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俟宵月 -千代神楽-

1 名前:葉桜深月★ 投稿日: 2005/10/04(火) 06:25:56
再構成。

人物とか。
http://s03.2log.net/home/hokanko/mayoiduki/honpen/toujyou.html

スタイルは40字×34行で1レス。

90 名前:四 「遠い、夏」 投稿日: 2005/10/16(日) 06:00:34
「のう、綺沙裏?あの矢はもしかして、お主が初めて作った矢などであったりするのか?」
 不格好な矢。それが大事に部屋に置かれている理由はそれしかあるまい、と少女は思い
ながらも確認するかのように問いかける。少女に綺沙裏を笑うつもりは少しも無く、ただ
話の種になれば、と思っただけだった。
「残念、はずれ」
 だが、綺沙裏は照れたような笑みを浮かべたものの、少女の言葉を否定する。
「その箙、空夜のなんだ。昔ね?空夜と弓で勝負して、その戦利品」
 昔を懐かしむような微笑みを浮かべて言葉を続ける綺沙裏。まだお互いに幼かった頃、
まだ二人が……空夜が、心を壊してしまう前の想い出。あの頃はきっと、誰にとっても、
良かったと言える時だったのだろう。村の子供は、親から言い含められていたのか、自分
達だけで空夜や夕依と遊ぼうとはしなかったけれど、綺沙裏は社の娘であった為に親から
は何を言われる事もなく空夜や夕依と遊んだ。
 その時間は半年に満たない時間だったけれど、確かな想い出として綺沙裏の中にある。
 無邪気に遊ぶ事こそしなくなったがそれからも空夜は桜や社へと訪れ、その度に綺沙裏
は空夜と束の間の時間を過ごした。時には朱夏も交えて。九つ、十、十一と年を重ねて
行った。空夜が九つの時、夕依が六つの時に夕依は訪れる事を許されなくなった。そして
空夜が十の時に空夜の心が壊れた。けれど、それからも空夜は此処へと、そして桜へと
訪れ続けた。
 綺沙裏は、一度だけ空夜に声をかけなかった事がある。桜の樹の下に立つ空夜を見つけ
て、声をかけようとして、かける事ができなかった。もう一人居た遊び友達。その男の子
の名前を呼びながら、空夜が泣いていたから。
「それでね、その矢は空夜が作ったの。空夜と矢を射る練習をしてた時に、空夜が私の矢
を折っちゃって、そのお詫びに、って。不細工で、矢としては役に立たないけど、空夜が
私にくれたものってそれだけだから……」
 束の間の時間を、束の間の逢瀬と感じ始めたのは何時からだっただろう。僅かな時間を
かけがえのない大切な時間だと思い始めたのは、何時からだっただろう。強くて、頼れる
ような存在になったはずなのに、とても脆くて壊れそうな、空夜。朱夏はそんな空夜を
支えたいと言ったけれど、綺沙裏はそうは思わなかった。
 同じ目線に立って、同じ立場になって、空夜の事分かってるから大丈夫だよ、と言って
あげたかった。全てを、許してあげたかった。何もかもを。けれど、そうしてしまえば
空夜は壊れてしまうと桜の下で、分かってしまった。だから、許さなかった。
 胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「やれやれ、あの小僧の事であったか。聞かねば良かった」
 想いに耽る綺沙裏を引き戻す少女の声は、不機嫌な声色だった。

91 名前:四 「遠い、夏」 投稿日: 2005/10/17(月) 04:53:06
「私や朱夏には優しいのに、空夜には厳しいんだね」
 少女の様子に苦笑いを浮かべながら言う綺沙裏。想い出へと心を飛ばしながらも少女の
髪を梳く手を休めてはいなかったのだが、その手を休めて少女の答えを待つ。
「あの小僧からは国津の匂いがする。あの目から感ずる匂い、我は好かぬ」
「国津?」
「そうじゃ、天津に降りてその意に従う事もせず、黄泉へ逃げる事もせず、大八島を再び
おのれらの手に戻さんと足掻くモノ共よ。そうであるならば、天津のみを敵と決めそれに
挑めば良いものを、天津が人を愛したゆえに人に、仇をなす。まこと、狭量な事よ」
 憎々しげに吐き捨てる少女。
「でも、元は同じ国津神なんでしょう?なのに、そこまで憎むの?」
 少女の見せた怒りの気は綺沙裏を圧倒していた。ついつい外見だけを見て少女が鬼であ
るという事を忘れてしまう綺沙裏だが、この少女は紛れもなく鬼だと、脅迫じみた気配で
納得させられてしまう。
「人とて同じ事であろう?道が違えば、憎しみおうて殺し合う。同じ人というものであり
ながら。それと同じ事だと思えば良いのさ。或いは……元が同じだからこそ、ここまで憎
みおうて殺し合うのかもしれぬな」
 一瞬だけ視線を宙に彷徨わせ、遠い目をする少女。
「お主らがどう思っているのかは知らぬが、我ら鬼は、人の間にはそれほど知られては
おらぬのじゃ、綺沙裏。世で名の知れた鬼と言えば茨木の童子や鈴鹿の大嶽丸、鬼女紅葉
などであろうが……あやつらは我らとは違う。我らは古鬼と呼んでおるがの」
 沈黙したままの綺沙裏に、鬼についての話をし始める少女。その顔には微かに悲しみと
も、寂しさともとれるような表情があった。
「じゃから、案ずるな綺沙裏。我がただ、あの小僧が嫌いなだけじゃ。お主ら人とて嫌い
じゃからと言っていきなり命を取ろうとは思うまい?あの小僧、目以外は普通の人と同じ
であるのだし、無意に我の同胞に襲われるような事なぞない」
 振り返り、俯く綺沙裏の頭に優しく手を置く少女。綺沙裏は一瞬だけ体を僅かに震わせ
るが、少女の手が滑り、綺沙裏の頭を撫で始めてもその手に逆らう事はしなかった。
「凄いね。私が何を考えてるのか、すぐに分かっちゃうんだね」
 呟く綺沙裏。少女は目を軽く細めて笑う。
「鬼としては駆け出しじゃが、これでも七十年生きておるでのう」
「そうは見えないけどね?うーん……名前ないと、やっぱり不便だよ?どう呼んでありが
とうって言えばいいのか、わからない」
 顔を上げ、少女と視線を合わせて微笑む綺沙裏だが、言葉と共に少しの不満を少女へと
告げる。それは既に何度か、綺沙裏が少女に告げている言葉だった。

92 名前:四 「遠い、夏」 投稿日: 2005/10/17(月) 05:22:20
「お主、でも貴女、でも好きに呼べばよい」
 軽く肩をすくめ、綺沙裏に告げる少女。でも、と口を開き掛けた綺沙裏に、仕方ない、
という表情を見せてさらに言葉紡ぐ。
「我らは鬼、その事に誇りを持っておる。じゃからそれ以上は望んではおらぬし……許さ
れてもおらぬ。それにの、綺沙裏。本当の所……我は名を持つ事が怖いのじゃ。名は韻を
踏み、言霊となりて名の持ち主を縛る。それによって我は我の魂の在りようが変わってし
まう事を怖れておるのじゃ」
 言葉を紡ぎ始めた時は、仕方ないといった苦笑の眼差しは、言葉を終える時には痛々し
いものに変わってしまっていた。
「じゃから……済まぬが、名は許せ」
 まるで涙を堪えているかのような顔。そんな弱い眼差しの少女に綺沙裏は何も言えない。
 視線を逸らして、小さく頷く。だから、少女の唇が綺沙裏を不幸にはしたくない、と動
くのを見る事はできなかった。少女はそのまま瞳を閉じ、唇の端を歪めて自嘲めいた笑み
を浮かべた。心の中で、呟く。

 我らの祖はの、綺沙裏。天津に降る時に呪いをかけられた。人の世に仇成す事を許され
ず、人に交わる事を許されなんだ。鬼と人とが共に住む分には良い。じゃが、例えばお主
が望むように、鬼を個として共に生きる事は許されぬ。それを成してしまえば後には破滅
が待つのみじゃ。そうやって友となった人や、愛する者となった人を失った先達なぞいく
らでもおる。それにの……綺沙裏。我は結局の所は鬼。人を喰らう、鬼じゃ。我はお主や
朱夏を喰らいたいとは思わぬが、お主も朱夏も、天津の呪いに果てさせとうはないのじゃ。
じゃが、それでもお主らと離れたくないと思うておる。人を喰らうモノでありながら、人
に恋い焦がれ、天津の呪いに引き裂かれる。何と滑稽な存在であるのだろうな、我ら鬼と
いうモノは…………この地に根を張り、この地を脅かす国津の凶神は、我が必ず、鬼の名
にかけ討ち果たすゆえ、今しばらく、この時を我に……

 目を開く少女。その目に不安げな綺沙裏の顔が映る。
「どうしたの?」
「何でもない。しばし思案しておっただけじゃ」
 笑いながら綺沙裏に答える少女だが、その笑みにはどこか辛そうな痛みが混じっていた。
「そっか。じゃあね、これから貴女の事は……姫、って呼んでいいかな?」
「…………何じゃと?」
 照れたような笑みを浮かべながら言う綺沙裏に、思わず問い返す少女。何か、自分には
ひどく似合わない言葉を聞いたような気がする、と眼差しで訴えながら。

93 名前:四 「遠い、夏」 投稿日: 2005/10/18(火) 04:57:58
「うん、姫。喋り方とかもそうだけど、雰囲気もそれっぽいから、お姫様。でも、それだ
と少し畏まった感じがするから、姫。どう?」
 満面の笑みで言う綺沙裏。そこには親愛の心だけがあって、他には何も無い。
「どう?と言われてものう……」
 その言葉の響きに照れ臭さを、綺沙裏の様子に困ったような表情を。百面相のように
交互にそんな眼差しをしながら少女は戸惑っていた。
「好きなように呼んでいい、って言ったの姫だよ?」
 少女の答えを待たずに姫、と少女を呼びながら笑みを絶やさない綺沙裏。
「……分かった、それでよい。我に二言はないゆえな」
 目頭を押さえながら言う少女。困ったような笑みはそのままだが、嬉しそうな綺沙裏の
声を聞きながら、目の色が微かに変わった。
 真剣な眼差し。目頭に置いた指、それを広げて自分の目を隠す。
「あれ?どうしたの?」
 唐突に緊張した少女にはしゃぐ事を止め、声をかける綺沙裏。だが少女は何も答えず、
全身から緊張感を漲らせながら動かない。
「綺沙裏。心を静かにせよ。お主であれば感じられるはずじゃ」
 静かに口を開く少女。銀の双眸が瞬く。そして綺沙裏は何だろう?と首をかしげながら
も少女のの隣に正座し、瞳を閉じて精神を集中した。
 少女の額から、一筋の汗がつう、と流れた。
「……っ!え?何?瘴気……?」
 瞳を閉じたままで、体を大きく震わせる綺沙裏。驚きと共に漏れた声もまた、震えてい
た。
「何?やだ、怖い……」
 目を開き、大きく息を吐きながら、床に手をついて呻く。僅かな間に汗が溢れて、額か
ら頬を流れて、顎から床へと落ちていく。背中を何かが這っているかのような感覚。恐怖
と強烈な死の匂いが綺沙裏を襲い、青ざめた顔はその気配に怯えたままで力無く左右へと
振られる。自分で自分の体を抱き締め、鳴ろうとする歯を必死で押し止めようとしている
のか、唇を噛んだ。
「綺沙裏。よく覚えておくのじゃ。この気配を。この気を感じたならば、それが例えどの
ように弱いものであったとしても、即座に逃げよ。立ち向かおうなどとは考えるでない。
他人を――それが、どのような存在であったとしても、自分以外の誰かを救おうなどとは
考えるでないぞ。お主にできる事は、それだけじゃ」
 震える綺沙裏の肩を抱きながら呟くように言う少女。少女は綺沙裏ほどにはその気配に
動じてはいないが、それでも頬を伝う汗は止まらない。

94 名前:四 「遠い、夏」 投稿日: 2005/10/18(火) 05:27:45
「ねえ、姫?これ、何?一体、何なの?」
 少女のぬくもりで綺沙裏に在った恐怖は少しだけ、和らいでいた。
「……」
 綺沙裏に、それ、が何なのかを教えていいものかどうか迷う少女。視線が部屋の中を
彷徨い、答えを探すかのように動く。逡巡しながら、眉を顰める。
 その視線が、赤く光る勾玉を捕らえた。
「なっ!あのたわけめ!」
 少女の脱いだ衣服。綺沙裏によって丁寧に畳まれたそれの上に乗っていた勾玉。小さな
勾玉には茶色い革の紐が通されていて、首飾りになっている。その勾玉は透明で、水晶を
磨いて作ったものなのだが、今は真紅に輝いていた。何かの危険を知らせているかのよう
に。
「綺沙裏!お主はここを動くでないぞ?桜の加護が得られるこの場所であれば、気配を
感じても奴はそれに気付かぬ!」
 綺沙裏に焦りと共に、まるで怒鳴るような乱暴な声色で言い聞かせながら少女は身を翻
した。一瞬で部屋の戸へと至り、そこを乱暴に開け放って、振り返った。
「よいな?訳が分からぬであろうが、今は我の言う事を信じよ」
「あっ……」
 綺沙裏の答えを待つ事なく、そのまま廊下へと飛び出していく少女。薄い寝間着をなび
かせ、屋敷の外へと走る。足音もなく、一歩ごとに数間の距離を駆ける。ただ肩にかけら
れ、袖を通していただけの寝間着。帯で止める事もなくただ羽織っていただけの寝間着は
少女の速さが起こす風によってたなびき、闇夜の下に少女の白い肌を晒す。
「あれほど、近寄ってはならぬと言うたのに……っ」
 だが、少女は月光に裸身を晒す事など微塵も気に掛けず、ただ走る。屋敷の庭から続く
石段への道など無視し、そのまま木々の立ち並ぶ斜面へと飛んだ。木の幹を蹴り、枝を揺
らし、宙を駆ける。
 その顔に浮かぶのは焦りと怖れ。神道に長ける者が使うという神速の術さえも超える速
度で。人には到底為し得ない動きで、月と星の光の下をただ走る。
 視線は真っ直ぐに動かず、ただ目指すべき地を示しているが、その地からは赤黒い竜巻
のような、火柱のような、そんな禍々しい気配が立ち上っていた。何の力も持たない者で
あればそのようなものは見えないが、鬼である少女には、はっきりと見える。
「む……?一本じゃと?なるほど、そうか。ならば…………じゃが、今は!」
 その気配に何を見たのか、少女の口がにやり、と歪む。それは獲物を定めた獣のような
笑み。戦場に心を躍らせる武者のような笑み。だが、それを言葉の途中で頭を軽く左右に
振る事で強引に振り払い、少女が今成すべき事を思い返す。

95 名前:四 「遠い、夏」 投稿日: 2005/10/18(火) 06:33:42
「間に合わせて、みせる!」
 力強く木の幹を蹴って宙へと体を舞わせながら、誓う。その少女の視線の先には一つの
大きな屋敷が――孤牙の家が、在った。



 夜道を、一人の少女が歩く。一見して陰陽師と分かる服装、肩の下辺りで揃えられた髪
は黒く、夜の闇の中にあってさえ月光の輝きを映して艶に光る。頭には銀に輝く髪飾りが
あって、見た目には大人を感じさせる雰囲気を持ちながら、それが美しさよりも可愛らし
いという印象を与えていた。
 だが、それよりも目を引くのは少女の顔を隠す眼帯だった。黒く染められた革で作られ
ているのだろう。滑らかな色合いの眼帯は少女の右目を隠し、頬と額をも隠していた。し
かしその眼帯はその裏に潜むであろう、傷を思い浮かばせる事はないほどに少女の一部で
あるように、見えた。
「あーあ、やっちゃったかねぇ」
 苦笑を浮かべながら、空を見上げる少女。少し低い声だが、その言葉とは裏腹に後悔は
そこに少しも含まれてはいない。
 田の間に巡らされている土の道。人がすれ違えるほどには広く、牛馬などが通るには少
し狭く、恐らく対向などはできないであろうほどの道。その両端には緑の雑草や小さな花
がその姿を晒していた。田にはまだ水は張られてはおらず、耕されてもいない。水が通る
場所は泥上げが行われているものの、そこまでで、田には黄色い菜の花が奔放に花を咲か
せているのみ。秋になれば黄金の原になる場所も、今の時期は黄色い原。
 その黄色い四角の原の間に巡らされた道で、少女は立ち止まっていた。視線の先には暗
くて距離が分かりにくいが、それほど離れてはいない場所にある大きな塀がある。
 少女の左目は、塀自体が光を放っているかのように、緑に輝く様が見える。そして、そ
の緑を浸食していくかのように勢いを増しながら、天へと挑むように立ち上る赤黒い光も
また、その目に映っていた。
 まるで蛇が頭を起こして、敵を威嚇するかのように蠢く光。そこには渦巻く赤の奔流だ
けがあるというのに、まるでそれが生き物であるように見える。
「入れ違いってのも私らしいし、あんなのに出くわすなんてのも、私らしいけどねぇ」
 苦笑を止める事なく、少女は呟く。赤い蛇と目が合ったような気が、した。
「喰われるにしたって……何もしないままにってのは、性じゃないね」
 長く垂れる袖から両手で符を取り出す少女。揺らめいていた赤い光の渦は動きを止めて
少女を視界におさめて戸惑った。少女にはそう、感じられた。

96 名前:四 「遠い、夏」 投稿日: 2005/10/19(水) 03:57:34
「急々如律令奉導誓願何不成就乎!」
 動作と共に術を発動させ、結界を張る少女。動きには一分の隙もなく、洗練されている。
 だが、強固なものに見える結界も赤い渦の前では頼りないものにしか、見えない。額か
ら流れた汗を袖で拭い、赤い渦を正面に捉えたままで立つ。
「あんなのが夕依の中に居るってわけ?空夜……あんた、あんなのと……?」
 渦を睨みながら呟く少女。視線を外さないのではなく、外せない。魅入られたように動
く事ができない。身を護るものは結界のみで、それが何の役にも立たないと感じた。だが、
それでも気丈に立ち続ける少女。本能的な恐怖、そんな感覚に捕らわれながらも決してそ
の体を恐怖に任せたりはしない。
「……?誰か、死んだ?」
 塀の向こうから、風に乗って流れてくる血の匂い。消えていく命の灯火を感じて思わず
口を開く少女。それは、夜刀の命が消えた瞬間だった。
 だが、そこまでは分からない少女は微かに眉を顰めるだけ。そして赤い渦は身じろぎし
て、赤い光の粒を少女へと、飛ばした。
 それは小さな粒。燃えさかる炎から上がる、火の粉のような代物。けれど、たったそれ
だけの物で少女は死を覚悟した。
 視線の先で何故かゆっくりと消えていく赤い渦。少女から興味は失せた、とでもいうか
のように、無数の光の粒を巻き散らせながら消えていく。
 少女は、何かが、自分を嘲笑っている声を聞いたような気がした。
「この、たわけがっ!」
 呆然と、向かってくる光の粒を見ていた少女の体を衝撃が襲った。同時に、光の粒は
少女が展開していた結界を破る。そこに障害があった事など、感じさせずに、容易く。
粉々に砕けていく結界。その破片は宙を舞いながら消滅していく。そして少女は、自分の
身を襲った衝撃と共に大地に転がされ、息を吐いた。
「痛っ……」
 道の端で背中を打ち、そのまま軽い斜面となっている田への道を転がる。その傷みで生
を感じながら、少女は菜の花の黄色に包まれて、夜空を見上げた。その視界に、怒った顔
をしながらも心配と不安とをごちゃまぜに浮かべた童女の姿が、映った。
「あは、生きてる。ありがと」
 寝転がったままで、笑う少女。
「あれほど、孤牙の家には近づいてはならぬと、言うたであろうが、朱夏!」
 鬼の少女は激しく少女の名前を呼びながら、怒る。髪は風に乱れ、足は土で汚れていた。
身を包むのは、薄い寝間着のみで、露わになっている肌は激しく動いたからだろう、僅か
に朱に染まっていた。

97 名前:四 「遠い、夏」 投稿日: 2005/10/19(水) 04:28:52
「凄い格好……」
 そんな少女の姿をまじまじと見つめながら、さらに笑う朱夏。
「無茶をしおって……」
 少女は笑い続ける朱夏をじと、と見て口を開く。そして視線を孤牙の家へと送り、そこ
にもう赤い禍々しい気配が無い事を確認してから、草の上、朱夏の隣にしゃがみ込んだ。
「それに、格好で言うならお主の方こそ凄い格好じゃぞ?」
 土の上を転がったせいで、朱夏の肌には土がついていた。頬も土で汚れていて、髪には
花の花弁と草の葉があちこちに付着している。
「ごめん。でも……そっか。あんなのと空夜は……それとあんたは、戦うんだねぇ」
 笑いをおさめて、夜空を見ながら呟く朱夏。
「ねえ、アレは、何?」
 静かに問いかける朱夏。少女はその問いに立ち上がって、答えた。
「大蛇。神話に謳われし八岐の蛇神、その残り火じゃ」
「残り火?」
「神代に八岐大蛇は素盞鳴に滅された。じゃが元々、大八島に走る龍脈の主であり、実質
大八島の主であった大蛇は完全には滅びなかった。あの時より、そして今も……この世に
還りて再び大八島の主の座に返り咲かんと、不覚を取った素盞鳴に復讐せんと、機を狙い
て闇で蠢いておるのじゃ」
 顔に表情は浮かべず、ただ淡々と言葉を紡ぐ少女。
「じゃが、アレは完全ではない。八岐大蛇の名はのう、朱夏。かの蛇神が八岐の首を持つ
からその名がついたのではないのじゃ。その首一つで一つの島。八の首で八島……つまり
この国全てを支配しておったがゆえにつけられた、名。それを天津の三貴子の一柱である
素盞鳴が討ち果たした。その時より始まった天津と国津の戦は、後はお主も知っておるで
あろう?この大八島は、天津のものとなった」
 体を起こし、その話に聞き入る朱夏。顔や肌についた土を払う事もせず、ただわずかに
怪訝な表情を浮かべる。
「ふーん、それは分かった。でも、夕依と……大蛇と孤牙に何の関係があるっていうの?」
「詳しくは知らぬ。孤牙の祖が、滅んでおらずに機を伺っていた大蛇と、何かの約定でも
交わしたのであろうさ。その血の中に大蛇を受け入れ、その力を行使して今の地位を築き
上げた、とかの。そして今、大蛇の依代となれる程の器を持つ者――夕依という少女が産
まれ、この世に再び出でようとしておるのじゃろう」
 その言葉に表情を険しくさせていく朱夏。少女はそんな朱夏の様子に気付いていながら
無視し、酷薄な笑みを浮かべて言葉を続ける。
「千年だったか?その間に得た力の代償を支払う時が来た。それだけの事じゃ」

98 名前:四 「遠い、夏」 投稿日: 2005/10/19(水) 04:59:42
「なるほど?で、鬼のあんたは蛇退治に来たってわけだ?」
 険しい表情を浮かべたままだが、少女の言葉に感情を揺らされる事なく言う朱夏。
「ふむ、冷静じゃの?知った少女が贄となるというに、その事には心を動かされぬのじゃ
な」
 少女は言葉と共に向けられた朱夏の視線から逃れるように、夜空を見上げながら言った。
「平気なわけないでしょ、馬鹿。夕依は空夜が何とかするでしょ。私は、あんたがどうす
るのかを聞いてるの」
 服の裾についた雑草を払いながら立ち上がり、少女の肩に手を置いて問いかける朱夏。
その瞳には真摯な光が灯っていて、険しい表情はさらに険しさを増していた。黄色の原に
二人で立って、月光を浴びながら。
「今、ならばまだ大蛇はそれほど力を持たぬ。今、であれば……アレはただの蛇に過ぎぬ。
八岐の力も首も持たず、ただの一首を顕現させるが精々じゃ」
「だから今、夕依を殺すと?」
 少女の肩を掴む手に力が入る。戻った虫の音が二人に構わずあちこちに響き、柔らかい
自然の風が草々を揺らし、駆け抜ける。けれどそんな風に普通の夜となった中にあって、
二人は動かない。
「我は、殺す事しか、できぬ」
 夜空を見上げたままで、ぽつりと呟く少女。その声は、泣きそうな声だった。
「ふーん……それで今、夕依を殺して、あんたはそのまま居なくなっちゃうわけか」
 見開かれる少女の目。
「…………」
「まだ二月ほどで、短い付き合いだけどさ、私に何にも言わずに消えちゃうわけなんだ」
 動揺に少女の瞳が揺れる。
「何、故……」
「馬鹿。知らないとでも思った?鬼と古鬼の違いなんて、知らないと思った?ちゃんと、
知ってるんだから。ちゃんと……調べたんだから」
 朱夏は言いながら、少女の肩を抱いた。表情から険しさは消え、優しい微笑みを浮かべ
て、少女を抱き締める。冷め切って冷たい少女の体からは、葉の匂いのような植物特有の
青臭さの匂いがした。
「知っていて……それを知っていて、我を抱くのか?我に、ぬくもりを与えるのか?」
「この匂い、綺沙裏と一緒にお風呂に入った?」
 少女の髪に顔を埋めて、くん、と匂いを嗅ぎながら言う朱夏。その問いに微かに頷く事
で答える少女。垂らしたままの手は朱夏へと伸ばすかどうかを決めかねているかのように
迷って揺れていた。瞳はかたく閉じたままに。

99 名前:四 「遠い、夏」 投稿日: 2005/10/19(水) 05:32:58
「綺沙裏って、お節介でしょう?でもね、気付かなかった?」
 優しい声と共に離された体に目を開き、朱夏を見る少女。そこには優しい眼差しがあっ
て、少女は浮かびそうになる涙を必死に堪えた。
 そんな少女の頭にぽん、と軽く乗せられる朱夏の手。
「私も、綺沙裏と同じくらい――お節介なのよ?」
 その言葉に込められた想いに、泣きそうになって少女は朱夏の胸に顔を埋めた。すがり
つき、唇を噛んで必死に堪えた。
「天津神の呪い、なんて私は信じてあげないからね?誰だって、生きていれば苦難の一つ
や二つ、体験するでしょう?その苦難に、人は弱いから耐えきれなくて、鬼は強いから生
き残っちゃうだけ。それだけの事よ。それにね、分かってる?こんな言葉が嬉しくて泣き
そうになってるなんて、もう手遅れよ。名前なんかいらない、名前で呼び合うほどに近づ
いてしまえば手遅れだなんて、そんな形式に意固地になっちゃってさ?」
 少女の体を抱き締めながら言葉を紡ぐ朱夏。
「私よりもずっと長く生きてる癖に、そんな所は見たまんま子供みたい。夕依を――私の
友達を殺して、私に顔向けできないように自分を追い込んで、そして消えてしまえば私や
綺沙裏はきっと自分を恨む、なんて思ってたんでしょう?憎まれてるって思う事ができれ
ば、寂しくなんてないから?あんたがいつまで生きられるのかは分からないけど、その先
を一人で生きていけるように?こんな事を繰り返して、生きていくつもり?」
 声には怒りが混じっていた。だがそれは激しいものではなく、優しい怒り。
「そんな事繰り返してたら、心なんてもつわけないじゃない。すぐに壊れて、どうにかな
るに決まっているじゃない。私は、さっき言ったでしょう?」
 しがみつく力を強めていく少女から体を無理矢理に離し、真っ直ぐに少女の瞳を見つめ
る朱夏。だが、少女の瞳はかたく閉ざされたまま。
「お節介だって、言ったでしょう?そんな生き方、許してあげないわよ。私の顔を思い出
す時に、その顔が恨んだ顔とか怒った顔なんて、許さない。なかなか死ねなくて、長い時
を生きるのなら、私や綺沙裏の笑顔を抱いて、ずっと――――生きなさい」
 閉じたままの少女の瞳から、つう、と涙が零れた。
「朱、夏――」
「夕依の事は空夜に任せておきなさい。きっと、何とかしてくれる」
「我は、人を喰う鬼なのじゃ、ぞ?我慢する事ができずに、朱夏を……綺沙裏を、喰うか
もしれぬぞ?」
 掠れる声で言葉を紡ぐ少女。その瞳から溢れる涙は勢いを増していく。そして朱夏は
その言葉に笑みを浮かべた。
「私はきっと、すごく美味しいわよ?食べたら、死ぬまで忘れられないんじゃない?でも

100 名前:四 「遠い、夏」 投稿日: 2005/10/19(水) 06:00:58
安心なさいな。その時には笑顔を浮かべていてあげるから」
「朱夏、朱夏……朱夏っ!お主は、たわけじゃ!大たわけじゃ」
 薄く開いた目。そこからは堰を切ったかのように大粒の涙が零れる。朱夏を見つめなが
ら、涙でぼやけてちゃんとその姿を映す事ができない。
「空夜みたいな大馬鹿を好きになるような女よ、私は。そんなの、馬鹿に決まってるじゃ
ない」
 嗚咽を漏らし続ける少女を再び抱き締め、微笑む朱夏。少女は朱夏の服を握り締め、涙
を流す事を止めない。小さく朱夏の名を呟きながら、泣き続けた。
 黄色い原に風がそよぎ、花を揺らす。月光は穏やかに降り注ぐ。
 二人はそこで一つの影となって、ただ立ち続ける。
「空夜、後は貴方が何とかしなさいよね」
 朱夏は道へと視線を動かして、呟いていた。道は月光に照らされて明るいけれど、先ま
では見えない。暗闇へと続いていく道はまるで、自分を、そして空夜の未来を暗示してい
るかのようだったが、微かな不安は胸にしまい込む。
 胸で泣き続ける鬼の少女の髪をそっと撫で、朱夏は寂しそうに微笑んだ。この少女が言
うのであれば、今、夕依をその身に宿った存在ごと殺せるというのは真実なのだろう。
夕依の身に何かが潜んでいるのは気付いていたが、それが大蛇のような強大な存在だとは
知らなかった。
 頭では少女の言う通りに、今夕依を殺してしまうのが一番良いと理解している。力がま
だ戻りきってはいないのならば、そのうちに消してしまうのが良いという理屈。人の世に
仇を成す事が分かり切っている存在なのだから、それは当然だろう。だが、朱夏は夕依が
死ぬ事を望まなかった。
 空夜が、悲しむ。
 それだけの、事で。少女に向ける好意に嘘は無い。定められたものとはいえ、少女の生
き方は寂しすぎると思った事も本当の心。だが、それと同じくらい、或いはそれ以上に
朱夏自身が空夜を想っていた。空夜ならば、きっと夕依を救う事ができるだろう、と信じ
た。だから、少女を止めた。それもまた、紛れもない朱夏の本当の気持ち。
 それが吉と出るのか、凶となるのか、朱夏には分からない。けれど、少なくとも、朱夏
の胸で嗚咽を漏らし続ける少女の心だけは救えたと思う。それだけで満足するわけには
いかないけれど、今はそれだけしかできないのだからと、前を見る。
 そこには、孤牙の家。
「まだ、負けを認めてあげたわけじゃ、ないんだからね――――夕依」
 苦笑とも、自嘲とも取れるような微笑みを浮かべながら、朱夏は呟いた。
 春は訪れたばかりで、次――――夏は、まだ先なのだから。

101 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/20(木) 03:47:57
「なるほど、それがお前の始まりってわけか」
 夜は更け、月は空。山間にぽつん、と立つ家の中で空夜と龍禅は囲炉裏を挟んで座り、
語り合っていた。家はあちこちが朽ちかけていて、元々の住民はとうに居ない。空き家と
なっていたこの家を見つけ、ぼろぼろではあるが一夜なら構うまい、と居座っている。

 ぱち、ぱち――

 囲炉裏にくべられた木々が小さく爆ぜて炎を揺らした。それに合わせ、二人の影も揺ら
めく。空夜が村を出てから多くの時間が過ぎ去っていた。春になったばかりであった季節
はもう秋も半ばとなっている。七ヶ月の時の果てに、空夜は駿河の地に居る。
「色々な事があったよ龍禅。けれど、もうすぐ俺の旅も……終わる」
 穴だらけの柱に背中を預け、瞳を閉じて呟く空夜。姿は村を出た時とそれほど変わらな
いのに、持つ雰囲気はまるで違っていた。精悍な顔つきになってはいるが、そこには強い
者が浮かべるような笑みではなく自嘲を浮かべていて、それが良く似合う。壊れそうな、
今にも砕けそうな、危うい雰囲気。
 けれど、空夜はそれを分かっている。閉じていた瞳を開け、右手を伸ばして炎へとかざ
し、少しの間そのまま動きを止め、左目を残して右目を閉じる。
 左目が蒼く輝き始めた。
「話せば少しは楽になるかと期待したんだが、やはり駄目だな。俺の罪は俺が背負って死
んでいくしかない。そんな事、とうに気付いていたのに」
 瞳の輝きは、まるで生き物のように広がっていく。光そのものが糸のように部屋中へと
伸びていく。ありえない、現象。その光は部屋中に広がっていくのに、それは決して眩し
くはなかった。空夜の手の先で動きを止め、揺らめく光。囲炉裏の炎に照らされて、微か
に紫の闇を産み出した。
「止せ。お前にはまだ、やるべき事が残ってるじゃねぇか」
 龍禅の静かな声に動きを止める光。
「まったく……色々と背負いすぎだ、お前は。とりあえず、今日はもう寝ろ」
 傍らに置いてあった徳利を引き寄せ、酒を杯に注ぎながら言う龍禅。空夜はその言葉に
力無く頷くと、左目を閉じて右目を開ける。少し遅れて、再び開かれた左目は普通の黒目
で蒼い光はどこにも残ってはいなかった。
 そして部屋の隅へと移動して薄汚れた大きい布を体に巻いて、壁に背中を預けて目を閉
じた。意思があるのかどうか怪しい動作。ただ、そうしろ、と言われたからそうした、と
でも言うかのような、動き。
 龍禅は険しい表情で空夜を見つめ、杯の酒をぐい、と飲み干して呟いていた。

102 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/20(木) 04:05:11
「もう少しだ空夜。もう少しで、お前は……終われる。壊れきるにはまだ、早い」
 囲炉裏で踊る炎を見つめながら、龍禅は哀れみをこめた眼差しで空夜を思う。
 初めて、空夜と出会った時を。



 それは、雪舞う越後の地。春ももう過ぎ去ろうかと言うのに、地に白く積もった雪は
溶けて消える事を忘れてしまったかのように、そこに留まっていた。春日山城と城下を囲
む巨大な壁。その壁にも雪は積もっていて、白い化粧を施しているかのように見える。
 街道には様々な人が行き交い、この、消えない雪の噂話などをしながら挨拶を交わし、
或いは雪に立ち止まって何かを思い、海から吹く風に体を冷やされ、再び歩いていく。
 越中、信濃、上野へと伸びる街道。その街道を歩いて人は日々を生きる。どこから来て
どこへ向かうのか、それは分からないけれど。
 そして龍禅は、春日山からさほど離れてはいない場所にある小高い丘、そこに立つ屋敷
の縁側で街道を眺めていた。傍らには徳利と杯。屋敷ではあるものの、塀などの囲いが無
い為に外からは丸見えで、申し訳程度に立つ雪を被った木々が視線を遮るのみ。時折旅人
が足を止めて龍禅の方へと視線を向けるが、龍禅はそれを全く気にせずに真っ昼間から雪
見酒と洒落こんでいた。
 そんな龍禅の背後に忍び寄る影。
「また酒飲んでる。良い身分だねえ?」
 長髪を頭の後ろで結わえ、馬の尻尾のように垂れ下がらせている女性。無地の着物の上
から袢纏を羽織り、寒そうに顔をしかめながら口を開く。言葉と共に、白い息が吐き出さ
れて空気に紛れて消えていった。
「他にやる事もねぇからな」
「しかし、寒くないのかい?そんな着流しだけで。見てるこっちの方が凍えちまう」
 微笑みを浮かべながら、ぞんざいな口調で龍禅に震えてみせる女性。龍禅は女性のそん
な様子に苦笑しながら杯を肩の高さに上げて口を開いた。
「酒、飲んでるからな。熱いくらいだ」
「酒は体を体を温めてくれるって?冷やで飲んでて良く言うよ。ほろ酔いのまま、ここで
明日の朝まで眠ってくれれば、食い扶持が一人分減って助かるんだけどさ?たまには役に
立ってみたくはないかい?」
「馬鹿言え。あのな、紫月。ここで機を待て、などと言ったのはお前だぞ?一体何を待て
ばいいのかも分からず、ここに留められて迷惑してるのは俺の方だ。それを酒と飯で許し
てやっているのだから、感謝するのはお前の方だろうが」

103 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/20(木) 04:27:33
 口喧嘩をしながらも、二人の間にあるのは穏やかな空気。
「おや、言うねぇ?庭で駆け回ってる犬っころみたいに、木刀でも振ってればいいじゃな
いか。剣に生き、剣に死す。なんて事ほざいてたのはどこの誰だったか、忘れたのかい?」
 その言葉に視線を紫月から逸らす龍禅。杯に残っていた酒をぐい、と飲み干し、低い声
で言葉を返す。
「悪ぃが……そこには、触れるな」
「やれやれ、まだ引きずったままって訳さね。それは詫びとくよ。けどね、そろそろ酔い
を醒ましときな。機、って奴があんたの前に姿を見せる前にね」
「……?」
 怪訝な表情で紫月に視線を向ける龍禅。だが、紫月は既に龍禅に背中を向けていて、顔
にどんな表情を浮かべているのか分からない。ただ、声はひどく嬉しそうだった。
「なあ、紫月。機とは、一体何だ?」
 振り返りもせずに立ち去っていく紫月。その背中に声をかける龍禅。紫月の足が止まる。
「そんなの、決まってるだろ?」
 背中を向けたままで答える紫月。縁側から部屋へと続く襖を開けながら、肩越しに龍禅
へと眼差しを向けてさらに言葉を続けた。慈しむような、眼差しで。
「あんたに死に場所をくれる奴さ」
 ぱたん、と襖が閉まる。後に残された龍禅は唖然とした表情で動きを止めた。
 一陣の強い風が吹き抜け、どさり、という音と共に枝に積もった雪が土の上へと落ちた。
俯き、肩を震わせ始める龍禅。
「く、く……ははは!」
 口を大きく開けて、満面の笑顔を浮かべながら笑い声を上げる。
「なるほど、俺に死に場所を与えてくれる奴、か。それは酔ったままではいかんだろうな」
 素足のままで雪の上へと降り立ち、呟く龍禅。積もって小山となっている雪に手を突っ
込んで両手で雪をすくい上げ、自分の頭へと被せた。宙に雪の欠片が舞い、粉雪のように
周囲に浮かび、落ちていく。髪の毛や肩に乗った雪は斑模様に龍禅を彩る。肌に触れた雪
は溶け、着物へと染みこんでいく。だが、それでも龍禅は笑う。
「狗凪紫月殿の住まいは、ここで良いのですか?」
 そんな龍禅にかけられる声。顔を上げた龍禅の視界には、空夜が居た。雪まみれで笑み
を浮かべる龍禅に怪訝な顔をしながらも、空夜は返事を待って立っていた。
「そうだが、お前は?」
 笑みを瞬時に消して、空夜の前に立つ龍禅。その目は鋭く空夜を射抜き、そこに立つ者
の全てを見透かすかのように細められる。まるで、戦う直前のような空気。殺気すら込め
て空夜を見ながら、龍禅は思考を戦へと切り替える。空夜の反応を見る、それだけの為に。

104 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/20(木) 04:57:54
「孤牙家当主、孤牙空夜。そう伝えて頂ければ紫月殿には分かると思う」
 平然と言葉を紡ぐ空夜。龍禅の殺気を受け流すでもなく、抗するでもない。二人の間に
ある空気など意にも介してはいない。静かに答えながら龍禅を見る空夜。その瞳からは何
の感情も伺えず、かろうじて見つける事ができるのは深い暗闇のみ。
 そのまま見つめ合って、動きを止める二人。長いような、短いような沈黙の後で口を開
いたのは龍禅だった。
「……そうか、入りな」
 手で家を指し示して空夜を促す龍禅。軽く頭を下げ、龍禅の横を通り過ぎていく空夜。
雪を踏みしめながら立ち去っていく。龍禅の額には、汗が滲んでいた。
 空夜の姿が見えなくなってから、龍禅は地面へと力が抜けたかのように座り込んでしま
っていた。胡座をかき、何とも言えないような笑みを浮かべながら頬を掻く。
「ったく、あの女狐……あいつが俺に死に場所を与える?良く言うぜ。あいつ自身が、死
じゃねぇか……」
 対峙した時の中で、鋭く空夜の本質、或いは空夜の持つ力をおぼろげながらも感じてい
た龍禅は滲んだ冷や汗を拭いながら呟く。空夜はその目を顕現させてはいなかったけれど、
龍禅はその瞳に潜むものを正確に見抜いていた。龍禅が好んで駆け抜けてきた戦場。そこ
に満ちる死の気配と全く同質――いや、それ以上の死を背負っていた空夜。人をいくら殺
そうと、決して辿り着けないほどの濃厚な死。
「だが分かってんのか?紫月……あいつ、もう保たねぇぞ……?」
 空夜は空夜自身でそうと決めて村を出た。だが、それは空夜が心の拠り所としていた
夕依と離れるという事。拠り所を失った心は容易く壊れていく。まるで坂道を転がり落ち
ていくかのように。
 自分に課せられたもの。それを成し遂げる為だけに生き、その為だけにここへと来た
空夜。その心は既に壊れてしまっていて、その為に心の奥にある死が表へと浮かび上がっ
ていた。夕依が大蛇を宿しているように、空夜もまた、大蛇の血を持つ。孤牙の血そのも
のが遙かな遠い昔に、大蛇の血と魂とを受け入れてしまった為に。
 そして、空夜は夕依を救うと決めた。それは、大蛇に反するという事。夕依ほどに濃い
血ではない為に大蛇の支配などは受けていない空夜だが、それでも影響はある。内部から
空夜が成そうとする事を否定する声。心を切り裂いていく怨念。
 外部からのものであれば、空夜自身の術によって防ぐ事もできるが、それは空夜自身の
中からのものである為に防ぐ事すらできない。だから、壊れていく。空夜が抱いた、罪の
意識を増幅して、心を削っていく。友達、綺沙裏の母、そして無数の空夜が視てしまった
人達。それらが空夜を責めて、空夜を呪って、押し潰していく。けれど、決して潰されな
いものがある。決して、壊されないものがある。それは、夕依への想い

105 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/20(木) 05:22:15
 その想いにすがって、だから夕依だけは救う為に、空夜は孤牙の血に抗う事さえも止め
て、心を代償に、ここまで来た。壊れた心に引き摺られて、肉体さえも壊しながら。
 その理由も、想いも知らないけれど、龍禅はそれを感じた。空夜が壊れていると感じた。
 空夜が残した足跡。真っ白い雪の上に残るそれを見つめながら、龍禅は目を閉じる。灰
色の雲に覆われた空から、雪がまた降り始めていた……。


「お久しぶりです、紫月殿」
 空夜は屋敷の奥、少し広めの部屋へと通され、そこで紫月と顔を合わせた。道場にして
は少し狭いが、部屋にしては広い場所。板が張られただけの床は外の空気を伝えて、部屋
の中を冷やしていく。足を組み、床に座って礼をする空夜。その対面には火鉢の中を棒で
かき回しながら胡座をかき、頬杖をついている紫月の姿があった。
「久しぶり、だねぇ。堅っ苦しいのは抜きだよ、空夜。ただでさえ寒くて体が硬くなっち
まってるってのに、そんな事やってたら余計に動けなくなっちまう。昔と同じ、紫月姉で
いいさね」
 頬杖はついたままで、にやり、と笑う紫月。火鉢から軽く火の粉が舞った。
「変わらないですね」
 苦笑しながら言う空夜。瞳に、懐かしさが一瞬だけ宿った。
「そんなに人間、変えられるもんじゃないさ。相も変わらずの放蕩娘ってわけでね、これ
ばっかりは死ぬまで治らないだろうさ。けど空夜。あんたは、変わったね?」
 何気ない動きで棒を持ち上げ、ぴたり、と空夜の左目を差して言う紫月。その瞳は瞬時
に色を変えて、険しい顔つきになっている。
「あんたがここに来た。私をわざわざ訪ねて来た。それだけで何がしたいのかは分かって
るつもりさ。出たんだね?アレが」
 その言葉に息を呑む空夜。紫月はそんな空夜の様子を見て笑みを浮かべるが、それは酷
薄な笑み。
「はい……夕依が、器に……」
 拳を握り締めながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ空夜。そこに滲むのは悔しさ。自分の
力のみで夕依を救えないという、自分に対する憤怒。
「そっか、夕依が。でも、それだけじゃないんだろ?」
 棒を降ろし、再び火鉢をかき回し始める紫月。静かに問いかけ、空夜から視線を逸らし
て火鉢に灯る赤を見つめながら答えを待つ。
「…………」
 だが、答えない空夜。迷いを顔に浮かべながら、口を開きかけ、躊躇う。

106 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/20(木) 05:46:39
「ふうん。そういう所は昔のままなんだ」
 懐かしそうに微笑む紫月。言葉をかけられた空夜は戸惑う。
「言ってみな?言われなけりゃ、それを受けるかどうかさえ決められやしないしさ?」
 柔らかい、笑み。それは昔、空夜が紫月に与えられていたものと同じ笑顔だった。紫月
を紫月姉と呼び、くっついていた幼い頃と、同じ。紫月は親と共に孤牙の家に滞在してい
た事があった。それは三月程の時間であったけれど、姉という存在を持たなかった空夜や
夕依は紫月に良く懐いていた。
 紫月の家、狗凪家は代々付与石の取り扱いを生業としてきた家で、その腕は国を越えて
伝わるほどだった。その為、孤牙に限らず力を持つ古い家などとも親交があった。この時
紫月の父親、狗凪の当主が孤牙家を訪れていたのは、夜刀の招きによってであり、夕依の
胎内に埋め込む為の孤牙の結晶を磨く為だった。屋敷の地下にある代々の孤牙の結晶が納
められた部屋。そこは地下である為に外気に晒される事はないが、それでもその中にある
物の全てが何事もなく時を過ごす、という訳にはいかなかった。天然の結晶、宝石などで
あればそうでもないのかもしれないが、血で造られた結晶は溶けたりする事こそないもの
の、時と共に曇ってしまっていた。
 その為、それを元のように、或いはそれに近づくように磨く為に夜刀は狗凪を呼んだ。
 勿論、その磨いた結晶が何に使われるのか、紫月も、紫月の父親も知っていた訳ではな
い。血を継ぐ、という家でありながらも、どちらかと言えば職人の色が濃い狗凪の家では
少なくとも孤牙のように澱んでいるものではない。だから、それを知れば決して狗凪の技
を孤牙の為に使う事はなかったであろう。だが夜刀は語らず、狗凪も踏み込みはしなかっ
た為に、その技は生かされてしまった。夜刀の醜悪な妄執によって。
「後始末……いえ、尻拭いを頼みたいのです」
 僅かな間、昔へと思いを馳せて、空夜は意を決したかのように言った。
「尻拭い?話が見えないねぇ……空夜、あんた夕依を救って死ぬつもりだね?隠さなくて
もいいさ。それだけの覚悟をしてる目だよ、その目は」
 その言葉に何かを言いかける空夜を制し、言葉をさらに紡ぐ紫月。その顔には笑顔では
なく、微かな怒りがあった。
「ま、あんたの人生はあんただけのもんさ。好きにするといい。けどね、それなら……
尻拭いってのは、あんたが死んだ後、夕依の事を頼むって意味かい?」
 そうであるのならば、聞くまでもない。言われなくてもそのつもりだ、と視線で語りな
がら空夜を見つめる紫月。短い時ではあったけれど、同じ家で過ごした兄妹。仕事が終わ
った後も、文のやり取りはしていた。ここ数年は全く会ってはいなかったけれど、一年に
数回は会っていた二人。まるで自分の弟と妹であるかのように付き合ってきた、二人。そ
んな二人を無碍にするつもりはない、と強い眼差しで伝える。

107 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/20(木) 06:16:31
 だが、空夜は首を振った。
「それは、言わなくても大丈夫だと分かっています。紫月姉なら、そうしてくれると分か
っていました」
 微笑みを浮かべ、紫月に言う。紫月は照れたように空夜から視線を逸らした。
「俺では、大蛇を殺せない」
 そんな横顔にかけられる、真摯な言葉。声は静かで、そこには何の気負いもなく、悔し
ささえも無かった。
「俺に出来る事は大蛇を夕依から引き摺り出して、その姿を視る事だけです。だから、大
蛇は滅びない――今、は。何時の日か、必ず滅びるように、視てみせる。けれど、そこま
でです。そこで、俺の命は尽きる。だから、その尻拭いをお願いします」
 強ばった表情でじっと空夜を見つめる紫月。空夜は静かに語り続ける。そこには心が壊
れてしまっている、という事など欠片も感じさせない姿があった。強い眼差しと、強い意
志で自分の成すべき事を受け入れた、強い姿。
「俺の中に大蛇を引き摺り込んで、俺が死んでも、大蛇は滅びない。それくらいの事で滅
ぼせるような相手では、ない。きっと地に潜り再び時を待つ。そうなれば、隠れている国
津神が騒ぎ始めるでしょう。自由になったかつての大八島の主へと集い、人の世に仇を成
す。もしかしたら、天津が降るかもしれません。かつての敵を再び滅ぼす為に」
 動く事さえできない紫月。それほどに空夜の眼差しは強い。
「けれど、神は人など気にかけない。天津は人を愛したがゆえに、この地を人に託したと
言うけれど、それは気に入った人形に玩具を与えるようなもの。紫月姉も、分かっている
でしょう?神の戦になど巻き込まれてしまえば、人は塵も残せない」
「空夜、あんた――」
「けれど、天津は人を愛しているがゆえに、人が何とかしようとしているのであれば、力
を貸す事はあっても、自らが降る事はない。それは、例えば禍神を征する人、鬼を討つ人
などの伝え話が証明している。だから、紫月姉……頼みます」
 ふっ、と眼差しの光を和らげ、微笑みを浮かべる空夜。それは、まるで死を悟って静か
に死にゆく者が浮かべるかのような、瞳。
「国は自国の事しか考えない。幾つかある退魔を謳う組織は自分達の力を示す事しか考え
てはいない。だから、そんなものではないものを、新たに。ただ、力無い人達の為に動く
組織を。これから、世は戦だけでなく魔が跋扈する世となるでしょう。街道を外れれば、
或いは街道にあってさえ妖怪が蠢くような世の中に。それは、全て俺がこれから引き起こ
す事です。けれど、その責を、俺は取れない。だから、紫月姉――――」
 深く、深く頭を下げる空夜。
「頼みます」

108 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/21(金) 03:48:16
 だが、紫月は空夜が頭を下げて視線を外した瞬間に空夜に背中を向けた。
「尻拭い?そんな、最初っから負ける事しか考えてないような話には、乗れないね」
 背中を向けたままで立ち上がり、歩き出す紫月。
「今日は、もう休みな。明日、もう一度聞くから……良く考えときな」
 空夜は下げた頭を上げる事なく、紫月の言葉を受け取る。そして紫月は振り返る事すら
しないままに、部屋を出て行った。険しい表情で。
「勝つとか、負けるとか……そういう話ではないのですが……」
 頭を上げないままに呟く空夜。その左目は蒼い輝きを放ち、それに引き摺られるかのよ
うに右目もまた、光を放っていた。それは、空夜が目の力に目覚めた時のような赤。夕依
がそうであるように、空夜もまた、両の目に浄眼を顕現させる事ができたのだろうか。
 だが、その右目の赤は、微かに黒ずんでいた。まるで、乾いた血の色のように。


 部屋を出た紫月は、渡り廊下を通って屋敷の奥にある自分の部屋へと向かっていた。瞳
に怒りの炎を宿し、荒々しく板を踏みながら、歩く。
「ちっ……私とした事が……孤牙の血、少し侮っていたようだねぇ」
 その勢いのままに部屋の襖を荒々しく開け、部屋の中へと入る。その部屋の中は綺麗に
整理されているが、部屋の壁一面を飾る棚はあまり整理されてはいないようだった。大小
様々な陶器の瓶や箱が並び、部屋の中央にある丸い机の上にはすり鉢がある。他にも秤や
油紙などが並び、この部屋そのものが薬研であると言っても良い程に整っていた。
「流離。見たね?どうだった?」
 紫月は丸机の傍にある座布団に座りながら、部屋の隅に居た少女に声をかけた。その少
女は龍禅と話をしていたが、紫月の問いかけに答えて龍禅から離れて紫月の近くへと来て
向かい合わせに座った。白装束に緋袴という服装で、髪は前髪を真ん中で分け、後ろ髪は
肩の下辺りで揃えている。出で立ちだけを見れば、何処にでも居そうな巫女、という印象
なのだが、少女――水冴流離が持つ雰囲気と眼差しは、神聖なものだった。神へと己自身
の全てを捧げ、俗世からは切り離された存在、そんな空気を身に纏う少女。
「紫月さまの見立て通り、かと」
 小さな声で答え、軽く頭を下げる流離。その答えに軽い溜息をつきながらも、納得した
ような表情を浮かべる紫月。その二人に龍禅が声をかけた。
「おい、話が見えねぇぞ。いや、それよりも紫月、お前はあいつを一体どうするつもりだ?
俺に死に場所を、とか言ってたが、あれじゃ使い物にならんぞ?」
 その龍禅の言葉に紫月は笑い、龍禅へと答えた。
「龍禅。あんたが見たのが、あれが、孤牙空夜だとでも思ってるんじゃないだろうねぇ?」

109 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/21(金) 04:13:48
「何?どういう意味だ?」
 言葉に、怪訝な表情になる龍禅。孤牙空夜。その名は流離や紫月から良く聞かされてい
た。強い男だと聞いていた。紫月が言ったように、龍禅に死ぬべき場所を与えてくれる存
在だと、そう聞いていた。だが、先ほど龍禅と対峙した空夜はまるで抜け殻で、確かに死
を想起させる存在としては飛び抜けていたが、肝心の心が壊れてしまっているように見え
た。まるで、弾の込められていない火縄銃のようなものだと感じた。
 それがどれだけ強大な力を持っていようとも、要が無ければ意味はない。だから落胆し
流離に確認をする為にこの紫月の部屋へと来ていた。
「確かに、あれは空夜さまでは、ありません。空夜さまは、あのような御方ではありませ
んもの」
 微笑を浮かべながら、紫月の言葉を肯定しながら龍禅へと語る流離。
「その話は今はいいさ。それより――視えた、かい?流離」
 何かを言いかけようとする龍禅を遮り、流離へと問いかける紫月。流離はその問いかけ
に目を閉じて小さく首を振る事で答える。
「ぶっつけでやるしかない、ってわけだね?分かった。それは、流離に任せる。龍禅には
私から話しとくから、流離も今日は休みな」
「はい。では失礼しますね」
 立ち上がり、部屋を出て行く流離。龍禅は自分が蚊帳の外に置かれているのが気にくわ
ないのか、持ち込んでいた酒を喉へと流し込みながら、空いた片手を軽く流離へと上げた。

 ぱたん。

 後ろ手に襖を閉じ、そこで張り詰めていた気が解けたかのように、流離は廊下へと座り
込んでしまっていた。俯き、両手を顔へと当てて微かに肩を震わせる。
「空夜さま……まさか、再び逢う事が叶うなどとは、思ってもいませんでした。これで、
これで……ようやく、流離は、空夜さまの為に死ぬ事が……叶う」
 呟く流離。双眸から、つう、と流れた涙には、嬉しさと悲しさとが混じりあっていた。
「空夜、さま……」
 さらに空夜の名を呼び、立ち上がる流離。離れとなっている紫月の部屋から屋敷へと伸
びる渡り廊下。屋根はあるものの、壁などはない為に降る雪が運んでくる寒さはそのまま
流離の体を襲う。陽は暮れかけていて、もう辺りは暗くなり始めている。しかし空は灰色
の雲に覆われてしまっている為に、夕焼けなどは全く見えない。ただ、暗さを増していく
だけで、風情と言えばしんしんと降り続ける雪の姿があるのみだった。そして、流離は薄
く口元に笑みを浮かべると、静かに庭へと素足のままで、降り立った。

110 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/21(金) 04:47:49
 白い雪に体を震わせる事もなく、庭木の間へと降り立ち、唄うように言葉を紡ぐ。
「荒塩の潮の八百道の、八潮道の潮の八百会に坐す……」
 神楽などは舞わず、ただ両手を前へと差し伸べて。その視線の先には、荒れる海の姿が
あった。一月ほど前から、ずっと残る雪。雪そのものが降る事は毎日ではないものの、土
に残る雪は決して消えず、決して増えない。例えば湯を沸かして雪にかけたりすればその
時は雪はちゃんと溶けるものの、雪が降ればすぐに元通りになる。
 異常だった。いかに北国とは言え、今のように空は曇ったままで、遙かに高い山の上で
あれば溶ける事なく残る雪もあるが、海のすぐ側という低い場所でこのような事態が起こ
る事など普通ではない。人々は凶事の前触れではないかと噂し合い、不安に怯える毎日を
過ごすが、それらを護るべき国の主は戦に明け暮れる日々を過ごすだけだった。
 まるで、それしかできないかのように。
 そしてその異常が始まったのと時を同じくして、各地に妖怪、魑魅魍魎が出没するよう
になったという話が聞こえ始めていた。山間や暗い洞窟などに入れば、そこは既に人の世
でありながら異界と呼ぶべきものである為に、そういう話は昔からあった。しかし、今回
の場合はまるで違う。例えば、信濃の地では街道沿いに妖怪が出没し、行き来する人達を
襲うという話。国の中で最も守備の堅い、安全であるはずの城の周囲に真っ昼間から、首
だけの妖怪が出るという話。
 人々の不安を煽るには十分すぎる話で、実際に襲われたという者さえもいた。そういう
者達は気がつけば、故郷の墓場に立っていた、などという奇妙な事を話し、命を落とした
者こそいないが、不気味な話としては語り継がれる妖怪や魔の話を上回る。
 どこで聞きつけたのか、流離にその祓いを求める人がこの屋敷を訪れる事もあったが、
流離はそれらの全てを丁重に断っていた。流離は穢れを払う者として生きる身ではあるが
その力はただ一度――生涯にただ一度きりしか、使う事ができないから。
 世の穢れを流し、送り、飛ばし、消す。それぞれの役割を持つ四柱の神。
 瀬織津比売、速開津比売、気吹戸主、速佐須良比売を称して祓戸四柱大神と言う。流離
の家、水冴家はその四柱の中の一柱、穢れを海の果てへと送るという速開津比売を祀る家
として在った。だがその力は時と共に歪み、今では同じ村にある孤牙の家の穢れを受け持
つという為だけに存在していた。当主である者の穢れを引き受け、命を散らしていった。
 力を持つがゆえに、婚姻関係を持つ事も珍しくはなく、その為に何時しか水冴の扱いは
孤牙の分家のようなものになっていたが、その事に流離は思う事などはない。空夜が当主
となった時、許嫁であると空夜に紹介された日。初めて逢った相手だと言うのに、流離は
この人――空夜の為に死ぬ事が自分に課せられた生き様だと、感じた。結局は空夜が夕依
を選んだ事でその関係はうやむやになり、同じ所に居ては辛いだろう、という親の配慮に
よって縁のあった紫月の元へと身を寄せる事となった。

111 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/21(金) 05:10:45
 構わなかったのに、と流離は思う。流離が空夜に恋い焦がれている事は事実だが、それ
に親が気を回す必要などは無かった、と思う。流離は空夜の為に、空夜の穢れを引き受け、
流して死ぬ。それだけが流離の望みであったから。
 傍に居られるのであれば、それは嬉しいとも思うけれど、流離にとって最も優先させる
べき事は空夜の為に死ぬ、それだけであった。それは、幼い頃から孤牙の当主の為に死ぬ
のだと流離に刷り込み続けた水冴という家の罪であるのだが、それはあまりにも当然すぎ
る事柄であったがゆえに、その歪みには誰も気付く事はなかった。
 そして、今。空夜は流離の元へと訪れた。罪にまみれ、穢れにまみれた体で、それを
祓う事ができる流離の所、へ。
 だから流離は微笑む。ようやく、自分に課せられた生き様を全うできると、微笑む。
 それがひどく悲しい、歪んだ生き様だとは理解する事さえできずに。
「空夜さま、龍禅さまにそうするように、流離にも死に場所を与えてくださいましね?」
 雪ははらはらと、勢いを増す事もなく降り積もっていく。雪景色の中で、手を伸ばした
ままで微笑みを絶やさない流離。
 白い雪は、汚れを吸い取り黒ずむ。そして植物や木々が芽吹く春になって溶け、汚れと
共に土へと染みこみ、或いはそのまま流れて海へと至る。土の中の川、大地を流れる川。
それらの流れは大きくなって、やがては海へと注ぐ。
 そして海の彼方へと汚れは、穢れは運ばれ祓われる。
 ならば、雨も雪も自分と同じであると、流離は信じる。真っ白の美しい雪と同じである
事が嬉しい、と感じる。降る雨のあたたかさが、自分にもあると願う。
 それが真実であると想うからこそ流離は、もうすぐ、笑って死ねると微笑む。
 花びらのように舞い散る雪の中、流離は日が完全に暮れて、周囲が真っ暗になるまで
其処に、立っていた……


「それで、答えは出たのかい?空夜」
 次の日、紫月は再び同じ部屋で空夜と向かい合っていた。だが、場所が違う。襖に仕切
られた隣の部屋との境界、そこは畳一枚分だけ高くなっているのだが、その場所に座して
いる。空夜は紫月からは数歩ほどの距離を取って正座していた。
「昨日と変わりませんよ、紫月姉」
 微笑む空夜。けれどその眼差しはどこか虚ろで、微笑みがまるで顔に貼り付けているか
のように、歪に見える。紫月はやれやれ、と肩を竦めながら、視線を厳しいものへと唐突
に変え、空夜へと言葉をかける。
「私は、空夜に、聞いてるんだけどね?」

112 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/21(金) 05:48:50
「紫月姉……?何を?」
 訝しげな視線になる空夜。だが、紫月の言葉は止まらない。
「言霊、名で縛るとは良く言ったもんさ。そうは思わないかい?空夜」
「……」
 何を言おうとしているのか分からない、そんな表情のままで黙り込む空夜。紫月は口元
に、にやり、と笑みを浮かべてそんな空夜の姿を見つめる。
「夕依だって、そうだろ?夕に依る者。夕は夜の前にありて、世を夜へと誘う。その証。
大蛇なんていう世に闇をばらまくような奴は、夕依から来るって事さね。そして空夜……
あんたの場合は空の夜って事だろう?ほんと、良く縛ったもんだ。夕依が誘い、空夜は夜
を決定付ける。大蛇を誘うのは夕依で、その存在を世に放つのは空夜って事さ。おや?知
らないとでも、思ってたのかい?」
 言葉は発しないが、険しい眼差しで紫月を見続ける空夜。紫月は傍らに置いてあった竹
筒を引き寄せて手に持ち、さらに言葉を続ける。
「旋風殿からの書状で、全てお見通しなんだよ、この腐れ爺!」
 怒気と共に竹筒の栓を開ける紫月。空夜は拳を握り締めながら醜悪な笑みを浮かべる。
「させるかってんだ!流離!」
 一瞬早く立ち上がり、空夜の胸に容赦の無い蹴りを叩き込む紫月。空夜は受け身を取り
片膝をついて紫月の隙を伺おうとする。だが、それよりも早く流離の声が響いた。
「目……?右目、右目です!」
 紫月の背後の襖、隣の部屋に待機していた流離がその襖を開け放ち、叫ぶ。その言葉と
同時に流離の横を駆け抜ける黒い影。
 空夜の目が彷徨い、流離と紫月、そして影へと向けられる。そして紫月はその隙に栓を
開けた竹筒を振って、中から水を宙へと散らしながら呪を唱えた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
 九字印と共に発動される術。それは空夜の体を光となって包む。
「これは……?」
 後手を踏んだ、と退こうとする空夜だが、自分の身を包む光があたたかいものである事
に戸惑って、さらに隙を見せてしまう。体に溢れてくる力。それが何なのか、迷う。
「そのまま惚けてろ」
 その空夜の耳に、間近から届く声。我に返って体を動かそうとするが、その言葉の主は
その動きを読んでいたかのように、持っていた刀を無造作に空夜へと突き出した。
「ぐっ、あっ……!」
 空夜の右目に、刺さる刀。深く刺さってはいないが、激痛に呻きを漏らす。影、龍禅は
面白くもなさそうにその呻きを聞き流し、空夜の足を払って、空夜を床へと転がした。

113 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/21(金) 06:11:43
「動かれると面倒なんでな」
 静かに言って空夜の首を踏みつける龍禅。後、僅かでもその足に力を込めれば空夜の首
は折れる、と目で脅す。だが空夜は苦痛に呻きを漏らすだけで、龍禅の足をどかせようと
する素振りさえ見えない。
「龍禅、そのまま動かすんじゃないよ」
 呻く空夜の傍らへと来た紫月はしゃがみ込み、龍禅に声をかけてから、空夜の血と涙が
溢れる右目へと右手を伸ばす。左手には、付与石を作成する道具を持って。
「さて、と。一つだけ教えといてやろうじゃないか。空夜はね、私を紫月姉と呼んだ事
なんざ一度だってありはしないのさ。お姉ちゃんって呼べ、って私が教育したからねぇ」
 にやり、と笑みを浮かべる紫月。空夜は一瞬だけ呻きを途切れさせて、紫月を見る。し
かし、空夜が口を開くよりも早く、紫月の指が空夜の右目へと突っ込まれた。
「がっ……」
 開けた口は、言葉ではなく呻きを漏らす。紫月の指は空夜の眼球をまさぐり、龍禅の刀
で裂かれたそこを蠢く。
「あった、これか。流離!」
 空夜の右目から血と液体にまみれた何かを取り出し、流離へと投げる紫月。流離はそれ
を慌てて受け取り、握り締めて紫月に頷く。そして龍禅はそれを見届けてから空夜の首に
置いたままであった足をどけた。
 空夜の右目は紫月によってかき回されたというのに、殆ど原型を留めている。良く見れ
ば、その眼球――傷が、再生していた。
「後は賭けだね。うまくいくよう、祈っときな」
 紫月の使った術は、薬師が戦闘時などに味方にかける活身という術だった。この術は傷
などを負っても、術の効力が切れるまでは時間と共に、その傷を癒していく効果がある。
眼球を潰してもなお、それが再生して再び見えるようになるかどうかまでは、試した事も
ない為に紫月にも分からなかったが、元々無茶は承知であったし、紫月が今から行おうと
している事には関係がない為に気にはしていなかった。例え空夜の右目が物を見る事がで
きなくなったとしても。
 左手に持っていた付与石作成道具を右手に持ち替え、懐を探って二つの石を取り出す。
それは、空夜が村を出る時に旋風から託された、旋風の目にあった結晶と竜の涙。紫月は
旋風からの書状によって、その存在を知っていた為、夜のうちに空夜の荷物を漁ってそれ
を入手していた。閉じていこうとする空夜の右目の傷口へと二つの石をくっつける。
 結晶はともかく、竜の涙は紫月の手のひらより少し小さい、目には大きすぎる石だった
が、付与石を取り付けるという工程にそれは全く関係がない。付与石は、その名前に反し
て武器や防具に石をそのままの形状で取り付けるというものではないからだ。

114 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/21(金) 06:33:40
 取り付ける前の状態であれば、石の形状をしているが、取り付けた後にはそれは見た目
には全く分からなくなる。武器や鎧、兜そのものに霊的なものとして宿る。例えば刀など
に取り付けた場合、見た目には取り付ける前と全く変わらないのに、その効力はちゃんと
発揮される。それは、付与石が形あるものとしてではなく、形のないものとして刀に宿る
からで、付与石を作成する道具とは実際の所、付与石を霊的なものへと昇華させる為の
儀式の補助をする役割でしかない。
 そして今、紫月は武具などではない空夜の目に付与を行おうとしている。それが成功す
るかどうかは賭けだった。付与石の素材となる石ではなく、ただの結晶であるものを付与
石代わりにできるかどうかも賭けだったし、石の持つ力を増幅するという竜の涙が孤牙の
血の力、などという得体の知れない物に発揮されるのかどうかさえ、賭けだった。
「けどねぇ、これくらいは、してみせないとさ?」
 祈るように呟き、気合いをこめる紫月。
 右手が光を放つ。その光は迷うようにその場で揺らめいていたが、やがて空夜の右目へ
と吸い込まれ、消えた。
 それを見届けて、大きく息を吐く紫月。空夜の右目はもう完全に再生していて、傷が
あった事など分からない程になっていたが、その目は微かに白く濁っていた。
 紫月はそれを確認して悲しそうに目を細めたが、軽く頭を振って立ち上がり、流離へと
向かう。
「紫月さま」
 歩いてくる紫月の姿を見て、ほっとしたように口を開く流離。自分も立ち上がり、紫月
に手のひらを開いて、そこに乗る汚れた結晶を見せた。
「これが、あいつを操ってたってのか?」
 龍禅はちら、と倒れたままで意識を失っている空夜へと視線を向けて紫月に問う。紫月
は頷いた。
「空夜の祖父、孤牙夜刀。その残り滓さ。大した力は持ってないけどね、それでも空夜の
心を縛って都合が良いように動かそうとしてたのさ。名前、言霊で縛られてた空夜には、
この程度の力でも十分に効き目があったみたいだねぇ」
 忌々しげにその結晶を見つめながら答える紫月。
「ま、もう何もできはしないし、用もない」
 紫月は軽く笑って結晶を指でつまんで流離から受け取り、そのまま砕いた。ぱき、と乾
いた音と共に結晶は砕け散り、粉々になって床へと落ちていく。赤黒い結晶は小さな粒と
なって、そこに宿していた妄執と共に、消えた。
「空夜が目を醒ましたら教えとくれ。ちょっと風に当たってくるからさ」
 流離に空夜は任せた、と言いながら紫月は軽く伸びをして、部屋を出て行った。

115 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/22(土) 04:49:23
 そして、残された流離は僅かな間、口元に指を当てて思案に耽っていたが、何かを思い
ついて笑みを浮かべながら、空夜の元へと歩いた。
「……?」
 その挙動に不審な眼差しを向ける龍禅。だが、流離は龍禅の存在を忘れたかのように軽
い足取りで歩いて龍禅の隣を通り過ぎていく。
「空夜さま……うん、空夜さまです」
 仰向けに倒れたままの空夜。その瞳は閉じられたままで、目の傷は既に塞がっていたが
顔の右側を染める血は消える事なくそこにある。乾いて、鮮烈な赤から赤黒く変質してし
まっている血の跡。それを空夜の隣に座って水で湿らせた布で拭き取りながら呟く流離。
 気を失ったままの空夜の姿に何を見たのか、その笑顔は想い人に逢う事ができた少女の
瞳と何ら変わる事はない。幸せそうな、微笑み。龍禅はそんな様子を見せる流離に意外な
表情をするが、さすがに邪魔するのも悪い、と静かに二人から距離を取る。
 そして、空夜の顔の血を拭き取った流離は、おずおずと両手を伸ばし、空夜の頭を持ち
上げた。空夜を起こさないように、ゆっくりとした優しい動きで、空夜の頭を自分の膝へ
と乗せる。
「今は、ゆっくりお休みくださいまし」
 指に空夜の髪の毛を触れさせながら、小さな声で呟く流離。その顔は笑顔に支配されて
いて、これ以上の幸福はない、と眼差しで語る。
「……ったく、そんな顔もできるってのに……な」
 龍禅は静かに襖の戸を閉めながら、振り返って流離の顔を視界に収め、そこで動きを止
めて思わず呟いていた。その声に含まれるのは、苦い響き。流離が空夜に望む事、それを
流離からは聞かされているからこその、苦衷。
 龍禅は流離を美しい、と思う。女に興味が無いわけではなく、気が向けば例えば遊女等
を抱きもするし、酒も呑む。だがそれ以上に龍禅が心惹かれるのは戦場の匂い、戦う事。
一瞬の間に命を削る、そんな戦いだった。だから、朴念仁などと紫月には良く言われるし
実際そうなのだろうと龍禅は思う。女心を理解しようとするよりも、戦場で対峙する相手
の心を知ろうとする方が面白い。だが、そんな自分でさえも流離は美しいとは思う。
 けれど、それは紫月のような奔放な、自由な美しさではなく、籠の中で産まれ、育った
ものが持つ美しさ。籠の中で産まれ育った鳥は籠の天井を無くしたとしても、空を自由に
飛ぶという事を知らないがゆえに、そのまま壊れた籠の中で生を終える。そんな話を龍禅
は誰かから聞いた事があった。流離を例えるのならば、まさにそれだった。
 それは、寂しいものではないか、と龍禅は思う。立ち止まったままの自分に他人の事を
言える義理などないがそれでも、惜しいと思う。だが、かけるべき言葉を持たないゆえに
龍禅はただ、流離の笑顔を見つめながら襖を閉める。できる事はそれだけだった。

116 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/22(土) 05:11:18
「空夜さま……」
 閉まっていく襖の音と共に、流離の呟きを背中に聞きながら。


「ん?あんたも風に当たりに来たのかい?」
 部屋を出た龍禅に紫月が声をかける。襖一枚を隔てて、廊下となっている縁側。そこは
昨日龍禅が酒を飲んでいた場所と違って、橋の欄干のような柱が設けられている。柱と柱
の間には木の板が張られ、外からはそこを通る者の上半身しか見えないような造り。だが、
これは外から覗き見をしようとする者への備えではなく、降り積もる雪が高く積もる為に
その雪が廊下の上に積もらないようにという配慮。
 龍禅などは、屋敷のどの部屋にも縁側を配置するような、実用性の無い造りをしてわざ
わざこのような備えをするのであれば、最初から普通に家を造れ、と思うのだがこの屋敷
の主は紫月である為に、そんな事を言っても鼻で笑われるのが常だった。
 そして、紫月はその欄干の手すりになっている部分に腰掛け、足をぶらぶらさせながら
肩越しに降り続ける雪を見ながら、龍禅に声をかけたのだった。
「俺にも流離の邪魔をしねぇくらいの配慮はできるってだけだ」
 紫月の隣へと歩いて、手すりに背中を預けて立ちながら龍禅は答える。その顔には苦笑
が浮かんでいた。
「ふうん。人がさ、それが自分の幸せだって言ってる事を、とやかく言うつもりはないけ
どねぇ……どうしても、不憫だと思っちまうのさ」
 風に吹かれてゆらゆらと揺れながら、降り続ける雪。今日の空も昨日と同じ灰色。
「同感、だ」
 短く答えて瞳を閉じる龍禅。紫月は足をぶらぶらさせる事を止めずに、俯く。
「で、あんたはどうするんだい?」
「俺か?俺は……まぁ、そうだな。あいつがお前の言った通りの奴なら、付き合ってやる
さ。あいつが滅ぼそうとしているのは八岐大蛇だったか。素盞鳴の気分を味わいながら死
ぬのも、悪くない」
 目は閉じたままで、口元にだけ薄い笑みを浮かべて答える龍禅。そして紫月は龍禅の答
えに力無く笑った。
「馬鹿だね。素盞鳴は八岐大蛇を倒したんだ。相討ちで死んだわけじゃないよ」
 龍禅はその紫月の言葉には何も答えなかった。そして、紫月はさらに口を開く。
「ねぇ、龍禅。気付いてるかい?」
 紫月の顔から笑みが、消えた。
「天津の神はとっくに動いてやがるって事を、さ」

117 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/22(土) 06:07:15
「あぁ。分かっている」
 渦巻く怒りを無理矢理に胸の中に留めているかのような、紫月の声。低く、くぐもった
声。だが龍禅はその問いかけに、それがどうした?と静かな声で、事も無げに答えた。
「できすぎているからな……話が、うますぎる。心を縛られたあいつ、そんなあいつを解
放する事ができるお前と流離――そして、九頭竜を祀る家の血筋の俺がいる。こんな話が
たまたま転がってる訳がねぇだろ?」
 閉じていた目を開け、自嘲めいた笑みを浮かべながら語る龍禅。
「分かってて、それでも空夜と共に行くつもりかい?」
 足の動きを止め、言葉を紡ぐ紫月。そんな紫月に笑みを消して答える龍禅。その表情は
二人ともころころと変わるが、瞳に浮かぶ強い光は決して変わる事はない。
「天の配剤とでも言うんだろうさ。俺らはそれに踊らされてるって訳だな。だがな、紫月」
 体を起こし、紫月に向かい合って視線を合わせながら、強く言う。
「踊り方くらいは自分で決める。それが、俺の道、って奴だろう?」
「ふん、格好つけちゃってさ。こんな時は嘘でも……やっぱりお前と一緒にいる、とか言
うのが粋な男ってもんさ」
 真っ直ぐに龍禅の視線を受け止める紫月。
「嘘は、嫌いなんじゃなかったのか?」
 紫月の言葉に、微かな苦笑を浮かべながら答える龍禅。けれど、その瞳からは強い光は
すでに失われていて、あたたかい眼差しが代わりに在った。
「大嫌いだね。大っ嫌いだから……欲しくなるのさ」
 弱く肩を震わせながら呟くように言う紫月。だが、その瞳は微かに揺らめいているもの
の、少しも濡れてはいなかった。
「泣いて、それでも引き留めないのがいい女だと、俺は思うがな」
「やっぱり、あんた朴念仁だね。佳い、粋な女ってのはこうするのさ」
 龍禅の言葉に紫月は笑みを見せた。そして、右手を伸ばして龍禅の頭を引き寄せ、唇を
重ねる。手すりに座っている紫月と龍禅の頭の位置は丁度同じで、ほんの少しの距離しか
離れていなかった二人は容易く一つの影となる。
 ほんの束の間だけ唇を重ね、離す紫月。手すりからとん、と廊下へと降りて龍禅の隣に
立つ。
「龍禅。踊りきって生きていたなら、私に帰れ。そしたら……狗凪の名、捨ててやる」
 それだけの言葉を残し、紫月は龍禅に背中を向けて歩いていく。頬が微かに朱に染まっ
ているが、瞳には笑みが浮かんでいた。
「なるほど、紫月。佳い女だよお前は。ならば俺も誓おう帰ったなら、九神の字は捨て、
紅として紅神を名乗ると。お前が昔、そう願ったように」

118 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/23(日) 04:51:32
 その言葉に、一瞬だけ歩を止める紫月。しかし、振り返る事はなく、すぐに歩みを再開
して立ち去っていく。龍禅はそんな紫月の反応を見ながら手すりにもたれかかり、そして
空を見上げていた。
 龍禅の目に映るのは止まることなく、そして止むことなく降り続ける雪。その雪を見つ
めて何を思うのか。
「死地へと赴き、なお帰る、か……」
 誰に言うでもなく、ただ呟きを漏らしていた。
 そして龍禅から離れていく紫月は、一筋――たった一筋だけ涙を零していた。立ち止ま
った瞬間に溢れてしまった涙。龍禅にかけられた言葉に、誘われてしまった。龍禅の言葉
は昔、紫月が戯れのように龍禅へと言った言葉だった。

 九神か。九は苦しみを思わせるから好きじゃないね。どうせなら、紅の神で紅神の方が
いい。紅は私の好きな色だしさ。

 そんな、何でもない言葉。龍禅は、家に拘りがあるわけではないが名前を簡単に変える
事などできない、と笑いながら答えた。そんな、昔の……龍禅と紫月の想い出。
「…………馬鹿」
 紫月にしか聞こえない程の小さな声。たった一言だけ呟きを漏らす紫月。けれどその顔
は、一筋の涙を頬に伝わせていながら、これ以上ないくらいに幸せそうな笑顔に包まれて
いた。


 そして、二刻ほどの時が経ち、空夜は目を醒ました。
「……久しぶりだな、流離」
 目を醒ましたのと同時に、自分の頭が流離の膝の上にある事に気付いて、少し照れくさ
そうに微笑みながら、言葉を発する空夜。その空夜からは邪気はまるで感じられず、流離
が良く憶えている空夜の眼差し、それがあった。
「右目は……そうか……」
 嬉しさを顔一杯に浮かべ、何か言葉を発しようと口を開く流離。だが、何も言葉として
は出てこず、ただ頷く事しかできなかった。そして空夜は眉を顰めて視線を巡らせて目を
動かしながら、己の右目が何も映してはいない事を理解して小さく呟く。その声には少し
だけ悔しそうな感情が混じっていた。
「流離、ありがとう」
 空夜は体を起こし、流離へと向き直って座り、優しく声をかけた。

119 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/23(日) 05:30:01
「空夜さま……」
 ただ空夜の名を呼び、微笑みながら涙を零す流離。空夜は流離に微笑みかけ、その背後
へと視線を向かわせながら表情を変える。
 その視線の先には、腕組みをしてにやにやと笑っている紫月の姿と、その隣に立ってい
る龍禅の姿があった。真剣な眼差しで紫月を見る空夜だが、紫月の笑みは消えない。
 数瞬だけ見つめ合い、空夜は軽く肩を落として溜息をつきながら紫月に声をかけた。
「……お姉、ちゃん」
 頬を朱に染めながら。
「よーし、それでいい。ま、この年になってそう言われるのも何だかむず痒いしさ、後は
空夜の好きに呼んでいいさね」
 肩を震わせながら笑い、答える紫月。龍禅は何をやっているんだか、という視線で紫月
を見ながらも空夜に感心していた。右目が見えなくなっているという動揺を少しも見せず
に紫月のお遊びに付き合う空夜。紫月が行ったという教育がどんなものだったのかを龍禅
は知らないが、それは大したものではないだろう、と思っている。ならば、それは幼い頃
の、ただの繰り言でしかない。
 であるのに、それを忘れず、そして己の身に降りかかった災難とでも言うべき、失明と
いう事態。その当事者でありながらそれを今、この一瞬だけだとしても忘れる事ができる
という事。その強さを龍禅は好ましいと思った。
「それでは、姉上と。俺にとって、貴女が姉である事に変わりはありませんから」
「そりゃ嬉しいね。で、空夜。あんた……憶えてるね?」
 軽く笑って、瞬時に眼差しに真摯な光を宿して空夜に問いかける紫月。胸の下で組んだ
腕はそのままに、座る空夜を見下ろしながら。
「はい、しかと。この右目が見えなくなった訳も、何を口走ったのかも、全て憶えていま
すよ。自分の体が、どうなっているのかも、知っています」
 一瞬。ほんの僅かだけ流離へと視線を向け、答える空夜。紫月と同じように瞳に真摯な
光を浮かべ――それは、左目だけだが――さらに、言葉を続ける。
「人々を護るという組織。その事に関しては、俺からもお願いします」
「……」
「少なくとも、言った事に間違いはない。ならばそれが天津の意思だとしても、拒む理由
にはならない。そう、思います」
 右目に宿っていた亡霊が言った言葉。それは、確かに真実だった。天津……例えば仇敵
たる素盞鳴などが顕現されては厄介だと大蛇が、素盞鳴を怖れるがゆえに口にした事であ
っても、天津と国津が再び戦など起こしてしまえば、人など到底生きられない。それは、
紛れもない真実。

120 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/23(日) 05:56:04
 殺しても飽き足らない、狂おしいまでに憎む相手だとしても、己が力を再び取り戻すま
では忌避し、逃げる。その冷静な判断こそが大蛇の武器の一つであり、俗に執念深いとさ
れる蛇の、目的の為ならば手段は問わぬ、という本領だった。
 そして、天津神。人に大八島を与えてからほぼ二千の年を数えた。時の移ろいと共に神
は姿を見せなくなって久しい。信仰は揺るがず、消え失せてはいないものの、神代の時と
違って人は神の為ではなく、己の為に生きる。
 戦国の世などと言われ、多くの武将がこの国の覇権を握らんとする世。このままの流れ
が続くのであれば、いずれどこかの将が覇権を獲るだろう。それはこの国の支配者がその
将になるという事。それは、この世が人の世であって、神の世ではないという事。人とい
う存在にこの大八島を与えたから好きにさせているのか……それとも、何か別の思惑でも
あるのか。それは人には分からぬ事ではあるが、はっきりとしている事がある。
 それは、天津はこの世に降る事を望んではいないという事。
 いよいよとなれば、降るのかもしれない。大蛇もそれを怖れている。だが、天津の神々
は自分たちが降らなくとも良いようにしている。そうとしか思えなかった。それは、自分
が赴き降るまでもない、と一降りの剣を地に落としたように。導く事を八咫の鴉にさせて
己は高天原からそれを見ているだけ、というように。
 だが、大蛇が世を支配し、大八島が国津に戻る事は決して良しとはしない。けれど、己
自身が動く事はしない。ただ、己が選んだ者にそれを成させる。
 神代の時から変わらぬ、天津の手管。それを感じて龍禅などは踊らされていると称し、
流離はそれでもいいから空夜の為に、と微笑み、紫月は眉根を寄せる。
「私が、それを承知すると思ってんのかい?」
 険しい表情とは裏腹に、静かに空夜に問いかける紫月。
 空夜は、笑った。
「思っています。それが誰かの思惑だとしても……泣く人がいる。悲しむ人がいる。そん
な人達を、運命なんていう言葉で諦めさせてやるほど、姉上は優しい人ではないから」
 呆気に取られる紫月。顔には驚きと満足とが混同していた。龍禅はその空夜の言葉を聞
いてぷっ、と吹き出した。
「お前の負けだな、紫月」
 紫月の肩を軽く叩いて、笑い続ける龍禅。
「うるさい、黙れ。あー、分かった、分かった。……二つ条件が、ある」
 背後で笑う龍禅に肘を叩き込んで黙らせながら、頭を掻く紫月。空夜を見つめながら、
言葉を続ける。
「一つ。その組織とやらの初代は空夜、あんただ。だから――――いや、それはいい。も
う一つは……流離の命を、背負う事。あんたに、それができるかい?」

121 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/23(日) 06:19:31
 だから、死ぬな。生きて、帰ってこい。そう言いかけて、言えなかった紫月。その胸に
うずまく心は何を思ったのか。空夜の眼差しから、何を感じたのか。その言葉を言えない
ままに胸の奥底へと押し込み、流離の命を背負えるかどうかを問いかける。
 それは、流離の死を背負って、前へと進む覚悟があるのか否か、という問いかけ。流離
はその言葉に表情を硬くして固唾を呑む。流離は空夜にはそうと伝えぬままに、空夜の身
を蝕む穢れの全てを引き受けるつもりだった。
 それを言ってしまえば、空夜はきっとそれを拒むと感じていたから。昔の空夜。優しく
て、自分以外の者が自分の為に死ぬなど、決して認めないと流離に語った空夜。水冴の家
の役割は孤牙の当主の穢れを引き受けて死ぬ事。ならば、そんな穢れなどに負けない程に
自分が強くなれば、流離は死ななくてもいい、と強い眼差しで語った空夜。
 幼い頃、流離と空夜が会ったのはただの一度きりだった。空夜に許嫁だと引き合わされ
た逢瀬が、ただ一度きりの想い出。後は文で言葉交わし、空夜が夕依を選んだ為にその後
は文さえ交わせなくなった。そして空夜は、流離と会った時にそんな言葉を流離に告げた。
その時はまだ当主ではなかったものの、いずれ空夜が当主となる事は明白で、そんな空夜
の為に死ぬ。その為だけに生きてきて、その先も生きる事が自分の道だと思っていた流離。
 そんな流離にかけられた言葉。流離の生き方を否定するような言葉。
 けれど、それを不快だとは思わなかった。そんな空夜の優しさがひどく嬉しかった。逢
う前はどんな人なのだろうと不安に思いもしたけれど、その時にこの人の為ならば死んで
もよいと思った。誰からも教えてはもらえず、誰からも与えられなかった優しさ。それを
与えてくれた人の為ならば、死んでもいいと思った。その瞬間に流離は空夜に恋をしたの
だろうと思う。
 孤牙の為に死ぬ水冴。その言葉が、流離の中で変わった。役目ではなく、望みへと転じ
た。恋い焦がれる空夜の為に死ぬ自分。行為としては全く変わってはいないけれど、流離
にとっては天と地ほども違う。空夜には同じもの……流離の死を背負わせてしまうという
事には変わりはないけれど。
 流離は、その事だけは悲しいと思う。生きろと言った空夜に逆らい、死ぬ自分。空夜に
背き、空夜の望まぬものを与えて消えていく自分。だから何も言わないつもりだった。
 空夜が知らぬ間に全てを成して、死んでいくつもりだった。空夜からの何も求めてはい
なかった。それは、歪んだ愛。空夜と何度も逢う事ができていれば、空夜が夕依を選ばず
流離を選んでいたならば、いつかはその歪みも真っ直ぐになったのかもしれない。だが、
空夜は夕依を選び、流離を選ばなかった。だから、流離は歪んだままに空夜を愛する。
 例えば、自分が成した事に空夜が心を揺らされ、空夜の心の中に場所を得る。
 そんな事さえも望んではいないままに。だから、流離は言葉を紡ぐ。
「空夜さま、流離は……流離は、空夜さまの為に――死にたい」

122 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/24(月) 05:00:11
 胸に手をあて、必死な表情の流離。紫月と龍禅は何も言わずにただ二人を見守っていた。
 そして空夜は流離を見つめたままで静かに口を開いた。
「流離。俺に残された時間がどれくらいか分かるか?」
 既に空夜の体の大部分を蝕んでいる穢れ。それが全身に回ってしまうまでにどれくらい
の時間がかかるのか。或いは、穢れが体の重要な部分を痛めつけ死ぬまでに、動くことさ
えできなくなるまでに、どれだけの時間が空夜に残されているのか。それを問う。
 流離には空夜の質問の意図が分からなかったが、それでも意識を集中して空夜の体にあ
る穢れを視て、おおよその時を導き出そうとする。
「はっきりとは、申せません。けれど……恐らくは二月か三月。その時が過ぎれば空夜さ
まはきっと、死に至っておしまいになられます」
 空夜が死ぬという言葉に悲しそうな顔をしながらも答える流離。穢れの根本であった
右目の結晶は既に取り除かれている。だが、それが無くなっても空夜の身にある穢れはま
るで一つの生き物のように空夜の体の中で蠢いているように流離には視えていた。結晶は
孤牙の血が産み出すもの。ならば、孤牙の血そのものが穢れているのだろう。だからこそ
孤牙の代々の当主は水冴という身代わりを必要としていたのだろう。
 流離が聞いた話、学んだ事。その知識から言えば、黒く蠢く穢れは空夜の全身を糸を張
り巡らせているかのように蝕んでしまっている状態……そんな状態になっているのであれ
ば、それが影響を及ぼしていないはずがなかった。体の内部から感じる激痛。指の先が痺
れているような不自由。様々な力とて、ろくに出す事もできないはず。
 なのに、空夜はあるはずのそれらを微塵も感じさせる事なく、流離を見つめる。己自身
を完全に律する事が求められる忍びなどは、痛みさえも感情の一つと割り切る事ができる
という。そうやって傷を負った腕や足などが使い物にならなくなった、と判断すれば即座
に呻きの一つも上げずに切り落とすのだと言う。
 だが空夜は忍びなどではない。そんな空夜が何故そこまでできるのか、流離には分から
なかった。流離の答えを聞いた空夜の瞳を見るまでは。
「そうか。思っていたよりも、もう少しだけ長く時が残されていたか」
 呟きながら流離に微笑む空夜。その瞳にちら、と一瞬だけ苦痛が浮かぶ。だが、すぐに
それは別の心に塗りつぶされて消え失せる。苦痛を受け流した感情の名は、自嘲。微かに
口元を歪めて、微笑んでいる空夜。
 自分の姿を嘲笑う。それが示すのはただ一つ――空夜はその痛みが自分に与えられる事
を当然と思っている、という事。許される事を望まず、己の選んだ道に後悔さえもなく、
ただそれは罰だとそれを受け入れている。骨が砕かれているかのような痛み。呼吸をして
も痛む胸。頭は軋むように痛むだろう。そして、見えなくなった右目。それらの全てを罰
だと、己に課せられた罰だと受け入れ、死期さえも悟りながら空夜は決して、退かない。

123 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/24(月) 05:37:05
 それは、どれほどの心の強さなのだろう。それは、どれだけの強い、夕依への想いなの
だろう。その先に決して幸せはなく、その道程さえも苦痛にまみれた酷い道。
「空夜、さま……」
 そんな空夜の心を感じ取った流離の双眸からは、知らず涙が溢れてしまっていた。それ
は空夜への情、そしてやはり自分は空夜を想って良かった、という心。
 空夜は涙に濡れる流離の頬に、そっと手を触れた。
「流離。俺は、その残された時は……流離の為に生きようと思う」
「空夜、さま……?」
「二月か、三月――その時を、流離の為に生きる。その果てに…………流離の命をくれ」
 静かに、淡々と語る空夜。だが、流離はその言葉を嬉しく思いながらも激しく首を振る。
「いけません、空夜さま!それは、なりませんっ」
 頬に触れる空夜の手を弱々しい力で押しのけながら。
「流離は、空夜さまの為に死ぬ。その事に躊躇いなどありません……それに、それにっ!」
 言葉を切り、唇を噛みながら空夜を見つめる流離。心が激しく揺れ動き、溢れる涙で
空夜の姿が微かにぼやける。
「そんな幸せな時を知ってしまったら、流離はきっと、死ねなくなります。未練で、夕依
さまから空夜さまを奪いたくなってしまいます……」
 流離の悲痛な慟哭が響く。後悔などはない。空夜の為に死ぬため、それだけの為に生き
てきたのだし、空夜から何かを欲しいと望んでいたわけでもない。だが、そんな流離の歪
みでさえも決して無くせないものがあった。
 愛するだけでよい、と本当に心の底から思える程に恋を重ねてもいなければ、愛された
くないと空夜の心を否定できるほどには、生を捨て切れてはいなかったから。けれど流離
のそんな心の動きは人であれば当然の事だった。人は、人を愛する時には同じように、愛
されたいという欲を捨て去る事などできはしない。ただ誰かを、傷ついた者を救うという
行為にさえも、救いたい、という欲がある。
 生きる事を望めば生きたい、という欲に動かされ、それを望まねば、死にたいという欲
に支配されるだけの事。流離が、自分の心の奥底に気付いてはいなかっただけで、歪みは
流離がそれを自覚するだけの意識を妨げていただけにすぎない。
「そうなった時は、俺に夕依を愛する資格が無かったというだけの事だ。流離が気に病む
事はない。それに――俺は、流離の気持ちを利用しようとしている。流離の為に生きると
言いながら、俺は流離を愛する事はできない。例えば流離が俺を求めてきたとしても、そ
れに答える事は決してできない。それでも、を許せる程に俺は強くはない。だから、流離
は俺を恨んでくれていい。憎んでくれていい。俺は、愛せないひとに、俺の為に死んでく
れなどと言う、恥知らずな男だから」

124 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/24(月) 06:17:40
 空夜は語り続ける。
「もし、俺が倒れてしまっても、姉上がいる。村には綺沙裏も朱夏も、そして恐らくは、
天津の手の者もいる。この見えなくなった右目のように、俺一人で全てを成し遂げる事な
んて無理だと分かってる。だから、流離には今、決めて欲しい。こんな男の為に命を捨て
る事ができるのかどうか、その答えを出して欲しい。無理なら、俺は今すぐにでもここを
発って夕依の為に命を賭けるし、流離ができるというのならば流離を信じる。流離が言う
ように最後に迷っても、俺は流離を恨まない。流離……俺が、残された時を流離の為に生
きると言うのは、俺にはそれくらいしかしてやれる事がない、それもあるが――」
 言葉を切り、優しく微笑みながら流離の頬に再び手を触れる。流離は空夜の言葉を聞き
ながら、ただ涙を流すだけ。そして紫月と龍禅は動かない。
「俺は、流離の事をもっと知りたいと思う。きちんと向かい合って話すのは、これで二度
目。文ではやり取りをしていたけれど、俺は流離という人を良く知らない。流離が俺の為
に死んでくれるというのなら、俺はきちんと流離の命を背負わなければならないと思う。
二月か三月……短いけれど、その時を流離の為に使って、流離の事をきちんと知って、今
よりも多くの流離を知って、その全てを俺は背負っていきたい。そうでなければ、俺は、
きっと夕依を救う前に……流離の重さに潰されてしまうだろうから」
 だから、これはただの自己満足にしか過ぎない。流離が気に病む事など一つもない。そ
う視線で語りながら言う空夜。自分の為に死ぬという少女。その行為の重さに潰されない
ようにしたい、それだけの事。自分の目的――夕依を救うという事。それだけの為に自分
は生きているから、それを成す為に流離を利用する、と語る空夜。
 それは言わなければ決して分かりはしない事。けれど空夜は自分の心の全てを流離へと
語って、その上で流離に選べと言う。流離を信じると言う。愛する男にそんな事を言われ
て、それを拒否できる女がいるはずもない。それが空夜の偽らぬ心であって、心の底から
流離の後悔しない道を選んで欲しいと思っていたとしても、それを拒否する事など流離に
できるはずもない。
 或いは、そうと分かっているからこそ空夜は己の本心を告げたのか。
「流離。少しでも迷ったなら、できないと言ってくれ」
 言葉を紡ぎ出せない流離に、空夜は流離の瞳を真っ直ぐに見つめて、言った。息を呑む
流離。だが、両手で涙を拭って微笑む。
「流離は、空夜さまの為に死にたい。この気持ちごと、この命……空夜さまに捧げます」
「そうか。なら今、この時より……流離の命は俺のものだな」
 微笑みに微笑みで返し、言葉を紡ぐ空夜。こくん、と頷く流離。空夜は軽く目を閉じ、
僅かな間思いを巡らせ、瞳に強い光を宿らせながら目を開いた。そして、流離に告げる。
「俺と違って流離は強いな。俺は弱い……弱いから、流離の命を貰う事はできない」

125 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/25(火) 05:37:35
「空夜さま!?」
 戸惑いと共に非難めいた声で空夜の名を呼ぶ流離。
「その想いだけで、いい。それだけで十分だ。ありがとう、流離。俺の為に死んでくれる
と言う人がいる……だから、俺はそんな人を死なせない為に生きる事ができる。それに、
言っただろう?俺は、穢れなどには、負けない」
 眼差しは優しさに満ちて、流離に言い聞かせるかのように言葉を紡ぎ出す空夜。
「けれど、空夜さまの体を蝕む穢れは……そんな、気の持ちようでどうにかなるようなも
のではありません!身を、痛みが巡っておられるはず……いいえ、そのような痛みだけで
はありません。穢れは空夜さまの心も壊して、冒して、何も分からなくしていく……その
うえ、右目までお失いになられて、そのような有様で夕依さまを救う事など、できるはず
がありませんでしょう?どうか、どうか流離の命をお使いになってくださいませっ」
 だが、流離はそんな事は聞けないと首を激しく振りながら叫ぶ。
「流離。忘れたのか?俺は、俺以外の誰かが俺の為に死ぬ事など決して、認めない。それ
にな、流離……流離の想いは、命は……俺には、重すぎる。俺は弱いと言っただろう?
だから、夕依の想いだけしか背負えない…………済まない」
 試すような真似をして悪かった、と小さく告げながら流離から視線を逸らす空夜。横顔
で夕依の想いを背負い切れているのかどうかも怪しいけれど、と苦笑を浮かべる。それは
流離への拒絶の言葉。
「空夜さま……もし、流離が……断っていたならば、どうしましたか?」
 唇を噛み、眉を寄せて呟く流離。その身にあるのは、紛れもない怒り。そんな流離の様
子を見て、紫月や龍禅は驚きの表情を浮かべていた。大人しく、いつも柔らかい微笑みと
共にあった流離が、このように怒りを露わにするのは初めてだった。
 そして空夜は流離の問いかけに視線を戻し、流離の瞳を見つめながら口を開いた。
「その時は孤牙の当主として命じただろうな。水冴の任を解く、と」
 流離が断ったなら、それは間違いなく嘘である。自分の為には死なない、と言っておき
ながらも、きっと自分の為の死ぬ。流離ならば間違いなくそうする、と言外に言いながら
空夜は告げた。
 その瞬間、ぱん、という小気味のいい音が響いた。空夜の頬が赤く染まる。流離が手を
翻して空夜の頬を張った音だった。
「本当に、ひどい御方です、空夜さまは。気付かぬままであれば、幸せだと勘違いしたま
まで、流離は死んでいく事ができましたのに。心を揺さぶり、その奥に気付かせて、その
想いを振り払うなんて、本当にひどい……けれど、そんな空夜さまだから……そんな、空
夜だからこそ……流離は、心の底より空夜さまをお慕い申し上げておりました」
 ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、怒りの表情を歪めていく流離。

126 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/25(火) 06:04:37
「俺は、流離にはこの先を生きて欲しい。流離はまだ、色々なものを持っている。そんな
流離が何も残っていない俺の為に死ぬ事はない。水は綿津見の住まう場所だ。そんな所で
はなく、この大八島に、大地に生きて欲しい」
 流離の歪みを無理矢理に正し、怒りを引き出した空夜。張られた頬に手を触れる事さえ
せずに、ただ真っ直ぐに涙に濡れる流離の瞳を見つめ、静かに言う。
 だが、流離は何も答えず、涙を拭って空夜に背中を向け、まうで空夜の視線から逃れる
ように部屋を駆け出て行った。その後に続く紫月。一瞬だけ空夜を見る紫月だが、眼差し
には心配するな、という心と共に良くやった、という誇らしげな笑みも浮かんでいた。
「損な役回りだな」
 龍禅は微かに苦笑を浮かべながら空夜と向かい合って座った。
「流離も、孤牙の血の犠牲者です。巻き込めません」
 寂しそうな微笑みを浮かべ、龍禅に答える空夜。
「普通に話して構わねぇよ。だがお前、妙な気配をしてたな?何をした?」
 軽く手を振り、堅苦しいのは抜きだと身振りと表情で示しながら空夜に問いかける。空
夜が成した事。流離の心の歪みを正し、流離に真っ当な心を気付かせた事。それは流離が
空夜を想っていても、そう簡単にできる事ではない。そして龍禅は空夜の様子、空夜が放
っていた気配。それに妙なものを感じた気がして問いかけていた。
「大した事ではありま……大した事じゃない。水冴の家は孤牙の為だけに存在していたか
ら、その血に薄いけれど孤牙の血を宿している。言葉だけでは流離は絶対に退かないと分
かっていたから、それも利用して流離に働きかけていただけだ」
 龍禅の視線を感じて言い直し、普段の口調そのままに龍禅に説明する空夜。水冴の家人
は孤牙の為に死ぬ。それは約束事ではあるが、命がかかっている以上はそれが必ず守られ
るとは限らない。だから孤牙の家は一度だけ水冴の者と契った。その身に流れる血に孤牙
の血を混ぜ、そこに呪いを込めて。
 水冴は孤牙には決して逆らえない。そういう呪いを。
 だから、空夜はそれを僅かに顕現させた。言葉で語りながら、意思を込めて。流離はそ
の力に気付き、それが空夜が流離を死なせたくないという想いから来ているものだと理解
していながらも、それが許せず、怒った。
「なるほど、そりゃあ嬢ちゃんは怒るわな。だがお前も不器用だな。もう少しやりようが
あるんじゃねぇのか?」
 笑いながら言う龍禅。だが空夜は首を降る。
「俺には、時間が残されていない。流離は二月か三月と言ったが、本当はもう少し生きる
事ができる。村を出て二月が過ぎたから……後、八月ほどか。だが、それは生きているだ
けで、その時には俺の心は砕けて無くなっているはず。だから、残されているのは僅か」

127 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/26(水) 06:15:41
「やけに細かいな」
 ぽつり、と呟く龍禅。その根拠は?と視線で問いかける。病に冒された人がもうすぐ死
ぬなどと言ったり、その最中にあって少しでも体調が良くなればまだまだ大丈夫だ、と言
ったりもする。薬師や医道に精通した者であれば様々な知識からそれを導く事もできるの
だろうが、空夜は紫月のように薬師ではなく、医の心得もあるかもしれないがそれは戦場
などで受けるような外傷のものにしか過ぎないはず。
 そして、穢れという呪術的な意味合いのものであれば空夜が古い家で、そういうものに
長けているとはいえ、それもまた専門という点では流離には劣るはず。そう考えた龍禅は
空夜に疑問の眼差しを向けたのだが、空夜は再び首を振った。
「そういうものではないんだ。大蛇が、俺ではなく夕依に宿った理由、それが全て」
 言いながら龍禅を見る空夜の眼差しは、恐ろしいほどの冷たさ。そこには怒りや悲しみ、
呪いにさえ達するであろうほどの負の感情が渦巻いている。
「女は、いのちを産み出す事ができる。新しい生命を胎内で育て、この世に産み落とす事
ができる……そういう事だ。年月など関係はない……俺が、夕依を抱くという行為。それ
が引き金となって夕依は子を成すという事を認識する。他の誰でもなく、俺の、俺と夕依
の子だからこそ夕依はその全てをかけて、その胎内にある存在をこの世に産み出そうとす
る。俺の身を蝕むのは大蛇の妄執。産まれ出でようとしているのも同じ。だから、俺がこ
のまま死ぬ事を大蛇が許す事などない。その呪いによって心を砕かれ、いずれは大蛇の思
うがままに、意思を持たない道具に成り下がるはず」
 順序などはどうでもよい、と空夜は語る。夕依の胎内に宿った存在が十月十日の時を過
ごすという事。夕依が空夜と契るという事。その二つが夕依の身に起こる事で大蛇降臨の
式は整い、大蛇はこの世に生まれ出る。そう語る。
 それは、空夜が村を出た夜に父――旋風から聞かされた事でもあった。
「なら今、自分で命を断つのが一番良いと思うがな」
 冷徹な答えを返す龍禅。紫月に世の人を救うという組織の存在を願うのであれば、その
事よりもまず、今以上の破滅を引き起こすかもしれぬ芽は潰しておくべきだ、とも語る。
 その組織とやらは例え大蛇の話が無くとも、確かに必要なものかもしれない。世は戦国
の最中で、争いは絶える事はない。力ある者は自身が世の覇権を握る事を狙い、或いはこ
れと決めた者の為に命を散らして戦う。そんな中では力を持たない人々は確かに不幸な存
在であるのだろう。理不尽な死に焼かれ、運命を呪って死んでいく。
 だが、それでも八岐大蛇などという神話に謳われる凶つ神が顕現するよりは、よっぽど
ましではあるに違いない。戦国の世とて、人同士の争いであるには違いなく、人には手の
届かない存在――天津神や国津神のような超常のものに降される結末よりは、人が人を憎
むというありふれた図式の方がまだ救いはある。

128 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/27(木) 04:08:16
「龍禅、と言ったか。悪いが、その答えはとっくに出した。俺は命尽きるその瞬間まで
戦い続ける。往生際が悪いと詰られたとしても、大局を見抜けぬ愚か者と称されようとも
俺は、自分からは決して諦めない」
 そう言いながら龍禅を真っ直ぐな視線で見つめる空夜。龍禅は肩を竦める。
「開き直ってるってわけか。まぁいい。そんなもんは実際俺にはどうだっていいしな。俺
がお前に聞きたいのはただ一つ……孤牙空夜、お前がどう死ぬのかって事だけだ」
「どう……死ぬ?」
 眉を顰める空夜。龍禅は立ち上がり、空夜の眼前に立った。垂らしたままの両腕に微か
に力を込め、握り拳を作って立つ。
「そうだ。お前の愛する夕依という女に殺してもらい満ち足りた死を迎えるのか。それと
も、望みに届かずに無念のうちに死ぬのか。何でもいい。お前の目指す死を、俺に教えろ」
「何故そんな事を聞く?」
 龍禅の発する気配、それは紛れもなく殺気。その威圧に押されながらも空夜は訪ねた。
 龍禅は薄い笑みを浮かべて笑った。
「俺は――死に場所をずっと探している。お前が向かおうとする死地が、俺の好みに合え
ば力を貸してやろうと思ってな」
「ずいぶんと押しつけがましいんだな。そんなものはいらない、と言ったら?」
 挑むような眼差しで龍禅に言う空夜。
「別に?紫月の頼みだからな、お前が嫌だと言ってもついていくだけの話さ。ただ、命は
賭けねぇ。適当な所で切り上げて帰るから気にすんな」
 俺に道を示せ。その道を歩いてもいいと俺が思えれば、お前の為に命を賭けてやる。そ
んな事を言う龍禅。その良く分からない理屈に空夜は戸惑うが、龍禅の眼差し、そして背
負う気配はそれが心の底から出ている言葉であると語る。
「どこか壊れてるんじゃないのか、お前……」
 呆れたように言う空夜だが、瞳は真摯。
「お前と俺は今日、初めて会ったのだぞ?なのに、命を賭けるとか賭けないとか、しかも
その理由が俺の死が好みかどうか、だと?巫山戯てるようにしか聞こえないな」
 鋭い視線を送りながら、龍禅の真意を測ろうとする空夜。その理屈は間違いなく龍禅の
心の底から出ている、とは理解したが、その裏に潜んでいるであろう目的が良く分からな
い。紫月に頼まれたと龍禅は言った。それは嘘ではないのだろうが、それだけで命を賭け
る事の理由にはならないと空夜は思う。そして、それだけが理由であるのならばただ単に
紫月の頼みで空夜に助力する、とだけ言えばいい話で、死がどうとか言い出す理由には決
してならない。
「難しく考えすぎだ。戦うにも、命を賭けるにも、理由が必要だろ?そういうこった」

129 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/28(金) 05:24:35
 簡単な理屈だ、と笑う龍禅。その笑みは爽やかで邪念などは欠片もなかった。そして、
ようやく龍禅の求める事を理解する空夜。
 苦笑を浮かべながら立ち上がる。
「お前は他人の言葉……そんなものに命を賭ける事ができるのか?随分と安い命だな」
 その、挑発するような空夜の言葉に笑う龍禅。
「ははは、何だ。案外物わかりがいいじゃねぇか。お前みたいな奴には筋道立てて言い聞
かせた方が効くと思ったんだがな」
「筋道も何も、意味が全く分からないぞ。もう少し交渉術を学んだ方がいい。それで……
本気、か?」
 静かな水面を思わせる空夜の佇まい。波風の立たぬ穏やかな心などではなく、緊張の糸
に雁字搦めに縛られて動けないゆえに、水面は揺れない。そんな気配を纏う空夜。そして
空夜が静であるのならば龍禅は動だった。
 空夜の問いかけに口元を笑みの形に歪める事で答え、着流しの上半身をはだけて小さな、
そして大きな傷のあるよく鍛えられている肉体を晒す。その露わになった両腕を見て空夜
は微かに目を見開く。
「ほう、知っているか。そう言えばちゃんと名乗ってはいなかったな?俺は九神龍禅。九
の神で九神……そして、紅の神、紅神をいずれ名乗る。察しの通り濃尾の九頭龍、その祀
りの出、だ」
 龍禅の両腕には、その腕に絡みつくような姿に彫られた龍の入れ墨があった。右腕に絡
みつくのは赤い色で染められた龍、そして左腕には青く染められた龍。龍の顎は手首の少
し上で口を開き、尾は肩の所にある。
 龍禅、九神の家は九頭龍を祀る家だった。孤牙の家と同じようにその祀る存在に力を借
り、威を発する家。だが龍禅は長男ではなく家を相続する立場にはいなかったのだがその
家の堅苦しい生き方に反発し、家を出た。九頭龍とは本来、九つの頭を持つ龍の事を指す
が九柱の龍神の総称として使われる事もある。
「その入れ墨……九の守り手、九守の龍の証だな」
「なかなか良く知ってるじゃねぇか。本気だからな、これも使わせてもらう。お前もその
浄眼とやら使ってもいいんだぜ?」
 にやり、と笑う龍禅。空夜の言った九の守り手の意である九守龍という名。これが本来
の九頭龍の意だった。九頭龍とは、明の国に言われるような水神である九頭竜とは違う異
なる存在で、その祖、元となったものはまつろわぬ国津の末裔というのが真実だった。古
鬼のように異界へと逃れず、山へと逃げた国津神達。人はそれらを蔑んで土蜘蛛などと呼
んだが、土蜘蛛と言われて同一と見なされた者達だが、実際は多くの種がそこには居た。
 それらは様々だが、中には人との共存を望み争いを忌避しようとする者もいた。

130 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/28(金) 05:52:58
 その国津神が敵視するのは自分達を破った天津神だけで、人ではなかった。中には人が
天津に愛されたから、という理由で人に害を成す存在もあったが、それだけではなかった。
 それらの存在は――中には害を成すというよりも、驚かせるだけといったほぼ無害な存
在もいたが――時と共に妖怪などと言われるようになり、結局は人と共に生きていく事を
選んだ。古鬼などのように異界へと逃れた存在は、人と交わる事が殆どない為に生き方等
を殆ど変えずに、強大な力を保ったままで人に害を成す事もあるのだが、そのどちらでも
ない存在、少なくとも人には進んで害を成そうとはしない者達。その存在は大きく分けて
九の種が有力な力を持つ者として中核をなし、生きていた。
 土蜘蛛、或いはくず、と呼ばれた者達。それらもやはり時の移ろいと共に、人々の中に
混じり、血を交わし、その存在を薄めていった。その守り部と称された九家も散り散りに
なっていったのだが、時代の中でその九家、九の守り手の末裔を謳って九頭龍を祀る家が
現れた。その真偽は分からないものの、その家が持つ力は紛れもなく本物だった。その地
に九頭龍を祀る社を建て、人々から信仰を集めた。その家もまた長い歴史を持つ事になる
のだが、龍禅はその家に生を受けた。
 そして先の通りに家を出奔するのだが、その時に二匹の龍の入れ墨――本来であれば九
匹の龍の全てが描かれる――だけを当主であった兄から与えられた。それが、龍禅の両腕
にある入れ墨の由来。
 だが、龍禅はこんなものは別に無くても良かった、と思う。国津神、くず、土蜘蛛。そ
れらの存在そのものは疑ってはいない。だがその血をひくだの、その力を受け継ぐだのと
言う自分の家の存在はまるで信じてはいなかった。始祖がどのような経緯でその力を手に
する事が許されたのか、などという話を聞いても鼻で笑う事こそすれ、他の者のように畏
敬の念など欠片も浮かんではこなかった。
 感謝する事があるとすればたった一つ、少なくとも両腕に宿る力は紛い物などではなく
ちゃんとした力を発揮する。人も、殺せる。その力は実際の所、自分の力ではないのか?
とも思う龍禅だが、少なくともその力を鍛えて強くするだけのきっかけには、なった。そ
の一点だけは僅かではあるものの感謝はしていた。
「この目か。これは実戦――生き死にのかかった殺し合いなどでは全く役には立たない。
だから、そう気にかけなくてもいいぞ」
 孤牙の浄眼。それは、大蛇が人の死という贄を望むがゆえに、人の死に様を視る事で決
定してしまえるという強力な力を持ち、大蛇が天津の世を憎むがゆえに、世界のあまりに
も脆い様が視えてしまう力はある。だが、それは視えるというだけの話であって空夜が
自由に制御できるというものではない。人の死とて、例えば穏やかな死が視える事さえあ
るのだし、大蛇は人の死という結果のみを求めて、その道程は気にはしていないのだろう
が、それをただ視せられるだけの者にとっては、地獄を見せられているに等しい。

131 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/28(金) 06:14:08
 確かに、その目の持つ力は尋常なものではなく、空夜の使う術などを強化するような働
きをするものの、それは余剰な力が漏れ出ているだけにしかすぎない。戦場で相対する者
の死を視たとしても、それが己との戦いの果てによる結果でなければそれは、自分がその
相手に敗れる事を示す。ここで相手が死なないのであれば、戦う相手である己は敗れるの
が道理であるし、戦場であれば敗北は死に直結する。
 そんな目のどこが偉大であるのか。
 空夜は自嘲気味に龍禅へと告げ、半身に身構える。だが、その目に踊らされているのは
紛れもなく自分自身であるという事に、激しい自己嫌悪と共に、だからこそ自分が成さね
ばならない事、それを思い浮かべながら。
「一応、加減はするが……やりすぎても文句は言うんじゃねぇぞ?」
「加減?そんな器用な真似はできそうに見えないが」
 軽く答えて、見えない右目で己の右側が死角になる事を不利であるとすら思わずに空夜
は気合を全身に巡らせる。
「弱ぇ奴を嬲る趣味はねぇんでな。つまり……お前次第、って訳だ。いくぞ」
 にや、と猛獣のような笑みを浮かべて、龍禅が動いた。



「流離、大丈夫かい?」
 部屋を走り出た流離を追った紫月は、部屋のすぐ外で流離がうずくまっている事に気付
いて声をかけた。流離の肩は、小刻みに震えていた。
「紫月さま……」
 かけられた声に名前を呼んで答える流離。紫月は答えが返ってきた事に安堵の息を漏ら
して、部屋の襖を後ろ手に閉める。その場所は昨日紫月が龍禅と語った場所だった。
「やれやれ、私の妹分を泣かしてくれちゃってさ」
 明るい口調で言いながら、龍禅と話していた時と同じように手すりに座る紫月。流離は
紫月に視線で促され立ち上がるが、紫月とは視線を合わさないように手すりにもたれかか
って立つ。二人の間に静寂が産まれた。
 雪は相変わらず振り、空は変わらず灰色のまま。見慣れたというよりは、もう見飽きた
といった顔をする紫月だが、何も言わない。
 流離は振り返って肩越しに空を、そこから降り注ぐ雪を見る。紫月がそうしているよう
に。しんしんと振る雪にお互い何を思っているのか。何を見ているのか。言葉を交わす事
もなく、ただ雪を見続ける二人。時がゆるやかに流れて、流離の濡れた頬を乾かし切った
頃になってようやく、紫月が口を開いた。穏やかな眼差しで。

132 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/29(土) 05:41:05
「ま、月並みだけどさ。流離がやりたい事をやればいいんだと思うけどね?」
 そう言いながら流離の表情を伺う紫月。流離はそんな紫月の視線を受けて、微かに苦笑
を浮かべながら、軽い溜息をついた。
「ありがとうございます、紫月さま。けれど、やるべき事はもう決まっているのです」
 流離の顔に、うっすらと微笑が浮かんだ。それは、儚く淡い微笑み。何かを成そうとし
てそれが果たせず、諦めと共に浮かべるような笑みだった。
「そっか。流離がそう言うんなら、心配はしないよ?」
 うん、と頷いて流離に笑いかける紫月。そしてそのまま視線を移し、流離から灰色の空
へと動く眼差しは、流離には何故か美しい、と感じられた。頭の動きと共に髪が揺れ、頬
をなぞる。微かな愁いさえ秘めている横顔。それを見て流離は紫月に、大人の女だ、など
という妙な感慨を抱いていた。
「そう言えば、紫月さまは私が空夜さまの為に死のうとした事、反対はしませんでした
ね?何故ですか?」
 紫月にあって、流離にはないもの。それを羨ましく、そして眩しく感じて自分は紫月を
大人と思って軽い嫉妬を憶えたのだろう。そんな風に思う自分に軽い嫌悪を抱いて視線を
逸らしながら紫月に問いかける流離。体を起こして庭の方へと向き、手すりに両腕を置い
てもたれかかりながら、呟くような小さな声で。
「流離が死ぬ……いなくなるなんて考えたくないけどさ。何も果たせずに朽ちていくより
は、望む事をやり遂げて死ぬ方がまし……そう思っただけさね。きっと、空夜なら流離を
止めてくれる……そんな風に考えてただけかもしれないけど、さ……でも、流離。そんな
事を聞くって事は、まだ私の事分かってないね?反対はしなかったけどね、許すつもりな
んてこれっぽっちも無かったさ」
 紫月の答えを聞き、流離は手すりの上に置いてある自分の両腕に額をあてた。やはりこ
の人には勝てないな、などと思考する。紫月が強いのか、流離が未熟すぎるのか、それは
分からない。或いは、その両方かもしれない。
 紫月は流離にちら、と一瞬だけ視線を送り、再び空を見上げた。何も言わずに。
「一つ、いい事教えたげようか?私の、真名」
 その言葉に思わず顔を上げる流離。
「紫月さまの、真名?」
「そ。流離にだってあるだろう?古い家だから表に出す名前じゃない、一族にだけ伝えら
れる家の名前があるはずさ。私の家――狗凪の真名はね、火薙と言うのさ。小難しい理屈
をつけて、火薙を狗凪で隠してるってわけ。ま、簡単に言えば呪いの返り風、逆凪を払う
のを得意とする一族なんだけど、何でか狗神に対しては特に強い力を持ってるから狗凪と
名乗ってるわけさ。それが、表での言い方」

133 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/29(土) 06:10:06
 そこで一旦言葉を切り、大きく息を吐く紫月。
「で、真名だけどね。穢れを払うのに一番効果があるのってさ、火だろう?だから火の力
で穢れを薙ぎ払う。だから、火薙。狗神がどうのこうの言うよりさ、こっちの方がよっぽ
ど簡単な理屈で分かりやすいんだけどねぇ。何を勘違いしてんのか分からないけどさ、家
の社にゃ火之迦具土が祀ってたりするし、その末裔だか何だかとかいう与太話を有り難が
ってる。続く血ってのは否定しないけどさ……家系だの先祖がどうだのなんて、今を生き
ようとしてる私にゃ関係のない話だし、そんな適当にでっち上げたようなもんを押しつけ
てくんなって話さ」
 言葉の方は、馬鹿にしたような表情で言葉を紡ぐ紫月。だが、流離は戸惑いの表情を浮
かべていた。真名、それは確かに古く続く家によく見られる事だった。自分の名前、或い
は産まれ日を知られる事は呪術的な意味合いで良くはない事だと言われているからだっ
た。呪いをかけられる時、相手の情報は多ければ多いほど良い。だからそれに対する備え
として真実の名前、真名は隠して表向きに掲げる名を普段は名乗る。そういう話だ。
 そして、それは確かに流離の家、水冴にもある。だが紫月がそれを明かす事の意味が
流離には分からなかった。
「これだけじゃ、分かんないか」
 柔らかい笑みを流離に向ける紫月。僅かな間、目を閉じて軽く息を吐く。そしてその目
が再び開いた時、そこには強い眼差しがあった。
 険しい表情。流離が今まで見たことのないような、厳しい視線。それを受けてたじろぐ
流離だが、紫月はそんな流離から視線を外して、言葉を紡いだ。
「空夜の敵は大蛇……八岐大蛇だって事は知ってるね?その空夜が私を頼ってきた。私は
空夜に力を貸す。龍禅もそうだろうね。ねぇ、流離?できすぎた話だとは思わないかい?」
 その声色に含まれるものは、怒り。
「大蛇に敵するのが――嘘かほんとか分かりゃしないけど、火之迦具土の血をひくとかい
う私と、これも眉唾ものだけどさ、国津の九頭龍の血をひく龍禅なんてさ」
「あ……」
 流離は紫月の言葉でようやく、思い当たって小さく声を漏らした。神話にある八岐大蛇
征伐。八岐大蛇を殺したのは素盞鳴だが、その素盞鳴が持っていた剣は十握剣。
 母神である伊耶那美を死に至らしめた業によって、命を断たれた火之迦具土が宿ったと
言われる神剣。ならば、それは大蛇を滅ぼす為のものとしてはこれ以上ないほどの武器と
なるだろう。そして、龍禅。
「龍禅もできすぎだ、って言ってたけどね。結局は天津の奴ら、自分の手を汚すつもりな
んてさらさらないのさ。国津同士で潰し合って共倒れになれば儲けもの、とでも思ってる
んだろうさ。まったく腹の立つ話さね。けどね、流離。奴らの思い通りにはさせないよ」

134 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/29(土) 06:36:37
 にやり、と笑む紫月。そこには神が定めた筋書きになど、決して乗りはしないという決
意と共に人という存在が持つ強さがあった。人は神を信じている。それは確かな事。だが、
それは神代の頃のように強くはなく、人は生きる為に神の生きるとされる山や、自然を切
り開いて人の領土を広げている。祀る事を止めず、敬う事を止めず、それでもなお木を切
り倒し、山を焼いて大八島に根を広げていく。
 結局は人という存在は神が愛した頃の土地には満足できず、それらを破壊する事でしか
生きているという実感を得られない存在なのかもしれない。今はまだそれほどではないけ
れど、石や銅を武器にしていた頃からは考えられないほどの武器――種子島のような存在
を産み出してしまうような人。いずれは、もっと強い武器、或いは何か別のものによって
今よりも遙かにこの大八島を汚していく事になるのだろう。
 だが、それはまた人という存在の持つ強さをも同時に現していた。強すぎる欲は人を滅
ぼすけれど、欲が全く無いというものまた、人を滅ぼしてしまうものだから。
「空夜の言ってた組織。それに私は残りの人生と命との全てを賭ける。神にすがる人々を
救い、人を救うのは人であると教えてやるのさ。神に祈った所で何も変わらないと教えて
やって、この世から神を殺してやる。それが、私の戦いさ」
 意識しているのかどうかは分からないが、紫月はかたく拳を握り締めていた。振る雪の
せいで、冷えて白くなっている肌。その肌に指を食い込ませて、さらに白くする。
「だから、一人でも信頼できて力になれる奴が欲しい。空夜が言ったように、水を捨てて
この大八島に生きるのなら、一緒に――やるかい?」
 微笑みながら、真っ直ぐに流離を見つめて手を伸ばす紫月。手すりに座ったままのその
格好では少し締まらないが、それもまた紫月らしいと流離には思えた。
「流離――私、にもそんな生き方ができるでしょうか?」
 体を起こして、紫月を見上げながら問いかける流離。
「流離の生き方を決める事ができるのは、流離だけさね」
 笑う紫月。
「そうでした。では、水冴流離はやはりここで死ぬ事に致します」
 微笑み、紫月の手を取る流離。お互いに触れ合った手の冷たさに苦笑しあう。
「紫月さま。一つだけ我が儘を言わせてください。その組織の名、私が決めてもよいです
か?」
 握る手に力を込めながら問いかける流離。紫月は少し意外そうな表情をしながらも頷い
て続きを促す。
「それでは――紫天、と。空夜さまは夕と夜の境目、紫の空がお好きですから……」
 頬を朱に染めて言う流離。空夜が好きなもの、それをいつでも思い返して、同時に空夜
を想い続ける事ができるように、と小さく呟きながら。

135 名前:五 「紫天」 投稿日: 2005/10/29(土) 07:04:13
「紫天、ねぇ……夕と夜との間の空、か……」
 それは、空夜と夕依の間。そこに彷徨う流離自身も現しているのではないか、とも紫月
は思ったがそれは口には出さなかった。
「いいんじゃない?名前に拘りはないしさ」
 流離から手を離し、よっ、と声を出して手すりから飛び降りる紫月。流離の前へと立っ
て、再び手を伸ばす。
「私は、これから狗凪を捨てて火薙を名乗る。龍禅は生きて帰ってきたら、だけど九神を
捨てて紅神を名乗ると言ってる。気分の問題だけどさ、狗凪も九神も天津に踊らされてい
る……だから、そんな名前は捨てるってわけさね。それで――」
 真っ直ぐに流離を見つめる眼差しに浮かぶのは、期待。妹のように接してきて、時には
本当の妹であるとさえ思うほどに深く愛した少女。それは、血の繋がりなど人が人と共に
生きていくには大した意味などない、と紫月に教えてくれた。共に笑い、悲しみ、そして
生きてきた。流離が初めてこの屋敷を訪れてから、もう三年の月日が流れていた。ある出
来事から心を砕きすぎてまるで死人のようになっていた龍禅。その龍禅が今のようにまで
立ち直れたのは、紫月と流離の力があったからだと紫月は思っていた。紫月と龍禅は共に
家というものに対して嫌悪の情しか持っていなかった。龍禅は当主である兄に双龍を与え
られたが、実際の所それは厄介払いの手みやげのようなものであったと言う。そして、二
人は出逢って、他の仲間と共に様々な場所を旅した。合戦などに顔を出してみたりもして、
命と隣り合わせではあったけれど、充実していた日々。悲しい終わりを告げるまでは。
 死人のようになった龍禅を引き摺るようにして、この屋敷へと連れ帰った日。それらを
紫月は決して忘れる事はできないだろう。屋敷の中は暗く、毎日が通夜であるかのような
気が沈んでいくばかりの日々。そんな日々に変化を与えたのが、水冴の家からつてで託さ
れた流離だった。家族の真似事。そう揶揄されるような、新しく始まった日々。その中に
は確かにぬくもりがあって、紫月も龍禅も、それに癒されたと思う。龍禅の壊れた心は決
して元には戻らず、壊れたままではあるけれど、それでも思い出してくれた。紫月を愛し
ていたという事を……人を愛するという事を。けれど立ち止まったままであった龍禅。そ
の龍禅に道を示したのが自分ではなく、空夜であるというのは少し歯痒いと思う紫月だが、
それでも龍禅は九神の名を捨てると言った。紫月が戯れに言った言葉を憶えていて、それ
を叶えると。だからと紫月は思う。道を示したのは空夜だが、龍禅が道を歩こうと思える
ほどに意志を取り戻す事ができたのは流離のおかげ。だから、流離への感謝を込めて問い
かける。
「それで、私は、私の愛する妹を、何て呼べばいいんだい?」
「水ではなく土にと空夜さまは。だから、水冴ではなく土冴流離、と……お姉様」
 はにかんで、笑う流離。手を伸ばそうとする流離を、紫月は思わず抱き締めていた。

136 名前:;y=ー( ゚д゚)・∵. 投稿日: ;y=ー( ゚д゚)・∵.
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137 名前:とある信Onユーザー 投稿日: 2006/08/22(火) 16:23:38
テストットト

138 名前: ◆tr.t4dJfuU 投稿日: 2006/08/24(木) 00:15:02
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139 名前:fusianasan 投稿日: 2007/05/01(火) 01:37:37
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