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漢籍スレ

1スケアクロウ:2004/01/04(日) 21:27
漢籍スレです。
漢籍の翻訳・校訂などに関する話題はこちらへ。

2スケアクロウ@管理人:2004/01/05(月) 14:28
霊帝宋皇后紀アップです。
宋皇后が廃されるあたりと、亡くなってからの取り扱いのあたりの
経緯がよく分かりません。と言うか、上手くのみこめてません^_^;
どうも中常侍の王甫が絡んでいるのは間違いないみたいですが。
勃海王誅殺事件については引き続き調査してみます。
しかし王甫というと三国志ではなかなか渋いキャラですよね(勿論別人です)
三国志ではあまり触れられない漢朝の皇族も、
さすが後漢書だけあってちょくちょく宗室の名が見えます。
献帝紀なんか本文見てるだけで気になってしょうがないです(笑)

3仁雛:2004/01/11(日) 05:15
霊帝宋皇后紀
甫恐后怨之,「甫后を恐れ之を怨み、」→「甫、后の之を怨みを恐れ、」
孝仁董皇后紀
後坐矯稱永樂后屬請→「後、矯りて永樂后を稱して屬請するに坐して」

4スケアクロウ@管理人:2004/01/11(日) 22:56
>>仁雛さん
はじめまして。ご指摘ありがとうございましたm(_ _)m
こうしてチェックしていただくと自分の拙い読解能力が
あらわになるのでヒヤッとさせられます(笑)
もっと勉強せねば・・・ですね。
また誤訳等ありましたら気軽に指摘お願いします。

5スケアクロウ@管理人:2004/02/28(土) 21:54
<覚え書き>

賈[言羽] 生没年(147〜223)
段[火畏] 大尉任期(179.3〜179.4)・・・賈[言羽]が官を辞した時期
張温   司空任期(184.4〜185.9)・・・186.2長安にいながら大尉任官

韓遂・辺章の乱 朝廷軍(張温の司空任期中)
張温(司空兼車騎将軍) 陶謙(参軍事) 孫堅(参謀) 董卓 周慎

187年(?)の動き
・韓遂が辺章を殺害
・韓遂、隴西を包囲→4月耿鄙の討伐軍敗退
・韓遂、漢陽を包囲(この時閻忠が加入か?)→漢陽太守の傅燮陣没
・馬騰が加入→王国を首領に→三輔の攻略

6スケアクロウ@管理人:2004/06/30(水) 06:25
訒禹伝更新です。
またご指摘宜しくお願いします。

7two_yossy:2004/07/02(金) 00:45
 はじめての書き込みでやんす。手前はtwo_yossyと申す、ケチな漢文愛好家で
ござんす。以後お見知り置きを。
 で早速でやんすが、ご奮闘の「訒禹伝」、アチキも目を通させてもらいやす。
ちょいと時間がかかりやすが、必ずご報告しやすんで、そこんところ何卒よろ
しうお頼申します。

8スケアクロウ@管理人:2004/07/02(金) 18:55
>>two_yossyさん
こんにちは。書き込みありがとうございます。先日はIMAGINEのほうでお世話になりました。
訒禹伝はまだまだ先が長くなりそうですが、長い目で見守って下さい(笑)
恥ずかしい訳文を公開しておりますが、誤訳等ありましたらビシバシ突っ込んで下さい。

9two_yossy:2004/07/10(土) 23:28
スケアクロウ様

 アップ分の校正一応いたしました。ただしもともと分量がありますので、小分け
にしたいと思います。

 光武に見えて非常の人なるを知る→これは光武帝が「非常の人」であることを年
  少の訒禹が一目で見抜いた、ということですね。後段に「光武 以て人を知れ
  りと為す」という話しがあることからも分かります。もし訒禹が非常の人であ
  るという表現である場合には、主語が「光武」となるのが普通です。したがっ
  て、下文も「数年にして家に帰る」となります。
 豪傑 多く禹を薦挙するも、禹 従ふを肯んぜず→「薦挙」は「推挙」と同じ。南
  陽あたりの豪傑の士が決起するにあたり、隗囂や公孫述らのように地元の名士
  である訒禹を大将に祭り上げようとしたが、訒禹は衆議に従わなかった、とい
  うこと。「杖策」は吉川訓注では「策を杖(つ)きて」と。「杖策して」でも可。
  意は貴訳のとおり。
 寧ろ仕へんと欲するや→「むしろ」は重い意味のない発語の辞でしょう。太学以
  来の旧友と会って、「まああれかな、私に仕えてもよいということかな」とい
  うふうに、少し言葉を濁しながら意向を探ったのではないでしょうか。「オレ
  はもうスンごく偉くなったんで、おまえにその気があるなら出世させてやるぜ」
  というような、あからさまにゲスな聞き方ではなかったと思います。柔の道こ
  そ光武が旨としたものでしたから。
 但だ願はくは明公の威徳の四海に加はり、禹は其の尺寸を効し、功名を竹帛に垂
  るるを得んのみ→「願」は文の頭のほうにあるときは、「願わくば〜」という
  語形になることが多いです。願望を顕しますから、主たる動詞も「〜せん」と
  いう形に。「宿」は後段「止」「舎」などと同様に「宿泊する」の意。左伝に
  多い表現です。おもに軍隊が野営するようなときに使います(のちに逆旅など
  に泊まることも「宿」の字を用いるように)。「留め宿して間語す」。「間語」
  は吉川訓注では「しんみりと昔話をした」というように解釈されています。小
  生は「昔話に花を咲かせた」ぐらいの景気の良さがあっても可かと。「尺寸」
  は「尺寸の功」の略で、明公(との)のもとでいささかの功績を立ててこの功と
  我が名とを(以下、貴訳のとおり)の意。
 赤眉・青犢の属は、動(やや)もすれば万を以て数へ、三輔に号を仮るもの、往々
  にして群聚す→ここの「動」は「ややもすれば」=「どうかすると」。意は貴
  訳のとおり。「仮号」は「偽りの尊号を称する」の意。三国期の袁術?
 [a.更始は既に未だ挫く所有らずして、自ら聴断せず][b.諸将は皆な庸人にして
  屈起し、志は財幣に在り、争って威力を用ひ、朝夕自ら快くするのみ]→「聴
  断せず」までが更始、「快くするのみ」までが諸将。前段:更始にはそれら
  を征伐するだけの軍事的な実力がなく、かつ光武帝らの人傑を駆使する政治
  力もないの意。後段:更始の配下はと言えば、能無しばかりが出世(屈起)し
  て、そもそも彼らは金目当てで、競って乱暴狼藉を働き、その日その日をど
  うにか生きているだけの意。このへんほぼ貴訳のとおり。
 四方は分崩離析し、形勢 見る可し→いま四方には軍閥が割拠して国内が分裂
  しておりますが、天下の形勢をじっくりと観察すべきです、の意。「見る可
  し」には、「手に取るように明らか」の意もあり、吉川訓注を参照しても判
  然としません。「国内は乱れに乱れ、天下の形勢はじつに明白」という解釈
  も可能。
 明公は藩輔の功を建つと雖も、猶ほ成立する所無きを恐る→「藩輔」は「藩屏」
  の意。劉氏親藩であることを指しています。後段「成立」は「こと成りて立
  つ」で、吉川訓注では「総仕上げ」の意に解しています。つまり「最後の大
  仕事にとりかかっておられないのを心配いたします」ということ。更始を見
  切って登極せよ、という大胆不敵な進言。劉備入蜀?
 今の計に於て…→ここの「於て」は文末の「…に如くは莫し」に掛かります。
  したがって「今とるべき計略としては…以上のものはございません」の形に。
  ここでも高祖劉邦の大業を引いて「独立自尊」を迫っています。なお「以公
  而慮天下」の句、吉川訓注では「公を以てして天下を慮る」とし、「公(との)
  ほどのお方が天下のことをお考えになれば、これを定めることなど造作もな
  いこと」と解しています。貴訳とほぼ同じですね。
 常に中に宿止して、与に計議を定む→前述のとおり、軍中に寝起きさせたわけ
  ですね。

  とりあえず今日はここまで。
  当たらぬところもありますので、ご参考まで。

10two_yossy:2004/07/12(月) 18:04
 訒禹伝ひきつづき

 書き下し「王朗」→「王郎」。なお下文、李注によると訒禹がかき集めた兵を
  光武帝が自ら指揮し、それに訒禹も加わって攻めたことになっていますが、
  本文では先頭に「令」字があって、訒禹に攻めさせたことになっています。
  あるいは衍字でしょうか。
 光武 城楼の上に舎(やど)る→「舎」は前回同様「宿泊する」の意。ただし貴訳
  に「憩う」とするのも遠からず。
 指示→これは広げた地図を指さして示したこと。貴訳も可。吉川訓注では、
  「指し示す」と。「指示する」の可。
 天下の郡国は是くの如し。今 始て乃ち其の一を得たり。子 前(さき)に吾を
  以て天下を慮れば定むるに足らずと言ひしは、何ぞや→ここの文意は、天
  下の郡国はこのとおり広大であるのに、今そのうちの一つを取ったにすぎ
  ない。君は以前、私が天下のことを考えれこれを平定することなど造作も
  ないと言ったが、どんな根拠があるんだね、ということ。言外に、これだ
  け苦労してたった一隅を得たなすぎない。本当に天下が取れるのか、とい
  う「泣き言」が含まれています。そんなニュアンスで。
 古えの興る者→成湯や周文を指しています。「むかし国を興したもの」の意。
  なお「方今」はそのものズバリそういう熟語。「猶ほ赤子の慈母を慕ふが
  ごとし」。
 禹の毎に挙ぐる所の者有り→この「毎(つね)に」は、毎日挙げていたのでは
  なく、挙げたものがすべての意。訳文このままでも可ですが、さらに一考
  を。
 禹は遂に進みて与に戦ひ、之を破りて其の大将を生獲にす→訒禹は兵を進め
  て蓋延らとともに(城の内外呼応して)敵を挟撃した。
 連に大に克ちて獲(とら)ふ。北州 略ゝ定まる→ここの「獲」は最前の「生獲」
  と同じ意。連戦連勝して多くの捕虜を得、北地はおおむね平定された。

 拒む→「ふせぐ」も可。
 光武は赤眉の必ず長安を破らんことを籌(はか)り、釁(すき)に乗じて関中を并
  せんと欲するも、方に自ら山東に事あらば、未だ寄(あづか)る所を知らず→
  文意は、光武帝は、「赤眉が必ず長安を陥落させるだろうから、その隙に乗
  じて関中の地を手中に収めたい」と思ったものの、自分は山東にいて関中の
  好機にあずかることができなかった、ということ。
 禹の沈深にして大度有るを以て、故に西討の略を以て授く→「以て…故に」は
  「…であるため」の意で、書き下しにすると少し回りくどい表現になります。
  「以ての故に」と訳す場合もありますが、読んだときに語順が狂う気がいる
  ので「以て…故に」でいいと思います。
 遣はして西のかた関に入らしめ、自ら偏裨以下の与倶(とも)にすべき可き者を
  選ばしむ→令・教・俾・使など「しむ」の意の助語辞はたくさんあり、「遣」
  もその一つですけれども、「使」にはまま「つかいする(使者として遣わす)」
  として意があるのと同様、「遣」にも「さしむける」意として使われること
  があり、そのときには「しむ」として主たる動詞に付随させるのではなく、
  「遣はす」と独立した形で訳すべきだと思います。以下同様。
   「副将以下その他」、「その他」はやや重複かと。

 とりあえず今回はここまでにします。ご参考に。

11two_yossy:2004/07/15(木) 19:06
訒禹伝ひきつづき (その2)

禹 諸将を遣はして解の南に逆撃せしめ、大に之を破り、参が首を斬る→ここの
 「遣」の前述のとおり。「解」は県名。「解県(解城)の南」。「逆」は「逆
 旅」の逆で、「迎える」の意。「迎撃」「邀撃」。下文の訳「再び共に訒禹
 を挟撃し」は文脈からすると単に「攻撃」ぐらいでも十分かと。
「明日は癸亥にして…」→括弧書きにして直接話法としたほうが分かりやすい
 か。また「窮日なるを以て出でず」で句点か。訳は「明日は六甲の窮まる日
 で」か。このあたりご検討を。下文「匡は軍を悉(つ)くして出でて禹を攻む」。
 「悉」は「尽くす」に通じ、意同じ。
既に営下に至れば、因りて伝へて諸将を発し鼓して並進せしむ→吉川訓注。意
 は「敵が軍営の下ぎりぎりのところに迫ってから、伝令を飛ばし諸将に太鼓
 を鳴らし…」。「既に」は過去や完了を表す助字。下文「皆な之を斬る」、
 ここで句点か。「弭彊」、訳文「弭疆」に。
勝(あ)げて数ふ可らず→常套句。意は貴訳のとおり。
制を承(う)く→「承制」は勅命を承ること。『唐詩選』所収・宋之問「晦日、
 昆明池な幸す、に和し奉る 応制」の「応制」と同じような意味。「制」
 は皇帝の命。勅命を頂戴して官綬を拝領する、勅命によって位に就く。
 「拝」は「就ける」意もあるし「就く」意もあるので、自分は「拝す」と
 無難に書き下しています。「更置」は「更迭」の意に訳すのがよいと思い
 ます。
使者をして節を持ちて禹を拝して大司徒と為さしむ→使役の「使」は「…を
 して…しむ」と書き下しますが、通常のルールとしては「使」がかかる文
 の最後に「しむ」がきます。ここでは「大司徒と為す」のが主たる目的な
 ので「為さしむ」と。下文「制詔」は熟語。下文「勝を千里に決す」。
今 奉車都尉を遣はして印綬を授け、封じて酇侯と為し、食邑は万戸とす→こ
 この「遣」も同じ。文意から必ずしも使役に訳さなくてもいいでしょう。
 書き下しは吉川訓注のとおり。下文「之を敬(つつし)めや」は、尚書風の
 表現。「懋(はげ)めや」の類。

 ふうぅ...どうにか終わりました。李注のほうはまた後日。
 ではでは。

12むじん:2004/07/24(土) 11:21
鄧禹伝の「舋」は間隙、ひび割れという意味ですよ。
発音は許慎の反、ということでキン。


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