書
かれている。執筆計画は、「目次」として、>>3に示してある。

今回の対話者の質問は、これまで私の述べたことに対して、本質的な点では何
一つコメントせず、「目次」に予定してある項目について、あたかも記述もれ
があるかのように、その点はどうなのか、と質問するものだった。

こうした質問に私はいちいち目くじらを立てない。私を理解できないのが、私
の表現力不足によるのか、それとも読者の怠惰に寄るのか、それは私にはわか
らないし、その点については何かをのべても不毛である。

従って、対話者に私は、別段悪意を抱いていないが、しかし、実際上、この種
の質問には、回答することはできない。
あたりまえのことだが、物事にはタイミングとか、順番とかいったものがある
からである。
今述べていないことで、後で述べると予告したことについては、後でしか述べ
ることはできない。

**

79 名前:ボルカ 投稿日: 2003/06/29(日) 01:14
今、花田清輝VS吉本隆明の論争を、広島大学の好村富士彦教授(ドイツ
文学)の本で読んでいます。

で、一方で藤井貞和の「湾岸戦争論争」は、大変興味深く、また共感を持って
読ませて頂いた結果、いまはめでたく市立図書館の書庫に返却されてしまって
いるわけなんですが、やはり背中に違和感の這い登るのを禁じえないです。

なぜ、花田―吉本論争(1956-1960)の「あと」実に25年を経て、藤井―瀬尾
論争が出現しなければならなかったのか?
あまつさえ、その影響を、我らネットポエマーまでがひきずって、「反戦詩は、
現代詩の中ではちょっと、引かれちゃうみたいなんだよねー。」みたいな話を
しなければならないのか?

80 名前:ボルカ 投稿日: 2003/06/29(日) 01:15
ここで、あたりまえのことを、あたりまえに押さえておこう。

雑誌・新聞などの「公的領域」において発言する機会を与えられながら、あの
湾岸戦争に反対できなかった者の言葉に、真実はない。
そんな奴は、ダメ人間である。

金儲けのために、海を越えて、人を殺すための飛行機を飛ばしてはいけない。
そんなことが、なぜわからないか?

そんなこともわからない奴の書いた詩など、読んでどうするんだ?

人は、人前で話すからには、責任ある発言をしなければならないのだ。
しなかった者は、最低でも「する能力がなかった」という批判を受け入れるべ
きだし、場合によっては、卑劣な理由でしなかったのだとみなされても仕方な
い。

こういう当たり前の話を、戦後、ついに新たな戦争への参戦に至る今日まで、
吉本以降だれも推し進めなかった、ということに、僕は唖然とする。

この目を覆うばかりの怠惰。
どうすんだよ?
みたいな感じだな。


僕らは急ぐ必要がある。
今のうちに、急いで武装しておこう。

で、なければ、吉本ら「戦中派」が、戦後苦渋とともに批判しなければならな
かった「転向組」に、未来の我ら自身が、堕することになるだろう。

81 名前:ボルカ 投稿日: 2003/06/29(日) 01:17
***

それはそれとして、瀬尾さんの批評は面白い。
今、一番おもしれーんじゃないか?
全く困ったことだよな。

82 名前:ボルカ 投稿日: 2003/06/29(日) 01:39
***
ええっと、6月は休載しました。7月もちょっと無理っぽいです。
ちょっと、いろいろ、整理しなければならないことが、ひろがっちゃって。

>>80の吉本の論争のはじめというか、前期に、中野重治論が出てくるんだけど、
そうなると、北川透の「中野重治論」も読んでおきたいし。

ベンヤミンについても、やっぱ、ブロッホとかもあわせて視野に入れたいし。
ポエムもなっかなか一筋縄でいかないです。

***

ついでに、辻慎太郎氏の「あなたも詩人:サンリオ1988年」とかも読んでみたり
してます。

これは一貫した見識のもとに編まれたイイ本なんだけど、このなかで、サンリオから
詩集を出した、「詩とメルヘン」第一回詩とメルヘン賞受賞詩人の「きのゆり」さん
の「私は、ただ詩が好きです。詩を書いているときが、一番無心で優しくなれるよう
な気がします。」って言葉が引用されています。

まあ、優しくなりたい奴はなればいいし、何でも勝手になればいいだろうと思うん
だけど、こういう人もイイよなー、とは思う、夏間近。

83 名前:ボルカ 投稿日: 2003/07/06(日) 18:14
***
言わずもがなのことなんだけど、「反戦詩をかく」ことについて、若干
コメント付加します。

僕は、反戦詩を書くけど、書きたくなかったり、イイのが思いつかなかっ
たりする人は、トーゼン書かなければいいと思います。

問題は、「書くべきではない」とか「書かなくてもいいんだ」とか言う
言説(作品ではない)です。

そういう言説は、まじめに何かを考えようとする人を、からかい、時流に
乗っては、差別したり攻撃したりすることに荷担する。
言ってる人は、自分の自由を主張してるつもりなのかもしれないけど、
主張するまでもなく、自由なわけじゃないですか?

そこであえて「書かない方が正しい」と主張することは、書かせたくない
と思ってる権力に迎合して、書こうとする人を攻撃することを、意味して
しまうんですよ、ネットポエマーの皆様。

皆様は、ポエムなんて、そんなに重要な発言行為ではない、と思ってるか
もしれないけど、戦争の歴史は、「集合的無意識」と「洗脳」の歴史なん
だよ。
ポエムはポエマーが望もうが望むまいが、そこに密接に結びついてしまう。

僕が言ってるのは、そう言うことであって、だから「書くな」という意見
には、正面きって反論する。いつでも、なんどでも、それはやる。

でも、個々人が、いつどんなポエムを書くかは、皆様の自由で、その自由は
だれも侵す故ことはできないと思います。

84 名前:ぽげ 投稿日: 2003/07/07(月) 08:47
同時多発テロのとき柄谷行人がろくでもないことをいってたのを思い出したな。
実効力のあるなしでなく、やりたいことはなんでもやるべきだ。

85 名前:ボルカ 投稿日: 2003/07/07(月) 23:10
サンキュ。

>やりたいことはなんでもやるべき

そういうキホンが見えなくなったら、どこかで誰かにだまされてるんだと思う。
無効だろうが有効だろうが、やるってのが、「表現の自由」なんだよなー。

それにしても、ポエムサイトって、いろいろバラエティあるんですね。
一巡りROMしてきました。
清水さんとか、長尾さんとか、鈴木シロヤスさんとか、、、。

長尾さんが翻訳してるフリーウェアの話とかは、ここでも、
あとで言及するつもりでしたが、ポエムしてるとは知らな
かったな。

86 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:31
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87 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:31
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**************

第2章

「理想的ポエムサイト」で詩人は何をしたいのか。

−インターネット空間に「存在する」とは、どういうことか。


**************

88 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:32
16
人間は関係である。

16-1
キエルケゴールは、以下のように言った。
>人間は精神である。精神は関係である。そこで、人間は関係である。(注1)
この思考に私は賛同する。

16-1-1
人間にとって最も本質的な条件は、「産まれた事」である(注2)。
多くの哲学が、それを「死ぬこと」であると、誤って考え、その結果、誤謬に陥っ
てきた。

人間は最初から、関係性の中に出現するのであり、重要なことは全て関係性の中で
起こるのである。

ニーチェは「愛により起こることは、善悪の彼岸に起こる」として、現代社会への
批判の一端とした(注3)。
周知のように、仏陀の弟子による十二縁起説は、順観にせよ逆観にせよ、「愛」を
もって諸悪の根源となす(注4)。

バタイユは「死」と「消費」を人間の最も重要な条件と考え、フロイトはタナトス
を解明されていない最重要課題と考え、ローレンツはそれを「悪」と読みかえて、
脊椎動物一般に拡大した(注5-7)。

埴谷雄高は「自殺」と「反生殖」を人間の選びうるただ2つの自由とし、ソクラテ
スも、イエスも、死ぬことを生きることより重要な出来事と考えたのであった。

私は明言する。
これらは全て、現代文明(ここ2千5百年の文明)と言う病におかされ、衰弱
し、かつ家畜化した精神の産んだ、有害な幻影である。

真核生物にとって唯一つ重要なことは、生まれることであった。
死ぬことは、そのための手段に過ぎない(注8)。

このことを我々は忘れないようにしよう。

89 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:33
17
私は、ハンナ・アーレントを参考に、次の言明の正しいことを確信する。

人間は関係の中で、活動、仕事および労働を遂行し、その成果を、関係の中に
位置付ける時、はじめて本当に「存在する」という状態を実現するのである
(注9)。

17-1
例えば、大量消費される、量産製品または量産情報または量産サービスの
生産労働(これらは全て、無名の、あるいは「どうせ忘れられる記名の」
労働である)に生涯従事し、他のことを何も行わず、他者に識られず、
記憶されず、消えていく人がいるとする。

私達の社会が、こうした「人材」の育成を意図的に行い、それを利用してい
る以上、私はそういう人をさげすまない。
だが、それは理想的な人生と言えるであろうか?
私はそうではない、と思う。

17-2
また、例えば、山村に住み、人知れぬたゆまぬ努力により荒廃した森に手を入れ、
何十年も黙々と努力し、それでも登記上はその森はその人の物ではなく、誰にも
知られず、家族もなく、ひっそりと死んでいく人がいる(注10)。

そのような人は、その「人」を誰にも記憶されなかったとしても、その作品(森)
を通じて、世界と「関係」するのである。

このように、関係を実現しようとする人間の生き方があり、そのような人間を構成
する真髄を、キルケゴールの社会も、我々の社会も、伝統的に「精神」と呼ぶ。
16で、指摘したように、人間とは、精神なのである。

90 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:36
なんか、星つきってイイ感じ。なんとなくウレチイね(テレ。

91 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:36
18

中国最古の詩集である「詩経」および、最古の散文集である「書経」は、ともに
詩について次のように規定する。

いわく、

詩とは、志である(注11)。

92 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:37
18-1

「志」とは、関係性の中に生きることを実現しようと願うことである。

18-1-1

「関係」について、これまででもっとも激烈な思想は、陽明学の展開の中で語ら
れた(注12)。従って、その流れを汲む吉田松蔭、高杉新作、勝海舟などの生き
方の中に、我々は「志」=「詩」の意味を探すことができる。

それについて、ここで詳しく触れる用意を私はできなかったが、ここでは
簡単に、そうしたものこそが、「詩的批評精神」なのだ、と言って置く。

18-1-2

初代および二代目新宿冬子氏が、「詩集」でなく、あえて「私の志集、買って
ください」という看板を示して新宿の雑踏の中に立ったことは、私見では、こ
の詩経以来ながれる「詩とは志である」という詩論の文脈で理解されなけれ
ばならない。

彼女は、ポエジーとは、雑踏に立つことである、と考えたのである。

なぜなのか、ともし問う人があり、もし私が彼女に代わって考えるとすれば、
それは、人間の本質が関係性であることを彼女が知っていたからだ、と答え
るであろう。
ただし、言うまでもなく私にその権利はないのでは在るが。

93 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:38
18-1-2

ミキ氏の「イエス・マイクロフォン」や「2chオマエラ朗読会」に私は
足を運んだことはない。
だが、チラシの文書を参考に推測すると、彼の詩(詩行為)も、基本的に、
人間の本質を関係である、と考えた上で、ポエジーを問うものであると推
察される。

ここでも、詩は志である。

94 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:39
18-2

ネット詩についてであろうとなかろうと、我々は低い志=詩を持つべきで
はない。

適当に妥協すればよい、と考える人がいる。
また、重要なのは「労働」であり、商品経済社会の現状に無批判に適応する
ことを目標とすべきである、と考える人がいる。

こうした人々は、私のようなやり方では、考えることを放棄しているわけだ
が、私が今、述べたことは、人間が生きるうえで本質的に重要な問題であり、
どうでもよい問題などではない。

こうした問題について、妥協してはいけない。

95 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:42
19
ここで、話の方向を一度転じる(後で戻る)。

アリストテレスは、著書「詩学」のなかで、芸術の本質は模倣である、と
述べている(注13)

このことに同意した上で、直ちに次の命題に同意することができる。

すなわち、

言語身体は、「肉体としての身体」からの逃走を常態としつつ、つねに返って
肉体にあこがれるのである。

96 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:42
19-1

肉体がもつ、志(=精神=関係)は、様々な身体行動で在りうる。
いうまでもないことだが、高杉晋作は、詩ばかり書いていたわけではない。

しかし、一方で、言語身体は、どのような「志」でありうるか。
様々なことが考えられる。
だが、いずれにしても、それは困難な選択であるだろう。

しかし、人間の本性である「模倣」の欲求により、言語身体は、「志」へ
向かわざるを得ない。

さて、「志」の表現方法として、ネット空間で残される選択肢のうち、最も
重要な一つとして、「詩」が現われる。

かくして、ネット空間に「詩人」が出現するのである。

97 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:43
19-1-1

私は初代ふゆこさんの「志集」しか読んでいないが、それは別に社会体制を
批判したものでも、将来XXになりたい、と言ったものでもなかったと記憶
する。

孔子は、日常生活の感慨を率直に読んだ詩をとりまぜて、詩集を編み、その上
で、「詩とは志である」と述べたと言う(注14)。

孔子に於いても、ふゆこさんにおいても、おそらく、「志」とは、「関係性の
中に生きることを実現しようと願うこと」であろう、と私は考える。


19-1-2

我々が、ネット空間に詩を書くことは、新宿ふゆこさんが、雑踏の中に「志
集」をしめすことと近似する。

98 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:44
20

むろん、こうして示された詩=志が、どのような価値を持ちうるかは、また
別の問題である。
それについては、のちの章で述べる。

ここで私が指摘するのは、我々に於いて、詩とは、志であり、だから妥協し
てはいけないのだ、ということである。

99 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/18(金) 22:45
21

理想的ポエムサイトにおいて、詩人は志を表現するために出現する。**********

2章おしまい。レファレンスと補注は後日。

野村喜和男さんのところまでは、ぜんぜん届かなかったなー。
「都市論」については、やりたいんだけど、彼の地点に言及できるところへ
行くまでには、まだ2,3年かかりそうです。とりあえず、今の自分には無理
でした。

**********

100 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/19(土) 23:28
*********
*********

101 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/19(土) 23:29
第二章補足

1)カブキ心について

私は現在、ポエム心の本質を「志」と「カブキ」と考えている。
二章では「志」のみについて述べたが、ポエムするとは、本質的に
歌舞くことでもある。詳しくは章を改めて議論するが、ここで簡単
に紹介しておこう。

「歌舞く(=傾く)」とは、派手である事や技巧的である事を意味
する、戦国時代の価値観であるが、元は古く、古語としては文字通
り、歌い、舞うことでもある。

詩とは、元をただせば祝祭や儀礼に関わって、シャーマンが行う奇行
の一種である。
その意味で、詩人であることは、歌舞伎者(=傾者:やくざもの)で
あることを免れない。

我々が使う語彙の中に近い美意識をあらわすものを探せば、「だて」
と「いき」があるだろうが、「かぶく」とは、「だて」や「いき」
より、生き方としてはより熱く、形式の洗練から見ればよりクールな
美意識である。

ライブな現代語のなかで、対応する言葉を探すとすれば、「ちゃらけ
る」ぐらいが適切だろうか?
それは、つまり、わざと踏み外し、「公的領域」を斜めに横切ること
である。

102 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/19(土) 23:30
2)「志」補足

繰り返し、注意しておくが、2章で何度も述べたように、私の言う「志」
は、孔子や新宿冬子さんが言う「志」と同じものである。

それは、たとえば、赤尾敏や三島の言う「志」とは、違う概念を含んで
いる。すなわち、そこで表現されているのは、日常のちょっとした感慨
や、個人的な悲しみや、秘めた悦びであっても構わない。

そうした「キモチ」をもつ「私」あるいは「私の作品」を、関係性の中に
おく、という態度を、私は(孔子も)「志」と呼んでいるのである。

103 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/19(土) 23:31
3)「関係」補足

人間は、関係性の中に、自らを置く時、はじめて「存在」することを達成
する。
このことを、「公的領域に実在する」ことにより、人間は「存在」する、
と言っても同じ意味である。

ここで一つ、補足しておかなければならないことがある。
我々は、「何人」の人間に対して、自己を示した時、存在した、と言える
のだろうか?
2人に?10人に?20人に? あるいは100人に?

そうではない。万人に対してである。

全世界に対して、「関係」を実現しようとするとき、はじめて、我々は、
実在する。

104 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/19(土) 23:32
4)「死と誕生」補足

分子生物学の進歩は、「死」が「誕生」のための戦略に過ぎない、という
ことを明らかにした。
我々は、現在、「誕生」よりも、「死」を、人間にとって本質的であると
考える根拠をもたない。

ところで、2章で私が記述したのは、「産まれる事」についてであった。
私達は、生まれる瞬間を、母親を含む何人かの人とのコミュニケーション
として経験する。そのことの意味について、既に述べた。

だが、さらに進んで、我々にとっては、「産むこと」がおそらくは二番目
に重要なことなのだ、と言うべきだったかもしれない。
もし私がそう述べたとすれば、「産むこと」には、創作活動も含まれた
だろう。

105 名前:ボルカ★ 投稿日: 2003/07/19(土) 23:33
第2章 補足おわり
レファレンスは後日。

**********
**********

106 名前:ボルカ 投稿日: 2003/07/27(日) 13:02
第2章

引用・参考文献

命題16

セーレン・キェルケゴール:死に至る病,(1848),抜粋・再構成して引用。
この中で彼は、「絶望して自分自身であろうとしないこと」を「死に至る病」
と呼び、ナチス時代を経た世代の思想家の共感を集めた。
私の文脈では、「死に至る病」とは、「世界への愛」を捨て、「記憶されな
い、無名の個人」に甘んじること、およびそういう態度を他者に求めること、
である。
なお、雑学に類することだが、本書の出版年は「資本論」と同時代であり、
実存主義の古典である。
私が「実存」と言う時は、ハイデッガーの「ダス・マン」ではなく、常にキ
ルケゴールからサルトルへ至る自己決定できる主体としての「人間」概念を
念頭に置いている。民族性や、文化の一表層に過ぎない「歴史」概念で、ポ
エジーを、ましてや「実存」を規定するなど、まともに考える価値も無い。


縁起説については、具舎論:9巻13節あたりから。維摩経14巻や、中阿含
経7巻にもあり、もちろん、法華経にもあるし般若経にもある。
簡単に説明したいところだが、どういうわけか、高校生向けの参考書は、
ほとんど例外なく、間違った説明をしてますね。
特に「逆観」は、仏教の中心思想でありながら、どうみても文献的におかし
い記述が目立つ。
私は既に専門を離れているから、このへんは、「いかいか」にレポートして
もらいたいところだな(笑。
十二縁起説とは何か?「逆観」について、検定教科書および参考書が、間違っ
た記述をしているのは、なぜか?
部派仏教は「愛」を否定したという、鎌倉仏教系や創価学会など新興宗教の
言い分は、文献的根拠があるのか?てか、大乗って言い方、高校生の教科書
に載せるの問題ネーノか?載せるならのセルで、教義の異同を記載すべきで
はないのか?何を根拠に、後期仏教は、自分を「大乗」と呼べるのか?自分
達は、「愛」についてどのような見解を持っているのか?
私にはちょっと調べきれないんで、よろしくね(ムセキニーン)。

107 名前:ボルカ 投稿日: 2003/07/27(日) 13:05
命題17
ハンナ・アーレント:人間の条件:参照

労働疎外の概念については、カール・マルクス:資本論が今日でも面白く
読める。

人材概念への批判は、ソクラテスやルソーによる「青年」概念と、カント
による定言立法が論拠として使用できる。
カントのものは、「君がだれであれ、また、どんな場合でも、君は常に、
人間を手段としてでなく、目的として扱いなさい」と言うものである。
人を利用してはいけないのである。さすがにカントは立派な紳士である。
「手段」でこうであり、いわんや人材、すなわち「材料」として扱うなど、
賢者達に言わせれば言語道断なのである。これ、ジョーシキ。
今日、多くの大学の学長が、「人材」の輩出を自慢する様は、まことに嘆
かわしい知性の退嬰であると言わねばならない。ちゃんとベンキョーして
から学長やれ、と思う。
「都立家政」氏は、イベントの開催に当たって、「出演者のパフォーマンス
で、企画者である自分の株を上げること」を最初から現在まで、一貫して
考えていない。そういうことは、まるっきり頭に無いかのごとくである。
「青年」とかかわるものは、彼のように清貧でなければならない。


他に、:木を植えた人:PHP出版:参照

108 名前:ボルカ 投稿日: 2003/07/27(日) 21:29
命題18

中国詩人選集:詩経:参照
「志」の書誌的整理については、中桐雅夫「詩の読み方 詩の作り方」参照。
なお、中桐雅夫は「荒地」派の詩人であり、英文学紹介の業績が多い。

また、陽明学については、島田慶次:「朱子学と陽明学:岩波新書637」に
詳しい。

他にも、たとえば、吉川幸次郎・三好達治共著による「新唐詩選集:岩波
新書106」には、「志」に関連するものとして、以下の記述がある。

>しかし、杜甫の詩の憂愁は、そればかりで生まれているのではない。(中
>略)「語もし人を驚かさずんば死すともやまず」と、自ら言う。その表現は
>命がけであった。

109 名前:ボルカ 投稿日: 2003/07/27(日) 21:30
命題19

明治以後の国内の論議としては、入手困難ではあろうが、勝部真長が編集した、
山岡鉄舟口述、勝海舟評解による「武士道」がある(武蔵の著作とは別の物で
ある。山岡は「鬼鉄」として知られるソノ筋の人である)。
山岡の武士道は禅からの考察であるが、「窮理」を根本に置いており、その限り
で、「話の通じる奴」である。つまり、山岡も勝も、私のような、「右嫌い」が
読んですら面白いのだが、それより実は、勝部が面白いことを言っている。
この本の後段に「志の貧困」について論じた一節があり、「詩想の無い政治屋は
ダメだ」ということが語られているのである。以下に引用する。

>大正、昭和の大臣急の人物でも、多少とも詩操豊かなものは、きわめて稀なよ
>うである。伊藤公が絶句、

>豪気堂々横大空
>日東誰使帝威隆
>高楼傾尽三杯酒
>天下英雄在眼中

>のごときも、今の大臣諸侯には、夢にも企て及ぶところではないのではない
>だろうか。(中略)
>詩は、志であり、思無邪である。志なく、抱負なく、夢を持たぬ者に詩想は
>宿らぬのである。

私自身は、今時、八紘一宇もあるまいとは思うが、代理戦争のために勅命も得ず、
他国の脅迫に屈して憲法を改正しようとする政治家が、サムライでなく、もちろん
詩人でもないのは言うまでもない。

110 名前:ボルカ 投稿日: 2003/07/27(日) 21:33
命題20

私は、「詩学」誌2002年度における「いとう」氏の連載を楽しく読んだ。
ネット詩には、イヤシとしての機能、リハビリとして、コミュニケーションと
して、色々な楽しみ方があるだろう。
しかし、妥協を排する、という私自身のスタンスについては、ここに言明する
通りである。

111 名前:ボルカ 投稿日: 2003/07/27(日) 21:38
***********

第二章は、以上です。

***********

112 名前:ボルカ 投稿日: 2003/07/27(日) 21:43
目次は >>3

次回、第3章は、「理想的ポエムサイト」に出現する「理想的ポエム」とは何か。

について論じます。サブタイトルは変更するかもしれないです。

113 名前:ボルカ 投稿日: 2003/07/27(日) 22:09
言い逃したけど、「理気二元論」と「窮理」に言及すんのは、文系で
「反権威」やるときのキホンね。

難しい言葉や概念を使えないってのは、別に反権威でも何でもない。
私自身は、特に反権威を自分のスタンスとしてはいないが、反権威を
気取って発言しているポエマーは、是非そのへんは抑えやがって欲し
いです。

114 名前:ボルカ 投稿日: 2003/07/28(月) 20:49
*********************
*********************

以後しばらく、雑談。3章は来月。

115 名前:ボルカ 投稿日: 2003/07/28(月) 20:51
間違える人もいないだろうけど、当然のことながら、この連載は私が個人で
考えたことを述べてるだけです。

私と違う考えの人は、フツーに、自分の考えを展開するが吉ならむ。

116 名前:ボルカ 投稿日: 2003/07/28(月) 21:00
それにしても、自然災害ってのは怖いですよね。

なんか、ナゴムことを書きたいけど、武士道の話の後じゃなあ。。
タイミング悪くてすんません、とこっそり思う也。



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