俟宵月 -千代神楽-
- 1 名前:葉桜深月★ 投稿日: 2005/10/04(火) 06:25:56
- 再構成。
人物とか。
http://s03.2log.net/home/hokanko/mayoiduki/honpen/toujyou.html
スタイルは40字×34行で1レス。
- 2 名前:葉桜深月★ 投稿日: 2005/10/04(火) 06:26:36
- 「夕依は、兄様さえ傍に居てくださればそれだけで……良かったのです」
長い黒髪は、月と星との狭間を流れる空の大河のように艶やかに揺れる。かすかに肩を
震わせながら淡々と呟く少女の頬には、朱色の、涙。
り、り、り――――
無造作に生える草の中から漏れる虫の音は辺りに響き、風無き夜に漂う。ゆらゆらと音
は草を越え少女に触れて木々へと至って、消えていく。
それは鎮魂の音色であるのか。それともただ無為に存在を誇示する為の祈りか。
笑っているような……泣いているような。
そんな奇妙な表情で瞳だけを歪めて、夕依は涙を流していた。俯いた視線の先には男が
一人。少女の太股に頭を乗せた男の瞳は閉じられていて、胸は動いてはいない。
呼吸を止めた男の顔には、満足げな微笑みだけが在った。
ぽた。
ぽた、ぽた……
月光に映える白い肌。柔らかな丸みを帯びた頬から、形の良い顎を伝って落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
色を無くした額に、頬に。
生気を無くした唇に、首筋に、閉じられた瞳に。
赤い痕を残して伝って流れる、血。
それは男が流したひとつの証。夕依が浴びた、男の返り血。固まらぬそれは夕依の身体
を流れて、消えない痕を心に刻み込んでゆく。
動かぬ男の身体から漏れ出たそれは、大地に広がり土へと染みこんでゆく。
けれど、土へと還る事を拒否するかのように、夕依の巫女装束に似た着物はそれを吸い
上げ朱色に染まる。薄青の袴はまるで、巫女の緋袴のように。
「……、のに」
風が、吹いた。
虫の音が止まる。
「それだけで、良かったのに!」
- 3 名前:葉桜深月★ 投稿日: 2005/10/04(火) 07:16:10
- 止まらない涙。勢いを増し、溢れて、頬に残る血を拭いながら男の胸へと零れた。
肩の震えはもう微かではなく、慟哭へと変わって風に乗る。
「ああ――兄様の心が、生命が……広がって、いく……」
風は少しずつ勢いを増していき、枝を揺らし草を抑え、森を駆け抜ける。
ざあ、というざわめきと共に、くるくると木の葉が舞って闇の中へと運び去られていく。
その木の葉の様に失われた兄の命を重ねたのか、夕依の声はかすれていた。
「けれど……」
上げた顔にはまだ、涙は途切れてはいないけれど、それでもその瞳には力が戻っていた。
男の頭を両腕で胸にかき抱き、真っ直ぐに、くらやみを見つめる。
「けれど、渡さぬ!神などに兄様を渡すものか!私が――空夜は、夕依が、連れていく」
きっ、と先を見据える様は、険しい表情であると同時に、凜として美しい。吹き荒れる
風が生む刃によって露出している肌が傷つけられながらも、一片の揺るぎさえもない。
風の刃ゆえに、肌の傷から血は流れない。
吹き荒れる風によって髪は乱れ、濡れた頬や首筋に張り付き、時折視界を遮る。それで
もなお、まるで意に介さずにくらやみを見つめ続ける夕依。
手は愛おしそうに、何かから空夜を護るかのように、空夜を抱き締めていた。
数瞬、それとも――数刻。
夕依の顔に微かに笑みが浮かんだ。
嘲るかのように、己の力を誇示するかのように……或いは、勝利を信じるがゆえに。
「去れ。例えこの場に鬼を遣わそうとも、私は揺るがぬ。兄様は世界よりも私を選んで
くれた。兄様自身よりも、夕依を選んでくれた。ならば、神と呼ばれていようとも己しか
顧みぬ下郎にこの身が敗れるはずもない!」
答えは、さらに強さを増した風。それは既に暴風となり夕依の華奢な身体を責め立てる。
だが、折れない。夕依はそっと胸に手を当てて、笑った。
「ねえ、兄様?夕依は、また兄様の妹として産まれたい。繰り返す時の先でもまた――
兄様に、愛されたい。だから……夕依の我が儘、お許しくださいませ。兄様、しばしの刻
お別れです」
夕依の身体から蒼い光が立ち、2人を包み込んだ。
それから、どれくらいの時が過ぎたのだろうか。荒れ狂う風ははとうに収まっていて、
草々の間からぼんやりとした光が浮かび上がっていく。
一つ、二つ、三つ……
無数の蛍が穏やかに揺れながら、動かない2人の周囲を舞って…………
- 4 名前:序 投稿日: 2005/10/05(水) 15:27:36
- 「やはり、世は狂ったままか」
夕焼けに朱に染まった空を見上げながら呟く男。折れた矢が壊れた柵に幾本も刺さり、
破れた軍旗がひらひらと風にたなびいている。
少し離れた所からは薄黒い煙が立ち上り、聞こえる剣戟や何かの術の爆発音によって
僅かに聞こえる苦痛の呻きや救いを求める声がとぎれとぎれに耳に運ばれる。
黒い鎧に身を包み、血刀を持つ空夜の足下には骸と成り果てた武者の姿があった。
「狂う?こんな場所でおかしな事を言う奴だな」
軽い口を叩きながら、足音も立てずに空夜の背後に立った影。赤い鎧に身を纏い、手に
ぶら下げた二刀は傍目に見ても分かる程に消耗し、赤黒い染みに彩られていた。三日月の
立者が付いた兜から除く眼光は鋭いが敵意は無い。
「狂気に依存しない戦場などあるはずもねぇ。殺す者と殺される者。生き延びる者と生き
延びられぬ者。どちらも足掻いて狂気に踊る。どこの戦場でも全く変わらん」
「それが、戦場での唯一不変の理……か。お前らしい。だが、俺が言っているのはそうい
う事ではないぞ、龍禅。この世……世界そのものが狂っていると俺は言っている」
そこで言葉を切り、刀を納め遠くを見つめる空夜。その視線の先に何を見つめている
のか。夜の青と夕の赤は次第に混じり合って紫へと変わっていくが、そこにはゆっくりと
沈みゆく陽だけがあった。
龍禅は肩をすくめながら周囲を軽く見回し、敵となるべき者が居ない事を確認してから
二刀を鞘に納め、立つ空夜の隣に胡座をかいて座る。腰の袋から竹筒を取り出して水を
飲みながら空夜を見上げ、視線で先を促した。
「そうだな……この戦そのものが本当なら有り得ない……いや、あってはならない戦だと
すれば、今ここで行われている事自体が世が狂っているという証になるだろうな」
「戦が?戦国だぞ?同盟相手でさえ簡単に裏切る。従が主に取って変わるなど話の種にも
ならん。仏とやらを拝む本願寺でさえ戦を回避しようとはせず、国同士の約定などその時
限りで次の日にはどうなるかも分からん。力こそが全てでまかり通る今の世にあっては
ならない戦など……あるのか?」
空になった竹筒を投げ捨て、口元を拭いながら笑う龍禅だが、その目には言葉には反し
て空夜への嘲りは微塵も無く、微かに納得しているという光が宿っている。
そして空夜はそんな龍禅の様子に軽く笑みを浮かべた。
「俺の力の事は、知っているな?」
「家のしがらみ、とやら以外は殆ど聞いたさ。この目でしかと見もしたぞ」
なだらかな坂になっている土の上に寝転がろうとして、腰に差した刀が邪魔であると
いう事に軽く肩をすくめながら言う龍禅。空夜の言葉を待たずに鞘ごと二刀を地面に突き
立てて、その横に寝転がった。自分の目を指差して、笑いかける。
- 5 名前:序 投稿日: 2005/10/05(水) 16:10:17
- 「で、これも世界とやらが狂っているという証、なんだろ?」
寝転がった龍禅の視線の先では、空夜の足下に転がっていた死体が起きあがっていた。
しかしその体は奇妙に透き通っていて、その体の向こう側が見て取れる。確かに死んで
いる者が起きあがるという異常な事態にもまるで動ぜず、龍禅は苦笑したのみ。
その死体であった者はわずかな間、空夜と龍禅を見つめていたが、何の前触れもなく
煙のように消え失せた。後には、何も残ってはいない。確かに土の上にあった血痕も、
消える筈のない死体も、何も、残ってはいない。
「そうだな。だが、それだけではない」
空夜はそんな龍禅の様子に微笑しながら、龍禅の隣に刀を置いて座り、続けた。
「この徳川と今川の戦そのものも、本来なら起こり得ない。有り得ない戦だ」
「そうか?今川の人質だった松平元康が今川に牙を剥くのは当然だろ?まぁ、国を興した
事はともかく、その経緯もまるで分からん……気がついてみれば徳川という国があったと
いうのは腑に落ちんがな」
軽く目を閉じて思案しながら、静かに言う龍禅。
「では、織田家と斎藤家が争っているのは、どうだ?」
「蝮の考える事など分からん。蝶であるとばかり思っていれば、毒蛾であったというだけ
の事だろうさ。親と同じく国を滅ぼすだけの毒を持つ、な」
その答えに頷く事はなく、微かに眉を潜めて悲しみをその身に纏わせながら空を見上げ
る空夜。視線の先では陽が山の向こうへと消え失せようとしていた。
そして。
法螺の音が響き渡った。
「終わったか。確かに、狂っているな」
法螺の音を合図として、全ての戦いが終わる。一瞬にして戦場の空気は消え失せて、
喜んでいるのは勝った方、悔しそうなのは負けた方。それぞれの思いを隠すことなく態度
で示しながら、戦場から離れていく。ほんの少し前には殺し合っていた者達が、そんな事
は知らないとでも言うように、敵がのんびりと目の前を通り過ぎても、視線を向けはする
ものの、手を出す事はない。
「戦いの中止を告げる法螺の音と、それに従う連中。この戦で敗れた今川家は滅びる。
だが、義元公は討たれもせず健在だぞ?国の主が生きているのに何故、国が滅びる?」
言いながら視線を巡らせ、死体が消えた場所を見る。
「そして、俺は人を討ったという感覚が分からない。命を奪うという実感が持てない。
先ほどの奴にしてもそうだ。そいつが霊となったとしても、何故肉体まで消える?そして、
消え失せたと思った奴と……確かに殺した相手と、俺達は何度戦った?死ねば、終わり。
そんな当たり前の、違える事のできない、この世の理が守られぬのを、俺達は何度見た?」
- 6 名前:序 投稿日: 2005/10/05(水) 16:53:01
- 険しい表情で宙を睨み、固く拳を握りしめながら呟く空夜。
「陣の取り合いが戦であるのは分かる。だが、奪い返した陣には全く同じ奴が居る。
まるで、武将は陣に付属するだけのモノに過ぎない、とでも言うかのように。これは、
一体何の冗談だ?死んだ者が容易く再生する世界、世界がそうであるのならば、俺は一体
何の為に今、ここに在る?まるで…………覚めない、悪夢だ」
知らない間に、あまりにも自分が知る世界から変質してしまった世界。或いは、自分が
知らなかった、認識していなかっただけで元々そういう世界であったのか。その答えは
空夜の中には無い。
「で、お前はどうする?死んでみるか?」
起きあがり、地面に座って突き刺している刀の柄に手をかけながら笑う龍禅。
「もしかすると、お前もあいつらと同じように生き返れるかもしれねぇぞ?」
そのまま、ごく自然な動きで立ち上がりながら抜刀し、冷たく輝く刃を空夜の首筋に
ぴたり、と当てる。顔に浮かべた笑みはそのままに、殺気は微塵も無く。
陽の最後の欠片を映して、刀身が赤紫色に染まった。
「迷うな」
首に当てられた刃に対する恐れを全く浮かべず、無表情に龍禅を見上げる空夜に告げる。
「世界の理など、どうでもいい。お前はそう決めたんじゃなかったのか?どれだけ奇妙な
世界でも、そんなものは知らない、今、ここに生きている事を信じて、想いを成し遂げる。
お前は、そう決めたんじゃなかったのか?」
その言葉に空夜の顔に、わずかな後悔と悲しみ、そして大きな苦痛とが浮かんだ。視線
を地面に向け、唇を強く噛む。
「逃げるな、空夜。目の前で起こった事が、俺達にも起こると信じていない俺達が、奴ら
と同じように生き返れるという保証はどこにもない。信じるのならば、それは確かな道と
なるだろうが、夢見るのはただの逃避だ。逃げるな、空夜」
「……そう、だな。済まない、龍禅」
顔を上げた空夜の左目は、蒼い。まるでそこから光が溢れているかのように輝き、夜が
降り立ち始めて暗くなっていく周囲を照らす。
「泣き言を言うのはいい。聞いてやるさ。けどな、ふらふらと迷うな。忘れたか?俺は
お前の背中を守ると言った事を。守るべき背中が定まらなければ、俺は何からお前を守る
べきなのか分からねぇ。俺に思い切りよくお前の敵を、殺させろ」
静かな口調を改め、刀を引き、にやりと笑いながら言う龍禅。粗雑な口調が元々の地
なのだろう。先ほどまでの真摯な言葉は肩がこる、とでも言うかのように首を回しながら
笑む龍禅だが、殺させろ、と言ったその笑みはまるで肉食獣のような笑みだった。
「例えば、俺の敵が世界……神であったとしても、同じ事が言えるのか?龍禅」
- 7 名前:序 投稿日: 2005/10/05(水) 17:22:26
- 座ったままで龍禅を見上げ、問いかける空夜。その左目の蒼は全てを射抜くかのように
輝き、龍禅を照らす。
「例えば、お前の敵が俺だったとしたら……俺は躊躇わずに俺を殺すぞ、空夜」
「そうか、そうだったな。ならば、教えよう」
立ち上がり、龍禅に並ぶ空夜。
「この、歪んだ螺旋に満ちた世界の事を」
それに答えようとする龍禅を制し、さらに言葉を紡ぐ空夜。浮かぶのは、昔を懐かしむ
かのような郷愁と、後悔。蒼の瞳から、一筋の涙が、つう、と流れた。
「俺の始まりと、選んだ……選んでしまった、道の事を」
時が流れゆき もう誰も居なくなったとしても 貴方の記憶は絶えない
どこにも辿り着けない人の流れの中で 語り続ける言霊は消える事も許されず
迷う事しかできない迷宮で 彷徨う二人に影は落ちて
幾百、幾千 幾万、幾億 どれだけの夜の先でも止まったままで
月の見えぬくらやみが 想いの欠片を惑わせるけれど
微笑んでそっと側に居て 優しく抱き締めて それだけで私は命を捨てる事もできるから
どうか貴方の側に居させて 時が巡り二人が再び逢えるその日まで
そらが壊れるその日まで 足掻き続ける幼星を
永遠を信じ 愛を夢見る 哀れな姿を 人は笑うのでしょうか
幾百、幾千の時代が巡り 幾万、幾億の誰かが生まれ、死んでも
五行の理にて互いを識る星々 陽では輝けぬ者達は 温もりさえも棄てて宵を、月を俟つ
運命のままに。
- 8 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/05(水) 18:53:01
- 「あにさまっ!」
幼い少女が満面に喜色を浮かべて、木刀を振っている少年へと走る。巫女装束に似た服
を身に纏い、腰の後ろにまで届く長い髪は桜色の布で束ねられていた。袴は青だが薄く、
全体的に淡い色調だが、それが少女の持つ光をより強く際立たせていた。
「勉強は終わったのか?夕依」
兄、と呼ばれた少年は木刀を傍らの木に立てかけ、枝にかけてあった手ぬぐいで身体に
流れる汗を拭いながら少女を迎えた。髪は短く、髷などは結わえていない。
夕依は兄を眩しいものを見るかのような眼差しで見つめながら、答えた。
「ちゃんと終わりました。あにさま、また夢のお話を聞かせてくださいませ」
言葉に爛漫な笑みを乗せて目を輝かせる夕依。少年の胸の辺りまでしかない夕依は自然
と上目遣いになるが、少年は汗を拭った後でしゃがみ、夕依を視線の高さを合わせた。
そんな、何気ない仕草に夕依に浮かぶ喜びはさらに強さを、増した。
少年――空夜は、やれやれ、といった風に軽く肩をすくめながら笑った。
屋敷と屋敷を繋ぐ廊下――板張りの道と、屋根があるだけで手すりなどはない――へと
歩き、そこに草履を脱いで上がり、座り込む。
そして夕依は、そこが自分の居場所であるという風に、迷いもせずに空夜の膝の間へと
滑り込んで座り、胸に頭を預けて後ろ向きに空夜を見上げた。空夜はそれを優しげな視線
で見つめ、そっと夕依の頭を撫でる。
「そうだな……夕依は、もう国の事について教えてもらったかい?」
「国、ですか?教えてはもらっていますけれど、夕依には、天下の事は分かりませぬ……」
困ったように眉をひそめる夕依。くすり、と笑う空夜。
「天下の事は天下を狙う人達に任せておけばいいのさ。でも、そうだな……夕依は、誰が
天下を獲ると思う?」
「星は、尾張の上にありますけれど……」
小さな唇に小さな指をあて、首をかしげて思案しながら答える夕依。星は、尾張にある。
それは天下は尾張の下へと至る事を示すが、それが尾張の主、織田家当主織田信長に天下
が降るのか、それとも織田家に属する誰かへと、或いは織田に連なる他の誰かに降るのか
までは、夕依には判断できなかった。
そんな夕依の様子を見て微笑む空夜だが、そんな様子に軽く頬を膨らませて夕依は言う。
「意地悪は、なしです。星よりも、あにさまの視る夢の方が正しいのですから、夕依に
正しい事を教えてくださいませ」
「はは、答えはね、まだ地図にない国だよ、夕依」
「地図に無い……それでは、松平様ですわね?あの方の星は、強いもの」
空夜の言葉に躊躇いもなく言葉を紡ぐ夕依。膨らんだ頬はしぼんで、あどけない笑顔が
- 9 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/05(水) 19:17:17
- 浮かぶ。
「それでは、にいさま――――」
空夜ともっと話したい、というよりもまるで何かに追い立てられるかのように、言葉を
次々に紡いでいく夕依。その顔に浮かぶのは間違いなく笑顔であるのに、そこには確かに
愉しげな空気が在るのに、何故か微かな悲壮感のようなものが同時に存在していた。
ずっと、共に過ごしてきた兄妹。常人にはない力を持つがゆえに、屋敷の外へ出る事を
許される事は滅多に無く、それほど大きい村ではないのに友人と呼べる相手は片手で数え
きれる程にしか居ない。
日々は修行に費やされ、多岐に渡る修めるべきものに対するには一日はあまりに短く、
間違えば命を落としてしまうような過酷なものも含まれているそれは、まだ幼い二人に
安息を与えない。
たった一つだけ、安らげる時があるとすれば、それは今、この瞬間だけであった。
他愛も無い話。
修行と言っても、二人の行うべきものは違う為に、共に居られる僅かな時間。その時間
を得る為に一つ一つの行を少しでも早く終わらせようとする、二人。
様々な知識を吸収しながらも、どちらかと言えば武に偏った修行を行う空夜と、星を読
む事や陰陽、五行、術など知に偏る修行を行う夕依。それは、男女の違いなどではなく、
家に対する役目、血に対して求められるものに答える為だけのものだった。
両親は健在。祖父も生きているが親として、肉親として接してくれる事はなく、物心が
ついた時から今のような生活だった。覚えてはいない幼児の頃であれば、あたたかさを
感じられるような事もあったのかもしれない。だが、それは記憶にはなく、だから今二人
があたたかさを感じられるのは、この時だけ。
そして、力を持つがゆえに村の者はおろか、家中の者にまで奇異と畏怖の目が向けられ
る。それは、もはや人として接してはくれないという拒絶の視線でもあった。
十五までには元服を行い、大人として認められる世にあって、空夜の年は十三。既に
当主を受け継いでいるとはいえ、それはただの役割に押し込められただけの話で、武家の
ように責任は付随するものの、ある程度の自由が認められるようなものではない。
自己の意志は認められず、当主でありながら家の何一つ自由にはできない、ただの檻。
並外れた力を持って生まれたがゆえにに、その力を縛る決めごと、守るべき事。それが
どれだけの苦痛を産むのかを無視されて。
そして夕依は、十。持つ力の全てを空夜の為に使う事だけを言い聞かされ、その力を
少しでも強くする為に修行を強要される毎日。だが、夕依はその境遇を不幸であるとか、
逃げたいと思った事はない。
夕依にとっては、空夜こそが全てであるから。
- 10 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/05(水) 19:57:47
- 傍らに居られる事を幸せと思い、力になれる事を信じる。不満があるとすれば、同じ家
に居ながら、なかなか空夜に会えない、それだけの事。
だから、時間を見つけて、無いのであれば自分で作って、空夜へと至る。
「うん、そうだね。だけどこの眼は、そんな大層なものじゃない。ただの浄眼さ」
そっと自分の左目の目尻を指でなぞりながら夕依に呟く空夜。僅かな苛立ちの含まれた
その呟きに同調するかのように、左目は微かに朱く光っていた。
「あにさま……?」
その気配に怯えたような声を上げる夕依。
「ああ、ごめん。なんでもないよ」
言いながら、夕依の髪の毛に触れる空夜。長い髪の一房を手に取って、指で梳く。その
感触に夕依は身を震わせ、声を漏らした。
「くすぐったい、あにさま」
しかし、言いながらも空夜の手からは逃れようとせず、触れられるに任せて、夕依は
空夜の胸へと身体の全てを預けて、瞳を閉じた。
「ん……あにさま、あったかい……」
浮かぶのは、至福。そして、心地よさ。風がそよいで木の葉を揺らし、天の陽は穏やか
な日差しでぬくもりを地に満たす。奥深い山々に囲まれた村には、もうすぐ春が訪れよう
としていた。
遠くに視線を向ければ、山の上には白いものが存在しているものの、盆地となっている
村にはもう雪は残らず、肌寒さも陽が落ちねば訪れる事も無い。
力が抜けて、わずかに重くなった夕依の身体をそっと抱き締める空夜。その耳に、寝息
が聞こえる。小さなその音を、空夜は愛おしいと思う。
他愛も無い、話。
それだけで日々の辛さも忘れて、陽気にまどろむ夕依。
その無邪気さが愛おしくて、この家が憎くてたまらなかった。澄んだ空気、青い空。村
以外の場所を知識でしか知らない空夜だが、そんな、人が当たり前に心地よいと思うもの
さえも牢獄を構成する一でしかないとしか思えない自分さえも憎かった。
屋敷を囲む壁は高く、その壁の高さはそのまま村人と自分との心の壁となる。敬われる。
畏怖される。祈祷を行い、願いを聞き届ける。その為に嫌悪の対象とはなっていないが、
触れる事を恐れて離れていく人々と、嫌悪し排除する為であっても、近づいてきれくれる
人々のどちらがよりましなのだろうか。
求めた手は畏れ多いと拒絶され、笑顔を求めれば畏怖という闇に塗り潰される。
「この眼さえ、なければな」
右目に見える朱い光。それは、左目の放つ光だった。
- 11 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/05(水) 20:31:39
- 浄眼。穢れを払う神聖なる瞳。そう言えば聞こえはいいが、空夜の左目には神性など
宿ってはいない。邪に属するモノを視、清らかなモノを視る。ただ単にこの世でないもの
を視る事ができるだけの、瞳。
もっと幼い頃はその瞳が顕現した時、喜んだ。この眼さえあれば人の世に役立てると。
だが、真実は違った。見えるモノは邪だと信じ、討った。清らかな……土地や物に宿り
守護するモノさえも邪だと勘違いして。その代償は、年端もゆかぬ子供にとっては重い罰。
直接ではなくとも、空夜は、はじめてできた友達を、その手で殺した。
普通の人、村人達にはモノは見えない。だから、それが空夜のせいであると理解できる
者はいない。だが、空夜は知っている。忘れられない。
その死んでしまった友達が、半透明な友達が、空夜のせいじゃないと言いながら顔を
歪ませて、もっと生きたかったなぁ、と涙を零した夜を。
それから空夜は自分を責め立てながら、修行に打ち込んだ。何かをしていなければ気が
休まらなかった。肉体を酷使し、心を削って、更なる力を手に入れた。間違ったりしない
ように、知識を吸収した。そして、朱い眼を手にした。
かつての当主の中でも朱に至る眼を持ったものは少ない。朱は神聖な色であるがゆえに
力も強く、代を重ねていくごとに少しずつ力を減じていった孤牙の家では、実に一四代
ぶりの朱の眼であった。しかし、始祖は蒼い眼であったと伝えられていて、空夜が歴代の
当主の中で上位に位置するわけではないのだが、それでも朱眼は貴重とされ当主を継いだ。
それが、三年前、空夜が十の時だった。
しかし、それからが更なる空夜の地獄の始まりだった。
この世ならざるモノを視る事のできる瞳。
その眼で、空夜は世界を視た。つまり、世界そのものがこの世ならざるモノであると
いう事実。最初は戸惑い、当主だけが見る事を許された書物を漁るように読み、過去の
当主達も自分と同じような境遇に陥ったのかを調べた。
答えは、是。
困惑は絶望へと転じ、自分の存在を呪った。不確かなものに包まれて生きている自分。
そんな不確かなものの中でも、必死に生きている人々、生きていた友達。渦を巻きながら
少しずつ前へと向かう、そう感じた世界。その渦は、ただの、終わる事のない螺旋だった。
変わる事なく、変わっていく、世界。閉じられた世界の螺旋の中で人々は生き、様々な
事を成し遂げていく。その結果によって、世界は変わる。だが、根本的な部分では一切が
変わらない、奇妙な世界。死にはしても、滅びはしない者達。人々の成した事が反映され
るという一点だけが許された、悪夢の檻。箱庭の中で生かされているという感覚。
だが、その世界に空夜という存在は許されなかった。そう、確信した。
使用人の命を犠牲にして。
- 12 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/05(水) 20:56:26
- 使用人は、殺しても生き返った。何度殺しても。だが、それは矛盾。友達は生き返る事
はなかった。直接ではなくとも、空夜が殺したという一点は同じであるのに。
違いを探し、行き着いた先は、やはり世界だった。
その使用人に眼が見ているものを告げ、友達の時と同じように、この世ならざるモノが
見えると教え、けれど世界がそうであるとは教えずに、お前の姿もこの眼に映っていると
友達に告げたように、告げた後……殺した。
その使用人はそのまま、生き返らなかった。
どのような理屈でそうなるのかは分からなかったが、この世界に依存している者に自分
の立場を教えてやる事で、その人物は世界から消える。それが、答えだった。
どこかへ……本来自分が生きている世界へ還るのか、それとも。
その答えは出ないけれど、空夜は狂ってしまおうと思った。世界を知る自分は、確実に
死ねば終わり。それが本来自然な事であるのに、その認識そのものが間違い。
何が正しくて、何が間違っているのか、それがあやふやになった。
それが、空夜が得たもの。
その先を考えれば、もっと確かな答えが得られたのかもしれない。或いは、その自分の
知った認識でさえもただの一部分で、真実はもっと違うものかもしれない。
だが、そこまでで心が折れた空夜には、その先を探す勇気は既に残っていなかった。
狂いたい。
死にたい。
後ろ向きな、死へ至る道。
しかし、それを遮ったのは、後ろを向いた空夜の手を取り、振り返らせたのは夕依。
単純に兄を慕う行為であったのだろう、それは。けれどそれは空夜にとっては闇の中で
たった一筋差す光のようで、それ以外にすがりつくものが無かった。
だから、逃げた。
世界の謎も、理も、それら全てに背を向けて、ただ、夕依を見た。世界よりも夕依を選
ぶ事で心の平衡を保ち、それでも世界に対する恐怖に怯えながらも、その手を握り締めた。
夕依は空夜の傍に居る事を教えられて育ったがゆえに、空夜に好意を抱くのは当然で
それは造られた心。けれど、そう育てられただけで、夕依が持つ心は夕依自身のもので
あるから、それは、きっと真実。そんな詭弁じみた、唾棄すべき逃走にしがみついて夕依
を求めた。
ただ、傍に居て欲しい。
心を求める事はせず、家が夕依との近親婚によってその子供が力を増す事を望んでいる
事を知りながらも、そんな欲も思考も欠片も無く、ただ、傍にと望んだ。小さな、小さな
手を両手で握りしめながら、夕依にすがって、涙を零した。
- 13 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/05(水) 21:21:33
- それが、三年前の冬の夜。
それから空夜は夕依と共に歩んできた。
修行をする毎日、たまに求められる当主としての仕事。それらを文句も言わずにただ
淡々とこなし、今日のように僅かに得られる夕依との逢瀬の為だけに、生きている。
「んっ……」
安らかな寝息を立てて、幸せそうな表情の夕依。
「夕依、お前だけは何があろうと、俺が護る」
時の移ろいと共に少しずつ変わっていった想いは、積み重なって、空夜の闇を押し潰し
ていた。恐怖は無くなってはいないけれど、もう、それに怯えるだけの弱い心ではない。
一度逃げたから、夕依を護るという事からは、決して逃げない。
それが、今の空夜の想い。
絹のような手触りの髪に手を通しながら、そのぬくもりを感じて安らぐ。自分の心が
どうしようもないくらいに歪んでしまっている事に気付く事さえ無く。
そうして、少しの時間が過ぎた。
「あ、あれ……?」
冷気を含んだ柔らかな風に頬を撫でられ、夕依がうっすらと目を開ける。覚醒しきって
いない眼差しのままで、空夜を見上げた。
「おはよう、夕依」
軽く夕依の頭を撫でながら、空夜は笑った。
「ん……」
喉を鳴らして甘えたような声を出しながら瞬きを繰り返し、視線の先に空夜の微笑みを
見つけて、頬を朱に染めながら申し訳なさそうに口を開いた。
「寝てしまって、いましたか?」
「気持ちよさそうだったから、起こすに起こせなかったよ」
優しく語るが、夕依は唇を尖らせる。
「もう、あにさまの、意地悪……」
ゆっくりと身体を起こしながら小さな声で言い、くるり、と身体を空夜の方へと向けて
胸に両腕で空夜の腕を抱き、さらに小さな声で呟いた。
「でも、嬉しい、です」
そのまま腕に頬を寄せて、空夜の体温を感じながら、そこにそっと指を這わせた。再び
瞳を閉じて、そのぬくもりを心で捕らえる。寝ている間にかけられたのだろう、空夜の
上着。動いたせいで肩からずれたそれを引っ張り上げながら、くん、と鼻を鳴らした。
- 14 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/05(水) 21:55:07
- 「あにさまの、匂い……夕依の全部が、あにさまに包まれてるみたい……」
声に出して呟き、その先は声には出さない。
愛しい
愛しい
愛しい
声にしてはいけない、心。
両親が、家が空夜と夕依に望んでいる事は夕依も感じている。面と向かって言われた事
もある。血こそを尊び、力を誇示する事で長らえてきた家であるから。
けれど、だからこそ、決して結ばれてはいけない、と夕依は思う。空夜に伸ばした手が
受け入れられてから、空夜は変わってしまった。歪んでしまった。
その事に後悔は、ない。
そうしなければ、空夜は死を選んでいたであろうから。空夜を救った事に対しての後悔
などは微塵も浮かばない。けれど、心までは、救えなかった。
今の空夜は、適当に建てた家のようなものだった。骨組みは年月と共に積み重ねた歪み
と共に揺らぎ今にも折れそうで、心で塗り固めた壁は厚く、重く、さらなる歪みを骨組み
へともたらす。そこに、さらに自分の想いが積み重なってしまえば、空夜は壊れる。
確信しているが、同時にその思考は間違っているのかもしれないとも思う。
けれど、間違っているという確信を抱く事ができないために、心を口には、できない。
今まで何度も空夜に好きだと言った。
妹として。
ただの一度も、想いをのせた事はない。少しでも長く、少しでも多く、傍に、共に居る
事が夕依の望みだったから。自分が壊れるのであれば、何も構う事なく想いを伝えたかっ
た。それは十の子供には似合わぬ重い、心。けれど、まだ幼いから生じる激情は恋慕へと
姿を変えて、その狭間で苦しむ。
伝えたいけれど、伝えられない。
そのもどかしさと恐れは夕依の心を縛って、前にも後ろにも進む事を許さない。まるで
実体を持っているかのようなそれは、夕依を締め上げて壊していく。
恋では、ないから。
愛でも、ないから。
そんな風に言い聞かせて自分を偽り、さらに壊れていく。時を重ねるごとに深く、重く、
そして大きくなっていく想いは救いを求める亡者のようで、切ない。
夕依は、つう、と流れた涙を隠すように抱いた腕に顔を押しつけ、唇を噛んだ。望みは
叶っている。空夜は自分の傍にあってぬくもりを感じさせてくれている。ならば、何故
このように涙が出るのだろうか。決して、嬉し涙ではない、この雫が。
- 15 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/05(水) 22:27:18
- 手を差し伸べた夜、その時は空夜が泣いていたから、夕依も悲しくなって空夜に手を
差し伸べた。あれから、三年。気がついた時にはお互いに求め合っていた。けれど、それ
が同じ想いであるという保証は、どこにも無かった。
けれど、引き返せない。
戻れば空夜がいなくなってしまう。
けれど、先には行けない。
進めば空夜が壊れてしまう。
もしも、なんていうあやふやなものに賭けるにはあまりにも大きすぎる代償。自分の
独りよがりな勘違いという救いにすがるには、あまりにも重すぎる。
だから夕依は想う。
せめて、想いだけは、お互いを求める心の色だけは、同じでありますようにと。
でも、違うかったなら……?
どうやっても消せないその恐怖は夕依の心を追い立てて、空夜をさらに求める。けれど
求めるものを手に入れてはいけない、という束縛は心を縛り、ぎりぎりと出来損ないの
歯車のような音を立てて、堂々巡りに廻ってその場で空廻る。
たった一つのものは、いつか、そう遠くない未来に自分の心が壊れてしまうまでは空夜
の傍に居られるという事、空夜が傍に居てくれるという事。
想いを打ち明けさえ、しなければ。
ならば、今日も、今も言えない。ただ、妹として生きていく。
この世に、二人だけになれる日まで。
けれど、隠し切れない想いは肩の震えとなって現れ、瞳を涙で満たしていく。空夜は何
も言わず、何も問わずにただ夕依を優しく抱き締めて髪を撫でる。空夜は夕依の想いには
薄々感づいていたが、それに答える事はできなかった。
自分の願いは夕依を護ること、そして傍に居る事であったから。
夕依が心を明かせずに、苦しんでいるのは自分が原因であろうと識っているから。
想いを通わせて刹那の喜びに身を焦がして死ぬよりも、少しでも長く傍に居たいと想っ
ているから。そして何よりも浄眼の映す悪夢に夕依を巻き込む事を、恐れた。夕依もまた
孤牙の血をひく娘。そうであるならば、自分の浄眼に引きずられて唐突に浄眼が顕現する
可能性があったし、事実そういう事例は過去を漁ればいくらでもあった。
その可能性を狙って、家は実の兄妹である二人が結ばれるよう企んでいるのだし、浄眼
を持つ二人の子供は両目が浄眼である場合が多かった。両目が浄眼であるからと言って、
力が強いとは限らないのだが、強かった事の方が弱い場合であった事を上回る。
- 16 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/05(水) 22:54:29
- ならば、もし二人が結ばれて子を成したとして、その子供の行く末は……?
それが、空夜に夕依の想いだけを封じ、傍に居られる事だけで満足させ、夕依の想いに
答える事を否とする理由だった。
ただ、夕依が泣いた時にこうやって抱き締めて慰めるだけ。それだけでも、傍に居られ
るだけでも、結ばれる事のない悲恋の物語よりは幾分ましだろうと。
夕依の涙は止まらず、空夜の腕を濡らしていく。
空夜は何も言わずに、夕依の肩を抱き締める。
最初の頃はどうした?と空夜も問いかけていたが、返ってくるのは無理した笑顔に涙を
のせて首を振り続ける、柔らかな拒絶か、星見で人が死んでいくのが分かって悲しい、と
いう答えだけだった。
星見は夜に行うもの。昼間に星見という下手な嘘。その後ろに隠れた夕依の想いを視る
のが辛く、空夜は数度それらを繰り返した後は何も聞かなくなった。
そして夕依は、空夜が何も聞かないと分かったから、前よりは楽に泣けるようになった。
ただ、ぬくもりを求めて、ぬくもりを与えて、時が過ぎるままに任せるだけ。慟哭は陽
が沈むまで、続いた。邪魔は空夜の視線で排除して共に、時を過ごす。
二人は幸せだった。
例えそれが、ちっぽけなもので、もっと大きな幸せを諦めている代償と言うには、割が
合わない、ささやかすぎるものだとしても……
そして、ようやく暦の上でも春が訪れた頃、空夜と夕依は今までと同じように束の間の
逢瀬。他愛もない事を話し、触れ合い、時を過ごす。
「夕依様、そろそろお時間です」
空夜に身を寄せていた夕依は迎えにきた女性の声で瞳を開け、名残惜しそうに空夜の袖
をぎゅっと握りながら俯き、口を開いた。
「次の祈りの時間です……あにさま、また後で」
儚げな、明らかに無理をしている細い笑顔。離れていくぬくもりに表情を曇らせながら、
それでも気丈に立つ。
空夜もまた僅かに表情を曇らせるが、女性がいる事で自制して、夕依の指にそっと自分
の指を這わせるだけで身体を離した。しかし、夕依の言葉に眉をひそめ、微かに感じた
疑念が声となる。
「祈り……?」
- 17 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/06(木) 00:20:16
- 「はい、最近は祈りばかりですよ。今までのと違って、あまり儀式ばったものではない
ので楽しいです」
微笑んで立ち上がり、わずかに乱れた着衣を直しながら答える夕依。
「儀式ばったものではない、祈り……?」
言葉に不安なものを感じて、訳の分からない苛立ちに襲われながらも問いを続ける空夜。
そんな空夜の様子に首を傾げながらさらに続ける夕依。服のあちこちを見ながら、おかしい所がないかを女性に聞いている。女性はそんな様子に苦笑しながら、大丈夫ですよ、
と夕依に告げていた。
だが、空夜の瞳にはその光景は映っていない。
「人の世の為の、祈りです、あにさま。もう一度冬を越して、もう一度春が来れば……
夕依は外に出ないといけませんし」
家を出る。
それは、当主である限り家を出る事の許されない空夜と、離れるという事。だが、夕依
の表情にはその事に対する不安や恐れはなく、あくまで明るく言葉を紡ぐ。
「世を歩いて、報われぬ人々を救う為の祈りだと、お爺様は仰っていました。えぇと……
歩き巫女、というのでした?」
瞬間、空夜の胸に広がる怒り。夕依の傍らの女性は空夜を見ていたが、特に動じた様子
もない。恐らく、歩き巫女というのがどういうものか知らないのだろう。そして、夕依も。
歩き巫女、と言葉だけを見れば社などの一つに留まらず、行脚しながら例えば術を磨い
たりする巫女と思えるかもしれない。事実、そういう巫女はいる。
だが、一般的に歩き巫女とは請われて祈祷などをする場合もあるが、どちらかと言えば
舞や唄を披露する事で路銀を稼ぎながら各地を旅する側面の方が強い。しかし空夜がその
言葉に怒りを覚えたのはもう一つの理由からだった。
春を売る事で路銀を稼ぎ、諸国を巡る。
全ての歩き巫女がそうというわけではないが、確かにそういう面もあるからだ。そして、
孤牙家の慣例から言えば、夕依がその目的で外へ出るというのは明白だった。優秀な血を
残す為に諸国を巡る、などと言えば聞こえはいいが、結局の所それは家の命令によって
外に出される女性の思いなど無視して、孤牙の血の為に益となる男を漁らせるという事。
「あにさま?大丈夫、です。夕依は一年も満たずに帰ってきます」
そう言って、空夜の様子を自分と離れるのが苦痛だと思っているものだと勘違いした
夕依は笑む。口の中で、空夜に聞こえないように、そうすれば後はあにさまとずっと一緒
に居てもよい、とお爺様が仰ってくださいましたから。と呟きながら。
だが、その言葉は空夜に届いた。
届いて、しまった。
- 18 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/06(木) 00:54:13
- 拳を色が変わるほどに握り締め、唇を噛み締める空夜。
ぎり――
夕依と女性の区別なくその、炎のような怒気は触れ、その身を竦ませた。
「あに、さま……?」
初めて見せた空夜の怒りに、それが自分に向けられたものではないと察しながらも夕依
は怯えながら声をかける。
「夕、依……」
その呼びかけに答えた空夜は、怒りに全身を震わせているというのに、泣きそうな目を
していた。もう、戻れない。そんな悲壮感の漂う、眼差し。
夕依が望んで、全てを知って、その務めに出るのであれば構わない。だが、自分と共に
居る為だけに何も知らずにその身を家の自己満足の為の犠牲にするのは許せない。空夜は
そんな思考をしていた。
だが、夕依が自分からそれを望んだとしても、それを受け入れられるかどうかの自信は
全く無かった。夕依が務めに出るという事は、空夜はどこの誰とも知れぬ男と夕依の間に
産まれる子供を見なければいけないという事。
自分の血を受けてはいないのだから、浄眼に狂っても心はそれほど痛まないだろう。子
を成せば、女は母親である事を自然に受け入れる。そして男は父親である事を受け入れ、
お互いを支え合いながら、家族となる。
しかし、ここは普通ではない場所。
そんな所ではあたたかい家庭など望むべくもないだろう。しかし、空夜は父親の真似事
ができる。夕依とは血の繋がった兄妹であるから、自分の血が流れていないとは言い切れ
ないかもしれないが。問題はそういう事ではなかった。
空夜の。孤牙夕依を愛する孤牙空夜の血を受けぬ、子供。
自分以外の誰かに身を任せる夕依。
「ぐっ……」
思考が渦巻く。お互いに結ばれてはならない。結ばれた先には破滅のみがある。
そう悟って耐えてきた日々。
少しでも長く、少しでも多く。夕依と共に居たいのであれば、これは最高の一手だろう。
心で理解しながら、心が拒否した。理解する事と受け入れる事は全く別だった。例えば、
ここに在るのが普通の兄妹として抱く愛情だけであるならば、どうとでもなっただろう。
兄と妹、兄妹で結ばれる事は珍しくはない。血を重んじる風潮が高いため、それは当然の
事であると言われ、禁忌にさえも成らない。
禁忌を造ったのは、空夜と夕依。
お互いがお互いを求め、依存しすぎたがゆえの……泥沼。
- 19 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/06(木) 01:17:58
- 夕依は、現実を選んだ。その間に何を成さねばならないかは知らないとはいえ、一時の
離別を受け入れ、先を見た。
だが、空夜は。
「夕依。しばらく、ここにいてくれ」
異様なまでに低い声色。喉の奥だけではなく、心の奥底から絞り出したような声。視線
で異を唱えようとする女性を黙らせ、夕依に背を向けた。
「分かりました。あにさまが迎えに来てくださるまで、夕依はここでお待ちしています」
空夜が自分の為に怒ってくれている。
空夜が自分の為に苦しんでくれている。
そう理解した夕依は、期待と喜びの入り交じった瞳で答え、微笑んだ。
ひどく、嬉しそうに。
「あ、空夜様……」
何の問いかけもせずに無造作に襖を開け放ち、部屋へと侵入する空夜。声を発した女性、
空夜にとっては母親である女性に視線を向ける事もなく無視して、そこに居る五人程の
人々の間をすり抜け、上座にある床よりも高くなっている場所へと赴き、座った。
音もなくその場へと至った空夜。その足運びは静かで優雅ささえも感じさせるものだっ
たが、それは空夜にとって意思表示の一つだった。達人と呼ばれる人であれば、日常の
生活でも自然とそういう、戦いを意識した足運びなどが出ると言うが、空夜はまでそこま
での域には到底達してはいない。意識してでもそういう動きができるという事は空夜の
非凡さを現してはいるものの、それをこの場で見せる事に意味があった。
「空夜様?何用でしょうか?」
装飾の多い華美な服に身を包んだ母親は怪訝そうな顔をしながらも、姿勢を正して空夜
に向かって問いかけた。周囲に居た人々も襟を正し、空夜に向かって礼をとる。しかし、
その中でも壮年の男は苦衷に満ちた眼差しで空夜を見つめ、年老いた男は無表情のままで
視線を空夜に向けるのみ。
「何故、夕依の件……黙っていた?」
母親の問いかけに答える形となったが、空夜の視線に母親の姿は微塵も映ってはいない。
その視線は年老いた男に向かって注がれ、身に宿る怒りを隠そうともしない。声は静か
なだけにその怒りの巨大さが伺え、他の者は射竦められたかのように空夜から視線を逸ら
して冷や汗を流した。
「空夜様、それは……」
- 20 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/06(木) 01:44:26
- 言いかけた母親を鋭い眼光のみで黙らせ、順に視線を移しながら一人一人を眺めた。
空夜と目が合う度に、視線を逸らす者。先ほどから視線を外してそのまま、空夜を見よ
うともしない者。巡った視線は、年老いた男の下で、止まった。
「答えぬか。ならば、当主として問うぞ。何故、夕依の件、黙っていた?」
「当主には当主の務めがある。それと同じことじゃよ」
真っ向から空夜の視線を受けても身じろぎすらせず、静かに答える年老いた男。孤牙の
先々代の当主であり、実の祖父だった。一線を退いてもなお、この家では大きい発言力と
影響力を持ち、実際の所、空夜はお飾りの当主でこの老人が様々な事を取り仕切っている
と言った方が正しい。
「使用人ならいざ知らず、血を分けた妹の務めを知らぬ当主とは一体何なのだろうな?」
口元を歪めて、酷薄な笑みを意識して浮かべながら、空夜は問う。
「当主は家の象徴に過ぎぬ。雑な事など知らずともよかろうて」
「なるほど、雑か。だが、知らなかったな。騙して従わせる事は、孤牙の家では低俗と
言わずに雑と言うのか」
痛烈な皮肉を口にしながら、空夜は嘲笑の表情を作る。母親は見た事のない空夜の様子
に絶句して、固まっていた。
「そうじゃな。玩具を取り上げられてむずかる稚児の事を、空夜とも言うがの」
「……」
ぎり、と歯を噛み締めながらも、空夜は老人の肩を竦める動きに作り物めいたものを
感じ取っていた。それは、愚弄し空夜を怒らせる事以外に何か、目的があるように見えた。
「何を、隠している?」
「何を、必死になっておる?」
空夜の静かな問いかけに。微かに意外そうな光を瞳に映しながら、老人は即座に問う。
だが、空夜はそれには何も答えず、冷たい……怒りとはまた別種の心臓を射抜くような、
見られる者の心を露わにするような視線で老人を見つめるのみ。周囲の空気が下がったの
ではないか?と見ている者に思わせるような、緊張感。
弓の弦のように張り詰めた空気に誰も何も言えず、身じろぎさえも封じられていた。
苦しげな、その空気から逃れたいと喘ぐ呼吸が小さく響き、時が過ぎる。
「ふむ、空夜よ」
その沈黙を破ったのは老人だった。顎に手をやり、首を傾げながら問いかけを続ける。
「それほどに夕依が恋しいか」
「な、に……?」
感情はまるで籠もっていない。何かの数を確認するかのような、声色。表情は無く、人
として何か大切なものが欠落しているかのような、眼差し。
- 21 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/06(木) 02:39:57
- その雰囲気、表情からまさか、恋しいなどという人間的な言葉が出てくるとは思っては
いなかった空夜は、怪訝な眼差しで問いかけていた。
「夕依が欲しいか?と問うておる」
「なっ……」
空夜はいとも簡単に本心を言い当てられた事に対する驚きと、老人の眼差しに気圧され
言葉を紡ぐ事ができなかった。顔にはわずかな羞恥がある。
冷静であれば、夕依の事に対して空夜は怒っているのだから、その結論が簡単に推測
されるであろう事は容易に空夜は思いついただろう。だが、感情に任せて怒りを散らす今
の空夜には、そこまでの思考すら思い浮かばなかった。
「他の者に渡したくないから、怒っておるのじゃろう?おのれ以外の者が夕依に触れる事
など許さぬ、。おのれ以外の者に夕依を好きにさせるなど許さぬ。言葉で語らずとも全身
でそう語っておるわ」
老人の瞳は変わらず無で、そこには嘲りも怒りも、感情というもの自体が無い。それが
空夜にとっては不気味で、反論しようにもそれを躊躇う理由となっていた。
「隠さずともよいし、否定するのは時間の無駄じゃ。血を分けた妹とて、あれもつまりは
ただの女に過ぎぬ。別に孤牙の家は禁欲を謳っておるわけではないしの、女に欲を持つ事
を責めようとは思わぬよ。じゃが、お主は知っておるな?」
一度言葉を切り、空夜を見る。無感情。そして、その瞳は確かに空夜を見ているという
のに、空夜にはその老人が自分を見ているという事が信じられなかった。例えば、蜘蛛が
巣にかかった獲物を見るような、虫の、眼。
「男と女の子供が居た時は、その二人は子を成す。それが叶わぬのであれば、女は力を
持つ者の子を宿すべく霊地を巡る、と。それが孤牙の家の理じゃ。ただ夕依が欲しいと
いうだけの理由で古くから続いてきた理を廃するなど、到底許せるものではないぞ?言う
からには、納得できる理由があるのじゃろうな?」
淡々と告げる老人。それに気圧される空夜。己に数倍する永い時を生きてきた老人の
放つ、得体の知れない気配に抗えない。
問う立場であったはずが、問われる立場になっている。何時の間にか逆転していた攻守。
「俺が、夕依を求めているのを理解しているのならば、夕依を外に出す意味が、無いはず」
ゆっくりと言葉を紡ぐ空夜。老人に気圧されている事もあり、自分が取り返しのつかな
い事を言おうとしているような感覚に襲われている事もあり、その声は小さい。
「そうじゃな。空夜と夕依が結ばれて子を成すのが、孤牙にとっては一番良い」
空夜の必死の言葉を簡単に肯定し、さらに言葉を紡ぐ。
「じゃが、お主は夕依と結ばれる事を拒否しながら、夕依を求めておるな?どういう理屈
かは分からぬが、そのような道理の通らぬ言い訳、聞く耳を持たぬわ」
- 22 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/06(木) 03:11:27
- 追い詰められていく空夜。言葉を発する度に言質を取られ、反論を封じられていく。
それは最初から仕組まれていたのか、それとも。何れにしても老獪な手管によって空夜は
既に雁字搦めに捕らわれてしまっていた。蜘蛛の巣にかかった、獲物の、ように。
「ふむ、もしかすると……子の事を考えておるのか?」
「何?」
何かを言おうとして苦しむ空夜に、僅かに、そして初めて感情を乗せて言葉を発する。
「夕依だけを求めるがゆえに、子ができたとして、それが邪魔であると考えているのでは
ないのか?じゃから、結ばれるのを拒否しておるのではないのか?」
呵々と嗤う。
「なに、案ずるな。お主は夕依と結ばれ、夕依と共におれば良い。子を成したとて、子の
面倒などは家の者が見る。お主が心を割く必要などないし、必要もない。何となれば一生
会わずに過ごしてもよいぞ?」
言葉の内容には、心は動かない。
夕依と自分の子供。
その言葉の一欠片のみに、反応する。
夕依、空夜が愛する存在。自分自身よりも、大切な……護るべき、人。そんな相手との
子供が産まれるのであれば、祝福しない親が何処にいる?
空夜は老人の挑発に乗せられ、禁忌に触れた。
「問題は夕依じゃが、何、子を成したとて子の事など……見もしないであろうよ」
「何を……」
決して聞き逃す事のできない一言。夕依は、そんな女ではない、そう言おうとする空夜。
「夕依は、その身に『妣』を宿しておるゆえな。子を護る、子を成す、そのような俗な女
の心など持ち合わせてはおらぬ。安心せよ、空夜」
にやり、と醜悪な笑み。
「夕依は、何があろうとお主を愛し続ける。歩き巫女として各地を旅し、どれだけの男と
肌を重ねようと、お主、或いは何処かの力ある男の、子を何人成そうと、それは揺るがぬ。
夕依が生涯に愛するという心を感じる者、それはな、空夜。お主ただ一人じゃ」
「妣……妣、だと……っ?」
「ああ、お主は妣については通り一遍の事しか知らぬのであったか。教えてはおらなんだ
な?妣というのは女が男を護る力の事というのは知っておろう?妹の力とも言うがの、女
にだけ許された、強い力じゃ」
「それが、夕依に何の関係が……いや、夕依に、何をした?」
くく、と微かに声を漏らしながら、妖怪じみた――人間ではない存在であるかのような、
嫌悪感や憎しみと言った負の感情のみが許されたような笑みで、老人は再び嗤った。
- 23 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/06(木) 03:37:32
- 「聞きたいか、ならば教えようぞ空夜。浄眼はな、空夜。孤牙の血の結晶であるのじゃ」
唐突に話が変わり、困惑する空夜だが、老人はそれに構わずに続ける。
「如何なる理由かは、知らぬ。始祖様がそれについては残しておらぬからな。じゃが、
これだけは分かっておる。孤牙の血は母となるべき者の中で結晶となる。その結晶は見た
目で言えば、宝石の欠片のようなものじゃ。その宝石が胎内で育つ者の目に宿り、浄眼と
なり、浄眼持ちとしてこの世に産まれ出でるというわけじゃ」
「だから、血にこだわるのか。血の純度が高ければ高いほど、その結晶の純度が高まるか
ら……力が、強くなるから。だが、それと夕依が何の関係がある!?」
初めて聞く浄眼の理だが、空夜にとってはどうでもよい話だった。それは、孤牙という
家が血に異常なまでにこだわる事への説明にはなるが、その血、家、それら全てがどうで
も良いと思っている空夜にとっては、意味もない。
「急ぐでない。結論だけを言うてもお主には理解できぬじゃろう。では、問うてみようか
空夜。儂も、お主の父である旋風(つむじ)も、お主も目に結晶を持っておる。ならば、死
した後、その結晶はどうなると思う?」
「肉体と共に朽ち果てるのではないのか?」
老人の意に沿う事に嫌悪感を感じながらも、従わねば話が進まないと知った空夜は拳を
握り締めながら、答える。
「外に出でた血であれば、乾いて消え失せる。じゃが、一度形を成したものは、砕かぬ限
りは残り続けるのじゃよ。浄眼たる力は残ってはいないがの、力は失わぬ」
一息の間に矛盾した事を言う老人。だが、それは浄眼では無い力が残る、という事。
「力――?まさ、か……」
いつまでこの話が続くのか。本題である夕依の話に、どうやれば繋がるのか。そんな事
を考えていた空夜だが、力、という言葉で何かに思い至った。
「ここまで言えば、分かるのう?死者の結晶は力こそあるが、何の効力も持たぬ。じゃが、
逆に言えばどのようなものに対しても力を与える役目を持つ、という事。ああ、浄眼だけ
は別じゃな。あれは目が見えなくば意味のないものゆえ、後から目に結晶を埋めたのでは
視力が無うなるでな」
空夜は黙ったままで、口を開かない。
「女の象徴である胎内に結晶を宿し、妣が顕現するように育った夕依の妣は、そうじゃな。
空夜、お主がこの世で天下を望んだとして、それが叶えられる程に強いぞ?お主がそう望
めば、あらゆる障害はその役目を果たさず、覇道を成し遂げられるであろうよ。尤も……
夕依に埋め込んだ結晶は数百に及ぶゆえ……ただ、お主を愛するだけのモノに成り下がる
やもしれんが、問題は無かろう?安心するがよい。夕依の心は、お主か夕依が死ぬまで
お主だけのものじゃ」
- 24 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/06(木) 04:01:05
- まだ、空夜は口を開かない。
ぽた。
代わりに、何かが落ちる音が、聞こえる。
「お主は感じておったはずじゃがのう、空夜?最近の代で稀に見る力の持ち主であるお主
であるのならば、視えておったはずじゃがのう?」
ぽた。ぽた。ぽた。
「……れ」
「お主の望みと、何が違う?ただ、愛した夕依と共に居たいと思うたのであろうが?夕依
に愛されたいと願ったのであろうが?」
ぽた。ぽた。ぽた……ぴちゃり。
「……ま、れ……」
「どうした?喜ばぬのか?空夜、お主の望みは叶うのじゃぞ?夕依の事でも考えておるの
か?安心せよ、空夜。アレはお主を愛し、お主に愛される事以外に望みなどありはせぬ」
ぴちゃり、ぴちゃり、ぽた……ぽた、ぴちゃり。
「そうなるように、育てた……いや、それは正しくないのう。そう、作ったからの」
「黙れ。俺が、貴様を殺してしまう前に」
固く、固く握りしめた拳からは爪が肌を破って血が流れ、床に小さな池を形作っていた。
憎悪、殺気、嫌悪、あらゆる負の感情が渦巻き、空夜を支配する。左目は凄絶な朱の光
を放ち、そこからはまるで涙のように血が溢れて頬を伝う。
「作っただと?ふざけるな。力だと?ただ家に、血にしがみつくだけの妄執のままに、己
の欲望の為に、子でさえも道具として利用しただけであろうが!」
握り締めた拳を開きながら、何かを振り払うかのように腕を薙ぐ空夜。鮮血と抉られた
肉の切れ端が軌跡に沿って飛び散り、床に染みを作った。
だが、老人は余裕を隠さない。静かに空夜の視線を受け止めて告げる。
「如何にも。じゃが、それを否定する事は許さぬ。孤牙の家はそうやって神代の時より
続いてきたのじゃ。それを否定するはお主の座る当主の座を否定すると同じ事じゃぞ」
「では、当主として貴様の命を、存在を……否定してやろうか」
- 25 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/06(木) 04:24:59
- ゆらり、と歩みを進める空夜。その目に浮かぶのは、殺意。
それでもにやりと笑む老人。
「なるほど、既に隠居した儂ではそれは拒否できぬのう。じゃが、一つ聞こうか空夜?
お主……夕依の巨大な力を、まだ育ちきっておらぬ夕依がどうやって制していると思う?」
「な――――に?」
後数歩で老人へと至る場所で空夜は歩みを止め、目を見開く。母親を見るが、母親は涙
を零しながら力なく頭を振るだけ。空夜を絶望が襲った。
「さて、そろそろ答えを聞かせてもらおうかのう、空夜。お主は夕依を外には出すなと
言う。であるならば、お主は夕依と契るという事で、良いかのう?」
黙ったままで立ち尽くす空夜。もはや己の邪悪を隠そうともせずに嗤う老人。
「是で良いな。良かろう、可愛い孫の望み、叶えてやろうではないか」
許さぬ
視線でそう告げて、空夜は口を開いた。もう用は終わった、とばかりに空夜に向けた
背中に向かって言葉を紡ぐ。
「忘れんぞ。貴様は、俺の敵だ。何があろうと許さん……知らんだろう?」
苦しそうに、呻くように。
答えを返さない背中に言葉を紡ぎ続ける空夜。
「夕依は、笑いながら泣く。俺を想って笑い、結ばれてはいけない、と心で泣くのだ。人
を人と思わず、心を心と思わぬ貴様には理解できまい」
足を止めて、だが口は開かず背中でそれを受け止める老人。
「夕依は、俺が護る。俺の傍に居させる。当主として、命じるぞ」
淡々と呟くように、自分に言い聞かせるかのように。
「夕依に対するあらゆる干渉を禁じる。破れば、命が無いと思え。世話係など不要。俺が
夕依の全てを受け止める。いつか、夕依が本当の自分の意志で笑える時まで」
背中を向けたままの老人の横を歩いて通り過ぎ、追い越しながら言う。
そうして入ってきた襖へと至って、振り返り、口を歪めて……悪鬼のように、笑った。
「この禁、破られた時にはその腐り果てた頭、この腐った家諸共滅ぼしてくれる」
荒々しく襖を開け、外へと出ようとする空夜だが、今度はその背中に老人の声が届いた。
「それで子は成すのか、成さぬのかをまだ聞いておらぬが?」
振り返らずに、その問いに答える空夜。
「夕依が望むなら、そうなる事もあるだろう。だが、子が出来たとして、貴様らには指一
本触れさせぬ。俺と夕依の子は……誰にも、侵させぬ」
- 26 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/07(金) 03:37:13
- ぴしゃり、と襖が閉じられ、後には控えていた者達と共に老人と両親とが残された。
「空夜……くう、や……っ」
母親はその音が合図であるかのように、崩れ、嗚咽を漏らした。口元を手で押さえ、頬
を川のように流れる涙は床へと落ちていく。
「沙霧」
声をかけ、そっと母親――沙霧の肩を抱く壮年の男。やりきれないという想いを隠そう
ともせずに、苦痛と悲しみとが満ちた眼差しで老人に問いかけた。
「父上。空夜にあのような思いをさせて……これで、これで良かったのですか?」
他に方法は無かったのか、と問う。
しかし、老人は微笑を浮かべるのみ。答えは、ない。
「空夜は、私を見ようともしなかった。このような父親では、それも仕方ないでしょう。
だが、子の事を思わぬ親が居るはずもない!父上!本当にこれで良かったのですか?」
立ち上がり、僅かに怒りを視線に乗せて激しく言葉を紡ぐ。
「本当に、これで空夜と夕依は幸せになれるのですか!?これが……本当に最良の方法で
あるのですか?」
「最良、である事は間違いはないぞ旋風。空夜が夕依を手元に置く事で、夕依の妣は最後
の枷が外される。そうなれば、夕依の巨大な力の全ては空夜を護る事へと向くじゃろう。
そうなった時に、夕依を護ろうとする空夜に敵となるモノなど、有りはせぬ」
言葉を切り、旋風と沙霧に背中を向ける老人。
「さすれば、孤牙の宿願、叶うやもしれぬ。それが叶った後であれば、この家が空夜に
よって滅ぼされようと構わぬ。二人で何処へなりと行きて、添い遂げる事も許そう」
「……その言葉、覚えましたよ父上」
「……」
旋風が感情を抑えた低い声で告げる。それは脅しにも似た一言。
何も答えずに部屋を出て行く老人。
「孤牙の宿願の何たるかも知らぬ木偶が……哀れよのう」
老人の小さな呟きは誰にも届く事なく消えたが、その顔には哀れ、と言いながらそんな
事は欠片も思ってはいない、というのが分かる程の邪な笑みがあった。
- 27 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/07(金) 04:39:16
- 陽が暮れ始めた周囲は朱色。山々にも影が落ちて、屋敷を村から切り離す壁の向こう
からは家路を急ぐ子供達の声が聞こえる。静かに立って壁に耳を当てれば、他愛も無い話
の内容まで聞こえてくる。はしゃぐ子供達。
望んでも、得られないもの。
普通であるという事に対する羨望。何一つ不自由が無い、と称される今よりも、その先
に辛い道が待っていたとしても、自由である事への思いが募る。そっと見上げれば、そこ
には夕依の背よりも遙かに遠い壁。力を持つ夕依にはその壁が、微かに緑の光を放って
結界を構成するのが見える。
それは、外敵から家を守るというよりは、中にあるものを外へと漏れさせぬように厳重
に施された封のようにしか見えない。
軽い溜息をついて、壁に背中を預け……俯く夕依。頬を黒髪が滑って、顎に流れて顔を
隠して揺れた。少し大きい服の袖からは小さな、白い指がその先だけを見せ、何かを求め
るかのように壁を這う。
「ふつう、の女の子として……あにさまと、逢いたかった、なぁ……」
今度は深い溜息。指先は力無く壁面を伝って宙へと落ちた。
救いと求める祈りのように再び空を見上げ、眉を顰める。その動きに合わせて動く髪。
ざあ、と流れる髪を追いかけるかのように、頬から小さな光の欠片がこぼれ落ちていく。
砕けた宝石のように、陽の残滓を浴びてきらきらと宙を舞う。
けれど、それは、砕けていく心の欠片。頬を伝うのは、願い。溢れた涙が嗚咽へと姿を
変えてしまう前に、夕依は唇を噛み締めて……微笑む。
「お願い。この身が砕けてしまう前に、あにさまを」
星の配列は、空夜の歩む先にも、そして夕依の歩む先にも暗雲が立ちこめている事を
示していた。それが何時、なのかは知る事はできないけれど、きっと、それは遠くない。
自分にここに居ろ、と告げて立ち去った兄。何を成すつもりなのかは分からない。ただ、
自分の為に何かを成そうとしている、と気付いただけ。
でも、それだけで。
「夕依は、あにさまをお護りしたい」
己の生命さえも呪と変えて、空夜を守護する為だけに生きていける。祖父が望むように。
本来であれば、無意識のうちに働く妣の力。それを自身の霊力でもって無理矢理、顕現
させる。胎内に結晶を宿すからこそできる芸当だが、それは同時に生命を削る。痛みは
激しく全身を駆け巡り、鈍い痛みは永劫に続くかのように夕依の下腹部を襲う。それは
まるで月経の痛みであるかのような、傷。
だが、夕依は月経の痛みを、知らない。まだ十を過ぎたばかりであるから、その始まり
さえも訪れてはいない。けれど、夕依がそれを知ることは――――ない。
- 28 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/07(金) 05:06:15
- 年端もいかぬ少女の胎内に、それがどれだけ小さい物であろうと、数百に及ぶ形ある物
を埋め込むという事。その代償を払うのはそれを成した者ではなく、子を成す事を夢見る
一人の少女。けれど、夕依はそれを知らない。
ただ、今は子供だからどうやっても子供は作れないと知っているだけ。この戦国では
結婚こそ十歳で行われるのは珍しくもなく、六歳や七歳で嫁いだ子供さえ居る。
しかしそれはどちらかと言えば人質であったり、そして殆どの場合において政略的に
重要であるから早くに婚姻関係を結ぶという意味合いが強く、子を成す準備が整うまでは
それほど顔を合わせない、という事さえ珍しくもない。
その結晶が一つであったならば、可能性は十分にあっただろう。眼球の中に存在して
いながら、視力を失わせる事なく存在しているものなのだから。胎内で形作られていく
肉体の過程で結晶もまた存在する為、身体の一部として成り立っているのかもしれない。
だが、夕依は胎内より産まれ出でた後にそれを、された。
母親にはなれぬ少女。夢見ながら、それが叶う事はない少女。けれど、だからこそ夕依
は単純に妣となれる。子に注ぐ愛情も、家庭へと向かう愛情も、それら全てがこの世に
産まれ出でる事さえなく、ただ、空夜へと愛を注ぐだけの存在。
確かに、妣を体現する身としては、老人が言うように最高の存在であるだろう。けれど
その代償は、重い。そして、代償が存在している事さえ知る事はない夕依。何も気付かず、
自分が手に入れられるふつうのしあわせを手放していく。
今も、霊力で操りきれないからと、自分自身の生命を燃やして代償として術を編む。
空夜の為。ただ、それだけの為に。
苦痛に顔をわずかに歪ませながら、額を流れる大粒の汗を拭おうともせずに必死に道を
作る夕依。荒い呼吸に合わせて、何処とも知れぬ空間から光が発していく。
ぼんやりと球状に光るもの、それはまるで蛍のように宙を舞い、夕依の周囲を回る。
数十、数百。
次々と増えていくそのひとつひとつに祈りを込めて、命を込めて。元々白い肌が、透き
通るような不吉な白へと変わっていき、心臓は早鐘のように蠢く。乾いた涙の痕は大量の
汗によって新たな道を作り出し、土を濡らし衣服を染めていく。
「くっ……は、ぁっ……」
数千にも及ぼうかという光の粒が、夕依の苦悶の呻きを合図として、その数を見る間に
減らしていった。ただ消えるのではなく、対となって重なり、光の強さを増しながら。
数百、数十。
光は、生命の灯火、妣の顕現。ただ、相手を想うだけで産まれるはずの、力。けれど
それがどれだけ苦しくとも、夕依は決して折れはしない。愛する事は、苦しい事である
のに、それでも、そこにほんの少しだけあるぬくもり。それが嬉しいから。
- 29 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/07(金) 05:49:05
- 全身を襲う痛みも、苦しみも、それが空夜の為であると思うだけで耐えきれる。そう
自分に言い聞かせながら、それにすがって無理をする。その対価を無限ではない生命で
支払いながら。
荒く息を吐きながら、肩を揺らし、震える指先で二つになった光をそっと押す。
「おねがい……往って!」
声と共に、二つの光はゆらゆらと舞いながら天へと昇っていく。瞳を閉じ、両手を空に
かざし、震える膝を心でねじ伏せて、高らかに詠う。
「掛けまくも畏き伊耶那岐大神、筑紫の日向の橘小戸の阿波岐原に御禊祓え給い……」
祓詞を紡いで神へと祈りを託す。
空夜に穢れが訪れないように。空夜に闇が落ちてはこないように。それだけを願って
命を削って詠う。祓詞に合わせるかのように光は舞い、高く高く昇っていく。夕闇に包ま
れ始めた空の黒を切り裂いて、地上から天へと至る流れ星のように。
「あ……くっ……」
煌めき始めた星に紛れて見えなくなった光。それを見届けた夕依は強く呻いて蹌踉めく。
力尽きたように壁に背中を預け、そのままずるずると滑って地面に座り込む。額や頬に
汗で張り付いた髪を整えようともせずに、荒い息のままで笑みを浮かべた。けれどそれは
すぐに影に覆われて、泣きそうな顔になる。
「だめ、まだ……これだけじゃ、あにさまを護りきるなんて、できない。もっと……」
立ち上がろうとしてできない。石垣を積んだ壁の土台に指をかけ、必死に立ち上がろう
とする。がり、と石の表面を指が滑って、転んだ。消耗した身体は受け身さえとる事が
できずに倒れる。
「うっ……」
背中を打ち、痛みに顔を歪ませる。けれど、それでも諦めずにのろのろと再び壁に
すがりつきながら立ち上がる。頬についた泥を拭って、ようやく起こした身体を壁に預け
て、俯く。
「もっと、もっと……力が、欲しい……よぉ」
涙が溢れる。拭いきれなかった泥を洗い流し、頬に張り付いたままの髪を濡らしながら。
何かにすがりつきたくて、己の身体を抱き締める夕依。必死で二の腕を掴むが、袖に
ほんの少しの皺を刻む事しかできない。空を見上げようとして顔を上げるが、視線はその
ままで華奢な身体はずるずると壁を滑り、空から離れていく。
再び、地面に座り込む夕依。
「あにさま……っ。夕依は、夕依は、後どれだけ年を重ねれば……あにさまを護る事が
できるようになるのですか?後どれだけ年を重ねれば、あにさまの傍に立つ事ができる
ように……なるのですか……?」
- 30 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/07(金) 06:12:02
- 座り込んだままで、膝に顔を埋めて嗚咽を漏らす夕依。
「あ、に……さま……ぁ」
肩を震わせ、泣きじゃくる。数刻ほど前に、夕依の為に何かに怒りを顕わにした空夜。
夕依の為に、怒ってくれた空夜。もっと幼い頃からそうだった。夕依が手を差し伸べた
あの夜よりも前から。だから、それは普通の兄妹の感情だったのだろう。あの頃は。
けれど、今は違う。
夕依を大切に思ってくれているからこそ、夕依を大事にしてくれる。その心が嬉しかっ
た。何度も結ばれてはいけない、と心に言い聞かせて想いを告げる事を押し止めたとして
も、嬉しいと思う心までは消せない。
だから、その想いが痛かった。
祖父から夕依の身に宿る力と、その使い道を教わった時夕依は嬉しかった。これで夕依
も空夜に心を返せると思った。ただ護られるだけではなく、ただ、与えられるだけでは
なく、自分も空夜に与える事ができる、と喜んだ。
だが力は、年と共に強くなっていくのを感じるのに、それを制御する事ができずに今の
ようにたった一つの呪を行使するだけで立つ事さえできなくなる。生命を削ってさえ
ほんのわずかしか空夜の役に立つ事ができない。一方的に貰うだけ。
愛する人に、愛していると言われているだけ。このままでは、言えない。想いを告げる
のは駄目だと分かっている。理解している。
けれど分かっていても、理解していても、認められない。いつか、想いを告げる事を夢
にする事に罪などないと信じる。それゆえに、力を欲する。
空夜は強い。武においては夕依など問題にならないし、術なども空夜の方が上。けれど
そういう事ではないと夕依は思う。相手と同じものを返す事ができるのであれば、それは
ただの鏡にしか過ぎない。そんなものにはなりたくない。夕依を夕依として見て欲しい。
空夜が一つを夕依に与えて、夕依が返すものが一つで足りないなら、もっと多く。
「そう、だよ」
瞳に強い光を宿し、涙をぐいと拭って壁へと手を伸ばす。
「わたし、は……」
四肢に力を込めて、よろけながらも立つ。
「夕依、は…………」
真っ直ぐに空を見上げる。星が幾つも瞬き、月もまた天にある。
「夕依は、あにさまの為ならば、この生命だって、捨てられます」
星に想いを馳せながら、自分はただの星でいいと。動けない星でいい。微かに、弱々し
く輝くだけの星でいい。夕依にとって空夜は、夜の闇にあって地を照らす月。陽ほどには
荒々しくはなく、されど、決して弱くはない……穏やかな、月。
- 31 名前:一 「追憶」 投稿日: 2005/10/07(金) 06:37:49
- そんな空夜だからこそ、夕依は星でいいと思う。空を駆け、その穏やかな光で星を包ん
でくれる月。それを俟つだけの存在でいいと思う。
夜に上がらぬ月は無く、決して沈まぬ陽もまたありはせぬ。そうであるのなら、兄の名
はなんとふさわしいものなのだろう。空夜。夜の空。月の一文字はどこにもないけれど、
陽が昼の象徴であるように、月は夜の象徴。ならばこんな言葉遊びも許されるだろう。
星は、無数。儚い光しか持たぬけれど、数え切れないほどに空を彩る。大きな一つに
対しての小さな無数であれば釣り合いくらいは取れるかもしれない。
だから、自分は、星でいい。
揺れる膝に歯をくいしばって耐え、微笑みを浮かべた。壁についた手を離せば、瞬時に
地に伏してしまうだろう。そうしてまた、土の匂いに包まれる。
けれど、顔に浮かぶのは、微笑み。
とん、と壁を突いた反動で立つ。けれど、それはやはり数瞬。
崩れ落ちていく身体と共に流れる髪は、まるで風を受けているかのように舞い、視界の
中で地面が大きくなっていく。訪れるであろう痛みに備える事さえせずに、軽く瞳を閉じ
る夕依。そこには変わらぬ微笑みがあった。
大丈夫。何度でも、立ち上がれるから。
声に出さずに呟く夕依。その身体が止まった。
「夕依?」
ぬくもりと共に聞こえてくる空夜の心配そうな声。まだ、自分はやらなければならない
事がある。何度倒れても立ち上がり、返さなければいけないものがある。それで足りなけ
れば、最後に生命を。だから……でも、拒めない。
一番欲しい時に、一番欲しいものを与えてくれる空夜。
「あにさまが、こうだから……」
弱々しく呟き、抱き上げられるままに身を任せた。溢れ出しそうになる涙を閉じたまま
の瞳に力をこめる事で必死に抑える。けれど。
「俺は、夕依の傍にいる」
その言葉にゆっくりと目を開けて、その目に映る空夜の顔を見る。そこにあるのは夕依
の姿を映した眼差しと優しい笑顔。大きく息を吸い込み、吐く。もう涙を止める事はでき
なかった。ぼろぼろと溢れる涙。
「あにさまが、そういう人だから」
泣きながら、心の底からの笑顔を空夜に返し、抱かれたままで首に抱きつき、誓った。
「夕依は、あにさまから離れませぬ」
- 32 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/08(土) 04:24:11
- そして、春が本格的に訪れて過ぎ行き、夏を迎え、秋を越えて冬が降りてくる。そんな
営みを何度か繰り返して時を重ね、流れていった日々は思い出となって記憶へと刻み込ま
れていった。
遠かった空は、ほんの少しだけ近くなった。更なる力を得、心を鍛え、安息と共に一日
を過ごす日々。それは二人にとっては、幸せだと言える日々だっただろう。想いを重ねて
時を廻しながら、夢へと進む。
その先にあるものが破滅という変わらぬ星見に、怯えながら。
「もう、あれから五年か……」
抜き身の刀を無造作に地面に突き立て、縁側に座りながら呟く空夜。刀と言っても修行
の為に使う程度の低い物。刃を引いている訳ではないが、こだわりはないのだろう。汗で
額に張り付いた前髪をかきあげながら空を見た。
柔らかな日差しと流れていく雲。そこに何を見たのか、顔には微かな苦笑があった。
「兄様は、空がお好きなのですね」
幼さを残しながらも、凜とした空気を身に纏う少女が語りかけた。前髪は瞳を隠さない
程度に切り揃えられているが、背中を流れる艶やかな黒はそれほど丁寧に切り揃えられて
はいない。だが、腰の下にまで伸びるそれはまとめられる事も無く、少女が歩く度にその
動きに合わせて揺れるのだが、美しい。
「意識しているわけではないんだがな……気がつくと見てしまっている」
苦笑はそのままに、振り返って少女――夕依を視界におさめながら答える空夜。視線の
先で夕依はゆっくりと歩きながら伸びをしていた。
「んっ……今日は、良いお天気」
軽く口を開けて、小さな欠伸を漏らしながら言う夕依。空夜は先ほどとは質の違う、優
しさに満ちた苦笑を浮かべた。
「もう少し慎み深くならねば、一人前の女にはなれんぞ、夕依」
その言葉に悪戯っぽい笑みを浮かべる夕依。
「あら、兄様お忘れですか?夕依は、兄様から離れないと誓ったのです。一人前になど
なれなくとも問題はありません。兄様がそうしろ、と仰るのであれば、そうなるよう努力
致しますけれど?」
空夜の隣に腰掛け、笑う。
「やれやれ、分かった。俺の負けだ。夕依はそのままでいい」
そっと夕依を抱き寄せて答える空夜。夕依は瞳を閉じながら、身体の力を抜く。ゆるや
かに空夜の身体を伝い、膝へと頭を乗せる。
- 33 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/08(土) 04:48:19
- 床に髪が扇のように広がり、空夜の膝へと添えられた夕依の指は何かを求めるかのよう
にゆらめく。その指に手を伸ばし、指先を絡み合わせる空夜。もう片方の手は床を彩る
夕依の髪へと伸びて、一房を手にとって、梳く。
指の間をすり抜けて、はらはらと舞う黒髪。夕依は何も言わずになされるがままに、
ただ触れ合う指先に微笑みを浮かべた。
これが、己の幸せであると言うかのような、緩んだ微笑みを。
穏やかに過ぎていく時間のうちに、夕依の指先が止まり、代わりに小さな寝息が空夜の
耳へと届く。意識が眠りへと落ちていく事を拒否するかのように、微かに歪む眉。
空夜はそれを見て、ゆっくりと、夕依の頭が乗っていない方の膝を立てた。
起こさないように。
起こしてしまわないように。
安らかに、眠りへと落ちていけるように。
立てた膝で産み出された影は夕依の顔を覆い、穏やかとは言え、そのまま微睡むには
僅かに強い日差しから夕依を護る。
「んっ……あに、さま……」
甘えた声と共に眉の険は消え失せ、空夜の手を握る指先にほんの少しだけ力が篭もる。
そして、もう片方の指先は何かを探しているかのように、ゆっくりと動き、空夜の袖を
探し当てて、まるで赤子のようにそれをぎゅっ、と掴んで動きを止めた。
さぁっ…
少し強い風が庭を吹き抜け、木々の葉を揺らして流れていく。夕依の髪が僅かに舞って
頬をくすぐる。乱れたその髪を直してやりながら、空夜の指が夕依の頬に触れた。そのま
ま指を滑らせ、黒い髪とは対照的に白い肌に触れていく。
壊れ物を扱うかのように優しく……そして、臆病に。
「ん……っ」
くすぐったそうに身じろぎをする夕依。唇が僅かに動いて吐息を漏らす。吐息と共に
動きを止めた空夜の指は、少しの間を置いて、再び動き出した。
頬を滑り、唇へと触れる指先。
そっと触れて、名残惜しそうに離れて、けれどまた触れて、思い直したかのように離れ
て。指先で唇をなぞって、言葉にできない想いが伝われば良い、と祈るかのように触れる。
五年前。夕依に護ると告げる前は、同じように空夜の膝で寝ていても空夜が身じろぎを
した瞬間に目を覚ましていた夕依。空夜の傍で安心して眠りにつきながら、僅かな動きで
目を開けて空夜の姿を確認して安堵する。そんな、日々だった。
- 34 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/08(土) 05:08:14
- けれど、今は空夜が起こそうとするか、夕依が眠りに満足するまでは起きる事は無い。
空夜はそれが、辛かった。
午睡を貪るのであれば、それでいい。だが、夕依の眠りは時と共に増えていくばかりで
空夜が傍にいる事を誓ったが為のものではない眠りが気にかかっていた。強くなっていく
力に同調するかのように増えていく眠りの時間。それは、いつしか夕依が眠りに捕らわれ
てそのまま目を覚まさないのではないかという恐怖に繋がっていた。
その空夜の不安を感じ取ったかのように、指先が触れたままの唇が微かに動いた。
あ、に、さ、ま……
声は出ていないけれど、空夜を呼ぶ夕依。夢を見ているのか、それとも。その顔に浮か
んでいるのは幸せ、穏やか、そして、儚さと危うさ。
軽く頭を振って苦笑を浮かべながら、空を見上げる空夜。雲はその形を無限に変えなが
ら流れていき、陽は柔らかなままで天を滑っていく。春ももう終わりに近づき、鬱陶しい
雨が続く季節。夏へと時は移ろうとしていた。
久しぶりの晴天は、黒いどんよりとした雲に押し潰されそうになっていた心を解放して
くれていたが、空夜は苦笑を浮かべている。微笑みではなく、苦笑。怒りや悲しみにまで
は至らない、心。
それは迷いであるのか、二人を待っているという破滅への諦めであるのか、空夜自身で
さえも分からない。ただ、あの時から苦笑を無意識に浮かべる事が多くなった、とは自覚
している。
諦めではない、と思う。けれど不安ではあると思う。
破滅の正体が分からない、二人の前に立ちふさがるモノが何か予測すらつかない。それ
は空夜に進む事も退く事もできない、してはいけないという苛立ちを与えていた。
「凶の兆しは無い……星は平穏を指し示し、天の指針には一片の翳りさえもない……」
視界を、鳥が風に乗って横切った。
「だが、破滅のみが見えるのは何故だ?何の予兆も無く、ただ破滅は其処に在る。時さえ
も分からず、確実に襲いくるという事が理解できるのみ。それは、一体何だ?」
さらさら、と緑の葉を揺らす心地よい微風。
さぁっ、と弱い葉を樹から奪って大地へと落とす風。
風の変化もまた、雲のように無限。けれど風が吹く瞬間を知る術は無い。葉の揺れに、
なびく髪に、肌に感じる心地よさに、その見えぬ姿を知るだけ。そんな風も嵐になれば
枝を折り、大樹を引き裂き、人を死に至らしめる事さえある。壁などを立てて風に抗う事
はできても、風そのものを封じる事は不可能。ならば、破滅もそういうものなのだろうか。
- 35 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/08(土) 05:25:19
- 決して逃れられず、何時かも分からず、怯えながらそれを待つしかないのだろうか。
髪を揺らす風を捕まえようと伸ばされた手。
けれど、見えないものを掴む事ができるはずもなく、手のひらで風の存在を感じながら
ただ宙で握り締められるだけの拳。
軽く瞳を閉じて、空夜は風を掴み損ねた手を左目へと重ねた。
「…………ひらけ」
ぽつりと一言だけ漏らされた呟き。
だがその瞬間、世界が変わった。
空夜の周囲だけ何かの力が働いているかのように歪み、姿を変える。空夜の背後にある
ものは歪んで見え、前にあるものは砕けて見える。赤と青に分けられた世界の色は混じり
合い、奇妙な色合いが視界の中で踊り狂う。細くなり、太くなり、そして廻る。
しかしそれは、空夜の視界の中だけの話。
言葉と共に開かれた瞳が映す世界の中だけの、異常。他の誰がそこを見ても、異常など
ありはしない。力ある者であれば、空夜の左目の周囲に渦巻く力を感じる事ができるかも
しれないが、ただそれだけの事。
正面を見ながら、背後を視認する。
此処ではない何処か、現在ではない何時か。時も場所も越えて、世界を見る。世界が、
そして人が辿ってきた道、辿っている道、そして辿り着く場所。その全てを同時に感じ
その全てが感じられない。世の理というものを、神ならざる者が覗き見ればこう見えるの
だろうか。決して理解はできない、そして、狂ってしまった方が救いとなるとしか思えな
いほどの、現象。
武者が傷ついて倒れる。燃えさかる家の前で子供が泣き叫ぶ。空を切り取る鉄の線。蛍
が舞う大樹の側で抱擁しあう男女。涙を流して地面をかきむしる母親。奇妙な鋼の方形。
微笑みながら全身に刃を受ける男。木刀を一心に振る少年。黒い棒のような火を噴く物体。
物も言わずに前へと進む統制された兵士。空を翔る鳥が地に落ちて土へと還る。はらはら
と舞う雪は吹雪へと姿を変えて、陽に溶けて水へと戻る。立ち並ぶ白い塔。ちぎれた雲は
再び集まり空を覆い尽くしていく。願いを込めて神社の階段を急ぐ少女。田畑を耕しなが
ら冗談を言い合う人々。憎しみに任せて歌う少年。暗闇に潜む鋭い眼差し。土の上から立
ち上る昇る巨大な雲。朽ちた木の側から小さな芽が顔を出す。艶やかな笑みを持つ遊女が
通りを歩く男に視線を送る。真っ赤な顔で少女に人形を差し出す少年。血に濡れた衣服。
そして……
そして。
そ、し、て?
- 36 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/08(土) 05:46:05
- 次々に砕けて散る風景。
空夜の周囲総てで展開される何処かの誰かの思い出と現在、そして未来。万華鏡を見て
いるかのように、壊れた幻のひとつひとつの欠片は違う風景を映して、また壊れてそれが
新たなる欠片をなって別の風景を映し、それはまた壊れて……
無限の連鎖。上にあるそれは下にもあって、右にも左にも無くて、近くにも遠くにも
無い。どれだけ走っても辿り着けず、どれだけ手を伸ばしても、届かない。息遣いすら
聞こえるのに。
それは、起こってしまった事、起こってしまっている事、そして起こってしまう事の
総てであるから。
「くっ……何故だ、何故、先はこのように……っ!」
唇を噛み締め、呻くように言葉を紡ぐ空夜。
ヨリ……ロ……ウシハ…………カグ……チ……ユエ…………
途切れ途切れに頭の中に響く言葉。禍々しい力を感じ、嫌悪を抱きながらもそれを否定
する事も、それから耳を塞ぐ事さえ出来ない空夜。
手のひらを左目に押し当てて、何かを塞ごうとするが、指の間からは赤と蒼の混じった
紫色の光が漏れ出る。
「それは、一体、なん……だ?一体、何を告げようと……」
「あに、さま……?」
怒りの混じった空夜の声に夕依が目を開けながら、空夜に問いかける。苦悶に満ちた
表情を見て、動きが止まった。
「……っ……と、じ……ろ……っ」
左目を抉り出そうとでもいうような勢いで、左目を覆う手に力を込める空夜。
「兄様っ!」
その空夜の手にそっと夕依の手が重ねられた。
「廻天-rin-」
夕依の手がゆっくりと緑色の光を放ちながら円を描く。
「背律-hen-」
手のひらを返し、そこにたゆっていた光が声に合わせて空夜の頭を幾重にも囲む。
「胎還-ketsu-」
そっと握られる拳。頭部にあった光は空夜の顔に在るままの手へと収束していく。
空夜の手の隙間からは紫色の光が湧き出していたが、夕依から生み出された緑の光はその
光と交じり合ってその色を変えていく。
- 37 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/08(土) 06:07:53
- 「再生-syou-」
ゆっくりと差し出されながら開かれる手。そこに紫と緑の光が交じり合って、打ち消し
あって白となる。渦巻きながら、光の粒を撒き散らせながら、収束していく。
和らいでいく空夜の表情に対するかのように、夕依は苦悶の表情となって、額に大粒の
汗を浮かべながら苦しそうに息をつく。
「裂壊-hi-」
荒い息の合間にかろうじて韻を紡ぎ、言霊で呪を編んで解放する。白い光がぐるぐると
回りながら夕依の手のひらにのるくらいの球へと形を変えて、弾けた。
「っ……ぅ」
四方の空間へと糸のような軌跡を残しながら弾けたそれは、夕依の腕へも走り、袖を
裂いて肌へと痕を刻み込んで、消えた。だが、夕依の腕に残された痕からはじわり、と血
が滲み、赤い模様を描き出す。
傷そのものは大して深くないように見えるが、夕依の顔に浮かぶのは、苦しみ。流れる
汗を途切れさす事もなく、顔を歪める。空夜は左目から手を離し、焦点の合わない瞳で
周囲を見回し、夕依を見た。その瞳は黒に戻っていて、もう光はない。血管が走って充血
し、白目が赤く染まってはいるものの、普通の瞳へと変わっていた。
「すまぬ……」
ゆるやかにその領土を広げ、ぽたり、ぽたりと床に赤い染みを作っていく夕依の血。腕
に刻まれた傷を見つめ、唇を噛む空夜。
「夕依は、兄様の力になれる事が嬉しいのです。謝らないでくださいませ」
まだ息は荒く、汗もひいてはいないけれど、夕依はにっこりと笑んで空夜と視線を合わ
せた。消耗が顔に影を落としてはいるもののそれは、紛う事なき笑み、だった。
汗で張り付いた、乱れた髪。額や頬だけでなく、首筋にまでべっとりと。血の気を失っ
た肌は、青白く、壊れそうな色。
空夜はそっと手を伸ばし、夕依の首筋に触れ、そこにある髪の毛に触れる。そのまま手
を滑らせ、頬に触れ、視線を合わせた。
「すまぬ」
再び謝罪を口にする空夜。空夜に触れられて頬を染め、気持ちよさそうに目を細めてい
た夕依だが、空夜の再度の謝罪を聞いて、身体の力を抜いた。
空夜の胸に頭を預けて、しがみつく。空夜の手は頬から夕依の頭へと移り、僅かな躊躇の後でゆっくりとそこを撫でる。優しく、愛おしそうに、そして申し訳なさそうに。
夕依は幸せな表情を見せながらも、泣きそうな瞳で軽く唇を噛んだ。瞳がゆらめき、濡
れていく。
耐えきれず閉じた瞼に押し出され、涙が頬へと流れていった。
- 38 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/09(日) 04:29:05
- 「夕依は、兄様の為であれば死んでも良いのです。なのに、兄様は夕依を案じてください
ます。夕依が傷つくのは見たくないと……」
胸に顔を埋めたままで、ぽつりと呟く。
「何故、ですか?」
その問いかけは慟哭のような響きと共に。華奢な身体を震わせながら、祈るような声で
囁く。
「……」
返ってはこない答え。
沈黙から目を逸らすように、袖を掴む手に力を込める。何かを言いかけて口を開き、
言葉にならぬままに頭を垂れる。先ほど、力を使っていた時よりも、ずっと。もっと、苦
しそうな表情。
けれど、沈黙は続く。
お互いお互いのぬくもりを感じながら、声は届かない。心の音さえ聞こえる程に近い
のに、果てしなく、涙が溢れる程に、遠い。
顔を上げた夕依の瞳から、とめどなく溢れる涙が服を濡らしていった。
「……し、て」
二人の間に壁となって横たわる静寂を嗚咽で切り裂いて、言葉を漏らす。
「どうして……」
何も答えず、ただそっと夕依を抱き締める空夜の手。だが、それから逃れるかのように
強く……強く身体を寄せて空夜にしがみつく夕依。空夜の手を振り払う事などできない。
けれど、その優しい手からは、逃れたい。そんな、矛盾。
「どうして、答えてはくださらないのですか……っ!あにさま!」
幼い子供のように、泣きじゃくる。両手は空夜の胸元で襟を掴んだまま。顔を上げ、頬
を伝う涙を拭おうともせずに、真っ直ぐに空夜を見つめる。その眼差しに浮かぶのは、想
いと痛み。それは新たな涙を呼んで涙で涙を拭って押し流す。
しかし空夜は、感情の篭もらぬ……いや、感情を無理矢理に押し潰しているかのような
苦痛を湛えた瞳のまま。その硬く噛み締めた唇から、赤い血が一筋流れた。
「あにさまが、夕依を妣として使うと、そう仰ってくだされば、夕依は何も想わずにすみ
ますのに!このように心が引き裂かれるかのような痛みも知らずに、ただ、あにさまの盾
となって死ぬ事ができますのにっ!あにさまのお役に立てる事を、あにさまのお役に立て
た事を……幸せに想いながら……消えて、いけますのに……」
まるで血を吐くかのような叫び。泣きじゃくりながら、慟哭に満ちた想いを涙で綴る。
愛する人を護って、その為に命を落とすのであればそれは自分にとっては幸せ以外の
何ものでもない、そう告げる夕依。
- 39 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/09(日) 04:48:05
- それでも、空夜からの答えは、無い。
「夕依が傷つくのをあにさまが恐れるのは、何故ですか?夕依が泣くのを嫌うのは、何故
ですか?あの日、夕依の傍に居ると仰ってくださったのは……何故、ですか?あにさまが
夕依を大切だと想ってくれているからではないのですか?あにさまが……夕依を、愛しい
と想ってくれているからでは、ないのですか……?」
「夕依……」
「どうして、どうして!あにさまはお一人で何もかもを抱え込んでおしまいになるのです
か?夕依を愛しいとお想いなのであれば、夕依をもっと頼ってくださいませ!あにさまが
夕依を傷つけまいとしてくださるのは、嬉しい。この心があにさまの心で張り裂けてしま
うかと思うほどに幸せです……けれど、けれどっ!」
空夜から手を離し、強く自分の胸元をかきむしるように掴みながら、続ける。
瞳は、空夜を映したままで。
「これでは、夕依は重荷にしかなれないではありませんかっ!あにさまが夕依の想いを迷
惑だと、夕依の存在を重荷だと思っているとは思いませぬ。けれど、夕依が傍に居る限り、
あにさまが夕依を一とする……夕依が一であればあにさまは自分がどうなってもよい、と
思っておられます……であれば、夕依は一番生きていてほしい、あにさまの生命を糧とす
る事でしか、傍に居る事を許されていないではないですか……そのような代償……夕依は
望んでは……おりませぬ……」
その叫びに返す言葉を見つけられない空夜。ただ、夕依の身体を抱き締めるだけ。
「愛されているだけではなく、あにさまを愛したいのです、夕依は……あにさま、答えを。
夕依に、答えを……ください、ませ……」
力を抜いて、抱き締められるままに身体を預ける夕依。流れても流れても、尽きぬまま
に溢れて零れていく涙。頬を伝い、顎を伝い、服へと落ちていく。
落ちた雫は広がって、着物の色を変えて染みていく。夕依の想いを決して邪険にはせず、
けれど決して受け取りはしない空夜。ずっと傍にいるようになって、前よりも離れてしま
ったような気持ちになった。何度涙を溢れさせただろう。何度頬を濡らしただろう。
心が欠けて、溶けて涙になって落ちていくような。
魂が壊れて、溶けて涙になって零れていくような。
その一片一片に想いを確かめ、あの日から一体何度繰り返したのだろう。月が隠れた夜
に不安を覚えて。荒れる風が心細くて。音を吸い込んで静かな、無音の銀世界の中に恐怖
を感じて。
無邪気だった愛情は、大きくなった身体と力と共に女の愛情へと変わった。諦めようと
する度に、それを拒否して胸が痛んだ。共に過ごす事が当たり前となった事で、傍に居ら
れる幸せが当たり前の日常に埋もれていくようで、切なくなった。
- 40 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/09(日) 05:09:11
- 空夜が自分へと注ぐ想いもまた、愛であると気付く事ができた。幼い頃はただ、嬉しか
っただけのそれが、重くなった。愛の意味など幼かった自分には理解する事もできずに、
それに憧れていただけだったと、気付いた。
空夜が与えてくれる感情を、自分も返そうと背伸びをしていた、それだけの事。
けれど、自分の無知を哀れとは思い返すけれど、それを恥じる事は無いとも思う。空夜
が与えてくれるものを自分も空夜に与えたい、それだけは今も、変わらないから。
この世ならざるものを視るという瞳、空夜の左目。
それが何を映しているのか。空夜は何を知っているのか。優れていると言われる夕依の
星見よりも正確な事象を視る空夜の目。
空夜は、何を、知ってしまったのか。
それを知る術を持たない夕依だが、それが良くないものであるという事は分かっていた。
目を開いた空夜は、先ほどのように力が暴走する事は稀であるものの、その後に浮かべ
る表情はいつも決まっていたから。
絶望、憎しみ、そして苦しみ。自分が無力であると自分を責めて、何かを壊していく。
そんな空夜を見る度に夕依もまた自分の無力さが歯痒くて、苦しむ。どうして、自分に
は浄眼が顕現しないのだろう、と自分自身を恨む。代わりに妣という力を持っているもの
の、それはまだ制しきれてはいない。精々が空夜の目の力が暴走した時にそれを閉じる事
ができるだけ。積み重ねた妣の呪はまるで、役に立たない。
与えたいのに。
できない。
ただ、与えられるだけ。
空夜は夕依が傍に居るだけで癒されると口にする。それは、きっと真実なのだろう。
夕依もまた、空夜が傍に居るだけで癒される。けれど、それは決して幸せではない。傍に
居る事と、繋がる事とは違うから。
どうして、求めてはいけないのか。
どうして、その先へと一歩を踏み出してはいけないのか。
夕依にとっては、愛し、愛されて、その先に子を成す事があったとしてもそれは結果に
しか過ぎない。想いが繋がらなくても、子を成す事などできるのだから。
それよりも、通じ合いたかった。お互いがお互いを愛していると分かっているのに、唯
の一度もそれを二人で、言葉で、交わした事はない。心と心が通じ合っていれば、言葉な
ど不要だとお伽噺の恋話は言うけれど、それは、ただの残酷な夢。
通じ合った後だから言葉など不要と言えるだけの、夢物語。
傍に居る事はできるようになったけれど、まだ隣に立つ事はできない。五年という時で
はまだ全然足りなかった。壊れてしまう前に、そこへと自分は辿り着けるのだろうか?
- 41 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/09(日) 05:26:44
- 不安は抱えきれない程に大きくなって、最近では容易く涙が流れるようになった。空夜
はその度にぬくもりを与えてくれるけれど、それは空虚さだけが残る陽炎のようで。
求めれば求める程に引き離されて、泣き疲れた夕依が眠りに落ちるまで、与えられる
ぬくもりは愛おしくて、言葉にされない想いだけが募っていく。
まどろみに落ちていく最中の、泡沫の淡い夢。
あたたかい、拒絶。
家はとっくに二人が結ばれる事を許しているというのに、夕依は結ばれてはいけないと
思う事を辞める事さえできない。空夜もまた、結ばれようとはしない。
それが例え一時の気の迷いだとしても、抱かれるならば少しは救いになったかもしれな
いのに、抱き締め、髪に触れ、共に寝る事すらあるのに、夕依の身体に男としては決して
触れようとはしない空夜。夕依も殊更にそれを求めようとは思ってはいないが、それでも
そうなる事を拒絶したいとは思わない。
心が通じ合う前に、男と女になる事は悲しい事なのかもしれないけれど、男と女になっ
た後で心が通じ合う事もあるかもしれないのだから。
けれど、それは禁忌。
まるで、魂を縛る肉体のように、決して越えてはならない一線。二人の間でだけ決めら
れた禁忌。侵せない、願い。
決して、結ばれてはならない。
何故、こんな風に思ってしまったのか。知ってしまったのか。それを思い浮かべぬ程に
愚劣であったなら……それに至らぬ程に普通であったなら。
届かない願いに思いを馳せて、夕依は涙を零す。
――妣であるこの身が肉体だけでなく、心も護る事さえできるのならば
悔しそうに唇を噛み、空夜に抱き締められた泣いた常のように、ゆっくりと眠りへと
落ちていく夕依。ここまで心を露わにした事は初めてだった。想いをはっきりと口にした
のは初めてだった。
激情に流されながら、だけれど。
ようやく、口にする事ができた。勝手に口にして、吐き出して、空夜の答えを聞こうと
もせずに、眠りへと逃げる。なんて、我が儘な女なのだろう。
でも、夕依は言いました。伝えました。ならば、次はあにさまの番です。
まどろんでいく意識の中で、夕依の唇はそう動いた。
- 42 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/09(日) 05:51:22
- その答えを待つという事。それだけで、きっとしばらくは耐えていけそうだから。そん
な事を夢想しながら、落ちていく意識の中で……空夜の静かな声が……届いた。
「共、に。共に堕ちようか……夕依」
「え……?あに、さま……?」
今はもう自分は夢の中へと迷い込んでしまっているのだろうか?夕依の瞳の焦点が揺れ
て、宙を泳ぐ。ほんの少しだけ悲しそうに、そして照れたように微笑む空夜の姿を見つけ
て……霞んだ。
「苦しいな、夕依。未来には絶望しか無い。ほんの束の間の為に、先の総てを捨てる。
一人であれば、その不安に耐えられると思った。その苦しみを越えられると思った。けれ
ど、苦しみながらただ、傍に居る事だけが許された永い時間よりも、一時の、心の底から
の幸福を夕依が望むのであれば、俺はそれに従おう。許せ、夕依。俺の弱さに夕依を付き
合わせてしまう事を俺は望んでしまった」
身体を起こした夕依の眼差しを真っ直ぐに見つめながら言葉を紡ぐ空夜。
「一人きりで堕ちる事を良しとせず、伸ばされた手を幸いと掴み……俺は、夕依を巻き添
えにしてしまう。けれど、それを夕依も望んでいるというのなら、俺は選ぼう。共に堕ち
よう夕依。魂が永劫の呪縛に捕らわれるとしても、俺は、お前を……愛している」
そっと手を伸ばして、頬に触れて……まるで、幼い頃に戻ったかのような微笑みを浮か
べて、はっきりと答えを返す空夜。
「あに……さ、ま…………」
信じられない、という風に弱々しく首を振りながら、双眸から一度は止まった涙を再び
溢れさせる夕依。嬉しさで胸が詰まって言葉を出せない。
ずっと、ずっと待ち望んでいた……欲しかった、言葉。
それが正しいのか、間違っているのか。そんな事はどうでも良かった。
「夕依を救いたかった。夕依だけは、救いたかった。妣として夕依を扱えば……ただの
血を受け継ぐ者として夕依を扱えば、先は変わったかもしれないのに。先の地獄へと至る
のは俺一人だけで構わないとそう決めたはずであるのに」
夕依の頬に触れた空夜の手はゆるやかに滑って、髪をかき分け、首筋を這う。ぬくもり
を越えて、熱へと至ったそれは、想いの具現。
「そう、ただの道具として愛し、道具として触れれば……或いは道もあったのに。夕依を
道具として見る事など俺にはできなかった。弱い兄を、愚かな兄を……許せ」
柔らかな微笑みを絶やす事なく、自嘲する空夜。
「けれど、誓おう。例え終わりが明日訪れるかもしれなくとも、俺は今、この時より夕依
を、ただの女として愛する」
首筋に触れる空夜の手に手を重ねて、夕依は微かに上気した顔で、答えた。
- 43 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/09(日) 06:10:37
- 「夕依は、兄様から離れませぬ。夕依も、兄様を、愛しています」
幼い頃に告げた言葉。無邪気な心と共に放たれたそれに、確かな今の心を込めて再び
紡ぎ出す。互いが互いを想うがゆえにどちらかが悲しみに沈むのならば、二人で共に業火
に焼かれて朽ちてしまおう。
幸せなどという生ぬるい言葉に絡め取られて、一人しか生きていけないのであれば現在
というこの瞬間だけを二人で分かち合おう。
それは、誓いという名の抵抗。言葉にせずに、視線で想いを伝えあう。
――――――堕ちよう、現在、この瞬間に、二人きりで。
ゆっくりと瞳を閉じる夕依。今だけは後悔を忘れて進む空夜。夕依の顔が上がって、唇
が心を求めて震える。
柔らかい夕依の緑の匂いが空夜を包む。
永劫にも似た数瞬。
刹那にも似た静寂。
静かに流れていく時に置き去りにされる心と心。過去より至り、未来へと続いていく道
の途中に、背中を向けて立ち止まる二人。互いの息遣いが耳に大きく響く。
手を伸ばさなくとも、届く。目を閉じていても、見える。
だから、瞳を閉じたままで、微笑んだ。
「俺の魂は夕依に預ける……代わりに、夕依の未来を…………貰う」
「あにさま。夕依は、不確かな先などよりも……確かな証が、欲しい。今……この刻が夢
などではないという……証、が……」
柔らかな、風が吹いた。夕依の髪が風に舞い流される。それは瞬間二人を隠して――
くちびるが、かさねあわされた
軽く、触れ合う。微かに目を開ければ視界一杯に広がる互いの顔。吐息を感じるよりも
近く、幾度となく触れ合ったはずの、肌のぬくもりよりも近く。唇を話して口を開くより
も、熱となっていくぬくもりで語り合う
数秒?
数瞬?
待ち続けた刻は永く、積み重ねた、ねがい、は高く天へと至るほど。幾つもの夜を越え
て、朝を迎えて、一日が繰り返されて。互いを縛った禁忌を互いでほどいて、ようやく
此処へと至る。ならば例えば、今すぐに死んでしまっても……悔いなど欠片も零れぬ。
- 44 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/09(日) 06:28:39
- どちらからともなく唇を離して見つめ合う空夜と夕依。ほんの一時にすら万感の想いを
込めて、照れたように微笑み合う。
空夜は微かに頬に朱を差して。
夕依は顔を真っ赤に染めて。
「あにさま……」
ぼうっとした表情には、嬉しさと気恥ずかしさとが混じった、幸せを浮かべて呟く夕依。
空夜はそんな夢見心地の夕依の頬に手を伸ばし、そっと触れて――
「んっ……」
再び、唇を重ね合わせた。
先ほどのような触れ合うだけのくちづけではなく、互いに求め合うという行為。強く、
けれど優しく。一度目のくちづけは、確認。
心を確かに通わせあったという……その儀式。もう、願わなくてもいい。望むだけの悲
しい日々を過ごさなくてもいい。終わりへの、喜び。
ねがいの成就と頬を伝う涙を、悲しみから嬉しさへと反転させる為の、全て。
では、二度目のくちづけは?それは――
迷いを断ち切るための、翼を産み出す為のもの。
翼は天を翔る為の力。風を切り、自由に舞って羽ばたく為の、力。けれど、二人の先に
在るのは陽の光ではなく、夜の闇。未来へと背を向けて、ただ堕ちていく為だけの翼。
二人で選んだ、想いを編んで、涙で固めた、かなしいつばさ。
けれど後悔は無く、迷いすらもくちづけで断ち切って、悲劇へと飛ぶ事を覚悟する。不
確かな……けれど二人が選んだ未来よりは遙かにしあわせという嘘に塗り固められた先。
それを捨てた、代償。
このまま、時が止まってしまえばいい。このまま、命が尽きてしまえばいい。そんな
永い……永い、くちづけ。時の流れに取り残されて、誰の記憶にも残らず、忘れ去られた
としても、この確かなぬくもりは今存在しているのだから、それだけでいい。
空夜の首に腕を回してしがみつく夕依。
夕依の背中に腕を回して抱き締める空夜。
風が髪を揺らして、頬をくすぐる事さえ気付かずに、ただ二人だけの時へと埋没してい
く二人。
けれど、そのあたたかな世界は、終わりを告げた。
「あ、あれ……?痛っ……」
夕依の戸惑いと苦痛を帯びた呻きによって、一時の夢は醒めていった。
- 45 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/10(月) 01:56:18
- 「夕依?」
身体を離し、夕依を見る空夜。夕依は、下腹部に手を当てながら空夜から距離を取ろう
としていた。
「え?あ、あにさま……いえ、何でもないのです」
動揺しながら、顔を真っ赤にして後ずさる夕依。
「何でもないと言ってもだな……」
怪訝そうな眼差しで夕依へと手を伸ばそうとする空夜だが、それは拒まれる。夕依は勢
いよく首を左右に振りながら、さらに空夜から距離をとった。
「いえ、本当に大丈夫ですから……っ!あにさまは、ここに居て下さいませ。動かないで
下さいませ!いい、ですか?」
顔を哀れなほどに真っ赤にして、ぶんぶんと首を振り続ける夕依。その行為は明らかに
照れ隠しであると断言できるのだが、その理由が分からない空夜。恥ずかしいという思い
を隠そうとしているのは推測できるが、それを今夕依が行う理由が分からない。くちづけ
に照れているにしては挙動が不審すぎるし、それを言うのであれば空夜自身も気恥ずかし
いのだから、ここまで必死になる程の事でもないと思う。
「夕依がそう言うなら……だが、本当に大丈夫なのか?」
じと、と自分を見つめる視線に込められた、圧力のようなものに内心で苦笑しながら、
空夜は夕依へと伸ばそうとしていた手を引っ込め、気遣わしげな視線を送る。
「はい、大丈夫、です。あ、あの……夕依は、少し用事を……いえ、あのそうではなくて
だから……」
「夕依……?」
ますます不審になっていく夕依。だが、空夜が言葉を続けようとした瞬間、夕依は勢い
良く立ち上がり、背中を向けた。
「申し訳ありません、後で……また、兄様の所へと参りますからっ!」
そのまま一気に言葉を紡ぎ、走り出す。だが、下腹部に手を当てたままのそれは、ただ
よろよろとふらつきながらの歩みで、危なっかしい。
「あ……」
言葉をかける隙もなく去っていく夕依。無邪気で爛漫な所もあるにしろ、ここまで動揺
している夕依を見るのは初めてだった空夜は呆気に取られていた。やはり追いかけた方が
良いのだろうか?と思うが、その視線の先では夕依がものの見事に転んでいた。
「…………」
慌てて立ち上がり、床を見回す夕依。空夜の視線に気付いて不自然な笑みを浮かべなが
ら軽く手を振り、そのまま廊下の角へと姿を消していく。空夜が立ち上がる暇さえ無かっ
た。その光景に肩をすくめた空夜だが、くん、と鼻が動いた。
- 46 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/10(月) 02:13:46
- 眉を顰め、真顔になって険しさを顔に浮かべながら。
「これは……血の匂い……?」
微かに、空夜の鼻に届いたのは錆びた鉄のような、血の匂い。この場に血の匂いが漂う
理由が分からず、戸惑う空夜。
「夕依の、血か?」
自分の目の暴走を抑える為に肌を傷つけた夕依。少しではあったけれど、そこからは確
かに血が流れていた。その、残り香だろうか。
一瞬、夕依の身を案じる空夜だが、先ほどの夕依の様子からすれば何も問題はなさそう
に見えた事を思いだし、軽く首を振る。あれならば大丈夫だろうと思い直し、廊下の屋根
を支える柱へと背中を預けて軽く目を閉じた。何より、夕依が大丈夫だと言い、動くなと
言ったのだから……そして、夕依は帰ると言ったのだから自分に許されているのは待つ事
だけであろうと自分を納得させた。
「何なのかは分からぬが……大事でなければよいが」
呟き、己の思考へと意識を埋没させていった。
「夕依、どうしたのですか?」
不思議そうな顔で廊下にしやがみこんでいる夕依に声をかける夕依の母――沙霧。慌て
たように廊下を走る夕依が襖を開けた沙霧にぶつかりそうになって、必死にそれを避けよ
うとした所までは見ていたのだが、動きを止めた夕依はそのまま床へとしゃがみこみ、顔
を真っ赤にしながら俯いているだけで言葉を発しない。
「母様……あ、あの……」
「どこか打ったのですか?ほら、お立ちなさい」
夕依の手を取り、沙霧は夕依を立たせる。見た所、衣服に多少の乱れはあるものの特に
大事に至るような場所は見当たらない。
「あの……ええと……」
言いにくそうにしながら、何かを伝えようとする夕依。常に凜としていた夕依のそんな
様を見るのが嬉しくて、そして微笑ましくて、沙霧は笑った。
「どうしたのですか?落ち着いて、話しなさい。母様は夕依の味方ですよ」
優しく言葉をかけながら、俯いたままの夕依の頭を撫でる沙霧。そして夕依はそんな母
の様子に答えようとして、表情を凍らせた。
「あっ――――あ、あれ?」
数歩後ずさり床を見る夕依だが、疑問の声をあげながら首をかしげる。
- 47 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/10(月) 02:43:58
- 「血?」
膝の上が見えるくらいに袴を持ち上げ、自分の足を見る夕依。そこには足を伝って床に
ほんのわずかな染みを作る血が、あった。
「夕依……!」
驚きと共に声を上げながら、喜びの表情を浮かべる沙霧。そこに在るのは、母の顔。
「ふふ、夕依が何を言いたかったのか、分かりましたよ」
「母様……」
足を伝う血に戸惑いながら、訳が分からないと泣きそうな顔になる夕依。沙霧は優しく
夕依の手を引いて先ほど自分が出てきた部屋――自分の部屋へと夕依を招き入れながら
再び、笑った。
「安心なさい、夕依。それは夕依が大人になったという証なのですから」
「大人、に……?」
沙霧に手をひかれながら、不安そうな顔のままの夕依。
「そう。夕依は大人になるという事を知ってはいても、それがどういう事かまでは知らな
かったのでしょう?子を成すと言葉では知っていてもそれが、どういう事なのかまでは
知らないのでしょう?安心なさい。何も不安がる事などないのですから」
ただ、娘の成長を喜ぶ母親。二人は共に、夕依が子を成す事のできぬ身体であるとは
知らないがゆえに、在る事をただ当然の事として喜ぶ。沙霧の言葉と態度で不安の色を薄
めてはいるが、夕依にはまだその沙霧の喜びの理由も、分からないけれど。
しかし、大人になった、という言葉は夕依の心へと容易く浸透し、沙霧の手を握る力が
僅かに強くなる。大人になれば子を成す事ができる、と知っていた。
確かに、沙霧の言うようにそれがどういう事なのかまでは知らなかったけれど、大人に
なれたのであれば、とふつふつと心の奥底から不思議な感情が浮き上がって、自然と笑み
が浮かんだ。
下腹部には鈍い痛みがあり、胸の膨らみもまた痛みを訴えているけれど、その喜びに比
べれば大した事ではないと思えた。そして、空夜と心を通じ合えた時に大人の証が自分に
訪れるなど、まるで運命であるかのようにさえ思えた。
夕依は、自分に月経が訪れていなかった理由を知らないから。
夕依の胎内は結晶に侵されて、もはや子供を成す事など叶わぬ身。であれば、子を成す
為に必要な事はその身には訪れる事はない。だからこそ、今までそれが夕依に訪れる事は
なかった。人の身は、必要が無ければ当然の事でさえ行わない。だが、必要があれば当然
ではない事を起こす可能性を秘めている。
ならば、夕依が必要だと思ったからそれが夕依に訪れたのか。それとも、何か別の意思
が其処にあるのか。それは、今の二人には思いつく事さえない闇だった。
- 48 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/10(月) 03:32:16
- ただの、親子として此処にある二人には。
そして、半刻ほどの時間が過ぎて着物を着替えた夕依は、沙霧の部屋で沙霧と言葉を
交わしていた。
「母様も、夕依と同じなのですか?」
「母様だけではありませんよ、夕依。女は皆そうであるのです」
目を輝かせながら沙霧に次々と問いかけをする夕依。沙霧はそんな夕依の様子を目を細
めて微笑んで見つめながら、答えを返す。まさか、この家でこのように娘と共に普通の母
娘のように語らう事ができるなど思いもしなかったと沙霧は心の中で呟く。
十五という年齢。
月経が訪れるには少し遅い年齢だが、遅すぎるという事はない。嬉々として空夜と想い
を通じ合ったと語る夕依。それがきっかけになったのだろうか、と考える。想いを胸に隠
して、生きてきた夕依。傍目に見ていてもそれはとても苦しそうで、力になってやりたい
と何度思っただろうか。
だが、自分から夕依に近づく事を……孤牙の家の者としてはともかく、母親として夕依
に接する事を禁じられていた沙霧にはそれは叶わず、ただ見守る事しかできなかった。禁
を侵しているという事実も、夕依からの事であれば構うまいと開き直って、初めて孤牙と
いう家の禁に背いて沙霧は語る。語り続ける。
「これから月に一度はそれが起こるのですから、備えておかねばなりませんね。今は身体
は大丈夫ですか?」
「はい、母様。まだ少しだけ痛みますけれど……大丈夫です」
微笑む夕依だが、沙霧は少しだけ真面目な顔になって夕依に告げた。
「初めてですから、そうでしょうね。母もそうでした。けれど、今度からはひどく痛む時
もあるのです。時によっては立っていられない事もありましょう。その時は母にお頼りな
さい。夕依の苦しみを癒す手伝いはできますから」
「苦しい時……あの、母様?夕依は苦しい時や、悲しい時は兄様に抱き締めてもらえば心
が安らぐのですけれど、それでは駄目なのですか?」
きょとん、として聞く夕依。
「そうですね、空夜も力になれる事はあるかもしれませんね。けれど、空夜よりもその事
については、母は良く知っています。空夜とて男。女には女しか分からぬ事もあるのです
よ、夕依。もちろん、夕依が空夜を頼りたいのであれば、そうした方がいいでしょう。心
の問題でもあるのですからね」
その沙霧の言葉にうーん、と目を閉じ、頬に指をあてて考えこむ夕依。
- 49 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/10(月) 03:52:31
- 「夕依は、母様にします」
満面の笑みを浮かべて沙霧に告げる夕依。
「あまり兄様の時間を夕依が取ってはいけませんし、夕依は……」
言葉を切り、沙霧の胸に飛び込む夕依。沙霧は戸惑いながらも、その身体を優しく抱きとめた。
「母様のぬくもりも、大好きです」
「夕、依……」
無邪気に抱きつく夕依。その背に手を回そうとして、そのままの体勢で動きを止めてし
まう沙霧。肩が震えた。
「本当に、よいのですか?私は夕依に……そして、空夜にも母親としては……」
続ける事ができない言葉。瞳には涙が溜まって、今にも溢れそうに震える。けれど夕依
はきょとんとした表情で、それは決して何でもないような事、と言うかのように答える。
「だって、母様……いつも、夕依と兄様を見守ってくれていたではないですか。家の約束
事か何かで、夕依と兄様に接する事ができなかっただけでしょう?兄様は今の当主ですし
夕依はそんな兄様の……ですから。夕依の方こそ、よいのですか?」
聞こえなかった言葉はあまりにも小声すぎて、夕依は顔を赤くしながらもごもごと口の
中でだけ呟いただけであったから沙霧には聞き取れなかった。けれど、夕依の様子を見れ
ばそれが何を言いたかったかは、分かった。
しかし、何故夕依がよいのか?と聞くのが分からない。夕依と空夜を気に掛けていた事
を、見ていた事を夕依が知っていたのは……気付いてくれていた事は嬉しかった。ただ、
それだけの事が、沙霧に自分は母親であると胸を張れると思えるほどに、嬉しかった。
「夕依は、兄様の事だけでいっぱいだったから……母様にまで……ずっと、見てくれてい
た母様にまで気を回す事ができていませんでしたのに。それでも、そんな、夕依が……
母様を頼ってもよいのですか?」
「夕依……」
溢れた。
母親として二人に成した事。それは産み、乳を与え、数年を共に過ごしただけ。後は
引き離され、母親として接する事ができなかった。空夜が修行でどれだけ傷を負っても、
労る事は許されず、夕依がどれだけ苦しんでいても、手を差し伸べる事は許されなかった。
二人が母親を必要としているであろう時に何の力にもなれなかった、自分。今はただ
名前を呼んでいるけれど、普段は我が子を名前だけで呼ぶ事すら許されない。五年前の
あの日、沙霧は確かに空夜の憎しみが自分へも向けられていたのを感じた。それは当然で
あると思った。
けれど、夕依は。
- 50 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/10(月) 04:29:13
- だが、涙を溢れさせる沙霧に、夕依の言葉は続いた。
「きっと、兄様も、そうしろと仰ります。兄様は夕依以上に……母様と父様に申し訳ない
と思っていると仰っていましたから……母様?」
言葉も出なかった。沙霧を気遣う夕依を抱き締め、涙を溢れさせ続ける。そうか、と。
自分は二人の母親でよいのだ、と。
何度も頷き、夕依を抱き締める両腕に力を込める。そうしてひとしきり泣いた後、沙霧
は涙を拭って夕依を見つめた。その眼差しに篭もるのは、力。孤牙の女としてではなく、
ただの母親としての想い。
「夕依、良くお聞きなさい。お祖父様に……孤牙夜刀(やと)に決して心を許しては……」
「ほう、儂がどうかしたかの?」
沙霧の言葉は唐突に現れた声によって、遮られた。
「お義父様……」
声の主は、夕依の祖父であり沙霧の義父である夜刀。いつの間にか開け放たれた襖の奥
から優しげな笑みを見せながら問いかける。その顔に刻まれた皺の中に醜悪な本性を隠し
ながら。
ぎり、と歯を噛み締めながら、言葉を紡ぐ事ができない沙霧。その額には汗が流れて、
夕依を護ろうというかのように、夕依の背中に回した腕に懸命に力を込めた。心を襲う
畏怖に負けないように、必死に耐えながら。
「珍しい光景じゃのう、夕依。お前が母に抱かれているとは……空夜になんぞあったのか
のう?」
惚けながら口を開く夜刀。震える母と、笑う夜刀を交互に見ながら戸惑う夕依。
「それとも、お前に、何か、あったと、いうのか?」
妙な間で言葉を句切りながら夕依に問いかける夜刀。
「この爺に、言うて、みよ。覚えておるじゃろう?儂は、お主の、味方じゃよ、夕依」
「何をっ!」
その韻にひどく不吉なものを感じながら、沙霧は強い口調で言葉を発する。だが、その
一瞬に夕依は沙霧の腕からするり、と抜け出て、立つ。
「夕依?夕依!?」
「わたしはあにさまとこころをかよわせることができたのです、おじいさま。そうしたら
わたしはおとなになった。これで、わたしはいとしいあにさまのこをなすことができます。
よろこんでくださいませ、おじいさま」
まるで感情の篭もらぬ声色で淡々と言葉を発する夕依。沙霧は立ち上がり、背中を向け
た夕依の正面へと周り、必死で夕依の肩を揺さぶる。
だが、その手は夕依の顔を見た瞬間に、止まった。
- 51 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/10(月) 04:48:05
- 「夕、依……その目は……その、目はっ!」
虚ろな眼差しの夕依。その視線は夜刀へと向けられていながら、夜刀を見てはいない。
沙霧の姿を瞳に映しながら、沙霧を見てはいない。そして、その瞳は……両目は、蒼く
光っていた。
「なるほど、それは良き事じゃのう。そうかそうか、大人となったか。空夜の心を掴んだ
か。それは良き事じゃ、良き事じゃ!ふむ、それで沙霧を頼ったという訳じゃな?こうい
う事情であれば、禁を犯した事咎めはせぬ。沙霧よ、良く夕依の面倒を見るのじゃぞ」
笑いながら言う夜刀。その笑みは奇妙に捻れて、狂っているかのような笑み。沙霧はそ
の夜刀の言葉にただ頭を下げる事しかできない。心では夕依に何をした、と怒りが渦巻い
ているのに。夕依の両目が浄眼であるなど、初めて知ったと驚きに満ちているのに。そし
て何より、夜刀の思惑が見えたような気がして、血を吐くような呪いを眼差しに込めて、
夜刀を睨んでいるのに。
身体は自由には動かなかった。
「夕依よ、ここまで至ったならばもう口うるさく言う事など何もないでの、ゆるりと空夜
と蜜月を過ごすがよい。ただ、流れのままに空夜と添い遂げて、子を成すがよい。のう、
夕依?お前は良い子じゃから、この爺の言う事、分かるであろう?」
それだけを言い、答えも聞かずに夕依と沙霧に背中を向ける夜刀。音も無く歩き、部屋
の外へと出て行く。その背中に、夕依の声が聞こえた。
「はい、おじいさま。ゆえはあにさまとむすばれ、こをなすのがさだめなのですから」
ゆっくりと、襖が閉じられた。
「夕依……夕依……夕依ぇっ!」
夜刀が去って呪縛が解けたのだろうか、沙霧は呆然と立ち尽くす夕依の身体を抱き締め
て、名前を繰り返し呼んだ。慟哭と共に。
そんな沙霧を初めて視界に映して、首をかしげる夕依。だが、そこに表情は無く、声に
は感情は全くないまま。
「かあさま?どうして、なくのです?ゆえは、こんなにもしあわせですのに」
だが、それを言い終えた瞬間、夕依はまるで糸が切れたかのように瞳を閉じて、沙霧へ
と身体を預けながら崩れ落ちていった。
「っ!夕依!」
夕依の身体を必死で抱き留めながら、なおも夕依の名を呼ぶ沙霧。どうすればいいのか
も分からず、ただ名前を呼ぶ。先ほどまで確かにあった、母である事の喜びなど、一瞬で
消えて、やりきれない無念が溢れる。夕依の身体を支えているのでなければ、その場で
倒れてしまっていたかもしれない、そんな無念。
「沙霧、どうした?」
- 52 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/10(月) 05:18:07
- 声と共に、襖が開け放たれる。そこに姿を見せたのは旋風だった。
「夕依……?沙霧?」
部屋の中には、動かない夕依と、夕依を抱き締めたままで立ち尽くす沙霧の姿。何が
あったのかを問う旋風だが、沙霧は力無く頭を振りながら涙を零すだけ。何かを言おうと
して口を開くが、そこからは声が出ない。
眼差しが憎しみと呪いとに彩られた。
「旋風、さま……っ」
瞳を閉じ、再び開く沙霧。必死で夫の名を呼ぶ。
「そう、か……時が来てしまったのだな?」
微かに頷く事でそれを肯定する沙霧。だが、沙霧にはそれが何の時なのかは分かっては
いなかった。ただ、旋風に夜刀が動く事があれば、それは時が来たという事だと教えられ
たのみ。旋風は無念そうに瞳を閉じ、唇を噛んで拳を握る。
何かを決意して。
「夕依を、頼む」
そう言い残して、旋風は部屋を立ち去った。
「旋風さま……」
例えようのない不安。胸騒ぎに心が浸食される沙霧。
「ん……っ……あ、あれ?」
だが、沙霧の思考が形になる前に、唐突に目を開いた夕依の言葉が沙霧へと届く。何度
も瞬きして周囲を確かめる夕依。その両目は、黒かった。
「大丈夫ですか?夕依。急に立つから目眩を起こしたのでしょう……気をつけないと、い
けませんよ?」
優しく夕依に語りかける沙霧。だが声色は微かに硬く、表情を変えるほどの心の切り替
えはできなかったのだろう。夕依を抱き寄せ、自分の顔を夕依に見せないようにしながら
さらに言葉を紡ぐ。
「今は母が居たから大事には至りませんでしたけれど、もし他の場所でこんな事になれば
怪我をする恐れとてあるのです。そうなれば空夜も悲しむでしょうし、母も悲しい」
「あ、はい……。分かりました、母様」
自分は座って母に抱かれていたはずであるのに、何故今は立って母に抱かれているのだ
ろう?という疑問にしきりに首をかしげながらも、沙霧の言葉に頷く夕依。立ち上がって
目眩を起こして、それがどれくらいかは分からないけれど気を失ってしまっていたのか。
母が言うのであれば、それは本当なのだろう。
「心配をおかけしました。ごめんなさい……」
そう自分を納得させて、申し訳なさそうに謝罪を口にする夕依。
- 53 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/10(月) 05:44:28
- 「……謝らなくともよいのです。真に謝らねばならぬのは、母なのですから」
呟き、また夕依を抱き締める腕に力を込める沙霧。
夕依はただ抱き締められるままに、動かない。何かを言おうと口を動かすけれど、何か
を口にしてしまえば、この安らかな時間が終わると気付いて、沙霧の胸元へと顔を埋めて
瞳を閉じた。
そして沙霧は、これが今生の別れであるとでも言うかのように、万感を込めて夕依を
抱き締め続ける。夕依の頭は沙霧の胸の中。まだ、沙霧が母親であった頃は自分の腕の
長ささえ無かった夕依。離されてからは、成長をしていくのを見る事はできても、触れて
実感する事はできなかった。空白の時間。
その長い時の全てを取り返すかのように、言葉を交わそうともせずに。
どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。陽が沈み始めているのだろう、部屋が少
しずつ暗く翳ってきていた。遠くに、鴉の声が聞こえた。
「夕依。さあ、お行きなさい。空夜がきっとしびれを切らして待っているでしょうから」
ようやく身体を離し、微笑む沙霧。
夕依は長い時間抱き締められていたにも関わらず、離された身体に名残惜しそうな表情
を見せて、沙霧を見つめる。それは、紛れもなく母を求める子供の眼差し。
「そんな目をしては駄目。母が、夕依を空夜に返したくなってしまいますもの」
手を伸ばし、何かを言おうとする夕依を遮ってその頬に指で触れる。おずおずと触れた
指はそのまま頬を滑って手のひらの全てで頬に触れる。
「かあ、さま……」
そのぬくもりに、泣きそうな顔になる夕依。夕依も、何かを感じているのだろうか、と
沙霧の顔が曇る。
「そうだ、夕依。後ろを向いて?」
顔を夕依には見せたくない。悲しみを湛えた顔など、夕依には残したくない。そんな想
いと共に夕依の後ろへと回る沙霧。夕依ほどではないけれど、肩の下辺りまである沙霧の
髪を束ねている藍色の布を解き、手に取る。
「小さい頃は髪を束ねていたのに、今はしていないのですね」
「兄様は、夕依の髪に触れるのが好きなのです。だから」
はにかみながら答える夕依。沙霧はくすり、と笑って夕依の髪に触れた。手で軽く梳き
ながら、一つへとまとめていく。
「そうやって甘やかしていると、すぐに殿方はつけあがります。自分で解いて、触れた後
にはちゃんと結べ、と言ってさしあげるくらいが丁度よいのです」
その言葉に吹き出す夕依。言いながらも、沙霧の手は休む事なく動いて夕依の長い髪を
藍色の布でまとめて、ぽんと肩を叩いた。
- 54 名前:二 「慕標」 投稿日: 2005/10/10(月) 05:58:40
- 「母様も、父様にそう言ったのですか?」
身体を揺らして、動きに合わせて動く髪の毛を首を左右に振りながら視線で追いかけ、
夕依は沙霧に問いかける。そして沙霧は笑った。
「さあ、どうでしょうね?」
「あ、ずるい……うん、母様。ありがとうございます」
頬を軽く膨らませながらも動きを止め、そっと手で布に触れて微笑む夕依。そして沙霧
を上目遣いに見て、問いかけた。
「ね、母様?」
「ん?」
首をかしげる沙霧。その仕草は夕依とそっくりで、夕依はそれを確認して笑みをさらに
深くして、告げた。
「夕依は、兄様を愛しています。けれど、母様も、そして父様も同じくらいに、愛してい
ます」
その言葉に呼吸を止める沙霧。
「母も、父様も夕依と空夜を愛しています」
それだけを告げて、視線で夕依を促す沙霧。夕依は軽く頷き、背中を向けて空夜の下へ
と帰っていく。
ゆっくりと閉まった襖。
沙霧は、その襖に触れ、指を立てて……涙を零した。
「夕依…………空夜……っ」
締め切られた部屋に、深くなっていく夕闇と共に訪れる夜のように、慟哭が満ちていっ
た…………
- 55 名前:三 「夢の終わり」 投稿日: 2005/10/11(火) 03:20:00
- 「すまないね、空夜。こんな所に連れ出したりして」
旋風と空夜は一本の巨大な桜の樹の下に居た。周囲はすっかり日が暮れて、闇色に染め
上げられているが、薄桜の花びらが月光を映してぼんやりと明るい。樹がある場所は少し
だけ開けた場所になっていて、離れた所にはこの広場へと至る石段がある。
ここは村に存在する、山というにはそれほど高くはなく、丘と呼ぶには低すぎはしない
程度の神を祀る社……その上に存在する場所だった。だがこの桜は社の神木という訳では
なく、村の護り木のような存在だった。社にはきちんと注連縄の張られた神木が存在し、
村人達はその神木を拝むと同時に、この桜にも願いを託す。
一年中咲いている桜。
何かの力が働いているのか、それともそういう桜であるのか、空夜は知らない。孤牙の
家は孤牙の家で独自の信仰と呼べるものを持っていたし、気まぐれに社や桜へと立ち寄る
事はあっても、それに祈りを捧げたりする事は無かった。
「それで、何用なのですか?」
桜を見上げる旋風に声をかける空夜。旋風から夕依は母親と共に居ると聞かされている
為、夕依を心配はしていないが旋風が何故自分をこのような場所へと連れてきたのかが
分からない。何か話があるのならば家の中でできるだろうに、と思う。それとも、家の中
ではできない話をする為なのか――思考を巡らせる。
「この桜はね、空夜。霊穴の上に立っているんだよ。だから、このように巨大に育ち、花
が絶える事はない。この国を支える天津の力に満ちた場所……空夜も感じないか?」
言われて、周囲に気を配る空夜。そこには確かに清冽な空気が満ちていて、けれど空夜
への敵意のようなものが渦巻いていた。
「これは……」
「話をする前に、一つ忠告をしておくよ空夜。空夜の目……浄眼は、決してここでは顕現
させてはいけない。感じるだろう?清らかな気と共に空夜や私に向けられる……いや、孤
牙という血に向けられる敵意を」
旋風の言葉に頷きながらも、怪訝な表情で先を促す空夜。
「空夜。今夜のうちに家を出なさい」
ざあ、という風と共に周囲に舞い散る桜の花。その幻想的ですらある光景の中で旋風は
やけに通る声で空夜へと告げた。
「何を……」
「全てを、教えよう。孤牙という千年の間に澱んだ血の事を。そして、夕依に秘められた
秘密の事を」
問い返そうとする空夜を遮り、旋風は言葉を紡いだ。真摯な表情で、今から語る事はた
だの一つも虚偽はなく、全てが真実であると視線で語る。
- 56 名前:三 「夢の終わり」 投稿日: 2005/10/11(火) 03:38:55
- 「けれど、決めるのは……空夜自身だ」
再び闇を、薄桃の欠片が彩った。
「空夜がおらぬ……?旋風もおらぬな。やれやれ、時を早めねばならぬか……」
孤牙の屋敷の中、その奥。夜刀の部屋に存在する頑丈な鉄の扉。その扉の先には地下へ
と続く道があるのだが、その先――何百、何千というろうそくが揺らめく岩牢のような場
で夜刀は呟いていた。
そのような場所に居ながら、屋敷の中の隅々までを把握している夜刀。それは人である
はずの夜刀にできるような事ではない。だが、それを行う夜刀。
ずる、ずる……
何かが這いずるような音。その音の中で夜刀の顔がろうそくに照らされて揺れた。左目
から黒い光が漏れ、眼球はまるで蛇目のように瞬く。
「何かをしようとて、無駄な事じゃ……夕依がこちらの手にある以上、抗う事などできは
せぬ。くく、孤牙の悲願、千年の神楽の極み。誰にも邪魔はさせぬ。この儂が其処へと至
るのじゃ……始祖様にも果たせなんだ悲願、この儂――孤牙夜刀が、果たす」
狂気、そういうには生ぬるいほどの歪んだ笑み。無造作に岩の台の上に置かれていた木
の箱を手に取り、そこから黒い球状の物体を取り出し、さらに笑う。
「夕依にはしばし眠ってもらうとしよう。その間に旋風を始末すればこの家におる男は儂
と空夜のみ……夕依が男に狂うたとして、間違いは起こらぬ」
ろうそくの炎は無数にあるが、それでも闇は産まれる。その闇の中で夜刀は下卑た嘲笑
を浮かべながら蠢く。
ずる、ずる……
部屋の中には、腐臭が満ちていた……
そして、旋風が立ち去った後、空夜は一人で桜の樹にもたれかかって座っていた。夜の
桜は美しく、幻のように儚い。風に花びらを散らしながらも咲き誇る桜は少しもその身を
削られたようには見えない。
「俺は、間違えたのか……」
自嘲しながら呟く空夜。地面に置いたままの手が動き、土を掴んだ。
「夕、依」
- 57 名前:三 「夢の終わり」 投稿日: 2005/10/11(火) 04:09:32
- 父から聞いた事の全て。それが真実であると理解していた。父はこのような嘘偽りを言
う人ではないし、父にとって益となる事など一つもない。
けれど嘘だと叫びたかった。信じたくはなかった。だが、できない。父の目は死を覚悟
していた。静かな怒りと共に淡々と口を開いた。おぞましい真実を空夜に告げた。何より
最後に残した言葉が、痛かった。
空夜が夕依を護っていたのは、夕依を愛しているからだろう?なら、私や沙霧が空夜と
夕依を護ろうとするのは何故なのか、分かるはずだよ。
そう言って、寂しそうに笑った父。言葉と笑みとにこめられたもの。それまで否定する
訳には、いかなかった。けれど、だからこそ空夜は迷う。
自分はどうすればよいのか。
自分が本当に望んでいる事は、一体何なのか。
「くそっ……」
まるで先が見えない。憎み、呪いながらも頼っていた左目。その力をこの天津の力が
満ちた場所で顕現させる訳にもいかず、かと言ってこの場を離れれば祖父――孤牙夜刀の
企む通りに事態は進行してしまう。
土の中にある小石に引っかかって指から血が滲むのも構わず、地面を何度も素手で抉る
空夜。こんな事で自分は今日の月が沈む前に答えを見つける事ができるのだろうか。焦り
は空夜の思考をかき乱し、考えをまとめる事さえできない。
何か……何か、きっかけがあれば。
それは一筋の光明のように見えて、実際の所はただの依存。今は紫の光を放つ目が最初
に赤く光った時、それからずっと変わらぬ空夜の行動原理。
夕依を恋しい、愛しいと想いながらも自分で夕依を手に入れようとはしなかった。その
結末が五年前の苛烈な談判。結局は夜刀の思うように誘導され、心を見透かされ、嘲笑と
共に夕依を手に入れる事を許された。
そして、今日。夕依が望むから、空夜は夕依に愛を告げた。自分でそうと決めた事など
一つたりともありはしない。それが空夜の生き様。
あの日視た世界。それが、視えるだけであるならば良かった。過去の当主達の記録は
それが例え不快なものであったとしても、望まないものであったとしても、それはただ
視えるだけだと記していた。しかし、空夜の場合は違った。
こうである方が良い。
こうであれば良いのに。
そう思った事の全てが視える世界を変えてゆき、それは現実となった。
- 58 名前:三 「夢の終わり」 投稿日: 2005/10/11(火) 04:31:51
- 空夜が殺してしまった友達。それは、眼の力で助かるはずの、死なないはずの友達を
殺してしまったというのが真実だった。
守護する存在が居なくなったからと言って、それがそのまま死に繋がる事などありはし
ない。例えば病気、例えば事故。そんな負に遭遇した時に加護を得られない分だけ死に近
いとは言えるかもしれない。だが、それだけの事。
空夜が。守護する存在を殺してしまった空夜が、護りが無ければすぐに死ぬはずだ、と
思ってしまった、その結果。
夕依と結ばれてはいけない、などというのは自分の罪を隠す為だけの方便。自分は罪を
犯してしまっているのだから幸せになどなってはいけない、という強迫観念。だから二人
の未来には破滅が待っていると信じ、そしてそれは、眼の力によって真実となった。
二人の未来には破滅しか、ない。
空夜が自身で決定してしまった、未来。一時は、それを必死に否定しようとした。幸せ
な未来とまではいかなくとも、普通に過ごせる日常を念じた。だが、眼は悪いモノを見せ
はするけれど、光は決して見せてはくれない。
空夜や夕依に関係のない、何処とも知れぬ場所で起こる不幸。それらさえも、救いよう
のないものしか視えない。慰めになる事があるとするならば、死ぬ者が信念を貫いて満足
して死んでいったり、哀れな程に何かを信じながら、その中に沈んで消えていく者がいる
というだけの話。それは、確かに救いにもなるだろう。だが、死という結果だけは決して
覆る事はなかった。
孤牙の浄眼。
それは、死を望むモノ。人の死を映し、人の死によって何かを得るモノ。浄、などとは
口が裂けても言えないような、邪悪な代物。そう悟ったからこそ、空夜の心は、壊れた