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takoスレ マンガ版「風の谷のナウシカ」

18風の谷の名無しさん:2010/07/21(水) 03:35:47
  長くなりますが。漫画版「ナウシカ」が完結して大分経ちました。そろそろこの作品の現代におけるある解釈を与えても良いと思います。
先に申しますとナウシカは人間キリストの現代版であります。宮崎は一神教を快く思っていないハズなのに何故ここまで絶対的なヒロインを必要としたか?
腐敗した経済社会に警鐘を与え希望をもたらすものとして深層心理でどうしてもキリストが必要だった。そしてそれを少女に託した。少女はそのその博愛性と公共性
つまり完全な人間、またそれは同時に処女性も持ち合わせていなければならなかった。
 クシャナはナウシカの精神的な双子であり(どちらも母親が完全でない。宮崎の母親は病弱。また経済性に毒された現代の母親の象徴。)そして仏教的な存在である。クシャナに付きまとう
のは酷薄なまでの人間理解であり、同時に世界への諦観である。
 二人の家柄を見ても、小さな集落(風の谷)の棟梁であるナウシカと、王族であるクシャナは、キリスト:大工の息子、仏(ゴーダマシッダルダ):王族の息子の家
柄とぴったり重なる。
 また腐海は現代における産業情報化社会へのオマージュである。決して、現行の細胞生物の加工によるものではない。宮崎は飛行機屋の息子であり機械文明の極地が外骨格をなす昆虫類に近づく
ことを直感的に見抜いていた。つまり、現在我々が依拠している産業化、情報化はここまで洗練された複雑な生態系をなし、人間のコントロールを外れていくことを天才の直感で
想像したのである。かかるこの複雑混沌とした作品世界ではキリスト(ナウシカ)、クシャナ(仏)でも人間を救うことが出来ない。これが宮崎のぐるっと一周した一神教批判
である。またナウシカは、作品の中で少しずつその処女性を失っていく。即ち処女懐胎の物語でもある。先ず風の谷(子宮)で風(男根)を受け入れ、作品世界(子宮)大海しょう(男根)を飲み込み、墓の穴(歴史も含めた世界
としての子宮)でオーマ(歴史も含めた上での人間の勇敢、即ち男根)を受け入れる。かかる過程を経てナウシカは処女性から解放され、自分の母のトラウマを乗り越え、セルムという精神的な
父親と同時に夫、チククの母となることを決意するのである。そこには宮崎自身の劣等感(民族的、歴史的)が虫たちやオーマを通じて投影されている。
 だからナウシカはよくエロねたやオタクに玩具にされているが作品そのものに元凶があり、テーマの偉大さと天才の想像力によってそれが昇華されているとも言えるだろう。男根を祭る神社
があるくらいであるからこの作品もその一種である。ちなみに各地の神社で行われる祭りの神輿の宮入は神の性交(豊穣の約束)を祝って行われる。
つまりキリストとして生まれたナウシカは女であるが故、精神的な処女性は失ったものの一周してマリア様になっていた。後、ご期待。といったところがこの作品の現代的解釈であり。彼らのそ
の後について書かぬのは天才の限界である。宮崎はごまかし続ける、娯楽とメルヘンに。彼の、いや我々とその時代の才能ではこれが一つの限界なのであると、私は宮崎を弁護してみる。
 ラピュタ以降の作品が興行的に成功していなければ彼はもっと根本的なテーマを持ち出すか自殺かのどちらかを選らんだだろう。結局彼は娯楽作家としての職能に半ば甘んじることを時代が許
したのだ。彼はもがいている。我々にもっと冷静な批判精神があったなら、もっと鮮烈なライバルがいたならば彼はアニメ界のゲーテと賞賛される天才になれたかも知れぬ。今のままでは天才
であるが故、煮え切らないオナニー野郎である。つくづく不遇な作家である。そもそも現代の芸術自体が中々世界を牽引出来ていない。宮崎はその象徴である。ピカソは世界を拓き、マルローは
欧州を導いた。彼らは金の為に描いたのだろうか、戦場で赴き戦って書いたのだろうか。そこに宮崎(戦後)との決定的な違いを感じる。水木茂がアニメに身を投じていたならば、宮崎は逃げる
ことは出来なかったのではないかと今更ながら思うのである。
 私は漫画ナウシカを超えたのは宮崎の作品の中ではラピュタのみであると考える。
 墓を葬ったのは経済性と科学の蜜月の終了の象徴。テトの墓の農場にヒドラはまだいる。彼が知っているだろう。
つまり、ナウシカは冷静に計算している。墓が無くとも科学は有用であり続ける。博物学的な管財の道具として。


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