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民明書房〜FF編

1 ( ・ ω ・ ) </b><font color=#FF0000>(VhaLdA5Y)</font><b>:2004/03/14(日) 09:34 ID:XZINyPx6
おまいらがしってる民明書房を語れ。
参考文献
http://www.is.osaka-kyoiku.ac.jp/~a9608m/minmei.html
http://yokohama.cool.ne.jp/nikutaijin/minmei.html
http://www1.mahoroba.ne.jp/~kemorin/minmei/minmei.html
http://www.geocities.co.jp/Playtown/9445/o1.html

2(・ω・):2004/03/14(日) 09:36 ID:XZINyPx6
556 名前:既にその名前は使われています メール: 投稿日:04/03/13 14:12 ID:HIdfggom
【便足羅死徒】
その起源は中国で生まれたといわれ両手槍による5回攻撃により大ダメージを与えると
共に自らのTPだけでなく敵のTPもたまるという恐ろしい技である。
槍の達人、飛屋鳳夷が大便の長い者に対し用を促すため扉を激しく連打し破壊したため
「飛屋鵬夷の便を促す行為は死ぬほど迷惑」と広まりこの名前がついたといわれている。
FFIXにおいて「ヒャッホイペンタ連発やめてね」とペンタスラスト=他の者にたいして迷惑、と同意語に
なったのはこれが語源に由来する
                  民明書房刊  「世界御手洗大発見」 より

3(・ω・):2004/03/14(日) 09:37 ID:XZINyPx6
どこかにサベッジあったよなぁ...

4(・ω・):2004/03/15(月) 04:43 ID:KLTsnRU.
これはあげておく

5(・ω・):2004/03/15(月) 10:11 ID:Onqy3x/M
見つけたぞ>>3
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/game/6493/1070344267/ より

57 名前: (・ω・) 投稿日: 2004/01/28(水) 15:49 [ ps0R0RYI ]

『差別事無礼怒(さべっじぶれいど)』

 春秋戦国時代中期、小国の1つ燦は有力国・樫の進攻に対し
属国となり生き延びる道を選んだ。しかしそこに待っていたのは
過酷な差別政策であった。それは宮廷においても同様で、属国の王は
下級役人よりも格下に扱われたほどであったと言われる。
 このことは後に、燦の王子・杜李温による、宮廷宴会の無礼講に乗じて
差別政策を推し進めた時の宰相を暗殺した「差別事無礼怒事件」に繋がった。
 剣技の達人でもあった杜李温は、百歩にもあたる距離を跳躍し宰相を
切り捨てたとも伝えられ、差別に苦しむ民衆達は喝采を叫び、若くして
処刑された杜李温を「百歩偉」と称し後々まで語り継いだという。

 現代では差別事無礼怒は剣技の名前に変じ、杜李温の名も忘れられたが
今でも、チャンバラごっこに興ずる子供が、ジャンプしながら切りつけるときに
発する掛け声「ヒャッホーイ」にその異名は生き続けているのである。

(民明書房刊『眠れる獅子その歴史の陰に』より)

6(・ω・):2004/03/15(月) 11:31 ID:kZ1D3htk
初代サブリガスレにサブリガもあったな
ログもうのこってないけど(;´Д`)

73:2004/03/15(月) 19:43 ID:eFc5pMQg
>>5 thx
>>6 情報thxさがしてみるぜ

8(・ω・):2004/03/16(火) 03:37 ID:j5haO7pU
テレポ
体練歩
とかいうのもなかったっけ?

9これだな:2004/03/16(火) 11:47 ID:LQT9BIAE

遙か昔、三大強国の誇る武の達人が
「我こそはヴァナディール1の猛者」と
クフィム島に集い、その漢気の強さを競い合った事があった。
鳳来:/sh パワーーー!
 Holaのためる×∞
伝無/:sh パワーーー!
 Demのためる×∞
瞑亞:/sh パワーーー!
 Meaのためる×∞
しかし漢達の大きすぎる気のぶつかり合いにより大爆発が生じ、
達人達はそれぞれ遙か彼方へと吹き飛ばされた。
そしてこの時彼らがが降り立った岩を、それぞれホラ、デム、メアと名付け、
このときから「気による遠距離移動」すなわち体練歩(ていれんぽ)の研究が始まり、
いまのテレポへと発展した。

民明書房刊「レッツプレイ・マッスルフライト」より。

10(・ω・):2004/03/18(木) 12:14 ID:.jkpU0wk
「煮解吐」とか「酸下吐」とかもそうだよな

11(・ω・):2004/03/18(木) 18:02 ID:GrhAegew
耶偶人(やぐうど)

 戦国時代末期、耶蘇会の努力により諸国に耶蘇教が浸透しはじめた。
しかしその成功の裏で昔からの神仏を拝む風習から抜けきれず
戒律を破り神を象った偶像に信仰心を向ける人々が後を絶たなかったという。
 教義に叛いた集団に対する耶蘇会の弾圧は凄まじいものであり
生きたまま皮を剥ぎ贄にされる者もいたのである。
弾圧により命を失ったものは亡骸を破壊された偶像とともに野ざらしにされ
その周囲には常に漆黒の鴉の群れが覆っていたそうだ。

 この弾圧の対象になった耶蘇教徒の偶像信仰派の人々の事を「耶偶人」と呼び
今尚彼等の子孫は畜生の扱いを受け続けているのは嘆かわしい現実である。

民明書房刊『信仰の光と闇 -3-』より

12(・ω・):2004/03/18(木) 18:51 ID:Mz1SRWmc
【魁】熱い漢を語るスレ【男塾】
http://mst.s1.xrea.com/test/read.cgi?bbs=ff11&amp;key=042296056

13(・ω・):2004/03/19(金) 00:15 ID:PBEpb7aY
ようはトリビア?

14(・ω・):2004/03/19(金) 00:21 ID:jU2iVh4A
完全にネタなものをさも本物のように解説したもの・・かな。
トリビアは一応本当のことやってるから違う

15(・ω・):2004/03/19(金) 01:11 ID:XTFh57DU
>>13-14
君等は男塾読むべき。
読んだらここの面白さが解るよ。

163:2004/03/19(金) 02:12 ID:PkCWun.6
>>10
にげと、さんげとは FF用語ではないので微妙にスレ違いかな。
>>11
こんなのあったのね...。
>>12
2代目?マターリ板にあったのか・・・よんでみまつ。
>>13>>14
>>15
マジでおすすめ。

17サルベージ:2004/03/19(金) 02:15 ID:PkCWun.6
206 名前:既にその名前は使われています ama 投稿日:02/07/24 14:49 ID:BjQOR8M2

古代中国 戦乱の時代 屈指の名将として名高い周の
沙武李我 将軍が考案したといわれる腰衣が起源である。
一見、露出部分が多く、防具としては好ましくないと
思われがちだが、肌に触れる微妙な空気を流れを読むこと
ができ、五感をフルに活用した戦い方ができることから、
かつての英雄たちも好んでこれを用いたという。

余談ではあるが、沙武李我 の発展系である 武利威布 という
腰衣が現在のブリーフのルーツであることは、あまりにも
有名な話である。

           民明書房刊「戦国武将人情譚」より

18(・ω・):2004/03/19(金) 09:14 ID:s1SFnV0I
呉竜府あげ

19(・ω・):2004/03/19(金) 09:56 ID:7BAnbW52
あまりにも有名な話sage

2011:2004/03/19(金) 10:21 ID:tcc50hZM
>>16
民明書房もしらなかったけど
このスレみながら創作してみたんだよ・・・orz

21(・ω・):2004/03/19(金) 12:51 ID:/uBvyItw
我永久に氷をアイスあげ

22(・ω・):2004/03/19(金) 14:37 ID:YXSL69JQ
>>13は本屋で「世界の怪拳奇拳」を探してしまうと診断。

23(・ω・):2004/03/19(金) 17:54 ID:awwuVQeo
民明書房が実在すると思ってたヤシ挙手せよ

(´・ω・)ノ

24(・ω・):2004/03/19(金) 18:16 ID:bMm6jvgw
>>15
一応読んでたよ〜 ヽ(´−`)ノ
ガキの頃だしもうあんま覚えてないけどな・・(´・ω・`)

(・ω・)ノ 当時はあるの!?と思ってた

25(・ω・):2004/03/19(金) 18:53 ID:XTFh57DU
紀伊国屋で探したとも!!

26(・ω・):2004/03/20(土) 08:49 ID:rpwEjeWI
学生の頃本屋さんでバイトしてた時、民明書房の本ってありますか?って質問が結構あったけど・・・・






やっと謎が解けましたorz
店長も頭を捻るわけですよ

27(・ω・):2004/03/22(月) 12:59 ID:pr11WlLk
樽手有

 時は紀元前二百年頃、秦の始皇帝によって秦字以外の書物は焼却され
異を唱えた学者は穴埋めにされたという。
 この政策に危機感を覚えた学者達は大樹の下に集い並べた樽の中に入った。
そして互いの腕を組み頑としてその場を動かないという抗議行動を行ったというのだ。
焚書坑儒に対するこの活動を、その姿から「樽手有(たるたう)」と呼び
その後も学者の間で密かに続いたそうだ。
 無学なものが樽手有を行ってもそれではただ休んでいる事と同じだという揶揄は
「下手な考え休むにタルタル」というコトワザとして現代にも残ってるのは有名な話だ。

 蛇足ではあるが、樽手有を無理に続けた結果体型が短肢短身となった例があるらしい。

民明書房刊『THE PROTEST RALLY IN THE WORLD』より

28(・ω・):2004/03/22(月) 14:30 ID:/1H6z85w
儀呂椿
明の将軍。武器として大鎌を愛用したことで知られ、その重く巨大な鎌を振るい、一瞬で
敵を4度切り刻む大技は今なお彼の名をもって呼ばれる。
なお、フランス革命において多用された処刑具であるギロチンの発明者であるジョゼフ・
イニャス・ギヨタンが彼の子孫であることはあまりにも有名である。

29(・ω・):2004/03/22(月) 16:22 ID:o7aq9zpg
pavy さん 2004/01/06 (火) 15:33
<斧逸神具>
古代中国にて決闘や戦争のみならず全ての生活で斧を
自在に操る逸家に伝わる長くしなやかな柄をもつ戦斧は
普通の武者には扱えぬものだった。

時の皇帝の愛娘が船から落ち、巨大な雷魚に飲み込まれたとき、
逸家の逸宝舜がその斧で巨魚を巧みに操り陸地に持ち上げて
娘を助け出したときその神業を称え、「斧逸神具」と賞賛し、
それを真似て、それまでは固い枝を使っていたのを止め、
竹などの長くしなやかな竿を用いた釣りが主流となった。
これが現代釣具の起源である。
 
         民明書房館「古き中国の武具伝承」より抜粋

30(・ω・):2004/03/22(月) 18:24 ID:2lMpFMz2
出路遠

 冒険において危険を察知しての回避は最も重要であるが
生命の危機に瀕した際に発揮される冒険者特有の帰還能力が
この出路遠である。
 元々は戦闘不能に陥った際、路を外れて死ぬ事を怨むという
気持ちを込めて「死に出路怨」と呼ばれていたこの能力を
人体の科学に学の深い名家鵬氏の烏鵡、胤杜兄弟が戦闘不能に
ならずに発揮出来ること発見したのである。
呪言により対象を生命の危機と錯覚させ発揮するこの死に出路恐は
その安全性からいつしか「出路遠」と呼ばれるようになったという。

 この鵬兄弟が危険な冒険を繰り返して発見した数々の帰還地点は
両名の名を冠して「鵬烏鵡鵬胤杜」と称されているのは冒険者を
目指すものなら誰もが知るところだ。

民明書房刊『冒険野郎!菩撫庵と舞句』より

31(・ω・):2004/03/23(火) 00:37 ID:d3fvaZHQ
>>27 たるたる
>>28 ギロチン
>>29 フィッシング
>>30 デジョン
スマソ どこでもいいから読み方キボンヌ

32(・ω・):2004/03/23(火) 09:13 ID:OYqkNnkU
「鵬烏鵡鵬胤杜」ほおむぽいんと
でいいのか。

33(・ω・):2004/03/24(水) 12:24 ID:z0XRoSaA
フォーマット

名前(よみがな)

説明

民明書房(太公望書林、日本曙蓬莱拳法)刊『誌名』より

でどうだ?

34(・ω・):2004/03/24(水) 13:30 ID:OxRak.WU
「百歩偉」ワラタ

35(・ω・):2004/03/25(木) 00:47 ID:FR04k8CM
関連スレ
http://jbbs.shitaraba.com/game/bbs/read.cgi?BBS=6493&amp;KEY=1069480679
男塾塾長江田島平八が■に物申すスレ

36(・ω・):2004/03/26(金) 01:08 ID:MTrAXL02
<毛有>
魏呉蜀がそれぞれ覇を唱えていた三国時代。魏皇帝曹操は一人の将に絶対の信頼を置いていた。
その男の名は毛有(もうゆう)。
馬を駆れば一日千里を走り、矛を持てば城門を突き通し
戟を振るえば十の武将の首が空を舞ったと言われる大陸を震撼させた猛将である。
しかし歴史はその男を語らない、それを裏付ける関羽の言葉が近年発見された。
曹操の恩に報いるために魏に赴いていた関羽はそこで毛有に会いこう叫んだという。
「貴様、毛が無いのか!」
そう、彼は名に反して禿であったのだ。そしてその事を何よりも恥じていた。
この後、関羽は激昂した毛有に散々殴られ、死線を彷徨ったと言う。
関羽千里行の逸話は有名であるが、その実は毛有に恐れをなし逃げ帰り
追おうとした部隊を毛有が「あの程度の男は信に足らず!追うに及ばず!」と一喝したからだという説も囁かれている。
魏が大陸を統一した後、彼は一つ秘術書と置手紙を残し姿を消した。
「我が恥は魏が天下を輝かせるほどに恥辱である。この仙丹は南下仙人の残せし秘法を記した物である。
我が意思を継ぎし者よ、どうかこれで我と同じ悲しみに苦しむ人々を救ってくれ」
この手紙を受け取った司馬懿仲達はこの秘術書より一つの秘法を生み出し、その秘法を生み出した。
しかしそれは彼の恥を無くすものではなかった。なんと仲達は彼の苦しみとは戦場で怪我をすることだと勘違いしてしまったのだ。
人々は恥を払拭させることの出来なかった毛有を哀れみ、この秘法に彼の名を関した。
それは海を渡り日の本の国へと伝わり、ケアルと呼ばれたその秘法は堺の商人の手により世界へ広まることとなった。
当時、兵達は「龍の逆鱗に触れる」と同義として次の言葉を良く用いたと言う。
「毛有の兜を取る」

 
         民明書房館「時代に埋もれし英雄」より抜粋

37ごめw一部修正w:2004/03/26(金) 01:18 ID:MTrAXL02
<毛有>
魏呉蜀がそれぞれ覇を唱えていた三国時代。魏皇帝曹操は一人の将に絶対の信頼を置いていた。
その男の名は毛有(もうゆう)。
馬を駆れば一日千里を走り、矛を持てば城門を突き通し
戟を振るえば十の武将の首が空を舞ったと言われる大陸を震撼させた猛将である。
しかし歴史はその男を語らない、それを裏付ける関羽の言葉が近年発見された。
曹操の恩に報いるために魏に赴いていた関羽はそこで毛有に会いこう叫んだという。
「貴様、毛が無いのか!」
そう、彼は名に反して禿であったのだ。そしてその事を何よりも恥じていた。
この後、関羽は激昂した毛有に散々殴られ、死線を彷徨ったと言う。
関羽千里行の逸話は有名であるが、その実は毛有に恐れをなし逃げ帰り
追おうとした部隊を毛有が「あの程度の男は信に足らず!追うに及ばず!」と一喝したからだという説も囁かれている。
魏が大陸を統一した後、彼は一つ秘術書と置手紙を残し姿を消した。
「我が恥は魏が天下を輝かせるほどに恥辱である。この秘術書は南下仙人の残せし秘法を記した物である。
我が意思を継ぎし者よ、どうかこれで我と同じ悲しみに苦しむ人々を救ってくれ」
この手紙を受け取った司馬懿仲達はこの秘術書より一つの秘法を生み出し、それを用いるようになった。
しかしそれは彼の恥を無くすものではなかった。なんと仲達は彼の苦しみとは戦場で怪我をすることだと勘違いしてしまったのだ。
人々は恥を払拭させることの出来なかった毛有を哀れみ、この秘法に彼の名を関した。
それは海を渡り日の本の国へと伝わり、ケアルと呼ばれたその秘法は堺の商人の手により世界へ広まることとなった。
当時、兵達は「龍の逆鱗に触れる」と同義として次の言葉を良く用いたと言う。
「毛有の兜を取る」

 
         民明書房館「時代に埋もれし英雄」より抜粋

38(・ω・):2004/03/26(金) 01:25 ID:ieIDJqCo
マジウケww
貴様毛が無いのかwww

39(・ω・):2004/03/26(金) 11:52 ID:EV7OeSNg
曹操は帝位についてない、と言ってみる

40(・ω・):2004/03/27(土) 18:31 ID:HGKsWcUg
魏蜀呉それぞれの君主は皇帝を名乗ってるぞ。
曹操は皇帝を脅してむりやり帝位を継いだ
孫権は金璽を持っていたからそれを皇帝の証として呉皇帝を名乗った
劉備は漢王室の血を継いでることを理由に蜀皇帝を名乗った

41(・ω・):2004/03/27(土) 19:14 ID:AwSsLZN2
>>40
曹操は魏王にはなったが帝位には就いていない
献帝から禅譲されて皇帝になったのは曹丕

42(・ω・):2004/03/27(土) 20:04 ID:KN9hn1Sw
POLに出てるPvPの紹介はなんか民明書房っぽい…

43(・ω・):2004/03/28(日) 00:27 ID:dRoVZgpw
>>40
>魏蜀呉それぞれの君主は皇
魏王になったのも死んでからでは?といってみる

44(・ω・):2004/03/28(日) 03:17 ID:kYtIYaG2
毛有・・・・思わず三国志8を引っ張り出してきて武将一覧で確認してしまった・・・・orz~

45某スレより加筆修正:2004/03/28(日) 03:30 ID:oiSrK1gs
不破嵐楠(ふわらん・くす)

弘安初期、毎年の台風に苦しめられた円焔村ではその被害を食い止める為、
藩より学者が招かれていた。
学者の名は「亜迦摩」。若干10歳にして藩に重用された子供であった。
彼は町の地形をくまなく調べた結果、町の周りに楠の苗木を植えただけで
対策は終わったと帰ろうとした。それに村の人は怒り亜迦摩を木の棒で
殴り殺してしまった。以後台風の被害は止むことは無かったが、
亜迦摩の死から23年後の夏、かつて無い台風が全国に爪跡を残す中、
円焔村では最小限の被害に留まったばかりか、以後台風の被害は
減少の一途を辿っていった。
亜迦摩が植えた苗が大きく育ち、防風林の役割を果たしたのである。
それに気付いた村人は亜迦摩の死を悼み、自分達の過ちを悔い、
村の広場に石碑を建てた。そこにはこう記されている。

「亜迦摩童子、齢三十三にして不破嵐楠を築く」

以後その村の楠の木は優秀な防風林として国内はおろか、海外でも
その高い効力をいかんなく発揮した。特にハリケーンの被害が大きい
アラバマ州の図書館の資料にこう記されている。

「We got Phalanx at Burning-Circle village in Japan.」

以後建築様式が進化した現代社会において円焔村の名は地図から消え、
不破嵐楠が植えられる事もなくなり、亜迦摩の名前を忘れ去られていった。
しかし大人数が遊ぶという、あるゲームにおいてダメージを軽減する魔法に
ファランクスという名が、その使い手としての赤魔道士、
その取得場所としてのバーニングサークルにその名残を垣間見る事ができる。

余談だが、その職業の優れた点を妬み追求する事を「赤魔叩き」というのは
亜迦摩が村人に撲殺された故事に由来しているのはいうまでもない。

民明書房館−「迫害される天才」より一部抜粋

46(・ω・):2004/03/28(日) 17:56 ID:/vBCwNW6
>>41
どうでもいいけど呉蜀の君主が皇帝を名乗ったのは魏で曹操が皇帝を名乗って、負けてられるかと追うようにして名乗った・・・ってのが通説
通説ってのは最も可能性が高いんじゃないか?って言われてるだけでそれが確実じゃないってこと
つまり三国史自体にいくつもの説と話がありどれも信憑性に欠けるものが多くある
オマイさんが力説している説もたくさんある説の一つ、こんなところで何を張り合ってるのかね?しかも民明書房に対してwww

>>45
円焔=Burning-Circle カヨww
思わず笑ったが貴様!赤魔だな!w

47(・ω・):2004/03/28(日) 18:00 ID:/vBCwNW6
そういや横山光輝の三国史はたしか曹操が皇帝になるところを描いてたよ

48(・ω・):2004/03/28(日) 18:04 ID:VUWnjgF2
古来より帝は1人、王はイパーイ、で
覇者たらんとするものが帝を名乗ったという流れでおkかと。
三国時代の表現で「皇帝」でよかったっけ?「帝」かと思うが...
しらべてくるわー。

>>37 >>45
禿藁GJ!!!

49(・ω・):2004/03/28(日) 18:11 ID:VUWnjgF2
ごめん皇帝で問題なかった...
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%B8%9D
ttp://www.synapse.ne.jp/syunjyu/syunjyu/tyugoku.html

50(・ω・):2004/03/28(日) 21:46 ID:YnUtCu82
鎖歩丈夫

江戸時代、戦乱の終わりとともに多くの不逞武士達による犯罪行為が各地で起きた。
徳川家康の家臣、徳川四天王と称えられた本田平八郎忠勝公はその事を憂い、大罪を犯した不逞武士に対して鎖歩の刑を科すよう命じた。
鎖歩の刑とは両足に五貫あわせて十貫(一貫はおよそ4kg)もの重りを鎖によりつなぎ、それを着けたまま町中を引き廻した後斬首するという恐ろしいものであった。
これにより不逞武士たちはおとなしくなり、犯罪も格段に減ったという。
慶重十一年(AC1607年)、ある町奉行が権力をかさに町人から私財を搾取するという事件が起きた。
その奉行、名を田ノ中三郎弘道といった。そのことはすぐに幕府の知るところとなり、その犯人には鎖歩の刑が下されることとなった。
しかしその町奉行は咎めを受けることはなかった。なんと奉行所に勤めていた一人の男を身代わりに立てたのだ。
その名も語られぬ男は田ノ中に妻子を人質に取られ、家族を守るために何も語らず刑を受けた。
いよいよ鎖歩の刑は執行された。ところがなんとその男は自ら足に縛られた十貫もの重りを担ぎ上げ足早に歩を進めはじめた。
そして処刑場に入るなりその男は言い放った。
「我は決して延命されぬ!さぁ!我が首を斬るがよかろう!」
こうして名も語られぬその男は斬首され、何も語らずに短い人生を終えた。
多くの人々が「このような悪事を働く男とはとても思えぬ」と語ったと言う。
この事件の真相が知られるのは五年後のことである。
度重なる暴挙から田ノ中は摘発され、芋蔓式に数々の悪事の真相が明るみに出たのだ。
人々は田ノ中のあまりの暴挙に怒り、妻子を守るため死んでいった男を哀れに思い。
何も語らぬ名も知らぬその男を「鎖歩丈夫」と呼んだ。
このことから鎖歩の刑は廃止されることとなり、かくして田ノ中は鎖歩の刑最後の受刑者となった。
田ノ中の最後の言葉としてこうある。
「俺は何も悪くない!」
鎖歩丈夫とは縛り付けられながらも歩みを捨てぬ者のことである。
このことは歴史に埋もれた史実である。しかし神の悪戯か多くの時代に似たような事件は起きるものである。

      民明書房刊「歴史が語る真の悪人・悪行」より抜粋

51(・ω・):2004/03/29(月) 12:04 ID:8Ajev3f.
田ノ中:「俺は何も悪くない!」

  ↑ワロタ

52(・ω・):2004/03/29(月) 17:25 ID:2dRkrMoY
なんとヤツはこんな時代でまでこのような暴挙を・・・
なんということだ

53(・ω・):2004/03/29(月) 18:45 ID:ZSknbxYI
田中は油風呂の刑確定だな。

54(・ω・):2004/03/30(火) 01:48 ID:XUUTkD5.
「罪道」

時は春秋戦国初期、世が戦乱に乱れる中、出州(今の南京一帯)に三人の盗賊がおり、民に非道を尽くしていた。
那亜頑、張文句、津灰半汰の三人は盗賊団「出州最守」を名乗り、自ら義賊を名乗っていた。
しかし実は強き者からは鼠のごとく逃げ出し、力持たぬ者には将のごとく振舞うという愚か者どもであった。
あるとき三人は旅の老人を襲った。その老人は田中仙人という仙人であった。
田中仙人は金銭の類は全く持っておらず、それに腹を立てた三人は田中仙人を殺そうとした。
田中仙人は命乞いをし、その代わりに三人に望む力を手に入れられる宝玉「紅零紅零」を差し出した。
三人は残虐にも田中仙人を殺したうえ、宝玉を奪ってしまった。
三人は紅零紅零に様々な力を要求し、世界最強の腕力、世界最高の武器、自然を操る法力、誰も使えない特別な秘術を手に入れた。
しかしこの宝玉「紅零紅零」は望みをかなえる代償に知性を無くしていくという恐ろしいものであったのだ。
結局、世界のバランスを崩すほどの力を手に入れた時、三人は獣以下の知性しか持ち合わせていなかった。
そして三人はお互いを妬み憎み殺し合い、その果てに「廚坊」という醜い妖怪になってしまった。
人々は相手の行動すら分からず殺された愚鈍な田中仙人と、欲望に飲まれ廚坊に成り下がった愚かな三人のことを教訓として語りつぐことにした。
その教訓を語った物語が「罪道」である。人々は「罪道、暗愚にして欲深き事この上なし」と酒の肴にして語ったという。
今では長い年月の中、忘れ去られた物語であるが、これらの名は愚か者の象徴として未だにその名残をみせる。
現在においてもインターネットの掲示板では愚か者のことを「厨房」と呼ぶのもそのひとつである。
心ある人々よ、ゆめゆめ罪道を歩むこと無かれ。

      民明書房刊「本当にあった愚か者の物語」より抜粋

55(・ω・):2004/03/30(火) 03:41 ID:rdp8EGiw
>>46
>どうでもいいけど呉蜀の君主が皇帝を名乗ったのは魏で曹操が皇帝を名乗って、負けてられるかと追うようにして名乗った・・・ってのが通説

ちゃんと調べろ、曹丕が皇帝を名乗った後だYO!
 
曹操は帝位についてない。
死後、帝位についた息子の曹丕から武帝の称号を送られたんだよ

56(・ω・):2004/03/30(火) 03:45 ID:6CMovjyQ
>>55
>>46の言ってる意味わかんない?
何千年も昔の話なのにどんな確信を持ってそんなこと力説してるの?
証明する動画でもある?
いくつも説があるって書かれてないか?
民明書房に対して必死に「それは間違っている!」って馬鹿?アホ?どこの国の人?ww

>>54
うはww恐ろしい話だwww

57(・ω・):2004/03/30(火) 04:02 ID:B1vypL9s
三国志演義では曹操が献帝から武力で禅譲を強行させ帝位についたとされている。
なぜなら演義は劉備を主人公にしているために「武力で無理やり皇帝になった曹操を討つ」という大義名分が欲しかったから。
逆に三国志正史はお宅の説を取っている。これは曹操を主人公にしているために武力で禅譲を強行するような悪いイメージを残さないためと言われている。
どちらも数千年も昔の話で、どちらも記録物であっても過度の脚色は見られる。
どういう説を語ろうがどれも真実ではないし、間違っているとも言い切れない。

ただそんなことよりも民明書房にそこまで必死になれる>>55は天然記念物級の馬鹿
>>54も語っているだろ、罪道を歩むな厨房よww

58(・ω・):2004/03/30(火) 04:11 ID:B1vypL9s
ちなみに三国志演義と三国志正史はこの時代の記録物で有名なものってだけ。
どちらも食い違うところは多々あるし、どちらが正しいということもない。
これ以外にも様々な歴史書の類はあるので全ての説を数え上げれば星の数ほどある。

59(・ω・):2004/03/30(火) 04:36 ID:rBNI7oko
ちなみに演技はSF小説だからw
正史はあくまで歴史書。
どちらが正しい事が多いかなんて比べるまでもないだろw

60(・ω・):2004/03/30(火) 04:48 ID:.yjgg9TE
オマエ本当の馬鹿だな
民明書房に云々言ってるのはまぁ置いておくとして
正史はなぜ正史と名づけられ演義はなぜ演義と名づけられたかわかるか?
その時まだ魏の支配下にあったからだよ
自分の国の英雄を敵視したものを正しいものだと言うわけないだろ?
オマエは演義がSFで正史が歴史書だと言い張っているが
正史では黄巾の乱の記述で張角は妖術で岩を降らせ豪雨を呼び川を凍らせた、その中曹操凍った川を馬で駆け抜け進軍した・・・とあるがこれも真実だと?w
どちらも過度な脚色はあるしどれが真実だと言い切れるものではない。

正史と演義の違いについてはここを読め
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E6%BC%94%E7%BE%A9

61(・ω・):2004/03/30(火) 04:57 ID:.yjgg9TE
魏じゃないや、晋だな。
司馬家に命じられて陳寿という役人が執筆したものが正史。

62(・ω・):2004/03/30(火) 04:59 ID:rBNI7oko
( ゚Д゚)ポカーン
演技が書かれたのは三国時代から約1000年後の明の時代ですよ・・?

63(・ω・):2004/03/30(火) 05:01 ID:B1vypL9s
演義はSFで正史は歴史書なんてどこの阿呆だw
まぁ十年くらい前までそう信じられてきたがな。
今ではどちらも同じように歴史書として扱われている。
ちなみにだが皇帝になったかどうかというのは>>46の言ってることが通説。
なぜなら時代背景からそのように書くよう命じられた可能性が高いから。
頭の悪いレスはお断りですよw

64(・ω・):2004/03/30(火) 05:09 ID:.yjgg9TE
>>62
アホかwんなこと知ってるよw
その時代より千年後に羅貫中が書いたものが演義。
だからなぜその時代に劉備を語った書物が残されなかったかわからないのかい?
花関索伝の存在すら知らないんだろ?
演義の基になった可能性の高い関索を主人公にした文献だよ

65(・ω・):2004/03/30(火) 05:12 ID:pOsFsArk
民明書房に間違いを訂正しろとわめいてるキチガイのいるスレはここですか?w

66(・ω・):2004/03/30(火) 05:14 ID:B1vypL9s
ところで
>正史では黄巾の乱の記述で張角は妖術で岩を降らせ豪雨を呼び川を凍らせた、その中曹操凍った川を馬で駆け抜け進軍した・・・とあるがこれも真実だと?w

これには答えてくれないんだろうか・・・

67(・ω・):2004/03/30(火) 05:19 ID:Yj8gvRl2
亜湯津利宣言

その昔、中国に・・・以下略

民明書房刊「必死になる厨房」より抜粋

68(・ω・):2004/03/30(火) 05:20 ID:.yjgg9TE
>>67
確かにそろそろそれやりそうw

69(・ω・):2004/03/30(火) 05:21 ID:B1vypL9s
>>67
先手打ちキターww

70(・ω・):2004/03/30(火) 05:24 ID:Yj8gvRl2
しかし民明書房に食い下がる厨房というのは初めて見たな
なかなかいないぞこんなアホ

71(・ω・):2004/03/30(火) 05:26 ID:B1vypL9s
>>70
だって普通じゃないしw

72(・ω・):2004/03/30(火) 05:44 ID:.yjgg9TE
rBNI7oko は民明書房に間違ってると電波飛ばす時点で馬鹿確定なワケなんだが
あまりこういう歴史とかに興味の無い人のために書いておくと、中国の歴史書のたぐいは物凄い量が発掘されている
だがそのほとんどが脚色されたもので、日本の天照大神が海をかき混ぜて大地を作り・・・みたいな記述が非常に多い
特に三国時代は魏呉蜀と大国3つに割れていたせいか歴史書は大量にあり説も物凄い数ある
特に正史と演義が有名だというだけで、曹操、劉備だけでなく孫権を主人公にした文献もある。
中には張飛は臆病者で関羽の影でビクビクしていただけの小物・・・というふうに描いているものもある。
どれもが主人公にされている人物に都合のいい部分だけを取捨選択して作ったという見方が正しい。
正史だから正しい、演義だから正しいなんていうことは有り得ない。
なぜなら当然、正史も曹家・司馬家に都合のいいように書かれているから。
勉強になったな rBNI7oko

73(・ω・):2004/03/30(火) 05:45 ID:.yjgg9TE
日本の天照大神が海をかき混ぜて大地を作り→日本の神話のように天照大神が海をかき混ぜて大地を作り・

74(・ω・):2004/03/30(火) 06:18 ID:XUUTkD5.
>>72
普通に勉強になった

75(・ω・):2004/03/30(火) 08:52 ID:2lUUjuhc
民明書房にこれを突っ込むのは野暮と思うのだが、単語を感じに置き換えるときは
古代中国ネタなら訓読みは使わないほうがいいんじゃないだろうか? 
あるいは、それ自体がネタと考えてあえて使うのが粋なんだろうか?

76(・ω・):2004/03/30(火) 08:54 ID:iGb9S0rI
先に言っとくけどrBNI7okoじゃないよw

蒸し返すようでアレだけど、
一般には曹操は帝位についてない、で通ってると思うんだけどなぁ。
高校の世界史でもそう習ってるはず。

>>46

>どうでもいいけど呉蜀の君主が皇帝を名乗ったのは魏で曹操が皇帝を名乗って、負けてられるかと追うようにして名乗った・・・ってのが通説

とか言い切っちゃってるから、一三国志ファンとしては突っ込みたくなる。
まぁ、民明書房のスレでどうこう言う話題じゃないんだけどなw

77(・ω・):2004/03/30(火) 09:39 ID:0ZGaJlz2
>>57
いやいやいやいや、いくらなんでも演技と正史同列に扱ったらまずいべさ。
演技は歴史を題材にした物語であって史書と呼べるものではないよ。
地方に残る伝承などを取り入れて正史に無い事実を含んでいることはある
かもしれないけどね。

このスレ気に入ったのでわざわざDQNスレにリンク張ってくれたのは感謝す
るが、むしろ君がDQ・・・スレ違いだな

78(・ω・):2004/03/30(火) 10:15 ID:z947LG5g
いつの間にか脱線しておるぜよ・・・・・(・ω・)

皆が三国志好きってのは十分解ったから、次の民明書房刊の新しい文献を期待ageでいこうぜよ。(・ω・)

79(・ω・):2004/03/30(火) 10:34 ID:IHZQB43w
三国志スレにいってくれたまいよチミたち

80(・ω・):2004/03/30(火) 10:34 ID:IHZQB43w
スレじゃなくて板ねorz

81(・ω・):2004/03/30(火) 11:38 ID:aMhjZw/2
てか、読みかたわからねーyp

罪道の読み方はなに?
紅零紅零もよくわからん。

両手剣の名前はわかったんだけどな…

82(・ω・):2004/03/30(火) 12:16 ID:5oqpT55g
ざいど
くれくれ

だろwww

83(・ω・):2004/03/30(火) 14:27 ID:T7rPUbE6
乱平次

その昔。銭形平次という(以下検閲削除)

民明書房刊「八百八町歌舞伎旅」より抜粋

84(・ω・):2004/03/30(火) 14:48 ID:N6Mq4VJU
 | .   ┌────────────┐
 |[+].<   事得無(じーえむ)     .│
 |⊂ノ .└────────────┘
古代中国、費尾得(ぴおえる)という村では、驚くことに世界に先駆けて、現在の警察機構にあたる物を考案・実施していた。
「事無きを得る」という意味合いで、「事無(じむ)」と名付けられ、村で頻発するトラブル解決の為、若者の中から屈強な者を選抜し、巡回にあたらせていた。
他の村人と区別する為、全身赤の服を着せられ、特に男性は、風貌の統一化の為頭髪を生やすことも御法度とされた。
しかし、大切な働き手を取られる事を拒む家が多く、頭皮に刺青を入れられた罪人を特赦してその数を埋めていたようだ。
それだけに無学な者が多く、村人への対応が危ぶまれた為、村長の田弘(でんこう)は、事無用のマニュアルを作成し、その通りに対応させたが、その内容は薄かった。
何かトラブルがあっても「村人の間で解決してください。」
また、マニュアルに無い事は一切答えられず、答えに困ったら「費尾得村に設置された意見箱へお願いします。」
その、通り一遍の事務的な対応が村人の不評を呼び、いつしか田弘は村長の座を追われ、事無の制度も廃止となった。

現在一部で、使われているGM(ジーエム)という呼び名は、
当時村人達の間で、「呼んでも得られる物は無い」という事で、「事得無」と呼ばれていたのが元と言われている。

        民明書房館「世界各地の警察機構」より抜粋

85(・ω・):2004/03/30(火) 17:31 ID:XUUTkD5.
おお、人が増えておる。いいこっちゃ。
三国志で意見の違いがあるみたいだけどいくつも説のある数千年も前のことをどっちが正しいとかわかるわけないしどうでもいい。
自分じゃネタも出さず偉そうに(しかも民明書房にw)注文つける厨房はもっとウザー


>>84
(つ∀`)タハー

86(・ω・):2004/03/30(火) 18:40 ID:r12GPsoc
民明書房に噛み付いてるのって、EV7OeSNgだけだろ?
ことの発端は40(HGKsWcUg)に対して41(AwSsLZN2)が突っ込んだ
ことかと。
ところで、金璽って、井戸>孫堅>孫策>袁術>曹操じゃないの?

板違いとはわかってても、なんかねー

87(・ω・):2004/03/30(火) 18:46 ID:yrWkOE5E
>>75
亀レスだがそんなこと言ったら李莢振とかどうすんのよw

…字合ってるよな?

88(・ω・):2004/03/30(火) 18:53 ID:/zCeEvJY
>>87
なんて読むの?という二度手間とらせんように読みも書いとけよ

89(・ω・):2004/03/30(火) 19:36 ID:GfL.aB8Q
>>88
り ばしぶる だ。
魁!男塾22か23巻を参照しる。

90(・ω・):2004/03/30(火) 19:46 ID:iGb9S0rI
曹操でざっとぐぐって、目に付いたリンク。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%93%8D
http://www.hcn.zaq.ne.jp/cabtu105/sousou.htm
http://www1.interq.or.jp/~t-shiro/data/human/sousou.html

どこにも生前魏帝になったとは書いてない。
このリンクの資料的価値まで突っ込まれると困るが、
これが所謂「通説」じゃなかろうか。

別に民明書房のネタに突っ込むつもりは毛頭ないんだが、
>>46のしったかには突っ込みたくなる。

まぁ、民明書房のネタを楽しみにしてる人にはウザいことこの上ないだろうなw
これで三国志の話は終了しようかw

91(・ω・):2004/03/30(火) 20:01 ID:ua1eg/4k
>>84
の書き方はウマいと思う。
ネタかきたいけど難しいねコレ...

92(・ω・):2004/03/31(水) 02:38 ID:NN7GG7ms
>>86
上のほうのレスにも金璽ってあったけど、玉璽のことだよね?
あれって藍田の名石を削って作ったとか何とかコーエイの三国志6
あたりの説明にあったから、金じゃないんじゃない?民明には無関係だけど。
もし間違ってたらスマソ

93(・ω・):2004/03/31(水) 08:07 ID:EqDwdmfw
今からここは三国志スレに変貌します
馬鹿どもせいぜい言い合ってろ
ついでに証拠の動画か写真のせてね

94(・ω・):2004/03/31(水) 08:50 ID:TsNTDxjQ
三国志ヲタクはほとんど荒らしだな1000までその勢いで荒らしていってね

95(・ω・):2004/03/31(水) 09:31 ID:cPQ8GXb.
流れをぶった切ってみんとす。

壁砂数虎威杭(へきさすとらいく)

 古代において剣は権力の証として一般人は持つことが許されなかった時代。
兵士たちは槌を振るい。幾多の戦場を駆け回っていた。
しかし。バランスの悪い槌は大変扱い難く。振るっては構えなおし、また振るうという闘い方しか出来なかった。
 そんな時。夜の見回りを行っていた兵士の一人が、無数の虎が壁に激突し、穴を開けている場面を目撃した。
俊敏な動きの出来ない虎が連続で突撃する様を見て、その兵士はそれを戦場で活かせないかと考えた結果。
複数の人間が単一目標に向かって、順番に槌を振るう技が編み出された。
そして、絶大な威力を持ったその波状攻撃は、壁をも打ち砕いた虎達に習って「壁砂数虎威杭」と呼ばれることとなった。
 今日に伝わるヘキサストライクは、槌を片手棍へと帰ることで一人でも行えるように改良を加えられたものであるが、
その起源に関しては伝えられず。今ではそれを知る者は極一部の者達だけだという・・・

民明書房刊「失われた世界 -武術篇-」より抜粋

96(・ω・):2004/03/31(水) 11:28 ID:bMhr66oU
>>90
うん。うざいです。
自分だけ言いたいことを言って、「これで終わり、FA」とか
いう人はもっとうざいです。

97(・ω・):2004/03/31(水) 12:59 ID:4AwE6YLA
破輪凄辣手(ぱわーすらっしゅ)

古代中国で剣と言えば、青龍刀のような片手で扱う曲刀が有名であるが、
両手で扱う大剣を扱う武術も盛んであったことは意外と知られていない。

唐の時代の達人、呉 黎孟(ご・れいもう)は、ある日、自らの突き技を強化する為にある修行法を考案した。
両手首に20kgもの重りを装着し、木の枝からぶら下げた輪の中心を両の手で正確に突く。
この修行法によって身につけた呉 黎孟の突き技は、最終的には突きの衝撃波で鉄の輪を破壊するまでに至ったことから「破輪凄辣手」と名付けられた。

中国では広大な大地での騎馬戦闘が主流である為、その後、両手剣を扱う武術は殆ど失われてしまったが、その技術は西洋に渡りいっそう花開いた。
15世紀頃より西洋で幅広く使われ始めた両手剣「クレイモア」は、呉 黎孟の名前をもじったものと言われている。

現代人が筋力増強の時に手首に付ける重りを「パワーバンド」「パワーリスト」等と呼ぶのも、上記の修行法影響を色濃く残していると言えよう。
        民明書房館「剣術今昔-チャンバラから殺陣まで-」より抜粋

98(・ω・):2004/03/31(水) 14:27 ID:3O48vUnY
ずっと民明書房があると思っていて、
いつか見つけたら買うぞと思っていたら・・・

甲冑軍隊アリの話で
「不破武流昆虫記」(ふわぶる昆虫記・・・漢字忘れた)
が出てきて幻想を崩されたのは俺だけ?(´・ω・`)

99キモい三国志オタクどもが氏んでくれることを祈りつつネタ投下:2004/03/31(水) 15:54 ID:bHzGzPGs
田中丈夫

時は幕末、とある村に田中弘ノ介という下級郷士いた。
剣の腕は三流以下、頭も悪く不細工で、努力もせず草双紙(当時のマンガ)を一日中読みふけるという体たらくであった。
草双紙に頭をやられた弘ノ介は突如として立ち上がりこう叫んだという。
「俺は勇者だ!俺が弱いのは勇者の剣が無いからだ!」
草双紙に描かれていた見慣れぬ西洋の長剣を見た弘ノ介はそれを勇者の剣と勘違いしてしまったのだ。
方々手を尽くして苦霊茂悪と呼ばれる剣(今で言うクレイモアだと考えられる)を手に入れた田中は意気揚々と村の道場主に勝負を挑んだ。
案の定勝てるはずもなく折角手に入れた苦霊茂悪を一刀のもとに叩き切られてしまう。
西洋の剣なるものは質が悪く切れ味など皆無であったのだが弘ノ介はそのことにすら気付かず再び勘違いをしてしまう。
「勇者たる者、自分で作り上げてこそ勇者の剣だ!」
そういった弘ノ介は村の鍛冶屋の寝込みを襲って殺し(正面からでは返り討ちだっただろう)そこで勇者の剣を作り出した。
当時弘ノ介が読んでいたとされる草双紙は「部龍背龍苦」だとされており、その草双紙には人が持ち上げることすら出来るはずもない巨大な剣が描かれている。
通説では当時、日本刀の圧倒的な切れ味と頑強さに恐れをなした西洋人達を皮肉った作品であると言われているこの草双紙を本気にした弘ノ介はまさにその通りの剣を作ってしまったのだ。
もちろんそれは人の持ち上げられるような物ではなかった・・・がなんと弘ノ介はそれを振り回し操って見せた。
なんとそれは中身が空洞になっているハリボテであったのだ。
村人達はそのことに気付かず弘ノ介を恐れるようになった。
調子に乗った弘ノ介は尊皇攘夷を俺が導いてやると脱藩し京に上って天誅を働くようになった。
そしてとうとう犯行現場を取り囲まれてしまった。
弘ノ介はここぞとばかりに勇者の剣を見せつけ、我こそは勇者ぞと名乗りをあげた。
それを見た捕り手たちは腰が引けていたが、そこに駆けつけたのが新撰組三番隊組頭の斉藤一であった。
斉藤は一瞬でそれがハリボテであることを見抜き、勇者の剣ごと弘ノ介の右手を切り落としてしまった。
「張子(はりこ)で勇者とは笑わせる、張子丈夫なぞ斬っても手柄にもならん」と嘲笑された弘ノ介は尻をまくって逃げ出した。
このことがおきてから竹光を差している者や腕の無い傾き者たちを田中丈夫、張子丈夫と呼ぶようになったと言う。
今でも自信だけは過剰にあり、腕の伴わない者を勇者と呼ぶのもこの名残だと言われている。
この時右腕を切り落とされ、剣を振れなくなった弘ノ介は実は生き延びていて子孫にいつか彼岸を達成せよと言い聞かせたとも言われている。
もしかすると今でも田中の血を引く者は物理的に不可能な勇者の剣を振り回すことを夢見ているのかもしれない。

       民明書房刊「世界珍人変人伝」より抜粋

100(・ω・):2004/03/31(水) 15:59 ID:bHzGzPGs
/pet かえれ >>96 三国志

101(・ω・):2004/03/31(水) 16:35 ID:4AwE6YLA
施苦熱湯(しぐねっと)

南朝時代、拳法を教える寺では、食料になる山菜等を山に採集しに出かける修行僧に熱湯をかけて送り出すという習慣があった。
この熱湯が完全に乾くまでに寺に戻れない物は未熟者とされ、乾くまでにより遠く、より多くの採集物を集めて来ることが誉れとされていた。
また、一部の地域では、ごく至近距離に同じような修行寺が乱立していた為、修行僧にかける施苦熱湯に、染料を用いてそれぞれの寺で固有の色をつけ、修行僧からしたたる施苦熱湯どれだけの広範囲に広がるか、を競っていた事もあるという。

現在、町の出口でガードが冒険者にかける「シグネット」は、この施苦熱湯が起源であることは言うまでもない。
        民明書房刊「Do 湯 love me?」より抜粋

102(・ω・):2004/03/31(水) 18:14 ID:bMhr66oU
>>100
うはw三国志ファンだと思われたw。
ちなみに三国志のことなんてさっぱり知らない。
言いたかったのは、だらだらくだらんレスが続いてて嫌気がさしていたこと。
で、さらにスルーすることもできずに(これ俺もだね。ごめん)言いたいことを
言っておきながらこの話題は終わりとか言う人がうざいっていったの。
終わりとか言う前にレスをするなって意味で。
ただし、これに関してはオレモナーなので消えます。

103100:2004/03/31(水) 18:40 ID:bHzGzPGs
>>102
そうでしたか、スマソ
ネタに感想言う程度ならいいと思うし反応無いとネタ作ってる人もつまらんとは思う
けど自分じゃネタも書かずサルベージもせず偉そうに批評するだけの香具師は本気でウザい
あくまで民明書房だしねw

>>101
なんと大変な修行かww

104(・ω・):2004/03/31(水) 19:12 ID:EqDwdmfw
棍振苦闘(コンフリクト)

はるか昔、モンゴル帝国において、皇帝フビライ=ハンが自国の武力を見せつけるために広く行った武闘大会が棍振苦闘である。
この競技を考え出した者はタ=ナーカという騎馬民族出身の宰相であった。
棍振苦闘は二人の闘技者にはめた首輪を鎖でつなぎ、手に持った棍棒でどちらかが絶命するまで殴りあうという凄惨なものであった。
しかし、毎月開催されたこの大会は全ての村から必ず一人ずつ闘技者を出さねばならず、断った村は大変な重税を課せられるという暴挙も行われた。
数年間続いたこの恐ろしい大会だがその凄惨さから帝国の信頼を著しく失墜する結果となり、これを考えた宰相タ=ナーカは自ら考案した棍振苦闘によって嬲り殺されるはめになる。
棍振苦闘はマルコ=ポーロによってヨーロッパに伝えられ、現在でも衝突を意味する言葉として残っている。
またマルコ=ポーロの東方見聞録にこの大会が記されていないのは、彼自身がモンゴル帝国の名誉のために削除したからだとも言われている。
当時、民衆はこう言ってタ=ナーカを揶揄したと言われている。
「愚か者は人を首輪でつなぐ、愚か過ぎれば自らを首輪でつなぐ」
これは愚か者は先も考えずに暴挙を重ねるという見本である。しかし愚か者はいつの時代にもいるものである。
愚か者はこの事例を戒めとして受け取ることが出来るのだろうか。

        民明書房刊「世界に名を残す非道な権力者達」より抜粋

105(・ω・):2004/03/31(水) 19:24 ID:5o3dtMCg
>>104
Gj(・∀・)イイ!!

106(・ω・):2004/03/31(水) 19:44 ID:4AwE6YLA
罵煮酒(ばにしゅ)

罵煮酒とは、奈良時代の高名な僧、鵜須(うす)上人が編み出した悪霊退散法である。
これは、清めた神酒を口に含み、対象に吹きかけるというもので、
凄惨な修行を乗り越えて初めて体得できる。

この技の修行は、まず、毎日熱湯を口に含む事から始まる。
日に日に湯の温度を上げてゆき、最終的にはぐつぐつに煮え立った熱湯を口に含めるまでにならなければならない。
この技の極意は口に含んだ神酒の温度にあり、生半可な修行では温度が足りず、相手に満足なダメージを与えられないのだ。
長い歴史の中では、この技を体得した僧に「鵜須」の名を与えていた時代もあったようだ。
また、これの応用として、酒の噴射で相手の目を閉じさせる噴螺酒(ふらっしゅ)という技も編み出されている。

ちなみに、「煮え湯を飲まされる」ということわざは、
当時、罪を犯した人は出家させられ、寺でこの修行を強いられたことからきている。

        民明書房刊「神業研究-神の手を借りた男達-」より抜粋

107(・ω・):2004/03/31(水) 19:49 ID:4AwE6YLA
× これは、清めた神酒を口に含み、対象に吹きかけるというもので、
○ これは、清めたのち鍋で煮た熱い神酒を口に含み、対象に吹きかけるというもので、

仕事中にコソコソ書いてコッソリうpしてたから、他にもミスいぱい(;´Д`)

108(・ω・):2004/03/31(水) 19:52 ID:S8/Ot76M
ミスもスルーできるほどにハゲワラwwwww
ちゃんと神聖魔法だな!!!wwww

109 ( ・ ω ・ ):2004/03/31(水) 20:16 ID:Wz3XT2qM
細かいミスあってもそこが民明書房っぽくてイイw

110(・ω・):2004/03/31(水) 22:03 ID:PHKGD1M.
ぐつぐつと煮るとアルコールが飛んで酒じゃなくなると言ってみるテスツ


でも、>>106GJ

111(・ω・):2004/04/01(木) 18:22 ID:Jea.1l5Y
魚喰(うぉーくらい)

これは、戦国時代のとある漁村に端を発する。
当時、日本の漁村には、「魚喰らい」という風習が存在した。
毎年、村一番の大食漢が選ばれ、村人が集まる中で大量の魚を食べ尽くし、その年の大漁を願うのだ。
代表が、出された魚を食べ尽くすと、その年の大漁が約束されると言われている。
そうなると集まった村人全体が高揚し、よりいっそう仕事に力が入るようになるのだ。
この風習が元で、いつしか周囲を鼓舞させる行為を「魚を喰らう」と言うようになり、
時代と共に言葉が受け継がれて現在の形となったようだ。

魚喰らいの際、代表は魚を大量に食すことにより腹部が著しく膨張する為、
あらかじめ着衣の腹部をはだけておくことが多かった。
現在これを使用する者の装備品に腹部が露出している物が多いのは、
この風習が起源であることを裏付ける大きな証拠と言えるだろう。

        民明書房刊「日本の奇祭・風習」より抜粋

112(・ω・):2004/04/01(木) 19:06 ID:Jea.1l5Y
大祭(たいさい)

ここで言う大祭とは、実在する祭りのことを示す言葉ではない。
6世紀頃の日本の豪族、舌等罵(したらば)という人物が好んで使用したとされる、
人間の心理を上手く利用した戦法である。
これについての文献は存在せず、口伝によるエピソードがいくつか残るのみだが、
その中でも比較的有名なのが、「峠の大祭」だろう。
当時は、日本に仏教が伝来してもの凄い速度で広まっていた時期であり、
舌等罵の治める地域のそばにも阿柯摩(あかま)寺という国分寺が出来、多くの門徒が集まっていた。
ここの寺とはとかく争いが絶えず、舌等罵も苦々しく思っていたが、
国分寺である寺を表立って廃してしまっては朝廷への心証も悪い。
そこで、舌等罵はある一手を投じた。
「北の峠で大祭があり、離触酒(りふれしゅ)という、飲むと仏に近づける酒が振る舞われるそうだ」
舌等罵は、この噂を周辺各地に流布して回った。
この噂を完全に真に受けた阿柯摩寺の門徒達は、我先に峠に押し寄せ、そこで各々争って自滅したと言われる。
また、生きて戻った者も多くを語ろうとせず、周りの者の嘲笑を受け各地に散っていった。
この峠が、今では旅行通の間で隠れた観光名所にもなっている乱愚門徒(らんぐもんと)峠と言われているが、
有効な文献が残らない現在にあっては、その真偽は定かではない。

        民明書房刊「日本の奇祭・風習」より抜粋

113(・ω・):2004/04/01(木) 23:10 ID:Y0r67/4c
折角職人降臨してるのに下がりすぎage

114(・ω・):2004/04/01(木) 23:41 ID:jbFsaTDU
峠の大祭ハゲワラ 腹痛いw

リクエストしていいかな?
オニオンマラソン・ミスリルマラソン・キュスマラソン・分解祭り・銀髪祭りあたりキボンヌ

115(・ω・):2004/04/02(金) 01:18 ID:7wStTV6w
文化異奉

15世紀末の中国では、仏教・儒教・イスラム教・ヒンズー教
など、さまざまな宗教が存在したが、それぞれの宗教は
互いを認めず、婚姻はもとより、食料や衣服などの経済的
関係も存在せず、たとえ目の前で人が倒れたとしても、それが
異宗教の者であれば、医者を呼ぶことすらしないのが当然であった。
哲学者にして無神論者であった発智は、中国全体の発展のため
には経済的交流が不可欠であると考え、各地の村を訪ね歩き、
たとえ経済的交流を行なったとしても、それは各宗教の教えに
反するものではないと説いて回った。
これにより、村々での交流が急激に活発化し、特に鍛冶や織物などの
第二次産業を担っていた者は、手に入りにくかった材料が安く仕入れ
られるようになり、高値で売れたことから「発智のおかげで儲かった」と
喜んだという。
しかし、急激な経済の変化を危険視した政府により、発智は
歴史の闇に消え、村々の交流も、発智がいなくなると同時期に
一気に廃れていった。
後の歴史家は、互いの宗教を重んじながら、盛んに交流が
行なわれた発智の活動を「文化異奉」と名付け、以後、
経済活動が急激に活発になるごとに、この名はしばしば
登場することになる。

民明書房刊 「中国の経済活動における有名人百人」より抜粋

116(・ω・):2004/04/02(金) 15:32 ID:aPsFkqZU
「これより、罵須闘苦(ばすとぅーく)名物、鬼怨馬螺走(おにおんまらそん)を執り行う!」
「鬼怨馬螺走?なんじゃぁ、そりゃぁ。」
「なんだかまた悪い予感がするのぅ」


鬼怨馬螺走(おにおんまらそん)

その起源は古く、春秋戦国時代の中国にまで遡る。
斉の猛将、馬羅尊(まらそん)は、罪人たちによくこの競技をさせ、
見事完遂した者は精鋭として軍に引き入れたと言われる。
参加者は、悪似怨(おにおん)と呼ばれる、悪魔の姿を模した鉄の塊を全身に無数に装着させられ、街に放たれる。
それらは全て別の鍵がかけられており、参加者は、街の各地に居る鍵を持った人物を捜して回り、一つづつ解除していかなければならない。
制限時間は正午から日没までと定められていたが、並の人間では悪似怨の重みに耐えきれず、競技の途中で力尽きる者が殆どだったようだ。

この競技は、平安初期に日本にも伝わったが、その際、悪似怨は日本でポピュラーだった鬼の姿に変えられ、鬼怨と名を変えた。
この競技はその残酷さからいつしか行われなくなったが、当時の子供達がその競技を模して遊んだ「鬼ごっこ」は現在も形を変えて子供達の間で息づいている。

余談ではあるが、現在行われている「マラソン」の起源について、
当時馬羅尊が戦勝を伝える為に戦場から斉まで駆けた逸話が起源だ、という学者が近年増えていて、物議を醸し出している。

117(・ω・):2004/04/02(金) 15:34 ID:aPsFkqZU
        民明書房刊「スポーツ起源異聞」より抜粋


付け忘れた・・orz

118(・ω・):2004/04/02(金) 16:35 ID:em6wgMF6
作法我(さぽわれ)

茶道千家の始祖であり、茶聖と呼ばれる千利休には、
一般にはあまり知られない逸話が数多く残っている。

早くから茶の湯に親しみ、わび茶を習得した千利休は、
その茶の道で織田信長に取り入り、彼の死後豊臣秀吉についた。
天下一の茶匠として、北野の大茶会を取り仕切るなど活躍した。
茶会を取りまとめるにあたって、「利休思重流(りきゅうしえる)」という名の
回覧版のようなもの用い、思重流(思いを重ねた紙の集まり)を配って
茶道を求めるものに対して様々な情報を与えた。
これが現在のリンクシェルの元になったのは余りにも有名な話である。

利休はある日、豊臣秀吉に誘われ狩りに出かけた。
利休は茶道に関しては天下一品であったが、狩りに関しては全くの素人であった。
それどころか、弓矢はお金がかかるので、全く買い揃えていなかった。
怒った秀吉は、
「天下人たるもの狩人くらい本職の半分ほどは出来なくとは困る」
と利休を叱り付けたが利休は、
「作法、我にあり」
とだけ言い放ち、その場を立ち去った。
小田原の役後に秀吉の怒りをかい、自刃する引き金となった事件であった。

利休を惜しんだ当時の人は、
「本職を極めていれば、他の職業は半人前以下でも構わない」という意味で、
作法我(サポワレ)という言葉を使うようになった。

現在ではどちらかというと否定的な意味合いで使われる「サポワレ」も、
昔は茶聖を敬った非常に名誉な単語であった。

民明書房刊 「千利休が与える日本語」より抜粋

119(・ω・):2004/04/02(金) 19:51 ID:aPsFkqZU
>>114
オニオン以後他のも色々考えてみたけど、思い浮かばなかった(´・ω・`)

120(・ω・):2004/04/02(金) 22:27 ID:7wStTV6w
蓮家衣


現代では、複数の武芸者が協力することを連携と呼ぶが、その語源が
遠く9世紀初頭の中国にあることはあまり知られていない事実である。

当時、中国武術は体術、棒術、剣術、槍術などが競いあい、また、
それぞれの武術においても、新しい流派が次々と興されていた。
弓術の一派であった蓮家では、弓術において中国一の座を得んがために、
修行として槍術などの他の武芸者を相手に鍛錬を積むことを考えた。
しかし、蓮家が提示した報酬を目当てに集った武芸者の力量はまちまちで、
ほとんど素人同然の者までいたために、蓮家の者は彼らを3人ずつの
チームに分けてリーグ戦を行わせ、優秀な者だけを選び出し、各流派ごとに
数人ずつ採用した。
前任の者が辞めるごとに募集が行われたが、武芸者たちは、選抜が常に
チーム戦であることに目をつけ、個人の力量に加えて、チーム戦で的確な
判断のできることが、蓮家に採用される条件であるとの認識が広まって
いったのである。
蓮家に採用された者は、みな蓮色の闘着を支給されたため、この闘着を
指して蓮家衣と呼び、これを着ている者はチーム戦に優れた者であるとされ
たが、蓮家衣を着た者の中には、実際に各武術の互いの長所を生かす戦法を
考案した者もおり、そのうちいくつかの戦法は、今なお現代に受け継がれている。
有名な戦法としては、剣術を使う者が相手の注意を引き付け、体術を使う者が
拳打で打ち倒したり、槍術で相手の体勢を崩してから短刀でとどめを刺す
などがある。それぞれ華 宮捏、王 居功の考案とされる。
また、蓮家衣を着た武術家の中でも、剣術の麗 狭慈、斧使いの経 鉄嵐、
体術の流 葦羅の3人は特に洗練されたチームワークを誇ったことから、
麗経流三蓮家衣と呼ばれ、他の武術家から恐れられたという。

余談だが、蓮家のチーム戦で敗れた者は、髪を短く刈られ、髪が再び生え
揃うまで募集に参加する資格なしとされた。現代において、連携に協力しない
ことを単発(短髪)というのは、これが元であることは言うまでもない。

民明書房刊『武術と集団戦闘の奇妙な関係 - 中国編 -』より

121(・ω・):2004/04/02(金) 23:19 ID:aPsFkqZU
苦堕夫(くぅだふ)

クゥダフとは、現在亀の姿をした獣人の事を指すが、これにも実は語源が存在する。
古代中国において、秦の始皇帝の時代、捕らえた政治犯への刑に、辺道(べどう)という物があった。
受刑者の背中に、重さ100kgもの鉄で出来た亀の甲羅を背負わせ、死ぬまで鉱山で労働を強いたのだ。
受刑者は一生甲羅を外すことは許されず、重みで次第に腰が曲がっていったと言われる。人々はこの刑を受けた物達を、憐れみを込めて「苦堕夫」と呼んでいた。

現在ヴァナ・ディールに生きるクゥダフ達は、この刑を受けた苦堕夫達のなれの果てなのかも知れない。
        民明書房刊「世界処刑図鑑」より抜粋

122(・ω・):2004/04/03(土) 00:08 ID:G3o1vfIY
GJだらけだなw 職人マンセー

1つだけお願いするなら、当て字にはカッコ書きで読み方つけてくれるとうれすぃ。
苦堕夫(くぅだふ)みたいに。蓮家衣がれんけいってのは1行目で分かったけど、
ときどき最後まで分からないことがorz

123(・ω・):2004/04/03(土) 07:50 ID:9T8uqBSs
>>115の読み方解らねーw

124(・ω・):2004/04/03(土) 08:09 ID:EUhGUCz.
>>123
(ぶんかいまつり)じゃないかな?

125115-120:2004/04/03(土) 08:45 ID:xPpw/S/k
すまん。分からんかったか…。
それぞれ元は

文化異奉(分解祭り)
発智(パッチ)

華 宮捏(=核熱)
王 居功(=湾曲)
剣術の麗 狭慈(=サベッジ)
斧使いの経 鉄嵐(=スチールサイクロン)
体術の流 葦羅(=阿修羅)
麗経流三蓮家衣(レベル3連携)


文中に経 鉄嵐(スチールサイクロン)なんて書くと変だから
こういう場合はあとで意味書いたほうがいいか。

126(・ω・):2004/04/03(土) 12:01 ID:B89aVo0g
>>125
LV3連携、ヤンキー用語みたいでワロタ

127(・ω・):2004/04/04(日) 02:51 ID:6EjDt4i6
蔵雲怒主都来苦(ぐらうんどすとらいく)

時代すら定かでないほど昔の話、当時の都は長安であったとされる。
その頃、大陸に名を轟かせていた人物が放浪の大軍師「蔵雲」である。
彼が軍を指示すれば敗北はなく、内政に勤めれば国は豊かに栄え、その知は唯一底を知らずと言われるほどであった。
その頃、都の長安はひどい様相であった。なぜなら二人の大臣による内部争いにより都長安は二つに裂かれ、お互いを殺しあうという凄惨なものであった。
長安の東を支配しする大臣「乃当(ないとう)」、長安の西を支配する大臣「庵哭(あんこく)」。
二人の大臣は民衆を省みず私利私欲のために搾取することを厭わない悪漢であり、互いに宰相の座を巡って争乱を起こしたのである。
主都の凄惨な状況を耳にした蔵雲は長安を訪れ、欲に溺れた大臣を怒り、民の嘆きに苦しんだという。
一計を案じた蔵雲は、二人の大臣にそれぞれ力をかした。
乃当には最高の防御力を誇る守りの陣形を、庵哭には最高の攻撃力を誇る攻めの陣形をそれぞれ教示した。
二人の大臣は愚かにも意気揚々とその陣形を実践した。
最高の守りの陣形を取った軍と最高の攻めの陣形を取った軍とがぶつかり、その戦いは凄惨を極めたという。
生き残った兵はほとんどおらず、軍属とされるほとんどの者がこの戦いで死に絶えたという。
全ての兵を失った乃当と庵哭はなぜこうなったのかわからず蔵雲に問いただした。
蔵雲は笑ってこう答えたという。
「私が乃当に教えた陣形は確かに最高の防御力を有する、庵哭に教えた陣形は確かに最高の攻撃力を有する。こうなったのは最高の攻撃力と最高の防御力がぶつかったならお互い消耗しあって何も残らないという当然のことに気付かなかったあなたがたの愚かさに原因があるのだ」
この事件は蔵雲怒主都来苦と呼ばれ、この逸話が形を変えたものが「矛盾」であるというのはあまりにも有名である。
また、この時に全てを失った二人の大臣は蔵雲に救いを求め、蔵雲は二人にそれぞれ宝珠「紅零紅零」を与えたという。
紅零紅零は多くの伝説に名を残す、望みを叶える代わりに知性を失い妖怪化していくという禁断の宝珠である。
乃当と庵哭は我負けじと多くのものを宝珠に要求し、全ての知性を失ったというが定かではない。
一説では乃当と庵哭の血を継ぐものが今でも紅零紅零に迷流という儀式を行い続けているとも言われる。
過ぎた欲望は憎しみと嫌悪を呼び、最後には己が身を滅ぼすという戒めの昔話である。

        民明書房刊「世界昔話全集」より抜粋

128(・ω・):2004/04/04(日) 02:55 ID:6EjDt4i6
>>54氏、紅零紅零が気に入っちゃったので流用させていただきました。
失礼でなければ御容赦くださいませm(_ _)m

12954:2004/04/04(日) 04:04 ID:839L/LYk
GJです(゚∀゚)b
どうぞどうぞ使ってやってくださいな

130(・ω・):2004/04/05(月) 11:49 ID:ispFM1Bc
このスレの「余りにも有名な話である」っていうのが、
ボブ&マイクスレの「〜のKingに違いない」
に通じるものがあっていつもワロテしまう。

131(・ω・):2004/04/05(月) 15:06 ID:huj9Za0E
魂喰餌守闘(こんくえすと)

これは、言うなれば超巨大バトルロイヤルである。
中国宋代、常に領土問題で争いの絶えない2国が存在し、時の皇帝明帝は困り果てていた。
そこで、当時の文官、田中(でんちゅう)が提案したのがこの方策である。
両国の土地を区分けし、それぞれに離証(りーじょん)と呼ばれる旗を立て、両国の兵に奪い合わせたのだ。
そして、各都市は、離証を保持している方の支配とさせた。
離証の集計は一週間毎に行われ、これならば土地争いで無用な戦争をすまい、という田中の思惑であったが、
結局は常時戦争をしているのと変わらない。それ以上に戦火が広範囲に広がってしまい、民への被害も大きい、という辺りが田中の想定外の出来事であったと言える。
結果、両国の状況は悪化し、田中は斬首とされた。
その後、疲弊した両国が和解となったのは皮肉な話である。
一つの事を長く続ける気力、という意味で「根気」という言葉があるが、
これは、魂喰餌守闘が終演を迎えるにあたって、両国の兵が発した「無魂気」(魂喰餌守闘をする気が起きない)が日本に伝わり、「魂気がない」という言葉から発展したというのは、余りにも有名な話である。

132(・ω・):2004/04/05(月) 18:18 ID:78yl55W6
梅派・梅徒(ばいぱ・ばいと)

中国が清の時代、清朝政府による大規模な異教徒狩りが行われた。
当時、景教と呼ばれていたキリスト教や、地方の新興宗教など、
かなりの被害者が出たと言われている。

その中でもやや特殊なのが、現在の福建省付近に存在した、
「梅教(ばいきょう)」である。梅教のルーツは盗賊団であるとされているが
真偽は不明である。
一説によると、盗賊団が金貨などを盗み、
「ウマー」と連呼していたので「ウマー>ウメー>梅」と推移して梅教になったとされる。

梅教の信徒は梅派もしくは梅徒と呼ばれ、
略奪や逃走、失踪などを繰り返していたため、かなり評判が悪かった。
梅派・梅徒は正面からの正々堂々とした攻撃を好まず、
背後から襲うなどの奇襲を好み、なおかつそれを他教徒のせいにするなどして、
人民に多大な損害を与えていた。
また梅派・梅徒に命を狙われた要人も多く、
突雀天(とつじゃくてん:当時の警察最高責任者)の「屯坊(とんぼう)」が
この時期に梅教徒に襲われて命を落としたと伝えられている。
(⇒椀局(わんきょく)事変参照)


清朝は、これに関してお触れを出し、人民に警戒を求めた。
これにより、ほぼ真後ろ以外の場所からの襲撃に関しては、
他教徒のせいにするなどの芸当が出来なくなった。
(1851年12月16日 ヨコダマ・ハンの令)

現在では、短剣を操る一部の冒険者たちの間で、
「バイパー・バイト」という戦闘技術の名称になっているが、
専門家たちの間では「梅教に無関係では?」との声もあがっている。

   民明書房刊「中国史における異教徒」より抜粋

133↑を書いた人:2004/04/06(火) 14:34 ID:tOX5VtqE
うはwwwwスレストwwwwwwwwwww

o-rz

134(・ω・):2004/04/06(火) 18:36 ID:Gg8mPHuY
今日はちょっと忙しくて・・(´・ω・`)

135(・ω・):2004/04/06(火) 22:17 ID:9dVWgE9c
ネタ模索ちう(´・ω・`)

136(・ω・):2004/04/06(火) 23:43 ID:dmdiSW/U
>>133
ううん。うまく書いてるな〜って感心したよ。
ただ悲しいかな、このスレ自体が廃れてるからねw

137(・ω・):2004/04/07(水) 02:54 ID:cj7I/JOY
むしろこの板というよりこのFF11がもう廃れt・・・・orz

138(・ω・):2004/04/07(水) 16:36 ID:J9aCU99o
>>116 の富樫と虎丸のつかみに正統派の風を感じたwww
リダ「次の対決方法は膿取蛙州狩りとする!代表者中央へ!!」
餡黒「の〜とりあす?明日まで能でも踊るんかのぅ?」
内藤「なんだか分からんが今度こそ俺の出番じゃぁ!」
垢魔「何だって・・・まさか膿取蛙州狩りが行われるとは・・・」
餡黒「知っているのか?垢魔!?」
垢魔「あぁ聞いたことがある・・・」

膿取蛙州【のうとりあ・す】

時は春秋戦国時代、越の国(現在の浙江省)では古くより、
呉との戦闘や武術の鍛錬中での破傷風による死者が後を絶たなかった。
しかし現地の人達の間ではまだ抗生物質も無い紀元前4世紀頃に、
揚子江の三角州に三日に一匹だけ現れる蛙の変異体より、
破傷風の特効薬が取れる事を経験より周知されていた。
破傷風にかかった人はこの三角州に駆けつけ、必死にその蛙の変異体を
捜し求めたという事からこの蛙を「膿取蛙」と名づけられ、
その生息地域である三角州を「膿取蛙州」と呼ばれた。
これを知った時の越王句践はその必死さを見て、兵士の鍛錬に応用した。
それが「膿取蛙州狩」である。なんと錆びた剣で兵士二人の足に傷をつけて、
膿取蛙を探し競わせるという恐ろしいものだった。
この鍛錬法で強靭さと任務遂行の苛烈さを知った越軍は見事呉を討つ事になる。
以後この競技はあまりもの凄惨さにより越王無彊により廃止されたが、
廃止以降緊張感を失い弱った兵は楚に滅ぼされる事になる結果となった。

なお、この膿取蛙を取り合って越と呉の兵士が同じ膿取蛙州で
張り合った事から「呉越同州」という故事成語が生まれ、長い歴史の中で
「呉越同舟」と言葉を変えた事は広く世に知られている。

民明書房刊「戦争と医学の奇妙な共生」より抜粋

139(・ω・):2004/04/07(水) 17:53 ID:DEZYY056
>138
GJ!

140(・ω・):2004/04/07(水) 17:59 ID:/N8JgQyk
垢魔は禿ヒュムだな
間違いない

141(・ω・):2004/04/08(木) 11:50 ID:0T4IIGvE
>>138
>>116 のつかみは、田沢と松尾だろ?

142(・ω・):2004/04/08(木) 16:19 ID:B45pO9u2
>>141
角刈りメガネと禿サザエのキャラだね。

143(・ω・):2004/04/08(木) 16:29 ID:iNHAKlLA
確かに>>116のつかみは、序盤の頃の塾内での田沢と松尾のやり取りをイメージして書きますた。
でも>>138の、武闘会の時風のつかみもイイ!
絵が頭に浮かぶwww


唖蹄風握刀(あーてぃふぁくと)

より優れた武具を求めるのは武人の性であることは、今も昔も変わらない。
それゆえ、いつの時代にも優れた職人は存在した。
中でも、前漢時代の中国にいたといわれる唖蹄(あてい)は、未だに武具職人の神として奉られている。
唖蹄は、今で言う所のオーダーメイドの形を取っており、注文者の気質や体格に合わせてベストな武器を作ることで有名であった。
そして、その武器は所持者の手によく馴染み、握りやすく、振りやすいことから、唖蹄風握刀(あていふうあくとう)と呼ばれて重宝されていた。
また、刀に限らず、注文者によっては棍棒や斧等、種類は多岐にわたっていたようだ。
その後、唖蹄の武器に惚れ込んだ南蛮の武将、彫倶経津(ぼるぐへるつ)が唖蹄に弟子入りし、
唖蹄風握刀に合わせた優秀な防具を開発するまでに至った、という話が、現在も有名な逸話として残っている。

144(・ω・):2004/04/08(木) 19:06 ID:wsaUQc6o
>>143
おい、出典が書いてないぞ( ゚Д゚)

145(・ω・):2004/04/08(木) 22:49 ID:iNHAKlLA
>>144
しまったぁ!!またやってもうたorz


民明書房刊「世界の兵器いま・むかし」より抜粋

146(・ω・):2004/04/09(金) 02:25 ID:A/aAfhlY
>>145
イ㌔
江田島編集長に殺されんなヨww

147(・ω・):2004/04/09(金) 15:23 ID:TmqCxW1g
詩宮菜 【しぐ・な】

その起源は唐の末期にまで遡る。時は大順元年、長きに渡った平和に溺れ
人々は雅を追い求めていた。特に遥か東の国、日本より採れる
季節毎に移り変わる色とりどりの希少な草花を詩人が集う宮殿に飾っており、
その植物は詩人達より「詩宮菜」と呼ばれ雅の象徴になった。
希少であるその植物故に、その価値は高騰の一途を辿り、
詩宮菜を追い求め唐の商人は僧の姿を装い、遣唐使として日本に押し寄せた。

彼等は詩宮菜と思われる草花のある地域に現れ、詩宮菜を片っ端から
刈り取る為、現地農民とのトラブルが絶えなかった。
当時の都では彼等を「耶宮奴(やぐうど)」と称し、詩宮菜の流出を禁制とした。
当時の都のお触れにはこう記されている。

『耶宮奴稀に詩宮菜を持つ故、発見次第其れを討ち奪うべし』

このお触れにより、農民による耶宮奴の乱獲が行われた。
事件はその翌年に発生する。耶宮奴と間違えられ、本物の遣唐使の僧が
農民に殺される事件が発生した。
その翌年、時の権力者、菅原道真により遣唐使の廃止が行われた。
表向きは唐の衰退・渡航の危険となっているが、この事件による
証拠を闇に葬る事が原因であることはいうまでもない。

民明書房刊 「花に魅せられし者」 より抜粋

148(・ω・):2004/04/09(金) 20:53 ID:A/aAfhlY
越愚藩闘(えっぐはんと)

江戸時代、脱藩をすることは重大な罪であった。
しかし不逞なる武士達の脱藩は減ることが無かった。
そんな脱藩の罪を犯した者達を裁いた罪が越愚藩闘である。
それを取り仕切っていたのは鳥居党(とりいとう)という公家達であった。
脱藩浪士たち全員を逃げ場の無い闘技場につめこみ、殺し合いをさせるのだ。
そして最後に生き残ったものには褒美として免罪が言い渡されるというものであった。
しかしその褒美というのは真っ赤な嘘であり、「免罪の有効期間は越愚藩闘開催中のみである」と言われ
勝ち残った者も再び脱藩浪士として牢に逆戻りであった。
これは餌を目の前にぶらさげて互いに殺し合わせ、誰一人救われることの無い恐ろしいものなのである。
多くの浪士たちがその実情に絶望し、牢の中で「鳥居党・・・鳥居党・・・」と呟きながら死んでいったという。
越愚藩闘、鳥居党・・・その名を忘れることなかれ。

          民明書房刊 「歴史に残る残虐非道」 より抜粋

149(・ω・):2004/04/10(土) 01:06 ID:DateOy1Y
トリートトリート
うはwwwwおkwwww

150(・ω・):2004/04/10(土) 15:36 ID:ioFbc.eA
不恋道(ふれんど)

陀簿意をこの目で見て思った。人の性とはいつの時代でも罪深き物である。
時螺安登が蛮族を横目に派を競っていた時代、ある女が人の男に恋をした。
しかし、膨大な魔力を持つ時螺安登人にとって只の蛮族の男など塵芥以下の存在でしか無い。
仲間は男と逢引を繰り返す女を鈴庫貝にて悪し様に罵り、隔離部屋と呼ばれる示威得無の領域に監禁した。
男はそれを知り時螺安登人に挑んだが、当然あっさりと捕らわれてしまう。
時螺安登人は言った。

  『ここに誓え、不恋道を貫くと。そうすればお主は生かして返してやろう』

男は圧倒的な力に恐れをなし、そして人の世界へと無事帰っていった。
不恋道とは愛さず、恋せず、衆道窟ですら利用できぬという強力な呪いである。

余談ではあるが、冒険者達が打簿意にて利用する修道窟はその名残の一つであり、
奥修道にある見渡す限りの乱獲場にその名残を留めている。
話が逸れた。冒険者達の間で不恋道登録が流行しているが、これは元は非常に強
力な呪いであり、当然告白に対し「不恋道からはじめましょう」などということは
きっぱりと断る以上に非道である事はあえて記すまでも無い。

民明書房刊「時螺安登風説〜遺跡を行く」より抜粋

151(・ω・):2004/04/10(土) 20:26 ID:Dky73PGQ
 トリート!! トリート!!
     人
    ( ゚ω゚)      .▼
    (━ヽ━ゝ━━●
    > >       ▲

152(・ω・):2004/04/11(日) 01:30 ID:36KEZtLM
リメンバートリート

153(・ω・):2004/04/11(日) 20:46 ID:YPcIMMGQ
うむ、だまされまいぞ!。
職人さんGJ!

154(・ω・):2004/04/18(日) 17:33 ID:RXatyMVk
age

155(・ω・):2004/04/19(月) 05:09 ID:wQ.asLDw
こんなスレがあったとは職人様GJ

コッファー乱獲とかオズ乱獲なんかもキボンヌ

156(・ω・):2004/04/19(月) 22:01 ID:iamUj2gc
AFもうあったのね・・・(´・ω・`)
重複するけど勘弁してください(´・ω・`)


亜定不悪党(あていふあくとう)

時を遡ること千七百余年、古代中国の晋の時代。
荊州小頭(今の湖北省小頭)に亜定という若者がいた。
亜定はとても親孝行な若者で、病気の母親への献身ぶりは近所でも評判であった。
その評判は王の耳にも入り、なにか褒美を取らせようとした。
そこで王はある催し物に、亜定を招待した。
その催し物は、小頭の城に隠された宝箱に天下一品の武具を入れ、それを
見つけた者に与えるというものであった。
*当時はこの催し物は「蘭香宮(らんかく)と呼ばれ、王侯貴族の遊び
として広まっていた。宮中に蘭を飾って行ったのが由来である。

亜定は城へ入り、やっとの思いで宝箱を見つける。
だが開けようとした刹那、すごい速さで駆けてきた盗賊に、宝箱の中身を
奪われてしまったのだ。
盗賊の姿は忽然と消え、亜定は駆けつけた衛兵に捕らわれてしまう。
そして蘭香宮に紛れた賊と勘違いした衛兵に、亜定はその場で切り殺されて
しまったのだ。
王は嘆き悲しみ、せめてもの償いとして亜定の墓を立て、「亜定不悪党
(亜定は悪党ではない)」の文字とともに、天下一品の武具が添えられた。
このことから、天下一品の武具のことを「亜定不悪党」というようになった。

現在でも廃墟と化した小頭城には、未だ見ぬ財宝を求めて盗賊が集まる。
その盗賊が皆、口を揃えて、
「亜定不悪党?シラネwww」
というのは、今も城をさ迷う亜定の怨霊を怖がってはいないという、
彼らの強がりなのはあまり知られていない。


民明書房刊「小頭の歴史」より抜粋

157(・ω・):2004/04/27(火) 14:49 ID:h6mSjNPU
良スレage

158(・ω・):2004/04/27(火) 18:22 ID:JZEadnnI
馬栗鼠蛇(ばりすた)

遙か昔の中国に三つの国が領土を取り合っていた。
北の国を支配する讃怒李亜(さんどりあ)南の国を支配する罵須闘苦(ばすとぅーく)
そして東の国を支配する雨韻堕守(うぃんだす)である。
彼らは毎日のように領地を奪い合い、日々多くの命が失われていった。
しかし、この事態を重くみた讃怒李亜の皇子 斗李怨(とりおん)が一つの提案をした。
「人ではなく、動物で争わせ、生き残った国に領地を広げる権利を与えよう。」
少々変わった提案であったがお互い長き戦いにより国民に恨まれている身でもあったため、
三国は早速この提案を取り入れたみた。

三国の中央に位置する中立国 寿乃(じゅの)の協力により
箆流努(へらるど)という名審判を貸し出しでもらい競技は始まった。
しかし、使用する動物を決めていなかったので三国は全く異なる動物を連れてきた。
讃怒李亜は身の締まった首の長い大きな馬を
罵須闘苦はとてつもなく大きく岩のような肌をした大蛇を
雨韻堕守は小さな栗鼠を用意した。
観戦に来ていた讃怒李亜と罵須闘苦の皇子は雨韻堕守の栗鼠をみて、
「このような小柄な小動物を闘いの場にだすなど、笑止!」
と憤慨したと言われている。
しかし結果は意外にも雨韻堕守が勝利した。なんと栗鼠の歯に猛毒を仕込んでおいたのだ。
この結果をみて二人の皇子は、
「栗鼠の歯に猛毒を仕込むなど、誠に卑怯也!」
と再び激怒し、結果、これを機会に人間同士の最終戦争へ発展してという皮肉な話であった。
だが、競技を観戦していた国民の一部が「頭を使えば栗鼠が馬や大蛇を倒すことが出来る。」
と関心を示し、彼らはこの競技を「馬栗鼠蛇」と称し、
娯楽として異種の動物を闘わせる競技が流行ったと言われ、
それがいつしか人間に変わり違う職業同士、
様々な組み合わせでチームを組んで闘う「バリスタ」となったと言われている。

なお、「窮鼠猫を噛む」ということわざはこれから来ているということは、
言うまでもない。

民明書房刊「コンフリクトルールブック〜競技の歴史〜」より抜粋

159せっかくなので作ってみた:2004/04/28(水) 04:24 ID:JyzuCpTA
辞書代わりに。

>>2   【便足羅死徒】(ぺんたすらすと)
>>5   【差別事無礼怒】(さべっじぶれいど)
>>9   【体練歩】(てれぽ)
>>11  【耶偶人】(やぐうと)
>>17  【沙武李我】(さぶりが)
>>27  【樽手有】(たるたる)
>>28  【儀呂椿】(ぎろちん)
>>29  【斧逸神具】(ふぃっしんぐ)
>>30  【出路遠】(でじょん)
>>36-37 【毛有】(けある)
>>45  【不破嵐楠】(ふわらん・くす)
>>50  【鎖歩丈夫】(さぽじょぶ)
>>54  【罪道】(ざいど)
>>84  【事得無】(じーえむ)
>>95  【壁砂数虎威杭】(へきさすとらいく)
>>97  【破輪凄辣手】(ぱわーすらっしゅ)
>>99  【田中丈夫】(たなかじょうぶ)※ごめ、読み方これでいい?
>>101 【施苦熱湯】(しぐねっと)
>>104 【棍振苦闘】(こんふりくと)
>>106 【罵煮酒】(ばにしゅ)
>>111 【魚喰】(うぉーくらい)
>>112 【大祭】(たいさい)
>>115 【文化異奉】(ぶんかいほう)
>>116 【鬼怨馬螺走】(おにおんまらそん)
>>118 【作法我】(さぽわれ)
>>120 【蓮家衣】(れんけい)
>>121 【苦堕夫】(くぅだふ)
>>127 【蔵雲怒主都来苦】(ぐらうんどすとらいく)
>>131 【魂喰餌守闘】(こんくえすと)
>>132 【梅派・梅徒】(ばいぱ・ばいと)
>>138 【膿取蛙州】(のうとりあ・す)
>>143 【唖蹄風握刀】(あーてぃふぁくと)
>>147 【詩宮菜】(しぐ・な)
>>148 【越愚藩闘】(えっぐはんと)
>>150 【不恋道】(ふれんど)
>>156 【亜定不悪党】(あていふあくとう)
>>158 【馬栗鼠蛇】(ばりすた)

160(・ω・):2004/04/28(水) 15:10 ID:/U/GYuso
>>159
激しくGJ!!!
ということでageとく

161(・ω・):2004/04/28(水) 15:31 ID:.jhaATxM
>159 GJ!!

【文化異奉】は(ぶんかいまつり)と読むのだとおもいますなのです。

162(・ω・):2004/04/28(水) 16:19 ID:uHE4UgJM
やっぱり大祭が一番ワロエルなー

そんな漏れも2つほど作品を投稿していたり・・・

163(・ω・):2004/04/28(水) 16:57 ID:cLppdP/U
麺侘(めんた)

■名詞■(古文)
指導者と同義。アドバイザー。
由来は古代中国における麺侘制度。
中華麺職人暦30年以上、総打ち麺180㌔を超える職人に、
国家が「麺侘」の称号を名乗らせることを許可し、
麺侘の称号を持った職人は公に弟子を募集することが可能となった。
麺侘は「麺と仏陀」の造語とされ、古代の文献では麺陀となっているものもある。
麺侘は店の看板に麺の一文字を架けることを許され、
簡略化されてアルファベットのMのような文字になった地方もある。
基本的には麺の道を極めんとする弟子に指導する立場の人間であったが、
完全にボランティアであり、麺侘も日によっては麺の字を掲げたり取り下げたりと
臨機応変に過ごしていた。特に、外国人の往来によって、
指導が面倒になり、麺の字を引っ込めたと書かれた文献が多い。
また、事得無(>>84参照)の代わりに人民同士の争いごとを
取り収めるよう、国家からそれとなく指導があったともされるが、
逆に人民の反発をかったのか、麺侘が事得無の代わりに活躍したとされる
文献は見つかっていない。

民明書房刊「広義苑」より抜粋

164(・ω・):2004/04/29(木) 09:27 ID:d5qIitrc
どれもすばらしい(´∀`)

離触酒は理触酒の方が
神に近づける気はする赤なワシ。

故事の理触酒回しもお願いしますw

165159:2004/04/29(木) 17:35 ID:PfCntF56
>>161
○| ̄|_
そうだ、ぶんかいまつりだ…正直すまんかった…
指摘サンクス。

166(・ω・):2004/04/30(金) 14:50 ID:AO3YqJCo
理触酒 (りふれしゅ)

仏教は、6世紀頃日本に伝来されたと言われるが、その中にも数々の流派があった。
中でも異彩を放っていたのが、頼尼摩堵(らいにまーど)という僧が祖といわれる阿柯摩(あかま)派である。
大祭(>>112)の項で少し触れたが、この流派には、独特の醸造法で作られた理触酒(りふれしゅ)と呼ばれる神酒があり、
それを持つ者はより仏に近い存在として崇められていた。
この理触酒を持つ為には過酷な修行を積む必要があったが、
取得した後も、得られる名声と共に更なる修行を必要とした点が、阿柯摩派を、数ある流派の中で異彩を放つ流派として有名にさせた。
その修行の中でも特に有名なのが「理触酒回し」と呼ばれるものである。
理触酒を習得するに至った高僧は、阿柯摩派の理触酒の力を広く伝える義務を背負い、
出会う僧達には必ず理触酒を振る舞わないといけないしきたりがあった。
現在、この理触酒の原料や醸造法については一切の文献が残っておらず、謎に包まれているが、
「理触酒回し」の修行中の高僧は、須く疲労し、やつれていったと言われている。

その後、世代交代により体制が変わり、上層部は門徒獲得の為、理触酒の技術を簡単に取得させるようにした。
その結果、修行不足の者も簡単に理触酒を取得するようになり、中には「理触酒回し」の修行を怠る者も頻発するようになってしまい、
阿柯摩派は世間から冷たい目を向けられることも多くなって、次第に廃れていったと言われている。

        民明書房刊「日本の奇祭・風習」より抜粋

167164:2004/04/30(金) 15:13 ID:e1s0XfRM
キター(・∀・)ー!
次第に廃れていったのかw
イイ(´∀`)

168(・ω・):2004/04/30(金) 15:28 ID:AO3YqJCo
乱平次(らんぺーじ)

江戸時代中期、飢饉により各地で一揆が多発していた。
中でも政府を最も苦しめた山陰地方での一揆は、公式文献からは抹消されているが、各地の伝承として根強く残っている。
その中心的人物は、木こりの平次と呼ばれる人物で、片手で伐採用の斧を振り回して暴れ回ったと言われている。
職業柄、膂力に優れていた平次は、政府の兵を一度に5人づつ斬り倒し、その姿は鬼神の如く、彼が陣頭に立つと、「乱平次が来た!」と政府軍を震え上がらせたそうだ。
彼はたちまち各地の農民達のヒーローとなり、農家の若者達は、戦いで身につけたその斧の技を彼に習いに通った。

その後、国が富むに従い農民一揆も収まり、平次はその強さを買われ、街の護衛役を経た後江戸に渡り、
その活躍は密かに伝えられ、大幅に脚色されて後の「銭形平次」のモデルになったといわれる。

また、英単語の「Rampage(ランページ:暴れる)」という単語は、一揆の際政府軍が彼を形容して発した「乱平次」という言葉が語源であるという説が有力である。

        民明書房刊「歴史の影に隠れた英雄達」より抜粋

169(・ω・):2004/04/30(金) 17:24 ID:AO3YqJCo
烈怒蝋蛇簾(れっどろーたす)

烈怒蝋蛇簾とは、古代中国において秘剣中の秘剣と呼ばれた凄まじい奥義である。
この技を極めんとする者は、まず、100kgもの鉄の棒をを自在に振り回せるほどの腕力を必要とした。
その修行を乗り越えた者の剣の振りは、剣に塗った蝋を空気との摩擦で気化させるほどの鋭さを持ち、それが発火することにより、炎を纏う剣技が放たれるのだ。

ただ、この奥義には大きな難点があった。
剣には予め蝋を塗布しておかねばならず、また、一度使用すると、剣に塗布した蝋が全て気化して燃えてしまい、再び使用することが困難になるのだ。
これを解消する為、ある者は剣の鞘の内側に蝋を塗り、中には鞘を蝋そのもので作る者も居た。
しかし、この方法では鞘に収めた時にしか蝋を付けることが出来ない為、多くの者は、掌皮(ていぴ)と呼ばれる物を使用した。
これは、豚の皮に蝋を染み込ませた手袋状の物で、これを掌に装着し、戦闘中、敵の虚をついて己の剣に蝋を塗布していた。
掌皮の蝋が剣に充分塗布できた時点で「掌皮完了!」のかけ声と共に技を放っていたそうだ。

        民明書房刊「炎を纏う武人達」より抜粋

170(・ω・):2004/04/30(金) 21:34 ID:pkaRoVyU
汁溝湖(しるどぶ・れいく)

「汁溝」、中国有数の硫黄の産地であり古代中国、戦国時代の末期秦に滅ぼされた韓の王族に連なる人々が逃げ込んだ地
彼らは秦の追求から逃れるため自分たちの集落の周りに人工の湖「汁溝湖」を作り侵入者を防いだと言われている
硫黄の産地だったため土壌は酸性を示しており湖も徐々に酸性に傾いていき盾をも溶かす汁溝湖と言われたのは
マルコ・ポーロの「東方見聞録」にも記されてるほどである

中世イギリスはバラ戦争の時代、ランカスター家の将軍が「東方見聞録」の汁溝湖の記述を読み
自分の戦斧術も盾をも破壊するようにとの願いを込めて「シルドブ・レイク」と名づけたのが始まりとされている


     民明書房刊「3歳児からの戦争史、欧州編2巻」より抜粋

171(・ω・):2004/05/01(土) 00:14 ID:Lobu.hFY
個人的には
>>106 【罵煮酒】(ばにしゅ)
が好き(´ー`)

172(・ω・):2004/05/01(土) 00:54 ID:H/0xYmRk
age

173既にその名前は使われています:2004/05/01(土) 01:17 ID:QdX/YCGE
なにこのスレ
なんでみんな中国起源になってるの?w

174(・ω・):2004/05/01(土) 03:34 ID:1Pmj1xCQ
>>173

よく見る!! 日本起源もそれなりにあるっす!

175(・ω・):2004/05/01(土) 05:29 ID:a3/mi/n6
児裸道(ジラート)

長い伝統と歴史を受け継ぐべき拳法家を選ぶ為の通過儀礼として
中国史上において公然と行われていた育児方が、その発祥とされている。
生まれてから1年目の子供を墜火出州区(ついかでしゅうく)と呼ばれる
常に火が噴出し溶岩が降り注ぐ区画に裸のまま追放し、そこから這い出た者だけを
生き残る強さがある者と認め、迎え入れたという過酷なものであった。
むろんほとんどの子供がその区画から出る事は出来ず、命を落としたとされているが
その子供たちがそれでも我が家に、家族の元へ帰ろうと這いずった後が
長い歴史とともに消える事のない「道」として
今でも墜火出州区に残っていると噂されている・・・・。

その道を「訴路(ソロ)」とも呼び、同じような悲しい歴史を繰り返さぬようにと
「人は一人(訴路)では生きていけない」という意味も含めて
戒めのため仕様されているのはいうまでもない。


また、現在においてあらゆる歴史書に登場する「タナカ」と呼ばれる人物がいる。
何千年も続く組織の総称なのか、一子相伝に受け継がれている家名なのか・・・
歴史学者の中でも議論が尽きない命題として有名ではあるが
その人物の残した「児裸道(ジラート)を増やしたので訴路(ソロ)は回避した」は
「子供を放置(児裸道)する時いくつもの区画に分けて実地すれば
同じ所を子供が這いずった跡(訴路)は出来ないだろうからやってもかまわない」とした
愚かな歴史を繰り返す発言として、あまりに有名なのは周知の事実である。

民明書房刊『世界の残酷な育児方・驚きの育児方』より

176(・ω・):2004/05/01(土) 21:29 ID:8ItkTjwg
age

177(・ω・):2004/05/01(土) 22:02 ID:jQaRHXqQ
臥璃寸(ガリスン)

最近になって、正倉院の天井裏に隠されている書物が発見された。
そこには、奈良時代以前の日本武人が必ず受けなければならなかった
集団研修のことが記されているそうだ。

内容のうち、現在まで解読できている部分を記す。
古来、弱者である悶須侘阿(もんすたあ)を野良徒党6人によって
集団虐殺する現象が各地で頻発し、日本全土が恐慌状態に陥っていた。
この窮状に、時の大和朝廷は臥璃寸(ガリスン)という研修を設け、この研修を
一定の規程を超えなければ武人として認められず、さらに晒し処分される旨を
広く伝えた。この結果、野良徒党はこれまでの弱い者苛め的な戦闘から
集団戦闘への対応を余儀なくされると共に、悶須侘阿達自らも集団対決の機会を
提供され、お互いの切磋琢磨への道を拓いたと記されている。

この書物はまだ発見されたばかりで解読が進んでいないが、先に発見された
遠征軍に関する書物と非常に似通った部分がある、とされている。
だが、あくまで遠征軍が攻撃研修であるのに対し、臥璃寸は防衛研修である点に
世間の注目は集まっており、日本史学会全体で解読作業に取り組んでいるところである。

民明書房刊『日本男児の隠された真実』より

178(・ω・):2004/05/02(日) 07:04 ID:cawbMmPg
魅素裸(ミスラ)

日本に伝わる民間伝承の多くに「猫又(ネコマタ)」という
古猫が人に化けて惑わす物の怪が存在する。
猫又の種類は様々だが、最近になって東北地方から北海道にかけて
猫又の亜種の伝承が記された古い文献が遠野のある民家で発見された。
東洋民族大学民族学部・洋蘭黄蘭博士に寄れば、魅素裸族とよばれる
尻尾と猫の耳を生やした官能的な美女の姿をした猫又が登場するという。

生息地は文献の中では火座霧と呼ばれる村などだが、中には北海道の妖怪コロボックルと共存していた一族もいる。
魅素裸の多くは種族名の通り、裸に近い格好を好み、人間の男性を惑わして虜にするなどした。
虜になった人間は、性行為の虚をついて食べられたり、虜のまま奴隷にされたという。
行商を営む者も多くおり、客寄せの為に裸に近い格好で品を並べて売っていた。
その殆どが非常に高額で、よく色香に惑わされた者が値を見ず品を購入して後悔するという話が文献に見られる。
この商方が魅素裸の元となったと思われる。

中でも文献の中に頻繁に出てくる名前を持った魅素裸がいる。

七菜 魅御
徒党を組んで貧困問わず泥棒に入り、なぜか数珠をコレクションしていた。
また洞窟に住んで人を惑わしては追いはぎ行為を行っていたと言う話もある。
遠野地方の中には、間の抜けた子猫の鳴き声が聞こえたら厳重に戸締まりをするという風習が今も残っているが、
これは七菜がやってくるという合図から来ているらしい。

著 猛威
人を惑わす術に長け、魅了した者を外敵と戦わせては身を守っていたという。
著が口伝で残した秘薬は服用した者を魅了する効果があり、これは桃太郎の吉備団子のルーツと言われている。

瀬美 裸雛
厳格な性格であったが、弓の扱いに優れており、時折狩人や武術者にその技術を授けていたという。
狩猟を生業にする者のなかには、瀬美を神仏と同等に扱い祀っている一族も存在する。

また洋蘭博士は魅素裸は実在した可能性があるとも言っている。
それは遠野の伝承にある、女性が幼い時にかかったという寄生虫病である。
今までは回虫などが原因となる病気と言われていたが、
奇妙なことにこの寄生虫病は寄生虫が尻尾のように垂れ下がっていたというのだ。
この正体不明の寄生虫に蝕まれると身体が発育して運動能力は劇的に上昇するが、
逆に知能が低下して簡単な計算も出来なくなり、さらには羞恥心がなくなっている為に
裸、若しくはそれに近い格好でうろつくため、不憫に思った村人が隔離村を作っていた。
やがて理性を完全になくした患者は猿になったということだ。

民明書房刊『世界男子の趣味4 ネコミミ娘のルーツ』より

179(・ω・):2004/05/04(火) 13:40 ID:b4YIfIbY
あげ

180(・ω・):2004/05/09(日) 02:56 ID:BK5ELo1c
保守上げ

181(・ω・):2004/05/09(日) 10:55 ID:qwWUMaYE
職人さん、アストラルリングキボンヌ

182(・ω・):2004/05/09(日) 13:11 ID:d3FpkZac
せんせー、提案です。
古代中国起源の時は音読みに統一した方がそれっぽくなると思います。

183(・ω・):2004/05/09(日) 13:15 ID:tLJP9LBk
>>182
もともとの男塾ですら統一されてなかったのに?w

184(・ω・):2004/05/09(日) 13:52 ID:wF8Z6Qo.
民明書房にケチつけるDQNがいますねwwww

男塾を1巻から読み直して来いとt(ry
こういう香具師が「呉竜府」とかみて
「ゴルフの起源はイギリスですよwwww」
とか言っちゃうんだろうな

185(・ω・):2004/05/10(月) 10:12 ID:VI8PpKH6
ネタにマジレスイクナイ

186(・ω・):2004/05/10(月) 13:14 ID:zgIymHAA
唖吸頭螺留輪具(あすとらるりんぐ)

戦闘の勝敗を決めるのはまず第一に武の力であり、それを扱う知の力である。
武力だけでも、知力だけでも敵に勝つことは難しい。
それ故古来より、知謀に長けた者は一軍に匹敵すると重用され、知の力を売り物にする者達は、さらにその力を磨くべく努力を惜しまなかった。

数々の戦略・戦術を実行するにおいて必要なのは、知識、知恵も勿論の事、それを状況に応じて臨機応変に実行し続ける為の人並み外れた精神力も必要である。
その為、乱世の続いた古代中国においては、医学の神髄とも呼べる装備品が存在している。
唖吸頭螺留輪具(あすとらるりんぐ)と呼ばれたその装備品は、内側に突起のついた輪状の鉄で出来ており、装着することによって経絡(ツボ)を刺激し、精神力を増強するという物であった。
古くは漢の高祖、劉邦に仕えた張子房、また、有名な所では三国時代の軍師、諸葛孔明なども使用していたと言われる。
これの難点はその重量にあり、全ての経絡をカバーしようと思うと、全身に鉄の塊を纏った状態になる。
このため、上記の者達は武官以上に体を鍛えてはいたが、数十キロとも言われる鉄の重量のせいで体力を著しく奪われ、周りの目にはひ弱に写っていたようだ。

        民明書房刊「炎を纏う武人達」より抜粋

187(・ω・):2004/05/10(月) 16:20 ID:yRVqzaho
明日輪 【あすりん】

江戸後期、激しくなる貧富の差に比例して金持ちからのみ金品を強奪する
義賊と呼ばれる盗賊が増えていく中、その損害に業を煮やした庄屋による
一計が用いられた。
それは西洋では一般化している磁気による血行促進を行う指輪を
安く大量に仕入れ、それをとても高価なものとして庶民に噂させ、
他の銘武具などと同じ蔵に1日1個ずつ入れておくというものであった。
義賊達は銘武具には目もくれずその指輪だけを競い合うように奪い
その事だけに満足したのである。

この指輪は入れた翌日には盗まれる事から「明日盗らる輪具(あすとらるりんぐ)」
と呼ばれ、略して「明日輪(あすりん)」と呼ばれた。
本来庶民に愛される義賊だが、盗んだ義賊はそれを競り市に出す際、
高額を付ける為、あまり庶民の支持は得られなかったという文献が残っている。

ちなみに現代社会において身体能力を競う者達を「アスリート」と呼ぶのは
庄屋が明日輪を奪い合う為に身体能力を高めた義賊達を
「明日輪取る者」と呼称した事が語源である事はいうまでも無い。

民明書房刊 『歴史上の怪盗に学ぶスポーツ医学』 より一部抜粋

188(・ω・):2004/05/10(月) 17:38 ID:zgIymHAA
>187
そっちの方が断然いい
やっぱ慌てて書くもんじゃないなぁ

189(・ω・):2004/05/11(火) 15:02 ID:xvSpc6ng
>>188
そんなことないヨ 感謝!

190(・ω・):2004/05/18(火) 17:57 ID:WZ3kB4u2
リクエストある?

191(・ω・):2004/05/18(火) 18:09 ID:mI.TLt/c
>>190
クロスカウンターorクロカンでひとつ

192(・ω・):2004/05/18(火) 20:44 ID:seYhWAoI
【黒簾缶打】(クロスカウンター)

古代中国の吉林省には飛院(ふぇいん)と呼ばれる法寺が存在し、
代々寺僧に受け継がれた武道が存在した。
その武道の特徴は相手の攻撃に対して、避けると同時に攻撃を仕掛ける事により
その効果を倍増させるという理念に基づいたものだった。
理念は至極単純だが実践するのは非常に困難を極めるこの武道の修練に関して
様々な器具が用いられた事が文献により判明している。

代表的なものの最たるは、黒い簾(すだれ)で外光を遮断した暗闇の中に設置された
缶の中に入り、外部から打撃を加え、その発生を予測するというものだった。
暗闇と打撃の恐怖と衝撃により、幾多の武僧が命を落としたとされる。
この修練により培われた能力を、その器具の形状より、
「黒簾缶打(くろすカウンター)」と呼び、それを極めた者には高い位と名誉が与えられた。

(最後のお約束は下の3つからすきなのを選んでくれ)

====
現代社会において人気のスポーツ「ボクシング」において、相手の打撃に対して
避けつつ攻撃を加える事を「クロスカウンター」と呼ぶが、この技の語源が
「黒簾缶打」であることは言うまでも無い。

民明書房刊 『100分の1秒にかけた漢達』 より一部抜粋

====
ちなみに団塊世代の児童の遊戯「缶蹴り」が、「黒簾缶打」の修行中の僧に
蹴撃を加える事に由来する事は言うまでも無い。

民明書房刊 『団塊世代の生命力の根源』 より一部抜粋

193(・ω・):2004/05/18(火) 21:37 ID:Lpnpv41o
>>190
ボーパルブレード と グラウンドストライク あたりを頼む

194(・ω・):2004/05/19(水) 09:01 ID:LSLFc/IA
餡低価(あんてぃか)

現在は流砂洞と呼ばれている場所はガルカの都だった
そこに「アンティカ」と呼ばれる獣人が攻めてきた
と言うのがヴァナの正史である
しかし実際は改竄隠蔽されているのである

あの場所はガルカの和菓子職人街でたくさんの職人が住んでいた
しかし突然異形の獣人が大量の安価な餡子を売り始めた
餡の値段は暴落ガルカの和菓子職人は生活できなくなりバストゥークに逃げ込んだ
逃げるときに「餡低価!餡低価」と叫んでいたことから
この獣人の名前が「餡低価」=「アンティカ」になったのは有名な話である


民明書房刊 『ボブとマイクにも判るヴァナの闇歴史』 より一部抜粋

195(・ω・):2004/05/19(水) 10:24 ID:eqOQrVRE
>>192
3つと言っておいて、2つしか選択肢がないのはこの板の仕様ですか?

196(・ω・):2004/05/19(水) 13:01 ID:Tm0GWHb2
>195
本当は3番目に「カンカン娘」の語源は〜言うまでも無いを作ったけど
面白くなったので没にした跡だと思ってくれぃ。

【防破流武礼道】(ボーパルブレード)

武道の研鑚において他の追随を許さない中国は古来より
攻撃における防御の崩しを追い求める流派が数多く存在した。
中でも有名な流派は「防破流」とされており、目では追えないほどの
連撃により、相手の防御を切り崩すと言うものであった。

一派の鍛錬施設においては己の剣戟の速度を見せ合う事により
切磋琢磨させる風習として相手の目の前で剣を3回振り下し、
その速度を見せ合うというものが発生し、次第にお互いの挨拶として
根付いていった。
これが後の世に言う「防破流武礼道(ぼーぱるぶれーど)」である。
単なる儀礼の技と思われがちなこの技は防破流の基本が凝縮されており、
防破流の達人の防破流武礼道は一閃にして対象を三倍の破壊力で
粉砕したという文献が残っている。

ちなみに闘魂で有名なアントニオ猪木の「ボンバイエ」と「1,2,3 ダー」は
この防破流武礼道の名称と入門徒の練習に用いられた掛け声に
そのルーツがある事は言うまでも無い。

民明書房刊 『数字から学ぶ歴史学』 より一部抜粋

197(・ω・):2004/05/20(木) 12:05 ID:h72pZZqU
【愚乱雲童巣虎育】(ぐらうんど・すとらいく)

いつの時代にも手の付けられない子供は存在した。中国もその例に漏れず
隋の時代末期、西安(現在の長安)では、裕福な家庭に育った子供が
街中で我が物顔で悪行を行っていた。町人は彼等を「愚乱雲童(ぐらうんどう)」と
呼び忌みつつも手が出せないもどかしさに辟易していた。

その対策として隋の役人は西方はインドより「グ・ンバ」という僧を招き、
その知恵を授かった。グ・ンバは町に下りると、愚乱雲童たちの間に
このような噂を立てた。
「人を殴る時、より後に殴ったほうが優雅で徳が溜まる」と。

町人は、なんて事を言うのだ!とグ・ンバを批難したが、効果はすぐに現れた。
愚乱雲童たちはより後に殴ろうと躍起になり、最初に殴りかかる事を
躊躇する人が出始めたのだ。さらに追い討ちをかけるようにグ・ンバは言った。
「郊外に巣くう最も大きな虎を退治した者には
 マハラジャ(インドの藩王)の位を授ける」と。

愚乱雲童たちは色めき立ち一斉に郊外の虎と戦闘を開始し、
幾多もの死者を出し、愚乱雲童の数は減少の一途を辿ったばかりか、
愚乱雲童なんてやってられないと更生する者が出てきた。
隋の役人はその効果に感嘆し、
グ・ンバに「愚乱雲童巣虎育(ぐらうんどすとらいく)」の名誉を授け、
以後、悪童の更生に貢献した者にも同様の位を与えていった。
中には授賞式で喜びのあまり7尺の高さにまで跳躍した者も居たという。

なお、体育教師が指示に従わない者に対して行う体罰「グランド1周!」は、
「愚乱雲童一蹴!」がその語源である事は言うまでも無い。

民明書房刊 『レミングスの駆除にかけた農民』 より一部抜粋

198(・ω・):2004/05/20(木) 23:13 ID:FX0Sy5IQ
>>196-197
GJ! (・ω・)b

199(・ω・):2004/05/27(木) 11:01 ID:rTslrpX6
age

200(・ω・):2004/05/28(金) 02:50 ID:FY0y50DQ
ボーパルブレードって4回攻撃じゃなかったっけ?

201(・ω・):2004/05/28(金) 13:57 ID:rBT3C6HQ
>127 >197 両方グラウンドストライクを扱ってるけど
両方とも長安が舞台なのがワロタ。

202(・ω・):2004/05/28(金) 16:06 ID:QsOW3t8I
作法我がとても好きだ

203(・ω・):2004/05/28(金) 17:06 ID:BClUcXrI
>>200
そうだね。
3回攻撃はスウィフトブレード。

204(・ω・):2004/05/31(月) 19:31 ID:e46stM5g
保守上げ

205(・ω・):2004/06/12(土) 03:07 ID:AdxGHO7w
保守上げ

206(・ω・):2004/06/12(土) 19:48 ID:YVY4rIak
良スレのヤカン。

207(・ω・):2004/06/18(金) 22:47 ID:63H7yMQU
ほっしゅ

208(・ω・):2004/06/24(木) 08:35 ID:4ZAYL0jc
長いけど投稿してみる。つまらなくても石投げないで('A`)

----------
久里尼印度(くりあまいんど)

 三蔵法師・玄奘の生きた、唐の太宗皇帝時代のとある歴史書は、異聞として若かりし日の
玄奘が大変な放蕩者であり、天竺(印度)には行ったが、唐には戻らなかったと伝えている。

 修行僧の玄奘は、法力が尽きても座禅を組まず、自ら仕込んだ夜具酒を鯨飲し、女の尻を
追い掛け回すのを日課としていた。そのくせ、法力は寺の高僧をもしのぐほどであったという。
 対応に苦慮した僧たちは一計を案じ、「天竺の麗しき姫君が高僧を婿に探している」という
うわさを広めた。考えれば拙い嘘だが、真偽を確かめる術のない当時、姫君に目が眩んだ
玄奘は修行に出ると告げ、早々に寺を去ったのである。

 当時の唐は、隋が滅んでから日も浅く、野盗賊や追いはぎが蔓延っていた。玄奘も例外
ではなく、最初のうちこそ派手な法力で野盗を追い払っていたが、幾度とない戦いで夜具酒も
底をつき、精根尽き果ててしまった。一歩も動けなくなった玄奘は、死を覚悟して初めて身を
正し、座禅を組んで仏に祈ったのである。
 起こるべくして起きた奇跡だが、玄奘の法力はすっかり回復し、仏への信心を日に日に高めた
という。仕舞ったままだった経典もすべて読破し、立派な僧として成長を遂げていった。

 そんな玄奘が天竺についたとき、二度目の奇跡が起こった。なんと、天竺には本当に麗しき
姫君がおり、信心深い高僧を婿にと探していたのである。すでに当初の目的など忘れていた
玄奘だが、唐から来た立派な僧の話が広まるや、姫君の方が捨て置かず、玄奘を見初めて
国を挙げての婚礼の儀となったという。
 ふたりは、世の人が「永」遠に「栄」え「富」めることを願い、仏舎利で清めた白装束を一生
身に纏って過ごしたという。ちなみに、「おしゃれさん」とは、ふたりの装束を「お舎利さん」と
民衆が褒め称えた故事に由来することは言うまでもない。

 その後、印度までの久里の道のりをものともせずに結ばれた愛の話は、若干美化されて
唐にも伝わり、座禅こそ僧侶の基本として、「久里尼印度」の名で語り継がれることになった。

 なお、己の「永・栄・富」のみを求める還暦女丈夫を、一般に「趣味が高じた廃人」と蔑むが、
本来は「仏典世界の中心である須弥山が、どれだけ高かろうとも這いつくばって進む人」を
褒める言葉である。正しき言葉が正しく伝わらないところが、廃人の廃人たる所以なのであろう。

                            (民明書房刊 『艶姿阿弥陀娘』より一部抜粋)

209(・ω・):2004/06/25(金) 09:49 ID:qCZgzeTk
>208
キタ━━━(・∀・)━━━!!

さりげなく有名人を絡めたり、無駄にスケールのでかい話な所が
民明っぽくてイイヨーイイヨー

210(・ω・):2004/06/26(土) 11:11 ID:JbUHNZwA
保守&もうすぐ落ちるスレからピックアップ。

60超えでイレース持ってない白ってアフォですか?
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/game/6493/1086071335/217

217 名前: (・ω・) 投稿日: 2004/06/17(木) 18:30 [ wNQBYNZw ]

>>214
正直、ループでもしないとイレースだけで会話ってのもね・・・
前「ファランクス」ってスレが立って、何事も無く消えたのに
このスレは意外と伸びるね。

胃励酢(いれーす)

古代中国は周の時代、周王の長き世を守る為、
医食同源を極めんと日夜切磋する宮廷厨師達の間で
あらゆる体の不調を治す為には、あらゆる料理を食する必要があり、
その為にはあらゆる料理を胃に溜めても胃を壊さない
理想の霊薬の開発が行われた。
その霊薬は北方(モンゴル)の羊の母乳を発酵したもので、
名を「胃励酢(いれーす)」という。飲めばたちどころに胃に活力が戻り、
いかなる食薬をも胃に流し込めるようになるという。
この霊薬、北方から取り寄せる為、非常に高値で取引され、
一部の裕福な人しか飲めず、庶民の不満は募る一方で
役人の胃はかなり荒れていたという文献が残っている。

現代社会において胃薬のキャッチフレーズである
「胃でスーッと効く」という語句は、「胃励酢」が語源である事は
いうまでも無い。

民明書房刊 『新白魔法はガスター(II〜X)』 より一部抜粋

211(・ω・):2004/07/15(木) 03:54 ID:JbgH9FO6
保守age&自分じゃうまく書けんのでネタ投下

ホーバージョンorホーバーク
マネキン

あと知名なんかもキボン

212(・ω・):2004/07/15(木) 19:07 ID:X3kScvSU
真似緊(まねきん)

時は江戸、当時の武士の修行法に、一風変わった物があった。
真似緊(まねきん)と呼ばれるその修行法は、座禅よりヒントを得た物で、
達人の型を習い習得すべく、同じ構えの姿勢を取ったまま一昼夜を過ごすという過酷な物であった。
修行者はその間、微動だにせず、食事も水も絶った。

江戸中期になると、長らく続いた平和によって武士の生活も赤貧を極めることが多くなり、
呉服屋等へ出向き、この修行をしながらその店の服を着て店の前に一日立って報酬を貰う、という武士も目立つようになっていた。

このエピソードは、当時鎖国中の日本で貿易を続けていた元(中国)へと伝わり、マルコ・ポーロの耳に入り、
彼の残した「東方見聞録」の当時の文献には、「黄金の国・ジパング」の名と共にこのエピソードが刻まれていたという。

お金の事を表す「money(マネー)」という言葉が、実はこの真似緊から来ているという説に関しては未だ物議を醸し出しているが、
模倣するという意味で、「真似」という一風変わった読みの言葉を当てているのは、この真似緊が元になっていると言うことは言うまでもない。

213(・ω・):2004/07/15(木) 19:11 ID:X3kScvSU
後に、これを元に、人間そっくりの人形を作成して服の展示をする「マネキン」が生み出され、現在に伝えられている。

        民明書房刊「人形たちのルーツを辿る」より抜粋

214(・ω・):2004/07/15(木) 19:51 ID:X3kScvSU
ホーバージョン、ホーバーク

中国は宋の時代、法馬序(ほうばじょ)と、法馬駒(ほうばく)という武芸に秀でた兄弟が居た。
二人はけして仲のいい兄弟ではなかった、
北方の異民族である遼との戦いで争って戦果を上げ、着々と階級を上げて行き、いつしかお互い軍を任せられる立場にまでなっていた。

ここで、弟である法馬序は、兄の軍に差を付けてやろうと思い、自分の軍の為に専用の鎧を開発させた。
攻撃のしやすさに重点をおいて開発されたその鎧は、法馬序の軍を大幅に強化し、戦果の差も明らかになっていた。
弟に先んじられて面白くない思いをしていた兄の法馬駒は、法馬序の軍の鎧を徹底的に研究させ、それをさらに強化した鎧を開発し、自分の軍に着せた。
しかし、比較的経験の浅い兵にも扱えるように開発された法馬序の鎧に比べ、法馬駒の鎧は、性能を求めすぎて、より熟練した兵にしか扱えない物となってしまっていた。

ここから、二人の悲劇は始まる。
鎧の開発に多大な資金を投入してしまった二人は、次の戦で兵糧の確保を満足に行うことが出来ず、
兵士達は空腹でまともに動けず、敵軍の攻撃をまともに避けることが出来ずにバタバタとやられ、ついには全滅してしまった。
このとき、ある兵士が発した「腹が減っては戦が出来ぬ」という言葉は有名すぎてもはや語るには及ばない。

この2人の軍が着ていた鎧は、戦場から盗賊が剥いで持ち帰り、市場に流された。
それがいつしか西洋に渡り、二人の名前を取って「ホーバージョン」「ホーバーク」と呼ばれ、その性能と希少価値から現在高値で取引されている。

また、同じ物の型違いという意味を表す「バージョン」という言葉は、法馬序の下の名前が語源になっている事は余りにも有名である。

        民明書房刊「中国武具大全」より抜粋

215211:2004/07/16(金) 00:06 ID:NFk3JZIM
>>212-214
サンクス!

自分にツッコミ
×知名
○地名
あおおおーーっ(AAry

216(・ω・):2004/07/16(金) 01:30 ID:qNoOX86I
その昔、百済の国で名を轟かせた拳法家の1人である峰鼓(ぽうこ)は
敬謙な仏教徒でもあった。
ある歌人が「貴殿の強さの秘訣は?」とたずねたところ
峰鼓はこう答えたとされている。
「日々体を鍛え、印を結び座禅をしただけです」
歌人は峰鼓の謙虚な姿勢と人柄に心酔し
次のような歌を詠んだ。
「峰鼓鍛印下雄」
(訳:峰鼓のように体を鍛え印を結び禅を組むことで真の雄々しさを得る)
この歌はその後、真の強さを目指す拳法家たちに教訓として広まった。
現在の日本でも強さを目指す男たちの間で
「ぽこたんいんしたお」
と合言葉になっているのはあまりにも有名な話である。

民明書房刊 「詠むだけで強くなれる名歌最新版」より抜粋

217(・ω・):2004/07/16(金) 02:07 ID:7c/U50oQ
age

218(・ω・):2004/07/16(金) 04:09 ID:0XA1q8S.
ぽこたんハゲワラw

219(・ω・):2004/07/16(金) 05:40 ID:2Z9Lzly.
>216

引用したものは引用って書こうよ……。

220(・ω・):2004/07/16(金) 20:40 ID:xRArgLkU
派我阿(パワー)

ガルカ共通の雄叫び「パワー」
とある白/戦ガルカが発祥、という話は有名だが、
本来の発祥は古代中国であるという事は、あまり知られていない。

古来より雄叫びは、己の内に秘める力を最大限に発揮したい時に使用されていた。
古代中国の武闘家・我阿は、大切な一戦の際に雄叫びを使用し、
全ての戦いに勝利してきたという。
中でも圧巻なのは、馬侘吏亜で行われた
宿敵・荏備との戦いの際に使用された雄叫びである。
その声は馬侘吏亜はおろか、中国全土に広がるほどだと言われている。
後に我阿が興した流派が我阿派と呼ばれており、これが派我阿の語源になったという説がある。

優秀な人間の行動を模すという行為は、現代日本にも意外な形で受け継がれている。
ガッツ石松の行動を模した「ガッツポーズ」は、あまりにも有名。

民明書房刊「魂の叫び」より抜粋

221(・ω・):2004/08/12(木) 07:17 ID:mBgNNwkw
有波桶ww (うはおけ)

今回の「家宝探訪」では、かの有名な武芸の名門内藤家に古来より伝わる家宝
「有波桶ww」を紹介しよう。

この一見ふるぼけた桶の由来を語るには、初代内藤左保の軌跡を紹介せねばな
るまい。

当時の合戦では鎖鎧を装備するのが普通であったが、貧乏武家に生まれた左保
は、いつまでも皮鎧かもしくはそれに簡素な鱗板を下げただけの鱗鎧を使わざ
るをえなかった。そればかりか、防御の要ともいえる盾すら装備できなかった
のだ。当然のことながら片手持ちできる流麗で軽い刀など持てるはずもなく、
見栄を張って実用に耐えないほど巨大な剣を背負っていたという。

コンプレックスを抱いた左保は、単身中国に渡り数々の武芸を研究する。帰国
した左保は、ある修練方法を考案した。桶に水を張り、運ぶ、回す、持ち上げ
るなどの動作を、水面に波を立てずに行うのだ。波が立ってしまった場合は
「有波桶ww」と大声で叫ばねばならない。特別な道具も必要なく、適度な羞恥
心さえあれば誰でも上達できるというまさに画期的で驚くべき修行法である。

なお、酔拳と剣技を巧みに組み合わせて編みだされた奥儀「波割棲乱酒(ぱわ
すらしゅ)」の華麗さと破壊力は抜群で、桶に張った水を割るほどであるとい
う。しかし、この技は泥酔状態でしか繰り出せないため命中率が低く、伝説の
憑技と呼ばれているのはあまりにも有名な話である。

近年では、噴螺酒(ふらっしゅ)(>>106)を使うため泥酔しなくなり、滅多に見
ることはない。「有波桶ww」と大声を出すのに抵抗感どころか快感を覚える若
者も増えたらしく、当主は技術の低下を嘆いている。

取材後記:

取材に協力して頂いた三十二代内藤左保氏は、燐くような白い歯でいつも笑顔
を絶やさない素敵な方でした。取材中もときおり道場方面から聞こえる「有波
桶ww」「有波桶ww」が印象に残っています。

民明書房刊「週刊 ワールド=トレジャリー 2003年13号」より抜粋

222(・ω・):2004/08/28(土) 12:18 ID:wzOsBf5w
FFとは直接関係ないが、民明書房刊の本が9月頭に発売されるらしい
ということで期待age

223(・ω・):2004/09/03(金) 13:40 ID:TqSLdWc2
民明書房大全発売記念age
ttp://www.s-manga.net/comics/cm_20040903_sj_jcd_408859469X_minmeishoboutaizen.html

224(・ω・):2004/09/04(土) 14:17 ID:owhj0tSw
サチコメ・バザコメスレで見かけたのワラタので転載

256 名前: (・ω・) 投稿日: 2004/08/26(木) 13:06 [ BtK0qw6o ]

こないだ暇つぶしにサチコ漁りしてたときに見つけたサチコ。

婚募【コンボ】: 世界最強の格闘家と
名高いガルカが編み出した、求婚の舞。
      民明書房刊『岩』より

225(・ω・):2004/09/10(金) 14:55 ID:HCgKiSWs
>>224
ヤバイフイタ

226(・ω・):2004/09/13(月) 13:30 ID:4gqF66wI
痛流派師(つるはし)

その昔いまだ鉱山が開拓されていなかったころ、猛獣、魑魅魍魎が山師を脅かし負傷者は続出していた。
されども刀、槍などが手元にあるわけもなく、山師たちは日ごろ自らが振るい続けている採掘道具によってのみその身を守ってきた。
その護身技術は親方から弟子へ、山師から山師へと受け継がれ、洗練し、ついにはあらゆる魔物とも対等に戦える高みまで上り詰めた。
その道で有名となったのは道具を鋳造する具師(ぐし)の玄(げん)という男であり、自ら鋳造した採掘用の特殊な形状の斧をもって、上奔(うぇほん)と呼ばれる魔物を一昼夜に及ぶ死闘によって滅殺したという。
残念ながら玄は鉱山の事故によりその命を落とすこととなったが、彼の最後の仕事場であった鉱山を、彼の勇士を残すため具師、玄と呼び、彼の鋳造した形状の斧を、痛みを与える流派の意の痛流派師(つるはし)と名づけた。
現在も玄を初めとする勇名は猛獣、魔物に知れ渡っているようで、つるはしを担いだ男の姿を見ると恐れをなして遠巻きに見るのみだ。

余談ではあるが、彼のライバルであり、戦友でもあった男の開発した斧を魔挫狩(まさかり)と呼ぶのも同様の故事を持つ。

民明書房発行「奥様必見!今月の家庭器具100選」より抜粋

227(・ω・):2004/09/17(金) 14:53 ID:4zF/Yc62
>>226

GJ

228(・ω・):2004/09/29(水) 12:26 ID:hf63F6BA
「これより、武炉魔死亜密死怨を執り行う!」

「武炉魔死亜密死怨?なんじゃぁ、そりゃぁ。」
「なんだかまた悪い予感がするのぅ」

武炉魔死亜密死怨(ぷろましあみっしょん)

武炉魔死亜密死怨とは、6人12人18人と志を同じくする者同士が組をくみ、武炉魅盆(プロミヴォン)と呼ばれる大岩をくりぬいて作られた迷宮を踏破するものである!
途中、鵜津炉(うつろ)という独自進化を遂げた怪生物が行く手を阻む。
また、上層へ通じる洞穴には、そこに好んで巣を作る女守霊勢負多来(メモリーレセプタクル)と呼ばれる巨大な蜂の巣と、巣盗霊(ストレイ)と言われる蜂が邪魔をする。
そこは武勇にモノを言わせ、知恵と勇気で突破するもよし、他人にけしかけて漁夫の利を得るのもよし!
頂上までたどり着いたものを待ち受けるは美異死異(びーしー)と呼ばれる巨大な闘技場。
怪生物の長を倒し、見事その証を持ち帰ったものに踏破者の称号を授けよう!

「そうはいっても怪生物だろ?なんか毒とか墨とか吐いてきそうじゃのぅ」
「そうよのう、どうしたもんかのう?」

「なお踏破者には副賞として先着順に、楽園!ルフェーゼ野2泊3日の旅がプレゼントされる。
「なんと!ルフェーゼ野に行けるというのか!」
「知っているのか雷電!」
「うむ。ルフェーゼ野とは(ry」

民明書房刊「男塾生ウルトラクイズ2004 ルフェーゼ野に行きたいか!」より抜粋

229(・ω・):2004/09/30(木) 16:15 ID:bGMjfWNQ
>228 GJ ('▽')b=b

それにしても、田沢と松尾の悪い予感だけは当たりやがる_| ̄|○

230(・ω・):2004/10/08(金) 01:08 ID:qWvsyABA
保守www

231(・ω・):2004/10/08(金) 15:56 ID:rh.jLJJk
Gobrin Ambusherはゴブリンラッシュの構え!

雷電:む!あの構えは!
竜騎:知っているのかRaiden!
雷電:うむ、あれは……

護武凛乱手(ごぶりんらっしゅ)

中国は三国時代、その一国、呉の国に凛という水軍武将がいた。
身の丈は4尺半(140cmほど)背筋も丸く顔ものっぺりとして鬚も薄く、どう見ても武芸者には見えない容姿をしていた。
実際武道場で剣をとって打ち合えば、下っ端の足軽にも遅れを取る始末。

ある日、武術大会が開催された。水軍の盛んな呉のこと、今回は船上での大会と相成った。
そして凛が出場の届けを出すと、集まった屈強な武将たちは何を愚かなと、大なり小なり侮蔑の視線を送っていた。

だが彼は船の上ではいかなる武将にも負けることはなかった。
彼と相対した武将は、嵐の上の木の葉のごとく翻弄される足場でも平然と歩を進め、繰り出す刃を潜り抜けた彼の、独自の無手による乱打を受けて車田正美のごとく激しく吹き飛ばされた。
当然奥行きに幅のある船上のこと、吹き飛ばされた武将は船から投げ出され、水に落ちることとなった。

水に落とされた者は皆、
「俺は負けたわけじゃない、水に落とされただけだ!」
と声高に主張していたが、試合が続行不可能と判断され、凛はついに優勝した。

試合後謁見した凛に、君主が
「なぜ武器も使わず、相手を突き落とすだけなんだ?船上のみとはいえ、懐まで飛び込めるのだから突き落とさずに武器を用いれば勝ち負けもはっきりしただろうに?」
との問いに、
「私は勝ったわけではありません。この凛は自らの身を守れるだけの武芸があればよいのです」
と答えたという。
その後、他国との戦争においても、船上で相手を突き落とす凛の手際をみて
「護武凛乱手おそるべし」
と各国の水軍の将がうわさしたという。

現在でも相手を追い込む連打のことをラッシュというが、これの語源が凛の乱手であることは言うまでもない。

民明書房刊「闘利備亜(トリビア)の泉 第2巻」より抜粋

232(・ω・):2004/10/22(金) 09:23 ID:nkbZI7Cg
保守である!

233(・ω・):2004/10/22(金) 12:00 ID:pRMnRhIo
前、どこかのスレでストークの民明書房なカキコがあったなぁ。
あれ、何処だかわかる人いません?

確か、出典が「僕も帰ろ、クロ巣に帰ろ。でんでんでんぐり返ってバイバイバイ」
みたいな名前だったと記憶してます。

234(・ω・):2004/10/22(金) 13:07 ID:2.PI0oEM
このスレ見て、数ヶ月前に組んだ詩人が

「民明書房 第二拾五巻 魔道士の罵羅亜怒」
「民明書房 第五十壱巻 剣豪之魔怒痢我流」

っていうマクロで歌ってたの思い出した

235(・ω・):2004/10/22(金) 13:20 ID:2.PI0oEM
あと

>雷電:む!あの構えは!
>竜騎:知っているのかRaiden!
>雷電:うむ、あれは……

>護武凛乱手(ごぶりんらっしゅ)

この流れで吹いた

236(・ω・):2004/10/22(金) 15:21 ID:UtSiea9I
('A`)<わしが男塾塾長江田島ヒロシです……。
('A`)<民明書房FF編のまとめページば作りたかとです……。
('A`)<前の雑談板のログ持ってる方探してるとです……。
('A`)<ヒロシです……。

237(・ω・):2004/10/22(金) 18:41 ID:2.PI0oEM
ごめん、スレ読み直したけどさ
民明書房の本の題名ってさ全部平仮名と漢字じゃないの?

そう思うと最後に片仮名で書いてある題名ネタで冷める

ウルトラクイズも「宇瑠寅苦異事(うるとらくいず)」
とかルフェ―ゼも「屡不壊是(るふぇえぜ)」とか。

とおもた

238(・ω・):2004/10/22(金) 18:51 ID:d9.Ai7kM
職人様、けもりんで考えてくれw
シナリオ的には、古代中国、桂蒙林という僧が主人公でこいつは、元は大変慈悲深く
また大の動物愛好家みたいな感じでw最後は破滅っぽい終わりで。
 自分じゃそれらしく書けませんorz

最近専ら獣上げてる70才w

239(・ω・):2004/10/22(金) 18:52 ID:9ZAOfdNA
素可便事(すかべんじ)

遥か昔、コロボックルと共存することを望まなかった魅素裸族は
得瑠霜地方の火座霧近辺で、狩猟によって暮らしていた。
当時の魅素裸族の集落には厠というものが無く、便は穴を掘ってそれに向かって行い、
その後土で埋めるというだけの簡易なものであった。


ある魅素裸の狩りが終わりに差し掛かった際の出来事であった。
矢を使いきった魅素裸が、一匹の魔巣多亜苦有流に狙われていることも知らず
便意を催し穴を掘った。すると穴から腐った矢筒を発見した。
穴を掘った隙を狙い、その刹那、魔巣多亜苦有流が飛び掛ったが
その魅素裸は、穴から見つけた矢筒によって、命の危機を回避した。

後々、この話は教訓として各地の狩人達に伝わり、
常に素可便事を絶やさない狩人が良き狩人とされた。
今でも狩人達が集う素例には、天触令にこの教訓が記されている。

民明書房刊「狩人心得第四巻」より抜粋



初めてなので民明っぽくできなくてすいませぬ。漫喫で男塾読んできます。
あとシモ入ったのと、>>178さん多くの引用すいません。

240(・ω・):2004/10/22(金) 19:56 ID:KecYKCag
>ごめん、スレ読み直したけどさ
>民明書房の本の題名ってさ全部平仮名と漢字じゃないの?
>そう思うと最後に片仮名で書いてある題名ネタで冷める

そんなことないぞ、ちゃんと全館読破してから言え。
カタカナは結構使われている。
人が作ったものを勝手な思い込みで冷めるいうお前さんの態度に俺は冷めるよ。

241(・ω・):2004/10/23(土) 08:59 ID:Fpf72Xe.
>>237
民明書房大全を買って100万回音読して来い

242(・ω・):2004/10/23(土) 13:34 ID:LrIQdT2k
>>234
それ貰った(−−)

243(・ω・):2004/11/09(火) 00:32 ID:gMMUq.F6
保守

244(・ω・):2004/11/09(火) 01:34 ID:AyBEbUMs
卦喪臨(けもりん)

はるか昔、三国時代に歴史に記されぬ仙人がいた、名は禰斗無人(でいとむんと)
禰斗無人は八卦に通じ、その流れをもって
獣や鳥、はては人間までも思うがまま操ることができる仙術を会得していた
そこに目をつけたのが呉の席官である玖曾汰流(クソタル)である
玖曾は禰斗無人に懇願しその仙術の教えを請い、10年の月日をかけ、人を操る術を会得した
術を会得した玖曾は慕無(ぼむ)という下級兵士を操り、呉王である孫権を暗殺しようとした
しかしその試みは失敗に終わる、玖曾の術は完全では無かったのだ
不完全な術で慕無は正気を失い、玖曾に渡された爆薬を玖曾の目の前で爆発させてしまい、玖曾は焼け死ぬ結果に終わる
それを目にした禰斗無人は笑い、こう言ったとされている
卦ナルハ喪ヲモッテ臨ムベシ(人間ごときが八卦の流れにふれようとするならば己が死を覚悟するは当然)
人を呪わば穴二つということだ
卦喪臨とは禰斗無人の残した格言である、歴史に記されぬのは孫権に対する暗殺未遂と配下の裏切りという不名誉からであるが
人々は玖曾の行いを愚かとし、今でも卦喪臨という格言を子に孫に伝えていっているのである


民明書房刊「歴史に記されぬ変人愚人」より抜粋

245(・ω・):2004/11/09(火) 23:40 ID:AyBEbUMs
うはwww要望あったから考えてレスつけたけど反応Neeeeeeeee
このスレ過疎杉w俺恥ずかし杉wwwwwwww

246(・ω・):2004/11/10(水) 04:48 ID:7QFI3Y/E
イ㌔

247(・ω・):2004/11/10(水) 08:56 ID:EEVTuyUQ
>>245
すまん、読んではいたけどレスつけるの忘れてた。
サボリーマンなので・・(書類>報告>書類の連携を食らってました)

遅まきながらGJ。
職人さん乙です。

248(・ω・):2004/11/10(水) 09:40 ID:fZTcZ10g
甲斐薬(かいやく)

これはかつて武田信玄が用いたという秘薬である.
それを生み出したのは武田忍軍の首領,風魔の飛加藤とされている.
永禄九年(1566年)のこと,信玄の治める甲斐でとある疫病が猛威を振るった.
疫病の名は腐穴病(ぶあなびょう)といい,脳が夢を見続ける状態のまま目覚めなくなり
最後には永遠の眠りにつくという恐ろしい病である.
しかし当時,信玄は長野業盛との戦いで西上野へ侵攻し白井城,上野箕輪城を攻めている最中であり
軽々しく撤退するわけにはいかなかった.
そこで風魔の飛加藤は秘伝の秘薬を調合し,ひとつの丸薬を作り出した.
どんなに重度の腐穴病患者であっても瞬く間に目を覚まし現実に戻る,強力な気付け薬である.
疫病は秘薬の効能で瞬く間に駆逐され,長野業盛との戦いに勝利することができた.
人々はこの秘薬を甲斐が生んだ奇跡とし,甲斐薬と呼び大いに祝い喜んだとされている.
なお,腐穴病はこの時ほろんだとされているが,近年再び発症した患者が現れたという噂が流れている.
甲斐薬の偉大な効能を多くの腐穴病患者が求める日がくるのかもしれない.


民明書房刊「世界奇病大全」より抜粋

249(・ω・):2004/11/10(水) 11:21 ID:RzrWZD/M
>>244 >248

【よくやった!】

250(・ω・):2004/11/11(木) 18:09 ID:kyW4Vzgo
今週発売されているスーパージャンプに民明書房の主宰者の物語が載ってるよ

251(・ω・):2004/11/13(土) 07:44 ID:PWKVa.so
「寝戦地」

 時は戦国。この時代に兵の訓練方法として一部で採用されたのが、兵闘である。
 兵闘は、実戦形式の模擬戦であるが、剛勇と知られる武将を、一人が注意を引きつけ、
背後から弓矢などで討ち取ることを、想定している点が特徴的である。

 あるとき、一人の内藤弘道という武将が、引きつけ役を命じられた。通常は、大きな声で敵将を
罵倒し、あるいは雄叫びを上げるなどして、注意をひきつけるものであるが、内藤は生まれつき、
声が小さかった。
 そこで彼は敵将を引きつける為、訓練の相手の眼前でいきなり、寝て見せたのだ。訓練相手は、
訓練であるとわかりながら、その態度に激昂し、彼に向かっていき、この策は大成功と思われた。

 ところが、いざ戦になってみると、目標とする敵将以外の怒りも買ってしまい、内藤は、
あっという間に殺されてしまった。
 もちろん、鎧の下に鎖帷子をさらに着込むなどして、多少の攻撃には耐えるよう備えていたが、
役には立つわけもなかった。

 これを見た味方は、戦の後に兵闘の注意書に一文を付け加えた。
 「寝戦地、是死也」(せんちねる、これしなり)

 なお、この兵闘(へいとう)の有様が、遠く英語のHate(人を嫌う意)の語源となったわけ
ではないことは、賢明なる読者の推察するとおりである。

 曙蓬莱新聞社刊 「布団がふっとんでも」 第三章 死ぬまで寝よう から抜粋

252(・ω・):2004/11/22(月) 12:46 ID:98kNFKdM
久しぶりにネタでも作って見た

蜘蛛は死括留簾辣首の構え
蜘蛛の死括留簾辣首! → 内藤は880のダメージ!

内藤:ぐあぁっ!(ブシュゥゥ!!)
垢魔:あの技は死括留簾辣首!よもや使える者が居るとは。
痛風:知っているのか!赤魔!?
垢魔:聞いた事はある、まさかこの目で見ることがあるとは・・・

┌─[ 死括留簾辣首【しっくる・すらっしゅ】 ]────────────────────────

│古代中国において数多くの暴君が生まれては消えていった、同時に数多の拷問装置も生まれては消えていった。
│唐の末期、混乱を極めた各地の中で、数多くの領主が行った処刑法の一つが『死括留簾辣首』である。
│その名の通り、棘のある簾(すだれ)で罪人を縛り苦痛を与え、首を括り死に至らしめる残虐なものであった。
│その痛みは想像を絶し、もがき苦しむ者も居ればショックで即死するものも居る。

│なお現代において、よくなじむ様を「しっくりくる」と言うが、これは棘の簾を罪人に巻き付ける役人が
│体にピッタリあわせようと試行錯誤した結果上手くいった時に使われた事が起源であることは言うまでも無い。

└─────────[ 民明書房刊 『忍者と蜘蛛の切っても切れる関係』 より一部抜粋 ]

蜘蛛:フハハハ、この変幻自在の足技から逃れる術などない!
蜘蛛:切り刻まれて死体となるがいいわ
臼魔:まずいっ、このままでは内藤が殺されてしまう
痛風:くそっこのまま指を咥えて見てるしかないのか
墨魔:今は、内藤を、俺たちの筆頭(リーダー)を信じるしかない

内藤:確かに良く動く足だ。だが切れなければ意味が無い!
内藤の陰敏肢舞流!
蜘蛛:なっ、俺の死括留簾辣首が効かないっ!!?

┌─[ 印武院肢萎不流【いんびん・しぶる】 ]────────────────────────

│中国武術において、唯一において至極と言われる事は「攻撃を食らわない」点において他ならない
│4000年にも置ける研鑽の結果、二つの流派がその極意を極めたとされる。
│その一つは硬気功により、己の体を極限まで硬くする流派、『印武院』である。
│印武院での奥義、『印武院肢萎不流』は全身を萎縮させ、全てを流さず受け止め、相手の攻撃の全てを
│はじき返したとされている。

│この奥義は激しく気を消耗する為、よほどの達人でも30秒が限度とされている。
│日本の平安末期、この奥義を使用するも、効果時間を把握せずに仁王立ちで死亡した僧も居たといわれている。

└─────────[ 民明書房刊 『防御は最大の攻撃』 より一部抜粋 ]

垢魔:『印武院肢萎不流』・・・この若さで印武院奥義を修めている者が居るとは、恐ろしい男よ。
内藤:簾辣首を使える者が貴様だけとは限らん、食らえ伝説の突き技!覇得我簾辣首!!!
蜘蛛:ぬぐわぁぁぁ!!

蜘蛛の死亡を確認。 勝者、内藤!!

臼魔:やったぜ!!
墨魔:内藤の貫禄勝ちと言ったところだな。
痛風:さすが俺たちの筆頭(リーダー)だぜ!

253(・ω・):2004/11/22(月) 12:50 ID:36JMFUsQ
職人様GJ!

254★テレポツヴォ★:2004/12/22(水) 07:14 ID:5LYJoPwI
|
|ヽ∧ + *
|・ω・)ノ
| :|  i| +
|)) ,i |!i *
"""''"" "''""" ""'""'''
http://yy10.kakiko.com/test/read.cgi/ff11/1079224495/l50
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