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俟宵月 -千代神楽-

92 名前:四 「遠い、夏」 投稿日: 2005/10/17(月) 05:22:20
「お主、でも貴女、でも好きに呼べばよい」
 軽く肩をすくめ、綺沙裏に告げる少女。でも、と口を開き掛けた綺沙裏に、仕方ない、
という表情を見せてさらに言葉紡ぐ。
「我らは鬼、その事に誇りを持っておる。じゃからそれ以上は望んではおらぬし……許さ
れてもおらぬ。それにの、綺沙裏。本当の所……我は名を持つ事が怖いのじゃ。名は韻を
踏み、言霊となりて名の持ち主を縛る。それによって我は我の魂の在りようが変わってし
まう事を怖れておるのじゃ」
 言葉を紡ぎ始めた時は、仕方ないといった苦笑の眼差しは、言葉を終える時には痛々し
いものに変わってしまっていた。
「じゃから……済まぬが、名は許せ」
 まるで涙を堪えているかのような顔。そんな弱い眼差しの少女に綺沙裏は何も言えない。
 視線を逸らして、小さく頷く。だから、少女の唇が綺沙裏を不幸にはしたくない、と動
くのを見る事はできなかった。少女はそのまま瞳を閉じ、唇の端を歪めて自嘲めいた笑み
を浮かべた。心の中で、呟く。

 我らの祖はの、綺沙裏。天津に降る時に呪いをかけられた。人の世に仇成す事を許され
ず、人に交わる事を許されなんだ。鬼と人とが共に住む分には良い。じゃが、例えばお主
が望むように、鬼を個として共に生きる事は許されぬ。それを成してしまえば後には破滅
が待つのみじゃ。そうやって友となった人や、愛する者となった人を失った先達なぞいく
らでもおる。それにの……綺沙裏。我は結局の所は鬼。人を喰らう、鬼じゃ。我はお主や
朱夏を喰らいたいとは思わぬが、お主も朱夏も、天津の呪いに果てさせとうはないのじゃ。
じゃが、それでもお主らと離れたくないと思うておる。人を喰らうモノでありながら、人
に恋い焦がれ、天津の呪いに引き裂かれる。何と滑稽な存在であるのだろうな、我ら鬼と
いうモノは…………この地に根を張り、この地を脅かす国津の凶神は、我が必ず、鬼の名
にかけ討ち果たすゆえ、今しばらく、この時を我に……

 目を開く少女。その目に不安げな綺沙裏の顔が映る。
「どうしたの?」
「何でもない。しばし思案しておっただけじゃ」
 笑いながら綺沙裏に答える少女だが、その笑みにはどこか辛そうな痛みが混じっていた。
「そっか。じゃあね、これから貴女の事は……姫、って呼んでいいかな?」
「…………何じゃと?」
 照れたような笑みを浮かべながら言う綺沙裏に、思わず問い返す少女。何か、自分には
ひどく似合わない言葉を聞いたような気がする、と眼差しで訴えながら。



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